2024/09/15

2024年9月の雑記

 2024年9月の雑記。

今月の一枚。BANDAIのプライズフィギュア「2.5次元の誘惑 ペンフレ! 天乃リリサ」。左記写真で手に持たせているのは模型用のデザインナイフだが、それ以外のペン類も持たせることができる。

 09/18(Wed)

 新しい眼鏡の使用感に、ようやく慣れてきた(視界の見え方にも、眼鏡の装着感にも)。ただし、ヘッドフォンを付けたまま眼鏡を着脱しようとするとサイドが引っかかりやすいのは、想定外の問題だった。原因は、ツル(テンプル)がちょっと外側に湾曲していて、ヘッドフォンに干渉しやすくなっているため。まあ、この程度であればすぐに慣れる筈。


 あまり良くない姿勢でゲームを長時間プレイしていたせいで、左肩が痛い。SLG(キーボードプレイ)では特定の動作を延々繰り返すことがあって、それは特定の筋肉を特定の仕方で反復動作させることになるので、局所的に大きな負担が掛かる。


 気分転換のために、久しぶりにスケールモデルを手掛けている。
 模型制作の原理論、方法論として、何を目指して作るのかが問題になる(あるいは、それを意識化して取り組みたい)。スケールモデル分野では、「実物の再現」を目指すのが第一目的になるが、それも一概に答えが決まるわけではなく、様々なアプローチが考えられる。おおまかに言えば、
1: 実物(モデル元)に在るものを、あるがままに再現する。
2: 実物に在るものが、見て取れるように再現する。
3: 実物を見たときと同じような姿に再現する。
4: 実物がそうなっていたであろう理想的な姿を再現する。
少なくともこのくらいの違いはある。

 例えば、1/700縮尺の小さな艦船模型でも、実艦には細い空中線が張り巡らされている。これについて、
 1)の立場であれば、できるかぎり正確な縮尺で、つまり極限まで細い金属線を使って、実艦どおりに張り巡らせることを目指す。実際には、かなり無理のあるアプローチになるが、誠実(忠実)ではあり、模型制作の一つの理想ではある。
 2)の立場であれば、空中線は、当該艦船の機能-構造において、確かに存在するものなので、それがはっきり見て取れるように再現する。つまり、計算上の縮尺を外れてでも、空中線が模型として視認できるように表現する。例えば、太い金属線を使ったり、あえて濃い色で表現して目立ちやすくしたりする。これはこれで、実艦構造の理念的な再現として、意味のあるアプローチだと言える。
 3)の立場であれば、1/700という極小スケールに変換したならば、空中線など見える筈が無いと考える(※現用艦の写真などでも、ほとんど見えないことが多い)。それゆえ、このアプローチでは、空中線は適宜省略することが認められる。むしろ、太い空中線が悪目立ちすることは、実艦らしさや見た目のスケール感を損なうものとして否定的に見られるかもしれない。
 4)の立場は、個別的な判断や価値観に左右されるところが大きい。例えば、戦闘中の状態を再現しようとする場合などでは、付けないという判断もある。作品全体のディテールバランスを考慮する場合も、これに近いアプローチになる。ジオラマ分野にも親和的な発想だろう。

