2019/11/30

2019年11月の雑記

  2019年11月の雑記。(→12月10月

「M.O.E.(モエコレ) 真・恋姫†無双」の「月(ゆえ)」。全高約10cm。VOLKS店内に箱が並んでいたので、木村キャラの「月」(董卓)だったらいいなと1個買ってみたら、1/8の確率を見事に引き当てた。ツイてて良かった、ツいてて☆ラッキー(唐突に『ツイ☆てる』ネタ)。見てのとおり、造形上のクオリティはそれほどでもないが、エプロンのグラデーション塗装や袖のディテール表現を頑張っているのは見て取れる。今月はこの写真を掲げておこう。


  11/29(Fri)

  木曜日から暖房を入れています。(@関西某所)
  空気が乾燥するから、喉にも気を遣う必要が出てくるけど。


  相変わらずラムレム姉妹は、節操なく様々なコスチュームで立体化するなあ。水着だったりナース服だったり、和服だったりアラビアンナイトだったりサンタクロースだったりCA制服だったりチャイナドレスだったり童話ネタだったり……。それだけ人気があって数多くのフィギュアが作られているということの裏返しでもあるけれど、しかし、あまりにも節操が無いよなあとも思う。
  丸っこいシルエットのショートカットは、作りやすいうえにアレンジが利くし、姉妹でカラーリングを選べる(頭髪色と衣服をコーディネートできる)のもメリットだろう。表情作りも朗らかでそれなりに人懐っこい感じだ。だから、立体化しやすいというのは、まあ、そうなのかもしれない。しかし、そんなに人気が集中するほど魅力的なのだろうか?というと疑問もある。この姉妹が2010年代後半のプライズフィギュア界で圧倒的なトップランナーの位置にいるのはずいぶん不可思議な現象だ。
  数が多いぶん、出来の良いものも多く、うちにもラムレムともに4体ずついる。私見では、2000円級のプライズフィギュアでは、レム(青髪)のベストはフリューのアラビアン・ナイト。ラム(桃髪)の方は、うーん、どれが良いだろうか。こちらもアラビアンナイト衣装は良い出来のようだし、先日のエアライン制服もなかなか良い。チャイナドレスも、シンプルながらポージングがうまく決まっている。


  【 FEと育成の話なのかもしれない 】
  ※以下、つらつら書いていたら散漫な書き方になってしまったので、最初に要旨を整理しておく。「『ファイアーエレブレム(FE)』をプレイすると一人を集中育成するのが合理的だと考えてしまいがちだが、現実は引き抜きリスクなどがあるからそうはならないよね」といった趣旨のSNS投稿があった。一見すると示唆的な議論のようだが、実はきわめて珍妙な主張だ。というのは:
  1)実際にFEのプレイも、そこまで極端に一人を集中育成することはそうそう無い(※FE理解としておかしい)。
  2)一人だけを集中育成するのが不合理なのは端から当然(※ゲームに思考が引きずられるにしても話が無茶苦茶すぎる)。
  3)集中育成が不合理である理由は、引き抜きリスクや定年退職のような瑣末な問題のせいではない(※社会像、人材育成観そのものがアナクロすぎる)。
  4)立論の仕方としても、あまりにも特殊な事例を、標準モデルとして措定する体裁を取っており、議論が最初から転倒している(※しかもその事例設定も、上記のとおり歪んでいる)。

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  労働観や教育観がかなり偏っている、というか、発想自体が古いような……。FEのように集中育成が効果的であるという状況の方が稀なので。つまり、
- 「たった一個人の能力が、状況(戦局)全体を決定的に左右する」、
- 「一回一回の戦いに、常に全戦力を投入できる(戦闘は一つずつしか発生しない)」、
- 「どれだけ連戦(連続労働)しても疲労しない」、
- 「教育機会が極端に限られている」、
- 「個人の成長度はかなり大きい」、
- 「対処すべきは戦闘行為だけである(=機能特化できる)」、
といった条件が成立する局面は、非常に少ない。それは要するに、「たった一人の超人がいれば問題を全て解決できる」という状況なのだが、当然ながらそんなものはごく稀だ。小規模企業や一芸特化で突破できるような、マイナーな分野の話――しかもそこですら滅多に成立しない御伽噺――にすぎない。前近代の効率無視&人権無視の過酷な徒弟制の領域でしか成立しないであろうような、偽りの効率だ。

  一個人は一日に9時間、あるいはせいぜい12時間程度しか活動できないし、連続稼動すればすぐに疲労して作業効率が落ちる。また、人々が向き合うべき仕事はたった一種類だけではないし、戦線もたった一つではない。様々な種類のタスクが、同時並行的に展開されるのが通例だ。にもかかわらず、複雑化した現代社会では、一個人がカヴァーできる範囲はあまりにも小さい。だから「組織化と分業」が常識になっているのだ。また、コストを掛ければ教育機会そのものをどんどん増やしていけるし、スタッフの教育は、投資した以上の見返りがある。
  そういった重要な――そして現代社会では常識となっている――諸条件を無視して、「引き抜き」や「定年退職」のようなマージナルな論点ばかりを引き合いに出すところが、アナクロすぎて驚く。原則と例外が転倒しているのだ。引き抜き以前に、そもそも「雇用コスト」の問題に言及していないのも、すごく危なかっしく見える(※追記:さすがにコストの問題は、次の投稿で言及していたようだ)。

  FEには、「経験値獲得総量が極端に乏しい」のに対して「配下ユニット数がかなりダブつく」というアンバランスさがあり、それが「主力ユニットを決め打ちで使い続ける(二軍ユニットは全然起用しない)」という戦略を帰結する。しかし、それ以外のSRPGでは、そうならないようなシステムが組み込まれているのが通例だ。例えば:
- 「出撃制限がある(疲労度による連続出撃制限や、忠誠度変動など)」、
- 「有能なユニットだけを出し続けることが難しい(コスト制など)」、
- 「複数戦線の同時展開というイベントがある(片方にしか出撃できないなど)」、
- 「集中育成が非効率になる(成長限界があったり、成長ペースが落ちたり)」、
- 「万能の強キャラを作れない(三竦み関係や属性関係など)」、
- 「配下ユニットの総数が少ない(育成を偏らせる意味が乏しい)」、
- 「敵の数が多く、一ユニットだけでは対処しきれない(戦力全体の底上げが必要)」、
- 「乱戦傾向(強キャラだけでは前線を維持できず、弱キャラも攻撃を受けやすい)」、
- 「撃破されるとキャラクターロストするので、死なないように鍛えておく必要がある」、
- 「強制出撃があるので、弱いままではまずい(撃破されたらゲームオーバーの場合も)」、
- 「特定ユニットや特定スキルが有効になる場面(開錠キャラや特定の説得相手)」、
- 「肉弾戦キャラ以外の様々なスキル持ちキャラも有用(回復スキルや飛行キャラ)」、
- 「ヘイトシステムがあり、一人だけが活躍しすぎると危険度が増す」、
- 「獲得経験値を全員で共有する(RPGの馬車育成のようなもの)」、
- 「配下ユニットの行動を細かくコントロールできない(特にリアルタイム&オート進行)」、
- 「育成機会が無限なので、育成を偏らせる意味が無い(フリーマップがある)」、
等々。こうしたシステム上の案出は無数に行われている。むしろFEのゲームシステムが、SRPGとしては例外的なのであって、なおかつ特別に気が利かないというだけなのだ。つまり、そもそもFEは育成のモデルとしても偏っているので、それを参考にして人材育成を考えようという思考の出発点それ自体がナンセンスなのだ。

  もちろん、FEシリーズにも、そうした案出はある。私自身、FEシリーズは数作品しかプレイしていないが、FEの中でもそれほど極端に育成が偏らないタイトルはある。例えば『聖戦』は基本的に全員出撃だし、武器使用回数や成長度制約もあって、特定のユニットだけを使い続けることが難しい。また、飛行ユニットや盗賊キャラでなければ出来ないアクションもあるから、強力な戦士キャラ1人だけを育てていればよいなどということは無い。だから、ゲーム論(FE論)としてもかなり一面的な、雑な議論だと思う。
  FEに限らず、序盤で特定の一人のユニットだけを集中育成して、敵のステータスを大きく上回るようにしておくと、しばらくの間はかなり安定したプレイが出来るようになるというのは確かだ。しかしそれは、ゲーム全体に亘って通用するほどのものではない。また、そのような戦略が通用するような作品は、ゲームデザイン(難易度設計)がかなり拙劣だと言わざるを得ないだろう。

  また、FEのゲームバランスからすると、「二軍キャラを育成している余裕など無い(そのため一軍キャラの何人かだけで回すことにならざるを得ない)」という消極的側面が主眼になるが、この人物の発言の後段部分だと「特定キャラに集中した方がメリットがある(かのように思われるが、それは一定の条件があればこそだ)」と、集中育成の積極的側面に注意を向けているように読める。これも、ゲームの実態とこの人物の説明とで、かなりの齟齬を来している。話の筋道がズレているように感じられるのは、こういう点にもある。

  要するに、ゲームにかこつけて上手いことを言っているようだが、極端な一事例に依存しており、しかも注目するポイントもズレており、当該ゲームに関しても不正確だし、発想も前近代的モデルに依拠してして役に立たない。ゲーム全般の知識も乏しそうだが、まあ、そこはあえて咎めまい。

  怖いのは、「事実それが正解なんだけど」というのが、「事実それが(ゲーム内の効率としては)正解なんだけど」ではなく、「事実それが(現実社会における人材育成に関しても)正解なんだけど」と考えているようなところ。文面から見て、現実の話に引き寄せて語っているよね? ……その認識はかなり危険だと思う。内容的にも、そしてゲームを現実のモデルにしているという点でも。
  この人物の発言は、「FEのような集中育成は基本的には正しいのだけど、注意すべき条件がいくつかある」という趣旨だと思われるが、そもそもそれが正解になるような環境はきわめて稀なので何の参考にもならない。参考にすること自体がナンセンスなのだ。

  ……ああ、弁護士をやっている人なのかな。いかにも一個人のハードワーク頼みでやりくりする特化型の個人事業っぽいし、労働観や教育観の旧弊ぶりも腑に落ちる。
  発言のログを見ると、わりと面白いことも言っておられる方のようだが、今回の上記発言に関して言えば、かなり滅茶苦茶な内容だと思う。よく知らない人物だが、とりあえず信用度はかなり低く見積もらざるを得ない。

  FEと育成の話をするなら、ジェイガン問題に言及しないのもどうかと思う。FEのきわめて有名な特徴(問題)であり、しかも、「その場の有能な一個人ばかりに任せていると、組織全体の成長が停滞して、長期的には悲惨になことになる」という問題であり、「有能さ」と「成長度」が衝突するという意味で上記投稿の話に深く関わる皮肉な存在だからだ。
  しかも、誰が成長度が高く、誰が成長しにくいかは、現実には判別困難であり、それゆえ教育機会を特定個人に集中させるのはリスキー(というか不合理)だ。「平等な教育」、「機会を提供する教育」が重要なのは、そのためだ。基礎的な能力に関しては学歴などでそれなりに見当を付けられるにしても、事柄が専門的になればなるほど、そしてクリエイティヴになればなるほど、そうした情報も当てにならなくなるので、やはり「集中的育成」はただの博打行為になる。
  そもそも、教える側の技術乃至知識が相当高度でなければ、育成対象を高度なところまで引っ張り上げることは出来ない。つまり、ただ単にリソースを集中投入するだけでは、「圧倒的な能力を持つトップクラスの人材」などが作れるわけがない。
  この人物に経営を任せたら、「引き抜きだけ警戒していれば大丈夫という狭い視点で、ジェイガンをひたすら重用するうちに、組織全体が厚みと多様性を失って痩せ細る」ということになりそうで怖い。実際にどうなるかはともかく、そういう姿勢に見える発言なのだ。

  あー、あれか。「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」のような発想に妥当性を認めちゃっているのか。「選択と集中」と言ってもいいけど。そりゃ駄目なわけだ。「選択と集中」は、「予見困難なのだから、失敗するのが普通」と考えるべきものだが、この人物は「引き抜きや退職という特別な危険があるから失敗する、そうでなければ成功する」といういう五分五分の評価をしてしまっている(ように読める)。FEに引きずられるかどうか以前に、そもそもそんな発想に向かってしまえるナイーヴさがすでにおかしいのだ。

