2024/04/01

漫画雑話(2024年4月~)

 漫画雑感。主に単行本新刊について。2024年4月~。




 4月。
 あfろ『ゆるキャン△』はこれまで読んだことも無かったが、新刊(第16巻)を試しに買ってみたら、ずいぶん不思議な作品だった。背景の作画は黒ベタが多くてやたら濃いし、光源表現も異様に細やかで、紙面の迫力に圧倒される。これは何なのだろう。「実写寄り」という一言で片付けてしまうには、空気遠近法などがあまり顧慮されていないし、きつめの変顔表現やキャラクターの言動のエキセントリックさを説明しきれない。イラストレーター的な緻密さかと言えばそうでもなく、それらとは異なる素っ気なさがある。脚本面のコミカルさも――芳文社作品だが本作は四コマ漫画ではない――、四コマ風のセンスに立脚しつつも、それをストーリー漫画の中に溶かし込むことで、その笑いのニュアンスをさらに際立たせている。この作者の技法的特長については魚眼作画や広角レンズ風作画がつとに名高いが、それだけでなく、絵作り全体がどこかやけにくっきりした手応えを返してくる。最初に「不思議」と述べたのは、そういう点だ。

単行本16巻より。引用画像左側(22頁)では、スマホからの光が頭部や布地に当たっている複雑なライティングが、トーンワークで精緻に表現されている。その上のコマでは、木々が黒ベタ+細やかなトーン追加で塗り込められているし、舗装道路もかなり濃いめのグレーで処理されている。
 また、右側のページ(39頁)でも、頭髪部分は何種類ものトーンとグラデーション処理で立体的に描かれているし、指先のリアリティにもドキッとさせられる。左にいる黒髪キャラについても、制服の布地の皺とそれに沿った影トーンが入念に施されている。一般的な商業漫画の技法では、ベタトーンの上に描線のみで皺を描き込んだり、あるいは、ざっくりしたトーン切り抜きで皺を示唆したりするのが通例であり、本作のようなアプローチはかなり珍しい(類例が無いわけではないが)。
 この他にも、髪型の複雑なキャラクターでは、ウェーブに沿った影トーンを掛けて立体感を表しているし(つまり、記号としての髪型表現を超えている)、また、自動車の中にいるときはキャラクターたちの全身にしっかり影を落として暗くしている。これらは、部分的には写実性ベースの臨場感演出と捉えることができるが、それにしても極端に見える。「写実的リアリズム寄りと思われる表現」と、「あからさまな記号的デフォルメ」の双方が併存するこの作品が、リアリズムと記号性をどのように調和させようとしているのか(それとも、調和は放棄されているのか)、さらに言えばキャンプ活動のリアリズムとコメディシーンの突飛さもどのように調停され得るのかについても、ずっと戸惑いながら読んでいた。いずれにしても、コミカルな割に紙面の圧が強いこの作品は、確かに多くの読者に特異な印象を残し続けている破格の作品なのだ――関連コンテンツも含めて長く続いているのは確かに理由があるのだ――ということは納得できた。


