2025/09/02

2025年9月の雑記

 2025年9月の雑記。

 09/02(Tue)

 90年代末の、いわゆる「ぷに」系は、00年代以降はほとんど広がらず、マニア的な熱量もあまり出ないままに急激に縮小していったというイメージだけど、実態はどんな感じだったのだろうか。
 私なりの歴史理解。萌え四コマジャンルはそれを部分的に継承しつつ、しかし男性向けエロのえぐい雰囲気はきれいに脱臭していた。そして00年代後半以降(?)の男性オタク界隈は豊満路線に圧倒されていき、それに対抗するのもコミックLOのような古典的な小柄華奢路線がおそらく主流だった。さらに、お色気をから切り離されたSDキャラも伸張して、「ぷに系」に取って代わった。……だいたいこんな経緯だったと思う。
 そうした中でBLADE氏は、商業メジャークリエイターとしてはほとんど「孤塁を守る」くらいの珍しい存在であり続けてきた。氏が手掛けてきたDESKTOP ARMYは、私の目には、「10年代にもなって、まだこの『ぷに系』の美意識で突き通すつもりなのか、すごいなあ」という印象だったし、メガミデバイス「PUNI☆MOFU」シリーズも、「90年代末のスタイルが、まるで隔世遺伝か何かのように今になって蘇ってきたようだ」という捉え方をしている。
 2020年代現在のゲーム/アニメ界隈でも、「低頭身でやたら肉付きがよい」というぷに系キャラは、ちょっとすぐには思い浮かばない。いや、おそらく存在はしているだろうけど、メジャーなキャラ属性としてはほとんど認知されていないレベルだろう。「むちむちしていない小柄デフォルメキャラ」の美意識によって上書きされたかのようだ。個人的には、何の思い入れもないのだけど、考えてみると不思議な現象かもしれない。ことぶきつかさと同じで、アクが強すぎて飽きられたのか、それとも、ロリ忌避の(それ自体はまあ、まっとうな)風潮の中で敬遠されていったのかもしれない。

 もう少し言うと、露骨なお色気要素を二次元キャラに導入した「ぷに系」は、00年代から現在に至るパラダイム転換の呼び水になっていたのかもしれない。90年代までは「萌え≠エロ」、つまり、可憐な存在への物語的-精神的な愛しさが「萌え」であって、視覚的-肉体的なお色気要素は無関係で、それどころか相反する性質ですらあった。それに対して現代のオタクは、キャラクターに対する愛着の情緒(萌え)と、そのキャラクターの視覚的なエロさを区別せず、基本的に一体のものとして扱っている。そして、「萌え≠エロ」から「萌え=エロ」への転換点にあったのが、まさに「ぷに系」だったと言えるのかもしれない。
 私なりの大雑把な見取り図としては、60年代のロリコン趣味では「愛着=エロ」だったのが、70年代以降の少女漫画文化の普及とともに「キャラ愛/エロ」がいったん分断されつつ物語的なロマンスへと傾斜し、そして80年代末(?)から90年代に掛けての「萌え」概念によってキャラ愛そのものが大きく肯定されるようになり、そして00年代以降の美少女ゲーム(エロゲー)がキャラ萌えをベッドシーンと強力に結びつけて普及させ、そして00年代後半以降(?)のエロス前景化ととともに「キャラ愛=エロ」に再び立ち戻った……という感じ。この理解が、どこまで妥当かは分からないけど、おおまかにはこんな経緯だったようだ。二次元精神文化の根本的な価値観や基礎的なアプローチやキャラクター愛のあり方にも、いろいろな歴史的変転がある。
 美少女ゲームも、例えばツンデレキャラを普及させたように、90年代から00年代初頭までは、「萌え/エロ」を分離して、キャラクターを物語的に扱っていた。というか、キャラ萌えをひたすら物語の中で扱おうとするアプローチは、現在の目から見れば古風に映るし、それが美少女ゲームの、まあ、一種の限界だったのかもしれない。00年代のMMORPG人気や二次創作同人の拡大、そしていわゆるソシャゲーはキャラクターごとのストーリーをほぼ消滅させてキャラ萌えそのものを徹底させていった。

上記の話を図式化するとこんな感じ。


 DESKTOP ARMYは、これまでに6つ買っている。MD「PUNI☆MOFU」シリーズは、一つも買っていない。店頭で見かけたら、うーん、一度くらい買ってみようかなあ。

フェリルナビット・ロッサ」(※リンク先はキット紹介の記事)。可愛いといえば、まあ、可愛くて、8000円を出して買ったくらいには可愛いのだけど、肉感的なデフォルメのきつさが、うん、その、えーと……可愛いけどね……。

 と書いてみた翌日に、せっかくだからと新作のフクロウ型「シャオ」を買ってみた。両腕が羽根状になっているという適度な異形感が楽しいし、ラベンダー基調で程良く上品にまとめたカラーリングも好印象だけど、露骨なむちろり具合がやはり強烈だ(※ただし、このPUNI☆MOFUシリーズの売れ行きは好調なようで、うん、まあ、それはそれで良いことなんじゃないかな)。
 シャオ=Xiaoは小(鄧小平)だし、マオ=Maoは毛(沢東)だし、びみょーになんかあちらの政治指導者たちを連想してしまう。同じネタ言及をしている人はたくさんいそう。それならラン(Lang)やトゥ(Tu)は何なんだという話にもなるけど。
 ただし、ランとシャオは一般寄りのMサイズボディで、マオとトゥがSサイズ、つまり寸詰まりのBLADE本格派ではあった。個人的には、後者にはあんまり興味はないのだけど、次の「雪トゥ」あたりは買ってみるかも。


 歯の詰め物を直してもらうために歯科医に行ったまさにその翌日に、また別のところに虫歯がモロッと出てきた。まさか、いや、まさか、そんな……いやあああああ! 歯間は気をつけていたのだが、いつの間にか、横側から虫歯が出来ていたようだ。うぐぅ、また行かねばならないのか……しかも、一度行ったばかりの再訪なのでさらに恥ずかしい……。
 遠因としては、「以前に結石が出来た→それ以来、水をかなり多めに飲むようにしている→たぶん口内の唾液が薄まって、虫歯を防ぎにくくなっている」という機序の可能性がある。歯磨きと口内殺菌は毎日まめにしているのだが……。
 まあ、事実は変えられないから仕方ない。致命的な痛みが出る前に発見できてよかったと考えようそうしようそういうことにしよう。


 英語圏のゲーム/アニメ系SNSでフォロー関係にある人物が、この秋に観光で来日される(そして関西にも数日滞在される)とのことで……うーん、やっぱり、出迎えられるようにした方がいいよね……。日本のサブカルチャーに強い興味を持ってくれている人々に対して、日本の趣味人として、きちんと好意的なフォローや歓迎をすべきだと思うし、してあげたい。でも、英語でのリスニングやスピーキングはいまだに苦手なんだよなあ……。英文をゆっくり書いたり読んだりは一応可能だし、論文レベルの精読も出来るけれど、ただそれだけなので。
 日本滞在中の緊急の連絡先になってあげるくらいは出来るが、観光案内はけっして得意ではないし(たいして詳しくもない)、長時間付き合えるほどの体力も無いし、ゲームの話題とかでも知らないことばかりで、会話に応対できる自信もないしなあ……。まあ、私自身のことはともかく、せっかく期待して来日される海外のマニアさんをがっかりさせることだけは、なんとか避けたい。


「自然選択号」は、イエサブのモデルカバー「小」サイズでぴったり収納できた。このイベント[ https://yellowsubmarine.co.jp/event/mcc2025/ ]に出すのは、もうこれでいいんじゃないかな……。保護フィルムは、10月のイベント開始に持って行く直前に外す予定。