  上記投稿を目にして私が感じたモヤモヤを言葉にしてみると、こんな感じ。

  studio e.go!だと、『神楽』シリーズでは自軍ユニット数が極端に少ないので、偏った育成をする意味が乏しい。『キャッスルファンタジア』シリーズだと、リアルタイム進行のため乱戦傾向が強く、特定のユニットだけを集中的に強化することが難しいし、弱いユニットを放置することもできない(※そういうユニットは回復スキルや攪乱スキルを持っていたりするので)。
  Leafの『うたわれるもの』は、上記のFE型の原始的欠陥がかなり強く現れている。かなり古いタイトルなので仕方ないが。敵ユニットを撃破した数に応じてステータスアップポイントを入手できるという単純なシステムだし、味方ユニットが多くてかなりダブつくので、二軍ユニットはずっとお留守番になりやすい。しかも、ゲーム進行に伴う成長度合いが大きいので、ステータスの足りないユニットは敵を撃破できない=レベルアップできないままになりがちだ。フリーマップが存在しないので、弱いユニットを後からフォローすることも出来ない。もっとも、難易度の低いキャラゲーなので、任意のユニットを好きなように使っても大抵はなんとかなるのだが。
  Eushully(『姫狩り』シリーズなど)は、ストーリーに応じた出撃制限や強制出撃をしばしば設けているが、かなり作為的で、面白味は乏しい。ただし、ユニットによって「飛行属性」「潜水属性」や相性属性があり、マップごとのユニット使い分けが促されるようになっている。また、フリーマップで自由に育成できるので、育成制限は問題になりにくい。
  ソフトハウスキャラだと、『王賊』がSRPGに近いシステムを採っている。主要キャラクターは強制出撃だったり、各ユニットに出撃コストが掛かったり(※強力なユニットは超高額な費用が掛かる)、中盤以降はフリーマップで自由に育成できたりする。なので、FEのような原始的な問題は起きない。育成によるステータスアップも、それほど極端にならない(上限が低い)ので、特定ユニットだけを超強化するということは出来ないし、ゲーム全体の難易度バランスも維持される。
  創意溢れるescu:deには、SRPGは無かったと思う。alicesoftも同じく。『大帝国』あたりは、SRPGっぽいと言えなくもないかもしれないが。xuseのゲームバランスがどんな感じだったかは、もう忘れてしまった。

  「ずっと二軍(留守番)」から、『永遠となった留守番』を思い出すのはアダルトゲーマー。
  たっちーブランドなので、中身はかなりハード。

  個人的には、SRPGのゲームシステムは好きではない。ユニットを一つずつちまちま動かすダルさとか、上記の成長度のような妙な制限をプレイヤーに課してくるところとか、攻略本を見なければ分からないような隠し要素を大量に入れてくるのとか、難易度調整もけっこう滅茶苦茶なところとか。創造性に欠けたシステムデザインであって、90年代までならともかく、2010年代にわざわざ作るようなゲームではないと思っている。好きな人はいるのだろうけど……。


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  この指摘は、それはそれで正しいのだろうけど、言い換えれば「知らない人からの犯罪は、現在では非常に少ない」=「知らない人を警戒するという意識が浸透しているおかげだ」という可能性もある。実際、そういう種類の犯罪者が面識のない子供を標的にしようとすることもある(あり得る)わけだし。
  もちろん、知り合いからの犯罪も、それはそれできわめて重大な問題だが、そうすると今度は、子供は何をメルクマールにして危険を避ければよいのかという基準が完全に失われてしまうのがなんとも難しい。最も正確に述べるならば、「(実親や教師を含めて)大人は全て危険である可能性がある」ということになってしまうが、さすがに子供はそのような認識に耐えられないだろう。脆弱な幼少者が、まず最初に頼らねばならない(頼らなければ生きていけない)存在を、同時に危険な存在として疑えということなのだから。
  次善の方策としては、「一人の大人の意見を鵜呑みにしてはいけない。複数の視点からの意見を聞くのがよい」ということになるが、世界の狭い子供にはハードルの高い要求だし、とりわけ両親が結託して虐待しているような場合にはどうしようもない。陰惨な話だ。
  「身体的接触は拒絶しなさい」という具体的内容を示すのは、判断基準としてはきわめて正確だが、しかし幼少者に対する犯罪は、おそらくは人目のない場所に連れ込まれた時点で抵抗困難な状況になってしまうだろうから、実効性はかなり乏しいと思われる。

  もう一つ、皮肉な話をすると、知人が犯人の場合は、被害者数は顔見知りの範囲(加害者一人につきせいぜい数人)に限られる。それに対して、「知らない人」による犯行が行われやすい状況だと、被害者が何十人、何百人にも及ぶ可能性がある。だから、被害者をできるだけ少なくするために合理的に考えるならば、「まずは知らない人を警戒せよ」と優先的に教えるのは、ひとまずは理に適っている(※実際には加害者の比率等によって変動するけど)。
  もちろん、だからといって、救われずに加害されたままの児童がいてはいけない。だから、複数の方法、複数の制度を用意して、可能なかぎり被害を減らすべきだ。結局のところ、残念ながら、犯罪抑止(犯罪回避)のための万能絶対の方策は、なかなか無い。

  「子供を常に複数の(異なった立場の)大人が監視している」という状況であれば安全性は十分に高まるが、それはそれで「あまりにも高コストにつく」、「子供のプライヴァシーが失われる」という問題があり、けっして現実的とは言えないだろう。


  えーと、Ci-enのポイント(預金)残額って、どこで確認できるの? 個々の「決済履歴」は確認できるけれど、表示されるのは購入分(引き落とし分)だけで入金情報は見られないし、現時点での残額も分からない。
  SHCファンクラブの分は余裕を持って入れてあるし、不足しそうな時はメールでせっついてくるので、さしあたり実際上の問題は無いのだけど、現時点での正確な蓄積額が見られないのはけっして良いことではない。DMMほどではないにしても、やり口がいかがわしいと感じてしまう。

  web決済やポイント購入システムの利用を極力避けているのは、このためだ。つまり、「手続の手間」や、「登録時とともに個人情報をいくらか渡すことになるリスク」、そして「チャージした金額の一部を忘れてしまう(=放棄してしまう)リスク」などは、けっして無視できない問題だ。いずれデジタル決済は不可抗的に浸透していくのだろうし、そうした流れの中で守旧的な姿勢ではあるのだが、いろいろ考えたうえで、できるかぎり現金主義を維持している。月末のgetchu通販も、毎回代金引換で購入している。


  「凜」という名前のキャラクターは、意外と少ない、というか、非常に少ない。ただし、よく似た文字の「凛」は、かなり多い。不思議な現象だ(※ちなみに、現実には、どちらの文字も人名に使えるようだ)。「凜」の方は、 EGScapeに登録されているのは、たった5人。登録されていないものを含めても、10人いるかどうか。しかも、(こう言っては申し訳ないが)マイナーな作品ばかりだ。フルプライスの白箱系タイトルだと、『77』と『さくらいろ』にいるくらいか。毎年2000人程度のヒロインキャラが作り出されているにもかかわらず、本当に少ない。それに対して「凛」の方は、EGScapeに登録されているだけで 39人。偶然の使い分けとは言えない大きな落差がある。
  いずれにせよ、フィクションキャラクターのネーミング傾向は、興味深い問題だと思う。

  ちなみに、最初に頭に浮かんだのは『こころナビ』の今関凛子。「凛」一文字じゃないけど。

  アダルトゲームで一番多い名前は何だろう? 「さくら(or桜)」あたりだろうか。遥(or遙)、美咲、栞(or詩織)、静香、杏、葵(orあおい)、薫、明日香、千鶴、梓、楓、初音のような、ほどほどに無難な名前もかなり多そうだ。『D.C.』シリーズのヒロインズを、一作品ごとに別カウントしていったら、それだけでかなりの数になってしまうが……。
  (『痕』ネタをこっそり仕込んでしまった。実際には「千鶴」は少ないと思う。)

  名字だったら「小鳥遊(たかなし)」が思い浮かぶ。現実では希少名字だが、オタク系フィクションにはやたら多い名字。アダルトゲームもその例に漏れず、というか、この名字の普及に一役買った主要なアクターの一つだと思う。


  [ www.youtube.com/watch?v=esUXUubUN08 ]
  「『工口倫子』は『未来ラジオ』の世界観だしね」(55:00-)。えっ。


  鈴谷氏は、こんな上っ面の体裁を整えただけの芝居でよくも役を取れているなあ……。最近のタイトルで聴いても全然成長していないのに、それなりのヒロイン級のキャストに入っているのが、不思議なくらいだ。ただ口先だけで脚本をなぞっているような芝居で、まるでキャラが生きている感じがしないという(元)桃組クオリティのままなので、聴くのがほんとうに苦痛なのだが、わりとメジャーなタイトルにも出てくるのが辛い。
  こういう芝居の人たちは「聴くだけ損」だと思って、個別音声OFFにしている。以前の私は、「仮にもプロの役者が演じているのだから、きちんと聴くのが礼儀だ」、「正当に選ばれたプロの芝居なのだから、私には理解できないところで優れているのかもしれない」、「前回は駄目でも、今回は良くなっているかもしれない」と考えていた。しかし最近では、「こんな芝居には敬意を払えない」、「やっぱり駄目なものはあるよね」、「これではもう、成長を期待できないよね」と割り切るようにしている。悲しい話だが。


  風邪気味。いや、高熱や咳のような明確な風邪の症状は出ていないが、微妙に頭がふらつくし、とにかくずっと寝続けられてしまうのは、明らかに身体が不調を来しつつある。まだ風邪そのものではないが、風邪の引きかけであることは間違いない。
  栄養のあるものを食べて、身体に負担が掛からないようにして、ゆっくり過ごしたいが、それでもいろいろ仕事があるのだよね……。
  このブログを検索すると、2018年3月と2017年6月に風邪を引いていたようだ。この20ヶ月の間、風邪を避けていられたのは幸いだが、しかしここで体調を悪化させるわけにはいかない。



  11/26(Tue)

  模型店やゲームショップの店員さんに対しては、「みんな私よりも知識がある方々だ」という気持ちで、心の中では敬意を持って接している。実際、そうだろう。商品知識の幅広さも、メーカー側の現場的事情や最新の市場動向も、そしてそのジャンルに対する熱意(コミットメント)も、並の客よりもはるかに詳しい筈だ。そうは思いつつも、「本格的なキットじゃなくてこんなお手軽キットでお茶を濁していてお恥ずかしい」とか、「こんな特価品で買ってしまって申し訳ねえです」とか、「使い回しの多さで知られたロープラブランドなんか買うのは決まりが悪いなあ」とか思いながらも、そういう商品もレジに持っていくことがあるが、まあ、そのあたりは大目に見てほしい。
  いや、べつに敬礼とかはしないけど。(おばか)


  3Dモデリングのゲームはしばしば、視界のあらゆる部分がこれでもかと精密に造形&描画されていて、ほんの少し見ているだけでもおそろしく疲労する。めまぐるしいアクションゲームだと尚更。ものによっては遠近法的にボカしたり、霧などのエフェクトでマイルドにしたりしているけれど。大作映画が派手な映像と激しい音響と頻繁な切り替えによる疲労感を、作品の満足感と誤認させているのと似たようなものかもしれない。
  しかし、かといって、2Dドット絵の時代に戻れるわけでもなく、また、それらの代わる第三の道も見つけられていない。スマートフォンゲームなどの小画面ゲームでは、穏健な3Dを使いつつSDデザインのキャラクターを多用することによって、問題のいくらかの部分を回避しているように見受けられるが、よく分からない。ゲームの画面構成は、不毛の袋小路に向かいつつあるのではないかという危惧を感じている。

  そういえば、10年代前半頃(?)にソーシャルゲームなどで流行っていた、画面全体をやたらキラキラゴテゴテと描き込むハイカロリー志向の一枚絵を、最近はとんと見かけない。そういう流儀は廃れているのだろうか? それとも私の見聞範囲に無いだけで、今でもそういうスタイルのイラストが多用されているのだろうか?


