07/29(Sun)
オタク系イラストレーターと組んでフィギュアを作る流れが、今年に入ってからかなり顕著になりつつあるのかな。00年代からも、大槍氏やTONY氏のオリジナルイラストを立体化するものはあったが、当時はそれほど大きな動きではなかった。最近の流行(?)は:
- フィギュアの高額化。売れにくくなっているので、イラストレーターの人気と魅力を活用する。
- 版権ものは扱いが難しい(手続が面倒だと販売手段も制約される)ため、それを嫌って。
- 個人、SOHO、小規模メーカーによる機動的なフィギュア企画立案のアプローチ。
- 技術向上により、イラストの特徴をうまく掬い取るフィギュアが作れるようになった(再現度)。
- オリジナルフィギュアをデザインするのに、イラストレーターの力を借りられる。
- 優秀で魅力のあるイラストレーターに出会える機会が飛躍的に増えた。
といったあたりだろうか。
いずれにせよ、当事者それぞれが得をする関係になっていると思う。
フィギュアメーカーとしては、魅力ある原画(設定画)を比較的容易に入手できるし、イラストレーター人気によるセールスもそれなりに期待できる。基本的に単発の企画なので、もしも何かあった場合でも尾を引かない。
イラストレーター:露出の大きい仕事であり、自身の知名度を上げてくれる。作業量もそれほど大きな負担ではないだろう。自分の絵が立体化されるのは嬉しいと思う人が多いだろうし、立体化作業に付き合うことはイラストレーターとしての良い経験にもなる。仮にフィギュアの品質や売上が芳しくないとしても、イラストレーター自身には被害は生じない。
ユーザーとしては、魅力のあるオリジナルフィギュアに出会える機会があるという意味で、好ましい状況だろう。注目しているイラストレーターの絵が立体化されるのであれば尚更だ。
[ comic-meteor.jp/kagaku/ ]
今回の『カガクチョップ』(#64)は素晴らしい出来映え。最初のネタの掴みはたいへんキャッチーなところから始まって、角張ったVOXEL化キャラが笑いを誘い、そこから自然にブロック分解へと話を進めていく。もちろん、人体そのものを文字通り解体しているわけだが、ブロック化という視覚的操作によって問題をすり抜けているのが上手い。
その後、組み直しの失敗は『キルミーベイベー』にも類似ネタがあった(7巻85頁以下)が、今回は
そして8ページ目以降は急転直下にいつものグロ趣味へ傾斜していくが、単純な露悪的グロには終わらず、脳髄分解や心臓咀嚼という奇想天外なネタで畳みかけてくる(※ただしこれらもブロック状のまま)。そして最後は崩壊と放心のカタルシス。
豊富なアイデアをうまく縒り合わせた密度の高い不条理コメディは、直近数回の連載の中でも特に秀逸だろう。#63は人食いトイレが単調だし、#62は人体プレスが特殊嗜好すぎるし、#61の焼き鳥生物は笑いどころが難しい。
そういえば、『キルミーベイベー』BD-BOXのディスク面に展開されている7コマ漫画でも、やすながブロック状態になっていた(※ディスクが7枚あるから7コマ漫画)。ちなみに、BD「ボックス」版だからボックス状になっているという、ちょっ分かりにくいメタネタ。ソーニャはソーニャで、手から青い光線が出るようになっているのは、まさに「ブルーレイ」BOXだから。
[ denkigai.mobile-order.jp/products/detail.php?product_id=1613 ](※年齢制限コンテンツ)
[ denkigai.mobile-order.jp/products/detail.php?product_id=1614 ]( 〃 )
紅村さん、なんというTシャツを……。こんなの着たら社会的に死ぬぞ……と恐れ戦いたが、一覧ページには「※外出時周囲の人に見える着用はお控えください。部屋着としてのご使用を推奨いたします。」とあって、ちょっと安心した。
07/26(Thu)
雷雨の気配があったので、急いでゲームを終了してPCを閉じ、読書とプラモにうち興じる。
異体字や旧字/新字はどこまで忠実に扱うべきか、よく分からない。誤解が無いかぎり、ひとまとめに適当に書いてしまいたいところだが……。特にデジタル環境では、表示できる文字に制約があるため、ある程度はやむを得ない場面もあるだろう。しかしそれはツール側の事情にすぎないのだから、一つの文字を、一人の名前を、勝手に改変してよい理由にはならない。文字は文化であり、名前は人のアイデンティティおよび尊厳と結びついているのだから。
とりわけ人名の場合に、例えば「齊(斎)」藤さんや渡「邊(辺)」さん、あるいは赤「﨑(崎)」さんや種「﨑(崎)」さんの文字を正確に書かないことが、どのくらい失礼に当たるのか、よく分からない。私自身、自分の名前をちょっと違ったように書かれてムッとしたことはあるので、デリケートな問題なのだろうなとは思う。「遥」そら氏の漢字はたまに迷う。「遙」ではなく「遥」のようだ。「眞紀」さんや「眞子」さんを「真紀」「真子」と書いたり、あるいは「米澤」さんを「米沢」と書いたりするのは、よろしくないだろう。さすがに沢澤さんを「沢沢」とするわけにはいくまいが。
実生活上の現実的問題としては、留学生の名前の表記に際して困ることがある。できるかぎり本人の申告どおりの表記にしたいが、文字コードやフォントが対応していない環境になる場合もある(下手をするとただの空欄になってしまって、完全に読めなくなるのはマズい)からだ。
デジタル環境では、検索に際して異体字が自動的にカヴァーされるわけではないから、正確にその文字でなければ検索ヒットしない(あるいは同一人物だと認識されない)という危険がある。その意味では、異体字を識別して正しく書くかどうかは、書類上クリティカルな問題を生じる可能性がある。日常の文章や、あるいは当人が読まない文章であれば、構わないのだけど。
FAVORITE新作か……今度もまた、背景美術がとんでもないことになるのだろうから、期待して発売を待とう。
このブログでは、現実的なあれこれに言及するのは極力控えよう。とりわけ、世の中の不幸や邪悪に関することどもに関しては。そういう話は、できるだけ別のところですることにしよう。そしてここでは、ひたすら楽しい清談に――つまり趣味の話題に――没頭したい。
というわけで、翌日さっそくガラヤカたんを買ってきた。帰宅途中に立ち寄れる範囲の店頭にたまたま置いてあったので、これ幸いと購入した(売価もネット通販並に安かった)。開封してみたら、さすがはスケールモデル系メーカー、パーツの色分けはほとんどなされておらず、塗装と大量のデカールで再現させる仕様だった。これはかなりの手間が掛かりそうだ。
ネットイラストを見ていて、へー、あの大橋さんのキャラは「アマレット」というのか(名前があったのか)と知ったが、さらにweb検索してみるとどうやら事態は単純ではなく、いろいろ情報と解釈が錯綜しているようだ。
OVAでの、前髪を左側に流していて、後ろは短いポニテのようにしているキャラは、冒頭(アバン)で「なーんだとー!」と息巻いたりしているのも、エピローグ(Cパート)で「横断幕も持ってきた!」と嬉しそうに喋っているのも、どちらも確かに大橋氏と聞こえる(※私の耳では)。ただし、このキャラクターが試合中に人物を特定できる仕方で登場していたかは分からない。少なくとも私が視聴した時は、登場に気づいていない。声か姿が、どこかに出ていたのか?
その一方、「アマレット」と名付けられたドラマCDのキャラクターがいるらしいが、それが上記OVAのキャラと同一人物であるかどうかは、確定していない…のかな。
山本氏は……あまり聴いたことが無いので、どんな役者さんかよく分からない。
車の人ならぬフルーツの人?
