2025年6月の新作アニメ感想:『アポカリプスホテル』、『ある魔女が死ぬまで』、『鬼人幻燈抄』(1期)、『九龍ジェネリックロマンス』、『小市民シリーズ』(2期)、『LAZARUS』。
●総評。羊宮妃那ヴォイスを堪能した3ヵ月だった。
『アポカリプスホテル』は、自由でユーモラスな発想と、SF的なディテールの取り合わせがたいへん楽しかった。人類文明をただの痕跡として残して、異星人+ロボットたちの不思議な生活空間を「ホテル」という場で表現しきったコンセプトも秀逸だし、竹本泉デザインの牧歌的な絵柄と瑞々しい廃墟風景の取り合わせも印象的。
ただし、基本的にはエンタメ作品であって、思考実験の深さを売りにするスタイルではなかった。主演の白砂沙帆氏も、ロボットキャラの絶妙なクールさと天然ぶりを上手く掬い取って演じていた。75点(※好みによっては85点まで付けてもよいだろう)。
『ある魔女が死ぬまで』は、全体に中の上~上の下レベルのエピソードを堅実につないでいった。とりわけ第5話や第11話といったクライマックスの回では、主演青山吉能氏の力演もあって華やかで幸せに満ちたカタルシスを形作っている。それ以外もキャスト陣は非常に贅沢な顔触れだし、美談エピソードも主人公の口の悪さと正直さのおかげで偽善的な嫌味に陥らずに済んだ。このアニメ版では、死のカウントダウン問題については希望のある形で先送りにしたが、これはこれで良い判断だったと思う。75点。
『鬼人幻燈抄』(1期)は、江戸後期の風景と文物がたいへん美しい。キャラクターたちの衣装や時代がかった所作も丁寧に描写されている。ただし、ストーリーの本筋については、「ラスボスが最後にしか出てこず消化不良(※2期以降に委ねたのだろう)」、「鬼を討伐するのもあまり前景化されない」、「バトルシーンのアニメーションがぎこちない」といった歯切れの悪さもあった。しかし、戦闘描写を捨てて静かな雰囲気を重視したのは一つの見識だと言えるし、「幸福の庭」(第5-6話)のようにミステリアスで情趣のあるエピソードもあり、時代ものと幻想性を取り合わせたユニークな個性がある。キャスティングについては今一つなところもあったが(鈴音や奈津など)、瑕疵とするほどではない。75点。
『九龍ジェネリックロマンス』は、これまた虚実定かならぬ幻想的な状況をじわじわと描いていった。作画は程々の出来だが、背景美術として描かれる九龍城塞の存在感は絶大だし、長大なCパートによる引きの演出も効果的だった。脚本構成があえて見通しや節目を作らずに腰を据えて人間関係を小出しにしていったのも、本作の方向性に鑑みて正解だろう(※ただし、そこに不満を持つ視聴者もいただろう)。劇伴も、くっきりした中華趣味の一方で、浮遊感のある空虚さをも滲ませて趣深い。
九龍~虚像の街~ノスタルジー~クローン~チャイナ服~ロマンス(同性愛を含む)といった要素を詰め込みつつ全体としてまとまりのある作品像を作り上げたのは、多分に原作のおかげだが、アニメ版もその趣向を堅実に反映させていた。75点。
『小市民シリーズ』(2期)は、ミステリというよりはサスペンスと言うべきストーリーだが、神戸守監督の下でしっとりと強く印象に残る画面作りをしてくれた。山々を臨む青空風景、郊外の畑の広がる冬の景色、そして暗い校舎内の陰影、遊具に遮られた公園内でのやりとり、そして病院屋上から見える岐阜市内の夜景、等々。声優陣では、羊宮氏と古川慎氏が出色の出来。75点。
『LAZARUS』は、期待外れ。たしかにアクションシーンは見事なアニメーションだし、イスタンブールから南洋の島々までの風景は温度や湿度まで感じさせるほどのクオリティだが、ストーリー面のバランスの悪さ、状況設定の作為性、台詞回しの陳腐さ、そして「米国文明/貧しい他国」というオリエンタリズムの色濃い気配が最後まで解消されなかった。作画評価のみで65点。
全5話構成の『未ル』も、近未来テクノロジーSFとして期待していたのだが、各回が散漫に並べられるだけで終わってしまった。もったいない。