  ワシも最近はめっきり黒セーラー服に弱うなり申してのう……。
  特に今年に入ってからのことだが、何故だろう。
  黒白セーラーも良いし、オール紺色も素晴らしい。ネービーブルーそれ自体はべつに好きでもないのだけど、セーラー服はやはり黒系がいい。
  お色気志向ではなく、コミカルな可愛さがあって、それでいて幼い印象にはならず、また、デザインがすっきりしていて、紺色と合わせてシックな雰囲気があるが、それでいて開放感もあるというバランスが、見ていて心地良い。背中側に回り込んだ大きな襟も、楽しそうに見える。襟や袖に入ったラインも、水兵服の起源を残しつつ、シンプルながら引き締まった印象を与える。
  残念ながら、実生活(学生生活)ではセーラー服とはご縁がありませなんだ。

  アダルトゲームには、オーソドックスなセーラー服はかなり少ない。「制服によって作品を差別化したい」、「煽情性に乏しい(例えばバストの膨らみを表現しにくい)」といった要因がありそうだ。「全員がセーラー服だと、個性が強すぎる」という事情もあるかもしれない。実例を繙くと:
  1) 黒箱系だとBISHOPに多いという印象がある。
  2) ピンク系だと、『彼女×彼女×彼女』や『雨芳恋歌』にセーラー服ヒロインがいるが、どちらもスリム年下系。
  3) 第三の類型は、ミステリアスヒロイン。『アトラク=ナクア』『屍姫と羊と嗤う月』『レコンキスタ』など、上下とも黒のセーラー服のキャラクターは、視覚的にも異彩を放つ。

  『グリンスヴァールの森の中』は全員が黒セーラー服の学園ものだが、SLG作品なのでどぎつい画面にはなりにくいし、真っ黒ではなくシックなダークグレーに作られている。
  その一方、フルプライス学園ものAVGなのに、「全員が黒セーラー」「各部に金ぴかライン」「ど派手なチェック柄の赤リボン」「よりにもよって白色ベルト」「下品なスカートフリル(白)」等々の最低セーラー服は、まあ、目を背けたくなるデザインだった。以前にも批判したので、あえてタイトルは挙げないが。


  風邪の引きかけと〆切前のストレスによって、無限に寝続けられる体質を手に入れた。
  もはや私の睡魔を止められる者はいない。



  11/25(Mon)

  [ nexton-net.jp/KarinProject/karinchan/character_13.html ]
  大波氏のご出演が正式に確定。体験版で聴けていたから確認済みだけど。
  そして、「羽賀ゆい」名義ということは、やはりリュミスが出るのだろうか。


  本業方面のちょっと大事な〆切があるので月末まで多忙。〆切は多少はみ出しても大丈夫だと思うけど、年末年始が挟まってくるため、あまり遅れると取り戻しが出来なくなる危険がある。信用問題でもあるし、ひとまずは真面目に〆切を守るつもりで作業しよう。


  [ websunday.net/rensai/yofukashi/ ]
  入魂の眼鏡描写をしてくれる本格派の作家が、今度は深夜徘徊ネタで連載してくれるとは、私はなんと素晴らしい時代に生きているのだろう。というわけで単行本第1巻を買ってきた。


  きちんとした教育を受けられなかった(あるいは自ら疎かにしてしまった)若者が、あまりにも粗漏な差別発言を公然開陳してしまって悲惨な結末に向かおうとしているのは、本当に悲しい風景だ。二十歳を超えた大人なのだから発言の責任は100%本人が負うべきではあるのだが、あそこまでひどくなってしまう前に、周囲はなんとか出来なかったのだろうか……。それなりには有望であった筈の若き研究者の前途が潰れてしまうのは――本人の責任とはいえ――やはり悲しい。

  それはそうと、中途半端に日和った姿勢で最初に発表を出してしまった東京大は、ちょっと恥ずかしいことになりそう。うちとは関係ないという責任回避の言い訳を出しただけで、具体的な対処などは一切示唆せずに切り上げてしまったからね……。今後の対応は慎重に協議中云々といったエクスキューズを入れることも怠っている。
  「あれはあくまで余所の団体の採用方針に関する発言だから、うちには直接の関係は無い」という立場を打ち出してしまったのは、実のところ、かなりまずい。このことから、学内での具体的対応は行わないつもりだという姿勢を意味すると読まれてしまう。しかも、実際にレポートの文面では、教員の処分や学生の救済などの対応については、まったく言及せずじまいだった。要するに、知らんぷりでやり過ごそうとしている姿勢にしか見えない。例えば当該講座の受講者に対する保護(不公平採点の懸念や、受講中止者に対する代替的機会の提供)など、大学としてやらねばならない事項はある筈なのだが……。
  その後、他の関連団体は資金引き上げなどの厳しい対応を取り始めている。そうした中で、東京大は責任回避的姿勢だけを明示してしまっているので、それを食言して蒸し返すわけにはいかなくなってしまっている。いや、実際には事後対応をする可能性はあるけど、それはそれでいかにも後手後手の追随的対応に見えて、なかなか恥ずかしいものになるだろう。
  ※後日追記:第一報が不十分なものであったことを認めて適切厳正な対処を約束する告知を、学生向けに出したとのこと。いずれにせよ、まともな方向へ修正したことはひとまず評価されるべきだろう。

  かなりデリケートな皮肉を言うと、対象が中国人だったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。もしもこれが比較的マイナー(?)な対象、例えばベトナム人差別とかポーランド人差別とかブラジル人差別だったりしたら、あるいは国籍以外の相対的に判断の難しいカテゴリーに基づく差別だったならば、あるいは実利的なダメージの見えにくい対象であったならば、ここまできちんとした批判とリアクションが出ただろうかと想像すると、ちょっと怖い。もちろん、どの国籍であろうが差別の不当性はまったく同じなのだが。

  もう一つ。これ幸いとばかりに文系的教養の効用を誇ろうとする人たちが現れているけど、火事場泥棒的に功績を盗み取ろうとしているかのようであまりにも見苦しい。
  1) そもそも今回の問題は、別に人文or社会科学の特別な習熟を必要とするものではない。例えば、純粋に理系(自然科学系)オンリーの知的訓練を受けてきた人でも、通常はけっして踏み外さない筈の事柄だ。つまり、今回の問題は、学知一般や社会常識に対する最低限の理解さえあれば防げるようなものであり、人文的な「教養」などをわざわざ持ち出す必要などない。
  2) 人文学&社会科学の意義は、今回のような幼稚すぎる差別的思考を抑止することに存するというわけではない。そんなちゃちなものではありませんよね。もっと高邁高尚深遠深甚なものですよね。むしろこんな安っぽい問題に噛みついて我田引水的に自らの学問領域の実際的効用を喧伝するのは、自らその分野の社会的文化的学問的意義を貶めているに等しいし、そのような安っぽい振舞いはそれ自体、物事の軽重を致命的に見誤った、無教養で不見識で浅薄なダボハゼ的リアクションだろう。
  3) もっと言えば、人文系、社会科学系に分類される分野でも、この程度の愚かな思考をしている研究者は、えーと、あの、その、まあ、残念ながら、たまにいますよね。さすがに法学・政治学畑には(学問の性質上)そうそういないと思われるが、歴史学、社会学、言語学、文学、宗教学、教育学、等々を修めた研究者でも、今回のような謬見を絶対的に免れられるわけではない。残念ながら、学問というものは、そんなに都合の良い特効薬ではない。実際には、遺憾ながら法学や政治学の専任教員の中にすら、残念ながら醜悪な差別的思考の持ち主は、まことに残念ながら存在する。それらを公言して批判を浴びる者がほとんどいないのは、彼等が人文知を備えているからではなく、世間知を備えているからにすぎない。
  4) 今回の件に絡めて人文学の意義をわざわざ誇るということは、換言すれば、理系(自然科学)のディシプリンには研究倫理の知的防波堤が存在しないと思い込んでいるということだよね? さすがにそれは自然科学諸学に対して失礼ではないか。いや、明らかに自然科学に対する無知を露呈するものであり、そして誤った認識に基づいて自然科学を侮辱するものだろう。今回問題になった人物はたまたま理系(数学系?)分野だったが、この一事のみをもって「理系の学問は愚かな社会的偏見に対する知的抵抗の準備が存在しない」と見做すのは、迂闊すぎるし、雑すぎるし、見当違いにすぎる。理系にナイーヴな科学万能主義が蔓延しているかのようにあげつらう人々は、それ自体あまりにも素朴な自然科学に対するリテラシー欠如を晒している。今時それはないでしょ。

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  例えばこのあたり。たまたま渦中の人物が歴史(学)を腐す発言をも――問題の発言とはほとんど無関係に――行っていたというだけであって、今回の問題には歴史(学)なんかほとんど関係ないだろう。それに、歴史(学)を学んでいれば今回のような愚行を避けられるだなんて本当か?とツッコみたくなる。我田引水的にしゃしゃり出てこられても困る。自らの学問領域を軽侮されて腹が立つのは分かるが、そんな場違いなマウンティングを仕掛けなくても良かろうに……。
  まあ、この人物自身、話題によってはかなりきつくバイアスを露呈させており、つまり「歴史学のディシプリンは社会的偏見を排除することにたいして役立たない」という実例見本になってしまっているし、そもそもあんまり教養が(以下略)。

  忌憚なくいえば、上記のような言論傾向を目にして、「あーあ、人文系の人たちも安っぽくなってしまったなー」という印象が強まった。これもまた、なんとも悲しい話ではある。
  ネットでの発言は、ただ自由な(そして知的誠実の下にある)発言であることができる筈だ。まるで応募書類か何かのように、自分野の研究の実利的効用をアピールすることに齷齪しなくてもいいのに。残念ながらそういうせせこましい営業活動体質に染まってしまった研究者もいるようだ。

  例えば人種差別如何の問題にしても、社会科学(とりわけ法理論や政治理論)は規範的議論として差別禁止の正当化を提供することができる。しかし、自然科学は自然科学で、例えば人種間で有意な能力差は存在しない(そしてそれゆえ、人種や国籍に基づいて異なった取り扱いをすることは不当である)というフェアな結論に到達することができるだろう(※おそらく実際に、そういう結論が得られている筈だ)。
  また、医療倫理や生命倫理が典型的であるように、自然科学ベースの研究領域においても、当然ながら人間性の尊重の観念は研究プロセス全体に深くビルトインされている。例えば「クローン人間禁止」の規範意識は、文系から理系へ一方的に下賜されたわけではなく、むしろ理系サイドの実践において内発的に形成されてきたものだろう。

  いわゆる「文系」は、基本的には「人間の活動」を対象とするものであり、それに対して理系(自然科学)は人間の意識作用の介在しない自然現象を対象とする、と規定してよいだろうか。数学や心理学や精神医学のような境界領域もあるけれど。その意味では、文系諸学を深く修めることは、人間性の限界や複雑さや多様性や創造性や面白さを不可避的に直視することになり、そのことを通じて人間性(の尊重)に関してよりいっそう公平な評価を下せるようになるきっかけに恵まれているだろう。それゆえ、人文/社会科学の研究者は、平均的に言えば、一般人よりも、そして自然科学系研究者よりも、人間性や人間が形成する社会の諸問題に関して、より公平で正しい姿勢を取れる傾向がある……と期待したい(※ただし、個人単位で見ればもちろん、差別主義的な社会科学者もいるし、公平廉直な自然科学者もたくさんいる)。


  [tw: 1198435957562724353 ]
  上の話題とはあまり関係のない話だけど、たまたま視界に入ったので。20代なりの痛さは免れるとしても、50代や60代になったからといって恥ずかしい発言をしなくなるわけではないよね。人間はいつまで経っても無謬の存在などにはなれないのだし、50代には50代の、60代には60代なりの痛い発言は出てくるものだろう。そして、50代の痛い発言は、平均的にみて残り30年弱の生涯に亘って蒸し返され続ける可能性があり、60代での痛い発言も、残り20年近くの長きに亘って蒸し返され続ける可能性があるのだ。そういう可能性を認識できずに、「20代の頃にSNSが無くて良かった」などと他人事のように発言している60代の大人は、すでにそれ自体きわめて危なっかしい。「自分は(この年では)もう失言などしない」と安心してしまった言論者ほど危ない存在は無いのだが、この発言者はまさにその危険を自ら遂行的に証明しつつある。
  (この人物のことはろくに知らないし、それゆえべつに嫌いでもなんでもないのだが、あからさまに自分の足下が見えていない痛い発言に、あらあらうふふと皮肉を言いたくなっただけ。)

