2024/04/21

2024年4月以降の雑記

 2024年4月~の雑記。

 05/01(Wed)

 『神楽漫遊記~桂香と初花~』とは……企画には驚いたが、もちろん買って楽しむつもり(7月発売)。アダルトPCゲームのほぼ最初期(90年代)から活躍している大波こなみ氏の新たな芝居を、20年代でも聴くことができるとは、ありがたいかぎり。
 というか、『初花の章』が2020年発売、つまり4年も前なのか……。パッケージゲーム全体として見ても、2021年の『天結いラビリンスマイスター』から3年ぶりということになる(※オンラインゲームなどで出演されているかもしれないが、そちら方面はまったく知らない)。

 4月発売の『みくるの章』は、バトルマップのキャラが全て3Dモデル化しているのか。従来のイラストキャラの可愛らしさが好みだったので、中途半端な3D化は要らないかな。敵妖怪キャラについて、e.go時代はリアル寄り→でぼ時代はイラスト→最新版では3Dキャラと変遷してきたが、それぞれ作風にも合っていたと思う。e.go時代はストーリーもしっとりしていて、特に『鬼神楽』は暗めの物語で、バトルシーンの敵妖怪たちも不気味なデザインなのが雰囲気を盛り立てていた。でぼの巣時代になると、『道中記』のいぶき&なずなのコミカルコンビだったり、『花莚譚』の穏やかなコンビだったりしたので、デフォルメされたイラスト妖怪キャラでも馴染んでいた。今回の3Dキャラ化は、個人的には面白味を感じないが……どうだろうなあ。
 最近の『神楽』シリーズは、さすがにマンネリ化していていいかげん飽きてきて、新作購入も止めようかと思っていたところだったが、まだこのような新機軸を試してくれるのであれば、もうちょっと付き合っていってもいいかな。(ちょろい)


 【 BANDAIガールプラモにおける「着せ替え」のコンセプト 】
 BANDAIのガールプラモ(FRS)は、「プラ素材による着せ替え再現」を展開していくつもりなのかな。BANDAIキットは基本的に、原作のあるキャラクターばかりなので、そこからプラモデルとしてのプレイバリューを追求するとなると、「原作の様々なシチュエーション(衣服やポーズ)を再現すること」が第一義になってくる。そしてここから、BANDAIアプローチの難しさも表れている。

 長所と短所。まずは長所について言うと、「布服ドールよりも簡単に着せ替えができる」、「原作のイメージに近づけられる」、「場合によっては関節部などのぎこちなさを隠せる」、「半脱ぎでバストを強調するなどして、お色気要素を取り込むこともできる」といった側面がある。いずれも、萌えキャラコンテンツとしては有効なアピールができる。
 FRSシリーズでは、「ホシノ・フミナ(BFT版)」(2020)が着せ替えを初めて導入した。ジャケットを着脱でき、ほとんど水着のようなスポーツウェア姿にすることができる。続いて、「ラクス」(2021)はロングスカートを着脱式にして、脚部可動および脚部素肌露出を可能にした。「ノワール」(2023)は、事実上3段階に着衣を脱がせることができるし、最新作「エリー」もジャケット着脱やエプロン装着ができるというサーヴィスぶりだ(※このように見てくると、2021年の「紫々部シオン」が白衣着脱できなかったのは不可解に思える。過渡期的な製品だったのか、それともコストなどの問題があったのか、あるいは二軍スタッフによる練習だったのか……)。発売予定の「ルナマリア」も、パイロットスーツを半脱ぎにして胸部を強調できるようだ。また、「チュアチュリー」(2024)も、着衣ではないものの、下半身のしゃがみポーズ差分を入れている。
 パーツ差し替えによる着衣変化は、可動確保や造形維持の観点でも、一定のアドヴァンテージがある。KOTOBUKIYAにように力業で関節構造を仕込む必要がなくなり、キャラクターの美観を保持しやすい。とりわけ布服路線の着衣キャラをプラモデル化する場合は、これが最も妥当な解決法になるというのは理解できる(※装飾の少ないスリムな近未来バトルスーツであれば、差し替えの必要は小さく、差し込み穴を空けておけば済むのだが、ジャケットなどの上着を着込んだり、ジッパーを開いて胸を露出させたりする場合はそうはいかない)。

