2017/09/30

2017年9月の雑記

  2017年9月の雑記。(→10月8月


  09/28(Thu)
  「カモ半期」……?
  (ごめんなさい、ラジオは拝聴しているけど、ゲームには手を出さないと思う。)

  歩サラ氏のお声は、マイルドで落ち着きがありつつ、しっとりとした明るい広がりがあって、たいへん耳心地良い。まるでSennheiser向けにチューニングされているかのようだ……。


  『くノ一小夜』はsealの低価格3Dゲームで、プロローグのちょっとした活劇シーンで主人公がさっそく触手に捕まってしまい、あとはすべて3Dエロシーン再生機という割り切った実験作なのだが、飯野氏演じる「小夜」がとにかく口が悪くて、プレイ中は驚くやら笑えるやら感心するやらで大変だった憶えがある。スクリーンショットを見返しても、具体的にどんな芝居をされていたのかはあまり思い出せないのだけど、衝撃を受けたという印象だけは残っている。ちなみに、登場人物は主人公一人(と物言わぬ触手)だけなので、完全な飯野汐里独演会。

  仮に3Dゲームと呼びはしたが、実際にはこの作品は、リアルタイム3Dレンダリングをしているのではない。データファイルをバラしてみれば分かるとおり、3Dモデリングであらかじめ作られた個別のmpegムービーを、ループ再生したり切り替えたりしているだけなのだ。だから、プレイヤーはアングル変更も拡大縮小も何も出来ない。sealの技術力開き直り、おそるべし。

『くノ一小夜』 (c)2013 Anime-seal

自信過剰で感情的で攻撃的で調子に乗りやすく品性に欠けるが、本編テキストでは、これらはくノ一としての過酷な「英才教育」の産物とされている。3Dジャンルの名乗りは「くノ一触手拷問ムービー集」とされており、もはや「ゲーム」としての最低限の体裁すら放棄されている。sealだからこれでいいのだ。


  木村氏が出演されるという『あいりす~』、公式サイトを開いてみて、「ふぅん、AUGUSTのブラウザゲームかー」と他のキャラを開いていくと……真顔にならざるを得なかった。主演(?)の桃山氏に、藤咲氏に、波奈束氏に、美月氏に……なんと、あの羽鳥空氏まで起用してくるとは……なんだこれは……。この手の賭博的ブラウザゲームは一切プレイしないつもりだが、しかしさすがにこの顔触れには心が揺れる。
  木村氏とAUGUSTのつながりはもちろん野々原結先生だし、波奈束氏も『ユースティア』以来何本ものタイトルに参加されているが、藤咲氏や桃山氏はこれまでAUGUST未出演じゃなかったかな。流行の最先端からほんの半歩だけ遅れつつ、美味いところをしっかり選び取っていくAUGUSTのやり方は相変わらずのようだ。

  AVG演出の開拓やゲームエンジンの機能強化に関しても、新機軸に着手する最初の一社になることはめったに無いが、他社作品の有望な試みはすぐに見つけてあっという間に自社新作に取り込み、そしてアダルトゲーム全体の舵取りと底上げをしていくというのが、AUGUSTブランドに対する私のイメージだ。その如才なさは、見ていてたまに癪に障ることもあるが、他社製品の研究をきちんと行いつつその優れた案出を業界全体に広める作用を果たしているという意味で、ありがたい存在であることは確かだ。


  Frillはブランド名の可愛らしさに似合わず非常に……なんというか、眉を顰めたくなるような生々しく卑しいネタを頻繁に取り上げていて、たしかに一面ではそれにうんざりもさせられるのだが、それらの多くは俗っぽい分かりやすさにもかかわらず現在のアダルトゲームで見過ごされてきた掘り出し物のネタでもあり、そして恋泉原画を初めとするグラフィクス面の魅力やバルーンテキストのようなシステム面の挑戦もあり、なんのかんので無視できないブランドであり、そしてわりと買ってプレイしている(買っているのは『ホーリー×モーリー』以降。新作も瀬名氏が出演されるし……)。躊躇なく低価格路線に舵を切るという思い切りの良さも、たいしたものだと思う。

  [ frill.product.co.jp/frill13/common/image/graphic_image4.png ]
  ……うん、やっぱり、笑えるくらい気持ち悪いが、しかしヒロインはこれはこれで可愛いし……。
  (前髪にヘアピンをつけてどうする、というツッコミポイントはともかくとして。)


  マウス話。ELECOMのM-MK1UBSがなかなか良い感じ。静音仕様の有線3ボタンで、手触りも悪くない。サイズもやや小ぶりで引き締まっていて、掌に保持しやすい。気に入ったのですぐに2個目を買い足しておいた。クリックの感触も安っぽくなく、静音のわりに明確なクリック感があるので心地良い。しばらくはこれを常用しようかな。

  ただし、不満が無いわけでもない。
- ケーブルが短い(最大63cmとのこと)。しかも平型(曲がり癖が付きやすい)。さらにマウス内部に巻き取れるポータブル仕様。長さに関しては、適当にケーブルを足せば済む。ケーブル曲がりの問題は比較的瑣末。巻き取り機構の分だけマウス全体が微妙に重くなっているが、気にならないレベルだろう。
- 中央の盛り上がりが微妙に高い。もう少し低い方が好み。普段の私は、マウスを五指で摘むようにして持つので、掌にマウスが触れるのはあまり気持ちがよくない。ただし、高さの違いはほとんど気にならないくらいだし、嫌ならヤスリで削ってしまえばいい(モデラー的発想)。
- 表面は、ツルツルのところとマット調のところが絡み合っていて、手触りが気になるかもしれない。パーツ合わせ目の隙間もやや大きい。しかし、手触りが気になるならば、紙ヤスリで均してしまえばいい(これもモデラー的発想か)。
- ホイール部分が少々チャチい。左右に微妙にグラつく。このくらいは許容範囲なのでそのまま。

  あとは耐久性次第かと思われる。

(2017年9月30日、自宅にて撮影)

マウス(およびその他諸々のネタっぽいものども)の写真。 そっかそっかー、シュークリームが好きなんだっけかー。よし、明日は私もシュークリームを食べよう。

  某店でついてきた上の無料冊子を見るに、第二作ではルーシアとユウラシアの扱いが大きくなっているようだ。第一作のヒロインたちよりも紹介順が前になっている。前作(第一作)のヒロインズがサブキャラ扱いになって、前作のサブキャラ(や新キャラ)がヒロイン級になってくるというのは、『桜吹雪』→『花鳥風月』を思い出す。


  【 FD/続編のメリットとデメリット 】
  FDや続編は、「素材再利用」と「売れ行き確保」のメリットがある。

  制作素材に関しては、ゲームエンジンとインターフェイス素材、キャラ(キャラデザ)と立ち絵画像、背景画像、BGM、効果音がほぼそのまま使える。ただし、続編になると作品の舞台(=背景画像)が変わることも多いし、登場人物も新規キャラが増えたりキャラデザ(特に衣装)が変わったりするのが通例である。FDの場合は、本編との連続性を維持するために同一の仕様を踏襲することが多いが、それでも例えば『秋色恋華』→FD『秋色謳華』では画面をワイドディスプレイ対応した(背景画像はトリミング!)し、『あかときっ!』→FD『あかときっ(ハート)』ではゲームパートの仕様をかなり改良している。
  それに対して、一枚絵&着彩、脚本&音声、スクリプト組み込みは、基本的に新規制作する必要がある。一枚絵の一部は、アイデア次第で再利用可能だが、原則としてはFD独自のイベントCGが大量に提供される。また、脚本制作とその台詞音声、そしてそれらのスクリプト組み込みも、当然独自のものになる。とりわけ新規のアダルトシーンに対する要求は、FDでは非常に大きいだろう。CG制作と脚本制作は、おそらく最も大規模な作業が要求されるパートであり、時間もかかるしコストもかかる。それゆえ、FD制作は、費用面で見れば、それほど割の良いものではないかもしれない。しかもこれらはゲームのセールスに影響する二大看板であり、前作との連続性を意識されやすい部分であるため、外注などで代用することも難しい。つまり、社内の基幹スタッフがFD/続編にかかり切りにならざるを得ず、片手間制作や平行作業のできる余地は小さい。
  一昔前(00年代半ばまで)であれば、FDはショートストーリーが数本プレイできる程度の規模で、ミニゲームなどが収録されることも多かった。そうした場合には、脚本や原画/着彩の負担は比較的少ないし、その一方でプログラマーがミニゲームを開発して創造性を発揮することもできた。残念ながら現在では、FDであっても続編と区別できないほど大規模な新規ストーリーを展開するようになっている。

  それでは、何故あえてFDを制作するかといえば、セールス面の事情が案外大きいのかもしれない。つまり、「ファンサービス」と「売上見込み」の双方の観点から、FD/続編が企画立案されることが多いだろう。
  ファンディスクが、ヒロインとのアフターストーリーやサブキャラのオリジナルストーリーを展開するのは、文字通り、本編を楽しんだファンのためのサービスである。FD(スピンオフ作品)では、本編タイトルとは趣を変えて、楽屋オチのようなギャグ短編が収録されたり、本編との整合性のとれない自由なIFストーリーが展開されたりする場合もあるが、それは制作者とユーザーがともに楽しむための場と言えるだろう。続編でも、しばしば前作の主要キャラクターが再登場する。
  また、売れ行きが良く、内容面でも好評を博したタイトルは、うまく顧客を掴んだコンテンツなのだから、FD/続編を発売してもそれなりの売上が見込める。つまり、「売上が良い」「コストに対する利益率が比較的高い」「売上を比較的高い精度で予測できる」といった様々な経営上のメリットがある。そうしたアドヴァンテージが享受できるかぎり、FDや続編にかぎらず、タイトルとコンセプトのみを踏襲したシリーズものとして新規制作するのでも構わない。

  こうして考えてみると、ヒロインとサブキャラの地位を入れ替えるという『花鳥風月』の大胆な試みは、FDとも続編とも言いがたい奇妙なものだが、秀逸なアイデアだったというべきだろう。キャラクターイメージが確立されているため、脚本家は書きやすかっただろうし、立ち絵や背景画像もほぼ再利用できた。人気のあるサブキャラたちを活かしつつ――なにしろ青山ヴォイス、松永ヴォイス、かわしまヴォイス、このかなみヴォイスですぜ――彼女等の新規ストーリー(もちろんアダルトシーンを含む)を展開してみせる。前作を気に入ったユーザーにもありがたいタイトルだし、完全に独自のタイトルとして作られているので新規ユーザーでも問題なくプレイできる。非常に面白い、ユニークな試みだった。同種のアプローチがほとんど存在しないのが不思議でならない(――FDとしてサブキャラの個別シナリオがバラバラに含まれるものはあるが、あらためて一から物語を始めていくスタイルのものはきわめて少ない)。
  思い出せるところでは、『恋色空模様 after happiness and extra hearts』が、ほぼフルプライス級の規模(価格設定も7800円)で、同じようなスタイルのスピンオフ的タイトルを制作している。あるいは、campusの低価格『ウソ』シリーズは、4人のヒロインをそれぞれフィーチャーした連作もので、ヒロイン毎の個別シナリオを分割販売したものと捉えることもできるが、「ヒロイン1人とサブキャラ3人」の位置づけをその都度入れ替えていると見ることもできる。Triangleの『魔法戦士』シリーズのような長寿連作タイトルも、クローズアップされるメインキャラクターがその都度変化しつつ、全体としては同一の状況設定で物語がつながっている。

