2025/06/30

ガールプラモ(美少女プラモデル)の年表的メモ(2)

 ガールプラモ(美少女プラモデル)界隈の発売年表っぽい私的なメモ(2026年~)。
 2006~2025年の20年間については、別掲ページにて。凡例などもそちらを参照のこと。

※文章での通史的概観は、連載記事「現代ガールプラモの歴史的展望」を参照。
※各シリーズの品質評価などは、別ページ「ガールプラモ年表の補足資料」にて。
※海外メーカーの一覧は、別ページ「海外のガールプラモ一覧(メモ)」にまとめた。

発売月製品(※主に15cm級[1/10~1/12相当]の可動全身プラモデルを取り上げる)関連事項(※隣接分野の製品や出来事。アクションフィギュアなど)
2026/01PLAMATEA「キューティーハニー」(原作のメディアミックスコンテンツは1973年開始。このキットのデザインは2025年開始の新版に準拠している。全高約17cmとのこと)
GODZ ORDER(GO)「オーバーロード・ガブリエル」(スタンダードVer.とDXメッキVer.を同時発売)
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2026/02xx
2026/03xx
2026/04xx
2026/05xx
2026/06xx
2026/07xx
2026/08xx
2026/09xx
2026/10xx
2026/11xx
2026/12xx


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2025/06/07

2025年6月の雑記

 2025年6月の雑記。

 06/29(Sun)

 買った書籍類は、定期的に整理(デフラグ)していきたいが、一度積んでしまうとなかなか動かせない。特に連載漫画は、シリーズごとに並べておきたいのだが……。
 一応の対処として、特別に大事にしているシリーズは別枠で積んでいるので、比較的取り出しやすい。それでも積んでいることに変わりはないが。
 プラモデルも、一度完成させてしばらく鑑賞したら、箱やケースに収納して積んでしまう場合もある。そうすると実物を取り出せず、もはや写真で眺めるしかないという哀れな事態に陥ることもある。


宝多六花
宝多立花
宝田六花
宝田立花
寶多陸華
さあ。本物はどれだ? ……と、私自身がいつも迷うし、しばしば誤字をしでかしている。正解は「宝多六花」。


 ふう……ガールプラモの20年史の記事(2006~2025年分)がようやく一区切りついた。
 そして2026年発売キットの情報が出てきているので新規ページに切り替えることにした。

 そもそも、プラモデルの正確な発売発売時期はネットから消えていきやすい。書籍のような正式な「発売日」が存在しないというのもある。また、公式サイトや通販サイトでも、再生産の度に発売月情報が更新されてしまうので、元々の発売日が追えなくなる。さらに、ひとしきり売り終わったコンテンツは公式サイトそのものも削除されていく。
 なので誰かが、ある程度信頼できる情報をまとまった形で――そしてマイナーなものも含めて――残していかなければ、過去が散逸消滅してしまうし、悪くすると非常に偏った偽史が出現してしまう虞もある(※偽史やフカシに対する反駁の材料が持てなくなる)。その意味で、この分野に関わる一趣味人として、客観性のあるデータベース(というほど大したものではないが)を作っておきたかった。
 しかし、独力で続けるのもそろそろ面倒になってきたし、私自身がいつまでも続けていけるかも分からないので、このデータを誰かが引き取って多人数で(wiki形式などで)更新していってくれたらありがたいのだけど……。
 とはいえ、当該ページのアクセス統計を見てみたら、半年でわずか25閲覧というお寒い状況だった。うーん、現代のオタクたちは歴史に興味が無いのかなあ。つまり、過去のマスターピースを探したり、歴史的-技術的経緯について自分なりの展望と見識を確立させたり、最新キットが出てくるまでのダイナミズムや市場的な広がりを捉えようとしたり、シリーズを買い揃えたりといった知的活動をしないのだろうか? もったいないなあ……。

 このような、いわゆる「オタク第二世代」風のスタンス(≒アカデミックなスタンス)そのものがいよいよ少数派になっているというのは確かだ。「客観性のある情報を、秘匿せずに公開し合って、お互いに公平かつ生産的な議論をして、理解を深めていく」という知的姿勢には、現代でも大きな意義がある筈だが、それがかれら「現代オタク」たちの間で失われていくのはたいへん悲しい。

 こういう悪癖はスケールモデル界隈にも見られる。第一世代的な秘密主義――良く言えば個人主義的な求道の文化――がずっと続いていて、とにかくまとまった情報がろくに存在しない。特に艦船模型分野などでは、2010年代以降のムック本によって基礎知識レベルの情報が多少補われてきたが、それでも知的な体系化には程遠い。
 ロボットプラモは、人口規模の大きさもあってそこそこの情報が見出されるのだが、それも近年の動画化傾向の中で、検索性や一覧性が完全に死んでしまった(※まあ、プラモ実物を見せるのに動画媒体が非常に強力なのは分かるのだが……)。

 つくづくErogamescapeは偉大よね……という話でもある。

このbloggerのアクセス統計より。


 「はてな」ブログは、個人的に水が合わなかったのですよね……。持続性のあるオンラインサーヴィスとしての信頼性は高いので(しかも日本国内向け)、一般的な見方では確かに有望だと思いますが、レイアウトの貧しさが……UIの融通の利かなさが……リンクシステムの微妙さが……そして「ダイアリー」時代以来のユーザー文化のクドみが……うぐぅ。


 将魂姫のメーカーが、よく分からないことになっていた。これまでは「机甲猪動漫設計」有限公司だったのだが、今回の「animacircuit : Vio the Rabbit」を出した「卓匠文化发展」有限公司のweiboアカウントも将魂姫を自社コンテンツのように紹介しているようで、何が何だか……中国語はろくに読めないし、おかしなサイトを踏むのも怖いので検索して調べるのも気が進まない。「海外ガールプラモ」記事ではひとまず一体の存在として記載したが、よく分からぬ……。近所のイエサブに並んでいたから(※今日は買わなかった)、買って確かめてみようかな。


 そろそろ1/12ドール服を買ってきたい……。幸いにも近所のJoshinがazoneドール関連の商品をいろいろ置いていてくれるのでそこそこのものはすぐに買えるのだが、もう一度ポンパ(日本橋)のAzone実店舗にも行っておきたい。コロナ以降、ポンバにはずっとご無沙汰のままなのが悔しい。
 金属エッチング製の眼鏡は、以前は2個セットが800円程度だったのだけど、在庫切れだったり、在庫復活したかと思えば1200円くらい(※曖昧な記憶)に値上げしていたりして、なかなか追加調達できずにいる。
 ドール店といえばVOLKS(天使のすみか)もあるのだけど、あそこは60cm前後の大型ドールばかりで、残念ながら1/12対応の商品はほとんど置いていない。