ちなみに、前の2024年度冬クールだと『全修』80点、『ソロ討伐』60点、『通販』70点。
秋クールは『アングラー』(85点)の一本だけだった。
夏クールは『義妹』75点、『小市民』(1期)が75点、『負け』が85点。
2024年春は、『第七王子』(60点)の一作だけ。
基本的に、作品チョイスは「キャスト重視+オリジナル作品優先」で、作品評価は「コンセプト設計+視聴覚演出+独自性」を重視している。
●『アポカリプスホテル』
第9話は結婚&葬儀披露宴を、OP短縮で描ききった。祖母が逝去するまでの長い時間が経過してきたことの示唆。そして彼等の一族がこのホテル(あるいは地球)に定住してきたことの重み。そして、結婚と葬儀を同時挙行するという、現代日本ではあり得ない新たな文化を彼等が創り出そうとしていること。物語の全体進行は穏やかだが、これまでの8回の描写の蓄積の上にある複雑な一回になっている。
第10話。ホテル内殺人(?)事件。えっ……こんなのあり?と言いたくなる展開のネタ回。SFシチュエーション下でのミステリ(?)ならではの尖った描写が楽しい。つまり、人間的な倫理観を持たないアンドロイドと、独自の価値観を持つ異星人、そして子供を介した情報伝達錯誤、等々。
白いドアを斧で叩き破るシーンは、『シャイニング』の"Here's Johnny!"にならないかとヒヤヒヤした。カーテン越しのバスタブシーンも、『サイコ』のように感じる。どちらもホテル(宿泊所)を舞台にした古典サスペンス映画なので平仄が合っている。ちなみに、偶然ながら小道具としてのキャンディは、『九龍』とネタ被りしている。
キャストに関しては、陶芸家青年になった弟キャラは、ひきつづき田村睦心氏が演じている。成人男性キャラも演じられる田村氏はさすが。作中映画の犯人女性役は山村響氏。
犯人または死因について。ポン子の弟が陶芸釉薬としてホウ酸か何かを常用していて、それが姪のタマ子の手にも付着したままで、そしてタマ子がアリ型異星人にじゃれついたせいで彼等が死んでしまった……という解釈が正しいだろう。劇中劇で、手をよく洗えと執拗に強調していたのも、逆説的に、手を洗わないことが問題になると示唆している。無邪気な行動がもたらす悲劇、科学的なミステリ、そして種族間接触の際に生じる危険性……王道のSFだろう。一見するとパロディまみれのネタ回だが、このようなしたたかな描写を織り込んできているのは、さすがの巧さ。
第11話は、休暇を貰ったヤチヨが稼動延長のためのパーツ探しをする。長大な台詞無し進行の柔らかな緊張感に、ロードムービーめいた放浪の旅の情緒、そしてポストアポカリプスものの本領を発揮した廃墟趣味の横溢。オリジナルSFアニメならではの興趣を存分に味わえた。
途中の回想カットに台詞があり、また吐息レベルの台詞もあるのだが、4:25からエクストラミッション達成音声(21:00)までの16分30秒以上、あるいは21:40までの17分15秒もの時間が、音声台詞ゼロ進行になっている。もちろん、昔の無声映画を初めとして、無音/無声の映像作品は多数存在するのだが、現代日本のクール制アニメとしては異例の演出と言ってよいだろう。
台詞ゼロというわけではないが、廃墟趣味+モノクロ静止画ベースのSF映画『ラ・ジュテ』(1962)も思い出した。あるいは、この回を楽しめた人ならばタルコフスキー映画もいけるかもしれない。
標準的な編成であれば、次回が最終回になる。このホテルの今後――つまりロボットたちの長期存続の問題や地球環境の状況など――を示唆するという意味でも、今回の描写には大きな意味がある。
