2024/09/15

2024年9月の雑記

 2024年9月の雑記。

今月の一枚。BANDAIのプライズフィギュア「2.5次元の誘惑 ペンフレ! 天乃リリサ」。左記写真で手に持たせているのは模型用のデザインナイフだが、それ以外のペン類も持たせることができる。

 09/18(Wed)

 新しい眼鏡の使用感に、ようやく慣れてきた(視界の見え方にも、眼鏡の装着感にも)。ただし、ヘッドフォンを付けたまま眼鏡を着脱しようとするとサイドが引っかかりやすいのは、想定外の問題だった。原因は、ツル(テンプル)がちょっと外側に湾曲していて、ヘッドフォンに干渉しやすくなっているため。まあ、この程度であればすぐに慣れる筈。


 あまり良くない姿勢でゲームを長時間プレイしていたせいで、左肩が痛い。SLG(キーボードプレイ)では特定の動作を延々繰り返すことがあって、それは特定の筋肉を特定の仕方で反復動作させることになるので、局所的に大きな負担が掛かる。


 気分転換のために、久しぶりにスケールモデルを手掛けている。
 模型制作の原理論、方法論として、何を目指して作るのかが問題になる(あるいは、それを意識化して取り組みたい)。スケールモデル分野では、「実物の再現」を目指すのが第一目的になるが、それも一概に答えが決まるわけではなく、様々なアプローチが考えられる。おおまかに言えば、
1: 実物(モデル元)に在るものを、あるがままに再現する。
2: 実物に在るものが、見て取れるように再現する。
3: 実物を見たときと同じような姿に再現する。
4: 実物がそうなっていたであろう理想的な姿を再現する。
少なくともこのくらいの違いはある。

 例えば、1/700縮尺の小さな艦船模型でも、実艦には細い空中線が張り巡らされている。これについて、
 1)の立場であれば、できるかぎり正確な縮尺で、つまり極限まで細い金属線を使って、実艦どおりに張り巡らせることを目指す。実際には、かなり無理のあるアプローチになるが、誠実(忠実)ではあり、模型制作の一つの理想ではある。
 2)の立場であれば、空中線は、当該艦船の機能-構造において、確かに存在するものなので、それがはっきり見て取れるように再現する。つまり、計算上の縮尺を外れてでも、空中線が模型として視認できるように表現する。例えば、太い金属線を使ったり、あえて濃い色で表現して目立ちやすくしたりする。これはこれで、実艦構造の理念的な再現として、意味のあるアプローチだと言える。
 3)の立場であれば、1/700という極小スケールに変換したならば、空中線など見える筈が無いと考える(※現用艦の写真などでも、ほとんど見えないことが多い)。それゆえ、このアプローチでは、空中線は適宜省略することが認められる。むしろ、太い空中線が悪目立ちすることは、実艦らしさや見た目のスケール感を損なうものとして否定的に見られるかもしれない。
 4)の立場は、個別的な判断や価値観に左右されるところが大きい。例えば、戦闘中の状態を再現しようとする場合などでは、付けないという判断もある。作品全体のディテールバランスを考慮する場合も、これに近いアプローチになる。ジオラマ分野にも親和的な発想だろう。

 同様に、錨鎖や手摺を「どのように再現するか」、「どこまで再現するか」、そもそも「再現するか否か」の判断は、モデラーごとに異なっている筈だ。砲身についても、「艦船の迫力を表現するために、大きめに造形する」というアレンジが、キットそのものに施されていることが多いが、それに対して、正確な縮尺どおりの再現を目指すものもある(※その場合、砲身はほっそりして、やや目立ちにくくなり、模型としての迫力も乏しくなる)。
 甲板面の金色のリノリウム押さえの表現も、しばしば議論されてきた。「実艦どおりに、極細の金色ラインをなんとかして表現する(エッチングパーツなり、専用のリノリウムシールなり)」、「実艦の構造を再現するために、リノリウム面の上から別パーツで乗せていく(エッチングパーツを使うなり、黄色の伸ばしランナーを接着したり)」、「実艦を遠景で眺めるときは、そんな細部まで見えた筈が無いので省略する(キットはうっすらとモールドが入っているだけで済ませる)」、等々。
 WWII期のIJN艦船のカラーリングについても、「所属港の違いを反映させるために、艦ごとに異なったグレーで塗り分ける」というモデラーは多い(※そのための「佐世保グレー」「呉グレー」「横須賀グレー」といった専用塗料も販売されている)。それに対して、「規程上は同一の混合比の塗料を使っている筈なので、常に同じ色で塗るべきだ」という考え方もある。さらには、「実艦写真では明らかに異なった色合いに見えるので、そのありようを忠実に再現するように、別々のグレーで塗り分ける」という思想もある。このように、どのような作り方、どのような見せ方を選択するかが、モデラー各自の価値観や方法論だ。
 他分野、例えばエアクラフトにも、特有の価値観が見出される。航空機のエンジンや、排気孔の内部は、完成状態では見えなくなってしまうが、それでもエンジンパーツを作り込んだり、わざわざ高価なレジン製アフターパーツを買って取り付けたり、排気孔ディテールの資料写真を探し回って実物どおりに再現したりする。これはまさに、「模型を作るのは、構造を理解するプロセスでもある」という観念の下にあると言えるだろう。完成状態の(表面上の)見栄えだけでなく、見えなくなるところまで忠実に作り込むという誠実さは、航空機モデラーの美質であり、また、実機(写真)を見る機会が多いエアクラフトならではの強みでもあるだろう。
 ただし、こういった方法論(制作ポリシー)の問題は、模型誌の制作記事でもめったに論じられない。AFV分野では、様々な制作技法が開発されているため、「この作品ではこのような見せ方を目指した」という方法論に言及されることがあるが、艦船模型や航空機、カーモデルなどではめったに見かけない。基本的には、ただ闇雲にディテールアップするためのテクニックが紹介するばかりで、忌憚なく言えば、そこには美学や方法論があまり感じられない。一応、ディテールアップのバランスを取りましょうというアドバイスはあるが、中途半端だと思う。つまり、「模型制作の哲学」は、まだまだ開拓の余地がある仕事だと考えている。きちんとした言葉で体系化した価値観を確立し、それを具体的な制作テクニックと結びつけることは、モデラーにとって大きな意義を持つだろう。

 私自身は、上の4分類で言えば、(2)に近い立場だ。実物がどのような構造で成り立っているかが、見て理解できるようなミニチュアを目指したい。例えば、立体的構造を見て取りやすくするために、AFVにカラーモジュレーション塗装をすることにも、かなり好意的だ(※もちろん実物には、そのような色調の変化は存在しない筈だが、それでも良いと思っている)。艦船模型の手摺がオーバースケールでも、「ここには手摺があって、乗員たちはここの梯子で移動していたのが」ということが見て取れるのであれば、取り付ける価値があると考えている。言い換えれば、各部の意味(機能)を適切に表現するような立体物を目指している。
 ただし、スケール感の合わないぶっとい手摺パーツが立っているのを、「美しくないし、リアルでもない」と感じる人もいるだろう。そういう意見の違いは解決できるものではないが、「この模型作品は、こういうコンセプトの下で作ったのだ」という理念のレベルで相手の作品を理解するようにすれば、モデラー同士で架橋できるところはある筈だ。そういう架橋のための土台作業になるのが、「模型の理念論」「模型の方法論」「模型の価値論」「模型の哲学」の語りだ。そうありたい。

