2018/06/30

2018年6月の雑記

  2018年6月の雑記。(→7月5月


  06/27(Wed)

  サポート系の小悪魔キャラは、とりわけSLG作品でオーソドックスに採用されるキャラ配置よね。例えば『Re;Lord』(演じているのは秋野花氏)、『姫狩り』(未来羽氏)、『Dancing Crazies』(大波氏)、『デモニオン』(三十三七氏&野神氏)、『巣作りドラゴン』(春野[松永]氏)等々。AVG作品だと『THE GOD OF DEATH』(高原くくる氏)や『魔界天使ジブリール』シリーズ(野神氏)なども。『魔女こいにっき』(美月氏)のような賑やかし異種族キャラ――とりわけ魔法少女の使い魔タイプ――がいる場合も多い。あるいは『マジカルウィッチアカデミー』では男性ヴォイス(※喋る帽子のキャラ)だったり、『こころナビ』のようにVR世界へのガイド役だったり、『夏神楽』『ゆのはな』のように小悪魔どころか神様キャラだったり、『魔法戦士』シリーズのように部下(副官)だったり。いずれにせよ、基本的に出ずっぱりのメインキャラなので、良い役者を宛がわなければ作品が引き締まらない。
  Escu:de(『メタモルファンタジー』)や緑茶(『マジカライド』)の場合は、ぬいぐるみ化した男性主人公というひねりを利かせた設定にしているし、ソフトハウスキャラの場合は男性主人公が師匠役としてメインヒロインの裏方に回っていることも多い(例えば『Wizard's Climber』『アウトベジタブルズ』)。


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  この制服は『Schoolぷろじぇくと』か?(※おそらく桜小桃のレジンキット)
  十年以上前のタイトルでも、わりと憶えているものだなあ。 


  今月はゲームや音楽もいろいろ楽しんだけど、私としては珍しいことに、航空機模型にかなり時間を割いた。まあ、たいした作り込みもしない、あっさりした制作ばかりだけど、それでも技術面での蓄積は大きかったし、知識面でも得るところが多かったし、感性の点でも新たなセンスが磨かれたと思う。
  もっとも、その一方で、人生の時間をかなり費やしたし、普段使わない塗料をいろいろ購入したりしてコスト面でも嵩んだし、キットの組み立てに難渋してかなりストレスフルな経験でもあった。結局のところ、「模型制作技術に関して大きな経験値は得られたが、しかし同時に、私にはエアクラフトモデリングの適性が無いことも分かった」という、いささか両義的な成果になった。


  デザインドールは便利だと思うし、それを利用できるおかげで様々な構図やポージングに挑戦できるようになる(敷居が下がる)という効果もあるけれど、問題が無いわけではない。
  1) 同一のモデルを使うとプロポーションが固定化されてしまう。あるいは、ドールを使ったところだけプロポーションが違ってしまう。
  2) ドールを撮影して使う場合は、その写真を撮る角度や距離に気をつけなければいけない。無頓着に撮影して下絵に使うと、遠近感がおかしくなる(例えば、やたら遠くから見ているような絵になってしまう)という可能性がある。ドールはあくまで縮小模型なので、人間の実寸として描き直すにはパースの調整を施す必要がある。
  3) そもそも、基本となる画力が弱い場合は、他のコマでは平板な絵なのにそこだけ唐突に立体感が(不必要に)強調されて、バランスの悪いシークエンスになってしまう。
  4) 当然ながら、輪郭をなぞるだけで奥行き表現や運動表現が成立するわけではない。それと平行して様々な技術を学んでいなければ、モデルとなるドールがあっても使いきれない。特に、立体感を適切に表現するための技術が備わっていない場合は、曲げた手足などが滅茶苦茶なものになる可能性が高い。
  ざっと挙げるだけでもこのくらいの難しさはあるだろう。

  もちろん、デザインドールや実物モデルを使うことがいけないというわけではない。デッサン人形を使うことそれ自体は、まったく普通のことだ。それらを人体を描く勉強の一助にするとか、一定以上のスキルのあるクリエイターが作業を効率化する(ショートカットする)ために使うとか、様々なポージングを試行錯誤するための素材にするとか、用途は無数にある。


  06/32(Mon)

  ここしばらく、たまに00年代初頭のアニメをいろいろ観返している。現在のアニメとは作劇と演出のセンスがまるで別物で、かなりびっくりする。コンテの進行ペースもずいぶん違うし、台詞の置き方も異なっているし、間(ま)の取り方や笑いのセンスも違っている。放映当時は高水準の作品として評価されていた作品も、十数年後の現在の目で見ると、
「えっ、それでオチになるの?」
「えっ、そこでリアクションを描かないの?」
「えっ、このシークエンスをそんなのんびりしたテンポでやるの?」
「えっ、こんなアングルで描くの?」
「えっ、ここで絵をアニメーションさせないの?」
「えっ、これがギャグになるの?」
「えっ、こんなふうに劇伴をつけるの?」
「えっ、背景作画はこんなものなの?」
「えっ、こんなに画質が粗いの?」
と驚かされる。換言すれば、この十数年でそれだけ(日本の、クール制の、TV放映の)アニメは演出を洗練させ、表現技術を深化させ、そして――アニメーターたちの負担と引き換えに――膨大な制作労力による精緻な画面を実現してきたということの証左でもある。
  役者たちの芝居も、どことなく違う。どう違うのかは言葉にしづらいが、抑揚の大きさから語り口のテンポ(これは映像進行にも左右されるが)などが異なっていて、表現意図がちょっと分かりにくい。こんなこともあるのか……。
  でも、それでも、そういった様々な様式的な違いを超えてなおも、息をのむような凄まじい演出や、デリカシーを極めたシークエンスや、手書きならではのダイナミックなアニメーションがあって、そういう驚きにも出会える。芸術ってすごい。

  あと、扇情的に下半身を映したりする卑猥なカットがきわめて少ないので、その点ではストレスが掛からなくて助かる。10年代後半現在だと、比較的真面目そうなタイトルでも、しれっとお色気要素のある絵を挟んでくることが多くて、結構つらいのよ……。(昔の作品でも、お色気シーンが無いというわけではないが、切り分けの仕方が違っている。)

  松岡由貴氏の芝居の凄味には圧倒された。科白の細部まで神経が通りきっていて、文字通り息の詰まるような濃密精細な芝居をされている。「怖い」と言いたいくらい。



  06/22(Fri)

