漫画雑感。主に単行本新刊について。2024年4~6月。
6月。
鍵空とみやき『恋愛自壊人形 恋するサーティーン』は第4巻で完結した。謎めいた洋館の中で暮らす、実験生物のような思春期キャラクターたちの様子を描くというのは、先日言及した『シャドーハウス』ともども、どことなく2010年代の香りがする(※アニメ分野だと、『輪るピングドラム』が2011年放映)。
内容面では、『ハッピーシュガーライフ』(全11巻)の著者らしく、キャラクターの心情の動きを明晰に描き、そして強烈な悲劇のカタルシスを与える。
ひつじロボ『キメラプロジェクト:ゼロ』(既刊4巻、原作者あり)も、人工生物のケモキャラたちが博士の下で世界を学んでいく、ビターな童話的物語という意味では、近い位置にある。
高津マコト『アラバスターの季節』は、第3巻で完結した。とある離島の高校で、鬱屈を抱えていた男子高校生が、奔放な女性美術教師と巡り会って触発を受け、彼女との交流の中で様々な体験をしていくというミニマルなお話。影の濃い思春期ストーリーに、ボーイミーツ年上女性のシチュエーション、そしてキャラ造形や画風もなんとなく前世紀オタクっぽいという、いかにも少年画報社らしい香りの漂う作品だが、全体としては面白かった。
作者はこれまでに『シャボンと猫売り』(単行本全3巻)と『渡り鳥とカタツムリ』(全2巻)という連載も持っていたようなので、折を見て買い揃えるつもり。メガネキャラをたくさん描いておられるようだし。
現代のクリエイターはしばしば公式サイトのようなものを持たず、SNSアカウントで情報発信しているだけだし、既発表作品や創作履歴についてオフィシャルな情報をなかなか公開してくれない。だから、通販サイトなどの不完全な情報に頼らざるを得ないのが残念だ。
少年画報社は、良い作品をたくさん出してくれているが、なんというか、オタクヤンキーというか、オタクバンカラボーイのような雰囲気が濃くて、そういう「オタク男子たちのホモソーシャル的に屈折した情念」のようなのが露骨に出てくるのはちょっと苦手。ヒロインキャラに対してオタクっぽく美化(賛美)したり、いわゆる中二病的な粗野さに開き直ったり……いや、そういうのでない路線でも、良い作品を多数リリースしてくれているのだけど。
十三野(とさや)こう『ごぜほたる』(第1巻)は、カバーイラストのきれいな青空に惹かれて購入してみたら、中身も面白くて驚いた。舞台設定そのものは和風(時代劇風?)シチュエーションで、絵柄もしっとりと落ち着いているのだが、その一方でコマ組みにはポップなリズム感があるという取り合わせが興味深い。舞台設定は和風ファンタジーをわずかに匂わせつつウェットなのに、コマ組みにはメカニカルな機敏さがあり、そのうえストーリー面では、思春期前の少女が意志的に行動する力強い物語になっている。かなり不思議なアプローチだが、強固な説得力があり、作品に引き込まれる。ストーリー進行(情報の出し方)もきれいに整理されている。
左上のページ(第2話)では、2コマ目~3コマ目の細い横長コマ、そして最下段の微妙に傾斜のついた横長の2コマが、様々な視覚的効果をもたらしている。すなわち、1)長い時間経過の表現でもあり、視覚的にも、2)補足引き絞られたコマは緊張感や不安をも演出し、3)画面構成としてはリズミカルな抑揚を作り出している。
右上のページ(第1話)でも、下段に5つもの細コマが連なっている。5コマもの積み重ねは、少女漫画風の余韻表現としてあまりに過剰だが、2020年代らしいこの大胆な表現は、作者のモダンな感性と意欲的な姿勢を窺わせるし、本作特有の浮遊感としても良く機能している。
左下のページ(第3話)にも、つなぎの3連コマが現れる。こうした表現は随所に行われており、この本作の表現文体の大きな特徴になっている。
右下のページ(第2話)でも、間(ま)をつなぐ細コマや、最も下段のオーバーラップコマなど、巧緻なコマ組みテクニックがさらりと投入されている。紙面全体のレイアウトとしても、右上の少女のクローズアップから左下の背面姿への対比が、見事に構築されている。作者にとって初単行本とのことだが、それにしてはやたら上手い。
ストーリー面について。主人公の少女は、架空の和風中世的世界の山村に生きる視覚障害者だが、村を訪れた瞽女の団体に同行していくというものだが、瞽女の生活文化の描写には迫力があるし、旅だった父親を探すという長期目的も設定されており、さらにはどうやらファンタジー(超自然的な力)も関わってきそうな気配があるという、多層的でしたたかな作りになっている。それでいて、ストーリー進行はきれいに整えられていて、無理なくスルスルと進んでいく。
SNSでは漆原友紀『蟲師』を引き合いに出している投稿を見かけた。たしかに、あの作品に近いところはあるかも。具体的にどこが似ているというのではなく、「和風世界の一見地味な物語ながら、意欲的なネタに正面から取り組んでいて、芯の通った強靱な描写が迫真性を生んでいる」という手応えが、そういう連想を誘うのだろう。
視覚障害者キャラクターは、現代舞台の美少女ゲームなどにも時折登場するし、近年の漫画では例えば宇河弘樹『猫瞽女』や松浦だるま『太陽と月の鋼』(既刊8巻)にも瞽女キャラクターや視覚的障害の巫女キャラが登場する。前者は2017年に第4巻で完結したが、ソ連支配下の架空日本で、猫耳の瞽女剣士が政治闘争に巻き込まれる話(なんだそりゃ)。後者は、江戸時代の和風ファンタジー(陰陽道の術なども使われる)。昔ながらの座頭市キャラクターを、現代サブカルのコンテクストに載せると、kawaii瞽女キャラになるということかもしれない……それでいいのか?
『怪異と乙女~』は、少ページで第8巻を出した。アニメ放映中に新刊を出しておこうという下心だろうか。第6巻から登場した、銀髪ショートで強気で不幸で孤独で薄平べったい少女がたいへん素晴らしかっただけに、こういう扱いはもったいない。もっとも、ページの埋め草のように、漫画家の昔の読み切り短編「オーガンスモーク」も再録されているのは、後発読者としてはありがたい。
今回登場したサブキャラ「橘鏡花」は、過去の連載『歌うヘッドフォン娘』の主人公。同様に虎沢愛子も、『虎子、あんまり壊しちゃだめだよ』の主人公だったようだ。つまり、奇しくもこの第8巻では、ぬじま作品の主人公(ヒロイン)たちが勢揃いしていることになる……ファンサービス?
