2016/06/24

ナレーションのある作品

  ナレーションのある作品について。


  【 はじめに:ゲーム作品におけるナレーションの可能性 】
  アダルトゲームのテキスト/音声表現の中には、キャラクターの台詞でもなく、またニュートラルな地の文でもなく、作中の状況を伝える特殊なメッセンジャーとしての「ナレーション」が登場することがある。それは、たしかにその地位においては小説における「語り手」に類似するのだが、しかしながら、いくつかの事情から、それと同一視できない性質を持っている。

  1)まず、以下作品内において話者欄上に「ナレーション」という独自の名前がしばしば明示されているという点で大きく異なる。

  2)また、ゲームのUIの一部を成すという点に特徴を持つ。すなわち、小説の「読者」は、解釈という営みを通じてテキストの意味生成に参与しはするものの、直接的にはテキストに対して外在的で受動的な存在であるが、それに対してゲームにおける「プレイヤー」は、作品の生成過程に巻き込まれることがあらかじめ定められている内在的かつ参加的な存在であり、そして、その参加的プロセスにおいてUIのメッセージは、語り手とは異なる機能を果たしていると言えるからだ。

  3)さらに、現代PCゲームの標準的造形として、ナレーションテキストにも、声優による音声表現が伴われている。それゆえ、ゲームのナレーションは、小説よりもむしろ、朗読劇や活弁、あるいは(ここではもちろん皮肉の意味を一切伴わない)紙芝居における語りのような上演的、現前的性質を強く帯びている。



  【 1. 大規模に組織化されたSLG作品におけるナレーション 】
  SLG作品『南国ドミニオン』(ソフトハウスキャラ、2005)は、様々なコマンドボタン上にマウスを置くと「○○します」「○○です」といった音声が流れ、あるいは災害発生などを報せるカットインとともに音声ナレーションが流れる。

  このナレーターの任を担った西田こむぎは、黒箱系(ダーク系)での出演も多い役者であるが、この前年発売の『Dear My Friend』(light、2004)――おそらく彼女にとって出世作となったであろう白箱系主演作――では端正ながら情熱の籠もった名演を披露したばかりであり、またソフトハウスキャラでも、前作『巣作りドラゴン』(2004)において、政治的苦境に立ちつつ奮闘する王女「ルクル」役に起用されて、その若き政治家の潔癖な責任感や内面のデリケートな揺らぎを巧みに表現していた。そして、この『南国』では、そのような情緒的部分はナレーション音声としてはもちろん適切に慎まれているが、その一見非人格的なナレーションの中にも、上品に整ったテンポの良さと、やわらかな温度を感じさせるトーンを持っており、それによって本作のプレイ体験に、えもいわれぬ特有の感触を与えている。

  SLGパート上の変動を告げる単なるダイアログ上の形式的な通知に終わるのではなく、音声を伴ったナレーションとしての特別さと、通常のメッセージウィンドウを用いた正式なメッセージと、そして一級のナレーターによる聴きごたえのある音声によって現れる。それは、あくまで非人格的な現れであるが、あたかもゲームのUIそれ自体、またはシステムそれ自体が一つの実体として、プレイヤーの前に立って相互作用するかのような手応えを、プレイヤーに提供する。それは、この作品が一般的なバトルSLGや経営SLGではなく、不思議な無人島に漂着した10人の生活の、文字通りあらゆる側面――移動、探索、狩猟/農耕、建築/破壊、施設利用、装備(着替え)、教育(技能伝達)、蓄財と掠奪、物々交換、料理、開発、医療、休憩、湯治、会話、会議、娯楽、性行為、戦闘、そして永住または脱出――を表現する、包括的なシミュレーションを行うという作品コンセプトととも関連しているであろう。

  ソフトハウスキャラは、他の作品でも、(半ば)人格化/擬人化されたインターフェイス表現を何度も実行している。例えば上記『巣作り』については、別掲の拙稿「インターフェイスデザイン(実例検討その三)」を参照のこと。