 ロボットプラモやガールプラモでも、同じような論点が現れる。
 例えば、シンプル路線で、そのロボットの最も基本的な(プレーンな)姿として、ロールアウト時のきれいな状態で、ロボットそのものの魅力を最大限享受するという人もいる。あるいは、ロボットの構造を理想的に再現しようとディテールアップパーツを盛り込む手法もあるし、使用感を表現するために汚し塗装に凝るものもある。内部構造を再現したり、ハッチオープンの演出をしたりもする。さらには、可動機構もそのロボットの大きな構造上の特質なので、隠し腕をちゃんと可動させたり、モノアイ可動を仕込んだりもする。劇中のダメージ描写を忠実に再現するアプローチもある(その最たるものが「ラストシューティング」のポーズ)。

 ガールプラモでも、例えば頭髪塗装がしばしば問題になる(というか、モデラーごとに表現技法が異なる)。リアリスティックに毛筋を掘り込んでいくものもあるし、毛髪の軽みを表現するためにグラデーション塗装にするものもある。15cm級という小さなサイズなので、下品なツヤ出しではまずいと考えて、ツヤ消し(マット)にコーティングして無難にまとめるのもあるし、逆に、頭髪のつややかさを強調したい場合に半ツヤを吹くこともある。極端な場合は、植毛ドールヘアを利用するものもある。個人的には、「筆塗りを重ねて、細やかな毛筋表現をする(※手間を掛けてもいい場合)」か、あるいは、「パールコートで程々のツヤを出す(※キットの頭髪形状が十分に精緻な場合)」、「ツヤ消しコーティング(黒髪などで、上手い見せ方が出来ない場合)」など、いくつかのやり方を適宜使い分けている。
 素肌部分については、「入念な多重塗装でしっかりお化粧をさせる」という本格派モデラーもいるし、「無塗装のままで十分(※塗装するとジョイントが割れやすくなるし、擦れて塗装が剥がれたらみっともないという考慮も含め)」というスタンスのモデラーもいる。トップコートについては、「現実の人肌はツケ消しなので、プラモでもツヤ消しにする」というのは一種のリアリズム思考だし、「肌ツヤの色気が欲しいので半ツヤにお化粧させる」というのも、明確な目的(価値選択)のあるモデラーの判断だ。「血色表現(肉付きの実感)を追求したいので多重塗装やグラデーション吹きを重視する」というのもある。もちろん、キャラクターごとの個性の表現として使い分けることもできる。私の場合は「グライフェン」「ラプター」のような全身タイツルックが好みなので、人肌塗装に関する定見はあんまり無いが、BANDAIキットの素肌成形色はマネキンのようにべったりしていて苦手なので、レジンキットのような多重(血色)塗装をしたくなることがある。


 海外(英語圏)Vtuberは、模型制作をしながら流し聴きしていたが、最近はあまり聴かなくなっていた。3Dアクションゲーム配信で何時間もガンガン斬ったりバンバン撃ったりし続けるのは視聴していて辛いので、まあ、たまに聴くくらいで。




 09/13(Fri)

 わざわざ記事にするほどの制作でもなかったのだけど(※ほんの十数時間で完成)、ネット上にはこのシリーズの制作記事や紹介記事が少ないので、せっかくだから俺はこの赤のガールを作るぜ。
 今回もスミ入れはせず。スミ入れをすると、ラインモールドがくっきり見えて、機能性や密度感が増すのは分かるのだが、個人的には、外装の継ぎ目(隙間)が空いてしまっているようで、あんまり好みではない。なので、私のアプローチは量よりも質、つまり、ディテールの量(俗に言う情報量)ではなく、色彩的な効果の美しさを重視している。

 戦闘機部分は「ジークフリード」(VF-31J)系統。何回も作っていると、さすがに飽きる。今度は「メサイア」(VF-25)系統も、もう一つくらい作ってみようかな……。


 丸一日ゲームでも、丸一日読書でも、丸一日プラモデルでも、それどころか徹夜してでも、延々やっていられるなあ。年とともに難しくなるらしいけれど、今のところはそういう疲れor飽きは、ほとんど感じない。しかし身体的条件からは逃れられないので、いずれそういう体質になっていくのかもしれない。
 さすがに映画だけは、視覚的疲労が甚大なので、連続鑑賞は無理。これは強い感覚的刺激を受け続けてしまうが故に限界が来るのであって、年齢には関係無い(※学生時代でも、一日3本、つまり6時間くらいが限界だった)。特にハリウッド映画などは、毎秒のようにカットが切り替わるので、神経的ストレスが尋常ではない。そういう疲労感を、満足感と誤認させるテクニックでもあるのだが。


 アニメ『小市民シリーズ』第10話。Aパートは1期の最終回で、Bパートは2期の第0話のようなヘンテコな構成。こんな流れでは、別離の機微とその苦い情緒が、即座に別の状況によって上書きされてしまったし、露骨な引きのシーンによって、最終話の余韻や完結感も消え去ってしまう。さすがにこれはちょっと……。映像表現そのものは、じっとりした会話のムードがきれいに作られていて引き込まれるのだが、ストーリー進行(シリーズ構成)に関しては大いに疑問がある。

 アニメ版『負けヒロイン』第10話。こちらも映像の情緒を細やかに作り出している。上記『小市民』ともども、現代日本のアニメとしては、多少珍しい路線ではなかろうか。
 この回は秋も深まった10月末で、鈍く染まった夕陽のライティングや、その影のしっとりした暗さ、そして吐息の温度まで感じさせるほどの季節感が素晴らしい。
 原作小説には書かれていないところで、キャラクターたちに繊細な振り付けをさせているのも上手い。例えば、台詞進行と合わせた足の動きによる演出は、本作で多用されている(※もどかしげに地面を掻いたり、困惑とともに両足を揺らしたり)。
 興味深いのは、サブヒロイン「朝雲千早」が走るときのスピード感。このキャラクターが、別のキャラクターに駆け寄って近付くときの移動がやけに速い。通常のアニメ表現よりは明らかに速く、しかし、コミカルなデフォルメにはならないくらいのぎりぎりの速度感で、タタッと走ってくる。第5話にも同じ表現があったし、意識的な演出だろう。「動きの特徴によってキャラクター性を表現するというアイデア」、「それを要所で取り込むコンテ」、「視聴者が感じ取れるギリギリの動画(中割り)コントロール」等々、よほどの技術が無ければ、なかなかこういう表現は作れないだろう。こんな鋭敏な演出が、現代アニメでも経験できるのかと感心した。
 これらの他にも、どのワンカットも鮮やかなインパクトがあって、どのシーンの映像も強く記憶に残る。レイアウトから色調コントロールから質感表現からディテール造形まで、精密に作り込まれた絵だから名シーンになっているというのもあるし、ストーリーに即した意味づけの演出が決まっているからというのもある。これまでは、第2話がやや空転していたくらいで、それ以外の話数はどれもコンテレベルからぎっしりと充実した表現が詰まっている。今のところ、絵コンテと演出担当はバラバラなのだが、よくもまあ、これほど高水準のスタッフを揃えられたものだと思う(※山場の1話、4話、7話は監督コンテだし、脚本はこれまで全て横谷昌宏氏一人が担当しているが、それ以外は話数ごとに入れ替わっている)。
 ただし、コメディLN原作の筋書きを踏襲している都合上、やや浮ついた笑いのシーンも混在している(例えば冒頭のBL音声や、路上寸劇、射的の場面など)。原作無視はしにくいだろうし、シリアス一辺倒にできないのも仕方ないが、細切れパッチワークのような印象になりがち。
 なお、今回は原作小説第3巻の幕間と第3章(pp. 208-209, 210-265)にほぼ相当する。今回のサブタイトルも、この第3章の章題をそのまま使っている。細かすぎる枝葉は極力カットしているのは見て取れる。
 ちょっともったいないのは、部長のキャラ造形。アニメ版で描写された範囲だと、彼のパーソナリティが描かれたのは、ビーチ合宿で「後輩(主人公)とエロオタトーク」、「過去に迂遠で鈍感な告白をしていた」、それから「後輩(小鞠)の創作にちょっとしたアドバイスをした場面」くらいで、キャラクターが掘り下げられていない。彼が小鞠に優しく接していたという経緯が、後から言葉で説明されるだけなので、彼の人間的魅力が分からないし、彼に小鞠が惚れたのも説得力を持たないように感じてしまう。とはいえ、主人公の視点からは「それらは徹頭徹尾、かれら当事者の間の特別な出来事であって、彼(主人公)はかれらの過去に立ち入ることができない」ということの現れでもあるので、仕方ないところではあるのだが。