うーん……「女子高校生たちが新しい趣味に出会って、楽しく活動する」というのが、いまだに出てくるんだなあ。00年代末頃から、擬人化ネタなどとともに、男性オタク系での美少女ものの浸透と拡散の一翼を担いつつ、また同時並行的に、ミリタリー趣味(サバゲーを含む)や音楽(軽音/バンド)や美食/料理などの様々なブームとも連動しつつ、漫画やアニメやLN分野で大量のタイトルが作られてきた。アウトドア(登山やキャンプや釣り)、乗り物(バイクなど)、ゲーム(ボードゲームやカルタを含む)、伝統芸能、そしてもちろん各種スポーツも含めて、枚挙に暇がない。
しかし、管見のかぎりでは、その多くは導入(動機付け)が強引で説得力に欠けるし、作劇の面でもダラダラした趣味トークの垂れ流しになりがちだし、漫画表現そのものとしても趣味ネタに振り回されてクオリティが低いし、さらには、趣味ジャンルが一通り掘り尽くされてネタ切れしたのか、かなり無理のありそうなネタも出てくるようになった。
もちろん出来の良い作品もあるのだが、平均的に見ると、低水準なジャンル(つまり、ハズレ率の高いジャンル)だと見ている。もっとも、恋愛漫画や、ホラー/ミステリ、冒険漫画(異世界ファンタジーなど)、SF漫画、歴史/旅行漫画なども、必ずしもそんなに良い作品ばかりではないけれど、この分野の場合は、特定の趣味ネタ一本槍で捻りのない大ハズレに遭遇することが比較的多い。
わざわざこんなことを書いているのは、先日買った単行本がまさにそういう作品だったから。絵作りには抜群の迫力があるし、モティーフも刺激的で、独自の掘り下げがあるのだが、キャラ設定と序盤展開は、「主人公がたまたま出会った少女は、成績は全国トップレベルで、外見もモデル並に洗練されているのに、とある趣味に没頭していて、そのせいで孤独だった。主人公がその趣味に理解を示してくれたので、一緒に時間を過ごすようになる」という強引なもので、そのあたりにどうしても辟易してしまった。作画と演出はかなり良い出来だし、巻末コメントを見るかぎりでは作者自身もその趣味を本気で楽しんでおられるようなのだが、やはり惜しい。
浅山わかび『ラストカルテ』は、連続刊行の第10巻で完結した。最終巻のエピソードは、死んだクマの頭部(頭蓋骨)を角に引っかけたままのエゾシカという異様な描写から始まる。死を頭上に掲げつつ闊歩するというシチュエーションそのものが、まさに本作のモティーフ(動物の死骸を解剖検死する法獣医学)とのシンボリックなつながりを窺わせもするが、さらにそこから3頭もの生物のそれぞれの死を巡る複雑な物語と、そしてそれらを通じて(野生)動物たちの生と死を巡る誠実な思考へと進んでいく。本作としてはむしろ例外的に、キャッチーな時事的トピック(クマの市街地出没を巡る議論)にも接近しているが、それもまた本作の主題と密接な関わりがあったのだし、これは作者なりの真摯さと捉えるべきだろう。
乙須ミツヤ『俺の死亡フラグが留まるところを知らない』第6巻が、ついに紙媒体で出てくれたのが嬉しい。第5巻までは紙の単行本も出ていたのだが、そこからはオンライン版だけになってしまっていて、ずっと悔しい思いをしていた(※ちなみに電子版では、かなり先の第9巻まで出ている)。次の代7巻も刊行告知されているので、はっきりと紙媒体で刊行再開したと考えてよいだろう。ありがたい限りだ。
ストーリーは、自分がプレイしていたゲーム世界の悪役キャラに転生してしまった主人公が、悪役としての死を回避するために、ゲーム知識を活用して苦闘するというもの。自分の立場を明かすことのできない孤独の苦しみと、迫り来る死亡フラグに対する悲壮な対決の意志、そして不幸な事件に向ける眼差しが滲ませる優しみとぎりぎりの憐れみ、そういう心情のドラマに引き込まれる。漫画表現としても、情感に満ちた背景作画や、キャラクターの内面を強く示唆する魚眼カットなど、意欲的な取り組みが見られる。孤独の情緒も含めて、なんだか妙に好きな作品。主人公君が、対人関係で不器用なのに(※設定上のやむを得ない事情があるのだが)、どことなく可愛げがあるのも良い。
購読継続中の作品に関しては、演出面やジャンル的位置づけについてそんなに新しいネタが出てくるわけではないから、毎回の新刊で言うべきことはそれほど多くない。なので、月別カテゴリーの最下段に置いてショートコメントのみにとどめるつもり(※演出面について個別・細部の話をするなら、もちろん語れることはいくらでもあるのだが、それをやり出すときりがない)。
というわけで、その他、継続購入中のものなど(※ショートコメントにとどめる)。
『エクソシストを堕とせない』第8巻は、第4章完結と、第5章の開始。つまり、4章ラストのショタ神父くんの悲しき劣情シーン「幼年期の終り」もこの巻に含まれる。ストーリーとしては、教会組織によるショタ虐待(つまり、陰惨な児童虐待そのもの)に向き合わせるための布石を打ち続けているところかな。この第5章は、神父くんの生き方そのものを問い直すプロセスになっているようなので。
川田大智『半人前の恋人』第3巻は、一気に高校卒業後までジャンプしている。女性側は職人として自立して働きはじめているし、男性側も美大(※多摩美がモデルのようだ)で自分なりの目標に向き合いつつある。思春期を超えた若き大人たちの誠実な交流という意味では、これはこれで妥当な進め方だと思う。
巖本英利『異世界バトルロイヤル』(脚本:平石六)は第3巻刊行。様々な世界(異世界)から集められた強者たちが、ランキング制バトルロイヤルをするという物語。正直に言えば古臭くてダレるのだが、漫画家の絵が上手いのでなんとなく買い続けている。ちなみに、何故か乳首露出が多い(※それ以上のえろ表現は無いが)。
先月言及したナナトエリ・亀山聡『僕の妻は発達障害』は、7/8巻同時発売で完結した。難しい主題を誠実に扱って、皮膚感覚過敏などのデリケートな要素もきちんと描ききり、その一方で男性主人公(夫)が漫画家として自立していこうとする側面もストーリーの重要な一軸として絡めている。漫画作品そのものとして見ても、しっかりしたオリジナリティと、くっきりした描写の説得力がある。