「コミック高」という雑誌は、名前だけは聞いたことがあって、なんだか抽象的でイメージを掴みにくい名前だなあととぼんやり思っていたが、あー、「『高』校生」の意味なのか。
わりと使いどころの無そうなオタク知識をまた一つ獲得してしまったが、いや、オタク界隈では案外使いどころがあるかもしれない……いやいや、わざわざこの雑誌が話題に出るような場面であれば、相手もそのくらいは知っているだろうから、やはり自分から能動的にこの知識を活用する場面は無さそうだ。せいぜい「これに関する嘘には騙されなくなる」という程度だろうか。
はたと気づいた。私には「特に好きなキャラ」はいるのだろうか。あるいは、最近の表現でいえば「推し」(周囲に対してレコメンドしたり知人にプッシュしたりゲーム内でサポートしたりする対象)は、いるのだろうか。そういう意味での存在は、たぶんいない。
ファッションやキャラデザが特に気に入っているキャラクターとか、作中での言動が特に印象に残っているキャラクターとか、中の人が素晴らしい芝居をしていたキャラクターとか、特別に愛くるしさを覚える萌えキャラとかはいるけれど、それらは芸術的な享受の範疇の出来事であって、人格的な愛着のようなものではないし、ましてや「推す」という対外的活動に結びつくようなことは何もしていない。(日常的に交流するオタク友達がいないだけ、とか言わない。)
『巣作り』の連隊長クーは素晴らしいキャラで、今この思考の中でまっさきに頭に浮かんだ存在だったけど、機知に富んだ会話や契約相手の駆け引きの上手さ、春野(松永)ヴォイスの明るく柔和な雰囲気をひとまとめにした感興に存するものであって、この気持ちを誰かと分かち合いたいというようなものではない。純真路乃や一之瀬響は、脚本家とCGスタッフと声優が作り上げた人間像の面白さだが、それを作品から抽出してキャラだけを云々するのは難しい。アニメだと、サーニャはたいへん愛らしいキャラだけど、外見の好みと声優さんの個性に対するアフェクションであって、家族ネタとかは辛気くさいと思っていたりする。荻野目桃果も、作品としての演出全体の中で立ち現れてくる劇的な虚構存在としてのインパクトだ。手許のフィギュアたちも、造形美を楽しんだり眼鏡を掛けさせたりファッションコーディネートの素材にしたり眼鏡を掛けさせたりするのが主目的になっているし、そこにはやはり内面のアイデンティティは見出されない。原作のあるキャラクターですら、立体物は立体物として切り分けて鑑賞している。
ああ、そういえば、星野歩くんは良かったなあ……。(ショタかよ)
まあ、ソーシャルゲームなどで、キャラ絵一枚とほんの十数種類の科白だけの素材から、イマジネーションを爆発的に展開するほど熱中するようになる、というのは、いわば古式ゆかしき一目惚れのようなもので、たいへん雅で粋で乙な文化だと思うけど、私はそういう感性をあんまり持ち合わせていない。
「このキャラ可愛いー!」と惚れ込んだり、「この二人の関係を一日中想像していても全然飽きない」と熱中したり、「このキャラの魅力に少しでも近づきたい」と大量のイラストを描いたりする、そういうパッションを持てる人たちは、素晴らしいし、凄いことだと思う。私はロジックに熱中するタイプなので、そういったのめり込みにはなかなか馴染まない。
07/22(Sun)
【 カントク氏の絵に思うこと 】
黒目の中央(つまり瞳孔)に黒点を描き込むカントク氏の流儀は、10年代前半から中頃に掛けて大いに流行したが、10年代後半のうちに急速に退潮したようだ。10年代末の現在では、もっとデリケートに黒目の複雑な色合いを描き込むか、あるいは瞳孔の黒点を描く場合でも、あまり目立ちすぎないように、色合いを控えめにしたり、周囲の黒目部分と馴染むようにしているのが多いように見受けられる。
当時は、90年代末から00年代のみつみ風モデルに対する新機軸になるのかという気配もあったのだが、結局はスタンダードの地位を確立することもなく、短期間の実験に終わったようだ。そもそも、何故あのような描き方が流行したのか、見当も付かないが(――個人的には、あの黒ポチは目立ちすぎて目障りだし、絵としても作為的だし、キャラクターの視線が見えづらくなるしで、わりと気持ち悪い表現だったので、瞳孔描写がマイルドになってきたのは歓迎している)。
ただし、瞳孔部分をなんらかの仕方で表現するというスタイルそれ自体は、ゲームCGから同人界まで、広汎に普及している。アダルトゲーム分野では、例えばかんなぎれい氏や、こうぐちもと氏、うすめ四郎氏あたりは、最近でもかなり強めの瞳孔表現をしている。彼等の絵は、目と瞳(黒目)が大きくて、瞳の色をカラフルに彩色しており、そのうえで瞳孔を真っ黒に描き込むので、黒点がたいへん目立つ。
サンプルとして:[ www.getchu.com/brandnew/821213/c821213package.jpg ]
目の中央の小さな黒点は、「瞳孔」だと解するしかないものだが、それにしてはやけに小さく縮こまっていて、どうも落ち着かない。また、周囲の黒目部分はかなり明るい色で、かなりフラットに塗られているのに、この瞳孔部分は真っ黒なので、明らかに浮いている。正面から見据えるアングルだと、黒点が激しく自己主張するし、その一方、斜めの角度や視線を逸らしている絵だと、視線の向きが分かりにくくなる。例:[ www.getchu.com/brandnew/821213/c821213sample7.jpg ]
2018年現在のオタク絵の最先端の流儀では、黒目部分全体にもっと複雑な輝きを描き込んでいる。そして瞳孔表現も、その中にうまく解消されている。あるいは、もっと大ぶりに、瞳の中央の濃い円形として描いて、安定感のある表情を作っている。たしかにカントク氏の絵は、2018年現在の様式に大きな影響を与えているが、それはあくまで過渡期的なものであったという評価に収まるのではなかろうか。
もう一つ思ったことだが、この黒点瞳孔は、3Dアニメーションとの相性が良くなかったという側面もあるかもしれない。黒点瞳孔はかなり目立つうえ、視線の向きを意識させがちなのだが、3Dモデリングのキャラクターをアニメーションさせる際には、これが妨げになる可能性がある。キャラクターの表情変化を見せるには、黒点瞳孔をちゃんと動かさなければいけない(そうしなければ、虚ろな視線になってしまいかねない)のだが、両目を自然なかたちで動かすのは手間が掛かる。その意味でも、このカントク風の黒点瞳孔デザインはかなり扱いづらいのではなかろうか(――あるいは2D作画のアニメーションでも、同じような事情があるかもしれない)。
カントク氏の黒点瞳孔スタイルは、絵を見てまず最初にキャラクターの目に意識を向けさせるという意味では、たいへん強力なものだろう。鑑賞者の視線を引き付けるアイキャッチ効果という観点で、非常に興味深い。これらのイラストを見る者は、否応なしにキャラクターの「目」に引き付けられる。どこを見ればよいのかが分かりやすい絵だとも言える。そして、キャラクターの目を(つまり顔面とその表情を)見たうえで、あらためてイラスト全体をゆっくり鑑賞していくことができる。カントク氏の服飾デザインとCUBEブランドの着彩は、そうした鑑賞に堪えるだけの厚みを備えていた。しかし、10年代後半ば以降のオタク界隈では、キャンバス全体をどぎつく派手に描き込むソーシャルゲーム風のイラストと、素肌の肉感性を強調していくネットイラスト風~同人風のスタイルの双方に挟まれて、黒点瞳孔の一点集中アイキャッチはあまりに素朴であり、また、シックな服飾のクラシシズムは押し出しが弱すぎた……ということなのかもしれない。
ところで、最近のカントク氏のお仕事は存じ上げない。アダルトゲーム原画は2014年の『恋する彼女の不器用な舞台』から新作が出ていないが、最近はいくつかのLNイラスト(表紙と挿絵)を継続的に描いているようだ。
2000字足らずの文章だし、ポジティヴな話でもないから、単独記事にするほどではないか。
桃組だけでなく、黄組も若手世代の育成に成功しているとは言いがたいし、AGPrやPrFtやPwrRsもそれほど大きなプレゼンスを持っているわけではないし、KPrに至ってはほとんどアダルトゲームから撤退したようなものだ。やはり、Cリエイティヴ・Hート・Kインドネスがもっと頑張っていてくれたらと思うが……現在では、つるやさんくらいだよなあ。
