2023/08/22

余計な話いろいろ(twitterで書いていたこと)、その1

 2022年頃にtwitterでいろいろ書いていたことを、適宜抽出してこちらに再掲する。


 【 人権と政治の関係 】(2022年11月、tw: 1595788964199542784)
 カタールの人権問題を巡って。

 [tw: 1595597197579800577] : 意義深い問題提起だと思うが、どのようなロジックに立脚しているのか、分かりかねるところもある。疑問は2つ:「人権問題と政治問題の異同は何か」。「それら(どっち?)をスポーツに持ち込むというのは、どのような局面を指しているのか」。
 「人権問題であって、『政治』ではありません」というのは、一見不思議な表現に見える。というのは、双方は必ずしも択一的ではないから。実際には人権y/n、政治y/nの4種類があると考えられる。「人権問題」は定義がひとまず明確だとして、「政治」については、ここでは利害や権利等の調整活動(交渉過程や、決定を実施する権力行使の過程)を指すものだとしよう。
 1) 人権問題でも、政治的交渉を要せず、比較的明確に(例えば裁判で)比較的明確に判断できるものもあるが、
 2) 白黒の判断基準がそれほど明確ではなく、政治的交渉のステージで処理されるべきとされるものもある。さらに、
 3) 人権問題は絡まないが、政治的調整に委ねられる問題もある。
 4) 人権問題でも政治でもないものは、ここで論じる必要は無いので無視する。

 さて、それらの問題領域が、スポーツに持ち込まれることに関して、どのように考えられるか。
 3)「人権問題ではないが政治的調整として処理されるべき事柄」は、スポーツという文化的活動の中に持ち込まれる意味は無いだろう。
 2)人権問題を含みつつ、社会的公共的な交渉&調整に伴われる活動はどうか。ある程度のスタンダード(基準)は存在するが、価値判断が分かれるため、それに関する言論や実際的交渉が必要になるというものだ。そのような、明確な結論が定まらない問題は、スポーツの場で取り上げるのは非効率的だろう。その意味では、異論の余地のある社会的議論をスポーツの場で提起するのは、実効的でもないし、また、「それ自体、望ましくない」と言う余地もありそうだ。
 だが、1)明白な人権侵害事例はどうか。すなわち、そもそも議論の余地もなく、結論それ自体はほぼ共有できる事柄であり、なおかつ、明白/現在/深刻な社会的不正義が行われているのであれば、それは「どんな場でも意見を封殺されてはならない、社会全体のクリティカルな問題」ではなかろうか。

 イベント挙行国における人権侵害に対して、「スポーツだから」と目を瞑るのは、社会的な不正義に加担するものになりはしないか、というのは至極正当な意見だと思う。イベント(FIFA)の精神にも反しているというなら尚更だ。そのうえで、カタールにおける人権侵害は、我々(この世界に生きる全ての人々、国際社会全体)にとっての問題でもある。人権問題は、そうした普遍的な問題と言うべきだろう。
 実際的な問題としても、深刻な不正義が行われている地域(現在のロシアなり北朝鮮なりミャンマーなり)での文化イベントに、「政治とは関係ないイベントだから」という姿勢で参加するとしたら、それは参加者にとっても危険だし、その文化活動が政治的宣伝に乗っ取られているとも言える。
 もちろん、不正義の一切存在しない完全にクリーンな土地などというものは、残念ながら存在しないから、程度問題という余地はあるが、その都度の社会正義や良識にとって容認しがたいものは、避けるべきだし、場合によっては異議申立をしていくべきだろう。スポーツはスポーツで、人間の文化的活動として十分に尊重され保護されるべきだが、現地でまさに存在する明白かつ深刻な人権侵害と天秤に掛けた際に、「口を噤み、目を瞑ってスポーツだけに専心しよう」というのは、はたして世の中を良くするだろうか? 「試合の真最中に政治や人権問題を議論しようぜ」(上記2~3)という話ではない。しかし、国際的なスポーツイベントはそれ自体が社会過程の一部であり、その中で――しかも人権侵害国家の下で――人権に関する言及(上記1)が一切できない(抑圧される)のは、それ自体きわめて大きな社会的不正義だろう。
 というわけで、最初に引き合いに出したどなたかの投稿は、「人権/政治」という択一論法には疑問があるものの、結論それ自体としては、「スポーツイベントの中でも、人権問題を看過されてはならない」というのは妥当だと思う。大規模で長期間に亘る国際的イベントであって、なおかつ主催国自身に深刻な人権侵害があるという場合には、その中で人権侵害に関する言及を差し控えて見ぬふりをするのは、さすがに不正義ではないかと思う次第。私自身は現地にもいないし、このアカウントはそうした言論に直接コミットしているわけではないが、そうした発言や問題提起をする人がいてもよいし(そして、いて欲しいし)、そうした発言が封殺されるのは良くない社会(結果的に我々全体を不幸に向かわせる社会)だと思う。そして、スポーツ(あるいは文化、あるいは芸術)には、はたしてそのような切断能力があるだろうかという疑念がある。人権問題を完全にサスペンドでき、社会性から完全に離脱した、無重力の非政治的な「スポーツ空間」「芸術の空間」なるものを認めることは、はたして可能だろうか? 私見では、否だ。人々の芸術活動、文化的領域、スポーツ等々が、先述のような意味での「政治」からの侵蝕から保護されるべきだという意味であれば、首肯できる。しかし、そのイベント開催者それ自身が政治的主体である場合には、そのロジックは通用しない(すでに無効化されてしまっている)のではないか?



