2024/03/12

『望まぬ不死の冒険者』感想雑記(原作小説/漫画版/アニメ版)

 『望まぬ不死の冒険者』について。漫画版を継続的に読んでいて、アニメ版が始まったのでそちらも視聴している。原作小説は、さらに後追いで読んでいる。雑記欄に書いていた文章を、こちらのページに集約することにした。


 (2024年1月下旬)
 アニメはさしあたり『望まぬ不死の~』を視聴している。漫画版(漫画家)が好きで、せっかくだからとアニメ版も観ている。地に足のついた丁寧な展開で、登場キャラクターたちが総じて善良なのも気持ち良い。ただし、作画/演出は今一つだし、音響バランスもちょっと気になるが、見せどころはきちんと締めているので十分見るに堪える出来になっていると思う。
 キャスト面では、鍛冶屋の女性に大原さやか氏が起用されているのに驚いた。さすがの説得力。メインヒロイン役の小松氏もたいへん流れの良い芝居で、説明台詞の多いロレーヌ役をしっかり造形されている。デビュー当初(2012年の『モーレツ宇宙海賊』の頃)は今一つだったが、とても良い役者になってきた。
 ちなみに漫画版の方は、抜群の出来。巨大感のあるモンスター描写から、会話劇のコマ組み演出まで、影の濃い物語をしっかり描ききっている。



 (2024年2月中旬)
 アニメ版『望まぬ不死~』は、良い感じのペースを維持している。会話シーンは静止画や使い回しが多いものの、斜め構図などを多用することで飽きさせないようにしているし、バトルシーンなどの要所はしっかり動かしている。つまり、コスト配分をきちんと計算しつつ全体演出を巧みにコントロールしているのが見て取れる。
 キャラクターたちも、ただの上っ面の「善人」描写ではなく、難しい状況を前にして善き決断を選ぶという形になっているので説得力がある。キャラ萌えやお色気にはあまり依存せず、朴訥なユーモア感覚を滲ませているのも面白い。漫画版はもう少し激しめのトーンだったが、このアニメ版は穏やかで誠実なムードを丁寧に維持していて、アニメ版独自に作品の雰囲気と方向性をきちんと構成して作り出しているのが分かる。

 演出面でも、良いところはいろいろある。レイアウトに凝った、力強いカットも多い。あるいは、7話の終わりだったかで、主人公がとぼけた発言をして、それに続けて暖炉の炎がボッと燃え上がるカットを置いている。つまり、主人公のボケに対して友人が怒ってみせたであろうことを雄弁に示唆しているわけだが、このような小道具による大人びた演出をさらりと投入できているのは、実に良い(※ちなみにこの炎は、原作小説には無い描写で、アニメ版独自の演出)。
 また、バトルシーンでも、体格の良い男性キャラ(主人公)が剣を堂々と振り回すアニメーションは、迫力があって格好良い。やや暗めの画面で、マント姿の男性がブンブンと剣を振り回すのは、たいへんな力感がある。
 8話の締めくくりも良い。主人公が「たまたま出会った冒険者のことなど、どうせ忘れてしまうものだよ」(大意)と言うのに対して、友人のロレーヌが「お前は少し罰が当たるべきだな」と返して終わる。ロレーヌ自身が、以前に主人公に助けられたことを大切な思い出にしていて、その思いを婉曲に漏らしているのだが、しかしそれは主人公には伝わっていない。こういった柔らかくも苦みの混じったユーモアのある台詞回しも良い(※原作由来の台詞だが、アニメ版はちょっとだけ意味づけを変えている)。

主人公「レント・ファイナ」は、肩幅が広く胸板の分厚い造形で描かれており、それが画面一杯に剣戟の大立ち回りをする場面はたいへん迫力があるし、日常シーンでも存在感がある。
ヒロインたちも、内面造形がきちんと為されていて、ストーリー上の安定感がある。主人公とメインヒロイン(画像左上)がともに20代半ばというのは、現代アニメではちょっと珍しい部類かもしれない。
画面のレイアウトも良い。屋内の会話シーンでも単調にならず、大胆な斜め俯瞰を度々採用したり(左記引用画像の右上)、仰角カメラで情緒と空間性を表現したり(右下)。左下画像のようなユーモラスなレイアウトもあるし、小道具等の描き込みも良い。