 SNSで「あいにくあんたのためじゃない」が評価されていたので、興味を持ってweb漫画版の第一エピソード(麺屋編)を読んでみたのだが、表現の方向性がまずいように思う。
 同性愛差別やエイジズム/ルッキズム的姿勢の問題性を取り上げているのは良いのだが、そういった迫害者を「40代のもてないフリーランス男性」たった一人に集中させているところ。いわゆるインセル男性(≒日本で言えばネットの反フェミニズム的男性オタクたちに代表される社会集団)の攻撃性が現代の大きな問題の一つであることは確かだが、同性愛差別や家父長制的抑圧(作中でいう「お母さん」ノスタルジー)を主導してきたのは、旧来型の保守勢力やそれと結びついたカルト宗教の方が圧倒的に大きいし、女性差別についても固陋な大企業(経営者)によるガラスの壁の方が致命的だ。そういった社会制度レベルの視点を一切持たないまま、売れないブロガーの鈍感な差別発言のみに帰責するのは、問題を矮小化しすぎている。せめて、彼のブロガーの支持者たちやネットのフォロワーたちなども描写して、問題の広がりを示唆するくらいはできなかったのだろうか(※もちろん、漫画ならではの作劇上の限界もあるだろうし、原作小説では少しだけ描かれてはいるが)。あるいは、70代の傲慢な大企業重役キャラクターとか、50代の軽薄なデマゴーグ政治家キャラクターなどに悪役を担わせることはできなかったのか。
 もう一つの問題――より深刻な問題――は、そういった迫害者に対するやり返しが、「各自が有名YTuberや実力派ライターや一流建築家になって、その力を合わせて復讐劇を作り出す」という構成だ。同性愛者が自らのアイデンティティを確立したり、ネットで晒し者にされた人が自らの尊厳を回復したりするには、自己のスキルを磨いて新自由主義的な成功者にならねばならないのか? 自力で社会的成功を獲得できない者は、尊厳を回復することができないままなのか? この作品は、結局のところ、社会的競争における勝者のパワーを肯定する形で終わってしまっているように思うし、その意味で、社会的-思想的な見地ではかなり大きな問題を抱え込んでいる。「成功者による復讐のカタルシス」に共感して快哉を叫んでしまってよいのか?
 そういった限界を示す一つの事実は、本作に身体障碍者や非-都市部在住者や外国国籍者が登場していないということだ。第1話では「車椅子対応」「遠方からのファン」への言及はあるものの、物語の主要登場人物にはいない。同性愛者やトランスセクシュアル(Xジェンダー)や家父長制ノスタルジーの被害者が登場するのに、身障者や過疎地住人や外国人労働者が登場しないのは何故だろうか。私見では、それらは新自由主義的成功によっては解決できない性質の問題だからだ。同性愛に対する偏見に対して自らの尊厳を回復することは、(少なくとも漫画の中のドラマとしては)心理的なレベルで解決可能だが、身体的ディスアビリティの問題は心理的な復讐では解決できない。社会制度の改善がどうしても必要になる属性だ。同様に、居住地域が豊かではないという状況や、国籍に基づく制度的不利益の問題も、個人に対する復讐だけではけっして解決できない事柄だ。とりわけ国籍やグローバリズムの問題については、外国人労働者の境遇に目を向けられることは無く、「(裕福な)外国人観光客にも人気のお店」というキラキラな側面として扱われているだけだ。この作品が、それらの問題を不可視化してしまっているのは、本作が「グローバルに通用するネオリベ的勝者による反撃」というモデルに依拠していることにも起因するだろう。
 そのことを象徴的に示しているのは、人気YTuberの外見描写だ。原作小説によれば、「すらりとした薄い体型にすべすべの毛穴一つない白い肌、甘い顔立ちにぽきりと折れてしまいそうな細く長い首、髪と目は明るい茶色で、張りのある白いTシャツとブランドものの赤いキャップが目印の人気You Tuber」とのことだが、こういった「若々しくてお金持ち」の価値観に依存する外見評価をそのまま用いることは、本作が目指しているであろう思想的コンセプトとの間に深刻な矛盾を来しているように見える。コスメに金をかけられない者、体型にコンプレックスを抱いている者、高齢者、病人、髪を染め(られ)ない人、ブランド品を買えない人、そういった人々の前にこの描写を出して、はたして作品は説得力を持ちうるのだろうか?
 とはいえ、私が読んだのは漫画版の第一エピソードだけだから、今後のエピソードではまた違ってくるのかもしれない。また、本作は、迫害されるマイノリティたちによる協力(連帯)を描いていると言うこともできる。「全方位」を受け入れようという宣言も、作中で明示されている。とはいえその過程で、連帯できるマイノリティたちと、そこに加われないマイノリティ(救われない悪、あるいは折伏され教化されるべき対象としてのインセル男性)という不幸な線引きを露骨に描いてしまっているのだが。連帯に線引きをするのは、きわめて危険だ。それは、一つには連帯の意義を弱めるからでもあるし、もう一つの事情として差別の多面性、多元性があるからだ(つまり、ある側面では差別されるカテゴリーにいる者が、別の問題については差別する側に回るということは、いくらでも起きているが、それでは問題は良くならない)。貧困独身男性の鈍感な差別意識をとっちめて溜飲を下げることは、問題の解決になっているだろうか? また、フィクションの作劇として受け入れられるだろうか?
 結局のところ、本作については、
1: 「対立するのはそこじゃない(本当に立ち向かうべき相手はそこじゃない)」、
2: 「連帯に線引きをしてはいけない(新たな差別や分断を生んでしまうだけだ)」、
3: 「社会的競争に勝たなければアイデンティティを回復できないのか(それではいけない)」、
4: 「ネオリベ的発想を作劇のベースにしてしまっている(このようなテーマであれば、ネオリベ的マイノリティ迫害に対して批判的な視点を持つ方が筋が通る筈なのに)」、
と思うので、本作が示した戦略はきわめて危なっかしいものに見える。そして、これら4つの問題要素が絡み合った結果として、さらに:
・「就職氷河期世代の小太り独身貧困男性ばかりを槍玉に挙げる(※抑圧的エスタブリッシュメントの問題から目を背けるどころか、ブランド品を誇ったり既存マスメディアに紹介されることを喜んだりするといったマジョリティ追従の姿勢になっている)」、
・「身体障害者など、自力救済の困難な属性を、作劇および画面から排除してしまう(競争強者になることが難しいマイノリティを、切り捨ててしまっている)」、
という思想上-表現上の欠陥をもたらしている。問題提起それ自体は勇敢で素晴らしいと思うけれど、せっかくこの問題を取り上げているのに、このようなアプローチ、このような解決法で処理してしまってよいのだろうかという強い疑問がある。原作(小説全体)も当たってみて、評価を改めるかもしれないけれど、現時点ではこのように言わざるを得ない。
 マイノリティの自立やエンパワーメントを言葉の上で称揚するだけでは、各自の努力による解決(つまり自力救済)を促すだけで、社会体制全体として無責任なままに終わってしまうのだが、そういった大きな視点を取り込むのは、小説や漫画のような物語媒体には難しいのかもしれない。漫画や小説は、個人レベルの情緒的なドラマを描くのには適しているのだが、本作では、「思想的-社会的に追求している筈のテーマ性(社会構造の問題)」と「媒体的事情に由来する情緒的解決(個人レベルでのカタルシス)」との間で齟齬を来しているように見受けられる。
 ちなみに漫画表現としては、暖簾を枠線として使う面白さがあったり、縦長コマの緊張感をうまく演出的に使ったりして、しっかりした読み応えがある。それだけに、この空転したカタルシス(空転して失敗しなければならなかった筈のカタルシス)は、あまりにももったいない。