サイドメニューを置くという対処もありうるが、私としては本文を読む時は本文だけに集中してもらいたいので、余計なものは極力表示しないようにしたい。あるいはフッター(下端)部分にトップページへのリンク(のガジェット)を設置するという方法もあるが、ブログページにあまり表示要素を増やしたくない。ページ下端右側の「ブログ検索」が、どうやらほとんど使われていないようなので、この欄をトップページへのリンクに置き換えるというのも一案かもしれない……が、一般的な慣例に即していない流儀なので、直感的な理解しやすさが欠けている。
月別の「ブログアーカイブ」は、個別記事へのクイックアクセス手段としても、またブログのおおまかな流れを把握してもらううえでも便利なので、こちらは削除したくない。その分、ページの表示が重くなっているだろうけど、それと引き換えにするだけの意義があると考えている。
「ふらん 対 開田さん」。事前予想としては、ただの怖がらせ好きな一高校生ごときでは怪人ふらん博士に太刀打ちできないのではないかという懸念があったが、読んでみると開田さんもなかなかのものだった。目の前で何人も斬殺されても怯えずについていくし、ふらんの研究心に大きな刺激を与えるし、そして最後は得意技で反撃して手錠拘束から脱け出すというスキルまで披露している。開田さん、こんなにも肝の据わったキャラクターだったとは。ダブル主人公がそれぞれ得意分野で実力(と怪しい魅力)を発揮しつつ、知的でスリリングな丁々発止の切り結びを高度に展開し、それでいてけっして敵対関係ではないという、不思議な関係になっている。
襲撃者たちが乗ってきた自動車は、なぜかVWのタイプ2だった(※商標等の問題があるため、エンブレムはVWではなくMWになっているが)。どういうイメージなんだ。
あれのイメージはおそらくポル・ポトだろう。ただしカンボジアのあれは近代科学だけでなく、宗教もばっさり否定していたけど。
ヴェロニカの扱いは相変わらずだった。可愛い。
『フランケン・ふらん』本編もまた読み返したくなった。
医学系グロスプラッタコメディ(内臓露出派)=木々津氏、
工学系ゴアスプラッタコメディ(頭部殴打派)=カヅホ氏、
……だよなあ。どちらも特撮(映像制作)の感性が入っているけど。
個人に対して熱中症への注意と対策を呼びかけるだけではなく、ヒートアイランド現象を初めとした構造的原因を改善するためにシステマティックな高熱対策政策が取られるべきだとと思うのだけど、そういう主張を提起している人はなかなか見かけない。
近年のヒートジャパンは明らかに環境要因によるものであり、それゆえその具体的原因を除去乃至解消することによって解決するか、あるいは少なくともそれを軽減するような構造的な対策を考えていく必要がある。これは国民および住民全員の生活および健康に関わる重大問題であるし、営利企業はそれをシステマティックに解決する意思も能力も持たない。だから、公益に関わる問題として、行政が積極的に取り組むべき社会問題だと言えるだろう(――ちなみに、気候気温の改善の利益は、全住民が等しく享受できるため、その施策は富の再分配にもなるし、一種の社会保障としての役割も果たす)。しかし、そういう動きは行政は――具体的には環境省であろうが――なかなか見られない。
例えば、平均気温や最高気温が00年代初頭頃の水準まで戻せるだけでも、そしてその対策のために例えば何億円か掛かるとしても、国民全員の福利健康安全が増進するならば十分割に合うと思うのだが(――その分の公共投資は経済を潤すし、熱中症およびその関連症状または後遺症が激減すればそれだけ医療費負担も減るし、さらには夏場の経済活動ももっと活発になるだろう)。現状の酷暑は都市計画や国土計画や環境政策の失敗でもあるわけだから、その意味でも行政側が改善に取り組むべきだろう。もっとも、現在の官僚たちの能力はそこまで信用も期待もできそうにないけど。
07/20(Fri)
この暑さでは、判断力が低下して財布の紐が緩み、予期せぬオタク支出が激増してしまったとしてもやむを得ない。(※自分の心の弱さを環境のせいにしてはいけません。)
getchuの告知(宣伝)メールは、どうして短縮URL(bit.ly)を使っているのだろうか……とアドレスを見てみたら、どうやら各種キャンペーンに対応して細かく条件付けをしたURLをそれぞれ指定しているようだ。そのためにURLはかなり長くなっており、したがってアドレスをそのままメールに書くと長たらしくなって見苦しい(そしてリンクを踏んでもらいにくくなるだろう)し、場合によってはハイパーリンクが途中で切れてしまう虞もある。わざわざ短縮する意味はあるのね……。
ユーザーとしては、いくつかのデメリットがある。一つには、リンク先がどのようなページであるかが分からないので不安がある(※とはいえ、間違いなくgetchuサイトのページだから、問題としては瑣末だが)。また、 一々リダイレクトが発生するのも鬱陶しい。さらに、該当ページが既読かどうかが判断できない(※ハイパーリンクの色が変わらないので)。
ちなみに、bit.lyの機能として、アクセス解析が出来る(※URLの末尾に「+」を追加すればアクセス解析が表示される)。ただし、誰でもアクセス情報を見ることができるというのは、好ましくない場合もあるかもしれない。
『闇染Revenger』。現代世界の主人公が、異形の魔物(魔王)に身体を乗っ取られて、ヒロインたちをくりかえし蹂躙するというと、『白い蛇の夜』を思い出す。あれも二重人格的に夜な夜なヒロインを蹂躙するタイプ。ただし、主人公は夜中に自分の身体のコントロールを奪われていることに気づかないままだったので、『闇染』とはちょっと違う。バトルシーンも無い。
ダーク系AVGでは、完全に乗っ取られてしまったり(つまり魔物が主人公)、あるいは主人公と魔王が明確に敵対関係だったりする(最終的に魔王を追い出すのが目的)のが多数派だろう。前者は例えば『THE GOD OF DEATH』、後者は『剣乙女ノア』。
こうやって考えてみると、『闇染』の位置づけはなかなか面白い。
卯衣氏の闊達な芝居に感じていた既視感は、渋谷ひめ氏のそれだった。声を前に出すように音を詰めていくというよりもむしろ、のびやかに声帯を寛げているかのような、おおらかで開放的な発声。律儀にテンポを取るというよりはむしろ、波のうねりのような不思議な節回しで流れていく科白のリズム。キャラクター1人の役の作り込みを超えて滲み出てくる、悠揚迫らぬユーモラスな雰囲気。ご本人は穏やかで常識的な方であろうと思われるが、それでいて芝居の味付けにはオタクっぽいデフォルメのエッジがやたら先鋭的に利いているという、微笑ましいギャップ。そして、感情表現が押しつけがましくなくて、あくまで役のうえでの虚構の音響的造形物として、ピントの合った形で距離を置いて楽しめるところ。
卯衣氏は、『星空へ架かる橋』(2010)から。『英雄*戦姫』の「ディオゲネス」のねっとりした科白運び、『太陽のプロミア』の「ポッカ」の楽天的なムード、『ノラとと』の「ユウラシア」の奇人ぶりと鋭い感情表現なども、他ではなかなか味わえない個性派の演技だ。
渋谷氏は、初期は「渋谷ひな」と名乗っておられたが、『真昼に踊る犯罪者』(2001)のボスキャラ「ルネリア」の時点ですでに、その飄々としたキャラクターの感情面の捉えがたさと精神面のしたたかさを存分に表現していたし、『LEVEL JUSTICE』のタラン(蜘蛛女)では、珍妙な異種族コメディのシーンを楽しく彩っていた。『王賊』のネイも、芯があってよく通る声色を武器にして、最前衛の突撃隊長キャラクターの可愛らしさと勢いの良さをきれいに造形されていた。90年代からのキャリアがあり、黒箱系タイトルにも積極的に出演しながら、2018年現在でもほぼ毎月出演作があって、しかもメイン級も多いという、超人的な役者さんだったりする。個人的には、『天いな』のみる氏とともに、私がゲーム声優に注目するきっかけになった役者さんでもある。
渋谷氏の出演作リストを見ていて、『闇と祝祭のサンクチュアリ』が未プレイだったことに気づいた。桃組の気配が強めだが、2017年時点での脂の乗った中堅どころ(?)を揃えていて、なかなか面白いキャスティング。
「百合妊娠」というのは、たしかに今までほとんど無かった発想かもしれないが、一応は理解可能な現象の組み合わせなので、実はそれほど突飛なわけではない。「やおい穴」の方がよっぽどファンタジー度合いが高いと思う。(比較対象がそれかよ。)
「あいミス」は、私がこの手のゲームに手を出すならこのタイトルしかないというくらいの素晴らしいキャスティングなのだが、しかし私はこの手のゲームをプレイするつもりは無いので、やはり一抹の悔しさともったいなさとともに、ただ看過するしかないのだった。
