2024年4月~5月の雑記。
05/26(Sun)
立体化と再現性。立体化については、再現性を重視したい派。レゴのような「見立て」路線は、ぎこちなく見えて、あまり好みではない。 同様に、フェルト素材で頭髪表現がペラペラなキャラクターぬいぐるみにも、あまり興味を持てない。イラストのデフォルメならば、そういうものとして受け止められるのだけど……。
しかし、レゴはレゴで、ユニークなアプローチであることは確かだ。規格化されたパーツ群だけから様々な立体物を構成していくのは、制約の下での創造性という特質がある。その意味では、一般的なデフォルメとはかなり異なる文化的価値を持っていると言ってよいだろう。
デフォルメといえば「ねんどろいど」が有名だが、元キャラの身長やプロポーションを無視してすべて同じ型に嵌めてしまうので、もどかしく思うことはある。もちろん、程良く整った規格はキャラクター表現として優秀だし、互換性確保(例えばフェイスパーツを差し替えられる)による遊びもあって、大きな意義と楽しさがあることも分かるのだけど。
ただし、理念レベルでは、単なる再現性(忠実性)にはあまり重きを置いていない。大雑把に言えば、「独自性のある表現 > 個性的なデフォルメ > リアリスティックな再現性 > 定型的なデフォルメ > マテリアル感の強い見立て」くらいの感じだろうか。ミニチュアハウスのように、質感や緻密さと造形的独自性を両立させている分野は、私の嗜好に合致しそうなのだが、そちらにはまだ手を出していない。
再現性について言うと、ガールプラモのフェイスパーツは、パッケージアートの表情をちゃんと入れていてほしい。ガールプラモはキャラクターグッズなのだし、店頭で購入検討するときはパッケージに描かれているキャラの魅力に惹かれることも多いので。
とはいえ、建前としては、模型商品のパッケージアートは「イメージ図」にすぎず、本体(本物)に当たるのはあくまでプラモデルそのものだ。また、もしもパッケージアート再現を必須にしてしまったら、「表情確定や納期などの工程を圧迫してしまう」、「パッケージアートの方が(フェイスパーツを作りやすいものに)制約されてしまう」といった問題も生じるだろう。だから、パッケージアートの表情再現にはあまり拘らないという現状の対処が、おそらくベターな解決なのだろうとは理解している。例えば、見返り美人構図のパッケージアートは非常にクールだが、もしもそれをフェイスパーツで再現したら、真横向きの両目になってしまい、汎用性に乏しくて扱いづらいフェイス差分になってしまうだろう。
……でも、『VFG カイロス(SP)』のパッケージアートの楽しそうな表情は、フェイスパーツに是非欲しかったよねえ!(また言ってる)
若き人格形成期に接したコンテンツやその価値観に縛られ続けるというのは、私の場合は、あんまり無いかな。様々なコンテンツを摂取していく中で、それぞれがその都度相対化され、新たな全体展望の中に位置づけられ、位置を変えていく。
自分とは異なる思考形態を知るのも好きだ。作品に対する新たな視点、分野についての新たなアプローチ。そういうものに触れていくことで、私の意識や私の趣味は、常に新鮮な生命力を保持していける。言い換えれば、マンネリこそは私が最も嫌うものだ。定番の楽しみを繰り返すのは、それはそれで実際とても楽しいのだが、それだけに安住することは、かえって飽きを促進し、安住の楽しみを短くしてしまう。新たな作品を多面的に評価し、そこに新たな価値を見出していくことによって、私の人生はもっと豊かになっていく(※SNSでの政治的発言に関しても同様だ。社会正義の原則について、同じ意見を持つ人々を応援したくはある。しかし、それ一色に染めてしまうことは避けたい。意見が同じものばかりになってしまうこと、仲間たちだけの空間になってしまうことに、私はいつも強い警戒を覚えてきた)。
とはいえ、特定の趣味にハマるきっかけになった作品が、個人にとってとりわけ輝かしいものであり続けるということは、あり得る。それは、「人格形成や価値観形成そのものの基盤になってしまうから」という内的事情による場合もあり、はたまた、「特別に優れた作品だからこそ、人をその分野にのめり込ませるだけの力があったのだ」という客観的性質による場合もあるだろう。そして、自分が特別に素晴らしいと思う初発のコンテンツが、はたしてどちらであったのかは、常に自省していきたい。例えば、思春期以来ずっと好きなコンテンツの価値が、単なるインプリンティングなのか、それとも、良いタイミングで優れた作品に出会えたラッキーだったのかを。
というか、私自身は、「十代の頃からずっと特別に好き」というようなコンテンツはあまり持っていない。昔のアニメには(優れたものもあるが)限界もあるし、当時読んでいた作家も、文学史や批評理論の蓄積の中で相対化されていった。クラシックは高校生くらいからずっと親しんでいるが、よく聴く領域(作曲家や編成)は、いろいろ変遷してきた。
ただし、ここ数年の趣味生活は安定期で、あまり劇的な変化は生じていない。新しいジャンルの音楽を聴いたり、新しいジャンルの模型を作ったり、Vtuberをたまに視聴したりといった進展はあるが、いずれもドラスティックな変化というわけではない。そもそも、インドア系/オタク系の趣味はそれなりに渉猟してきたので、有望そうなフロンティアはあまり残っていない。
TCGは私の性格からして無理だろうし、ドールに本格的にハマるのは避けたいし、ボードゲーム(囲碁将棋等)やガーデニングは以前に多少やって気が済んだし、料理に熱中することも無さそうだ。生活環境が許せば、ペット(爬虫類とか)に手を出す可能性は高いが、今のところは条件を満たせずにいる。
室内は28度に達しており、湿気もあって心身がうだる。例年、だいたい5月末に冷房起動しているし(※5月上旬だった年や、6月以降だった年もある)、そろそろかな。あるいは、髪を短くしてくるだけでも、かなり楽になるかもしれないが。
ガールプラモの重武装盛り付けの土台キャラとしては、FAG「グライフェン」と「アーキテクト」が代表的存在だったが、今後はBD「タンク」もその列に加わりそうな様子。雑誌作例も含めると、三者とも巨大メカ腕を装着しているし。
ただし、私としては、BDシリーズは一種類買ったらもういいかなという気分。BD「ナイト」を買っているが……素体だけは可愛いけれど、ずり下がりスカートが不気味だし(※しかし誰も不平を言わなくなったね)、穴ボコだらけの武装デザインはガールプラモ史上最もダサいとすら思う。
「タンク」は、以前も書いたように、頭部が妙に大きくて幼児的なプロポーションなのに、髪型や表情は大人びているというギャップが苦手(※下に重たいロングボブの髪型も、それを助長している)。もっとも、「それが良いんだ」という人もいるだろうし、大きな武装脚部に差し替えた状態でのバランスを優先したという捉え方もできるかもしれない。あるいは、頭部だけを中国メーカーのスレンダー素体に乗せ替えたら、劇的に魅力を増しそうだ。武装パーツがメタルブラック(?)なのも、穴ボコ過剰を目立たなくさせるのに奏功している。
ただし、今回の「タンク」は、ガール素体としてのタンク自身が盛り付けのコアであるべき必然性は無い。あくまで外装のセットを伴っているだけだからだ。それに対してグライフェンとアーキテクトは、素体の四肢に接続穴が多数設けられているし、とりわけグライフェンは、「重武装を受け止められるくらいの、肉付きの良いボディ(プロポーション)とディテールを備えていること」、「外装パーツも含めて、デザインとしての統一感があること」という要素がある。だから、盛り付けの芯として、機能的にも視覚的にも十分有用だ。しかし今回のタンクは、素体それ自体はBuster Dollシリーズの汎用ボディのままで、いくらでも替えが利くし、プロポーションもごく普通のスリムボディだし顔立ちも上品なので、重武装向きの設計であるとは言いがたい。あくまでキット同梱のパーツ群の構成に、盛り付けのポテンシャルがあるに過ぎないように見受けられる。
MDシリーズ全体として見ると、各系統のデザイン路線は、
・WISM=スターウォーズ的なSF&ミリタリー路線
・SOL=近未来バトルキャラ(レトロゲーム風の空戦/陸戦キャラ)
・朱羅=和風モティーフの戦闘キャラ(忍者/弓兵)
・CP=魔法少女モティーフ →童話モティーフ
・BK=西洋風のヒロイックなメカ武装キャラ(?) →西洋風ジョブモティーフ(除霊師など)