 ストーリーの全体としては、原作設定からかなりウェイトを変えているように見える。つまり、主人公の昇格願望とそれに基づく足掻きは、アニメ版ではあまりクローズアップされず、むしろ周囲の人々との間の人情話がストーリーの主眼になっているからだ。
 これは部分的には、媒体の違いにも由来すると思われるが(というのは、小説がモノローグ中心になりがちなのに対して、アニメーションでは動きの描写が主軸になるから)、それだけでなく、声優の芝居からもたらされる雰囲気にも由来している。

 かなり地味だが、嫌味のない素直なアニメになっていると思う。せっかくだから円盤も買ってみようかという気分になりつつある。
 監督は秋田谷典昭氏。元々は演出専門の方で、『城下町のダンデライオン』(2015)の頃からアニメ監督としても活躍されているようだ。脚本は、菅原雪絵氏が大半の回を担当されているおかげか、全体に統一感がある。

 余計な話。原作(と漫画版)の英文サブタイトルは、"The Unwanted Immortal Adventurer"。アニメ版では"The Unwanted Undead Adventurer"となっている。しかし、unwantedだと「周囲から望まれていない(期待されていない、近寄ってほしくない、必要としていない)」の意味になってしまう。少なくとも、unwantedlyと副詞で置いた方が文法的にきれいだと思う。日本語タイトルの文意に即して英訳するなら、
unwillingly immortalized adventurer(不本意にも不死化された冒険者)
unexpectedly(予期せぬことに) demonized(魔物化)/zombified(ゾンビ化) adventurer
An adventurer who happened to become a monster(たまたま魔物になった冒険者)
などと書いた方が良かっただろう。
 こういった英語サブタイトルは、2020年代の現在でもかなり珍妙なものが多い。出版社は、ネイティヴチェックをきちんと入れた方が良いのではなかろうか。例えば、外部契約でもよいので、1件○○円あたりで随時問い合わせをして、「英語での直訳/アレンジ訳/面白そうな訳」の3つくらいをすぐにもらえるようにしておくと、質が高まると思うのだが……。海外展開のことを考えれば尚更、ここにちょっとしたコストを掛けるのは十分割に合う筈だ。実際、翻訳業企業などがすでにそういったところに進出していっているだろうとは思うが、まだまだおかしな英語がオタク系コンテンツにも散見される。



 (2024年3月上旬)
 『望まぬ不死』の原作小説も読んでみた。さしあたり第1巻のみだが、この約300ページ分は、アニメ版では第4話までに相当するので、アニメ版はかなり早めの進行になっている。このペースだと、原作第3巻くらいまでカヴァーする予定だろうか。
 内容面では、文章はかなりきれいに出来ている。小説媒体らしく、モノローグ(地の文)が中心で、魔力などの設定の語りがそれなりに多い(※アニメ版ではしばしばカットされている)。状況設定や人物の動かし方が恣意的なのは、原作からしてすでにそうだった。例えば、主人公は冒険者同士では非常によく知られた人物となっている一方で、周囲からまったく注目されないという描写がある。主人公がパーティーを組まずにソロ中心だった事情についても、かなり無理のある説明が為されている。初心者冒険者リナの成り行きについても、納得しにくいところがある(※通常ならば、街に帰還してから「黒衣の冒険者を知らないか」と聞いて回ったり、ギルドで偶然遭遇したりするだろう)。時間経過が不自然だったりもする。総じて、「文章はきれいだし、雰囲気も整っているが、社会関係の描写がいささかご都合主義で飛ばされる」という印象だった。あくまで細部は気にせず、おっとりした雰囲気を楽しむための作品なのだろう。

