2024/09/15

2024年9月の雑記

 2024年9月の雑記。

今月の一枚。BANDAIのプライズフィギュア「2.5次元の誘惑 ペンフレ! 天乃リリサ」。左記写真で手に持たせているのは模型用のデザインナイフだが、それ以外のペン類も持たせることができる。


 09/29(Sun)

 アニメ版『負けヒロイン』第12話(最終話)は、まさか、まさかの大外し。アニメオリジナル回だが、脚本も演出もかなり中途半端で、一クールの締めくくりとしては残念な出来。
 偽装デートというシチュエーションはあまりにも強引で、これまでリアリティレベルを高めに保持してきた本作としては肩透かし。主要キャラをほぼ全員登場させるために余計なシーンがちまちま混じってくるのも、オタク的なサービス精神が悪い方に出ている。これまでは、アニメ版なりに本筋をきれいに見せるために、原作の描写を巧みに刈り込んでいたのだが、今回はそういう取捨選択が利いていない。結果として、中途半端な顔見せシーンばかりで、キャラクターの内面造形が完全に死んでいる。メインキャラの焼塩&小鞠すら、今回は型通りに反応するだけの添え物で終わってしまっている(※特に小鞠は、いきなり使用語彙が減って「し、死ね」「死ね」と連呼するばかりのNPCになっていて悲しい)。
 豊橋名所のロケハンネタも、これまではさらりとストーリーに取り込んでいたものが、今回はこれ見よがしに押しつけがましい。「マケイン」連呼もネタに走りすぎで、これまた作為が悪目立ちする。コンテ面でも、キャラクターの顔面アップが頻出して暑苦しいし、顔芸頻度も過剰になっている。映像構成としても、レイアウトの美しさや空間的な情緒が感じ取れない。声優陣の芝居も、悪馴れしたギャグ寄りの崩しが強すぎて、肝心の感情表現が空転している。アイスを舐める描写や「子孫を残せなかった」云々のくだりも非常に下品だったし、劇伴の付け方もしっくり来ない。これまでは圧巻の素晴らしさだったのに、最終話でいきなりこんな凡作を出してくるとは、何故……。
 ヒロイン八奈見の珍奇突飛な言動は、ストーリーの緊張感を緩めるバランサーとしては、効果的に機能していた。しかしそれはあくまで箸休めの要素であって、そればかりで一話分を延々やられてしまうと、言動のおかしさが誤魔化しきれないし、しつこくてマンネリ感も強まる。そういう「おまけ」の味付けは、あくまでおまけレベルの扱いに留めておくべきだったと思う(※細かく言うと、おそらく「メインヒロインの八奈見をフィーチャーしておきたい。しかし原作ストーリーとの兼ね合いもあるので、シリアスな話は作れない。だから、コメディと思わせぶりだけで1話をやり過ごすしかない」ということだったのではないか)。
 もっとも、魚眼レンズ風のレイアウトや、メリーゴーランドの動画表現、カメラを避けていきなり登場する妹、「こんなときめかない『あーん』」など、面白いところもありはするのだが、全体としては、雑なネタ拾いばかりで、まるで下手な二次創作コメディを見せられたような気分。……うーん、どうしてこうなった。
 細かい話をすると、10話と同じパークをすぐに再訪したのも芸が無い。原作だと、主人公は第6巻で初めてデートをするのだが、アニメ版がここでデートらしきものをやってしまうと設定が大きくずれる(※アニメ2期はやらないつもりだろうか?)。
 八奈見の背後にカメコらしき成人男性たちが集合していたのも、唐突で不気味だし、意味が分からない(※内輪ネタで制作スタッフ自身を描き込んだのか? こういう意味不明なカットは、これまでほぼ皆無だったのに。→追記:本当にスタッフ出演だったようだ。こんな内輪ネタは要らなかった……)。

 夏アニメでは、『小市民』の最終回は2期へのプロローグ的描写で、中途半端なところで締め括るという蛮行によって、せっかく良い雰囲気だったのに隙間風が吹いた。『義妹生活』も、静かで内省的な画面作りが秀逸だったのだが、終盤の2話は御都合アドバイスキャラを立て続けに登場させて強引に決着へ向かわせた。
 夏クールで視聴していた3本が、いずれも最後で大きな失敗をしでかすことになるとは……うーん。いや、全体としては明らかに水準を超えた良作揃いではあったのだが。

 最近のアニメで、手先の爪を濃く塗る(つまり、素肌よりもピンクを濃いめにする)ものを何度か見かけた。マニキュアは塗っていなさそうなキャラだが、ちょっと面白い。ただし、アニメよりもはるかに高精細な美少女ゲーム一枚絵ですら、爪はほとんど描き込まない――境界線を描くくらいで、色は素肌と同じまま――ので、これをアニメでやる意義があるかどうかは、いささか疑問もある。現実の女性であれば、ネイルには多少手を掛けているものだが、アニメの記号的作画がそれをどこまで受け入れられるか(再現する意味があるか)は、判断が難しい。


 近隣には駅ナカ書店――改札を通った奥にあったり、駅舎の一部にテナント入居していたり――がたくさんあって、たいへん重宝している。「乗車駅で書店を覗いて、下車駅でも書店に立ち寄る」といったように、毎回いくつもの書店を利用している。いずれもけっして大規模な店ではないのだが、店舗ごとにカラーの違いがあるのが興味深い。例えば漫画新刊コーナーを見ても、それぞれに個性と長所がある。例えば:
・女性向けコーナーがきちんと充実している店、
・キャッチーなタイトル群と、いぶし銀の秀作で、二極化している店(※これはこれで個性的)、
・アニメ化などのメジャー作品コーナーを設けて面陳列している店(※個人的には退屈)、
・マイナー出版社もバランス良く揃える店(※買い漏らしを拾えることも多くてありがたい)、
・新刊コーナーは狭いのに、妙に充実している店(※たぶん配列も上手い。たくさん買う)、
・無難なラインアップだが、流行りそうなところを堅実に押さえている店、
・一週間以上過ぎた新刊でも、ものによってはじっくり置いている店(※目利き店員がいそう)、

似たり寄ったりになりそうなのに、意外なほど店舗ごとの違いがあって面白いし、そういう多様性のおかげで様々なジャンルに触れやすい環境になっていて、買い逃しも回避できるのが嬉しい。まあ、仕入れのちょっとしたばらつきをそう感じているだけかもしれないけれど。


 木村氏の9/30配信トークを聴いて、本当に規格外の自由な生き方をしてこられた、常識外れの異才人格のお方なんだなあと恐れおののいている。そして、「キャラクターを演じること」を最も大事にしたいと何の衒いもなしに言い切れる、本物の役者でもある。こんな物凄いお方が、ふわふわマイルドでありながら細やかに行き届いたトークで定期配信をなさっているというのが、もう奇跡のような事態に思えてくる。



 09/23(Mon)

 アニメ版『負けヒロイン』の文芸部展示の描写に関して。
 本編視聴中も、「あっ、この展示発表、ちゃんと中身(文章)が読めそうなくらい書いてある。ディテールに説得力があるなあ」と感心していたが、本当にここまで作り込んであったとは、さすがだ。文字数は、概算で6万字以上あるので、これはまさに、作中で小鞠が執筆したとされる「5万字」原稿の全体に相当するサイズ。
 作中の描写として見ると、「高校一年生がたった一人で」+「独自性のあるテーマを設定して」+「5万字規模のきちんとした文章を」+「ごく短期間で(せいぜい1ヵ月?)仕上げた」わけで、卒論レベルとまでは行かないものの、小鞠知花は相当優秀だということになる。
 中身も上手い具合に作っている。とりわけ太宰関連が表面的なまとめに終始していたり、文末が「~している」連呼だったりして、高校生らしい拙さを感じさせるところも含めて、いかにも展示発表らしい。それでいて、キャラクター自身の性格造形に即した内容も盛り込まれていて、たいへん芸が細かい。
 画像2枚目の部長会議の原稿も、なかなか泣かせる。小鞠自身が作った展示については控えめに言及しているだけだし、想定問答原稿まで作ってあるのも、会議に向けて真剣に取り組んでいたことが伝わってくる。小鞠さん、こんなに頑張っていたんだね……。


 眼球可動は、Kotobukiyaの「メガロマリア:プリンシパル」(2024年2月発売)が、おそらく日本国内のガールプラモとしては最初。なので、上記「壱(early)」は2例目となる。もちろん、ドールや可動フィギュアには多数の実例があるし、海外ガールプラモ(先日の「STAPEL」)にも眼球可動がすでに実装されている。
 1/12級の可動フィギュアだと、海外メーカーの「ブンちゃん」(蝸之殼スタジオ、2021年?)が、私の知る範囲で最も早い実例だった。それ以前にもありそうだが、固定ポーズのフィギュアでは眼球(視線)だけを動かせても意味が無いので、基本的には関節可動フィギュアやドールに搭載されるべき機能だろう。1/12よりも小さめのfigmaでも、ごく一部の製品が眼球可動を取り入れてきた。検索した範囲では、「コブラ」(2014年)、「テラフォーマー」(2014)、「アベンジャーズ:ソー」(2014)、「スプラトゥーン」シリーズ(2018)などが眼球可動を実装しているようだ。
 1/6や1/3スケールの大型ドール分野では、眼球パーツを含めて様々なパーツが別売りで、ユーザー各自が好みの目を選んで取り付けるというカスタマイズドールが多い。ただし、小サイズの1/12級ドール分野では、市販メーカー商品としては、まだ眼球可動ものは存在しないかも。

 VOLKS (FIORE)の新作「セタリア」は11月発売。ルピナス系統のキットだが、素肌成形色は褐色になり、着衣はヒップ剥き出しの開放的なホットパンツ、さらに両目プリントも明らかにケモ度が上昇している。

 ソフィエラの表情になんだか既視感があると思ったら、あっ、これはM&M原画の美少女ゲームで見たやつだ……(※アトリエかぐや時代ではなく、近年のastronautsの方)。もっと言えば、「CV:みる」な感じ。


 秋アニメのメモ。
 (※五十音順、計80本。5分ずつのショートアニメや、全6話構成のタイトルなども含む。
 ただし実写1本、再放送5本を含むので、新作は実質74本)
 続編/シリーズものが激増して29本。リメイク1本を含めて、秋新作の約4割を占めている。原作の無いオリジナルアニメは5本だが、今期開始の完全新規のオリジナルアニメは『ネガポジアングラー』『魔法使いになれなかった女の子の話』『メカウデ』の3本(※『カミエラビ』『クマーバ』はシーズン2)。

 ジャンル別で見ると、ファンタジー系が突出している。内訳は:
・洋風ファンタジー(9本)+洋風異世界転生(7本)
・アジア風(中華風)ファンタジー世界(3本)
・現代妖怪もの(4本)+現代オカルト(1本)+現代異能(2本)
・その他の架空世界(2本)
で、合計28本もある。つまり、秋放映の4割弱がファンタジーもの。『らんま』『Dragon Ball』が、現代の枠組では分類困難なのがちょっと面白い。

