2025年2月の雑記。
02/24(Mon)
『魔王カリンちゃんRPG』という新規オンラインゲーム。明らかに『巣作りカリンちゃん』の設定を踏襲しており、『巣作り』のモブモンスター(※元々はソフトハウスキャラ作品)もいるし、「フウ」のギュンギュスカー商会設定も継承されている。主題歌の「ハラユカ。」氏も、『Wizard's Climber』で歌っておられた方で、ちょっと偶然とは考えにくく、SHCの雰囲気をついつい感じてしまう。
ただし、JORI氏ら、旧SHCメンバーは、今のところ反応しておられないようだ。PVの0:59あたりからの「ユイナ」は、佐々木珠流氏の絵のようにも見えるが、確証は無い。ゲームシステムについても、SHCのような都市計画SLGパートの画面が見て取れるが、これだけでは判断できない。うーん、これはどうなるんだろう。
プライズフィギュア(BANDAI)「アリナ・クローバー」。巨大なハンマーの上に立ち乗りしているという外連味のある逸品。こういうのは好き。流れる頭髪も躍動感があって、全身のダイナミックなポージングと合っているし、袖の皺の造形もなかなか良い感じ。塗装箇所は少なめだが、コストの範囲内で最大限の演出効果を引き出すように設計されている。原型製作は、株式会社ALL FOR ONE所属のメロディーという方。良い仕事をされている。新発売のプラモ「マスカーニャ」(BANDAI)。1500円と、ポケモンキットとしてはややお高めだが、そのぶん可動もディテールも良く出来ている。
新作ガールプラモ。
chitocerium「hydra」は、お値段ノールックで即購入。せっかくなのでゴールドは吹き付け塗装をしておこう。
PLAMATEAも一応買ってクオリティを確かめてみる(時雨改三)。
先月発売のMD「朱羅:九尾(祭)」は、肘関節がシンプルな1軸ジョイントなのに驚いた。これはこれで、切れ込みの不自然さやパーツ貼り合わせの難易度を避けて、きれいな見栄えと組み立てやすさを目指したものと考えれば納得できる。デメリットは……関節部の強度確保かな?
極細のライン塗装について。
1) 筆塗りは、線が崩れやすい。ただし、水性塗料であれば修正は利くし、衣服の柄であれば多少の崩れは問題にならない。ある程度慣れていれば、最も手早く仕上げられる方法になる。
2) 一般的にはマスキング+吹き付けになるが、マスキングテープが毛羽立っていたり、テープの隙間から塗料が染み込んだりと、あまりきれいにならない場合もある。もちろん対処法はある(マスキングテープの管理をきちんとする。先にクリア塗料を吹き付けて隙間を無くす)。
3) シールなどをカッターで切り出して貼り付けるのも、手軽だし、線の細さをコントロールしやすい。Hasegawaの「フィニッシュ」シリーズのシートは表面の強度、シートの粘着力、発色の良さ、商品ヴァリエーションのいずれも優れていて、たいへん便利に使える。メタルカラーの市販テープもあるが、やや安っぽいし粘着性に不安が残る。
既存キャラのガールプラモ化は、個人的には、あまり好きではない。なので、この分野がこの路線で拡大しつつある現状は、なんとも嬉しくない。理由はいろいろあって:
1) ディテールの掘り下げが足りず、立体物としては物足りなくなることが多い。例えばプルツーのようなパイロットスーツは、アニメ映像の中ではきれいに見せられたのだろうけれど、プラモとしてはのっぺりして単調に見える。上記の時雨は、武装パーツがディテールを補充しているので、まだしもマシなのだが。フィギュアとの比較でも、素材の性質上、衣服の皺のディテールなどがfigmaや完成品フィギュアに劣ることも多い。
2) カラーリングが過剰だったり、あるいは逆に色彩感に乏しかったりして面白味に欠ける。アニメ/ゲーム向きの無難なトーンなので、思いきった色彩をなかなか使ってくれない。例えば、パープルは滅多に使われない。
3) 市場的事情。マスに届けるための製品になりがちで、安価でダルな造形になりやすいし、お色気要素などもデリケートになりやすい(特にBANDAIキット)。お色気は無くてもよいのだけど、歯切れの良くない商品構成になりやすいとは言える。それでもAOSHIMAくんはかなり攻めているが。
4) 原作寄りで見ても、人気キャラを散発的に摘まみ食いするような商品展開には不満がある。これはプラモデルキットの企画-製造コストの重さに起因するもので、フィギュア等と比べて機動性に欠けるし、セールスを外した時のリスクも大きいので、どうしても腰を据えたラインアップ展開が難しい。そのため、作中で絡みのあるキャラクター同士をプラモデルとして並べることができず、プレイヴァリューが低いままに終わってしまう(※30MSとVFGは頑張っているが、FRSやPLAMATEA、KDKWは失格)。
5) 競合。立体物同士でも、20cm~25cmの完成品フィギュアに対して、15cmのガールプラモは明らかに見劣りする。サイズ相応にディテールが省略されてしまうし、とりわけ顔の表情づけも、小サイズのプラモデルでは物足りない。成形色のままでは、見栄えも不足する。
これと対照的なのが海外キットで、1) 濃密なディテールをふんだんに盛り込み、見栄えのする造形にしている、2) 。クリアパーツやパープルカラーなどの難しい色彩も積極的に取り入れる、3) オリジナルデザインで、マニアックな趣向も堂々と表現する、というアプローチを可能にしてきた。
とはいえ、海外ガールも昨年頃から既存IPキット(アメコミ系など)が増えてきているが。日本の方はさらに顕著で、BANDAI、PLAMATEA、そしてKDKWと、既存キャラのプラモデル化をどんどん推し進めてしまっている。あんまり嬉しくないなあ……。
海外メーカーで惜しまれるのは、キャラデザイナーの名前が出ないこと。クリエイターが組織の中に匿名のまま埋もれているのは、好ましいことではないと思う。これは現代日本のオンラインゲーム(俗に言うソシャゲー分野)にも当てはまる問題だが。
「メガロマリア」シリーズの性別不詳キットたちをガールプラモ年表に入れるかどうかで一々頭を悩ませるのが面倒になってきた。
BLや乙女(女性向け)コンテンツも嗜んでいるのだけど、この2つのジャンルは支配欲丸出しのDVモラハラキャラとか、傲慢で差別的なお貴族様キャラとか、ナーバスな依存心爆発キャラとかがごく普通に罷り通っていて、そういうのに当たるリスクが高いので、ものすごーく苦手。これらは個人的に苦手なタイプなので、作品個別に下調べをしてからでないと手を出せないし(つまり、カジュアル買いが致命的な結果になりかねない)、調べても判明しないことも多い。