・皇巫=和風の超能力キャラ(神話モティーフ。炎使いなど)
・BD=近代的武装+ゲーム的ジョブ(ガンナー、ナイトなど)
メカ武装盛り付けの観点では、WISMはすっきりしすぎだし、SOLやBKも拡張性に乏しい。構造面では、CP(の派生キット)がかなり拡張性を重視しているが、メカメカした感じではない。ということで、今回のタンクは、ありそうで無かった路線だと言うことができる。重武装盛り付けモデラーにとってはありがたい存在になっていくのかもしれない。
ちなみに、キット構成そのものとして大型アームを装備しているガールプラモは、FAG「アーキテクト」(無印)と「グライフェン」のほか、FIOREの「ヴィオラ」「ローレル」系統(背面からメカ腕)、30MS「シアナ=アマルシア」(ただしサメ型)、MODEROID「パワーローダー」、それから海外メーカーだとEastern Model「白虎」「フェンリル」、SUYATA「アルテミス」くらいかな(※限定販売品や事後的なセット販売を除く)。
大型といっても程度はまちまちなので、線引きは難しい。「ジ・バニャン コザクラツグミ」(肉球ハンド)や、FIOREの「ドラセナ」(長爪ハンド)と「ルピナス」(メカ腕差し替え)、「MDストラーフ」(背面から細めのメカ腕)、それから発売予定の「マオ」「トゥ」(肉球ハンド)なども、大きめの掌ではある。
この4月から食費を節約してみた。といっても、非効率な買い食いを減らして自炊を増やし、お菓子もあまり買わないようにしたというだけで、栄養バランスなどのクオリティはひとまず維持している。しかしこれだけでも、昨年度の水準と比べて、月1.5万円ほどの節約になりそうだ。元々、食生活(食の楽しみ)にはあまり興味が無くて、毎日同じ食事でも問題無いくらいなので、QOLもほとんど損なわれていないし、料理時間などの皺寄せもほとんど生じていない。さしあたりは、こんな感じでよいだろうか。
以前の私は、自分がどんな本を読んでいるかなどは、他人に言いたくなかった(知られたくなかった)。書籍以外でも、どんなゲームをプレイしているかは、今でも基本的には言及しない。音楽についても、SNSでNow playing投稿をするのは嫌だ(※一度試してみたが、とても継続する気分にはなれなかった)。模型についても、制作中のあれこれを零すのは好みではなくて、完成させた後で適当な時にしれっと写真を出すくらいがちょうど良い。だが、最近になって漫画雑記やアニメ感想を始めてみたところ、まあ、これはこれで、ごく限られた範囲であれば、私でもなんとかやれるかなという感触が得られた。ちょっと不思議な気分。
とはいえ、漫画については、一般的な意味での感想や読書メモではなく、短めの作品評または作家論的展望のようなアプローチだ。アニメ分野についても、極々限られたタイトルについて、原作との比較精読というスタイルを採ることでようやく成立しているにすぎない。ゲームについても、ブランドごとの作品史や技術的パースペクティヴで、以前からほんのいくつかのメーカーについて書いてきた。だから、結局のところ、個人的な感想吐露が苦手というのは昔からほとんど変わっていないのだが、それでも、何かしら定期的なアウトプットをしていける道筋を掴まえられたのは良しとしよう。
このような変化が生まれたきっかけは、昨年のアニメ版『のんびり農家』だったのかな。各話感想を続けていけるという手応えが、あの経験を通じて獲得できたことに、ひそかに感謝している。
IJN高雄型は、Aoshimaでは1/350摩耶と1/700の摩耶&愛宕、Fujimiは1/700摩耶(2隻)と鳥海、そしてPit-Roadの高雄&摩耶を作ってきた。今回のAoshima新版「高雄」も、せっかくだから作ってみようかな。本体は旧来と同じだろうけど、装備品パーツがハイディテールに一新されたとのことだから、リーズナブルに見栄えの良いキットを楽しめる筈。
高雄型巡洋艦のプラモは、
・Aoshimaキットは作りがシンプルで、ディテールがあっさりしているが、シルエットはきれいなので、細部に手を加えてやればグッと良くなる。パーツ構成も簡素なので、組み立てもかなり簡単。
・Fujimiは、ディテール再現を頑張っているし、スライド金型によるパーツ一体化なども推し進めているが、成形がダルなのであまり洗練されない。専用エッチングが出ているのはありがたい。
・Pit-Roadは、あまり似ていないと言われるし、パーツ構成もちょっと特殊だが、機銃などの装備品は精緻に出来ているし、。作ってみれば見応えはある。
モデラーの間での一般的な評価は、おおむねこういう結論になっているようだ。
以前のMG「リ・ガズィ」(2001年発売)は、大味だと言われていたが、変形機構はちゃんとしていたし、背負いものも含めたボリュームはかなりの充実感があったし、カラーリングがちゃちなのは原作設定からして仕方ないし、アンテナもたしか軟質素材で、折れにくいように配慮されていた。
現代アニメの水準を見るために、最近の作品を見て回っているのだが、2期/3期と続いているような有名タイトルですら、ダルいレイアウトや、説明過剰の詰め込み台本、感情の見えてこない声優芝居、もっさりしたアニメーション、テンポの悪い進行が散見される。うーん、2020年代半ばの現在でも、普通のアニメはこんなものなのか。
この中で見れば、たしかに『第七』も、平均を上回る評価になるのは分かる(嬉しくはないが)。演出上おかしなところもあるが、一目見て「すごい」と感じさせるような派手なシーンが多いし、着彩についても光源表現などで凝ったところがある。うーん、なるほど、そういうものかなあ。
個人的に高く評価するのは、レイアウトの美しさや色彩設計による雰囲気作りといった、映像としての美術的な洗練のある作品(※背景をただ描き込むことではない)や、生き生きしたリズムのあるコンテ進行と力強い声優芝居の相乗効果を享受できるような作品なのだが、もちろんそういう側面は、クール制アニメではなかなか難しい。難しいからこそ、それらを見事に実現してくれている作品に大きく賛嘆してきたし、2010年代にはそういった作品がもっと多かったのだが……。
05/18(Sat)
今年度はひとまず順調だが、趣味生活はマンネリ傾向も現れているのでなんとかしたい。具体的には、ゲームと模型はやりたいものをひとまず消化し終えて、今後の展望が見えにくくなっている。漫画も、続刊ものを比率が上がって、新規開拓があまり広がっていない(いや、いろいろ買ってはいるのだが)。映画のDVD/BDが溜まっているので、定期的に視聴していって気分転換を試みたい。
以前の攻略サイトの記事群やtwitterで書いていた文章をこちらに取り込むのも、長らくサボったままなので、ちょっとずつでも作業していきたい。……とはいえ、十年以上昔に書いたものもあるので、再読は自分でもきついのだが。
chitoceriumの新作は、ついに1番目の水素が来た(hydrogen → hydra[ヒドラ])。しかし、このシリーズに金ピカ要素を堂々と出してきたのは意外だ。前作「urania」にも金の王冠があったけど、そちらはあくまで控えめな色合いだったし……。シリーズ全体としても、彩度低め、色数少なめのシックな路線を徹底していたので、今回のは本当に意外。一緒に並べたら、このキャラだけキラキラで浮いてしまうのでは……。
Aoshimaの「けもプラ」は買うつもり。私自身、昔からケモキャラ好きなので。しかし、キャッチコピーの「自分好みのケモノをカスタマイズ」というのは、なにやら冒瀆的な香りが……。
現時点で公開されているキャラデザを見るかぎりでは、「鼻筋は尖っていないものもある」+「人間的な着衣あり」だが、同時に「皮膚が真っ白だったり、明確に体毛で覆われていたりする」+「瞳孔が縦長で、明らかに異種族」+「人間の外耳にあたる部分も、突き出た体毛(?)で絶妙に解消されている」という要素もあるというのが、かなり面白いバランス。本格派ケモナー側が、ぎりぎり妥協できる限界まで降りてきていると言うこともできるし、言い換えれば、本格派ケモナーへ堕とす最高の罠ステップアップするのに最適の入門になるかもしれない。
chitoceriumなのか、chitoceliumなのかで、よく迷う。公式にはRが正解なのだが、実在元素の綴りでもRのものとLのものが混在しているので、このシリーズについてもL/Rで戸惑うことがある。実在の元素の綴りを間違うことはほぼ無いし、基本的にはRになる筈だが。