一口に「SF」といっても様々な捉え方があるので、まずはおおまかに分類していく方が生産的な議論になると思う。例えば、
 1) 形式的定義:(自然)科学的に突き詰められた思考を作劇に反映させた作品。この見方では、SFとはジャンルではなく、個々の作品に含まれる性質、要素、度合いの問題になる。そしてこの観点では、現代的創作におけるSFの浸透と拡散を肯定的に認めることになるだろう。
 2) 慣習的定義:SF的とされるガジェットを用いている作品、またはSFジャンルとして受け入れられてきた作品。やや循環論法めいた説明だが、実態としてのジャンル分類やアイデンティティ認識に関わるものであり、作品受容のあり方もまた重要な要因だ。しかしループや未来世界や宇宙人が出てきたら即SFだとするのはいささかイージーにも思えるし、そういう外的な認識としては「SFは陳腐化した」、「SFは現実のテクノロジー発展を超えられていない」、「(浸透と拡散の帰結として、)ジャンルとしてのSFにはあまり意味が無くなってきた」といった批判に服することになるかもしれない。
 3) 積極的定義:知的な思考実験を通じて、科学フィクションならではの世界を描いている作品。旧来的なSFファンたちが俗にセンス・オブ・ワンダーと呼んできたのは、こういう美質のことだと思う。これまた、現代ではSFならではの強みを打ち出すのはいよいよ難しくなってきたという現実認識に結びつきがちだろう。

 私個人としては、前世紀以来の国内外のSF小説が育んできた実験性と想像力には大きな魅力を見出してきたが、「SFであること(SFであるかどうか)」、「SFという看板を維持すること」には興味が無い。大事なのはジャンルの看板ではなく、あくまで個別作品の中にどのような深みを見出せるかだからだ。
 換言すれば、SFという看板が重要なのはむしろ、「科学的な視点をフィクションの中で重視しようとする知的姿勢」、「科学ベースの思考実験を高く評価するユニヴァーサルな知的コミュニティ」、「サイファイ的な側面を掘り下げることのできる知的な道具立てとそれを使える読者層」といった現実的動態を維持することに存する。そしてその意味で、私はSFファンであり続けたいと思っているし、漫画やアニメでもSF的なフックのある作品をできるだけ大事にしていきたい(=買っていきたい)。


 「もう一年の半分が過ぎたよ!」というのは、イージーな手段で多くの人にショックを与えるであろう話を、明確に意識していながら喜々として投稿としている訳で、要するに「いじめっこ」「いやがらせ」「他者加害の喜び」の発想そのものなんだよね……。私はそういう種類の人間にはなりたくない。


 創彩「ウルフさん」は、結局買っていない。技術的にもコンセプト的にも新機軸が見えないので、買う意義を見出しにくかった。キャラとしてはわりと好みなだけに惜しい。
 ただし、創彩シリーズの中で見れば、新奇性はあると言える。すなわち、既存の顕名キャラではなく、無名キャラを出して作中世界の自由度を広げたこと。また、野性味のあるキャラクターは初めてだったというのもある(※これまではインドア系キャラに大きく偏っていた)。武器を持てそうなキャラというのも、これまでのコラボ路線からして順当な展開だろう。とはいえやはり、いずれも内向きのアイデアであって、商品それ自体の、その単体としてのオリジナリティや訴求力を掴めていたかというと……つくづく惜しい。
 気が向いたらポロッと買っているかもしれないけどね。


 今年1月に開催された「関西キャラ模型の会」が、来年1月に次回開催する予定とのこと。せっかくだから、時間を取って参加したい。
 何かしら「他人がやっていない試み」(他のモデラーにとって参考になる可能性のある作品)を出したいところだが、ガール系で出せそうな自作は、時雨改三(スケモディテール)、STAPEL(作例稀少)、ユクモ(毛筋塗装)、MDタンク(装甲内側の塗り分け)あたりかな。Galahadやブリジットは、そういう技術的orコンセプト的な独自性が無いので、出しても意味が無い。「自然選択号」や「オプティマス・プライム」なども、作例稀少という観点で展示に出す意味はあるだろうか。
 年内の模型イベントだと、関西AFVの会(9/28、第39回)や、ガールオンリーの学生展示会(8/9)、航空機中心の「翔バナイカイ」月例コンヴェンションもある。大阪や京都まで行けばさらにいくつも挙行されているが、梅田まで鉄道でわずか40分とはいえ遠出は極力控えたいので……※(11月のおおさかホビーフェス、8月の学生模型展示会などがある)。

2025/06/06

漫画雑話(2025年6月)