2025/08/09

2025年8月の雑記

 2025年8月の雑記。

 08/28(Thu)

 「ドレスアップボディS」は、「M」サイズ版から多少改良されている。肩紐をパーツ分割で再現していたり、バストサイズを2種類ずつ作れたりする。ただし、へその意味不明な縦ラインや、造形のダルいハンドパーツなど、相変わらずのところもある。
 昔からKOTOBUKIYAは、へそ周りの造形が苦手なようだ。とりわけMD版「バーゼラルド」は、へその部分をただ楕円形にえぐっただけという珍造形で、さすがに購入意欲を失った(※キットを擁護しておくと、MDシリーズはロボットキャラという建前だから人体らしくなくてもよいし、モデラーとしては不満があれば自力でパテを盛って改修することも可能なのだけど、しかしそれでもねえ……)。


ようやく私なりの「ウルフさん」ヘッドの解を見つけたよ……。そう、「ちっちゃくて、そこそこ優秀そうで、落ち着きも身につけている自信家お嬢様」、これだよ……。
 レシピは「ドレスアップボディS」+「ウルフさん」ヘッド(※瞳の色が同じなので暦フェイスも使える)+Picco neemo「ロゼッタワンピースset」。
上半身のアップ。デフォルメ体型の「ピコニーモ」用なので、緩く広がったシルエットになるが、むしろこの非実用的にズレた感じが良い。これだよ、これが良いんだよ。
 胸部の巨大リボンは少々くどいが、これは肩に羽織っているショールの一部で、外すこともできる。


 たまたま見かけた投稿だけど、こういうアプローチは私の理想に近い。つまり、「大筋では元々のキャラデザを尊重しつつ、細部を丁寧にブラッシュアップすることで、キットのポテンシャルを最大限引き出す」という姿勢。
 上記作品は、デカールなどもほぼキットそのままなのだけど、前腕や靴は他のキットと交換しているし、可動拡大の改修もしているらしい。そのうえで、ドレスは凹凸のデリカシーを際立たせるように半ツヤで、そして脚部は曲線美に集中させるようにツヤ消し(たぶん)で処理している。胸部や腹部脇のクリアパープルをメタリックパープルに塗装しているのも賢明(※クリアパーツのままだと、光を通してしまって色が沈んで、埋もれてしまう)。手の爪塗装も、ワンポイントのアイキャッチ効果と腕の動きを明確化する作用の、両方に貢献している。もちろん、撮影とポージングも抜群に上手い。

 実を言うと、「元デザインを踏襲しつつ、ディテールを掘り下げて、完成度を上げていく」というのは、まさにスケールモデル由来の発想だったりする。機銃を超精密パーツに取り替えたり、エッチングパーツで細部を充実させていく(例えば、本来あるべきだったトラスや手摺やネットや空中線などを表現する)。その意味で、私のモデリング思想は、今でもやはり艦船模型に立脚している。細部の精度を上げ、造形のリアリティを高め、そして作品の説得力を強め、そしてそれは元デザインに対する忠実性をも意味する。そういうことが実現できたらと常々思っている……ただし実際には、イージーな手抜き制作ばかりだけど。


 新刊漫画とアニメの話題をそれぞれ個別ページに分離したことで、この月別雑記ページは模型トークが中心になっている。うーん、ちょっとバランスが気になるが、仕方ないか。模型についても、専用の月別ページを作っていくことも考えたが、それだとブログ全体の運用がしづらくなるのよな……。
 漫画やアニメは、毎月定期的に書くべきことが出てくる(つまり、新刊単行本や新作配信)。しかし模型ジャンルに関しては制作ペースにムラがあるので、月別ページは作りにくい。また、フィギュアなど隣接領域の話題も含めると、分類が難しくなる。さらに、模型の話題までパージしてしまうと、この月別雑記に書くことが減ってしまう(しよーもない雑談ばかりになってしまいかねない)。また、積極的な側面として、フィギュアやプラモデルは写真を撮れるので、雑記欄の彩りになる(※漫画やアニメのスクショを載せまくるのは、著作権の観点でも躊躇するし、手間も掛かって面倒だし)。
 というわけで、たまにkawaiiフィギュアやプラモデルの写真を貼りながら、いろいろと余計な話をこっそり書いていくブログとして、引き続き運用していこう。


 『七夕の国』は、つい読んでしまう。一年に一回くらいは再読しているかも。
 岩明均氏は、倫理観のない組織人間の気持ち悪さを、無言でさらりと、しかし明瞭かつ雄弁に描き出しているのが面白い。例えば、平民集団を侮って蹂躙しようとする領主や、欲得づくの軍事会社の兵隊や、傲慢な政治家(※弱った老人でも、組織の強大な力を持った権力者だ)、そして他作品でもアルキメデスを殺害する兵士(『ヘウレーカ』)や、広川の演説に一切耳を傾けずに射殺する自衛官(『寄生獣』)、組織維持のために家老を暗殺する大名(「雪の峠」)など、ドラマの急所にその描写を持ってくることも多い。「ひとの話を聞かないエゴイスト」がよっぽど嫌いなのかなあ。

 個人的に、岩明氏とゆうきまさみ氏はなんとなく近い位置で見ているが(※絵柄やユーモアの方向性、合理的思考など)、ゆうき氏は人間組織そのものは嫌っていない、というか、時として大きく肯定すらしているのが、これまた興味深い。ゆうき氏の描くキャラクターたちは、基本的には組織や社会の中での自己実現を自明のこととして受け入れているが(※たしか『じゃじゃ馬』あたりは典型的だったと思う)、それに対して岩明氏の描くキャラクターはしばしば組織や社会から距離を取り、その中で小さくパーソナルな友愛の関係を見出そうとする。最初の連載『風子のいる店』(吃音者主人公)の時からの、おそらく一貫した姿勢だろう。
 もちろん、ゆうき氏も一筋縄では行かないクリエイターなので、『白暮のクロニクル』のように個人と組織の間の軋みを描いていたりするけれど、しかしやはり、『パトレイバー』の内海課長のように、「個人的な欲望によって組織を滅茶苦茶にする奴こそが非倫理的な社会悪だ」という方が、ゆうき氏のスタンスであるように思える。そもそも組織ドラマとしての『パトレイバー』を少年漫画で大掛かりかつ入念に展開していたのも、80年代当時としては異例の現象だったと言えるだろう。不思議にも対照的なクリエイターだ。

 しかし、さらに複雑なことに、より広い社会に向けた視線は、むしろ岩明作品にこそ強く見て取れる。環境問題や社会問題への堂々とした言及のことだ。それに対して、ゆうき作品にはそうしたシリアスさは無い。漫画版『パトレイバー』でも、技術発展のアイロニーや生物兵器のおぞましさ、悲惨な人身売買などが描かれてはいるが、いずれも個人的な問題へと還元されていき、社会問題をそれ自体としてテーマ的に維持することはなく、文明論的な語りに踏み込むこともほとんど無かったと思う。おそらくこれは、ゆうき作品が基本的にはエンタメの枠内に留まろうとしていることの現れでもあるだろうし、それに対して岩明氏は、非常に素直に青年誌(モーニング/アフタヌーン誌)らしい知的な真面目さを表出している。ミギーのような突き放した思索的姿勢や田宮良子のような詠嘆の独白を、ゆうき氏は描かないだろう。ゆうき氏のキャラクターであれば、悩み事は常に他者との会話の中で解消していくだろうから。


 「ふっ、口ではまだ暑い暑いと言っていても、身体は正直だな。秋に向けて急激に食事量が増えていることに、おまえ(ルビ:わたし)は気づいていないのか? 己の欲望に振り回されるとは、なんと無様な……」
 (※キャラクター台詞って難しいね。ぎこちなく浮ついた言い回しになってしまう)