マイルドで優しいBL漫画とか、ふんわりな乙女ゲームとかもあるのだけど……。そして、いくらか緩めの鬼畜(「緩めの鬼畜」って何だ?)くらいならば、まあ、読めることもあるのだけど……けっして嬉しいものではない。絵作りや心情描写は、男性向けよりもむしろ好みなことも多いだけに、なかなかつらい。
アニメ『全修。』第8話は、相変わらず力の入った映像だが、ストーリー面ではありがちなロマンス寄りに。
『通販』第7話も、紙芝居じみた荒っぽい駆け足進行のところと、オリジナル要素を混ぜて雰囲気を気持ち良くするところのバランスが面白い(※OPの一部変更や、犬人の義理堅さなど)。
『ソロ討伐』第8話は強敵との戦いだったが、脚本がイージーで陳腐すぎて、まるで緊張感が無い。演出面では、ボスキャラの悪辣な表情を描いていたり、喉元に食いつくアニメーションが真に迫っていたりと、いくつかの見どころはあったものの、全体としては退屈。うーん。
私の精神構造は、仮に丸一年間ずっと自宅に引き籠もって誰とも喋らずにいたとしても、ほとんど苦にしないだろう。50年や100年でも大丈夫かもしれない……少なくとも主観的には。もちろん、客観的には、いろいろひどく歪んでいきそうだし、社会的にもなかなかそんな孤立した境遇で生きるのは難しいだろうけど。ひたすらコンテンツだけを食べつつ孤独に思惟する何か変な存在でありたいものよのぅ。
ただし、思想的にはむしろ正反対で、他者と広くコミュニケーションを取り合って、新たな知見をパブリックに共有し発展させていくことに大きな価値があると考えていたりする。研究者の場合は、孤独に執筆した公表論文がそのままユニヴァーサルな共同体への貢献へと直結される(のだと捉える)ので、両者の間にあまり矛盾を感じない。このブログについても、「こういった孤独な雑記やデータ記事やゲーム攻略情報が、いつかどこかで誰かに、ほんのちょっとでも役に立つことがあれば、それは十分素晴らしいことだ」と、能天気に信じ込むことができている。
素人が、詳しくない分野について「○○って××ということじゃないかな」と言及することは、あってよいと考えている。いくらでもやってよい。そうする方が、参入のハードルを下げてその分野を豊かにするし、それを誰かが禁止したりすることもできない(そのような権力を、何者も持つべきではない)。
だから、「素人には発言権が無い」とか「語る資格が無い」とか「黙ってろ」といったような主張には反発する。
ただし、これはいくつかの条件が必要だ。一つは、「(素人だろうが玄人だろうが)断定しない、自分の意見に固執しない」ということ。「他人の意見を聞いて、自分が間違っていれば認めようとする姿勢を持つこと」。コインの両面のような話だが。意見や感想は誰もが自由に持ってよいし、それを表明してもよいが、しかしそれが(事実に反するとか社会的に不正義であるとかいった点で)誤りであると明確に指摘されたときは、自説を撤回/修正していかねばならない。社会関係における知性と公平性を重んじるならば、このような立場になる筈だ。
もちろん現実には、悪意や自己利益で議論を歪めたり、あるいは言いっぱなしで責任を取らなかったりする人も多い。それはそれで対処すべき問題だが、しかしだからといって、素人の発言権を奪い去ろうとするのは、さらに害悪が大きく危険な発想だ。
月末でいろいろ買ってきたのだが、置き場がなくて、寝床が確保できな……ウボァー
PLAMATEA「時雨改三」をざっと組んでみた。組み立てだけなら、2時間ほどで出来る。
ボクっ娘のおねショタキャラなんでしょ、えろどーじんで見たから知ってる。(えっ?)
構成面。パーツフィットは良好。ところどころ六角穴にしているのも好印象。素肌パーツはやや薄め(明るめ)の成形色で、表面はツヤ消し加工あり。それ以外も、ところどころツヤ消しの努力が見て取れる。連装砲や魚雷発射管は、両面スライド金型で側面造形まで再現されている。おそらく1/150相当くらいのサイズなので、こういうディテール再現をする余裕もあるのは、スケール系モデラーとしては嬉しいやら羨ましいやら。適当なエッチングパーツで手摺再現までしたくなる。ただし、頭髪パーツはもっさりしたツルツルヘルメット(※塗装や筋彫りで改善できるが)。武装パーツも、ロボットプラモのようなグロスグレーで、一部に肉抜き穴が露出する。武装については、塗装などで多少手を加えてやると迫真性が増すだろう。可動面では、スカートルックということあって、股関節の動きは非常に狭い。両肩のジョイントも、90度(水平)に上げることすらできない(※もちろん回転させれば腕を振り上げることは可能だが)。お下げもジョイント可動する。
色彩面。塗装済みパーツは上着やスカートの赤いライン、リボン、それから指ぬきグローブ。ただし、襟の赤いラインは無塗装で、デカールすら無いので、設定どおりのデザインを再現しようとすると自力塗装が必須になる。連装砲基部のカバー部分(グレー)も、成形色では再現されていない。目立つ場所なので、ここの色分けをサボったのは惜しまれる。あとは、各部のベルト金具を塗装するくらいか。
それにしても、「黒-白-赤」(+武装のグレー)とは、ずいぶん原始的なカラーリングだなあ。10年代くらいから、オタク界隈のキャラデザに色彩感が乏しくなってきて、こういう原色ベッタリだったり、あるいは個性の薄い中間色ばかりだったりと、覇気のない色彩設計が目立つ。もちろん銀髪キャラの流行もその一環で、飽き足らない思いをしてきた。もちろん、色使いが繊細になったという評価もできるし、90年代から00年代の美少女ゲームのようにヴィヴィッドカラーでギラギラさせればいいというわけでもないが。
ガールプラモでは、爪を塗り分けるのも好き。素肌よりも濃いめの色で、指先にちょっと塗料を乗せるだけだが、「手」としてのリアリティが増すし、造形的にも指先が強調されて表情豊かに見える。キャラによっては、赤色などの派手なネイルを塗るのもあり。
今回はガールプラモに艦船模型のオーソドックスな制作手法を導入する形になった。こういった分野横断的アプローチは好きなので、今回はたいへん楽しい制作経験になった。ちなみに、ハイディテールな機銃はHASEGAWA製で、エッチングの照準器も付けてある。ほっそりしたパーツが程良いアイキャッチになりつつ、全体の精密感を底上げしてくれる。