 ただし、短所もある。ロボットプラモであれば「様々な武装を換装できる」というのに相当するが、ガールプラモの場合は大掛かりなパーツ差し替えにならざるを得ない。もちろんそれは、コスト増(価格上昇)にもつながるし、モデラー側としても、使わない差分パーツは「無駄」と感じてしまいやすい。これはあくまで、BANDAIにしかできない方法だと言うこともできる。すなわち、「内部構造をシンプルにしているので差し替えの余裕が確保できる」し、「大量生産できるので、差分パーツを入れても価格が程々で収まる」からだ。
 他社キットを概観すると、Aoshimaのガールプラモ(VFG)は、ある程度の自立性を持った武装(※それ自体航空機になる)をガールに盛り付けるというアプローチで解決を図っている。GSC(初音ミク)は着せ替えなしで単体完結するデザインを採用しているし、Guilty Princessはプレーンな下着素体シリーズに逃げた。KOTOBUKIYA(創彩)も、今のところは一つのキットの中での着せ替えは導入していない(脚部などのポーズ差分パーツはある)。そうした中で、annulus「宝多六花」が冬服/夏服差分を入れているのは、ずいぶん頑張っていると思う。海外キットの場合は、着せ替えどころか「武装モード/素体モード」の丸々2人分を作れる形にしている。


 2010年代の模型界は、ロボットプラモが依然として充実しており、艦船模型も再興して(海外メーカーキットの急増)、AFV分野も新規メーカーが参入したし、さらにガールプラモも飛躍的に拡大して、たいへん豊かな時代を過ごすことができた。
 しかし20年代に入ると、これらが反転してしまった。BANDAIは予想外のガンプラ払底を起こしたし、スケールモデルも急激に退潮してしまった。国内メーカーでは、FUJIMIが急墜し、HASEGAWAも旧キットの出し直しばかりで、きちんとした新作キットを出すのはTAMIYA(航空機やAFV)とPIT-ROAD(護衛艦キット)ばかりになってしまった(※ただし、グローバルに見れば、AFVインテリアモデルや、海外製のハイエンド艦船模型、3D造形アフターパーツといったフロンティアが開拓されて、新たな魅力を生み出しつつある)。ガールプラモ市場もそろそろ頭打ちになり、新機軸も現れにくくなった。
 フィギュア分野でも、似たようなことが起きていたと言えるかもしれない。10年代は品質と多様性とセールスがなんとか両立していたように思うが、20年代の現在はいよいよ価格高騰しつつ(3万円台も普通になってしまった)、新作製品の数と広がりが乏しくなってきたように見受けられる。長く続く不況がオタク層の財布にいよいよ深刻なダメージを与えているという事情もあるだろう。海外製品がまだ元気なのは、せめてもの救いか(※とりわけ15cm級の可動フィギュアは、新たな分野として確立されつつある)。




 04/23(Tue)

 自分の社会生活サイドでは、なんとかそれなりに満足できるくらいの成果……いや、「成果」とまでは言えないものの、「このくらいやって来たら、社会的な役割を果たしたり、この世界に何かを残したりすることについては、ひとまずは十分かな」という手応えはある(※まだそんな年齢ではないし、ろくなことをしてきたわけでもないけれど)。
 趣味生活サイドでも、自分の人生を十二分に豊かにしてくれる(してくれた)ほどの創作物に出会えてきて、本当に、本当に幸せに生きてこられた。音楽の感興、ゲームの衝撃、漫画のカタルシス、アニメの魅惑、そして哲学的思索への沈潜に至るまで、人生を生きるに値するだけの大量の忘れがたい体験をしてきた。ただし、こちらについてはたくさんの心残りがある。あのゲームもこのゲームもプレイできていないし、イラストなどで興味を持ったあのキャラクターやそのキャラクターが登場している作品本編も、まだ全然視聴していない。敬服しつつ真剣に聴くべきあの声優さんやその声優さんの出演作も、ちっとも追いきれていない。連載中のあの漫画やこの漫画の行く末も、見届けていきたい。……もちろん、これからたぶんまだ数十年は生きられそうな中で順次取り組んくでいくことが出来るはずだけど、それでも結局は、人生の時間がまるで足りない。
 ソフトハウスキャラについては、幸か不幸か、その終わりまでをファンとして見届けることができたが、そこには満足や解放感だけでなく、「もっと続いてくれていたら」という悔しさもある。様々な創作物に向き合っていき、多くの創作者たちのファンであり続けるかぎり、そうした苦い喪失感に直面することも、今後また何度でもあるのだろう。


