2015/05/22

印象的な音響演出

    ――簡易目次――

はじめに
1. 『Rance』シリーズ:既成曲使用
2. 『雫』:音色とBGMモティーフ
3. 『アトラク=ナクア』:BGMループ
4. 『果て青』:無音演出
5. 『さよならを教えて』:効果音歪み
6. 『水月』:テキストと音響演出の同期
7. 『ブラウン通り』:BGMの状況表現
8. 『Forest』:テキストと音声の二重性
9. 『モノごころ』:発声不可能な台詞

10. 『ひめしょ!』:主人公フルヴォイス
11. 『キラ☆キラ』:音響的錯覚
12. 『あるぺじお』:ラジオ
13. 『水平線まで何マイル?』:BGV
14. 『ヴェルディア』:豊饒と多様性
15. 『夢幻廻廊2』:テキストとBGMの二重性
16. 『英雄*戦姫』:主題歌の変容
17. 『恋する夏のラストリゾート』:声優の力
おわりに


  はじめに
  美少女ゲームの歴史の中で、私たちプレイヤーは無数の個性的な表現に出会ってきた。それらの中には、視覚表現における演出(立ち絵演出やアニメーション導入など)もあれば、システム基軸の特殊な演出(AVG作品のフラグコントロールから、SLG作品の特殊なゲームシステムに至るまで)もある。例えば立ち絵演出についてはweb上にもいくつもの記事があるし、SLG作品のゲームデザイン分析も様々なかたちで為されている。しかしその一方で、美少女ゲームの音響表現に関しては、いまだに集中的な議論やまとまった記事はほとんど無いようである。
  本稿では、BGMや音声台詞などの音響演出に焦点を当てて、まずは様々な実例を紹介し、簡単な検討を加えていく。なお、音響演出の多様性をいきなりトップダウンで整理することは容易でないので、ここでは発売年順で音響演出の様々な側面を紹介していくという体裁を取ることにする。


  1. 『Rance』シリーズ(alicesoft)における既成曲使用。
  ゲーム作品が童謡やクラシック音楽などの既成曲を利用することは、けっして珍しいことではない。それはおよそ市販ゲーム市場が成立した最も初期の頃から行われてきている。美少女ゲーム分野でも、クラシック音楽が使われているエロゲのまとめ - とおくのおと出張版で紹介されているように、多数の実例がある。
  既成曲の利用は、1)作曲の手間を省くという消極的な目的以外にも、2)原曲のクオリティを利用する、3)人口に膾炙したメロディによって親しみやすくさせる、4)その楽曲にまつわる既存の(一般的な)イメージをその場面に投影させる、5)当該楽曲の構造乃至歴史に関する(特殊な)知識を踏まえた演出を展開する、といった作用が考えられるだろう。
  『Rance』シリーズは、第2作(1990年発売)以降、アダルトシーンでは一貫して「我が栄光」が用いられている(らしい。私はシリーズ全作をプレイしたわけではない)。作品毎に多少のアレンジは加えられるが、一般的にイメージされるアダルトシーンの雰囲気にはおよそ似つかわしくないこの勇壮な音楽は、旧東ドイツの国歌「廃墟からの復活」を下敷きにしている。『Rance II』が発売されたのは、まさに国家としてのドイツ民主共和国(1949-90)が消滅した年でもあり、当時の制作スタッフ(作曲者はShade)はそれを意識してその国歌を(趣味的、遊戯的に)取り込んでみせたのではないかと思われる。そもそも主人公の「ランス」自身からして、『Ys』シリーズの「アドル」のパロディであるようなこのタイトルにおいて、音響表現もまた、既成楽曲を一ひねりしたパロディになっているのは、筋の通ったコンセプトだと言うべきだろう。
  このBGMが示しているのは、1)既成曲利用の一例であるのみならず、2)BGMとシーンの間の落差演出の一例でもあり、そして、3)ゲーム表現が社会情勢と相互作用しているということであり、さらに、4)その相互作用はしばしばけっしてストレートな結びつきなどではないということであろう。


  2. 『雫』(Leaf、1996)におけるオルゴールの音色とキャラクター専用BGM。
  本作は、思春期特有の非日常的空間へのロマンティックな憧れを、「狂気の扉を開く」というイメージで表現した作品である。作中では、キーアイテムとしてオルゴールが登場し、そして物語のクライマックスではその音色の記憶が、狂気に染まった登場人物の心をわずかに回復させる決定的な変化をもたらすことになる。オルゴールのセンチメンタルな音色を利用するのは、それ自体としては、今となっては(あるいは当時においてもすでに)十分に普及して陳腐化しているが、コンピュータゲームの実行環境の観点でいえば、本作は、同年発売のWindows版ではMIDI形式ではなくCD-DA音源からの澄んだ音色で響かせることによって、よりいっそう印象深い、大きな効果を挙げている。音質の強みを最大限活用した演出の一つだろう。曲名は「オルゴール1」。メロディが力なく途切れる「オルゴール2」トラックもある。
  BGMをゲームディスク(データ部分とCD-DA部分とが含まれる)からその都度読み取って再生するのは、当時の過渡期的な処理である(――CD-ROMは、通常のCDプレイヤー等で音楽再生することもできる)。インストール時の選択によって、音声やBGMをその都度ゲームディスクから直接読み取る形にできるものは、『Crescendo.』(D.O.、2001)の頃まで存在していた。また、そうすることによって、HDD容量を節約することができたのである。CD-DA再生それ自体は、『巣作りドラゴン』(ソフトハウスキャラ、2004)の頃まで行われていた。

  また、本作は、「瑞穂」「沙織」「瑠璃子」「叔父さん」といったキャラクター専用BGMシステムを採用している。近年の美少女ゲームでは、ムード基軸の主題-変奏型BGM編成が主流であり、キャラクター基軸のBGMは後景に退きつつあるようだが、キャラクターイメージを確立し浸透させるうえで、きわめて効果的な音響利用であることは間違いない。
  さらに、本作は「バッドエンド」「トゥルーエンド」「ハッピーエンド」の区分を(初めて?)明示的に提示したことでも知られているが、プレイヤーにとっては、その位置づけは、エンドロール時に流れるBGMによって識別される。すなわち、事件の解決に失敗したエンディングでは、OP曲を重々しくアレンジした迷妄の「バッドエンド」(という曲名)が流れ、他方で、事件の真相に到達したが最終的に悲劇的な結末を迎えた場合には、はかなげなオルゴールの固定観念(idée fixe)にいまだ絡みつかれたままの「トゥルーエンド」が流れる。そして、そこからさらに再プレイすることによって、新たな選択肢が出現し、奇跡的に――いささか不自然なまでに――登場人物たちが救われるエンディングに到達することができ、ここでは開放的でリズミカルな長調の「ハッピーエンド」が流れる。

  自前の音楽制作チームを擁するこのブランドは、『雫』によって「ビジュアルノベル」の可能性を開拓しただけでなく、コンピュータゲームのBGMに豊かな音色をもたらし、そしてさらに「キャラクターBGM」「エンディングBGMの使い分け」といった形でBGMの複雑な組織化をも行ってみせた。なお、本作の音楽制作スタッフは折戸伸治、下川直哉、石川真也の三名。