ただし、完成させてみると、ガール部分のシンプルな造形と、艦船パーツの重たいディテールの間で、ややミスマッチを来しているように見える。艤装パーツは、あくまで記号的に清潔感を重視する方が、全体としての統一感が保たれると思う。
ちなみに、1/350機銃のサイズから換算すると、このガールはざっと20メートルほどの高さになる。連装砲や艦橋もサイズ感がバラバラなので一義的には確定できないが、いずれにしてもいわゆる「巨女」としてなかなかの存在感がある。というか、いったい何物なの、この子……。
一日経って、改めて眺めてみると、結構な見応えがあるのは確かだ。なにしろ、立体物としてのkawaiiガールキャラと併せて、リアリスティックなメカディテールを楽しめるわけだから。両方の要素を同時に享受できるというのは、こういう兵器擬人化+プラモデルならではの強みだ。
とはいえしかしやはりそれでも、キャラデザとしてのコンセプチュアルな一体感があるというわけではなく、いわばデータベース的にパーツごとの集まりをフェティッシュに受け止めているだけだ、と言うこともできる。つまり、魅力は魅力として理解できるが、同時にこれがイージーなものであるということも認識せざるを得ない。うーん。
ただし、精密艦船模型クオリティのファインディテールを盛り込んだガールプラモは(※いや、自前で盛り付けたんだけど)、海外キットにすら存在しない高水準で、こういう精密感の体験は、ガールプラモ分野としてはほとんど歴史上初めてのことかもしれない。KotobukiyaやNuke Matrixですら、ここまでのリアリスティックな造形は作り出してこなかったと考えると、この剥き出しの実在兵器装備ガールは、異例の存在と言えそうだ(※まあ、「轟雷」の本格AFV風塗装とかはたくさんあるけれど。私もイスラエル軍スタイルのグライフェンを作ったくらいだし)。
頭髪の毛筋塗装は、私なりにだいたい手法が確立されてきた。といっても、成形色よりもやや濃いめのカラーの水性塗料を、多少薄めて、面相筆で適当に塗る(影になるところは特に強調するように塗る)というだけだが。最初のうちは、曲面に沿ってきれいに筆を動かすのが難しかったが、じきに慣れてきた。金髪などの彩度の低い色彩の場合は、成形色よりもさらに薄い色を使う場合もある。
ガールプラモは、小サイズと型抜きの限界からして、特に後頭部が真ん丸のヘルメット状になっている場合もある(特に初期のFAG「マテリア」やMD「ウィッチ」はひどかったし、1/12ドールも後頭部がディテールゼロのことがある)。最近のキットは随分ましになってきたが、それでもモールドが粗すぎて説得力に欠ける。なので、毛筋塗装をしてふんわりした軽みを与えてやると、間延びした頭部が引き締められるし、ガールキャラの魅力にもつながる。
ただ、こういうアプローチはわりと珍しいようで、ネット上の猛者たちの作品を見ても、フィギュアのようなグラデーション塗装がせいぜいで、毛髪の質感表現はあまり顧慮されていないように見受けられる。何故だろう? 毛筋塗装は写真に反映されにくいという事情もあるかもしれない(特に金髪の毛筋表現は、イエローの色調も相俟って写真で取り込むのは至難だったりする)。
『あずまんが大王』が、萌え四コマ分野を作り上げた決定的な転換点だったのは確かだけど、この作品がいきなり出てきたわけでもない。日常もの漫画という観点では、芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』(1994年開始)や、木尾士目の『四年生』(1997)と『五年生』(1998)などが先行して発表されていたし、ゲーム系の四コマアンソロジー(萌え絵寄りの緩めのコメディ)も存在していた。こいずみまり氏のギャグ四コマも、90年代半ばから広く知られていた。もちろん、あずま氏自身の無印『あずまんが』もある。
しかし、1)当時ホットな雑誌だった『電撃大王』で、2)必ずしもオチのない緩めの四コマを、3)ゲームなどの原作のないオリジナルの萌えキャラ作品として(なにしろ10歳の飛び級天才児もいる)、4)あずまきよひこ独自の切れ味と里見英樹の「よつばスタジオ繁盛記」のコンビで、堂々と連載していたことは、当時のオタク界隈に大きなインパクトを与えた(※ちなみに同人誌でも、「○○まんが大王」のようなパロディタイトルの本が、様々なジャンルでわんさか出ていたと記憶する)。
この作品が1998年12月の開始で、雑誌『きらら』の創刊が2002年5月だから、そのインパクトが市場的に結実するには3年半も掛かっていたことになる。その長さはむしろ、その衝撃の大きさやその挑戦の新規性を証し立てていると言ってよいだろう。
とはいえ、私自身は萌え四コマ分野はほとんど読まないので、全然詳しくない。あずま氏以外で、萌え系四コマで好みの漫画家としては、上記こいずみまり/小泉真理氏(『健全恋愛ライフ』『ジンクホワイト』など多数)と、きゆづきさとこ氏(『GA 芸術科アートデザインクラス』『棺担ぎのクロ。』)くらいしか挙げられない。異端のカヅホ氏(『キルミーベイベー』)はともかくとして。
『あずまんが大王」と似たような画期的な作品として、つくみず『少女終末旅行』(2014-2018)が挙げられるだろう。本作以降、「終末世界の日常もの(しばしば放浪要素を含む)」の漫画が大量に現れた。
もちろん、ポストアポカリプス世界は、それ以前の多くの作品で描かれてきた。ただし、悲惨で過酷な闘争の物語であったり、破滅を回避するためのドラマティックな作品であったり、人類史/人類文明に対するストレートな問いかけを提起していたりする。それに対して、00年代の「日常もの」の延長上に終末世界設定を取り入れたのは、慧眼だったと言えるだろう(※ただし、2009年のPCゲーム『はるかぜどりに、とまりぎを。』や、先述の『ヨコハマ買い出し紀行』のように、類似のアプローチを先んじて試みていた作品も、もちろん存在した)。
また、あてどのない旅行(放浪)の要素を取り入れたことにも、当時としての新規性があった。「旅」ジャンルは、前世紀のアニメ等では珍しくなかったが、90年代~00年代のオタクカルチャーではなかなかフォーカスされてこなかったと記憶する。そうした中で、開放的だが寂しさもある「旅行」の要素を正面から扱ったのは、この作品の挑戦的な部分だと評価できるだろう。