 原作小説/漫画版/アニメ版の異同について。大筋はほぼ同一だが、台詞回しはそれぞれいくらか異なるし、細かな設定語りも省略されている。リナの兄が登場するシーンなども、アニメ版では(今のところは)カットされている。また、ギルド担当者のシェイラは、原作第1巻ではただのサブキャラだったが(挿絵でも顔が省略されていて、明らかにモブキャラ扱いだ)、漫画版で個性を確立し、さらにアニメ版では重要な役どころを担う主要キャラになっているのが面白い。
 主人公については、冒険者の最高位になりたいという願望は、原作小説のモノローグでははっきり描かれており、漫画版でも動機付けとして明示されているが、アニメ版ではあまり強調されていない。
 ロレーヌも、原作第1巻の範囲では、「主人公に対して緩やかな情愛を抱いているが、基本的には気にしていない、さばさばした変人学者の親友」という程度に描かれているが、アニメ版では当初からたいへん魅力的なキャラクターとして扱われている。
 主人公が本編で彼女の家に初めて帰還したときの描写も、それぞれ違っていて興味深い。原作では、「主人公が何日も戻ってこないので、冒険中に横死したのかと不安で寝られずにいた。ノックの仕方で主人公だと気づき、しかし主人公を心配していたことを悟られたくないので、ソファに飛び込んで寝ているふりをした」という描写。漫画版(巻末おまけ)では、主人公のために捜索願を書いている最中だったのを隠して、そのまま出迎えるという形になっている。アニメ版では、「ノックの音で主人公だと気づいたようで、ソファに行って狸寝入りをした」という描写になっていて、内心の描写が無いこともあって、ただの照れのようにも見える(※視聴者によっては、「あえて主人公に対して隙を見せるポーズ」と解釈したかもしれない)。
 作品としては、どれも現代のオタク向けコンテンツとして読むに耐える出来。原作小説は、目の詰んだ文章と、アンデッド化した主人公の試行錯誤の丁寧な進行を楽しめる。漫画版は、暗めの紙面でかなりドラマティックな物語を楽しめる。漫画表現そのものとしても非常に上手い。アニメ版は、雰囲気作りが巧みで、しっとりしたユーモア感覚を滲ませつつ、サブキャラヒロインズが可愛らしく目立つようになっている。

 中曽根ハイジ氏による漫画版について。
 ストーリー進行はおおむね原作どおりだが、台詞などは比較的自由にアレンジされているところが多い。イベントの順序を変えているところもある。基本的には、主人公に大きく焦点を当てて、成長のための努力がクローズアップされている。また、原作の描写に対する細やかなフォローもあり、状況がより良く把握できるようになっているし、後の展開に対する布石になる描写も巧みに置いている。主人公のマスクの形状は、漫画版では明らかに骸骨デザインで、歯列も剥き出しに造形されている。そのため、古典的な骸骨モティーフのキャラクターが活躍するという趣がはっきり現れている。
 とりわけバトルシーンは、ダイナミックに空間性を強調したレイアウトも使って劇的に表現されている。トーンの影も濃く、アニメ版以上にダークファンタジーとしての性格を押し出していて読み応えがある(※アニメ版も、暗い室内や日没寸前の夕暮れなど、現代アニメとしては珍しいくらいしめやかな絵作りをしている。それに対して原作小説は、文章の明晰さもあって、物静かな思弁的雰囲気が強い)。
 キャラクターの印象は、小説版/アニメ版とは多少異なるだろう。例えばロレーヌは、アニメ版では(小松氏の芝居のおかげもあって)大人びて堂々とした雰囲気だが、漫画版ではコミカルな側面が前景化しており、「話の分かる友人」のように見える。その一方で、アンデッドの身体を調べたがるマッドサイエンティストとしての側面も(コミカルに)強調されている。
 ギルドのシェイラは、原作イラストと同じく、職員帽を被っている(※アニメ版では無帽)。後髪は、原作挿絵とアニメ版では大きくドリル状(ロール)に巻いて垂らしているが、漫画版では左右の三つ編みにして先端部をリボンでまとめるという髪型になっている。序盤に登場するリナは、原作小説ではアンデッド主人公にかなり怯えていたが、漫画版では愛嬌と善良さが印象深く描かれている。また、漫画版のファッションはヘソ出しで色っぽい(※アニメ版では、胴体も衣服でしっかり覆っている)。銅級昇格試験の二人は、小説挿絵では後ろ姿しか描かれていないが、ローラの特徴的な髪型などは判別できる。正面からの顔立ちなどは漫画版で正式に描かれ、さらにアニメ版もそれを踏襲しているが、帽子はカットされた。