2025年6月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 眞山継(まやま・けい)『シャンバラッド』第1巻(アフタヌーン)。チベットとおぼしき架空国家(※作中の中国は清代らしい)。主人公は、追放された一族の末裔であり、その一方でヒロインは、未来予見や運命予知のできる特殊な幼体固定シャーマンとして国の中枢にいる。その二人が協力して、国の運命を変えていこうとする物語のようだ。舞台設定は個性的だし、意志的なヒロインも魅力的、さらにその「占い」異能も物語の緊張感を上手く引き出している。作画はやや簡素だが、インパクトと手応えのある作品になってくれそう。期待したい。作者はこれが3度目の連載のようだ。『3×3 EYES』かよとか言わない。三つ目キャラが出てくるけど。
 宵野コタロー『滅国の宦官』第1巻(ジャンププラス、原作あり)。こちらはトルコ(オスマン帝国)風の架空世界。主人公は少年宦官として後宮に入り、3姉妹の世話をしながら廷内の殺人事件に取り組んでいく……という話のようだ。お色気要素は多少あり、全体の掘り下げはまだ感じられないが、舞台設定にオリジナリティがあり、豪奢な衣装や特殊な慣習などに大きな個性が見出せる。
 林守大『Bの星線』第1巻(ジャンプ、小B6判サイズ)。ベートーヴェンが現代日本に蘇っており、それを助けた元ピアニストの少年とともにいろいろやっていく話のようだ。ベートーヴェンのごつい体格の描写や、ピアノ演奏シーンの迫力も良いし、コマ組みもたいへん独創的かつ効果的で、コマを階段状の段々に配置したり、五線譜模様を枠線として使用したりと、非常に面白い。カメラワークも大胆。一発ネタのように見えたが、読み続ける価値がありそうだ。なお、作中に登場する不思議な鍵は、作者のデビュー作(?)の短編「GO BACK HOME」にも同じ形状の鍵が描かれている(※ただの小ネタかも?)。
 志村貴子『そういう家の子』第1巻(スピリッツ)。架空の新興宗教の「宗教2世」たちの物語。オムニバス風だが、次第にキャラクターたちの関係が形成されていくようだ。特異な文化集団で生育した若者たちが、外部世界との溝やアイデンティティ問題に触れる有様を、落ち着いた筆致で描いている。良い作品になりそう。
 のゆ『新聞記者ヴィルヘルミナ』第1巻(アルファポリス)。16世紀ドイツ風の架空世界。主人公は過去に、「疫病は魔女のせいだ」というデマのせいで母親を失っている。現在の街でふたたび同種のデマが生まれつつあるのを見て、主人公は本当の実態を調べ上げて人々の行動をとどめようと決意する。一見するとシンプルな物語だが、非常に多面的な性格を持つ作品になりそうだ。すなわち、「デマで荒らされている現代社会の寓喩」、「ジャーナリスト活動のドラマ」、「近世ドイツ社会の生き生きとした描写」、「自立して生きようとする女性の物語」、「トラウマを克服しようとする主人公の物語」、等々。作者は過去に『赤髪の女商人』という作品も連載しており、そちらも近世ドイツ風の世界で商才によって生き抜こうとする自立した女性のドラマのようだ。買い揃えて読みたい。
 竹掛竹や『吸血鬼さんはチトラレたい』第1巻(講談社)。吸血鬼ヒロインは、監視役の青年に好意を抱いているが、もう一人の吸血鬼に吸われた後の彼の血液は普段よりも甘美だった……という物語。「寝取られ」ならぬ「血取られ」という駄洒落一発ネタのような作品だが、キャラも良いし表情も色っぽく、雰囲気も良い。ネタ切れにならないかぎりは、ひとまずついていこう。ちなみに作者は本作以前に、自撮りネタのフルカラー漫画(※電子版のみ)を連載していたとのこと。
 朝際イコ『カフヱーピウパリア』(単巻、イースト・プレス)。震災直後の大正時代関東のカフェ。相貌失認の少女や、長身にコンプレックスを持つ女性、そして震災のトラウマで緘黙症になった少女など、社会性やアイデンティティに苦しみを抱いている女性たちが働いている。彼女たちはこの繭(ピウパリア)で働くうちに、次第に自分を解放する道を見つけ出していくのだが、そこには依然としてカフェオーナーの不気味な欺瞞性を初めとした男性社会の抑圧が存在し続けている。女性のエンパワーメント意識に導かれた作品として誠実であり、また物語としても繊細なニュアンスを湛えており、そして漫画構成および作画の面でも充実している。
 にことがめ『ヒト科のゆいか』第1巻(ウルトラジャンプ)。様々な亜人種的体質を持った人々を含む高校生活の物語。コメディではなく、アイデンティティの軋みを描くシリアスな物語。登場するのは雪女、吸血鬼、猫娘、河童など。作者は本作の前に、新興宗教犯罪もの(?)を連載していたようだ。
 山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(単巻、秋田書店)。オーダー眼鏡店で仕事を始めた大学生の物語。神戸市内の実在の眼鏡店をモデルにしているとのことで、背景にも三宮~ハーバーランド界隈がくりかえし描かれており、元町のKANKO RECORD花森書林も出てくる。おすすめは北野町西公園か……ちょっと遠いけど、いつか行ってみよう。
 銃爺(Gunzi)『獄門撫子此処ニ在リ』第1巻(裏サン。原作小説あり)。鬼を食べて生きる少女と、それに同行する妖しい女性の物語(舞台設定はおそらく現代)。セーラー服主人公による和風オカルトバトルは、10年代のガンガンあたりが好んで取り組んでいたが、そうそう、こういうのが良いよね。筆触感を強調して陰影の濃いタッチと、外連味のあるコマ組み演出、そして逆転勝利のカタルシスに、長期展望をきちんと見据えたミステリアスな暗示。漫画表現としてのクオリティも高い。
 松本救助『陰陽廻天Re:バース』第1巻(モーニング)。7月からアニメ放映されるコンテンツの漫画化。眼鏡好きな漫画家さんで、このチャンスをうまく活かしてくれたらと思う(※ただし今作には眼鏡キャラはほとんど登場しないだろう)。コマ組みのレイアウトも、ページめくりを意識した演出も、そしてヒロインのクラシカルな可愛らしさも、とても良く出来ている。ただし、ストーリー面では、電子的擬似平安京+バトルファンタジー+ループもの+恋愛と、様々な要素を詰め込みすぎているのが少々心配。
 窓田究コ『けものみかん』第1巻(集英社)。人間に興味を持ったタヌキが、少女に化けて山のホテルで働き始める。主人公が人間社会に向ける憧れの感情表現。これまでの社会と訣別しなければならない苦み(彼女のタヌキ家族からの迫害と、現在の野生動物社会からの離別の両方)。そして人類からは、危険な「化ケモノ」として憎悪されていることを知った悲しみと苦しさ。表紙を一見すると穏やかな異種族もののように見えるが、たいへん複雑な情念の込められた作品になっている。作者はこれまで3本(?)の読み切りを商業発表しており、これが初連載のようだ。
 幌田『俺のカスみたいな人生は全部タヌキのせい』第1巻(芳文社FUZ)。偶然にも、化けタヌキの新作が続いた。数百万の人狸が人間社会に紛れて生活している社会で、たまたまタヌキ耳が見えるようになった入試浪人生の主人公が、タヌキ少女とタヌキ社会に関わっていく話。元気と愛嬌のあるヒロインが抜群に魅力的だし、作画面でも陰影の光源表現を丁寧に付けて情緒的な襞を描き出している。表情の崩し方も良い。一見すると日常もののようでいて、主人公の父親との衝突やタヌキ社会内部の対立構造といった劇的な要素も強く滲ませており、主人公の切迫した焦燥感も漫画として鮮やかに印象づけられており、今後がかなり気になる。作者は四コマ『またぞろ。』(全3巻)を連載していたとのことで、今回は初のストーリー漫画連載になるようだ。ちなみに、多摩市漫画でもある。
 松元こみかん『玉川さん 出てました?』第1巻(ガンガン)。コンビニの新人店員が、AVで見ていたのと同一人物ではないかと悩む店長の話。エロコメなのだが、過去と現在の二重写し演出がきれいに決まっているし、コメディシーンも読める水準だし、作画面でもしっかりした身体表現に説得力がある。作者はこれが4つめの連載のようだ。
 篠宮しぐ『妹に婚約者を取られてこのたび醜悪公と~』第1巻(TOブックス。原作小説あり)。虐待をポジティヴ変換してしまう主人公ということらしいが、描写はあまり上手くいっていない。しかし、天然優秀ヒロインとして見れば十分に面白味はある。また、外見にコンプレックスがあって疑心暗鬼になっている領主との関係も微笑ましい。ただし、主人公を追いやった悪役たち(父や妹)の言動があまりにチープで説得力を欠くのがもったいない。どうやら2~3巻くらいで最後まで描ききるようなので、憶えていたら続刊も買おう。作者はこれが初連載のようだ。


●カジュアル買い。
 月ノ輪航介『ネットできらいなあいつの消し方』第2巻(完結)。表紙買いをしてみたが、モティーフは意欲的だし、問題意識も真摯だし、絵作りにも力があり、キャラクターの動かし方もなかなか大胆。他の作品も買って読みたい。
 もりとおる『旭野くんは誘われ上手』第2巻。名古屋舞台の穏やかな日常+食事もの。作者はこれが2つめの連載(※原作のないオリジナル作品として初)のようだ。気に入ったので第1巻も買って読んだが、優しくて可愛らしい男子大学生主人公がなかなか個性的だし、彼の内面造形もデリカシーがある。愛想は良いが微妙な距離感を残す友人関係や、母親を失った過去、そして同居の祖父やその周囲の人間関係などを、穏やかで丁寧な筆致で描いている。

 石黒正数『ネムルバカ』(単巻、新装版)。大学生二人の寮生活。先輩はかなり才能のあるインディー系バンドボーカルだが、無軌道な暴走をすることがある。後輩は後輩で、自分が社会とのつながりをどのように形成していくのかが見えず、人生に迷っている。そして最後は、やや破滅的だが開放的なカタルシスを……それを目指したようだが、そこに到達できたかどうかは分からない。
 例えば安倍吉俊(1971-)が『NieA_7』を刊行し、木尾士目(1974-)が『四年生』『五年生』を連載していた90年代後半から00年代初頭の雰囲気が、この作品にも残り香として漂っているように感じる(※石黒氏は1977年生まれで、本作は2006-2008年の連載とのこと)。つまり、徹底的に自由なバンカラ的アナーキーと経済的に貧しいモラトリアムを楽しみつつ、同時に社会との関わりを求めてやけっぱちに無謀な行動に走ろうとするが、結局はそれほど大きなアクションを取れるわけでもないという悲壮な小市民的熱気が、おそらくこのあたりの世代にはあったのだろう。
 20年代の現在でも、似たような方向性の作品は多数存在する。しかし現代のセンスだと、キャラクターたちはもっと穏やかで、過激な暴走には向かわず、そして小さな人間関係の機微をもっと掘り下げることに集中して、大文字の「社会」との対決はひっそりと回避するだろう。2006年と2025年、つまり19年の時間的懸隔を意識しつつ、しんみりしてしまった。