 ファンタジー以外は、下記のとおり(※分類は適当。複数ジャンルの重複カウントあり)。
8本:動物もの。
6本:スポーツ(※釣りとカーレースを含む)。
5本:ラブコメ。歴史。ホームドラマ。
3本:魔法少女。SF(※ロボットもの1本を含む)。ゲーム/VR。
2本:ビジネス。アイドル。
毎クールのばらつきが大きいので一概に言えないが、今回は恋愛系が減少し、その一方でファンタジー系はかなり増えている。

 出演声優で見ると、ファイルーズあい9本、日笠陽子8本、悠木碧7本、赤﨑千夏/小松未可子4本、早見沙織/久野美咲3本、小清水亜美/喜多村英梨/田村睦心2本、金元寿子/富田美憂/長谷川育美/大地葉/沢城みゆき/佐藤利奈/種﨑敦美/ゆかな/井澤詩織1本。
 (※全体ランキングではなく、上記ページの記載から私が注目している声優だけを抽出したもの。既発表以外のサブキャラや後半登場キャラでカウントが増える可能性もある)

 個別のメモ(※上記記事どおり、五十音順)。
 『アサティール2』(※つまり2期)は、サウジアラビアのアニメ(を日本語化した)とのこと。キャストは未発表だが、第1期のままであれば、野沢氏と大空氏がメインということになる。
 『甘神さんちの縁結び』は、「京大医学部を目指す高校生」主人公と巫女3人の同居ラブコメ。実在大学を出してくるのは珍しいが、京都舞台のご当地アニメゆえの扱いだろう。キャストにはあまり惹かれないが、観光地アニメ+萌えラブコメとして楽しめる人も多そう。
 『科学×冒険サバイバル!』は、Eテレの子供向けタイトルだが、科学フィクションとしての出来に期待したい。小松未可子氏が主人公格で出演されるようだし(※ただし、オンライン配信は無さそう?)。
 『株式会社マジルミエ』は、内容はよく知らないが、キャスト面ではやたら充実している(※主演はファイルーズあい氏)。演技目的で視聴するなら、かなり有望そう。制作会社はJ.C.STAFFで、平岡氏は初監督。
 『嘆きの亡霊は引退したい』は、ゼロジー制作。たかたまさひろ監督も、ゼロジーとの共同作業が多いので、きちんとまとまったクオリティになりそう。ストーリー面が個人的に好みから大きく外れるので、視聴はしないと思うが、今風で人気が出そうな路線ではある(※「やれやれ系」の持ち上げハーレムコメディも、そろそろ歴史が長いけれど……)。
 上述のオリジナルアニメ『ネガポジアングラー』も、興味はある。釣りには詳しくないが、植村泰監督は演出業で実績のある方だし、こちらもメインヒロインがファイルーズあい氏なので大丈夫だろう。脚本の鈴木智尋氏は、『DOUBLE DECKER! ダグ&キリル』(2018)でもオリジナルアニメ脚本を手掛けていr……って、キャストに早見氏、大地氏、種﨑氏、遠藤氏とは、すごいタイトルだったんだな……。制作会社のナット(NUT)は、2017年設立の比較的新しい会社のようだ。
 『ハイガクラ』は、高山しのぶ氏原作の中華風アクションファンタジー(女性向け)。最低限まともなコストを掛けて制作していれば、手堅く良く出来た作品になってくれる筈。一クールのぶつ切れで終わらせるのはちょっともったいないかも。ちなみに、田村睦心氏が少年役で出演。
 『ハミダシクリエイティブ』は美少女ゲーム原作。今回も『ワガママハイスペック』と同じく5分アニメシリーズ。戸田氏とあさみ氏がメインなので、聴きごたえはある筈。せっかくの機会だし、映像がよほどひどくない限りは視聴していきたい。アニメーション制作は若い会社なので、程々に頑張ってくれれば御の字。
 『百姓貴族』(2期)はローコスト作画なショートアニメだが、筋書きや描写のベースはしっかりしている筈だし、田村睦心氏メインなので、毎週5分間の楽しみとして視聴する価値はある。ただし、千葉氏はちょっとうるさくて苦手だが。夏アニメだと、『かつて魔法少女は~』が13分×12回の編成(つまり通常のアニメの約半分)という珍しい構成だった。
 『百妖譜』(2期)も女性向けの中華風ファンタジー。すでに配信済みの中国アニメを、日本語版にして放映するようだ。キャラクターも演出も、日本アニメではなかなか出てこない趣向と見受けられるので、アニメの国際的な広がりという意味でも、また、アニメを通じて見出される国際的な広がりという意味でも、面白い体験になりそう。1期も視聴していないが、気が向いたら観てみるかも。主演の東山氏は、まだまだ今一つだと思うが、この秋クールでも多数(8本)出演されるようで、良い芝居を聴けたら嬉しい。この秋クールでは『齢5000年』も、最初に中国で制作&配信されたものが日本語版になって日本国内でも放映されることになった(※原作小説は日本語)。こういう国際的な座組は、今後も増えていくだろう。
 『星降る王国のニナ』は、主演の田中美海氏目当てで視聴する価値はありそう。駒屋健一郎監督は、美少女ゲーム原作のアニメ演出も数多く手掛けており、ひとまず信頼して良さそうだが、どうなるかは分からない(PVを見るかぎりでは、ちょっと見せ方が退屈かもという懸念もある)。
 『マーダーミステリー・オブ・ザ・デッド』は、ボードゲーム原作。スタッフの座組にはあまりピンと来ないが、ゾンビミステリ(サスペンス?)目当てで視聴するのもアリかも。ただし、PVを見るかぎりでは、キャラクターも3Dモデリングで動かすフル3Dアニメのようだ。3Dアニメは表情表現が致命的に弱いので、個人的にはかなり苦手。
 『メカウデ』は、福岡の新進スタジオによるアニメとのこと。喋るメカパーツを相棒にした、近未来バトルもののようだ。
 『Re:ゼロ』(3期)は全16話という珍しい構成。どうやら、10月からのシリーズと、2月以降のシリーズの2パートになっているようだ。視聴するつもりはないけれど、こういう試みは興味深い。

 これらの中から、せいぜい1~2本も観られれば十分かな。このラインアップだと、毎話感想を書くことは無さそう。
 アニメはここ十年ほど、全然見ていなかったが、昨年頃からちょっとずつオンライン視聴するようになっている。サブ趣味として、程々に付き合っていければよい。
 私なりの選別基準としては、まず「キャスト」「ストーリー設定」で大半が足切りされる。そのうえで、良さそうなものを摘まみ食いするだけなので、体系立った視聴をしているわけではない。

 PVを見て回っていても、「いかにもアニメっぽい浮ついたコメディ演出」が、かなり苦手になっている。例えば、強引な天然誤解発言に対してババーンと突っ込み台詞を入れるような、ああいう見せ方。まあ、そういう趣向の作品については、それを素直に楽しめる若者たちに任せようかのぉ、ごほごほ。
 自身の過去を顧みると、たぶん幼少期には、そういう過剰演出も素朴に楽しんでいたのだと思う。成人キャラがふざけた言動をしていても、子供の目にはまったく気にならなかった。しかし、現実の経験とともに、「こんな安っぽく浮ついた言葉遣いをするのは、まともな大人ではない」という判断が形成されてきて、成人キャラが軽薄なギャグ言動をするのが痛々しく見えるようになったのだろう。おとなになるって かなしいことなの……。

 夏アニメでは、『負けヒロイン』はティーンズ男性に特化して人気が高かったようだ。タイトルからして、女性ユーザーから避けられがちなのは仕方ないが、実際には女性寄りの見方で視聴しても十分鑑賞に堪える。小道具の演出や色彩的コントロールなど、映像的クオリティも抜群に優れていた。私自身は、当初まったく期待していなかったのだが、愛知ローカルネタというので第1話を視聴してみて、その抜群の演出の切れ味に驚嘆してそのまま視聴を続けた。
 『小市民シリーズ』は性別や年齢層を問わず、満遍なく程々に視聴されていたようだ。ミステリという看板のおかげで、視聴者の偏りをうまく乗り越えられたと思われる。個人的には、神戸守(監督)コンテを楽しめたので満足。
 『義妹生活』は、よく分からない。純アニメの表現文法ではなく、文芸寄りの内省描写と邦画風のレイアウトで、ロングショットと長回しを多用するコンテはなかなか珍しい。これも、タイトルからして男性的なラブコメ需要の視聴者(ヒロインのキャラ萌え需要)が集まったようだが、女性キャラの真率な掘り下げという意味では、ティーンズ女性層にも視聴してもらいたかった。海外ではトップクラスに人気があるようで、これはちょっと意外。映像それ自体としては、やりたいことは分かるものの、レイアウトの面白味が乏しくぎこちなかったのも確かで、ちょっともったいない。

 ……この夏の私は、異様なまでに人間ドラマ特化のアニメばかり観ていたようだ。演出目当てのチョイスなのだが、そうした表現技巧が発揮されやすいのはそういう人間関係の機微を表現するタイプの物語だから、ということだろう。もちろん、スポーツものやロボットものやアイドルものにそのジャンルならではの視聴覚表現の巧拙はあるのだが、それらは作中の出来事そのもののドラマが重要だったり、キャラを大きく見せることが最優先だったりして、一般的な映像表現とは違ってくる(※実際、キャラの顔面をデカデカと映しまくるばかりの駄コンテもあったりする)。
 上記3作品はいずれも「現代の学生もので」+「恋愛要素もあるけれどトリッキーな扱いに留まり」+「説明台詞は控えめで、細やかな会話劇と視聴覚演出を重視する」というスタンスで、これは女性向けアニメには多いアプローチなのだが、それ以外のアニメではあまり見かけない。ジェンダーの枠を超えて通用させるには、何かしら一味追加しなければ成立させづらいのだろうか。すなわち、「ヒロインの『勝ち/負け』というメタネタ」、「推理ものというジャンル枠組」、「義妹同居というベタネタを意識的に換骨奪胎する」というギミックを手掛かりにする必要があったと言うべきなのかもしれない。


