2020/01/31

2020年1月の雑記

  2020年1月の雑記。(→2020年2月2019年12月


  01/31(Fri)

  えっ、あれっ、通販箱の中身が一つ足りない……と思ったら、「メディア:DLカード」だった。つまり、裏面にDLコードが印刷した名刺サイズの一枚だけ。そんなのありかー!?
  1) どうせDLさせるなら、初めからオンラインDL販売だけでいいのでは? 意味不明。
  2) 有効期限が今年の6月末まで。期限付きで、しかもかなり短い。たった5ヶ月とは。
  3) しかもDMM(※もちろんログイン必要)。うわあ、使いたくない……。

  でもでも、原画も塗りも脚本家も声優もコンセプトもすごく好みで、プレイするのを心待ちにしていたのだよね……。ひぐっ、ぐすん、ぷれーしたいよお……でも、こんなのいやだよお……。

  本当にただのカード一枚なので、うっかりすると失くしてしまいそう。
  その意味でも、DLするならば早めにしておかなければ。

  [ www.getchu.com/soft.phtml?id=1073925 ]
  DLコードさえ分かればいいのだから、欲しい人がいたら差し上げてもいいくらいだが、そういうことのできるゲーマー友人が私にはいなかった。

  同時購入した『ぬるぺた』も、「ゲーム版のプレイにはSteamアカウントが必須です」とのこと。こちらも通販サイトでは告知無し(※公式サイトでは告知あり)。しかも、パッケージ内のペーパーによれば「シリアルコードを使用することで、『ぬるぺた』ゲームデータをオンラインからダウンロード可能です」……えーと、それなら、このディスクの中には何が入っているの? ディスクを入れてみたら、同梱アニメ版の再生が始まった。封入ペーパーによれば、アニメ版もSteam経由でオンライン視聴する形式とのことだが……アニメの方はディスク単体で全編再生できるのかな?
  [ www.getchu.com/soft.phtml?id=1065744 ]
  [ nullpeta.com/product/ ]

  私の方針は:
  1) 複数のサービスのアカウントを作りたくない。一々アカウントを作ってそれを管理する私自身の手間もあるし、情報漏洩リスクなどの問題もある。利用したくない企業のものもある。
  2) できれば物理メディアで持っておきたい(※書籍は紙媒体で、アニメやゲームはディスク媒体で)。一つはアクセス保障のため、つまり、配信停止されない保障。もう一つは、内容の確定性保障のため、つまり、内容を後から改変されない保障。特にアニメ作品の場合は、配信元によって規制処理が大きく異なるが、現状ではディスク収録のヴァージョンが最も規制が緩く、なおかつ最も正統的だと言える。
  配信型販売の長所も認めるが、選択肢があるかぎり、できれば物理媒体で持っておきたい。

  配信型のアドヴァンテージも大きいのだけどね……。
- 店まで買いに行ったり通販到着を待ったりしなくてもよい。
- 実店舗よりも品揃えが豊富で、検索性も高く、検索即購入できる。
- ものによるが、比較的安価になる(※パッケージ印刷代や通販費が生じない)。
- 特に漫画のカラーページなどを、そのまま収録販売できる。
- パッケージが場所を取らない。物理媒体の汚損、劣化、紛失リスクも無い。等々。

  もちろん、その裏返しの短所もある。
- あらかじめ知っている作品しか探せない(※偶然の出会いが比較的乏しい)。
- 旧作が市場に留まり続ける(しかも安価)ので、新作製作が不利な業界構造になる。
- 配信停止やサービス終了などのリスクがある(※致命的な問題)。
- 漫画などでは、低容量=低画質にするとアナログ媒体よりも低品質になる。
- 図書館などでの収蔵保存ができない。公共的な利用が過度に制限される。
- 特に書籍の場合、貸し借りができない。
- 店舗販売ではないので、特典戦略が出来ない(※ファンの複数買いが消滅)。等々。

  CDやDVDが読み取り出来るのはせいぜい20年だか30年だかと聞く(※うちの音楽CDは20年前のディスクもたぶん全て正常読み取りできるから、耐用年数は20年よりもはるかに長いと思われるが)。21世紀の人類文化は、量的拡大や利便性向上の一方で、あまりにも脆いものになってしまった。すでに00年代のコンテンツには、断片的な言及やわずかなスクリーンショットくらいしか残っていないというものが大量にある。デジタル化、オンライン化は避けられない方向性なのだろうけれど……。

  いささか皮肉なことに、一面では「オンライン販売によって作品の寿命が延びる」という側面がある。以前であれば中古店で探すしかなかった過去のタイトルが、現在ではDL販売として復活していて容易に正規購入できる。場合によっては、OS対応がアップデートされていることすらある。しかし同時に、長期的なプレイ保障が失われているという側面も否定できない。
  「DL販売サービスが長期維持される見込み」「旧作へのアクセスが容易になったこと」と、「ディスク媒体の耐用年数」「内容確定性の保障」「大量の旧作による新作市場圧迫」の双方を天秤に掛けて、どちらを良しとすべきか……いや、現実は否応なしに片側に傾きつつあるのだが。


  白箱系の「前半の共通パート/後半の個別ヒロインパート」の区分は、00年代前半までは、それほど明確なものではなかったと思う。ヒロイン造形が入念に練り込まれ、キャラクター間関係や作中状況もしっかり構築されたうえで、「主要キャラクターたちみんなのドラマ」を、充実した規模の前半パートで提示するというのは、基本的には00年代後半のことだったと思う。AUGUST、ういんどみる、FAVORITEなどが先鞭を付けていたアプローチだが、それがアダルトゲーム分野(学園恋愛系)の基本スタイルとして確立されたのは、案外遅かった。それまでは、前半シナリオは「みんなのお話」ではなく、ヒロインごとのバラバラのイベントだったし、シナリオ分岐ももっと細かく、比較的複雑なフラグによってさまざまなタイミングで枝分かれしていた。
  序盤で主要キャラクターたちと出会っていき、中盤で全てのキャラクターの関わる大きな出来事があり(※例えば学園祭実行など)、そこからばっさり個別ヒロインにルート分岐するというのは、00年代後半以降の流儀だろう。個別ヒロインのシナリオが拡充され、なおかつベッドシーンが本格的に(回数とボリュームの双方が)増強されていった時期とも、軌を一にしている。
  ちなみに、10年代に入る頃には、出会いのイベントを一々描写するのは避けて、物語の初めから全員集合済みという見せ方(サロン型、サークル型)が強まっていた。その場合、ヒロインとの初めての出会いは、中盤以降にロマンティックな回想として扱われることになる。

  このように、アダルトPCゲームも――白箱系に限定しても――ほんの数年単位で支配的流儀が大きく変化している。だから、90年代前半に『同級生』をプレイしていたマニアと、90年代後半の作品群を浴びた世代と、00年代前半頃にやりこんでいたプレイヤーと、00年代後半当時の体験からアップデートしていない層と、10年代前半をアダルトゲーマーとして生きた人々と、10年代後半の最新タイトルを楽しんでいるオタクでは、一口に「エロゲー」といっても大きく認識が異なるだろう。

  私なりにざっと振り返ってみよう。スケジューリングSLGだった『同級生』(1992)から、オタク的なキャラ造形が一気に浸透した90年代後半へ(『ToHeart』は1997年)、そして00年代初頭は学園恋愛系AVGが玉石混淆で沈滞していた(※セールス面でも黒箱系の方が堅実だったそうな。例えば『D.C.』シリーズは2002年に始まっている)。00年代前半までは、学園を舞台にしながらメランコリックな作風のタイトルもかなり多かった(2001年『ねがぽじ』や2002年『世界ノ全テ』)。
  そしてPurple software(2005年の『秋色恋華』)やFAVORITE(2006年の『ウィズアニバーサリィー』)が頭角を現した00年代半ばには演出技法の点でも作品規模の点でも大きく増強されつつ完全に読み物AVGへと舵を切り、00年代後半に入る頃にはWhirlpool(同年『いなこい!』)やゆずソフト(2006年の『ぶらばん!』)がデビューして、現代につながる学園恋愛ものの基本枠組が確立された。上述の「コメディ基調の前半共通パート」という様式も、『はぴねす!』(2005年)の頃に確立されたものだろう。
  00年代末にはBGMや背景美術がさらにクオリティを高めていったが、ワイド化や画面解像度上昇は制作負担でもあって、ヒロイン人数やCG枚数も絞り込まれるようになった(ぱれっとの『さくらシュトラッセ』が2008年)。2010年前後には、ベッドシーンのボリュームがいよいよ大きくなり、作品全体のバランスも変わってきた。00年代後半以来の白箱系の大作志向は、ここでいったん限界を迎えたように思われる(2010年『恋色空模様』)。特に判断の速いAUGUSTは、2011年の『ユースティア』で学園ものから一旦離脱した。白箱系タイトルでSD画像の使用が急増したのも、この頃だったと思う。
  さらに10年代前半には、ピンク系との融合、サロン的多人数空間、学園ものからの離脱傾向、3D化や2D擬似アニメーションといった様々な新機軸が現れた(2011年『妹ぱらだいす!』、2010年『アッチむいて恋』、2011年『CAFE SOURIRE』、2014年『ひまわり!!』など)。作中世界設定や脚本も、2010年代の文化的風土に合わせて変わってきたし、キャラクター造形もいよいよ複雑かつ緻密なものになった。00年代を支えてきた人気アダルトゲーム声優たちが姿を消したり出演数を激減させたりしたのもこの頃だったが、その一方で奏雨氏(2008年デビュー)や藤咲氏(2009年に出現)、秋野氏(2010-)、桃山氏(2012-)、小鳥居氏(2012-)、花澤氏(2012-)のような新世代の名優たちも現れた。
  10年代半ば以降は、白箱系ロープライス連作(『○○のセイイキ』『○○ウソ』『9(nine)』『アイ○○』シリーズなど)が増えてきたり、HOOKSOFTが新作ごとにシステムの新機軸に挑戦しつづけていたり、PULLTOPが一見爽やかなようでわりとドロドロしたシナリオの作品をリリースしたりする一方、まどそふと(2013-)やLaplacian(2016-)のような新規ブランドが一点突破型の個性で注目を集めている。10年代初頭から半ば頃には、AVGのユーザーインターフェースや機能増強もさらに長足の進歩を遂げた(「バックログからのジャンプ」から「BGMの曲名表示」まで様々)。
  10年代後半については、どのような特徴が挙げられるべきだろうか。まだ判断しきれないが、白箱系(ライトな萌え系)に関していえば、00年代後半以降の学園コメディの圧倒的優位はもはや無く、様々な状況設定、様々な趣向の作品が制作される多様化の時代に入っている。
  ……以上の展望はほんの一例であり、この他にも様々な変化や時代的特徴を指摘することができるだろう。


  2020年1月というタイミングは、前後を多少広げて現時点として呼称するのが難しい。「20年代初頭現在」というには、まだ始まったばかりで中身が無い。「10年代末時点」というには、もはや20年代であって間違いになる。「10年代末以来の○○」というのは、表現がくどすぎる。「2020年前後の現在」というのも、まだ2020年それ自体もその後も確立されていない。「2020年頃の現在」というのは言い回しが落ち着かない。これが2019年や2018年であれば、最近の流行を指して「2010年代末現在」「10年代後半の現在」とストレートに書くことができたのだが。


  ドールやガールプラモでも、真正面を向いた堂々たる仁王立ちポーズが大好きなのだけど、大方の見方では「ポーズをつけていない」「可愛くない」「洗練されない」と見做されてしまう。斜めにしなを作ったポージングの魅力も理解できるのだが、真正面ポーズも均衡感があるし、程良く力を抜いた自然体の姿勢だし、プロポーションの美しさも見て取りやすいし、各部のディテールもよく見える。まあ、構図の話としては、横顔や見返り美人も大好きなのだが、それはそれでいささか特殊だし、可動立体物でうまく見せるのは少々難しい。


