2015/03/12

創作物における技術の評価と価値の評価

  ゲーム(美少女ゲーム)において、個別作品で用いられている表現技術の評価と、個別作品の総体的評価は、どのように関係し(あるいは関連せず)、どのように調停されるべきなのだろうか。


  私は「技術」(表現技術、演出技術)のことをしばしば語っているが、しかしそれを単純に「進歩」を測る基準として扱っているわけではない。個々の表現をシステマティックに下支えする――つまり当該作品に構成要素乃至構造要因として含まれるところの――「道具」として見ているに過ぎない。だから、例えば、ただ単に特定の技術が特定の作品で使われているというだけでは、その作品の価値(評価)を自動的に高めることにはならないし、また例えば、ただ単に同じ技術が過去に他の作品ですでに使われていたというだけでは、その作品の価値を引き下げる理由にはならない。技術はジャンル全体としての「可能性」を拡張するものではあるが、その技術を通じて実際に個別作品の中で発揮される「効果」は、当該技術の存否乃至水準の単純な関数などではないし、いくつもの作品で反復使用されることによって目減りするようなものでもない。言い換えれば、個別作品の表現効果の側からいうならば、技術への注目は、その意味作用の成り立ちを「説明」するために採られる視点であり、また、当該作品の意義をより広範に認識するために――つまり他の作品との間で客観的かつ有意味な「比較」を行いうるようにするための共通の地平として――採られる視点になるという点にこそ、その意味がある。

  もちろん、過去に別の作品で用いられた技術乃至技法を、ただひたすらまったく同じように反復している場合には、そこには技術的な先進性はすでに存在しない。しかし、美少女ゲーム作品は、技術の実証のために存在する実験データなどではない。重要なのは、その都度の作品において想定されるコンセプトの中で、その技術がいかに有効に組み込まれているか、いかに効果的に使用されているかという観点だろう。つまり、ここでは個々の技術は、垂直的な「進歩(価値的向上)」の証明などではなく、あくまで水平的な「取捨選択」の問題であるに過ぎない。たしかに新たな技術の採用は、寿ぐべきものではあるが、しかしそれ自体で客観的絶対的実質的に個別作品価値を規定するようなものではない。その都度の歴史的/文化的/様式的な諸要素を考慮しつつ、そしてその都度のコンセプトとインテグリティに照らして、評価すべきものだろう。そのことを見逃す時、技術ベースでの作品評価の営みは、特許取得争いの裁定者のごとき、傲慢かつ的外れな非芸術的行為に堕することになろう。

  否定的ではなく肯定的な言い方を試みるならば、「案出」も大事だが「継承発展」に注目することもそれ以上に重要であり、そして特定のアイデアがどのように発展するかはあらかじめ自明に単一の方向性のみに決まっているわけではなく、実際にどのような仕方で応用されていったかをきちんと跡付けることは、きわめて重要な仕事であり、そして難しい仕事なのだ。


  これと多少関連する議論は、2013年1月16日付雑記でも書いた。要旨を再掲すると、「そもそも複数の芸術作品の間で比較を行うのは優劣を決するためではない(…)。もちろん、比較した上でそれぞれの特質(その特有のコンセプトとその実現された造形)のありようを際立たせるようにそれらを布置整理することには十分な意味があり、実際にそのために作品間の比較はなされ得るしなされている。ディーセントな意味での評価の作業とは、優劣を決するなどというつまらないことではなくて、そういう作業だろう」。


  要するに、ここで重要な論点の一つは、創作物に対する評価は単一の価値基準のみによって一元的全面的に決せられるものではないということだが、さらにこれと関連して、ある技術やモティーフの起源探求にも私はほとんど興味を惹かれない。もちろん、関連する実例を既往に遡って広汎に渉猟することは重要だし、そうした跡付け作業もそれなりに試みてきたつもりだが、しかしそれに該当する歴史上最初の作品を特定することは私の関心事項ではない。歴史家がそれを遂行してくれるならそれはありがたいし、また「その作品が、それ以前に為されていたことから、いかなるものを新たに提示し上乗せしたか」を確定するうえで必要な前提知識に含まれうるものではあるが、分野内の広がりを見ようとするならば、どちらかといえば、影響力の大きさ(つまり認知及び普及のきっかけになったこと)の方を重視したい。