田中文『あの子は少女の振りをして』は第3巻で完結した。恋愛ものでもなくサイコものでもないギリギリのバランスで描ききってくれた。終わり方はあまりすっきりしないが、結末に至る最も重要なシーンはきちんと描かれたので、これで良しとしよう。
座紀光倫『ネバーエンディング・ウィークエンド』も第3巻で完結。少年の親を探すために、一緒に旅をする男性二人の話。ドイツ舞台の漫画というのは、かなり珍しい。しかし、第2巻は買ってなかったかも……。
5月。
岩崎優次『暗号学園のいろは』(原作は、というか脚本は西尾維新)は、7巻で完結した。西尾氏の作品は、優れているのは分かるが文体などがちょっと苦手で、これまで敬遠気味だった。しかし本作は、暗号ネタをクイズの枠に入れてパージしたおかげで切り分けて読めるようになり、最後まで読み切ることができた。
衒学的といえば三島芳治氏の新刊も出ていたが、うーん、どうだろうなあ。『児玉まりあ文学集成』(既刊3巻で終わり?)はわりと面白かったけど……。
桜井亜都『幻狼潜戦』は、次巻(4巻)で完結とのこと。ケモキャラ漫画としても、体毛がしっかり生えている本格派だし、スパイもの、復讐劇もの、ライトBLものとしても好感触なので、もっと続いてほしかったが……。
里好『かくして!マキナさん!!』(既刊3巻)。里好氏は、ヴァーチャル虚構世界をろりキャラたちがサバイバルしていくSF『ディス魔トピア』(全4巻)から、豊かなアイデアに満ちた楽しいオムニバス『踏切時間』(全8巻)を経て、今回はメカバレフェチのお色気コメディを手掛けている。SF+コメディという意味では、確かにこの漫画家さんらしいネタかも。電子版はフルカラー漫画になっているらしい。
よしながふみ『環と周』(単巻、2023年10月発売)も、遅ればせながら読んだ。さまざまな時代の「環(たまき)」と「周(あまね)」の名を持つ二人が、さまざまな仕方で関わり合っていく。時には夫婦、時には友人同士(女性同士)、時には独身女性と近所の子供、時には復員兵(元上官と部下)、そして最終話では、結ばれなかった二人として。人間関係の様々なありようと、それらが持つ様々な情感、情緒、情趣が展開されていく。一見するとオムニバスのような物語群を統合するのは、その名前のとおり、円「環」と「周」回、すなわち輪廻転生が示唆されている。各話には死去や別離といった苦みもあるが、それとともに、時折のひそやかな幸福や、幸福を希求する柔らかで温かな心情が立ち現れてくる。たいへん素晴らしい作品でした。
はやしわか『銀のくに』(既刊1巻)は、新潟県下のある少女の家に、従兄妹たちが引越してきたところから始まる。伯父が大病のために、従兄妹2人だけが一時預けられているというデリケートな状況で、主人公と従兄妹たちとの間に、控えめな交流とその感情の機微が丁寧に描かれている。主人公の少女も、従兄の少年(どちらも高校1年生)も、言葉少なで内省的な人柄として描かれており、そしてそれは雪国新潟のずっしりと深い情趣とも歩調を合わせて展開されている。漫画表現としても、端正な矩形コマ(長方形コマ)をきれいに並べて、背景作画もおおむね水平を維持しており、物語の静かで誠実なトーンを視覚的に造形している。そのうえで、印象的な横顔カット(p.68)や、見開きの劇的な冬雷(p.120f.)が、大きなインパクトを持つ。
ちなみに、同じ著者による『変声』(単巻)も同時発売されている。こちらは中編2作が収録されているが、どちらもキャラクター造形が図式的にならないように丁寧に扱いつつ、デリケートにゆっくりと登場人物たちの内心の機微を描き出している。
小野寺こころ『スクールバック』(既刊3巻)は、大柄で飄々とした糸目女性の用務員「伏見さん」を巡る作品。基本的に一話完結型で、学生の悩みをゆったりと受け止める様子を描いていくので、思春期+人情ものと分類できるだろうか。一話完結の短いストーリーを続けており、筋書きとしては、彼女がただ学内の周囲にいてあげているだけで話が終わることも多く、かれらの苦しみをきれいに救済してしまうわけではないが、ただにこやかに、かれらの生活の風景と雰囲気をちょっとだけ良い方向にしているようなキャラクター(※ちなみに、作品の主役は彼女なのだが、各話の視点人物は学生たちの側になっており、かれらの内面がモノローグで訥々と綴られる)。そういう柔らかな雰囲気がなんとなく好みで、読み続けている。まあ、たまにはこういう路線も。
木々津克久『フランケン・ふらん Frantic』は、前の第8巻を見逃していたので、最新刊(第9巻)とともに購入。主人公は、死者蘇生すら可能なほどの超医療技術を持っているが、一般的な倫理観を持ち合わせていないキャラクターで、彼女が善意から実施する医療行為は大抵、患者や周囲にとって悲惨な結末をもたらす。それらは、人間性がほとんど失われるほどの限界的状態に挑戦するものだったり(例えば下半身イモムシ化)、剥き出しのグロ趣味を展開するものだったり(クローン大量生産や複数人間の接合)、激辛の社会諷刺であったり(羽根や角を生やすエキセントリックな美容改造)、そして時には露悪的な特撮パロディだったり(仮面ライダーも、まさに非人間的な改造医療の被害者だ)、軽めのホラーコメディだったりする(常連キャラクターも多い)。いわば『ブラック・ジャック』を思いきりブラックジョークと諷刺に漬け込んだような作品だが、一話完結短編のそれぞれがユニークなアイデアで作られていて、しかも、任意の一話を切り出して長編化することもできそうなくらいの強度がある。そういう豊かなネタの山を、一話ごとにどんどん使いきって先へ進んでいってしまう。なんという贅沢。