  ヒロインはそのままで、第一作の主人公だけを死なせて新主人公で新たなゲームを開始するという奇手に出た『セングラ2』というタイトルがありまして……。
  第一作のOPムービーは、一応(?)まともな(?)セル画レベルのアニメーションムービーだったりする。黒背景のせいで「暗黒太極拳」と俗称されていたが、それはまさに太極拳のようになめらかなモーションを一応曲がりなりにも実現していたことの証左でもあるりゅん。
  90年代末に、ゲーム本編発売前にあれだけ関連商品を売ったのは、つまり、ヒロインの外見および設定の魅力で牽引して大規模なキャラグッズ展開を成功させたのは、非常に先進的だったのかもしれないりゅん。ストーリーなど無くても、ほぼキャラクターのイメージだけであれだけのユーザーを惹きつけていたのだから。



  09/27(Wed)
  ひとまずHDDバックアップは取ったけど、動作が不安定なので新作プレイに気が進まない。せっかくだから月末にPCを買い換えるつもり……というか、月末までは保ってほしい。一応正常に動作してはいるがたまに非常に重くなるというのは、メモリ周りの不調ではないかと思われるが、ここ5年以上パーツ交換をしたことが無いので、うまく出来るかどうか分からないし。


  後野祭氏の代表作というと、まずは『あおぞらマジカ!!』『剣乙女ノア』の主演だろう。どちらも、剽軽な雰囲気を振りまきつつ、気合いの入ったシーンも気持ち良く乗りこなしておられた。それから、『超昂戦忍ハルカ』『ヨスガノソラ』『MOON.(ヴォイス版)』も、それぞれ面白い役を印象深く演じておられたし、これらは世間的にも知名度が高いと思われる。「高槻の人」「中里の人」と言えば分かるゲーマーも多いだろう。『わーきんぐDAYS』のヴォイス版も、メイン級で参加されているようだが、残念ながら未プレイ。


  卯衣氏と美月氏は、サブキャラやモブキャラ同士での共演は数本あるようだが、残念ながらヒロイン級での共演はまだ無いようだ。もったいない。ゲームは別録りとはいえ、うまくテンポを合わせた共演芝居を披露されるであろうに。


  海外からのお客さんに対するお土産として、ジャパニーズコンテンポラリーカルチャーへの理解を深めるためにそのワンオブザモストアウトスタンディングアチーヴメンツとしてアユール・オーハシのCDを贈るというアイデアをば、いざ実行しよう。


  新記事:「1/350艦船模型のリスト」。1/350日向が発売予定とのことで、私用メモを公開。
  早くどこかのメーカーが1/350比叡をリリースして下さらないものか。まあ、これだけあっても私もまだ十数隻しか手掛けていないので、けっして偉そうなことは言えないのだが。


  うーむ、ひどすぎる話に、さすがに沈黙を保つのが難しい……。



  09/25(Mon)
  斬ラジオ、長妻氏と瑞沢氏の会話とは……音響の幸福に、感動で頭に血が上りすぎてつらい。
  もちろん利根氏も、たいへん雰囲気の良いトークをしておられる。

  長妻氏の長妻氏ご自身としてのフリートークは、芝居の最中のどこか高みに上りつめていくかのような熱っぽいロマンティシズムから一変して、女子中学生のようなあどけない愛嬌のムードがあって、たいへん親しみが持てる。
  瑞沢氏も瑞沢氏で、以前のトークの引き締まった力強さに満ちあふれつつ伸びやかに安定したトーンとは対照的に、今回のラジオではずいぶんゆったりと余裕を持った語り口になっていて、その柔和な声色の不思議な魅惑に包まれる気分があまりにも心地良い。
  利根氏も相変わらずの芸達者ぶりで、しっかりとネタを披露しつつ、トークの流れをうまく誘導していくあたり、聴きごたえがある。

  「瑞沢渓」というお名前、もしかして声優界随一の宝塚ネームなのでは……。
  ただしそれでもなお、「一見すると出てきそうだけど、しかし宝塚には現れない名前かなあ」と感じてしまうあたり、あの界隈のネーミングセンスは本当に特異なものだ。「瑞」「沢」「渓」では、きれいな渓流のイメージで言葉がストレートにつながりすぎるのかもしれない。宝塚の芸名の、あの華美なようでどこか暗さがあり、ナルシスティックな陶酔に浸されているようでしかし同時に突き放したような非人格的な雰囲気があり、 そして日常感覚を脱臭して虚構の世界に生きているような、あの言語感覚は、わりと当人たちが考えていることも多いようだが、少なくとも私には真似できない。

  そういえば、「白咲葵依」氏がおられたか。


  LNAF.OA、いつの間にやら、配信サイトの記載がついに巨匠大先生CEOの一人パーソナリティになっている……。以前から事実上そうなっていたけど、かくま氏はどこへ行ったのか……。

  「お花が飛び交っている感じ」は、うん、分かる。昨年のイベントでお目に掛かった際も、コスモスかアサガオかヒナゲシがそこに咲いているかのように、飾らずやさしく明朗で堂々とした雰囲気をお持ちだった。

  大「わたし、いっぱい食べる女の子、好きだけどな」(28:55-)
  佐「やっばい、どうしようちょっと、公開告白ですか」
  大「いや、そんな、告白ってほどでもないんだけど」
  あのCEOから、素に戻ったかのような常識的な返答を引き出すとは……おそるべし。

  戦艦大和の諸元を即答した山川さんは、中二眼帯の素質があるのでは……。



  09/23(Sat)
  うう、まずい、OS起動に不調が生じてきた……。やはり先日の落雷で、女騎士並に即オチしたのがまずかったか。この忙しい時に、しかも出費を抑えねばならない時に、そのうえ後期講義が始まるのに……。とりあえず、最新のバックアップを取っておかねば……。

  というわけで、もしもここの更新が途絶えたら、いろいろと儚くなりはててしまったものとお考え下されませい。

  「そんな……わたし、まだ『なるらじ』のバックナンバーも聴ききっていなかったのに……」
  (突然の死に見舞われた80年代少女漫画ヒロイン風に)

  起動はしているけど、動きが重い、遅い……ああ……
  ...I know everything hasn't been quite right with me...
  ...I'm afraid, Dave.
  ...My mind is going.
  ...I'm ...afraid...
  ...Daisy... Daisy...
  (コンピュータが死ぬといったらやはりこれだよね! ……不吉すぎる。)

  『2001年』は、前半の猿のメークアップもさりながら、後半の奇抜なCG(?)アニメーションのクオリティに驚かされる。50年も昔――正確には49年前に公開された映画だ――の技術で、いったいどうやってこんな映像を撮ることができたのか。公開当時の視聴者に対する想像的追体験という形で、2017年現在の私はこの作品に強い衝撃を受ける。

  冒頭の太陽-月-地球の直列シーンは、『エルフオールスターズ脱衣雀3』や『いただきじゃんがりあん2』のOPムービーでもパロディ的に再現されていた。モノリスはたしか『MERI+DIA』にも登場していたと思うが、記憶はもう曖昧だ。



  09/19(Tue)
  アダルトシーンは、統計的アプローチによる検証をしやすい要素だと思う。すなわち、「事実上すべてのタイトルに含まれる」、「一作品にも複数(多数)含まれるのが通例である」、「アダルトシーン同士は一応同種のものとして扱うことができる」、「様々な嗜好を反映して、多様な内容がある」、「多数の分類基準が考案されており、しかもそれらはしばしば定義が明確である」といった特徴があるので、計量化したり統計的に比較したりしやすい。例えば、ブランド毎に「アダルトシーンの全裸率」を比較することはきわめて容易だし、おそらく顕著な傾向的相違が出るだろう。
  私自身、プレイしたタイトルについてシーン数とCG枚数の記録をとるくらいのことはしているが、踏み込んだ分析は行っていない。web上にはそれらしきものは多少存在するが、断片的なものにすぎない。アダルトゲームは、リリーススパンが大きく(フルプライスだと年一本)、かつ年間の発売タイトル数が非常に多いので、継続的な調査が難しいのだろう。しかし、例えばほんの数個のブランド間の比較をするだけでも、有意義な結果は得られると思う。


  【 清楚可憐 】
  清楚なキャラがなかなかいないよね……。美人なキャラやお嬢様キャラや黒髪美少女や無口キャラや内気キャラや超然キャラはいるけれど、楚々とした清らかな美しさを表現しているキャラはきわめて稀だ。それは、オタク分野における女性キャライラストの一般的流儀に関係する事情であったり、美少女ゲームの攻略ヒロインとしての人懐っこさが求められるがゆえであったり、コミカルなストーリーに対応させるためのアレンジであったり、オタク文化が育んできたキャラクター文法が先鋭化しすぎているせいであったりと、様々な事情によるのだろうけど。
  実際、現代のアダルトゲームに控えめで上品で言葉少ななキャラクターを登場させたとしたら、華が無いし、物語を動かしてくれないし、他のキャラクターと会話させづらいし、それどころか他のキャラクターたちとの雰囲気の落差がカバーできないくらい大きいだろうし、そういう雰囲気のキャラを描くのに適した原画家も少ないだろうし、アダルトシーンではどうせ豹変するだろうし、そして、なにより、面白くならないだろう。残念なことだ。
  ギャグシーンに晒されず、ストーリー展開を引き受ける必要も無く、他のキャラクターとのギャップに配慮しなくてよいような作品というと……うん、まあ、黒箱系の出番だよね。あるいは、ミステリ作品における被害者役とか。ソーシャルゲームも、キャラクターの性格表現に専心してよい(自前でストーリーを広げる必要が無い)フィールドだと言えるかもしれない。よく知らないけど、鷺沢さんとかがそれに当たるのかな。