木村氏に羽鳥空氏、波奈束氏、小鳥居氏、美月氏、美月氏、藤咲氏、等々……2018年現在、私が想像しうるかぎり最も理想的なキャスティングなのだが……。もっとも、桜川氏も卯衣氏も杏子氏も秋野氏も入ってないから、完全に理想的というわけではないけど。
萌花ちょこ氏がtwで定期的に投稿しておられる。しかも、質問に対してフレンドリーに答えまくっておられる。(いいなあ……。じかにお返事をいただけるなんて、いいなあ……。)
ということは、今後も出演作があると期待していていいのかな。「萌花ちょこ」さんとしてのお仕事のことをちゃんと考えて下さっているようだし、アダルトゲーム分野(での人付き合い)についても好意的に捉えておられるようだから。
海原氏や理多氏に勝るとも劣らない、高い歌唱技術をお持ちの方だから、主題歌についても各メーカーはどんどん発注してお任せしていったらいいのに。
相合傘をしている最中に、指先でそっと傘を傾けて相手が雨に濡れないように配慮する。『With You』の氷川菜織さんは格好良かったなあ。男性を立てるしおらしい女性という意味ではなくて、相手に対して対等に気を利かせることのできる、粋なお人という感じ。
ちなみに、ツインヒロインは、なんとなく『逮捕しちゃうぞ』を連想させるコンビだった。
「牛股師範」を「生頼範義」と読み違えそうになった人は、私以外にもいるだろうか。とりわけアンダーラインが引かれていると、「牛」と「生」が似通ってくるのだが。
声優さんの容姿は、個人的にはどうでもいい。音声芝居を聴かせるためのお仕事をされているのだから。もちろん、美形であればそれはそれで嬉しいけれど、特に求める要素ではない。例えば、刺激的なSF小説を著している作家さんがたまたま私のセンスに合うファッションをされているとか、あるいは興味深い論文を書いている研究者がたまたま好印象な外見をされているといったようなことがあれば、それはそれでちょっと気持ち良いけれど、そこは私がその人物(の仕事)に関心を向けるうえではなんら重要な要素ではない、というのと同じことだ。
ただし、舞台芸術の役者さんや映画俳優の方々は、当人の身体性全てをもって視聴者の前に露出し表現しているので、外見上の魅力の問題を無視することは難しい。とはいえ、顔立ちだけでその芝居の質が決定的に左右されるということはそうそう無い(表情のデリケートな表現や、全身運動的な演技の表現こそが重要なので)。
また、その一方で、声優さんたちの容姿はとりたてて優れているわけでもない。アイドル声優云々という流れが長く続いているにもかかわらず、美人美形と呼べるほどの人はほとんどいない。現代日本の都市部の平均的な容姿と比べて、もちろん低くはないが、特に目を引くほどの美形というわけでもない。その意味では「普通の人」たちだ。声優雑誌はグラビア写真を多めに掲載しているが、一般的な雑誌モデルと比べると、やはり……なわけで、ちょっと辛い。もちろん彼等は、音声芝居や舞台芝居におけるパフォーマンスの質によって評価されているわけだし、また、彼等が持っている役者特有のアウラは写真には反映されにくいものなので、外見が人並であるということそれ自体は彼等の素晴らしさを損なうものではない。
ただ、すごく若々しいよね、と驚くことはある。精神面での活力や柔軟性、表情の華やかな瑞々しさは、同年代の平均的な一般人と比べて突出している。役者業の生き方ゆえだろう。
研究者(大学教員)も似たようなところがある。知的精神的な活力があるのは当然としても、そういう緊張感は外見にも現れているし、挙措もきちんとコントロールされていてキビキビしている。もっとも、アレな教員がいないわけではないが。
京都のような観光客の多い土地や、あるいは大学のキャンパスにいるとあまり気づかないが、「普通の」「平均的な」人々はかなり無気力でぼんやりした感じだ。そこらの街中を歩いていると、ゾンビに囲まれているかのような錯覚を覚えることもある。商店街を歩いてみても、周囲はみんな陰気で、元気な会話も楽しげな笑い声もほとんど聞かれない。賑やかなのはCM音声や店員の挨拶ばかり。世の中って、こんなふうだっけ?
猛暑のコミケット開催に関する私見は、以前から述べているとおり。「暑さをしのぐ対策はある」「個々人の判断で参加を見合わせることもできる」といった主張にどれほど説得力があるのかという疑念は拭えない。
前者については、現に熱中症患者が多数出てしまっている状況だ。ただしここ数年は開催日が曇天だったりしてわりとマシだったらしいが、そうでない天候の場合にどうするかという問題は解決されていない。メイン会場は一応屋内ではあるが、空調が機能するような空間ではないし、コスプレエリアや待機列は(晴天であれば)直射日光に晒されるのだし。
後者については、判断力と身体能力が不十分な未成年も参加しているイベントだという観点が無視できない。また、趣味のイベントであるという性質上、無理をしてでも参加しようとする者が多いだろう。とりわけ、同人で生計を立てている売り手側は、この機会に売らなければいけないという動機が強い(――開催中止のダメージをじかに被るリスキーな立場だということでもあり、また、中止された場合にもなにかしら事後的配慮が考えられるべきだろう)。そもそも、個人がほんとうに気候および体調を適切に判断できるならば熱中症は起きないわけだが、現実には患者が多数出ているのだし。
要は、危険な高温だと判断されるような状況が生じた時に、主催者側が主導して必要な対処を取れるようなルールおよび体制があらかじめ出来ていればよいのだが、そういう準備をしている様子が無い(具体的な制度作りの検討が進められているかどうか分からない)のが怖い。参加者たち――とりわけ売り手側――も、開催されるかどうかの基準があらかじめ明確になっているならば、ある程度は対応できる可能性が出てくるのだが、そうした基準すら無いままに「開催できるかぎり開催する、開催できないような状況のことは考えていない」というでは、準備も予測もできないままだから、不安になるだろう。その意味でも、主催者は何万人もの経済活動に影響を及ぼす可能性があるのだから、主催者側は基準を明示する責任がある。
そしてもちろん、万一重大な事態が生じてしまった時には、「参加者個人の自己責任」だけでは済まされないだろう。主催者側にも、そして即売会文化全体に対しても、大きな負の影響が生じてしまう可能性がある。そうした危険を避けるためにも、参加者任せの熱中症予防対策を訴えるだけでは足りないのだ。
07/15(Mon)
アダルトゲームの黒箱系などでは、たしか十年くらい前から「悪堕ち」という言葉が通用していたと思う。例えばninetail(Dualtail)は、メーカー自身が明示的に「悪堕ち」という言葉を使っている。確認できるかぎりでは、『Venus Blood Desire』(2009)が「女神悪堕ち触手SLG」と称している。それ以前からも、オタク系スラングとしてこの言葉は使われていた。しかしその一方で、「闇堕ち」という言葉も生まれている。似たような言葉だが、サブカルチャー系のネット辞典などでは一応定義的な区別を設けているようだ(――nicoの「大百科」では、遅くとも2010年中には「闇堕ち」の記事が作成されている)。先月の『闇染Revenger』も、ジャンル名乗りを「戦うヒロイン闇堕ちバトルADV」としており、「闇堕ち」という語彙を採用している。アダルトゲーム分野にも、こちらの言葉が浸透してきていることを示す実例だろう。
さしあたり素朴に、個人的な言語感覚に基づいて双方の違いをイメージすると、「悪堕ち」というのは組織/集団/体制としての「悪」側に与すること(例えば魔王に服従を誓う)であり、「闇堕ち」というと個人のメンタリティが善良でなくなること(例えば、平気で残虐な手段をとるようになる)を指すように感じる。
しかし、pxvやnicoのような匿名的ネット辞典では、「悪堕ち」は邪悪な諸力によってダークサイドに引きずり込まれる外因的な邪悪化を主に意味し、「闇堕ち」はどちらかといえば内発的な邪悪化を指すのだとしている。うーむ。上で述べた私のフィーリングにも、多少近い感じだろうか。前者の場合は明確な「悪」の存在が所与としてあり、後者の場合はとにかく「闇(ダーク、ダーティー)」な状態になることを総称しているのだと考えれば、納得できなくはない。