 プラモデルのパッケージアート(ボックスアート)というと、日本国内のガールプラモは、レイアウトやポージングの面白味に欠けるうらみがある。萌えキャラの全身を見せるために、正面を向いた無難なポーズで棒立ちになって、全身をフレームインさせているものが多い(特にFAGシリーズが典型)。このあたりはもったいない。
 それに対してアオシマのVFGシリーズは、力強くて華やかなイラストを描いてくれていて気持ち良いし、chitoceliumシリーズもhuke氏のイラストを前面に押し出している。中国のガールプラモも、自由なポージングやダイナミックな構図を採用しているし(例えば「錦衣衛」は、背中側からの振り返りポーズだ)、さらにはパッケージ(上面)に一切ガールが描かれていないという大胆なデザインもある。
 個人的には好みなのは、VFGのパッケージアートかな(※イラストは新米氏)。広々とした空を背景に、ガールたちが楽しそうにしているのが良い。メガミデバイスでは、「金潟すぐみ(臥薪)」のパッケージアートが抜群に格好良い。イラストはピナケス氏によるもので、全身構図ながら、かなり凝ったポージングをさせて、立体感も映えるようにきれいに描いている。もちろん買ったし、パッケージアートの色合いに寄せて塗装して、パッケージどおりのポーズも取らせたくらい。最近のものだと「ルビーアイ」も、縦長レイアウトですらりと立って槍(メス)を構えているところが、妖しい緊張感を漂わせていて魅力的。
 個人的に苦手なのは、萌えミリ系によくある、武器を構えた前のめりのポーズ。それに対して、堂々と仁王立ちになっているのは大好きだし、上記のような見返り美人型のテクニカルなレイアウトも大好き。「TIGER & BUNNY(MG)」のように、複数のキットのイラストがつながっているという仕掛けも楽しい。

 スケールモデルだと、Meng Modelの「メルカバ Mk.4M」のパッケージアートが一番好き。車体を正面から撮りつつ、砲塔は真横に振り向けているという非常に珍しいイラストだが、レイアウトが見事。イスラエルものだと、AFV Clubの「自走榴弾砲 ドーハー(M109A2 Doher)」も、珍しい縦長パッケージアートが印象的。……まあ、そのイスラエルは現在あんなことをやらかしているので、見るたびに気落ちしてしまうのだけど。
 艦船模型は、細長い船体のせいでレイアウトが大きく制約されるので、パッケージについては正統派の迫力あるイラストが多い。現用艦の場合は実艦写真をパッケージしている場合もある。外連味のあるパッケージというと、Aoshimaの不審船やヘリ空母や弾道ミサイルのようなイロモノばかりが話題になってしまう。
 ネタ枠だと、「1/35 US and German paratroopers」というシロモノもある。1944年の南欧で、上半身裸で水浴びをしている女性たちを、米独の兵士たちが覗き見をしているシチュエーション。おばかプラモとして、つい買ってしまった。


 キューブリック版『シャイニング』には毀誉褒貶があるけれど、私としては「あの見せ方こそが良い」と思う。あの作品のホラー要素には、「館の呪い(?)」、「過去の虐殺」、「シャイニング(幻を見る力)」など、複数の着眼点があるが、それらの中でも「家族が邪悪になってしまった」という点に集中しているのがキューブリックなりの解釈だと思う。すなわち、「守るべき家族、信頼しあえる相手、安らげる同居人だった筈の存在が、怖ろしい迫害者になって家族を威圧し、武器を持って家族を追い回し、さらには殺害しようとする」、そういう恐怖だ。
 そのような状況の怖ろしさを表現するのは、一般的なホラー映画のように「驚かす」やり方ではいけない。館の呪いに染まってしまったジャックの言動を、いきなり出てくるビックリ箱のように描いたら、むしろ作品の意味づけを裏切るものになってしまう。ジャックは、物語の最初からすでに居る存在なのだ。家族(父親)が、いつの間にか邪悪な呪いに精神を侵されているにもかかわらず、妻と息子はずっと同居していなければならない。ずっとそこにいるのだ。ずっと家庭内にいる存在なのだ。
 例えば、タイプライターの意味不明な羅列文章を妻が見つけたときに、その背後からジャックがにじり寄ってくる。それは、「いきなり現れて驚かす」であってはいけない。滅茶苦茶な文言がタイプされた紙束を見て、夫の精神が異常なものになっていることに気づいた妻に、その背後からじわじわと近寄ってくる。ここの演出は「怖くない」「驚きがない」としばしば批判されているのだが、ここで「虹酔ってくる同居人の恐怖」として描いたキューブリックの見識は、完全に正しいと思う。それは正体不明の怖さではなく、あくまで既知の怖さ(既知だったものが変質した怖ろしさ)なのであって、それをビックリ箱の怖さとして表現するのは間違いになる。