 【 「好きなことだけを語れ」は正しいか? 】(2022年12月、tw: 1600184685728239616)
 趣味の問題でも、「これは良くない」というネガティヴな側面の発言は避けられない。「これは良い」という趣味の判断は、往々にして「良いもの/良くないもの」の線引きであり、それゆえ、「良くない」ものについての判断も伴うことになるからだ。「こういう技巧のゆえにこの作品は優れている」「こういうのが私は好きなんだよ!」という意識は、「この作品はこういう考慮が足りないなあ」「こういう趣向は受け付けないなあ」という認識も生むだろう。それを無理に否定するものではない。とりわけ技術的な視点を採用するときは、特定のテクニックに関する巧/拙という基準を提起することになり、そうした中で、マイナス面への言及や検討が封じられてしまうとしたら、その言論は大きく歪み、あるいは一面的になり、あるいは極度に非効率的なものになってしまうのではないか。良き趣味人の姿勢として世上しばしば主張される「好きなものだけを語れ」というのは、実のところ対象領域に関する我々の展望を歪めたり遮蔽したりしかねないし、また、それ自体として非合理的な抑圧になりかねない。だから、私は、「良くない」と思う箇所を指摘することも、あまり躊躇わない(かもしれない)。
 ただし、それを好む人たちにとっては歓迎されないものになるだろう。だから、せめて、何がどのように「良くない」と考えるかを、理屈や根拠をもって提示できるようには努めている。そうすれば、欠点の指摘も生産的な展望(改善の可能性や、価値基準の再検討)に結びつけられることが期待できるから。また、そうした場合でも、相互尊重を破壊しない程度にはトゲを丸める方がよい。「○○なのはもったいないなあ」とか「○○だったらもっときれいに見えたかも」とか……。そして、自分の考えとは異なる形態の世界認識や価値体系も存在する(成立しうる)ということは忘れずにいたい。

 できるかぎり客観性のある形で言語化したうえであれば、そこから好き嫌いの価値選択をする自由があらためて公平に開かれるし、そして、自分と異なる立場との間でも平和的に共存できるようになるだろう(と信じたい。はたして言語と理性は、趣味間の平和的共存を提供しうるものか)。
 自分が好きなものの素晴らしさを強固に信じていればこそ、多少の欠点を指摘されたくらいでは何のダメージにもならない……という側面はあるけれど。眼鏡の魅力は、私の主観の中では疑いようもなく実在しているのだから。しかし、まあ、「自分が好きなものは完全無欠に素晴らしくあってほしい」とか、「自分の耽溺を、他人からわずかでも傷つけられたくない」とか、「欠点は分かっているが、お前(例:部外者)に言われたくはない」といった意識も、理解できる。いつ誰とつながってしまうか分からないSNS上では尚更だ。
 自分が好きなもの(自分が関心を持っている対象)は、美点も欠点も含めてその全てを知り尽くしたい。欠点を知り尽くしたうえでもなお、それ愛し続けられる姿勢こそは最もうるわしく、最も深く、そして最も強固なものになる……というのだったらいいなあ。なかなかそこまでは難しかろうが。

 好き嫌いとか物語とかを語るのではなく技術論に向かいたがるのは、分析のためでもあるし、「推し」をしたくないのもあるし、そして自分自身の精神衛生のためでもある。模型だけでなく、漫画でも、ゲームでも、オタクとしての私はずっとこうして生きて(思惟して)きた。