 同様に、錨鎖や手摺を「どのように再現するか」、「どこまで再現するか」、そもそも「再現するか否か」の判断は、モデラーごとに異なっている筈だ。砲身についても、「艦船の迫力を表現するために、大きめに造形する」というアレンジが、キットそのものに施されていることが多いが、それに対して、正確な縮尺どおりの再現を目指すものもある(※その場合、砲身はほっそりして、やや目立ちにくくなり、模型としての迫力も乏しくなる)。
 甲板面の金色のリノリウム押さえの表現も、しばしば議論されてきた。「実艦どおりに、極細の金色ラインをなんとかして表現する(エッチングパーツなり、専用のリノリウムシールなり)」、「実艦の構造を再現するために、リノリウム面の上から別パーツで乗せていく(エッチングパーツを使うなり、黄色の伸ばしランナーを接着したり)」、「実艦を遠景で眺めるときは、そんな細部まで見えた筈が無いので省略する(キットはうっすらとモールドが入っているだけで済ませる)」、等々。
 WWII期のIJN艦船のカラーリングについても、「所属港の違いを反映させるために、艦ごとに異なったグレーで塗り分ける」というモデラーは多い(※そのための「佐世保グレー」「呉グレー」「横須賀グレー」といった専用塗料も販売されている)。それに対して、「規程上は同一の混合比の塗料を使っている筈なので、常に同じ色で塗るべきだ」という考え方もある。さらには、「実艦写真では明らかに異なった色合いに見えるので、そのありようを忠実に再現するように、別々のグレーで塗り分ける」という思想もある。このように、どのような作り方、どのような見せ方を選択するかが、モデラー各自の価値観や方法論だ。
 他分野、例えばエアクラフトにも、特有の価値観が見出される。航空機のエンジンや、排気孔の内部は、完成状態では見えなくなってしまうが、それでもエンジンパーツを作り込んだり、わざわざ高価なレジン製アフターパーツを買って取り付けたり、排気孔ディテールの資料写真を探し回って実物どおりに再現したりする。これはまさに、「模型を作るのは、構造を理解するプロセスでもある」という観念の下にあると言えるだろう。完成状態の(表面上の)見栄えだけでなく、見えなくなるところまで忠実に作り込むという誠実さは、航空機モデラーの美質であり、また、実機(写真)を見る機会が多いエアクラフトならではの強みでもあるだろう。
 ただし、こういった方法論(制作ポリシー)の問題は、模型誌の制作記事でもめったに論じられない。AFV分野では、様々な制作技法が開発されているため、「この作品ではこのような見せ方を目指した」という方法論に言及されることがあるが、艦船模型や航空機、カーモデルなどではめったに見かけない。基本的には、ただ闇雲にディテールアップするためのテクニックが紹介するばかりで、忌憚なく言えば、そこには美学や方法論があまり感じられない。一応、ディテールアップのバランスを取りましょうというアドバイスはあるが、中途半端だと思う。つまり、「模型制作の哲学」は、まだまだ開拓の余地がある仕事だと考えている。きちんとした言葉で体系化した価値観を確立し、それを具体的な制作テクニックと結びつけることは、モデラーにとって大きな意義を持つだろう。

 私自身は、上の4分類で言えば、(2)に近い立場だ。実物がどのような構造で成り立っているかが、見て理解できるようなミニチュアを目指したい。例えば、立体的構造を見て取りやすくするために、AFVにカラーモジュレーション塗装をすることにも、かなり好意的だ(※もちろん実物には、そのような色調の変化は存在しない筈だが、それでも良いと思っている)。艦船模型の手摺がオーバースケールでも、「ここには手摺があって、乗員たちはここの梯子で移動していたのが」ということが見て取れるのであれば、取り付ける価値があると考えている。言い換えれば、各部の意味(機能)を適切に表現するような立体物を目指している。
 ただし、スケール感の合わないぶっとい手摺パーツが立っているのを、「美しくないし、リアルでもない」と感じる人もいるだろう。そういう意見の違いは解決できるものではないが、「この模型作品は、こういうコンセプトの下で作ったのだ」という理念のレベルで相手の作品を理解するようにすれば、モデラー同士で架橋できるところはある筈だ。そういう架橋のための土台作業になるのが、「模型の理念論」「模型の方法論」「模型の価値論」「模型の哲学」の語りだ。そうありたい。

 ロボットプラモやガールプラモでも、同じような論点が現れる。
 例えば、シンプル路線で、そのロボットの最も基本的な(プレーンな)姿として、ロールアウト時のきれいな状態で、ロボットそのものの魅力を最大限享受するという人もいる。あるいは、ロボットの構造を理想的に再現しようとディテールアップパーツを盛り込む手法もあるし、使用感を表現するために汚し塗装に凝るものもある。内部構造を再現したり、ハッチオープンの演出をしたりもする。さらには、可動機構もそのロボットの大きな構造上の特質なので、隠し腕をちゃんと可動させたり、モノアイ可動を仕込んだりもする。劇中のダメージ描写を忠実に再現するアプローチもある(その最たるものが「ラストシューティング」のポーズ)。