ちなみに、-RiumになっているのはNatrium、Tellurium、Bariumなど。-Liumの形になっているのはHelium、Beryllium、Kaliumなど。
05/07(Tue)
申し訳ないが、アニメ版『第七』には不満しかない。
アニメであれ実写であれ、私が高く評価するのは、「コンセプトが確立されていて、作品表現にきちんと取り込まれている」(オタク風に言えば「匠」の技術がある)、「映像美に対する意識、音響演出の鋭さがある」(粋[いき]がある)、「コスト配分がしっかり出来ていて安定感がある」(「通」な旨味がある)作品なのだが、この作品はことごとくそれらに反している。つまり、「アニメ版独自の見せ方を持っていない」、「漫画とアニメの媒体的違いを無視しているせいで映像としてダルい」、「力を掛けなければいけないところ(バトルシーン)も手抜き気味」。ただ単に「下手」とか「資金が無い」というのであれば、まだしも救われたのだが、「コンセプチュアルな定見が無いがゆえに空疎」というのは一番つらい。まぎれもないnot for meなアニメなのだが……原作との対応関係をチェックするだけの目的で毎週視聴している。余計なお節介ながら、これで漫画版作者のモチベーションが下がってしまわないことを願う。世間的にはわりと好評なようだから、たぶん杞憂で済むと思うのだけど。
第1話の時点では、そこそこ期待していたのだけどなあ。「漫画版をベースにしつつ、バトルシーンの動きをこんなにすごい迫力でパワーアップしてくれるならば」と……。しかし、考え無しの漫画版模倣のせいで明らかな演出的失敗を連発しているし、バトル表現についても、4話以降はエフェクトだけでお茶を濁すヘボ演出になってしまった。つらい……。インタヴュー記事にもあるとおり、今作では制作体制が特殊だという事情もあるから、ある程度は割り引いて見てやるべきかもしれないが、「このシーンの表現として、これでは意味を成さないよね」という明らかな失敗もあるので、やはり監督/コンテには責がある。
とはいえ、ネットを見たかぎりでは、かなり好評なようだ。良いのか悪いのか……。どういうところが「すごい」と言えるのか、どのあたりを指して「作画が良い」と思うのか、どのような点に着目して「演出が上手い」と捉えられているのか、私には分からぬ……。ショタキャラの描き方のフェティシズムとかは分かるんだけど……。
(※文句ばかり書いているが、べつに怒ったり困ったりしているわけではない。むしろ、私の見方がどこまで妥当なのか、どのような論拠を提示できるか、私以外の人々のアニメ観はどのようなものかを考える良いきっかけになっている[具体的な例示は、別掲記事に集約して書いている]。しかし、解せぬ……。この作品よりもはるかに演出の上手いアニメは、いくらでもありそうなものだが……現代アニメの水準ってこんなに低くはないよね?)
引き合いに出すのは申し訳ないけど、前クールの『望まぬ不死~』はとても良かったんだよね……。原作をしっかり咀嚼しつつ、アニメ版はアニメ版でどのようなスタンス(コンセプト)の作品にするかが明確に構築されていて、作画に関しても、動かすべきところの取捨選択がやたら達者で、アニメ版独自の雰囲気作りにも成功している。小粒で地味ながら誠実に作り込まれた、ものすごく引き締まった作りのアニメだった。私が好きなのは、こういうアプローチの作品だ。
アニメに限らず、ゲームでも漫画でもガールプラモでも、「コンセプト(製品目標)の明確化」と「それを実現する表現技術(実装の仕方)」こそは、私がずっと取り組んできた視座だ。先日言及した『シャイニング』に対しても、同じようなアプローチで書いている。
作品に熱中するだけでなく、ディープな分析をしたり、多少斜に構えた捉え方をしたりするという、知的でしたたかな受容者/批評者としての「オタク」は、90年代~00年代的なオタク像の一つではあった。80年代以前(?)の「孤独なマニア」像と、2010年代以降の「みんなで楽しむオタク」像の狭間に、たしかにそういう知的なオタク世代は存在した。あるいは少なくとも、オタクの理想像の一つではあった。90年代以前のパソコン通信時代のマニアたちと、2010年代以降のSNSでシェアする現代型オタクたちの間に、理系院生たちが個人サイトや掲示板(BBS)を開設してアニメや漫画についてオープンな議論を交わす風景は、確かに存在した。
岡田某の有名なあの議論は、良きオタクの理想像の描写としてはわりと同意できる方向性ではある。ただし、彼の議論は誇張しすぎ、オタクを持ち上げすぎで説得力に欠けていたし、もっと深刻な問題にもつながっている。すなわち、そういったオタク的知性への期待が、無邪気にも夜郎自大なオタクスゴイ論になり、さらには「俺たちオタクは本当のものを見抜ける」という妄信からカルト化的先鋭化して、異論に対して冷笑的/攻撃的に振舞っていくという、きわめて危険な陥穽があった。オタクの一人として、そういう動きに対して反省し、警戒し、もちろん自戒していかなければいけない。しかし、それでもなお、目指すべき「良きオタク」像としてのポテンシャルは、いまだ失われていないと思いたい。オタクかどうかにかかわらず、知的誠実を持って謙虚に対象と向き合うという姿勢それ自体は、おそらく最もましなものだからだ。
05/01(Wed)
『神楽漫遊記~桂香と初花~』とは……企画には驚いたが、もちろん買って楽しむつもり(7月発売)。アダルトPCゲームのほぼ最初期(90年代)から活躍している大波こなみ氏の新たな芝居を、20年代でも聴くことができるとは、ありがたいかぎり。
というか、『初花の章』が2020年発売、つまり4年も前なのか……。パッケージゲーム全体として見ても、2021年の『天結いラビリンスマイスター』から3年ぶりということになる(※オンラインゲームなどで出演されているかもしれないが、そちら方面はまったく知らない)。
4月発売の『みくるの章』は、バトルマップのキャラが全て3Dモデル化している。従来のSDイラストキャラの可愛らしさが好みだったので、中途半端な3D化は馴染めない。特に人間タイプの敵キャラを撃破すると、ばったり倒れるアニメーションをしていくのも後味が悪い。敵キャラがマップディテールに埋没する(判別しづらくなる)というのもデメリット。ちなみに、道中がずっとカエルばっかりと戦っていたような感じで単調だったのもよろしくない。
敵妖怪キャラについて、e.go!時代はリアル寄り→でぼ時代はイラスト→最新版では3Dキャラと変遷してきたが、それぞれ作風にも合っていたと思う。e.go!時代はストーリーもしっとりしていて、特に『鬼神楽』は暗めの物語で、バトルシーンの敵妖怪たちも不気味なデザインなのが雰囲気を盛り立てていた。でぼの巣時代になると、『道中記』のいぶき&なずなのコミカルコンビだったり、『花莚譚』の穏やかなコンビだったりしたので、デフォルメされたイラスト妖怪キャラでも作品のムードに合っていた。イラストキャラはチープだと思うが、そんなに悪くはない(同人RPGではありふれている手法だし)。今回の3Dキャラ化は、個人的には面白味を感じないが……どうだろうなあ。
最近の『神楽』シリーズは、さすがにマンネリ化していていいかげん飽きてきて、新作購入も止めようかと思っていたところだったが、まだこのような新機軸を試してくれるのであれば、もうちょっと付き合っていってもいいかな。(ちょろい)
今回は、中ボスそれぞれにも敗北バッドエンドがあるという形。シリーズの価格が3000円(税抜)→3600円(紫3/ちはや3)→4000円(みくる)と上がっている中で、このくらいならばおそらく妥当と受け止められるだろう。
アダルトシーンに関しては、全脱ぎシーンが多いのが意外だった。数えてみると計5シーン。このシリーズは巫女キャラを売りにしている都合上、これまでは敗北時シーンでもほぼ必ず巫女衣装を描き込んでいて(※枕返しや経凜々のような、夢を見させる妖怪だけは別)、全裸CGはせいぜい1作品に1シーンくらいだったのだが、今回はやけに多い。これも試行錯誤のうちなのだろうか。唇にツヤを乗せているのも良い(※唇の膨らみをちゃんと描いているのは、オタク系ではかなり稀だし、『神楽』シリーズの中でも、ここまで明確に口唇に色を乗せているのは珍しい)。