ただ、このネット辞典的な定義は、二つの概念を水平的に区別しているだけであって、双方がマトリクス的に組み合わせられるわけではない。つまり、「悪堕ちか、さもなくば闇堕ちか(あるいはどちらでもない善人であるか)」という二択にしかならない。それに対して、組織的帰属と心理的状態の二つの次元で捉えるならば、複合的に説明を精緻化することができる。つまり、この二つの概念を組み合わせて、例えば「みずから非道な手段を用いて、悪の組織を無慈悲に攻撃するダーティーなヒーローは、『闇』であり得るが『悪』ではない」とか、「正義の勇者に対して正々堂々と戦う魔王は、『悪』ではあるが『闇』ではない」といったような説明ができる。
もっとも、日常の言葉は概念としての機能性のみによって定まるものではなく、慣用の中で規約的に定着し変遷するものなので、私一人がどうこう言っても仕方ないのだが。もちろん、例えば「この記事の中では二つの言葉をかくかくしかじかの意味で用いる」と定義したうえで使ってもよい。
模型関連のテキストと画像を、模型カテゴリーのページへ移設してすっきり。
そろそろ各ページの使い分けがややこしくなってきたが、別ブログにするほどではない。
「○○学に関して」または「○○学の観点で」ということを述べたい時に、短く「○○学的に」と書くことができる。「経済学的に」「医学的に」「工学的に」等々。ところが、「天文学に関する描写が優れた出来である」と言いたい場合に同じような書き方をしたところ、「天文学的に優れている」となってしまった。すぐに気づいて、急いで書き直したが、自分で笑ってしまった。
「○○学的」が別の意味――比喩的表現――になってしまう例は他にあるだろうか。「文学」「文学的」という言葉はかなり多義的(または曖昧)に使われるから、文脈によってはおかしな意味になってしまうかもしれない。
[ hulotte.jp/product/atropos/character/ ]
このキャスティング、安心のプロ・フィtt…こほん。
07/14(Sat)
個人的には、35度の直射日光でもピリピリして気持ち良いくらいの感覚だし、室内35度でもあまり不快ではない。とはいえ、1)日焼けしてしまうのは嫌だし、2)感覚がどうであれ熱中症などの症状を引き起こす可能性があるし、3)室内ではダラダラ汗が流れてしまうので大変だし、そしてなにより、4)高温環境ではPCを動かせない(熱暴走などの故障リスクが激増する)ので、結局は冷房をつけることになるのだった。扇風機を回すだけにとどめて、寝転がってひたすら読書に勤しむというのも、なかなか乙なスタイルなのだけどね……。自分自身の健康やPC等の動作環境のことを考えると、温度が上がりすぎないように対処する必要がある。
室内冷房は、冷風を送り込んでいることもあって、体感温度がたびたび変化するのが鬱陶しい。電車でも、できれば弱冷車に乗る。講義中も、学生たちはガンガンに冷房を利かせたがるのだけど、私は寒いのは嫌いだし、冷房は喉にダメージが行く可能性もあるので、できるだけマイルドにしてもらいたい。
君たち、「にわか」をバカにするのが好きだねえ。うん、自分よりも知識が乏しい人を見下すのはとても楽しい行為だよね。私にもそれは一応分かる。より正しい知識を持っている自分は、相手に対して絶対的な正しさを確保しているから、実に心安らかに攻撃できるよね。その行為の卑しさを考慮せずにいるかぎりは。
ここで何度も書いていることだけど、ライトユーザーの無知や失言や高転びを、晒しものにしたり侮蔑したり攻撃したりするのは、もうやめた方がよいと思うよ……。同じ趣味、同じ分野、同じ作品が好きな者どうしなのに、どうして敵対し合おうとするのか。そういう批判の矛先は、本当に深刻な害悪だけに限定しておく方がよいと思うなあ。
私自身も、誰かがあまりにも半端な知識で穴だらけの議論をしていたり、思い込みから出発しておかしな偏見を展開していたりするのを見たら、「そりゃないだろう! もう少し調べてから発言しろよ!」と言いたくなることはあるし、実際にこのブログでもそういった個別的な指摘を書いたことはあるし、そういう感情が情報の不正確さに対する憤激のみであるとは限らないけれど。
もっとも、ライトユーザーの不正確な発言よりも、影響力の大きい人物が誤ったことを述べたり偏見を助長する発言をした場合の方が、比較にならないほど害悪が大きい。素人さんは素人さんで、友達同士で好きなように放言していてよいと思うのだけど、知名度の高い人物がやらかすのは本当に危険なので……。だから、より厳しく批判する必要がある。
オタク系ファンアートで、胴体部分は最近の流行に乗ってムキムキデコボコマッシヴに肉付きの陰影を描き込んだ水着姿でありながら、頭部は幼げですっきりした感じにデフォルメしていたりすると、個人的にはかなりきついのだが、描いている人やそれらを鑑賞している人たちはそのギャップが気にならないのだろうか? 例えば『ごちうさ』キャラあたりの可愛らしい顔立ちに肉感的なボディを接続されていると、一見かなり奇抜な絵面になるのだけど……。
もしかしたら、それは単なる失敗や試行錯誤ではなく、なにかしらの表現効果を担っているのだろうか。たとえば、「オタク系アートは記号の集積であり、顔立ちを表現する記号作用とボディのお色気を表現する表現文法とは反発し合わず、並列してそれぞれ楽しむことができる」ということなのだろうか。それとも、「絶妙の仕方で対比効果が発揮されており、むしろその取り合わせのおかげで、顔立ちのあどけなさと肉体のセンシュアルさの双方がよりいっそう鮮やかに感じ取れるのだ」と考えるべきなのだろうか。あるいは、「顔面までデコボコの陰影を描き込んだり、面長でリアルな成人的雰囲気に描いたりすることはできない。これはいささか無理があるとしても、各部の美的官能的パフォーマンスをできるだけ高めつつそれらを最適化した、現時点での現実的に最善の解なのだ」と言えるのだろうか。あるいは、この他に、こうした「萌えフェイス+肉感的ボディ」のイラストの意義を最大化できるような解釈がなにか見出せるだろうか。
イラストに限らない。立体物の分野でも、顔立ちはオタクイラスト的なデフォルメに即しつつ、胴体部分はボディコンシャスなモデル体型であるというものは、けっして珍しくない。私(たち)はこれを、どのように解釈しどのように受容しているのだろうか。他のフィギュアでも、たとえば「フェイス部分はかなり簡素で、鼻筋や口元はほとんど消滅しかけて、かぎりなくシンプルになっているのに、衣装部分やエフェクトはやたら凝った配色でひたすらゴージャスに広がり、ディテールも過剰なほどリアリスティックである」といったバランスの製品がある。これらに対して、美術的にどのような評価を下すべきなのだろうか。
ちなみに、アダルトゲーム分野は、ゴテ塗り素肌の流儀をほとんど採用していないので、上記のような美的衝突は生じていない。立体感を表すための比較的マイルドなグラデーションだったり、イカ腹を表現するための縁取りのグラデーションくらいであったり、性的に高揚していることを示す赤みのハイライトだったり、素肌の瑞々しさを表現するための明るいハイライトだったり。先月発売の新作だと、やまかぜ嵐氏原画の『家の彼女』が比較的濃いめの肉付き表現を施しているが、それでもかなり控えめなものだ。
[ www.getchu.com/soft.phtml?id=1000506 ](※アダルト画像注意。以下同様)
一番ムキムキだったのは、例えばこのあたりかな。(おばか)
[ www.getchu.com/brandnew/1003066/c1003066sample3.jpg ]
[ www.getchu.com/soft.phtml?id=1003066 ]
もっとも、同人界隈でも、ぼってりした肉感性表現の追求は昨年でいったんピークを過ぎて、今年はもう少し繊細でなめらかな素肌グラデーションの追求に向かいつつあるように見受けられる。
フィギュアの眼鏡キャラ化は良いこと尽くめだが、ただ一つ、問題がある。眼鏡姿に慣れてしまうと、なにか事情があって眼鏡を外した時に、激しい違和感に襲われてしまうことだ。フェイス部分が何か足りないと感じてしまう。どこか大事なものが欠如しているように感じる。だらしないスッピン姿を見てしまったかのような気まずさを覚えてしまう。視線の向きがどうにも落ち着かないと感じる。不必要に低年齢化したように感じる。そういう……そういう不幸な錯覚だ。元々は眼鏡無しでもきれいに見えるように作られていたのだから、これは一種の錯覚現象なのだろうけど。
(それでも私はフィギュアの眼鏡キャラ化をやめない!)