●続刊等。
 空空北野田『深層のラプタ』第4巻(完結)。終盤はどんでん返し展開を連発しつつ、また外連味のあるレイアウトも効果的に用いつつ、この苦くも不気味な物語を締め括った。ショタ漫画でもあり、また神戸漫画(三宮など)でもあり、いろいろと満足。
 雁木万里『妹は知っている』第2巻。オフライン生活では寡黙な兄は、ラジオリスナーとしては抜群の面白投稿を連発している。そしてアイドルの妹(だけ)は、兄のそうしたユニークな価値を知っているというギャップ状況。全体としては穏やかな進行だが、ユーモラスな回もあれば、苦みのある回もあり、作中で描かれている投稿ネタもなかなか面白い(※プロのエンターテイナーが「大喜利協力」としてクレジットされている)。
 増田英二『今朝も揺られてます』第2巻。JR神戸線とおぼしき路線に毎日乗り合わせる中学生二人の初々しい恋愛未満状況と、それを秘かに見守る乗客たちの暑苦しいリアクション。ラブコメに観察者を取り入れたのは面白いし、内気で奥手なヒロインが抜群に可愛らしい。「朝露駅」は、明石市内の「朝霧駅」と思われる。また、「瀬尾見」を検索したら、作者の過去作『さくらDISCORD』の舞台(地理的には網干に相当)だったらしい。
 牛乳麦ご飯『ボーイッシュ彼女が可愛すぎる』第2巻。おしゃれのために眼鏡を掛けるエピソードがある。前半では、キャラの動かし方や見せ方に慣れてきた様子。それに対して後半では当たりの関係が進展していく。
 きただりょうま『魁の花巫女』第4巻。刊行ペースが速くて(やたら筆が速くて)驚くのだが、しかし内容面では何をしたいのか分からない。和風ファンタジーなのか、ハーレムなのか、お色気なのか、何なのか……それぞれを中途半端に混ぜたまま漫然と進めているせいで、昔の美少女ゲームの共通パートを延々読んでいるような気分になる。この巻でも、敵キャラとのバトルがお色気込みで中途半端に終わってしまう。
 たなかのか『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』第4巻(完結)。最後はマッチ売りの少女と対決して完結。無難な終わり方だが、ひとまず満足。
 瀬尾知汐『罪と罰のスピカ』第3巻。連続殺人タクシー運転手の長い人生を描きつつ、その暗部を抉り出してとどめを差した。殺人者だけを標的にする快楽殺人者主人公という不気味な設定だが、捻りが利いていてユニーク。
 閃凡人『聖なる乙女と秘めごとを』第5巻。とても上手い。ストーリーそのものは、異世界セクシャル練習ものなのだが、コマ組みとレイアウトによる演出の表現力が高く、それだけで充実した読み応えがある。キャラについても、「おお、こういう表情を描くのか」という驚きに満ちているし、感情造形やそれを体現する台詞回しにもオリジナリティと真情の手応えがある(つまり、単なる機械的なエロコメの域を脱している)。また、舌の描き方のディテールなどもユニークで、フェティッシュな迫真性が感じられる。また、長方形で表現されるエロ棒が枠線と一体化していたり、あるいはそれを描く代わりに枠線をヒロインが両手で握りしめていたりするという個性的な演出もある。
 ヨシアキ『雷雷雷』第5巻。作画面ではたいへん派手で激しい怪獣バトルを存分に描きつつ、ストーリー面では主人公の身体の謎に肉薄していく。まさに予想を裏切り期待を裏切らない、スピーディーでユニークな展開になっている。根っこのところではウルトラマンのような設定に見えるけど。
 文川あや『その蒼を青とよばない』第3巻(完結)。 色弱の主人公が、大学の写真部活動の中で自らのアイデンティティを再確認する物語は、学園祭の展示会でひとまず決着を付けて完結した。難しい題材で、ストーリーを追うのが精一杯の様子だったが(実際、漫画的構成としてはさほど見るべきものは無い)、なんとか上手く収めてくれた。
 mmk『となりの席のヤツがそういう目で見てくる』第3巻。エロ展開になりそうでならないが、ヒロインの表情も主人公の照れ顔も色っぽい。ストーリー面も、コメディ基調のようでありながら、二人だけの関係でしっとりと落ち着いており、わりと真面目でデリカシーのある心情のドラマになっている。
 Peppe『ENDO』第5巻(完結)。第二次大戦中の在日イタリア人たちの、半ばドキュメンタリー的な物語。最後は終戦以降の状況を描き、彼等の来し方をもう一度大きく回顧しつつ、一種の日本人論としての側面も示して(※endo≒internal=内的宇宙、内面世界とのこと)、静かに完結した。
 木々津克久『フランケン・ふらんFrantic』第11巻。手術シーンを初めとしたグロテスクな描写と、切れ味の良い社会諷刺の取り合わせが刺激的。出色なのは、乳児を世話できる「赤ちゃんカフェ」が資本主義に取り込まれていく回。それから、冴えない少女が美人に成り代わろうとする回も秀逸。
 末太シノ『女北斎大罪記』第2巻。遊郭シーンで主人公の問題を大きく掘り下げているが、その一方でライヴドローイング企画など、少年漫画じみた熱血要素も顕在化してきた。コマ組みなどは生硬だが、絵には迫力があるので、読み続けよう。
 里好『かくして! マキナさん!!』第5巻。首が取れたロボットが、無線接続のために棹に引っかけられて晒し首になるところは面白かったが、まあそのくらい。
 白梅ナズナ『悪役令嬢の中の人』第6巻(完結)。すさまじい切れ味の表現力で最後まで描ききった。大ゴマで見せるべきところも堂々と見せているし、カメラワークやコマつなぎといった小技の演出も効果的に造形されている。畏怖の表情も真に迫っているし、その一方でおバカな表情のカットもぎりぎりのバランスで投入している。敵役「ピナ」の振舞いも名優と言ってよい。
 倉薗紀彦『ムーンリバーを渡って』第3巻(完結)。月面コロニーで規律正しく暮らす少女たち、しかしてその実態は地球の富裕層のためのドナー養殖場だったというもの。SFとしてはオーソドックスかつ現代的なアイデアで興味深いのだが、漫画表現としては生硬で、マクロレベルの組織的不正の問題と、ミクロレベルの脱出ドラマの描写が上手く連動していなかったのは残念。
 山田はまち『泥の国』第2巻。この巻では、魂の異世界転生によって暴虐王姫の身体を乗っ取ってしまった現代人女性の側にもクローズアップして、単なる無責任な存在では終わらない複雑な苦みを与えている。その一方で身体を奪われて「泥の国」に再生した王姫(主人公)も、その強靱な意志と行動力で現世への復帰を目指すが、そちらはそちらで悲劇的な状況に向き合う。激しい意志を持ちつつ人生に苦闘する女性キャラクターたちの姿を、作者は鮮やかに描いている。
 山口貴由『劇光仮面』第7巻。特撮スーツのリアルな再現を目指したサークルの人々が、本物の怪人たちと遭遇していろいろな(隠密裡の)解決を図りつつ、ヒーローのアイデンティティを問直すという展開が続いていくのかな。