『雫』 (c)1996 Leaf
物語は、授業中に一人の学生がうわごとを発して失神するシーンから始まる。事情を調査するために主人公が夜間の学園を調査するが、その中で「毒電波」という謎めいた言葉に出会う。オカルト-サスペンス-ラブストーリーである。ちなみに、画像は16色。


  3. 『アトラク=ナクア』(alicesoft、1997)の長大なBGMループ。
  詳しくは拙稿BGMによる場面転換制御を巡っての2章2節で詳しく紹介したが、ゲーム中盤の「タカヒロ」の章では、妖しげなメロディのBGM「Red tint」のみが延々と流れ続ける。あらゆる場面転換を無視して数十分にわたって、この不気味なBGMを中断なく流し続けるのは、学園全体が主人公の妖力に支配されつつあることを音響面からまざまざと示す、大胆な音響表現である。複数のシーンにわたって同一のBGMを継続することは、プレイヤー(受け手)にも特別な意味作用として認識され、実際にこの種の演出は時折試みられているが、これほどまでに徹底的なものは、今なおきわめて稀である。
  もちろん、類例皆無というわけでもない。例えば『BALDR FORCE』(戯画、2002)は、主人公が洗脳されて悪役の意のままに動かされているシーンで、アンビエントなBGM「マインド・コントロール」が流れ続ける(月菜ルート6-7章)。激しい戦闘パート(アクションゲーム)ですら、この平静で単調なBGMのままである。ここでは、主人公の精神に生き生きとした動きが失われて硬直的な凪の状態にあることを、まさにBGMのあり方(その曲調と連続性の双方)が表現している。

『アトラク=ナクア』
(c)1997/2000 alicesoft
主人公「比良坂初音」のまやかしの力により、学園内の人々は記憶や認識を操作されている。その力は、この世から消えた(初音が消した)個人のことを忘れさせることすら可能である。


  4. 『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT、2000)の無音。
  この作品には、BGMの流れない無音の状態が頻繁に現れる。ただし、無音といっても、サウンド出力が皆無だということではない。通常の音楽的BGMは停止されているが、鳥たちの鳴き声、小川のせせらぎ、風になびく木々の葉擦れといった音響――プログラム上は「効果音」扱い――が間断なく聞こえている。
  本作は、山中の小さな村「安曇村」を舞台としており、美少女ゲームにおいて田舎趣味を明示的に取り上げた最も早い時期に属する作品でもある。田舎の風景と雰囲気を楽しませるために、メロディアスなBGMは極力廃され、そして自然の音響空間そのものを直接的に表す音響演出が採用されたのであろう。
  このような無音表現は、その後も時折試みられている。演出技術論Ⅳ-4-2-αで言及したように、『ヤミと帽子と本の旅人』(ROOT、2002)や『片恋いの月』(すたじお緑茶、2007)は非現実的世界の表現として無音表現を用いたし、『SWAN SONG』(Le Chocolat、2005)では大災害後の重苦しい生活空間の表現として無音演出を利用した。そして近年でも、『ひなたのつき』(ko-eda、2013)が、エルフたちとの山中隠遁生活に際して、音楽的なBGMの代わりに、自然の「環境音」を活用した(――コンフィグでは通常の効果音と並んで別途設定される)。
  自然や、都市の雑踏、教室内の賑やかな談笑などを表す、副次的音響としての環境音(環境効果音)は、本作以降もしばしば用いられているが、代表例として翌年の『パンドラの夢』(pajamas soft、2001)と、『はっぴぃ☆マーガレット!』(CROSSNET/Favorite、2007)を挙げておく。『はっぴぃ☆マーガレット!』では、コンフィグメニューのボリューム調整項目として「BGM」「ボイス」「システム音」「効果音」と並んで「環境効果音」が別途設けられている。

  美少女ゲームにおける田舎表現については、拙稿「舞台設定における田舎趣味と都会趣味」及び「実例検討(1)」を参照。

『果てしなく青い、この空の下で…。』
(c)2000/2003 TOPCAT
商店街すら存在しない山奥の「安曇村」の風景。テキスト表示は画面右側に縦書き表示され、また、それと干渉しないように立ち絵は画面左側に表示されることが多い。そのため、画面中央部分が見通しのよいレイアウトになっている。


  5. 『さよならを教えて』(CRAFTWORK、2001)のチャイム音の歪み。
  すでによく知られているとおり、本作の主人公は物語の最初から重い精神病を患っている。自身が入院している病院を「学校」だと誤認識しており、病棟内で出会うさまざまな物(標本、人形、カラス、ネコ)を生身の女性だと思い込んでいる。
  実際には病院なのだから、チャイムが鳴るはずは無いのだが、主人公は定期的にウェストミンスターチャイムを認識する(――ゲーム上でも効果音としてWAVE出力される)。その音響は、最初のうちは澄んだ4音なのだが、物語の進行とともに、次第にひずみと軋みを生じさせていく(――ゲーム内では8日目以降)。5種類用意されているチャイム音は、最初はほとんど正常なのだが、2番目のものは不可解な残響にまとわりつかれ、3番目のものでは耳障りな電子音的震動になり、4番目では耳鳴りのような4音になり、そして最後のものでは完全に鐘の音響ですらなくなって、かろうじてチャイム音階が識別できる程度のノイズになる。
  この音響演出は、多くのことを示唆する。一つには、ゲームの(あるいは音響的創作物の)表現は、素朴に作中世界を再現するものではなく、受け手に向けられた作用なのだということ。あるいは、少なくとも、そこには多数の隙間が生まれる余地が常にあるのだということ。そしてまた、効果音がいかにして強烈な意味作用を担いうるかということ。さらに、固定的なものの変化――逸脱や崩壊としてのそれを含む――が持ちうる演出的作用の優れた実例。

『さよならを教えて』
(c)2001 CRAFTWORK
この作品では、ほぼ全てのシーンが、このように夕陽の橙色に色濃く塗り込められている。人の正気を失わせる危うい時間帯として、黄昏時が選ばれている。チャイムが鳴らされるのは、この校庭俯瞰時(移動場所選択場面)である。