 今期アニメでは『義妹生活』(原作あり)も、遅まきながら通し視聴をしているところ。シチュエーションそのものは、親の再婚によって義理の兄妹(同年齢)になったというベタな物語だが、このアニメ版ではコメディ要素はほぼ皆無で、キャラクターたちの心情のあいだの誠実な「すり合わせ」に焦点を当てて丁寧に描いている(※漫画版はコミカルさを前面に出しているようで、アニメ版が物静かな雰囲気を選び取っているのは独自のアレンジ)。
 映像表現としても、ローポジション+ロングショットでじっくり撮る邦画風レイアウトや、別視点でのリールバック演出、フィルム風の演出(縦長画面や走査線ノイズ)、さらにはやたら力の入った作中作まで、なかなか珍しい技法を積極的に用いている。鏡にキャラを映した二重写しも頑張って作画しているし、カメラの切り返しコンテもひそかに緊張感を高める効果をもたらしているし、カメラブレのような画面ゆらぎ演出もちょっと珍しい。なるほど、今期アニメの中で演出面の評価が高いのも分かる。なかでも第5話は出色の完成度だし、大きな転換のある第10話もたいへんな力作。
 キッズアニメ風のケモショタ作中作も、妙にハイクオリティで目を瞠るし、雨の演出がやけに多いのも作品の雰囲気に合っている。ロングショットの長回しで人物が立ったまま歩き回るカットも多いので、見た目以上に手間が掛かっていると思われる。一見するとエッジのゆるい浅めの作画に見えるし、カット数も少ないので動きが乏しく見えてしまいがちだが、原作の勘所をきちんと掴んで適切にアニメーション媒体へ翻案した、含蓄のある映像作品だと思う。

 要するに、裏を返せば、「筋書きどおりにキャラクターの絵を出して、音声でいろいろ喋らせるだけ」という作品は、好きになれないし、わざわざ視聴する意味が無い。
 映像媒体にするからには、レイアウトそのものが鑑賞に堪えるだけの手応えを持っていてほしいし、小説(文字媒体)からアニメ(視覚媒体)にしたのだから、背景や小道具の演出もできるだけ活用してほしい。そうした時間的-空間的な表現の場がきちんと成立しているからこそ、声優の音声芝居も、それぞれに所を得て複雑なニュアンスを発揮するようになる。


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 12/1朱羅弓兵(※プラモデルの12倍サイズ)の話を見かけたけど、版権は大丈夫なのだろうか。「オーダー受付」と書いていて、受注生産するようだけど、
・メーカーとは無関係な人物が(つまり、権利者ではない)、
・朱羅そのままの造形で(12倍サイズで、ほぼ忠実に拡大して)、
・イベント外で有償販売する(通常の一日版権許諾の枠に収まらない)、
というのは、ちょっと心配になる。メガミデバイスの二次創作許諾要件(ライセンスフリー条件)のうち、「アマチュアディーラーによるオリジナルガレージキット(…)の製作、展示、販売」に該当するからOKということなのだろうか。朱羅シリーズのデザイナーさん自身も好意的にリアクションされているので、きっと確認は取れているのだろう。

 一般的にアマチュアの立体物販売は、特定のイベントの当日販売のみの版権許諾がなされることが多い(※権利者が販売を許さない場合もある)。メガミデバイスの場合は、そこから一歩進んで、アマチュアによるガレキや同人誌の販売はライセンスフリーとしている(つまり申請、報告、版権料も無く、イベント以外で販売してもよい)。これはこれで合理的なのだろう。すなわち、営利企業ではなくアマチュアの活動規模であれば、この線引きまで許容しても、権利者の利益を食ってしまうことはまず無いし、ファンの裾野を広げられるメリットも多少生まれるので。なので、上記の朱羅も、ガレキの巨大版だと考えれば、一応は理解できる。
 ただし、やはり気になるのは、一般的なファンの二次創作物とはかなり異なること。通常のガレージキットであれば、固定ポーズだし、クリエイターの個性が大きく付け加えられている。同人誌の場合はさらに、立体物から平面(絵)への変換があり、絵柄も含めて、絶対に同じものにはならない。しかし、上記朱羅の場合は、関節可動まで再現しつつ、ディテールはほぼ原作(プラモデル)そのままで、アレンジの要素が乏しすぎる。しかも、立体物どうしなので、イラスト化のような翻案要素が無く、誤魔化しが利かない。そういう意味で、海賊版(サイズを拡大しただけのコピー品)のように見えてしまい、ちょっとヒヤヒヤする。

 造形の問題としては、元の12倍のスケールにすると、粗が見えてくる。
 一つは、面のディテールが不足してのっぺりしてしまうこと。元のプラモデルならばわずか1cm四方でも、12×12cmになると、面の広さが目立ってしまう。つまり、密度感が足りず、平板になってしまう。
 もう一つの問題は、質感や素材感の問題。15cm級の小さなプラモデルであれば、プラの質感そのままでも、あまり気にならない。工学的な説得力が無くても、気にならない。しかし、12倍に拡大して人間サイズになると、質感や素材感の欠如が目立ってしまうだろう。装甲パーツについても、「何故こんな形状なのか」という疑問が浮かびやすい。
 サイズ(orスケール)を大きくすると誤魔化しが利きにくくなるので、ディテールを追加したり、構造上の説得力を持たせるようにしたり、塗装による質感表現も増強しなければ、空疎なハリボテになってしまう。関節部の隙間(内部)が見えたときの見苦しさも、大スケールの方が致命的になる。これはモデラーであればだいたい理解している筈だ。例えばロボットプラモでも、1/144と1/100と1/60では、表現そのものがかなり異なってくるし、スケールモデラーでも、縮尺が2倍になると造形的な見え方(or見せ方)がまるで別物になることは熟知している筈だ。
 KOTOBUKIYA公式の2/1朱羅(※2倍に拡大した固定ポーズフィギュア)のときも、せっかく拡大されたのにディテールはほとんど元のままで、がっかりした憶えがある。ボルトなどのディテールを追加して説得力を持たせるとか、バトルスーツの素材感を表現するとか、エッジの厚みなどもスケール相応に再調整するとか、ジョイントの隙間を丁寧に隠すとか、装甲パーツの裏側もきちんと作り込むとか、色を増やしたりグラデーションを掛けたりモールドを追加したりして面の平板さを避けるとか、いろいろやりようはあっただろうに……。