[ upandups.net/actor/toitayui/ ]
「眼鏡を高速で掛け替える」のが特技……いったい何者なんだ。
[ www.azone-int.co.jp/?sid=alv402&srs=159&jancd=4560120206639 ]
うっ……かわいい……。
このブログはグリーン基調にしているが、一般にwebデザインではグリーンはあまり使われていないように感じる。特に個人ブログでは、グリーン系のデザインのものはなかなか見かけない(※例えばamebloのファビコンは緑色だが)。それに対して、多用されているのは、青系統のクールな色合いや、(薄い)オレンジ色またはライトブラウンなどの明るい色だろうか。
グリーンは、表示環境によって(輝度などの影響で)色調が大きく変わって見えるからだろうか。あるいは、イエローに寄りすぎた場合など、きつい色になりかねないからだろうか。文字をグリーンにするのを避けている(濃いグリーンだと色彩感が乏しいし、薄いグリーンだとかなり読みにくい)からだろうか。暖色でも寒色でもない中途半端さが、好まれていないのだろうか。
少数派だということは、他から目立つということでもある。目立つのも善し悪しだが。
私自身は、このブログの枠色のような渋めの苔色も好きだし、ブルー寄りの緑青色も良いと思うし、柔らかな萌黄色も気持ち良いと感じるし、濃いめのオリーブグリーンも良い。あえて言うなら、エメラルドグリーンはちょっと苦手だが。模型制作でも、様々な緑系のカラーを楽しんでいる。このブログに関して言えば、背景色(■#2d4c07)は、落ち着いた色調で、そこそこ品があって、目にうるさくなく、それでいて空疎感は無く、見ていて色彩感や距離感がおかしくなる色でもなく、本文に集中するのを妨げないという意味で、わりと良い感じに出来たと思っている。私以外の人々の感性がどう判断するかは知らないが。もちろん、ブログタイトルの「garden(庭)」にも掛けている。
07/09(Mon)
私(たち)は、ゲームで、アニメで、漫画で、LNで、現代的創作の諸領域で、優れた表現に触れている。これは確かなことだ。人間感情の機微に触れる、デリケートきわまりない演出を。見たこともないような新たな表現空間が提示される瞬間を。複雑巧緻に紡がれる野心的なストーリーを。目も眩むような巨視的な展望で語られる、強靱なSF的イマジネーションを。斬新なアイデアを作品としてきれいに結実させた実験文学を。人間社会に対する苦く枯れた洞察を含むしたたかな描写を。有無を言わさぬ絶妙の美的均衡を体現した立体物を。もちろん、それらと並べて、人類文化最先端のエロティシズム表現を数え上げてもよい。
そうした手応えは、確かにあるのだ。素晴らしい作品が確かに存在するというのが現実なのだ。それに対して、そうした体験をせず、そうした体験を知りもせずに、アニメは幼稚だ、アニメを観ている人は幼稚だなどというのは、まさに「偏見」と呼ぶべきものだ。古臭くて、通俗的で、事実に反していて、非生産的で、わざわざ他人の営みを侮辱するだけの、愚かしい虚妄の偏見だ。
もちろん、現在展開されているアニメ(や漫画やゲームその他の表現物)のすべてが優れた価値を持っているという話ではない。そんなことを言うつもりは無い。中には退屈なものやつまらないものや愚劣なものも存在している。しかし、表現分野全体として見れば、良いものもそうでないものも含めた全体としては、人類文化を豊かにする新たな作品を大量に生み出しているのだ。それはけっしてバカにしてよいものではないし、その活力を弱めようとするのはただ単に人間の創造的活動の足を引っ張る愚行にすぎない。
[ mirai-soft.net/syukugar/character.html ]
桃井氏、桃山氏と来たら、三人目はももぞの氏かと期待してスクロールしたが、さすがにそんな冗談のようなキャスティングではなかった。いや、猫村氏も良い役者さんだと思うので、べつに不満があるわけではない。
京極氏の話。私も、学部時代に大量のレジュメや講義ノートを(デジタルで)作っていた頃からずっと、紙面のレイアウト設計や可読性を意識した修辞的調整を意識している。
たとえば、漢字と仮名の比率および配置。複数の漢語が隣接(連続)してしまわないようにしている。例えば「直接表現する」は「直接的に表現する」などに言い換えるし、「今日旅行に」は「今日の旅行は~」のようにする。ただし、ひとまとまりとして意味を捉えてもらいたい場合には、あえて漢語を連続させることもある(例えば「○○的××主義的△△△」のような場合)。なお、漢語が並ぶ(つまり文面に漢字の比率が増える)ことそれ自体は、個人的には構わない。
文末が同じ形にならないようにする。つまり、「であろう」「であろう」とか、「と思う」「と思う」などが続いてしまわないようにする。ただし、対句的な効果(リズム形成、畳みかけ、並列性の強調など)のために、意図的に同じ文末を続けることもある。また、「である」くらいのニュートラルな文末は、連続しても差し支えないと思う。
できるかぎり構文上の誤解が生じないようにする。また、多義的に読めてしまう文にならないようにする。読みづらい構造にならないようにする。等々。例えば、主語の位置を調整したり、二重否定を避けたり、読点の置き方をいろいろ調整したり。「~するということ」や、「~しているのである」のような冗長な表現も、極力排除する。特に並列表現(複数のものを併記する場合)は、どこで区切るのかが見て取りやすいように努めている。例えば「AのBとC」といったような表現は、「AのB」と「C」の二つなのか、それとも「Aに関するB&C」なのかが字面だけでは判別しづらいので、なんとかしてすっきり読めるように手を加える。出来ることの限界はあるけど。
レイアウトとしては、改行位置などには常に気を遣っている。例えば「~であ/る。」のように見苦しい形にはならないように、言葉を適宜足し引きしている。あるいは逆に、段落の最後が改行ぎりぎりで終わってしまう場合も、段落の区切りが視認しづらくなるので、できるだけ避けている。理想としては、上側三分の一(横書きであれば左から三分の一)あたりで改行したいところ。ただしこれは、デジタルテキストは表示環境によってレイアウトが大きく変化してしまうので、コントロールしきれない。このブログは、firefoxのデフォルト設定「MS Pゴシック、フォントサイズ16」であれば、改行位置などを一応最適化したかたちで読める筈だ。しかし、webページではそのようなレイアウトの同一性(確定性)は保持できない。pdfのような形式に流し込んだり、あるいはそれこそ紙媒体に印刷したりすれば、意図したとおりのレイアウトで読まれるようになるのだけど、それはそれで閲覧者にとっては不便になる。
文章がページを跨がないようにするのは、講義配布資料などでも厳守している。可読性を落とすことは、学生に無用の負担を増すことになるし、それで講義全体のパフォーマンスまでもが低下するのは本当にもったいないから。
とはいえ、そうしたレイアウト設計は、労力と効果の間のバランスによるところも大きい。だから、可読性改善や紙面洗練の効果があるとしても、そのための手間が膨大であったり神経質な調整が求められるものであったりする場合は、さすがに実行する気になれない。そもそもこのブログは、基本的には自分一人の思考を言語化するための実験場なので、見栄えや可読性を意識する必要性は乏しい。ただし、実験とはいえ、私自身の文章実践の一部ではあるので、自分の文体や執筆習慣に悪影響を与えないように、上記の一連の配慮は常に利かせている。