  ちなみに私自身は、せいぜい50歳前には、何かのきっかけで適当に生命活動を停止できていたらなあと思ったりしている。(←イタい発言)


  Triangle新作は『アークキャリバー』の続編っぽい?
  『アークキャリバー』は、同社タイトルの中ではモンスター系のわりときつめの描写が特徴的で、10年代前半の△作品の中では出来の良い部類だったと言えそうだし、その続編ならば期待したいところ……なのだけど、どうせ桃組十把一絡げなんだろうなあ。けっ
  ※後日追記:幸いにも桃組ではなかったが、失礼ながら、まるで知らない名前ばかりだ。


  おなかが突っ張るような……。お風呂で確認したら、腹部のシルエットに膨らみが、いや、微妙な、ほんのわずかな、あるかないかの、できれば無いのが望ましい、ちょっぴりの、夏痩せしていた頃とはどこかが違うような違わないような、膨らみとも言えないほどの何かが……。ここしばらく、一日一箱ペースでチョコを食べまくっていたのが祟ったか。節制しよう、明日から。(もぐもぐ)


  ういんどみるの「Oasis」ブランドは、こ~ちゃ氏メイン(企画主導&単独原画)という理解でよいのだったか。ただし、『春風センセーション!』は藤原々々氏とのコンビ原画だし、逆に無印ブランドの『色に出でにけり』にこ~ちゃ氏が原画参加している場合もある。



  11/22(Fri)

  とある漫画作品(全年齢)に登場したサブキャラカップルが、同じ作者(一応別名義)の短編アダルトコミックでえろえろな行為を披露していたとは……。こういう洒落っ気のあるふてぶてしさは、かなり好き。ちなみに、発表順序でいうとアダルトコミックの方が先で、そのキャラを全年齢コミックの方にも登場させたということになる。主人公の友人キャラの妹夫妻という脇役なのにやけにキャラが立っているなと思ったら、こんな事情だった。

  しかし、漫画関連でweb検索すると違法サイトとおぼしきものが検索上位にわんさかヒットして、迂闊にリンクを踏めない。検索結果表示だけでは、どのページがまともでどのページがNGなのかすら判別困難なのが怖ろしい。
  違法サイトと通販サイト、それから無内容なブックマークページや質問サイトや断片的なまとめサイトばかりが検索結果を占拠している現状では、そもそも私(たち)が検索をすることに何か意味があるのだろうか?という疑念すら頭をもたげてくる。


  アダルトゲームだと、パッケージに原画/脚本スタッフの名前が明記されているのは、7割はあると思う(※てきとーな体感)。公式サイトや通販サイトでは、9割以上がメイン原画とメイン脚本を明示している。プログラマーやCGスタッフはなかなか出てこないが。ディレクターも、公式サイトでは3割くらいが名前を出していると思うが、アダルトゲームの「ディレクター」は作品コンセプト等を決定するというよりは進行管理の比重が大きいようだ(※アダルトゲームメーカーは大半が小規模チームなので、作品内容についても社内協議で決めていくことが多いようだ)。パッケージでは、主要キャストが記載されている比率も高い(三分の二くらい?)。
  アダルトゲーム分野では、「替えの利かないクリエイターの個性が客を呼ぶという傾向が比較的強い」、「そもそもフリーランスが非常に多いので、引き抜きなどの心配が要らない」、「フルプライスタイトルは長期間制作である(=長期間の共同作業になる)ため、企業がクリエイター個人から成果物だけを収奪するという構造になりにくい」といった要因がある。こうした特性は、業界および市場の健全性を確保してきたと思う。ユーザー側にとっても、「不誠実な出来のタイトルで売り逃げされるというリスクが低くなる」というメリットがある。
  もっとも、それでもなお、制作期間や資金や技術の問題から、もったいない出来の作品が現れることはある。また、「名前を変えて逃げる」とか「名前を出さない」という逃げ方も可能だし、メイン原画とメイン脚本以外(サブ脚本、CGスタッフ、プログラマーなど)は名前が出ないのが通例だ。しかし、広報やパッケージでちゃんと名前が出るというのは、良い慣行だと思う。けっして万能の解決策ではないが、良い影響をもたらしてきたと言えるだろう。
  それに対して、現代のガチャガチャ系ブラウザゲーム/アプリゲームの多くは、(少なくとも公式サイト等の公式情報としては)制作スタッフを明示していないらしい。「参加クリエイターが多すぎる」「基幹スタッフ引き抜きの懸念」などの事情があると思われるが、クリエイター個々人の業績がきちんと記録に残されない(クリエイター自身も履歴書等に書けなかったりする)のは不幸だと思う。


  [tw: favo_official/status/1197819798605848577 ]
  旧CROSSNET時代の別チーム(?)同士が、また協力関係を結ぶことになるとは……。
  ちなみに、どちらのブランドでも杏子御津氏が大きな役を持っている。(私にとって重要)


  ゆずの件。
  建物の外観は原則として、こうした二次使用を制限されない(権利侵害ではない)。
  作品のメイン舞台として大きく扱うのであれば、さすがに筋を通しておく方がよい。
  ただし、今回の場合は、似ているのは建物の外観のみで、内装は別物のようだ。
  性的なシーンや暴力シーンで使用してしまうと、営業妨害と見做される可能性がある。
  建物の所有者等が不快に思ったりそれを表明したりすることも自由。
  店舗側としては、ゲーマーたちが押し寄せることにあまりメリットを感じないだろう。
  作品コンセプト等に照らして、メーカー側があえて突っ張る必要も無さそう。
  メーカー側が引いた(差し替えを決定した)のは、相手と折り合いをつけた大人な対処。
  ……こんなところだろうか。

  知名度の高い大型施設ならばともかく、カフェや洋菓子店などは、「客層が絞られている(しかも男性オタク層とはあまり重ならないだろう)」、「地元密着型の売り切り型販売であることが多く、大々的に宣伝する必要は乏しい(知名度を上げるメリットがあまり無い)」、「個人経営であることが多く、現地探訪趣味に対する理解の度合いも一様ではないし、対応のノウハウも蓄積されていないことが多い」、「ブランドイメージを重視する場合も多く、そうした場合はしばしば二次使用に対して強く警戒しがち」といった事情がある。そのため、創作物で建物外観等が利用されることにメリットを感じず、それに対して好意的なリアクションをしないという場合もあるだろう。
  公共性の高い施設(駅舎など)、歴史的建造物、ランドマーク的建造物、知名度の高い観光地ならばともかく、私企業や個人経営の建物をそのまま使う(しかも物語の主要舞台として大きく取り上げる)のは、あまりよろしいことではないだろう。モデルにするとしても、せめていくらかはアレンジした方が良いと思われる。
  今回の件は、一ゲームメーカーだけの問題ではない。00年代以来の舞台探訪(聖地巡礼)趣味との関係でも問題になってきたことであり、特に私有地にファンが立ち入ることは厳しく戒められてきた。「町おこし」などのプロジェクトとの関係で、肯定的な側面ばかりが注目されがちだが、作品制作者の側の表現意図とモデル側の利害は一致するとは限らず、双方の調和は常に意識されねばならない。


  [ laplacian.jp/yonagi/ ]
  Laplacian新作。過去作の背景が……? 神代岬天国になるんです?
  春乃氏は、まだよく分からない。ParasolやLaplacianやLump of Sugarによく出演されているので聴く機会は多いのだが、「この役者さんの個性の核心はここなんだ!」「この役者さんのスタイルはこういう路線なんだ!」という手応えがまだ掴めていない。


  ミリタリー関係の動画は、BGMがガサガサで荒々しいのが苦手。
  そうなる理由は一応理解できるのだけど。歴史ものだと、時代を感じさせるような曲が似合うという判断だろう(※それでも音の割れた軍歌とかはきつ過ぎる)。現代のものだとアウトドア撮影になるので、現場の放送BGMだと音質が低くなるのもやむを得ないし、後付けのBGMでも低音の効いた曲(※しかもしばしばフリー素材)が好まれるのだろう。
  BGMは嫌いだが、かといって無音再生にしてしまうと、実機の音(エンジン音や砲撃音)も聞けなくなってしまうというジレンマがある。結局、ミリタリー動画はほとんど見ないし、たまに再生してみても音がきつくてすぐに閉じてしまう。web上にある資料的動画も、雑誌等の付録ムービーも、ひどいものばかりのようだ。


  『化石の歌』はwin98時代のタイトルだから、OS対応が難しかったのかなあ。
  とはいえ、EGScapeを見るとwin7(64bit)まではなんとか動作可能だったらしい。


  [ so-iree.com/top.html ]
  原画は、『プレアデス』のファンアートなどを描いている方(という形で認識している)。
  そして脚本には、○○ごぅる氏。やっぱり四つん這いなんです?


  [ www.escude.co.jp/ ]
  Escu:deの新作は、北欧神話系(?)の調教SLGのようだ。
  おそらくシリアスものではなく、いつものピンク系路線かと思われる。

  来年に向けて、面白そうな新作情報が続々出てきて、嬉しいかぎり。


  「ガールプラモ年表」記事に、各社の主要なシリーズのおおまかな解説を付記した。


  アニメが画面内に擬音を「文字そのものとして」表示してしまうのは、いつ頃から行われていたのだろうか。個人的には、非常に安っぽい見せ方だと感じるので、あまり見たいものではない。
  ゲーム(AVG)でも、非常に少ない。ただし、SD一枚絵では比較的頻繁に見られる。また、ベッドシーンの音響を、漫画のような仕方で文字表示するタイトルがほんのいくつか存在する。



  11/20(Wed)

  話題の切り分け。例えば、クラシック音楽の話をしているつもりところに、ヒップホップの話題を持ちかけてこられても困る。しかしその人としては、音楽全般の話題だと考えて、そのワンオブゼムとしてヒップホップに言及したということもあり得るだろう。あるいは、アニメ作品に関する話題を持ちかけてきた人に対して、映像作品全般の話だというつもりでハリウッド映画の例を挙げたら、相手はあくまでアニメの話をするつもりだった、ということもあり得る。これらは、どちらの側も見当違いをしたとは言えないのだが、認識の齟齬が生じている。
  話題のカテゴリーの切り分けは、あるいは話題のレベルの判断は、非常に難しい、というか、決定困難だ。フィギュアの話をしていたつもりが相手がドールの話に進んでいってしまうことがあるかもしれないし、ペット全般の話のつもりで応答したら「今は鳥類の話をしているのに、どうしていきなり両生類の話を?」と不興がられてしまうかもしれない。スタンドアロンのPCアダルトゲームに限定して述べていたつもりが、ブラウザゲームの例を出して反論されることがあるかもしれない。いや、べつにそうした事件があったというわけではないけれど、誤解や齟齬を防ぐためにも、ある程度は自分の基本姿勢を看板として明示しておく必要があるのかもしれない。


  昨日の通り雨に晒されたせいか鼻と喉がぐずつくので、今日はおいしものを食べながらゆっくり過ごしながらおいしいものを食べて食べて食べることにする。(本来の目的を見失う)

  「Carré de chocolat」シリーズは、「カカオ70」のほどよい渋みと、「マダガスカルホワイト」(ホワイトチョコ好きなので)の2種類が好み。甘ったるいのや苦すぎるものはあまり好みではない。ちなみに、一枚がやや大きめなので、指で縦横四つに割ってから一片ずつ食べている。


  私は性格が悪いので、「パチンコ化したコンテンツに関して、そういう作品のキャラクターたちがパチンコにハマって目を血走らせている、もとい楽しく熱中している風景のファンアートをブログやイラスト投稿サイトで公開したら、作者や他のファンははたして喜ぶのだろうか」と考えてしまった。一例としてpxvを「パチンコ」で検索して数百件見てもそういうイラストは出てこないので、幸いにもオタクたちはギャンブルに関して健全な姿勢を取っていると考えて良さそうだ。
  wkpdには「タイアップされたパチンコ・パチスロ一覧」という項目があり、そこには私の好きな作品も少なからず含まれていてたいへん悲しい気持ちになる。