 【 デジタルイラストと「原寸」観念 】(2022年12月、tw: 1602314667216744448)
 デジタルイラストは、フルサイズ/標準(各自のディスプレイサイズ)/サムネイルで見え方が大きく異なるので、自分が良いと思ったものも、他人に紹介したりするのは気が引ける。「見え方が違う」=「私が見出している美質が伝わらない可能性がある」ということなので。
 そもそもデジタルイラストには、原寸というものは存在しない。油絵などの物理媒体に定着された美術作品ではないからだ。画集やイラストレーター展示も、「それが本当に正統な状態だ」と言ったよいかは疑わしい。色調にかんしては、イラストレーターの意思が反映されている可能性は高かろうけれど。
 実のところ、オタクイラストレーターなどのデジタルアーティストたちは、自分の絵がどのように――どのような表示環境で――見られることを期待しているのか。あるいは、どのような表示環境を想定してチューニングしているのか。そのあたりはわりと不思議。どのように考えているんだろう? 平均的なPCディスプレイなどのサイズと解像度を念頭に置いてデジタルイラストを制作しているという人もいるだろうし、スマホサイズに最適化したディテール調整をしている人もいるだろう。どうせコントロールしきれないから、ただひたすらその都度最大限の表現を投入するという人もいるだろうし……。最大サイズは、あくまで制作過程での最大限の表示であって、閲覧環境としての最善とイコールというわけではあるまいし。「正しいサイズ」「標準的な表示環境」「原寸」といったものが存在しない中で、イラストレーターたちは、どのようなサイズを想定して自作のクオリティを調整しているのだろうか?




 【 我々オタクが警戒すべきこと 】(2022年12月、tw: 1604469267545886720)
 表現の自由に対するオタク(私たち)の関心が、煽動を招き入れる一種のセキュリティホールにもなっているように見える。「こいつはこんなことを言っているから表現の自由の敵だよ」と煽られると、それが事実に基づかないデマでも、素直に乗ってしまってその対象を敵視するという光景をしばしば見かけるようになった。
 表現の自由はきわめて重要な人権の一つだし、それに対する関心は茶化したり軽侮したりされてはならない。しかしオタク(私たち)の側も、それに引っかけた誘導や煽動やデマに対してもう少し警戒した方が良いのではないかなあ。かなり危なっかしいバックドアとして利用されつつあるように見える。
 
 これまで、私なりのオタク観としては、「オタクの中にも不正義な社会的行動(差別発言など)をする者が一定数存在するが、それはあくまで人口全体と同じくらいの比率で存在するにすぎない。だからオタクという属性や行態や集団そのものに社会的な問題があるわけではない」と考えてきた。これまでは。しかし、なかなかそれだけでは済まないようになってきた。
 もちろん、「オタク イコール 悪」と単純に結びつけてはならないし、実際にも「オタク」は十分に多様で雑多なカテゴリーであって、一括りにはできない。「オタク」というのは、まさにそういった偏見や攻撃や抑圧を受けてきた社会的属性の一つでもある。しかし、最近になって、考えが変化してきた。不正義な煽動に乗ってしまう人が、平均よりも有意に多いのではないかと。そのように、考えを変えることを検討せざるを得ないほど、オタクたちの中に、なおかつオタクアイデンティティと絡めた形で、過激な発言が大量に見出されるようになった。

 あるカテゴリーの社会集団が、特有の文化や気風を持つこともあり得る。そして、それがよろしくない方向に傾きつつあるように見えるときは、警戒したり注意喚起したり諫めたりする方が良い。
 実際、オタク的な活動が、集団的傾向的に不正義を生み出す事例が、存在しないわけではない。善良なインドア派趣味人としての活動だけでなく、例えばアイドルに過剰な執着(婉曲)をしたり、フィクションのアジア系外国人キャラを攻撃したりする風潮は、90年代から存在した。
 様々な形で、様々な局面で、社会正義(のなんらかの価値)とオタク文化が衝突する事例は起きている。そうした中で、どちらかへ振り切れて不倶戴天の対立をするのではなく、社会的公正と趣味の豊かさをベターな形で両立するように、対話と説得をしていけるようでありたい。もちろんそれは、それなりに苦痛とストレスを伴うプロセスであり、しかも、唯一の正解が定まることは無く、その都度の社会意識全体の中で揺れ動き続けるものになるのだろうけど……。趣味は趣味として楽しみつつも、「虚構(フィクション)だから」というエクスキューズが通用しなくなってしまう場面では、過激な表現を一定程度控えておくのは、やむを得ないことだと思う。オタク(我々)自らが差別や不正義に加担してしまうことは避けたい。