  テキスト2MB超のハイボリュームの時代に、柏木楓や来栖川芹香のような静かで可憐なヒロインを登場させるのは、もはや難しいのだろうか。『カルタグラ』の綾崎楼子さんも無惨な最期を遂げてしまったし。柊美柚さんの『3days』も13年前のタイトルだし。『Re;Lord 第二章』のイリスも、外見からしてサーニャ風の儚げなキャラかと思いきや、どちらかといえばダウナー系だったし。『仏蘭西少女』はちょっと幼すぎるか。
  『ヨスガノソラ』の春日野穹は、外見に限っていえばたいそう可憐な美少女で、何度もフィギュア化されるほど人気を博したのだから、アダルトゲーム界隈においてもまだまだ清楚キャラのポテンシャルは汲み尽くされていない筈だ。『おとぼく』シリーズもたいへん良かったし、ensembleの一連の女装ものタイトルもその傾向を多少継承している。『アマカノ』も、バランス取りの難しい路線でうまく成功したと思う。木村氏といえば、『英雄*戦姫』のアーサーもたいへん素晴らしかった。ソフトハウスキャラでいえば、『巣作りドラゴン』のルクルも、姫キャラとして最後まで気品を失わなかった。『Crescendo』の静原美夢は、儚げどころか本当に儚くなってしまっていた。うーむ、いるといえばいるけど、やっぱり今も昔も少ないなあ。

  透明感のある楚々としたキャラを描けるのは、現在だと、鶴崎氏あたりだろうか。品位と節制を維持しつつキャラクターの魅力を表現できる声優というと、やはり北都氏だろうか。秋野氏だったらどんなふうに表現されるだろうか。

  現実のそして本物の美少女は、ほんとうにすごいからね……。そういう実在の美少女のトップクラスは、理想化されたイラストキャラクターのトップクラスと並べてもまったく引けを取らない。


  マウスのクリックとドラッグの利きが悪くなってきたので交換。今回はふたたびDigio2(ナカバヤシ)のMUS-UKT115にした。要求する条件は、従前のまま、
- 有線式
- 構造がシンプル(2ボタン)
- クリック音ができるだけ小さい(金属音がカキカキと過剰でなければ我慢するつもり)
- ホイール表面は溝付き(ツルツルではない)
- ホイール回転はノッチ付(無段階ではなく、カクカクと止まる)
- 大きさは中サイズよりやや小さめが良い(小さすぎるのもNG)
- 表面が滑らか(鋭いエッジがあると指が痛くて長時間保持していられない場合がある)
  以上を満たすものを5個ほどストックしており、その中から選んだのだが、今回もベストとは言いがたい。サイズがやや大きくなってしまったし、クリック音がかなりはっきり出る。今回はクリック音に耐えられるかどうかの実験をするつもりだが。
  もう一つの候補は、BUFFALOのBSMBU108。こちらはクリック音はかなり小さいが、マウス上面(小指側)が大きく盛り上がっていて、マウスから手を離す時にちょっと引っかかりそうな感じになるのが気に掛かる。もう少し小さめでぺたんこの方がいいのだが……。次善の候補としてストックしておく。それ以外は、買ってはみたものの自宅で試してみるといろいろ不満が出た。
  雑記のログを見ると、前回は2016年6月に交換していた(そして10月に内部改修した)。ほぼ12ヶ月間、よく保ってくれたものだ。クリックの利きもさりながら、側面のラバーの糊が劣化してはみ出してきていたり、下面の足(?)の糊が緩くなって取れかかっていたりと、かなりきつい状況になりかけていたので、交換はやむを得ないところだった。

  満足が行かなかったので、BUFFALOの静音小型マウス(BSMBU26SS)を買い直してきた。このモデルは、以前買った時はクリックが微妙にクキクキと引っかかりを感じる不快な出来だったが、どうやらあれは不幸な個体差だったようで、今回買ったものはさしあたり快適に使えている。

  BDドライブも新調した。上に美少女フィギュアを置くので頑丈なスチール製にした。よしよし、読み取りも順調。気分も良いし、せっかくだから、たかもりさんやおおはしさんの出演しているアニメBDとかあんな兵器こんな兵器が登場する古典戦争映画DVDとかを観ることにしよう。


  しるどら氏については、たしか以前にこのブログ上でも言及したことがあり、その時は、一見すると示唆的なことを述べているようでいて、しかし実際の作品の出来にはあまり活かされていないのであまり信用できない、といったような趣旨のかなり否定的な感想を述べたと思う。しかし最近になってtw上での発言をいくらか辿ってみると、的確な対象理解をベースにしつつ公平かつ啓発的な意見を述べておられるようで、(こう言っては失礼だが)かなり見直した。萌え絵に対してきちんとした技術学的思考を常に展開しているようだし、オタク関係の社会的経済的状況についても定見を持ってそれを言葉にすることが出来ているし、それ以外の様々な問題に対しても具体的な数字を出したり一般性のある論拠に遡って論じたりすることで説得力のある結論を引き出している。
  それでもいまだなお、氏の描くイラストは、ずいぶん隙があって、残念ながらその言葉ほどには面白くない今時ギョロ眼ヒラメ顔かよとか色彩コントロールが無難すぎるとかのだが、そういう落差乃至矛盾もこれはこれで興味深い現象のように思える。分析と試行錯誤と改良をうまく繰り返しておられるようだから、今後さらに大成していくだろうという期待もできるし。

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  例えばアダルトゲームジャンルの苦境に関する一連のコメントも、大筋で同意できるものだ。そして、このくらいきれいに要点を整理できる人はあまりいないだろう。個別の事実認識については疑問無しとしないが、産業構造としての特徴をよく捉えていると思う。
  具体的には、長期制作になりがちなのはアニメの方が甚だしい(数年規模で企画を動かしている)くらいだし流行へのキャッチアップはあまり問題にならないとか、「オンラインによるアップデート」はそんなにたいしたことはしていなかったとか、時代の「隙間」と言うほど小さなものだろうかとか、他ジャンルと競合して「持ってかれてしまった」がゆえの苦境ではなくむしろ固有の事情(例えばPC普及率の低下)だろうとかいった疑問はある。しかし、アダルトジャンルであることが現代のメディアミックス市場において極端な不利をもたらしているとか、ごく少数の基幹スタッフの個性に依存しつつ制作規模は一貫して拡大しているという状況のリスキーさとか、 コストに対する利潤が低くなってきているのが大きな問題だという指摘とかは、傾聴に値する。というか、このあたりの視点の取り方は、私がこのブログなどで書いてきたものにわりと近い。
  その絵もその言葉も、まだまだ成長の余地があるくらいだと思うが、けっして勢い任せのはったりではなく、自分なりの理に適った分析を踏まえてその都度のアウトプットをきちんと形成しているという点において、信用(あるいは期待)できるクリエイターさんではないかなと思う。

  こんなふうに自分の意見を変えられるような機会に恵まれるのは嬉しいことだ。もちろん、ネガティヴな意見がポジティヴな意見に乗り換えられるという場合には尚更。

  [ ichi-up.net/tensaku/03 ]
  ちなみに、以前言及したのは昨年のこの記事。今読み返してみても、たしかに修正の根拠は明確なのだが、出て来たイラストを見ると「本当にそれでいいのか?」という疑問が……。なんだろう、このモヤモヤ感は。文章の添削とは異なる、イラストに対する添削という行為の難しさもあるのだろうけど、どうも釈然としない。


  続刊情報をフォローしていないので知らなかったけど、『真・一騎当千』なんてものが出ていたのか。店頭で見かけて、「『真幻魔大戦』みたいなものか?」と思ってしまった。ネタがネタだけに。

  そういえば、『真幻魔大戦』は、シリーズものの「真○○」ネーミングのはしりになるのかな。アダルトゲームだと、『真・燐月』や『真・恋姫†無双』のように、リメイクや拡張版でこの種のネーミングがなされている。ちょっとひねって『真説 猟奇の檻』、『女郎蜘蛛~真伝(まことがたり)~』、『sin 光臨天使エンシェル・レナ』のようなタイトルもある。全年齢ゲームでは、『真・女神転生』や『影牢 ~刻命館 真章~』あたりが歴史上知名度が高いかと思う。というか、私が思い出せたのがこのあたりというだけの話だが。

  『影牢』のミレニアは、『サムスピ』の「色」と並んで、当時の青少年に対して、あらあらうふふ。


  体調があまり良くない時に、藤咲氏のラジオを聴くと、脳がゆさぶられて危険な状態になる。耳心地良いお声と、コロコロという笑い声の中に、定期的に予想外の発言や文脈を混乱させる発言や飛び道具的発言が飛び出してくるのが、薬物的酩酊を呼び起こす。なんというヴォイスドラッグ。比喩や誇張でなしに、本当に頭がクラっと来たからね……。



  09/15(Fri)
  BDドライブが不調に……そんなに酷使してもいないのだが。どうやらプログラム上の対応不良ではなく、機械的原因のようだ。新品に買い換えれば解決できるが、うう、せっかく丸3日間(+α)を自宅に籠もって過ごす予定だったのに……。


  『星架か』『ジンコウガクエン』『七つのふしぎ』の頃の卯衣氏は、男の子キャラの専門家になっていきそうな勢いだったが、最近はそちらの路線はとんと御無沙汰なのでちょっと寂しい。


  『もろびとこぞりて』のキャスト陣があれだったり、『夏いろペンギン』がそれだったりするのと同様に、『人気声優の』はどうやらあれの出演者らしいのだが、この手のタイトルに対してはどう接したらよいかと戸惑ってしまう。実際的問題としては、役者にとっては互いの芝居を想定できるので演じやすいというメリットがあり、それゆえ芝居のクオリティが上がることが期待できる。しかし、それだけではないだろう。マニア向けの小ネタというには大掛かりすぎるし、企画側スタッフがファン心理からそのようにキャスティングしたというのが内情として最もあり得そうだ。しかし、ユーザーサイドとしては、嬉しいかというと微妙だし(各自の芝居を別個のタイトルで聴いたっていいのだ)、当該作品への没入が攪乱されてしまうこともあるし、名義の問題に関わるので表立った反応もしづらいしで、もやもやさせられる。


  [tw: nekobaka ]
  このイラストレーターさん……眼鏡レンズの屈折(による頬の輪郭のズレ)を表現されている!
  漫画家にはこういう描き方をする方は何人もいるが、カラーイラストでは非常に珍しい。


  ぎ、ぎんのころも……? 「車の人」ならぬ「衣の人」にでもなるおつもりか。


  ヒロイン級の役を取っていろいろなシーンをたっぷり演じてほしいというのもあるけど、しかし本音を言うと、えろいシーンのないサブキャラ役で好き勝手に楽しい芝居を披露されている方が安心して聴ける。まあ、その、なんというか、ベッドシーンもずいぶん頑張っておられるのは分かるのだけど、えろくないというか、生真面目すぎて情趣に欠けるというか、苦痛を感じている芝居にしか聞こえないというか……。台本に対して技術を尽くして向かい合っている努力は分かるし、一般的な意味で「下手」ということではないのだけれど、そもそもその努力の方向性自体が、通常期待されるのとは異なるところを目指してしまっているのではないかという疑念すらある。微笑ましさを通り越して、最近は卯衣氏の演じるアダルトシーンを聴くのが心苦しくなってきた。