 漫画でも、暗殺者主人公が増えてきたり、ヤクザキャラがごく普通の存在として(時には格好良さそうに)描かれたりする風潮は、かなり嫌だなと常々感じている。あくまで裏社会だけの物語として描くならまだしも、そういう存在が日常描写の中で肯定的に扱われるのには、眉を顰めたくなる。暗殺者はともかく、少なくともジャパニーズマフィアに関しては、もっと警戒心を持った方がよいと思う。
 暗殺者ものは、虚構性が高いこともあって、ある程度は許容している(買って読むこともある)が、ヤクザ主人公ものは絶対に買わないことにしている(※ゲームやアニメでも同様)。もっとも、ボーダーラインは不明瞭で、例えば架空世界のアウトロー集団の物語であれば構わないと思うが(『大悪司』とか)、しかし、「ヤクザ一家のヒロインとのコメディ」のように反社会勢力がイージーに表社会で暴れるシチュエーションには、倫理的忌避感を強く覚える。秋アニメにも暴力団ものがあるようで、かなりモヤモヤする。
 もちろん、「ヤクザである個人も、内面や尊厳を持っており、一人の人として尊重されるべきだ」というのは確かだ。しかし、「ヤクザによる組織的継続的な加害行動は、けっして美化されてはならない」「暴力団が存在することが、ギャグや人情話などで誤魔化されてはならない」というのも、心に銘記されねばならない。
 震災直後の暴力団炊き出しについても、歴史的に「外れ者たちの互助精神」の延長として捉える余地も無くはない。しかしそれでも、ヤクザに貸しを作ったり、ヤクザに慣れてしまったり、ヤクザに対する警戒のハードルを下げてしまったりするのは、本当に怖ろしいことだ。暴力団から子供たちへのりハロウィンプレゼントにしても、底意があるに決まっているし、そのお菓子の原資は恐喝や詐欺で市民から奪い取ったお金だ。だから、そういうものを美談にしてはいけない。
 異世界小説でも、現代人だった主人公が、奴隷制をそのまま何の抵抗も無しに受け入れているのを見ると、かなりギョッとする。近年ではそれがあまりにもありふれたものになっていて、さすがに危機感を覚える。なので、「奴隷」とか「shachiku」の言葉がタイトルに入っている作品は、一切買わないようにしている。
 (まあ、でも、「ショタ」云々というのも、だんしじどーにたいするせいてきぎゃくたいにちょっけつしかねないワードなので、そろそろやばいかなとは思っている。「メ○ガ○」は、もう完全にアウトだし。どこまでストイックに判断するかは、人それぞれに振れ幅が違っているだろうし、私と異なる基準の人々を責め立てるつもりは無いが、しかし少なくとも、「フィクション無罪」「エンタメ自由」だけで押し通すのは無理だと考えている。)


 現在のアニメ関連業界は、円盤単体のセールスよりもグッズ類(版権収入)の割合がかなり大きいらしいが、私個人はキーホルダーや缶バッジにはまったく興味が無い。そういう楽しみ方ができないのは不幸かもしれないが、グッズにまで手を出していたら趣味支出がさらに上乗せされて大変なことになっていただろうから、ローコストな楽しみ方に留まっていられるのは幸いかもしれない。特にアクリルスタンドは一個(一枚)1500円が相場という、結構な値段になる……店頭で見かけると、つい買ってしまいやすい価格でもあるのだけど。似たような印刷物のクリアファイルがその三分の一、たった500円という落差も解せぬ(※印刷面積はクリアファイルの方が数倍の広さだし、使われる色数もほぼ同じなのに……)。
 フィギュアにしても、「そのキャラだから買う」という選び方はめったにしない。あくまで「フィギュアとして出来が良いか否か」で、だから、原作を知らないキャラのフィギュアでも買うし、原作でお気に入りのキャラでもフィギュアの出来が良くなければただ残念に思うだけで終わる。


 漫画を読んで買って、買って読んでを繰り返しているうちに、また未読単行本が30冊を超えてしまった。その気になれば半日(13分×30冊=390分)で消化できる量ではあるけれど。丁寧に読みたい作品や、内容がヘヴィな作品、それから久しぶりの続刊でキャラを忘れていそうな作品などは、手を付けるのが後回しになってしまいやすい。実のところ、読む価値のある文化財が自宅にストックしてあるということだから、何も問題は無い。無いのだ。(置き場が無いことは忘れよう)

 PC(美少女)ゲームの方が、消化率が低い。なにしろ一本に数十時間が掛かるし、学生時代からの積みがまだまだあるので。OS対応が確保されているうちに、できるかぎりプレイしていきたいが、毎月の新作だけでもわりと大変。
 毎月の新作チェックは、このブログでメモを取るのをやめてしまって、月末店頭買いに移行していたが、うーん、また新作メモを再開してもいいかなあとも考えている。しかし、廉価版やロープライスが優勢で、しかも声優方面でも面白味が乏しくなっているので、あまり気が乗らない(※これらはまさに、新作チェックメモをやめた理由でもある)。


 
 09/18(Wed)

 新しい眼鏡の使用感に、ようやく慣れてきた(視界の見え方にも、眼鏡の装着感にも)。ただし、ヘッドフォンを付けたまま眼鏡を着脱しようとするとサイドが引っかかりやすいのは、想定外の問題だった。原因は、ツル(テンプル)がちょっと外側に湾曲していて、ヘッドフォンに干渉しやすくなっているため。まあ、この程度であればすぐに慣れる筈。


 あまり良くない姿勢でゲームを長時間プレイしていたせいで、左肩が痛い。SLG(キーボードプレイ)では特定の動作を延々繰り返すことがあって、それは特定の筋肉を特定の仕方で反復動作させることになるので、局所的に大きな負担が掛かる。


 気分転換のために、久しぶりにスケールモデルを手掛けている。
 模型制作の原理論、方法論として、何を目指して作るのかが問題になる(あるいは、それを意識化して取り組みたい)。スケールモデル分野では、「実物の再現」を目指すのが第一目的になるが、それも一概に答えが決まるわけではなく、様々なアプローチが考えられる。おおまかに言えば、
1: 実物(モデル元)に在るものを、あるがままに再現する。
2: 実物に在るものが、見て取れるように再現する。
3: 実物を見たときと同じような姿に再現する。
4: 実物がそうなっていたであろう理想的な姿を再現する。
少なくともこのくらいの違いはある。

 例えば、1/700縮尺の小さな艦船模型でも、実艦には細い空中線が張り巡らされている。これについて、
 1)の立場であれば、できるかぎり正確な縮尺で、つまり極限まで細い金属線を使って、実艦どおりに張り巡らせることを目指す。実際には、かなり無理のあるアプローチになるが、誠実(忠実)ではあり、模型制作の一つの理想ではある。
 2)の立場であれば、空中線は、当該艦船の機能-構造において、確かに存在するものなので、それがはっきり見て取れるように再現する。つまり、計算上の縮尺を外れてでも、空中線が模型として視認できるように表現する。例えば、太い金属線を使ったり、あえて濃い色で表現して目立ちやすくしたりする。これはこれで、実艦構造の理念的な再現として、意味のあるアプローチだと言える。
 3)の立場であれば、1/700という極小スケールに変換したならば、空中線など見える筈が無いと考える(※現用艦の写真などでも、ほとんど見えないことが多い)。それゆえ、このアプローチでは、空中線は適宜省略することが認められる。むしろ、太い空中線が悪目立ちすることは、実艦らしさや見た目のスケール感を損なうものとして否定的に見られるかもしれない。
 4)の立場は、個別的な判断や価値観に左右されるところが大きい。例えば、戦闘中の状態を再現しようとする場合などでは、付けないという判断もある。作品全体のディテールバランスを考慮する場合も、これに近いアプローチになる。ジオラマ分野にも親和的な発想だろう。

 同様に、錨鎖や手摺を「どのように再現するか」、「どこまで再現するか」、そもそも「再現するか否か」の判断は、モデラーごとに異なっている筈だ。砲身についても、「艦船の迫力を表現するために、大きめに造形する」というアレンジが、キットそのものに施されていることが多いが、それに対して、正確な縮尺どおりの再現を目指すものもある(※その場合、砲身はほっそりして、やや目立ちにくくなり、模型としての迫力も乏しくなる)。
 甲板面の金色のリノリウム押さえの表現も、しばしば議論されてきた。「実艦どおりに、極細の金色ラインをなんとかして表現する(エッチングパーツなり、専用のリノリウムシールなり)」、「実艦の構造を再現するために、リノリウム面の上から別パーツで乗せていく(エッチングパーツを使うなり、黄色の伸ばしランナーを接着したり)」、「実艦を遠景で眺めるときは、そんな細部まで見えた筈が無いので省略する(キットはうっすらとモールドが入っているだけで済ませる)」、等々。
 WWII期のIJN艦船のカラーリングについても、「所属港の違いを反映させるために、艦ごとに異なったグレーで塗り分ける」というモデラーは多い(※そのための「佐世保グレー」「呉グレー」「横須賀グレー」といった専用塗料も販売されている)。それに対して、「規程上は同一の混合比の塗料を使っている筈なので、常に同じ色で塗るべきだ」という考え方もある。さらには、「実艦写真では明らかに異なった色合いに見えるので、そのありようを忠実に再現するように、別々のグレーで塗り分ける」という思想もある。このように、どのような作り方、どのような見せ方を選択するかが、モデラー各自の価値観や方法論だ。
 他分野、例えばエアクラフトにも、特有の価値観が見出される。航空機のエンジンや、排気孔の内部は、完成状態では見えなくなってしまうが、それでもエンジンパーツを作り込んだり、わざわざ高価なレジン製アフターパーツを買って取り付けたり、排気孔ディテールの資料写真を探し回って実物どおりに再現したりする。これはまさに、「模型を作るのは、構造を理解するプロセスでもある」という観念の下にあると言えるだろう。完成状態の(表面上の)見栄えだけでなく、見えなくなるところまで忠実に作り込むという誠実さは、航空機モデラーの美質であり、また、実機(写真)を見る機会が多いエアクラフトならではの強みでもあるだろう。
 ただし、こういった方法論(制作ポリシー)の問題は、模型誌の制作記事でもめったに論じられない。AFV分野では、様々な制作技法が開発されているため、「この作品ではこのような見せ方を目指した」という方法論に言及されることがあるが、艦船模型や航空機、カーモデルなどではめったに見かけない。基本的には、ただ闇雲にディテールアップするためのテクニックが紹介するばかりで、忌憚なく言えば、そこには美学や方法論があまり感じられない。一応、ディテールアップのバランスを取りましょうというアドバイスはあるが、中途半端だと思う。つまり、「模型制作の哲学」は、まだまだ開拓の余地がある仕事だと考えている。きちんとした言葉で体系化した価値観を確立し、それを具体的な制作テクニックと結びつけることは、モデラーにとって大きな意義を持つだろう。