木々津氏については、商業単行本はたぶん全て(40冊以上)買って読んでいる。3つ以上のシリーズがあって、既刊20冊以上あって、その全て(たぶん)を読んでいる漫画家さんというと、冬目景氏(『羊のうた』から)、山本崇一郎氏(『キョーコちゃん』から)、そして木々津氏(無印版『ふらん』から)くらいかな。宇河弘樹氏と石沢庸介氏、ソウマトウ氏、関﨑俊三氏の単行本は、ちょっとだけ買い漏らしがある。道満清明氏についても、初期の単行本は全然入手できていない。そのほか、一本の連載を長く続けている漫画家も、何人かは全巻購入している(例えば、先月言及した岩永亮太郎氏についても、別名義作品を含めて買っている)。
そのソウマトウ氏の『シャドーハウス』第17巻も購入。しかし、館内部の抗争を延々描き続けていて、そろそろダレつつある。主人公の前身(館に入ることになった過去話)まで明かされたのだが、先が見えない。とはいえ、非常にユニークな作品ではあるし、トーン無し(?)でしっかり描き込まれた紙面密度も魅力的なので、今後もついていくつもり。
ソウマトウ氏は、最初の連載『ギリギリアウト』(全6巻)が、「呪いでおもらしをしてしまいやすい体質にされた高校生(女性)」の話で、可愛らしい絵柄と失禁描写のエロティシズムの取り合わせがなかなかフェティッシュ。個性的なアプローチと豊かなアイデアで、これはこれで楽しいコメディ作品だった。つづく『黒』(全3巻)は、上記『ギリギリアウト』と連載時期が一部重なっているが、プロト『シャドーハウス』とも言えるミステリアスな物語。
ナナトエリ・亀山聡『僕の妻は発達障害』(既刊6巻)は、来月の7&8巻で完結するとのこと。意欲的な題材で、どうやら部分的には自伝的(当事者的)な要素もあるようだが、それを別にしても、非常にしっかり描かれている作品で、読み応えがある。ストーリー展開も丁寧だし、キャラクターの内面造形も説得力があるし、絵柄もやや萌え系寄りながら(※メインの妻キャラは4頭身ほどの可愛らしいキャラとして描かれる)、背景まできちんと描かれていてキャラクターたちの実在感の手触りを感じられる。とりわけ、幸せそうな満面の笑みを浮かべた表情が良い。
ただし、この描き方にはいささか微妙な問題もある。すなわち、この妻キャラが、本当に小さくて可愛らしい「キャラ」に見えてしまうという点だ。いかにも萌えキャラらしい視覚的印象のせいで、発達障害を抱えたこの登場人物を、一人の人格的存在として受け止めることが、読者には難しくなってしまうからだ。作中の描写を見るに、4頭身なのは多少誇張だとしても、このキャラクターがかなりの低身長であることはおそらく作中の事実として扱われており、作者たちは「萌えキャラ化」を意図しているとは考えにくいのだが、絵面そのものは、時として、「ペットのようなkawaiiキャラ」に流れてしまいがちになり、彼女の内面造形の真率さをフッと取り逃してしまいそうになる。もっとも、これはオタク的視線に習熟してしまった私(たち)の側の問題なので、そこをきちんと割り引いて読んでいけば大丈夫なのだけど。
似たような問題を引き起こしているのが、倉地千尋『ヒナのままじゃだめですか?』だった(全3巻だが、私が読んだのは一冊だけ)。小学生女子の第二次性徴と、それに直面した主人公の悩みを扱っている漫画で、女性生理について誠実に描かれているように思えるのだが、絵柄がマイルドに可愛らしいため、ややもすればお色気エンタメのようにも見えてしまう。実際、本作をライトポルノ的に享受することも、おそらく可能であろうと思われた。
作者自身のSNSを見るかぎりでは、そうしたお色気方面に表現にも親しいようなので、そうした含意を否定しきることも難しい。実のところ、娯楽的側面と教育的側面の両面戦略を狙っていた可能性も考えられる(※作者自身は下記のように述べているのだが……)。そういう微妙な――そして、個人的にはいささか痛ましくも感じられる――作品だった。たまたま試し買いで読んだ1冊だけで、2冊目以降を買い続ける意欲を持てなかったのは、そういう事情もあった。第二次性徴を巡って描かれている事柄は、確かに大事な問題だし、男性読者(例えば、娘のいる父親)が読んだら、それなりに為になるであろう、教育的-啓蒙的な内容を含んでいるのだが……。
cf. 作者自身のコメント[ https://x.com/kurachidesu/status/1701981381033926884 ]
彩乃浦助『バカ女26時』(既刊1巻)は、三十代女性2人が、諸事情によりベトナムに逃亡して生活するバディもの……になるのかな? 堅実な作画をベースにしつつ、主役たちの情動表現や、程良くエキセントリックな言動などをしっかり描いているし、キャラクターの背景事情に関する謎も示唆しており、とにかく模範的に良く出来ている(が、そういうキャッチーでウェルメイドな上手さが、個人的にはちょっと鼻につく)。最近の沙村広明作品あたりを好きな人ならば、気に入りそうな路線。
園沙那絵『レッドムーダン』(既刊6巻)の、最新刊をたまたま買ってみた。武則天の思春期時代を扱った歴史もので、絵作りには鮮やかな迫力と強靱な魅力があるが、ストーリー面は後宮の女官どうしの陰湿な諍いばかりのようだ。歴史ものとして見ても、この巻では魏徴が登場しているし、妃たちも実在の名前で登場しているようだが、史実ものとしては面白味に欠ける。ジャンル論として言えば、近年流行の後宮ものに属しており、その中でもやや男性向けに寄っているという感じ。ちなみに、グロ要素もそこそこある。
『ラストカルテ』は第9巻発売。ペースが速いなあ……。最新刊では、個性の強い新キャラが登場したが、さっそく上手く馴染んでいる。ストーリー面では、抑制の利いたビターな情趣を丁寧に描いており、なおかつ、(法)獣医学に関わる意欲的なネタも提示している。
だたろう『北欧ふたりぐらし』(既刊3巻)は、スウェーデンに移住した日本人夫婦の物語。異邦体験記ものの一種と言うことができ、現地の生活文化(食生活や季節行事)から、人々との交流、職業活動、言語習得、観光(自然体験)、医療制度など、さまざまなトピックが扱われる。漫画としては無難な出来で、ストーリーはマイルドながら主人公二人の感情の動きをきちんと描いているし、背景作画や料理作画にも説得力がある。