「キューポッシュ フレンズ」シリーズの「赤ずきん」。オオカミ耳のカチューシャもよく似合っていて、たいへん可愛らしい(※ケモ耳内部の色分けは、塗装ではなく別パーツ)。頭髪色はかなり明るめのブラウンで、適度なウェーブが立体的に造形されている。
本体の素材はPVC、ABSなど。衣服は布製で、着脱できる(※様々な布製コスチュームが別売りされている)。高さは本体が約11cm、台座およびケモ耳を含めると13cm強。「赤ずきん」なので、頭巾パーツ(布製)も当然同梱されている。

  ちなみに下着はイエロー。おまえはエリクシルローズか。
  オタクとしては『ヴァンパイア』シリーズの賞金稼ぎバレッタを思い出すが、この可憐なキャラに、カゴの中に銃器を持たせてしまうのは可哀想だろう。

  実売5000円台と、けっしてお安くはないのだが、この愛くるしいフィギュアをほんの一ヶ月も机の上に置いて眺めているだけでも、精神的に十分元は取れるだろう。2ヶ月ならば1万円、1年ならば6万円分も見返りがあると言ってよい。鑑賞を目的とするフィギュアは、その意味できわめて効用が大きい。もちろん書籍も何度も再読してかまわないし、CDも何度でも聴けるけれど、机上に置いておくだけで永続的にこれほどの幸せを得られるというのは立体物ならではのアドヴァンテージだ。ただし、保存状態には気を遣う。塵埃、照明焼け、色移りその他の汚損リスクがあるので、フィギュアはディスプレイケースの中に陳列して鑑賞するというユーザーも多い。


  ワインのことをいちいち「ぶどうジュース」にしなくても、とモヤモヤするのだけど。アニメなどのフィクション作品の中でもそういった事実上の言い換えは行われているし、ましてやストーリーも設定も存在しないようなフィギュアの付属品にまで――つまり彼女がそれを飲む描写など一切存在しないのに――、酒類としての表示を忌避するというのは、異様な状態だ。いったいどうして、こんなにまで(自主)規制が蔓延してしまっているのだろう。ぶどうジュースに目の色を変えるマニアとか、ぶどうジュースで乾杯するとか、ぶどうジュースをグラスに注いで格好を付けるとか、ぶどうジュースを飲み過ぎて上機嫌になるといったあからさまな欺瞞的描写を、どうして我々は受け入れねばならないのか。
  しかも、こうした禁忌化は、過去の作品にまで遡行してくる。過去に存在した作品までもが封殺されてしまう。もっとも、芸術作品を初めとするあらゆる表現物は社会に向けて発信されるものであり、それゆえそれらを受け止める社会の側にも、個々の表現(物)を受け入れるかどうか――社会の中で当該表現が流通し続けるかどうか――を判断する資格がある。その中で、特定の表現を特定の社会が受け入れることができないとか、あるいはそしの社会で受け入れることが著しく正義に反すると考えられる場合が出てくることは、あり得る。ただしそれは、極力慎重に(謙抑的に)、なおかつ十分な根拠(排除せねばならないほど有害であるという根拠)があると認められた場合のみに限定されるべきだろう。その都度の社会が芸術表現の受容限界を判断するということは、換言すれば、その一つの社会の判断は普遍的に正しいわけではないということを意味する。それゆえ、ある社会が特定の芸術作品の生命を完全に失わせてしまうことを認めると、その芸術作品を受け入れるキャパシティを持ちえたはずの後世の社会が、その芸術作品にアクセスする可能性をも、致命的に奪い去ってしまう。明白で直接的で具体的で深刻な社会的害悪を生じるのでないかぎり、あるいは、一見そのような害悪があるように見える場合ですら、芸術作品やその他の表現物や表現可能性を抹殺することは極力差し控えなければいけない。実際、発表当時には不道徳だとか反体制的だとか不敬だとか冒涜的だとして禁圧された作品が、現代では高い芸術的(文芸的)価値を認められている例は無数にある。また、作品の描写がその都度の時代の価値観の下でむざんに改竄されていく(そしてオリジナルが失われる)歴史も、しばしば生じている。まさに「赤ずきん」も、そうした歴史を経てきた筈だ。
  先日の隣国ヘイトフィクションの件にしても、そうした危険性について十分意識的であったはずの人たちまでもが、作品それ自体をきちんと読むことをせぬまま、雰囲気に流されるかのように、出版停止や改稿といった対処をブッ通しで当然視してしまっていた。上記の意味できわめて危険な橋を渡ってしまったと思う。
  上のフィギュアでも、たしかに「こんなに幼げで可愛らしいキャラならば、ワインよりもジュースを持たせた方が似合っているだろう」と言えてしまう。だが、そのような「妥当性」「自然さ」「健全さ」「常識」「無邪気さ」「かわいさ(外見的魅力)」「それらしさ」「本来性」「純粋さ」といった観念はきわめて恣意的なものであり、さらには暴力的な抑圧の道具にも容易に転化する。


  「赤ずきん」ネタのゲームといえば、『メルティ・メルヘン』『黒の図書館』など、童話パスティーシュものがいくつかあった。「核融合少女リップルちゃん」もそうか。アダルトゲームでは、『不思議の国のアリス』や北欧神話、日本神話などがメジャーで、それ以外の実在の童話、民話、伝承を取り上げているものはけっして多くない。よほど大掛かりに取り組むか(例:『鬼ごっこ!』)、あるいはかなり自由にアレンジするのでないかぎり、童話数本程度ではゲーム一本分を保たせられるほどのネタにはならないからだろう。女性向けだと、『赤ずきんと魔法の森』がある(CLEARRAVE系列の乙女ゲー)。
  ロープライスだと、ネタ一つで押し切れる脚本規模なので、『かぐや姫はバブみたっぷりのロリBBAでした。』のような作品が成立しうる(※「竹取物語」を模したストーリー。主人公の名前「紀野敬之」は、作者にも擬せられる紀貫之をもじったと思われる)。『ファンタジカル』は「ラプンツェル」なども含めていろいろな童話ネタを混ぜ込んでいた。『長靴をはいたデコ』? あれはちがう。『蠅声の王』の終盤には、「青髯公」のように扉を開けていく場面があったけど、あれはネタとして織り込んでいたのか、それとも単なる偶然だろうか。