 【 オカルト系作品 】
 ぬじま『怪異と乙女と神隠し』も、新刊(第7巻)を購入。オカルトものだが、見た目のグロさに頼らず、レイアウト演出やキャラクターの心情のドラマに焦点を当てて構成しているところにオリジナリティがある。
 学園日常+魔女要素の仲邑エンジツ『おぼこい魔女はまじわりたい!』は第6巻発売。第5巻を見逃していたので一緒に購入。魔女見習い少女(ヒロイン)の風変わりな言動と、周囲との関わりあいを丁寧に描いているのが楽しい。恋愛要素も多少あるが、マイルドに抑えられている(※ラブコメのような強引さは避けている)。喩えるなら、道満清明をウェットにしたような路線、あるいは植芝理一に近いところに位置づけてもよいだろうか。作者さんは、別名義からの改名ではないかと言われており(※たぶん正しい)、そちらの作品も読んでいてそれなりに面白かったが、こちらの作品でご自身の特質を上手く発揮できるネタを掴まえられたのかなと思う。本作はのんびりした中学生生活をベースにしながら、そこで生まれる様々な感情の面白味を掬い上げており、このまま上手く続いていってくれればと期待している。
 永椎晃平『スケアリー・キャンパス・カレッジ・ユニバーシティ』は第8巻で完結した。こちらは大学怪異もの。前巻はストーリー面でも演出面でも力の入った圧巻の出来だったが、最後は散発的なエピソードばかりでパワーダウンした。
 オカルトものは、実のところ、あまり好みではないものが多い。どんよりして切れ味の悪いホラーは苦手だし、サイコキャラによるサスペンスものも何種類か読んだら飽きた。おどろおどろしい怪異よりも、豊かなイマジネーションによる斬新で美しい超自然的現象をこそ見たい。上記『神隠し』はオカルト現象のメカニズムを精緻に掘り下げていて知的な風通しの良さがあるし、『スケアリー』も登場人物たちがただ怪異に怯えるのではなく、力強く意志的に行動していくので爽快感がある。ひたすら暗いばかりではなく、陰/陽の抑揚が上手く切り替わっていく作品の方が、私としては付き合いやすい。遡れば楳図かずお作品だって、ただ怪奇現象を押しつけてくるだけではなく、それに対抗しようとする人間たちの強い意志とはっきりした行動が描かれていて、それが恐怖の手触りと劇的なカタルシスを際立たせている。伊藤潤二作品も、おどろおどろしい怪奇物体ばかりではなく、そこに至るストーリーには社会性の広がりがあるし、作画もむしろ明晰ですらある。ホラー作品やオカルト作品こそは、人間をきちんと動かしてほしい。……まあ、それはそれとして、オカルト/ホラーものの漫画は近年増えてきているように思う。ホラー好きにとっては、良い時代になっているのかもしれない。