 個人的には、キラキラのソフ倫シールの背後に包まれた性的放逸というやり方は、現在でも一定の意義があると思う。しかし、駅広告に出すべきでないものも、やはりある。18禁マーク等による注意喚起の無い状態、つまりコンテキストを限定されない表現は、剥き出しの差別となってしまいかねないから。
 私自身、ダーク系アダルトPCゲームをそれなりに嗜んでいるが、そこには性的支配欲だけでなく無惨美や堕落のカタルシスといった刺激的な精神的姿勢が見出されるし、そういったものへの挑戦が社会の中で試みられることにも意義はあると思う。ただし、あくまで18禁シールの背後での話だ。ゲームを起動した時に表示される、「あくまでこれはフィクションですよ」という注意書きとその社会的意味をお互いに了承したうえでの話でなければならない。剥き出しの(リアルな)差別や性的迫害とは、なんとしてでも手を切っておかなければならない。

 その見地では、たわわは現実のセクハラ的視線と虚構的なイマジネーションの間の境界をかなり曖昧にしていたように見え、その懸念からしてどうにも乗れなかった。尊敬すべきクリエイターたる声優たちに対して心ない発言をする人々も、けっして私の同類ではない。
 いわゆるアイドル商売に対してはずっと距離を取ってきた。しかし、距離を取ってきた(内部文化に深く接することが無かった)がゆえに、それらに対する態度決定をしかねていたという事情はある。当事者たちが納得しているのであれば――本当にそうならば――部外者がどうこう言うべきではないのかと。だから、声優事務所などが役者を守るためにきちんとした声明を出してくれるならば喜んで賛成するつもりだったが、私は当事者ではないので、結局何も言わずにいた。しかし、明らかに侵害的なものに対しては、ユニヴァーサルに不当だと声を上げるべきだったのかもしれない。忸怩たるものはある。じょせいせいゆうのせいりしゅうきをさぐろうとするどうじんしとかもあったよね……。人の身体と尊厳を傷つけるものは許容されるべきではあるまいし、直接批判するか、あるいは少なくとも、自分がそれと同類ではないことを示すようにした方がよい。うんざりするような悪行は世の中に溢れていて、それら一つ一つに批判の声を上げるのは現実的ではないし、それらは私の身近ではなかったが、……一声優オタクでもある私は、どうすれば良かったのだろうか。



 【 研究とグローバルな公共性 】(2023年2月、tw: 1620629267146248197)
 「研究に金を出すのは何のためか、いかなる利益のためなのか」、「大学に国が金を出すのは何故なのか)」という問について。

 tw: 1620434459148562432 : 研究成果はユニヴァーサルに共有されるのに、国が金を出す(べき)なのは何故か。学知の精神的価値や、知の普遍性や、研究の自立性といった理念もあるが、今回はそれら「以外」の論拠で説明してみよう(※「基礎」研究に限らず、研究全般とする)。

 1) 一つの国全体を豊かに、安定的に、強固にしていくために、新たな知を開拓していくことが必要だ。また、現代国家の目的は警察だけではなく、住民の生活を良くすることが含まれる。だから、研究に費用を出すことそれ自体、意義がある。

 2) しかるに、研究成果が自国のみに帰属するわけではない。つまり、国際的に共有されるということだが、言い換えれば、他国の研究成果も享受できるということだ。だから、a)国内的な安定のためにも、研究成果を国際的に共有していく方が効率的だし、b)国際関係としても、あくまで互酬的に共有することになる。「自国からは研究成果を提供せず、他国の成果のみを貰う」というタダ乗りは許されまい(※とはいえ、現実には様々なアクセス障壁があるけれど。高額なジャーナル購読費は、低開発=貧困国の研究者にはハードルが高い。また、自国語論文を量産できる国は、他言語研究者には読みづらく、それが情報の囲い込みとして機能している、という指摘もある。)
 
 3) 新たな知見が、本当に正しいかを検証したり、様々な応用可能性を検討したりするのも、一国のみでやるよりは国際的な研究者集団の間で行わせる方が効果的だろう。国単位で分断していては、各国がそれぞれ独自に車輪を発明しあう、秘匿しあうといった無駄が生じうる。自国の研究&産業だけで航空機を飛ばしたり先進的コンピュータをゼロから製造したりできる国は、そうそう無い。各国の一般市民としても、研究への公費支出とその成果の国際的共有に賛成するのが、自分たちの生活を最も豊かにするだろう。

 4) さらに言えば、人類全体で有益な知識を共有するうえで、「国」という単位に拘ることは重要か?という疑問もある。「自分が籍を持っており、自分が税金を支払っているから」というのであれば、「日本」に限らず、例えば「XX市立大学の研究成果はXX市の外に出すな」というのも同じになってしまう。