高山しのぶ『花燭の白』(既刊8巻)。作画は闊達自在で、レイアウトも抜群に上手い。ストーリーとしては、特別な「花」の力を持つ主人公女性が、大正時代の都市に潜む強大な鬼(美形男性)からその力を求められる……という、大枠としてはベタなものだが、絵と演出の表現力が傑出しているし、ストーリー展開も複雑かつ多層的な社会性の広がりを持っている。「○○の嫁」ジャンルの作品としては、管見のかぎりトップクラスの水準にある。
「美形の鬼の花嫁になる」「美形の竜の花嫁になる」という体裁の作品は、もちろん昔からの定番ジャンルに属するが、これが現代漫画として――しかも典型的な少女漫画ではなく、青年漫画一般の中で――確立されてきたのは、いつ頃だろうか。「嫁」という古めかしい単語がストレートに用いられるようになったのは森薫『乙嫁語り』(2008年連載開始)、さらに異能の超自然的存在のパートナーになるのはヤマザキコレ『魔法使いの嫁』(2014年開始、「人外×少女」のキャッチコピーで売り出して、発売当時は「異例の大ヒット」になった)、このあたりが大きなマイルストーンだったろうか。それ以降、この種のファンタジー同居恋愛ものが大量に現れてきた。私自身、いくらかは読んでいるが、さすがに食傷している。
4月。
あfろ『ゆるキャン△』はこれまで読んだことも無かったが、新刊(第16巻)を試しに買ってみたら、ずいぶん不思議な作品だった。背景の作画は黒ベタが多くてやたら濃いし、光源表現も異様に細やかで、紙面の迫力に圧倒される。これは何なのだろう。「実写寄り」という一言で片付けてしまうには、空気遠近法などがあまり顧慮されていないし、きつめの変顔表現やキャラクターの言動のエキセントリックさを説明しきれない。イラストレーター的な緻密さなのかと言えばそうでもなく、それらとは異なる素っ気なさがある。脚本面のコミカルさも――芳文社作品だが本作は四コマ漫画ではない――、四コマ風のセンスに立脚しつつも、それをストーリー漫画の中に溶かし込むことで、その笑いのニュアンスをさらに際立たせている。この作者の技法的特長については魚眼作画や広角レンズ風作画がつとに名高いが、それだけでなく、絵作り全体がどこかやけにくっきりした手応えを返してくる。最初に「不思議」と述べたのは、そういう点だ。
また、右側のページ(39頁)でも、頭髪部分は何種類ものトーンとグラデーション処理で立体的に描かれているし、指先のリアリティにもドキッとさせられる。左にいる黒髪キャラについても、制服の布地の皺とそれに沿った影トーンが入念に施されている。一般的な商業漫画の技法では、ベタトーンの上に描線のみで皺を描き込んだり、あるいは、ざっくりしたトーン切り抜きで皺を示唆したりするのが通例であり、本作のようなアプローチはかなり珍しい(類例が無いわけではないが)。
この他にも、髪型の複雑なキャラクターでは、ウェーブに沿った影トーンを掛けて立体感を表しているし(つまり、記号としての髪型表現を超えている)、また、自動車の中にいるときはキャラクターたちの全身にしっかり影を落として暗くしている。これらは、部分的には写実性ベースの臨場感演出と捉えることができるが、それにしても極端に見える。「写実的リアリズム寄りと思われる表現」と、「あからさまな記号的デフォルメ」の双方が併存するこの作品が、リアリズムと記号性をどのように調和させようとしているのか(それとも、調和は放棄されているのか)、さらに言えばキャンプ活動のリアリズムとコメディシーンの突飛さもどのように調停され得るのかについても、ずっと戸惑いながら読んでいた。いずれにしても、コミカルな割に紙面の圧が強いこの作品は、確かに多くの読者に特異な印象を残し続けている破格の作品なのだ――関連コンテンツも含めて長く続いているのは確かに理由があるのだ――ということは納得できた。
SNSで「あいにくあんたのためじゃない」が評価されていたので、興味を持ってweb漫画版の第一エピソード(麺屋編)を読んでみたのだが、表現の方向性がまずいように思う。
同性愛差別やエイジズム/ルッキズム的姿勢の問題性を取り上げているのは良いのだが、そういった迫害者を「40代のもてないフリーランス男性」たった一人に集中させているところ。いわゆるインセル男性(≒日本で言えばネットの反フェミニズム的男性オタクたちに代表される社会集団)の攻撃性が現代の大きな問題の一つであることは確かだが、同性愛差別や家父長制的抑圧(作中でいう「お母さん」ノスタルジー)を主導してきたのは、旧来型の保守勢力やそれと結びついたカルト宗教の方が圧倒的に大きいし、女性差別についても固陋な大企業(経営者)によるガラスの壁の方が致命的だ。そういった社会制度レベルの視点を一切持たないまま、売れないブロガーの鈍感な差別発言のみに帰責するのは、問題を矮小化しすぎている。せめて、彼のブロガーの支持者たちやネットのフォロワーたちなども描写して、問題の広がりを示唆するくらいはできなかったのだろうか(※もちろん、漫画ならではの作劇上の限界もあるだろうし、原作小説では少しだけ描かれてはいるが)。あるいは、70代の傲慢な大企業重役キャラクターとか、50代の軽薄なデマゴーグ政治家キャラクターなどに悪役を担わせることはできなかったのか。
もう一つの問題――より深刻な問題――は、そういった迫害者に対するやり返しが、「各自が有名YTuberや実力派ライターや一流建築家になって、その力を合わせて復讐劇を作り出す」という構成だ。同性愛者が自らのアイデンティティを確立したり、ネットで晒し者にされた人が自らの尊厳を回復したりするには、自己のスキルを磨いて新自由主義的な成功者にならねばならないのか? 自力で社会的成功を獲得できない者は、尊厳を回復することができないままなのか? この作品は、結局のところ、社会的競争における勝者のパワーを肯定する形で終わってしまっているように思うし、その意味で、社会的-思想的な見地ではかなり大きな問題を抱え込んでいる。「成功者による復讐のカタルシス」に共感して快哉を叫んでしまってよいのか?
