2014/07/16

イベントを「回収する」とは

  イベントを「回収する」とは
    ――フィクションに関する真理要求の批判――


  イベントを「回収する」という表現は、今では多くのゲーマーがごく普通の言い回しとして使っているが、これはニュートラルな表現ではないし、そしてこの言葉が普及したのはおそらくそれほど古いことではない。「イベントを」、しかもただ発生させるのではなく「回収」するというのは、いくつかの特殊な認識を前提としてはじめて成立するものであろうから。

  1)ゲーム内で生起する事象が、その都度の無数の要素の複雑な組み合わせとして瞬間瞬間に生成推移する状況としてではなく、明確に区分されており特定かつ特別な内容を持つイベントとして、制作され、経験され、認識されているということ。とりわけ、ACT/STG/SLGよりも、RPG(コンシューマ)やAVG(美少女ゲーム)寄りの捉え方ということでもある。

  2)それらが「回収」というかたちで捉えられるということは、おそらくは以下のような認識を前提としている。2-1)すなわち、ゲーム内で生起する事象は、プログラムとプレイヤー行動の相互作用の中から「生成される」ものではなく、制作者によってあらかじめ特定のかたちで作り込まれてゲーム内に埋め込まれているものだということ。これは、おそらくは、攻略情報(書籍やweb上での)の普及とともに、それらのイベントは発生させるのが当然である(あるいは、発生させることを目指すのが当然である)というゲーム観の下で通用する言葉だろう。2-2)そして、それをただ単に「発生させる」だけが目的ではなく、記録され保管されるべきものだと見做されているのだということ。とりわけ、美少女ゲームの「回想モード」に典型的であるように。

  要するに、ここで言いたいのは、現代の人々の支配的なゲーム観は、ゲーム内の事象を生成的なものとして捉えているのではなく、固定的/再現的/確認的なものとして捉えているということではないかということだ。それは、作られたものがそのまま現れるという明快な一対一対応的発想であり、たしかに明快なものではあるが、そうではないゲーム像、すなわち、例えば所与のものを確認するのではないダイナミックなゲーム、コンプリートという発想とは無関係な広大かつ自由なゲーム、同じように行動しても同じような結果にはならない複雑なゲームといったものに対するセンシビリティを弱めるものになっているのではないかという懸念がある。先に述べたように、「イベントを回収する」という考え方は、むしろ美少女ゲームこそが積極的に推進してきたものであると思われるが、しかしやはり、ゲームはそれだけではないし、美少女ゲームもそれだけではない。


  もう一つ問題なのは、これがゲームの進行制御システムの理解に関してのみならず、ストーリー面の受容に際しても同様の視点で捉えられる時に一定の非必然的な理解のバイアスを生じうるという点だ。すなわち、「伏線の回収」という(それなりに蔓延した)表現の中には、「今ここで現れた、あるいはおよそあらゆる場面における、意味の(いまだ)明瞭でないように見える描写は、制作者の設計に基づいて、のちにきちんとその意味が首尾一貫して説明される筈である」という予期を自明視しようとする立場が前提とされている。そんなものは物語表現に対する過当(またはただ単に不当な)要求でしかないように思われるのだが。


  同様のことは、作品を「読み解く」という表現の中にもしばしば感じられる。この言い回しそれ自体は、しごくオーソドックスな学術的文脈でも使用されるが、一部のオタク(あるいは一般人)の口ぶりの中では、あたかも当該作品の理解の仕方については(唯一の)正解があらかじめ客観的に存在し、それを例えばミステリにおける(唯一の正しい対象が客観的に存在する)犯人捜しと同様に、合理的に導出することが可能であり、かつ、その営みこそが作品を受容乃至解釈することの最大の目標であるかのように語られる。


  そしてさらに、そもそも現実に関する事実ではなく真理でもないフィクションの中の表現を、真理の表現であるかのように見做したり、あるいはそうでなくとも、なんらかの現実に関する正しい主張を含んだものとして参照してみせたり、箴言めいたものを真に受けて取り出してきたりするような誤った姿勢も、ここから間近に存在する。フィクションは、SFが科学的に想定される法則的関係に依拠したり、あるいはある種の作品が「人間の真理」のようなものの表現と見做されたりすることはあるとしても、一般的には、フィクションは現実(現実の世界、実生活)に関する真理の表現でもなければ、現実における特定の行動に対して正当化のための根拠を提供するものでもない。

  ごめんよ、そしてありがとう、「複線の改修」としか変換できなかったATOKくん。(鉄オタかよ。)


  趣味選択は、絶対的なものではない。つまり、人が何を好きだと考え何をそうでないと考えるかは、しばしば偶然的なものであって、ひとたび得たその趣味判断は正しさに依拠したものではないため、いくらでも変化して構わないものだ。しかし、だからといって、ひとがたまたま持っている趣味を他人がバカにしたり批判したりしてよいということにはならない。一定の基準の下で高さ低さ(あるいは「善し悪し」)が判断されることはありうるにしても、そして原則として真理の問題ではないにもかかわらず(あるいは真理の問題ではないがゆえに)、それ自体尊重されねばならないのだ。
  もちろん、自分一人が、あるいはマナーについて合意しあった自分たちが、何を高く評価しあるいは何を駄目だと評価するかは自由だが、しかしながら、他人の趣味における好き嫌いを、たといそれが審美眼の未熟さによる判断や単なる錯覚による感動だとしても、それを無価値だと断じていいということは無い。もっとも、特定の作品の趣味や嗜好を自分の一人の中で低く見積もること(そしてそれをブログなどで独り言として述べること)と、そのような趣味を好む人たちに対してそれを愚かだと公言することは、実は必ずしも截然と区別できるものではないのだが(――私も、あくまで前者のつもりでここで特定の対象を悪く言うことがあるが、それが読み手にとって後者の意味で受け止められかねないということ、そしてそう受け止められたことを批判することができないということを、意識させられている)。また、(とりわけ低年齢の者に対する)教育の場面については、特殊な状況であって特有の事情があるが。