2019/12/31

2019年12月の雑記

  2019年12月の雑記。(→2020年1月2019年11月

HASEGAWA版(右)とVOLKS版(左)の「フェイ・イェン」。どちらもデカールと部分塗装のみ。前者はスケールモデルのメーカーらしくすっきりしたメカニカルな造形。後者は等身を下げた愛嬌ある雰囲気を表現しつつ、脚部は色気のある内股にしている。


  12/31(Tue)

  新記事:「模型博覧会2019の覚書」。デジカメから最近のデータをPCに移動したので、せっかくだからと記事にした。
  それにしても、私の展示作品はいかにも脈絡が無い。一応は「艦船モデラーがガールプラモにも手を出した」という経緯を示唆したつもりだが、それは鑑賞者にはどうでもいい話だし。


  年間のオタク支出は、今年も大台に乗っていた。意外なことに、漫画よりも模型/フィギュア関連の支出の方が多かった。漫画等は400冊超、立体物は100個弱……そんなに買ってたっけ? ゲームの支出も、例年より多少増えた。節制したいけれど、摂取しなければ(心が健康的に)生きていけないのだから、これは人生の必要経費なのだ。
  音楽/美術関係は、例年どおり。コンサートにも行きたいが……。
  そんなわけで、楽しい趣味生活を送ることができたが、しかし経験値はあまり得られなかったように思う。新しいジャンル、新しい技術、新しい感性に取り組んでいきたい。……あっ、でも、ドールには手を出さないからね。

  舌が肥えたのか、食費も増えていた(※毎月プラス1万円程度)。こちらは、身体の健康に悪影響が無い範囲で節約に努めたいところだが……。


  史実(『三国志』)の曹操
  →『演義』(およびその他の創作作品)で造形された曹操
  →『恋姫†無双』で女体化された華琳
  →『カリンちゃん』でさらにアレンジされたカリン
と、今作のキャラクターたちは翻案に翻案を重ねた何段階ものパロディになっているのか。それでも、眼帯をしているとか、弓の名手であるとか、日輪モティーフを伴っているとか、姉妹(兄弟)関係であるといったような特徴は随所に残っているが、甘寧 (シシュン)や周泰 (ミンメイ)あたりになると、もはや何の痕跡も見出せない。



  12/29(Sun)

  ちょっと遠くの模型店に行ってみたらスケモキットがいろいろ安売りしていたので、陸海空のグランドスラム購入をしてきた。事前に「この額までは買ってよい」という心積もりでいたのだが、それをかなり下回る金額で済んだ。しかも、普段行っているお店(店頭)には無いものばかりだったという点でも、嬉しい買い物ができた。ちなみに、買ったのはイスラエルの戦車とソ連の航空機とイギリスの艦船……ってまたそんなのかよ!

  「グランドスラムを称するなら3つじゃなくて4ジャンルでなければ」とか言わない。
  陸海空に並べるとしたら……概念的には「宇宙船」だろうか。あるいは、それらと交差する「人間」かもしれない。一般的には「ロボット」だろう。スケモの範疇では、カーモデル、バイクモデル、そして鉄道模型や城郭模型が大きい。

  しかし、作っている時間が無いのだよなあ。年内の残る時間はすべてゲームにつぎこむつもりだし、年明けが〆切になっている仕事がいろいろあるし、そして来年は何かと忙しくなるし。人生を楽しく生きたい。


  現在使っているキーボードが痛んできたので新しく買いたいのだけど、条件に合うものが全然無くて困っている。最初にノートPCから入ってそれを使い込んでいたため、ノート型の配置およびタッチ感触でないと使いづらくて仕方ない。以前にも書いたが、望む条件は:
- 薄型パンタグラフ(ほぼ絶対)
- テンキー無し(絶対)
- 有線(できれば)
- Enterキーがそれなりに大きく、ページUp/Dnキーは無い(ほぼ絶対)
- 十字キーは大きく(特に上下キー)、Enterキーの直下にある(絶対)
- サイズは幅30cm(小さすぎるのもNG)
- キー同時押し認識は、4個以上が欲しい(できれば)。

  いろいろ探しても、ページUp/Dnキーがあって邪魔だったり、上/下キーが細すぎて使いにくかったり、超小型キーボードだったりして、どうにもならない。PC関係は多種多様な商品があるように見えるが、実際にはそれほどヴァラエティがあるわけではないし、また、以前はポピュラーだった仕様のものが数年経つとまるで入手できなくなったりする。
  薄型メンブレン式も試してみたが、タッチ感覚が私には合わなかったので、完全に選択肢から外している。

  検索していたら、BFKB88PCBKが条件に合うようだ。ただし、通販サイトを見ると耐久性に問題があるというコメントが多い。また、極端な薄型なので、姿勢によっては指先が疲れそうだ。手で触れるインターフェイスなので、頻繁に変えることになるのは避けたいが……試してみようかな。
  ゲーム用途主眼ながら、こういうレヴュー記事もある。
  [ https://www.4gamer.net/games/272/G027297/20160115118/ ]
  ただし、昨年の時点で生産終了したようだ(つまり、出回っている在庫のみ)。


  [ https://twitter.com/ricca_kitami/status/1209289009823801344 ]
  SLG作品では、モブキャラ担当の声優さんが豪華なのはよくあることだが、AVG作品でもこういうチャレンジはあるし、そして役者とプレイヤー双方にとっての楽しみにもなるようだ。
  この意味では、『雪鬼屋』は最高だった。なにしろ当時のソフトハウスキャラ常連出演の青山氏、松永氏、芹園氏といった錚々たる顔触れが、モブキャラだけの担当として――ヒロインとの兼ね役ではなくモブキャラだけのために――演じておられたのだから。


  [ img.dlsite.jp/modpub/images2/work/professional/VJ011000/VJ010926_img_smpa7.jpg ]
  一河氏原画でアオザイとは……買い逃していたのが悔やまれる。


  ちょっとした事情で1万円ほど自由に使える状態なのだが、何を買おうか迷ってしまう。けっして小さな額ではないけれど、しかし中途半端なもので案外使いづらい。細かな日用品などを買うには大きすぎるし、かといってゲーム機やフィギュアを買うにはまるで足りない。買いたい書籍やCDを適当に買っていけばいいのだけど、それではなんとなく面白味が無い。そんなわけで2時間ほどずっと使途に迷っている。