2025/06/01

アニメ雑話(2025年6月)

 2025年6月の新作アニメ感想:『アポカリプスホテル』、『ある魔女が死ぬまで』、『鬼人幻燈抄』(1期)、『九龍ジェネリックロマンス』、『小市民シリーズ』(2期)、『LAZARUS』。


●総評。羊宮妃那ヴォイスを堪能した3ヵ月だった。

 『アポカリプスホテル』は、自由でユーモラスな発想と、SF的なディテールの取り合わせがたいへん楽しかった。人類文明をただの痕跡として残して、異星人+ロボットたちの不思議な生活空間を「ホテル」という場で表現しきったコンセプトも秀逸だし、竹本泉デザインの牧歌的な絵柄と瑞々しい廃墟風景の取り合わせも印象的。
 ただし、基本的にはエンタメ作品であって、思考実験の深さを売りにするスタイルではなかった。主演の白砂沙帆氏も、ロボットキャラの絶妙なクールさと天然ぶりを上手く掬い取って演じていた。75点(※好みによっては85点まで付けてもよいだろう)。

 『ある魔女が死ぬまで』は、全体に中の上~上の下レベルのエピソードを堅実につないでいった。とりわけ第5話や第11話といったクライマックスの回では、主演青山吉能氏の力演もあって華やかで幸せに満ちたカタルシスを形作っている。それ以外もキャスト陣は非常に贅沢な顔触れだし、美談エピソードも主人公の口の悪さと正直さのおかげで偽善的な嫌味に陥らずに済んだ。このアニメ版では、死のカウントダウン問題については希望のある形で先送りにしたが、これはこれで良い判断だったと思う。75点。

 『鬼人幻燈抄』(1期)は、江戸後期の風景と文物がたいへん美しい。キャラクターたちの衣装や時代がかった所作も丁寧に描写されている。ただし、ストーリーの本筋については、「ラスボスが最後にしか出てこず消化不良(※2期以降に委ねたのだろう)」、「鬼を討伐するのもあまり前景化されない」、「バトルシーンのアニメーションがぎこちない」といった歯切れの悪さもあった。しかし、戦闘描写を捨てて静かな雰囲気を重視したのは一つの見識だと言えるし、「幸福の庭」(第5-6話)のようにミステリアスで情趣のあるエピソードもあり、時代ものと幻想性を取り合わせたユニークな個性がある。キャスティングについては今一つなところもあったが(鈴音や奈津など)、瑕疵とするほどではない。75点。

 『九龍ジェネリックロマンス』は、これまた虚実定かならぬ幻想的な状況をじわじわと描いていった。作画は程々の出来だが、背景美術として描かれる九龍城塞の存在感は絶大だし、長大なCパートによる引きの演出も効果的だった。脚本構成があえて見通しや節目を作らずに腰を据えて人間関係を小出しにしていったのも、本作の方向性に鑑みて正解だろう(※ただし、そこに不満を持つ視聴者もいただろう)。劇伴も、くっきりした中華趣味の一方で、浮遊感のある空虚さをも滲ませて趣深い。
 九龍~虚像の街~ノスタルジー~クローン~チャイナ服~ロマンス(同性愛を含む)といった要素を詰め込みつつ全体としてまとまりのある作品像を作り上げたのは、多分に原作のおかげだが、アニメ版もその趣向を堅実に反映させていた。75点。

 『小市民シリーズ』(2期)は、ミステリというよりはサスペンスと言うべきストーリーだが、神戸守監督の下でしっとりと強く印象に残る画面作りをしてくれた。山々を臨む青空風景、郊外の畑の広がる冬の景色、そして暗い校舎内の陰影、遊具に遮られた公園内でのやりとり、そして病院屋上から見える岐阜市内の夜景、等々。声優陣では、羊宮氏と古川慎氏が出色の出来。75点。

 『LAZARUS』は、期待外れ。たしかにアクションシーンは見事なアニメーションだし、イスタンブールから南洋の島々までの風景は温度や湿度まで感じさせるほどのクオリティだが、ストーリー面のバランスの悪さ、状況設定の作為性、台詞回しの陳腐さ、そして「米国文明/貧しい他国」というオリエンタリズムの色濃い気配が最後まで解消されなかった。作画評価のみで65点。

 全5話構成の『未ル』も、近未来テクノロジーSFとして期待していたのだが、各回が散漫に並べられるだけで終わってしまった。もったいない。

 ちなみに、前の2024年度冬クールだと『全修』80点、『ソロ討伐』60点、『通販』70点。
 秋クールは『アングラー』(85点)の一本だけだった。
 夏クールは『義妹』75点、『小市民』(1期)が75点、『負け』が85点。
 2024年春は、『第七王子』(60点)の一作だけ。
 基本的に、作品チョイスは「キャスト重視+オリジナル作品優先」で、作品評価は「コンセプト設計+視聴覚演出+独自性」を重視している。



●『アポカリプスホテル』

 第9話は結婚&葬儀披露宴を、OP短縮で描ききった。祖母が逝去するまでの長い時間が経過してきたことの示唆。そして彼等の一族がこのホテル(あるいは地球)に定住してきたことの重み。そして、結婚と葬儀を同時挙行するという、現代日本ではあり得ない新たな文化を彼等が創り出そうとしていること。物語の全体進行は穏やかだが、これまでの8回の描写の蓄積の上にある複雑な一回になっている。

 第10話。ホテル内殺人(?)事件。えっ……こんなのあり?と言いたくなる展開のネタ回。SFシチュエーション下でのミステリ(?)ならではの尖った描写が楽しい。つまり、人間的な倫理観を持たないアンドロイドと、独自の価値観を持つ異星人、そして子供を介した情報伝達錯誤、等々。
 白いドアを斧で叩き破るシーンは、『シャイニング』の"Here's Johnny!"にならないかとヒヤヒヤした。カーテン越しのバスタブシーンも、『サイコ』のように感じる。どちらもホテル(宿泊所)を舞台にした古典サスペンス映画なので平仄が合っている。ちなみに、偶然ながら小道具としてのキャンディは、『九龍』とネタ被りしている。
 キャストに関しては、陶芸家青年になった弟キャラは、ひきつづき田村睦心氏が演じている。成人男性キャラも演じられる田村氏はさすが。作中映画の犯人女性役は山村響氏。
 犯人または死因について。ポン子の弟が陶芸釉薬としてホウ酸か何かを常用していて、それが姪のタマ子の手にも付着したままで、そしてタマ子がアリ型異星人にじゃれついたせいで彼等が死んでしまった……という解釈が正しいだろう。劇中劇で、手をよく洗えと執拗に強調していたのも、逆説的に、手を洗わないことが問題になると示唆している。無邪気な行動がもたらす悲劇、科学的なミステリ、そして種族間接触の際に生じる危険性……王道のSFだろう。一見するとパロディまみれのネタ回だが、このようなしたたかな描写を織り込んできているのは、さすがの巧さ。