 背川昇『どく・どく・もり・もり』2巻購入。第1巻のときも言及したが、愛らしいキノコ擬人化キャラたちを使いながら、まるで渡世人もののような殺伐とした世界を展開しているのが刺激的。キノコたちの中でも、食用キノコと毒キノコの間で殺し合う対立関係が存在し、最新刊でも血飛沫や遺骸のグロテスクな有様を堂々と描きまくっており――くりかえすが、絵そのものは可愛らしいSD擬人化キャラだ――、その情動表現の激烈さは現代日本のエンタメ漫画としては特筆に値する。kawaii擬人化キャラたちで劇画風の荒々しいドラマを描くというのは、ありそうで無かった新機軸と言えるかもしれない。また、作画についても、アナログ感の漂うペンタッチであり(※ただし、少なくともトーンワークはデジタル化していると思われるが)、紙面全体から感じられる手触りもなかなか個性的だ。
 コミティアっぽいなと思ったら、どうやら実際にコミティア参加歴もある漫画家さんのようだ。商業でも複数の連載経験があり、pixivの(おそらくご本人であろう)アカウントを見ると、単眼少女(!)のイラストなどを描いている(そちらの意味でも本格派か……)。

 たな かのか『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』(既刊2巻)。以前に第1巻を読んだところで、原作小説も買って読んでいる。ヨーロッパ童話をモティーフにしたミステリもので、ファンタジー世界ならではのユニークな密室殺人もあれば、サスペンス寄りのエピソードもある。ミステリものの漫画はわりと稀少だし、漫画表現としても面白いところがある(下記引用画像参照)。漫画版の完結まで追っていくつもり。

『赤ずきん~』2巻39頁より。ここの馬の置き方が、なかなか凄い。1コマ目から、2~3コマ目では外出していくのだが、「場面転換して馬で移動中だよ」(画面上部)→「乗っているのは官吏と少年だよ」(画面下部)という理解の順序に沿って、馬の描写を切り分けて上下逆転にレイアウトしている。非常に大胆な見せ方で、よく見るとびっくりするのだが、普通に読んでいくぶんにはサラリと読み進められるだろう。著者「たな かのか」氏は、以前の作品でも、熟慮した意欲的なコンテを構築しておられるようだ。

 推理ものの漫画は、超有名タイトルがいくつか存在するが、それ以外の裾野はけっして広いとは言えない。漫画制作しながら新しいトリックを定期的に案出するのは大変だから、どうしてもやむを得ないところではあるのだが。原作と作画が分業している『虚構推理』[連載継続中]は素晴らしい出来だし、既存小説を漫画化した『十角館の殺人』[全5巻]も秀逸で、良い作品は定期的に現れているのだが……。
 ガス山タンク『ペンと手錠と事実婚』(原作:椹木伸一、既刊3巻)も推理もの。トリックはいずれも古典的だが、単行本1冊につき2編ほどのショートミステリを続けていくのでテンポが良いし、探偵役を喋れない美少女に設定したのもユニーク(※スケッチブックに言葉を書いてコミュケーションする)。探偵役をキャラ立ちさせるという観点で見れば、たしかに美少女探偵というのはオタク界らしい正統派のアプローチと言えるだろう。ちなみに、作画はクラシカルな美少女絵だし、シチュエーションもどこかホームドラマめいたレトロ感がある。基本的には、あまり深刻にならない微温的なミステリー&コメディーを志向している。


 爬虫類ショップを舞台にした漫画、鯨川リョウ『秘密のレプタイルズ』は14巻で完結。自由闊達な漫画表現を展開している漫画家さんで、演劇でいう「第四の壁」を破る演出なども堂々と敢行して、いきなり読者に向けて「○○の飼い方」ガイドを始めたりする。作中の恋愛関係も、同性愛や家族的妄執まで様々な形で描かれる(※作者はアダルトコミック分野で男の娘ものやギャルものを描いているクリエイターでもあって、そのあたりのキャパは非常に広い)。

 佐藤二葉『アンナ・コムネナ』(5巻発売)も、次巻で完結すると予告されている。このブログでも以前に紹介したが、凝った歴史ものでもあり、フルカラーの衣装表現を堪能できる美術的な豊かさにも満ちているし、女性のエンパワーメントにつながる志操のある作品でもある。力作にして傑作
 大久保圭『アルテ』も19巻発売。こちらは近世イタリアの女性画家の物語だが、近刊では周囲に政治的動乱が発生しており、その渦中での人生の転変や大きな決断が描かれている。最新刊(およびその前巻)では、主人公の師匠(男性)の過去エピソードが続いている。キャラクターの内心の動きを言葉で説明してしまうのではなく、何十ページにも亘って状況の推移をじっくりと、そして寡黙に描いていき、そういう描写全体を通じてようやく、キャラクターの心のデリケートな揺らぎを読者が察せられるように示していく。台詞の寡黙さと、情景の饒舌さ。優れた漫画家さんだと思う。