  全ユニットLv99まで育成したし、『カリンちゃん』はひとまず終わりにする。
  「太古の孤島」最深部とかは……イベントも無さそうだし、まあ、行かなくてもいいよね。



  12/27(Fri)

  【 ネットはオタクを自由にする(?) 】(都市の空気は自由にする、ふうに)
  00年代前半頃は、オタク界隈やネット界隈に普遍主義的な希望があったと思う。すなわち、ネットインフラが整備されるとともに、あらゆる趣味に、誰もがアクセスできる、自由な世界が広がっていくのだという希望が。
  PCアダルトゲームもその希望とともにあった。つまり、ネット環境があれば誰でも新作の体験版をDLプレイできるし、通販サイトや各地のゲームショップで製品版を購入できる。つまり、地域格差を克服して、誰もが最新&最先端の話題に乗ることができる(※ただし、負の側面として、いほーきょーゆーの問題も生じていたが)。それに対して、マイナーな漫画は入荷しづらいし、TVアニメ放映も地域格差が大きい。その意味で、18禁というマニアックな香りを漂わせつつ最新&最先端のグラフィックスを誰もが享受できるアダルトゲーム分野には、大きな魅力があったと言えるだろう。専用のゲーム機を買わずとも、当時爆発的に普及していたWindowsパソコンがプラットフォームになった(※現在の目からすると、パソコン保有とインストールの手間が気になるだろうが、当時としてはこれはアドヴァンテージだった)。
  ただし、10年代に入ると、必ずしもそうではなくなっていった。極端な関東一曲集中のイベント開催。TV放映から一週間遅れのネット配信。数ヶ月遅れの電子書籍。店舗限定特典の数々。ネット環境も、ただ接続できるだけではろくな情報を得られない、ハードルの高い空間になっていった。「誰でも、どこからでも、何にでも」という広がりは失われていった、あるいは不可能であったことが判明した。
  そんなことを、前回のこみトレで知人と話していたのを思い出した。


  ポスターキャラの前に眼鏡をかざして眼鏡キャラっぽく撮影することについて。「発想は面白いけれど、なんか嫌だな」と感じた。これは正しいか、また、何故か。理由はたぶん「他人の作品(イラスト)にタダ乗りしつつ、その見え方を勝手に改変する行為だから」。その意味では、いかに公開の掲示物であっても、道徳的にあまりよろしくはない。

  ところで、それと類似する行為として、私は手持ちのプラモデルやフィギュアに眼鏡を掛けさせている。さて、これは良いことなのかどうか。
  プラモデルに関しては、「ユーザーが自由に作ってよい」という建前があるので、完全にOK。そもそもプラモデルはユーザーが手を掛けて制作しなければいけないものだし、そこには取捨選択やアレンジの自由ももちろん含まれる。
  一方、フィギュアは基本的に完成品であって、ユーザーによる改変行為は基本的に想定されていないように思われる。眼鏡キャラでもないキャラクターのフィギュアに眼鏡を掛けさせるのは、明らかにその外見を大きく変更し、キャラクターおよび製品(量産芸術品)のアイデンティティに手を加える行為だ。その意味では、完成品フィギュアに眼鏡をかけさせるのは、あまり良くない行為なのだろうか?
  おそらく、たしかに、それほど良くはない行為なのだと認めざるを得ないだろう。ただし、単なる掲示物(ポスター)と異なる点として、フィギュアでは、購入者が完全に自分の所有物にしており、どのように使用してもよい資格がある。実際、(とりわけプライズフィギュアでは)リペイントやウェザリングなど、個々のユーザーが追加塗装をする文化が存在し、そのような加工行為は広く認められている。いや、それどころか、フィギュアの見栄えを改善するための尽力として肯定的に評価される。眼鏡を掛けさせるのも、それと同じようなアレンジの範囲内の行為と言えるだろう。少なくとも私にとっては、フィギュアに眼鏡を掛けさせることは、まぎれもなく「見栄えを良くするための行為」だし、客観的にもなんらフィギュアを汚損するものではない(眼鏡はすぐに取り外せる)。

  このような様々な考慮からして、眼鏡をかけさせるのは、ひとまず常識の範囲内で受け入れられる行為だろうと考えている。ただし、既製の造形芸術品たるフィギュアに手を入れることを嫌がる人もいくらかはいると思うし、そのような反発を全面的に説得することはできないだろう。
  もちろん、上記ポスターの件についても、個人的には嫌だと感じるが、その行為はけっして悪ではないし、止めるべきことでもない。

  ちなみに、ユーザーの物理的介入を想定しているフィギュアもある。例えば、顔パーツが複数種類用意されていて交換できるとか、衣服の一部が着脱できるキャストオフ仕様だとか、あるいは「ねんどろいど こ~で」のようにシリーズ間で組み替えできることを明言しているとか。
  さらに、完成品フィギュアをユーザーが改造して裸体化するという、いわゆる「魔改造」行為もある。現在でもそのような加工を行っている人々はいる。そのような行為は、けっして違法ではないが、しかし「フィギュア製作者が想定していない行為である」、「裸体化は対象を辱める行為としての側面を比較的強く持つ」、「場合によっては元作品のアイデンティティを破壊するほどの大きな改変になる」という点に鑑みて、けっして誉められたものではない。個人的にも、好きではない。



  12/24(Tue)

  『カリンちゃん』はほぼコンプリートして、新規開始の2巡目プレイに入っている。

  「メサイア」ガールのキットも店頭で買ってきた。中身がぎっしり詰め込まれていて、パッケージの上蓋が浮いている……なかなかボリュームがありそう。組立説明書に目を通してみたら、ああ、このキャラの髪型はこんなに凝っているのか。
  その他、各種円盤も買っているし、フィギュアや書籍もあれこれたくさん買っているのだが、『カリンちゃん』が一段落つくところまでは専心していたい。

  『東独にいた』という漫画があったので、タイトル買いしてみた。DDRについては、幼かりし私はほとんど知らないうちに国家そのものが消滅(東西統一)してしまったので、「消えた国家」としてなんとなくロマンティックな憧れのような感情を抱いている。いや、現実にはロマンティックどころかたいへん辛い社会だったようだが、それはそれとして。
  アダルトゲーマーとしては、『Rance』シリーズのアダルトシーンBGMがあった。実在国歌をアレンジして、しかもベッドシーンに使うというとんでもない発想。
  読んでみたら、『MONSTER』と『かつて神』をミックスしたような路線だった。