 第11話は、休暇を貰ったヤチヨが稼動延長のためのパーツ探しをする。長大な台詞無し進行の柔らかな緊張感に、ロードムービーめいた放浪の旅の情緒、そしてポストアポカリプスものの本領を発揮した廃墟趣味の横溢。オリジナルSFアニメならではの興趣を存分に味わえた。
 途中の回想カットに台詞があり、また吐息レベルの台詞もあるのだが、4:25からエクストラミッション達成音声(21:00)までの16分30秒以上、あるいは21:40までの17分15秒もの時間が、音声台詞ゼロ進行になっている。もちろん、昔の無声映画を初めとして、無音/無声の映像作品は多数存在するのだが、現代日本のクール制アニメとしては異例の演出と言ってよいだろう。
 台詞ゼロというわけではないが、廃墟趣味+モノクロ静止画ベースのSF映画『ラ・ジュテ』(1962)も思い出した。あるいは、この回を楽しめた人ならばタルコフスキー映画もいけるかもしれない。
 標準的な編成であれば、次回が最終回になる。このホテルの今後――つまりロボットたちの長期存続の問題や地球環境の状況など――を示唆するという意味でも、今回の描写には大きな意味がある。

 第12話。最後までユーモラスSFのスタンスを堅持した。長期間の地球外生存による人類の体質変化という苦み。地球環境が改善されるきっかけが最初の客からもたらされていたという偶然の味わい(※その客を受け入れていなかったら、地球のありようは別物になっていただろう)。主人公のアイデンティティ更新と、ポン子との友情。そして最後のとんでもない地球の姿。イマジネーションと遊び心に満ちた遠未来SFとしてきれいにまとまっている。ただし、社会的なコミットメントがほぼ皆無で、純然たる空想の世界のままに終始したという2020年代日本エンタメらしい無害さには、いささか物足りなさを覚えないではない。文明論的な批評性が、最後の「広告まみれの地球」という商業主義の前景化で終わってしまったのは、やはりもったいない。
 映像表現としては、ジャンプカットのような背景転換が面白い。顔芸遊戯は、今回も下品にならない範囲で使われていた。
 今回登場したキャラは、なんと、小松未可子氏。私の耳では判別できなかったが、誠実な芝居で最終回を説得力ある形で引き締めてくれた。



●『ある魔女が死ぬまで』

 第10話は舞台を変えて南欧風の港町に滞在しつつ、主人公の生育背景を明かしていく。脚本はやや説明的だし、中割アニメーションも微妙に不安定になっているが、それでも生き生きとした所作を表現していて見応えがある(※作画に関しては、「大きな鍔の三角帽子を被ったまま振り向きなどのアニメーションをさせるのは難しい」という側面もあるので、あまり咎めるべきではない)。
 ただし、なんとなく前世紀の名作劇場アニメのようなクラシカルな絵作りに感じた。ストーリーのせいなのか、舞台設定のせいなのか、それともただの錯覚なのかは分からないが。
 最初のうちは「ジャック・ルソー」かと思ったが、「ルッソ」なのね。……えっ、老院長は飛田展男氏だったのか。主演の青山氏は、ここに来てちょっと悪慣れしてきたのか、パワーが弱まってイージーな芝居になってきたように聞こえる。「物凄い声」のはずが音量も迫力もない発声だったりして、明らかに演出に合っていない。

 第11話は、王道のクライマックスで物語全体の道筋をきれいにまとめ上げた。ストーリーそのものはベタだが、鐘を鳴らすまでのシークエンスはBGMも消して緊張感を高め、そしてテティス役は主題歌を歌っていた坂本真綾氏という演出も上手い。晴れやかな鐘が響き続けるところも、成功間違いなしの抜群の盛り上げ具合。主演の青山氏も、今回は堂々たる芝居を披露している。あえて難を言えば、後半のカタストロフ危機が大きすぎて、前半の難病少年治療のシーンが霞みかけているのはもったいない。
 今回が最終回でもよいくらいの内容だったが、次回はあの黒衣の魔女とのエピソードがあるようだ。
 ちなみに、集めてきた涙のパワーをここで使うのかと思ったが、さすがにそこまでの無茶はしなかった。少なくともアニメ版12話だけで構成するなら、集めた涙のパワーが発揮されるのをどこかで見せておくのも良かったかと思う。

 第12話は、姉弟子を再登場させつつ、主人公のルーツを探る旅に出るという形で締め括った。冒頭のカタストロフ描写が重苦しすぎて、それを完全に解消したとは言いがたいが、「希望」のキーワードを再確認させたうえで完結させたので、筋は通っている。でも、11話までで終わりにしておいても良かったんじゃないかな……。
 母親役は佐藤利奈氏。最後まで贅沢なキャスティング。これまでも大原さやか氏や中原麻衣氏、 そして坂本真綾氏と、スポット登場のサブキャラが物凄い顔触れだった。



●『鬼人幻燈抄』

 第10話は安政2年(1855年)の「雨夜鷹」のエピソード。劇中劇にしつつ現代編のキャラたちを登場させているのは面白いし、描きたかったであろう筋書きと意味づけは察せられるのだが、おそらく圧縮しすぎで隔靴掻痒のもどかしさが残る。
 蕎麦を啜るアニメーションや、そばつゆの水面に映る像、暖簾をかき分けて出入りする所作、そして今回も下駄音の心地良さなど、映像としては繊細なで良いところも多いのだが……。剣戟シーンも、今回はちょっと頑張っていた。
 講談師の役は、一龍斎貞友氏。つまり、正真正銘、本物の講談師兼声優。
 コンビニの店員が妙に存在感を発揮していたり、その直後のカットでは手繋ぎ百合カップルが歩いていたりもする。原作小説には掘り下げた描写があるのだろうか?


 第11話は安政3年の冬。小林一三氏のコンテは奥行き表現や仰角カメラを駆使してたいへん印象的に構築されており、画面全体に緊張感がある。無言のうちに奇酒の不気味さを感じさせるのも上手い。音響面でも、じっとりと沈んだ劇伴や繊細な効果音など、冬のしんとした情緒が作り出されている。
 奈津が激怒したシーンは、リアリスティックな雰囲気とアニメらしい誇張的表現の間で絶妙にバランスを取りつつ、なおかつ、アニメではめったに見られないような強烈な表情を描いていて感心した。
 その一方で、モブ鬼を撃破するシーンはひたすら描写を回避している(冒頭も、酒屋のシーンでも)。作品の落ち着いた雰囲気を維持し、主人公による鬼の虐殺をあまり強調しないためと思われるが、同時に作画リソースの節約にも見える(※これまでの回でも、バトルシーンの作画は上手くなかった)。

 第12話は中編。人を鬼に変える魔酒とともに、ようやくラスボスが姿を現しつつある。映像面では、鬼とのバトルシーンが増量されているが、剣戟描写がアニメーションとしてはあまり上手くないので、州バンクのエピソードとしてはちょっと肩透かしに感じる。
 上田氏は下手だなあ……。せっかくのラスボス登場なのに、まるで迫力も妖気も足りていない。

 第13話はひとまずの最終回。最後の悲劇と、苦みのある浄化、そして無言の別離で締め括られた。バトル描写(アクション表現)は結局、今一つのままだったが、今回は騒ぎ立てない静かな演出が奏功して戦いの余韻を上手く残してくれた。夜の青みと炎の赤さの対比も印象的に構成されている。絵コンテは小川優樹氏。劇伴(BGM)も総じて控えめで、映像の美しさと密やかな情緒に集中させている。
 声優陣も、今回は主演の八代拓氏が特別に重々しい(低声の)芝居で、軋むように言葉を紡いでいる。奈津役の会沢氏も、これまではいささか物足りない出来だったが、今回はさすがに力の籠もった演技で最後の登場シーンを彩った。