  旬の話題に便乗するくらい、いちいち目くじら立てて指弾したり冷酷に茶化したりしなくてもいいんじゃないかねえ。ニュースになった事柄について、それまで特に興味を持っていなかった人々もカジュアルに話題の俎上に乗せるのは、ひとの意識のありようとして自然なことだし、(デマ並の誤解を振りまくのでもないかぎりは)べつに害があるわけでもないし、当該文化にとっても話題が広がって文化の裾野が広がるのは歓迎すべき状況だろう。要はサッカーのことだが。


  言論を漢字で書けない例の徒輩は、ゲームに関して無知であるのみならず基礎的な調査研究能力すら疑わしい、要するに単なる「お騒がせ素人さん集団」扱いで無視していっていいんじゃないかな。こういう認識はすでに十年前から持っていたけど。もちろん彼等の中から、なにかしら検討に値する議論が提起されることがあり得ないわけではないが、わざわざそういう連中を当てにせねばならないほど我々のゲーム(史)に関する知識が貧しいわけでもないし。


  今更気づいたけど、「南ピル子」というネーミングは、「南泌流夫(みなみ・ぴるお)」をもじっているのか。もっと遡れば、おそらく三波春夫あたりがネーミングの元ネタかと思われる。


  新記事:「キャラクタープラモの頭髪塗装の実験(FAG「白虎」)」
  おおむね想定どおりの効果が出たと思うが、接写すると少々見苦しい。遠目に見た時のナチュラルな頭髪らしさを重視するか、それとも高解像度写真での隙の無さを重視するか、模型制作のスタンス次第だろう。
  このカラーリングとこの長髪、一歩間違うとプレデターガールになってしまいそうな……。


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  この人にとっては18禁カテゴリーは市場と看板の問題にすぎなかったのか? 表現内容に関する自由さではなくて? bamboo氏のことは以前からあまり信用していなかったが、今回の発言でさらにがっかりした。アダルトカテゴリーであえて買おうとするユーザーたちのことを、そんなふうにしか見ていなかったのか。90年代後半頃からの、コンシューマ機の制約下ではできないような自由で大胆な表現の可能性を見出していた人たちの前で、その発言はあまりに安っぽいのではないか。


  ytでの「轟け」は、過去配信分は削除されてしまっているのか。容量の制限が無いならば、わざわざ消さなくてもいいのに……。データは保存していないので、バックナンバーディスクが発売されないかぎり私が聴き返す術は無いし、「轟け」概要記事もここでひとまずお仕舞いかな。


  Escu:deの今作は、ADVと名乗ってはいるが、ブランドファンの猛者たちの攻略意欲を刺激するほどの、歯応えのある内容になっているようだ。



  06/20(Wed)

  試し買いは大事だ。評価の定まっていないもの、著者名を知らなかったもの、よく分からないジャンルのもの(あるいはそもそも何のジャンルであるかも分からないもの)、珍妙怪奇なもの、そして店頭で自分のセンスに賭けてお金を出すかどうかを決断したもの、そうしたものを試しに買ってみるというのは、1)購入行動それ自体が自分のセンスを磨くことになるし、2)買って読んだり視聴したりプレイしたりすることによっても自分の感性と認識を広げてくれるし、3)制作側にとっても今後の可能性を広げていくだろうし、4)市場的にもその趣味分野がそれだけ豊かになる。
  購入者側が経済的時間的精神的な余裕を持っていることが前提になるのだけど。


  【 00年代のアダルトゲームにおける悲劇的要素の扱い 】
  えっ、今時「泣きゲー」なんていうワードを使う人がいるのか……。そんなものは(アイデアも作品も)消滅して久しいと思っていたので、ちょっと驚いた。

  実際のところ、「泣きゲー」という言葉からイメージされるような典型的な作品――つまり悲劇によるカタルシスを物語全編の中心に据えた作品――は、昔から非常に少なくて、単独のカテゴリーを立てるほどのものではなかった。key作品や『加奈』など、本当に例外的なごく一部の作品だけだった(※EGScapeのデータベースでも、「泣きゲー」のようなPOVは成立していない。成立し得るだけの作品数がそもそも存在しなかったのだ。POV「心に残るバッドエンド」はあるが、扱う範囲が狭すぎる)。
  ただし、00年代初頭あたりには、大上段の悲劇とまではいかずとも、センチメンタルでメランコリックな要素を含む路線に、多くのブランドが挑戦していた。例えばHOOKSOFTは、今でこそ楽天的で微温的な恋愛AVGの旗手と目されているが、デビュー作『雨あがりの猫たちへ』(2001)はSF要素を交えたムーディな作品であり、第2作『天紡ぐ祝詞』(2002)も、伝奇的趣向のミステリアスな作品だった。
  このブランドに限った話ではない。HOOKSOFT(当時はHOOK)のこの2作品に見られるアプローチ、すなわち「悲哀感を伴ったリリシズム」と「伝奇ベースのドラマ展開」の二つは、多かれ少なかれ、この時期のアダルトゲームの雰囲気を規定していた。これは、アダルトゲーム分野内部においては『ONE』(Tactics、1998)や『痕』(Leaf、1996)に触発された90年代末以来の傾向であったと言えよう。

  さらに、アダルトゲーム以外のオタク系分野にも、この時期には苦い悲劇をストーリーの中心に据えるアプローチがしばしば見出される。家庭用RPG『FINAL FANTASY VII』(1997)あたりが、その一つの頂点(最も有名なものの一つ)であったかと思うが、それ以降も00年代初頭まではそうした悲壮感の味付けはメジャータイトルにも頻繁に現れていた。例えばLN作品では『キノの旅』(単行本は2000年-)の苦みのある傍観者的風刺や、『イリヤの空、UFOの夏』(単行本:2001-2003年)のノスタルジーと無力感の混じり合いなど。あるいは『まほろまてぃっく』(TVアニメ版:2001-2003年)では、本編の大部分は、引退した戦闘アンドロイド「まほろ」との日常コメディが展開されているが、各話の最後に「まほろさんがその機能を停止するまで残り○○日」というテロップが表示され、視聴者は来たるべき主要キャラクターの死をくりかえし念押しされていた。
  雑駁に言えば、00年代前半頃までは、1)オタク界隈におけるデリカシーはキャラ萌えだけでなく物語的要素にも大きく振り向けられていたし、2)その中で、悲劇的展開や苦い結末を受け入れられるタフさも、現在よりもはるかに高かった。さらに、3)人の生死や悲運を扱うベタな感動ストーリーも、この時点ではまだ擦り切れていなかった。