『シャイニング』(01:17-)より。妻の背後からじわりとフレームインして、「俺の作品は気に入ったか(How do you like it?)」と呼びかけるジャックは、黒い影でしか表現されていない。父であり夫であった筈の彼は、もはや一緒にいて安らげる存在ではなく、家族に対して恐怖を与える加害者になっている(3年前のDV行為の時からすでにそうだったのかもしれないが……)。

 もちろん、別様の構成も出来る。ジャック自身の存在やアイデンティティ危機や後悔(※過去に息子に対して暴力を振るってしまったことを悔やみつつ、その件で彼を責める妻に対しては恨みを抱いている)を、物語の中で小さく見積もって、ただ「館の恐怖」「呪いの恐怖」「超自然的なシャイニングの物語」として作ることもできる。……でも、それでは、ただビックリさせるだけのホラーだ。何かよく分からない異物に襲われるだけのホラーだ。それはそれで構わないけれど、そのように作ってしまうと、キューブリック版『シャイニング』が表現したような――そして高く評価されている所以であるところの――、上記のような特別な深刻さや特異な地位が失われてしまう。
 余所でも書いたが、『シャイニング』の構図は、いかにも現代的な陰惨さに満ちている。社会的に不遇を託っている男性が、白人至上主義的で家父長制的な抑圧的文化の残滓に取り込まれてしまって、妻(女性)を脅し、息子(未成年者)を追い回し、アフリカ系男性(異人種)を殺害してしまう。そういう観点でも、本作で恐怖をもたらす存在(ジャック)は、けっして「未知の超自然的な怪奇」などではなく、「我々にとって既知の、そしてその邪悪にいつでも陥りかねない姿」だ。そういう怖ろしさとして描かれているし、そのような社会的な恐怖として受け止めることが、本作の意義を最も大きなものにするだろうし、このように人間性の怪奇としてホラー映画を構築したのはいかにもキューブリックらしい。


 話題の仮面なんとかは、たしかに米国発でありながら日本オタク的なキャッチーさにも通じるところがあり、アメコミ文化における既存の事例(例えばグリヒル氏やペニー・パーカー)ともまた違った路線になっていて面白そうではある。
 ただし、キャラ属性の分布、あるいは視覚的なキャラデザについては、メインが白肌キャラばかりなのがちょっと気になるところではある。日本で「記号的なデフォルトとしての白肌キャラばかりの作品」なのと、「米国で白肌キャラばかりの作品」とでは、社会的文脈や意味づけの受け止められ方が大きく異なってしまうと思うし、褐色肌キャラが一人もいないのはちょっと不気味なのだが、設定を見るかぎりではアジア系(日本出身キャラやフィリピン出身キャラ)はいるようだし、あくまで「記号的表現としての、色の無い素肌彩色」という扱いなのかな。主役級キャラも、プロテスタントではなくカトリックのようだし(※おそらく意図的にWASPの"P"[Protestant]を外している)、このあたりが現代米国の(保守寄りの)ギーク文化のぎりぎりの限界線なのかもしれない。
 いずれにしても、社会的なデリカシーの問題に触れかねないところではあり、現代日本のOTAKU文化のそういう鈍感さには懸念を抱きつつあるが、しかしOTAKU的センスが他地域に対しても新たな文化的刺激をもたらしていったり、アジア(人)に対する公平な認知および文化的尊重を促進したりしてくれるなら、それはそれで良いことなのかな……。
 『TIGER & BUNNY』のように、さまざまな社会的属性を並べてはいても、それぞれがあまりにもステレオタイプ的に描かれているというのも、それはそれで問題だけど。中国系のキャラはカンフー的な格闘少女だし、アイドルキャラは金髪白人女性だし、ヒスパニック系らしきキャラはパワー系だし、成功者のトップヒーローはユダヤ系っぽいし、アフリカ系キャラはいわゆるオネエ言葉で世の中を見通したようなことを言うゲイ男性だし……。
 ちなみに、現代日本でも外国籍者は300万人を超えているとのことだから、同質性云々はリアリティの問題としても説得力を失っていくだろう。



 04/17(Wed)