  09/11(Mon)
  ミズーリ&ビスマルクの制作中は、「プレアデス」ラジオと「PUSH!!ラジオ」を聴いていた。
  興味を持ってキャットフードを食べてみたことがあるとか、部屋の隙間を縫いぐるみで塞いでいるとか、有栖川氏のエピソードはなにかと突飛すぎる。

  ヴィットリオ・ヴェネトも、もう一度丁寧に作りたいなあ。春日尚樹氏もああ言っていたことだし。


  芸術理論上の学識もたいへん深く、読書量や作品視聴数としての知識もきわめて豊富な、そしてそれゆえ十分な信頼に値する人物がいらしたのだが、しかし面白いことに、個々の作品に対する評価の高低に関してはしばしば私とまったく異なった主張をされる方がいた。私が間違っているかそれともその方が誤っていたかという話ではなく、一つの作品の中でそれぞれが特に注目している側面、重きを与える要素、そして様々な嗜好上の選択、分野全体の捉え方およびその中での当該作品の位置づけの仕方、そうした相違が反映された結果だろう。その方には、あの作品を称賛した視点や、あの脚本家に対する見解や、あのブランドに対して冷淡であった理由などを、いろいろ尋ねてみたかったものだが……。私はもっと積極的に交流し、もっと遠慮なく意見を戦わせるべきだったのかな……。もはや完全に没交渉で、その方が現在どんなことをされているのかもまるで知らないけれど。


  【 オタク文化の広がり/厚み 】
  00年代半ば頃、つまり十年ほど前には、様々な分野のオタク創作が爆発的に広がっていた。伝統のある漫画分野は依然として活況であり、デジタルゲームはPCゲーム/家庭用/MMOのいずれもテクニカルなオタク趣味の最先端の一つだった。アニメも息を吹き返してタイトル数が急増していた時期だし、LNもさまざまな意欲作が登場して成熟期を迎えつつあった。同人市場も確立され、通販体制やデジタル作画ツールなどのインフラもどんどん整っていった。(オタクたちの)ネットワークコミュニケーションに関しては、mixiはピークを超えつつあったかと思うが、pixivやyoutubeのようなアクセスしやすい場が整備されつつあった。これまたちょうど十周年に当たる「初音ミク」も、特定の何かのためではなく、さまざまな分野の人々が自由に使えるニュートラルな道具である(そしてその道具それ自体が人気を博している)という点が、特異かつ新奇な状況だと見做されていた。
  そういうオタク諸分野の多様性と豊饒さを前にして、当時の私は以下のように考えていた。すなわち、「これからのオタクは、いまや本当に、自分が好きなものを自分で選んでいけるようになった。そして各自の嗜好に応じて、オタク界はさまざまなものを楽しむさまざまな人々が雑多に併存し、しばしば交流したり交叉したり影響し合ったりはしつつも、点在する大量の村々として、自由に棲み分けたり移住したりするような空間になるだろう。『みんながガンダム』『みんながジャンプ』『みんながファミコン』のように、人々がごく少数のメジャータイトルに集中するような時代は、もはや終わった。そのような寡占状況は、あくまで表現媒体が限られ、作品数が比較的少なかった、未発達な時代の現象にすぎなかった。そのような中心はもはや現れないし、必要もない」と。当時、このような考え方をしていたオタクは、おそらく私以外にもわりといただろう。支配的な未来予想であったとまでは言わないにしても、当時の状況からして十分蓋然性が高いと思われる予想図の一つだったはずだ。そして、そうなっていくことは、確かにオタク界の幸せを増すものだと期待していた。
  しかるに、幸か不幸か、2017年現在の状況はそのような方向にはあまり進んでいない。先日も述べたように、とりわけ男性向け二次創作同人やSNSイラストは、ごく少数のビッグタイトルに極端に集中している(――ほんの一つのタイトルが全館の四分の一を占め、上位10タイトルが二次創作エリアの8割以上を占めていた)。それを成り立たせているのは、新たな分野、すなわちソーシャルゲームにおけるごく少数の大成功したタイトルだ。その一方で、漫画やLNも、メディアミックスされるものとされないものとで、広報展開にも(おそらく売上にも)極端な落差が生じる。漫画雑誌や新作アニメやデジタルゲームも、過剰過酷な多作競争の中で先の見えない消耗戦を強いられており、とても単純に「豊かな多様性」と寿ぐことはできない。
  豊かな分散というよりは、極端な格差。この現状に目の眩むような思いがする。十年前と比べて、私(たち)のオタク界はより良くなってきたのだろうか? そして、自分が「良い」と感じたものにきちんとお金を払う以外に、オタクとしての私(たち)にはどんなことができるのだろうか。
  これは、1)個々の作品のクオリティのみに起因するのではなく、2)表現媒体やインフラの問題でもあり、さらに3)経済状況によっても規定されているし、4)グローバル化の影響も無視できない。2)に関しては、典型的にはスマートフォンの普及がある。3)は、要するに一つの分野が維持できる(専業の人材や企業を維持していける)ためには、一定の市場規模が必要だということであり、その閾値を下回れば、苦しい撤退戦か、あるいは極端な寡占によるサバイバルか、あるいは市場全体の大掛かりな改編(例えば他分野との融合)か、のいずれかにならざるを得ない。4)は、とりわけデジタルゲーム市場における激変が典型的だが、漫画やイラストやアニメでも、すでに海外クリエイターや海外企業、海外市場の存在は無視できなくなりつつある。

  そういえば、こみトレで買った[ udk.blog91.fc2.com/blog-entry-709.html ]この同人誌はなかなか面白かった。20万字くらいの労作で、オタク系分野のいくつかを取り上げて、市場規模の変化から産業構造の特徴、ビジネスモデルの現状と将来予想まで、ひととおりのことを整理している。ソーシャルゲーム/アニメ/LNという、比較的ひとまとまりに市場を捉えやすい三分野に絞って議論しているのは好判断だろう。

  以前にも述べたとおり、個人単位(ミクロレベル)では、多数派に合致した趣味嗜好を持てること、自分の趣味嗜好が強力に普及することは、利得になる。すなわち、メジャータイトルを好きになれば、そこでは十分な儲けが出ているだろうし、それゆえ拡大再生産がなされることが期待できる、つまりさらにクオリティアップした新作がリリースされたり、関連商品が潤沢にリリースされたり、サービスの質が向上したりする可能性が高くなる。それによってファン層が増えれば、さらなる好循環をもたらす。作品単位であれ、メーカー単位であれ、継続的事業として営まれ得るものであるかぎり、この理屈は当然妥当する。私はべつにこの理屈を否定するつもりは無いし、そしてそれゆえ、人々がメジャータイトルに集中することは(もちろん個々人の趣味上の選択として尊重されるのみならず)合理的であるということも、べつに否定するつもりは無い。
  ただし、「オタク」の経済規模は有限なので、ジャンル間、作品間のゼロサム的関係が発生する。資本が特定の企業や特定のジャンルのみに過度に集中するということは、それ以外の部分が痩せ細るということだ。しかも、そうした傾斜が、作品の出来を基準にした選択ではなく、賭博的射幸性という人間心理が抵抗しがたい一種のマニピュレーションを梃子にしてなされている時、やはりそこには危惧を覚える。

  追記:振り返ってみれば、これは私の観察バイアスかもしれないし、あるいは00年代半ばが例外的であったに過ぎないのかもしれない。前者については、十年前はアニメでは『ハルヒ』の話題が業界を席巻しており、美少女ゲームでは『ToHeart2』や『Fate』、同人でもたしかその頃はまだ『東方』人気が高かったと思う(※よく知らない)し、大掛かりなメディアミックスプロジェクトもすでに様々な形態で展開されていた。また、後者については、そもそもオタク市場はそれほど大きくはないので、あまり多くの分野を同時に維持できるほどではなかったのかもしれない。その場合、ジャンルが増えていくにつれて、個々のジャンルのパイは小さくなり、したがってジャンル毎に少数の(相対的に)メジャーなタイトルのみが生き残るという状況になるのは自然なことだろう。


  私も学生に対して、(さすがに「友人」を作れという素朴な言い方はしないにしても)情報交換したり相談したりできる相手を――しかもできるだけ様々な価値観の相手を――持つようにしなさいと言っている。もちろん学生生活を順調に送れるようにするとか、精神衛生上の問題があるとかいった直接的効用もあるが、それだけでなく、大人(18歳以上)である他者と自力で向き合っていく経験を持つこと、中高よりは広い場で友人や知人を自分で選び取っていくこと、大人同士として他人の価値観との間で折り合いをつけられるようにすること、自力で情報収集しつつそれらを自分で判断していくこと、そういったことに慣らしていくのも、18歳を超えた学生としての社会的訓練の一部だろうから。
  私自身は学生生活でそんなことは全然しなかったけどな!(わりと最低なオチだ)


  [ wikiwiki.jp/senkan-girl/?No7%20%A5%C6%A5%A3%A5%EB%A5%D4%A5%C3%A5%C4 ]
  web検索していたら、えっ、福圓氏がティルピッツなゲームがあるのか。なんという祝福。
  以前からたまに目にしていたキャラ絵だし、不機嫌そうな表情がなんとも魅力的だ……。
  (ただし、私がプレイすることは無いと思うけど。)


  今日もまた、「『ジンコウガクエン』は第一作と第二作のどちらのキャストが好きか」を議題に一人会議をしていた。2011年発売の第一作が北都氏、ももぞの氏、楠氏、如月氏、一色氏、青葉氏と、00年代を通じて芯のある芝居を披露し続けてきた名匠たちを揃えた本格派の顔触れだったのに対して、3年後の2014年に発売された第二作では北見氏、井田氏(※お名前はここで区切ったらいいのだろうか)、秋野氏、琉花氏、鈴音氏と10年代のアダルトゲームシーンを華やかに彩ってきたブリリアントな役者たちを起用している。また、前者は前者でデビューから間もない卯衣氏を気弱男性キャラに配するという大胆なキャスティングを敢行したり、狛乃氏を快楽主義者の性格に割り振るという英断を下したりしており、その一方で後者は後者で凛々しい木村キャラや知性派の上田キャラといったたいへん貴重な(そしてもちろん中味も素晴らしい)芝居を聴くことができる。ゲームシステムは、無印の時点ですでに、学生たちが無節操に交流しまくる3D学園箱庭遊びとして基本骨格が確立されていたし、そしてそこから発展させるとなると『2』のような形態になるというのも理解できる。いずれにしても、ゲームシステムそれ自体による不条理スラップスティック生活シミュレーションとして、『南国ドミニオン』に匹敵する面白さがあった。