  [ https://www.youtube.com/watch?v=EyVIUupeGtU ]
  先週の「胃」を聴き忘れていた。「十割メモリー」「ふんわりメモリー」の流れは、まるで仕込んでいたかのような絶妙のコントになっているけど、素なんですよね……すごい。


  製品版が発売された後でも体験版感想記事へのアクセスが増え続けているのが、なんとも居心地が悪い。それだけ感想需要が大きいということなのだろう。それと同時に、meiq記事の方は本文中ではタイトルをフルネームで表記しているのにほとんどアクセスが無いというのも(そうなるように期待してのことだが)、検索エンジンのパフォーマンスのひどさが推し量られて悲しい。


  内藤氏はもう駄目だなあ。あれだけの蓄積のあるキャラクターたちを借りてまでして、テキストがあの出来では……。ジャンプ漫画トークを、しかもトーナメントがどうとかいうレベルの古臭い話を、いったい誰が金を出して読みたいと思うのか。
  能力のある方だから、次は良いものを作ってくれるかもしれないという「期待」は持ち続けよう。しかし、きっと面白いものを書いてくれる筈だという「信頼」は、もう持てない。
  『雪鬼屋』『門』の頃から、テキストが生彩を欠くようになっていた。『アウトベジタブルズ』では、主人公たちと何の関係もないモブ学園生たちの幕間会話を延々展開するのにがっかりした。中でも決定的だったのは『プラネットドラゴン』だった。エンディングの寒々しい荒野のシーンを目にして、脚本家の精神状態を本気で心配した。『領地貴族』は往事の切れ味が戻っていたが、『悪魔聖女』では、作中世界の狭さはもはやどうしようもないところまで行っていた。
   今作でも、プロローグを初めとして随所に、余裕のあるユーモア感覚や、AVGテキストならではの切れ味のある話芸が見出せる。主人公の昔の仲間がギルドを訪れるシーンなども、いい味を出していた。しかし……。


  店頭でムック本「プラモデルテクニックガイド:工作基本編」をめくってみたら、接着の化学的仕組みや切断の物理的構造が解説されていた。「基本(basic)」じゃなくて「基礎(fundamental)」じゃないか。入門向けのちょろい工作ガイドかと思ったらまるで違っていて、これはこれで新鮮だったので購入した。一応は高校レベルの知識で理解できる記述だが、ひととおりおさらいしておくと模型制作のプロセスがきちんとした基盤の上で把握できるだろう。



  12/17(Tue)

  [tw: 1206218068621320192 ]
  先日も言及したばかりの、「オタクは同族を嗅ぎ分ける」神話。こういうのは本当に危険なので、「神話」扱いどころかそろそろ「電波」呼ばわりして厳しく批判すべきだと思う。このような主張は、大半が単なる論点先取的な自己正当化か、あるいはせいぜい結果から見た後知恵にすぎまい。それが現時点で4000RT、8000ハートという有様だからね……(もちろんその全てが賛同のリアクションとは限らないが)。この状況はかなり怖い。
  ただし、それと正反対の主張、すなわち「オタクは目の曇ったちょろい奴等だ」という種類の批判に与するつもりも無い。オタクたちは、非オタクと同様の、つまりまったく平均的な人々であって、特別に優秀なわけではないし、逆に特別に愚かなわけでもない。知識重視の傾向はそれなりに強いと思われるが、さほど決定的なものではない。
  ただし、さらに留保の留保を述べると、その中でもミリオタや鉄オタや歴史オタクのように、知識優位の姿勢が特別に強い部分集団も存在する。それでも、同族嗅覚のごときオカルトスキルと結びつくわけではないが。

  もう一度繰り返しておくと、このような神話が危険である理由は:
- 他人を敵と味方(内輪と外部)に分けようとする排除的思考である。
- しかも、 オタク内部ですら、例えばライト層排除のような行動に向かいかねない。
- オタクを軽んじている相手でも、交渉する余地はあるが、その可能性を捨ててしまう。
- 明確な根拠なしに、不確かな直感のみに頼ろうとする姿勢である。
- ひとたび敵or味方だと思い込んでしまうと、修正できなくなる思考である。
- オタクは多様な存在であるのに、そこに共通の性質を見出そうとするのが誤りである。
- オタク本質論やオタク生得論のような人種論めいた差別的思考につながりかねない。
- 他人をオタクかどうか判断する自分自身は絶対的に正しいという認識になりかねない。

  私たちオタクが「オタクであること」に一定の自尊心を持てることは重要だ。しかしそれは、オカルト的な思い込みに立脚する必要は無い。そんなものに依存せずとも、趣味分野としての豊かさや卓越の証拠は無数に挙げられるではないか。それらがあれば十分ではないか。


  [ https://www.youtube.com/watch?v=4sKCsmuPwHg ]
  Laplacianのラジオ。声優にここまで賭けるのか……。すごい。



  12/14(Sat)

  安心と信頼の蒼依ハルクオリティ。おかげで今日も良いゲーム体験ができた。


  Escu:de新作。ケモ耳キャラを担当している原画家さんのお名前が「またたび丸。」という符合に、クスッと笑ってしまった。実際、ケモキャラ好きなイラストレーターさんのようだ。
  内容はおそらく調教SLG。Escu:deお得意のジャンルなので大丈夫だろう。


  [ https://uyragnigotocr.am/ ]
  『ノラとと』のHARUKAZEが企画主導しているようだが、キャストがたいへん嬉しい。以前から「井澤氏と田村氏が本格的に共演されたらどんな音響空間になるんだろうなあ」と夢想していたのが、現実になるのだろうか(※ちなみに『メイドインアビス』でも共演歴はある)。主要キャストの中では、吉田氏と石見氏は――どちらもキャリアの若い方のようだ――ほとんど聴いたことが無いが、大地氏(ルーシア姉)や種﨑氏(明日原ユウキ)もいらっしゃるという贅沢さ。
  アニメーションパートのある全年齢AVG作品のようだ。Steam版とWindows版の同時発売か。来年2月発売とのことなので、プレイできる時間を確保しておきたい。

  [ https://uyragnigotocr.am/images/gallery/1080/10.png ]
  [ https://uyragnigotocr.am/images/gallery/1080/34.png ]
  モデラー主人公?