 09/08(Sun)

 木村氏の配信リストを公開することににした。YTは普段ほとんど見ないし、サーヴィスとしても邪悪だと思っているので、代替的な存在がもっと出てきてくれたら良いのだが……今回はさすがに仕方ない。なお、差し障りが生じてはいけないので、内容面での言及はしないことにした。


 アニメ『小市民シリーズ』第9話。解決編(の前半)。二人が喫茶店で向き合って、ただずっと喋っているだけのワンシーン回だが、神戸守監督自身のコンテで、狭いシャッター街の迷路的イメージや不穏に軋む劇伴の効果もあって、なかなか良い感じ。シャッター街は、文字通り、あらゆるものが閉ざされた空間(すなわち、全てを覆い隠している世界)でもあり、また、他者を拒絶する寒々しさはヒロインの内面世界の表現と取ることもできるだろう。その迷路の迷妄を歩いてヒロインの影を追いかけ、そしてヒロインが待つ最後の真相の明るみに到達する。強烈なインパクトのある不気味な映像表現でもあり、物語の変転を映像面からも造形している。
 それにしても、00年代風の邪悪ヒロインには、懐かしさも覚える。実際、原作小説は00年代半ばに刊行されていて、まさにその時代の空気の中にあった存在だが。邪悪ヒロインとミステリは相性が良い筈だが、「萌えヒロイン」+「入念な仕掛け」を高い水準で両立させたのはわりと珍しいし、2020年代の現在でこの路線を出してきたのも面白い。PCゲーム分野には『狂った果実』(90年代)や『シンフォニック・レイン』(00年代)などの実例もあったけれど、10年代以降はあまり目立たなかった。

 『負けヒロ』第9話は、ちょっといびつなところも出てきた。しっとりしたシリアスシーンと、おちゃらけたコミカルシーン、そして(今回珍しく出てきた)お色気シーンの三者が適当に入り交じるのは、どうにも乱雑に感じてしまう。
 特にお色気シーンは(※大きなバストが揺れたり、ヒロインが露出の大きい格好をしたりする)、あからさまにエロ目線になるし、そういう場面ではキャラクターの内面造形がいきなり破綻するし、シーンそのものも短くて、前後のつながりが薄いまま唐突に挟まれるので、文字通り夾雑物として邪魔に感じる。
 脚本面でも、小鞠の努力が主題になっている回なのに、後半ではほとんど出てこなくなるし、エロ好奇心でちょっかいを掛けてくる年長者(養護教諭)も、かなり気持ち悪い。その意味で、取捨選択を間違えたもったいない回だと思う。前回のCパートで思わせぶりに登場した生徒会も、今回は一切出てこない。こういう中途半端な顔見せシーンを持ち込んでしまうのは、メディアミックス商売(キャラクター人気に乗っかる商売)の悪弊だろう。小説媒体であれば章立てや幕間エピソードとして切り分けられるので、変わったシーンを入れても受け入れやすいのだが、わずか24分間を一気に進んでいくアニメ媒体の進行では、「統一感の無い散漫な映像」になってしまいかねない。
 実際に原作小説と読み比べてみると、アニメ版は細かなエピソードや小ネタ的会話描写をかなりカットして、本筋進行を優先しつつ駆け足で進めているのだが、それでもバランスの悪いところは出てしまう。小説第3巻の2章目(pp. 98-206)を、ほぼそのまま大筋をなぞっているのだが。アニメ媒体では、小さなエピソードにあたる描写をワンカット入れるだけで状況を想像させることができるというメリットもあるが、その一方で、小さなエピソードも悪目立ちしてしまう場合がある。一冊のストーリーを、一息で読み通すのではなく、週ごとに分割提供するので、各シーンの重みづけや意味づけが宙吊りのまま待たされるのも、視聴者を混乱させやすい。
 個々のシーンの空気感を表現するのは、相変わらず抜群に上手いし、アニメーションとしての魅力(動きの表現の面白さ)もあるのだが……。

 高校生キャラが恋人をひそかにGPS監視しているくらいであれば、コメディ作品のエキセントリックなキャラ造形としてぎりぎり成立しうるが、しかしさすがに、「成人(教員)キャラが、何の関わりもない未成年者(高校生)を公然盗撮したり盗聴していたり、未成年者(高校生)に対して猥談のほのめかしをする」というのは、一線を踏み越えていて、もう全然笑えないのよな……。いかに斎藤千和の超絶芝居をもってしても、これは覆せない。セクハラ的言動で近寄ってくる年長者の姿がどれほど気持ち悪いか、そろそろ気づいてほしいのだが……。

 朝雲&綾野コンビが文芸部展示を手伝った(手伝うことができた、手伝う意欲を持てた)のは、二人が出版に関わる将来を目指していることにも関係があるだろう。アニメでは明言されていないが、そのように取ると、朝雲が展示原稿を「早朝のうちに読み終えた」+「しかも熱心に読み込んで感激した」+「原稿の趣旨をきちんと理解した」+「展示レイアウトをすぐに構成できた」というのも納得が行く。このくだりは、ただ単に「朝雲が優秀だ」とか「夏の事件のお返しに手伝いをした」というだけではなく、彼女たち自身の心情に関わる積極的なモティベーションがあった(しかも、モティベーションを刺激するほどの優れた原稿だった)と解釈する方が美しいと思う。


最近制作したガールプラモいろいろ。

写真左の「黒白無常仙」は、デフォルメ体型ながら正統派の構成。とりわけ武器類の造形がユニーク。頭部は2種類ずつ(計4個)作れるので、どこかに転用できるかもしれない。

 写真右「Buster Doll:ナイト」は、ボディ構造を一新した新世代のキットという触れ込み。実際、ランナー群がモジュール的に配分構成されているし、肩部回転は胴体に埋もれさせて見た目の破綻を防いでいるし、脚部もパーツ一体化を推進している。パセリ氏フェイスも可愛らしい。
 ただし、武装形態にするには胴体をいったん分解する必要がある。また、武装の造形はかなりチープで、パーツ素材としても評価できないレベル。ガールプラモの武装デザイナーがなかなか育っていないことが、逆説的に強く印象づけられるキットになった。
中央「ルビーアイ」は、可動重視のメカガールという意味で、「レイキャシール」(写真右)の後継のような感じ。ただしパーツ精度は低く、差し込みピンが太すぎたり、ジョイントが緩すぎたりする。やりたいことは分かるし、医療機器モティーフの武器類も面白いだけに、もったいない。可動機構と造形美を両立させたメカガールとしては、「アーシー」(写真左)が抜群の出来。
左はVFG「フレイア・ヴィオン」。構成はシンプルだし、可動範囲もそれほど広くはないが、何を目指して、どの部分にどのよう可動を仕込めばよいかをメーカーが熟知しているキットだと思う。肩関節が、どのように動かしてもシルエットが崩れないのは好印象(つまり、大きな隙間が出来ないようになっている)。ただし、肘を伸ばした時のシルエットがやや不格好になるのはもったいない。メカ部分はこれから塗装する。