 『第七王子』については、各回の感想を専用ページに書いていくことにした。
 良いところもあるが、漫画版のベタ真似ばかりなのが、見ていてつらい。
 私自身の嗜好としては、力任せ(資金任せ)で絵を動かしまくるような作品や、原作にただ忠実なだけの作品にはあまり興味が無くて、アニメ版ならではのコンセプトを確立させてそれをきれいに突き通してくれるような作品が好みだ。前期の『望まぬ不死』は、小粒ながら最良の成果を出してくれたし、昨年の『のんびり農家』も、アニメ媒体の視聴覚演出を生かして原作の「のんびり」な雰囲気を最大限に引き出していた。

 【 石沢庸介氏の漫画について 】
 『第七王子』は原作小説のある作品だが、漫画版があまりにも石沢庸介テイストなのが面白い。
 石沢氏の最初(?)の連載『超人学園』(2009-2013)からして、世間並の生き方から外れた者たちが幸せに生きていける場所を作ろうとする物語だった。しかも彼等は、それぞれに異能を持った「超人」たちでもあり、オリジナリティ溢れる異能のアイデアが大きく展開されていた。また、掛詞や洒落のようなネーミングセンスも、この時点で明確に発揮されていた。現在連載中の『第七王子』でも、周囲から忌み嫌われる異能の者たちが幸せに暮らせるように「ロードスト」の国を運営させ、そこで魔術の新たな可能性をも追求していくというのが、作中世界の大きな軸の一つになっている。また、『第七』原作からの大きなアレンジとして、ヴァラエティ豊かな中ボスキャラを大量に登場させていくのも、いかにも石沢氏らしいと思える。必殺技のネーミング趣向も同じく。
 『忍のBAN』(2015-2016)は、和風の架空世界を舞台にして、これまた様々な独創的な忍術を使って暴れまくる異能バトルものだった。残念ながら短期連載で終わったが、ダイナミックな全身運動とその爽快感をしっかりと作画/演出していくところは、『第七』の下地としてもしっかり活きているように見える。異能(忍術)のアイデアも、「磁遁」や「油遁」といったユニークなものだし、「人々が笑って暮らせる世界を目指す」という思想もはっきり示されている。キャラクターについても、魅力的なショタ王子(主人公が仕える主君)や、『第七』のタオのようなツッコミキャラが登場していて微笑ましい。
 さらに『星と旅する』(2017-2018)は、空中に浮かぶボール状の土地(家星)をふわふわ動かしながら他の星と交易したりレースをしたりする、優しい物語だった。規模は小さくとも、自分たちの幸せな暮らしをどこかに見つけようとするロマンティックな憧れが、全編の基調を成している。男性主人公は、一見おっとりしているが、戦闘力が非常に高かったりするし(一種の昼行灯タイプ)、ヒロインも薄い胸のかすかな膨らみがやたら丁寧に描かれていた(初期ロイドの色気にも通じるだろう)。強引に喩えるなら、この二人の擬似親子的関係は、『第七』でいえばジェイドとレンを連想させるような雰囲気もある。絵柄についてみると、石沢氏としては珍しく、極端に細い描線と繊細なグラデーションで作画されているのが特徴的で(※他の石沢作品では、もっと荒々しく力強い筆触を活用している)、漫画家の技術の引き出しの多さを体験できる。
 石沢氏の作品を読み続けてくると、キャラクターたちの善良さ、とりわけ被迫害者たちに向ける優しさ、人間の努力研鑽によって到達された境地の美しさと強さ、そしてその精華が形になって発揮される瞬間への強烈な憧れ、そういったものが常に感じられる。私自身は、『第七王子』の途中からの読者だが、遡って旧作を読んでも、石沢氏らしさの一貫した世界ははっきりと感じ取れる。
 『第七王子』は、原作小説では「異常な魔力を持った主人公が、呑気にも孤独に魔術の可能性を追求していく(悪役たちはただのおまけのように、あっさりと撃破されていく)」という路線の作品だが、それを石沢氏の漫画版では、「超人的なボスキャラたちとの劇的な戦いの中で、魔術と武術の高みがきらびやかに展開される(悪役たちにも、精神的な決着や救済が差し伸べられる)」というアプローチへと大改造を施している。こういったアレンジの仕方は、つくづく石沢氏らしいと思う。