  いや、「タフさ」などといってオタク個々人のメンタリティの問題に還元するのは、説明として適切ではないだろう。例えばアダルトゲーム分野について言えば、悲劇的展開があまり採用されなくなったのは、様々な構造的文化的要因が影響していると考えられるからだ。すなわち、
  1) 00年代前半頃からの脚本長大化に伴って、悲劇ネタ一本だけでは物語の枠組全体を支えきれなくなったこと。
  2) また、脚本長大化に伴って、AVG作品が複雑なフラグシステムを持つことが難しくなったこと。制作技術の問題だけではなく、長大なストーリーでプレイヤーに分岐を試行錯誤させるとプレイヤーの負担が極端に大きくなるためでもある。いずれにせよ、00年代のAVG作品は読み物的性格を強めていった。そして、フラグの試行錯誤によってバッドエンドを回避するという作品コンセプトも困難になった(――『脅迫』『3days』『古色迷宮輪舞曲』は、例外中の例外だ)。
  3) 00年代半ば以降の白箱系では、キャラクター間関係の表現が濃密になっていき、それとともに共同体(サロン)的性格が強まったため、悲劇的展開との相性が悪くなったこと。サロン的性格はとりわけ『巫女さん細腕繁盛記』(すたじお緑茶、2003)が大きなマイルストーンだったし、生活共同体の描写に関してはとりわけ『アッチむいて恋』以降のASa projectが代表的存在だろう。
  4) コメディの復権も、当然ながら悲劇との折り合いは悪い。ういんどみるは設立当初からコメディ展開を全面に押し出していたが、00年代半ば以降の白箱系再編期からは、とりわけゆずソフトWhirlpoolがこの路線を推し進めてきた。
  5) 00年代初頭のうちに、古典的な伝奇ものは急速に退潮していった。カテゴリーとしての伝奇ものは解体され、萌えキャラの味付けとしての「神様ヒロイン」もの(例えば『天神乱漫』『恋神』)と、比較的少数の異能バトルもの(『Dies』『coμ』)とに分裂し、それぞれの路線を進んでいった。萌えキャラコメディとハードボイルド異能バトルのどちらにおいても、受動的で観照的な悲哀感が差し込まれる余地は無かった。
  6) 黒箱系では、一つにはアダルトシーンの徹底的な増強志向があり(例:GuiltyBISHOP)、その中でストーリー上の悲劇的要素が介入できる余地が少なくなっていった。また、受動的な悲劇状況よりももっと破壊的な路線へと先鋭化していったブランドもある(例:SPEEDWAFFLE)。ちなみに伝奇要素に関しては、田舎奇習設定や触手(異種族)ものの体裁で、黒箱系は伝奇ネタを好んで取り上げている(例えば『神楽』シリーズ)。
  7) ピンク系や低価格帯は、よく分からない。アトリエかぐやに代表されるようなピンク系は、総じて性的享楽の安逸を存分に表現してきたジャンルなので、悲劇要素とはほとんど正反対の存在と言ってよいだろう。ロープライスは一概には言えない。単独ヒロインとひたすらイチャイチャするピンク系(思春期恋愛もの)もあれば、挑戦的なバッドエンドを含む女性主人公ものもある。

  他分野でも、それぞれ特有の事情があるだろう。自信を持って断言することはできないが、例えば漫画やLNでは、連載継続が困難になるにつれて、悲劇的展開を入れることが躊躇される傾向があったかもしれない。アニメやゲームも、大規模なメディアミックス展開を仕掛ける都合上、不幸な展開を持ち込んだりそれを引きずったりすることが避けられているかもしれない。また、各分野の技術的進展とともに描写のディテールが全般的に向上したため、安っぽい感動喚起的ストーリーがその表現スタイルにフィットしなくなってきたのかもしれない。あるいはSNSにおける情報伝達および体験共有が広まったため、悲劇的展開によって視聴者を驚かしたり重苦しいシーンを続けたりすることが難しくなったという要因もあるかもしれない。


  緑髪眼鏡がなんちゃらなんていう話は、15年前に終わったと思っていたのに……。オタク界隈でも、文化的歴史的な亀裂や断絶はそこかしこに、そしていよいよ加速度的に増えていっているのだろうなあ。上の話も、当時を多少なりとも体験していた一ゲーマーの証言を残すことができればというつもりで書いている。上の見解も、ひとによっては異論があるかもしれないけど。

  そういえば、twにいた頃に、アダルトゲーム分野のSLG系ジャンルの歴史通観のような話をしていたら、K氏から有益な示唆をいただいた、といったことがあった。私が言及できていなかった重要なブランドや、私が気づいていなかった大きな趨勢の変化など、いろいろな指摘を即座に出されていたと記憶する。そのくらい、私一人の認識は一面的だったり遺漏欠落があったりするものだ。
  このあたり。[ twilog.org/cactus4554/date-110219 ,  twilog.org/kazenezumi/date-110219 ]


  『キラ☆キラ』の車(バン)での演奏ツアーは、行く先々の訪問場所があまりにも通俗的でモヤモヤしたんだよなあ……。名古屋城とか清水寺とか太秦とか、学生ロックバンドというよりは、むしろ引退した老夫婦の旅行じゃないのかというくらい。ただし、各地のライヴハウスにも行っているし、大阪のアメリカ村などで路上演奏するシーンもあったりするけど、全体としてはなんとも……。旅の途中で、どこかしらで一晩野宿した朝のシーンあたりはわりと良かったと思うけど、えーと、それもどんな描写だったか、もう忘れてしまった。


  うーん……やっぱり主要な記事は英訳して公開しておきたいな……。


  昔の戯画タイトル――具体的には『BALDR FORCE』『DUEL SAVIOR』あたり――は、私の環境ではディスプレイの設定を16bit(High color)にすると起動できた。ただし、4:3比のゲーム画面を強制全画面起動する仕様なので、現代風のワイドディスプレイだと横に引き伸ばされた形で表示されてしまう。画像処理ソフトで、スクリーンショットを横幅圧縮すれば、本来の4:3比を擬似的に再現できるが、あまりきれいなやり方ではない。
  「チョコザイナ!」(CV: あとーかいや氏)

  ……あ。「ピリらじ」コンビは、『BALDR FORCE』のリヴァイアサンズ●●のコンビでもあったのか。この時期のまき氏は、こんなエッジの利いた芝居もしばしば披露されていたのだった。