 右は「小石川エマ」。サイズは14cmと小さめ。ロングヘアが立体パズルのように多数のパーツで構成されている。設計者はさぞや大変だったろう。スカートの白線は、パーツ分割で表現されている。おそらくコストダウンのメリットはあるのだが、組み立ての隙間が出来やすいし、塗装(色変え)モデラーにとっても得にならない。
中央は「朱羅:弓兵(絆)」。上記BusterDollシリーズの後に出たキットで、BDの股関節構造を取り入れているが、それ以外の構造は旧式を引きずっているところもある。体格が良くなった分、見栄えと安定感は良い(弓兵は15cm、ナイトは14cm)。写真右は、無印の「朱羅:弓兵」(2018年1月)。

 これらのキットでも、パールコーティングを多用している。使い方によって、様々な意味づけを作れるのも楽しい。
 例えば、黒白無常仙では、ミステリアスな幻想性の表現として、全体にパールを吹いている。このキットの成形色は深紫(インディゴ)がベースなので、アメジストパールを使えば色調の変化無しに馴染む。ホワイトパーツにも同様の処理をして、明るい反射が生まれるようにした。普通のグロス(ツヤ)塗装だとサイズの小ささが誤魔化せないが、パール塗装の細やかな反射であれば、ちゃちさを回避しつつ、明るい輝きをキットに与えられる。
 ルビーアイでは、「ツヤ消し/ツヤあり/メタリック/パール」の使い分けで、パーツ構成と機能性を表現した(つもり……写真ではパールの輝きはほとんど見えないが)。このキットの白色パーツは、1色ではなく、成形色レベルで2色に分かれているのだが(※純白と、ピンクがかった白の2種類)、成形色の違いは本当に微妙でほとんど分からないので、コーティングで色の違いを強調した(ピンクホワイトの方はパールコート、それに対して純白パーツは半ツヤのまま)。
 フレイアでは、CG風のキラキラ感の表現として、全身をツヤツヤパールに光らせた。無塗装の安っぽさを簡単に解消するという意図もある。原作アニメのトーンを再現するという観点でも、このくらいのエフェクト追加はありだろう。
 弓兵でも、全体に紫パールを掛けた。ホワイト部分に対しては単調さや安っぽさを解消し、また、ブラック部分にはボンデージ風の雰囲気を持たせている。白-黒-赤の単純なカラーリングなので、色調にニュアンスを足してあげたい。黒パーツにパールを吹くと色調が変わってしまう(色が付いてしまう)点には注意を要するが、これも考え方次第で、真っ黒のままだと単調になってしまうところにカラー&パールの鈍い輝きを足してあげることで、彩りを豊かにすることができる。
 小石川エマでは、頭髪にパールコーティングをしている。赤系なので、パールコートの輝きが目立ってくれる。程良く分散したパール反射が、毛筋のような細やかさを維持しつつ、「天使の輪」を作り出してくれる(※普通のグロス塗装だと、ただのテカリになってしまう)。ストッキングも、キットパーツはツヤツヤのままだったが、ツヤ消しパールを吹くことで、ツヤの下品さを抑制しつつ、タイツ布地らしいシルキーな質感を擬似的に表現している(つもり)。


 最近のオタクが、「バストが大きい」イコール「えろい」イコール「魅力的」を当然のように直結させているのに、かなりうんざりしている。
・セクシャルな魅力が、バストサイズや露出の大きさでしか判断できない(※ひたすら大きければ大きいほど、はだけていればいるほど、より優れているという受け止め方)。
・キャラクターの魅力の判断基準として、セクシーさが前面に出されている。以前にも書いたが、「萌え」というキャラクターの可憐さや愛らしさへの意識が極端に弱まって、外見上の性的な刺激の大きさが最優先にされてしまっている。
 サイズの大きさそれ自体は、べつに構わない。しかし、ただ単に大きくすれば、自動的に「えろくて魅力的だ」と判断してしまう認識の雑さは、私には受け入れがたい。
 こういう傾向を見ていると、もはや私は「オタク」とは名乗りたくない。そういうカテゴリーに、私自身のアイデンティティを帰属させたくない。もっと個別的に、ただのゲーマーであり、ただの漫画好きであり、ただの音楽リスナーであり、ただの声優ファンであり、ただのモデラーであり……等々の断片的な側面の集合体にすぎないというつもりでいる。
 もちろん、もっとデリケートに、キャラクターの内面造形を掘り下げたりゲームデザインの技巧を分析したりする種類の「オタク」たちも、依然としてたくさんいるのは知っている。しかし、「オタク」の代表的なイメージが完全に塗り替えられて、「えろイラストをシェアして盛り上がったり、ゲームの高額『課金』にハマったり、イベントに集まって騒いだりする人たち」という認識になっているのであれば、それは私とはまったく別種の、関係の無い存在だと言わざるを得ない。


 もう一つ、いわゆる「腐女子」キャラクターをコメディ目的で描くのも、そろそろ考え直した方がよいと思う。論点は多岐に亘るが:

 1) BL趣味をコメディとして扱うのは、「BL好き=コメディになる=笑われるべきもの=ノーマルではない=恥ずべき趣味である」という評価を前提としている。すなわち、他人の趣味嗜好を、外部から茶化し、貶めることになっている。もっとも、BL好きが当事者性を持つ場合もあるのだが(すなわち、クリエイター自身がBL好きで、自虐ネタとして描いている場合)、しかし、そうでない場合には、やはり他人の趣味嗜好をバカにすることになってしまう。
 実際には、例えば「何でもかんでもサッカーに喩えるスポーツ好きな変人」のような存在は実在するだろうし、また、そういうキャラクターを描くことには、二重性がつきまとう。つまり、「キャラクターとしてのモデル化やコミカルな誇張は、一定程度容認されるべきである」という側面と、「ある価値観をそのまま笑われるべきものとして描くのは、社会的な相互尊重を毀損する」という側面の両方がある。

 2) 同性愛への嗜好を、笑いものにしている。もちろん、様々なレイヤーの違いはあって、「当事者としての現実」、「観察者としての嗜好(例えば生モノBL)」、「あくまでフィクションとしてのBL嗜好」はそれぞれ意味が異なるが、そのいずれの場合でも、BLまたは同性愛へのコミットメントは、シリアスではなく馬鹿馬鹿しいものだという評価がそこには含まれる。
 いったいどうして、腐女子キャラが笑いもの要素として扱われるのだろうか? 例えば、サッカー好きキャラが、「玉蹴りごっこ」といって茶化される対象になったり、旅行好きなキャラクターが「休日の予定がなかなか掴まらない変人」といってアブノーマル扱いされたりすることは、腐女子の事例と比べて、おそらくきわめて稀だろう。そこには、嘲笑の標的としての価値的選別があると言わざるを得ないのではないか。そして、BL趣味には、嘲笑の対象となるべき理由は無いと言わねばなるまい。