 ※後日追記:ちょうど9月発売のムック本『スケールモデルレヴュー』にて、春園燕雀氏が艦船模型制作の目標設定(コンセプト設定とそれを実現する技術的調整)に関する記事を執筆されていた。氏のアプローチと私のアプローチが一致するわけではないが、「一貫した制作方針を構築し、それを制作技術のレベルで体系化することの意義」については大いに頷ける。
 近時、多くの艦船モデラーが「ディテールのバランス」(って何?)とか「解像度」(をどうするの?)とか「統一感」(それをどういう根拠でどのレベルに設定するの?)といった言葉では語っておられたようだが、それよりもう一つ上の、制作コンセプトをきちんと設定するという理念レベルの思考を展開していけたらと思う。
 [ x.com/EnjakuHaruzono/status/1830730859877720161 ]:このツリーおよび会話にもある通り、「考証のみが尊し」のような教条化や、闇雲な高精細追求の袋小路といった危険性がある。それらは「再現」「忠実性」という、一見正しいが実はきわめて曖昧な観念に依拠している。模型制作は何を目指しているか、何を目指すべきか、何を目指すことができるかについては、もっとクリアで、もっと掘り下げられた理解を得られれば、スケールモデラーの活動の可能性が広がるし、モデリングの意義や意味もより確かなものになっていくだろう。そうありたい。

 私自身は、上の4分類で言えば、(2)に近い立場だ。実物がどのような構造で成り立っているかが、見て理解できるようなミニチュアを目指したい。例えば、立体的構造を見て取りやすくするために、AFVにカラーモジュレーション塗装をすることにも、かなり好意的だ(※もちろん実物には、そのような色調の変化は存在しない筈だが、それでも良いと思っている)。艦船模型の手摺がオーバースケールでも、「ここには手摺があって、乗員たちはここの梯子で移動していたのが」ということが見て取れるのであれば、取り付ける価値があると考えている。言い換えれば、各部の意味(機能)を適切に表現するような立体物を目指している。
 ただし、スケール感の合わないぶっとい手摺パーツが立っているのを、「美しくないし、リアルでもない」と感じる人もいるだろう。そういう意見の違いは解決できるものではないが、「この模型作品は、こういうコンセプトの下で作ったのだ」という理念のレベルで相手の作品を理解するようにすれば、モデラー同士で架橋できるところはある筈だ。そういう架橋のための土台作業になるのが、「模型の理念論」「模型の方法論」「模型の価値論」「模型の哲学」の語りだ。そうありたい。

 ロボットプラモやガールプラモでも、同じような論点が現れる。
 例えば、シンプル路線で、そのロボットの最も基本的な(プレーンな)姿として、ロールアウト時のきれいな状態で、ロボットそのものの魅力を最大限享受するという人もいる。あるいは、ロボットの構造を理想的に再現しようとディテールアップパーツを盛り込む手法もあるし、使用感を表現するために汚し塗装に凝るものもある。内部構造を再現したり、ハッチオープンの演出をしたりもする。さらには、可動機構もそのロボットの大きな構造上の特質なので、隠し腕をちゃんと可動させたり、モノアイ可動を仕込んだりもする。劇中のダメージ描写を忠実に再現するアプローチもある(その最たるものが「ラストシューティング」のポーズ)。

 ガールプラモでも、例えば頭髪塗装がしばしば問題になる(というか、モデラーごとに表現技法が異なる)。リアリスティックに毛筋を掘り込んでいくものもあるし、毛髪の軽みを表現するためにグラデーション塗装にするものもある。15cm級という小さなサイズなので、下品なツヤ出しではまずいと考えて、ツヤ消し(マット)にコーティングして無難にまとめるのもあるし、逆に、頭髪のつややかさを強調したい場合に半ツヤを吹くこともある。極端な場合は、植毛ドールヘアを利用するものもある。個人的には、「筆塗りを重ねて、細やかな毛筋表現をする(※手間を掛けてもいい場合)」か、あるいは、「パールコートで程々のツヤを出す(※キットの頭髪形状が十分に精緻な場合)」、「ツヤ消しコーティング(黒髪などで、上手い見せ方が出来ない場合)」など、いくつかのやり方を適宜使い分けている。
 素肌部分については、「入念な多重塗装でしっかりお化粧をさせる」という本格派モデラーもいるし、「無塗装のままで十分(※塗装するとジョイントが割れやすくなるし、擦れて塗装が剥がれたらみっともないという考慮も含め)」というスタンスのモデラーもいる。トップコートについては、「現実の人肌はツケ消しなので、プラモでもツヤ消しにする」というのは一種のリアリズム思考だし、「肌ツヤの色気が欲しいので半ツヤにお化粧させる」というのも、明確な目的(価値選択)のあるモデラーの判断だ。「血色表現(肉付きの実感)を追求したいので多重塗装やグラデーション吹きを重視する」というのもある。もちろん、キャラクターごとの個性の表現として使い分けることもできる。私の場合は「グライフェン」「ラプター」のような全身タイツルックが好みなので、人肌塗装に関する定見はあんまり無いが、BANDAIキットの素肌成形色はマネキンのようにべったりしていて苦手なので、レジンキットのような多重(血色)塗装をしたくなることがある。


 海外Vtuber(英語圏のいわゆるENVtuber)は、模型制作をしながら流し聴きしていたが、最近はあまり聴かなくなっていた。3Dアクションゲーム配信で何時間もガンガン斬ったりバンバン撃ったりし続けるのは視聴していて辛いので、まあ、たまに聴くくらいで。
 私のリスニングスキルでは、聞き取りやすい英語と、聞き取りにくい英語の違いはかなり大きい。例えばshylilyは一単語、一単語が粒立っているし、喋るスピードもあまり突っ走らないので、ついていきやすかった(※現在トップクラスの支持を得ている女性アバター配信者の一人で、オランダの方とのことだから、「母語ではない英語」で喋っているのが、私にも聞きやすかったのかもしれない)。
 現在ではスペイン語のアバター配信者なども人気を集めている模様。中国語の配信者は、母語話者数の割には、まだあまり目立たないかな。

 ちなみにshylilyは、ねんどろいどで初めて正式に「ア○顔」(と名付けられたフェイスパーツ)を付けてしまった事例でもある(今年8月発売)。実際の配信でも、shyと称しながら、トークや衣装はわりとお色気要素があるようだ。


 アニメ版が大人気なのに、放映中に原作小説を品切れさせていたのは、致命的な大損だよなあ。原著者に対しても、例えば2万部×6巻×800円×印税10%の機会損失があったとすれば、960万円の稼ぎをふいにさせたわけで、出版社はどれだけ謝っても足りないのではなかろうか。そういうとこだよガガガ文庫君。
 実際には、電子版がかなり売上をフォローしたと思われるが、それでも長期的/マクロレベルの損失は大きいだろう。すなわち、紙媒体=書店での売上実績にはならないわけだし、出版社(レーベル)としても存在感を示すチャンスを棒に振った。この夏アニメの放映中に、どうやら7月下旬から9月頭くらいまで、ずっと品切れ/品薄のままだったらしい。なんともったいない……。



 09/13(Fri)

 わざわざ記事にするほどの制作でもなかったのだけど(※ほんの十数時間で完成)、ネット上にはこのシリーズの制作記事や紹介記事が少ないので、せっかくだから俺はこの赤のガールを作るぜ。
 今回もスミ入れはせず。スミ入れをすると、ラインモールドがくっきり見えて、機能性や密度感が増すのは分かるのだが、個人的には、外装の継ぎ目(隙間)が空いてしまっているようで、あんまり好みではない。なので、私のアプローチは量よりも質、つまり、ディテールの量(俗に言う情報量)ではなく、色彩的な効果の美しさを重視している。

 戦闘機部分は「ジークフリード」(VF-31J)系統。何回も作っていると、さすがに飽きる。今度は「メサイア」(VF-25)系統も、もう一つくらい作ってみようかな……。


 丸一日ゲームでも、丸一日読書でも、丸一日プラモデルでも、それどころか徹夜してでも、延々やっていられるなあ。年とともに難しくなるらしいけれど、今のところはそういう疲れor飽きは、ほとんど感じない。しかし身体的条件からは逃れられないので、いずれそういう体質になっていくのかもしれない。
 さすがに映画だけは、視覚的疲労が甚大なので、連続鑑賞は無理。これは強い感覚的刺激を受け続けてしまうが故に限界が来るのであって、年齢には関係無い(※学生時代でも、一日3本、つまり6時間くらいが限界だった)。特にハリウッド映画などは、毎秒のようにカットが切り替わるので、神経的ストレスが尋常ではない。そういう疲労感を、満足感と誤認させるテクニックでもあるのだが。


 アニメ『小市民シリーズ』第10話。Aパートは1期の最終回で、Bパートは2期の第0話のようなヘンテコな構成。こんな流れでは、別離の機微とその苦い情緒が、即座に別の状況によって上書きされてしまったし、露骨な引きのシーンによって、最終話の余韻や完結感も消え去ってしまう。さすがにこれはちょっと……。映像表現そのものは、じっとりした会話のムードがきれいに作られていて引き込まれるのだが、ストーリー進行(シリーズ構成)に関しては大いに疑問がある。

 アニメ版『負けヒロイン』第10話。こちらも映像の情緒を細やかに作り出している。上記『小市民』ともども、現代日本のアニメとしては、多少珍しい路線ではなかろうか。
 この回は秋も深まった10月末で、鈍く染まった夕陽のライティングや、その影のしっとりした暗さ、そして吐息の温度まで感じさせるほどの季節感が素晴らしい。
 原作小説には書かれていないところで、キャラクターたちに繊細な振り付けをさせているのも上手い。例えば、台詞進行と合わせた足の動きによる演出は、本作で多用されている(※もどかしげに地面を掻いたり、困惑とともに両足を揺らしたり)。
 興味深いのは、サブヒロイン「朝雲千早」が走るときのスピード感。このキャラクターが、別のキャラクターに駆け寄って近付くときの移動がやけに速い。通常のアニメ表現よりは明らかに速く、しかし、コミカルなデフォルメにはならないくらいのぎりぎりの速度感で、タタッと走ってくる。第5話にも同じ表現があったし、意識的な演出だろう。「動きの特徴によってキャラクター性を表現するというアイデア」、「それを要所で取り込むコンテ」、「視聴者が感じ取れるギリギリの動画(中割り)コントロール」等々、よほどの技術が無ければ、なかなかこういう表現は作れないだろう。こんな鋭敏な演出が、現代アニメでも経験できるのかと感心した。
 これらの他にも、どのワンカットも鮮やかなインパクトがあって、どのシーンの映像も強く記憶に残る。レイアウトから色調コントロールから質感表現からディテール造形まで、精密に作り込まれた絵だから名シーンになっているというのもあるし、ストーリーに即した意味づけの演出が決まっているからというのもある。これまでは、第2話がやや空転していたくらいで、それ以外の話数はどれもコンテレベルからぎっしりと充実した表現が詰まっている。今のところ、絵コンテと演出担当はバラバラなのだが、よくもまあ、これほど高水準のスタッフを揃えられたものだと思う(※山場の1話、4話、7話は監督コンテだし、脚本はこれまで全て横谷昌宏氏一人が担当しているが、それ以外は話数ごとに入れ替わっている)。
 ただし、コメディLN原作の筋書きを踏襲している都合上、やや浮ついた笑いのシーンも混在している(例えば冒頭のBL音声や、路上寸劇、射的の場面など)。原作無視はしにくいだろうし、シリアス一辺倒にできないのも仕方ないが、細切れパッチワークのような印象になりがち。
 なお、今回は原作小説第3巻の幕間と第3章(pp. 208-209, 210-265)にほぼ相当する。今回のサブタイトルも、この第3章の章題をそのまま使っている。細かすぎる枝葉は極力カットしているのは見て取れる。
 ちょっともったいないのは、部長のキャラ造形。アニメ版で描写された範囲だと、彼のパーソナリティが描かれたのは、ビーチ合宿で「後輩(主人公)とエロオタトーク」、「過去に迂遠で鈍感な告白をしていた」、それから「後輩(小鞠)の創作にちょっとしたアドバイスをした場面」くらいで、キャラクターが掘り下げられていない。彼が小鞠に優しく接していたという経緯が、後から言葉で説明されるだけなので、彼の人間的魅力が分からないし、彼に小鞠が惚れたのも説得力を持たないように感じてしまう。とはいえ、主人公の視点からは「それらは徹頭徹尾、かれら当事者の間の特別な出来事であって、彼(主人公)はかれらの過去に立ち入ることができない」ということの現れでもあるので、仕方ないところではあるのだが。
 副会長キャラの芝居がとても明晰で妙に上手かったが、キャスト(諸星氏)は劇団子役時代からの長いキャリアのある方とのことで、なるほどと納得した。