第12話。最後までユーモラスSFのスタンスを堅持した。長期間の地球外生存による人類の体質変化という苦み。地球環境が改善されるきっかけが最初の客からもたらされていたという偶然の味わい(※その客を受け入れていなかったら、地球のありようは別物になっていただろう)。主人公のアイデンティティ更新と、ポン子との友情。そして最後のとんでもない地球の姿。イマジネーションと遊び心に満ちた遠未来SFとしてきれいにまとまっている。ただし、社会的なコミットメントがほぼ皆無で、純然たる空想の世界のままに終始したという2020年代日本エンタメらしい無害さには、いささか物足りなさを覚えないではない。文明論的な批評性が、最後の「広告まみれの地球」という商業主義の前景化で終わってしまったのは、やはりもったいない。
映像表現としては、ジャンプカットのような背景転換が面白い。顔芸遊戯は、今回も下品にならない範囲で使われていた。
今回登場したキャラは、なんと、小松未可子氏。私の耳では判別できなかったが、誠実な芝居で最終回を説得力ある形で引き締めてくれた。
●『ある魔女が死ぬまで』
第10話は舞台を変えて南欧風の港町に滞在しつつ、主人公の生育背景を明かしていく。脚本はやや説明的だし、中割アニメーションも微妙に不安定になっているが、それでも生き生きとした所作を表現していて見応えがある(※作画に関しては、「大きな鍔の三角帽子を被ったまま振り向きなどのアニメーションをさせるのは難しい」という側面もあるので、あまり咎めるべきではない)。
ただし、なんとなく前世紀の名作劇場アニメのようなクラシカルな絵作りに感じた。ストーリーのせいなのか、舞台設定のせいなのか、それともただの錯覚なのかは分からないが。
最初のうちは「ジャック・ルソー」かと思ったが、「ルッソ」なのね。……えっ、老院長は飛田展男氏だったのか。主演の青山氏は、ここに来てちょっと悪慣れしてきたのか、パワーが弱まってイージーな芝居になってきたように聞こえる。「物凄い声」のはずが音量も迫力もない発声だったりして、明らかに演出に合っていない。
第11話は、王道のクライマックスで物語全体の道筋をきれいにまとめ上げた。ストーリーそのものはベタだが、鐘を鳴らすまでのシークエンスはBGMも消して緊張感を高め、そしてテティス役は主題歌を歌っていた坂本真綾氏という演出も上手い。晴れやかな鐘が響き続けるところも、成功間違いなしの抜群の盛り上げ具合。主演の青山氏も、今回は堂々たる芝居を披露している。あえて難を言えば、後半のカタストロフ危機が大きすぎて、前半の難病少年治療のシーンが霞みかけているのはもったいない。
今回が最終回でもよいくらいの内容だったが、次回はあの黒衣の魔女とのエピソードがあるようだ。
ちなみに、集めてきた涙のパワーをここで使うのかと思ったが、さすがにそこまでの無茶はしなかった。少なくともアニメ版12話だけで構成するなら、集めた涙のパワーが発揮されるのをどこかで見せておくのも良かったかと思う。
第12話は、姉弟子を再登場させつつ、主人公のルーツを探る旅に出るという形で締め括った。冒頭のカタストロフ描写が重苦しすぎて、それを完全に解消したとは言いがたいが、「希望」のキーワードを再確認させたうえで完結させたので、筋は通っている。でも、11話までで終わりにしておいても良かったんじゃないかな……。
母親役は佐藤利奈氏。最後まで贅沢なキャスティング。これまでも大原さやか氏や中原麻衣氏、 そして坂本真綾氏と、スポット登場のサブキャラが物凄い顔触れだった。
●『鬼人幻燈抄』
第10話は安政2年(1855年)の「雨夜鷹」のエピソード。劇中劇にしつつ現代編のキャラたちを登場させているのは面白いし、描きたかったであろう筋書きと意味づけは察せられるのだが、おそらく圧縮しすぎで隔靴掻痒のもどかしさが残る。
蕎麦を啜るアニメーションや、そばつゆの水面に映る像、暖簾をかき分けて出入りする所作、そして今回も下駄音の心地良さなど、映像としては繊細なで良いところも多いのだが……。剣戟シーンも、今回はちょっと頑張っていた。
講談師の役は、一龍斎貞友氏。つまり、正真正銘、本物の講談師兼声優。
コンビニの店員が妙に存在感を発揮していたり、その直後のカットでは手繋ぎ百合カップルが歩いていたりもする。原作小説には掘り下げた描写があるのだろうか?
