2024/09/01

漫画雑話(2024年9月)

 2024年9月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

 いけ『ねこむすめ道草日記』(最新刊の第20巻をたまたま買ってみた。連載開始は2008年とのこと)。タイトルどおり、猫耳主人公を中心にして、妖怪たちが日常生活に混じり合っている状況を描いている。人物はSD寄りの作画だが、背景がやたらしっかりと描き込まれていて、日常の空間的実在感を楽しめる。


 ツルリンゴスター『彼女はNOの翼を持っている』第1巻(大きめのA5判)。家父長制的エロマッチョを脱したor脱しようとする人々を描いている。例えば、親族男性へのお酌をしない女性、避妊具を茶化さない女子学生、友人たちの猥談に馴染めない男子学生など。主張内容はややベタで教条的で、そのためストーリーは上滑りしがちだが、恋愛告白シーン(149頁)の誠実な言い回しは印象的。
 個人の社会的関係におけるデリカシーを扱った作品としては、売野機子『ありす、宇宙(どこ)までも』第1巻も、興味深い内容だった。女性主人公「ありす」は、中途半端に多言語環境で育ったため、自分の言語能力が未発達のまま(つまり、日本語でも英語でも小学生並)というセミリンガルの状態にある。彼女がもう一人の主役キャラクター、男子同級生とともに学びながら、宇宙飛行士を目指していく。言語(母語習得)とアイデンティティ形成と世界認識のダイナミックな関わりが描かれるとともに、女性の社会進出とその障害や、両親を失った家庭環境やミックスルーツに対する偏見の問題も、小さく差し込まれている(※男子学生は養子になっており、そこに彼なりの鬱屈があるし、女子主人公は両親との思い出をきっかけに宇宙飛行士を目指す)。おそらく「再学習(教育の取り戻し)」と「宇宙飛行士への挑戦」の二つが物語の基軸になっていくと思われるが、能力的-社会的な「障害」の要素と、自己を確立して夢を追求するという「ドラマ」要素とがきちんと連動して、説得力のある物語を作り出している。

 【 漫画媒体と社会的メッセージを巡って 】
 障害やマイノリティの問題を、漫画として取り上げるのは良いことだ。社会的なメッセージを表現する手段として漫画の媒体を採用するのも、選択肢の一つだ。しかし、ただ作者自身の社会的主張の文章にコマ絵を被せただけのような作品や、作者が望むような社会関係を描くためにご都合主義的にキャラクターを動かしているだけであるならば、それははたして、フィクションの物語として作る意味があるのだろうか。そうした一方的な漫画に対して、読者は「いったい自分は何を読まされているのか」、「これが物語(フィクション)である意味は何なのか」という疑念を覚える。
 社会的な主張を提起したいのであれば、物語の登場人物に語らせるのではなく、論文なりエッセイなりノンフィクションなりの形式を取って、著者自身の言葉として提示する方が誠実だと思う。そして、そういう形式の書籍であれば、私は正面から取り組んで読む(実際、いろいろ読んでいる)。
 上記『NOの翼』がそうだとは言わないが、そういう困難に陥っている漫画作品に出会ったことはあり、そして、そういった作品に対する評価は――それが依拠し提起している主張内容の社会的な望ましさの評価とは別に――けっして高くはならない。自身の社会的主張を再現するための慰撫的妄想の物語は、なまじのノンポリエンタメよりもはるかに不誠実ではなかろうか。

 上記『NOの翼』にしても、以前に言及した『あいにくあんたの~』(今年4月付の漫画雑記欄)にしても、本当の意味での抑圧的強者や迫害的構造との対決を避けてしまっていることが気になる。
 『NOの翼』では、例えば、親族の集まりで男性たちに酌をすることを、主人公の母親が拒絶する。ただしそれは、男性たちと直接対立するのではなく、お酌をさせようとする同輩女性たちとの口論や、彼女たちからの陰口とその対応ばかりに終始している。
 また、学生が所持していた避妊具の扱いについても、女性養護教諭が避妊具の必要性を主張するのだが、事無かれ主義な中年男性教員と話したときは、ただ一方的な建前上の会話だけで終わっており、まともな議論は成立していなかった。本当の意味で対等な対話と本音の説得によってお互いの認識が深められるのは、別の女性教員との会話――つまり、抑圧の被害者同士の衝突とその解決――に委ねられている。
 女性の身体を不躾に論評する猥談の問題にしても、この作品では、高校生男子たち(つまり、弱くて未熟な未成年者たち)の間でギスギスしてしまったトラブルとして扱われているにすぎない。TVの煽情的なCMなり、親族会の場での成人男性たちの猥談なり、教員(成人)のセクハラ行動なりを取り上げることもできたのではないか。あるいは、それらこそが真に問題なのではないか?
 同様に、『あいにく~』でも、性差別的構造の本丸である筈の、家父長制的権力を行使する強者男性(例えばDV父親キャラなり差別的経営者なりパワハラ政治家なり)との対決は描かれず、むしろ無慈悲な新自由主義的競争そのものは肯定しつつ、いわゆる弱者男性を叩きのめして溜飲を下げただけという倒錯的な物語で終わっていた。
 せっかくそういう大事なテーマを正面から取り上げようとしているのに、何故そうなる……何故そこを誤魔化してしまうのか……何故そこから逃げてしまったのか……。(※いや、分かるけれどね……開き直った中高年男性たちとは、対等で誠実な会話をすること自体がきわめて難しいから。「厚かましいパワハラ上司男性」のようなキャラクターは、描きたくもないだろうし。そこまでタフな戦いを、著者たちに求めるのは酷だろう。でも、それを乗り越えて説得できる可能性を描き出せるのが、フィクションならではの強みじゃないのか?とも思う。『エクソシストを堕とせない』のように、30代くらいのマッチョ男性な陰謀論者の悪魔との対決を描いてみせる作品も存在しているのだし。)