  [ http://www.astronauts.co.jp/sirius/zettaijyotei/ ]
  「軍服美少女陥落アドベンチャー」とは……。この軍服のデザインはそれほど好みではないけど、買ってみようかな。発売は来月。


  そんなわけで、プレイ予定を変更して『神楽黎明記』新作をクリアした。舞歌さん、前作では九尾ラスボスで今回は龍神ラスボスって、どうしてこの人だけハードモードなの……。他の作品はせいぜい牛頭馬頭や狒々(ひひ)といった普通の妖怪なのに、九尾は別格の強力な妖怪だし龍神に至っては神的存在という……。もっとも、九尾は『夏神楽』でもラスボスだったし、『訪神歌』は本物の神様キャラを正面から叩きのめしてしまったけど。
  ただし、龍神といっても、ゲームパート上での強さ(難易度)はそれほどでもない。むしろ道中の方が大変だった。雑魚敵たちが複数種類の状態異常を掛けてくるので、その場その場の対応に手間取る。

  興が乗ったので、アイテムデータのページを作る。web検索してもこういう情報を出している方はいないようなので、まあ、なにかしらの意義はあるだろう。ただし、刀キャラのタイトルは全て未プレイなので……どれか買ってきてプレイしようかな。



  01/27(Mon)

  帰宅途中に、隣家の軒下に猫が雨に濡れてジッとうずくまっていた。近隣で野良猫を見かけるのは珍しく、「にゃー」と声を掛けてみたが特に反応は無し。帰宅して荷物を置いてから、「寒そうだったな、大丈夫かな」ともう一度見に行ったら、すでに姿を消していた。ハチワレ柄の成猫だったが、毛並みは荒れていたのでおそらく野良猫だろう。首輪の有無は分からなかった。
  見に戻るまでの1分かそこらの間に、自宅に連れて帰った場合の暖の取らせ方や、猫の食べられる餌の有無、トイレの用意、ノミや抜毛の問題、部屋の大掃除、月々の飼育費用や手術費用、そしてネーミングまで瞬時にいろいろ考えていたのがすべて無駄になったのを、はたして残念がるべきなのか、それとも安堵すべきなのか。……べっ、べつに、猫を飼うつもりなんか無いんだからね! 昨年末の検討作業のおかげでそういう発想に慣れていただけなんだから! ほっ、ほんきにしないでよね!
  結局、ほんの十秒かそこらのご縁で終わってしまったが、いずれにしても、どこかで元気に生きていってほしい。

  真面目な話をすると、野良猫は衛生面でかなり危険なので、安易に近づいてはならない。今回は実のところ、ただ「見に行った」だけのつもりだった。もしも近づいてこられたら、困ってしまっただろう。野生動物に対して人間がしてやれることは、そうそう無いのだ。


  風音氏は、自身のラジオ以外でも「権力」「金」を連呼するのか……。1)自分がパーソナリティではなくてゲスト出演の場で、2)旧知の友人ではない相手、3)しかもかなりの後輩声優が相手だと、シャレにならない。「下品なことや失礼なことを言う芸風の人」じゃなくて、「本物の下品かつ失礼な人」に聞こえるぞ……。相手を「バカ」呼ばわりもして、なんかもう、微塵も笑えない。芸風のつもりでやっていたら本物の「地」になってしまったのか、それとも話芸を磨かずに暴言キャラでやっていたら他のやり方が出来なくなってしまったのか……。


  twttrのPCブラウザ&非ログインアクセスでの仕様が変わったようだ。
  1) 各アカウントのプロフィールページのTLが右側から左側へ移った。これは慣れの問題だろう。私がログイン発言していた十年前も、たしかTL左側配置だった(※ちなみにtwilogの配置は、十年前のまま)。
  2) 「おすすめユーザー」がTLに混入するようになった。定期的に見に行くアカウントの場合、同じ情報だけを繰り返し見せられることになるので、端的に邪魔。
  3) 画像をクリックして拡大表示する時に、「large」サイズではなくなった。「large」または「orig」サイズで閲覧/保存するのがかなり面倒になった。次の画像に移る時も、瞬間表示ではなくスライド動作が入る。邪魔。画像拡大表示中に本文を読めないのも面倒。
  4) 以前は「『ツイートと返信』は見られない(開けない)が『メディア』欄は開ける」のだったが、新たな仕様では逆に「『ツイートと返信』は開けるようになったが『メディア』は開けない(/mediaとURL指定してもプロフィールページに戻される)」になった。どちらにしても不可解な仕様。
  5) 投稿数の情報が消されてしまった。投稿頻度などの活動実態が読めないし、画像投稿数が分からなくなったのも痛い。
  6) 検索表示オプションから、「全てのツイート」タブが消滅した。「最新」欄が同じ機能を持つのだろうか? いずれにしても、恣意的にピックアップされた投稿だけを見せられるのは困る。
  7) その他。新しいページを開いた時に読み込みに時間が掛かるようになったとか、右の枠が固定位置ではない(下にスクロールするとついてくる)とか、新たな投稿の読み込みをしなくなった(?)とか、引用RTの言及先を別タブで開けなくなったとか、画像サムネイルの切り取り方がひどくなったとか、全般に動作が重くなったとか、いろいろ。

  重要な情報が消えたのと、出来ないことが増えたのは、まちがいなく改悪だろう。

  有益なことを述べている方々も多いし、ご縁のある方々もいるので、twを無視することはできないが、やはりログインしたくはない。しかし、いろいろ言いたいこともあるので仕事方面のアカウント(作っただけで休眠状態)を動かしてみようかという思いもある。


  triangle新作はハード路線のようで多少興味はあるのだが、キャスト面の不安が強い。ほとんど実績のない新人同人声優(?)ばかり。サンプルヴォイスも、通常音声1個とアダルトシーン3個なので判断しかねる。



  01/24(Fri)

  しまった! 病中病後は自制心が極端に低下するのを失念していて、うっかり万札をいくつか手放してしまった。今日買ったものはすべて満足しているが、普段だったら我慢したり後回しにしたりしたであろうものが含まれる。いや、買ったのは本当にすべて十分に満足のいくものばかりなんだけどね……。欲しいものを全部買っていたら経済的に死ぬというのも確かなので。

  面倒だけど、ゲームと模型は手許の所持リストに入力しておかなければ……。
  でも、めんどい……。

  幸いなことに、風邪を引いても食欲は一切落ちない体質なので、しっかり食べて回復に努める。ただし、消化能力などは落ちていると思われ、食べすぎは逆効果になる危険もある。


  偏見の研究を自称する人が、みずから旧弊的な偏見を露呈してしまう。ありがちな話だが、あらゆる人が偏見を免れ得ないということでもある。重要なのは「偏見を修正していけるか」、「偏見だという指摘を受け入れられるか(あるいは少なくとも誠実にその指摘と向き合えるか)」だろう。
  もう一つ述べておくと、「美」と「正しさ」を結びつけてしまうのはきわめて危険だ。美しいと感じられるものが、自分にとって心地良いものが、政治的社会的に公正な存在であるとは限らない。美は正義の根拠にはならない。「かわいいは、正義!」という有名なキャッチコピーは、倒錯した主張をあえて強引に表明してみせるふてぶてしさが面白かったのであって、それをベタな主張として通用させようとするとしたら、ただの破壊的差別的な主張だ。


  ナンバリングがあるけれど前作が存在しない(or発売されていない)のは、PCゲームだと『そう、あたしたちはこんなにも理不尽な世界に生きているのだらよ3 ※この世界で2の発売予定はありません。』や『続・殺戮のジャンゴ』がある。『ヤミ帽』のようなタイプ(シリーズ化を念頭に置いていたが個別のタイトルは結局制作されなかった)も、これに含めてよいだろうか。


  【 桃組再評価? 】
  最近になってようやく気づいたけど、桃組もアダルトシーンの嬌声は上手い。上手いというか、迫力のある大声で真に迫った芝居が出来ている。それは確かにテクニックの一つであり、表現の一部であり、とりわけピンク系や黒箱系で起用される意味はあるのだろう。
  しかし……通常シーンがあまりに浅薄で、芝居になっていない。ふりかえってアダルトシーンでも、役を作った芝居とは言いがたく、ただ喘ぎ声を聴かせるためのパフォーマンスになっている。このような特化型の声優は、どのように評価すべきなのだろうか。冷たく言ってしまえば、「アダルトシーン特化型の音声職人であって、通常シーンは聴くに堪えない」というのが私の見方なのだが、これは公正な評価なのだろうか。ベッドシーンの作り込みは、既存の芝居論だけでは捉えきれない独自の文法を持つ一分野であって、その新たな表現分野における技巧と価値と開拓を誠実に受け止めるべきなのだろうか?
  この問は、逆のタイプの役者をどのように評価すべきかという問にもつながる。すなわち、通常シーンでは華やかにキャラクターを演じているが、ベッドシーンの芝居では掘り下げも迫力も色気も何も無くてひたすら浅薄で退屈だというような声優を、アダルトゲームの出演声優として公正に評価するには、どのような視座を採用したらよいのだろうか。「アダルトシーンの芝居に関しても、ノウハウの蓄積や見本となる実演は大量に存在するのだし、ベッドシーンについては見ないふりをして評価するのも公平を欠く。気の抜けたような喘ぎ声を出しているならば、アダルトゲームに出演する声優として、不出来な芝居をしていると批判されるべきだ」ということになるだろう。
  私の基本的立場としては、「通常シーンとアダルトシーンの間で差別してはならない」、「きちんと役に入った芝居を聴きたいのであって、ただ派手な喘ぎ声を聴きたいわけではない」。この二つを前提としても、桃組を再評価する余地はあるだろう。少なくとも黒箱系やピンク系にとっては、桃組を起用することは、クオリティの観点からも意味のあることだと考える余地がある。あまり無下にバカにすべきものではないのだろう。
  だがそれでもしかしなおもやはり、日常シーンの芝居の拙劣さは受け入れられない。芝居の中に、個々の台詞の意味がまるで籠もっていないし、その役の造形(例えば感情の動き)も出来ていないし、そのシーンの雰囲気も見えてこない。つまり、どのようなシーンに適しているかの問題以前に、そもそも「役作り」が出来ていないのだ。おそらく彼女等の演技プランは、台本の内容に沿った構築ではなく、ただ単に「元気系」「声は高め」のような分類をして声を出しているだけなのだ。まるでそのようにしか聞こえないのだ。
  「こういうアプローチも、役者の一つのあり方として理解できなくもない……いやいや分かんねえよ! いやでも、しかし……。いやいや、けれど……」と思考は行ったり来たりしている。

  ちなみに、ボーカロイド/ボイスロイド系の音声は、いまだに大の苦手。
  桃組のアプローチを評価できるようになったとしても、けっして好きにはならないだろう。


  新記事:「『AQUA SHOOTER!』フェイス交換」。好きな言葉は「総当たり」!(ちがう)
 気に入ったものは、熱があるうちにどんどん取り組むのが良い。

  記事の最後に1/12級ガールプラモと組み合わせた写真も載せたが、うーむ、デフォルメ体型ではない半裸ガールは、どうしても生臭いのだよね……。SDデザインのAQUA SHOOTERSはコミカルな面白さを前面に押し出して、お色気要素を匂わせないようにしているのがありがたい(※とはいえ、各キャラでバストサイズが違っているという微妙ないやらしさもあるけれど)。