 原作小説の第3巻までが、おそらくアニメ版一クールの範囲だろう。漫画版では、第7巻の途中までに対応する。

漫画版第2巻第6話より。巨大なジャイアントスケルトンが武器を振り下ろしてきた場面。縦4段のコマをぶち抜いているレイアウトは、迫力と臨場感に満ちている。このような大胆かつ魅力的なコマ割は、本作の他のシーンでも味わえる。
 敵のスケルトンは、骨のディテールも緻密に描かれているし、逆光のように影トーンを張ることで巨大感と威圧感を際立たせている。斬撃を避ける主人公も、小気味よい運動表現が為されており、足元の影も含めてダイナミックに見せている。
第2巻第9話より。キャラデザは、原作小説の表紙および挿絵で大多数のキャラクター像が確立されており、漫画版も基本的にそれを踏襲している。
 漫画版のシェイラも、ギルドで仕事をしている最中は縦長の帽子を被っている。ただし、後髪のディテールは、原作では縦ロールのように描かれていたものが、漫画版では三つ編みスタイルとして描かれている。


 もっと言えば、ソフトハウスキャラに近い魂をちょっとだけ感じるんだよね……。キャラクターたちが真面目で大人びていて(二十代以上の精神年齢で)、媚びた雰囲気もわりと希薄で、頭の回転も速くて(コメディ展開のための愚かな行動などはほぼ皆無で)、それぞれに独自の事情や価値観があることを理解しつつ、社会関係の中で適切に行動していて……。
 ただし、ソフトハウスキャラとの決定的な相違として、こちらの主人公は組織を作っていない。孤独志向の求道者主人公というのは、現代ではかなり珍しいが、私としてはハーレムものよりは孤独のダークファンタジーの方が好み。同じように、影の濃い剣士放浪ものとして、『転生したら剣でした』も、漫画版を継続的に読んでいる。



 (2024年3月中旬)
 アニメ版『望まぬ不死』は、9話も上手い。
 Aパートでは、ドアノッカーが外れるくだりは微笑を誘うし、主人公の落ち着いた喋りも堂に入っている。なかでも、立派な志操を持った少女が窓を背にして、窓からの輝かしい光に包まれているところは、視覚的演出として素晴らしい。BGMも、その少女への祝福をはっきりと表現している。人のために頑張ると決意する少女の姿は、とても美しい。もちろん、アニメ版ならではのクリエイティヴな視聴覚演出だ。

このシーンの演出は、抜群に美しい。他人のために孤児院を出て自ら冒険者になろうという決意を口にする少女。その少女のために、窓外(=外の世界)からの清らかな祝福の輝きが、背後から照らしている。

 中盤以降の会話シーンも、柔らかいBGMに導かれながら、主演二人の目の詰んだ芝居のおかげでユーモアと迫真性に満ちた時間になっている。「飼ってもいいかあ?」「好きにしろ、この家にはすでにアンデッドが住んでいるのだぞ」。屋内の背景作画で、木の質感がしっかり感じられるのも良い。明度低めのしっとりした画面作りにも合っている。ギルドのシェイラも、まっすぐ見上げてくる表情に穏やかな愛嬌があるし、キャラクター表現としても、善意と責任感と理解力をしっかり持っているプロとして描かれているのが気持ち良い。ロレーヌとの会話も、それぞれの優秀さに対する信用と信用どうしのつながりで締め括られている。
 後半のバトルシーンもなかなか力が入っている。珍しいところでは、まるで実写のカメラレンズのように画面(前面)に液体が付着する演出がある。アニメーションではかなり稀少な表現だが、こういう意欲的な試みは評価したい。その前の、「なんとかしてみせるのが――冒険者というものだろう」という場面転換のところも、実にきれいで上手い繋ぎ方だ。
 そして、霧に包まれた彩度低めの空間から、最後に緑と赤のいろどり鮮やかな世界に足を踏み入れる転換も、実に良い。このように陰/陽のトーンの視覚的抑揚まで含めてコンテを構築していくのは、とても好み。もちろん劇伴も、それに歩調を合わせている。