  Ci-enの支払ポイントは、DLsiteの側で確認できるのか。ご教示ありがとうございました。
  双方でアカウントとポイントを共有しているとはいえ、別個のサービスなのだからCi-en内部でポイント確認できるようにするのが筋だと思う。しかし、そういった対応が為されていないままだということは、ユーザーの大半は両方とも使っている(=支障が生じていない)からだろうか。また、継続支援のポイントが不足しそうなときは事前にメールが来るので払い忘れがないというのもあるかも。


  学生に対しては、「君たちは18歳以上の大人なのだから、出来ることが飛躍的に広がっています。冬休みについても、自分でなにかしら計画を立てたり具体的な目標を設定したりしておくと、もっと楽しく充実して過ごせるようになります。そういう手応えのある生き方が出来るといいね」などともっともらしいことを言っておきながら、おまえ(わたし)自身は……。

  『カリンちゃん』の作品規模が読めない。昔からの『恋姫†無双』ファン、つまりライト層も考慮しているようだから、SLGパートはそれほど難しくないだろうし、わりとコンパクトにまとまっているだろうと予想している。ただし、チーム++なので、その気になればかなりの長期育成ができるような余地も入れているだろう(※具体的には、周回プレイで宝玉を集めてユニット強化するあたり)。
  分岐については、見当が付かない。『巣作り』のようなマルチエンディングにするのか、それとも『勇者砲』のように大筋は一本道進行になるのか。「カリンちゃん」というタイトルロールがいるので、もしかしたら分岐のない完全一本道という可能性もあり、その場合はプレイ時間はかなりコンパクトになりうる。実際、SHCは『BB』シリーズのような一本道ゲームも作っている。しかし、さすがにそれではNEXTON側も嫌がるだろうから、分岐要素は入れてくるだろう。


  タイトル画面変化は、アダルトゲーム文化が生み出した(?)情趣に富んだ表現の一つだろう。一つのシナリオをクリアする度に、それに関連したヒロインを象徴するような小道具がタイトル画面に現れたり。あるいは、真のエンディングに到達してタイトル画面に戻ったら、それを祝福するかのように様変わりしていたり。
  私の知る範囲では、タイトル画面の順次推移は2001年発売の『月陽炎』が最も早く、オールクリアによるタイトル画面変化は2002年の『水月』が初体験だったが、それ以前の実例はあるだろうか。alicesoftあたりがすでにやっていたかもしれない。
  細かく言えば、オールクリアしたらタイトル画面に特別な項目(回想モードやおまけシナリオなど)が追加されているというものも、タイトル画面変化の一種と言える。そういった純然たる機能的変化ならば、レトロコンシューマゲームにも無数に存在しただろう(※例えば『クロノトリガー』の「つよくてニューゲーム」)。しかし、演出目的の視覚的変化を行うアプローチは、それよりも遅れて現れたのではなかろうか。


  [tw: 1206527518674575361]
  本当かなあと疑ってしまう。「気になる」という言い回しが、「興味がある(be curious)」と「気に障る(嫌だ、mind)」の両方を意味しうる多義的な表現である場合にのみ、この会話が意味を成すのだが。会話相手の「米国友人」は、「きちんした人文的素養があり」、「日本のオタク文化にも一定の知識があるが」、「日本のオタクのメンタリティを知らない」という人物に見える。そのような人物と、はたして日本語で会話したのだろうか? しかも、こんなに落語めいたきれいな流れの一問一答になるだろうか? 本当に(英語または日本語で)そのような趣旨の会話があったのかもしれないが、この文面を読むかぎりでは、ものすごーくフェイク実話くさい。



  12/11(Wed)

  [tw: 1204254893218754561 , 1204259326279372800 ]
  大丈夫かな、この人……。「人の時間をもらってる」のはむしろ教壇に立っている側なのだが。学生(受講者)は講義を買っている側、つまり客の立場であり、そして客が出された料理を食べようが食べまいが、売り手側には文句を言う筋合いは無いし、そして報酬を受け取って仕事をしている以上、仕事を放棄してはならない。ほんの一人でも真面目に聴いている学生がいるかぎり(または、いる可能性があるかぎり)、講義を十分なクオリティでやりきることが教員側の責任だ。
  特定分野の知識を伝達するだけではなく、学生に対してモラルを――あるいは学習する姿勢を――教えるという人格的側面もある。その観点では、スマホ学生を叱責することにも意味はあるだろう。しかしこの人物はそういう点で悲嘆しているのではなく、ただ単に自分の言葉が聞かれていないことに憤激しているだけだ。
  嫌味を言うと、この人物の講義が下手だったんじゃないかと。つまり、聴講者の関心や知的水準に合わせられず、彼等の関心を喚起することができなかったんじゃないかと。「学生が私の話を聞いてくれませんでした」と広言することは、基本的に、教員の無能を自白するものであり、たいへん恥ずかしいことだ。この人物にはそういう廉恥の意識は無いようだが。
  投稿に位置情報を添えることによって、どこの大学だったかを匂わせようとしているのも、たいへん嫌らしく、そしてせせこましい報復感情に見える。人間がちっちゃいな!

  もちろん、心情的には、話を聞く気のない学生に対しては私も冷淡になってしまいやすい。講義に際してはその講義に求められるだけの内容を、それに見合うだけの100%またはそれ以上の価値を込めているつもりだが、やる気のない学生に対しては「私の仕事はここまでで100%だ、それ以上は1%たりともサービスしなくていいよね」という気分になる。例えば、理解の及ばない学生に対して、授業外でのフォローをしてやるかどうかというところに関わってくる。もちろん、意欲的な学生たちに対しては、標準的に期待される以上の、100%以上の情報をたっぷり提供したり、講義外でも気前よく相談に乗ったりする。
  実のところ、本当に駄目な学校はある(※その学校は、教員全体の意識が未熟で前近代的だった)。しかしその一方で、ほんの一人でも、意欲のある学生がいれば、ずいぶん救われた気分になるのは確かだ。


  [ www.youtube.com/watch?v=l3QLg5xzaD8 ]
  あさみ氏のプレイ動画。映像編集は細切れだが、随所に窺われる控えめな優しさや、「私がゴーストになるところだった」(12:09)のようなユーモアが面白い。


  getchuの購入履歴を見ると、さすがに一回(一ヶ月)に10万円を超えたことは無いが、それなりに買い続けているし、総額はそのくらいになるよね。当然ながら新品での正規購入であって、誰憚ることのないきちんとした支出であり、その分だけゲームメーカーにも還元されている筈だ(※ちなみに、アダルトゲームの一般的な掛け率は50%前後らしい)。