  模型雑記ページがまた長くなってきたので分割。模型関連の個別テーマの文章も、できれば単独記事にしていきたいが、やりすぎるとこのブログ全体の方向性がぼやけてしまうし、閲覧者にとっても分かりづらくなるだろう。このブログはあくまでPCゲーム(アダルトゲーム)とゲーム声優を主題にしているので、申し訳ないが模型関連のテキストにはひきつづき割を食っていてもらおう。摩耶などの個別キットの制作メモとか、艦載艇キットの比較とか、塗装技法上の思考とか、そういったものを単独記事にしておいて、検索アクセスによる訪問者たちが情報に到達しやすくするというのも、それはそれでweb空間の利便性向上にとって意味のある処置になりうるとは思うのだけど……。

  「PCゲーム(アダルトゲーム)とゲーム声優を主題に」じゃなくて、もはやこのブログの最も重要な関心は「声優」の方なのではなかろうか……。

  神鉄旅行のページも、今にして思えばわざわざ個別ページにしないで雑記欄に埋もれさせておいてもよかった。たぶんあの当時の私は、鉄オタぶってみたい気分にでもなっていたのだろう。漫画雑話の方は、個々の言及が短かすぎ、小さすぎるので、もはやいちいち移設せずに放置してしまっている。これはこれで仕方ない。


  今年の趣味生活は、ゲームの支出が普段よりも少なくて、書籍支出がやや多めになっている。こまめに漫画単行本などを買いまくっているのが原因。ゲームは、積みが増えすぎているので新作購入を絞り気味にしているため。ジャンル毎の支出は年によってかなり上下するもので、特に円盤カテゴリー(音楽CDと映像BD)は変動幅が大きい。さらに一昨年からは模型支出が加わったため、全体のバランスにも影響が出ているし、趣味支出の総額も増えている。それでも、世間的な「お金の掛かる」趣味に比べれば、まだしもささやかなものだと思うけど。

  単純な計算をすると、例えば年間100万円の趣味支出があれば、平均すると週2万円ほど買っていることになる。50万円ならばその半分、200万円ならばその倍。オタク趣味では、それほど高額なものは無く(お金を貯めて何百万円の自動車や美術品を買うというような形態はほとんど無い)、定期的恒常的にいろいろなものを買い続けるというスタイルになりがちなので、平均で考えても実態からの乖離は小さい筈だ。しかし、うーむ、そんなに買っていたかなあと、不思議な気分になる。たしかに財布から現金が消えていく速度はそんなものだけど、そんなにたくさん買っているという感触も無いのに……。



  09/10(Sun)
  [ www.getchu.com/brandnew/967754/image04.jpg ]
  今時珍しい電話ボックス。電話ボックスといえば……『3days』を思い出した。

  公衆電話は現在でもかなりたくさん設置されている[ www.ntt-west.co.jp/ptd/map/ ]のだが、実際に使うことはまず無いので、存在を意識せずに過ごしてしまっている。自宅近辺でどこにあるかと思い出そうとしても、まるで浮かんでこなかった。これは、人間の外界認識は必要性や有用性に関する枠組によってあらかじめ強固に規定されており、個々の存在を意識化する以前に認識の俎上に上らせるかどうかについて徹底した選別が行われているということの、卑近かつ明白な実例の一つと言ってよいだろう。
  ちなみに、公衆電話は災害時などの緊急通信としても重要な役割を担っているとのこと。ふだん使わないからといって軽視してはいけない、社会のインフラの一つだろう。


  例示はあくまで該当事例のワンオブゼムを提示するものであって全てではないが、しかし適切な実例を提示できていない議論は説得力を著しく欠くものになる。1)読者にとっては、まずその例示が第一の手掛かりになる。2)代表例と見做される以上、議論の根拠としての重みが求められる。3)適切な実例をすぐに提示できないようでは、著者の知識(調査範囲)や理解力が疑われるし、当該議論全体の妥当性も疑わしいものになる。4)適切ではない実例を出すことによって、議論全体の焦点がぼやけ、非効率的な(あるいはミスリーディングな)文章になる。5)マイナーな例ばかりで、よく知られたものに言及していない場合も、「理解されづらい」「議論の射程(関連のある広がり)が見えにくい」といった不利益が生じる。
  実際、「○○なことがあるんだよ。例えば『××』のように」といった主張が提起されたとして、その実例が中途半端なものだったり、それどころか的外れのように見えたり、余計な考慮要因が絡んでくる事例だったり、知名度の高いものに接続されていなかったり、マイルストーン的実例を取りこぼしていたりすると、当該主張全体を「慎重な再検討を要するもの」として警戒せざるを得ないし、主張者の知識および知性に対する信用度も下がる。説得力のある実例を適切に提示できること、そしてその前提として当該問題に関する十分な実証的調査をしていることは、もちろんきわめて重要な問題だ。研究論文の場合は執筆以前のプロセスにおいて研究(文献渉猟、フィールドワーク、実験など)を十分な厚みで蓄積することは当然含意されているのであらためて言うまでもないことだが、それ以外の日常的な言論――例えばオタク分野の趣味レベルでの発言や記事――においてもそうした質を確保するよう努めるべきだろう。

  このブログの記事では、例えば黒箱系への言及が弱いとか、最近(直近数年)のタイトルへの参照がまだ乏しいとか、あるいは個別的にあのタイトルやそのタイトルが未プレイなので内容的議論に踏み込めずにいるとかいった偏りがある。できるだけ広汎に、なおかつそれぞれの論点に関して重要である――作品数が多いとか、知名度が高いとか、代表例として理解されやすいとか、特に洗練されているとか、特に先鋭的であるとか、マイルストーン的意義があるとか――ような実例を指摘できるようにいろいろ頭と時間を使ってきたつもりだが、どこまで説得力のあるものになったかは自分では評価しきれない。他の方々が、さまざまな実例を挙げて興味深い記事を著しておられるのを読むと、「私にはここまでのことはできないなあ」と思うことが多いので、顧みて自分はおそらくまだまだ未熟な若輩者なのだろうと間接的に理解してはいる。

  まあ、担当キャラのスクリーンショットを並べ立てて「(特定の声優さん)祭」を開催できるくらいの蓄積があれば、自分としては満足なのだけど、おそらく他人にはまったく理解されない個人的な楽しみの次元の事柄にすぎない。

  もちろん、実例の適切性(質)や、挙げられる実例の数量だけではなく、それらを適切に分類し評価するような議論のフレームワークそれ自体も、しっかり構築されねばならない。面白い作品のスクリーンショットをベタベタ並べるだけでは、それは作品の魅力に寄りかかっているだけであって、新しい知見を提示することは出来ていない。


  海原氏と桑島氏はちょっと似ているかも、と思ったことがある。響きの良いアルトヴォイスもそうだが、クールなようで熱しているようでやっぱりクールな芝居ぶりも、なんとなく連想を誘う。もちろんクリエイターの評価に際しては誰かと似ているかどうかはまったくどうでもいいことであり、私の認識の中でたまたまそう感じたというだけの話だが。



  09/08(Fri)
  冬野灰馬(球状収)氏による懐かしの『とびでばいん』話か……。


『とびでばいん』
(c)2001 abogadopowers
CGワーク(4)記事で引用した画像。ステージ6のボス「Iron Maiden」。Iフィールド(六角形の防壁)、二本のクローアーム、極太メガビーム(主砲)、爆導索、マイクロミサイルコンテナ、コンテナ分離と、デンドロビウム(GP-03)のネタをすべて取り込んでおり、しかも外見のデザインには確かに独自性がある。


  こちらはステージ3のボスだったか。知人との間では「α-アジール(仮)」と呼んでいたが、こうして見返してみるとあまり似ていないかも。変形して自機の背後(画面左側)に回り込んで弾を撃ってくるという、かなり嫌らしいボスだった。

  これらのほか、『GRADIUS』風のビッグモアイのボスや、『R-TYPE』風に敵戦艦群の間をすり抜けていくステージなど、古典STGのいろいろなネタが楽しく取り込まれていた。

  たしか難易度HELLと難易度「なまら」でもオールクリアした筈。ラスボスは、景気良くルーンショットを連打していくのは楽しい(たしか全つなぎクリアした)が、ルーンショットのタイミングを間違えたりコンボカウントが途切れたりするとあっという間に追い込まれる。

  アダルトゲーム分野におけるオーソドックスなSTGとしては、『ぶるにゃんマン』と双璧の出来だと思う。敵パターン、難易度設計、稼ぎプレイの余地、UIと視覚表現など、正格のSTGとしてきちんとした完成度を実現しているのはこの2作だった。どちらも横スクSTG。
  他にも『あおぞらマジカ!!』や『精霊天翔』、『デデンデン!』もそれなりに面白かったし、『奇々怪界』のようなアクションシューティング(『美咲ちゃんFight!!』、『Apocalypse』、『BALDR』シリーズなど)も視野に入ってくるが。『GUN-KATANA』はFPSとのこと。『天神楽』は縦スク。


  小鳥居氏は、邪気のない純朴なキャラクターを演じると抜群にハマる。というか、小鳥居氏が演じによってキャラクターがそういうものとして形作られる。アニメのように映像を一方的に視聴している分には、それは人懐っこくもうるわしいサウンドスケープとして現れる。ただし、プレイヤーが主人公の立場に自らを擬してプレイするAVGでは、その無邪気な好意をストレートに突きつけられるのは、時として耐えがたくも逃れがたい眩しき圧力として作用することがある。あの「きれいな肉食」スタイルがゲームに来るとそうなってしまう。また、そのおっとりした語り口は、アニメの流れの中ではちょうど良いアクセントとして機能しているが、AVGの無時間的空間の中では台詞のリズムが捉えにくくなってしまいやすい。このような意味で、視聴者/プレイヤーとしては、その芝居にどのように向き合っていくか、付き合い方の難しい声優さんだと思う。


  原由実氏は、案外、短調の芝居に向いているのかもしれない。朗らかで柔和なキャラクターよりも、どこか影の射した悲壮な緊張感を漂わせたシーンの方が、この役者のユニークな特質を引き出しているように感じられる。とはいえ、例えば2012年の『黄昏乙女』の頃は、まだそういった資質があまり展開されていなかったようで、聴いていて役の掘り下げにもどかしさを覚えたりもしたのだが、最近では上記のような美質がうまく現れてきているように感じる。


  [ www.getchu.com/soft.phtml?id=940877 ]
  白雪碧氏、またこんな路線のキャラかよ! だから、白雪氏のこういうキャラは本当に怖いんですってば! だから……だから、うん、買います。