 今期アニメでは『義妹生活』(原作あり)も、遅まきながら通し視聴をしているところ。シチュエーションそのものは、親の再婚によって義理の兄妹(同年齢)になったというベタな物語だが、このアニメ版ではコメディ要素はほぼ皆無で、キャラクターたちの心情のあいだの誠実な「すり合わせ」に焦点を当てて丁寧に描いている(※漫画版はコミカルさを前面に出しているようで、アニメ版が物静かな雰囲気を選び取っているのは独自のアレンジ)。
 映像表現としても、ローポジション+ロングショットでじっくり撮る邦画風レイアウトや、別視点でのリールバック演出、フィルム風の演出(縦長画面や走査線ノイズ)、さらにはやたら力の入った作中作まで、なかなか珍しい技法を積極的に用いている。鏡にキャラを映した二重写しも頑張って作画しているし、カメラの切り返しコンテもひそかに緊張感を高める効果をもたらしているし、カメラブレのような画面ゆらぎ演出もちょっと珍しい。なるほど、今期アニメの中で演出面の評価が高いのも分かる。なかでも第5話は出色の完成度だし、大きな転換のある第9-10話もたいへんな力作。
 キッズアニメ風のケモショタ作中作も、妙にハイクオリティで目を瞠るし、雨の演出がやけに多いのも作品の雰囲気に合っている。ロングショットの長回しで人物が立ったまま歩き回るカットも多いので、見た目以上に手間が掛かっていると思われる。一見するとエッジのゆるい浅めの作画に見えるし、カット数も少ないので動きが乏しく見えてしまいがちだが、原作の勘所をきちんと掴んで適切にアニメーション媒体へ翻案した、含蓄のある映像作品だと思う。

 要するに、裏を返せば、「筋書きどおりにキャラクターの絵を出して、音声でいろいろ喋らせるだけ」という作品は、好きになれないし、わざわざ視聴する意味が無い。
 映像媒体にするからには、レイアウトそのものが鑑賞に堪えるだけの手応えを持っていてほしいし、小説(文字媒体)からアニメ(視覚媒体)にしたのだから、背景や小道具の演出もできるだけ活用してほしい。そうした時間的-空間的な表現の場がきちんと成立しているからこそ、声優の音声芝居も、それぞれに所を得て複雑なニュアンスを発揮するようになる。


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 12/1朱羅弓兵(※プラモデルの12倍サイズ)の話を見かけたけど、版権は大丈夫なのだろうか。「オーダー受付」と書いていて、受注生産するようだけど、
・メーカーとは無関係な人物が(つまり、権利者ではない)、
・朱羅そのままの造形で(12倍サイズで、ほぼ忠実に拡大して)、
・イベント外で有償販売する(通常の一日版権許諾の枠に収まらない)、
というのは、ちょっと心配になる。メガミデバイスの二次創作許諾要件(ライセンスフリー条件)のうち、「アマチュアディーラーによるオリジナルガレージキット(…)の製作、展示、販売」に該当するからOKということなのだろうか。朱羅シリーズのデザイナーさん自身も好意的にリアクションされているので、きっと確認は取れているのだろう。

 一般的にアマチュアの立体物販売は、特定のイベントの当日販売のみの版権許諾がなされることが多い(※権利者が販売を許さない場合もある)。メガミデバイスの場合は、そこから一歩進んで、アマチュアによるガレキや同人誌の販売はライセンスフリーとしている(つまり申請、報告、版権料も無く、イベント以外で販売してもよい)。これはこれで合理的なのだろう。すなわち、営利企業ではなくアマチュアの活動規模であれば、この線引きまで許容しても、権利者の利益を食ってしまうことはまず無いし、ファンの裾野を広げられるメリットも多少生まれるので。なので、上記の朱羅も、ガレキの巨大版だと考えれば、一応は理解できる。
 ただし、やはり気になるのは、一般的なファンの二次創作物とはかなり異なること。通常のガレージキットであれば、固定ポーズだし、クリエイターの個性が大きく付け加えられている。同人誌の場合はさらに、立体物から平面(絵)への変換があり、絵柄も含めて、絶対に同じものにはならない。しかし、上記朱羅の場合は、関節可動まで再現しつつ、ディテールはほぼ原作(プラモデル)そのままで、アレンジの要素が乏しすぎる。しかも、立体物どうしなので、イラスト化のような翻案要素が無く、誤魔化しが利かない。そういう意味で、海賊版(サイズを拡大しただけのコピー品)のように見えてしまい、ちょっとヒヤヒヤする。

 造形の問題としては、元の12倍のスケールにすると、粗が見えてくる。
 一つは、面のディテールが不足してのっぺりしてしまうこと。元のプラモデルならばわずか1cm四方でも、12×12cmになると、面の広さが目立ってしまう。つまり、密度感が足りず、平板になってしまう。
 もう一つの問題は、質感や素材感の問題。15cm級の小さなプラモデルであれば、プラの質感そのままでも、あまり気にならない。工学的な説得力が無くても、気にならない。しかし、12倍に拡大して人間サイズになると、質感や素材感の欠如が目立ってしまうだろう。装甲パーツについても、「何故こんな形状なのか」という疑問が浮かびやすい。
 サイズ(orスケール)を大きくすると誤魔化しが利きにくくなるので、ディテールを追加したり、構造上の説得力を持たせるようにしたり、塗装による質感表現も増強しなければ、空疎なハリボテになってしまう。関節部の隙間(内部)が見えたときの見苦しさも、大スケールの方が致命的になる。これはモデラーであればだいたい理解している筈だ。例えばロボットプラモでも、1/144と1/100と1/60では、表現そのものがかなり異なってくるし、スケールモデラーでも、縮尺が2倍になると造形的な見え方(or見せ方)がまるで別物になることは熟知している筈だ。
 KOTOBUKIYA公式の2/1朱羅(※2倍に拡大した固定ポーズフィギュア)のときも、せっかく拡大されたのにディテールはほとんど元のままで、がっかりした憶えがある。ボルトなどのディテールを追加して説得力を持たせるとか、バトルスーツの素材感を表現するとか、エッジの厚みなどもスケール相応に再調整するとか、ジョイントの隙間を丁寧に隠すとか、装甲パーツの裏側もきちんと作り込むとか、色を増やしたりグラデーションを掛けたりモールドを追加したりして面の平板さを避けるとか、いろいろやりようはあっただろうに……。



 09/08(Sun)

 木村氏の配信リストを公開することににした。YTは普段ほとんど見ないし、サーヴィスとしても邪悪だと思っているので、代替的な存在がもっと出てきてくれたら良いのだが……今回はさすがに仕方ない。なお、差し障りが生じてはいけないので、内容面での言及はしないことにした。


 アニメ『小市民シリーズ』第9話。解決編(の前半)。二人が喫茶店で向き合って、ただずっと喋っているだけのワンシーン回だが、神戸守監督自身のコンテで、狭いシャッター街の迷路的イメージや不穏に軋む劇伴の効果もあって、なかなか良い感じ。シャッター街は、文字通り、あらゆるものが閉ざされた空間(すなわち、全てを覆い隠している世界)でもあり、また、他者を拒絶する寒々しさはヒロインの内面世界の表現と取ることもできるだろう。その迷路の迷妄を歩いてヒロインの影を追いかけ、そしてヒロインが待つ最後の真相の明るみに到達する。強烈なインパクトのある不気味な映像表現でもあり、物語の変転を映像面からも造形している。横広のシネマスコープ画面も、映像の緊張感と空間性を支えている。
 それにしても、00年代風の邪悪ヒロインには、懐かしさも覚える。実際、原作小説は00年代半ばに刊行されていて、まさにその時代の空気の中にあった存在だが。邪悪ヒロインとミステリは相性が良い筈だが、「萌えヒロイン」+「入念な仕掛け」を高い水準で両立させたのはわりと珍しいし、2020年代の現在でこの路線を出してきたのも面白い。PCゲーム分野には『狂った果実』(90年代)や『シンフォニック・レイン』(00年代)などの実例もあったけれど、10年代以降はあまり目立たなかった。