主演の柏木逢花氏も、なかなか良い感じ。10年代デビューの方で、Guiltyなどの激しいダーク系タイトルにも多数出演されているし、別名義(?)でもいくつものビッグタイトルで起用されていて、現代アダルトPCゲームを担っている重要な声優の一人と言ってよいだろう。
シリーズ内でざっとカウントしてみると、全脱ぎCGになっているのは:紫0、ちはや0、いぶき0、小春0、なずな0、莉音弐0、舞歌0、紫弐0、ちはや弐1(バッド)、弥生1(座敷童)、奏0、梓紗1(バッド)、舞歌弐1(バッド)、初花4(ぬりかべ*2/金槌坊/雪女)、ナツ1(バッド)、桂香1(バッド)、勇1(バッド)、護0、舞歌参0、ましろ3(油すまし/百々目鬼/牛頭馬頭)、涼香3(蝦蟇/鬼/バッド)、御琴0、紅葉3(ヒダル神*2/バッド)、ナツ弐1(バッド)、紫参2(悪鬼/ハンザキ)、ちはや参8(ぬりかべ/ヒダル神/火車*2/天邪鬼*2/牛頭馬頭*2)、久遠0、みくる5(河童/餓鬼/鬼/牛頭馬頭/バッド)、となっている(※いずれも夢シチュは除く。髪飾りやタイツの有無は考慮に入れない。ちなみに牛頭馬頭はラスボス)。
妖怪の性質との兼ね合いもあるだろうから一概には言えないし、以前からバッドエンドでは全脱ぎになることがあったが、最近になって急増しているのは確かなようだ。時期区分としては、
1) 当初:全てのシーンで真面目に巫女服を描き込んでいる。
2) 『ちはや弐』(2019):バッドエンドで全脱ぎを導入。
3) 『初花の章』(2020):実験的に、通常のシーンでも複数導入するようになった。
4) 『ちはや参』(2023):巫女服の描き込みは、もはや必須ではない(マンネリ打破?)。
という感じだろうか。このように見ると、アダルトシーン表現の様式変遷も面白い。
ちなみに、『黎明記』以前のタイトルでは、全脱ぎCGはほとんどゼロ(※唯一の事例は、『道中記』追加版[2010]の「小春×一つ目入道」)。『道中記』のサブキャラには全裸CGがあるが、それらはそもそも巫女キャラではない。なお、『幻想譚』シリーズは未プレイなので分からない。
『奮闘記』シリーズにも、全裸状態のものがある。具体的には、『弐』(2021)の「なりすまし」(※相手の人間は巫女衣装)、「百々目鬼×ちはや」(巫女服が完全に脱げ落ちて、身体から離れている)。『参』(2022)の座敷童×ちはや、蛞蝓×紫、大天狗(ラスボス)も、ヒロインが全脱ぎ。さらに、バッドエンドでも全裸描写が多いし、治療シーンもしばしば全裸状態になっている(※以前のシリーズでは、治療シーンでもきちんと巫女衣装だった)。
【 BANDAIガールプラモにおける「着せ替え」のコンセプト 】
BANDAIのガールプラモ(FRS)は、「プラ素材による着せ替え再現」を展開していくつもりなのかな。BANDAIキットは基本的に、原作のあるキャラクターばかりなので、そこからプラモデルとしてのプレイバリューを追求するとなると、「原作の様々なシチュエーション(衣服やポーズ)を再現すること」が第一義になってくる。そしてここから、BANDAIアプローチの難しさも見て取れる。
長所と短所。まずは長所について言うと、「布服ドールよりも簡単に着せ替えができる」、「原作のイメージに近づけられる」、「場合によっては関節部などのぎこちなさを隠せる」、「半脱ぎでバストを強調するなどして、お色気要素を取り込むこともできる」といった側面がある。いずれも、萌えキャラコンテンツとしては有効なアピールができる。
FRSシリーズでは、「ホシノ・フミナ(BFT版)」(2020)が着せ替えを初めて導入した。ジャケットを着脱でき、ほとんど水着のようなスポーツウェア姿にすることができる。続いて、「ラクス」(2021)はロングスカートを着脱式にして、脚部可動および脚部素肌露出を可能にした。「ノワール」(2023)は事実上3段階に着衣状態を変化できるし、最新作「エリー」もジャケット着脱やエプロン装着ができるというサーヴィスぶりだ(※このように見てくると、2021年の「紫々部シオン」が白衣着脱できなかったのは不可解に思える。過渡期的な製品だったのか、それともコストなどの問題があったのか、あるいは二軍スタッフによる練習だったのか……)。発売予定の「ルナマリア」も、パイロットスーツを半脱ぎにして胸部を強調できるようだ。また、「チュアチュリー」(2024)も、着衣ではないものの、下半身のしゃがみポーズ差分を入れている。
パーツ差し替えによる着衣変化は、可動確保や造形維持の観点でも、一定のアドヴァンテージがある。KOTOBUKIYAにように力業で関節構造を仕込む必要がなくなり、キャラクターの美観を保持しやすい。とりわけ布服路線の着衣キャラをプラモデル化する場合は、これが最も妥当な解決法になるというのは理解できる(※それに対して、装飾の少ないスリムな近未来バトルスーツであれば、差し替えの必要は小さく、差し込み穴を空けておけば済むのだが、ジャケットなどの上着を着込んだり、ジッパーを開いて胸を露出させたりする場合はそうはいかない)。
ただし、短所もある。ロボットプラモであれば「様々な武装を換装できる」というのに相当するが、ガールプラモの場合は大掛かりなパーツ差し替えにならざるを得ない。もちろんそれは、コスト増(価格上昇)にもつながるし、モデラー側としても、使わない差分パーツは「無駄」と感じてしまいやすい。
また、これはあくまでBANDAIにしかできないアプローチだということでもある。すなわち、1) BANDAIキットは内部構造をシンプルにしているおかげで、差し替えの余裕が確保できる。2) 差し替えを前提としたパーツ構成を設計できるだけの高い技術がある(※KOTOBUKIYAだと大雑把な下半身差し替えくらいしかできないが、普通はそのくらいが限界であって、あれほど見事な着脱換装を作れるのはBANDAIだけだろう)。3) 大量生産できるので、差分パーツを入れても価格が程々で収まる。とりわけ今回のFRS「エリー」のように、「フィットネスウェア/エプロン/ジャケット」の三形態を両立させつつリーズナブルにキット化するのは、設計技術の面でもコスト管理の面でも、さぞや大変だっただろう。その意味では、たしかに凄い(※武装ゼロで4400円+税という価格は、昔の「イノセンティア」やVOLKS初期キットと同水準ではあるが)。
他社キットを概観すると、例えばAoshimaのガールプラモは、ガールに盛り付けるパーツの方も、単体で自立した価値を持つようにしている(※それ自体で航空機になるVFGや、ロボットそのもののアトランジャー)。ガール同梱パーツに意味を見出せるようにするアプローチとして、オーソドックスな対処だろう。しかし、GSC(初音ミク)は着せ替えなしで単体完結するデザインを採用しているし、Guilty Princessはプレーンな下着素体シリーズに逃げた。KOTOBUKIYA(創彩)も、今のところは一つのキットの中での着せ替えは導入していない(※ただし、脚部などのポーズ差分パーツはある)。そうした中で、annulus「宝多六花」が冬服/夏服差分を入れているのは、ずいぶん頑張っていると思う。海外キットの場合は、着せ替えどころか「武装モード/素体モード」の丸々2人分を作れる形にしている。
模型現代史。2010年代の模型界は、ロボットプラモが依然として充実しており、艦船模型も再興して(海外メーカーキットの急増)、AFV分野も新規メーカーが参入したし、さらにガールプラモも飛躍的に拡大して、たいへん豊かな時代を過ごすことができた。
しかし20年代に入ると、これらが反転してしまった。BANDAIは予想外のガンプラ払底を起こしたし、スケールモデルも急激に退潮してしまった。国内メーカーでは、FUJIMIが急墜し、HASEGAWAも旧キットの出し直しばかりで、きちんとした新作キットを出すのはTAMIYA(航空機やAFV)とPIT-ROAD(護衛艦キット)、それからAoshimaの廉価カーモデルばかりになってしまった(※ただし、グローバルに見れば、AFVインテリアモデルや、海外製のハイエンド艦船模型、3D造形アフターパーツといったフロンティアが開拓されて、新たな魅力を生み出しつつある)。ガールプラモ市場もそろそろ頭打ちになり、新機軸も現れにくくなった。