  11/16(Sat)

  藤咲氏は、「藤咲ウサ」を演じている時が一番怖いかも。耳から摂取する薬物。
  トークを聴いていて、意識が吹っ飛ばされるような気分になることがある。鬼才。


  ご本人としてのラジオトークの切れ味という点では、沢村(波奈束)氏も凄かった。聴いたことがあるのは「リベリオンズ」ラジオのみだが、トークに横溢する才気、つややかな発声と快速調のテンポ、そしてあの金田氏と組みながら微塵も慌てず、むしろ余裕を持ってラジオ進行をリードしていく懐の深さまで、確かな技量と素晴らしい魅力があった。


  どんなに正しいことを述べている(あるいはそのつもりである)としても、他人の漫画の台詞を改竄した画像ではなあ……。他者の労苦の成果を乗っ取って文字通り書き換えてしまうという自らの行為を、まずは改めるべきだろう。そういう画像の拡散に手を貸している人々も同じく、自らの評価を下げる振舞いをしていることに気づくべきだ。実際、「そのあたりのモラルがきちんとしている筈だ」と信じていた方々が、あからさまな画像改竄ネタをぶっ通しでRTしているのを目にしてしまうと、本当にがっかりする。


  [ ci-en.dlsite.com/creator/1736/article/115467 ]
  「プララジ」第44回は、みる氏ゲスト。(12:00-)「台詞をちょっと変えてもらったこともあって。『ケイファちゃんはこんなに素直に謝らないと思います』って」。役者の側からこういう提案をすることもあるのか。シリーズもので同じキャラクターを演じ続けてきたという特殊事情もあるにせよ、役者自身が役の造形に責任を持つというのはこういうことなのだろう。

  12月は、おそらく海原氏がゲスト。海原氏(or伊東氏)ご自身としてのトークを聴くのは、「モンキーパーク」以来か。もう十年前だ。


  爬虫類のお店にも行ってきた。可愛いとは思うが、飼うほどではないと感じた。
  ヘビやトカゲは、野に生きる姿が一番魅力的だ。ヤモリだと人家の窓にいたりするけど。
  というわけで、ペットはきっぱり諦めた。私には可愛いフィギュアたちがいれば十分だ。
  フィギュアは死なないし、喧嘩もしないし、食費も要らないし、繁殖して増えたりもしないし。
  (ただしフィギュアはしばしば「仲間を呼んで増える」のだが。)

というわけで……というわけでもないけれど、「キューポッシュ:アン」(+「スクールせっと(セーラー服)」エッチング眼鏡)。はああ、かわいい……。セーラー服(水兵服)と眼鏡でコーディネートすると、なんとなく少年っぽくなる。そもそもSDフィギュアのシルエットそれ自体がわりと中性的だし。ただし、これだと膝関節部が露出してしまう。その意味では、デフォルトのワンピース姿も良いかもしれない。
SEGA「ラム:ルグニカAirLinesへようこそ!」。見る角度を微妙にずらすだけで、フィギュアの雰囲気が万華鏡のように変わる。エニグマフィギュアと名付けよう。というか、視線の向きがはっきりしないのが原因っぽい。

  それにしてもこの姉妹は、フィギュアだとありとあらゆるコスプレをしまくっていて、本来のメイド服を着ているものがろくに無いという奇妙な事態になっている。いやまあ、楽しそうだから、それはそれで良いのだけど。というか、もしかしたら原作本編でもメイド服以外の衣装にいろいろ着替えているのだろうか? あるいは、「メイド服は一定額以上のフィギュアのみ」といったようなブランド化戦略でも考えているのかもしれない。


  最近はヤナーチェクとマーラーばかりが頭の中を流れている。昨日はヤナーチェクの室内楽(小規模ウインド・アンサンブルを含む)を聴いていたし、今日は「グラゴル・ミサ」のCDを引っ張り出して楽しんでいる。一昨日はBernsteinのニューヨーク時代のマーラー全集を聴きながら仕事をしていた。バッハやルーセルも、ちょこちょこ聴いているけど。


  実店舗で見てみると、爬虫類はほとんど匂いがしない。なので、匂いが染みついてしまうとかハエなどが寄ってくるといったようなリスクはかなり低いと思われる。この点でも、ペットとして飼いやすい生物なのだろう。ただし、排泄物の始末をきちんとしていれば、という条件での話だが。


  あっ……そうだ! 波奈束氏の声に感じていた懐かしさは、西田こむぎ氏なんだ。つややかな発声とか、親しみやすいユーモアの雰囲気とか、喉声でクツクツと笑う感じとか、そんなあたりが連想を誘うのだろう。ただし、西田氏のトークは、短いフリートークの他は、「リラリラ」ラジオ(#23)を聴いたくらいだけど。そして、波奈束氏が金田氏のボケる方向をあらかじめ指示するかのような精密なトークだったのに対して、西田氏はまき氏の前で堂々とアトランティス天然ボケを展開していたものだけど。


  クラウドファンディングの蔓延には、強い危機感がある。たしかに一面では、これまで活用されてこなかった潜在的なユーザー資金をクリエイターサイドと結びつけて創作を支援促進すると言うことができるが、しかしそれは同時に、今この世の中にある余剰資源を、あるかぎり最後の最後まで掘り尽くすということでもある。持続可能性や均衡性の観念が無いものを制度化、慣行化してしまうのは非常に危ういし、ユーザーの余剰をぎりぎりまで絞り出したところで、その少なからぬ部分は高額支援者に対する特別な優待サービス(「特別版」なるものを別途作成したり返礼グッズを製造したり)という歪なかたちで消費されてしまう。とりわけ、日本のオタク文化に関して言えば、CF頼みの創作は、現在50代以上(「氷河期」以前)の世代が持っている経済的余裕を狩り尽くしたのちに、十年もしないうちに急速に砂漠化するだろうと悲観している。



  11/12(Tue)

  ページトップに掲載した『恋姫†無双』フィギュアの写真について。VOLKSの小サイズBOXフィギュアは、『マブラヴ オルタ』シリーズもある。つまり、藤原(夏野)ヴォイスの鑑純夏や稲葉(野神)ヴォイスの香月先生も立体化されている。ただし、どうやら『オルタ』までのシリーズのようで、千堂柚香は含まれていない。

  そういえば、稲葉さん(香月先生)=野神さん(伊隅あきら)が共演しているのか。


  キャストがあまり好みではないときでも、その中に「森川智之」の四文字が入っていれば「ああ、これなら期待してついていける」と思える。


  [ japan.googleblog.com/2019/11/update-account-2sv-setting.html ]
  gglアカウントの認証プロセスについて。私には直接の影響は無い筈だが、注意喚起を兼ねてメモ。二段階認証をONにしており、なおかつ確認用にキャリアメールを設定している場合には、確認手段が機能しなくなってしまうので変更しておきましょう、という話のようだ。


  ヘッドフォンキャラの絵は、飽きてしまいやすいのかもしれない。頭部または首元に置けるアクセサリーの一種として機能するのだけど、造形が比較的単純なうえ、サイズが大きめなので、「目立つわりに味気ない」という印象に帰着してしまいがちなのだろうか。着け方も、せいぜい両耳装着か首に掛けるかの二択で、似たり寄ったりになりがちだし。私自身は、以前からヘッドフォンキャラ好きを広言していたくらいだが、それでも最近は食傷しかけている。


  ドールカタログを見ている。……。……。……にやけてくるよね。
  ただし、価格があまり書かれていないのが、かえって怖い。
  店頭で(客の財布を)殺す、ということだよね。
  ボディから頭部から全身のコーディネートまで一揃い買ったら、いくらになることか……。
  あっ、いや、買わないよ、まだ買うつもりは無いからね。


  カルヴァドスチョコレートの季節がやってきました。(さっそく2箱買った)
  あ、でも、この味にはちょっと飽きたかも。おそらく昨年の冬に食べ過ぎたせいだ。


  近隣のPCゲームショップはどこも『カリンちゃん』のムービーを流しまくっている。NEXTONの広報パワーはすごいな! 体験版をプレイした感じでは作品のクオリティは確かなので、たくさん売れて多くのゲーマーたちが楽しい時間を過ごせたら私も嬉しいし、できればソフトハウスキャラの人気上昇にもつながってほしい。


  『パンプキン・シザーズ』23巻。「ハミルトン」という名前は、R. A. ハインラインから取っているのかなと思った。ハミルトン君が思想犯として投獄されたいというなら、あの王制国家の下で『月は無慈悲な夜の女王』みたいな作品を書けばいいと思うよ!(そういう話じゃない)


  猫耳美少女と現実に同居することはこの世界では不可能だが、モフモフな猫耳ネコネコキャットと現実に同居することは可能であり、そこそこの金銭と生活環境さえあれば叶うのだ……と妄想していたけど、猫耳コスプレを含めれば「猫耳美少女と現実に同居すること」も実は可能だったりするし、それどころか自らが猫耳美少女の姿(コスプレ)になることができるという人もいる。……試しにやってみようかな。猫耳と尻尾と獣臭香水(?)あたりを購入して、後は自分が美少女になりさえすればいいのだ。
  SFなどのフィクションでは、先進生物工学によって人体の形状をかなり自由に変えることができ、猫耳をつけたり尻尾を生やしたりすることファッションとして普及しているという社会が描かれることがある。アダルトゲームだと『MERI+DIA』、漫画だと『フランケン・ふらん』にもそうした描写があった。現実にも、人類社会が存続するかぎり、おそらく遠くない将来に、そうした技術が確立されるだろう(※もちろんその場合、クローン人間のように倫理的な制限が設定されるだろう)。


  関西弁に慣れていない声優さんの関西弁芝居は、聴いていてつらい。しかしこれは、フィクションに対する過度な現実性要求なのだろうか? アニメのミリタリー描写が現実の事物と違った形で表現されていることが気になってしまう軍事オタと同じ轍なのだろうか? 行き過ぎた現実性要求なのか、それとも単なる心理的感覚的な馴染めなさなのかは分からないが、芸術的評価としては、あまり表立って悪く言うべきではないと思う。
  ただし、その一方で、外部者による文化簒奪の問題圏に接近するものでもあり、それら複数の論点に対して誠実でありつつ整合性のある見解を取るのは少々難しい。関西弁を例に挙げるとして、「関西弁キャラは、関西人でなければ演じてはいけないのか? 非-関西人が演じる関西弁キャラは、自動的に価値の低い表現だということになってしまうのか?」という問と、「現実のまっとうな関西弁を大きく逸脱した言語表現に、『関西弁』という名を冠して流通させることは、はたして正しいのか?」という問という、二つの問題に挟まれることになるからだ。



  11/09(Sat)

  苺山文太郎氏は、ファンを自称したいくらい好きなのだけど……お名前の読みが分からない。頭の中では適当に「いちごやま・ぶんたろう」と読んでいるけれど、EGScapeでは「イチゴサンフンダロウ」と登録されている。どこかのクレジットやインタヴューで明示されていただろうか?