 私が以前いたmstdnサーバーは、月間アクティヴユーザーが6300とずいぶん減ってきたようだ。たしか昨年夏頃には月間アクティヴユーザーが7000に達していたのだが、そこからは下降していって、今年の頭に私が離脱した時点で6700人くらい、そしてこの3ヵ月半でさらに減少している。
 mstdn界隈全体としても、昨年夏頃がアクティヴユーザー数のピークで、そこからずっと漸減傾向にある。優秀な方がたくさんいらっしゃるSNSだし、機能面で見ても将来性のあるサーヴィスなので、上手く発展していってほしいところだが……。
 私自身は、そちらのサーバーからは撤退したが(※個別の連絡を取るのには使うが、日常の投稿はしない)、別のサーバーではたまに非収載投稿をしたりしている。実のところ、ソーシャルな場に出て行って何かをすることはけっして必須ではないと思うし、一人で気楽にやっていきたい。



 04/11(Thu)

 ガールプラモ年表のページは、そろそろページが長くなってきたので、20年区切りで2026年分からは新しいページに移行しようかな……って、20年!? そうか、「ねんどろいど」「武装神姫」(2006年)からすでに18年、Hasegawa「フェイ・イェン」(2007)から17年、Kotobukiya「ホイホイさん」(2009)から15年も経っているのか……。


 WILL/Guiltyの作品は定期的に買っているけれど、睫毛のハイライトに赤やピンクのヴィヴィッドカラーを乗せまくるのはちょっと苦手。


 Littlewitchの『白詰草話』は、「なんかすごそうな新規メーカーが現れた(大槍氏は家庭用ですでに実績あり)」、「フルアニメーションのOPムービーは当時非常に珍しかった」、「本編の視覚的構築がきわめて特異なもので、そこが大きな注目を集めた」という感じだったかな。これら大量の話題性の中では、OPムービーが『エヴァ』っぽい云々というのは、マイナーな論点にすぎなかった。もちろん、そのあからさまな模倣表現は、多くのユーザーが気づいていたと思うが、「とにかくこの品質のアニメーションムービーを出したこと自体が称賛されるべきだし、作品全体のコンセプトにも合っている」くらいの捉え方だったと思われる。

 美少女ゲームの(OP/デモ)ムービーは、90年代のうちには大きくアピールされるようになっていた(『To Heart』[1997年]がハイクオリティな主題歌を使ったことで、注目されるようになった)。そしていくつものタイトルが主題歌とOPムービーを出すようになったが、00年代初頭までの数年間はまだまだ未発達で、OPムービーの出来もチープなものが多かった。動画形式ではなく、プログラムで静止画を動かしていたり。
 状況が大きく変わったのが、まさに2002年だった。上記『白詰草話』や『うたわれるもの』などが、力の入ったアニメーションムービーを打ち出してきたし、アニメーションでないOPムービーも、飛躍的に品質を上げてきた(画質も、演出の質も、両方とも)。F&C(FC03→SkyFish)が頭角を現してきたし、AC-Promenadeのデビュー作『SinsAbell』も2002年。翌2003年の『Maple Colors』もアニメーションムービーを使ったし、ネタムービー(電波主題歌)として有名な『巫女みこナース』(2003年)なども、同時期の作品。
 さらに00年代半ば以降は、ユーザーのHDDに余裕が出来てきたり、ディスプレイ解像度が上がったりしたこともあって、派手で凝った作りのデモムービー/OPムービーが制作され、そして公式サイトや有志の配布サイトで公開されていった。とはいえ、ムービーのファイルサイズも1個あたり100MBに達していて、当時としてはかなりHDDを圧迫したが。有名な『いただきじゃんがりあんR』が2005年だし、『カルタグラ』も2005年。個人的には『ウィズ アニバーサリィー』(2006年)のムービーなども思い出深い。


 STP/胃~之煮をしばらく聴いていなかった。宴会収録をひとまとめに聴きたかったのと、今回のサブタイトルが芸能スキャンダル問題に関して無思慮なので気乗りしなかったのと、両方の事情があったため。とはいえ、放置したくはないので、休日にまとめて視聴して最新分まで追いついた。