 元々は、漫画版を気に入って読んでいて――さらに遡れば、その漫画家さんの18禁同人誌が非常に上手かったことから注目するようになっていて――、そのついでとして(ほとんど期待せずに)視聴し始めていて、まあ、確かに序盤数話のダンジョン徘徊シーンは説明的でもったいなかったのは確かだが、中盤からどんどん良くなってきて、アニメ単体として楽しめるようになっている。しばしば言われているとおり、けっして予算潤沢な企画ではなさそうだが、作品全体の表現効果を最大化するための取捨選択の判断がとても上手いのか、たいへん気持ちよく楽しんで視聴できる。

 主人公が最初にスケルトンに変化してしまうのは、一見するとトンデモな奇手のようだけど、日本の伝統的な特撮ヒーローやアメコミヒーローと同じだと思えば、むしろ王道路線に棹さすものだと言える。「改造人間」や「宇宙人との一体化」はSF寄りのアプローチだが、この作品ではファンタジー(RPG)風の世界でそれを処理しつつ、転生ものの文脈に即して表現してみせたところにオリジナリティがある、という感じだろうか。

 「[このアンデッドの外見だと]結婚は出来なそうだけど……」という独り言の瞬間に木道から落ちるのは、前回ラストからの続きで、鈍感主人公の罰当たりを体現したように見えるのも微笑ましい。そんなことを言っていたら、ロレーヌさんが悲しむぞ……。

 原作小説の第2巻も読んでみた(アニメ版では5-9話に相当)。
 読み比べてみると、個人的に面白かった部分はしばしばアニメ版独自の表現だった。例えば、最初に助けてくれた冒険者(リナ)が、銅級昇格試験のペアと出会っていくのは、原作小説のこの部分には無い描写だったが(※後になって描かれる)、アニメ版でその成り行きがひっそり暗示されている。
 「結婚は出来なそうだけど」の瞬間に、木道から水に落ちるのは、アニメ版のアレンジ。原作では台詞と転落はそれぞれ別の描写だが、アニメ版はそれを同じタイミングにまとめている。つまり、先に述べた「水に落ちたのは罰当たりの示唆だ」というのは、明確にアニメ版(脚本家)がそのように意図した演出だと判断できる。
 子供たちに向かって、「見た目の怪しい大人には、近付いちゃ駄目だぞ」というのも、アニメ版独自の台詞。主人公のスカルマスク姿を映したアニメ媒体ならではの面白味を作り出している。原作では、アリゼとの会話の中で注意喚起しているが、これは小説らしく会話ベースの進行にしているからだろう。
 地下室掃除のシーンで、ボスネズミが、子分ネズミたちを逃がしつつ一人で向かってくるのも、アニメ版のアレンジ(※原作小説では、ボスネズミが単体で出現している。漫画版でも、ネズミたちの親分として描かれてはいる)。これによって、ボスネズミがちゃんとボスとして配下を指揮している大物であること、そして、配下を守ってやる立派なキャラであることが、ほんの数秒の画面演出だけで無言のうちに表現されている。これも上手い。
 9話後半のロレーヌ&シェイラの会話は、アニメ版で追加された長めのオリジナルシーン。アニメ版でメイン級に昇格しているシェイラに、出番を与えてやる趣旨でもあるだろうし、ちょっとした尺の調整でもあるかもしれない。そして、主人公のモチベーションにも言及して、ストーリーの骨格を整えている。元のシーン(沼地)へのつなぎの巧さも、先に述べたとおりだ。