  しかし、この記事もネットの海に埋もれて、見る人(検索等でアクセスする人)もほとんどおらぬのだろうなあ。以前の「ガールプラモ年表」記事も、アクセスがほとんど無いままだし。かといって、SNSに顔を出して宣伝して回るということもしたくはない。このブログの活動はあくまで私の趣味のためにあるのだし、私の行動を宣伝合戦スタイルに染めてしまうのは嫌だ。


  えっ、あの桜咲ヴォイスの白坂なんとかさんというキャラ、眼鏡を掛けることもあるのか!
  あの方が演じている役の中で眼鏡キャラというのは、かなり珍しいのでは……。


  八割方復調したので大事を取って一日中自宅でグータラするつもりでゲームをしていた。しかし、ロープラとはいえ一日に4本コンプリートしてしまうとは……。それなりにハードだが、このくらいならまだまだ集中力は保つようだ。



  01/20(Mon)

  [tw: 1218504263610978304 ]
  うーん、それはいかがなものか。批判の元々の趣旨はよいのだけど、「その感覚はほとんど遺伝子的昂奮だ」という部分に注目してしまうのはたいへん危なっかしい。自分の中の「純血性」に興奮するのも「豊かなハイブリッド」に興奮するのも、ナイーヴな血統主義に自らの価値観を依存していることに代わりはなく、感動の風向き次第ではどちらにも振れてしまう虞があるし、優生学めいたオカルトに陥りかねない隙をみずから呼び込んでしまっている。純血性のメリットがなにかしら提起された時に、それに反駁することが出来なくなるからだ。血統の認識が自分の価値観を基礎づけるという発想は、かえって補強されてしまっている。要するに、批判しているつもりなのに批判対象のロジックに取り込まれてしまっているのではないかという危うさだ。下手な批判、下手な賛同の仕方はかえってやばい、という実例にならぬことを祈りたい。

  そもそも元の記事は、遺伝的多様性を本気で称揚しているわけではないだろう(と期待したい)。単一民族性がなにかしら良いものだというなら、それとは逆の複合民族性だって同様になにかしら良いところは見出せるよね、そうやってなんとでも言えてしまうくらい無内容な事柄であり、ただの神話みたいなものだよね、という弁論術だと思う(あるいは、そう解釈される限りで正しい)。
  言及されている記事(コラム)の趣旨を敷衍するならば、以下のように述べる方が公正だと思う:すなわち、「単一性(純血性)という遺伝的事実が仮に存在するとしても、そのような動物的次元からは社会的文化的人間的な価値や卓越はなんら導出され得ない。想像力の問題としても、多起源的豊饒性に思いを馳せても同じようなことが言える程度のものだ。いずれにせよ、個々の人間がどのような価値観を形成するか、どのような人格になるかを決定するうえでも、一つの社会がどのような美質を備えているかを評価するうえでも、(ホモ・サピエンス内部での)遺伝的偏りが果たしている影響はきわめて小さい。そのような瑣末かつ見当違いな事柄に個人や社会の誇りを賭けるのは、まったく無意味である」。このように述べる方が安全だし公正だし、科学的にも正しいだろう。

  それはそうと、新聞の記事(コラム)一つをSNSに丸々転載してしまうのはいかがなものか。そういうのが「悪いことだ」という認識は、良識ある人々の間でもずいぶん薄れてしまった。書影を使うのであれば、現在は出版社側も公然と肯定するようになっているが、本文全体の転載を認める権利者はほとんどいないだろう(※佐藤秀峰氏のように自作の著作権フリー化を宣言している人物もいるが、ごく少数の例外だ)。

  ちなみに、オタク生得論やオタク遺伝論も、以前から私は批判している。「オタクは生来的必然的に成るものだ、オタクとは人種のようなものだ」とか、「オタク文化は日本人の遺伝子に刻み込まれた特性だ」とかいった類のオカルト的主張は、仮に冗談だとしても私は絶対に支持しない。冗談だとしても、グロテスクすぎて笑えない。


  喉が微妙にいがらっぽい。もしや風邪……いやっ、そんな! ウイルス来ないで! ダメダメっ、冒さないで! 入ってこないで! だめっ、嫌なの! おねがい、ゆるして……。(バカ)


  アニメイトって釧路にも店舗を出しているのか。というか、札幌(人口190万人、2店)、旭川(35万人)、函館(28万人)、釧路(18万人)と、道内上位4都市には全て店を出している。人口規模の点でも都市間の距離の点でも、それぞれに店舗を構える意味があるとはいえ、すごい。うーむ、北海道(の広さ)をなめてました、アニメイト(の全県展開)をなめてました、ごめんなさい。

  ちなみに東海地方だと、愛知県内では名古屋に集中してしまっているし岐阜県にも一店しかないので、愛知県西北部あたりではプレゼンスが小さい……というか、そもそもあのあたりの地域はオタク濃度が薄いのかも。


  疲れている時は、やはりフォーレの室内楽が良い。ウェットで渋味のある音響で、キンキンバンバンとうるさくしないし、それでいて十分な厚みと繊細なニュアンスがあるので、仕事をするのを諦めて腰を据えて聴くのに向いている。はふー。
  (今日のうちにあの仕事とあのゲームとあの漫画を消化しておきたかったが、仕方ない。)

  疲れている時は早めに寝たいのだが、22時前に寝るとたいてい深夜に目が覚めてしまい、かえって睡眠時間が短くなったり生活リズムが崩れたりするので、23時くらいまでは起きていたい。朝は朝で、昼過ぎまで惰眠をたっぷり貪ることも可能だが、高血圧体質なので早起きも苦にしない。いずれにせよ、体調は戻りつつあるが、大事を取って慎重に行動したい。



  01/17(Fri) ……えっ、もう下旬なの?

  【 ローグ神楽雑感 】
  でぼの巣の『神楽』シリーズはロープライスを驚異的なペースで連発している。
  (『D.C.』シリーズのタイトル数には、まだ追いつけないだろうけど。)

  一つのシリーズをこれほど長く続けられるのは何故だろう。
1) SLGパートの使い回しと、超高速の原画制作で、速度とボリュームを確保している。
2) 原画人気による裏付けも、かなり大きいだろう。
3) 作品世界設定などの枠組が確立されているので、企画立案も手間が省ける。
4) 巫女×妖怪という趣向は、一見するとニッチだが分かりやすく、しかも競合が無い。
5) ロープライスに舵を切ってからは、カジュアルな購買層も取り込んでいる。
考えられる事情はこんな感じだろうか。

  特にローグ系は、システムの基幹部分を一度作ってしまえば、かなり小さな手間で再利用できるし、作品規模の調整も容易だし、それでいて一定のランダム性があるので飽きられにくい。ダンジョン自動生成という手法は、制作者側にとってもたいへん楽だろう(※オープンワールド自動生成と同じ理屈)。
  これ以外のゲームシステムだと、RPGの制作は作業量が膨大になるし、ゲームバランス調整も難しい。アクションゲームは、単調になりやすいし、成長(蓄積)要素を組み込めない。パズルゲームやカードゲームも同様に、小回りが利かない。STGは、AVGパートとの連動に難がある(まさかメカ触手ものをシリーズ化するわけにもいかないし)。

  ならば、これと似たような趣向の作品、つまり「黒箱系」+「戦うヒロインや変身ヒロイン」+「主にロープラ」を扱っている他ブランドには、同じようなことは出来ないのだろうか。
  1) そもそも集客力のある看板が無い。変身ヒロイン(戦隊風や魔法少女もの)の独自世界設定を続けるのは大変だ。それに対して「(退魔)巫女」というキャラ属性は、作品個別の世界設定というよりは、ファッション上の属性であり、つまり一般性があるので、多用しても擦り切れにくい。
  2) シリーズものを続けるには、少なくとも原画レベルで連続性が無ければユーザーがついてこない。でぼの巣のような超ハイペースの生産力のある原画家(または制作チーム)を持つのは非常に難しい。
  3) ゲームパートのない読み物AVG作品のアプローチでは、テキストがドラマを担わなければいけない。すると、物語を大掛かりに展開したり、キャラクター間のつながりを描いたりする必要が出てくる。しかしそれでは新規ユーザーを掴みにくくなるし、長期展望のあるストーリーを構想するのも大変になる。それに対して、でぼの巣は、長年の蓄積でよくこなれたSLGパートを即時かつ安価に用意できる。そして、ドラマ展開に関わるテキスト制作の負担をSLGパートに委ねることができる。また、適度な作業性のあるSLGパートはユーザーを飽きさせない。
  4) 低価格帯は、同人ゲームとの競合が激しいと思われる。魔法少女ものやRPG風世界設定のものは同人分野に溢れているので、商業PCゲームブランドがそのジャンルで一つのシリーズものを維持し続けるのは大変だろう。しかし、でぼの巣にとって幸いなことに、和風世界や(対魔)巫女ものは、同人分野にはどうやら非常に少ないようだ。

  ニッチな趣向のロープラでシリーズものを継続制作している例は、「戦うヒロイン」以外のジャンルにも存在する。例えばアトリエさくらの寝取られものや、 ZIONなどの催眠ものは、でぼの巣と同じような戦略だろう。つまり、「世界設定やストーリーを絞り込みすぎず」、「競合の少ないニッチジャンルで」、「基幹スタッフはキープして信頼感を与えて」、「比較的ハイペースな制作速度で」、「カジュアル層も取り込む低価格帯で」制作する。
  また、でぼの巣も、市場動向や隣接分野の流行次第では、もしかしたら『わーきんぐDAYS』や『りとる・ピース』のような現代恋愛もので連作を続けたり、『キャッスルファンタジア』シリーズの洋風世界を展開し続けていたかもしれない。
  Triangleの『魔法戦士』シリーズは、初期にはごく簡素なSLGパートを持っていたが、10年代に入る頃には、ゲームパートの無いAVG作品として作られるようになっていた。作品コンセプトは、看板ヒールと魔法戦士チームの対決という構図を取っており、「1)旧作の物語状況を新作でも引き継がなければならない」のと、「2)人間関係が狭いためスピンオフなどを作りにくい」という事情があり、発展性の乏しい袋小路に進んでいった。ストーリー性の強いAVG作品で、長期シリーズを続ける難しさが見て取れる。ストーリーを単線的に進めていかなければならない難しさだ。

  私自身は、studio e.go!時代の『神楽』シリーズは4本全てプレイしている(夏鬼天月)。でぼ時代のローグ系に関しては、初期の『道中記』は敬遠していたが、10年代後半のものはいくつかプレイしている。『訪神歌』あたりになるとゲームシステムもこなれてきたし、『黎明・紫』では蒼依氏の熱演が素晴らしかった。『小春』も主演姫川氏の愛くるしい芝居が絶品だし、『ちはや』も鶴屋氏の跳ねるような元気さが魅力的だった。『奏』の大波氏も相変わらず華があるし、2019年に紘川琴音氏の芝居を聴けるというのもたいへん貴重だ。
  でぼの巣のキャスティングは、Escu:deと並ぶ正統派で、出演声優たちはアダルトゲーム中心に活動しているまっとうな実力派ばかりなので安心できる。いわゆる「表」系の声優は起用されないし、webラジオファンに色目を使うようなキャスティングもしない。桃組もほとんど出てこない。
  しかし、本質的にはなにも新しいものを作っていないのだ。10年代半ば頃にいくつかの新作が試みられたものの、ここ5年ほどはひたすらローグ神楽ばかりだった(大量のロープラ『黎明記』)。その不毛さに、その発展性の欠如に、そのマンネリぶりに、メーカーとユーザー双方にとっての時間の浪費に、モヤモヤするところはある。