そういった限界を示す一つの事実は、本作に身体障碍者や非-都市部在住者や外国国籍者が登場していないということだ。第1話では「車椅子対応」「遠方からのファン」への言及はあるものの、物語の主要登場人物にはいない。同性愛者やトランスセクシュアル(Xジェンダー)や家父長制ノスタルジーの被害者が登場するのに、身障者や過疎地住人や外国人労働者が登場しないのは何故だろうか。私見では、それらは新自由主義的成功によっては解決できない性質の問題だからだ。同性愛に対する偏見に対して自らの尊厳を回復することは、(少なくとも漫画の中のドラマとしては)心理的なレベルで解決可能だが、身体的ディスアビリティの問題は心理的な復讐では解決できない。社会制度の改善がどうしても必要になる属性だ。同様に、居住地域が豊かではないという状況や、国籍に基づく制度的不利益の問題も、個人に対する復讐だけではけっして解決できない事柄だ。とりわけ国籍やグローバリズムの問題については、外国人労働者の境遇に目を向けられることは無く、「(裕福な)外国人観光客にも人気のお店」というキラキラな側面として扱われているだけだ。この作品が、それらの問題を不可視化してしまっているのは、本作が「グローバルに通用するネオリベ的勝者による反撃」というモデルに依拠していることにも起因するだろう。
そのことを象徴的に示しているのは、人気YTuberの外見描写だ。原作小説によれば、「すらりとした薄い体型にすべすべの毛穴一つない白い肌、甘い顔立ちにぽきりと折れてしまいそうな細く長い首、髪と目は明るい茶色で、張りのある白いTシャツとブランドものの赤いキャップが目印の人気You Tuber」とのことだが、こういった「若々しくてお金持ち」の価値観に依存する外見評価をそのまま用いることは、本作が目指しているであろう思想的コンセプトとの間に深刻な矛盾を来しているように見える。コスメに金をかけられない者、体型にコンプレックスを抱いている者、高齢者、病人、髪を染め(られ)ない人、ブランド品を買えない人、そういった人々の前にこの描写を出して、はたして作品は説得力を持ちうるのだろうか?
とはいえ、私が読んだのは漫画版の第一エピソードだけだから、今後のエピソードではまた違ってくるのかもしれない。また、本作は、迫害されるマイノリティたちによる協力(連帯)を描いていると言うこともできる。「全方位」を受け入れようという宣言も、作中で明示されている。とはいえその過程で、連帯できるマイノリティたちと、そこに加われないマイノリティ(救われない悪、あるいは折伏され教化されるべき対象としてのインセル男性)という不幸な線引きを露骨に描いてしまっているのだが。連帯に線引きをするのは、きわめて危険だ。それは、一つには連帯の意義を弱めるからでもあるし、もう一つの事情として差別の多面性、多元性があるからだ(つまり、ある側面では差別されるカテゴリーにいる者が、別の問題については差別する側に回るということは、いくらでも起きているが、それでは問題は良くならない)。貧困独身男性の鈍感な差別意識をとっちめて溜飲を下げることは、問題の解決になっているだろうか? また、フィクションの作劇として受け入れられるだろうか?
結局のところ、本作については、
1: 「対立するのはそこじゃない(本当に立ち向かうべき相手はそこじゃない)」、
2: 「連帯に線引きをしてはいけない(新たな差別や分断を生んでしまうだけだ)」、
3: 「社会的競争に勝たなければアイデンティティを回復できないのか(それではいけない)」、
4: 「ネオリベ的発想を作劇のベースにしてしまっている(このようなテーマであれば、ネオリベ的マイノリティ迫害に対して批判的な視点を持つ方が筋が通る筈なのに)」、
と思うので、本作が示した戦略はきわめて危なっかしいものに見える。そして、これら4つの問題要素が絡み合った結果として、さらに:
・「就職氷河期世代の小太り独身貧困男性ばかりを槍玉に挙げる(※抑圧的エスタブリッシュメントの問題から目を背けるどころか、ブランド品を誇ったり既存マスメディアに紹介されることを喜んだりするといったマジョリティ追従の姿勢になっている)」、
・「身体障害者など、自力救済の困難な属性を、作劇および画面から排除してしまう(競争強者になることが難しいマイノリティを、切り捨ててしまっている)」、
という思想上-表現上の欠陥をもたらしている。問題提起それ自体は勇敢で素晴らしいと思うけれど、せっかくこの問題を取り上げているのに、このようなアプローチ、このような解決法で処理してしまってよいのだろうかという強い疑問がある。原作(小説全体)も当たってみて、評価を改めるかもしれないけれど、現時点ではこのように言わざるを得ない。
マイノリティの自立やエンパワーメントを言葉の上で称揚するだけでは、各自の努力による解決(つまり自力救済)を促すだけで、社会体制全体として無責任なままに終わってしまうのだが、そういった大きな視点を取り込むのは、小説や漫画のような物語媒体には難しいのかもしれない。漫画や小説は、個人レベルの情緒的なドラマを描くのには適しているのだが、本作では、「思想的-社会的に追求している筈のテーマ性(社会構造の問題)」と「媒体的事情に由来する情緒的解決(個人レベルでのカタルシス)」との間で齟齬を来しているように見受けられる。
ちなみに漫画表現としては、暖簾を枠線として使う面白さがあったり、縦長コマの緊張感をうまく演出的に使ったりして、しっかりした読み応えがある。それだけに、この空転したカタルシス(空転して失敗しなければならなかった筈のカタルシス)は、あまりにももったいない。
【 オカルト系作品 】
ぬじま『怪異と乙女と神隠し』も、新刊(第7巻)を購入。オカルトものだが、見た目のグロさに頼らず、レイアウト演出やキャラクターの心情のドラマに焦点を当てて構成しているところにオリジナリティがある。
学園日常+魔女要素の仲邑エンジツ『おぼこい魔女はまじわりたい!』は第6巻発売。第5巻を見逃していたので一緒に購入。魔女見習い少女(ヒロイン)の風変わりな言動と、周囲との関わりあいを丁寧に描いているのが楽しい。恋愛要素も多少あるが、マイルドに抑えられている(※ラブコメのような強引さは避けている)。喩えるなら、道満清明をウェットにしたような路線、あるいは植芝理一に近いところに位置づけてもよいだろうか。作者さんは、別名義からの改名ではないかと言われており(※たぶん正しい)、そちらの作品も読んでいてそれなりに面白かったが、こちらの作品でご自身の特質を上手く発揮できるネタを掴まえられたのかなと思う。本作はのんびりした中学生生活をベースにしながら、そこで生まれる様々な感情の面白味を掬い上げており、このまま上手く続いていってくれればと期待している。