第11話は安政3年の冬。小林一三氏のコンテは奥行き表現や仰角カメラを駆使してたいへん印象的に構築されており、画面全体に緊張感がある。無言のうちに奇酒の不気味さを感じさせるのも上手い。音響面でも、じっとりと沈んだ劇伴や繊細な効果音など、冬のしんとした情緒が作り出されている。
奈津が激怒したシーンは、リアリスティックな雰囲気とアニメらしい誇張的表現の間で絶妙にバランスを取りつつ、なおかつ、アニメではめったに見られないような強烈な表情を描いていて感心した。
その一方で、モブ鬼を撃破するシーンはひたすら描写を回避している(冒頭も、酒屋のシーンでも)。作品の落ち着いた雰囲気を維持し、主人公による鬼の虐殺をあまり強調しないためと思われるが、同時に作画リソースの節約にも見える(※これまでの回でも、バトルシーンの作画は上手くなかった)。
第12話は中編。人を鬼に変える魔酒とともに、ようやくラスボスが姿を現しつつある。映像面では、鬼とのバトルシーンが増量されているが、剣戟描写がアニメーションとしてはあまり上手くないので、州バンクのエピソードとしてはちょっと肩透かしに感じる。
上田氏は下手だなあ……。せっかくのラスボス登場なのに、まるで迫力も妖気も足りていない。
第13話はひとまずの最終回。最後の悲劇と、苦みのある浄化、そして無言の別離で締め括られた。バトル描写(アクション表現)は結局、今一つのままだったが、今回は騒ぎ立てない静かな演出が奏功して戦いの余韻を上手く残してくれた。夜の青みと炎の赤さの対比も印象的に構成されている。絵コンテは小川優樹氏。劇伴(BGM)も総じて控えめで、映像の美しさと密やかな情緒に集中させている。
声優陣も、今回は主演の八代拓氏が特別に重々しい(低声の)芝居で、軋むように言葉を紡いでいる。奈津役の会沢氏も、これまではいささか物足りない出来だったが、今回はさすがに力の籠もった演技で最後の登場シーンを彩った。
今後のスケジュール。2回の特別番組(総集編?)を挟んでから、第14回(明治編?)に入っていくとのこと。2クール連続で疲れが出てくる可能性もあるし、舞台設定が変わる(明治~大正)のも負担になると思われるが、この第1期の出来具合ならば上手くコントロールしていってくれるだろう。
●『九龍ジェネリックロマンス』
第9話。いよいよ終盤に向けて黒幕キャラたちが動き出した。その都度場面状況と劇伴(BGM)の雰囲気がズレているところがあるのも、おそらく意図的なものだろう。情緒の定まらない浮遊感や、幻想上の城塞の非現実感などを示唆するものだろうか。
これまで日常の食事シーンが度々描かれてきたのも、ここに来て大きな意味合いを持つようになってきた。とりたてて大袈裟な演出もなしに淡々と撮られていた食事のシーン群が、視聴者たちの目と心に静かになんとなく蓄積されていたものが、そうした体験の積み重ねがここで映像上の実感の手応えとして効いてきている。
それにしても、「眼鏡とチャイナドレスが相性は悪い」というのをずっと残念に思っていたが、本作はその暗礁を見事に乗り越えてくれた。ありがたい。『サクラ大戦』の李紅蘭も眼鏡チャイナだったけど、それ以降もヒロイン級としてはなかなか描かれなかった。
脚本構成がかなりしっかりしているように感じる。おそらく原作漫画のストーリー展望を踏まえて、アニメ12話のフォーマットに沿うように丹念に組み替えをしているものと思われる。
第10話は、本館的に幻影九龍の謎に取り組もうとするが、友人の楊明はどうにも頼りないし、主人公は思いつきで九龍のお札を剥がして集めるばかり。とはいえ、巨大スラム構造物の美術的な魅力は増している。幻の九龍城塞は、いわばマヨヒガ伝承のようなものだと思うが、それを日本国内ではなく香港に設定し、しかも最先端テクノロジーの意匠で装わせ、さらにラブロマンスにも結びつけるというのは、実に上手いところを突いている。