 新作アニメの全視聴は、時間的には一応可能。一クールあたり70本程度なので、一日7本、つまり一日3時間弱で全て視聴できる。だから、ディープなアニメ趣味者であれば、全視聴派もそこそこいると思われる。
 ただし、時間的にも精神的にも負担が大きいし、中には視聴する価値の低い作品もあるし、好みに合わない場合もあるだろう。また、過去のタイトルや海外作品、インディーズなども大量に存在するので、現在オンエア中の作品だけ観ていればいいというわけでもない。

 漫画の場合は、狭義の商業単行本に限って見れば、毎月400点ほど刊行されているので、仮に一冊15分なり30分なりで見積もっても、全読破はぎりぎり可能。もちろん実際には、それ以外のものも莫大な数が存在する(※雑誌扱いの本がその2倍ほどあるし、アダルトコミックや電子オンリー、同人などもある)、金銭的にも毎月27万円ほどの費用になるのでまず不可能だが。もっとも、電子書籍のセールス待ちで大量購入していけば、なんとかなりそうな程度ではある。
 PC美少女ゲームも、現在の発売数ならば、毎月の全作品をプレイするのは可能だろう(※倫理機構を通しているタイトルの話。インディーズなども大量にあるけど)。最盛期は年間600タイトルも出ていたので全プレイは完全に不可能だった(※年間360万円だから、ただ買うだけならば全購入も可能な人はいただろうけど)。
 ガールプラモに関しては、この十年の発売点数は以下のとおり。パチ組みだけのガール系専業モデラーなら、全制作は一応可能。ただし、肩や膝のジョイントを何百と組むのは苦行だろう(※下記は別掲ページの発売データによる。プレバンなどの販路限定ものは原則除外。また、海外キットもカウント除外[※年間10点程度]。ドール分野も除外。2025年は暫定値)。

製品数備考(新規シリーズ開始など)
~2014xxxHasegawaバーチャロン、Kotobukiyaホイホイさん、レイキャシールなどが細々と。むしろリボルテック、figma、武装神姫、S.H.Figuarts、AGPといった可動フィギュアジャンルの方が元気だった。
20157FAG、HGBF(すーぱーふみな等)がシリーズ開始。
20169メガミデバイス開始。
201725Figure-rise Standard、FIORE開始。
201835VFG、Figure-rise Labo開始。
201944chitocerium、Dark Advent開始。MODEROIDもガールプラモに進出(ストレリチア等)。
20203611月は新作ゼロだった(※コロナ混乱の影響か?)。この頃から海外メーカーもガールプラモを製造するようになった(※ただし左記統計には入っていない)。
202156創彩少女庭園、ガールガンレディ、Aoshima合体シリーズ、Guilty Princess、30MS、アルカナディア、エクスプラス開始(※30MMは2019年開始)。
202240PLAMAXもガール系に本格進出(ゴッズオーダーや、大サイズの固定ポーズキットなど)。微妙に谷間の年なのは、コロナ下での材料調達困難や電力問題など、いろいろあったせいだろうか。たしかスケールモデルも値上げを強いられた時期だったと思う。
202358annulus(GRIDMAN)シリーズ開始。
202470メガロマリア、プラフィア(PLUM、ずんだもん)、KPMS、PLAMATEA開始。
202512130MP、FAGグランデ、ASG(Hasegawa)開始。

 2025年で爆発的に増えたのは、それまでの各社シリーズが安定生産するようになったのと、30MSシリーズの大規模展開(アイマスコラボ等)、GSC(Plamateaなど)の精力的な新作発売、それからKOTOBUKIYAのカラバリ大量発売が例年に増して多かったため。市場そのものは完全に確立されたので、来年以降もこのペースになりそう。


 SFの話から。先達として「若いファン」たちに何かしてやりたくなるのは分かるし、知の継承という意味でそうした共同体的活動には大きな意義があるとは思う。しかしそれが、「俺が感動したこの作品を読ませたい」で終わっていてはいけないというのも確かだ。
 私見では、そもそも特定の作品を勧めるという発想に留まっているのが良くない。ニューカマー(経験や知識の浅いファン)が良い作品を知りたいと思ったときに、どうやったら探せるか、どのようにして自立的に情報収集していけるようにになるか、いかにして当人が「次に読んでみたい作品」を選んでいけるようにするかが重要だと思う。つまり、キャリアが長く、年長者としてその分野に責任感を持ちたいならば、システムを整備すべきなのだ。個別作品ではなく、幅の広さを、系統を、可能性を、見取り図を、手掛かりを、後輩たちに提供してやるべきなのだ。あるいは、べつに後輩がいなくても、そういった知の組織化に取り組むべきなのだ。そして日本のオタクたちは、パーソナルなエンタメ耽溺と刹那的なSNS消費の中で、そうした活動をずっと怠ってきた。

 美少女ゲームについては、幸いにもEGScapeがあり、その大量の作品情報アーカイヴとユーザーによる評価点と多種多様なタグ検索の中から、かなり自由に各自の希望や嗜好に沿ったものを抽出できる。艦船模型分野も、これまた幸いなことに、10年代のうちに刊行された多数のムック本が、キット一覧から基本的技法まで、ほぼ包括的な見通しを提供している。しかし、それ以外の分野で、ファン有志による包括性と客観性と操作性のあるデータを作り出しているものがどれだけ存在するだろうか?
 例えば、MGガンプラやHGUCの整理されたリストはあるか?(※以前は存在したがサイト消滅してしまったままだ) 主要な漫画家たちをフィーチャーした漫画史の通史的教科書がどれだけあるか?(※何冊かは存在するが、まだまだ足りない) アニメ制作会社とその主要作品を展望できるwebページは存在するか?(※wkpdのような機械的な五十音順羅列では役に立たない) 有名なゲームシリーズの全作品をプレイしてそれなりに公平な紹介をしているwebサイトを、既存のファンたちは大事にしてきたか? そういう作業をオタクたちはずっとサボってきたし、日本のアカデミズム(漫画学科など)もあまりに未発達なままだ。
 ガールプラモについては、せめて私なりに、最低限の時系列的リストや教科書的整理を作ってきた。それは当事者としての、そしてアカデミックな意義に照らしても、誰かがやるべきだという責任感からの仕事だ。
 SFについてはどうだろうか。例えば、「SFマガジン」誌の定期的な特集を紹介することで、マスターピースを絞り込みつつ各自に選択の余地を確保することができるだろう。あるいは、「ループもの」「破滅もの」「生物学SF」「スペオペ」といったジャンルの広がりとそれぞれの歴史的経緯や主要な問題関心を概説することでも、無数の手掛かりを与えることができるだろう(※同人誌などでそういった意欲的な試みがある)。:傑作選アンソロジーのような書籍もたまに刊行されており、簡便な手掛かりとして有効だろう。
 趣味の先輩としてやるべきは、利用(操作)しやすい情報を整備しておき、それへのアクセスを導いてやることであり、そして、先輩ぶるのはそこまでに留めるべきだ。あとは、その後輩くんたちが自身の関心のままに自由に探索し享受してくれるだろうし、そうやって独自の見識を持った自立的趣味人になってくれた時に、「後輩」「ライト層」「新参者」だった人物は最も頼もしく刺激的な同好の士になるだろう。
 「この作品に感動してほしい」、「この作品でハマらせてやろう」といった考えは、邪念と言うべきだ。そういう願望や欲望も分かるけれど、それは禁欲すべきだ。