 ガールプラモでも、例えば頭髪塗装がしばしば問題になる(というか、モデラーごとに表現技法が異なる)。リアリスティックに毛筋を掘り込んでいくものもあるし、毛髪の軽みを表現するためにグラデーション塗装にするものもある。15cm級という小さなサイズなので、下品なツヤ出しではまずいと考えて、ツヤ消し(マット)にコーティングして無難にまとめるのもあるし、逆に、頭髪のつややかさを強調したい場合に半ツヤを吹くこともある。極端な場合は、植毛ドールヘアを利用するものもある。個人的には、「筆塗りを重ねて、細やかな毛筋表現をする(※手間を掛けてもいい場合)」か、あるいは、「パールコートで程々のツヤを出す(※キットの頭髪形状が十分に精緻な場合)」、「ツヤ消しコーティング(黒髪などで、上手い見せ方が出来ない場合)」など、いくつかのやり方を適宜使い分けている。
 素肌部分については、「入念な多重塗装でしっかりお化粧をさせる」という本格派モデラーもいるし、「無塗装のままで十分(※塗装するとジョイントが割れやすくなるし、擦れて塗装が剥がれたらみっともないという考慮も含め)」というスタンスのモデラーもいる。トップコートについては、「現実の人肌はツケ消しなので、プラモでもツヤ消しにする」というのは一種のリアリズム思考だし、「肌ツヤの色気が欲しいので半ツヤにお化粧させる」というのも、明確な目的(価値選択)のあるモデラーの判断だ。「血色表現(肉付きの実感)を追求したいので多重塗装やグラデーション吹きを重視する」というのもある。もちろん、キャラクターごとの個性の表現として使い分けることもできる。私の場合は「グライフェン」「ラプター」のような全身タイツルックが好みなので、人肌塗装に関する定見はあんまり無いが、BANDAIキットの素肌成形色はマネキンのようにべったりしていて苦手なので、レジンキットのような多重(血色)塗装をしたくなることがある。


 海外(英語圏)Vtuberは、模型制作をしながら流し聴きしていたが、最近はあまり聴かなくなっていた。3Dアクションゲーム配信で何時間もガンガン斬ったりバンバン撃ったりし続けるのは視聴していて辛いので、まあ、たまに聴くくらいで。

2024/09/13

VFG「フレイア・ヴィオン」完成写真

 Aoshimaのプラモデル「VFG:フレイア・ヴィオン」について(2024年8月発売、同9月制作)。

SF戦闘機とガールプラモを組み合わせたシリーズで、戦闘機を変形させてガールが騎乗することができる。さらにメカ部分を背負わせて(装着させて)ロボット型にすることもできるが、本稿では省略。

2024/09/07

「あやかふぇ」配信リンク集

 木村氏の配信ページへのリンク集。
 Youtube上のページ:[ https://www.youtube.com/@KimuraAyaka ]
 SNS上のアカウント:[ https://x.com/a_ya_ka_kimura ]

2024/09/01

漫画雑話(2024年9月)

 2024年9月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

 いけ『ねこむすめ道草日記』(最新刊の第20巻をたまたま買ってみた。連載開始は2008年とのこと)。タイトルどおり、猫耳主人公を中心にして、妖怪たちが日常生活に混じり合っている状況を描いている。人物はSD寄りの作画だが、背景がやたらしっかりと描き込まれていて、日常の空間的実在感を楽しめる。


 ツルリンゴスター『彼女はNOの翼を持っている』第1巻(大きめのA5判)。家父長制的エロマッチョを脱したor脱しようとする人々を描いている。例えば、親族男性へのお酌をしない女性、避妊具を茶化さない女子学生、友人たちの猥談に馴染めない男子学生など。主張内容はややベタで教条的で、そのためストーリーは上滑りしがちだが、恋愛告白シーン(149頁)の誠実な言い回しは印象的。
 個人の社会的関係におけるデリカシーを扱った作品としては、売野機子『ありす、宇宙(どこ)までも』第1巻も、興味深い内容だった。女性主人公「ありす」は、中途半端に多言語環境で育ったため、自分の言語能力が未発達のまま(つまり、日本語でも英語でも小学生並)というセミリンガルの状態にある。彼女がもう一人の主役キャラクター、男子同級生とともに学びながら、宇宙飛行士を目指していく。言語(母語習得)とアイデンティティ形成と世界認識のダイナミックな関わりが描かれるとともに、女性の社会進出とその障害や、両親を失った家庭環境やミックスルーツに対する偏見の問題も、小さく差し込まれている(※男子学生は養子になっており、そこに彼なりの鬱屈があるし、女子主人公は両親との思い出をきっかけに宇宙飛行士を目指す)。おそらく「再学習(教育の取り戻し)」と「宇宙飛行士への挑戦」の二つが物語の基軸になっていくと思われるが、能力的-社会的な「障害」の要素と、自己を確立して夢を追求するという「ドラマ」要素とがきちんと連動して、説得力のある物語を作り出している。