  6. 『水月』(F&C、2002)におけるテキスト進行と音楽進行の同期。
  ゲーム進行のクライマックスで、ヒロイン「新城和泉」が初めて自分の気持ちを伝えようとするシーンがある。思いを伝えようとして逡巡して、ようやくそれを言葉にすることになるこの場面で、BGMは休符の多い寡黙でメランコリックなピアノソロで始まるが、曲の途中(00:50-)からはつややかな弦楽合奏と合わさり、一転して晴れやかなムードになる。この劇的な音楽的変化は、テキスト進行のタイミングと合致するように調整されている。すなわち、一般的なプレイヤーのスピードを想定して、告白直前のテキストを読み進めるのが50秒程度になるようにテキスト量が調整されており、その間はこの躊躇いに満ちた可憐で不安げな序奏部分――音楽的にはこう捉えられるであろう――が、BGMとして流れている。そして、プレイヤーが告白と応答の言葉をクリック表示するであろうタイミングで、BGMも幸福な肯定的雰囲気へと転換を遂げる。このわずか2分3秒の短い曲は、まさに「告白」と題されている。作曲者はおおくまけんいち
  美少女ゲームにおいて一般的なAVG形式では、ゲーム進行の速度管理は、プレイヤーのクリック操作に委ねられており、したがってテキストと音響表現との間の同期演出を実行することは比較的困難である。ここでは、その一致を曲がりなりにも実現させるために、機械的(プログラム的)手段ではなく、手作業的調整を用いており、それは幸いにも所期の目的を果たしている。
  ただし、この手法は、当該BGMをその場面のみのためにほぼワンオフ発注しなければならず、また、プレイヤーのクリックタイミングに依存しているため、使用されにくい、あるいは、プレイヤーには意識されにくい。前記『アトラク=ナクア』にも、これを目指したと思われるシークエンスがある(前掲記事を参照)が、2015年現在でも、依然として稀な演出手法であり続けている。
  これ以外にも、同期を実現させる代替的手段はいくつか存在する。一つの方法として、プレイヤーのクリック権限を一時的に停止させて強制オート進行にすることによって、同期を実現することができる。ただし、これは、プレイヤーの権限に介入するものであり、ゲーム進行のテンポを阻害する虞があるため、あまり用いられない。例えば上記『パンドラの夢』がこのアプローチを採った時も、ゲームの本編進行の中ではなく、ゲーム進行が終了する瞬間においてであった。すなわち、物語が終わりを迎えて、エンドロールに入ろうとする直前の数瞬だけを強制オート進行にして、エンディング曲の序奏部分から主要部に移行するタイミングと歩調を合わせるという形であった。確かに、この局面では、同期演出の効果が大きく、また、強制オート進行に対するユーザーの反発は比較的小さいであろう。その後もいくつもの作品で、エンディングへの移行を強制的にコントロールする手法が用いられている。
  比較的容易なのは、ムービー挿入によるものだろう。すなわち、動画形式で、映像の変化と音響(BGM/SE)の変化をあらかじめ完全に一致するように調整しておくことにより、ほぼ制作者が予定したとおりの同期表現をプレイヤーのPCで実現することができる(なお、演出技術論Ⅲ章3節全般も参照されたし)。
  上記シーンが意図的なものであることは、制作者(脚本家のトノイケダイスケ)が明言していた筈だが、典拠が見当たらない。『水月VFB』やサントラではなかった。初回版同梱のブックレットあたりだったかもしれない。

『水月』 (c)2002 F&C FC01
本作は、全画面テキスト形式であり、しかも縦書き表示と横書き表示をユーザーが選択することができる。上記『果て青』と同様、地の文と台詞部分の間は、一行空けられる。


  7. 『ブラウン通り三番目』(ソフトハウスキャラ、2003)のBGMによる状況表現。
  本作は、3年間にわたって「冒険者の店」を運営する経営SLGである。毎週(毎ターン)の行動を決定するメイン画面で流れるBGMは、その都度の季節(春夏秋冬)と所持金に応じて変化する。具体的には、BGMは「春酒・並」「春酒・盛」「春酒・特」「夏酒・並」「夏酒・盛」…のように12種類が用意されており、所持金の増加に応じて「並→盛→特」の順に変化していく。
  ゲームを開始して最初のうちは、SLGパート上の所持金は少なく店内施設も乏しく、それに合わせて「並」のBGMもきわめて簡素で慎ましやかなものである。店を発展させていくと、BGMは「盛」ランクの曲が使われるようになる。ここでは、演奏パートが増えて音楽は厚みを増し、音楽の雰囲気は賑やかでリズミカルなものになっている。さらに大量の蓄財をすると、メイン画面でのBGMは「特」ランクになる。主人公が大商人になったことを表すかのように、高音部の装飾も増え、華やかで堂々としたものになる。楽曲制作は梶原正裕荒川憲一
  また、それとともに、季節変化に応じて曲のタイプも切り替わる。「春酒」は軽やかで前向きな曲調、「夏酒」はパーカッションの目立つ力強い曲、「秋酒」は息の長いメロディが展開される寛いだ音楽、「冬酒」は厳しめのリズムとともに穏やかな木管ソロに導かれるクールな楽曲と、四季折々の興趣が音楽的にも表現されている。本作のメイン画面は屋内風景のみであり、季節変化はもっぱらこのBGM変化に委ねられている。
  本作は、ただ単に勝敗を競う「ゲーム」ではなく、冒険者の店での生活を巡って生起するあらゆる出来事を取り上げる「シミュレーション」作品であり、その都度の状況があらゆる手段を用いて表現される。その中でもとりわけ重要なのは、そしてとりわけ大きく彩りを変化させるのは、時候の変化と経済状態の変化であり、それらが言葉によってではなく音楽によって表現されているのである。純AVG作品でも、背景画像の差分変化や立ち絵の夏服/冬服変化によって季節変化をプレイヤーに印象づけるものがある(前者は例えば上記『果て青』『雪影』[Silver Bullet、2006]、後者は『こみっくパーティー』[Leaf、1999]、『恋色空模様』[すたじお緑茶、2010]など多数)が、BGMの組織化によってそれを表現するのは、SLG作品が得意とするアプローチである。例えば『鬼畜王ランス』(alicesoft、1996)でも、勢力毎に特定のBGMを配し、それぞれに様々なムードのアレンジ曲を用意することによって、「国(場所)」のイメージとその都度の「雰囲気」のイメージを音楽的に表現することに成功している。『英雄×魔王』(Escu:de、2005)や後述の『英雄*戦姫』なども同様のBGM変化を伴っている。
  AVG作品における類似のアプローチとして、『pianissimo』(Innocent Grey、2006)がある。この作品では、キャラクター専用BGMに複数のアレンジ展開をして、それらを適宜使い分けている。ここではBGMが、「キャラクター表現」×「状況(ムード)表現」という二重の意味表示機能を担っている。

  ソフトハウスキャラは、さらに『巣作りドラゴン』(2004)や『グリンスヴァールの森の中』(2006)に際しても、音響面からの状況表現に取り組んでいる(――詳しくは拙稿「インターフェイスデザイン(実例検討その三)」において、「音響的インターフェイス」として論じた)。BGMやSEが、単なる「雰囲気の表現」としての役割を超えて、その都度の状況を具体化したり、様々な特有の具体的意味を担ったりすることがあるのだということを、このブランドの実践ははっきりと示している。
  無人島漂流生活SLG『南国ドミニオン』(2005)においても、西田こむぎによる心地良いナレーションメッセージが使用された。災害発生等を告げるアナウンスメッセージも、セーブ/ロード等に関するインターフェイス音声も、「火災が発生しました」「セーブしますか」といったように、あたかもナレーターが介在しているかのような言葉で語られる。その声は、けっして登場人物の声ではないし、神の声でもない。プレイヤーに対して向けられる、インターフェイスの非人格的な言葉は、実際にはゲームマスターが発する言葉に近い。

『ブラウン通り三番目』
(c)2003 ソフトハウスキャラ
許嫁の少女が一人で経営していた冒険者向け雑貨店に主人公が乗り込み、丸3年間(48*3ターン)をかけて発展させていくSLGである。当初は店内も荒れ果てているが、設備投資(店内改装)をすることによってゲーム画面もゴージャスになっていき、BGMも賑やかなものになっていく。