 私が現在の日本語圏のいわゆるオタク/マニアたちに対して持っている不満の非常に大きな部分は、この点だ。他人が使えるように有益な情報をきちんと整理して公開する、そういう知的誠実と後進への貢献をすべきだった。活発なのはオンラインゲームの個別タイトルの攻略wikiや、アニメ各回クレジットのwkpd記載くらいで、それ以外は知の集積と体系化が欠けたまま、エンタメ享受がSNS上にただのっぺりと広がっているというのが、10年代以降の「オタク」たちに対する私のイメージだ。

 まあ、私自身、漫画やアニメについては月別インプレッションを書き流しているだけで、アーカイヴとしてはろくでもない雑談のままだけどね……。

 00年代前半頃から10年代初頭くらいまで、「萌える○○辞典」や「シナリオのための○○事典」のような概説書が多数刊行されていたのは確かだ。それらはしばしばイージーな内容で、クオリティ面では評価しにくいものが大半だったが、ああやって入り口を広げ、見取り図を提供することそれ自体については、大きな意義があったと思う。
 (※個別の書籍について内容面の問題があれば、もちろん厳しく指摘してよい。プロジェクトに意義を認めることと、個別のアウトプットを評価することは、次元が異なるからだ。私自身、問題のある書籍については指摘してきた。某エ○ゲー文化研究なんとかの駄目っぷりとか、萌える独裁者ムックの非倫理性とか……)


「ディープストライカー」はGFF版(2003年発売)で持っているので、MG版プラモデルは買わずにいる。当時としても別格のボリュームとディテールに、大いに満足して日々じっくり眺めていた。MGでは、Ex-Sの方を制作した。

2025/08/08

漫画雑話(2025年8月)

 2025年8月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 ワタヌキヒロヤ『エイリアンズ』第1巻(小学館、1-11話)。現地調査のために地球に潜入してきた高度文明の異星人が、廃屋に住む若年女性型アンドロイドと同居する日常ドタバタ劇。どちらかと言えば、キャラクター造形の謎はアンドロイド(元セクサロイドで、所有者は逝去している)の側にウェイトが置かれており、それに対してエイリアン主人公は、彼女の不思議な性質と地球固有の文化の両方に振り回されていく。勢いのあるペンタッチと表情豊かなキャラクター性に大きな魅力があり、近未来SFらしいアイロニカルな描写もある。ただし、SF要素はほどほどで、基本的には同性同居日常もののコンテクストの中にあり、そして百合要素は今のところ誇大広告めいているが、まあ楽しいので良しとする。作者はバスケ漫画『つばめティップオフ!』(最初の連載作品)を終えたのち、現在は写真漫画『SUNNYシックスティーン』も並行連載中。
 ほしつ『ホイホ・ホイホイホ』第1巻(ムービーナーズ、1-7話)。超能力に目覚めた高校生の日常話。おっとりしたユーモア路線で、これはこれで好きな人も多いだろう。
 enem『さようなら、私たちに優しくなかった、すべての人々』第1巻(ガンガン、原作あり、1-5話)。オカルト能力を使って、田舎の権力的虐待者たちに復讐していく話。千里眼やサイコキネシスなどの超能力はあるがけっして万能ではなく、能力行使には反動もあり、さらに復讐儀式にも一定の制約(手順等)があって、なかなか思い通りにはいかず、全体として伝奇クライムサスペンスというユニークな路線になっていくように見受けられる。漫画表現はオーソドックスだが、歪んだ醜悪顔などのインパクトも相俟って強く印象に残る。作者はこれまで2本の長期連載をしてきた実力派。
 藍田鳴『放課後異世界ふたり旅』第1巻(講談社、原作あり、1-4話)。様々な異世界に飛んで、それぞれの転移勇者たちのトラブルを収めて回る物語。多数の異世界を駆け回る賑やかさ、転移した「勇者」たちがぶつかる困難の掘り下げ、女子学生コンビという萌えバディ路線、そして問題解決までに設定されたタイムリミット(※かなり作為的だが)と、ずいぶん詰め込んだ内容ながら、キャッチーにうまくまとまっている。ただし、基本的に一話完結(一世界ずつの解決)スタイルのようで、物語を図式的に進めすぎているようにも感じる。作画の藍田氏は2021年デビューで、これが3本目の連載とのこと。
 猪ノ谷言葉(いのや・ことば)『ソナタとはいったい誰なんだ』第1巻(秋田書店、1-5話)。魔王を倒したが記憶を失った少年英雄のところに、兄と称する魔族と妹と称する人間(姫)が訪れるが、少年自身は過去(記憶)よりも現在の世界体験を新鮮さを味わいたい……というシチュエーション。ハードな状況も描かれるが、主人公の純朴な朗らかさに救われる。近年ありがちな「魔王戦後もの」だが、その中でもオリジナリティがあるし、ドラマの構図も明快。絵作りは、とても真面目に描かれているが、同時にキャッチーな大見得シーンもきちんと作っている。作者は『ランウェイで笑って』(完結)に続く2つめの連載。
 仲邑エンジツ『ムジナとミサキ』第1巻(少年画報社、1-7話)。人間族の中学校に入学したムジナ族の少女と、彼女の目にだけ見える幽霊少女の物語。この作者らしく、超自然的要素を含んだ変わり者ヒロインの、誠実だからユーモラスな生活ぶりを描いているのが楽しい。幽霊ヒロインに関わる切ない人情話の要素も入れている。
 ぴよぴよ丸『ウは宇宙ヤバイのウ!』(竹書房、原作あり、1-6話)。2013年刊行のSFコメディ小説を漫画化した作品。漫画としての作りは無難、というか真面目で、このノリの作品ならばもっと自由にはっちゃけても良かったかもしれない。キャラ絵は可愛い。
 アシダカヲズ『超深宇宙より愛を込めて』第1巻(一迅社百合姫、1-5話)。身長214cmの宇宙人留学生に見初められて付き合う話。主人公女性(こちらも175cm)は中学時代にデマを流されたトラウマを持っているが、彼女と共同生活をする中で孤独を乗り越えて次第に成長していく。なるほど、百合は自由なジャンルだ……。とはいえ、今のところは外的な出来事はろくに起きておらず、日常話が続いている。SF要素は希薄だし、買い続けるかはちょっと微妙なところ。作者のアシダカ氏は、これが初の商業単行本のようだ。


●カジュアル買いなど。
 今月のカジュアル買いはハズレが多く、ここには書くまでもないような本がかなりある。

 墨佳遼『蝉法師』(単巻、イースト・プレス、2024年)。セミたちを擬人化しつつ、その鳴き声を念仏の読経として表現している。儚い生命の存在がパワフルに生きつつ己の目的を追求したり、人生の価値を思い悩んだりする描写は、読経シーンの迫力と相俟ってたいへん印象的。明暗の激しい夏の雰囲気も良い。
 コノシロしんこ『うしろの正面カムイさん』第11巻(小学館、100-109話)。様々な妖怪を性的に除霊していく一話完結型コメディ。ただし、えろネタというよりも馬鹿馬鹿しい艶笑譚に分類されるべきだろう。大量の小ネタをしれっと仕込みつつ、第11巻まで来てもオリジナリティと勢いを維持しているのは大したものだと思う。ちなみに、第100話ではちょうど百物語を扱っているし、飛頭蛮(※中国妖怪で、文字通り頭部が離脱して飛び回るジオング)に対するネタの広げ方が物凄い。既刊もいくつか読んでみようかな。
 というわけで既刊もちょっと買ってみたが、アイデアの豊富さ、トリッキーな物語展開、そして異種族(妖怪)のキャラデザの巧みさとユニークさなど、切れ味に凄味がある。せっかくだから、全巻買い揃えて読みたい。

 kakao『辺境の薬師、都でSランク冒険者となる』第9巻(講談社、原作あり、70-77話)。「あのkakao氏か」と読んでみたら、やたら上手くなっていた。空間的なレイアウトの活用。木造建築などの質感表現の説得力。キャラクターのポージングの躍動感。そして巻末おまけ(えろ)のオリジナリティ溢れる発想。美少女ゲーム『はにかみクローバー』(2016)の頃から注目していて、アダルト単行本も買って読んだくらいだが(※たしか2冊持っている、しかし自宅倉庫から掘り出せない……)、ここまで凄味のあるクリエイターになっていたとは。ただし、本編ストーリーはあまり好みではない。
 追記:既刊を数冊買って読んでみたが……残念ながら退屈だった。絵は抜群に素晴らしいのだが、描かれているイベントが陳腐で浅薄にすぎる。第9巻の前半だけが異例に緊張感のある劇的展開になっていただけで、それ以外は無自覚スーパー薬師ショタがいろいろするばかりで肩透かしのクオリティ。ライトショタ+豊満おねえさんキャラたちという意味では、人気を博しているのも納得できるけれど……。