永椎晃平『スケアリー・キャンパス・カレッジ・ユニバーシティ』は第8巻で完結した。こちらは大学怪異もの。前巻はストーリー面でも演出面でも力の入った圧巻の出来だったが、最後は散発的なエピソードばかりでパワーダウンした。
オカルトものは、実のところ、あまり好みではないものが多い。どんよりして切れ味の悪いホラーは苦手だし、サイコキャラによるサスペンスものも何種類か読んだら飽きた。おどろおどろしい怪異よりも、豊かなイマジネーションによる斬新で美しい超自然的現象をこそ見たい。上記『神隠し』はオカルト現象のメカニズムを精緻に掘り下げていて知的な風通しの良さがあるし、『スケアリー』も登場人物たちがただ怪異に怯えるのではなく、力強く意志的に行動していくので爽快感がある。ひたすら暗いばかりではなく、陰/陽の抑揚が上手く切り替わっていく作品の方が、私としては付き合いやすい。遡れば楳図かずお作品だって、ただ怪奇現象を押しつけてくるだけではなく、それに対抗しようとする人間たちの強い意志とはっきりした行動が描かれていて、それが恐怖の手触りと劇的なカタルシスを際立たせている。伊藤潤二作品も、おどろおどろしい怪奇物体ばかりではなく、そこに至るストーリーには社会性の広がりがあるし、作画もむしろ明晰ですらある。ホラー作品やオカルト作品こそは、人間をきちんと動かしてほしい。……まあ、それはそれとして、オカルト/ホラーものの漫画は近年増えてきているように思う。ホラー好きにとっては、良い時代になっているのかもしれない。
背川昇『どく・どく・もり・もり』2巻購入。第1巻のときも言及したが、愛らしいキノコ擬人化キャラたちを使いながら、まるで渡世人もののような殺伐とした世界を展開しているのが刺激的。キノコたちの中でも、食用キノコと毒キノコの間で殺し合う対立関係が存在し、最新刊でも血飛沫や遺骸のグロテスクな有様を堂々と描きまくっており――くりかえすが、絵そのものは可愛らしいSD擬人化キャラだ――、その情動表現の激烈さは現代日本のエンタメ漫画としては特筆に値する。kawaii擬人化キャラたちで劇画風の荒々しいドラマを描くというのは、ありそうで無かった新機軸と言えるかもしれない。また、作画についても、アナログ感の漂うペンタッチであり(※ただし、少なくともトーンワークはデジタル化していると思われるが)、紙面全体から感じられる手触りもなかなか個性的だ。
コミティアっぽいなと思ったら、どうやら実際にコミティア参加歴もある漫画家さんのようだ。商業でも複数の連載経験があり、pixivの(おそらくご本人であろう)アカウントを見ると、単眼少女(!)のイラストなどを描いている(そちらの意味でも本格派か……)。
【 マーダーミステリー 】
たな かのか『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』(既刊2巻)。以前に第1巻を読んだところで、原作小説も買って読んでいる。ヨーロッパ童話をモティーフにしたミステリもので、ファンタジー世界ならではのユニークな密室殺人もあれば、サスペンス寄りのエピソードもある。ミステリものの漫画はわりと稀少だし、漫画表現としても面白いところがある(下記引用画像参照)。漫画版の完結まで追っていくつもり。
推理ものの漫画は、超有名タイトルがいくつか存在するが、それ以外の裾野はけっして広いとは言えない。漫画制作しながら新しいトリックを定期的に案出するのは大変だから、どうしてもやむを得ないところではあるのだが。原作と作画が分業している片瀬茶柴『虚構推理』(連載継続中)は素晴らしい出来だし、既存小説を漫画化した清原紘『十角館の殺人』(全5巻)も秀逸で、良い作品は定期的に現れているのだが……。
ガス山タンク『ペンと手錠と事実婚』(原作:椹木伸一、既刊3巻)も推理もの。トリックはいずれも古典的だが、単行本1冊につき2編ほどのショートミステリを続けていくのでテンポが良いし、探偵役を喋れない美少女に設定したのも個性的で良い(※スケッチブックに言葉を書いてコミュケーションするので、必然的に相方キャラがいるべき理由にもなっている)。探偵役をキャラ立ちさせるという観点で見れば、たしかに美少女探偵というのはオタク界らしい正統派のアプローチと言えるだろう。ちなみに、作画はクラシカルな美少女絵だし、シチュエーションもどこかホームドラマめいたレトロ感がある。基本的には、あまり深刻にならない微温的なミステリー&コメディーを志向しているようだ。
爬虫類ショップを舞台にした漫画、鯨川リョウ『秘密のレプタイルズ』は14巻で完結。自由闊達な漫画表現を展開している漫画家さんで、演劇でいう「第四の壁」を破る演出なども堂々と敢行して、いきなり読者に向けて「○○の飼い方」ガイドを始めたりする。作中の恋愛関係も、同性愛や家族的妄執まで様々な形で描かれる(※作者はアダルトコミック分野で男の娘ものやギャルものを描いているクリエイターでもあって、そのあたりのキャパは非常に広い)。
爬虫類飼育については、山本まと『となりの爬虫類』もある(全2巻、ただし私が読んだのは第1巻のみ)。この作者さんは、現在は爬虫類擬人化漫画『きみはかわいいれぷたいる』を連載しているとのこと。さらに佐々木マサヒト『爬虫類ちゃんは懐かない』(全3巻)という作品もあるが、こちらは「飼っているトカゲが全裸少女の姿になってしまった(会話も出来る)」という珍奇なシチュエーションで、これを爬虫類漫画と呼んでよいのかどうかは、いささか躊躇われる。
佐藤二葉『アンナ・コムネナ』(5巻発売)も、次巻で完結すると予告されている。このブログでも以前に紹介したが、凝った歴史ものでもあり、フルカラーの衣装表現を堪能できる美術的な豊かさにも満ちているし、女性のエンパワーメントにつながる志操のある作品でもある。この巻は、東ローマ宮廷の皇位相続闘争を巡る姉弟の対立が顕在化し、かれらの痛ましい心情と決意が描かれている。力作にして傑作。
大久保圭『アルテ』も19巻発売。こちらは近世イタリアの女性画家の物語だが、近刊では周囲に政治的動乱が発生しており、その渦中での人生の転変や大きな決断が描かれている。最新刊(およびその前巻)では、主人公の師匠(男性)の過去エピソードが続いている。キャラクターの内心の動きを言葉で説明してしまうのではなく、何十ページにも亘って状況の推移をじっくりと、そして寡黙に描いていき、そういう描写全体を通じてようやく、キャラクターの心のデリケートな揺らぎを読者が察せられるように示していく。台詞の寡黙さと、情景表現の饒舌さ。優れた漫画家さんだと思う。