  8. 『Forest』(Liar-soft、2004)のポリフォニー表現。
  通常は、テキストで示されている言葉と、音声出力される言葉は、完全に一致している。しかしこのブランドは、しばしば双方にまったく別の内容を与える。『Forest』のいくつかのシーンでは、立ち絵のある主要キャラクターの台詞はテキスト上で表示されるのに対して、テキスト表示から一拍遅れて、周囲の声――いわばコーラス(コロス)――が響き返す。あるいは、姿を見せない主要キャラクターの音声に対して、一拍遅れて誰とも知れぬ者の言葉がテキストで応答する。あるいは、弁士のような朗読音声の上に、その都度のキャラクターたちの台詞テキストが流れていく。
  「テキスト/音声」という構造上の相違。テキストの視覚的韻律と音声のリズムとの間の共鳴や衝突。それらが出力されていく、それぞれの時間の流れ(の相違)。複数の言葉が同時並行で進んでいくその速度と密度。現代AVGの「テキスト+音響+画像(+システム)の複合表現」としての成り立ちを最大限活用した立体的なその物語表現は、同時にそこに詩的な要素を、朗唱的要素を、演劇的要素を取り込むことをも可能にしている。とりわけ中盤の「夏至の夜の改賊」は、このスタイルの白眉というべき密度の高い表現になっている。
  この二重表現の発想は、『SEVEN-BRIDGE』(2005)でも再利用されている。ここでは、一人のキャラクターが実際に発した言葉はテキスト上で表示され、それと同時に、その人物の内心の声が音声として出力される。主人公が人の心を読むことができるという設定を反映している。もっとも、その説明的なもっともらしさと引き換えに、この作品の二重表現は、『Forest』の劇的緊張感から後退して、きわめて陳腐な音声表現になっているのだが。

  このブランド以外にも、テキストと音声の間のズレを生じさせたり、あるいは複数の音声を同時出力させたりする実践は存在する。私見では、その最もめざましい実践の一つが、ぱれっとによる副音声演出だろう。『MERI+DIA』(2005)や『えむぴぃ』(2007)は、サブ台詞をSE扱いで出力させることによって、非常に賑やかな多声的空間を作り出している。黒箱系でも、テキスト表示される台詞と平行して、悲鳴や嬌声が背後で(SE扱いで)流れ続けるという、いわゆるBGV(バックグラウンドヴォイス)表現が時折行われている。あるいは逆に、テキストでは書かれているものが音声上では聞こえなくなっていたり、テキスト上では「……」で隠蔽されているものが音声上では聞き取れるかたちで述べられていたりするという演出もある。テキストと音声の不一致演出としては、長台詞の省略演出もある。『しすたぁエンジェル』(TERRALUNAR、2002)や『巣作りドラゴン』『ゆのはな』(PULLTOP、2005)などにその楽しい実例が見出される(cf. 演出技術論Ⅳ-2-3)。また、ありがちなのは、文中の特定の言葉に対して別の読み(音声)を当てることによって、一種のルビ表現を行うものである。例えば、ある台詞の中の「○○ちゃん」という部分に「カノジョ」という音声を当てることによって、プレイヤーはその部分の多層的な意味を同時に、かつ自然に受け止めることができる。
 
  文字表現と音声表現の二重性を活用した意欲的な作品が、『Forest』の前年にも発売されている。『永遠のアセリア』(xuse、2003)は、異世界に飛ばされた現代日本人青年の物語であるが、その世界では「聖ヨト語」という言語が使われており、現地の人々の台詞はメッセージウィンドウ上では実際にその言葉で表示される。つまり、まったく意味の分からない(ように聞こえる)カタカナの羅列として表示される。徹底的な他言語表現である。当初ほとんど意志疎通ができなかった主人公は、何ヶ月も生活していくうちに、次第にその言語を習得してコミュニケーションをとれるようになっていくのだが、それに合わせて音声表現やテキスト表示の仕方も変化していく。wikipediaに簡潔な紹介があるので以下に引用しておくが、ここでもまさにAVGに特有の音声表現と文字表現の二重性が巧みに利用されており、さらに周回プレイ(による変化)というゲームならではの構造性をも取り込んでいることが分かる。
 「物語序盤では会話が聖ヨト語で行われることにより、主人公にとって状況を知る上で大きな障害となるように、そしてプレイヤーは物語の核心に触れられないように演出がなされている。劇中で1か月が経過して主人公が異世界に慣れてくると、音声は聖ヨト語のまま文章が日本語表記になる。さらに3か月が経つと完全な意思疎通が可能となり、音声も日本語に変わる。/2周目ははじめから音声・文章ともに日本語で表され、1周目では謎だったセリフが理解できるようになる。ただしこれはプレイヤー向けの演出であり、劇中での主人公はやはり言葉の壁に悩むことになる。3周目以降はゲーム開始時に聖ヨト語と日本語の好きなほうを選んでプレイできる」(wikipedia日本語版「永遠のアセリア」の項目より)。

  その他、音声台詞に関係する様々な機能的修辞については、演出技術論Ⅲ-1-2、同Ⅳ-2-3、同Ⅳ-4-2-βクリック進行と音声表現との関係についてPCゲームにおける黙説、「BGV技法の発達」、「音声台詞による特殊な演出」などで論じた。

『Forest』 (c)2004 Liar-soft
この幻想的なAVG作品では、立ち絵もしばしば地面から自由に遊離して、ほとんど象徴的存在として画面上を往来する。また、左記引用画像に見られるように、テキストもしばしば一クリック分に複数のキャラクターの(しかも時として話者表示も失われている)台詞群が同時に併存して、クリック基軸の時間制御ではなく朗唱音声との対位法的進行を基盤として展開されていく。
『永遠のアセリア』 (c)2003 xuse
異世界漂着もののSLGである。その世界の人々は「聖ヨト語」で話しており、ゲーム序盤ではテキストも音声もプレイヤーには理解できない言語のままで表されている。


  9. 『モノごころ、モノむすめ。』(May-Be Soft、2005)。
  「くぁwせdrftgyふじこlp;」(CV: 桜川未央)。



  10. 『ひめしょ!』(XANADU、2005)の主人公音声。
  藤崎竜太による饒舌で過激なスラップスティック脚本と、それを堂々と受け止めた西田こむぎによるショタ主人公ヴォイスの主演芝居は絶品だった。主人公にも音声の付いた、本当の意味での「フルヴォイス」環境の魅力を最大限発揮した稀有な実例の一つである。主人公を含む全登場人物が音声付きでしゃべるおかげで、会話劇にしっかりした密度感がもたらされ、またボケツッコミトークにも臨場感がもたらされる。これについては演出技術論Ⅳ-4-2-βでも紹介した。

『ひめしょ!』 (c)2005 XANADU
主人公は、作中のほぼすべてのシーンに登場し、そして最も台詞の多いキャラクターである。激しいツッコミ台詞、ユーモラスなボケ台詞、そして(ショタ主人公ならではの)嬌声に至るまで、主人公に音声付与したことの効果は絶大である。ただし、音声収録のコストも飛躍的に増大してしまうのだが。