現代では京極氏以外にも、そのあたりまで気を遣っている小説家や文筆家は結構いるんじゃないかな。特に漢字と仮名の配分などは、まぎれもなく文体コントロールの一部であって、昔から行われてきたものだ。作家研究でも、文の長さや漢字比率などを統計的に洗い出すというアプローチはある。その意味では、べつになんら特別なことではない。
三点リーダー「……」が見苦しいという指摘は、なかなか気づきにくい視点で、興味深い。なるほど確かに、文芸作品で三点リーダーを使うのはいささか安易であり、品位を落とすおそれがあるし、文章のリズムをつなげていくうえでの妨げにもなりやすいだろう。
このブログの雑記で書いているような、やや口語寄りの現代風の文章では、ご覧のとおり、時折「……」を使っている。基本的には「説明しづらい情緒を、きちんと言葉にせずに放り投げる場合」や、「演劇台本の『間(ま)』や躊躇のようなニュアンスを示唆したい場合」だろうか。もちろん学術論文では「……」を使うことはまず無い。引用文中の「中略」の代わりに「……」を使う人もいるが。
ただし、京極氏が挙げているいくつかの論点は、首肯できない。例えば、ルビによって「本来の読み方」と「当て読み(非慣例的な読み)」をわざわざ差別化する必要はあるのだろうか? 読者にとっては、その違いはほとんど意味を成さないように思えるし、小説の意味内容に対する理解を助けるということも別段無いように思う。さらに、そもそも「本来の読み」とは何だろうかという疑問にまで遡る。ちなみに私は、よほど誤解の余地が大きい場合を除いては、ルビは極力使用しない。ちょうど上の段落では「間(ま)」と書いているが、これは漢字一文字で、語義がすぐには理解できない可能性があるので、読みを補う必要があると考えた。
ルビといえば、「喧しい」という言葉は、「喧(やかま)しい」だと明確にネガティヴな言及になるが、「喧(かまびす)しい」と読むと「議論が活発に行われている」という趣旨(ニュートラルまたはポジティヴな含意)になる。文章の中では、その言及がネガティヴであるかどうかはほぼ察せられるからルビ無しでも大丈夫な筈だが、以前にとある学者の寄稿記事で、本人は明らかに「かまびすしい」のつもりで「議論が喧しい」と書いているのに、おそらく編集者側が余計なお節介をして「議論が喧(やかま)しい」とルビを振ってしまったものだから、第三者の目にはまるでその学者さんが失礼で傲慢な人物であるかのような文面になっていた。あれは可哀想だったね……。どなたのどこの記事だったかは憶えてないけど。
もっとも、「喧(かまびす)しい」をそのような意味で用いるのは、(文系)研究者特有のジャーゴンにすぎないのかもしれない。プレーンな辞書的な語義としては、「かまびすしい」もやはり「うるさい」「騒々しい」を意味するものと解されるようだから。したがって、ここでは、一部領域の特殊な用語法を外部の者とのコミュニケーションで使用することが妥当であるかどうかという問も、慎重に考えなければいけないのだろう。
自分でも意識しているからこそ、AVG作品のテキスト表示が一行40字や一行45字もの長さでべったり横たわっていたりすると、厳しく批判している。minoriとかは本当にひどかったよね。最近だとキャラメルBOXとかも残念だった。
たしかtw時代にもそんなことを書いていた筈……とtwilogを漁っていたら、
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過去の自分は、こんな投稿をRTしていた。メイドルックの門脇さんじゃないか!
門脇氏の主演作といったら、『幻影ヲ駆ケル太陽』もなかなか良かった。影の濃い悲劇寄りの魔法少女もので、キャラデザはいささかデフォルメがきついものの、ゴシックでゴージャスな長髪キャラ揃いなのが女の子マインドをくすぐってくれるし、アンビエント志向の静かなBGMも雰囲気が出ていた。脚本も、説明過剰に陥らず、まずまずの感じ(――ちなみに、構成としては漫画版の方が緻密に出来ている)。個人的には『松島枇杷子は改造人間である。』をちょっと連想したが、あちらは特撮ものの体裁だった。
主演の門脇氏は、主人公の少女の善良さと朗らかさも、内心の苦しみのデリカシーも、闘いの低音シャウト(!)も、そして誠実な決意の表明シーンに至るまで、素晴らしい演技を披露されていた。そしてもう一人凄かったのは、遠藤綾氏。主役4人を指導しつつ見守る立場のキャラクターだが、そういう物語の要石のような役どころを演じた時の遠藤氏には、絶大な安心感と十二分の信頼感、そして深い説得力がある。けっして前面には出しゃばらないし、大声で叫んだりすることも無い役柄だが、それにもかかわらず、キャラクターの品位と情動はクリアカットに表現されているし、そのうえでさらに、視聴者を物語の進みゆく方向へ正確に導いていってくれる。
ハングルが読めないので、韓国のイラストレーターさんたちの名前を認識できないし、ましてや名前で識別することもできずにいる。なにしろ、これまでハングルリテラシーが必要になる機会がほとんど無かったので……。学生時代にほんのちょっとだけかじってみたことがあるけど、すっかり忘れてしまった。休日一日を使って集中的に勉強したら、まずは文字を読めるところまでは持って行けるだろうか。
それ以外の言語でも、フランス語やイタリア語くらいならば、薄めの学習書を一冊買って丸一日かけてザッと浚っておけば、最低限その言語を読むためのやり方は理解できるようになるだろう。べつに数詞を1から10まで憶えるとか挨拶表現を憶えるとかいったことはしなくてもいいから、文法の基礎(構文や活用がどうなっているか)と、発音の原則(例えばリエゾンがあること)を知っておくことを優先する。その程度の付け焼き刃でも、一度やっておけば、その言語に遭遇した時に出来ることの幅が全然違ってくる。
もっとも、下手な本を使ってしまうと、基礎的なことすら理解するのに苦しむ羽目になり、一日掛けてもろくに理解が進まずに終わってしまうという可能性があるのだけど。語学の学習書はひどいのが多いからね……。
波奈束氏も去年の春頃から出演作がほぼ途絶えてしまったし(※今年は『I×SHE Tell』のみ)、萌花ちょこ氏も『ロスト・エコーズ』一本のみだし、ここに来てもう一つ、世代交代の大きな波が来た感じかなあ。
10年代初頭あたりには、00年代の間中ずっと活躍していたアダルトゲーム声優さんたちが、一気に出演数を落としていった。そして10年代後半になって、去年(2017年)を境にして、またもう一段階、世代交代が進んでしまったようだ。
90年代からのキャリアのある声優さんは、続編タイトルでもなければ、新作でお見かけする機会がほとんど無くなってしまった。北都氏も、芹園氏も、大波氏も、草柳氏も。そんな中で、ももぞの氏と春日アン氏は、最近でも定期的にメイン級の出演作があるようだ。こちらはこちらで、ざっと20年間に亘ってずっとお仕事を続けておられるわけで、超人的な役者さんなのだなあと思う。
『おま天』が存在するかぎり、草柳氏も青山氏も涼森氏も一色氏も、ずっと発売予定の新作があると言えるし、だからずっと「現役のアダルトゲーム声優」でありつづけてくれるのだ。……ブラックジョークっぽいけど、これはどこに向けての皮肉になるのだろう?