  最近はフィギュアをあまり買っていないので、雑記欄の「今月の一枚」が掲示できずにいる。そのためだけに買い物をするのは本末転倒だし、そういう枠に縛られずに気楽にしよう。


  『カガクチョップ』は、大きなどんでん返しもなく、わりと無難に締め括られた。カヅホ氏の描く「最終回」は初めて読んだが、連載全体を振り返ったネタも仕込みつつ、案外まっとうにオチをつけられるのだなと感心した。
  ただし、こちらの連載で存分に開放していたゴア要素が、『キルミー』の方に流れ込んでしまわないかという心配はある。


  「"ラクリモサ" "サクラモリ" に一致する情報は見つかりませんでした。」


  [ http://www.hook-net.jp/isuki/character/chara8.html ]
  木村氏の新作出演が! サブキャラではあるが嬉しい。

  あちらの方のtw投稿が6月から途切れていたので心配していたところなので、ほっとした。役者さんの活動は外部からは分からないので。


  【 商業アダルトコミック雑感 】
  先週中は、商業アダルトコミックを10冊ほど買っていろいろ読んでいた(+パラパラ立ち見を20冊以上)。この分野を集中的に読むのは私としてはほとんど初めての知的体験だが、全体的にみて、えろ同人とほとんど同じようなスタイルに見える。つまり:「基本的構成(コマ割りや台詞回しなど)」。「画風全般(キャラクターの描き方の支配的流行や、背景作画の密度など)」。「全体の展開(ただしこの点は、短編中心という事情もあって、ここ20年来あまり変化していないかもしれないが)」。「漫符等の表現技巧(目の中のハートや、液体描写、断面図スタイルの定着、手書き文字の入れ方など)」。こういった多くの側面で、同人分野と商業分野は手を取り合って進展してきているようだ。もちろん、少なからぬ数の作家たちが実際に同人活動と商業仕事を掛け持ちしている(つまり人的にオーバーラップしている)という事情もあるだろう。
  よく分からないが、性表現上の趣向に関しても、おそらく似通っているものと思われる。フェティシズムの対象とか、性行為プロセスの基本構成とか、etc.。例えば、キスして→握って→お口でして→挟んで→こちら側から→ひっくり返してあちら側から→さらにポージングを変えてそちら側から→断面図&見開き花火といったような、忙しくフルコースをこなすシークエンスは、00年代以前の同人漫画にはそんなに多くはなかったと思うし、おそらく商業漫画でも似たような状況であったかと推測される。洗練と、深化と、そして収斂が見られるのは、一つの文化的分野にとってどれほど良いことなのかは分からないが。
  ちなみに私自身は、性表現の多い漫画に関しては、同人誌に接する機会のほうがかなり多かった側。ただし、それほど多くもなく、年に2回ほど即売会に顔を出して適当に買って回ったり(しかも18禁の比率はかなり低い)、夏冬の頃に同人書店で適当に買ったりするという程度。

  商業と同人とを問わず、「*」部分をしっかり描き込むようになったのは、ここ数年のことだろうか。あるいは、*がはっきり見えてしまうような構図が平気で採用されるようになったということかもしれない。00年代以前であれば、*が見えないようなポージングにしていたり、あるいは見えるとしても控えめな「・」程度に描かれていたりすることが多かったように思う。記憶違いや視野の偏りもあるかもしれないが、おおまかにはこのように認識している。ただし、紙幅の制約もあってか、アダルトコミックで*を使う行為はかなり少なめなように見受けられる。

  いわゆる「断面図」も、最近ではもはや体内透視図のようになっている。つまり、局部断面のみのコマが置かれるのではなくて、全身を描いている大コマで、体内の結合部分が見えるように描かれるようになっている。正直に言うとグロくもあり、あるいはやり過ぎでギャグのようにすらなっているが、官能表現として考えれば、断面図のアイデアを推し進めた進化形なのかもしれない。

  商業と同人の大きな相違として、二次創作えろ同人の方は蹂躙系の比率が高いように見受けられる。キャラ立てやストーリーテリングの違いなのか、媒体の相違なのか、二次創作に特有の条件があるのか、よく分からない。

  アダルトPCゲームでは、状況が大きく異なる。4~5人のヒロインにそれぞれ4~6回ずつのシーンが割り当てられるし、一つ一つのシーンもかなり長い(10~20KB)。また、EGScapeや2chなどを通じて性表現上の趣向が細分化され体系化されタグ付けされていくとともに、一つのタイトルが可能なかぎり多くのユーザー層を取り込もうと躍起になり、多くの趣向をカヴァーしようとする。こうしたことから、一つのタイトル、一人ずつのヒロインがとにかくせわしなく、前後上下インドアアウトドアさまざまな種類のアクションを勤勉にこなしていく。例えば、恋愛(純愛)系タイトルであっても、*を使用するシーンが入ってくる頻度はかなり高い。
  アダルトゲームでは、性的なシーンの視覚表現は基本的に、静止画の一枚絵に頼らざるを得ない。つまり、漫画のように様々なアングル、様々なポージングを柔軟に変えていくことが出来ない。そのため、単調さを避けるため、多様性を確保するため、ポーズ被りを避けるためにも、多種多様なタイプの行為を追求することになった、という事情もあるだろう。

  これで商業アダルトコミックの動向がなんとなく分かったような気分になったが(本当か?)、この分野には深入りしないと思う。

  ……あっ。それらの漫画を読んでいて、なんとなく食べ足りないような気分になっていたのは、アダルトゲームの超長尺展開に慣れているから、なのかも。漫画のベッドシーンだと、十数ページでほんの3~4分で読みきれてしまうが、アダルトゲームだと十数分、長ければ20分から30分近くも掛かることがある。行為のシークエンスも、ウォーミングアップ行為(婉曲)からしつこくテキストで描写するし、行為の真っ最中もお互いの感情表現までしっかり表現される。そして終盤も、タイトルによってはカウントダウンシステムを入れる余裕まであるほど、ゆっくり丹念に進行していく。そのしつこさが鬱陶しいと感じていたが、それでもなんのかんのでその長さに慣れていたようだ。
  もちろん、全体のバランスの問題でもあって、現代のアダルトゲームのテキストワークは、通常シーンもアダルトシーンも等しくハイディテールに書き込んでいる。ベッドシーンだけをいきなりライトなものにするインセンティヴは、いまさら出てこないのだろう。


  マウスパッドが浮いてくる問題について。両面テープによる対処を試みたが、うまくいかなかった。原因は、「マウスパッドはかなり頑丈なので、曲がり癖が付いてしまったら非常に強く湾曲する」、「マウスパッドの裏面は凸凹があってテープが密着しにくい」、「両面テープの粘着力が不足」。
  やはりマウスパッドそのものを買い換えるか……。マウスパッドの一部が微妙に浮いていて、手を置くとわずかながらペコッと沈むのがものすごく気持ち悪い。いっそパッド無しで過ごしたいが、軟質塩ビのデスクマットを敷いているのでパッド無しではマウスがスムーズに動かせない。

  模型用のカッティングマットでよいのでは?と試してみたら、やたらスムーズ。うーむ、こんな身近なところに解決法があったとは……。表面は肌理細かくサラサラで、しかもツルツルではなくツヤ消し(マット)なのでベタつかず、手触りも心地良い。ベージュの色合いも「明るいが派手すぎない」という好ましいバランス。マウスの反応も完璧で、ピタリと止まる。おおう、素晴らしいクオリティではないか。幸せの青い鳥がこんなところに。
  サイズが大きすぎるという問題は、カッターで切断して解決した(※とはいえ、文字通り「カッティングマット」なので切りにくかったが、折り曲げればきれいに割れた)。位置固定できないという問題(当然ながら裏面の粘着力は無い)は、両面テープを再利用すれば解決した。いかにもアナログな処方ばかりだが、低コスト&即時&高品質な解決が出来たのだから良しとしよう。


  イラストで描くと、タピオカドリンクはどうしても「黒いブツブツ」の絵面になってしまい、申し訳ないけれどかなり気持ち悪いのよね……。実物ではそういう不快感は生じないのだが、平面上の絵にしてしまうと、ね……。(※絶対に検索してはいけない言葉:しゅーごーたいきょーふしょー)


  2010年代も終わろうというこの時期に、「アダルトゲームはエロ目当てではなくシナリオ重視」という珍説が甦ってくるとは……。そういう路線は、00年代のうちにごく一部の人たちが試みつつも結局ろくな成果を出せずに消えていったものだと思っていたのに。幽霊を見てしまったような不思議な気分だ。まあ、個人がそういうアプローチをするのは構わないが、アダルトゲーム全体やアダルトゲーマー全員に一般化するのは止めてほしいし、ましてや、そんなもので箔を付けようなどとするのは御免蒙りたい。
  個人的な視座設定としては、ゲームデザインや演出システムや声優やキャラクター造形、恋愛表現、音楽(BGM)、プログラミング(ゲームエンジン)、CG着彩、市場、そしてもちろん性表現など、様々な要素に着目することができるし、実際にできるだけ多面的な捉え方をするよう努めてきたつもりだ。しかし、アダルトゲーマー全員が視聴覚演出ベースで作品を評価すべきだとは主張するつもりは無いし、万人が声優基軸で考えるべきだとも言わない。
  脚本要素に関しても、もちろん「無視すべきだ」などとは言わない。刺激的なストーリーを展開するタイトルや、ゲームシステムと協働して凝った仕掛けを披露してくれたタイトルが、少なからず存在し、それらの存在はアダルトPCゲーム分野を豊かなものにしてきた。また、発売タイトルの大多数は特別なゲームシステムを伴わないAVGであり、その性質上、読み物ゲームとしての特性が比較的強く出ている――つまり、テキストを読み進めることがゲーム進行の基盤を成す(と見做されがちだ)――というのも確かだ。私が批判してきたのは、「1)アダルトゲームのそのような形態に関する客観的な言明ではなく、ゲーマーの主観的な姿勢として主張し」、しかも「2)わざわざ性表現要素を狙いうちで否定しつつ脚本要素を称揚するという不誠実な仕方で主張する」という二点のゆえだ。つまり、ゲームの客観的構造に関する分析を放棄しつつ、アダルト要素を卑しい当て馬として見下してみせるという言論姿勢だ。そのような姿勢を、私はけっして肯定しない。
  私個人としては、アダルトシーンはやたら長たらしくて鬱陶しいと感じることがあるし、それをここで書きもする。だが、それはアダルトゲームの客観的なありように向けて発したストレートな評価的言明だ。しかし、この分野がアダルト要素を含んでいることそれ自体は、べつに批判も否定もしない。ましてや、自分が格好をつけるためにアダルト要素全体を引き合いに出して踏みにじってみせるようなことは、けっしてしないだろう。同じように、アダルトコミックの性表現の何かしらの性質について何かしら否定寄りの発言をする時でも、その分野の前提条件それ自体はこき下ろさないようにしているつもりだ。
  私が上のような主張の、何を批判しているのか、何故批判してきたのかというのは、要するにこういう話だ。


  明日はペーネロペーかナイチンゲールか1/350高雄あたりを買って、セルフ誕生日プレゼントとしてラッピングしてもらってこようかな。(しません)(無理だよ) マガフ6Bくらいのサイズならばラッピング可能だろうかと思ったけど、いや、たいして違わないか。


  (※検索しない方がよい、知らない方がよい概念の話※)
  2019年になっても、薄目の呪いのアニメや薄目イラストが現れてしまうのか……。
  薄目の呪いについては、笑いに転化することによって乗り越えたつもりだが、はたしてそれは克服したと言えるのかという疑問もある。シリアスなシーンでも、薄目を認識した瞬間にギャグシーンになってしまうわけだから。また、制作者が意図しなかったミスを見つけて笑うというのは失礼な行為であって、広言すべきではない振舞いだとも思う。しかし、いったんその認識を持ってしまったら、もうどうしようもないのだよねえ。



  11/08(Fri)

  ケイファ(CV: みる氏)とシュンラン(CV: 深井晴花氏)の取り合わせは面白すぎる。


  涙は好き。老若男女、喜怒哀楽、どれも好き。歓喜に滂沱の涙を流したり、怒りに目の端を滲ませたり、悲しみに一筋の涙を見せたり。さすがに「楽」の涙はなかなか無いが、幸せの最中にほろりと来るシーンも乙なものだろう。
  アダルトゲームだと、ベッドシーンの快楽の涙だったり、悲惨な蹂躙に泣き叫ぶシーンだったりすることも多いけど、まあ、それはそれで。というか、そうしたシーンでも一枚絵できちんと涙を描き込むものは案外少ない。


  歴史上の人物や兵器の擬人化(美少女化)を面白いと思ったことは、たぶん一度も無い。『行殺新撰組』のようなイロモノジャンルに留まったままでいるか、魔砲少女四号ちゃんのあたりで一発ネタとして立ち消えていってくれたら良かったのに。
  しかし、現代のデジタルゲームにとって、それはほとんど歴史の必然だったのだろうというのも理解している。「21世紀に萌え文化が全面的に展開されるようになった状況」を所与として、「家庭用ゲーム機市場の縮小とスマートフォンゲームへの傾斜」から、「サービス継続のために大量のキャラクター(およびそれらの賭博的入手システム)が必要とされる」、そして「キャラクターを効率的に制作し、なおかつ覚えやすく、キャッチーなものにすることが求められる」という経緯から、既存の事物の擬人化や女体化が導入されることはほとんど必然だったのだろう。
  それでも、しかし、戦車や軍艦のパーツを適当にくっつけた安っぽいキャラデザとか、歴史上の人物の名前そのままの無粋なキャラクターとかは、やっぱり好きになれないのよ……。