 武原旬志(たけはら・じゅんじ)『ブルターニュ花嫁異聞』第6巻。13世紀フランスで、若き男装女性貴族に仕える平民男性の話のようだ。当時の社会慣習や諸制度や言語的多様性や歴史的経緯を絡めて丁寧に作劇しており、きつめの性格のヒロインもなかなか個性的。ただし、ときどき説明過多になるのは、まあ、やむを得ないところか。既刊を買うかどうかは、うーん、どうしようかな。
 ひるのつき子『煌めく星の吸血島』(単巻で大きめのA5判、祥伝社、2022年)。下記『133cmの景色』の作者さん。元気で天然な主人公女性が、吸血鬼少年にメイドとして仕えつつ、彼の家庭問題を解決していくおねショタ。少女漫画寄りのライトな作風だが、吸血鬼と人間の間に生まれた子供が、両者の文化的-生物的な違いの狭間に苦しんでおり、それが主人公の朗らかさによって次第に和らげられていく。

以前に数冊買った『江戸前エルフ』をちょっとずつ消化している。キャラの顔コピペ連発がとてもきついのだが、それ以外の演出に良いところも多いので、「買ってしまったものは仕方ないし、積んだままになっていても困る」と、空いた時間になんとか読み進めている。
 顔コピペの問題は3点。一つは、両目を見開いた無表情な真正面顔を連打するので食傷するし、そういう顔が繰り返されていると不気味ですらある。
 第二点は、場面ごとのニュアンスの違いが出ないこと。通常の漫画であれば、コマの雰囲気を表現するために、頭髪の流れ方や顔の向き、あるいは顎の動きなどがその都度チューニングされて、その場面のニュアンスを彩っていく。それに対して本作では、まったく同じ顔、同じ頭髪、同じ角度ばかりが繰り返されるので、キャラの生命感が消える。せめて不死のエルフキャラの顔コピペであれば多少は理解できなくもないのだが、一般人(主人公やその妹など)も能面コピペを連発しているので、どうしようもない。一応、コピー顔をベースにしつつ口元などを描き直したりもしているが、根本的な印象は変わらない。
 三つ目は、コピペ顔を当てはめようとして無理が出ていること。正面、横、斜めといったいくつかのコピペ元を用意してその都度のコマに嵌め込んでいるようだが、サイズ調整がおかしくて胴体とのバランスを持ち崩していたり、あるいは顔(首)の向きと胴体部分の姿勢がおかしかったりするカットもある。粗描きでもいいから、その都度全身を自力で描いていたら、プロポーションやポージングもきれいになっただろうに……。
 顔コピペのメリットとしては、「あらかじめ精緻に描かれた可愛らしい顔の作画クオリティを常に維持できる」、「頭部作画のぶんの手間を、他の作業に振り向けることができる」と考えられる。それはそれで分かるのだが、その結果としてギョロ目正面顔のコピー乱舞になっているのでは、本末転倒に見える。少なくとも私は、その品質(つまり表情の欠落)に強い不満を覚えるし、読んでいてもコピペ能面に気が散ってしまう。ただし、作品全体としては、ストーリーにも個性があるし、陰影表現や空間表現や画面演出など、抜群に良いところもたくさんあるので、「このコピペ顔さえ無ければ……」と惜しまれる。

 くぼけん『異世界喰滅のサメ』第10巻(キルタイムコミュニケーション、42-45話)。絶大な力を持つ殺滅(サメ)を召喚した少女主人公の物語らしい。魔族たちのキャラデザもユニークだし、バトル表現にも異様な迫力があり、そして力任せのパロディネタもふんだんに盛り込んでいる。やたら上手いのは確かなので、趣味に合う人ならば楽しめたと思う。

 一色まこと『13日には花を飾って』第2巻(小学館、6-13話)。妻(母)を失い、後妻が来た3世代家族の話。誠実に描こうとしているのは分かるが、同級生のゲイデマはステレオタイプ的で言葉の暴力を剥き出しに描いているし、アウティングに関する説明は教条的だし、無思慮な教師が小太り+眼鏡+豚鼻+欠け歯+癖毛に描かれてしまう(※これ自体、特定の属性に対する加害性の強い偏見だ)など、テーマ性と描写が噛み合っておらず空転しているように見える。「僕には性的マイノリティの人がわかるんだ」という台詞も、きわめて大きな問題がある(※性的マイノリティは、そうでない人々と比べて、明らかに違った異質な存在だと主張してしまっているわけだから)。集団レイプ被害者のトラウマを描く手つきもデリカシーに欠ける。こういうテーマに取り組みたいという意欲は買うけれど、完全な失敗作だと思うし、こういう作品が真面目そうな顔で世に出てしまうことがむしろ悪影響を及ぼしかねない。
 本当に誠実にテーマを扱っている作品では、そうした差別者や迫害者を、まさに社会的権力を持った人物として描いている(例えば学校舞台であれば教頭や生活指導、あるいはオフィスものでは部長や美形男性など)。それに対して、卑しく鈍感で垢抜けなくて未熟な男性像(例えば無能教師や自立心のない同級生)を迫害者に仕立てて、それをやり込めてスッキリというのは、作劇としてもチープだし、テーマ性の観点でも問題を捉えそこなっている。……みんながみんな、適切な知識を持っているとは限らないので、テーマ性と矛盾衝突した描写の混乱が現れてしまうのは、仕方ない過渡期的状況と言うべきかもしれないが、しかしやはり、けっして良いものではない。


●続刊等。
 『アルテ』がひとまず完結したので、現在私が読み続けている最長の連載は『第七王子』(現在20巻)になるかな。『パンプキン・シザーズ』(24巻)は長い休載があったし、『フリーレン』(14巻)は惰性で続けているようなものだし、『逃げ上手』(21巻)はそろそろ飽きた。『シャドーハウス』(20)は遅々として進まない。『望まぬ不死』(13巻)はどこまで続くだろうか。
 裏を返せば、じっくり続けられる連載が少なくなっている(ほんの数冊で打ち切られたりする)ということでもある。この欄でも挙げているように、毎月大量の新作(第1巻)が刊行されているのだが、同時に終了(完結)作品も大量に出ている。そして、優れた作品を生み出した漫画家も、次の連載が出ないまま姿を消してしまっている。
 『よふかしのうた』(20巻で完結した)も、あらためてきちんと読み返したい。