  11. 『キラ☆キラ』(OVERDRIVE、2007)の音響的錯覚。
  「錯覚」と呼んでよいのかどうかも分からないが。火災事故によってヒロインを失って以来、荒れ果てた生活を送っていた主人公のところに、そのヒロインが訪れる。雨夜にそのボロアパートの室内にいきなり現れた彼女は、再会の短い会話を交わしたのち、いったんシャワーを浴びに行く。戸外の雨音とシャワーの水音とが重なって聞こえる中、主人公はしばし待ち、そしてふと気づくと、雨音と水音とは区別できなくなっていた。今聞こえている音は、雨の音なのか、それともシャワーの音なのか。雨は今も確かに降っているが、しかしシャワー音は本当にあったのか。死んだ筈のヒロインは、本当に来ていたのか。主人公は混乱し、そしてプレイヤーも狼狽させられる。
  これは一回性の衝撃的な当惑経験であり、この出来事のあまりにも儚い幻想性――もちろんヒロインの出現は主人公がみた幻に他ならない――を表現するものであり、そして、ヒロインの「喪失」をあらためてプレイヤーに刻印する演出だった。効果音(SE)は、物語進行や情景描写にとって、どちらかといえば副次的な存在と見做されがちであろうが、それが演出の要石となってここまで衝撃的なシーンを構築することができるということの、優れた実例である。
  この場面で効果音が実際にどのように処理されていたのか、私はこのシーンを繰り返し(再プレイし)てみるつもりはない。

『キラ☆キラ』 (c)2007 OVERDRIVE
バンド演奏の魅力にとりつかれ、破綻寸前の生活を営んでいる主人公のところに、焼死した筈のヒロインが現れる。幻想と呼ぶべきだろうか、それとも妄想と呼ぶべきだろうか。 


  12. 『あるぺじお』(SIESTA、2007)のラジオ。
  主人公は「SMILE WAVE」というラジオ番組をたびたび聴いている。このラジオ放送は、ただ単にテキスト上でかいつまんで処理されるのではなく、下の画像のような特別なレイアウトで、ゲーム本編中で実際にDJのトーク全体が音声として流れる。ラジオトークは、思春期リスナーたちからの身の上相談の投稿を取り上げて優しく対応するものであり、 DJを演じる海原エレナの語り口も落ち着きがあって耳心地良い。一回あたり10分程度のこの時間は美少女ゲームの中でも特別に潤いのある瞬間となっている。
  作中で実際にラジオを聴かせるという発想は、これ以前に『腐り姫』(Liar-soft、2002)にも存在したが、それは通常シーンのまま、一クリック分のテキストに対して長大な音声を乗せるという形でなされていた。それに対して本作では、音声+完全なテキスト+画面演出という形で、リラクゼーション空間としてのラジオシーンが周到に構築されている。
  もちろん、これは単なる「お遊び」ではない。ラジオの中で読み上げられる投稿文などが、ストーリー本筋(つまり主人公たちの生活)にも関わってくる。ただし、その大半は、主人公たちとは直接関係ないが程近い地域に住んでいるであろう、無名のティーンズたちの大量の――しかもその都度のプレイでどれが読まれるかはランダムの――お悩み投稿である。
  このラジオシーンの特質及び意義として、以下のような点が指摘できるだろう。1)主人公の視点をなかば離れた特別なシーンを導入したこと。2)本編進行から一定の距離をとった、寛いだ一休みのシーンを導入したこと。3)聴きごたえのある「語り」のシーンを導入したこと。4)ラジオ(投稿者たち)という形態で、作中世界の広がりを感じさせたこと。5)当時すでに広告手段として普及していた「webラジオ」の発想を、ゲーム本編中にも持ち込んでみせたこと。そして、6)海原エレナの魅力。

『あるぺじお』 (c)2007 SIESTA
ラジオシーンは、このように全画面テキスト表示形式になる。また、画面右下のイメージキャラクターは切り替えアニメーションしており、左下のレベルメーターもアニメーションしている。


  13. 『水平線まで何マイル?』(ABHAR、2008)のバックグラウンドヴォイス。
  モーターグライダー競技会に出場する学生部活の物語である。競技会当日、主人公たちのチームが飛行準備をして順番待ちをしているシーンで、先行する他チームたちがフライトに挑戦していく様子が、実況放送のかたちで表現されている。この放送音声は、通常の台詞音声ではなく、プレイヤーのクリック進行から独立して、背景でずっと(そしてその長大な台詞が延々と)流れ続けている。この演出は、競技会の臨場感を増すものであり、他チームの様子をプレイヤーに窺い知らせる情報提供の手段でもあり、そして、放送音声を担当する成瀬未亜の朗らかな声によってこのシーンの魅力を増している。
  プレイヤーがクリック動作によって、テキストボックス上に新たなテキストを表示させ、そしてそのテキストそのものを台本とした(つまりテキストと一致した)音声が出力されるというのが、AVGにおける音声表現の最も基本的な使われ方である。しかし、音声表現のありようはそれだけではない。例えば、上述の『Forest』では、ある者の台詞がテキストとして表示されつつ、それとは別の発話者による別の台詞が音声で出力されるという二重性があった。あるいは『えむぴぃ』では、テキスト&音声によって提示される正式な台詞に対して、それと重ねて、別の登場人物による逸脱的な台詞が副音声で(実際には効果音扱いで)同時に出力されるという多重音声表現があった。さらに、いわゆる「BGV(バックグラウンドヴォイス)」という手法もある。これは黒箱系タイトルでよく見られる演出で、テキスト上にヒロインの台詞が無いところ(つまり地の文や男性主人公の台詞が表示されているタイミング)では、効果音扱いでヒロインの嬌声が流れ続けているというものである。本作の実況放送演出も、テキスト表示に伴われない逸脱的な台詞という位置づけの問題として見れば、「副音声演出」と呼ぶことができるし、あるいは、クリック進行から独立した音声表現という機能上の観点からいえば、「BGV演出」の一形態だと見做すこともできるだろうし、主人公へのパーソナルな語りかけではない言葉がただ流れているという点では「環境効果音」のようでもある。
  第8節でも述べたように、現代コンピュータゲームの音響表現は多層的な成り立ちを持っている。すなわち、BGM、台詞音声、副音声、効果音、システム効果音といったさまざまな音響素材が、複合的に使用されており(cf. 演出技術論Ⅳ-4-2)、コンフィグではこれらを個別に音量指定することもできる。そして、これらの音響素材は、機能上の位置づけがそれぞれ異なっているとともに、それぞれが保持し表現する時間の流れ方も異なっている。現代のAVGも、このような音響表現の多層性、複合性をしばしば活用してきた。
  なお、翌年に発売されたファンディスク『すまいるCubic!』では、放送実況を担当していたキャラクター「千鳥水面」が、正式にヒロインとして登場することになった。本編タイトルでは立ち絵すら存在していなかったこのキャラクターが、FDでこれほどの厚遇を得られたことが、この放送演出の魅力とまったく無関係であったとは考えにくい。

『水平線まで何マイル?』
(c)2008 ABHAR
モーターグライダー大会当日の、会場での様子。各チームが飛行していくのを実況する放送音声が、バックグラウンドでずっと流れている。