そういうわけで、まさにこのタイトルは、「少女(=萌えジャンルで)」+「終末もの(しかも日常ものとの組み合わせで)」+「旅行(旅情要素)」というパーツ群の巧みな組み合わせを、つまり、本作のコンセプチュアルな切り取り方を、これ以上ないほど明瞭に示していた。本作以降、終末日常もの(特に漫画)が大量に制作され、10年代後半以降の新たな一ジャンルとして確立された。一つのジャンルを一息で作り上げたという意味で、本作の歴史的意義はきわめて大きい。
ただし、残念ながら、終末日常ものは、成果の乏しいジャンルでもある。ポストアポカリプスである意義の乏しい作品であったり、過激なガジェットに頼った一発ネタであったり、主要キャラの会話にまったく面白味の感じられない凡作であったりして、傑作と呼べるほどのものはほとんど現れていない。『少女終末旅行』の個性、すなわち、悲劇的な死の旅行であることを剥き出しにしたまま、それと同時に主要キャラたちの呑気な会話を展開する胆力。また、抽象度の高い文明論的な視点も明示しつつ、実際にはあくまで残り香のようにかすかに示唆するに留めるというぎりぎりのバランス感覚(※本作以降の終末日常ものの大半は、そもそも文明論的示唆を完全に放棄している)。そして、萌えジャンルに属するように見えるが、ベタな萌えキャラ造形ではなく、一見簡素で個性的な絵柄でそれを描くという独自性(※なにしろ、あの『バンチ』誌で連載されていたのだ)。さらに、ケッテンクラートに乗って移動するという意匠面のユニークさも、他の終末日常漫画には見られない。西暦3200年という遠未来世界での、地球全体を覆うダイソン球型メガストラクチャーの廃墟描写の迫力も同様だ。
そうした意味で、つまりこの作品は「既存の要素群をベースにしつつ、しかし新しいジャンルを一気に作り上げた重要なマイルストーン的作品であり、そしてその個性と表現世界は、いまだ超えられていないほどのクオリティと独自性を湛えている」という意味で、『あずまんが大王』に比肩するほどの漫画史上の傑出した作品だと考えている。
02/19(Wed)
アニメ『通販』第6話。なんと、長縄まりあ氏も出演して(※子供のマリー役)、諏訪部&久野&富田&長縄各氏による超贅沢な作品に一変した。脚本面では相変わらず駆け足な素描シナリオで、レイアウトの面白味も乏しいが、局所的に潤沢なカット投入もあり、これはこれで妙な充実感がある。全身体毛タイプの獣人ヒロインは、肌が露出しているわけではないから全裸でもOKということか。
各話サブタイトルも、既存アニメなどからのパロディになっているというネタっぷり。
第1話「見知らぬ森林」:『エヴァ』の「見知らぬ天井」だろうか?
第2話「カレーは正義!」:不明(ありがちなフレーズ。直接的には「かわいいは、正義!」か)。
第3話:大森林の小さな家:『大草原の小さな家』(米国の小説/ドラマ)。
第4話:冒険者たち:『ガンバの冒険』の原作小説。
第5話:古城の月:不明。歌「荒城の月」だろうか。
第6話:本好きの…:『下剋上』。
第7話 這い寄れ!:『ニャル子』。
それにしても、久野美咲氏&長縄まりあ氏のキャラが仲良く共演するシーンを体験できるとは……。あまりに素晴らしいので、ついつい再視聴してしまう。低予算タイトルではあるが、こういう取捨選択の見極めが大胆かつ効果的に出来ているのは興味深い。監督の夕澄慶英氏は00年代前半からのキャリアのあるアニメーターで、監督としては本作が3本目のようだ。
『全修。』第7話は、他者視点から主人公の来し方を辿り返す回。創作にひたすら熱中専心する人の生き方を描いたアニメーター賛歌、クリエイター賛歌(※ただし、中盤でこの描写を出しているということは、終盤にかけてさらなる掘り下げがあると思われる)。作画面でも、動きのあるカメラワークを初めとしてたいへんな力作。
『ソロ討伐』第7話にも長縄まりあ氏が! 今期視聴している『通販』『全修』にも出演されていて、たいへんありがたい。例によって(外見上は)低年齢キャラだが、こちらでは高慢な魔人役を演じている。 さらに大原さやか氏(情報屋)も出演されている。
ただし、シナリオはかなり低品質。いきなり出てきたアイテムをさっそく奪われるし、安っぽい悪役がつまらない最期を遂げるし、お祭からテロへの急転直下になる筈のシーンもまるで落差が表現できていない。
旧作アニメ『レベル99』は、最高級のファイルーズあい劇場を堪能中。特に第5話は、脚本もきれいだし、敬語の有無など、台詞のニュアンスの細やかな変化がこの声優さんの美質によって鮮やかに強調されている。第10話も、主人公キャラがダンジョン探索を存分に楽しむ話で、普段とは異なった台詞の表情づけの微妙な変化が味わい深い。終盤の第11話も、心情のドラマを丁寧に描いていて印象深い。
この方の演技は、基本的に陽気で享楽的な雰囲気を放射している。やや巻き舌気味なのも、スタッカートのようなリズミカルな調子に結びついていて、強い生命力をキャラクターに乗せていく。そういう厚みがあるので、激しい絶叫台詞や鋭いツッコミ台詞にもしっかりした手応えがある。その一方で、芝居のテンポを不必要に崩すことは無く、むしろ端正に、言葉の意味を丁寧に掬い取っていく。この『レベル99』でも、キャラクターの性格上、抑制の強いトーンが基調になっているのだが、その中にも抑えきれないパワーと迫力が滲み出てくるところが、高レベルキャラとしての底知れなさに説得力が出てくる。一見すると、このような無表情系キャラにファイルーズ氏を宛てるのはミスマッチのようだが、実はそうではない。ファイルーズ氏だからこそ、主人公の実力を声の響きから強力に表現されているし、そして、主人公のモノローグが延々続くのも――しばしば説明的で、テキストとしては退屈になりかねないのに――視聴者を引き込んでくれる。
……それにしても、なんでもないところでやたら頻繁に歩行アニメーションを描いている作品だった。それと、EDでデュエットしている貴族キャラ「エレノーラ」が、ストーリー上では本当に何もろくな役割を担わないただのサブキャラで終わってしまったのは何故だろう。ネタにしては面白すぎるが、原作小説では大きく扱われていたのだろうか。
メカ耳の歴史をきちんと跡付けた文献(あるいはネット記事)は、どこにも無いのだろうか。私見では、おそらく士郎正宗の『ブラックマジック M-66』(漫画/OVA、80年代)が嚆矢。さすがは士郎正宗氏。そしてそこから『To Heart』(1997年、メイドロボのマルチ&セリオ)や『ちょびっツ』(2000-2002)、『ゼノサーガ』(2002-、アンドロイドキャラのKOS-MOS)が起爆剤となって広まった、と認識している。その間の、80年代後半から90年代前半には、おそらくまだ普及していなかった(漫画『AT Lady!』や『A.I.が止まらない!』にはメカ耳は無かった筈)。文化的には、おそらく『バーチャロン』(1995-)の影響もある。すなわち、ツインテールのような頭部装飾をロボットキャラで再現しているという意味で。