  『魔法少女コノカ』も買っていたけど、未プレイのまま、そういえばパッケージはどこへ埋もれてしまったのか、見た憶えがない。ミドルプライス(税抜4800円)なので、わりと手早くプレイできそうだし、なんとか発掘したい。

  9800円タイトルがずいぶん増えてきた。私(ユーザー)の方もいろいろと辛いところだが、メーカー側も確かにそれだけのコストが掛かっているのだろうし、やむを得ないと思う。


  「オタクは同族を識別できる」というのは、オカルトか神話か妄想か願望に過ぎないだろう。そう言いたくなる気分も分かるけど、実際にはおそらくそんな嗅覚は存在しない。ただし、状況にはグラデーションがあり、そういう直感の鋭敏なオタクも一部にはいるかもしれないが、大多数のオタクに関しては、そのような超能力は存在しないだろう。あるいは、人の個性や性格を見抜くという意味ならば、そういう勘を持った人は、べつにオタクに限らず一定数存在するだろう。そもそも「オタク」というものが、ディープな層からライト層までの大きな幅があり、なおかつ無数のジャンルに広がっているのだから、「同族」という単一かつ固有の性質など存在しない。
  しかも、そうした神話には、実質的な危険もある。「オタク(である自分)は同族を識別できる」という自己認識を持っているならば、任意の対象がたまたま(オタクにとっての、あるいは自分自身にとっての)敵or味方のように見えた時に、その印象をひたすら強化し正当化するように向かってしまうからだ。人間の多様性や多面性を無視し、相手の知的人格的な複雑さを無視し、ただ敵味方の単純な区分――しかも敵味方という攻撃的な認識枠組――に自分の思考を埋め込んでしまう。それはとても怖ろしい意識作用だ。あまりにも危なっかしい思い込みだ。
  相手を何かの拍子にひとたび「非オタクの側の人間だ」と思い込んでしまったら、その相手を絶対的永続的に「味方にはならない存在」としてしまい、交渉の可能性を手放してしまうだろう。あるいは、詐欺師に騙されてひとたび「好ましい相手だ、同族だ」と思い込んでしまったら、もはやどうやっても目を覚ますことが出来なくなり、ずっと騙され続けることになってしまう。
  [tw: KenAkamatsu/status/1205125627784785922 ]

  オタク系ショップやオタク系イベントを歩いていても、確かに「濃厚なオタクっぽい人」は見出せるが、それとともに、「オタクっぽく見えない人」も大量に見出せるだろう。また、適当な場面でアニメやゲームの話題に触れたとしても、会話の相手がハイレベルなオタクなのか、それとも隠れオタクなのか、あるいは幅広い教養の一部としてオタク分野にも通じている(が特別に好んでいるわけではない)人なのかは、そうそう判別できないだろう。そもそも「オタク」の定義とは何なのか。それすらあやふやだ。そんな直感に賭けてはいけない。
  「オタクにはなんらかの本質が存在する」という虚妄の本質論や、「オタクとは人種である」と言わんばかりのニセ科学めいた発想に接近しかねないのもたいへん危うい。


  来週末には『カリンちゃん』発売。『悪魔聖女』以来、13ヶ月ぶりのSHC新作だ。一年以上も発売間隔が空いたのは初めてだが、体験版をプレイしたかぎりではクオリティは大丈夫そうだから、期待して待とう。それまでの一週間で、他のタイトルを1本くらいはクリアしておきたい。



  12/08(Sun)

  日本橋の模型展示会に参加してきた。プラモ作品(実物)を人前に見せるのは初めて経験だったが、なんとかやりおおせたと思う。私の作品を撮影しておられた方が何人もいたので、楽しんでもらえたのだと考えよう。
  それにしても関西の地名駅名の難しさは……。「十三(じゅうそう)」は特急乗換駅でもあるから比較的有名だと思うが、「喜連瓜破(きれうりわり)」はかなり困るだろうし、「柴島(くにじま)」「青木(おおぎ)」「放出(はなてん)」「柏原(かいばら)」あたりは引っかけっぽい。ちなみに放出はSHCの所在地でもある。京都は有名な地名が多いが、考えてみれば「太秦(うずまさ)」「壬生(みぶ)」「先斗町(ぽんとちょう)」などはかなり無理がある。


 1990年代の私は全然オタクではなかったこともあって(ほんとだよ?)、90年代風のセンスや90年代スタイルの洗練に対してなんとなくロマンティックな憧れを抱いている。90年代に盛り上がったアニメ作品の同時代的熱気。90年代に流行したイラストの個性的な画風。Windows95以前のマニアックなパソコン体験とPCゲーム体験。90年代に煮詰められた濃厚な爛熟と、90年代に現れていた清新な萌芽。90年代の時代精神。
  おおまかな印象としては、今ほどジャンル整理されておらず種々雑多で、今ほど商業化されておらず、マニアックなものはものすごくディープなままで、現在のオタク界隈に比べると規模は小さかったが人材は多士済々に個性豊かで、各自が好きなものを好きなように追求していた時代のように見える。一言で言えば、趣味としてよりいっそう純粋だったように見える。少なくとも、現在のようなボランティア宣伝合戦のような息苦しい現象は起きていなかっただろう。



  12/05(Thu)

  ネタや冗談のために嘘をつくことについて。どこまで許容するか、あるいはいかに自制するかの基準は人によってかなり異なるのだろう。嘘というか、誇張や、作り話や、日本的エンターテインメントなども含むが。
  私自身の気質としては、事実に反することであってもネタトークで他人を面白がらせることを楽しんでしまいがちだと自己認識している(※特に昔はそうだった)。しかし、嘘は自分自身の言葉の信用を大きく損なう行為だと理解しているので、やらないようにしている。ただし、明白に冗談であることを会話の参加者全員が認識できている場合には、事実に反するネタトークをするかもしれない。例えば、このブログで書いている「おばか」トークの一部はこれに該当するだろう。
  他人の嘘ネタやヤラセ行為については、当人に悪意が無く、なおかつ客観的に有害でないならば、笑って受け入れたいが、実際にはかなり不快感を覚える。そうでなくとも、「この人物は嘘をつく人だ」という認識を持つことは、必然的に、当人に対する信用を下げることを含意するだろう。あんまり悪印象を持たないようにはしたいけどね……。