  14. 『ヴェルディア幻奏曲』(Escu:de、2008)の演奏シーン。
  主人公たちが音楽サークル等に参加して、演奏会を開いたりコンテストに出場したりするという筋書きの作品は、美少女ゲームにも多数存在する。例えば、『Quartett!』(Littlewitch、2004)、『ぶらばん!』(ゆずソフト、2006)、上記『キラ☆キラ』及び『あるぺじお』『終わりなき夏 永遠なる音律』(φage、2009)、『よついろ☆パッショナート!』(SkyFish、2010)、『ボクラはピアチェーレ』(ad:lib、2010)、『もろびとこぞりて』(CLAPWORKS、2011)など。
  これらの中でも、『Quartett!』『キラ☆キラ』『あるぺじお』はプロミュージシャンによる演奏録音を利用しているし、『もろびとこぞりて』は既成曲(主にクラシック)を多数使用するという形で、作中の演奏に説得力を与えている。それ以外のタイトルも、基本的には現代社会を舞台にしたモダンな楽曲演奏を扱っている。
  それに対して本作は、西洋中世ファンタジー風世界に立脚し、アコーディオン、ハープ、クラリネット(木管)、ヴァイオリン、バウロン(打楽器)、リュート(撥弦楽器)による音色豊かなアンサンブルを表現している。生音演奏を取り込んでいる箇所もあり、非常に質の高い音源である。
  また、分岐管理に長けたSLG系ブランドらしく、同一の曲の演奏でも、ゲーム進行状況(メンバーの集まり具合)に応じて様々な編成によるヴァリエーションを使い分けている。例えば、「予選課題曲【憧憬の鐘】」ではそれぞれ楽器編成の異なる7種類が用意されている(――製品版の音楽鑑賞モードでは3種類のみが聴けるが、サントラでは7種類全てが収録されている)。
  演奏音楽だけではない。通常シーンのBGMも非常に彩り豊かであるし、さらに、前作『ワンダリング・リペア!』(2008)で導入された環境音もふんだんに使われている。「サウンドスケープADV」を称しているのはけっして伊達ではない。
  本作の音楽を担当したのはTOY(Studio Primitive所属)。氏のEscu:de作品への楽曲参加は、本作が初めてだが、大量かつ高品質の音楽を精力的に制作した(――別売りの3枚組サントラには、83曲もの楽曲が収録されている)。そしてこれ以降、最新作『パニカル・コンフュージョン』(2015)に至るまで、Escu:deとの協力関係はずっと続いており、民族音楽風楽曲から、ヴォーカルBGM、電子音楽に至るまで、一作毎にめざましく豊かな音響世界を作り上げており、いまやこのブランドの際立った個性の重要な一部となっている。
  最後に、本作の音響表現の意義をもう一度整理しておこう。1)架空世界(中世的世界)のにぎやかでひなびた音楽的個性。2)編成を異にする音楽的ヴァリアント。3)緻密なフラグ操作およびストーリー変化に対応した、音響表現上の変化。4)音楽及び音響そのものの品質。5)環境音の活用。本作は、2008年度「美少女ゲームアワード」(現在の「萌えゲーアワード」)のBGM賞優秀賞を受賞した。
  なお、本作のAVGパート全般(主に画面デザイン)については、演出技術論Ⅳ-4-5-αと「インターフェイスデザイン:実例検討(3)」で紹介した。

『ヴェルディア幻奏曲』 (c)2008 Escu:de
BGM鑑賞モード。音楽記号や五線譜モティーフを随所にあしらったデザインで、色彩もコルク色とイエローオーカーを基調としたシックな配色である。曲名も、ユーモアのあるネーミングである。


  15. 『夢幻廻廊2』(Black CYC、2009)のテキストとBGMの間の落差演出。
  脚本家伊藤ヒロが企画立案した、ループもの作品の続編タイトルである。AVGの因習的枠組に対して融通無碍に修辞的逸脱を楽しんできたこのクリエイターは、本作でも様々な視聴覚演出を試みている。

  まず初めに、テキストとBGMの間の食い違い演出を指摘しておこう。徹底的な調教の果てに、主人公が完全に正気を失い、主の命令のままに他人を襲うようになった場面がある。この場面で、主人公は被害者に対して過激な性的蹂躙を加えているシーンなのだが、BGMは軽快で和やかなメロディの「貴族カフェ」を流している。このBGMは、直接的には、主人公の精神状態を表していると捉えてよいだろう。すなわち、彼は陵辱行為を平然と楽しんでいる、いやそれどころか、それが何か善良で好ましい宥和的行為であると誤認させられたうえで好意からそれを行っているのだ。しかし、当然ながら、プレイヤーの常識にとってはそうではない。
  ここでは重要な点がいくつかある。1)まず、BGM選択が主人公の主観(精神状態)のみに集中しており、客観的な描写の側に寄り添ってはいないということ。BGMは、そのようなものであることもできる。そしてこのことは、2)受け手(プレイヤー)にとっては、陰惨な蹂躙シーンと柔和なBGMとの間のギャップとして認識されるということ。そしてさらに、3)このようなギャップ演出が、主人公とプレイヤーとの間のギャップをも意味しているということ。先に『Forest』に関してテキストと音声の間の食い違い演出を紹介したが、それと同様に、テキストとBGMの間でも、意図的に齟齬を起こすことによって特有の意味作用をもたらすことができるのである。
  最初に紹介した『Rance』シリーズのアダルトシーンBGMも、まさにテキストとBGMの間のギャップを利用していた。そこでは、アダルトシーンらしからぬゴージャスなBGMが、主人公の性格――向こう見ずで暴力的な覇気や、性に関する開放的な姿勢、あるいは相手に対する無頓着さなど――を表現するものだと捉えることもできるだろう。また、『ラムネ』(ねこねこソフト、2004)や上記『ひなたのつき』などいくつかの作品で行われているように、アダルトシーンで、煽情性から程遠い優しい日常のBGMが流される場合には、それはアダルトシーンそれ自体を特にそのようなものとして位置づけているのだと――つまり、主人公とヒロインとの関係は性的要素よりも穏やかな情愛の上にこそ立脚しているのだといったように――統一的に捉えることができるだろう。しかし、この『夢幻廻廊2』では、テキストとBGMの間の関係は、明白に断絶を、あるいは衝突を示しており、そのことによってこのシーンの異常性をまざまざと示している。
  これについては、上記場面転換制御及び演出技術論Ⅳ-4-2-αの中で言及した。