 2022年から2023年にかけてのガールプラモ分野は、長年の課題のいくつかを解決したと思う。すなわち、「衣服表現の確立」(30MSアイドル衣装など)、「十分な可動構造と組立容易化の両立」(30MSとBuster Dollシリーズ)、「入手しやすく一定の品質を保った素体キットの提供」(これも30MS)、「説得力のある頭髪造形」(annulusやBANDAI)、等々。
 これはこれで良いのだが、言い換えれば、いったん「歴史の終わり」を迎えてしまったようにも見える。つまり、分野内の新機軸が見えてこないのだ。ボディサイズは15cm級に収斂してしまって多様性が乏しくなったし(※以前は、各種のSDキットや、大型固定ポーズキットFigure-rise LABO、18cm級のGFP「マリー」「フィーナ」などがあった)、中途半端な武装盛り付けキットばかりになってデザイン面での目新しさが失われた。FAG「フレズヴェルク」「グライフェン」のような変形機構ギミックも、かなり稀になった(b/VOLKSの蛮勇と、VFGのマンネリが残っているくらい?)。
 技術面での既存の課題は克服したものの、美意識や着想におけるフロンティアが現れにくくなった(のであるならば)というのは、創作的分野としてはけっして良い傾向ではない。2024年以降のガールプラモは、どのよう方向に進んでいくのだろう? 「キャラクターコンテンツとの連動(メディアミックス)」と、「安価な価格帯の追求(一時期の8000~9000円台に対して、6000円台のキットが急増した)」の2つはありそうだが、これらは新たな面白味を作り出すものではない。うーん……。

 展望の見えづらさはユーザーサイドにもある。「モデラー型、つまり自由でクリエイティヴな模型制作の一種として取り組む」のか、それとも、「ファン型(オタク型)、つまり既存キャラの立体化をリーズナブルに入手する」のか。もちろん、どちらもあり得てよいのだが、両立しにくい方向性なので、市場としては潜在的に分断されているのかもしれない。
 モデラー向けのガールプラモを提供しようとすると、拡張性考慮などに足を引っ張られるし、セールスにも限界がある。それに対してファンアイテム志向のガールプラモだと、それぞれがワンオフキットになってコストが嵩むし、広がりに乏しくなる。メーカー側も舵取りが難しいだろう。
 興味深いことに、海外(中国)メーカーはどちらでもない。原作の無いオリジナルガール路線で、武装盛り付けのボリューム感とギミックの面白さによってユーザーを掴むという、第三の道だ。これが日本のメーカーにも出来たら良いのだが……。



 04/02(Tue)
 今期は『第七王子』を視聴していく予定。

 説明的な長いタイトル(サブタイトル)というと、昔のTVドラマにも似たような文化があったらしい。「湯けむり○○温泉殺人事件 むにゃむにゃで起きたほにゃららな事件、その○○××の影には、あれこれでなんとかな真相が!!」みたいな感じの。さらに遡れば、有名な「川口浩探検隊」は1970年代後半からやっていたらしい(1973-1986年)。こういうのも、媒体(メディアの形態)に依存するところが大きいのだろう。

 蔵書整理をして、漫画もだいたい配列できたおかげで、続刊を買うたびに既刊の読み直しが捗ること捗ること……。再読はとても楽しいし、読み返しによる発見も多いが、時間が取られてしまうのは良いのやら悪いのやら。