  【 2. ゲーム性の強いSTGパートと両立しているナレーション 】
  STG『ぶるにゃんマン』シリーズ(Digital Cute、2012/2014)では、プロローグ/エピローグ部分が、匿名的なナレーションによって導かれている。猫たちが不思議な力によって(具体的には、ブルマや下着を履くことによって)、人間のような姿形を得て自由に飛び立っていくという幻想的な物語は、第一に視覚表現のレベルでは、「可愛らしくデフォルメされた画風で」「四角く区切られた枠の中に描かれる」という手法(下記引用画像を参照)によってそのお伽話めいたムードを強めている。また第二に、テキストそれ自体も、敬体(「です・ます調」)で書かれ、さらに括弧で括られることによって、童話の語り聴かせのようなライヴ感を志向している。さらに、第三に、その一連の台本は、奏雨のナレーション音声によって優しく展開されることによって、そのコンセプトを最終的に完成させている。

  小説とは異なって視聴覚的表現とともに構築されており、また、朗読劇のような現前性からは半歩退くことによってさらにインタラクティヴな広がりを持ち、そして、映画字幕のような単なる補充的存在ではなく明白に言葉そのものによって物語展開がリードするという、ゲーム媒体ならではの表現アプローチである。

  この奏雨の仕事は、エンドロールでは「おはなしのおねえさん」とクレジットされている。このネーミングも、本作の目指す方向性をはっきりと示唆している。

『それゆけ! ぶるにゃんマン えくすたしー!!!』 (c)2014 Digital Cute
「ダークぶるにゃんマン」のプロローグ部分。児童向けイラストのようにデフォルメされた絵は、素朴な下地感を模すかのようにざらついた着彩が施されている。括弧で括られたテキストも、成人向けゲームとして異例の柔らかさである。



  【 3. 純AVG作品におけるナレーションの多機能性と特殊性 】
  最後に、純AVGからも一例を挙げておこう。『ノラと皇女と野良猫ハート』(HARUKAZE、2016)は、一般的なアダルトゲームのように主人公のモノローグの形をとった地の文も用いられるが、それとともに、「ナレーション」による三人称的な語りも頻繁に挿入される。このナレーションの介入は、物語全編に亘って行われており、それは状況説明の非人格的な叙述であったり、主人公が魔法をかけられて猫に変化してしまった時には当人に代わって地の文を引き受けたり、一つのシーンのオチをつけて切り上げる役割を担ったりと、場面に応じて様々なかたちで融通無碍に活用されている。

  物語の後半では、このナレーションがどうやら主人公の亡母の視点であるらしいということがプレイヤーの前に示唆される。つまり、一連のナレーションの言葉は、最終的には、特定の作中登場人物に還元されるのだ。ただし、その事実は、本作のストーリー本筋にとってはさして重要なポイントではない。それはただ、涼森ちさとによるこの巧みなナレーションの、クールでありながら常に暖かみのある俯瞰的な語り口を、プレイヤーの中にあらためて定位させる。そして、ただひたすら観察者でありナレーターであり続けてけっして物語の舞台には上らない――つまり作中のキャラクターたちが展開する出来事の成り行きには一切介入しない――にもかかわらずあらゆる場面に居合わせているその不思議な控えめさを、プレイヤーに納得させる。そして、その余裕のある諧謔の雰囲気を、特定の登場人物――実際には生身では「登場」してはいないが――へと投射することによって、この物語世界に新たなニュアンスの光を当てる。それだけのことだ。

  要するに、本作の「ナレーション」は、比較的若く野心的なゲームジャンルにおける「なんでもあり」の豊かな放恣さを別とすれば、小説における「語り手」のカテゴリーに回収しきることも可能なように思われる。いや、あるいは、美少女ゲームとしてはきわめて異例なナレーションの多用は、小説よりもむしろ、舞台台本のセンスを下敷きにしているように思われる。本作の脚本には、韻文的な調子に聞こえる科白群を長く紡いでいく場面や、「枕草子」や「百人一首」などの古典を(意味のよく分からない呪文として)朗読してみせる場面、あるいは、
  「(話をそらされ)まぁいいでしょう」
  「(手を引かれ)なんですか急に」
  「ただいまー(買い物から帰宅)」
のように所作の描写を科白に併記してしまう「ト書き」風のテキスト(下記引用画像:図2を参照)、落語めいて際限なくボケ続ける会話などが頻出する。そうした点に鑑みて言えば、本作のナレーションは、第一義的には、ゲーム媒体に独自固有の手法を展開したというよりは、それよりも歴史のある他分野における文芸上の様々な技法をゲーム脚本に導入してみせた実例と見るべきであり、そしてさらに、実際には単なる移植/再現/模倣にとどまらず本作固有のユニークな言語空間を成立させた稀有な成功例として評価されるべきであろう(――ただし、唯一の実例というわけではない。管見のかぎり、『このはちゃれんじ!』[rouge、2001]、『らくえん』[Terralunar、2004]、『真剣で私に恋しなさい!』[みなとそふと、2009-]に類例がある)。