 田島青『ホテル・インヒューマンズ』(第8巻)は、主人公のバックグラウンドから現在の状況へと物語を進めてきている。

 岩永亮太郎『Pumpkin Scissors(パンプキン・シザーズ)』が、月刊少年マガジンにて連載再開した。4年間の休載は長かったが、思索の深まりと視覚的表現の切れ味は相変わらずで安心した。架空世界を舞台にしつつ、現代(現実世界)の情報化とソーシャルメディア普及に対する問題意識が明晰に表現されている。曰く、「電信の普及とは そんな攻撃手段の配布でもあるのです」。ただフィクションの中の台詞として引き籠もってしまうのでもなく、その一方でベタに現実世界を参照して事足れりとするのでもなく、慎重で繊細な語りを通じて、「作中のドラマとしての迫力」と「読者たちの生きる現実への触発」の双方をしっかり結びつけている。それでいて、単なる台詞だけの進行ではない。剣の切っ先を握りしめ、あるいは膝を折って相手に語りかける。こうした所作の表現に意味を込める手法は、演劇風と言ってよいかもしれない。

 涼川りん『アウトサイダーパラダイス』(既刊2巻)。前作『あそびあそばせ』のサブキャラたちが、作者自身の琴線に触れたのか、終盤でメインキャラを押しのけてひたすらディープな関係描写を展開していき、あらためて彼女たちをメインにして本作が開始している。執着的友人関係やホラーキャラの造形はユニークなのだが、漫画としての見せ方(紙面作り)が致命的に退屈になっているのは辛い。いや、買って読んではいるけれど。せっかく面白いキャラクターたちがいるのに、そして台詞回しやシチュエーションも良いのに、とにかく絵作りが平板で、レイアウトも機械的で、なんとも味気ない。もったいない……。いや、ファンとして買い続けて、付き合っていくつもりではあるけれど。
 元々、作者の資質としては、ネームとシチュエーションの切れ味が武器なのだと思う。だから、『あそびあそばせ』のように、キャラクターたちが視覚的な面白さを提供してくれれば、ネームの切れ味が生きて大きな魅力を生み出せる。しかし、今回のように、キャラクターたちが棒立ちでひたすら陰々滅々とした会話を続ける状況だと、紙面に生気が灯ってくれない。また、エキセントリックな反社会的人物(特にマッド教員)の凶行を描いても、『あそびあそばせ』ならばシュールギャグの一環として済ませられたが、本作では異様な行為が異様なまま進められてしまい(犯罪的な行為が罰されないまま野放しになっていて)、かといってホラー作品のように振り切れてしまうわけでもなく、何故かそのまま日常シーンが続いていく。作者は好きなキャラを描けて楽しいかもしれないけれど、読者としてはものすごく居心地が悪いままだ。いや、悪くはないし、これはこれで味わいがあるのだが、しかし、どうしてこうなった……。
 ちなみに、店頭で同時購入したのが『恋する(おとめ)の作り方』8巻。ムードの落差が激しすぎる……。

 漫画というのは不思議なもので、絵の迫力で惹きつければ台詞回しが陳腐でも十分成り立つことがあるし(例えば格闘漫画)、逆に、台詞回しが上手ければ、描き込みが足りなかったりコマ割がイージーだったり首だけ会話だったりしても楽しめる場合がある(例えば蘊蓄披露系の漫画など)。もちろん、それらを兼ね備えていればもっと素晴らしくなるのだが。

 山口貴由『劇光仮面』(既刊5巻)。特撮ヒーローの武装をリアリスティックに再現しようとする人々(元大学サークルメンバーたち)の前に、本物の怪人が現れる(こちらも、その成り立ちをある程度リアルに再解釈されている)というシチュエーションの作品。
 この作者らしくかなり饒舌に、そしてしばしばグロテスクに怪人バトルを描いているが、過去作品と比べると口当たりが良いかもしれない。というのは、本作ではウルトラマンや仮面ライダーといった実在の特撮キャラたち(を明らかに連想させる架空キャラたち)を頻繁に参照しており、そういうネタくささの側面があるおかげで、作品表現に一種の俯瞰的な余裕がもたらされているように思える。
 とはいえ、そういった息抜きの余地があるということは、これまでの作品のような異様に暑苦しい切迫感を手放したということでもある。作品全体のトーンが、現在の生き生きしたリアリティではなく、いわば「何か大事なものが、すでに終わってしまった後の、懐古的な悲愴さ」のようなものに従っているのは、ちょっと寂しい。