5)実利レベルでも、自国できちんとした研究組織を保持していない国は、世界の新たな情報から常に何歩も遅れ続ける(※研究の分野的広がりは、民間だけではなかなか維持できない)。国際的な情報共有と協力的研究の場に、(互酬的に)参加できないような国は、国際競争の観点でも不利になる。

 こんな感じかなあ。一国を対内的に安定させるうえでも、国際的協働の場に参加できるためにも、研究に公費を出すことは合理的だし、研究成果を世界的に公開し合うことも合理的だ(※特許等による利益の独占もあるが)。「目先のケチは、長期的-大局的には大損になる」という典型例じゃないかな。「国益」というと、他国と競争しあうゼロサム的な関係ばかりを意識してしまいがちだが、社会関係は「協力し合うことでお互いが良くなる」という方が多いのだし、とりわけ、「国」単位ではなく「私(たち)の幸福」をベースに考える場合には尚更、互酬的な研究協力に賛成する方がメリットが大きい。だから、大学にまっとうな研究費すら出さないでいると、海外の論文を読むことすら出来なくなり、外国語論文を適切に自国に紹介する回路が失われる。つまり、世界的な最新の、有益な、重要な情報からその国(の住民)はどんどん取り残されていくことになる。そして、「現状」の国際的水準にすら追いつけていない国は、現状を超える新たなものを自前で作り出すこともできないだろう。そうならないためにも、研究(機関)に対する公的支援は、国全体の利益にとっても重要だ。「(新たな、正確な)情報」がきわめて大きな価値を持つ現代社会では尚更。国立大ですらガバナンスが滅茶苦茶だったり、国際的な信用を大きく傷つけるような研究不正が頻発したり、学術誌の購読ができないほど経済的に追い詰められたりしている日本は、……まあ、……その、……ねえ。

国単位の利益で考えても、国際的協働と国内的貢献の両面があって、前者は、海外の学会で発表したり論文掲載したりしてプレゼンスを高めることは、おそらく「その国の価値(イメージ)」を高めることにもなるだろう。その一方で、自国語で論文を書いたり翻訳書を出版したりすれば、その国(その言語)の間で、有益な新知識を紹介し、普及させ、様々に利用できるようになる。他言語論文を高速&正確に読みこなせる人は少ないので、翻訳や紹介にも非常に大きな意義がある。「とにかく海外誌に、英語で論文を」というのは、それはそれで重要だけど、それだけではいけなくて、自国語での研究の厚みを保つことにも大きな意義がある。(※日本の場合は、「日本国~日本語話者~日本在住者」の結びつきが非常に強いから、ちょっと特殊な考慮も要るけど、むにゃむにゃ)

 研究者たちが、自分たちの活動内容とその意義に直結する問いに対して、自ら正確なロジックで堂々と説明することができない(SNSでもその明晰な説明が全然出てこない)というのは、それ自体、日本の研究者たちの能力がどれだ深刻に低下しているかを示唆する例証になってしまっているのが、なんとも心苦しく悲しいが……。



 【 差別的な思考実験を公開することははたして正当か? 】(2023年2月)
 同性婚を巡るSNS上の議論についての所感(tw: 1622888568858509313)。