  そういえば『訪神歌』は、プレイしていて『朝霧の巫女』を思い出した。もっとも、「古代の神々の争いで、勝利した側が支配勢力(中央政権)となり、敗北して非正統の側に追いやられた神は恨みを溜め込み、邪神となって復活する」というのは、ありがちな神話ネタであって、『朝霧の巫女』だけのものではない。


  漫画家が、商業一般で連載している漫画の登場人物とよく似たキャラクターで、みずから18禁同人を描くのはありなのか……。メロブで表紙を見かけて二度見して、それから著者名を再確認して吹き出しそうになってしまった。たまたまキャラデザが似ていただけかもしれないけど。
  そういえば、『ちょサボ』第2巻はまだ買ってなかった。
  商業成人漫画でも単行本3冊もの実績があるようだ。けっこうすごい方なのか。

  某アイドルゲームのファンアートや18禁同人誌を描いているイラストレーターさんが、それとよく似たキャラクターを商業18禁ゲームのヒロインとして描いているという符合を知ってびっくりしたこともある。アッシュグレーのボブカットに、目の下の泣きぼくろ(ただし左と右の違いはある)、そして珍しいオッドアイ……いいんですかぴろみずさん。
  その他にも、ルネ/マリンは格ゲーキャラや有名漫画のツインヒロインや『攻殻』っぽいキャラの作品を見境なしに作っていたし、『おまえのなつやすみ』は永井豪作品に似せたキャラデザを臆面もなく披露していた(※永井氏の承諾を得ていたのどうかは知らない)。さらに『僕らのいきなり同棲計画!』は、あまりにも露骨な『エヴァ』もどきヒロインズで、どうやら権利者から怒られたらしく、頭髪色を塗り替えてリリースされたようだ。


  【 SFと現実感覚 】
  「人類の滅んだ遠未来世界で、ロボットだけが元気に活動している」というシチュエーションの創作は、現代ではもはや成立困難だろう。コンピュータはきわめてデリケートな機械であり、耐用年数はきわめて短く、頻繁にメンテナンスしなければならず、環境変化(気温や湿度)にも弱く、もちろん動力供給も絶対に欠かせないということを、現代の我々は知ってしまったし、フィクションとしてすらそれを裏切れないほどに強固な現実感覚を確立してしまった。コンピュータや機械に関する認識が、基盤部分から劇的に更新されたのだ。それほどまでに、先端技術機器が人々の日常生活に深く浸透したのだ。昭和時代のような「叩いて直しながら家電を何十年も使う」という素朴なイメージは、決定的にひっくり返され、完全に破棄されたのだ。
  90年代以前には、ロマンティックな「遠未来のロボットの楽園」モティーフが表現されていた。最も著名かつ象徴的な実例としてアニメ『天空の城ラピュタ』(1986年)のロボットが挙げられるし、『ヨコハマ買い出し紀行』(連載開始は1994年)の頃にも、それに類する牧歌的夢想はまだぎりぎり成り立っていた。しかし、00年代半ば以降の我々には、崩壊寸前の廃墟プラント群や、遺されたストックパーツを探し回るロボットや、機能停止寸前のアーコロジーといった描写の方が説得力がある。近時の漫画で例を挙げるなら『少女終末紀行』『鍵つきテラリウム』のような機械文明の断末魔の世界像であり、ゲーム/アニメで言えば『planetarian』(2004年)のような壊れかけのロボットこそがよほど身近なのだ。一時期は「ナノマシン」という便利なガジェットが、超長期的なオートメンテナンス機構として時間的稼動限界を飛び越えさせていたが(例:『∀ガンダム』『R.U.R.U.R』)、都合が良すぎたのか、10年代以降はほとんど顧みられなくなった。
  仮想空間の存立もまた、物理的なインフラによって支えられている。言い換えれば、エネルギーの持続的供給と物理的なメンテナンス無しには維持できないというのが、現代人の自明の常識的前提になっていると言える。PCゲーム『BALDR FORCE』(2002年発売)の頃には、仮想空間で電子化したヒロインと永遠に一体化するというロマンティシズムが描かれていたが、現代の我々が(再)プレイしたら、その描写は牧歌的にすぎるように感じてしまうだろう。
  そう考えると、ロボットの作動限界時間を突きつけた『まほろまてぃっく』(原作漫画は90年代末に開始)はわりと先進的…と言うほどでもないが、少なくとも「時代に一歩先んじていた」とは言えるだろうか。雑駁に言えば、『まほろまてぃっく』のシチュエーションをセンチメンタルにしたのが上述の『planetarian』なのだが、双方の制作時期の間には5年もの懸隔がある。そしてそれは、高度なコンピュータデバイスが一般人にも急速かつ広汎に普及していった00年代初頭の5年間だった。

  90年代末には、「マスターとの思い出を心に秘めつつ一人でのんびり暮らす遠未来のセリオさん」のSS(二次創作ショートストーリー)があったりしましたよね。そういうイマジネーションの美しさが失われるわけではないけれど……あのようなイマジネーションを私たちはもう二度と持つことができないのかもしれない。
  遺物としての高度文明というのはやはり好きだ。過去の高度文明時代からの技術継承が断絶してしまった退嬰的時代の物悲しくもロマンティックな風景。これはこれで頻繁に用いられており、『ナウシカ』や『スクラップド・プリンセス』のような著名な作品にも見出されるし、『ソラノヲト』もこのアプローチだった。遡れば古典『タイムマシン』にも同じ趣向は見出される。


  [tw: 1217604120497901568 ]
  然り。入学試験でもそうだし、大学によっては学部科目の定期試験でも厳格に処理している。例えば、記述式の出題をする場合に、以下のようにする。
  1) 回答冊子の表紙の片側に受験者氏名を書かせる。
  2) 事務方は、表紙の両側に同一の数字(仮のIDナンバー)を記入して、照合可能にする。そのうえで氏名の書かれている方を切り取り、受験者を識別できない形にして、冊子本文だけを教員に渡す。
  4) 教員は、本文だけを見て採点する。
  5) 事務方が採点結果を受け取り、ナンバーと氏名を照合して、成績をデータ入力する。

  学部の定期試験レベルであれば、そんなに厳格にはしないところも多いと思うけど。

  ただし、完全にマスクされていると、卒業のかかった4回生に手心を加えることができなくなるというメリットが。私は期末試験の評価そのものは、絶対にゆるがせにしないけど。(不出来な学生は、その後の追加課題などでフォローする余地がある。)

  そもそも入試レベルの重大な試験だと、採点者は1人だけではなく、2人以上でダブルチェックするのが普通だろう。採点者が受験者を判別できないようにすることも含め、特定の受験者だけを不正に加点して合格させることが出来ないような制度にしている筈だ。当然ながら、作問者や採点者が誰であるかも外部には知らせない。いやまあ、本気で不正をしようと思ったら、そりゃまあ、しけんもんだいそのものをろーえーしてしまうことも不可能ではないけれど、そのような不正に加担するメリットと不正が露見した場合のダメージを天秤に掛けると、ほとんどの場合はまるっきり割に合わない(※正直に言って、仮に1億円もらえるとしてもノーと返事をする可能性が高い)。

  とはいえ、司法試験ですら、ろーえー事件はあったからねえ……。
  ましてや、いがk(以下略)。

  不正の話ではないが、京都大のアメフト部は、有望なアメフト高校生がいると部員たちが寄ってたかって無料で家庭教師をしまくって学力を引き上げて入試合格させて、アメフト部に入部させるのだという噂を聞いたことがある……って、実話なのか。そして、今でもやっているのか。問い合わせに身長体重の記入欄があるのが、まあ、なんというか……。
  [ gangsters-web.com/recruit/direct/ ]
  スポーツ推薦制度の無い国立大ならではの人材確保手段だ。私立大(や私立高校)ならば、学校の名前を上げるためにスポーツ推薦やスポーツ特待生制度をバンバン出せるのだが(※大学のあり方として、それが良いことなのかどうかは疑問もある)。いずれにせよ、京大生たちがみっちり仕込めば、たいていの高校生は入試合格水準まで学力を上げることが十分可能だろうし、そうやって彼等は「強いアメフト部」を維持してきたのだろう。まっとうに学力を上げさせて正面から受験させているわけだから、客寄せパンダのようなスポーツ推薦に比べればはるかに健全だ。
  とはいえ、それでも、「それは正しいことなのだろうか?」と、釈然としない思いはある。何が悪いのかというと、よく分からないのだけど。あえて言うなら、「どのような形であれ、大学の内部者(学生個々人ではなくサークル組織)が、個々の受験者に対して組織立って介入するのは、入試の公正さを歪めているのではないか」というところだろうか。大学と無関係な私塾がやっているのでもなく、学生個々人のアルバイトでもない、そういう受験支援活動には疑問がある。
  それから、もしかして「無料家庭教師をする代わりに、合格の暁には必ずアメフト部に入部します」というような契約が結ばれているのだとしたら……という疑念もある。いやまあ、こういう類の、相手の人生を縛るような抑圧的な約束は、他でも(以下略)。

  受験要項にも書いてあると思うが、「服装は無地」というのも、もちろんきわめて重大な問題だ。要するに、地図や英単語がプリントされていたらまずいから。間違ってそういうものを着てきてしまったら、「上に何か着て、前もきちんと留めて、完全に隠して下さい。それが出来なければ受験を認められません(退室してもらいます)」と指示されるだろう。

  大学毎の二次筆記試験でも、当該大学の教員が各部屋の試験監督をするのが通例だろう。大学一回生の時の話題で、「私が受けた教室の試験監督は、○○講座の××教授だったわー」、「俺の部屋はたしか△△先生だった」と話していた。私は、憶えていなかった(というか、入試時点では、その大学の教員が試験監督を行うということは知らなかったし、当日の試験監督が何者であるかについてもまるで気にも留めなかった)。
  現代では、とりわけOA入試の面接では、教員が試験官なのだろうということは受験者たちも察しているだろう。


  [ https://www.youtube.com/watch?v=UQ0enynRuWA ]
  「ドーラク」#78、井澤さんが大盛り上がり。楽しそうでいいなあ。


  1/19(日曜)のインテックス大阪は、
- こみトレ(4&5号館)、11:00-15:00
- 関西コミティア(2号館)、11:00-15:30
- ドールイベント(1号館)、11:30-15:30
の3つが蝟集した濃厚マニア異空間になる模様。

  ドールイベントは、私自身はそれほど深入りしないつもりだから、最初に軽く覗いてこよう。入場列が長かったら困るが、その場合は仕方ない。ブース数は550とのことだから、11時過ぎに現地入りして12時前には離脱するくらいの心積もりで、あまり長っちりしないように気をつけよう。ドールに手を出すのは危険だから、基本的には何も買わないつもり。入場料1300円。下手をしたらドール服だけで2万円くらい使っちゃいそうなんですけどね。
  こみトレは入場待ちが長そうだが、完売したり早めに撤収したりするサークルが出るので、あまり後回しにはできない。13時半までに島中全体を一巡するのを目処に行動したい。残念ながら、ゆっくり見て回ることはできそうにない。支出は20000円くらいまで。カタログ(=入場証)は購入済みなので、土曜日のうちにざっとチェックして、当日は効率的に動けるようにする。
  コミティアの混み具合や捌け具合は分からない。サークルさんが長時間いてくれることを期待しつつ、13:30から終了時刻まで最大2時間は会場にいられる筈。しかし、1200スペースとのことだから、1スペースあたり6秒しか見られない計算になる(ひどい)。カタログ(=入場証)は1000円。会場では5000円くらいは買うかも。