[ bottomless.jp/ ]:ぼとむれす公式サイトもまだ生きているようだ。すごい。
アダルトゲーム分野の専業あるいは生え抜きで、優秀な役者さんが育つことが減ってきたというのは、それ自体としてはおかしなことはではない。90年代末から00年代前半は、アダルトゲーム声優という新たな仕事が生まれた時代だったのだから、その時期に多数の新たな人材が輩出されたのは当然のことだ。その一方で00年代後半頃からは、声優志望者全体が大きく増え、声優養成体制も整備され拡大していったし、地上波アニメの本数も激増し、またソーシャルゲームなどの新領域の仕事が出来た。そのため、アダルトゲーム専業でやっていく特段のメリットが無くなり、(実際にはアダルトゲームと掛け持ちをしていても)キャリアのうえで「アニメ声優」という看板を持ってやっていける声優や、アニメ側名義の知名度の高い声優が増えてきた。
そうした中でも、美月氏や秋野氏、綾音氏、花澤氏、桃山氏、月野氏、柚原氏のように、アダルトゲームの仕事に(も)軸足を置きつつ役者として素晴らしいパフォーマンスを聴かせてくれる若手声優さんもたくさん現れている。ありがたい限りだ。
でも、桃組十把一絡げだけは勘弁してつかぁさい……。昔も玉石混淆だったけど、輝ける「玉」の声優さんが何人もいたし、「石」の側でもメイン級に配役される方は比較的まともだった。現在の桃組は、下限がぶっちぎりに低いし、そういう下限側がメイン級キャストにも平気で入ってくるし、上限も総じて低いうえ、マシな役者さんからどんどん離籍していくという、不毛の石野っ原だ。ほんとうに、まじで、きついのよ……。まるで心が麻痺しているかのように科白のディテールに神経が入ってなくて、ろくに役に入っていないタルい台本読み上げで、舌も回っていないし声も汚い(鍛えられていない)し、演じられる役の幅もやたら狭いし、ましてや役者としての個性など全然見えてこない。泣ける。最近では、桃組丸投げのタイトルはそもそも買わないか、買ったとしてもプレイする時は早めに個別OFFにしている(――最低限の誠意として、最初のうちはヴォイスを聴いてプレイするのだが、すぐに「ああ、これも駄目だ、進歩してない」と溜息交じりにヴォイスOFFにすることになる)。
その一方で黄組も、残念ながら、10年代に入る頃から人材発掘や新人育成にあまり成功していないように見受けられる。ここ十年間のうちに、華のある魅力的な役者も、顕著な個性を発揮する若手も、めざましく鮮やかな芝居をする声優も、なかなか現れていないよね。
明日は土曜日だが、しかし研究会があったり補講が入っていたり何だったりするので、夜更かしするわけには……いかない……のに……。
関西の大学はここ最近の地震と大雨で休講だらけになっていたので、前期の終わりも近いというのにスケジュールがいろいろ圧迫されてどこも大わらわになっている。ところによっては土砂や漏水などの施設被害も出ていると聞く。
07/07(Sat)
新記事:「『V.F.G. ジークフリード』制作メモと完成写真」。
言い訳。ゲームやアニメやその他の趣味活動もたくさんこなしていますし、メカ少女以外のプラモも定期的に作っています。メカ少女プラモの記事が多いのは、この分野はまだ私でも情報を出すことで寄与できることがあると考えられるからです(※それに対して艦船模型などの分野では、すでに蓄積が膨大なので、私が付け加えられることはほとんど無い)。また、記事を出しやすくしている要因として、適当に写真を撮って並べてキャプションを付ければ記事になるという敷居の低さ、労力の掛からなさもあります(※それでも一応は、構成や分析を考えて記事を作っています)。
いずれにせよ、基本的に、「余所とネタ被りするものは単独記事にしない(言い換えれば、他には無い情報を公表するように努めている)」というポリシーでやっています。
ガウォークモードに満足しきって、バトロイドモードにするのを忘れていた。
というわけで写真とキャプションを追加。
制作中は、「アイチョ」をずっと聴いていた。だから少女部分が小林ヴォイスのイメージにな…るということは、べつに無かったけど。声優オタクと兼任しているモデラーやドールユーザーであれば、「このキットは北都ヴォイスのつもりで作ろう」とか「このフィギュアからは金元氏の声がする」とかいったことが(たぶん無い)。
[ www.azone-int.co.jp/?sid=cct203&jcd=4580116044779 ]
いや、そういえばこのドールは、初めて見た瞬間、「これは松永ヴォイスになる筈のキャラだ」と確信できた。見返しても確かにそう思う。
[ qruppo.com/ ](※アダルトゲームサイト注意)
えっ、声優の「倉田ありあ」さんって、「まりや」じゃなくて?とドキドキしながらサンプルヴォイスを聴いてみたら、あの倉田氏ではなかったけど、あれ、これって桃山さん……のようにも聞こえる。しかもピンク系タイトルに出演されるのか。というか、ピンク系だから「桃山」さんではないのかも。それ以外の役者も、柳氏(音さん)を初めとして、やけに力が入っている。なにものなんだ、この作品は。
[ w-witch.jp/idol_witches/ ]
軍楽隊のようなシチュエーションで、しかも繊細な演出に定評のあるクリエイターが監督を務められるということであれば、『ソラノヲト』好きにもヒットしそうな感じ。ただし、URLに「idol」とあるのが懸念材料。今風のアイドルイベントものになってしまうとしたら個人的には苦手だが、時代設定からしてそんなに賑々しいものにはならないと予想される。
公表されている役者さんは、3人全員がプロダクション・エースの新人声優とのこと。うーん。声優としての声当てだけでなく、どうやら音楽イベント出演を前提にした起用のようだし、メインキャスト三人が完全な新人で、しかも揃って同一事務所というのが、いかにもセット売りじみている。一応オーディションは行っていたというけれど、「オーディション」じゃなくてただの「内部選考」じゃないのか……。正直に言えば、不安要素しか見えない。アニメ収録までに十分な実力をつけるか、あるいはその他のキャストがまともであることを祈るしかない。
佐伯監督は完全オリジナルの新作を作って下さる方が嬉しいけど、このシリーズにはベースとなる世界設定が存在するという程度で、縛りのきつい原作があるわけでもないだろうから、かなり自由に作れるのではなかろうか。シリーズのファンに向けたクロスオーバーネタは程々にとどめてもらいたいところだが、ウルスラを登場させた2期4話(佐伯氏が脚本&絵コンテを担当)は、うるさすぎず薄すぎずでちょうど良い塩梅だった。
ちなみに。複合材なんちゃらは、転載しないでと明記されている声優さんのブログ記事を丸々転載するような輩だから、アクセスしちゃ駄目です。ファン向けの情報サイトっぽく振舞っていても、実際には作品に関わっている方々を害しているというのは、残念ながらわりとよくある話で。
07/02(Mon)
新記事:「メカ少女プラモのプロポーション」。とりとめもない、グチャグチャの雑感だが。
『その大樹』攻略記事から、今度は模型関連の記事ばかり4連続で出してしまった。
えっと……ここって、何のブログだっけ……。
新刊の小説版を読んだけど、字面だけで読むとなんだかエイラさんがガサツでわがままで嫉妬深くてヒステリックな人に見える……。裏を返せば、アニメ版の役者さんの芝居が、それのみにとどまらずいかに多くの情報とニュアンスと雰囲気を科白の中に注ぎ込んでいたかということでもあるのだけど。
(こんなことをわざわざ言うのは、この作品が、ファンアイテムとしては良いとしても、小説単体としてはそれほど良い出来ではなかったからだ。会話進行が散漫だったり状況説明が唐突だったりして、台本[脚本]と小説の中間のような、そしてどちらとしても評価しづらいような、中途半端なものだからだ。この方は映像作家であって本業小説家ではないから仕方ないのだけど。)
コミケというのはあくまで関東のイベント(関東でのみ、しかも年2回のみ開催される即売会)なので、コミケに参加するかどうかという一点だけを見て同人文化へのコミットメントや同人文化の普及度合いを速断されても困る。例えば関西は関西でいくつものイベントがあるし、通販や書店のようなアクセス手段も多数用意されている(そして日々利用されている)わけだから。コミケットは日本最大規模の即売会ではあっても、同人市場としてはワンオブゼムに過ぎないし、同人文化の一部分に過ぎない。また、全体として言えば、同人文化は縮小するどころか、むしろいにしえのコミケ一択時代よりもはるかに大きく裾野が広がって豊かになっていると言うべきだろう。
ただし、そのような話とは別に、同人(とりわけ即売会)文化の年齢層が上がってきているというのは事実らしい。特に現場スタッフあたりは、基本的には金にならないボランティアによって賄われているから、スタッフ個々人に余裕がなければ保たないし、長期的にみて世代間継承も考えて必要があるのだろう。
「武蔵」の画像検索結果はかなりバラけてきている。武蔵国(古地図等)や宮本武蔵(肖像画)はほとんど出て来ない。一昔前だったら、軍艦プラモの写真がもっと多かっただろう。
「関羽」は、十年前には『一騎当千』と『恋姫†無双』のキャラに席巻されていたが、2018年現在ではずいぶん様変わりして、その二者は激減している。
「信長」は、実在の織田信長の肖像画が上位に並んでいる。おそらく派生キャラが多すぎて注目度も分散し、それらに対して本物(?)が相対的に優位に立っているということかもしれない。
ニパ子は、そとづらをあまり取り繕わない(ブラックユーモアを厭わない)キャラ付けで、しかも言動もあざとかったり小癪だったりするのだが、しかし対応の適切さやフレンドリーさがうまくその毒気を払拭しているし、また、イラストとしてはどうにも垢抜けないのだが、それでいてチープな感じやマイナスイメージは免れているという不思議なデザインで、キャラとしてはっきり印象に残るし、模型店などで見かけると目を止めてしまうという、面白いキャラクターだ。よくもまあ、こんなのを作り上げたものだなあ。すごいバランス感覚。
アオシマの「あおこ」も上手くやっている。嫌味が無く、押しつけがましくもなく、冗長でもなく、それでいてポジティヴな雰囲気で自社製品の新情報を出してくれるので、付き合いやすい感じ。
(→8月/6月)