  似たようなシチュエーションとして、お世辞をどこまで言うか、あるいはお世辞をどのように受け止めるかという問題もある。私は、他人をストレートに褒めるのは好きだし(私自身も気持ちが良い)、その一方で心にもないお世辞を言えばすぐにバレるだろうと考えているので、まあ、基本的には嘘偽りなく正直でいるようにしている。
  お世辞を言われる側としては、そもそも他人から私自身の性格等を論評されることが嫌いなので、どういう種類のお世辞であっても、けっして気持ちの良いものではない。
  ……こうして文字にしてみると、言う立場の時と言われる時とでスタンスが全然違うが、まあ、そういうこともある。もちろん、他人を褒める時でも、パーソナルな事実やデリケートな要素には触れないようにしている。

  おまえ(わたし)は今まさに、自己欺瞞という嘘をついているな! (おばか)


  プララジ#46回。海原氏ゲスト。耳が幸せ。
  『カリンちゃん』をプレイしただけでは、「ホウケイ」が何者なのかはまるで分からない。『恋姫†無双』の方で、程昱が頭に乗せていた宝譿(太陽の塔)のことなのだが。『カリンちゃん』では、なんだかよく分からないがフウが連れている自律戦闘カラクリ人形のような存在になっている。デザインとしては、フウの胸のペンダントにも反映されている。



  12/02(Mon)

  いつの間にか、ソフトハウスキャラFCに「2倍全力支援プラン」なるコースが出来ていた。支援金は月額6000円。現時点で、「残り5人」となっている(※何人分の枠があったのかは知らない)。さすがにそこまで過剰な支援をするつもりは無いので、3000円コースのままにする。


  【 白箱系がベッドシーンを扱う難しさ? 】
  白箱系のベッドシーンは、「何のためにあるのか」「何を目指しているのか」が見失われやすいのかもしれない。ラブストーリーの延長上に発生するシーンである筈なのだが、実際には、愛の行為としての側面はあまり描かれない。むしろ、実用目的の性表現というマンネリな描き方に引きずられやすく、何の面白味もない性描写になってしまいやすいのかもしれない。
  これがアトリエかぐやのようなピンク系であれば、享楽的な性表現という目標が明確だし、作品ごとにコンセプトが明確化されていることが多いので(例えば「ソフトSM」「甘やかし」など)、ベッドシーン表現もブレにくい。また、黒箱系は基本的に過激蹂躙行為としての性表現が目的になるので、これまた、性表現の目標を見失いにくい。
  白箱系は、ラブコメ展開は中盤の告白シーンでひとまず一区切りついてしまっているし、そこからのヒロイン個別シナリオはしばしば特有の(人間関係上の)問題にストーリーが引っ張られていく。そうした中で、ストーリー進行の合間を縫って忙しく性行為をこなしていかなければいけない。しかも、性嗜好上の様々な要求に応えるために、アクロバティックな行為や特殊なシチュエーションを次々に披露していくことになる(例えば野外で行なったり、コスプレしたり、ちょっと過激なプレイを試してみたり……)。様々な実用的要求に応えていくことが優先されるため、恋人関係の進展という側面をベッドシーンが引き受けるのは難しい。……だいたいこんな事情かと思われる。そして、白箱系のベッドシーンが面白味に欠けるのも、そういう味気なさのせいだろうと推測している。


  【 アダルトゲームの学園恋愛ものと、オタク界隈の○○活動ものを巡る雑感 】
  00年代後半までは、「白箱系」と言われる明るい雰囲気のタイトル群は、ほとんどが学園恋愛系だった。それは、学園生活という幸福かつ安全なモラトリアム空間を舞台にして、若々しい十代のヒロインたちとの初恋の物語を展開できるという意味で、大きなアドヴァンテージがあった。また、制服の存在、背景作画の容易さ、行動範囲の制限、ヒロインとの遭遇機会の確保といった制作上のメリットもあって、00年代を通じて強力に普及した。
  しかし、10年代の「白箱系」は、学園ものに縛られず、様々な舞台で展開されるようになっている。2011年に『穢翼のユースティア』を発売したAUGUSTは、この点で先見の明があった、あるいは、この流れを形成し主導することになった。ゆずソフトやCUFFS系列は非-学園もののタイトルを定期的に制作しているし、FAVORITEはファンタジー色を(当初からだが)さらに強めていった。ASa Projectは――元々、白箱系の本流ではなかったが――学園よりも普段の生活空間を描写することにいよいよ傾注するようになった。ぱれっとやHOOKSOFTも、本家ブランドは学園ものを維持したが、サブブランドで非学園ものへの挑戦を積極的に行っている。MOONSTONEは、00年代の頃から様々な路線を試みていたが、10年代に入ると(現代世界を舞台にしつつも)オカルトまたはファンタジーの路線に強く傾斜していった。10年代後半には、新生シルキーズも非学園もので大いに活躍している。
  ただし、多数派が依然として学園ものに留まっているのは確かだ。典型的なのは、戯画やSAGA PLANETS、ensemble、ま~まれぇど、Parasolなどだ。ClochetteやLump of Sugarのように00年代からファンタジーへの関心を示していたブランドも、むしろ微温的なスタンスを示し、学園ものの枠内に留まった。WhirlpoolやPurple softwareも、ファンタジー要素を積極的に取り込みつつも、結局は学園ものの方法論を捨てられなかったようだ。

  アダルトゲーム以外のオタク諸領域では、10年代に入って、「美少女たちが○○をする」というアプローチ(個人的にはあまり好みではない)が普及した。その背景には、00年代前半頃の「萌える○○本」手法や、「00年代を通じてメディアミックスや二次創作同人が浸透するとともに、キャラクターが物語への繋留を必要としなくなっていったこと」、「10年代のソーシャルゲームでの擬人化(女体化)キャラ量産」のような下地もあったと思われるが、男性オタク向けの美少女ものが「学園」「恋愛」以外の様々な可能性を手に入れたのは確かだ。
  しかし、アダルトゲームは、そうした流れにはほとんどコミットしていない。アダルトゲームは大量のテキストを読ませるアドヴェンチャーゲーム形式であり、なおかつ、20時間以上の大規模なオリジナル作品を作ることができるので、日常とは違った特別な活動を描写したり、特殊な分野の知識を披露したりするのには適していると思われるのだが、不思議なことに、そうした流れはほとんど現れなかった。PULLTOPのいくつかの試み(天文活動、パラグライダー、スクーバダイビングなど)や、架空スポーツものの『蒼の彼方のフォーリズム』『せんすいぶ!』『ひとつ屋根の、ツバサの下で』などはあったが、ごく少数の試みにとどまった。90年代以来の古式ゆかしき「喫茶店経営」や、00年代風の「音楽サークルもの」、あるいは伝統的な「ファンタジー要素が混入した学園もの」がせいぜいだった。この事実はアダルトゲームにとって幸いだったのか、不幸なのか、どのように評価すべきかは分からない。