  [ www.bengo4.com/c_5/n_10342/ ]
  こういう会社だから、私はDMMには近づかない(金を落とさない)ようにしている。


  karory氏は、現代に生きる「みつみ絵」の数少ない(そして傑出した)後裔の一人だろう。なかむらたけし氏→(共同作業:)みつみ氏→(機械的模倣:)ケロQの面々→(元社員?)karory氏という流れ。今年の『夢と色』も、2019年らしい素晴らしいキャスティングともども、良い作品だった。

  ななろば華氏は、CARNELIAN氏にも連なる系譜のようだ。
・みつみ氏→(模倣)→ケロQ→ひよこソフト→ななろば氏、
・F&C=『univ.』=萌木原氏=(Lump of Sugar)→ななろば氏、
・CARNELIAN氏=『モルダヴァイト』=萌木原氏=(Lump of Sugar)→ななろば氏、
という複数の流れがあるようで、なかなかのサラブレッド。


  交通安全講習パンフの解説漫画で、飲酒運転やスマホ運転で事故を起こすドライバーが全て「若年男性」に描かれていた(漫画4本のうち4本とも)。これは明らかに不公正だと思う。1)若年男性が交通事故を起こすものだという誤った偏見を助長するし、2)高齢者や女性に対して「自分が事故を起こすかもしれない」という当事者意識を持たせずにスルーさせてしまう。公的機関が責任を持つ配布物として、著しく公平性を欠いている。さしあたり性別と年齢の属性を抽出するならば、「若年男性」「若年女性」「高齢者男性」「高齢者女性」それぞれを運転者(事故発生の責任者)に描くべきだろう。
  私は若年男性ではないけれど、こんなふうに若年男性だけが愚かで悲惨な運転者像として描かれ続けるのは可哀想だと思うし、社会的にも誤ったメッセージを不適切な仕方で発してしまっていると言わざるを得ない。


  マウスパッドが湾曲してプカプカ浮いてくるのが気持ち悪い。押さえつけても、密着してくれない。マウスパッドに対する要求は「極力薄い」「ベタつかず凸凹すぎず」「色も目立たない」「もちろんカーソル認識もズレたり飛んだりしない」の4点だが、薄さを追求することは、今回のように湾曲のリスクを伴うことになる。マウスパッドのたかがペラ一枚に1000円なり2000円なりを何度も支払うのは癪なのだけど、触わり心地や密着性は購入前には判断できないことが多いので、買い直しの試行錯誤が避けられない。
  ちなみに、今回のはDigio2の薄型。前回のELECOMは、カーソルふらつきが発生した。



  11/05(Tue)

  今回のプララジ(#43)のゲストは「みる」氏。耳が幸せ。


  黄組が事業譲渡。所属企業が移ったが、もしかしたら所属声優たちの活動形態も変わってくるかもしれない。バナナの側も、声優はまとめて移籍したとのこと。バナナは録音スタジオとしての活動に特化するということだろうか。


  あっ……意識の盲点だった。藤咲氏の中の人の外の人が、何曲も歌っているのか。
  公式の動画で聴いてみた。な、なるほど、こんなふうに歌われるのか……。
  というわけで、意外なところで藤咲ウサ分を補給できたので今日は安眠できる。


  アダルトゲーム店に入ったら、「1/144 天翔」「1/350 海鳴」なる箱があった。「プラモデルがいったいどうしてこんなところに? しかも、まるで知らないキットだ」と訝りつつ手に取ってみたら、どうやら、えーと、その、まあ、男性向けのそういう小道具だった。パッケージデザインがHASEGAWAやTAMIYAの艦船キットのようなレイアウトで、そのネタ精神はちょっと面白かったし、実際にこういうものを面白がって買う人もいるのだろう。
  これを使用する殿方は、「主砲発射ー!」と叫んだりするのだろうか。(おばか)

  どうせなら、棒状のものを飲み込むという意味で、シャーマンやパットン(戦車)に食いつかれるとか、カーティス(軍用機)あたりに食いつかれるとか、ギガント(輸送機)に食いつかれるとか、『アルペジオ』のコンゴウ(戦艦)に食いつかれるとか、あるいはZOIDSのあれやこれやに食いつかれるとか、ザクレロに食いつかれるとか、エヴァンゲリオンに食いちぎられるとか、いっそそういうネタに走ってもよいのではなかろうか。(おばか)


  ベッドシーン一つのCG枚数。白箱系の初めて結ばれるシーンだと、例えば「キス」「抱き合う」「ポーズ1」「ポーズ2」「ポーズ3」「ピロートーク」で、多ければ6枚くらい使っているものはありそうだ。しかし、7枚以上となると、かなり難しいだろう。私がプレイしたタイトルの中で、一シーンの最大枚数はどれだろうか。


  『カリンちゃん』体験版。プララジ(#43)で音声コンフィグに言及されていたので、モブキャラの音声をチェックしてみた(※ラジオでコメントされるまで、「一般キャラクター」の項目に気づいていなかった)。私の耳では、「女性A:青山氏」「女性B:大波氏」「男性A:一条氏」「男性E:原田氏」くらいしか判断できなかった。読まれたラジオ投稿では女性Eが風花氏でナレーションは結城氏だと判断しており、JORI氏もこれらの推測を肯定しているようだ。


  『カリンちゃん』のような位置づけの作品。
  メーカー間コラボは、たまにある。例えばEscu:deが麻雀プログラムを他会社に提供したり。
  よく似た(しかし一応は別人扱いの)キャラクターが登場する例もある。特にalicesoft。
  アダルトゲーム業界にはそういう自由さがあり、『カリンちゃん』もその自由を享受している。

  実利的に言えば、NEXTON側としては、仕事の空いた(?)魏軍系CGスタッフを活用しつつ、念願の本格的SLGパートを手に入れ、『恋姫†無双』シリーズの市場的プレゼンスを維持できたことになる。また、ソフトハウスキャラ側としては、『恋姫†無双』のネームバリュー(NEXTONの宣伝力)に助けられるという恵まれた形で、実質的な自社新作をリリースできることになる。
  デメリットといえば、NEXTONとしては「コンテンツ(の出来具合)を他社スタッフに預けなければいけない」、SHCとしては「完全オリジナルの新作にはならない」という点があるが、そのあたりは上手く調整できているだろう。業界全体としては、NEXTONとSHCがそれぞれ(別個独自に)新作をリリースする場合と比べて、市場に現れる新作タイトル数が少し減った――制作期間から考えて、ほんの0.5本分ほど――ということになる。

  SHCが「チーム++」名義にしたのは、なんとなく腑に落ちる。
  1) 今回は「チーム++」のターンで、そちらが主導している。おそらくSHC本家チームは内藤氏がディレクターで、「チーム++」の方はJORI氏が制作管理している。
  2) また、ゲームシステムの基幹部分も「チーム++」が展開してきたダンジョン防衛ものなので、ユーザー向けにもその系統に連なることを示せる。
  3) そもそも「チーム++」それ自体が、脚本や原画を外注した遊撃チームのようなものだから、今回のようなメーカー間コラボにも「チーム++」名義が適している。


  10年代前半までのTriangleは、黒箱系OKな声優の中でもメジャーな(つまり実力を高く評価されている)方々を起用しており、しかもキャラクターの可愛らしさをちゃんと出せる役者さんを選んでくれていた。しかし、『セイクリッドリネージュ』(2015)の頃から桃組に染まりだして、そこから一気に坂を転げ落ちるように桃組面に堕ちていった。つらい。


  [ twitter.com/FANDC_Staff ]
  F&Cのtwアカウントが面白い。1)自社キャラクターの誕生日をお祝いするという趣向で、2)各作品のイベントCGを贅沢に使用し、3)テキストもきちんと作品内容を踏まえつつユーモアのあるもので、4)毎日律儀に、しかもうるさくない程度に投稿している。90年代のタイトルの細かいネタまで拾ってたいるし、中の人はいったい何者なんだ。

  [ https://twitter.com/FANDC_FAIRYTALE/status/1173084200733302785 ]
  [ https://twitter.com/FANDC_FAIRYTALE/status/1189751847046660096 ]
  『妖怪ゑッチ』には、日付限定の特殊メッセージがあるとのこと。Windows時刻での元旦やクリスマスに対応しているのは他メーカーにもあったが、中秋の名月やハロウィンはかなり珍しい。



  11/04(Mon)

  【 商業アダルトコミック雑感:現代日常もの偏重? 】
  先日はアダルトコミックコーナーに立ち入って、中身を読める(立ち読みOKの)見本をペラペラ見てきた。ほとんどが現代日常ものだったというのが興味深い。個々の短編の90%、あるいは95%は現代日本の普通の男性主人公ではなかろうか。イレギュラーがあるとしても、せいぜいが「淫魔がいきなり入ってきた」とか「帰省した田舎でケモ耳娘に出会った」という程度のライトなもの。日本以外の舞台(外国や架空世界)も稀だし、現代以外の時代設定(近世や未来)も滅多に無いようだ。メジャーなエルフキャラすらなかなか見かけないし、型通りの洋風ファンタジー世界(例えば「シスターと魔物」)も非常に少ない。ずいぶん不思議な傾向だ。

  1) 短編だから状況設定に凝ることができない(細かく説明するだけの紙幅の余裕が無い)というのは、一つの考えられる理屈だ。しかし実際には、現代日常ものの作品だって、物語の導入にはそれなりのページ数を割いている。同じことは非-現代、非-日常、非-日本のストーリーでも十分実行できる筈だ。
  2)読者の多数がそのような現代日常ものを求めているからだ、という方向で考えることもできる。アダルトコミックは基本的に、読者の性的な妄想とともに歩むことを目的とするジャンルだと思われるので、作中のシチュエーションが読者の現実(リアリティ)から離れすぎないようにするという傾向が出てくるのかもしれない。しかし、例えば「洋風ファンタジー世界のシスターと魔物」のようなシチュエーションでの性的妄想に没入することだって、けっして難しいことではないだろう。
  3) 私がサンプルとしてめくってみた20冊ほどは、おそらくは大部分が「比較的新しい」「売れ筋の」単行本ばかりだったと思われる。したがって、サンプリングが偏っていたという可能性もある。つまり、「最近の一時的な流行を過大視してしまっている」とか、「売れ筋の路線はオーソドックスな(ベタな)現代日常ものになりやすい」といった事情があるのかもしれない。しかし、それ以外の本の背表紙をざっと見ても、ファンタジー要素はほとんど見られなかった。
  4) 単行本の元になっている掲載誌(アダルトコミック雑誌)は、かなり読者アンケートを重視しているようだから、読者のマジョリティ(保守層)に引きずられて、作品傾向がどんどん無難なものになっているのかもしれない(※この点では、えろ同人がマニアックな趣向を扱えるのと好対照だ)。
  5) 出版社や雑誌によって方向性が異なる。特にキルタイムコミュニケーションは、小説(二次ドリ)もファンタジーものが多いようだし、漫画誌「アンリアル」もその名の通りファンタジー系とのことだ。つまり、ある程度は「棲み分け」が成立していて、私のその一部のジャンルだけを見たということなのかもしれない。

  いずれにせよ、現代のアダルトコミックでは現代日常ものが極端に優勢になっているというのは、おそらく確かだろう。そのような、ごく狭い範囲に限定したうえで、「今度は巫女にしましょう」とか「今度は教師ものにしましょう」といったような打ち合わせが作家と編集者との間で交わされているようだ。ちょっともったいないな、と思わないではない。