  帰りは、日本橋に寄ることも可能だ。
  中ふ頭(ニュートラム)→住之江公園(四つ橋線)→なんば(ここからさらに千日前線で日本橋駅まで乗ることもできる)だと、ちょっと遠回りだろうか。
  中ふ頭(ニュートラム)→コスモスクエア(中央線)に乗り換えて、本町(御堂筋線)→なんば、あるいは、堺筋本町(堺筋線)→日本橋or恵美須町、のどちらにも行ける。
  いずれにせよ、乗り換えがスムーズだとしても40分ほど掛かるので、ポンバ近辺に到着するのは16:20くらいになる。うーむ。帰宅のことを考えると、日本橋に滞在できるのは1時間かそこら。もちろん月曜日も仕事はあるし、一日歩きづめでは疲れてしまうし、即売会で財布のHPが削られていることだし、昨年8月と12月にも行ってきたところだし、今回はやめておこう。

  ……あ、あれ? 見つからない……こみトレのカタログはどこに置いてたっけ?(おばか)


  オタク出費が嵩んでいる(自分でも分かっている)ので、家計簿をつけるのが気が重い。

  家計簿のタブで、2019年11月を「1911」、19年12月を「1912」と表記してきたのだが、その様式で行くと20年1月が「2001」となってしまい、2001年のように見えてギョッとする。2021年になるまで、この不気味な錯覚から逃れられそうにない。
  ちょっと別の問題になるが、下二桁ずつで揃えようとして2001年1月を0101、2001年2月を0102…と書いても、数字として処理されると頭の0が消されてしまう場合がある。同様に、元号を使う場合に元年1月を「0101」とする場合も、「101」にされてしまう場合があるだろう。文字列として処理するように指定すれば済む話だが、けっして気持ちの良いものではない。

  そういえば、平成三十一年硬貨は、そんなにレアでもないのだろうか。昭和六十四年コインは実物を見たことが無いが、気づいていないだけで手にしていたことはあるかも。


  [ http://www.debonosu.jp/debo/game/heisei/index.html ]
  というわけで『平成神楽』をDLしてプレイしていた。
  『夏神楽』の姉妹や『紅神楽』のコンビが懐かしい。『花/訪』の二人も愛着がある。
  桂香さん、技「縮地」を使えたんだっけ……?
  (こんな秘技、『アリスマチック』でしか見た憶えが無い。)
  初花の「行っくよー」も相変わらず可愛い。
  「寝る」(8ターン寝て全回復)という技がいかにも彼女らしい。

  ゲームは計12層。最後のボスは、梓紗や舞歌の吹き飛ばし技で距離を取りつつ手裏剣で削っていけば、拾得物の運に左右されず安全に撃破できるだろう。宙に浮いているからか、「足払い」は効かなかった。

  公式サイトから無料DLできる独自コンテンツなのだけど、出演作にカウントすべきかどうかは判断が難しい。ゲームパートは一応オリジナルのようだ(※素材はたぶん既発売作品からの流用)。収録されているシーンも、すべて既存タイトルからの再録だろう。2019年4月1日に公開されたが、現在でもDLできる。いわば体験版のような中途半端な存在だが、単独のタイトルを冠した独自タイトルと見做すことも一応できるので、扱いは難しい。

  『夏神楽』の姉妹がローグ系タイトルに登場するのは、たぶんこれが初めて。今後があるかどうかは分からないけど。初花の『黎明記』とかは、うーん、欲しいような欲しくないような……。


  インテックス大阪でいろいろ満喫してきた。
  11時過ぎに現地到着。ドールイベントは開場していなかった(11:30開始)が、こみトレの方がすぐに入場できるようになっていたので、そちらを先にした。会場をひととおり回って14時過ぎ。ちょっと長かったが、館内で知人と歓談したりもしていたので、妥当な時間か。出費は予定通り2万円超。欲しかったものはそれなりに買えたし、新たな発見もいろいろあった。買いきれないものは、とりあえずカタログに○を付けておいて、後で確認でき…るだろうか?

  佐々木氏のサークルにも行って、新刊を買いがてら、大波氏と羽賀氏を起用されたことへの感謝を伝えてきた。コラボ企画なのでキャスティング面での調整にもいろいろ気を遣ったらしい。

  関西コミティアは14時過ぎに入場して、15時過ぎまで1時間ほど滞在した。オリジナル創作オンリーなので手掛かりが相対的に少ないし、既知のクリエイターさんもほとんどいないので、どういうアプローチで見ていけばよいかよく分からなかったが、一巡して適当に買ってみた(1万円弱)。「三国志ものや『アリス』モティーフの作品は二次創作になるんだろうか」などという余計な疑問も頭に浮かんだ。
  サークル(作家さん)は、こみトレに増して女性比率が高い。8割くらいだろうか。館内音楽が流れていないこともあり、非常に落ち着いた雰囲気で見て回れた。こみトレはコスプレの人たちもいるし館内BGMもガンガン流しているのでかなり賑やかだが、そうではない同人誌即売会だってあるのだということをあらためて認識させられた。この雰囲気はけっこう気に入った。
  ちなみに、こみトレとコミティアの両方にブースを出しているサークルもいくつかあった。サークル参加料と当日の店番人員が確保できるならば、それはそれで意味のある戦略だろう。

  ドールイベントは、ほんの20分ほどだが、ひとまず全ブースを見て回った。
  いいよね、ドール……。
  繊細にコーディネートされたドールたちを見て、そしてそれらを楽しんでいるドール好きの人々を見て、会場で決意した。私はドール好きだ。自分の価値観を構成する一部分としてドール趣味を正面から受け入れよう。ただし、ドール好きとしては、ずっと初心者のままであり続けるだろう。つまり、深入りする活動は行わず(行えず)、いわばLv1のまま一切成長しないだろう。経済的にも、時間的にも、生活環境の点でも、ドール趣味を実行する余裕は、今の私には無いからだ。しかしそれでも、ドール文化を好意的肯定的に捉え、ドールに接する機会があれば存分にそれを享受するという姿勢を持ち続けていくだろう。

  37冊で3万円弱。一冊平均は800円未満。例によって総集編に手を出すことが多かったし、(漫画ではなく)資料的な同人誌もいろいろ買ったので、だいたいこんなところだろう。今回は映像や音楽CDは買わなかった。グッズ類も、いつもどおり一切買わない。

  『キルミー』の18禁同人誌も目に入ったが、恐れをなして敬遠してしまった。
  (まさか、グロくてゴアでスプラッタでトーチャーな意味での18禁じゃないでしょうね……)

  帰りがけに梅田YDBSにも立ち寄って買い物をしてきた。主にPCパーツとホビーコーナー。
  なかなか良いキーボードが無いなあ……。通販で探すしかないか。
  TM社版のナグマホンがお安くなっていたけど、さすがに2輌制作するほどではない。

  というわけで、財布にお金が無い……。月末のgetchu通販予約した分の現金(代引き)はひとまず取り分けてあるけど、しばらくは節約しなければ。まあ、こうやって同人誌で散財するのは年にほんの2回だけだから、このくらいはいいよね。オタク界隈にお金を回していることになるのだし、しかも中抜きなしにダイレクトに、クリエイターにお金を出すかたちになっている。
  とはいえ、こんなことをいつまでやっていられるのか分からないが。

  そして、今日は気力も尽きた。買ってきた同人誌を読むだけの精神力が出ない。

  ところで、きみ(わたし)は今日の同人誌をいったいどこに収納するつもりなのかね?
  (おきばがない)


  試験開始前に、携帯電話/スマートフォンは電源OFFにしてカバンの中にしまっておくようにきちんと指示されるものなので、受験者が「うっかり」や「無意識」で取り出してしまうというのはまずあり得ない。スマホカンニングは、ほぼ間違いなく故意だろう。仮に故意でなくても、アウトはアウトだけど。電源を入れてなくても、ポケットに入れていただけでもNGだし、試験中に手に取った時点で即退室扱いになるんじゃないかな。
  周囲の席の受験者たちは可哀想だ。集中して問題を解いていたい筈なのに、近くでいきなり退室騒動が起きたらショックが大きかろう。



  01/12(Sun)

  2010年代の間にプレイした本数をカウントしたら、00年代とほぼ同数をプレイしていた。かなりダレていた時期もあった割には多かったので、ひとまず安心した。とはいえ、10年代は低価格タイトルの比率がかなり上がっているし、SLG作品の突っ込んだ攻略もしなくなっているので、実際のボリューム(プレイ時間)は減っているのだろう。


  でぼの巣がgetchuで「同人」カテゴリーになっているのは何故だろうか。パッケージ版でもちゃんと倫理機構シールが貼ってあるのに……。PCソフトの月別発売一覧に出てこないため、購入チェックの際に取り漏らしてしまうのがもどかしい。
  同人カテゴリーの方まで毎月チェックするのは手間が掛かるのでやりたくない。玉石混淆が甚だしいし、その一方で(当然ながらgetchuに登録したサークルの作品しか出てこないわけだから)ごく一部しかカバーされていないので、一々チェックする意味が乏しい。

  ともあれ、今月分の新作チェックを済ませた。


  アビスクローラーの写真は生理的にきついかもしれないので、早々に模型ページに移した。


  ◆◆◆昨年5月以来のサルミアッキ取り寄せ。
  今回はオーソドックス(?)にFazer社の箱を購入。苦くて旨い、にがにが、うまうま。
  リコリス(ハーブの一種)は、基本的には健康に良いが、どうやら高血圧にはよろしくないようだ。一気に食べ過ぎないよう気をつけて、ゆっくり味わっていきたい。


  模型店でいろいろ物色していて、一息ついたらTAMIYAグリペンの箱と目が合った(!?)。アダルトゲーマー兼スケールモデラーとしては一度は作っておくべきかと思い、とりあえず購入した。『群青の空を越えて』は、特に好きというわけではないが、珍しい個性を備えたオリジナル作品として言及される意義はあるし、その思い出とともに模型制作するのもありだろう。
  そういえば、先日のキットのためにイスラエル空軍用の塗料も買っていたことだし、クフィルあたりも作ってみたいが、古いキットばかりでなかなか良いものが無いようだ。妙な位置にカナード翼が付いていて面白そうなのだが。


  非常に雑な疑問なのだけど。主要キャラクターが赤青黄の3色編成の時に、メインヒロイン率が最も高いのはどの色だろうか。イメージカラーにしても頭髪色にしても、どちらでもいいけど。元気良く物語を牽引していく赤髪キャラが一番多そうだ。クールな青髪も案外多い。それに対して黄色(金髪キャラや黄色モティーフ)はメジャーなようだが、実際にはメインヒロインになる例は少なめかも。
  アニメだと、例えば『レイアース』は赤キャラが主人公。『この素晴らしい世界』や『レヴィアタン』などは、青髪キャラが序列トップに位置している。近年では主要キャラが3人だけというタイトルは少ないので、統計の取りようも無いだろう。『プリキュア』シリーズや特撮戦隊シリーズにはトリコロール編成が多いようだが、手を出していないのでまったく分からない。

  アダルトゲームでは、ヒロイン3人はフルプライスにしては少ない数だが、ミドルプライス以下の価格帯にはそれなりにいる(例えば『女装学園(妊)』)。典型的なのはEscu:deで、特に最近のAVGタイトルでは赤青黄の信号機編成(プラス1~2人)が多い。シリーズものだと、『エクスティア』シリーズの主要キャラクターがトリコロール(プラスワン)。『ジブリール4』以降の3人も、信号機カラーと見做してよいだろう。『ゴア・スクリーミングショウ』の「一柳あかね」「双木」「深園 希衣佳(いか)」のように、ネーミングにまで三原色を反映させている作品もある。KAIの『ヴァルプルギス』『ブレイズハート』も、赤青黄(プラスアルファ)というストレートな頭髪配色だった。
  アダルトゲーム分野では、昔も今も赤髪メインヒロインが圧倒的に優勢だ。金髪メインもいくらか存在する。青髪のメインヒロインは非常に少ない。ただし、ユーザー受けの度合いはまた別問題で、むしろ青髪ヒロインが一番人気になることもかなり多いようだ。