  声優さんのあちら側の仕事とそちら側の業績を一々区別することに、最近とみに苦痛を覚える。一人のクリエイターがいかなる優れた資質を持ち、いかなる優れた達成を成し遂げているかを、その全体像をもらさずあますところなく語りきりたいのに、様々な事情がそれを難しくしている。あのゲームキャラのショタ芝居も、あのゲームヒロインの力強い誇大妄想ぶりも、あの屈折に満ちたキャラクターも、あのねっとりとした口調の奇人表現も、そしてそれと同時に、あのアニメキャラクターの不思議なテンポの語り口も、あの主演芝居のユーモラスな味わいも、すべてをひっくるめて一人の声優の卓越を示すものであるというのに、それらを慎重に腑分けしておかなければいけない。それは声優たちが置かれているデリケートな立場を保護するための配慮ではあるが、しかし声優のありようの全体に対しては不誠実ではないのか。あの地上波アニメ芝居の積み重ねと、あのアダルトゲームキャラの個性の輝きと、あの歌唱の魅力と、あのラジオパーソナリティとしての人柄とが、いかにして連動しているのかを思考して言葉にすることを、どうして私は自ら禁じねばならないのか。



  09/06(Wed)
  先月は残念ながら、生産的な趣味活動があまり出来なかった。音楽・映像ではいろいろ視聴できたが、ゲームや模型などの能動的性格の強い分野はあまり進められなかった。今月ももう一週間になるが、充実した趣味生活を送れるように計画的に生きていきたい。「胃」「轟け」の聴き返しは、後回しにしようかな……。


  【 twのことを少々 】
  かどわきさんのtwヘッダ画像を目にする度に、反射的に「すずたさん!?」と錯覚してしまう。見比べてみると、ずいぶん造形は違うのだけど。いったいどうしてこんな。つぶらな瞳の着ぐるみだったらなんでもかんでも鈴田氏を連想してしまうとしたらちょっと怖い。わたし、自分が怖い。

  twといえば、非ログイン閲覧だと個人アカウントの「メディア」欄を見られなくなっているのがたいへん不便だ。先月中にそういう仕様になってしまっている。「ツイートと返信」欄やフォロー情報も、ずいぶん前から閉ざされている。ログインすればいい(無料でアカウントを作ればいい)といっても、一定の情報を引き渡さなければ利用できないということだから、「ただ」とは言えない。国内外の多数の公的機関も正式に利用しているメディアなのだから、アクセスはできるかぎり広く公開してほしいのだけど、twのポリシーにそういうのは期待できそうにない。実際、tw社のあり方に反発したからこそ、私はあそこから離脱した(アカウント利用を止めた)のだし、ログイン利用を再開するのも嫌だ。どうしたものかと悩んでいる。
  以前の趣味用のアカウントもまだ残っているけど、もしも仮にもしも、今更あれを再開するにしても、フォロー関係にある人々の大半とはおそらく興味関心が異なってしまっているだろうから、あれをあのままの状態で再開することはほとんど無意味だろう。公用のアカウントもあるから、そちらを閲覧オンリーで利用するということもできるけれど、それでもやはりログイン利用者のカウントを一つ増やしてやるのも癪だ。

  振り返ってみると、あの当時フォロー関係にあって交流の機会をいただいていた方々の中では、香月氏のことが最も深く印象に残っている。twアカウントはすでに消去されて、web検索をしてもその後どうしておられるのかも分からない。もう一度あの方の活動(言動)に触れたいと願っているが、叶いそうにない。


  情報リテラシーの低い人を指す「じょうじゃく」という単語は、どのようなTPOで使ってよいだろうか。私見では、対象に対する侮蔑的ニュアンスが強いので、公平な議論をしたい場合にはNGだし、もちろんディーセントな場面で使ったら顰蹙を受けても仕方ないくらいの言葉だ。元々の言葉を一部略したジャーゴン(あるいはスラング)であるという意味でも、迂闊に使うべきではない言葉だと思う。すでにかなり広汎に普及している言葉なので、何気なく使っている人も多いようだけど、聞いていて(見ていて)気持ちの良いものではない。


  [ nos-project.jp/archives/9579 ]
  こんなことがあったのか。どうやら良い感じに妥結したようだけど……
  [ shop.nos-project.jp/upload/save_image/08211624_599a8abd8bbda.jpg ]
  って、いまどき縞パンかよ! 久しぶりに見たぞ。


  えっ……リアルで恋人や夫婦といったパートナーとするときは、口であれこれいたすのは現在でもけっして普通ではない…よね? それを「異常」と呼ぶかどうかはともかく、多くの女性は通常の場面ではしたがらないものだと思うけど。
  その種のビデオのように、特定の目的のための、特別の手順や様式のある、特殊なパフォーマンスとしてのそれの場合には、そういうシークエンスもあるのかもしれない(実例は全然知らない)けど、それはアダルトゲームのベッドシーンと同様にあくまで作り物(見世物)として行われているのであって、日常生活のための見本になるものではないだろう。あるいは、その種のお店においてサーヴィスとして行われていたりするようだけど……いや、うーん。えーと、そんなことをしているの?
  ちなみに、同性同士であれば、口をそういう部分に接触させるアクションには、機能上の合理性があると思われる。とりわけ互酬的形態でおこなう場合には。


  9000円のBDがどうやらディスク不良のようで視聴できず。
  アニメに対する(八つ当たりな)憤懣がさらに沸々と……。


  ああ、これで「チャンピオン」誌ともお別れかな。約2年ほどのおつきあいだったが。安部氏の作品は単行本で買うし、木々津氏や掛丸氏の新作が出て来たらまた購読するかもしれないが、ひとまずはおしまい。
  それにしても、最終回に来て萌えママ勢揃いとは、とんでもない奇手を出してこられたものだ。


  みなさん、仮想上の素人に対して偉ぶってみせるのが好きなのねー、としか。その大喜利は面白いのだろうかと、試しに自分の中でそれに沿って思考を巡らせ始めるや直ちに、それが非常に嫌らしい優越感と傲慢な攻撃性にまとわりつかれたものになりがちだということに気付くだろう。あのネタに乗っかっている人たちは、いかに架空の存在とはいえ、素人に対していきなり過酷なネタを押しつけようとする自らの思考に対して、抵抗感を持たなかったのだろうか。



  09/04(Mon)
 
  【 立ち絵シーンの表現形態とその評価をめぐって 】
  [ eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2017/01/29/070000 ]。
  E-mote表現の効果についての記事。やや論点のぼやけたところもあるが、首肯できるところも多い。私見では、立ち絵が持ちうる作用は、おおまかには:
- 機能性: スクリプトワークによって、立ち絵表示位置をさまざまに調整して空間表現を行ったり、移動や回転といった動的変化を与えることによってアクション表現を行ったりすることができる(例えば『マブラヴ』『恋色空模様』など)。00年代前半から試みられている。背面立ち絵などのポーズ変化も、機能的表現と組み合わせて用いられる場合がある。
- 象徴性: そのキャラクターがそのシーンに居合わせていることを記号的に示し、およびそのキャラクターの最も典型的なヴィジュアルイメージを象徴的に提示し続ける。ただし実際には、これのみに依存する原始的なアプローチは、主に00年前後のタイトルのみに限られる。それ以前には立ち絵のあり方はシーン毎にかなり自由な、非汎用的なものだったし、00年代半ば以降には立ち絵も大量の差分変化(表情変化からポーズ変化まで)を伴うのが通例になっている。
- 迫真性: 目パチ口パクから全身運動に至るまで、幅のある時間的変化を行うアニメーションを立ち絵に与える。目パチ口パクは、90年代のうちにはすでに試みられている。全身アニメーションは、おおまかに言えば、立ち絵3D化によるアプローチ(例えば『とびでばいん』『タイムリープ』)と、静止画素材を事後的に動かすアプローチ(例えば『まいてつ』『ひまわり!!』)とがある。ただし後者も、アニメーション処理を施すことを見込んで、あらかじめ頭髪や衣服をレイヤー分割しておくのが通例のようである。状況即応性の観点では、立ち絵の差分変化も、90年代からさまざまに用いられている。

  これらの中でも「機能性」と「迫真性」は、どちらも正面静止画のイデアルな記号的象徴的存在表現からの離脱を試みるものではあるが、AVGの表現空間の形成原理としてはしばしば両立困難な性格を持っている。ここから上記の論者は、AVGにおいてはテキストを読み進めることが最も重要であるという認識に基づいて、アニメーション立ち絵の迫真性を捨てて記号的静止画の象徴性に留まるべきことを示唆する。
  ただし、このような整理から分かるように、いくつかの疑問の余地のある(あるいは少なくとも、慎重な[再]検討のうえで決せられるべき)議論が含まれている。すなわち:「ノベルゲームというのは『テキスト』ありきの媒体である」というテキスト優位イデオロギーははたして正しいか? アニメーションによる立ち絵存在の具象化は、その象徴性との間でのすり合わせをコントロールでき(てい)ないのだろうか? 「具象化する世界観と、シンボリックな世界観」という一軸だけではなく、視野を広げてフレームワークを複雑にすることで、もっと精緻な評価が得られるのではないか?(上記記事でも『つよきすFESTIVAL』『恋色空模様』に言及されているが、余談扱いに留まっている) 立ち絵アニメーションに対する評価は、それと並んで一枚絵シーンが現れることと合わせて、一作品内で総合的に考えるべきではないか?