  ちなみに、私が持っている十数冊の中には、本格派の異種族ヒロインが何人も出てくる本もあれば、西部劇のシチュエーションもあり、繁殖管理やクローンの出てくる未来世界というシリアスなSFストーリーもあり、魔法少女主人公(つまり女性主人公)の連作もあり、鄙びた南国でのバックパッカー旅行中の話もあったりする。そういうのは(そういうのも)読んでいて楽しいのだが、作者あとがきでは、「読者アンケートの結果は低かったけれど、描いていてものすごく楽しかった」といった趣旨のことが書かれていて、微笑ましいやら悲しいやら。まあ、「西部のならず者と早撃ち(※そういう意味)で決闘」とか、「銃のピースメーカーに掛けて『ダブルピース』メーカー」とか、「熱血ディルドゥファイト選手権」とかいったギャグエロは、たぶん受けがよろしくないのだろう。


  【 異種族を指す言葉 】
  異種族関係の言葉。どういう使い分けになっているのだろうか。
  「異種族」:人類以外の生命体全般。基本的に、生命体に限られる(つまり、神や悪魔や幽霊のような超自然的存在は除外)。SF作品などでは、異星の生物もここに含まれる。人文的な視点での記述的な表現として用いられることが多いように思う。
  「亜人」:「デミ・ヒューマン(半-人)」とも。異種族の中でも、人間に比較的近い種族(二足歩行する知的生命体)を指すことが多いようだ。典型的にはエルフやオークが該当するが、サキュバスやヴァンパイアのように超自然的能力を持つ存在を含める場合もあるようだ。ただし、悪魔や幽霊のような超自然的存在は含まないだろう。人間との混血種の場合もある。どちらかといえば、生物学的な捉え方に親しいのかもしれない。
  「人外」:人間ではないキャラクター全般を指す総称。悪魔や妖怪などの超自然的存在も含む。というか、人間に優位する強力な能力を持っている存在を指すことが多いように感じる。さすがにロボット(生命を持たない機械的存在)は含まないと思うが。ファンタジー的な文脈で用いられることが多いようだ。
  「魔族」:異種族の中でもとりわけ、魔力を持つ存在や超自然的存在(悪魔など)を指すと思われる。その社会の人間族から見て敵対的(邪悪)と見做される立場のものが多いようだ。「亜人」と対で用いられる場合もある(※人間に近い種族は「亜人」で、超自然的能力を持っているものは「魔族」、といったように)。ゲーム的ファンタジーやオカルトなど、様々な場面で用いられる。
  「魔物」:モンスターとほぼ同義。知性は高くないのが通例。ただし、人間以上の知性を持つドラゴンなども含む場合がある。
  だいたいこんな感じだろうか?

  「人外」という言葉は好きではないので、自発的に使うことはまず無い。だいたいは「異種族」と言うのだが、しかし上記のように悪魔や幽霊など(つまり生物としての「種族」ではない存在)が除外されてしまうように感じるので、それらを含めたい場合にはもどかしい思いをする。「化生(けしょう)」と言いたいところだが、いささか古い言葉なので使いにくい。

  最近のエルフ絵は、ずいぶんボヨンとしてきちゃったよね……(泣)。もっとすっきりしたボディラインの方が、神秘的で清潔感ある雰囲気や、張り詰めた凜々しさには合うと思うのだけど。瑞々しい観念がエートスを喪失してただの抜け殻になり、さらには外形をもマニエリズム的に歪曲されていくという、ありがちな頽落の図式そのものですわよ、むきー!


  【 個人的な銃器嫌悪 】
  銃器を持っているイラストが、どうやらかなり苦手なようだ。銃というのは要するに、人間を殺傷することを――生身の個人の命を奪うことを――目的にしている道具なわけで、そのおぞましさを私は無視することができないのだ。猟銃のように人間以外の生物を攻撃するために使われるものもあるし、殺傷を目的としないゴム弾のようなものもあるけれど、支配的なイメージはやはり、人間(個人)に対するものだろう。
  これが戦車や軍艦であれば、外見上は機械同士の撃ち合いになるし、「砲弾が狙った先には生身の個人がいるのだ」という認識がかなり薄められる。しかし、銃器の場合はそうはいかない。誤魔化しようもなく、殺人の武器なのだ。
  銃器を構えて格好を付けているフィクション美少女のイラストを見ても、その手に持っている道具が何のためにあるのかを考えると、暗い気分になる。その銃口は何を狙うのだろうかと考えると、凄惨な場面のイラストにしか見えなくなる。その美少女がいったい何故そのような武器を携行することになっているのかを考えると、ぞっとする。そうでなくとも、銃器が描かれているだけで、それは邪悪な物体が描かれたグロテスクな画面そのものになる。
  まあ、ウォーターガンくらいなら、ね……。

  これは感受性の問題であり、大多数はまったく気にならないのだろうし、それどころか「美少女と銃器」の取り合わせ(またはギャップ)が刺激的なのだという人も多いようだ。だが、個人の感性の問題として、銃器は「視界に入れたいとは思えない、グロテスクな存在」なのだ。
  むしろいっそ、巨大なガトリングガンを腰だめに抱えて撃ちまくるくらいであれば、銃器の禍々しいリアリティをきれいに払拭してその絵面を素朴に楽しむこともできるようになるだろう。また、サバゲーの風景も、「安全配慮されたゲーム」という文脈をきちんと飲み込んだうえで見ることができるので問題無い。しかし、そういう留保を伴わずに、キャラクターが銃器を手にしているイラストは、私にとっては「グロ絵」に等しい。言ってみれば、ムカデや排泄物を手に乗せている絵と大差ない。私がこれまでずっと感じてきたモヤモヤの内実は、どうやらこういうことだった。

  「Q. 萌えキャラの手に持たせるとしたら何がいい?」
  思いつくがままに、頭に浮かんだ順に10個ほど挙げると、1)電ノコ、2)扇子、3)ペン、4)眼鏡、5)ククリナイフ、6)大盾、7)爬虫類、8)包丁、9)フライパン、10)横笛。……うーん、ナニコレ。せめて注射器とか浮き輪とか花束とかゴムとか手斧とかパイルバンカーのようなオーソドックスに萌え(燃え)っぽいものを挙げられなかったのか。

  毛虫を手に乗せるというのを思い出してしまった(『キルミーベイベー』)。



  11/02(Sat)

  「モデラーズフェスティバル」に行ってきた。詳しくは模型ページにて。


  [ www.youtube.com/watch?v=_G0YRU_FP34 ]
  『カリンちゃん』、深井氏のフリートークはかなり珍しいかも。
  カリンの巣と言われたら、「愛の巣」のことかと思うよね。

  Hシーンムービーも公開された。ところどころ、内藤氏ではなさそうな感じ。 内藤氏は基本的に、局部を直接指示する言葉を使わないので。



  11/01(Fri)

  月が替わったのでさっそく散財してきた。

  JUNKUDOは、漫画コーナーではどれだけ買っても不織布バッグをくれないのだろうか。ネットでは「1万円以上買えば」という話も出ているが、1万円以上(つまり漫画20冊以上)買った時でも紙袋で渡される。逆に、専門書コーナーのレジでは、かなり簡単に不織布に入れてくれる(1万円以下でも、くれることがある)。そういう対応は客層差別じゃないの、と思うこともある。そもそも、漫画でも20冊以上買うと、紙袋では強度が不安なので、不織布バッグにしてほしいなあ……と内心思いながら、さすがに店員さんにお願いするまではしない。
  一つの見方では、「専門書と漫画では客平均単価が桁違いだから」という考え方もできる。例えば、漫画を5000円以上買う(一度に700円×7冊買う)という客はそれほど多くないが、専門書を5万円以上購入する(8000円×6冊買う)ことはけっして珍しくないからだ。不織布バッグは、実用的考慮(強度確保)ではなく上客に対する特別サービスなのだと考えて、そういう対応になっているのかもしれない。しかし、しかしながら、漫画コーナーの客と専門書コーナーの客が同一人物であるという場合もあるのだから、やはりこれは適切な区分とは言えないと思う。漫画コーナーのレジ奥にも不織布バッグは置いてある(視界に入る)ので、使われることもあるのかもしれないが……。
  もっと言えば、専門書10冊以上くらいの買い物になった場合は、そもそも持ち帰りにはせず、レジで自宅や職場(研究室)へ発送してもらうということも多いだろう。専門書コーナーのレジ店員さんたちも、そのあたりは十分慣れている。
  ちなみに今日は8000円以上(漫画11冊)購入した。

  さらに、意を決してメロブの奥の方に入ったら、藤咲ヴォイスによる宣伝音声(きゃべつそふと新作)や『カリンちゃん』の主題歌が聞こえてきたので、気を良くして財布の紐を大いに緩めてしまった。結局、購入金額はJUNKUDOの2倍以上になったが、買えたものには満足している。

  [ hobbyjapan.co.jp/armsweb/report/927.html ]
  さらにさらに、井澤部長の表紙に釣られてこの雑誌も購入。さすがにポスターを室内に貼るつもりは無いが、まあ、たまにはいいだろう。


  [ www.youtube.com/watch?v=UEY23MJ70Es ]
  今週の「ドーラク」(#69)。
  うわっ、本格派が来た!(※モデラー&ミリタリーマニアとしての)


  [ twitter.com/IchirohSakaki/status/1170574660322250753 ]
  「それは、また別の物語である」と締め括っておきながら、その「別の物語」が本当に書かれている(それどころか、すでに著されている)というのは、スピンオフ作品ではよくあること。……スピンオフなのか?


  さすがに一晩で漫画20冊は読み切れない。一冊15分としても5時間掛かる。
  それでは、未読の本をどこに置いておくかというと……えーと、どうしよう?(おばか)


  『カリンちゃん』は、『恋姫†無双』のキャラを借りているわけだから、内藤氏としては初めての二次創作的執筆なのか。もっとも、ソフトハウスキャラ以前のキャリアでは、どこかで続編タイトルの脚本執筆などをされていたりしたかもしれないけど、私が把握しているかぎりでは今回が初めての商業二次創作のようだ(※公式のスピンオフだから、狭義の「二次創作」ではないけれど)。


  土日のモデラーズフェスティバルは、どちらか一日だけでも行っておきたい。
  昨日から頭痛が激しくて辛いけれど、復調していることを願いつつ。


  ガ、ガ、ガトーショコラがおいしくて、一日で食べ尽くすなり。


  ネガティヴな言い方をすると、声優をライヴイベントに出演させて跳ね回らせるのは、声優としての可能性を危険に晒しているということでもあるのだよね。産業構造の問題もあるし、部分的には活動範囲を広げたという側面もあるので難しいけれど。特に30代半ば以上の世代だと「声優は裏方」という意識が強かったのだが、『ラブライブ』のようにキャラ=声優を同一視させるような動きが強まってきているし、それとともに声優自らがいよいよ表に出るようになっている。それははたして良いことなのだろうかという疑念がある。


  終末の風景。90年代半ば頃までは、『エヴァンゲリオン』のような不思議な切迫感と熱狂的な盛り上がりがあった。90年代末になってくると、むしろ『ヨコハマ買い出し紀行』のような寂寥感や『終末の過ごし方』のような突き放した抒情に浸されていた。00年代に入ると、終末はリアリティを完全に剥奪されて、『はるかぜどりに、とまりぎを。』のような美的なランドスケープが展開された。10年代には、『少女終末旅行』のような美少女ミニマリズムとSF的クラシシズムに回帰した。
  個人的に、なおかつオタクサイドからの雰囲気を回顧すると、こんな感じ。


  『蓬莱トリビュート』も良い漫画でしたよね。背景や動物の絵も上手いし、漫画としての見せ方(コマ組み、タッチ変化、筋運び、その他演出全般)も巧みだし、ネタの取り方も興味深いし、洒落っ気を見せる余裕もあるし、そしてなにより萌えキャラたちが抜群に可愛い。どうやらこれが著者の商業デビュー作なのだが、こういう読み応えのある作品がいきなり出てくるあたり、やはり漫画界は懐が深い。


  うわっ、「椎名法子」という名前のゲームキャラがいるのか。声優オタク的にはかなりビビるネーミングだ。どんなキャラなのかは知らないが、よくもまあ大胆にもこんな名前を付けたものだ。ちなみに、「ほうこ」ではなく「のりこ」と読むらしい。


  [ twitter.com/774nanash/status/1190244943538733058 ]
  んんん! ぐうの音も出ない。


  (→12月10月