 3) ただし、BL趣味がタブー化されるのではなく、堂々と語られることは、それ自体としては、ひとまず良いことだと思う。とりわけ、女性がしばしば楽しむ趣味であることに鑑みれば。
 もちろん、BL妄想には、問題が無いわけではない。様々な事象を「同性愛」というコンテクストに置いてエンタメ化することは、現実の同性愛(者)に対する尊厳侵害や偏見助長や文化的搾取になっているという側面も、完全に否定しきることはできないだろう。「現実の男性が、現実の男性またはフィクションの男性キャラの同性愛的側面を笑いものにするエンタメ」と、「現実の女性が、現実の男性またはフィクションの男性キャラの同性愛的側面を妄想の素材にするエンタメ」とでは、その不当性において違いは無いのではなかろうか(※ジェンダー不均衡な性差別的構造の下で、それを補正するために、ある程度は評価の落差が生じうるとはいえ)。
 ただし、オタク向けジャンルで腐女子キャラクターが登場するのは、身近で理解可能な他者(近所の同志)だからという事情もあるだろう。つまり、男性オタクにとっては自虐ネタの延長のようなものかもしれないし、もちろん女性読者にとっては自分の話として受け止められたりもするだろう。その意味で、腐女子ネタは、必ずしも茶化したりバカにしたりするばかりではない。これが、例えば、ファッションやコスメに凝っている女性キャラであれば、おそらく男性オタク読者にとっては非常に縁遠くて面白味が分からない存在になってしまうだろう。そういう事情も汲むべきではあるが、ただししかしそれでもなおも、異性の趣味に対する戯画的蔑視の要素も紛れ込んでいることは、重々留意しなければいけない。そういう偏見に乗っかって現実の女性(のオタク)たちを攻撃する男性(のオタク)は、現に多数存在するのだから。

 『げんしけん』(2002-2006)は、腐女子キャラクターを公然と描いた先駆的な作品と思われるが、それに対する評価は両義的なものにならざるを得ない。腐女子キャラクターの内面造形をきちんと提示したという積極的な側面と、それをステレオタイプ的にいかがわしいものとして見せてしまい、腐女子キャラが笑いものになる流れを作り出してしまったという問題性の両面という意味で。
 現代でも、BL好きなキャラクターが、エキセントリックな熱弁を振るうシーンや、TPOを弁えないBL発言によって顰蹙を買うシーン、あるいはBLイマジネーションそのものの描写(例えば作中作のBL本そのもの)が、笑うべきものとして描かれる。はたして、私たちは、そういう描写で笑っていてよいのだろうか?



 09/03(Tue)

BANDAIのプライズフィギュア「2.5次元の誘惑 ペンフレ! 天乃リリサ」。どの角度から見ても、造形や表情の破綻が無い。しかも、難易度の高い眼鏡付きなのに……これは凄い。BANDAIとしては珍しく、素肌成形色に透明感があるのも素晴らしいし、着衣の皺表現も絶妙。なお、ペンなどを持たせられるポージングなので、机上に末長く置いておくことができる。

 上記フィギュアは、個人的な評価として、今年のプライズフィギュアの年間ベストになるかも。造形的な完成度もきわめて高いし、素肌のシャドー塗装もやたら繊細に施されていて驚く。頭髪表現も、プライズ系にありがちな安っぽさが無く、きちんとした説得力がある。眼鏡もきれいに塗装されている。しかも、膝立ちポーズにもかかわらず安定自立する。ゲート跡やパーティングラインも残らないように丁寧な表面処理が為されていて、一見すると本格的なスケールフィギュアのように見えるほどだ。これに匹敵するプライズフィギュアは、今年の新作ではちょっと思い浮かばない。
 あえて欠点を挙げるなら……ソックスの塗装がのっぺりしているのと、ブラック無地のスカートが悪目立ちするのと(※原作のスカートはグレー?)、右腕を振り上げているせいで顔に影が落ちやすい、というくらいだろうか。この程度であれば、プライズフィギュアとしては十分許容できる……というか、このくらいしか欠点がないというのは驚異的だ。ただし、ペン類を持たせておかなければ格好が付かない。個人的には薄平べったい方が嬉しかったが、原作のキャラデザがある以上、そこで文句を言っても仕方ない
 面白かったフィギュアとしては、TAITO「アニスフィア・ウィン・パレッティア Kiralea」が、窓に腰掛けるレイアウトフィギュアという斬新な試みだし、SEGA「五等分の花嫁 Movingood!!!」シリーズも、完成度はともかく、関節可動を取り入れた意欲的なフィギュアだった(※シリーズそのものは昨年開始)。BANPRESTO「シズ ランガパーカー」も、整った可愛らしさでなんとなく印象に残っている。TAITO「初音ミク Fashionフィギュア:Uniform」も、パセリ氏イラストに準拠してたいへん色っぽい。

 昨年のプライズフィギュア(2000円級)だと、TAITO「Desktop Cute:ラムレム」や、SEGA「もふもふパック:ラムレム」、BANDAI「Relax time:三峰結華市川雛菜」あたりが特に気に入っている。リカラー版のFuryu「レム:ぬーどるストッパーフィギュア(ルームウェア:Another color)」も美しい。それ以外にも「一番くじ」フィギュアや、ミドルプライス(POP UP PARADEとか)、高額スケールフィギュアもあるけれど。

 見る角度によっては顔の表情などが珍妙に見えてしまい、可愛く見えるアングルが狭く限定されるのを、フィギュア界では「角度限定」という。もちろん、ネガティヴな評価の言葉だ。個人的には、どこかのアングルできれいに見えるところがあれば、それで十分だと思う。しかし、「特定の角度でのみ、きれいに見えればいいというのは安易だ(立体化として不徹底であり、造形上の破綻であり、解釈の逃げであり、表現上の誤魔化しにすぎない)」という意見も分かる。そして、二次元の顔立ちを立体に落とし込む際に、どこから眺めても見応えがあるというのは、高度な造形的洗練の所産として高く評価されるべきだというのも賛同できる。
 フィギュアやガールプラモでは、素肌成形色がマネキンのような製品があり、個人的には、そういうのはちょっと苦手。それに対して、しっとりした透明感のある素肌素材の商品もある。その観点では、プライズフィギュアだとTAITO、ガールプラモではKOTOBUKIYAとVOLKSが、頭一つ抜けたクオリティ。
 ちなみにTAITOは、造形面ではデフォルメを利かせた顔立ちで、角度限定になりやすいが、適切な角度で見れば抜群に可愛らしい。「マックスを最大化する(=特定のアングルで最大限可愛らしくする)」のか、それとも、「ミニマムを最大化する(=どんな角度でも最低限まともな可愛さをキープする)」のか、どちらのアプローチを採るかの問題とも言える。



 09/01(Sun)