元・男の娘の小黒(シャオヘイ)君は、今回やけに可愛らしく描かれている。
今回は、新規のED曲。たしかに九龍がもはや後戻りできない形で虚像化したという決定的な違いはあるが、しかしED曲を変えるほどの断絶があったとは言いがたいので、このED曲切り替えはちょっと不思議な処理。
第11話は、幻影九龍を作り出している原因がかなり明確に特定され、そして楊明と小黒はそれぞれ過去を振り切るとともに九龍が見えなくなる。作品コンセプトの切れ味と、それを堅実に表現する演出の成果というべき映像で、大いに引き込まれる。
それにしても、最初から再視聴していると、第1話に下品なエロショットが出てくる場違いな唐突さとまるでアダルトアニメのような肉感的作画の異様さに、どうしても吹き出してしまう。あれはいったい何だったんだ……。いや、常夏の雰囲気を示すのに役立ってはいるけれど。
第12話。キャラクターたちの悔恨に、一つずつ決着が付けられていく。今回は作画がやや平板だったが、会話劇の密度は高く、カタストロフを予感させる物語に引き込まれる。なお、エンディングは当初の「恋のレトロニム」に戻った。
みゆきの母親は誰が演じているかと思ったら、「スーハン:金元寿子」か!
第13話は、幻想世界の崩壊と消滅のカタルシスを通じて、ハッピーエンドで締め括られた。テクニカルなどんでん返しをしたわけではなく、最後までラブロマンスとしての情緒を維持したのも一つの見識だろう。
蛇沼みゆき役の置鮎龍太郎氏の怪演も、グエン役の坂泰斗氏の引き締まった芝居も、そして工藤役の杉田氏も最後まで芯の詰まった演技を聴かせてくれた。金魚のサクセスが喋ったのもびっくりしたが、あー、実写版の俳優が声を当てたのか。
●『小市民シリーズ』
第19話(2期の中では9話目)。 中学生時代の二人が出会って自動車事故の謎を解明していく話と、それと似たような現在の事故問題との二重進行。ただし後者の状況はまだ見えてこない。岐阜県の堤防沿いの風景がたいへん情緒的だし、この過去エピソードでは青空もしばしば描かれる(※現在の病室風景との対比でもあろうが、ストーリー的な待避になるかどうかはまだ分からない)。
男性の医師やリハビリ系療法士、清掃員には名前が出ているのに、看護師だけは無名(クレジットも「看護師」)というのはちょっと引っかかる。たぶん謎に深く関わってくるのだろうけど……。小説媒体であれば顕名/匿名の違いは気づかれにくいし、登場人物の存在感もコントロールしやすいのだが、それに対してアニメだとキャラクターの存在が映像上ではっきり映されてしまううえ、クレジットでも名前(の有無)がリストとして不可避的に明記されてしまうので、こういうトリックを仕込むには不向きだと言える(※ただし、その一方で、小説では明確に言葉で描写するかどうかの問題になってしまうところも、映像媒体であれば暗黙裡にモブのように映り込ませておくという手法が使えたりもする)。
絵コンテは高田昌豊氏。『宇宙よりも遠い場所』で神戸氏との共同作業経験があるようだ。
第20話。レストランの店内環境ノイズも丁寧に付けられていて、落ち着いた雰囲気で視聴できる。ただし、動きが乏しく、謎そのものはあまり展開されていない。
第21話。絵コンテは武内宣之氏。映像はリアリズムを極めており、ガラス面への映り込みまで描き込んでいる。光源表現(陰影)もたいへん細やかで、その場面ごとの雰囲気を良く表現しているし、さらにクライマックスでの強烈な演出にも光源演出が活用されている。そして、眼鏡レンズの反射も……ついでに眼鏡キャラがたくさん出てきて、最後は犯人まで眼鏡変装をしてくるという贅沢さ(※高校時代のシーンが本人だったならば、本物の度入り眼鏡だったのかも)。軋むような不協和音の劇伴も、切々と緊張感を高めている。ただし、トリックは相変わらずチープ。バンほどの大きな車をあの川の中に隠すのは無理でしょ……。