  これと関連しつつ、第二の論点として、「鎖の音」演出も紹介しよう。本作では、ゲーム進行の様々な瞬間に、鉄鎖の音がじゃらじゃらと響く。この効果音は、もちろん、そのシーンに鉄鎖が存在するということを表しているのではないし、また、主人公が物理的に鎖につながれているということを表すものでもない。そうではなくて、抑圧的な訓育によって主人公の精神がいよいよ縛られて、型にはめられていくことを表しているのであろう。
  ここから、AVGにおける効果音表現に関して、例えば以下のようなことが言えるだろう。1)効果音は、作中の物理的事実の描写以外の事象も表現しうるということ。また、2)効果音は、主人公(プレイヤーキャラクター)が耳にする音響ではなく、プレイヤー自身に聞かせるための音響なのだということ。そしてさらに、3)効果音は、一見すると写実志向の単純な音響素材のように思われるかもしれないが、このような象徴的表現の担い手となることもできるのだということ。
  これと同じような非写実的効果音は、他のブランドでも度々使われている。例えば『パティシエなにゃんこ』(pajamas soft、2003)では、「ピンポーン」「ブブー」といった賑やかし効果音が使われていたと記憶する。同様に、『ままらぶ』(HERMIT、2004)では、TV番組を模した「笑い声」SEが入る演出がある(cf. 「音声台詞による特殊な演出」)。『すぽコン!』(astronauts、2012)では、ハリセンツッコミのような「スパーン」というSEが流れることがあるが、実際に作中人物がボケキャラを殴打しているわけではない。
  特筆すべきは『朝凪のアクアノーツ』(Fizz、2008)である。この作品では、不思議なヒロイン「白玉かなか」が登場する時に、鈴の音が鳴る。彼女が衣服のどこかに鈴をつけているということではない。その「しゃらん」という音は、もっぱらユーザーに向けて、なにか特別なもの(居ずまいを正させるような、通常の人間を超えてしまったなにか神秘的なもの)の到来を告げるものであり、あるいは「ちりん」という音色であれば、彼女が蒙っている悲劇的な運命の存在をユーザーに向けて暗示しているのだろう。実際、彼女は人魚の肉を食べたために不老不死の体になっているが、その事実が彼女の社会生活をどれほど難しくしてきたかは想像に難くない。夏場にもかかわらず重たい振袖をまとい和傘を手にしたこの白髪の少女のストーリーは、異例に長大で悪夢的な幻想上のシーンを伴いつつ、この作品の中で異彩を放っている。

  第三に、執拗な反復音声にも言及しておこう。このシリーズでは、精神調教の一手段として、ひたすら同じ言葉を繰り返す、あるいは繰り返させるというものがある。例えば「おっぱい、じょうず♪」と囃し立てることによって退行を引き起こし、あるいは「みーみ♪ みーみ♪」の連呼で包囲することによって対象者を抵抗できなくし、あるいは「かおるこさまだいすき」と繰り返させることによって対象者の言語能力を大きく歪めるといったものである。こうした洗脳シーンの表現が、テキストだけでなく実際に音声の連呼を伴うことにより、そのシーンの異常さや怖ろしさ、禍々しさがよりいっそう際立つ。これは伊藤が関与した『夢幻廻廊』第一作(2005)でも見られたものであり、後に企画原案から携わった『ク・リトル・リトル GREAT HUNTING』(Black CYC、2010)においても、被蹂躙の衝撃を和らげるための――あるいは、思考を単純化していわば自己洗脳するための――「南無妙法蓮華経」の連呼という形で、再び用いられた。
  これとやや似た音声演出として、機械的な応答台詞も、伊藤は好んで用いている。『R.U.R.U.R』(light、2007)ではモブロボットたちは「ウィ、ムシュー」という言葉しか喋らない。台詞毎に音声は別収録されており、音声としてのニュアンスはそれぞれ異なっているのだが、しかしどのような場面のどのような応答でも、表面上無意味な「ウィ、ムシュー」という言葉しか発せられない。同様に、『プリンセスX』(Black CYC、2011)では、「ヤヴォール・ミステル」としか喋らないキャラクターが登場するようである(未プレイ)。

  00年代前半にLiar-softが試みていたように、00年代後半以降の伊藤は、テキスト-音声-画像-システムの複合体としてのAVGの文法枠組を、自由自在に拡張し、あるいはその伝統的形態を大胆に転覆させてみせた。それは、テキスト表現における技巧や、視覚表現におけるギミックだけでなく、このように音響表現における開拓をも含んでいる。

『夢幻廻廊2』 (c)2009 BlackCYC
地の文すら「かおるこさまだいすき語」に支配されたその後も洗脳は続き、主人公の発する言葉も、思考する言葉も、すべてそのフレーズによって塗り込められてしまう。左記引用画像はバックログ状態。


  16. 『英雄*戦姫』(tecno、2012)における主題歌の変容。 
  先述のように、現代の美少女ゲームでは主題-変奏型BGMが一般化している。つまり、一作品内のBGMすべてが、共通の主題からの派生として構成されている。これは、作曲のコスト低下(制作容易化)だけでなく、作品全体のムードを統一するという積極的作用や、あるいは共通の主題を前提にすることによって個々の楽曲のムードの違いをよりいっそう明確にするという作用もある。そして、さらに周到な場合には、主題歌からの派生としてBGM全体を組み立てるというアプローチの作品も存在する(cf. 演出技術論Ⅳ-4-2-α)。
  また、BGMの全てをそのようにまとめ上げるのでなくとも、特定のBGM同士を関連づけることによって特有の意味作用を発揮させるものもある。例えば『痕』(Leaf、1996)では、ゲーム序盤では朗らかな夏休みの雰囲気を体現するBGM「夏の追憶」が流れるが、メインストーリーの陰惨で血生臭い物語をくぐり抜けてエンディングに到達しようとするところでは、取り戻された平安の音楽「やすらぎ」が流れる。これは、上記「夏の追憶」の中では伸びやかな管楽(ハーモニカ)で奏でられていたメロディを、穏やかなピアノソロで弾いたものである。これはまさに「回復された日常の安らぎ」のイメージを、言葉ではなく音楽によって示唆する洗練された表現である。このような主題の結びつきは、他のBGMとの間にも隠微に設けられているが、BGM間の関連及び対比が最も鮮やかな形で示されているのがこの2曲である。
  さて、『英雄*戦姫』は、女体化した歴史上の偉人(英雄)たち――ジャンヌ・ダルクは女性のまま――とともに架空の地球上を征服して回るSLG作品であるが、最終的にはその世界をコントロールしている超越的存在との戦いになる。その最終決戦で流れるBGM「這寄混沌 ~Crawling Chaos~」は、主題歌「FATE RUNNERS」のメロディを明確に反映している。主題歌では「広い世界」への希望に満ちた旅程を歌っていたものが、ここでは急き立てるように切迫したリズムの上に、緊張感に満ちたヴァイオリンソロがほぼ同じメロディを奏で、それによって旅の終着点を鮮やかに印象づけている。
  この音楽的演出の意義。1)物語の始まりと終わりを音楽的に結びつけることによって、物語全体を一体感のあるものにしている。2)既知のメロディを引用することによって、最終決戦の印象を唐突なものにせず、これまでの全過程の延長上にあることを印象づけている。3)主題歌回帰によって、最終決戦ならではの特別さを印象づけている。4)朗らかな主題歌を荒々しい形に変容させることによって、その落差をプレイヤーにはっきりと印象づける。しかし同時に、5)最終決戦を単なる「激戦」の印象に閉じ込めることをせず、朗らかな主題歌の残響によって、仲間の英雄たちとともに戦っているのだということをも印象づける。主題歌変奏の曲調とそれを使うタイミングを巧みに設計することによって、このような大きな演出効果が得られる。
  物語のクライマックスシーンのBGMとして主題歌を流すのは、美少女ゲームでは、一説によれば『吸血殲鬼ヴェドゴニア』(nitro+、2001)が最初であるという。その説の真偽はともかく、それ以来少なくとも十数年にわたる歴史の中で、主題歌を用いた演出もさまざまなものが行われており、そして『英雄*戦姫』ラストバトルの音楽的演出はその中でも非常に優れたものの一つである。