 【 漫画媒体と社会的メッセージを巡って 】
 障害やマイノリティの問題を、漫画として取り上げるのは良いことだ。社会的なメッセージを表現する手段として漫画の媒体を採用するのも、選択肢の一つだ。しかし、ただ作者自身の社会的主張の文章にコマ絵を被せただけのような作品や、作者が望むような社会関係を描くためにご都合主義的にキャラクターを動かしているだけであるならば、それははたして、フィクションの物語として作る意味があるのだろうか。そうした一方的な漫画に対して、読者は「いったい自分は何を読まされているのか」、「これが物語(フィクション)である意味は何なのか」という疑念を覚える。
 社会的な主張を提起したいのであれば、物語の登場人物に語らせるのではなく、論文なりエッセイなりノンフィクションなりの形式を取って、著者自身の言葉として提示する方が誠実だと思う。そして、そういう形式の書籍であれば、私は正面から取り組んで読む(実際、いろいろ読んでいる)。
 上記『NOの翼』がそうだとは言わないが、そういう困難に陥っている漫画作品に出会ったことはあり、そして、そういった作品に対する評価は――それが依拠し提起している主張内容の社会的な望ましさの評価とは別に――けっして高くはならない。自身の社会的主張を再現するための慰撫的妄想の物語は、なまじのノンポリエンタメよりもはるかに不誠実ではなかろうか。

 上記『NOの翼』にしても、以前に言及した『あいにくあんたの~』(今年4月付の漫画雑記欄)にしても、本当の意味での抑圧的強者や迫害的構造との対決を避けてしまっていることが気になる。
 『NOの翼』では、例えば、親族の集まりで男性たちに酌をすることを、主人公の母親が拒絶する。ただしそれは、男性たちと直接対立するのではなく、お酌をさせようとする同輩女性たちとの口論や、彼女たちからの陰口とその対応ばかりに終始している。
 また、学生が所持していた避妊具の扱いについても、女性養護教諭が避妊具の必要性を主張するのだが、事無かれ主義な中年男性教員と話したときは、ただ一方的な建前上の会話だけで終わっており、まともな議論は成立していなかった。本当の意味で対等な対話と本音の説得によってお互いの認識が深められるのは、別の女性教員との会話――つまり、抑圧の被害者同士の衝突とその解決――に委ねられている。
 女性の身体を不躾に論評する猥談の問題にしても、この作品では、高校生男子たち(つまり、弱くて未熟な未成年者たち)の間でギスギスしてしまったトラブルとして扱われているにすぎない。TVの煽情的なCMなり、親族会の場での成人男性たちの猥談なり、教員(成人)のセクハラ行動なりを取り上げることもできたのではないか。あるいは、それらこそが真に問題なのではないか?
 同様に、『あいにく~』でも、性差別的構造の本丸である筈の、家父長制的権力を行使する強者男性(例えばDV父親キャラなり差別的経営者なりパワハラ政治家なり)との対決は描かれず、むしろ無慈悲な新自由主義的競争そのものは肯定しつつ、いわゆる弱者男性を叩きのめして溜飲を下げただけという倒錯的な物語で終わっていた。
 せっかくそういう大事なテーマを正面から取り上げようとしているのに、何故そうなる……何故そこを誤魔化してしまうのか……何故そこから逃げてしまったのか……。(※いや、分かるけれどね……開き直った中高年男性たちとは、対等で誠実な会話をすること自体がきわめて難しいから。「厚かましいパワハラ上司男性」のようなキャラクターは、描きたくもないだろうし。そこまでタフな戦いを、著者たちに求めるのは酷だろう。でも、それを乗り越えて説得できる可能性を描き出せるのが、フィクションならではの強みじゃないのか?とも思う。『エクソシストを堕とせない』のように、30代くらいのマッチョ男性な陰謀論者の悪魔との対決を描いてみせる作品も存在しているのだし。)

 『NOの翼』や『ありす』は、思春期の悩める心を丁寧に描くジュヴナイル漫画として捉えることもできる。もちろん昔から存在するジャンルだが、男子学生のデリケートな心情を描いて商業的にも成立するようになったのは、近年の傾向かもしれない。小野寺こころ『スクールバック』(既刊3巻)はその代表例だが、先月刊行の小池定路『キラキラしても、しなくても』(上下巻)も、そうした路線に棹さすものと言える。ラブストーリーの型から脱して、恋愛感情ベースではなく社会的なアイデンティティ形成を巡る内省を目指しているのも、大きな特徴だろう。