小佐内さん、今更しおらしくしてもその加虐的本性はもう誤魔化せないよ……。平然と盗聴発言をしているあたり、倫理観の欠如を誤魔化すつもりも無さそうだけど。
今回のサブタイトル「黄金だと思っていた時代の終わり」は、美しくももの悲しい。中学生の小さな世界で意気揚々と活動していた小鳩君が、おそらく初めてオトナの汚らしさに触れたこと、そして今回(高校生の現在でも)ふたたび大人の悪意に晒されることを示唆したものだろう。……もっと邪悪な存在が身近にいるのなね。
今回は羊宮氏が濃密な情緒的芝居を注ぎ込んでいた。『ある魔女』第11話とともに、泣きの芝居でも鮮烈な印象を残した一週間になった。この異様なまでの切れ味はまさに妖宮妃那。
『通販』の王女役では快活かつ思慮深いキャラクターにズシリと重たい存在感を与えたし、『ある魔女』では茫洋としていながら痛切な感情を吐露するシーンも凄まじいインパクトで演じていたし、そしてこの主演作品ではウィスパーヴォイスを最大限活かした小柄ミステリアスキャラで、シャイなところから、スイーツに目を輝かせセルシーンから、悲しげなムードから、本心を隠すデリケートな芝居から、邪悪さを噴出させる恐怖の語り口まで、全てを見事に演じきっている。
第22話(たぶん完結)。前半はベタに犯人から追いかけられるシークエンスだが、ロングショットの屋上夜景が抜群に美しい。小鳩君が寒がりすぎなのは、真冬にもかかわらず普通の入院着のままだったせいか。続く屋内での会話シーンも戸外の風を薄く響かせて、夜の病院に特有の情緒を表現している。絵コンテは神戸守監督自身が担当している。
羊宮氏は静かなウィスパーヴォイスだけでなく、引き込まれるようなミステリアスな芝居も、悲壮な感情の噴出も、そしてユーモアを含んだ台詞も、どれも抜群の濃密さで演じているのが素晴らしい。ノンシャランにからかうようなユーモラスな雰囲気を滲ませる匙加減も、実に上手い。看護師(日坂英子)役の青山玲菜氏も、破滅的な激情の芝居が印象に残る。
脚本(原作)は最後までチープ。昔のTVのサスペンスドラマでも、ここまで安易なのは少ないんじゃないかと思ってしまうくらい。とりわけ、御都合主義的な偶然が多すぎる。例えば、看護師犯人が主人公を自動車でひいたら、たまたま犯人が勤める病院に入院して、しかも犯人が彼の専属担当になるというのはさすがに説得力が無い。また、最初のひき逃げ犯がたまたま、一本道の先にあるコンビニで勤務していて監視カメラの録画映像を改竄できたというのもひどい(※コンビニへの通勤途中だった可能性を差し引いても、依然として作為的に過ぎる)。さらに、読者を惑わせるためのミスリードネタの仕込み方も不誠実だと感じる。キャラクター造形も、エピソードごとにブレている(特に小鳩君は、デリケートだったり無神経だったりする)。
ちなみに、第1話(つまり第1期の序盤=高校入学当初)を見返してみると、小佐内の態度がものすごく気弱で口下手なのが微苦笑を誘う。あれから3年掛けて、ふてぶてしく本性を出すようになったのか、成長とともに人間的にタフになったのか、それとも石和たちを排除して気分が落ち着けるようになったのか……
●『LAZARUS』
第9話は査問委員会の茶番と、腕試し戦闘の茶番。戦闘描写はサーカスのように派手だが、殺人行為や死体の描写がリアリスティックでかなりグロい。そして本筋のタイムリミット問題はほとんど前進いない(※スキナー発見まで「あと一歩」というほど迫っているとは思えないので、ただのブラフだろう)。
舞台設定の面では、今回はニューヨーク周辺をフィーチャーしている。