 今後のスケジュール。2回の特別番組(総集編?)を挟んでから、第14回(明治編?)に入っていくとのこと。2クール連続で疲れが出てくる可能性もあるし、舞台設定が変わる(明治~大正)のも負担になると思われるが、この第1期の出来具合ならば上手くコントロールしていってくれるだろう。



●『九龍ジェネリックロマンス』

 第9話。いよいよ終盤に向けて黒幕キャラたちが動き出した。その都度場面状況と劇伴(BGM)の雰囲気がズレているところがあるのも、おそらく意図的なものだろう。情緒の定まらない浮遊感や、幻想上の城塞の非現実感などを示唆するものだろうか。
 これまで日常の食事シーンが度々描かれてきたのも、ここに来て大きな意味合いを持つようになってきた。とりたてて大袈裟な演出もなしに淡々と撮られていた食事のシーン群が、視聴者たちの目と心に静かになんとなく蓄積されていたものが、そうした体験の積み重ねがここで映像上の実感の手応えとして効いてきている。
 それにしても、「眼鏡とチャイナドレスが相性は悪い」というのをずっと残念に思っていたが、本作はその暗礁を見事に乗り越えてくれた。ありがたい。『サクラ大戦』の李紅蘭も眼鏡チャイナだったけど、それ以降もヒロイン級としてはなかなか描かれなかった。
 脚本構成がかなりしっかりしているように感じる。おそらく原作漫画のストーリー展望を踏まえて、アニメ12話のフォーマットに沿うように丹念に組み替えをしているものと思われる。

 第10話は、本館的に幻影九龍の謎に取り組もうとするが、友人の楊明はどうにも頼りないし、主人公は思いつきで九龍のお札を剥がして集めるばかり。とはいえ、巨大スラム構造物の美術的な魅力は増している。幻の九龍城塞は、いわばマヨヒガ伝承のようなものだと思うが、それを日本国内ではなく香港に設定し、しかも最先端テクノロジーの意匠で装わせ、さらにラブロマンスにも結びつけるというのは、実に上手いところを突いている。
 元・男の娘の小黒(シャオヘイ)君は、今回やけに可愛らしく描かれている。
 今回は、新規のED曲。たしかに九龍がもはや後戻りできない形で虚像化したという決定的な違いはあるが、しかしED曲を変えるほどの断絶があったとは言いがたいので、このED曲切り替えはちょっと不思議な処理。

 第11話は、幻影九龍を作り出している原因がかなり明確に特定され、そして楊明と小黒はそれぞれ過去を振り切るとともに九龍が見えなくなる。作品コンセプトの切れ味と、それを堅実に表現する演出の成果というべき映像で、大いに引き込まれる。
 それにしても、最初から再視聴していると、第1話に下品なエロショットが出てくる場違いな唐突さとまるでアダルトアニメのような肉感的作画の異様さに、どうしても吹き出してしまう。あれはいったい何だったんだ……。いや、常夏の雰囲気を示すのに役立ってはいるけれど。

 第12話。キャラクターたちの悔恨に、一つずつ決着が付けられていく。今回は作画がやや平板だったが、会話劇の密度は高く、カタストロフを予感させる物語に引き込まれる。なお、エンディングは当初の「恋のレトロニム」に戻った。
 みゆきの母親は誰が演じているかと思ったら、「スーハン:金元寿子」か!

 第13話は、幻想世界の崩壊と消滅のカタルシスを通じて、ハッピーエンドで締め括られた。テクニカルなどんでん返しをしたわけではなく、最後までラブロマンスとしての情緒を維持したのも一つの見識だろう。
 蛇沼みゆき役の置鮎龍太郎氏の怪演も、グエン役の坂泰斗氏の引き締まった芝居も、そして工藤役の杉田氏も最後まで芯の詰まった演技を聴かせてくれた。金魚のサクセスが喋ったのもびっくりしたが、あー、実写版の俳優が声を当てたのか。



●『小市民シリーズ』
 
 第19話(2期の中では9話目)。 中学生時代の二人が出会って自動車事故の謎を解明していく話と、それと似たような現在の事故問題との二重進行。ただし後者の状況はまだ見えてこない。岐阜県の堤防沿いの風景がたいへん情緒的だし、この過去エピソードでは青空もしばしば描かれる(※現在の病室風景との対比でもあろうが、ストーリー的な待避になるかどうかはまだ分からない)。
 男性の医師やリハビリ系療法士、清掃員には名前が出ているのに、看護師だけは無名(クレジットも「看護師」)というのはちょっと引っかかる。たぶん謎に深く関わってくるのだろうけど……。小説媒体であれば顕名/匿名の違いは気づかれにくいし、登場人物の存在感もコントロールしやすいのだが、それに対してアニメだとキャラクターの存在が映像上ではっきり映されてしまううえ、クレジットでも名前(の有無)がリストとして不可避的に明記されてしまうので、こういうトリックを仕込むには不向きだと言える(※ただし、その一方で、小説では明確に言葉で描写するかどうかの問題になってしまうところも、映像媒体であれば暗黙裡にモブのように映り込ませておくという手法が使えたりもする)。
 絵コンテは高田昌豊氏。『宇宙よりも遠い場所』で神戸氏との共同作業経験があるようだ。

 第20話。レストランの店内環境ノイズも丁寧に付けられていて、落ち着いた雰囲気で視聴できる。ただし、動きが乏しく、謎そのものはあまり展開されていない。

 第21話。絵コンテは武内宣之氏。映像はリアリズムを極めており、ガラス面への映り込みまで描き込んでいる。光源表現(陰影)もたいへん細やかで、その場面ごとの雰囲気を良く表現しているし、さらにクライマックスでの強烈な演出にも光源演出が活用されている。そして、眼鏡レンズの反射も……ついでに眼鏡キャラがたくさん出てきて、最後は犯人まで眼鏡変装をしてくるという贅沢さ(※高校時代のシーンが本人だったならば、本物の度入り眼鏡だったのかも)。軋むような不協和音の劇伴も、切々と緊張感を高めている。ただし、トリックは相変わらずチープ。バンほどの大きな車をあの川の中に隠すのは無理でしょ……。
 小佐内さん、今更しおらしくしてもその加虐的本性はもう誤魔化せないよ……。平然と盗聴発言をしているあたり、倫理観の欠如を誤魔化すつもりも無さそうだけど。
 今回のサブタイトル「黄金だと思っていた時代の終わり」は、美しくももの悲しい。中学生の小さな世界で意気揚々と活動していた小鳩君が、おそらく初めてオトナの汚らしさに触れたこと、そして今回(高校生の現在でも)ふたたび大人の悪意に晒されることを示唆したものだろう。……もっと邪悪な存在が身近にいるのなね。