機能的には、人間とロボットを識別するため。そして、アンテナやセンサーとして使うため。美的には、おそらくエルフ耳の影響もある(80年代の『ロードス島戦記』)。ただし、ケモ耳やバニースーツ趣味の流行は00年代後半以降の現象なので、メカ耳の発展には寄与していない(時間的な前後関係が逆)。『パトレイバー』(1988-)のセンサー耳も関連しているかもしれない。80年代のMS少女(モビルスーツ少女)にも、メカ耳の萌芽は見出される。……だいたいこんな感じの展望かなあ。
この時代のアニメやゲームを体験してきた人々にとっては、おそらく当然の知識であって、わざわざ記事を書くまでもないような常識なのだろう(※私は『ブラックマジック』について後からの視聴だけど)。でも、そういう歴史的な経緯の知識は、なんらかの形で言語化して記録していかなければ、後世の人々にとっては意味の分からないものになったり、あるいはその文化そのものが忘れられていったりする。このブログは、そういう知識を少しでも書き残していくために続けている。
70年代以前の「マニア」「おたく」たちは、各自が固有の専門分野を掘り下げていく孤高のタコツボたちという印象だが、80年代後半以降の「オタク」たちは、様々な分野へ貪欲に取り組んでいくマルチ趣味人だったと思う。実際に、アニメ視聴層の拡大、漫画趣味の一般化(雑誌購読層の増大)、そして家庭用ゲームプラットフォームの整備(ファミコン以降)、そして90年代にはネット環境とともにオタクたちの間でも情報化が進展した。だから、この時代のオタクたちは、少年漫画から少女漫画からサブカル漫画まで知っているし、主要なアニメの話題も一通りはついていけるし、もちろん最新ゲームのやり込みプレイも果敢に取り組んでいるし、アーケードゲームとの相互交流も確立しているし――というかそもそも「家庭用/アーケード」は分断していなかった――、さらには年齢制限のあるPCゲーム(つまり当時の最新媒体にして新興分野)にも積極的に食いついていった。
そしてこれは消費者サイドだけでなく、もちろんクリエイター側にも当てはまっていた筈だ。だから、隣接分野の新流行にも敏感に反応してそれを取り入れていく。上記「メカ耳」一つ取っても、ほんの数年のスパンで同じような趣向が同時並行的に発生しているが、それらは当時の巨大な「オタクの知識共同体」のダイナミズムを所与として現れたものだろう。ゲーム分野で試みられた意欲的なキャラデザ趣向が、すぐさま一流漫画家の作品にも反映され、さらにアニメ媒体を通じて広く拡散されていく。
「メカ耳」の潮流についても、そういう健全な発展性が見て取れる。士郎正宗氏から始まって、カトキハジメ(『バーチャロン』)、CLAMP(『ちょびっツ』)、田中久仁彦(『ゼノサーガ』)といった錚々たるビッグネームが即座にその成立史に関わってくる。ゲーム/漫画/アニメ等で分断されないオタクの文化共同体が存在してきたことの例証と言えるだろう。
これらの歴史は、情報インフラの整備とも密接に関わっている。90年代のnifty会議室から個人サイト上のBBS(掲示板)、それから(あんまり良くない話だけど)1999年からの2ch、そして00年代にはmixi(2004-)やtwitter(2006-)などのソーシャルメディア、そしてnicoなどの動画プラットフォームがある。もちろん、デジタル化以前の情報誌『ぱふ』『ファンロード』『月刊OUT』『アニメージュ』などが大きな役割を果たしてきた(……らしい。私はそれらの読者ではなかったので)。
ただし、00年代後半から10年代に入る頃には、オタクたちのバベルは崩壊していき、再びタコツボ化が進展したように見受けられる。一つには、90年代の迫害時代を超えて、文化的なインテグリティが解けていったこと。また、コンテンツの爆発的増加によって、全てのジャンルに手を出すことが不可能になっていったことも、決定的な要因と言える(――これはこれで、内容的な豊饒さのもたらした副次的問題にすぎないと言うべきだが)。いずれにせよ、「ゲームから漫画からアニメから模型やノヴェルやアイドルや批評やPC(ガジェット)からエロ同人まで、オタク・リベラルアーツを全部やる」というのは、現代ではもはやオールドファッションなものになりつつある。
私自身は、できるだけいろいろな分野を嗜む――少なくとも最低限のリテラシーは保つ――ようにしているけれど、それでも個人的な信条でガ○ャゲームは一切やらないし、アイドルイベントにも参加しない。特撮も視聴していないし、Y/Vtuberもろくに知らない(※特に醜聞の多いholoは意図的に避けているが)。現地探訪も滅多にしないし、コスプレもしない。こんなふうに、分からないジャンルが多すぎる。
表現史とそれを生み出してきた共同体(人的集団)の関わりは、オタク分野に限らず、もちろんハイアートの把握に際しても重要だ(が、一般には見過ごされやすいし、後から調べるのもかなり難しい)。美術史や音楽史でも、個々の作品がいきなりポンと出現したわけではなくて、その周囲には芸術家同士の非常に密接な人的関係があったり、先行する様式に対する強い問題意識と対決的姿勢があったり、同時代的-社会的な動静を念頭に置いたものだったりする。そういった横の広がりを持ちつつ、時間的にはほんの数年スパンでどんどん変化していくところは、ハイアートもサブカルチャーも似たようなものではある。
AoshimaのVFG「クラン・クラン」が店頭で大幅割引されていたので、買って制作着手している。部分塗装だけで済ませるつもりだが……ノーマル形態とスーパー形態が選択式だったり(※とはいえ相違点はメカ脚部と追加ブースターくらい?)、「白地にブルーを塗るところ」と「青地にホワイトを塗るところ」が混在していたり、そもそもカラーレシピが載っていないので調色が難しかったりして予想外に手間が掛かりそう。それと、素体の脚部造形がのっぺりしているので、いくらか色を塗り足してやった方が良いかも。
全体にパーツ精度は高いので、組み立てそのものはスムーズに進む。Aoshimaは、スケールモデルでも「ディテールはあっさりしているがシルエットがきれいで組みやすい」というのが大方の評価で、ガールプラモ分野として見ても、