『英雄*戦姫』 (c)2012 tenco
上記BGMの曲名からも察せられるであろうとおり、本作のラスボスはナイアラルトホテップ。60人以上の英雄ヒロインたちを向こうに回す悪役の大任を担っている声優はかわしまりの


  17. 『恋する夏のラストリゾート』(PULLTOP LATTE、2014)における声優とテキストの協働。
  苦学生主人公が、オープン準備中の南国リゾート島でアルバイトをするというシチュエーション。主人公をこの仕事に誘ったメインヒロイン「幸崎羽海」は、あまり世間擦れしておらず少々強情なところもあるが、誠実で義理堅い人物である。その礼儀正しさと素直さをあらわす一端として、彼女は主人公たちとの会話の中でも頻繁に「はい」というはっきりした受け答えをする。
  本作のプロローグは、大学生の主人公「大在宗太郎」と新入生の幸崎が出会ってからリゾート島でのアルバイトを始めるまでの過程を描いているが、その短いテキストの中で、幸崎は26回も「はい」と言っている。ただしそれは、けっして単純で単調な発話ではない。幸崎羽海役を演じる声優波奈束風景は、その都度の「はい」科白に対して、それぞれ繊細精妙な表情を与えている。プロローグで、「はい」を含む科白を(一部を省略して)抜き出すと、以下のようになっている。

 聞き返しの「はい?」
 困った状況を電話で伝える際の、泣きそうな「……はい」
 落ち込みつつ応答する「たぶん……はい」
 涙ぐみつついったん電話を切る「はい……すみません」
 宙づりの応答としての「はい。ちゃんと憶えてますけど」
 主人公の問いかけに対する反応としての「……はい」
 しおらしげな「はい……」
 ようやく指輪が見つかった嬉しさで言葉も出ない「はい……」
 安堵の涙で言葉を震わせる「ぐすっ……はい……」
 直前の緊張を残した別離の挨拶「はい……では、失礼します」
 控えめな退出の挨拶「はい」
 電話口での躊躇いがちな「はい、元気……ではあるんですけど……」
 電話口での礼儀正しい「はい、夏期休暇には入るんですけど……その、私ではなくて、
 別な人じゃ……ダメですか?」
 慎重で誠実な受け答えの「はい、聞いています。でも……できればお願いしたいんです」
 落胆をにじませた「はい」
 はきはきした勢いのよい「はい。携帯のメールでもいいですか?」
 相手を安心させる応答の「はい。ほかにも何かあったら、そのときは相談させてください」
 柔らかい受け答えの「はい、私の幼馴染みというか、小さい頃からの知り合いが
 勤めてる所です」
 ひとまず相手の行動を待つ「はい」
 相手の言葉を深く受け止めて返す「……はいっ」
 はにかみながらYESの返事をする「……はぃ」
 自分ではどうしようもない時の、戸惑いまじりの「はい……」
 主人公からは感情の読めない様子になっている「はい……」

  使用頻度から見ても、この「はい」科白によるキャラクターの特徴づけは、脚本家が明確に意図したものであろう。そして声優は、それに十二分に応え、それぞれの台詞に対して豊かな表情づけと精緻な意味づけを与え、それと同時にこのキャラクターを生きた実体として作り上げている。個々の「はい」の意味が異なるのは当然であり、声優がそれらに対してそれぞれ異なったニュアンスを与えるように演技する(ことを目指す)のも当然である。しかし、「目指されるべきであること」から、「実際に実現されている有様」へ到達するのは容易ではない。それを架橋して、実際にプレイヤーをその到達点にまで引き連れて行ってくれるのが声優だ。それは、単なる「演じ分けの芸」に終わるものではない。その都度の台詞を最も適切なかたちに造形し、そしてその「適切性」の次元からさらに先へ進んで、そこに新たな命を与えるのが、役者の仕事だ。そして、ここで波奈束風景は、ほんの短い「はい」という言葉をくりかえす度に、それらを彫琢し構築して展開して、様々な表情を見せる複雑で魅力的なキャラクターを作り上げている。
  現在の美少女ゲームのテキストは、単なるテキスト(と画像)だけの存在ではない。声優の芝居によってその都度特有のかたちに具体化されている。最終的にプレイヤーの前に現れるのは、単なるテキストの言葉ではなく、声優の芝居を通じて鋳直された言葉なのであり、そして声優の芝居によって創造されたキャラクターなのだ。その都度その都度、一つ一つの科白をどのように造形するかは、脚本家の仕事を下敷きにしつつも、最終的には役者たちの創意に掛かっている。この意味において、声優によって言葉が発せられているすべての瞬間瞬間は常に、特別な、創造的な、一回性の、演出的意味に満ちていると言うべきだろう。本項で紹介した波奈束風景の演技は、声優の芝居が何を成し遂げているのかに関する、すでに無数に存在するパフォーマンスの中のほんの一つの――ただしきわめて高度に洗練された、聴きごたえのある妙技の――例に過ぎない。
  幸崎羽海のエンディングも、朗らかで力強い肯定の「――はいっ!」で締め括られる。

『恋する夏のラストリゾート』
(c)2014 PULLTOP LATTE
南国の開放的な舞台で展開されるラブストーリー。ハーレムパッチやアペンドデータも含めると、白箱系というよりは、(低価格作品に多い)非蹂躙的性描写にウェイトを置いたピンク系作品と見ることもできる。


  おわりに
  本稿では、音響表現に関わる多様な演出を、無謀にも一息で紹介しようと試みてきた。所期の目的がどこまで果たされたかは分からない。しかし、これらの散漫な個別実例紹介を整理展望することで、以下のようないくつかのポイントを指摘することができるだろう。すなわち、1)美少女ゲームにおいて、音声台詞、BGM、効果音、そして環境効果音と無音に至るまで、様々なタイプの音響が複合的に用いられているということ。2)そしてそれらが、無数の実践の中で様々な形で組織化(文法化)されているということ。3)さらに、それらは文法化だけでなく、それに対する様々な修辞的逸脱とともにあり、その振れ幅の中でこそ、美少女ゲームの音響表現は豊かなものになってきたということ。4)その集合的プロセスを通じて、個々の音響素材単体(例えば効果音歪み演出)でも、あるいは複数の音響要素の間の相互関係(例えば主題-変奏展開の活用)に際しても、はたまた音響以外の構成要素との間の関係(例えばテキストと音響素材の間の同期演出/二重演出/衝突演出)においても、様々な演出技巧が存在するということ。

  本稿がただ愚直に述べてきたのは、美少女ゲームにおける音響表現の豊かさであり、それらの表現がそれぞれ特殊で複雑で高度な技術の産物だということであり、そして、これらは何十年にもわたるゲームクリエイターたちの試行錯誤の歴史の中にあるということである。