  考えられる原因の一つとして、アダルトゲーム分野が評価基準を強固に確立しているという事情があるだろう。学園ものを中心として、「アダルトゲームとはこういうものだ」というパラダイムが出来上がっており、そこから逸脱するのは市場的考慮からしてなかなかに難しい。
  もう一つの原因は、表現様式と制作コストに関する問題だろう。様々な活動を描写する際に、文字媒体(LN)ならば、著者の知識と筆力さえあればどのような描写も低コストで具体化できる。漫画も、ものによっては作画コストが掛かるが、それほど大きな負担にはならない。さらにアニメは、あらゆるカットを新規描き起こししなければならないので、多様な活動を一々描写するとしても負担が増加するわけではない。しかし、アダルトPCゲームの大半はAVG形式である。つまり、汎用的な立ち絵のセットと、枚数の限定された背景CGおよびイベントCGの枠内で、必要な視覚表現を提供しなければならない。多種多様な活動の一つ一つをイベントCGにする余裕は無いし、ましてや、そのプロセスの一瞬一瞬の状況をヴィジュアル面で描写するのはほとんど不可能だ。そういう意味で、何かしら特別な活動(あれこれの趣味活動)をフィーチャーするのは、アダルトゲームには不向きなのかもしれない。
  この第二の問題を解決する道筋も、無いわけではない。一つは、イベントCG量産のアプローチ。例えば『白詰草話』は比較的小さなカットイン画像を大量に制作することによって物語の動きを緻密に表現したし、『AYAKASHI』もアニメ寄りのローコスト着彩によって負担を減らしつつ、大量のイベントCGを制作した。もう一つは、SLGとして制作することだ。つまり、SLGパートの中でそうした活動を、視覚的にではなく機能的に表現することだ。それによって、行動のヴァリエーションを効率的に表現しつつ、SLG作品ならではのセールスの上積みも期待できる。上記『せんすいぶ!』のEscu:deと、ソフトハウスキャラの一連のタイトルは、まさにこれに当てはまる。


  SHCファンクラブの懇親会(第3回)か。
  SHCは関西のメーカーなのだし、関西でも開催してくれないかなあ。
  ……と思ったけど、行ける機会があっても、参加するのは気後れしてしまうだろう。
  いや、まあ、会場では周囲の話を静かに聞くだけでいればいいのだけど。



  12/01(Sun)

  【 ジャンル呼称について 】
  FAGシリーズが注目を集めていた時期(2018年初頭まで?)は「メカ少女プラモ」という認識(または呼び名)が定着するかと思っていた。しかしその後、プレーンな素体キットやファンタジー系キャラなど、メカや武装に拘らない製品が増えてきた。2019年末現在では、広く「美少女プラモ」「ガールプラモ」と呼ぶのが適切だろう。
  ただし、「美少女」プラモというのは、いささか躊躇われる。外見上の見目麗しさが重視されているのは確かだが、それ(だけ)が目的ではないからだ。現時点での私の言葉遣いとしては、ニュートラルに「ガールプラモ」と呼びたい。
  「女の子プラモ」というのは、かなり恥ずかしいネーミングなので使う気にならない。「ガールズプラモ」というと、女性モデラーのプラモという語感に近づいてしまう。
  「女性プラモ」と呼んでもよいのだが、一定以上の年齢感の女性キャラは出てこないであろう(少なくとも、主流になる可能性は限りなく低い)。これは、男性ユーザーが多数を占めるプラモデル分野だけでなく、女性ユーザーの多いドール分野でも、ほぼ同じ状況だ。鑑賞用ドールの歴史は、子供向けの可愛らしい人形(ドール)に強く規定されてきただろうし、ドール界隈の美意識や造形ノウハウが十代以下の低年齢キャラクターを中心に発展してきたのは自然なことだろう。また、中年以上の年齢表現は、技術面、費用面で比較的難しいという事情もあったと思われる。例えば、複雑な皺などを表現するのは難易度が上がるし、小縮尺のミニチュアで大人びた雰囲気をキープするのも難しいだろう。
  また、男性キャラクターのプラモデルもある(『DRAGONBALL』や『仮面ライダー』など)。そちらも、すでにかなりの数がリリースされているが、まとまった呼称はまだ無いようだ。あえて言うなら、「ヒーロープラモ」のような呼び方をするとしっくり来るかもしれない。
  男女併せて「人間型の(可動or非可動の)プラモ」を指す言葉も、まだ確立されていない。「キャラクタープラモ(キャラクターモデル)」という言葉は、通常は「アニメなどを原作とするフィクションに登場する事物のプラモデル」のことを指す言葉としてすでに確立されている(※つまり「スケールモデル」の対義語)ので、「人間型プラモ」の意味で使うのは誤解を招く。
  今後、「男/女」の性別で分類できないプラモデル(例えば男の娘キャラ)や人間型以外のプラモデル(例えばケンタウロスキャラ?)が出てきた時にどうなるかは興味がある。