  以上のことは、脚本家自身の言葉からも裏付けられる。本作の企画及び全脚本を担当しているはとは、インタヴュー記事で「本作をナレーション付きにしたのは、どんな理由からですか」という問に対して、以下のように述べている。
読んでいく上で違うリズムを作れるんじゃないかなというのと、テンポを上げつつ地の文を削れるんじゃないかと思い、入れています。自分みたいなタイプは地の文を活かしてしっかり読んでもようというよりは、短い会話でやりとりを重ねていくタイプなので、いかに短い言葉でそのキャラを表すセリフを作れるかということに注力していきたいと思っています。/そういう意味では目で読んでもらう文章よりも、どう耳で聞いてもらう文章にするかという点に執着することが多く、そこをいかにゲームで形にしていくか、みたいなことを考えていました。ナレーションなどもその延長で生まれています。ただPCゲームという媒体では挑戦的なことでもあるので、演出としての意味と、ストーリーとしてやることの意味、どちらも入れてないといけないなと。ストーリーとしての意味はネタバレになるので控えますが、一作終えて思うのは、ナレーションというのはまだまだ可能性があっていいなと思います。
 『ノラと皇女と野良猫ハート ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2016年)、122頁。

『ノラと皇女と野良猫ハート』
(c)2016 HARUKAZE
(図1:)本作のテキストでは、このように「ナレーション」の名を冠した台詞が時折現れる。それは、先を見通した言及である場合もあり、また、このようにユーモアに満ちた実況である場合もある。
(図2:)3行目に注目。登場人物の台詞の中に、括弧書きで状況説明などが付記される(その部分は音声では読み上げられない)。これは台本のト書きにごく近い手法であろう。これは、テキスト表現にユーモアやクールさをもたらすとともに、クリック進行を引き締める作用も果たしている。


  【 その他。主にAVGにおける様々な実例 】
  その他、アダルトゲーム分野のAVG作品では、『メルティ・メルヘン』(ぱんだはうす、2003)に代表されるような童話モティーフのタイトルがいくつも存在し、そうした趣向の作品はしばしば、地の文においても、語り聞かせのような文体を選択しており、また地の文も音声朗読している場合がある。SF作品『R.U.R.U.R』(light、2007)も似たような意匠を凝らしている。

  これが『Forest』(Liar-soft、2004)になると、個別キャラクターに帰属しない非人格的な声を作中に満ちさせていても、それはメタレベルの発話主体としての語り手(ナレーション)というよりも、マージナルな主体としてのコーラス(コロス)のようなものになっている。

  また、「デジタライズド・ゲームブック」と称する一連のLOST SCRIPT作品(『蠅声の王』[2006]、『長靴をはいたデコ』[2007]ほか)では、書籍形式のゲームブックと同様に、いわばゲームマスターからの直接的な語りかけのような文が度々現れる。例えば「○○へ進め」、「君は○○してもいいし、あるいは××してもいい」といったような文である。両作を手掛けた脚本家大槻涼樹は、それに先立つ『終末の過ごし方』(1999)においても、ゲリラ的ラジオ放送番組のDJのトークというかたちで、物語の額縁になるような語りを提供してみせた。



  【 おわりに。ゲームにおけるメッセージの内在性と外在性 】
  プレイヤーの参加的契機を持つゲーム作品においては、先述のように、プレイヤーとゲームインターフェイスとの間の相互作用は、ゲーム体験それ自体の一部を成すものであり、したがってゲーム側からのあらゆるメッセージは、たいていの場合、「当該ゲームの内在的な作用」として認められるだろう。しかし、ユーザーの多くは、そこからさらに、物語体験、あるいは自己投影的乃至感情移入的な架空世界体験を、いわば真の内在的表現のように見做し、その一方で、そうした物語体験からは外在的な、制作者が楽屋から声を掛けてくる操作上のメッセージをそこから区別しようとするだろう。その区別は正当なものであるのかという問、そして、その区別をするとして、それは機能的な差異の認識にすぎないなのかそれとも価値的な区別をも伴うのかといった問は、ゲーム媒体の特質に照らしてあらためて慎重に検討すべきであろう。