1: 精度:パーツがかっちりしているので、あまり隙間は出ない。関節は、どちらかと言えば緩め志向(※KOTOBUKIYAなどは固め志向)。
2: 構造:スライド金型なども、多めに使っており、組み立てはスムーズ。ただし、そのぶん成形色段階での色分けは甘め。また、本格的な変形ギミックを設けているのも珍しい(ガールプラモではこのシリーズだけ?)。そのため、大型=高価格志向にもなってしまっているが。
3: 造形:ヒップラインがきれい。肩可動の構造も特徴的。
少々垢抜けないところもあるのだが、さすがは老舗、とてもこなれた作りのキットになっている。
02/10(Mon)
核誠治造(Earnestcore Craft)の「LUNCHBOX」って何だろうと買ってみたら、たいへんユニークなデフォルメプラモデルだった。中国メーカーの強みというと、とんでもないボリュームやガンダムもどきのハイディテールプラモが想起されがちだが、本当に怖いのは、こうやってパッケージデザインにも遊び心を注ぎ込める余裕と、そして風変わりな新規キットもどんどん試していける挑戦的姿勢だと思う。「気が利く」、「新しい仕様に挑戦できる」、「自力で付加価値(商品の魅力)を作り出せる」というのは、こういう趣味の産業分野では強力なアドヴァンテージになる。
実在生物ベースのプラモデルは日本の模型メーカーにもいろいろあるけれど、BANDAIの恐竜(骨格再現)プラモは生真面目すぎるし、Fujimiのエビプラモは「エヴァ」カラーリングやプロレスラー仕様のように迷走がすぎるし、Aoshimaに至っては解剖模型だし……うーん。
FujimiはFujimiで、SD艦船模型とか、色分け済みのスナップフィット艦船模型とか、いろいろな挑戦をしてくれていたのだけど、息切れしてしまった感じ。ロゴマークを変えたあたり(2017年)からおかしくなってきたのもあるけど。
下記の箱は、W:20cm/D:15cm/H:8cmくらい。プラモデルの箱としては小さめだが、ランチボックスの気分で手に取ればかなり大きめのサイズに見える(つまり、購入時の満足感も大きい)。いわば、錯覚を利用してボリューム感を印象づけているわけで、商品の見せ方としてもなかなか面白い。もちろん、「ランチボックスのように気軽に持ち運んで、適当な場所で楽しくパチパチ組み立んだら、可愛らしいおもちゃを手に取れる」という幸せそうなイメージも持てる。これで2000円は、十分リーズナブル(※ちなみに、WAVE名義の国内販売版)。
ここのところずっと、『ソロ討伐』のEDソングが脳裏を流れている。
眠くなったら寝る! お昼過ぎに起きる!
遊びたくて遊ぶ! お腹減ったらご飯を食べる♪
作品それ自体としては、アニメ媒体ならではの面白味のあるところと不出来な粗のあるところが混在していているのだが、まあそのくらいは良いだろう。
アニメ『全修。』第6話は前半のクライマックス。ストーリー面はオーソドックスだが、モンスターの作画を初めとして動画表現は迫力のある映像を作り出している。とはいえ、今回は鳥監督の不吉な予言「無駄だよ」も不発に終わり(つまりモンスター撃退に成功し)、その一方で今後の展望もまだ見えてこない。
「無神経で、凶暴で、偉そうで」という形容が微笑ましい。我が侭で自分を主張する女性キャラ、内面の苦悩を持つ女性キャラが、「女性向け」の枠を超えて正当に定着しつつあるのは、現代のクール制アニメ分野にとって、良い傾向と言えるだろう。
『通販』第5話は、野盗討伐の後始末を、ひたすらズタズタ切り貼りのダイジェストで終わらせた。一部にアニメオリジナルのシーンを入れたり、アニメ版でのアレンジも入れているのだが、それでもパッチワーク感は否めない。貴族の手先から追われるシーンもアニメ版オリジナルだが、作為的で説得力に欠ける(※樽を倒しながら逃げる動画表現は頑張っていたけれど)。以前から妙に目立っていたモブ吟遊詩人は、今回音声台詞が付いたが、クレジットでも名無しの「吟遊詩人」(CVは柚木尚子氏)となっている。
『ソロ討伐』第6話は、物語状況を進めるだけの散漫な内容で、ヴィジュアル面での見どころは乏しい。「水着回」なる悪習がいまだに行われているということも再確認した。マッド医師キャラの芝居が異様なオーラを放っていたのは、クレジットによれば久川綾氏。なるほど、さすがだ。
ファイルーズあい氏がひたすら喋り続ける独擅場の『悪役令嬢レベル99』も、ちょっとずつ視聴しているところ。無表情キャラなのだが、芯のある芝居で充実した聴きごたえがある。劇伴も典雅なクラシック風だし、作画も穏健ながら品良くまとまっている。
入手したフィギュアもExcel上でリスト記録しているのだが、ふと見たら300個を超えていた(※プライズフィギュアが中心だが、スケールフィギュアやドールも含む。カプセルトイは除外)。2015年頃にフィギュアに手を出すようになってほぼ十年だから、年平均30個、月平均2.5個くらい買っている計算になる。体感上の購入量にも、確かに合致する。金額の総計は……計算しないでおこう。
ファンがキャラクター間に恋愛関係を読み込むのは、日本だと「二次創作」「妄想」、あるいは(昔のBL用語では)「かけ算」などと言われてきたが、英語では「relationship(関係)」の意味合いで"shipping"と呼ぶらしい(※日本では、比較的古い英語表現「スラッシュ」の方が知られていると思われる)。まあ、そういう種類の妄想をするのはどこの地域でも同じだよね……。
日本語からの自動翻訳は、しばしば主語を取り違えるので致命的なことになりがちなので、安易に流用するととんでもないことになるのだが……。例えば、日本語で「このゲームは面白いよ」と書いた場合に、筆者は「私はこの本を楽しんでいる(I am enjoying the video game.)」と言いたいのだが、これを自動翻訳に掛けると"You can enjoy the video game."(=あなたはこのゲームは楽しめます)と解釈されてしまうことが多い。日本語では主語が省略されがちなので、機械翻訳が恣意的に補うことになり、結果として非常に失礼な文章やナンセンスな文章やを相手に突きつけてしまうことになりかねない。そういう意味でも、最低限は自力で英文を理解できる人でなければ、やはりまとみなコミュニケーションはできない。
夜型生活に引っ張られていく……。
02/06(Thu)