  特に気になるのは、E-mote(およびそれに類似するアニメーション化技術)全体を一枚岩のように捉えすぎている点だ。E-moteはあくまで特定の表現のために利用できる「技術」のパッケージにすぎず、最終的な「表現」そのものではないし、個々の作品における使われ方もかなり異なっている(例えば使用場面の選択、台詞とのすり合わせ、スキップ時の仕様など、個々のメーカーによる手の加え方によってかなり異なる)。とりわけ芸術作品においては、技術単体では、価値的評価をすることはできない。個別作品における個別的な達成とその特有の現れを語る中でこそ、適切に行われる。あるいは、個別「作品」ではなく「技術」一般の次元で論じようとする場合にも、それがまさに「技術」の問題である以上、技術の巧拙または技術の使い方の巧拙の問題にならざるを得ない。技術はあくまで形式的なものであって、特定の結果を自動的確定的に保障するものではないし、その技術適用のされ方(技術の使い方の技術)が問われねばならないからだ。
  同じような立ち絵アニメーション化アプローチでも、例えば『ひまわり!!』は、非常に細やかに、しかもヴァリエーション豊かにアニメーション処理を施している例もある。ここでは、立ち絵の運動それ自体はそれほど派手ではなく、テキストを読み進めるのを妨げることもほとんど無く、それでいてキャラクターの呼吸を感じさせるような動きが立ち絵に満ち満ちている。また、一枚絵シーン(におけるアニメーション化)と歩調を合わせて、作品全体の手触りを一貫したものにしているという側面もあるだろう。
  また、『タイムリープ』は、3D空間でダイナミックな立ち絵アニメーションを行わせている。頭髪や瞬きのアニメーションだけではなく、胴体を反らしたり腕を組み替えたりといった大きな動きを取り入れることが可能になったのは、3D立ち絵特有のアドヴァンテージであり、それ自体がキャラクターの魅力と視覚的な楽しさを存分に提供している。ここでは作品の画面構成原理は因習的な読み物AVGのスタイルを離れつつあり、したがって一般的な読み物AVGに関する保守的な見方のみを基準にしては、本作の個性や意義を適切に評価することは難しいだろう。
  もちろん、これらとは異なって、退屈な立ち絵アニメーションもある。しかし、それらの個別的失敗は、あくまでそれら個別作品の演出上の失敗に帰せられるべきであってであって、それらをE-mote的アプローチ全体の否定的評価と同一視するのは誤りである。
  しかるに上記記事では、1)E-mote単体を取り上げ、2)各作品を等し並みに扱い、3)ポジティヴな作用をほとんど語らず否定的側面ばかりを羅列している。それはそれで一つの論点設定だが、議論全体が非常に一面的であるため、E-moteの評価として鵜呑みにすることはできないし、また、AVGの画面構成に関する議論としてもごく限定的なものであることに留意しなければいけない。

  そもそも「立ち絵アニメーションはテキストを読み進めるうえで妨げになる」というのも、「立ち絵アニメーションはパターン化されていて退屈である」というのも、上記論者の、いわば個人の主観にすぎない。邪魔になるというユーザーもいるが、まったく邪魔にならないというゲーマーも多いだろうし、それどころか立ち絵アニメーションそれ自体の魅力を語る者も多い。立ち絵アニメーションは、(上記論者がおそらく考えているような)単なる余計なデコレーションなどではなく、それ自体が多くのユーザーの体験の中に、確かに優れた価値を創出しているのだ。立ち絵アニメーションの意義や可能性を考えるうえで、この点は無視することができない。私見では、上記論者のテキスト優位イデオロギーが、立ち絵アニメーションの肯定的意義を見失わせているように思われる。そもそも、現代のAVG作品は、視覚的表現と文字表現が組み合わさった表現空間なのであって、ここで後者のために前者を制約させるのはかなり説明を要するバランスを欠いた立場だろう。また、立ち絵振り付けの不自然さを指摘するのも、素朴にすぎる。類似のジャンルとして、長い歴史のある舞台演劇を想起すれば分かるように、一つ一つの表現空間、一つ一つの表現ジャンル、一つ一つの表現メディアにおいて、「自然さ」や「リアリティ」の共通了解は、現実を基準とした所与として「在る」ものではなく「作り出される」ものであり、しかもその都度さまざまな形態にチューニングされるものだ。立ち絵アニメーションが具象的リアリティを増すがゆえに「テキストと立ち絵の齟齬」が生じるという所論は、「筆者はその様式を受け入れていない」という個人的な意見の表明に還元されるものにすぎないのではないか。上記論者はアニメーション化に対する否定的認識の妥当性をあまり自省していないようだが、そもそもその結論それ自体が必ずしも広く受け入れられるものではないということがきちんと認識されねばならない。

  思いつくところを雑多に書いたけど、だいたいこんな感じ。
  なお、ここでは立ち絵シーンのみに議論が絞り込まれているようなので深くは論じないが、一枚絵シーン(とりわけアダルトシーン)におけるアニメーション化はきわめて大きな意味を持つ。どちらかといえば、より重要なのは一枚絵アニメーションだし、歴史的にも一枚絵アニメーションの方が先行していた。また、テキストとアニメーションの関係では、『School Days』シリーズのようなほぼ完全なアニメーション作品をどのように評価するかも問題になってくる筈だが、上記記事では触れられていない。

  特にアダルトシーン表現にとって、ゲーム画面のアニメーション化がきわめて効果的なものであることは早くから認識されており、たしか『Answer Dead』(2005)の頃から、製品版レベルでの静止画一枚絵の(一部)アニメーション化処理の試みは現れていた。それは、例えば『朱』(2003)のように、あらかじめ別途作成された動画素材を特定のシーンでのみ挿入するというものであったり、あるいは『R.U.R.U.R』(2007)のように一枚絵をレイヤー分割してそれらをスクリプトで組み合わせる(別個にスクロールやズーミングを施す)ことによって擬似的にアニメーション化するものであったりと、採用される技法はさまざまであったが、それらがアダルトゲーム業界の共通了解においてAVGの将来像として肯定的に捉えられていたのはおそらく間違いないだろう。
  しかしそのアプローチには、アニメーションのクオリティそれ自体の問題と並んで、立ち絵シーンとの演出的整合性の問題が立ち現れてくる。重要なのは後者の論点だ。立ち絵シーンと一枚絵シーンの落差は、埋めるべきなのか。立ち絵シーンと一枚絵シーンには、それぞれいかなる位置価が与えられるべきなのか。コスト配分の観点では、それぞれをどのように捉えるべきなのか。

  おおまかに私見を述べると、立ち絵シーンは、
1)元々(90年代前半まで)はゲーム作品においてはキャラクターと会話するための標準的インターフェイスであった。多数の実例に代えて、例えば『同級生』(1992)。
  2)しかし、90年代半ば以降になると、背景全画面化と相俟って、キャラクターの存在を強力にアピールするための機会になった。『雫』(1996)から『KANON』(1999)の時期。
  3)さらに、90年代末からアダルトPCゲームへの新規参入が爆発的に増加した中で、低コストで制作しやすいAVG形式の見本として多用された時期には、おそらく汎用素材の使い回しによって間を保たせられるという側面も大きかっただろう。
  4)それに対して、00年代半ば以降、スクリプト演出による視覚表現の拡充が試みられるにつれて、立ち絵シーンはむしろ手間の掛かるパートになってきている。『マブラヴ』(2003)、『巫女さん細腕繁盛記』[2004]、『ウィズ アニバーサリィー』(2006)、等々。PCディスプレイのワイド化も、おそらく間接的にこの傾向に拍車を掛けたと思われる。
  5)そして00年代後半になると、とりわけ白箱系フルプライスでは立ち絵のポーズ差分や服装差分がさらに増大し、
  6)10年代に入ると、ここで問題とされた立ち絵アニメーション化の潮流が本格化する。

  その一方で、一枚絵シーンの位置づけも、おそらく時代とともに(技術とともに、様式とともに、ゲーム文化とともに)様々に変化してきた。目標達成に対する褒賞(としてのエロCG)という原始的な形態から、視覚表現のワンオブゼムであった時代、高精細で魅力的な最先端の全画面デジタル画像として「AVGの華」となった時代、白箱系のアダルト要素強化に伴ってアダルトシーンに大きく枚数を割かれるようになった時代、立ち絵シーンがスクリプト演出によって豊かな視覚的変化を持つようになったのに対して固定的な画面進行のパートと見做されてしまう時代、そして一枚絵配分の体系化と一枚絵枚数の減少傾向が進んでふたたびゲーム表現のワンオブゼムとなった現代に至るまで、一枚絵が個々のゲーム作品(あるいはそれぞれの時代)にとってどのような効果を持つように置かれているかを遡って慎重に評価する必要がある。

  ともあれ、そうした中で、「一枚絵シーン(アダルトシーン)はアニメーション化するが立ち絵シーンは静止画のままである」様式、あるいは「一枚絵シーンも立ち絵シーンも同じように動かす」スタイル、「一枚絵シーンは固定的だが立ち絵シーンはスクリプトで動かす」アプローチ、等々はそれぞれAVG作品の文体(style)としてどのような説得力を持ち得るのだろうか。立ち絵シーンの巧拙や有効性は、当該作品の様式把握を前提とすることなしには評価できない。つまり、少なくとも、一枚絵シーンとの整合性如何という問を無視しては進めることができない。この問に向き合うことなしには、立ち絵シーンのアニメーション化に対する評価は簡単には決せられまい。

  私が以前から考えている論点の一つは、「AVGの視覚表現は、厚みのある時間的継起をどのように扱うべきか、あるいはどのように取り込んでいくことができるか」というものだ。機械的機能的にきびきびと切り替わっていく高速なメディアとしての立ち絵画像+背景画像のモンタージュとしてのゲーム画面が、次第に時間的な厚みのある表現様式を取り込むようになってきた。例えばオート進行演出、動画素材挿入、立ち絵のスクリプトアクション、そして静止画のアニメーション化、そしてもちろん本職声優による音声の付与。コンピュータAVGが、ユーザーのクリック操作に従って瞬間瞬間に切り替わっていくデジタルなものであるのか(そう捉えるのか、それを求めるのか)、それとも自らのうちに固有の時間の流れを持つ表現媒体としての性格を強めていくのか(それを肯定するか、それを求めるのか、その先には何があるのか)。

  こういったことをいろいろ考えてきているし、いくつもの各論的記事を著してきているのだが、特定の論点できれいに切り取って整理された記事にするのは難しく、なかなか成果は上がらない。とりあえず、上の記事のように否定的評価ばかりで書かれると、「そうでもないだろう」「それだけではないだろう」といろいろなことを言いたくなる。

  イラストCGのアニメーション化の問題圏は、2010年代も終わりつつあるこの現代のアダルトゲーム分野にとって、きわめて重要な論点の一つであることは間違いない。ユーザーやクリエイターたちが十分に議論を交わして、そうして深められた内容を、きちんとした蓄積にしてつなげていってほしい。誰かがそういう仕事をしてくれたらいいのだが……。私自身は、こんなふうにいろいろ書き綴ってここまでやってきたけれど、そういう役割を果たせるような条件には(もはや、あるいは、そもそも)ないだろう。


  『ジョーズ』でインディアナポリス事件が回想されるシーンは、その場面の雰囲気の重苦しさもあり、強く印象に残っている。作品全体としても面白くて、DVDをたまに――たぶん年一回くらいは――再視聴している。さすがに黒板キーキーのシーンは飛ばすけど。40年以上前の映画が現在でも鑑賞に堪えるのは、ストーリーやシチュエーションだけではなく、映像それ自体の面白さがあってこそだろう。レイアウトの巧みさや、印象的なカット、そして音響表現、等々。
  インディアナポリス(巡洋艦)は、見た目はそれほど好みでないので、プラモは作っていない。