 眼鏡度入り表現のリストが、ここ数ヶ月追加できていない。新規の漫画(漫画家)もそこそこ買っているし、ネットのイラストレーターも程々に見て回っているのだが、新たな度入りクリエイターになかなか出会えず、149人で足踏みが続いている。これまでは、毎月2~3人くらいのペースで新発見があったのだが……。最後にリスト追加したのは、たぶん5月か6月だったと思う。


 mastodon(Vivialdi socialサーバー)は、フォロー関係をたまにチェックしている(※LTLはもう見ていない)。twitter時代からのつながりなどもあって、連絡が断たれてしまうと二度と見つけられそうにない方もいるので、一応アカウントは維持して、何かあったら対応できるようにしている(※知人のリプライへの応答とか、やばいものが近付いてきたらブロックするとか)。
 Vivaldiは、mstdnの中でも倫理的に厳しめのサーバーで、例えば30MSの水着プラモの写真を載せて一発BANされた方もいるようなので、かなりデリケートな場所ではある。私自身、胸部がやや目立つガールプラモや軍艦プラモの写真をアップロードするのはその度に躊躇していた。ただし、本家mstdn.socialサーバーなどは、局部剥き出しの実写写真や動画も平然と出回っていたりして、サーバーごとの温度差はよく分からない。

 ちなみにこのブログも、素肌面積の大きいフィギュア写真や、getchuへのリンクを貼る(※ハイパーリンクでなくても、アドレスを書くだけでも?)、閲覧注意の警告が出るようになっている。そのせいで、どうやら「ポルノ要素のあるブログ」だと判定されてしまっているようだ(※ggl検索などでうちのブログが出てきにくいのは、その影響もあるだろう)。
 このbloggerサーヴィスは、「無料である」、「サーヴィス長期存続の見込みがある」、「広告が出ない」、「レイアウトのカスタマイズが利く」などの条件を考慮して、最もましなサーヴィスとして選んだのだが、今となっては「2年間利用実態が無いと削除されてしまう」、「gglに情報を取られる(※cookie受け入れが必須にされた)」、「上記のとおり内容面の締め付けがきつくなってきた」といったデメリットが大きくなっている。

 mstdnに話を戻すと、「オタク系の話題がそれなりに多い(二次元全般&模型など)」+「全年齢フィギュアまでは容認される」+「モデレーションはそこそこ機能している(えろぐろ蔓延の無法地帯ではない)」+「他サーバーに対するアクセス制限がきつくない(制限する方も/される方も)」+「国際的なサーバーである(多言語的寛容)」+「ユーザー人口がそこそこ多く、サーバーも長期存続の見込みがある」というところも探してあるのだが、そこでわざわざ改めてアカウントを作るかというと……。そもそも、私がSNSの場に積極的に発言することは、もうしないつもり。Vivialdiサーバーも、上記の条件をかなり満たしているのだが、残念ながら、あそこで自分が活動することに意義やメリットを見出しにくくなってしまった。「サルどこネット」さん、お元気かな……。(そこかよ)


 アニメ版『負けヒロ』は、エンディングムービーの設計も凝っている。1人目のヒロイン(八奈見編、第1-4話)では、力強く疾走感のある実写取り込み。2人目(焼塩檸檬編、第5-7話)では、ロマンティックなキャラクター性格に寄せて、宇宙服とレモンティーの取り合わせで描きつつ、本編では結ばれなかった二人の幸せな夢をここで見せるという、優しみと苦みのある映像演出にしている。もちろん、担当ヒロイン自身がED曲を歌っている。
 そして3人目(小鞠編、第8話-)では、なんと、アナログな水彩アニメーション。青瀬きいろ氏がほぼ独力で作画されたようで、水彩ならではの繊細さと、そこに掛けられている労力の膨大さは、まさにヒロインのキャラクターイメージを映像の質を通じて体現している。人付き合いは苦手ながら内面世界をきちんと作り上げているこのヒロインのためのEDムービーとして相応しい出来映えだ。この発想の鋭さと、それを敢行した判断の的確さ、それを遂行しきった努力に驚嘆する。
 アニメ化作品では、本編はおおむね原作に忠実な描写になるが、EDムービーではアニメ版独自の創造性を付け加えることができるということの、卓越した実例と言えるだろう(※OPムービーの方は、宣材として使われる都合上、プロモヴィデオ風の無難なものが多い)。
 本作以外でも、キャラクターイメージを掘り下げるようなエンディング映像や、本編外のストーリーを秘かに暗示するような描写、あるいは作品全体に幸せな雰囲気を提供してくれるSDエンディングや、ものによっては本編に対する楽屋裏的な位置づけになるしたたかな作品など、印象に残るエンディングはいろいろ思い浮かぶ。

 ただし、第8話はストーリーをいったん仕切り直して第3ヒロイン編が始まったところで、新規のサブキャラが多数出てきてちょっと落ち着きが無い。直前の第7話が凄すぎたとも言えるが。
 宝塚風の生徒会長のキャストは、まさにヅカ出身の声優を起用している。2019年退団で、声優としても2014年頃からのキャリアがあるようだ。安易にも思える配役だが、こういうのもありなのかな。それ以外も、性的な勘繰りをしまくるだらしない教師キャラや、色気のある養護教諭、慌て者な副会長と、サブキャラの面々は造形がチープなのがもったいない。
 最大の衝撃は、寝間着のまま、兄(高校生)の膝の上にしれっと乗って寄り掛かっている妹キャラ(中学生)のカット。視覚的なショックが物凄いし、何の説明も無いままなのも怖い。おそらく原作にもあるシーンなのだろうけれど、よくもまあ、こんな絵を堂々と出してきたな……。その割に、他のヒロインに対しては、この主人公君はかなり物理的距離を取っている(いつも大きく間を空けて座る)のが面白い。
 演出面では、秋学期の始まりとともに、映像のトーンもデリケートに変化させている。非常階段から見える背景作画に典型的だが、夏の鮮やかな緑から、初秋の柔らかく赤味の混じった風景になって、この季節の空気感をきれいに映像として定着させている。映像演出として、当然と言えば当然なのだが、こういう正統派の映像的意味づけをきちんとコントロールしているのは素晴らしい(カラーコレクション、カラーグレーディング)。日陰の表現や空間的な広がりも含めて、時間や季節やロケーションに合わせた肌感覚の表現を、監督が相当意識的に構築しているのが見て取れる。個別の演出としては、例えば、水道水の溢れる描写が、制御できない感情の噴出を暗示している。これは過去回(たしか第3話)でも使われていたが、元のキャラ設定を拡大利用した絶妙の演出。
 ラッコへの言及は、豊橋市内の「のんほいパーク」が、ラッコを保有していた数少ない動物園であることに掛けているネタかと思われる(※現在、国内でラッコを飼育している動物園は2箇所のみらしい)。それに加えて、当該会話のシーンは「水上ビル」付近を歩いているので、ラッコが水棲動物であることにも掛かっている可能性がある。

 アニメ版『小市民シリーズ』は、誘拐事件が(表面上は)解決したところまで。演出面では、かなりパワーダウンして、ただの地味なアニメになっているのが残念。序盤話数のように、印象に残るような美しいカットがあれば良かったのだが……。
 サブキャラに高森氏が出演されていたのは驚き(※EDクレジットを見るまで気づかなかった)。