フィギュア分野でも、似たようなことが起きていたと言えるかもしれない。10年代は品質と多様性とセールスがなんとか両立していたように思うが、20年代の現在はいよいよ価格高騰しつつ(3万円台も普通になってしまった)、新作製品の数と広がりが乏しくなってきたように見受けられる。プライズフィギュアの棚も、数年前まではぎっしりと賑わっていたのが、ずいぶん寂しくなってしまった。長く続く不況がオタク層の財布にいよいよ深刻なダメージを与えているという事情もあるだろう。海外製品がまだ元気なのは、せめてもの救いか(※とりわけ15cm級の可動フィギュアは、新たな一分野として確立されつつある)。
プラモデルの箱を店頭で開封チェックする(チェックしたくなる)のは、まあ、分かる。しかし、分野外の人が聞いたら「購入前の商品を開封する非常識行為」だと判断するだろうというのも、理解できる。これは、模型界の歴史的経緯に関わる特殊な文化であって、
・欠品があり得る(※現代でもわりと生じる)、
・そのキットに使用する塗料などを、事前確認する必要がある、
・成形色やキット構成を事前確認したい場合がある(※履帯がゴム製だったり……)、
・制作難度がまちまちなので、自分のスキルで作れるかどうかを見極める必要がある、
・オールドキットや、バリだらけのキット、正体不明の海外キットなども普通に出回っている、
・箱はあくまで保護材にすぎないという建前である、
こういった事情から、店頭開封を許容する文化が歴史的に存在したようだし、メーカー側もそれを想定してきたように見える(※明らかにゆるゆるの箱形状とか)。実際、店側でビニール紐を掛けている場合でも、店員さんに言えば開封チェックはさせてくれる筈(※ただし、出荷状態でシュリンクが掛けられていたりして、元に戻せない場合は不可)。内容確認という意味では、例えば本の店頭立ち読みや衣類の試着ができるのと同じようなものだ。
とはいえ、現代では、
・塗料などは箱に記載されるようになっていて、開封する必要が無いようになっている、
・オンラインでの確認手段も充実してきた、
・パーツ数増大により欠品確認はほぼ不可能だし、パーツ請求サポートも充実している、
・箱から抜き取る窃盗が警戒される(※そういうのはほぼ皆無だと思うけど)、
・とりわけ家電量販店などは、モデラー文化に対して無頓着なことがある、
・オンライン通販のように、そもそも中身を確認できない購入形態が普及している、
・世間的にも、箱開封を否定的に見る風潮は強まっているだろう、
こうした変化が生じており、店頭開封はおそらく激減している(開封チェックがほぼ不要になっている)。それでも、海外キットなどで内容チェックをしたい場合があるのは分かるし、模型特有の文化的事情を無視して外部から模型文化がバカにされるのは、一モデラーとして心外に思う。模型というのは、店頭商品の状態で完成しているものではなく、モデラーが組み立ててようやく完成するものであって、店頭にあるのはあくまでキット(制作素材集)にすぎないという意識が私にはある。そういった商品形態の特殊性も、分野外ではなかなか理解されない(気づかれない)ところだと思う。
欠品は、これまで数回遭遇している。欠品というか、いずれもランナーの入れ間違いだが。現代では、おそらく重量検品などをしているので、単純な欠品はかなり稀だと思う。遭遇頻度は、割合にすると1%弱だが、パーツ欠品は基本的に替えの利かない致命的なトラブルなので、非常につらい。まあ、昔と比べてパーツ数が激増しているし、箱の中でもランナー束がクリアラッピングされていて(破損防止、誤封入防止、盗難防止等)、店頭で箱を開けて見たくらいでは欠品確認はほぼ不可能なので、覚悟して買うしかないのだが。
04/23(Tue)
自分の社会生活サイドでは、なんとかそれなりに満足できるくらいの成果……いや、「成果」とまでは言えないものの、「このくらいやって来たら、社会的な役割を果たしたり、この世界に何かを残したりすることについては、ひとまずは十分かな」という手応えはある(※まだそんな年齢ではないし、ろくなことをしてきたわけでもないけれど)。
趣味生活サイドでも、自分の人生を十二分に豊かにしてくれる(してくれた)ほどの創作物に出会えてきて、本当に、本当に幸せに生きてこられた。音楽の感興、ゲームの衝撃、漫画のカタルシス、アニメの魅惑、そして哲学的思索への沈潜に至るまで、人生を生きるに値するだけの大量の忘れがたい体験をしてきた。ただし、こちらについてはたくさんの心残りがある。あのゲームもこのゲームもプレイできていないし、イラストなどで興味を持ったあのキャラクターやそのキャラクターが登場している作品本編も、まだ全然視聴していない。敬服しつつ真剣に聴くべきあの声優さんやその声優さんの出演作も、ちっとも追いきれていない。連載中のあの漫画やこの漫画の行く末も、見届けていきたい。……もちろん、これからたぶんまだ数十年は生きられそうな中で順次取り組んくでいくことが出来るはずだけど、それでも結局は、人生の時間がまるで足りない。
ソフトハウスキャラについては、幸か不幸か、その終わりまでをファンとして見届けることができたが、そこには満足や解放感だけでなく、「もっと続いてくれていたら」という悔しさもある。様々な創作物に向き合っていき、多くの創作者たちのファンであり続けるかぎり、そうした苦い喪失感に直面することも、今後また何度でもあるのだろう。
プラモデルのパッケージアート(ボックスアート)というと、日本国内のガールプラモは、レイアウトやポージングの面白味に欠けるうらみがある。萌えキャラの全身を見せるために、正面を向いた無難なポーズで棒立ちになって、全身をフレームインさせているものが多い(特にFAGシリーズが典型)。このあたりはもったいない。
それに対してアオシマのVFGシリーズは、力強くて華やかなイラストを描いてくれていて気持ち良いし、chitoceliumシリーズもhuke氏のイラストを前面に押し出している。中国のガールプラモも、自由なポージングやダイナミックな構図を採用しているし(例えば「錦衣衛」は、背中側からの振り返りポーズだ)、さらにはパッケージ(上面)に一切ガールが描かれていないという省エネもとい大胆なデザインもある。
個人的には好みなのは、VFGのパッケージアートかな(※イラストは新米氏)。広々とした空を背景に、ガールたちが楽しそうにしているのが良い。メガミデバイスでは、「金潟すぐみ(臥薪)」のパッケージアートが抜群に格好良い。イラストはピナケス氏によるもので、全身構図ながら、かなり凝ったポージングをさせて、立体感も映えるようにきれいに描いている。もちろん買ったし、パッケージアートの色合いに寄せて塗装して、パッケージどおりのポーズも取らせたくらい。最近のものだと「ルビーアイ」も、縦長レイアウトですらりと立って槍(メス)を構えているところが、妖しい緊張感を漂わせていて魅力的。
個人的に苦手なのは、萌えミリ系によくある、武器を構えた前のめりのポーズ。それに対して、堂々と仁王立ちになっているのは大好きだし、上記のような見返り美人型のテクニカルなレイアウトも大好き。「TIGER & BUNNY(MG)」のように、複数のキットのイラストがつながっているという仕掛けも楽しい。
スケールモデルだと、Meng Modelの「メルカバ Mk.4M」のパッケージアートが一番好き。車体を正面から撮りつつ、砲塔は真横に振り向けているという非常に珍しいイラストだが、レイアウトが見事。イスラエルものだと、AFV Clubの「自走榴弾砲 ドーハー(M109A2 Doher)」も、珍しい縦長パッケージアートが印象的。……まあ、そのイスラエルは現在あんなことをやらかしているので、見るたびに気落ちしてしまうのだけど。
艦船模型は、細長い船体のせいでレイアウトが大きく制約されるので、パッケージについては正統派の迫力あるイラストが多い。現用艦の場合は実艦写真をパッケージしている場合もある。外連味のあるパッケージというと、Aoshimaの不審船やヘリ空母や弾道ミサイルのようなイロモノばかりが話題になってしまう。
ネタ枠だと、「1/35 US and German paratroopers」というシロモノもある。1944年の南欧で、上半身裸で水浴びをしている女性たちを、米独の兵士たちが覗き見をしているシチュエーション。おばかプラモとして、つい買ってしまった。