 その一方で、例えば原作のオーク狩りのくだりは、ほぼカットされている。これは、媒体による違いを考慮したものだろう。原作小説であれば、主人公のソロ冒険の様子を丁寧に描くシーンものとして意味がある。しかしアニメの12話の中で見ると、主人公一人だけの脇筋イベントなので寂しいし、ここから昇格試験→トッツ村→沼地と冒険シーンが連続するのでダレる。これをカットしたのも良い判断だと思う。また、「新月の迷宮」の2階層の美しい風景を、昇格試験のラストに持ってくることができたため、ストーリー進行としても演出としてもたいへん良い効果が生まれた。これもアニメ版(シリーズ構成)の絶妙なアレンジだ。
 また、昇格試験では、ギルドが仕掛けた罠がかなり大量に存在し、しかも嫌らしい。アニメ版では、これらを半分程度に切り詰めている。ストーリー進行をクドくしないための、適切な処理だと思う。もちろん、原作小説であれば、それらの罠に一つ一つ対処していく過程を文章でじっくり描いていくのは、これはこれで十分面白い。繰り返すが、媒体の違いに応じたテンポ感の設計は重要だし、それをアニメ版の脚本は非常にうまくチューニングしている。

 沼地のボス戦では、原作小説の描写では仲間のネズミが体当たりをするのだが、アニメ版では飛び込んでいって呑み込まれる(!)。ここの変更は、よく分からない。視覚的な明快さを重視したものだろうか? それともボアフェチ……かどうかは分からないが。
 沼地攻略の前の特別なシチューについて、ヒロインの「帰ってきたら、また作ってやるさ」というのもアニメ版オリジナル(※原作には無い)。こういったアレンジ台詞も、アニメ版スタッフがこのキャラクターをどのように位置づけているのかを、はっきりと示唆している。アンデッド化してしまった主人公に対して、必ず受け入れてもらえる居場所であることを約束しているわけだから。細やかで、非常に情愛深い台詞だと思う。
 読み比べてみて、このアニメ版でアレンジされた見せ方は、どれも私の性に合うことに気づいた。取捨選択の上手さ、演出の小気味よさ、ユーモア感覚の方向性、等々。脚本家(シリーズ構成の菅原雪絵氏)の判断なのか、それとも監督(秋田谷典昭氏)がリードした結果なのかは分からないが、このスタッフには注目していきたい。

 10話はちょっと余裕が無さそうな印象。沼地攻略の後始末にまつわる細々とした描写と、名家からの依頼という不穏な雰囲気のせいだろうか。また、門番を「この迷路に挑んだであろう先達」と察するところは、いささか唐突に思える(※原作小説では、詳しい経緯が語られているのだが)。少女アリゼへの肩入れも、もう一言くらいは説得力のある説明があれば良かったかも(※リナや昇格試験時のペアに対する距離の取り方と比べて、アリゼに対して親しすぎるのは、原作そのままではあるし、心情の変化と捉えることも一応可能だが……)。
 シェイラ役(長谷川氏)の芝居がなかなか良い感じ。ガスマスク姿などの視覚的表現もユーモラス。眷属ネズミ「エーデル」は、アニメ版でちょこちょこ動き回るのが、予想以上に作品の面白味を増している。
 竜血花の治療の関するくだりは、原作小説では後回しになっていたところ(ラウラ邸訪問より後になる)。それを前倒しにして孤児院イベントをこの段階で締め括っておいたのは、アニメ版独自の構成として上手い処理だと思う。