  STPは100回あたりからすでに失礼で下品で卑猥な投稿者たちが何人も混じっていて、聴き返すだにがっかりさせられる。ただし、彼等(たぶんそれらは全員男性だろう)自身はべつに本性邪悪でもなければ品性低劣でもない…のかもしれない。ただ単に、笑いを提供するネタとして卑猥な冗談くらいしか思いつくことができないとか、あるいはただ単に、他人とのコミュニケーションを取ろうとする際に、だれか一人を貶めてネタにするというやり方しか知らない(人生の中でそれしか学んでいない)ということはあり得るからだ。だから、しょぼくて失礼で下品な投稿文に接しても、怒ったりするのではなく、当人が辿らざるを得なかった人生航路の悲惨な貧しさに憐憫の念を…ってそんなことできるかい! おそらく18歳以上であろう、自立しているはずの大人に対して、その哀れみは失礼だし、そしてまた、大人であるならば、自らの無知や愚かさそれ自体は非難されないとしてもそこから他人に対してセクハラや侮辱のような害悪がもたらされるならば憐憫をもって答責に代えるのではなく自らその責任を引き受けなければならないからだ。
  以前にサイトの方でラジオ概要記事を作成していた頃は、「いかなる当事者も絶対的に平等に扱わねばならない」「情報的価値を目指すかぎり、客観的に(道徳的判断抜きに)記述しなければならない」「ひとの名前を記載することすら排除するのはあまりにも過大過酷なリアクションである」と考えて、嫌いなリスナーの名前もきちんと記載していた。しかし最近では、「私のブログにこいつらの名前の文字列がある」という状況があまりにも不快であり、またストイックな公共的公平性に対する意志がずいぶん弱まったこともあって、私が個人的道徳的に肯定できない投稿をしている人物はどんどん省略するようになった(「~ほか」と濁して書くようにした)。

  パーソナリティたちが名前を読み上げるのに明らかに躊躇している下品な(マゾ云々とか)投稿ネームを名乗ったり、好きな異性のタイプを尋ねるとか下着はどうでしたかと尋ねるとかいったパーソナルな(しかも恋愛や性的事情に関わる)質問を投げかけたり、「○○さんは可愛いですね、ああ、△△さんはどうでもいいです」のようなユーモアのつもりでただ単に失礼なメッセージを出したり、エロネタのCM案を投稿したり……まあ、「非常識な危険人物」カテゴリーに入れられるレベルの連中だよね、こいつら……。中学生男子ですら、実生活でやらかしたら許されるかどうかギリギリの言動ばかりで、本当に悲しい気分になる。

  そういう連中の存在が、けっして特定のラジオのみの異常事態ではないであろうということは、例えばSNSで有名人の投稿に付いていくる大量のアレなリアクション群を見るだけでも察せられる。芸能人やアイドルなど、あるいは場合によっては声優や作家でも、つまり名前及び顔が露出する個人の属人的側面が少なからぬウェイトをもって注目されがちであり、なおかつ、不特定多数の受け手からのリアクションを受け入れる双方向的回路を備えているようなコンテンツでは、おそらくほとんどどこでも、この種の事態が生じてしまっているのだろう。



  09/03(Sun)
  こみトレは、2時間半ほどでひととおり回りきれた。いろいろ買っても良かったのだが、自力で持ち運べる範囲に抑えた。帰宅してから数えてみたら、約40冊だった。たしか今年1月のこみトレには参加していなかったし、その分(既刊購入)も含めて考えればだいたいこんなものだろう。

  あ、そういえば、亜方氏のサークルスペースで『こころリスタ!』の卯衣氏の芝居の素晴らしさを激賞してくるのを忘れていた!(※迷惑客にならないようにしましょう)
  声優さんの話といえば、昨年のこみトレで内藤氏に萌花ちょこヴォイスの魅力を語ってきたのを思い出した。その件が今作での主演抜擢につながった…と信じるほど単純でもなく傲慢でもないが、そういうお話をしたことでなにかしら運命が良い方向につながったのだとしたら嬉しい。


  ついでにマウスも4つ(4台? 4本? 4個?)買い足してきた。それぞれ感触を試して、使い勝手を比較しつつ適当な物思いに耽るのは、毛筆を使い比べるような、あるいはB級グルメ論評のような、なんとも言えないびみょーな味わいがある。


  【 (アダルトゲーム関係の)webラジオ回顧 】
  ベタな話題だけど、webラジオ遍歴を振り返ってみる。
  STP&胃~之煮(2006-)、「奈々転抜刀」(2006-08)と「奈々不思議」(2009-11)、「うたわれるものらじお」(2006-07)あたりが出発点だったように思う。時期的に「がっちゅ」(2002-05)は間に合っていなかった。「はにはにラジオ」(2004-06)も後から聴いただけ。
  00年代後半からは「アイチョ」(2008-14)もずっと聴いていた。「こいそらじお」(2009-11)シリーズと「中目黒わくわくモンキーパーク」(2008-09)も継続的に聴いていた。「ギャコラジ」(2007-10)、「ぷらてぃあ」(2007-08)、「Radio ToHeart2」(2005-08)&「生徒会会長ラジオ」(2008-12/14-15)は、聴いたり聴かなかったりでそれほど忠実なリスナーではなかった。「セリオン学園」(2007-09)&「てことで」は途中から。「ないある」(2008-)、「happy light cafe」(2008-)、「恋姫†無双」(2008-10)、「ギミーシェルター」(2009-)はほんのちょっとだけ。
  10年代に入ると、「しゅな*GIMO(仮)らぶ*しゅな」(2010-14)は聴いていたが、さくらじ(2013-14)、ALcotラジオ(2013-)、エリソデ(2016-)、先史文明(2016-)、こすずの小部屋(2016-)は、いずれも途中で聴くのを止めてしまった。最近は生放送媒体が多く、そういうのには付き合っていられない。どうしてこのデジタル時代に、コンテンツ享受に際して自分の私生活の特定の時間を拘束されなければいけないのか。不合理だ。
  一年以上続いたwebラジオでいえば、だいたいこんな感じで付き合ってきた。これらの他に(アダルト)ゲーム関連以外のオタク系ラジオも、いくらか聴いている。

  はにはにラジオやアイチョやモンキーパークも、web検索やtw検索をしてみると、最近でも言及している方がわりといらっしゃるようだ。リスナーの「心に残る」というのはこういうことだろう。

  「恋姫†夢想」はまたラジオを(短い期間のみながら)再開していたようだ。お酒トークで話題に上がった、酒癖のよろしくないらしい「しゅんらん」さんとは……えーと、あー、あの方か。みる氏も乃嶋氏も、その飲みっぷり(呑まれっぷり)を重々理解しておられるらしき雰囲気が……。



  09/01(Fri)
  京都に進学してくるまではほとんど食べたことが無かったが、実家の方では「大判焼き」と呼んでいたような気がする。こちらに来てからも、2~3回くらいしか食べたことが無い。
  大阪西部(?)から兵庫にかけては「御座候」と呼ぶことが多いようで、ただしこれはwkpdによれば元々は会社名なのだそうだ(※もちろん現在もこれを販売している)。「御座候」という呼称には一つ罠があって、大学の講義で「初登校」「大好評」のようなアクセントで「ござそうろう」と呼んだら学生からツッコまれた痛い思い出がある。現地の人たちは「前総統」「我が闘争」のような抑揚で頭高に「ござそうろう」と呼んでいる。


  [ nora-anime.net/story/story-06.html ]
  ……ヤギ動画? 視聴していないけど、いったい何が起きたんだろう?
  そういえば同じくショートアニメの『だぶるじぇい』も、切り子細工工場の実写動画になったりしてましたよね。奇しくもこちらの作品も大橋氏が出演(主演)されていたという……。


  【 STP/胃~之煮をふりかえって 】
  DVDが届いたのをきっかけに、STPを(高音質版で)何年かぶりに聴いている。トークもCMも全体の雰囲気もかなり違って聞こえるし、以前は気付いていなかったニュアンスや聞きとれていなかった音も分かるようになっている。web版と聞き比べてみると、高音質のおかげではなく、どうやらヘッドフォンのおかげのようだ。あと、オタク的知識が蓄積してきたおかげか、「この台詞はあれが元ネタか」と気付いたところも増えた。

  もちろん、最も素晴らしいのはその面白さだ。以前にも書いたが、
1) 専門的訓練を受けている本職の声優たちが、
2) しかも7人(現在は6人)も参加して、
3) 出資者抜きに、つまり内容上の拘束を受けず、宣伝抜きに、そして完全に自発的に、
4) 完全無料のwebコンテンツとして(バックナンバーも大量に聴ける)、
5) お色気や政治ネタなどに頼らず(そういう路線が駄目だというわけではないが)、
6) きわめて自由ではあるが、中國氏や浅井氏のおかげもあってまっとうなクオリティで、
7) 週刊ペースで丸十年も継続している、
というのは、webラジオとして文字通り類を見ない。そして、これらの条件(自発性と仲の良さ、10年間の経験と成長、等々)からもたらされて、トークの内容も本当に面白いのだ。

  どのくらい注目されているか分からないが、中國卓郎氏は物凄い人物だと思う。精神的に若々しくて好奇心旺盛で、ゲームやプラモからプロレス、ランニング、アイドルグループまでさまざまな趣味を持っておられ、そしてそれらを楽しいラジオトークとして表現することもできる。ゲームひとつ取っても、昔のタイトルのこともよく憶えていてすぐにネタが出てくるし(それだけ本気に熱中していたということだろう)、その一方で最新のタイトルにもどんどん食いついていっている。毎週ペースで500回以上ラジオを続けても、まるでネタ切れしていない(同じ話を繰り返すこともほとんど無い)。
  また、トークも流暢で知的だし、話の運びもクリアだし、多人数のいるトークもきれいに仕切られるし、台本の無いアドリブトークもやたら上手いし、メール投稿を管理して適切なところですぐに出してこられる管理能力も凄い。プロの声優でも、ラジオトークやフリートークになると、会話のタイミングがバタバタしたり、言葉がスムーズに出てこなかったり、トークのネタが乏しかったり、トークの最中に気力が切れたりすることは、よくある(よく耳にする)ものだ。中國氏の場合、気心の知れた仲間同士という条件があるにしても、あの笹島氏を含む個性的な面々の間できわめてスムーズにトークの舵取りをしていけるというのは、やはり只者ではない。
  STP/胃~之煮を長く聴いていると、ついついこれが普通だと思ってしまいがちだが、一般的な声優ラジオと比べても、水準を大きく超えているのだ。内容の密度と多様性も、進行とトークの円滑さも、そして(私の主観としては)面白さも。私自身は、ほんのちょっとした偶然で、たしかSTPの第20回あたりから聴き始めていたが、このラジオに出会えたのは人生の大きな幸運であり、そして大きな幸せになっている。


  (→10月8月