 『負けヒロ』第9話は、ちょっといびつなところも出てきた。しっとりしたシリアスシーンと、おちゃらけたコミカルシーン、そして(今回珍しく出てきた)お色気シーンの三者が適当に入り交じるのは、どうにも乱雑に感じてしまう。
 特にお色気シーンは(※大きなバストが揺れたり、ヒロインが露出の大きい格好をしたりする)、あからさまにエロ目線になるし、そういう場面ではキャラクターの内面造形がいきなり破綻するし、シーンそのものも短くて、前後のつながりが薄いまま唐突に挟まれるので、文字通り夾雑物として邪魔に感じる。
 脚本面でも、小鞠の努力が主題になっている回なのに、後半ではほとんど出てこなくなるし、エロ好奇心でちょっかいを掛けてくる年長者(養護教諭)も、かなり気持ち悪い。その意味で、取捨選択を間違えたもったいない回だと感じる。前回のCパートで思わせぶりに登場した生徒会も、今回は一切出てこない。こういう中途半端な顔見せシーンを持ち込んでしまうのは、メディアミックス商売(キャラクター人気に乗っかる商売)の悪弊だろう。小説媒体であれば章立てや幕間エピソードとして切り分けられるので、変わったシーンを入れても受け入れやすいのだが、わずか24分間を一気に進んでいくアニメ媒体の進行では、「統一感の無い散漫な映像」になってしまいかねない。
 実際に原作小説と読み比べてみると、アニメ版は細かなエピソードや小ネタ的会話描写をかなりカットして、本筋進行を優先しつつ駆け足で進めているし、上記の小鞠不在も、ストーリー上はむしろ意味のある不在になる(※一緒に設営活動が出来なかったため、共同作業をしたという実感を持てないままだった)。しかし、それでもバランスの悪いところは出てしまう。小説第3巻の2章目(pp. 98-206)を、ほぼそのまま大筋をなぞっているのだが。アニメ媒体では、小さなエピソードにあたる描写をワンカット入れるだけで状況を想像させることができるというメリットもあるが、その一方で、小さなエピソードも悪目立ちしてしまう場合がある。一冊のストーリーを、一息で読み通すのではなく、週ごとに分割提供するので、各シーンの重みづけや意味づけが宙吊りのまま待たされるのも、視聴者を混乱させやすい。
 個々のシーンの空気感を表現するのは、相変わらず桁違いの上手さだし、アニメーションとしての魅力(動きの表現の面白さ)もあるのだが……。

 高校生キャラが恋人をひそかにGPS監視しているくらいであれば、コメディ作品のエキセントリックなキャラ造形としてぎりぎり成立しうるが、しかしさすがに、「成人(教員)キャラが、何の関わりもない未成年者(高校生)を公然盗撮したり盗聴していたり、未成年者(高校生)に対して猥談のほのめかしをする」というのは、一線を踏み越えていて、もう全然笑えないのよな……。いかに斎藤千和の超絶芝居をもってしても、これは覆せない。セクハラ的言動で近寄ってくる年長者の姿がどれほど気持ち悪いか、そろそろ気づいてほしいのだが……。

 朝雲&綾野コンビが文芸部展示を手伝った(手伝うことができた、手伝う意欲を持てた)のは、二人が出版に関わる将来を目指していることにも関係があるだろう。アニメでは明言されていないが、そのように取ると、朝雲が展示原稿を「早朝のうちに読み終えた」+「しかも熱心に読み込んで感激した」+「原稿の趣旨をきちんと理解した」+「展示レイアウトをすぐに構成できた」というのも納得が行く。このくだりは、ただ単に「朝雲が優秀だ」とか「夏の事件のお返しに手伝いをした」というだけではなく、彼女たち自身の心情に関わる積極的なモティベーションがあった(しかも、モティベーションを刺激するほどの優れた原稿だった)と解釈する方が美しいと思う。


最近制作したガールプラモいろいろ。

写真左の「黒白無常仙」は、デフォルメ体型ながら正統派の構成。とりわけ武器類の造形がユニーク。頭部は2種類ずつ(計4個)作れるので、どこかに転用できるかもしれない。

 写真右「Buster Doll:ナイト」は、ボディ構造を一新した新世代のキットという触れ込み。実際、ランナー群がモジュール的に配分構成されているし、肩部回転は胴体に埋もれさせて見た目の破綻を防いでいるし、脚部もパーツ一体化を推進している。パセリ氏フェイスも可愛らしい。
 ただし、武装形態にするには胴体をいったん分解する必要がある。また、武装の造形はかなりチープで、パーツ素材としても評価できないレベル。ガールプラモの武装デザイナーがなかなか育っていないことが、逆説的に強く印象づけられるキットになった。
中央「ルビーアイ」は、可動重視のメカガールという意味で、「レイキャシール」(写真右)の後継のような感じ。ただしパーツ精度は低く、差し込みピンが太すぎたり、ジョイントが緩すぎたりする。やりたいことは分かるし、医療機器モティーフの武器類も面白いだけに、もったいない。可動機構と造形美を両立させたメカガールとしては、「アーシー」(写真左)が抜群の出来。
左はVFG「フレイア・ヴィオン」。構成はシンプルだし、可動範囲もそれほど広くはないが、何を目指して、どの部分にどのよう可動を仕込めばよいかをメーカーが熟知しているキットだと思う。肩関節が、どのように動かしてもシルエットが崩れないのは好印象(つまり、大きな隙間が出来ないようになっている)。ただし、肘を伸ばした時のシルエットがやや不格好になるのはもったいない。メカ部分はこれから塗装する。

 右は「小石川エマ」。サイズは14cmと小さめ。ロングヘアが立体パズルのように多数のパーツで構成されている。設計者はさぞや大変だったろう。スカートの白線は、パーツ分割で表現されている。おそらくコストダウンのメリットはあるのだが、組み立ての隙間が出来やすいし、塗装(色変え)モデラーにとっても得にならない。
中央は「朱羅:弓兵(絆)」。上記BusterDollシリーズの後に出たキットで、BDの股関節構造を取り入れているが、それ以外の構造は旧式を引きずっているところもある。体格が良くなった分、見栄えと安定感は良い(弓兵は15cm、ナイトは14cm)。写真右は、無印の「朱羅:弓兵」(2018年1月)。

 これらのキットでも、パールコーティングを多用している。使い方によって、様々な意味づけを作れるのも楽しい。
 例えば、黒白無常仙では、ミステリアスな幻想性の表現として、全体にパールを吹いている。このキットの成形色は深紫(インディゴ)がベースなので、アメジストパールを使えば色調の変化無しに馴染む。ホワイトパーツにも同様の処理をして、明るい反射が生まれるようにした。普通のグロス(ツヤ)塗装だとサイズの小ささが誤魔化せないが、パール塗装の細やかな反射であれば、ちゃちさを回避しつつ、明るい輝きをキットに与えられる。
 ルビーアイでは、「ツヤ消し/ツヤあり/メタリック/パール」の使い分けで、パーツ構成と機能性を表現した(つもり……写真ではパールの輝きはほとんど見えないが)。このキットの白色パーツは、1色ではなく、成形色レベルで2色に分かれているのだが(※純白と、ピンクがかった白の2種類)、成形色の違いは本当に微妙でほとんど分からないので、コーティングで色の違いを強調した(ピンクホワイトの方はパールコート、それに対して純白パーツは半ツヤのまま)。
 フレイアでは、CG風のキラキラ感の表現として、全身をツヤツヤパールに光らせた。無塗装の安っぽさを簡単に解消するという意図もある。原作アニメのトーンを再現するという観点でも、このくらいのエフェクト追加はありだろう。
 弓兵でも、全体に紫パールを掛けた。ホワイト部分に対しては単調さや安っぽさを解消し、また、ブラック部分にはボンデージ風の雰囲気を持たせている。白-黒-赤の単純なカラーリングなので、色調にニュアンスを足してあげたい。黒パーツにパールを吹くと色調が変わってしまう(色が付いてしまう)点には注意を要するが、これも考え方次第で、真っ黒のままだと単調になってしまうところにカラー&パールの鈍い輝きを足してあげることで、彩りを豊かにすることができる。
 小石川エマでは、頭髪にパールコーティングをしている。赤系なので、パールコートの輝きが目立ってくれる。程良く分散したパール反射が、毛筋のような細やかさを維持しつつ、「天使の輪」を作り出してくれる(※普通のグロス塗装だと、ただのテカリになってしまう)。ストッキングも、キットパーツはツヤツヤのままだったが、ツヤ消しパールを吹くことで、ツヤの下品さを抑制しつつ、タイツ布地らしいシルキーな質感を擬似的に表現している(つもり)。


 最近のオタクが、「バストが大きい」イコール「えろい」イコール「魅力的」を当然のように直結させているのに、かなりうんざりしている。
・セクシャルな魅力が、バストサイズや露出の大きさでしか判断できない(※ひたすら大きければ大きいほど、はだけていればいるほど、より優れているという受け止め方)。
・キャラクターの魅力の判断基準として、セクシーさが前面に出されている。以前にも書いたが、「萌え」というキャラクターの可憐さや愛らしさへの意識が極端に弱まって、外見上の性的な刺激の大きさが最優先にされてしまっている。
 サイズの大きさそれ自体は、べつに構わない。しかし、ただ単に大きくすれば、自動的に「えろくて魅力的だ」と判断してしまう認識の雑さは、私には受け入れがたい。
 こういう傾向を見ていると、もはや私は「オタク」とは名乗りたくない。そういうカテゴリーに、私自身のアイデンティティを帰属させたくない。もっと個別的に、ただのゲーマーであり、ただの漫画好きであり、ただの音楽リスナーであり、ただの声優ファンであり、ただのモデラーであり……等々の断片的な側面の集合体にすぎないというつもりでいる。
 もちろん、もっとデリケートに、キャラクターの内面造形を掘り下げたりゲームデザインの技巧を分析したりする種類の「オタク」たちも、依然としてたくさんいるのは知っている。しかし、「オタク」の代表的なイメージが完全に塗り替えられて、「えろイラストをシェアして盛り上がったり、ゲームの高額『課金』にハマったり、イベントに集まって騒いだりする人たち」という認識になっているのであれば、それは私とはまったく別種の、関係の無い存在だと言わざるを得ない。


 もう一つ、いわゆる「腐女子」キャラクターをコメディ目的で描くのも、そろそろ考え直した方がよいと思う。論点は多岐に亘るが:

 1) BL趣味をコメディとして扱うのは、「BL好き=コメディになる=笑われるべきもの=ノーマルではない=恥ずべき趣味である」という評価を前提としている。すなわち、他人の趣味嗜好を、外部から茶化し、貶めることになっている。もっとも、BL好きが当事者性を持つ場合もあるのだが(すなわち、クリエイター自身がBL好きで、自虐ネタとして描いている場合)、しかし、そうでない場合には、やはり他人の趣味嗜好をバカにすることになってしまう。
 実際には、例えば「何でもかんでもサッカーに喩えるスポーツ好きな変人」のような存在は実在するだろうし、また、そういうキャラクターを描くことには、二重性がつきまとう。つまり、「キャラクターとしてのモデル化やコミカルな誇張は、一定程度容認されるべきである」という側面と、「ある価値観をそのまま笑われるべきものとして描くのは、社会的な相互尊重を毀損する」という側面の両方がある。

 2) 同性愛への嗜好を、笑いものにしている。もちろん、様々なレイヤーの違いはあって、「当事者としての現実」、「観察者としての嗜好(例えば生モノBL)」、「あくまでフィクションとしてのBL嗜好」はそれぞれ意味が異なるが、そのいずれの場合でも、BLまたは同性愛へのコミットメントは、シリアスではなく馬鹿馬鹿しいものだという評価がそこには含まれる。
 いったいどうして、腐女子キャラが笑いもの要素として扱われるのだろうか? 例えば、サッカー好きキャラが、「玉蹴りごっこ」といって茶化される対象になったり、旅行好きなキャラクターが「休日の予定がなかなか掴まらない変人」といってアブノーマル扱いされたりすることは、腐女子の事例と比べて、おそらくきわめて稀だろう。そこには、嘲笑の標的としての価値的選別があると言わざるを得ないのではないか。そして、BL趣味には、嘲笑の対象となるべき理由は無いと言わねばなるまい。