 同性婚について、法律系教員たちの旧弊的鈍感発言が並んでいてきついなあ。住民の幸福ではなく「国家の利益」をベースに制度の当否を判断する憲法学者とか、自身の権力性に胡座をかきつつ性差別的発言を「思考実験」だと開き直る行政法学者とか……法律系のクオリティもそろそろやばいかもなあ。
 規範/正義/善悪を扱う学問領域(esp. 法学や哲学)では、極端な思考実験をすることがあるし、それはあえて不正義な方策を設定したうえでその当否を議論する場合もある。しかしそれが許容されるのは、あくまで学術誌や講義室の中で完結し、なおかつ当人が責任を持って解決まで持っていく場合だけだ。明白に差別的な含意を持つ「思考実験」とやらをSNS上に投げかけ、なおかつその差別性を自身の手で十分に解消しないままであるならば、それは単なる「公然の差別発言そのもの」として非難に値するだろう。一般人であろうが研究者であろうが、それは変わらない。公法学者たちの鈍感さ、イージーな思考実験趣味の問題性、自身の差別性や権力性に対する無理解、研究倫理の閑却といったものを立て続けに露呈しているのは、――規範的な正しさに関わっている筈の法律系であればこそ――きわめて深刻な状況に見える。「思考実験だから」というのは、発言の邪悪さを免罪する万能の看板などではない。思考実験もまた社会的行為そのものであり、そこに不正義が含まれるならば、当然ながら非難の対象になる。学者には学問研究の自由はあるが、しかしその一方で「研究倫理」の規範もあるのだし。安っぽい思考実験を無責任に放言する研究者たちは、哲学系にきちんと教えを請うべきだった(※そういう分野を切り捨ててきたが故の、この惨状なのだろうなあ)。「研究倫理」というと、生物系/医学系(生命の尊重)やフィールドワーク系(調査対象者の尊厳)に注目が集まりがちだが、実際には社会科学系もけっして無縁ではない……のだが、「俺たちは大丈夫」「関係無いから自分は気にしなくてもOK)」みたいに思っている人はわりといそうだよなあ……。
 思考実験は人権侵害にならないなどと公言している法学系教員もいるけど(tw: 1622875998848167936 :鹿大の人?)、これも大間違い。人権侵害になり得るのだ。もちろん、内心だけで遂行する「思考」であるならば人権侵害にはならないが、危険性のある仮設状況や差別的な状況設定を、公然のSNSで書いてそのままで済ませることは、人権侵害になることは十分あり得る。「思考実験は無罪」と信じている大学教員さんたちは、ゼミや研究会の場で「今ここで私が君の命を奪ったらどうなるかな」「君を騙して退学に追い込んだらどうなるかな」のようなアカハラまっしぐらの発言でも「思考実験だからOK」と、自身の権力性に無自覚な危険人物になってしまいかねないわけで……。一言にまとめるなら、このコメント(1622450137837760512)にだいたい賛成かな。同性間の婚姻も認められるべきだという世界的趨勢があるのに、いまさら同性婚の意義を(ペット優遇ごときと並べて)ディベートしようというのはドメスティックな駄目学者じみているし、そして「差別の助長」だろう。
 今回の一連のあれこれは、単なる個人単位の問題ではなく、法律系研究者全般の体質的問題でもある。「仮設事例を用いて検討する際に、そこに含まれる倫理的問題の次元を意識しない」+「依然として男性中心で、社会的/哲学的なジェンダー議論へのキャッチアップが遅れている」のコンボ。法律系のディシプリンが潜在的に含んでいた問題が、こういった先進的な問題圏に晒されたときに、その体質的旧弊性を露呈させてしまったように見える。きわめて深刻な事態だと思う。
 研究者であっても、SNSの場では「先生」ではない。つまり、「相手に対して一方的に問いかけをする資格を持ち、なおかつ、それに対して最終的に責任を負うことを約束している立場」ではない。教壇やゼミ室とはまったく発言の社会的文脈と意味と重さが異なることは、重々理解していなければならない。教室内であれば、学問上の議論であることが最低限相互了解されているが、SNSでの発言はそうした文脈が確保されず、ただ単に一般社会での発言になる。そして、そこに倫理的問題が含まれるならば、「学問上の実験的思考だから」というエクスキューズは、基本的に成立しなくなる。「その講義の内容に関する有益な問いかけである筈だ」という前提的信頼も、SNSでは成立しない。そして、「その問いかけの帰結に対して、その研究者が責任を引き受けてくれる筈だ」という信頼も成立しない(「問いかけをするだけで、結論を出さずに知らんぷりをする」ことが出来てしまう)。そういった意味で、「仮に」思考実験のつもりであったとしても、SNSのコンテクストは、それが成立するのを困難にする(※そしてまた、先述のように、思考実験であっても内容上NGなものもある)。自称「思考実験」をSNSで開陳している先生方は、忌憚なく言えば、まるで考えが足りていない。
 結局のころ、倫理的に問題のある「思考実験」をSNSで公言する研究者たちは、1)研究倫理に関して不勉強な危険人物だし、2)思考実験の方法を理解していない愚物だし、3)その内容の不適切さに応じて社会的-倫理的に問題があり、結局のところ研究者としての資質を強く疑わざるを得ない。