  そういえば、オタク寄りの魔法少女ものは10年代前半には大きな注目を集めていたが、10年代後半のうちに急速に萎んでいった。個人的な印象だと、2016年秋にアニメ化された『魔法少女育成計画』あたりで、流行はすでにピークを過ぎていたと思う。『放課後のプレアデス』(2015)や『幻影ヲ駆ケル太陽』(2013)は好きだったし、『終末のイゼッタ』(2016)や先日の『絶対防衛レヴィアタン』(2013)も魔法少女ものに含めてよいだろう。00年代末から10年代半ば頃までは、オタク界隈の魔法少女ものは本当に多産だった。
  昨年(2019年)だと、『プリキュア』のようなシリーズものを除外すると、えーと、幼児向けの『まほうのルミティア』の一本だけ? 『サークレット・プリンセス』も、女性キャラクターたちが変身して戦うという意味では魔法少女ものに近かった、と言えるくらいか。
  正面切って魔法少女ネタを取り上げたのは、2018年春の『魔法少女サイト』『魔法少女 俺』が今のところ最新(最後)のようだ。10年代前半の魔法少女ものの実験や蓄積は、どのように継承され、どのように応用されているのだろう? 10年代前半の魔法少女ものは、何を残してくれたのだろう? 私はアニメ系オタクではないので、そのあたりの文脈はまるで分からない。漫画やLNでも、おそらくアニメ分野と似たような盛衰が見出されるだろう。

  (要するに、アイドルものに取られたのだよね。客を集めることを目指すキャラクターたちのコンテンツで[現実の]客を集めるという開き直った自己目的化の構造が、ソーシャルゲームやSNSという好環境を得て爆発的に発展したのが、この2010年代だったと思う。宣伝競争がゲームの中だけでなく、そこから漏れ出して現実のユーザーたちの行為にもなってしまうという状況に、現代のオタクたちはいかがわしさを感じなくなっているかのようだ。多分にAKBのせいでもあるが。)

  アダルトゲーム分野では、triangleを初めとして、ダーク系の魔法少女もの(変身ヒロインもの)は依然としてメジャージャンルであり続けている。『魔法少女アイ』が2001年発売だから、ざっと20年は続いているということになる。

  私の中では、00年代の魔法少女ものアダルトゲームを経て、2010年にLN『魔法少女禁止法』を読んだ時点で、魔法少女ものにはけりがついていたのだが。


  『のんびり農家』漫画版第5巻も読んだ。
  原作(小説版)よりも漫画版の方が良いかも。なにしろ小説の方は、小説というよりはSLGのログ表示みたいなもので、生身のキャラクターの動きとして受け止めるのが難しい。
  キャラ個別の話だと、スティファノの程良いツリ目がなかなか良い感じ。カバー表紙に描かれているのも納得できる。グルーワルドも、「えっ、こんな萌えキャラだっけ?」と驚くほどチャーミングに描かれている。その一方、アンなどは原作挿絵の魅力に追いつけていないのが惜しいが、これは挿絵(やすも氏)の出来映えが良すぎたので仕方ないと言うべきだろう。

 アニメ化したら、是非とも幡宮さんと友永さんとミルノさんと氷青さんと、それからあの方やその方を起用して下さい(と念じる)。氷青氏はアン役あたりがうまく嵌まりそう。
  ここまで来たらアニメ化の可能性は高いだろう。以前にも書いたが、単行本第2巻の終わりまで(漫画版だと第5巻まで)だと、ちょうどきりが良い。ボリューム面でもだいたいアニメ1クール分に収まるし、内容面でも、華やかな武闘会で盛り上がった後に、新住人たちが来るという希望のある描写で終えられる。ただし、第3巻に入るとダンジョン探索を延々続ける羽目になるし、第4巻は新キャラが増えるくらいでまとまりが無いので、2クール目は無いだろう。
  監督の人選は、八谷氏だと「のんびり」な雰囲気を掬い取ってくれそうだ。


  『カリンちゃん』、最少周回数でのクリアは、たしかに4周くらいが限度だろう。初期戦力が貧弱すぎるので、まずリーダー6人を揃えるまで(というか「最果て」でまともに戦えるまで)にそれなりの蓄積が必要になる。しかし、そこから街道に行けるようになって、街道序盤の侵入者をなんとか追い払える(迷宮崩壊せずに続けられる)だけの戦力があれば、ユニット育成と迷宮評価を平行させられるので、ターン期限をどんどん延長していけるだろう。有力な(有望な)配下ユニットとそれらの加入条件を見極めておけば、スムーズに育成できる筈。
  クリア時評価のスコアアタックは、何点まで行けるのだろうか。各地域のレベルごとに侵入者の数がほぼ固定なので(※イベントキャラの登場によって人数が変動することもある)、一番稼げる地域の最高レベルを延々叩き続けるという、かなりダルいプレイになりそう。


  [tw: 1216919248003485696 ]
  ……ですよなあ。高校卒業程度を想定するけれど、それは出題側にとっての目安であって、個々の解答者がそれ以上の知識を活用することはべつに禁じていない、というか、良いことだと言うべきだし、ましてやそれで減点するなどあり得ない。……あ、いや、そういう愚かな考え方をする大学関係者が絶対にいないとは言えないけれど。


  風船バスト描写には、早く絶滅していただきたい。味気なく真ん丸は、カチカチに硬そうで柔らかさや質感をまるで感じさせないし、描き込みの単純さゆえに立体感をも欠いているし、まるで宙に浮いているようで重みも感じさせない。いわゆる乳袋ファッションも、単純かつ作為的で、いかにもセンスが悪い。
  貼りついたような真ん丸が造形美に欠けるというのも、質感(柔らかさ)の表現が考慮されていないというのも、立体感が無いというのも、いずれも客観的な指摘であって、単なる好き嫌いの話ではない。巨大バストでも、例えばアダルトコミックでは柔らかく揺れる様子を描き出していたりするし、ただ単に大きく膨らますだけではなくボリューム感を意識させるような構図をデザインしたりする。カラーイラストでは、とりわけ素肌状態では、質感を際立たせるような繊細なグラデーションや、血色感のある絶妙の色調選択がある。着衣状態でも、重力の存在を――そしてそれによってバストそれ自体の重みをも――感じさせるような輪郭や、被服の細やかな皺表現と陰影を通じて立体感を作ることができる。しかし、そういった表現技巧を活用すること無しに、ただ無策に巨大な真ん丸を描かれても、ちっとも面白くないのだ。バストだけ後から別パーツでくっつけられたかのような袋を乗せられても、絵として、造形として、デザインとして、何の魅力も無いのだ。


  [ www.debonosu.jp/debo/game/reimeiki_14/images/visual_003.jpg ](※18禁CG注意)
  サムネイルを見て、ふわふわピンクの可愛いシーンの一枚絵かと思ったら……。


  SNSでは「誤読をする人がいる」というけれど、その言い回しは適切ではない。
  一つは、「誤読とは限らない」。相手は相手で、自分なりの文脈で把握している。だから、頓珍漢に見えるリアクションが為されたとしても、そのリアクションの意味が理解できないとしても、相手側の中では筋が通っているという場合がある。そのような可能性を、安易に切り捨てるべきではない。元々SNSは、複数の文脈の間の衝突を前提としなければならない環境であり、発言者自身の想定する文脈だけが正しいというわけではない。……もちろん、文面それ自体を完全に誤読する場合もあるけれど、なんでもかんでも誤読扱いにするのも不当だろう。
  もう一つは、「誰もが誤読しうる」。もっと言えば、誤読しまくっている。こちらの方が重大だ。そもそもSNSの表示環境や書式制約は非常に読みづらいものであり、正しく読むのがきわめて難しい。そして実際に、例えば大学教員(平均的に見てトップクラスに知的であろう人々)ですら、他人の投稿を正反対の意味に誤読することがある。私自身、そうやって誤読されたことがある。もちろん私自身も、ひどい誤読をして失礼なリプライを出してしまったことがいくつかある(※十年前のことだが、今でも憶えている)。もちろん、それ以外にも、誤読に気づかないままのものも無数にあっただろう。誤読をするごく一部の愚か者がいるのではない。万人がいつでも誤読をしていると考えるべきだ。「バカなあいつら」だけではない。「我々全員」が直面している問題なのだ。

  ……あっ、ごめん、大学教員にも思考の鈍い輩や物事を歪曲して捉える奴はそれなりにいるね。まことに残念なことに。(黒い記憶) まあ、とりわけ人文社会系の研究者であれば、テキストを正確に読む高度な訓練が出来ている筈だ。理系でももちろん、データから適切に意味を見出す厳格な訓練を受けている筈だが。


  ロープライス作品は、手を出しやすい。プレイ時間の見当を付けやすいし、プレイ時間やクオリティに関する予想が外れていてもダメージが少ない。フルプライスだと、20時間だったり30時間以上だったりと振れ幅が大きいし、選択肢の試行錯誤もかなり複雑になる可能性がある。そういう点の気楽さは、低価格帯のアドヴァンテージだろう。
  ただし、ロープラはやはり「食べ足りない」という気分にさせられる。ボリュームが足りない、キャラが足りない、そして背景美術やBGMやインターフェイスのクオリティが足りない。その点でフルプラ作品には、他に代えがたい魅力がある。

  価格帯による違いだと、フルプライス作品は、一度クリアするまでは鑑賞コーナーが閉鎖されていることが多く、この仕様をもどかしく感じることがある。これは価格帯の問題ではなく、おそらくメーカーごとの姿勢の違いなのだろう。フルプライス作品を作ってきたメーカーだと、ロープラタイトルを出してもおまけコーナー開放にはエンディング到達を必要とするし、ロープラ専業のメーカーだと初めから実用的な判断からおまけコーナーを開放しておくのだろう。


  [ https://ci-en.dlsite.com/creator/1736/article/162230 ]
  各自自己申告だが、購入したのは66%、プレイしているのは46%、オールクリアは12%か。SLGの苦手なユーザーや声優ラジオファンもいるだろうし、以前からのSHCファンでも「今回はコラボ作品だから避けた」という場合も考えられる。それで三分の二が購入済みというのは、かなり良い数字だと思う。ただし、回答したのは登録者の1割以下なので、実際の購入率やプレイ率はもっと低いと思われる(※プレイした人は積極的に回答しただろうし、購入していない人はあまり回答しないだろうから)。
  購入者中の7割がプレイしているというのも、このくらいかなと思う。年末年始を挟んでいるとはいえ、まだ積んでいる人もいるだろう。「全キャラをクリアーしたけど完クリはまだ」というのは、フウENDの2つ目を見つけられていないとか、全イベントコンプリートまでは出来ていないというだけだろうから、「完クリ(12%)」と合わせて26%がクリア済みと考えていいだろう。購入者中の4割、プレイしているユーザーの6割弱がコンプリートできたのであれば、わりと良い数字だと思う。

  「プララジ」次回ゲストは結城氏とのこと。『カリンちゃん』ではモブのみだったから、新作関連というわけではないだろう。「ゲスト2巡目」という理解でいいのかな。


  東京大の対応は、今回もやはりまずい。他で指摘されているのも含めて:
1) 当初は本学と無関係の発言だとして見て見ぬふりだったのに、姿勢を一転させた。
2) まるで反○勢力なるものが存在することを認めるかのような文面を出した。
3) 当人に弁明の機会を一切与えていない、一方的な処分だったようだ。
4) 労働法上、解雇ははたして妥当かという疑問。懲戒処分の重さも、処分理由も。
5) 解雇以前にキャンパス追い出し(物理)もあったようだ。それも乱暴すぎる。
  渦中の人物の発言それ自体は完全にNGだが、大学側の対応もかなりおかしい。