 それにしても、不思議な符合が多い2作品だ。どちらも東海地方が舞台で(ちょうど名鉄名古屋本線の両端)、ローカルな観光風景をかなり強烈にアピールしていて、いずれも指折りの映像演出巧者の監督で、男性主人公がたまたま同じ声優で(梅田氏)、メインヒロインは大食いキャラという珍しい属性持ちで……。それでいて、作品のムードは対極的なのも面白い。


 『負けヒロイン』は、たしかに面白いコンセプトだと思う。複雑な条件を組み合わせて、その面白さが成立している。大雑把に概観してみると:

●振られる側のヒロインたちを描く。
・通常の恋愛成就ものに対するカウンター(=独自性。未開拓分野の新鮮さ)。
・悲劇のドラマを堂々と描ける(ただし、バランスが難しい)。
・ヒロインたちが複数併存することができる(※現代のハーレム志向では一般化してきたが)。

●振られるヒロイン。ただきれいで可愛いだけのヒロイン(トロフィー)ではない。
・振られるプロセスで、ヒロイン自身を掘り下げていく。つまり、主人公の物語ではない。
・振られることになる事情についても、そのキャラクターの個性や過去を描ける。
・キャラの隙を堂々と作れる(※暴食や過度の口下手は、とりすましたヒロイン像では難しい)。
・そういったキャラクター造形から、コメディ要素やドラマ要素も引き出せる。
・型に嵌まったラブストーリーを脱することができる。

●振った側(相手の男性)や、恋敵キャラの方も、掘り下げていける。
・恋敵とのドラマや、キャラクター造形としての対比構造を作ることができる。
・男性キャラクターも、堂々と出せて、しかも魅力的に描ける余地が大きい。
・振った男性キャラは、本作ではギャルゲー的な鈍感主人公の造形(=パロディ要素)。
・伝統的な三角関係ものの作劇法をそのまま使うことができる。

●主人公は恋愛関係の主体ではなく、傍観者に徹する。
・特定のヒロインを選ばない。女性たちに囲まれる擬似的ハーレム状況を続けられる。
・ヒーローではなく、助力者としての自己実現。いかにも現代的。
・恋愛関係の主体にならない自由さ(ただし、無責任さでもある?)。

●コンテンツとしてのリスク要因もある。
・振られるようなヒロインは、欠陥と見做されかねない。→コミカルキャラにすることで解決。
・主人公に恋してくれないヒロインは、不評を買ってしまうかも。→友人キャラとして維持。
・振られるイベントは基本的に一回限り。未練を引きずるのもまずい。長期連載には不向き?
・傍観者としてのモノローグにも、十分な面白さが求められる(=作者の技量が必要)。
・主人公が重要な場面に立ち会えない場合がある(※第三者視点は小説でもアニメでもOK)。

 ざっと考えたかぎりでは、このくらいの構成要素がある。これらを適切にチューニングすれば、今回のように目覚ましい成功を得られるポテンシャルがあるが、実際には非常に難しい作業だっただろう。
 そもそも「振られるヒロインたちを集めました」というのでは、何かのサブストーリーや楽屋裏イベントのようなしよーもないネタと見做されてお仕舞いになりかねない。やるとしても、完全な一回限りの一発ネタであって、同じようなアプローチの2作目はまず出てこないだろう。そういう奇手を、ほぼ理想的な形で成功させている。
 ネタとして思いつくのは簡単かもしれないが、そこから出てくる可能性を掘り下げて整理し、丁寧に展開していくのは、さぞや難しい執筆作業だっただろう。

 美少女ゲームにも、本編のサブキャラたちをファンディスクでヒロインに昇格させて描くというものはある。『LikeLife 氷庫版』(2004)、『はぴねす! りらっくす』(2006)、『花と乙女に祝福を ロイヤルブーケ』(2010)、『ココロ@ファンクション! NEO』(2014)、等々。
 最も大掛かりにやったのが『恋色空模様 after happiness and extra hearts』(2011)で、元作品のサブヒロインたち――眼鏡委員長キャラや、非攻略の妹キャラや、メインヒロインの付き人キャラ――をヒロインに昇格させて、フルプライス規模の物語としてもう一度やり直してみせたという作品だった。


 あの木村氏をして「レジェンド中のレジェンド」と言わしめる人物とは、どなただろう?
 芝居のキャリアや業界への尽力という意味では、北都南氏が美少女ゲーム声優の最高峰だと思うが、この方はすでに第2回に登場しておられる。となると、草柳氏(実績一番)か金田氏(トーク実績一番)、あるいは芹園氏(最古参の一角)、青山氏(フリートークのレアリティ一番)、一色氏(表現力一番)、あたり? 海原氏やダイナマイト☆亜美氏かもしれない。個人的には、大波氏がいらっしゃったらと思うが、webラジオ等で共演されたことはこれまで無かった筈(※はにラジはコンシューマ版キャストだったので枠外)。まさか白井綾乃氏や鳥居花音氏が来られることは無さそうだし。三咲氏も、ある意味レジェンダリーな存在で、いずれゲストで来られそうな方ではあるが、今回は違うかな。
 追記:三咲氏だった。木村氏だからこそ呼べるゲスト。


 『マクロス』シリーズはほぼ未履修だったので、『マクロスΔ』劇場版(2016)を視聴してみた。
 これまでは、『マクロス7』劇場版(1995)を、根谷美智子氏目当てでビデオレンタル視聴したくらいで、全然詳しくない。ただし、「ランカ・リー」や「リン・ミンメイ」のフィギュアは持っていたりする。

 ともあれ、原作(原典)たるアニメ映像の雰囲気を、プラモデルにも反映させていきたい。モデラーとしての私はわりと保守的で、原作の色調や、実物(モデル元)の造形に対して忠実であることを重視している。オリジナルキャラのプラモデルでも、パッケージアートやサンプル写真で感じ取れる、「まさにそのキャラ」の雰囲気が気に入ったから購入するのであって、自分なりのオリキャラを作り出すのはかなり苦手。
 ただし、ディテール不足を感じたところに細かな塗装や追加パーツをちょっとだけ足して、全体の雰囲気を引き締めることはある。あるいは、配色パターンそのものは指定どおりでも、自分好みの色調に引き寄せて塗装する。余った素体に布服を着飾らせるのも、別腹の楽しみ。
 今回の『マクロスΔ』とVFG「フレイア」の場合は、
・プラモデルの機体それ自体は、アニメに登場しない(※カラー違いでは登場している)。
・機体塗装は、CGベースで軽い。リアリティは無視して、ポップなカラーリングで良さそう。


 「30MF」シリーズが出てきて、「ガールだけでなく、男性キャラのプラモデルもきちんと発売リストを記録しておくべきだったか?」と戦々恐々。
 これについてはBANDAIが最大手で、『DRAGON BALL』、『仮面ライダー』、『ウルトラマン』、『鬼滅の刃』、『STAR WARS』、『Tiger&Bunny』、そして胸像モデルシリーズ(Figure-rise Bust)に至るまで、様々なジャンルを手掛けている。それ以外は、MODEROID『ヒーローアカデミア』シリーズ、KOTOBUKIYAの「ウルトラマン」、中国メーカーの男性プラモ(大量のヒーローもの)、それから小サイズのHEXAGEARシリーズ(1/20)くらいだろうか。実際にはfigmaやカプセルトイの男性キャラまで視野に入ってくるので、おそらく私の手に負えない。