キューブリック版『シャイニング』には毀誉褒貶があるけれど、私としては「あの見せ方こそが良い」と思う。あの作品のホラー要素には、「館の呪い(?)」、「過去の虐殺」、「シャイニング(幻を見る力)」など、複数の着眼点があるが、それらの中でも「家族が邪悪になってしまった」という点に集中しているのがキューブリックなりの解釈だと思う。すなわち、「守るべき家族、信頼しあえる相手、安らげる同居人だった筈の存在が、怖ろしい迫害者になって家族を威圧し、武器を持って家族を追い回し、さらには殺害しようとする」、そういう恐怖だ。
そのような状況の怖ろしさを表現するのは、一般的なホラー映画のように「驚かす」やり方ではいけない。館の呪いに染まってしまったジャックの言動を、いきなり出てくるビックリ箱のように描いたら、むしろ作品の意味づけを裏切るものになってしまう。ジャックは、物語の最初からすでに居る存在なのだ。家族(父親)が、いつの間にか邪悪な呪いに精神を侵されているにもかかわらず、妻と息子はずっと同居していなければならない。ずっとそこにいるのだ。ずっと家庭内にいる存在なのだ。
例えば、タイプライターの意味不明な羅列文章を妻が見つけたときに、その背後からジャックがにじり寄ってくる。それは、「いきなり現れて驚かす」であってはいけない。滅茶苦茶な文言がタイプされた紙束を見て、夫の精神が異常なものになっていることに気づいた妻に、その背後からじわじわと近寄ってくる。ここの演出は「怖くない」「驚きがない」としばしば批判されているのだが、ここで「にじり寄ってくる同居人の恐怖」として描いたキューブリックの見識は、完全に正しいと思う。それは正体不明な未知の怖さではなく、あくまで既知の怖さ(既知の家族が変質してしまったという怖ろしさ)なのであって、それをビックリ箱の怖さとして表現するのは間違いになる。
もちろん、別様の構成も出来る。ジャック自身の存在やアイデンティティ危機や後悔(※過去に息子に対して暴力を振るってしまったことを悔やみつつ、その件で彼を責める妻に対しては恨みを抱いている)を、物語の中で小さく見積もって、ただ「館の恐怖」「呪いの恐怖」「超自然的なシャイニングの物語」として作ることもできる。……でも、それでは、ただビックリさせるだけのホラーだ。何かよく分からない異物に襲われるだけのホラーだ。それはそれで構わないけれど、そのように作ってしまうと、キューブリック版『シャイニング』が表現したような――そして高く評価されている所以であるところの――、上記のような特別な深刻さや特異な地位が失われてしまう。
余所でも書いたが、『シャイニング』の構図は、いかにも現代的な陰惨さに満ちている。社会的に不遇を託っている男性が、白人至上主義的で家父長制的な抑圧的文化の残滓に取り込まれてしまって、妻(女性)を脅し、息子(未成年者)を追い回し、アフリカ系男性(異人種)を殺害してしまう。そういう観点でも、本作で恐怖をもたらす存在(ジャック)は、けっして「未知の超自然的な怪奇」などではなく、「我々にとって既知の、そしてその邪悪にいつでも陥りかねない姿」だ。そういう怖ろしさとして描かれているし、そのような社会的な恐怖として受け止めることが、本作の意義を最も大きなものにするだろうし、このように人間性の怪奇としてホラー映画を構築したのはいかにもキューブリックらしい。
例えば、ジャックがボールを壁に投げて一人キャッチボールをしているシーンも上手い。暇を持て余しているというだけでなく、ボールを全力でぶつけた「ダン!」という音の激しさは、殴打音をも連想させつつ、ジャックの内面の攻撃性をまざまざと表している。音響コントロールのタイミングの巧みさが、このホラー(怪奇)ジャンルで存分に活用されている。
主人公がいないのも、本作の特徴だろう。視聴者は、急激に苛立っていくジャックに対して共感することはできない。かといって、ひたすら追われる妻(被害者)でもあり得ない。幼いダニーが主人公に近いが、彼が主体性を発揮して行動するシーンはほとんど無いし、彼の行動が関わってくる重要な場面(何者かに傷つけられた場面)は省略されている。その意味では、原作路線の「館こそが主人公だ」というスタンスは、この映画版でも守られていると言えるかもしれない。
この映画版について、「館の超自然的な呪いは本当にあったのか?(ただ単にジャックが妄想に走っただけの、現実的な物語ではないか?)」と見る向きもあるようだ。しかし、ジャックが閉じ込められた倉庫の鍵が、何者かによって外される。ここは、現実的には説明できない状況であり、やはり館の超自然的な力は存在していると解釈すべきだろう。トニーを傷つけた何者かの存在も、おそらく同様だ。さらにその一方で、シェフやダニーが危機を感じ取っている「シャイニング」の力も、作中で実在しているパワーだと取るべきだろう。
それに対して、最後の場面もまた興味深い。庭園迷路を逃げる息子と、それを追いかける父親ジャック。ここでジャックは、ほんの十歳児(?)の息子を掴まえることに失敗して、自ら行き倒れて凍死する。足跡の偽装という、文字通り子供騙しのトラップに引っかかって、子供を取り逃がす。つまりジャック自身は、(館の妄想を吹き込まれてはいるが)徹頭徹尾ただの人間にすぎない。ここにも、本作のコンセプトは明瞭に見て取れる。すなわち、本作で描かれている恐怖は、超自然的な――人間の外部から来る――恐怖などではなく、人間精神の中に発生する禍々しい状態の怖ろしさであり、ごく普通の人間がこのような状態に陥ってしまう怖ろしさだ。
話題の仮面なんとかは、たしかに米国発でありながら日本オタク的なキャッチーさにも通じるところがあり、アメコミ文化における既存の事例(例えばグリヒル氏やペニー・パーカー)ともまた違った路線になっていて面白そうではある。
ただし、キャラ属性の分布、あるいは視覚的なキャラデザについては、メインが白肌キャラばかりなのがちょっと気になるところではある。日本で「記号的なデフォルトとしての白肌キャラばかりの作品」なのと、「米国で白肌キャラばかりの作品」とでは、社会的文脈や意味づけの受け止められ方が大きく異なってしまうと思うし、褐色肌キャラが一人もいないのはちょっと不気味なのだが、設定を見るかぎりではアジア系(日本出身キャラやフィリピン出身キャラ)はいるようだし、あくまで「記号的表現としての、色の無い素肌彩色」という扱いなのかな。主役級キャラも、プロテスタントではなくカトリックのようだし(※おそらく意図的にWASPの"P"[Protestant]を外している)、このあたりが現代米国の(保守寄りの)ギーク文化のぎりぎりの限界線なのかもしれない。いずれにしても、社会的なデリカシーの問題に触れかねないところではあり、現代日本のOTAKU文化のそういう鈍感さには懸念を抱きつつある。
『TIGER & BUNNY』のように、さまざまな社会的属性を並べてはいても、それぞれがあまりにもステレオタイプ的に描かれているというのも、それはそれで問題だけど。中国系のキャラはカンフー的な格闘少女だし、アイドルキャラは金髪白人女性だし、ヒスパニック系らしきキャラはパワー系だし、成功者のトップヒーローはユダヤ系っぽいし、アフリカ系キャラはいわゆるオネエ言葉で世の中を見通したようなことを言うゲイ男性だし……。
ちなみに、現代日本でも外国籍者は300万人を超えているとのことだから、同質性云々はリアリティの問題としても説得力を失っていくだろう。
04/17(Wed)
『第七王子』については、各回の感想を専用ページに書いていくことにした。
良いところもあるが、漫画版のベタ真似ばかりなのが、見ていてつらい。
私自身の嗜好としては、力任せ(資金任せ)で絵を動かしまくるような作品や、原作にただ忠実なだけの作品にはあまり興味が無くて、アニメ版ならではのコンセプトを確立させてそれをきれいに突き通してくれるような作品が好みだ。前期の『望まぬ不死』は、小粒ながら最良の成果を出してくれたし、昨年の『のんびり農家』も、アニメ媒体の視聴覚演出を生かして原作の「のんびり」な雰囲気を最大限に引き出していた。
【 石沢庸介氏の漫画について 】
『第七王子』は原作小説のある作品だが、漫画版があまりにも石沢庸介テイストなのが面白い。
石沢氏の最初(?)の連載『超人学園』(2009-2013)からして、世間並の生き方から外れた者たちが幸せに生きていける場所を作ろうとする物語だった。しかも彼等は、それぞれに異能を持った「超人」たちでもあり、オリジナリティ溢れる異能のアイデアが大きく展開されていた。また、掛詞や洒落のようなネーミングセンスも、この時点で明確に発揮されていた。現在連載中の『第七王子』でも、周囲から忌み嫌われる異能の者たちが幸せに暮らせるように「ロードスト」の国を運営させ、そこで魔術の新たな可能性をも追求していくというのが、作中世界の大きな軸の一つになっている。また、『第七』原作からの大きなアレンジとして、ヴァラエティ豊かな中ボスキャラを大量に登場させていくのも、いかにも石沢氏らしいと思える。必殺技のネーミング趣向も同じく。