 3) ただし、BL趣味がタブー化されるのではなく、堂々と語られることは、それ自体としては、ひとまず良いことだと思う。とりわけ、女性がしばしば楽しむ趣味であることに鑑みれば。
 もちろん、BL妄想には、問題が無いわけではない。様々な事象を「同性愛」というコンテクストに置いてエンタメ化することは、現実の同性愛(者)に対する尊厳侵害や偏見助長や文化的搾取になっているという側面も、完全に否定しきることはできないだろう。「現実の男性が、現実の男性またはフィクションの男性キャラの同性愛的側面を笑いものにするエンタメ」と、「現実の女性が、現実の男性またはフィクションの男性キャラの同性愛的側面を妄想の素材にするエンタメ」とでは、その不当性において違いは無いのではなかろうか(※ジェンダー不均衡な性差別的構造の下で、それを補正するために、ある程度は評価の落差が生じうるとはいえ)。
 ただし、オタク向けジャンルで腐女子キャラクターが登場するのは、身近で理解可能な他者(近所の同志)だからという事情もあるだろう。つまり、男性オタクにとっては自虐ネタの延長のようなものかもしれないし、もちろん女性読者にとっては自分の話として受け止められたりもするだろう。その意味で、腐女子ネタは、必ずしも茶化したりバカにしたりするばかりではない。これが、例えば、ファッションやコスメに凝っている女性キャラであれば、おそらく男性オタク読者にとっては非常に縁遠くて面白味が分からない存在になってしまうだろう。そういう事情も汲むべきではあるが、ただししかしそれでもなおも、異性の趣味に対する戯画的蔑視の要素も紛れ込んでいることは、重々留意しなければいけない。そういう偏見に乗っかって現実の女性(のオタク)たちを攻撃する男性(のオタク)は、現に多数存在するのだから。

 『げんしけん』(2002-2006)は、腐女子キャラクターを公然と描いた先駆的な作品と思われるが、それに対する評価は両義的なものにならざるを得ない。腐女子キャラクターの内面造形をきちんと提示したという積極的な側面と、それをステレオタイプ的にいかがわしいものとして見せてしまい、腐女子キャラが笑いものになる流れを作り出してしまったという問題性の両面という意味で。
 現代でも、BL好きなキャラクターが、エキセントリックな熱弁を振るうシーンや、TPOを弁えないBL発言によって顰蹙を買うシーン、あるいはBLイマジネーションそのものの描写(例えば作中作のBL本そのもの)が、笑うべきものとして描かれる。はたして、私たちは、そういう描写で笑っていてよいのだろうか?



 09/03(Tue)

BANDAIのプライズフィギュア「2.5次元の誘惑 ペンフレ! 天乃リリサ」。どの角度から見ても、造形や表情の破綻が無い。しかも、難易度の高い眼鏡付きなのに……これは凄い。BANDAIとしては珍しく、素肌成形色に透明感があるのも素晴らしいし、着衣の皺表現も絶妙。なお、ペンなどを持たせられるポージングなので、机上に末長く置いておくことができる。

 上記フィギュアは、個人的な評価として、今年のプライズフィギュアの年間ベストになるかも。造形的な完成度もきわめて高いし、素肌のシャドー塗装もやたら繊細に施されていて驚く。頭髪表現も、プライズ系にありがちな安っぽさが無く、きちんとした説得力がある。眼鏡もきれいに塗装されている。しかも、膝立ちポーズにもかかわらず安定自立する。ゲート跡やパーティングラインも残らないように丁寧な表面処理が為されていて、一見すると本格的なスケールフィギュアのように見えるほどだ。これに匹敵するプライズフィギュアは、今年の新作ではちょっと思い浮かばない。
 あえて欠点を挙げるなら……ソックスの塗装がのっぺりしているのと、ブラック無地のスカートが悪目立ちするのと(※原作のスカートはグレー?)、右腕を振り上げているせいで顔に影が落ちやすい、というくらいだろうか。この程度であれば、プライズフィギュアとしては十分許容できる……というか、このくらいしか欠点がないというのは驚異的だ。ただし、ペン類を持たせておかなければ格好が付かない。個人的には薄平べったい方が嬉しかったが、原作のキャラデザがある以上、そこで文句を言っても仕方ない
 面白かったフィギュアとしては、TAITO「アニスフィア・ウィン・パレッティア Kiralea」が、窓に腰掛けるレイアウトフィギュアという斬新な試みだし、SEGA「五等分の花嫁 Movingood!!!」シリーズも、完成度はともかく、関節可動を取り入れた意欲的なフィギュアだった(※シリーズそのものは昨年開始)。BANPRESTO「シズ ランガパーカー」も、整った可愛らしさでなんとなく印象に残っている。TAITO「初音ミク Fashionフィギュア:Uniform」も、パセリ氏イラストに準拠してたいへん色っぽい。

 昨年のプライズフィギュア(2000円級)だと、TAITO「Desktop Cute:ラムレム」や、SEGA「もふもふパック:ラムレム」、BANDAI「Relax time:三峰結華市川雛菜」あたりが特に気に入っている。リカラー版のFuryu「レム:ぬーどるストッパーフィギュア(ルームウェア:Another color)」も美しい。それ以外にも「一番くじ」フィギュアや、ミドルプライス(POP UP PARADEとか)、高額スケールフィギュアもあるけれど。

 見る角度によっては顔の表情などが珍妙に見えてしまい、可愛く見えるアングルが狭く限定されるのを、フィギュア界では「角度限定」という。もちろん、ネガティヴな評価の言葉だ。個人的には、どこかのアングルできれいに見えるところがあれば、それで十分だと思う。しかし、「特定の角度でのみ、きれいに見えればいいというのは安易だ(立体化として不徹底であり、造形上の破綻であり、解釈の逃げであり、表現上の誤魔化しにすぎない)」という意見も分かる。そして、二次元の顔立ちを立体に落とし込む際に、どこから眺めても見応えがあるというのは、高度な造形的洗練の所産として高く評価されるべきだというのも賛同できる。
 フィギュアやガールプラモでは、素肌成形色がマネキンのような製品があり、個人的には、そういうのはちょっと苦手。それに対して、しっとりした透明感のある素肌素材の商品もある。その観点では、プライズフィギュアだとTAITO、ガールプラモではKOTOBUKIYAとVOLKSが、頭一つ抜けたクオリティ。
 ちなみにTAITOは、造形面ではデフォルメを利かせた顔立ちで、角度限定になりやすいが、適切な角度で見れば抜群に可愛らしい。「マックスを最大化する(=特定のアングルで最大限可愛らしくする)」のか、それとも、「ミニマムを最大化する(=どんな角度でも最低限まともな可愛さをキープする)」のか、どちらのアプローチを採るかの問題とも言える。



 09/01(Sun)

 眼鏡度入り表現のリストが、ここ数ヶ月追加できていない。新規の漫画(漫画家)もそこそこ買っているし、ネットのイラストレーターも程々に見て回っているのだが、新たな度入りクリエイターになかなか出会えず、149人で足踏みが続いている。これまでは、毎月2~3人くらいのペースで新発見があったのだが……。最後にリスト追加したのは、たぶん5月か6月だったと思う。


 mastodon(Vivialdi socialサーバー)は、フォロー関係をたまにチェックしている(※LTLはもう見ていない)。twitter時代からのつながりなどもあって、連絡が断たれてしまうと二度と見つけられそうにない方もいるので、一応アカウントは維持して、何かあったら対応できるようにしている(※知人のリプライへの応答とか、やばいものが近付いてきたらブロックするとか)。
 Vivaldiは、mstdnの中でも倫理的に厳しめのサーバーで、例えば30MSの水着プラモの写真を載せて一発BANされた方もいるようなので、かなりデリケートな場所ではある。私自身、胸部がやや目立つガールプラモや軍艦プラモの写真をアップロードするのはその度に躊躇していた。ただし、本家mstdn.socialサーバーなどは、局部剥き出しの実写写真や動画も平然と出回っていたりして、サーバーごとの温度差はよく分からない。

 ちなみにこのブログも、素肌面積の大きいフィギュア写真や、getchuへのリンクを貼る(※ハイパーリンクでなくても、アドレスを書くだけでも?)、閲覧注意の警告が出るようになっている。そのせいで、どうやら「ポルノ要素のあるブログ」だと判定されてしまっているようだ(※ggl検索などでうちのブログが出てきにくいのは、その影響もあるだろう)。
 このbloggerサーヴィスは、「無料である」、「サーヴィス長期存続の見込みがある」、「広告が出ない」、「レイアウトのカスタマイズが利く」などの条件を考慮して、最もましなサーヴィスとして選んだのだが、今となっては「2年間利用実態が無いと削除されてしまう」、「gglに情報を取られる(※cookie受け入れが必須にされた)」、「上記のとおり内容面の締め付けがきつくなってきた」といったデメリットが大きくなっている。

 mstdnに話を戻すと、「オタク系の話題がそれなりに多い(二次元全般&模型など)」+「全年齢フィギュアまでは容認される」+「モデレーションはそこそこ機能している(えろぐろ蔓延の無法地帯ではない)」+「他サーバーに対するアクセス制限がきつくない(制限する方も/される方も)」+「国際的なサーバーである(多言語的寛容)」+「ユーザー人口がそこそこ多く、サーバーも長期存続の見込みがある」というところも探してあるのだが、そこでわざわざ改めてアカウントを作るかというと……。そもそも、私がSNSの場に積極的に発言することは、もうしないつもり。Vivialdiサーバーも、上記の条件をかなり満たしているのだが、残念ながら、あそこで自分が活動することに意義やメリットを見出しにくくなってしまった。「サルどこネット」さん、お元気かな……。(そこかよ)