 SNS等での発言に対して、発言者が所属する職場に抗議すること(いわゆる「キャンセルカルチャー」の一形態)。そういう職場アタックは「行き過ぎだ」「無関係だ」という意見もあり、その一方で、組織の社会的責任やコンプライアンスの観点から許容できない場合もあり、全部OK/全部NGで割り切れない。もしも「不正義な言動(例えば差別発言)をした者が、職場からも追われねばならない」としたら、それは生計の道を断たれて社会から追い出されることと事実上同義になってしまう。そこまでしてよいか? あるいは、そういう社会からの排除は、はたして問題の解決になるのか? よほど深刻な不正義でないかぎり、反社扱いに等しい抑圧を掛けることは、均衡を失するように思う。とりわけ、職務内容が当該不正義に直接関連しない場合は尚更。「個人的な発言」の側面と、「職業人の地位」の側面を過度に結びつけるのも、個人の生活の多面性を奪いかねない。その意味で、職場アタックは、原則としては抑制的であるべきだと思う。ただし、原則に対して例外となるべき状況もあるだろう。例えば、「公平性が求められる公務員」「社会的知名度を売りにしている人物」「職務内容に関連している場合」など。つまり、ごく普通の一般人の場合とは異なって、差別発言をしている芸能人や政治家に対する「キャンセル」は、一定程度意味があると言えるだろう(※過去の発言をどこまで遡るか、どこまで責任を問うか、といった難しいグラデーションはあるにせよ)。そして、「大学所属の研究者が、自身の職務内容(つまり研究と教育)に関わる事柄で、差別発言をした」という場合にも、職場サイドの問題になることは一定程度あり得る。発言内容と職務に関連性があると言えるからだ。先年の国籍差別発言の某氏が東京大から解雇されたのも、その一例だろう。私が見たかぎり、ほぼ全ての人があの解雇を肯定していた(※あれを「不当なキャンセルだ」と言った人も、皆無ではなかったけど)。あのように、SNS上での個人的発言でも、その地位と絡めて責任が問われることはあり得る。
 でもって、今回の龍谷大の某氏の場合は、明白に職務内容(研究内容)に関わる発言ではあるが、ひとまずはただ単に非常に旧弊的で議論の視野が狭すぎるだけなので(差別とまでは言い難い)、職場アタックをすべきではないと思う。
 龍谷大の人よりもやばいのは横国の人(tw: 1621716737027887105)でね……論理的にも、倫理的にも。不思議にも同性婚を認めることとペット優遇措置を並列しているのだが、婚姻と優遇はまるで違うし、同性婚だけを挙げて異性婚を議論から外している(特権的地位を与えている)のも駄目。このテーマで「ディベート」をするのは、前提条件が歪みすぎていてあまりにも不適当だし、思考実験というにも一面的すぎる。(社会科学や哲学の)思考実験というのは、予断や既存の信念を括弧に入れて全てを徹底的に検討し直すことに意味があるので、異性婚を当然視した問題設定は完全に失敗。続
異性婚と同性婚を並べて扱うならまだしも、同性婚だけを槍玉に挙げてその地位をディベートさせるのは、教育としては相当やばい。ディベートの場に、同性愛の人が参加していたらどうするのか……。ディベートの内容的公正性への配慮も、参加者に対する配慮も無いような主題設定は失格。つまり、ディベートとしても思考実験としても、しかも論理的にも倫理的にも、完全に失格なやつ。内容的にも問題があり、とりわけ教育の場で教員が参加を強制するのは深刻な抑圧になりかねないし、思考実験の素材としても偏頗拙劣。横国の学生たちが可哀想だ。
 幸い、他の研究者からもいくらか批判が出ているが、法律系の研究者からはあまり反応が無いようで。彼等はもっと危機感を持った方がよいのでは……。

 言い訳のように、 同性婚と死刑存廃を並べたりもしているけど(tw: 1622464076650803202)、まるで別問題だからね。同性婚は基本的に同性愛者のみに関わる問題で、つまり同性愛/婚者と異性愛/婚者である人々の間に断絶がある。それに対して死刑制度は万人に適用される(=万人が同じ関わり合いを持つ)。法学者の多くは比較的高い論証能力と比較的高い社会的公平意識を持ち合わせておられると思うが、このように粗漏な主張をする法律系研究者も、残念ながら存在する。
 
 そもそも婚姻制度が何のためにあるのか、何に役立つような制度であるべきかは、現代的に再考すべきだとは思う。無くしてもいいというのも一つの考えだが、あまりにも多くのものが法の次元に支配されている現代社会(「法化」)では、一対一の生活パートナーを法的に公証する制度は、当面必要だろう。
 
 10年代を通じて社会学(者)が――全体として不当に、ただし一部は妥当に――非難されてきたが、20年代は法律学が矢面に立たされるかもしれない。社会規範に関する合意が大きく揺らいでいる中で、規範的な正しさを扱う学問領域が、いかにして説得力と社会的信頼を維持できるかは、重大な課題だろう。



 【 漫画の冒頭部分の商業的考慮 】(2022年11月5日、tw: 1588829022322315266)