『忍のBAN』(2015-2016)は、和風の架空世界を舞台にして、これまた様々な独創的な忍術を使って暴れまくる異能バトルものだった。残念ながら短期連載で終わったが、ダイナミックな全身運動とその爽快感をしっかりと作画/演出していくところは、『第七』の下地としてもしっかり活きているように見える。異能(忍術)のアイデアも、「磁遁」や「油遁」といったユニークなものだし、「人々が笑って暮らせる世界を目指す」という思想もはっきり示されている。キャラクターについても、魅力的なショタ王子(主人公が仕える主君)や、『第七』のタオのようなツッコミキャラが登場していて微笑ましい。
さらに『星と旅する』(2017-2018)は、空中に浮かぶボール状の土地(家星)をふわふわ動かしながら他の星と交易したりレースをしたりする、優しい物語だった。規模は小さくとも、自分たちの幸せな暮らしをどこかに見つけようとするロマンティックな憧れが、全編の基調を成している。男性主人公は、一見おっとりしているが、戦闘力が非常に高かったりするし(一種の昼行灯タイプ)、ヒロインも薄い胸のかすかな膨らみがやたら丁寧に描かれていた(初期ロイドの色気にも通じるだろう)。強引に喩えるなら、この二人の擬似親子的関係は、『第七』でいえばジェイドとレンを連想させるような雰囲気もある。絵柄についてみると、石沢氏としては珍しく、極端に細い描線と繊細なグラデーションで作画されているのが特徴的で(※他の石沢作品では、もっと荒々しく力強い筆触を活用している)、漫画家の技術の引き出しの多さを体験できる。
石沢氏の作品を読み続けてくると、キャラクターたちの善良さ、とりわけ被迫害者たちに向ける優しさ、人間の努力研鑽によって到達された境地の美しさと強さ、そしてその精華が形になって発揮される瞬間への強烈な憧れ、そういったものが常に感じられる。私自身は、『第七王子』の途中からの読者だが、遡って旧作を読んでも、石沢氏らしさの一貫した世界ははっきりと感じ取れる。
『第七王子』は、原作小説では「異常な魔力を持った主人公が、呑気にも孤独に魔術の可能性を追求していく(悪役たちはただのおまけのように、あっさりと撃破されていく)」という路線の作品だが、それを石沢氏の漫画版では、「超人的なボスキャラたちとの劇的な戦いの中で、魔術と武術の高みがきらびやかに展開される(悪役たちにも、精神的な決着や救済が差し伸べられる)」というアプローチへと大改造を施している。こういったアレンジの仕方は、つくづく石沢氏らしいと思う。
私が以前いたmstdnサーバーは、月間アクティヴユーザーが6300とずいぶん減ってきたようだ。たしか昨年夏頃には月間アクティヴユーザーが7000に達していたのだが、そこからは下降していって、今年の頭に私が離脱した時点で6700人くらい、そしてこの3ヵ月半でさらに減少している。
mstdn界隈全体としても、昨年夏頃がアクティヴユーザー数のピークで、そこからずっと漸減傾向にある。優秀な方がたくさんいらっしゃるSNSだし、機能面で見ても将来性のあるサーヴィスなので、上手く発展していってほしいところだが……。
私自身は、そちらのサーバーからは撤退したが(※個別の連絡を取るのには使うが、日常の投稿はしない)、別のサーバーではたまに非収載投稿をしたりしている。実のところ、ソーシャルな場に出て行って何かをすることはけっして必須ではないと思うし、一人で気楽にやっていきたい。
04/11(Thu)
ガールプラモ年表のページは、そろそろページが長くなってきたので、20年区切りで2026年分からは新しいページに移行しようかな……って、20年!? そうか、「ねんどろいど」「武装神姫」(2006年)からすでに18年、Hasegawa「フェイ・イェン」(2007)から17年、Kotobukiya「ホイホイさん」(2009)から15年も経っているのか……。
WILL/Guiltyの作品は定期的に買っているけれど、睫毛のハイライトに赤やピンクのヴィヴィッドカラーを乗せまくるのはちょっと苦手。
Littlewitchの『白詰草話』は、「なんかすごそうな新規メーカーが現れた(大槍氏は家庭用ですでに実績あり)」、「フルアニメーションのOPムービーは当時非常に珍しかった」、「本編の視覚的構築がきわめて特異なもので、そこが大きな注目を集めた」という感じだったかな。これら大量の話題性の中では、OPムービーが『エヴァ』っぽい云々というのは、マイナーな論点にすぎなかった。もちろん、そのあからさまな模倣表現は、多くのユーザーが気づいていたと思うが、「とにかくこの品質のアニメーションムービーを出したこと自体が称賛されるべきだし、作品全体のコンセプトにも合っている」くらいの捉え方だったと思われる。
美少女ゲームの(OP/デモ)ムービーは、90年代のうちには大きくアピールされるようになっていた(『To Heart』[1997年]がハイクオリティな主題歌を使ったことで、注目されるようになった)。そしていくつものタイトルが主題歌とOPムービーを出すようになったが、00年代初頭までの数年間はまだまだ未発達で、OPムービーの出来もチープなものが多かった。動画形式ではなく、プログラムで静止画を動かしていたり。
状況が大きく変わったのが、まさに2002年だった。上記『白詰草話』や『うたわれるもの』などが、力の入ったアニメーションムービーを打ち出してきたし、アニメーションでないOPムービーも、飛躍的に品質を上げてきた(画質も、演出の質も、両方とも)。F&C(FC03→SkyFish)が頭角を現してきたし、AC-Promenadeのデビュー作『SinsAbell』も2002年。翌2003年の『Maple Colors』もアニメーションムービーを使ったし、ネタムービー(電波主題歌)として有名な『巫女みこナース』(2003年)なども、同時期の作品。
さらに00年代半ば以降は、ユーザーのHDDに余裕が出来てきたり、ディスプレイ解像度が上がったりしたこともあって、派手で凝った作りのデモムービー/OPムービーが制作され、そして公式サイトや有志の配布サイトで公開されていった。とはいえ、ムービーのファイルサイズも1個あたり100MBに達していて、当時としてはかなりHDDを圧迫したが。有名な『いただきじゃんがりあんR』が2005年だし、『カルタグラ』も2005年。個人的には『ウィズ アニバーサリィー』(2006年)のムービーなども思い出深い。
STP/胃~之煮をしばらく聴いていなかった。宴会収録をひとまとめに聴きたかったのと、今回のサブタイトルが芸能スキャンダル問題に関して無思慮なので気乗りしなかったのと、両方の事情があったため。とはいえ、放置したくはないので、休日にまとめて視聴して最新分まで追いついた。
2022年から2023年にかけてのガールプラモ分野は、長年の課題のいくつかを解決したと思う。すなわち、「衣服表現の確立」(30MSアイドル衣装など)、「十分な可動構造と組立容易化の両立」(30MSとBuster Dollシリーズ)、「入手しやすく一定の品質を保った素体キットの提供」(これも30MS)、「説得力のある頭髪造形」(annulusやBANDAI)、等々。
これはこれで良いのだが、言い換えれば、いったん「歴史の終わり」を迎えてしまったようにも見える。つまり、分野内の新機軸が見えてこないのだ。ボディサイズは15cm級に収斂してしまって多様性が乏しくなったし(※以前は、各種のSDキットや、大型固定ポーズキットFigure-rise LABO、18cm級のGFP「マリー」「フィーナ」などがあった)、中途半端な武装盛り付けキットばかりになってデザイン面での目新しさが失われた。FAG「フレズヴェルク」「グライフェン」のような変形機構ギミックも、かなり稀になった(b/VOLKSの蛮勇と、VFGのマンネリが残っているくらい?)。