  ある学内関係者による論評記事で、当の人種国籍差別者を批判しているその文面が、みずから露骨な学歴差別の雰囲気を撒き散らしていたのも、たいへんおぞましい光景だった。


  「胃~之煮(イ)」:#11。
  「Mute City I」の1分台は相当難しいので、西垣氏が「2分を切るのが醍醐味」と言っておられるのは納得できる。最初の追突2連続を(しかも早めのタイミングで)成功させる必要があるし、その後も極力無駄のないコースを取り、最後のコーナーも減速せずにきれいに曲がらなければいけない。「(1分台を)コンスタントに行けてたんですよ」というのは相当な腕前だと思う。
  DL版とYT版は仕様が違っているようだ。DLできるmp3版では、ゲーム音量は極端に絞られているが、YT版ではゲームの音も大きく再生されている。後からミックスしているのか、それとも2種類の録音をしているのだろうか。



  01/07(Tue)

  駄宴#10(およびその前後の宴会収録)での各メンバーの位置は、
左上(黒い服)=浅井氏
真上=中國氏
右上(柄ものの服)=笹島氏
左=坂田氏
左下=西垣氏
右下(ブルーの腕時計)=壱智村氏
……のようだ。


  [ http://www.debonosu.jp/debo/game/kakuriyo/ ]
  でぼの巣から、日野亘氏脚本の新作が出るとは。このメーカーはまともなキャスティングをしてくれるし、何の心配もなく期待して待っていられる。


  くろかみだいすき病を突如発症した。感染源には思い当たる節があるが、これは罹ると幸せになれる病気なので、感染元には感謝している。ちなみに、この疾患が人間に対してもたらす最大のダメージは、オタクが罹患すると黒髪キャラのあれこれを買いまくって支出が増えるという点にある。オタク以外の者が患ったらどうなるかは知らない。治療法も発見されていない。

  それと、「ケモ百合」や「ケモBL」という新たな扉もちょっと覗き込んでしまった。
  しかも、ケモ度の高い本格派のデザインで。うーむ、世の中は広い。

  そんなわけで、ごっそりお金が減っ……あっ、やばっ、来週のこみトレの分の現金を下ろしておかなければ。


  『レヴィアタン』のディスクを取り出して視聴している。第2話から「泥沼に嵌まる」だけで丸々一話使い切っていて、まるで80年代の4クールアニメのようなふてぶてしいまでの悠然としたテンポと、無理に派手めかさないのんびりした演出が、今世紀のアニメとしてはかえって新鮮に映る。
  しかし、状況は一話ごとに確実に進行している。一見するとスローテンポだが、全体の積み上げと進行速度は、まぎれもなく現代アニメの感性に立脚している(※放映は2013年)。各話のつながりも、一見緩やかに感じるが、きちんと物語の糸がつなげられている。全体の構造を正確に見据えたうえで筋運びをバランス良く構成している。
  個別脚本でも、天丼ネタ(2度、3度の反復ネタ)を堂々と披露しているが、それがまた心地良いリズムと平仄を生んでいる。各話冒頭で、ヒロインが目覚めるシーンにたっぷり尺を取るという牧歌的な雰囲気も含めて、まちがいなく『まじぽか』スタッフの仕事だという手応えと喜びがある(※八谷監督とシリーズ構成の井出氏は『まじぽか』でも同じ仕事をしていた)。
  脚本としては雑破業氏も数話担当しており、担当回ではギャルゲー的な御愛想が多少混入している。言い換えれば、井出氏脚本の回では露骨な萌え志向のくすぐりはほとんど無く(それには頼っておらず)、基本姿勢としてはあくまで正統派のコメディ路線で勝負している。


  宴会収録なのでSTP#692も視聴してみた。
  うわあ、笹島さん、すごい……。運と勘だけで25%×25%=6.25%を引ききるとは……。


  KeG氏原画でlight新作の情報も来た。lightに対しては忠実なファンというわけではなかったけれど、それなりに買ってきたブランドだし、不幸なアクシデントに見舞われたスタッフたちが新作制作に漕ぎ着けられたという報せは嬉しい。


  「婦暗多棒」(ファンタスティック)とはいったい……。声優さんの名前で一番笑ったかも。
  「うえおかあい」(あい・うえおか)とか「狩奈まえ」(仮の名前)とか「高橋がならない」とか「ヘルシー太郎」とか一連の車の人のような珍妙なネーミングはあるけれど、笑える名前というのはそうそう無い。インパクトの強さでは、「とりきんぐ」氏を上回るかも。

  そういえば、「永砂隷繰面(流され素麺?)」さんとか「院出華真衣(インディカ米)」さんとかもいらっしゃったなあ。「井村屋さくら」氏や「愛媛みかん」氏は、検索が難しかった憶えがある。


  「なんだろう、ショタ餌付け漫画かな?」とカジュアルに表紙買いをして読み始めたら予想外の内容で驚いたが、やたら面白かったので満足。『あの人の胃には僕が足りない』(既刊4巻)。漫画表現としても思いきりのよい演出を敢行していて気持ち良いし、コマ組み(コンテ)も上手い。テキスト(ネーム)も良く考えられていて、登場人物の内面造形もきちんと筋が通っているし、ユーモアセンスも好み。背景作画も情緒がある。今後とも単行本を買っていきたい。
  ちなみに、ショタ漫画(漫画家)という点でも確かな手応えがあった。その点でも満足。分かりやすいところでは、例えば1巻164頁の「きゅっ」の描写なんか、まちがいなく本物ですぜ。

  それ以外も、昨年末から買いそびれていていた新刊を含めて、JUNKUDOでいろいろ買い漁ってきた。順番に読んでいるが、総じて満足。



  01/05(Sun)

  [ https://overflow.cf-anime.com/ ]
  民安氏と杏子氏という恵まれた布陣。
  ひとまず第1話を見てみたが、雑な隠蔽処理や注記コメントが頻繁に入るのが興趣を削ぐ。ディスク発売されるとのことだから、そちらを買ってまとめて視聴しよう。(……買うのか?)


  「プララジ」概要記事(※中身は何も書いていないが)は、長くなったので2ページ目に。ゲスト出演を割ってしまうのは気が引けるので、50回ではなく48回で切り替えた。

  昨年の「胃」が50回、「プララジ」が40回以上。
  概要執筆の45時間を捻出できるだろうか……。


  中台韓でも漫画家やイラストレーターは増えているし、オタク層も成熟しつつあるようだから、それらの国々でも本格的な漫画市場が、遠からず成立するのだろう(あるいは、すでにある?)。デジタルゲームも、技術ベースの媒体だから、今後は中国発の刺激的なタイトルがいよいよ増えていくだろう。
  現時点では、日本発のコンテンツがまだまだ優位のようだが、その優位はおそらくアニメ制作を掌握している点にあるだろう。漫画やゲームやLNと比べて、動画媒体の魅力はやはり格別のものだし、そのプレゼンスは高速通信時代においていよいよ増している。
  とはいえ、90年代頃から(?)の下請けを通じて、各国にもアニメ制作の下地は出来ている。また、日本のアニメ会社やプロデューサーらが各国の人々との交流を進めており、様々なノウハウが受け継がれていくことだろう。さらに大きな資本投入があれば、本格的なアニメ制作体制が一気に出来上がる。特に中国では、すでにほぼ成立しているようだし、それどころか中国側資本で日本のアニメ会社が制作しているという事例も出ているようだ。ただし、プロフェッショナルなアニメ声優を各国が自前で育成するのは、まだしばらく時間が掛かるかもしれない。
  20年代に入って、日本人が中国発のアニメを享受したり韓国人作家の漫画(の和訳版)を読んだりすることも増えていくのだろう。それは日本側としてはこれまでの優位を失っていく過程を意味するが、世界全体として漫画やアニメの趣味が広がり、深まり、豊かになるということでもある。


  異世界言語の翻訳表示というと、『永遠のアセリア』を思い出す。


  カラフルな頭髪色については、二十年くらい前のアダルトゲーム分野では、「性格表現」とともに「キャラクターを絶対に取り違えない」という点も指摘されていた。判子絵云々が取り沙汰されていた時代のせいでもあっただろうし、フルボイスがまだ普及しきっていない過渡期だったせいでもあるだろう。2020年にもなった現在ならば、キャラクター識別の要素乃至方法は当時とは比べものにならないほど複雑化、高度化しているから、完全に乗り越えられた議論だが。
  その一方で、近時の議論ではキャラクターデザインの美意識や色彩設計の観点が抜け落ちているのにモヤモヤする。機能性に関するエクスキューズばかりでは、現状肯定にしかならず、その先が無い。柔らかなパステルカラーのもたらす雰囲気。背景の賑やかさに負けない鮮明な色使い。あるいは黒髪着彩に込められたフェティシズム。等々。個別作品に即した分析に向かわなければならない。


  議論がなにやら不穏な方向に……大丈夫かなあ。
  主人公がヒロインを「救済」などというほど大袈裟なことをしているだろうか? たいていの場合、主人公が特別な力を持って救い(掬い)上げることは無い。ヒロインの境遇に寄り添って状況改善に尽力し奔走するというのが大多数ではなかろうか。少なくとも学園恋愛系では、大仰な「ヒロイン救済」を想定するのはかなりの見当違いだし、2010年代以降では尚更だ。
  むしろ近年のロープライスのダーク系orピンク系の方が、ヒロインの苦境に付け入りつつ、何故か途中でラブラブになっていくルートがあるという、オールドファッションで美談めかした救済を描いているくらいだ(※ぱちぱちそふと黒あたりが典型だろうか)。あるいは、10年代半ば頃(?)には、いわゆる「バブみ」云々という言い回しとともに、男性主人公の側が受動的に甘やかされ救済されるという傾向が強まった。ヒロインを救済するなどというマッチョな主人公像は、現代のアダルトゲームでは、かなり縁遠い感性だろう。
  ヒロイン自身の境遇に寄り添ってくれて、そしてそのために努力してくれるボーイがいれば、ヒロインから彼に対する好意は増すだろう。それはフィクションにおいても確かに、恋愛の一過程たるに値する。ただしそれは、上からの救済などではない。そんなものである必要も無い。



  01/03(Fri)

  久しぶりにハエトリグモが現れた。もしもGの奴等がいたらヤっちゃって下さい!
  せっかくだから、アビスクローラーも買おうかな。


  白箱系タイトルでは、ベッドシーンが始まるや嫌気が差してプレイする(読む)のが面倒になってしまうが、黒箱系やピンク系の場合はどんどん読み進めていける。どういう違いなのだろうか。
  白箱系では、恋愛感情が宙吊りにされたままで、アダルトゲーム特有の機械的な行為描写になってしまうのが、好みに合わないのかもしれない。また、フルプライス作品なので、一つのシーンがかなり長いので負担に感じるのかもしれない。
  ピンク系はピンク系で、作品ごとにコンセプトに沿ったシーン表現になっているので、ジャンル全体としてはかなり多様性の幅が広い。黒箱系は、最近はなかなかプレイできていない。


  皆さん、いったい何故、黒くて真ん丸なネズ耳で年賀イラストを描くんだ。大きく真円で描くのは、デフォルメによる単純化としてまだしも理解できるが、しかし「ネズミ=黒」というイメージはそんなに無い筈だし、黒耳は色が強すぎてバランスを崩しやすいのに……。ミッキーの影響は、かくも大きいのか。