 11話のゴーレムのシーンは、各媒体で多少異なっている。原作小説はミスによる起動で大騒ぎになり、漫画版では周囲の魔道具をどんどん引き寄せて2体にまで増殖し、たいへんな激戦になった。アニメ版はおおむね原作同様だが、ゴーレムが寄せ集めではなく、あらかじめ単体として成立していた造形に見える。主人のラウラがあまり焦っていないので、「せっかくの機会だからと主人公を試した」という雰囲気も窺える(※ちなみに、アニメ版の造形から『アイアン・ジャイアント』を連想した)。バトルシーンの表現としては、主人公が敵の攻撃を避けるために駆け回るところが、文字通り地に足の付いた描写になっていて迫真性がある。タラスク戦のときも同様だが、ジャンプ描写で誤魔化すのではなく、「走る」という全身運動をしっかりアニメーションさせているのは好印象。
 ヴァンパイアの血液を飲もうとするくだりも、原作小説は最もストレートに進めているが、漫画版は主人公の主体的な意志として、飲むことを決意する。アニメ版は、ロレーヌの台詞の音声が付いたこともあって、廃人化リスクについてロレーヌがかなり心配しているように感じられる(それでも最後には後押ししてくれるのは、原作小説の台詞をほぼ踏襲している)。
 アバンの長大な前回リピートは、いかにも尺調整めいていて、少々もったいない。とはいえ、今回の最後に血液を飲む直前まで行ってしまったのも、意外に感じた。最終回は「おかえり」で締めくくるかと予想していたのだが、11話の進行だと、12話をそこでぴったり終えることが出来なくなる。12話の後半で蛇足的なエピローグを描くのだとしたら、今後の展開を示唆しておくという形になるだろうけれど、そうすることが必要なのかどうかは……。
 「おかえり」を、小松氏はどのように演じるだろうか。穏やかに優しく受け入れるか、感極まった嬉しさか、懐の深い情緒でどっしり受け止めるか、あるいはロレーヌの感情は抑えて主人公レントの帰還を彩るように控えめにするか、はたまた冗談交じりのユーモアとして処理するか、それとも……。期待して12話を待ちたい。

 12話(最終話)は、叙述の順序をアニメ独自に構成し直して、きれいな尺で完結させた。とりわけ、回想シーンへ導いていく会話は、アニメ版独自のもの。そしてこの回想シーンをしっかり描いたうえで、現在に至る主人公のモチベーション描写をきちんと結びつけている。そして血液摂取と人間性の回復、ロレーヌとの信頼関係、街の人々を描きつつ、希望のある未来を示唆して美しく物語を閉じている。大袈裟に盛り上げすぎず、主人公レントと親友ロレーヌの二人だけで穏やかに締め括ったのは、本作がこれまで維持してきたしめやかなトーンを大切に扱いきったと言える(※賑やかしの眷属ネズミ君が登場していないのも、二人の物語に集中させるための意図的なチューニングだろう)。
 今回の脚本はシリーズ構成の菅原氏、絵コンテも秋田谷監督自身によるもので、劇伴の転換や視覚的演出も上手い(背景や光源の活用。例えば暖炉の炎や窓外の光)。アニメの演出巧者というと、個人的には神戸守氏、高橋丈夫氏、佐伯昭志氏を挙げたいが、本作の演出もたいへん充実した出来だった。

 アニメ版は、おおまかに言えば原作小説では3巻の中程までを扱っている。漫画版では6巻までに相当する(※ただし、アニメ版12話の回想パートは、漫画版では10巻に収録されており、かなりの組み替えがある)。ストーリーの大筋は原作に従ってスムーズに進めつつも、アニメ版の尺に合わせてきれいに再編集した、秀逸な翻案脚本だと思う。演出面でも、原作がしっとりした雰囲気の物語で、漫画版はバトルシーンにも力を入れた力作、そしてアニメ版は中盤の温かな小話をつなげつつ、きちんと締め括ってみせた。どのヴァージョンも、良く出来た作品だと思う。
 個人的に好みなのは、孤児院&沼地の9話と、最後の12話かな。どちらも、アニメ版独自のアレンジが絶妙に決まっているし、視聴覚演出も見応えがある。脚本はともに菅原雪絵氏(=シリーズ構成)。絵コンテ&演出は、9話が富田祐輔氏、12話が秋田谷監督。
 仮に2期を制作するとしても、1期ほど面白くはならないかも。漫画版では、これに続いて吸血鬼ハンターとの対面やダンジョン探索などのイベントを挟んで、故郷訪問の長大なエピソードに入っていく(※漫画版は現在12巻まで刊行されており、故郷編がまだ完結していない)。これをアニメで描いていくのは、ちょっとダレそう。