技術面での既存の課題は克服したものの、美意識や着想におけるフロンティアが現れにくくなった(のであるならば)というのは、創作的分野としてはけっして良い傾向ではない。2024年以降のガールプラモは、どのよう方向に進んでいくのだろう? 「キャラクターコンテンツとの連動(メディアミックス)」と、「安価な価格帯の追求(一時期の8000~9000円台に対して、6000円台のキットが急増した)」の2つはありそうだが、これらは新たな面白味を作り出すものではない。うーん……。
展望の見えづらさはユーザーサイドにもある。「モデラー型、つまり自由でクリエイティヴな模型制作の一種として取り組む」のか、それとも、「ファン型(オタク型)、つまり既存キャラの立体化をリーズナブルに入手する」のか。もちろん、どちらもあり得てよいのだが、両立しにくい方向性なので、市場としては潜在的に分断されているのかもしれない。
モデラー向けのガールプラモを提供しようとすると、拡張性考慮などに足を引っ張られるし、セールスにも限界がある。それに対してファンアイテム志向のガールプラモだと、それぞれがワンオフキットになってコストが嵩むし、広がりに乏しくなる。メーカー側も舵取りが難しいだろう。
興味深いことに、海外(中国)メーカーはどちらでもない。原作の無いオリジナルガール路線で、武装盛り付けのボリューム感とギミックの面白さによってユーザーを掴むという、第三の道だ。これが日本のメーカーにも出来たら良いのだが……。
04/02(Tue)
今期は『第七王子』を視聴していく予定。
説明的な長いタイトル(サブタイトル)というと、昔のTVドラマにも似たような文化があったらしい。「湯けむり○○温泉殺人事件 むにゃむにゃで起きたほにゃららな事件、その○○××の影には、あれこれでなんとかな真相が!!」みたいな感じの。さらに遡れば、有名な「川口浩探検隊」は1970年代後半からやっていたらしい(1973-1986年)。こういうのも、媒体(メディアの形態)に依存するところが大きいのだろう。
蔵書整理をして、漫画もだいたい配列できたおかげで、続刊を買うたびに既刊の読み直しが捗ること捗ること……。再読はとても楽しいし、読み返しによる発見も多いが、時間が取られてしまうのは良いのやら悪いのやら。
今年度も、本業についてはひとまず大過なくやっていけそうだが、それ以外にいろいろ難しいところが出てきている。困ったものだが、趣味生活は維持していけるようにしたい。
[tw: 1777352464133689392]
ある映像作品の演出について。元コンテンツのことは知らないが、指摘は理解できる。頭部だけをポンポンすげ替えていくような映像は、まるで3Dゲームのキャラメイクのような単なるガワ変化の加工に見えてしまい、各キャラの個性が一つの型に押し込められてしまっているように見える。そういう印象を持つ人が一定数現れるのは、これは仕方ない。
とはいえ、この演出が目指したのであろう映像的な意味づけも、たしかに理解できる。「たくさんのアイドルが登場するけれど、どのキャラが踊っているつもりで捉えてくれてもいい。誰もがそこに立つことができる、誰でも主役になることができる」ということだろう。しかし、この映像の見せ方では、「誰でも目立てる」(可能性の平等)というのが、「誰でも同じ」(どれでも互換可能)にも見えてしまう。これでは失敗だという意見も、たしかに理解できる。
ただし、この失敗は、演出コンセプトそのものに由来するというよりは、演出方法のレベルでの技術的失敗だと言うべきだろう。そもそも、見たかぎりでは、各キャラクターの全身モデルはそれぞれ異なっている(※例えば肌の色合いやバストサイズ、それから胸部の羽根の色の違い)。だから、各キャラのモデリングそれ自体が画一的だというわけではない。それなのに、キャラクターが切り替わっても肩口のレイアウト位置をぴったり一致させてしまっているせいで、頭部だけがスロット式に置き換わっているように見えてしまう。位置を合わせるべき基準は、そこではなかったのに。
さらに言えば、肩幅などを含めた体格がほとんど同じ(!)に見えるのが、画一性の印象を助長している。スリムキャラもグラマラスキャラもいないので、身体的/視覚な個性の広がりが見えてこない。目の高さもすべて同じだし、頬のシルエットもみんな一様にタマゴ型だ(※似通いすぎていて、型に嵌められているようで不気味だ。判子イラストレーターに喩えられるのもやむなし)。顔がずっと真正面を向いたままなのも(※おそらくキャラアピールのためだが)、「頭部だけスロット」の印象を強めてしまう。結果として、キャラクター切り替わりによる視覚的面白味が無くて、ただ頭部だけがすげ替えスロットされているように映ってしまう。
肩口の位置を合わせるのではなく、身長や体格に合わせて上下にずらしたりするだけでも、十分に印象は異なったものになっただろうに……。あるいは、一人一人の尺をもっと長めに取っていくとか……。頭髪を派手に揺らしたりして、キャラごとの個性を取り込んでいくとか……。素肌の色もまったく同じに見えるので、褐色肌のキャラを目立ちやすい順番にしておくとか……。小柄キャラや大柄キャラをちゃんと反映させるとか……。何かしら、やりようはあった筈だ。
似たような話は一昔前のアニメにもあった。ダンスシーンで全員の動きがぴったり一致しすぎていると、かえって不気味に見える(ロボット的に見えてしまう)というものだ。不揃いな揺らぎを入れなければ、臨場感や実在感が生まれないという意味では、今回の件もそれと多少近いところがありそうだ。
引用コメントでも言及されているように、30MSのプラモデルであれば、「頭部とバストサイズと太腿以外はいっしょ」であっても割り切って見られるのだが、映像表現の中でキャラクター間の個性の違いを抹消しかねないような演出をするのは、上手いやり方とは言いにくい。
実を言うと、私自身は「こういう演出もありかな」と思うのだが、それは私がアイドルものにまったく興味が無く、個々のキャラにも思い入れが無いからだろう。架空のアイドルたちが画一的であろうが互換可能であろうが、私は困らないからだ。しかし、一人一人のアイドルキャラたちに人格的な独自性を見出そうとしている視聴者にとっては、これはつらい映像になるかもしれない。そういう怖さは、私にも察せられる。
上の話はどこかのSNSにでも書き散らしておこうかと思ったが、文字数が少なすぎたので断念して、このブログで書くことにした。一つのまとまった思考を丁寧に書ききるには、300字でも500字でも、あまりにも足りないのよ……ましてや140字しか書けないソーシャルメディアが、どれほど粗雑でいかに粗雑な言葉遣いを私たちに強いてきたか(強いているか)は、想像に難くない。
ちなみに、上の文章は約1500字。一つの主題について概観するには、2000字くらいまでキャパがあるとよい。研究会の要旨をまとめたレポートなどでも「最大2000字程度」が多いし。
原作と翻案作品(コミカライズやアニメ化)の関係について。私自身は、自由にアレンジしてよいと考えている。媒体の違いに応じて表現形式の違いが不可避的に生じるので、「原作そのまま」「原作に忠実」というイデオロギーには意味が無いし、単なる模倣物であるならば、元の作品を見ていた者にとって新鮮味が無い。
原作との関係については、「それを原作として持つ意味」が確保されていればよい。例えば、台詞回しに特別な面白さがある原作であれば、それを維持するor強調するようなアニメ演出にするのが良いだろう(ただし視覚的表現やストーリー展開はアレンジしてもよい)。主人公の設定に凝った特徴がある原作であれば、その点はきちんと維持しつつ、ストーリー展開は自由に膨らませてもよいだろう(そうでなければ、わざわざその作品を原作として漫画化/アニメ化する意義が無くなる)。謎解きに眼目のあるミステリ作品であれば、トリックの骨格を再現するようにしつつ、そこ以外の視聴覚的演出は実写版独自の雰囲気を作り出しても面白いだろう(原作のトリックを無視するくらいならば、原作付きにする必要は無く、最初からオリジナル作品としてやれ、という話になる)。原作小説ののどかな雰囲気が人気の源泉であった場合は、それを尊重する方がよいだろう(大枠のシチュエーションは維持しつつ、激しいドラマをどんどん投入してもよいのだが、その場合は通常以上に説得力のある表現が求められるだろう)。
近年でも、ファンタジー小説の漫画版では、ストーリーやキャラクター設定を大きくアレンジしているものはそこそこ多いし、そうしたアレンジ(内容の拡充)をしたおかげで大きな人気を博したコミカライズもある(上記『第七王子』は、まさにその代表例だ)。