  昔のゲーム(対応OSの古い作品)は、ねえ……。
  1) インストーラーが動かない。OS判別で弾かれることも。
  2) プロテクトや認証機能が失われている(特にAlpha-ROMは全滅っぽい)。
  3) 様々なライブラリファイルが適合しない。
  4) ディスプレイの設定が合わない(解像度、縦横比、色数設定など)。 
  5) 公式サイトが消滅しているのでパッチが入手できず、不具合を解決できない。
  昔のタイトルは、ディスクの中身をまるごとHDDにコピーすると問題なく動作するということもわりとあった。例えばアトリエかぐやは、万一の場合の対処法の一つとしてマニュアルにも明記していたくらい。
  近年の旧作DL販売では、最新OSに対応してくれているものもあるようで、どうしても(再)プレイしたいタイトルであれば、DL版を探してみるのも一手かと思う。



  06/17(Sun)

  2個も作ってしまったので単独記事化:「Bf109 E-4とJu87 B-2(『終末のイゼッタ』版)」。
  ただし、アニメ版をおすすめする趣旨ではない。


  『カガクチョップ』の関連検索に「グロ」と出てくるけど、あれは「グロテスク」(異様で醜悪)というよりは、「ゴア(残虐)」「スプラッタ(流血)」「バイオレンス(暴力)」と呼ぶ方が実態に即していると思うんだよ……。(まあ、人工サンタとかはかなりグロいけど。)


  @関西某所。
  今朝型の地震は、エスカレーターに乗っている最中に揺れたので危険は無かったが、これがエレベーターだったらと想像すると怖い。普段からエレベーターは極力避けようとあらためて肝に銘じた。万一閉じ込められて「あっ……漏れちゃう……!」みたいなことにならないためにも。
  関西圏の大学も軒並み休講の模様。学生に対しては、当然ながら後日補講をする。
  自宅では、オタクタワーが2本崩れており、プラモやフィギュアが4体落下していた。意外と揺れは大きかったようだ。ノイエ・ジールが胴体から折れてしまったのが悲しい。
  世間では、幸いにも人的物理的な被害は比較的少ない(?)ようだが、それでも経済的精神的なダメージはそれなりにあるだろうからね……。

  1995年1月の時は、K大はちょうど後期試験期間の早朝だったので、大学まで来られない自宅生が多数出たとのことだ(――というか、地域によっては試験どころではない)。もちろん、再試験等の救済措置が採られた。
  とはいえ、そんな話も、現在の大学生世代にはもはや歴史的過去だが。NYテロも、サリン事件も、ソ連も、昭和も、バブルも、オイルショックも、どんどん歴史の中の出来事になってしまうという話を、つい先日も同僚の老教授と話していたのだった。

  地震による停電は、いつでも唐突に発生する可能性があるので、その意味でもHDDバックアップは大切だ。



  06/15(Fri)

  オタク活動(趣味活動)における購入行動について。
  「迷う理由が値段ならば、買え」。これはおおむね正しい。多少高額であっても、よほど家計が逼迫するのでないかぎり、その価格に見合ったクオリティを信じられるならば、そして心からそれを欲しいと思うならば、買って損はしない。むしろ、買いたい時にできるだけ早く購入すれば、それだけ長くその製品(作品)を享受し続けられるのだから、効用は高まる。また、後から買おうと決意した時には、もうどこにも売っていないということも多い。あるいは、財布に余裕が出来るまで待っていても、定価では買えなくなって、中古高額化していたりする。
  「買おうとする理由が値段ならば、買うな」。これはほぼ正しい。たいていの場合、買いたいものは無数にあり、財布の中身には上限がある。だから、それほど欲しくないものは、どんな理由でも買うべきではない。多少リーズナブルだったり、一時的に割引が大きくなっていたりしても、その割引分だけお金が懐に入ってくるというわけではないのだ。むしろ、いかに安くても、お金を「それほど欲しくないもの」に注ぎ込むことは、その分だけ、「本当に欲しいもの」を買える予算が減るということを意味する。もっとも、趣味分野で流通している商品は、たいていの場合、何かしら商品化されるだけの意義のある作品だから、それはそれで何かしら得るものはあると思う。また、確かに欲しいものであって、どうせ遠からず買うに違いないという製品であれば、見かけた時に(安く売っている時に)とっとと買ってしまうというのは、それはそれで合理的な行動だ。
  それでは、「価格もクオリティも満足できるが、保管したり展示したりするスペースが足りない」という場合には、どうすればいいのだろうか。これは最近の私がホビーショップでしばしば直面している問題だ。素晴らしいフィギュアは、買えば買っただけ十分な満足が得られることは、ほぼ間違いない。ただし、自宅にうまくディスプレイできれば、という条件下でのことだ。物が溢れてあまりにも手狭になった自宅では、優れたフィギュア製品を買っても、そのポテンシャルを最大限発揮させることができそうにない。……こうして私は、店頭の新商品や予約コーナーを見つめては、日々それらを断念している。

  スペースの問題は、基本的には「引越をする」という方法以外では解決できない。土地持ちであれば増築や倉庫建築ができる可能性があるが、あまり一般的ではないし、あまりのコストが掛かる。トランクルームという対処もありはするが、1)たいした量は保管できない、2)デリケートな物品を保管する環境として十分ではないことも多い、3)保管はともかく展示鑑賞はできない、4)費用面でも割に合わない、5)トランクルームに運んだり訪れたりする手間が大きい、といった問題が大きく、あまり実用的ではない。かといって、貴重な現代文化財を大量に抱えたオタクが引越をするのは、あまりに負担が大きい。長期展望を持って、あらかじめ空間的余裕のあるアパートを契約するという投資(初期投資)をしなければ、後々大変なことになる。

などと言いつつ、こんな直径17cmのプライズフィギュアを買ってしまった。「初音ミク プレミアムフィギュア Angel Breeze」。


  歴史をほんの200年も遡れば、あらゆる舞台公演、イベント、式典、演奏、会話、等々はその場かぎりのものであって、記録として伝わっているのは間接的な伝聞情報しか存在せず、我々はその詳細を知りようが無い。残されているのは、文字情報と、油彩絵画のようなごく一部の(そして高額に制作された)視覚表現くらいのものだ。人類史上の芸術の記録は、むしろそうした儚さが基本であったと考えるべきではなかろうか。もっとも、浩瀚な研究の蓄積によって、当時使用されていた楽器や、当時の演奏テンポに、かなり肉薄することができる――できた事例もある――が。