結局のところ、リアリティの水準が揃っていないのが問題であるように思える。絵柄そのものや、写実的な運動アニメーションは、かなり現実寄りのスタンスで受容されることを期待しているように見える(そう見えてしまう)。しかしその一方で、台詞回しはチープで粗が多く、荒唐無稽なヒロイックアクション映像を志向しているように見える。だから、映像表現を額面通りに受け取ろうとすると状況の安っぽさが気になるし、かといってお気楽なアクション映像として楽しもうとすると、遊びの余地の小さな映像表現の生真面目さが足枷になってしまう。さらに言えば、「そういう慣例的なリアリティコンロトールを解体して、あえてそこにギャップを生みつつ、新しい感受性を打ち出す」というアプローチも理屈の上ではあり得るのだが、本作の場合は、そういった挑戦的姿勢には見えない。「香港出身のスーパーハッカー」や「ロシア出身の元・特殊工作員」といった陳腐なステレオタイプや、世界各地の観光巡りめいた風景が、映像全体をひたすらベタなものとして押し固めていってしまう。……つまり、コンセプトレベルでの失敗に思える。
これと同様に上記『小市民』も、突出した映像美と、それに対してあまりにも卑近な物語のギャップが、どうにも居心地が悪い。独善的で冷血で反社会的なキャラクターたちの言動が、映像を通じて美化されてしまっているという不気味さでもある。
第10話は、リーランドの実家を訪れて姉弟喧嘩を目撃する。次回はパキスタンに向かうようだ。そして、ここに来て主人公君の身体が抗体を持っているかもしれないという話に……。
相変わらず、表面上はグローバル志向のようでいながら実際にはおそろしく視野の狭い描写になっている。冒頭のTVニュースも米国ばかりのようだし、その一方で、他国に訪れるときはスラムや新興宗教コロニーやリゾート地といったエキゾティシズムに満ちた無責任な見せ方ばかりになっている。しかも、映像美の観点でも、中途半端と言わざるを得ない。
なお、庭師がスキナー本人のように見えるが、この描写だけで意味が分からない。
第11話は、引き延ばしが激しい。前話のリピートに続いて、中華系暗殺者とのバトルが長尺で展開され、しかもその暗殺者の過去トラウマ映像もまた不必要に長い(※ただしそのシーンで、映像の各パーツがグズグズに浮遊するところはちょっと面白かった。3D素材のユニークな使い方だ)。そもそも、アクセルを暗殺しようとするのも、本筋からズレて――というか遅きに失して――いるので、なんとも据わりが悪い。
それにしても、手榴弾を蹴り返すのは笑ってしまう。今時そんなネタをやるのか……。人類滅亡まで残り一週間を切っている筈なのに、モノレールや長距離トラックがいまだに平然と運行しているという呑気さも、切迫感もリアリティも無くてたいへん居心地が悪い。最初に提示した設定に対して、作り手側がずっと雑な姿勢のままであり続けてきた。
第12話。結局のところ、「陳腐」の一言に尽きる。台詞回しはどこかで聞いたような凡庸なものばかりだし、ストーリー進行としても各キャラクターの動きが連動しているとは言いがたいし、今回は映像的にも見るべきものが無い。格好を付けるのが第一目的のような作品なのに、台詞が通俗的でセンスの低さを露呈させているのは実につらくて、悲しい気分になる。
『九龍』ともども、全13話の中の第12話が最後の助走の勢いづけに失敗したのはもったいない。
第13話は、暗殺者のバックグラウンドや米国の生物兵器開発、そして過去の襲撃事件を素描して終わった。しかしいずれも乱雑で、有意味な連携が為されていない。5人の遺伝子変異云々も説得力を欠くし、バトルシーンの決着も肩透かし。結局のところ、「米国の都市文明、メディア、株式市場」と、「各国の貧しい暮らしのエキゾティシズム」という醜悪な対比が温存されたまま、ただ表面的に美しい画面を作ったにすぎない。
そう言えば、主人公の体質問題に何かあるのかと思いきや、ラザロチーム全員が抵抗力を持っているという、よく分からないオチになっていた。いったい何をしたかったんだ……。