アニメ『通販』第4話。脚本は端折りまくって、討伐隊の人数も半分に減らして(※たぶん作画やキャストの手間の問題)、大筋をなぞるだけで手早く終わらせた。原作台詞を摘まみ食いで追っかけるのに汲々として、台詞のつながりが細切れになっているし、総じてたいへん味気ない。とはいえ、森猫を参加させたり、牢獄内の他者視点シーンを入れたり、少女の目から見た主人公の魅力を示唆するなど、限られた尺の中でちょっとした味付けを試みているのは分かる。分かるのだが、根本的な息切れ感は払拭できない。
映像面では、ぐるりと回り込むカメラワークを何度も敢行したり、剣戟シーンではなかなか効果的な見せ方もしていたりと、作画の現場が頑張っているのは見て取れる。獣人キャラの耳をピクピクさせているのも可愛らしい(※原作/漫画版に由来するものだが、こういう動きの表現は、まさにアニメ媒体ならではの強みだ)。キャラ素肌のテカリ具合といい、色彩設計といい、まるで00年代前半のような絵面だが、割り切れば十分楽しめる。
音響バランスも良くないが、主演の諏訪部氏はさすがの安定感&説得力だし、富田美憂氏の獣人キャラに加えて、ようやく久野美咲氏の子供キャラが本格登場してきた! 商会代表の上田燿司氏も物語を引き締めてくれている。
『ソロ討伐』第5話……もはや何も討伐していないが。生真面目な主人公キャラが、内心では周囲のだらしなさに怒りながらも外面ではそれを押し隠し、そしてサボることができずに自分から仕事を増やしてしてしまう(抱え込みすぎる)という状況があらためて俯瞰的に明示された。kawaiiヒロインの不遇っぷりをコミカルに楽しむ作品ということだろう。今回はしよーもない日常回だが、細やかで生き生きした振り付けアニメーションが実に上手くて見応えがある。カットの切り替えの瞬間などに、面白い表情がサラリと挟み込まれているのも、臨場感を際立たせている。主演は相変わらず大根気味だが、怒り台詞の勢いだけは良く出来ているので、ハマり役と言ってよいのかもしれない。
この『ソロ討伐』も、『全修。』も、そして『通販』のプリムラも、奇しくも「自立した職業女性と、それをサポートする男性キャラ(※ストーリー上、のちに恋人になる見込み)」という構図になっているのがちょっと面白い。
歴史的には、00年代「きらら」系四コマ漫画の女性キャラだけの空間から始まって(例えば『けいおん!』には男性キャラはほぼ皆無)、10年代の「萌えヒロインたちが様々な趣味を楽しむ」というジャンルにつながっていき、その過程で女性主人公たちのアクティヴな自立性や内面の掘り下げが進展した、という経緯かと思われる。ただし、男/女の単純な二分法的対比に進んではならないが、少なくとも「女性(キャラ)の主体性が堂々と描かれることが、ごく普通のことになってきた」という意味では、好ましい変化と捉えてよいだろう。
という話をパラフレーズすると、[ https://urusai.social/@mikoto/113969036786501436 ]こうなる。日本語≒日本人の間だけならば簡単な示唆だけで議論の趣旨を理解される筈だが、アニメ史の流れを経験/把握していないであろう人々に向けて説明するとなると、基本的な知識から順番に説明していかなければ、問題関心や意味づけが伝わらないだろう……というわけで、文字数が十倍(2,000 words≒4000字)になってしまった。せっかくだから、日本語に戻してこちらのブログの記事にしようかとも思ったが、日本のアニメファンにとってはあまりにも基礎的で退屈な知識なので、実行はしないつもり。
ちなみに、いにしえの猫アスキーアートを投稿したらそこそこのリアクションがあって、たいへん恥ずかしい気分になってしまったり。「待って! それは大昔のチープなネタだから!」 いわば、古い駄洒落をうっかり口にしたら、予想外に受けてしまったような気まずさ。
その一方で、英文投稿を読んでいて、「ヴォイスアクターのMami Koyamaって誰だっけ……こやま・まみ……あの超ベテランの小山茉美氏の話じゃないか!」と、妙な仕方でびっくりさせられる場合もある。
コミュニケーションに失敗することもあるけど。相手の投稿を様々に検討して、「どう考えてもこの理解で合っているよね……」とリプライしたら、実はそれは新しめの(しかもちょっと問題のある)スラングでまったく別の意味があった(相手からツッコまれた)という事例も。怖いよぅ……。
02/04(Tue)
いろいろ買い物してきた。
Coreful「断頭台のアウラ」は、見せるべきところをしっかり押さえた秀逸な出来。複雑な頭髪形状は、毛筋表現まで丁寧に造形されていて見応えがあるし、上腕の細い紐もきれいにプリントされている。それに対して、着衣等の塗装はかなりあっさりしているのだが、派手なマゼンタの腰布が大きく盛り上がっていて、そのボリューム感が強烈なアイキャッチとして機能している。左手の天秤も、きちんと立体的に造形されている。取捨選択を的確に判断して、プライズフィギュアの枠内で完成度を高めた逸品だと言える。
ちなみに、黒だった。公式設定かどうかは分からないが、このキャラクター造形に鑑みても、また白スカートとのコントラストを考えても、妥当な色設計だと思う。
水転写デカールが苦手な人が多いのは、理解できる。小さくて扱いづらいし、作業も面倒だし、いったん失敗したら取り返しがつかない。「模型制作の最悪の難所だ」「サイテーの部分だ」という人もいる。
とはいえ個人的には、わりと慣れてきて、今ではあまり苦にしていない。精密ピンセットとマークセッターを使えばスムーズに作業できるし(※マークソフターまでは要らない)、予備分が多めに印刷されている場合もある。ただし、スケモのオールドキットで、デカールが劣化して使い物にならなくなっているのは、さすがにどうしようもない。
アニメ『全修。』第5話は、いくつものパロディネタを贅沢に注ぎ込んだが、今回はむしろ日常パートの方が良い出来だった。とはいえ、ストーリー面では、スラムシーンと、思わせぶりな引退ドラゴン、そして危機の訪れ(次回へ続く)と、やや散漫。筋書きはかなり陳腐なネタをコラージュしているだけで、個々の掘り下げは乏しいのだが、絵はなかなか良いので(動画も良いし、レイアウトも印象的、色彩設計も面白い)、手応えはある。
声優回でもある。釘宮氏演じる「ユニオ」は、普段どおり柔軟にして闊達な芝居だし、ドラゴンの「ジャスティス」は意外にも朴璐美氏、さらに「鳥監督」の台詞も、たった一言ながらズシンとくる不吉な重みがある。長縄まりあ氏は、子供獣人の一人かな?