  そう考えると、00年代半ばから後半頃に掛けて、多数のwebラジオが「聴くに堪える音質で」、「それなりに長く維持されるであろうデータフォーマットで」、「ユーザーがデータそれ自体を保存することのできる形で公開された」というのは、歴史上例外的に恵まれた環境であったのかもしれない。00年代前半以前には、データ保持量や通信速度の限界から音質はかなり貧しいものだったし、mp3規格もまだ十分には普及していなかった。また、10年代に入ると、ストリーミング配信形式や、いわゆるネット「生放送」が一般化していき、コンテンツデータを配信者が独占し続けるようになった。つまり、配信者(権利者)がなんらかの仕方で別途公開しないかぎり、後世の人々がアクセスすることが不可能になっている。


  ヒロインの顔に手を伸ばして、同意なく眼鏡を奪い取り、レンズを拭いてきれいにしてしまってから、無造作にポンと投げて返す……うむ、あいてのそんげんをうばいさる、たいへんなりょーじょくこういだ。あるいは、顔に付けたままの眼鏡を指先で無遠慮にいじり回すのも、とてもひどいぶべつてきなこういだ。なんなら、冷酷で冷淡な視線を向けながら指を伸ばして、眼鏡のツルの部分をスッと一撫でするだけでも十分だ。ひろいんはふんげきとくつじょくでせきめんするにちがいない。その一方で、レンズにべたりと指紋の跡をつけるなんてのは、目を覆わんばかりのスカ行為だね、ひどい、ひどいよ、ひどすぎるよ。(※フィクションの話です)

  現実的な話をすると、眼鏡は補聴器や義肢と同じく福祉機器の一種なので、眼鏡の性能に関わる行為は当人の社会生活上の深刻な侵害を意味するし、また、当人が身体に装着して使用するものなのだから、眼鏡に触れることは身体的侵蝕に等しい。伊達眼鏡のようなファッション用途のものもあるけど。


  金を出して心の豊かさを購うのが、趣味人だ。むしろ、お金さえ出せば確実に得られる幸福があるという意味では、オタクはたいへん便利な生き方をしているとも考えられる。


  [ nameless.nexton-net.jp/game/do01/ ]
  鈴木恵歩利(スズキ・エブリイ)、すなわち車の人。星羽柚里氏も良い声だなあ。(でもVoice4は最後のフレージングをトチった感じが……。) そして、さわ(桐谷)氏と一色氏の共演とは……こんな二人を組ませたら、AVG音声芝居の究極の表現世界になってしまうではないか。
  主人公君、169cmで68kgって、男性としてもかなり重めじゃないかな(※この身長だと、62kgくらいが最もバランスが取れているらしい)。あるいは、武道か何かを嗜んで筋肉質な身体だったりするのだろうか。


  ウルグアイやキューバやギリシャのことを縞パン国家って言うな。(※国旗ネタ)



  06/12(Tue)

  今年の1月以来、また羽高氏の出演作が途切れている。
  出演契約が取れるかどうかはバラつきがあるだろうし、収録時期と作品発売までのスパンも異なるだろう。また、仕事をお休みされているのだろうかと想像してしまうくらい、数ヶ月の空きが出ることは、以前にもあった(※特に2014年9月から翌年8月までは、出演作がわずか2本だったし、2016年12月から翌年7月までの間も、2本しかない)。
  声優業は、特定作業への継続的拘束が求められるわけではないので、留学や出産といった人生のさまざまな目的や事情のために一時的に仕事を休むということをしやすいと思われる。ただし、仕事が途切れることは収入が途切れることをも意味するし、次の仕事を取りにくくなる可能性もあるだろうけど。ともあれ、あまり心配はしていないのだが(もっとも、心配しても仕方ないけど)、やはり出演作に出会えないのはいささか寂しい。
  羽高氏は役者としてそんなに器用なタイプというわけではないと思うが、00年代半ばから桃組をリードしている重要な役者さんだと言えるし、とりわけ『Dancing Crazies』で葉木崎唯を演じられて以来、ソフトハウスキャラ作品のサウンドスケープには欠かせない彩りをもたらしてくれている方なので、元気に活躍していただければと思う。
  2005年の『DC』以来、ソフトハウスキャラ作品には皆勤(連続出演)されていたのだが、新作の『その大樹』には出ておられなかった。やはり寂しい。


  やっぱり、昨日の動画のサムネイル(プレビュー画面)にボカシが掛かったのは、普通のことではないよね……。元動画の性質(サイズとか)がなにか影響したのか、あるいはボカシの必要な動画だと判断(誤認)されてしまったのか……。アップロード設定をいじれるコンフィグは見当たらないし、ブログ全体はアダルトカテゴリーではない扱いのままの筈だが。さしあたりどうしようもないので、なんらかの不利益が生じてこないかぎりそのままにしておこう。

  編集画面で、「設定」→「その他」の中の「ブログ上の動画」=「動画を管理」から、個々の動画のアップロード時刻の確認、ダウンロード(mp4形式)、削除が行えるようだ。


  やはり柚原(み)氏には八重歯キャラがよく似合う……。


  オーバーオール(サロペット)キャラのレトロおたく風味たるや。


  Liar-softのゲームパートは、テキスト(AVGパート)だけでは適切に表現しきれない要素を表現するためのインタラクティヴな仕組みであり、いわばTRPGでサイコロを振らせるのと同じようなものだと考えている。少なくとも、狭義の「ゲーム性」(明確なルールの下で、プレイヤーが目的達成のために挑戦するシステマティックな活動)とはまったく別の構成原理によって作品内に持ち込まれたものであって、その部分だけを取り出して論じることはあまり意味が無い。
  その意味では、創美研のアレなゲームパートと一脈通じると言える。また、ソフトハウスキャラのゲームパートとも相通ずるところがある。SHCのゲームパートはしばしば、イベント群をドライヴするための、あるいはイベントフラグをコントロールするための、プレイヤーが作中世界に介入するための、窓のようなものだ。



  06/11(Mon)

  やはりマウスは消耗品だ。ということで、BSMBU26SSを多めに買い足し。ホイール部分が弱りやすいようだが、シンプルな「有線」「3ボタン」「小型」のマウスとしてはほどほどに小ぶりで使いやすい。静音モデルでもあるし、そのわりにクリック感もしっかりしている。有線ケーブルに折り曲げの癖が付いてしまっているのはやむを得ないか。
  同じブランドだと、BSMBU100も上記3条件を満たす。こちらの方が100円ほど高くて、ホイール部分の動作も安定感があるのだが、上記シリーズよりもほんの一回り大きく、マウスの上面が掌に触るのがちょっと気になる。ただし、手をマウスの上に置いてべったり掴むタイプのユーザーだと、このくらいの方が掌にフィットするのかもしれない。
  私の場合は、指先五本でマウスを摘まむように扱っているので、ほどほどに小型で薄手のものがちょうど良い。だから、小さすぎるのも困るし、逆に大きすぎたり重すぎたりするのも不便だ。無線式=電池内蔵式を嫌っているのもそのため。