 今回は羊宮氏が濃密な情緒的芝居を注ぎ込んでいた。『ある魔女』第11話とともに、泣きの芝居でも鮮烈な印象を残した一週間になった。この異様なまでの切れ味はまさに宮妃那。
 『通販』の王女役では快活かつ思慮深いキャラクターにズシリと重たい存在感を与えたし、『ある魔女』では茫洋としていながら痛切な感情を吐露するシーンも凄まじいインパクトで演じていたし、そしてこの主演作品ではウィスパーヴォイスを最大限活かした小柄ミステリアスキャラで、シャイなところから、スイーツに目を輝かせセルシーンから、悲しげなムードから、本心を隠すデリケートな芝居から、邪悪さを噴出させる恐怖の語り口まで、全てを見事に演じきっている。

 第22話(たぶん完結)。前半はベタに犯人から追いかけられるシークエンスだが、ロングショットの屋上夜景が抜群に美しい。小鳩君が寒がりすぎなのは、真冬にもかかわらず普通の入院着のままだったせいか。続く屋内での会話シーンも戸外の風を薄く響かせて、夜の病院に特有の情緒を表現している。絵コンテは神戸守監督自身が担当している。
 羊宮氏は静かなウィスパーヴォイスだけでなく、引き込まれるようなミステリアスな芝居も、悲壮な感情の噴出も、そしてユーモアを含んだ台詞も、どれも抜群の濃密さで演じているのが素晴らしい。ノンシャランにからかうようなユーモラスな雰囲気を滲ませる匙加減も、実に上手い。看護師(日坂英子)役の青山玲菜氏も、破滅的な激情の芝居が印象に残る。
 脚本(原作)は最後までチープ。昔のTVのサスペンスドラマでも、ここまで安易なのは少ないんじゃないかと思ってしまうくらい。とりわけ、御都合主義的な偶然が多すぎる。例えば、看護師犯人が主人公を自動車でひいたら、たまたま犯人が勤める病院に入院して、しかも犯人が彼の専属担当になるというのはさすがに説得力が無い。また、最初のひき逃げ犯がたまたま、一本道の先にあるコンビニで勤務していて監視カメラの録画映像を改竄できたというのもひどい(※コンビニへの通勤途中だった可能性を差し引いても、依然として作為的に過ぎる)。さらに、読者を惑わせるためのミスリードネタの仕込み方も不誠実だと感じる。キャラクター造形も、エピソードごとにブレている(特に小鳩君は、デリケートだったり無神経だったりする)。

ちなみに、第1話(つまり第1期の序盤=高校入学当初)を見返してみると、小佐内の態度がものすごく気弱で口下手なのが微苦笑を誘う。あれから3年掛けて、ふてぶてしく本性を出すようになったのか、成長とともに人間的にタフになったのか、それとも石和たちを排除して気分が落ち着けるようになったのか……



●『LAZARUS』

 第9話は査問委員会の茶番と、腕試し戦闘の茶番。戦闘描写はサーカスのように派手だが、殺人行為や死体の描写がリアリスティックでかなりグロい。そして本筋のタイムリミット問題はほとんど前進いない(※スキナー発見まで「あと一歩」というほど迫っているとは思えないので、ただのブラフだろう)。
 舞台設定の面では、今回はニューヨーク周辺をフィーチャーしている。

 結局のところ、リアリティの水準が揃っていないのが問題であるように思える。絵柄そのものや、写実的な運動アニメーションは、かなり現実寄りのスタンスで受容されることを期待しているように見える(そう見えてしまう)。しかしその一方で、台詞回しはチープで粗が多く、荒唐無稽なヒロイックアクション映像を志向しているように見える。だから、映像表現を額面通りに受け取ろうとすると状況の安っぽさが気になるし、かといってお気楽なアクション映像として楽しもうとすると、遊びの余地の小さな映像表現の生真面目さが足枷になってしまう。さらに言えば、「そういう慣例的なリアリティコンロトールを解体して、あえてそこにギャップを生みつつ、新しい感受性を打ち出す」というアプローチも理屈の上ではあり得るのだが、本作の場合は、そういった挑戦的姿勢には見えない。「香港出身のスーパーハッカー」や「ロシア出身の元・特殊工作員」といった陳腐なステレオタイプや、世界各地の観光巡りめいた風景が、映像全体をひたすらベタなものとして押し固めていってしまう。……つまり、コンセプトレベルでの失敗に思える。
 これと同様に上記『小市民』も、突出した映像美と、それに対してあまりにも卑近な物語のギャップが、どうにも居心地が悪い。独善的で冷血で反社会的なキャラクターたちの言動が、映像を通じて美化されてしまっているという不気味さでもある。

 第10話は、リーランドの実家を訪れて姉弟喧嘩を目撃する。次回はパキスタンに向かうようだ。そして、ここに来て主人公君の身体が抗体を持っているかもしれないという話に……。
 相変わらず、表面上はグローバル志向のようでいながら実際にはおそろしく視野の狭い描写になっている。冒頭のTVニュースも米国ばかりのようだし、その一方で、他国に訪れるときはスラムや新興宗教コロニーやリゾート地といったエキゾティシズムに満ちた無責任な見せ方ばかりになっている。しかも、映像美の観点でも、中途半端と言わざるを得ない。
 なお、庭師がスキナー本人のように見えるが、この描写だけで意味が分からない。

 第11話は、引き延ばしが激しい。前話のリピートに続いて、中華系暗殺者とのバトルが長尺で展開され、しかもその暗殺者の過去トラウマ映像もまた不必要に長い(※ただしそのシーンで、映像の各パーツがグズグズに浮遊するところはちょっと面白かった。3D素材のユニークな使い方だ)。そもそも、アクセルを暗殺しようとするのも、本筋からズレて――というか遅きに失して――いるので、なんとも据わりが悪い。
 それにしても、手榴弾を蹴り返すのは笑ってしまう。今時そんなネタをやるのか……。人類滅亡まで残り一週間を切っている筈なのに、モノレールや長距離トラックがいまだに平然と運行しているという呑気さも、切迫感もリアリティも無くてたいへん居心地が悪い。最初に提示した設定に対して、作り手側がずっと雑な姿勢のままであり続けてきた。

 第12話。結局のところ、「陳腐」の一言に尽きる。台詞回しはどこかで聞いたような凡庸なものばかりだし、ストーリー進行としても各キャラクターの動きが連動しているとは言いがたいし、今回は映像的にも見るべきものが無い。格好を付けるのが第一目的のような作品なのに、台詞が通俗的でセンスの低さを露呈させているのは実につらくて、悲しい気分になる。
 『九龍』ともども、全13話の中の第12話が最後の助走の勢いづけに失敗したのはもったいない。

 第13話は、暗殺者のバックグラウンドや米国の生物兵器開発、そして過去の襲撃事件を素描して終わった。しかしいずれも乱雑で、有意味な連携が為されていない。5人の遺伝子変異云々も説得力を欠くし、バトルシーンの決着も肩透かし。結局のところ、「米国の都市文明、メディア、株式市場」と、「各国の貧しい暮らしのエキゾティシズム」という醜悪な対比が温存されたまま、ただ表面的に美しい画面を作ったにすぎない。
 そう言えば、主人公の体質問題に何かあるのかと思いきや、ラザロチーム全員が抵抗力を持っているという、よく分からないオチになっていた。いったい何をしたかったんだ……。

2025/05/13

2025年5月の雑記

 2025年5月の雑記。
 
今月の一枚は「ユクモ」3形態。手間を掛けた割に、写真上での見栄えはたいして変わっていないが、実物ではもう少しふっくらした毛並み感が実現できている。