田島青『ホテル・インヒューマンズ』(第8巻)は、主人公のバックグラウンドから現在の状況へと物語を進めてきている。
人の死を巡る物語というと、福山リョウコ『聴けない夜は亡い』(既刊3巻)もある。告別式の夜に、近親者からの依頼によってその話を聞くという、一種のサーヴィス業をしている主人公だが、依頼者たちのオムニバス的ストーリーを綴る過程で、主人公自身の過去の記憶への引っかかりも生まれてくる。紙面演出も少女漫画らしく大胆だし、ストーリー展開も読み応えがある。
岩永亮太郎『Pumpkin Scissors(パンプキン・シザーズ)』が、月刊少年マガジンにて連載再開した。4年間の休載は長かったが、思索の深まりと視覚的表現の切れ味は相変わらずで安心した。架空世界を舞台にしつつ、現代(現実世界)の情報化とソーシャルメディア普及に対する問題意識が明晰に表現されている。曰く、「電信の普及とは そんな攻撃手段の配布でもあるのです」。ただフィクションの中の台詞として引き籠もってしまうのでもなく、その一方でベタに現実世界を参照して事足れりとするのでもなく、慎重で繊細な語りを通じて、「作中のドラマとしての迫力」と「読者たちの生きる現実への触発」の双方をしっかり結びつけている。それでいて、単なる台詞だけの進行ではない。剣の切っ先を握りしめ、あるいは膝を折って相手に語りかける。こうした所作の表現に意味を込める手法は、演劇風と言ってよいかもしれない。
涼川りん『アウトサイダーパラダイス』(既刊2巻)。前作『あそびあそばせ』のサブキャラたちが、作者自身の琴線に触れたのか、終盤でメインキャラを押しのけてひたすらディープな関係描写を展開していき、あらためて彼女たちをメインにして本作が開始している。執着的友人関係やホラーキャラの造形はユニークなのだが、漫画としての見せ方(紙面作り)が致命的に退屈になっているのは辛い。いや、買って読んではいるけれど。せっかく面白いキャラクターたちがいるのに、そして台詞回しやシチュエーションも良いのに、とにかく絵作りが平板で、レイアウトも機械的で、なんとも味気ない。もったいない……。いや、ファンとして買い続けて、付き合っていくつもりではあるけれど。
元々、作者の資質としては、ネームとシチュエーションの切れ味が武器なのだと思う。だから、『あそびあそばせ』のように、キャラクターたちが視覚的な面白さを提供してくれれば、ネームの切れ味が生きて大きな魅力を生み出せる。しかし、今回のように、キャラクターたちが棒立ちでひたすら陰々滅々とした会話を続ける状況だと、紙面に生気が灯ってくれない。また、エキセントリックな反社会的人物(特にマッド教員)の凶行を描いても、『あそびあそばせ』ならばシュールギャグの一環として済ませられたが、本作では異様な行為が異様なまま進められてしまい(犯罪的な行為が罰されないまま野放しになっていて)、かといってホラー作品のように振り切れてしまうわけでもなく、何故かそのまま日常シーンが続いていく。作者は好きなキャラを描けて楽しいかもしれないけれど、読者としてはものすごく居心地が悪いままだ。いや、悪くはないし、これはこれで味わいがあるのだが、しかし、どうしてこうなった……。
ちなみに、店頭で同時購入したのが万丈梓『恋する(おとめ)の作り方』第8巻。ムードの落差が激しすぎる……。
漫画というのは不思議なもので、絵の迫力で惹きつければ台詞回しが陳腐でも十分成り立つことがあるし(例えば格闘漫画)、逆に、台詞回しが上手ければ、描き込みが足りなかったりコマ割がイージーだったり首だけ会話だったりしても楽しめる場合がある(例えば蘊蓄披露系の漫画など)。もちろん、それらを兼ね備えていればもっと素晴らしくなるのだが。
山口貴由『劇光仮面』(既刊5巻)。特撮ヒーローの武装をリアリスティックに再現しようとする人々(元大学サークルメンバーたち)の前に、本物の怪人が現れる――怪人たちの成り立ちも、ある程度リアルに再解釈されている――というシチュエーションの作品。
この作者らしくかなり饒舌に、そしてしばしばグロテスクに怪人バトルを描いているが、過去作品と比べると口当たりが良いかもしれない。というのは、本作ではウルトラマンや仮面ライダーといった実在の特撮キャラたち(を明らかに連想させる架空キャラたち)を頻繁に参照しており、そういうネタくささの側面があるおかげで、作品表現に一種の俯瞰的な余裕がもたらされているように思える。
とはいえ、そういった息抜きの余地があるということは、これまでの作品のような異様に暑苦しい切迫感を手放したということでもある。作品全体のトーンが、現在の生き生きしたリアリティではなく、いわば「何か大事なものが、すでに終わってしまった後の、懐古的な悲愴さ」のようなものに従っているのは、ちょっと寂しい。
特撮的といえば、ヨシアキ『雷雷雷』(既刊2巻)も。怪獣が現れた世界で、怪獣因子に寄生された(?)少女主人公と、それを管理しようとする政府機関の物語。特撮風世界のオーソドックスな描写と、とぼけたユーモアセンスの面白味に、ちょっと不思議な読み応えがある。
そういえば、有名な『寄生獣』も、こういう特撮的発想の流れの中にあったのかもしれない。最初に読んだときは、「斬新な作品がいきなり現れた!」と思っていたけど、今にして見れば、『仮面ライダー』や米国映画『E.T.』(1982)などの蓄積の上に成立した作品なのだと思える。
なんでもない若者が、怪物に寄生されて異能のパワーを手に入れるが、それが実社会(現実、日常、公権力)との間で難しい衝突を引き起こしていくというドラマは、80年代以前のSF/オカルト/ジュブナイルに大量の先行作品が存在する。『寄生獣』の特質は、そこから「90年代風のグローバルな環境問題に引きつけて構成したこと」、「異能バトルをただの超能力バトルではなく、一種の知的ゲームのように扱う」、「全体の完成度の高さ」といった点にあるのだろう。
異能の現れを生物学的に(リアリズム的に)再構成しつつ、異能バトルを知的に展開するという手法は、現代異能ものの先駆的アプローチでもあっただろう。例えば、寄生獣どうしが同類の存在を察知できる範囲や条件を確かめて、それを戦術的に利用したりするのは、現代異能バトルの定跡:「異能には発動ルール(制限)があり、相手の異能スキルの隙を突いて勝利する」というパターンと通底している。ちなみに連載期間は1990-1995年だから、同じく異能バトルを知的ゲームとして構築した『幽遊白書』(1990-1994年)や『ジョジョの奇妙な冒険』(第3部が1989年頃から?)とちょうど同じ時期に当たる。