 1) ファンタジー系
 宮木真人『魔女と傭兵』第6巻(38-46話)。相変わらず長所と短所が極端。コマ組みが機能的に作られておらず非常にだらしないし、メインヒロインの性格もおかしいし(※純朴な能天気さと威圧的な嫉妬深さが強引に混ぜられていて不気味)、精神的にグロかったり倫理的に引っかかりのある言動があったりもするが、その一方で、とても良い絵も出てくるし、サブヒロインたちもかなり個性が立っているし、理性的な交渉描写を読む快楽もある。45話からはイサナ君が再登場するが、今回もやはり「元気で強気だが結局は主人公にしてやられてへこまされる当て馬」の役割を担わされている。こういう描写が、微笑ましいコメディとして明るく処理されることもあれば、その逆に、女性キャラに対する陰惨で威圧的な蹂躙として表出される場面もあり、なんとも温度差が激しい。
 石沢庸介『転生したら第七王子~』第20巻(167-174話)。第二のボス「バミュー」との戦い。連載配信版のカラーから、単行本ではモノクロになっているが、それでも画面構成の迫力とストーリーテリングの掘り下げはさすが。
 近江のこ『もうやめて 回復しないで 賢者様!』第2巻(6-15話)。グロ注意。発想の切れ味も、キャラの可愛さも、演出の巧さも、現代漫画として非常に優れている。例えばワープゾーンを指先で開く所作や、心臓を舐めて生命力を奪うゴーストの描写、主人公の不死性設定の扱いなど、ファンタジー要素のアイデアだけでも感心させられる出来。本題のグロ(リ○ナ)要素も、自己斬首、水中窒息、スライム溶解と多彩だし、それぞれのプロセスや状況把握についても際立った掘り下げがある。なお、流血や骨折は多いが描写はほどほどで(?)、臓物までは描かないというマイルド(?)な程度に留めて(?)いる。下記の『メイドインアビス』が大丈夫な読者ならば本作もいけるだろう(?)。ところで、入力していて気づいたけど、このタイトルは五七五調だな……。
 中将慶次『カノンレディ』第2巻(7-12話)。良いところもあるが、見せどころの盛り上げが今一つで、前巻と比べてパワーダウン気味。
 恵広史『ゴールデンマン』第6巻(39-47話)。並行世界に飛んで状況全体をリセットしたこともあって、敵対関係が明確になり、敵方の重要情報も示され、さらに主人公自身についても大きな謎が提示された。ブルースは、驚き役&説明役を担って物語を引き締めつつ、ツッコミや細かなポージングの描写でユーモラスな彩りも与えており、なかなかの名脇役になっている。
 江戸屋ぽち『欠けた月のメルセデス』第5巻(17-20話)。アニメ化するとのことで、この漫画連載も継続保障が付いたのが嬉しい。ただし、作者の負担増は大変だろうとも思う。この巻は、王位継承を巡る陰謀に焦点を当てているが、クールに研ぎ澄まされた表情表現や、緊張感のあるコマ組み、バトルシーンのダイナミックな運動表現、奥行きのあるレイアウトの迫真性、そして内面描写の印象的な演出に至るまで、読み応えがある。
 フカヤマますく『エクソシストを堕とせない』第12巻(86-93話)。地獄側に乗り込んで出会ったルシファーは、「神に抵抗する朗らかで公明正大な善人男性」として描かれる。キャラクター造形のユニークさと、状況全体の不気味な見えづらさが面白くなってきた。
 つくしあきひと『メイドインアビス』第14巻(「兄とでも」「射手」「テパステ」)。グレートーンに塗り込めつつ、枠線も手書きでゆるゆると描く紙面の濃密な雰囲気が楽しい。渓谷の巨大感などの空間表現も良い。
 中曽根ハイジ『望まぬ不死の冒険者』第13巻(60-66話)。力をさらに高めた主人公たちが、元いた街を離れた旅の中で、しかし相変わらず苦労人的に大状況の中で頑張っている。ユニコーンから中年男性から異形開放から、奥深い森の濃さや建造物のディテールまで、雰囲気豊かに描かれているのも実に良い。電話シーンの絵も抜群に可愛らしい(そこかよ)。アニメ版は、個別ページで感想を書いたくらい気に入っているが、1期最終話以降のストーリーでは2期はまとめられるのかどうか不安がある(※漫画版で言えば第7巻から、第12-13巻くらいまでの内容になる筈だが……吸血鬼ハンターに遭遇し、故郷で聖気スキルを授かったり一族の秘密を知らされたりロレーヌさんが眼鏡を掛けたりして、その一方で吸血鬼ラウラや以前のパーティー仲間たちの側でもトラブルが起きており……収拾を付けられるのか?)。

 2) 現代もの、シリアス系
 うすくらふみ『絶滅動物物語』第3巻(通し番号は無いが、マンモスからトキまで)。生物の絶滅が、いかにして人類社会――社会の動きや個人の欲望や政治的な都合――で引き起こされてきたかが、冷静な筆致で描かれる。例えばナチスの復古主義の下で原始的なウシを復活させようとする試みが、ユダヤ人迫害と対比されたり、南アフリカのシマウマとクアッガ(前半分だけが縞模様)の違いを否定しつつ、それが同時に奴隷制度に対する無頓着さと共存している有様が描かれたりする。さらには、第二次大戦中にウェーク島の日本人兵士たちが飢餓でクイナを食べ尽くしたエピソードや、寄生虫撲滅のためにミヤイリガイ(それら自身には罪はない)を人為的に絶滅させたエピソードも語られる。皮肉な話もある。19世紀の中国侵略の過程でフランスがシフゾウ(鹿の一種)を本国に持ち帰ったおかげで、それらは絶滅を免れていたり、あるいは、博物学者たちの新種イワサザイの命名争いをしている最中に、まさに彼等が持ち込んだネコに狩り尽くされてその鳥が絶滅していたり。こういったエピソードの切り出し方も抜群に上手いし、漫画演出も明晰で説得力がある。
 三島芳治『児玉まりあ文学集成』第4巻(21-27話)。言葉と世界認識をめぐる、高校生二人の会話劇。筆触感を最大限強調したタッチともども、ライトに読めて楽しい。
 川田大智『半人前の恋人』第6巻(42-50話)。彼の誕生日に二人が結ばれ、その一方で彼女も大学祭で飛び入り活躍したり彼の女友達に嫉妬したりするという、かなりドラマティックな巻。作画については、相変わらず眼鏡のレンズ屈折(度入りの輪郭段差)まで丁寧に描いている。
 ひるのつき子『133cmの景色』第4巻(16-21話)。再び主人公に焦点を当てて、コラボ企画での仕事ぶりや自立意識、そして恋愛と周囲の人間関係の難しさについて誠実に描いていく。ステレオタイプな偏見に抵抗して自らのアイデンティティと尊厳を保っていこうとする姿勢について、他者視点も交えつつ正面から取り組んでいる。作画については、主人公のロングヘアの柔らかいウェーブが抜群に美しい。「このストーリーとコンセプトの下で、こんなに可愛らしく美しいキャラとして堂々と描いてしまっていいのだろうか?」という疑念すら湧き上がってくるほどに。一応の説明としては、「外見の都合良さによって人格全体を判断することの問題は、まさに本作が主題化しているとおりなのだが、この主人公の描写は、現実の個人に対するものではなく、ひとまず物語の記号的表現のレベルで、この主人公の健やかさ、善良さ、繊細さを表現しようとしている。それは似ているようでいて、やはり次元の異なる問題だ」ということになるだろう。
 雁木万里『妹は知っている』第3巻(18-27話)。小ネタ集で引っ張るのは一区切りつけて、この巻では人間関係に焦点を当てている。すなわち、同僚や友人、兄妹の過去回想、離婚した両親など。ユーモア精神を常に保ったマイルドな日常ものとして、上手く軌道に乗ってきた感じ。
 林守大『Bの星線』第2&3巻(8-13話、14-20話、同時刊行で完結)。第1巻は素晴らしい出来だったが、2巻以降は「これを描くんだ」という輝きが失われ、無難にまとまってしまったのがもったいない。それぞれの巻末に再録されている読み切り作品は、人の悲劇的な情念を濃密に描いており、これだけでも読む価値がある。
 牛乳ご飯『ボーイッシュ彼女が可愛すぎる』第3巻(25-34話)。漫画としての演出はけっして上手いわけではないが、キャラクター造形に明確な個性があり、それがラブコメジャンルの中での独自性をもたらしている。
 高津マコト『渡り鳥とカタツムリ』第5巻(24-29話)。今巻はヒロインの故郷大分でのエピソードが続く。描きたいことが多すぎるせいか、故郷で人間関係の密度を上げてしまったせいか、物語も作画もちょっと詰め込み気味で疲れる。もっとのんびりと開放的で気持ち良い描写を、この作品には期待しているのだが……。今回はロケーション(シチュエーション)が特殊だったのが原因だから、次巻からはまた以前の調子に戻ってくれると嬉しい。
 はやしわか『銀のくに』第3巻(12-17話、完結)。こちらは新潟舞台。。
 大久保圭『アルテ』第21巻(100-104話、完結)。混迷のフィレンツェで師匠レオと再会し、結ばれるエンディングまで。女性画家主人公の漫画で始まって、16世紀イタリア社会を幅広く描き、さらに戦乱の起きる時勢ものになり、最後はロマンスとして締め括った。今巻も、風景描写や服飾表現など、とても精緻に描かれているのだが、説明的にストーリーを追うことが優先され、漫画的演出は無難に終わったのが少々もったいない。なお、外伝的な作品をもう少し続けるとのこと。