 今年度も、本業についてはひとまず大過なくやっていけそうだが、それ以外にいろいろ難しいところが出てきている。困ったものだが、趣味生活は維持していけるようにしたい。


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 ある映像作品の演出について。元コンテンツのことは知らないが、指摘は理解できる。頭部だけをポンポンすげ替えていくような映像は、まるで3Dゲームのキャラメイクのような単なるガワ変化の加工に見えてしまい、各キャラの個性が一つの型に押し込められてしまっているように見える。そういう印象を持つ人が一定数現れるのは、これは仕方ない。
 とはいえ、この演出が目指したのであろう映像的な意味づけも、たしかに理解できる。「たくさんのアイドルが登場するけれど、どのキャラが踊っているつもりで捉えてくれてもいい。誰もがそこに立つことができる、誰でも主役になることができる」ということだろう。しかし、この映像の見せ方では、「誰でも目立てる」(可能性の平等)というのが、「誰でも同じ」(どれでも互換可能)にも見えてしまう。これでは失敗だという意見も、たしかに理解できる。
 ただし、この失敗は、演出コンセプトそのものに由来するというよりは、演出方法のレベルでの技術的失敗だと言うべきだろう。そもそも、見たかぎりでは、各キャラクターの全身モデルはそれぞれ異なっている(※例えば肌の色合いやバストサイズ、それから胸部の羽根の色の違い)。だから、各キャラのモデリングそれ自体が画一的だというわけではない。それなのに、キャラクターが切り替わっても肩口のレイアウト位置をぴったり一致させてしまっているせいで、頭部だけがスロット式に置き換わっているように見えてしまう。位置を合わせるべき基準は、そこではなかったのに。
 さらに言えば、肩幅などを含めた体格がほとんど同じ(!)に見えるのが、画一性の印象を助長している。スリムキャラもグラマラスキャラもいないので、身体的/視覚な個性の広がりが見えてこない。目の高さもすべて同じだし、頬のシルエットもみんな一様にタマゴ型だ(※似通いすぎていて、型に嵌められているようで不気味だ。判子イラストレーターに喩えられるのもやむなし)。顔がずっと真正面を向いたままなのも(※おそらくキャラアピールのためだが)、「頭部だけスロット」の印象を強めてしまう。結果として、キャラクター切り替わりによる視覚的面白味が無くて、ただ頭部だけがすげ替えスロットされているように映ってしまう。
 肩口の位置を合わせるのではなく、身長や体格に合わせて上下にずらしたりするだけでも、十分に印象は異なったものになっただろうに……。あるいは、一人一人の尺をもっと長めに取っていくとか……。頭髪を派手に揺らしたりして、キャラごとの個性を取り込んでいくとか……。素肌の色もまったく同じに見えるので、褐色肌のキャラを目立ちやすい順番にしておくとか……。小柄キャラや大柄キャラをちゃんと反映させるとか……。何かしら、やりようはあった筈だ。
 似たような話は一昔前のアニメにもあった。ダンスシーンで全員の動きがぴったり一致しすぎていると、かえって不気味に見える(ロボット的に見えてしまう)というものだ。不揃いな揺らぎを入れなければ、臨場感や実在感が生まれないという意味では、今回の件もそれと多少近いところがありそうだ。
 引用コメントでも言及されているように、30MSのプラモデルであれば、「頭部とバストサイズと太腿以外はいっしょ」であっても割り切って見られるのだが、映像表現の中でキャラクター間の個性の違いを抹消しかねないような演出をするのは、上手いやり方とは言いにくい。
 実を言うと、私自身は「こういう演出もありかな」と思うのだが、それは私がアイドルものにまったく興味が無く、個々のキャラにも思い入れが無いからだろう。架空のアイドルたちが画一的であろうが互換可能であろうが、私は困らないからだ。しかし、一人一人のアイドルキャラたちに人格的な独自性を見出そうとしている視聴者にとっては、これはつらい映像になるかもしれない。そういう怖さは、私にも察せられる。

 上の話はどこかのSNSにでも書き散らしておこうかと思ったが、文字数が少なすぎたので断念して、このブログで書くことにした。一つのまとまった思考を丁寧に書ききるには、300字でも500字でも、あまりにも足りないのよ……ましてや140字しか書けないソーシャルメディアが、どれほど粗雑でいかに粗雑な言葉遣いを私たちに強いてきたか(強いているか)は、想像に難くない。
 ちなみに、上の文章は約1500字。一つの主題について概観するには、2000字くらいまでキャパがあるとよい。研究会の要旨をまとめたレポートなどでも「最大2000字程度」が多いし。


 原作と翻案作品(コミカライズやアニメ化)の関係について。私自身は、自由にアレンジしてよいと考えている。媒体の違いに応じて表現形式の違いが不可避的に生じるので、「原作そのまま」「原作に忠実」というイデオロギーには意味が無いし、単なる模倣物であるならば、元の作品を見ていた者にとって新鮮味が無い。
 原作との関係については、「それを原作として持つ意味」が確保されていればよい。例えば、台詞回しに特別な面白さがある原作であれば、それを維持するor強調するようなアニメ演出にするのが良いだろう(ただし視覚的表現やストーリー展開はアレンジしてもよい)。主人公の設定に凝った特徴がある原作であれば、その点はきちんと維持しつつ、ストーリー展開は自由に膨らませてもよいだろう(そうでなければ、わざわざその作品を原作として漫画化/アニメ化する意義が無くなる)。謎解きに眼目のあるミステリ作品であれば、トリックの骨格を再現するようにしつつ、そこ以外の視聴覚的演出は実写版独自の雰囲気を作り出しても面白いだろう(原作のトリックを無視するくらいならば、原作付きにする必要は無く、最初からオリジナル作品としてやれ、という話になる)。原作小説ののどかな雰囲気が人気の源泉であった場合は、それを尊重する方がよいだろう(大枠のシチュエーションは維持しつつ、激しいドラマをどんどん投入してもよいのだが、その場合は通常以上に説得力のある表現が求められるだろう)。
 近年でも、ファンタジー小説の漫画版では、ストーリーやキャラクター設定を大きくアレンジしているものはそこそこ多いし、そうしたアレンジ(内容の拡充)をしたおかげで大きな人気を博したコミカライズもある(上記『第七王子』は、まさにその代表例だ)。