 『NOの翼』や『ありす』は、思春期の悩める心を丁寧に描くジュヴナイル漫画として捉えることもできる。もちろん昔から存在するジャンルだが、男子学生のデリケートな心情を描いて商業的にも成立するようになったのは、近年の傾向かもしれない。小野寺こころ『スクールバック』(既刊3巻)はその代表例だが、先月刊行の小池定路『キラキラしても、しなくても』(上下巻)も、そうした路線に棹さすものと言える。ラブストーリーの型から脱して、恋愛感情ベースではなく社会的なアイデンティティ形成を巡る内省を目指しているのも、大きな特徴だろう。


 小池定路氏からさらに連想を広げるが、美少女ゲーム『終末の過ごし方』(1999)は、「相手を『少年』呼びをしてくる年上喫煙女性キャラ」に初めて遭遇した作品だった。しかも、「白衣(養護教諭)+喫煙+だらしない+タレ目+眼鏡+まとめ髪」という、ほぼ完璧なイメージどおりのキャラクター。
 このキャラクター類型は、どのあたりまで遡れるのだろうか。また例によって、高橋留美子が震源地だったりしそうだが(※『うる星』のサクラ先生とか……「少年」呼びはしていたかな?)。web上で言及されている実例は比較的新しいものばかりなので(主に2010年代以降)、もしかしたら上記『終末』は、案外かなり古い実例なのかもしれない。当時でも、なんとなくありがちな造形だったように思うが……。そして2000年以降のアダルトゲーム分野では、姉ものや年上もののタイトルがいくつも発売され、その中には「少年」呼びのキャラクターもそれなりにいたと思われる。
 漫画分野だと、まさにこのタイプのキャラクターを主役に据えた、赤城あさひと『少年、ちょっとサボってこ?』(全4巻)が、2019~2020年だった。この頃にはすでに、キャラクター類型の一つとして広く浸透していた筈。


 少年漫画規格の小B6判単行本いろいろ。
 橋本花鳥『ルキオラと魔境の商館員』第1巻。元勇者の女性主人公が商館員になって、魔物たちとの取引(商談)を通じて相互の平和を実現しようとする話。解決手段は人情ものベースで、細かな会計処理などは出てこないようだ。コマ組みも含めて、少年漫画風のテイストだが、折り目正しい漫画表現でしっかり読ませる(※作者は00年代前半からのキャリアがある)。ちなみに本作の世界像は、蒸気や銃器などが発明されている19世紀相当の技術水準。
 松井優征『逃げ上手の若君』第17巻は、独創的で目覚ましい表現もあるのだが、その一方で、非常に図式的な説明コマや、そういう説明を進めるためにキャラクターの動きが止まってしまう作為的な箇所が苦手でもあり、しばしば当惑させられながらも読み続けている。
 眞藤雅興『ルリドラゴン』第2巻。連載開始当初は「アフタヌーン誌のような路線を、少年ジャンプに持ち込んでいる」という認識だったが、新刊を読むと「高橋留美子的シチュエーションで、冬目景が描いているような雰囲気」になっていた。ドラゴン体質のせいで放電してしまうという突飛でユーモラスな状況と、そんな状況に陥った主人公の心情をゆっくり解きほぐしていくデリカシーの間のバランスが良い。
 空空北野田(そらからきたのだ)『深層のラプタ』第1巻。人格を持った軍事AI、つまり電子存在キャラクターが、とある少年との交流を通じて「心」を持つようになったという状況。人間に制御できない超技術クライシスものとしての側面と、一種のショタボーイズラヴの側面が結びついており、それが大ゴマの大胆な視覚演出によって展開されていく。


 以下、続刊ものなどのショートコメント(※作品それ自体は、以前に言及したものが多い)。
 つくしあきひと『メイドインアビス』第13巻。Made in Abyss=「アビス製」=「洞窟内部で作られた存在」というタイトルに絡めて、物語の背景状況がクローズアップされてきたが、ドラマとしての動きは乏しい。カバー下の裏表紙が邪悪。
 郷本(ごうもと)『破滅の恋人』第2巻。女子学生が不思議な洋館に訪れて、そこでミステリアスな年上女性と出会う。「楽園」誌らしく、落ち着いた微温的な物語。
 丸井まお『となりのフィギュア原型師』第6巻。一ページ4分割の四コマ形式。原型制作コメディだが、まるで実作経験があるかのような実感に満ちたディテールの描写が面白い(※作者のバックグラウンドは存じ上げないが、フィギュア本職というわけではなく、きめ細やかな取材をされているのだと思われる)。ちなみに、アダルトコミックの「丸居まる」氏と混同しかけていたのは内緒。
 ヨシカゲ『神にホムラを』第2巻。第二次大戦直後の日本を舞台にした、天才数学少女を巡る物語。ボサボサ頭髪の描き込みなども含めて、迫力のある作品。数学女性漫画としては、同じく講談社の光城ノマメ『天球のハルモニア』(全2巻)もあった。
 ヨシアキ『雷雷雷(ライライライ)』第3巻。身長4~5mほどの怪獣に変身してしまう少女の物語。怪獣といっても、丸っこい鬼のような可愛らしい外見で、個々の描写はユーモア寄りに振っているが、ストーリー進行はかなり激しく、異星生物に侵蝕された地球の対策組織でのシビアな活動が主な舞台になっている。変身バトルの描写が抜群に上手いし、人間側のバトルスーツも良いデザインだし、全身がズタズタにされる表現などもあり、とにかく読ませるパワーとテクニックのある漫画。