2025/08/06

アニメ雑話(2025年8月)

 2025年8月の新作アニメ感想。『鬼人幻燈抄』『クレバテス』『第七王子』の3作に絞られた。

●『鬼人幻燈抄』
 通算16話は文久3年(1863年)、天邪鬼の話。のびやかに広がる山々の風景も、夕暮れの河畔風景も、抜群に美しい。怪異の幻想譚としても、苦く優しい味わいがある。キャラクターの細やかな所作アニメーションも、地に足の付いた作品風景に確かな実在感の手応えを与えてくれる(※例えば、おふうが急須でお茶を混ぜる動き。すごい)。冒頭の蕎麦打ちシーンのミスリーディングも、微笑ましく気の利いたコンテで面白味を生んでいる。絵コンテ&演出は、河田凌氏。
 茅野愛衣ヴォイスで「じんやくん」「じんやくん」と何度も呼びかけられるとは、羨ましい……。
 ところで蕎麦屋の店主さん、老けてやつれた?

 第17話は、やや長めの25分。元治元年(1864年)で、剣を極めようとする中で鬼に変化してしまった男の物語。剣戟シーンは、この作品にしては頑張っているが、日常シーンでは表情作画が崩れ気味。時代劇アニメらしく外連味のあるコンテが、映像的な緊張感を構築している。
 ストーリー面では、畠山の真意など、やや歯切れの悪い後味を引き摺っているし、甚夜の躊躇いもあまりきれいには描かれていない。しかし、鬼の存在を巡るエピソードの一つとして見れば、苦みと深みのある話になっていると思う。

 第18話は、幕末ぎりぎりの慶応3年(1867年)。とぼけたサブタイトル「茶飲み話」だが、しっとりした情緒と、かすかに匂わせる不穏の気配(夕暮れ)、そして年月の経過と人々の変化が描かれる。時間と環境の推移によって変わっていくものと、変わることのできなかったもの(鬼たち)。雑踏を行き交うモブ町人たちの描写も、その印象を強めている。今回の脚本は赤尾氏(シリーズ構成)、絵コンテは相浦和也監督自身(第1話以来)。やはり相浦氏自身は、こういう人情話路線の方をやりたかったのかな。

 第19話。ひきつづき慶応3年(1867年)。穏やかに、そして劇的に描かれる喪失の物語。冒頭から回り込みカメラを使い、この回の特別さを予告している。そして前半は老店主の最期。珍しく饒舌に語る店主の所作のアニメーションは、(失われようとしている)人間的な生命感を繊細に表現している。人間は生命を失うが、鬼もまた失うものを持っている。すなわち、社会性と周囲との関係を。後半では直次との別離が示唆され、さらに鬼の正体を世間に知られた主人公は、言葉も無くただ逃散する。暗鬱な曇り空と不安定な登坂の風景が強い印象を残す(※これまでの均衡感のある映像と比べて明らかに異様な傾斜だ)。シンプルなサブタイトル「流転」も、いかにも物悲しい。
 絵コンテは江崎慎平氏。本作では初めての起用だが、角度の付いた空間性演出、意外(?)にもポップなレイアウト、大胆にして暗示的なスロー演出、そして人物の細やかな所作表現と、非常に充実したコンテになっている。
 少年役(直次の息子)は小市氏。『第七王子』ともども、ショタ役をやれる声優が増えるのは歓迎したい。大歓迎。老店主役の上田燿司氏は、おそらく今回が最後の出番だが、言葉の説得力と状況に応じた情緒を端正に造形していて素晴らしい。音響面では、今回も下駄のカラコロ音などの効果音が丁寧に付けられていて、場面ごとの臨場感を高めている。
 それにしても、野茉莉は可愛いなあ……。

 第20話。しっとりした雨天の語らい。今期は雨アニメが多くて嬉しい。三浦直次の複雑に苦悩する表情の作画もデリケートきわまりないし、茅野氏の浸透力ある芝居もドラマに説得力を高めている。格子背景のシンボリックな演出も印象に残る。今回の絵コンテは超ベテランの藤原良二氏。演出は、これまでも数回担当されていた鈴木賢人。
 ただし後半部のバトルシーンは相変わらず、スピード感に欠けてもっさりしている。まあ、これは仕方ない。
 鬼たちの異能スキルを取り込んでいくのは『どろろ』みたいだなと改めて思った。もちろん、相手の力を奪うのは古典的な作劇だし、現代(2010年代)の異世界ものでは「スキルテイカー」としても多用されているくらい普及したアイデアだが。



●『クレバテス』
 第5話。もうすぐ折り返しなのだが、このスローペースで大丈夫なのだろうか。内容面では、劇伴がなかなか個性的だし、コンテもところどころ非常に面白い(※長い静止カットもあるが、キャラクターの出入りのカメラワークが楽しげでよろしい)。主人公も、善良で純朴で苦労人なところを上手く描いていて、愛嬌がある。
 ストーリー面では、かなり散らかっている。「魔獣と人類(人属)の対立構図」、「魔獣の間でも駆け引きがある」、「人類を滅ぼそうとするクレバテス」、「人類の間でもいくつもの国家に分かれて対立している」、「亡国の赤子の成り行き」、「育児コメディ(?)」、「人類が開発した魔術の謎」、「ゾンビ勇者とその復讐心」、等々。なんとなく関連があるようでいて、しかし現時点ではぼんやりした繋がりに留まっている。

 第6話。クレン役の田村氏は、確かに適役。真面目で冷静なようでいて、朴訥なようでいて、ちょっと不機嫌なようでいて、そして感情の底が掴めない不思議な異種族キャラを上手くドライヴしている。主人公のアリシアは今回も、「慌てツッコミキャラ」、「大地を踏みしめて歩くキャラ」、「自身と周囲の境遇に苦しむキャラ」の側面が濃密に描かれている。
 演出と作画は、この回も非常に良く出来ている。背景作画が、色鉛筆のような手書き感を強調しているのが面白い。色合いが明るく、そして木材の質感を巧みに反映しているし、山々の遠景も童話めいたのどかさを連想させる。相変わらず説明台詞が多めながら、コンテレベルで画面構成の迫力とアニメーションの躍動感を表出していて、充実した映像になっている。
 ストーリー面では、穏やかな農村風景からいきなり最悪のピンチ状況に。このノリはなんとも岩原氏らしい。そして最後に黒澤ともよ氏の魔術師キャラが登場。