  「美少女ゲーム」という呼称も、あまり好きではない。私なりの使い分けとしては、「ギャルゲー」というと、「全年齢タイトルを含む、あるいは全年齢タイトルにウェイトを置いた呼称」として認識する。また、「美少女ゲーム」は、「全年齢タイトルも視野に入れたおおまかな呼称(特に恋愛ものが中心に置かれ、18禁黒箱系は外される場合がある)」として使うことがある。「アダルトゲーム」は、いわゆる「エロゲ(ー)」と同義で、18禁PCゲーム全般を指す。ちなみに、40代以上(時には50代や60代)のヒロインが登場するタイトルも一定数存在するので、その意味でも「美少女ゲーム」というのは適切ではない。
  00年代に「エロゲー」として認識されていたのは、「主にwindowsPC用の、日本語の、パッケージ販売の、異性愛男性向けの、性表現を伴う、18禁の、デジタルゲーム」のことだった。乙女ゲームやBLゲーム、全年齢恋愛ゲーム、コンシューマゲームなども存在したが、かなりの少数に留まっていた。しかし2010年代には、様々な形式、様々な媒体、様々な体裁、様々な規模の「18禁要素のあるデジタル、マルチメディア、インタラクティヴなコンテンツ」が現れている。そのため、現在では「アダルトゲーム」という呼称はかえって誤解を招きかねないというのは確かだ。そう考えると、00年代以前の支配的形態を指す狭義の概念として「エロゲー」という言葉にも、一定の有用性はある(けれど、あまり使いたくはない。あんまりエロエロと言いたくないというだけのことだが)。

  「白箱(系)/黒箱(系)」という言葉は、通じない人も多いようだ。学園ものや恋愛ものなどの明るい雰囲気のタイトルはパッケージ自体が白っぽいデザインで、それに対して蹂躙表現などを含むダークな内容のタイトルはパッケージも総じて黒っぽいので、それぞれ「白箱」「黒箱」と言う。歴史的には、どうやら「黒箱(系)」の言葉の方が、先に現れたようだ。おそらく「りょーじょくけい」という言葉はTPOによって憚られるため、濁して「黒箱」と言うようになったのだろう。そして、その対義語的発想で、「白箱系」という言葉も(一部で)使われるようになった。
  アトリエかぐやのように享楽的な性表現をひたすら追求するスタイル、つまり恋愛要素も蹂躙表現も扱わない第三の路線のことを、個人的に「ピンク系」と呼んでいる。ただし、これは私が勝手に呼んでいるだけの便宜的な呼称であって、この言葉を使っている人はほとんどいないと思う。この言葉を使う時は、初見でも意味が分かるように、説明を補足するなどして気をつけている。
  性表現や恋愛関係ではなく、それ以外のドラマティックな要素に焦点を当てるものを総称して「シナリオ系」と呼ぶ人が多いが、あまり良い呼称とは思えないし、そうしたものを一つのカテゴリーとして捉えることにも疑問がある。

  人文(学)系の研究者には、人文「科学」と呼ぶor呼ばれることを避ける人たちがいる。自然科学的な「科学」とは違うという認識に立っているからのようだ。つまり、歴史的事実にせよ個人の文芸的創作にせよ、人文学の研究対象の多くは一回性の事実に基づいており、あるいは個別的偶然的な事情によってその性質が大きく左右されており、それゆえ実験や追試のような(自然)科学的手続とは異なった手法で分析されるからだ、ということだろう。
  しかし、そもそも「科学(science, Wissenschaft)」は、自然科学的手法のみを意味するわけではなく、それぞれ一定の理に適った方法論に基づいて系統的かつ客観的な分析を行う知的活動であればすべて「学」「科学」「学知」と呼んで差し支えないと私は考えている。だから「人文科学」と呼んでもいいと思うし、「社会科学」「自然科学」と並べて平仄が合わせるうえでも都合が良い。
  また、「人文(科)学」という存在/現象/活動それ自体を、人文学の外部から知的(学問的)に認識することも可能であり、その場合には、人文系の当事者たちの自己認識とは異なった仕方で記述され呼称されることも当然あり得る。その意味でも、当事者の意見を絶対視するつもりは無い。
  とはいえ、humanitiesには「人文学」という言葉を当ててほしいという姿勢の当事者たちと仕事をする際には、コンヴェンショナルに彼等の要望を受け入れて「人文学」と書く。そんなところで喧嘩しても仕方ないので。
  まあ、「(科)学」と呼べるのか分からないような代物も(以下略)。
  特に残念なのは教いk(以下略)

  社会科学に分類される諸分野も、しばしば自然科学的な実験と検証の手続を取っていない、あるいは取ることのできない領域が多数存在する。そうした分野が、自然科学的手続に対する引け目や何かを覚えているのかどうかはよく知らないが。ただし、そちらの場合は、「社会学」と呼ぶと混同を招くので「社会『科』学」と呼ぶ必要があるという実際的な事情もある。
  自然科学に分類される学問分野でも、厳密な意味での実験が行えない場合がある。倫理的制約のある医学が典型的だし、天文学や古生物学もしばしば反復的な実験が困難だ。とはいえ、それでも仮説と客観的検証のプロセスによって支えられているという点で、確かに(自然)科学的手続に則っている。


  今月は、落ち着かないまま年末を迎えてしまいそうだ。冬休みは『カリンちゃん』に余暇の時間を注ぎ込むつもりだが、体験版の様子では、それほど複雑な要素は無さそうだから、こーりゃく記事は作らないと思う。
  模型分野では、AOSHIMAの「メサイア」は買うつもり。塗装に向かない季節だし、たまには無塗装で組んでみようかと考えている(※出来が気に入ったら2個目も……)。

  一部の言葉をひらがなで書くのは、検索避けのつもりだったり、その言葉が好きではない場合だったり、その都度様々な事情による。特にこーりゃく関係は需要が大きいと思われるので、無駄足を踏ませたくない。古式ゆかし/きスラッ/シュ検/索避けは、ご覧のとおり文面がたいへん見苦しくなるので使わない。


  猫を飼うよりも、そのためのコストや労力をドールに振り向けた方が生産的なのでは?
  ドールなら食費もかからないし、匂いもないし、排泄もしないし喧嘩もしないし死なないし。
  猫を買う(飼う)ことを考えたら、ドール購入ははるかにリーズナブルだよね?
  結局のところ、ドールを購入すればもっと幸せになれるのでは?
  (墓穴を掘っていく)


  室内のオタクタワーを積み直したことによって、タワーの安定性と室内の収納容量が劇的に向上した。よし、これでもっと買える。タワーの構成物も、後からでもちゃんと取り出せるように考慮して積んだから大丈夫。
  (〆切前の逃避行動も、こんなふうに役立つのだ。)


  というわけで、なんとか〆切に間に合った。デッドラインは11月末日の筈だが、土日を挟んでいるため、月曜日に届けば「〆切の前日の翌平日」になるから、セーフだろう。うん、だいじょうぶ、だいじょうぶ。(年齢計算の法律かよ)


  (→2020年1月2019年11月