逆ガル翼って格好良いよね! 私くらいの半端マニアでも簡単に識別できるし。ところで、ガチャガチャのマスク(「エスケイジャパン 西洋のお面」)をフィギュアに被せてみたら、おどろおどろしいギョロリ目の国木田さんになり果ててしまった。ごめん。

  お面というと、個人的にはやはり『アイズ・ワイド・シャット』。ちょーきもいら。

  英語の"mouse"(ネズミ)の複数形はmiceだが、そうするとコンピュータマウスを指す場合も、複数形はcomputer miceになるのだろうか。ざっとweb検索してみると、
  1) ストレートに"computer mice"と表記する立場。
  2) 「ネズミ」と区別するために、"(computer) mouses"と使い分けする方が良いとする立場。
  3) そもそも"mouse device(s)"と呼ぶのでmouseかmiceかは問題にならないという立場。
  4) mouseはネズミの意味ではなく、Manually-Operated User-Select Equipment(手動操作によりユーザーが選択を行う装置)の略語なので、MOUSEsで構わないという立場。ただし、この略語説は疑わしい(後付けにすぎない)という指摘もある。

  実際、英語話者――ネイティヴを含む――の間でも話題になることがあるようだ。英語の辞書には"computer mice"と"computer mouse"のどちらもあるが、computer miceを採用している辞書の方が多いらしい。

  同じ機種でも個体差があるなあ……。
  1つめのマウスは、左クリックが微妙に浮いているような感じがするし、クリックの反動でバネが「ビンっ」と跳ねるような音がする。不満があるので、さっそく二つ目に交換した。本当に小さな違いだが、敏感な指先で扱うものなので、微細な引っかかりやわずかなモタつきでもかなり気に障る。複数買っておいてよかった。
  2個目は、クリックがきれいに沈み込むし、クリック音もきわめて静か(1個目とは明らかに音が違う)。ただし、ホイール押下時の音は、これだけは何故かキチキチと音を立てる。
  3つ目は、クリック音が微妙に安っぽくカクカクと鳴るし、ホイール押下もはっきりと音が出る。1個目だけは、ホイール押下時の音がほとんど無い。


  初めての動画アップロード(※音注意。デフォルトでは無音化されているようだけど)。こんなふうになるのか。映像は綾波レイ(「ビーチサイドコレクション」)でお送りしています。「「あ・や・な・み・の、ふくらはぎぃー!」」なアレ。ちゅーがくせいだんしのよくぼうちょーきもいら。
- 1つ目は、マウスAの左クリックの音。「カタカタ」と音がする。
- 2つ目は、マウスBの左クリック。「コツコツ」と静かな音。
- 3つ目は、マウスAのホイール。「カツカツ」という感じか。
- 4つ目は、マウスBのホイール。「チキチキ」と耳障りな金属音がする。
まったくの同一機種でも、個体差で明らかに音が違っているのが聞き取れるだろう。同日に同じ店で買った新品同士なので、条件は同じはず。マウスAが上記「1個目」で、マウスBが上記「2個目」にあたる。

  あれっ、サムネイル状態で全体ボカシが入っているけど、まさか、もしかしてcensoredな処理をされてしまったのだろうか? よく分からない。18禁とか15禁のレベルではないけれど、まあ、卑猥ではあるかもしれないし、そうでなくとも肌色面積の多さから自動判定されたのかもしれない。あるいは、あらゆるアップロード映像がこうなるという可能性も……。


  心配になったので映像だけを別のかたちにしてアップロードしてみる(※音注意)。クリックノイズをチェックしているシークエンスは上と同じ。この動画でも、個体差ははっきり聞き取れるだろう。画像の中で、上側にあるのはf-toysの「おおなみ」、左下はTAMIYAの1/48ケッテンクラート、右側の二つもf-toysの「ウイングキットコレクション VS6」に含まれているキューベルワーゲンとケッテンクラート。小さくて可愛い。同梱のコメート(Me163)も、丸っこくて可愛いよ!
  あ、普通の映像でも、サムネイルはボカシが掛けられるのか。嫌な可能性としては、最初に綾波をアップロードした時点でブログ全体がアレなカテゴリー分けをされてしまって、それ以降あらゆる映像がボカシ扱いになっているという仕様も考え得るが、……まさかそんなことはあるまい。

  というか、これ、youtube動画になってるよね……。

  上の写真にもあるスツーカ(Stuka)は、ドイツ語の発音規則に従ってできるだけ正確に「シュトゥーカ」と言いたいが、その一方でキューベルワーゲンは「キューベルヴァーゲン」とまではせず、日本での一般的な慣例通りに「キューベルーゲン」と書いている。設計者がオーストリア系だったから、「w」の音をあまり濁らせずに「わ」と読んでもいいんだよ! 日本では「フォルクスワーゲン」が強力に定着しているせいもあるけど。
  英語由来の外来語でも、「v」はできるだけ「ヴ」にしている(例:「アドヴェンチャー」)。しかし、「レベル」「オーバー」「サービス」のように日本語の中で定着した言葉を一々「レヴェル」「オーヴァー」「サーヴィス」とするのはクドすぎると思う。とはいえやはり、英語本来のニュアンスを意識させたい時は、あえて「サーヴィス」と書くことはあり得る。
  また、「ラノベ(<ライトノヴェル)」のような言葉は、もはや英語本来の構造を離れており、完全に日本語の言語感覚の中で圧縮(省略)して作られた言葉なので、「ラノヴェ」と書くとかえってグロテスクになってしまいかねない。そもそも"light novel"からして、おそらく和製英語だろうし。一般的な英語話者に"light novel"と言っても、「(若者向けの)娯楽小説」というニュアンスで理解されることはまず無いだろう。せいぜい「軽量な小説=ページ数の少ない小説」といったほどの意味合いになるのではなかろうか。
  それ以外の言語(例えばロシア語)は、日本語でどのように表記したら原語の発音に近くなるかが分からないので、通俗的に用いられているカタカナ表現にただ従うしかない。