 第7話。村での危機から勇者追撃、そして軍隊どうしの戦いと魔獣介入と、めまぐるしく展開した。言い換えれば、一つの話数としては乱雑でもあるが、まあ仕方ない。ストーリー面では、勇者伝承がそもそも間違いであったらというのは面白い発想。
 映像表現としては、重量感と巨大感のあるアニメーション、赤子の泣き声による焦燥感演出、森の奥深さなど、見どころが多い。襲撃魔術師コンビ(重松氏と黒沢氏)は、どちらも常識外れの異常さを存分に表出した芝居が素晴らしい。

 第8話は、勇者を巡る対話から、虫使いを撃退するまで。今回も斜め顔のクローズアップショットが魅力的だが、それ以外は凡庸。前半では松明による明暗の表現、後半では主人公による必死の剣捌きアニメーションが見どころだが、ややぎこちない。



●『転生したら第七王子』
 通算第16話。シビル・ウォー戦の決着から、謎神父戦の途中まで。
 前半の戦いは、静止画にエフェクトで誤魔化しているばかりで、画面がだれることこの上ない。そういったタイミングの都合で、今回も出血がやけに長時間噴出し続けたりする(ひどい)。マントの青海波模様も、立体性も運動を無視してべったり貼り付けてあるだけという有様。音響表現も最低で、ひたすら説明台詞を垂れ流してそのまま画面を止めるし、さらに台詞の変化を無視してBGMを流しっぱなしにしている。モノローグだけでなく、戦闘中に長大な回想を入れるのも緊張感を削ぐこと甚だしい。擬音文字をそのまま書き込むのも漫画の猿真似で、アニメでやるとひたすらチープになる。演出と呼ぶのもおこがましいほどの、失敗映像の見本市になっているのが悲しい。作画そのものは頑張っているだけに、とにかく監督(コンテ)が悪い。原作(というか漫画版)は抜群に凄いので、まともな演出で丁寧に再解釈して映像化していたら、本当に素晴らしいものになり得たのだが……つくづく惜しい。
 ただし、後半の謎神父戦だけはダイナミックなカメラワークを取り入れている。また、イーシャ(シスター)の振り付けは、今回も力が入っている。
 ところで、OPには完全食くんらしきカットがある。あれもアニメ版に登場するのか……。

 第17話。地下実験室に立ち入るところまで。
 相変わらず、イーシャ周りの演出は力が入っており、黒ベタに囲まれながら雨の市街を掛けていくところは印象的。その他、視覚表現としては、林立するアンホーリー・エクスカリバーの迫力や、地下実験室の禍々しい雰囲気には、カラーアニメならではの美質がある。ただし、イーシャ役(石見氏)の芝居は切実さが足りず、なんとも物足りない。
 教皇付きのアナスタシアは日笠氏。教皇自身は、宮本氏ではなく牛山氏が演じている。

 第18話は、大聖誕祭の開始直前まで、つまり漫画版第7巻の最後まで。脚本が再整理されておらず、一話の中でも進行がバラバラ。漫画の進行とアニメの進行は違うのに、そのままコピーしているからこんな体たらくになる。映像表現としても、漫画であればコマの背後でおまけトークを展開しても邪魔にならないが、同じものをアニメで動かして喋らせると、とっ散らかってひどいものになる。そういう取捨選択がまったく出来ていない愚作。ただし、今回は明確にイーシャをフィーチャーして盛り上げている。沈鬱な雨の雰囲気も、なかなか悪くない。
 それにしても、このペースで大聖誕祭の最後まで行けるのだろうか?
 メイド役の驕慢な音声芝居はかなり苦手。シーンごとの状況やドラマの焦点を無視して、ひたすら棘のあるナルシスティックな演技を押しつけてくる感じが……。今回は第二王子の前ですらそういう独善的なキャラを前面に出していたし、チェス盤を蹴り飛ばすという性格の悪さが強調されすぎていた(※こんな絵をそのまま使ったコンテも悪いが。漫画の小さなギャグコマならば許容されたのだが、アニメのフルサイズ映像で描いてしまうと、その非常識さの誤魔化しが利かなくなる。コンテも悪い)。
 ただし、常にフルサイズの映像で描かれることのメリットもある。例えば、秘密研究室を探索した後の中庭での会話や、教会での議論シーンなどでは、キャラクターの位置や移動といった空間的な表現が拡充されている。その点は確かに面白味を増していた。

 第19話は、漫画版第66-68話。かなり頑張って絵を動かしたり、大聖堂内部の空間表現をしたりと、努力は見て取れる。陰影演出も、アニメーションならではの面白味を作り出している。十字架を踏みにじるところや、ギタンが四つ目になるところなど、独自の追加要素もあるし、連打アニメーションの表現にも説得力がある。こういうことをやれる技術はあるのに……やっぱり漫画版コピーに終始しているのがもったいない。今回の絵コンテも、玉村監督が直接手掛けている。
 ところで、漫画版の「大聖誕祭」編は第42話から始まって第88話まで続くのだが……これまでのペース(アニメ1話につき漫画版3-4話分)だと、うーん、ギリギリ最後まで行けるのか?

 第20話は、シャクラ撃破まで(漫画版69-72話、ただし一部省略あり)。
 空間的な表現(例えばシャクラとタオが円を描くように歩くところ)や、一部のアニメーション追加(タリアの剣やヤタロウの動き、シャクラの6眼アニメーション、グリモの垂れ耳がふわふわ動くところ)、演出追加(シャクラのマントが飛んでいくところや、タリアのミニスカート強調)、カラスを使った画面切り替えなどは良いのだが、それ以外は映像作品の体を為していない。静止画にエフェクトだけで誤魔化したり(特にシャクラ戦の決着はひどい)、長台詞の間中ずっと血が延々噴出し続けていたりする。台詞の最中は、キメラたちがずっと棒立ちで止まっているのも見苦しいし、相手の台詞に対する双子神官の書き文字が出るのも、応答のタイミングが早すぎておかしい。
 第2期はずっと玉村監督が絵コンテと演出を担当し続けているが、小手先のエフェクト追加だけでは根本的な設計図(絵コンテ)の崩壊は覆せないという失敗事例。こんな猿真似コンテではなく、真面目にアニメ表現として再構成した『第七王子』を観たかったよ……。
 他のアニメ作品でも、原作(というかコミカライズ版)のレイアウトをコピーしているようなものは見かけることがあるが、それでも多少はアレンジのお化粧をして映像作品らしい流れに作り直しているものだけど、この作品は本当にただ無思慮に漫画のコマをなぞっているだけなので(※もちろん絵そのものは描き直しているが)、映像的な時間進行が滅茶苦茶になっている。そういうところがもう、あまりにも残念すぎる。
 ところで、キメラシャクラが女性だったのは驚いた(※音声は山村響氏)。漫画版を読み返したら、たしかに女性らしいバストになっていた。

2025/08/05

薬師寺久遠(篝火真里亞)から比良坂初音へ

 プラモデル創彩少女庭園「薬師寺久遠(篝火真里亞)」を使って、ゲーム『アトラク=ナクア』の比良坂初音(姉様)を再現してみる。
 ※注意:蜘蛛型キャラクターの写真です。蜘蛛や節足動物が苦手な人は気をつけて下さい。