 小池定路氏からさらに連想を広げるが、美少女ゲーム『終末の過ごし方』(1999)は、「相手を『少年』呼びをしてくる年上喫煙女性キャラ」に初めて遭遇した作品だった。しかも、「白衣(養護教諭)+喫煙+だらしない+タレ目+眼鏡+まとめ髪」という、ほぼ完璧なイメージどおりのキャラクター。
 このキャラクター類型は、どのあたりまで遡れるのだろうか。また例によって、高橋留美子が震源地だったりしそうだが(※『うる星』のサクラ先生とか……「少年」呼びはしていたかな?)。web上で言及されている実例は比較的新しいものばかりなので(主に2010年代以降)、もしかしたら上記『終末』は、案外かなり古い実例なのかもしれない。当時でも、なんとなくありがちな造形だったように思うが……。そして2000年以降のアダルトゲーム分野では、姉ものや年上もののタイトルがいくつも発売され、その中には「少年」呼びのキャラクターもそれなりにいたと思われる。
 漫画分野だと、まさにこのタイプのキャラクターを主役に据えた、赤城あさひと『少年、ちょっとサボってこ?』(全4巻)が、2019~2020年だった。この頃にはすでに、キャラクター類型の一つとして広く浸透していた筈。


 少年漫画規格の小B6判単行本いろいろ。
 橋本花鳥『ルキオラと魔境の商館員』第1巻。元勇者の女性主人公が商館員になって、魔物たちとの取引(商談)を通じて相互の平和を実現しようとする話。解決手段は人情ものベースで、細かな会計処理などは出てこないようだ。コマ組みも含めて、少年漫画風のテイストだが、折り目正しい漫画表現でしっかり読ませる(※作者は00年代前半からのキャリアがある)。ちなみに本作の世界像は、蒸気や銃器などが発明されている19世紀相当の技術水準。
 松井優征『逃げ上手の若君』第17巻は、独創的で目覚ましい表現もあるのだが、その一方で、非常に図式的な説明コマや、そういう説明を進めるためにキャラクターの動きが止まってしまう作為的な箇所が苦手でもあり、しばしば当惑させられながらも読み続けている。
 眞藤雅興『ルリドラゴン』第2巻。連載開始当初は「アフタヌーン誌のような路線を、少年ジャンプに持ち込んでいる」という認識だったが、新刊を読むと「高橋留美子的シチュエーションで、冬目景が描いているような雰囲気」になっていた。ドラゴン体質のせいで放電してしまうという突飛でユーモラスな状況と、そんな状況に陥った主人公の心情をゆっくり解きほぐしていくデリカシーの間のバランスが良い。
 空空北野田(そらからきたのだ)『深層のラプタ』第1巻。人格を持った軍事AI、つまり電子存在キャラクターが、とある少年との交流を通じて「心」を持つようになったという状況。人間に制御できない超技術クライシスものとしての側面と、一種のショタボーイズラヴの側面が結びついており、それが大ゴマの大胆な視覚演出によって展開されていく。


 以下、続刊ものなどのショートコメント(※作品それ自体は、以前に言及したものが多い)。
 つくしあきひと『メイドインアビス』第13巻。Made in Abyss=「アビス製」=「洞窟内部で作られた存在」というタイトルに絡めて、物語の背景状況がクローズアップされてきたが、ドラマとしての動きは乏しい。カバー下の裏表紙が邪悪。
 郷本(ごうもと)『破滅の恋人』第2巻。女子学生が不思議な洋館に訪れて、そこでミステリアスな年上女性と出会う。「楽園」誌らしく、落ち着いた微温的な物語。
 丸井まお『となりのフィギュア原型師』第6巻。一ページ4分割の四コマ形式。原型制作コメディだが、まるで実作経験があるかのような実感に満ちたディテールの描写が面白い(※作者のバックグラウンドは存じ上げないが、フィギュア本職というわけではなく、きめ細やかな取材をされているのだと思われる)。ちなみに、アダルトコミックの「丸居まる」氏と混同しかけていたのは内緒。
 ヨシカゲ『神にホムラを』第2巻。第二次大戦直後の日本を舞台にした、天才数学少女を巡る物語。ボサボサ頭髪の描き込みなども含めて、迫力のある作品。数学女性漫画としては、同じく講談社の光城ノマメ『天球のハルモニア』(全2巻)もあった。
 ヨシアキ『雷雷雷(ライライライ)』第3巻。身長4~5mほどの怪獣に変身してしまう少女の物語。怪獣といっても、丸っこい鬼のような可愛らしい外見で、個々の描写はユーモア寄りに振っているが、ストーリー進行はかなり激しく、異星生物に侵蝕された地球の対策組織でのシビアな活動が主な舞台になっている。変身バトルの描写が抜群に上手いし、人間側のバトルスーツも良いデザインだし、全身がズタズタにされる表現などもあり、とにかく読ませるパワーとテクニックのある漫画。