 オンライン漫画のページ離脱率がソーシャルメディア上で話題になっていたが、データの理解を間違うと大変なことになるだろう。「最初の数ページで離脱されやすい→最初の数ページに盛り上がりを作っておこう」というのは、逆効果になる可能性すらある。というのは、オンライン漫画を開いてみる読者は、ストーリーやインパクトだけで引き付けられているわけではないからだ。コマ組み、絵柄、台詞回しなどで総合的に判断しようとしている。そしてそれらは、まず最初のページを開いてみなければ分からない。だから、そこで離脱率が非常に高くなるのはごく自然なことだ。しかし、無理をして冒頭でいかにもらしい盛り上がりを作ってしまうと、かえってそのクリエイターの普段の雰囲気(その人自身のベーシックな創造的美質や、よく使い慣れたスタイル)が隠されてしまう。言い換えれば、使い慣れない不利なネタで冒頭勝負してしまう可能性すらある。読者にとっても、「良さそうだと思って読み続けたら方向性が違った」、あるいは「大仰で詰まらなそうだと思って閉じたが、実は良い作品だった」という不幸が生じる可能性がある。実際、私自身も、オンライン漫画の最初の数ページで大ゴマや派手な絵をただベタ貼りされても困る。そういうのは、紙媒体の雑誌上での新連載であればアイキャッチとして有効だとしても、オンライン漫画ではあまり意味が無い。判断材料としては、普段のコマ組みと台詞のテンポをこそ見せてほしい。だから、気になった作品は、むしろ1話目を飛ばして、2話目あたりから開いてみるということもある。1話目はかなり強引な展開になっていることが多くて、作品の質を把握する上ではあまり役に立たないから。
 裏を返せば、「○○ページ目以降は定着率が高い」というのも、読者一人一人がその作品を良いと判断したから読み続けているのだ。だから、単純に「まずは○○ページ目まで、どんなやり方でもとにかく読ませよう、そうすればいいんだ」などと考えては、大失敗に終わる。因果関係がひっくり返っている。冒頭で大事なのは、読者に判断材料を与えることだ。大袈裟なアイキャッチではなく、その作品の個性を見せることだ。そうした意味で、オンライン漫画家たちには、読者の目を信頼してほしいし、また、自分自身の特質に自信を持ってほしい。オンライン漫画サイトにまで訪れているような読者は、むしろ平均以上に漫画好きなユーザーが多いだろうし。目先の数字に汲々としてマンネリスタイルでの縮小再生産に陥るというのだけは避けてほしい。漫画編集者は、漫画それ自体に関する審美眼はあるとしても、マーケティングに関する知識については信用できない(つまり、疑わしいネタに乗っかってポリシーを歪めてしまう危険がある)だけに、データ解釈の次元で大間違いを犯してしまう可能性があると考えている。怖いのは、漫画家も編集者も、成功/失敗のフィードバックが出来ていないだろうということだ(データ分析能力の欠如と、検証の困難性の両方の問題)。つまり、失敗し続けていることが把握できないままに「このやり方でいい筈だ」と走り続けてしまう危険性がある。
 もちろん、「あまり序盤でもたつくな」というのは正しいと思うけど。例えば『剣でした』は、原作小説は延々100ページ以上も「転生の経緯+孤独のレベルアップ」を描いていたのに対して、漫画版は順番を大きく入れ替えてヒロインとの出会いのシーンから第1話を始めていた(※転生云々は第2話)。また、表現形式の違い(小説/漫画)、媒体の違い(ネット/雑誌/単行本etc.)もあるだろう。例えば、紙の単行本であればほんの10秒で全体の感触(コマ組みや進行テンポ)を把握することができるが、アニメ作品の肌触りを確かめるにはそういうスキム(十数秒でのパッと見)はほぼ不可能だろう。

 漫画でも「効果的なパターン」というのは確かに存在する。しかし、「効果的なパターン」でも、何度も繰り返されれば飽きる。まさにジャンプ漫画が典型で、最近の『あかね』も『ミケランジェロ』も、それ単体としては完成度が高いし、落語なり画家なりといった素材も意欲的なのだが、「主人公は特異な才能や経歴を持っているが、故あって既存の業界に入れない境遇だった。それが師匠の下に入れるようになり、兄弟子らと衝突しつつもコツを掴んで成長していき、そして若手総出演の大会に出場し……」。きれいなストーリーなのは分かるが、さすがに飽きる。もちろん、新たな漫画読者は常に現れているのだし、そういう読者に向けて、鍛え抜かれた定番パターンできちんとした物語を楽しませるのは、漫画文化としても作品それ自体としても意味があるだろう。しかし、繰り返されればnot for meにもなっていく。飽きて続刊を買い止めることもある。