  ソフトハウスキャラ作品の世界像。脚本の内藤氏はしばしば主人公を超一流の存在として描くけれど、ゲーム的には(あるいはJORI氏は?)「絶対は無い」というスタンスを採っている。もちろん、ゲームデザインとして絶対的な最強ユニットを作ってしまうと面白味が無くなるというのもあるけれど、「完璧(100%)」や「絶対無敵」「最強(最善手)」を極力作らないようにしているように思われる。例えば『巣作りドラゴン』でも、施設やスキルをどのように組んでも即死回避率は100%にはならなかったし、最強の「漆黒騎士」も「あくまでおまけキャラ(出現条件が隠されている)」「超高額」「死ぬ可能性がある」といった制約があった。
  今回の『カリンちゃん』にしても、有力なユニットはいくつもいるが、「絶対にこれを使わなければ」という存在は無い。それは、詰め将棋的な狭さを避けるという実際的な意図でもあっただろうが、ゲーム展開に自由度を確保するというソフトハウスキャラの二十年来の姿勢に沿うものでもあると思う。


  ロボットの鎖鉄球武器ってどうなんだろう。
- 真ん丸なので携行しづらい。しかも重い。
- ロボットの可動機構では、実行困難(持ち上げて振り回すのは大変だ)。
- そのことにも関連して、命中率は低いだろう。
- 振り回すアクションは、使用する側の各部関節に甚大な負担が掛かる。
- 射程が中途半端(中距離の戦いなんてそんなにあるだろうか?)。
- そのわりにダメージも小さい(一撃で戦闘不能に陥らせるのは至難)。
- ましてや、鎖を絡みつかせるのは、ほぼ非現実的。
- 大きく振り回すので、集団戦では使えない。奇襲も不可。銃器との同時使用も困難。

  そもそも、20メートルなり40メートルなりのロボットが手に持つサイズで、鎖鉄球を振り回すことは可能なのだろうか? 大きすぎても小さすぎても難しそうなのだけど……。人体のサイズで振り回すのですら、例えば半径10cmの鉄球は約33kgになる。振り回すのはかなりの力を必要とする(というか常人には不可能だろう。鬼の力でもないかぎりは。だから鉄球ではなく、せいぜい鎖分銅になる)。ましてや、20メートル級のロボットに合わせたら、まともに振り回せるのだろうか。あるいは、振り回せるほどの回転速度を出せるのだろうか?
  ああ、そうか、言い換えれば、なんらかの超技術で半径1メートルの鎖鉄球を高速で振り回して対象に命中させることができるならば、その衝突ダメージは凄まじいものになると言うことは出来るのか。うーむ。
  さらに言えば、MD「マジカル」のような14cm級の小型ロボットが鎖鉄球を使っても、ほとんどダメージにならないだろう。トゲが刺さって痛いということはあるかもしれないが、運動エネルギーは非常に小さい。
  同様に考えて、鉄球以外でも、ロボットの手持ち武器は、かなりの重量になる筈だ。どれだけ軽量化が図られていても、20メートル級のロボットが5メートルかそこらの銃を構えてグルリと振り向くことは、可能なのだろうか? ショベルカーが回転するどころではないと思うが。

  ロボット工学としては、垂らした鎖鉄球を持ち上げてうまく振り回すまで持って行けるような自動制御プログラムを組むことは、おそらく2020年現在の技術水準でも可能だろう。ただし、どのくらいの重量まで実現できるかは分からない。強度確保の問題になるので。

  無重力状態であれば、上記の問題のいくつかは解消される。ただし、広大な宇宙空間で、鎖鉄球が役立つような近接戦闘がそんなに発生するかと考えると……。

  命中させたときに使用者側に衝撃が来ないというのはメリットかも。剣や棒だと、衝突の反動が大きすぎて、武器を持っているロボットの腕が一発で破壊されるだろうから。ビームサーベルのような(謎メカニズムによって物理接触しない)剣であれば良いのだけど。

  フィクションの場合、都合のよいところだけリアリスティックな正当化を与え、不都合な部分のリアリスティックな指摘は無いものにすることができる。基本的には、フィクションはそういうもので良いと思うけれど、それは同時に制作者の取捨選択次第ということになる。つまり、制作者側の主張(場合によっては後付け)が常に絶対的なものになってしまう。そういう点にモヤモヤするところは確かにある。
  大衆芸術またはオタクコンテンツにおけるリアリズム(現実準拠の真理要求)の当否については、これまでも何度か書いてきたが、基本姿勢としてはあまり好意的ではない、というか、かなり強く警戒している。


  乙女ゲーがディレクター優位なのは、基本的には良いことだと思う。AVG作品は――他の芸術作品と同様にAVG作品もまた――それぞれ特有のコンセプトを持って作られているのだし、そしてそのコンセプトが作品全体としてどのように具体化されているかが重要だ。そしてそれを決定し、そのありようを担保しているのは、ディレクターand/orプロデューサーであり、彼等が注目されるのはひとまずは正しいと言うべきだ。
  しかも、乙女ゲーは、状況や関係性をどのように設定するかがきわめて重要なジャンルなのだから尚更だ。どのようなキャラクターと、どのような状況で、どのような関わりを持っていくか。まずはその巧拙が、作品の価値を決定的に左右する。そしてそれは、個々の脚本家が決められるものではなく、トップダウンで方向性を定められたうえで、形成されていくものだ。

  この点、(基本的には男性向けの)アダルトゲーム分野は対照的だ。脚本家が過度に注目され、その一方でディレクターの役割が致命的に見過ごされてきた。もちろん内部的にはきわめて重要だが、例えば広告レベルでは、ディレクターの名前が出ることは非常に少ない。
  これには様々な事情があると思われる。ユーザーサイドでは制作体制に関する情報が得られないこと。ディレクターといっても、「内容的な総指揮」と「現場的な進行管理」の双方の意味があって分かりづらいこと。90年代以来の原画家注目に続いて、メインライターがそれと併記されるようになったこと。実際にも、メインライターが社内スタッフであってディレクターを兼任するという場合がかなり多いこと。その一方で、新作のコンセプト設定は社内スタッフ全体で協議して決める(それゆえ特定個人をディレクターとしてクレジットすることができない)場合も多いらしいということ。等々。
  しかし、全体として言えば、脚本家ばかりに注目したり、あるいは作品コンセプト設計の役割が脚本家にあると思い込んだり、それどころかCGや演出やフラグやゲームシステムを無視して脚本にしか目を向けなかったりするのは、きわめて一面的で誤った見方だった。そのような原始的な現場任せでありすぎる(かのように見られていた)という意味で、むしろアダルトゲーム(一部のアダルトゲーマー)の方が遅れていた。

  もちろん、良い仕事をした個々の脚本家にも正当な評価が与えられるべきだというのは、それはそれで正しい。特定のルートの脚本の書きぶりが特別に上手ければ、その脚本家が何者であるかを知りたく思うのは当然だし、その脚本家が手掛ける新作にも期待していけるだろう。だから、ディレクターの名前も、そしてできれば脚本家の名前も、公にする方がよいと思う。
  とはいえ、それならば「このCGの素晴らしい塗りをしたのは何者か」、「この魅力的なBGMを作ったのは、クレジットされている作曲家のどちらなのか」、「このシーンの巧みな演出を組み込んだのは誰なのか」といったことを一々挙げていったらきりがない。また、実際には、サブ脚本家が仕上げてきた原稿をメインライターやディレクターが手直しするといったこともよくあるようだ。そうでなくとも、上がってきた原稿にリテイクやOKを出して最終的にその脚本のありようを決定しているのはやはりディレクターであり、脚本のクオリティにも最終的な責任を負っていることになる。いずれにせよ、「ノベルゲーだからライターが最重要」というのは短絡的に過ぎる。

  アニメ脚本に関しても、いくぶん似たような問題がある。オリジナル作品でも、べつに脚本家がストーリーを決定しているわけではない。基本的には、ディレクター(監督)やプロデューサーを中心とした打ち合わせの中で検討され調整されていくものだ。実際のテキスト(台本)についても、脚本家はシリーズ構成の枠組に従って執筆するのだし、脚本家が作成したテキストがリテイク指示を受けるのは通常事態だし、さらには、ひとまず採用された台本も絵コンテの段階で適宜カットされたり、位置を変えられたり、文言を映像に合わせて変更されたりするのは、ごく普通のことであるらしい。だから、個々の脚本家を、全体のプロットや各話の台詞に関する責任者だと呼ぶのは難しい。ましてや、各話の間の整合性のような問題に関しては、もっと上の決定権のある者に、責任が帰せられるべきだろう。

  曖昧な喩えになるが……多くの場合、AVGの脚本家の立場は、映画でいえば撮影監督とか、あるいは助演俳優のようなものだと思っている。作品のコンセプトや全体の進行枠組があらかじめ決定されたうえで、個々のシーンを制作していき、そのトーンをコントロールしていく現場作業の主軸という意味では、撮影監督くらいの位置だろう。また、宣伝レベルではしばしば名前が挙げられて注目されるが、作品のコンセプトそのものを決定しているわけではないという意味では、原画家(主演)に次ぐ助演くらいの扱いになるだろう。

  00年代後半あたりの一部のアダルトゲーム批評は本当にひどかったからね……。BGMの選択もフラグ演出も、何から何かまでメインライターの功績と見做していて、それでいて不出来な要素があれば「他のスタッフがライターの意図を汲むことに失敗した」とか……。まるで「表が出たら僕の勝ち、裏が出たら君の負け」のような贔屓の引き倒しに閉口したものだった。作品のコンセプトを語ることと、脚本家の仕事を語ることを、まるで区別できていない人たちだった。しかも、それでいて大雑把な作家論ばかりに専心して、ゲーム媒体特有のテキストワークの技巧や個々の脚本家の文体の特質にはろくに言及しない――つまり、本来の意味での「脚本」の仕事には目を向けていない――という転倒した有様だった。
  いまでもゆるしてないからね。

  脚本家を論じるならば実際のテキストそのものに取り組むべきだと言ったら、「文体論は難しいからねえ」と返されたのを憶えている。それなら君たちがやっている作家論は簡単だというのかよ、あんな雑な作家論ならばやっても構わないのかよ、とさらにがっかりした。


  [ https://twitter.com/levi_anime ]
  アニメ『絶対防衛レヴィアタン』のSNSアカウントは、まだ毎日更新なさっているのか。監督や脚本に『錬金3級(まじぽか)』のスタッフが関わっているだけあって、悠揚迫らぬユーモアの風味が堪らない作品だった。キャストも、主演の早見氏に準主演の喜多村氏、それからサブキャラには三瓶氏に……あっ、そういえば長妻氏や遠藤氏もいらっしゃったのか。


  山盛りラーメンは、アダルトゲームにもそこそこの頻度で出てくるけれど、あれを面白いと思うユーザーはどのくらいいるのだろうか。それの実店舗はどうやら東京に集中しているようで、要するに東京ローカル(あるいはせいぜい関東ローカル)のネタにすぎないのだが。しかし、関東以外のゲームメーカーの作品がそのネタを使っている場合もあるので、面白いと考える人もいるのだろう。実物を食べなくても(食べた経験が無くても)、その見た目の奇抜さは、それ自体が絵になると言うことができるし。


  [ https://www.youtube.com/watch?v=sXuF9pN2eaE ](24:25-)
  モザイクを外すことについて、「だって、種明かしになっちゃうもんね」。なるほど、分かるような、分からないような……。隠されているものの正体が露呈するのは興趣が削がれるという考えはあるのかもしれない。


  (→2020年2月2019年12月