創彩「薬師寺久遠」について、サンプル写真と公式ブログの説明から見て取れること。
1: 頭髪は一部可動式で、動きをつけられる。
2: 肩基部(胸部)の引き出し構造が大きめになっている。このシリーズの従来商品では、もっと小さい。引き出しを大型化することで、可動範囲を広げているのかもしれないが、シルエットの見栄えが犠牲になる懸念もある。
3: 上腕の上端にも、回転を含めた多重ジョイントがある。これも、従来の制服キットでは、上腕はシンプルな曲げ伸ばしだけだった。これまた、可動拡張と外見上の作為性のトレードオフ。個人的にはびみょー。
4: 肘関節も、昔のBANDAIキットのような二重関節。うーん。
5:胸部-胴体が別パーツで可動あり。この創彩シリーズの中でも、従来は胴体一体型で着衣表現の説得力を確保していたが、最近では胴体分割型(例:水着リツカ)も現れている。可動性重視に舵を切っているのは分かるが、衣服が不自然に分割されているので見た目が悪い。
6: 公式ブログによれば、セーラーの襟も左右独立可動とのこと。そこまでしなくても……。
7: 胴体の可動分割が特殊。どうやら腹部の制服が分割されていて、前後屈曲を妨げないようにしている……まるでロボットプラモのような人工的な処理だが、「ヘソを見せたい」というのであれば納得はする。
8: スカートが分割構造になっている(前左/前右/横左/横右/背面の5分割?)。これもロボットプラモのスカートのような構成で、アクション表現には適しているのだが、さすがにスカートに切れ目を入れるのはまずい。
9: スカートについて、「裾なびき」形状は確認できるが、きれいにまっすぐ下ろした差分が見当たらない。まさか一種類だけ? それはもったいないのでは……。
10: ロングブーツも、当然のように足首のところでパーツ分割が入っている。仕方ないとはいえ、やはり見栄えはびみょー。
11: 塗装箇所は、セーラーの襟のラインと、袖口のライン。前者はおそらく塗装済みパーツになるだろう。後者はどうなるだろうか。個人的には、オリジナル塗装のことも考慮して、袖口の白ラインはデカールにしてくれた方が、融通が利くのでありがたい。
※おまけ。別売の「アフタースクール:役者小物セット」に、しれっと蜘蛛脚が入っていたら面白かったのだが、残念ながらそういうことは無かった。
全体として、悪い意味で「メガロマリア」シリーズからの影響を受け過ぎているように見える。実際、このキットは事実上「メガロマリア」とのコラボであり、可動拡張はメガロマリアの水準に合わせるための設計に他ならない。黒セーラー服というキャラデザの方向性は嬉しいのだが、人体や衣装をズタズタに分割しすぎて美観を損うのは、「創彩」シリーズの最大の長所を殺すことになり、商品価値に関しては逆効果のように思える……うーん。
これまでのキットは、頭髪差分やスカートのなびき差分パーツなどを複数同梱することで様々なポージングに対応してきたが、それをジョイント可動の1種類だけにまとめたのは、コストカットの考慮もあるのかもしれない。いずれにせよ、上記リンク先の画像を見比べれば一目瞭然だが、とにかくシルエットがガタガタで汚くなっているのが悲しい。
……まあ、買うけど。(オチ)
近年では、漫画も他言語版が大量に刊行されるようになっている。
需要(市場規模)も拡大しているし、売れ筋が明確なので出版社としてもきちんと利益を上げられるだろうし、デジタル販売であればグローバルに読者層にリーチできる。翻訳ペースもかなり速いようで、日本語版からほんの2~3巻遅れで英語版が出ていたりする(つまり、ほんの半年遅れで原作にキャッチアップしている)。また、女性向けタイトルも多数翻訳出版されているのは、文化としての広がりと定着ぶりを感じさせてくれる。
翻訳作業もそれほど難しくない筈だ。つまり、一冊あたりせいぜい200ページで、しかも小説と比べて文字数は数分の一で(ものによっては1割以下だろう)、そのうえ専門的な語彙もあまり求められない。ただし、スラングや言葉遊びなどは解釈が難しいし、手書き文字などを一々置き換えるデザイナーも必要だし、LNのボリュームは大変だろう。
タイトルを見ると、直訳ではない自由なアレンジも多くて面白い。元言語(日本語)を残さないように徹底的に英語化(やフランス語化etc.)するのが、あちらの翻訳スタイルのようだ。ただし、個人的には、日本語原題もちゃんと表記してほしいなと思うけど(※逆向きに、他言語から日本語に訳された書籍は、原題もカバーに併記しておくのが通例)。
とはいえ、一冊あたり14~15ドル(つまり2000円以上)というのは、かなり高い。割安な電子版でも10USD(≒1500円)くらいのようだ。非-日本語話者の漫画好きは大変だろう(※もちろん日本語以外に、韓国発=韓国語のmanhwa/webtoonから訳される漫画/LNもある)。海外作品の邦訳版が割高になるのは日本も同じだが、日本には文庫本という分野/形式/市場があって、そこでリーズナブルに海外名著を読めるのはとても恵まれている(orいた)。
日本の出版社のオンライン漫画連載サイトで、当該作品の単行本情報を表示していないのを見ると、本当にがっかりする。せっかくの公式ページなのだから、既刊一覧や新刊情報は、目に付くところに常時表示しておく方がよいし、できれば各種電子書籍販売サーヴィス上での販売ページへのリンクなども置いておく方が望ましい筈だが……。各話ページを開いた時だけ、しかも新刊情報の広告だけが表示されるというのは、アクセシビリティを考えると設計の失敗に思える。
オンライン閲覧者は、書籍購入してまとめ読みをする層(※紙媒体であれ電子版であれ)には移行しないと考えているのだろうか? また、既刊情報などをアーカイヴ化しておくことを考慮できないのだろうか? 大手漫画出版社ですから、連載公開サイトが気の利かない作りのままというのは、あまりにももったいない。