 アニメ版『負けヒロ』は、エンディングムービーの設計も凝っている。1人目のヒロイン(八奈見編、第1-4話)では、力強く疾走感のある実写取り込み。2人目(焼塩檸檬編、第5-7話)では、ロマンティックなキャラクター性格に寄せて、宇宙服とレモンティーの取り合わせで描きつつ、本編では結ばれなかった二人の幸せな夢をここで見せるという、優しみと苦みのある映像演出にしている。もちろん、担当ヒロイン自身がED曲を歌っている。
 そして3人目(小鞠編、第8話-)では、なんと、アナログな水彩アニメーション。青瀬きいろ氏がほぼ独力で作画されたようで、水彩ならではの繊細さと、そこに掛けられている労力の膨大さは、まさにヒロインのキャラクターイメージを映像の質を通じて体現している。人付き合いは苦手ながら内面世界をきちんと作り上げているこのヒロインのためのEDムービーとして相応しい出来映えだ。この発想の鋭さと、それを敢行した判断の的確さ、それを遂行しきった努力に驚嘆する。
 アニメ化作品では、本編はおおむね原作に忠実な描写になるが、EDムービーではアニメ版独自の創造性を付け加えることができるということの、卓越した実例と言えるだろう(※OPムービーの方は、宣材として使われる都合上、プロモヴィデオ風の無難なものが多い)。
 本作以外でも、キャラクターイメージを掘り下げるようなエンディング映像や、本編外のストーリーを秘かに暗示するような描写、あるいは作品全体に幸せな雰囲気を提供してくれるSDエンディングや、ものによっては本編に対する楽屋裏的な位置づけになるしたたかな作品など、印象に残るエンディングはいろいろ思い浮かぶ。

 ただし、第8話はストーリーをいったん仕切り直して第3ヒロイン編が始まったところで、新規のサブキャラが多数出てきてちょっと落ち着きが無い。直前の第7話が凄すぎたとも言えるが。
 宝塚風の生徒会長のキャストは、まさにヅカ出身の声優を起用している。2019年退団で、声優としても2014年頃からのキャリアがあるようだ。安易にも思える配役だが、こういうのもありなのかな。それ以外も、性的な勘繰りをしまくるだらしない教師キャラや、色気のある養護教諭、慌て者な副会長と、サブキャラの面々は造形がチープなのがもったいない。
 最大の衝撃は、寝間着のまま、兄(高校生)の膝の上にしれっと乗って寄り掛かっている妹キャラ(中学生)のカット。視覚的なショックが物凄いし、何の説明も無いままなのも怖い。おそらく原作にもあるシーンなのだろうけれど、よくもまあ、こんな絵を堂々と出してきたな……。その割に、他のヒロインに対しては、この主人公君はかなり物理的距離を取っている(いつも大きく間を空けて座る)のが面白い。
 演出面では、秋学期の始まりとともに、映像のトーンもデリケートに変化させている。非常階段から見える背景作画に典型的だが、夏の鮮やかな緑から、初秋の柔らかく赤味の混じった風景になって、この季節の空気感をきれいに映像として定着させている。映像演出として、当然と言えば当然なのだが、こういう正統派の映像的意味づけをきちんとコントロールしているのは素晴らしい(カラーコレクション、カラーグレーディング)。日陰の表現や空間的な広がりも含めて、時間や季節やロケーションに合わせた肌感覚の表現を、監督が相当意識的に構築しているのが見て取れる。個別の演出としては、例えば、水道水の溢れる描写が、制御できない感情の噴出を暗示している。これは過去回(たしか第3話)でも使われていたが、元のキャラ設定を拡大利用した絶妙の演出。
 ラッコへの言及は、豊橋市内の「のんほいパーク」が、ラッコを保有していた数少ない動物園であることに掛けているネタかと思われる(※現在、国内でラッコを飼育している動物園は2箇所のみらしい)。それに加えて、当該会話のシーンは「水上ビル」付近を歩いているので、ラッコが水棲動物であることにも掛かっている可能性がある。

 アニメ版『小市民シリーズ』は、誘拐事件が(表面上は)解決したところまで。演出面では、かなりパワーダウンして、ただの地味なアニメになっているのが残念。序盤話数のように、印象に残るような美しいカットがあれば良かったのだが……。
 サブキャラに高森氏が出演されていたのは驚き(※EDクレジットを見るまで気づかなかった)。

 それにしても、不思議な符合が多い2作品だ。どちらも東海地方が舞台で(ちょうど名鉄名古屋本線の両端)、ローカルな観光風景をかなり強烈にアピールしていて、いずれも指折りの映像演出巧者の監督で、男性主人公がたまたま同じ声優で(梅田氏)、メインヒロインは大食いキャラという珍しい属性持ちで……。それでいて、作品のムードは対極的なのも面白い。


 『負けヒロイン』は、たしかに面白いコンセプトだと思う。複雑な条件を組み合わせて、その面白さが成立している。大雑把に概観してみると:

●振られる側のヒロインたちを描く。
・通常の恋愛成就ものに対するカウンター(=独自性。未開拓分野の新鮮さ)。
・悲劇のドラマを堂々と描ける(ただし、バランスが難しい)。
・ヒロインたちが複数併存することができる(※現代のハーレム志向では一般化してきたが)。

●振られるヒロイン。ただきれいで可愛いだけのヒロイン(トロフィー)ではない。
・振られるプロセスで、ヒロイン自身を掘り下げていく。つまり、主人公の物語ではない。
・振られることになる事情についても、そのキャラクターの個性や過去を描ける。
・キャラの隙を堂々と作れる(※暴食や過度の口下手は、とりすましたヒロイン像では難しい)。
・そういったキャラクター造形から、コメディ要素やドラマ要素も引き出せる。
・型に嵌まったラブストーリーを脱することができる。

●振った側(相手の男性)や、恋敵キャラの方も、掘り下げていける。
・恋敵とのドラマや、キャラクター造形としての対比構造を作ることができる。
・男性キャラクターも、堂々と出せて、しかも魅力的に描ける余地が大きい。
・振った男性キャラは、本作ではギャルゲー的な鈍感主人公の造形(=パロディ要素)。
・伝統的な三角関係ものの作劇法をそのまま使うことができる。

●主人公は恋愛関係の主体ではなく、傍観者に徹する。
・特定のヒロインを選ばない。女性たちに囲まれる擬似的ハーレム状況を続けられる。
・ヒーローではなく、助力者としての自己実現。いかにも現代的。
・恋愛関係の主体にならない自由さ(ただし、無責任さでもある?)。

●コンテンツとしてのリスク要因もある。
・振られるようなヒロインは、欠陥と見做されかねない。→コミカルキャラにすることで解決。
・主人公に恋してくれないヒロインは、不評を買ってしまうかも。→友人キャラとして維持。
・振られるイベントは基本的に一回限り。未練を引きずるのもまずい。長期連載には不向き?
・傍観者としてのモノローグにも、十分な面白さが求められる(=作者の技量が必要)。
・主人公が重要な場面に立ち会えない場合がある(※第三者視点は小説でもアニメでもOK)。

 ざっと考えたかぎりでは、このくらいの構成要素がある。これらを適切にチューニングすれば、今回のように目覚ましい成功を得られるポテンシャルがあるが、実際には非常に難しい作業だっただろう。
 そもそも「振られるヒロインたちを集めました」というのでは、何かのサブストーリーや楽屋裏イベントのようなしよーもないネタと見做されてお仕舞いになりかねない。やるとしても、完全な一回限りの一発ネタであって、同じようなアプローチの2作目はまず出てこないだろう。そういう奇手を、ほぼ理想的な形で成功させている。
 ネタとして思いつくのは簡単かもしれないが、そこから出てくる可能性を掘り下げて整理し、丁寧に展開していくのは、さぞや難しい執筆作業だっただろう。

 美少女ゲームにも、本編のサブキャラたちをファンディスクでヒロインに昇格させて描くというものはある。『LikeLife 氷庫版』(2004)、『はぴねす! りらっくす』(2006)、『花と乙女に祝福を ロイヤルブーケ』(2010)、『ココロ@ファンクション! NEO』(2014)、等々。
 最も大掛かりにやったのが『恋色空模様 after happiness and extra hearts』(2011)で、元作品のサブヒロインたち――眼鏡委員長キャラや、非攻略の妹キャラや、メインヒロインの付き人キャラ――をヒロインに昇格させて、フルプライス規模の物語としてもう一度やり直してみせたという作品だった。


 あの木村氏をして「レジェンド中のレジェンド」と言わしめる人物とは、どなただろう?
 芝居のキャリアや業界への尽力という意味では、北都南氏が美少女ゲーム声優の最高峰だと思うが、この方はすでに第2回に登場しておられる。となると、草柳氏(実績一番)か金田氏(トーク実績一番)、あるいは芹園氏(最古参の一角)、青山氏(フリートークのレアリティ一番)、一色氏(表現力一番)、あたり? 海原氏やダイナマイト☆亜美氏かもしれない。個人的には、大波氏がいらっしゃったらと思うが、webラジオ等で共演されたことはこれまで無かった筈(※はにラジはコンシューマ版キャストだったので枠外)。まさか白井綾乃氏や鳥居花音氏が来られることは無さそうだし。三咲氏も、ある意味レジェンダリーな存在で、いずれゲストで来られそうな方ではあるが、今回は違うかな。
 追記:三咲氏だった。木村氏だからこそ呼べるゲスト。


 『マクロス』シリーズはほぼ未履修だったので、『マクロスΔ』劇場版(2016)を視聴してみた。
 これまでは、『マクロス7』劇場版(1995)を、根谷美智子氏目当てでビデオレンタル視聴したくらいで、全然詳しくない。ただし、「ランカ・リー」や「リン・ミンメイ」のフィギュアは持っていたりする。

 ともあれ、原作(原典)たるアニメ映像の雰囲気を、プラモデルにも反映させていきたい。モデラーとしての私はわりと保守的で、原作の色調や、実物(モデル元)の造形に対して忠実であることを重視している。オリジナルキャラのプラモデルでも、パッケージアートやサンプル写真で感じ取れる、「まさにそのキャラ」の雰囲気が気に入ったから購入するのであって、自分なりのオリキャラを作り出すのはかなり苦手。
 ただし、ディテール不足を感じたところに細かな塗装や追加パーツをちょっとだけ足して、全体の雰囲気を引き締めることはある。あるいは、配色パターンそのものは指定どおりでも、自分好みの色調に引き寄せて塗装する。余った素体に布服を着飾らせるのも、別腹の楽しみ。
 今回の『マクロスΔ』とVFG「フレイア」の場合は、
・プラモデルの機体それ自体は、アニメに登場しない(※カラー違いでは登場している)。
・機体塗装は、CGベースで軽い。リアリティは無視して、ポップなカラーリングで良さそう。


 「30MF」シリーズが出てきて、「ガールだけでなく、男性キャラのプラモデルもきちんと発売リストを記録しておくべきだったか?」と戦々恐々。
 これについてはBANDAIが最大手で、『DRAGON BALL』、『仮面ライダー』、『ウルトラマン』、『鬼滅の刃』、『STAR WARS』、『Tiger&Bunny』、そして胸像モデルシリーズ(Figure-rise Bust)に至るまで、様々なジャンルを手掛けている。それ以外は、MODEROID『ヒーローアカデミア』シリーズ、KOTOBUKIYAの「ウルトラマン」、中国メーカーの男性プラモ(大量のヒーローもの)、それから小サイズのHEXAGEARシリーズ(1/20)くらいだろうか。実際にはfigmaやカプセルトイの男性キャラまで視野に入ってくるので、おそらく私の手に負えない。