  というわけで(話を戻して)、どれも一長一短だが、ひとまず1個目のマウスを使うことにする。


  Yo!胃~之煮#45の後半あたりで中國氏が話しているのは、『メギド72』のことだったのかな。時期も合っていそうだし、2キャラ担当のうち、少なくともサレオスの方は水属性らしいし。


  「オッカムの剃刀」論法は、不必要な条件を排除するように促したり、ひとまず思考の混乱を防止するのに役立ったり、極端に無理のある想定を入れないようにしたり、思考実験を節約して行ったりするうえでは好都合な、便宜的なアプローチだが、あくまで手続上、便宜上のものであって、特定の仮説や議論の実質的な正しさを根拠づけるものではない。
  それどころか、下手に用いると、デリケートに展開される複雑な議論を強引に切り捨てて単純な「分かりやすさ」に開き直る姿勢を助長してしまいかねない。「オッカムの剃刀」論法が提起された時は、まずその論法それ自体の妥当性を、慎重を期して吟味するべきだろう。さすが剃刀(刃物)だけあって素人が迂闊に扱うと危ない。


  半透明ボックスからわずかに見えた同人誌の表紙を、瞬時にここのか氏の絵だと判別できたので、迷うことなく手に取ってレジに持って行った。 わたし、さすが、わたし、すごい、えっへん!



  06/09(Sat)

  新記事:「KOTOBUKIYA『グライフェン』制作雑記」。この分だと、今月は個別記事が出ないかもというどうでもいい危惧から、切り分けて単独記事にした。


  アイチョの232回以降も、喉から手が出るほど欲しい(また聴きたい)けど、バナナさんがディスクで出してくれなければ、どうしようもない。初出時はファイル保存の出来ない形式で公開されていたが、なんとかうまく取り出すなり、あるいはせめてPC録音するなり、手を尽くして保存しておけばよかったと思う。今更どうしようもないけど。

  ちなみに、20年(?)くらい前にはすでにネットで、いほーなデータ交換のやりとりが行われていたそうだが、ただしネット上では交渉と打ち合わせのみを行い、実物(ゲームのコピーとか?)はCD-ROMなどに入れて、オフラインで会って交換していた、という噂を聞いたことがある。当時は「大きなデータをネットでUL/DLするのが難しい」という要因だったと思われるが、現在では「ネット上でそんなことをしたら証拠が残る可能性が高い」という事情が影響するのではないかと思われる。いや、現在でも、カジュアルなのでも本格的なのでも、オンライン/オフラインでのいほーきょーゆーはおそらく様々な形で行われているのだろうけれど。

  単なる個人の趣味としてアクセスする場合はまだしも、資料性のある記事として公開する場合には、出所の真正性がきわめて重要な問題になる。要するに、万一、フェイクデータに依拠して記事を作ってしまったら、致命的な誤りが流布してしまうことになるし、記事全体の信頼性が破壊される(さらには記事作成者のあらゆる発言の信頼性が引き下げられる)。実証系分野で、資料や史料の扱いが口を酸っぱくして教え込まれるのは、そこを間違うとクリティカルな問題を引き起こしかねないからだ。
  先日の生年の話にも通じるが、伝聞情報を鵜呑みにすることの危険性もこれに関連する。

  web上のコンテンツでも、どんどん流れて消えていくものだと認識している。というか、2018年現在のweb空間の風土として、そのように諦めざるを得ないものが多すぎる。
  そもそも、私はどうやら、平均的日本人と比べてコンプリート欲求がかなり薄いようだ。面白いもの、好きなものをたくさん摂取しようとして結果的にコンプすることはあるが、しかし収集行為それ自体を目的にすることは滅多に無い。もちろん、全集が揃っているのは気持ち良いと感じるし、全集版(ボックスセット)で揃える方が割安だったり入手コストや管理コストが低かったりするので、結果的に全集買いを志向しているのは確かだ。

  手許にあるCDボックスだと、34枚組(スカルラッティのソナタ)、30枚組(J.S.バッハのピアノ曲)、19枚組(モーツァルトの交響曲)、18枚組(スクリャービン全集)などがある。クラシックは1枚あたり数百円程度の超廉価ボックスがたくさん出ているが、もちろん聴き通すのは大変だ。


  大橋氏が、人生を掛けて信頼しあえるパートナーと出会い、さらに新しい家族をも得られたのは、ファンとしてもたいへん嬉しい。ひそかにお祝いの気持ちを念じておきます。
  ここしばらく、目立った仕事が聞かれなかったのは、身体を大事にされていたのかな。


  ついにサルミアッキ◆が尽きた……。悲しいけれど、集中的に食べすぎて飽きてしまっては本末転倒だから、このくらいにとどめておく方がよいと思う。ちょうどLNAF.OA.で大橋氏(の演じる北欧人キャラ)が話題に出していたのを、せめてもの慰めとしよう。



  06/08(Fri)

  【 連絡手段 】
  そういえば連絡手段のことは何も書いていなかった。私に対してなにかコンタクトをいただける際は、以下の手段があると思います。
  1) 前のブログ。とりわけ「コメント用ページ」に書き込んでいただければ対応できます。ただし、万人が読める公開情報になります。また、気づくのが遅れる可能性があります。文字数制限があるかどうかは、ちょっと分かりません。また、プレーンテキストしかコメント投稿できません。望むならばコメントを管理者権限で削除する(痕跡を残さない)こともできますが、blggrの仕様により、コメント削除を繰り返すとスパム投稿者と見做されてしまうようです(そこからはコメント投稿できなくなるとか、自動削除されてしまうとか)。
  2) twのアカウントを持っている方であれば、以前使っていた私のアカウントに向けてリプライを送っていただくということも可能です。画像添付することも可能でしょう。ただし、よほど特殊な事情が生じた場合を除き、原則としてログイン利用は一切行っていないので、長期間気づけない可能性が高いです。また、非公開設定にしていないかぎり、第三者からも読める公開発信になります。ただし、ちょうどここ数日は、事情があってログインしているので、リプライがあれば気づけると思います。フォロー関係にあれば、ダイレクトメッセージを内密に送受信することも可能です(※現在のDMの仕様はどうなっていたっけ……)。
  3) 攻略サイトに書いてあるメールアドレスは、消滅しています(※長期間ログインしなかったのでアカウント削除されてしまった)。

  いずれにしても、なにかご用向きがあれば、ものものしい挨拶抜きにご連絡していただいて構いません。ただし、前述のとおり、対応がかなり遅れる可能性はあります。

  メアドを示せば、テキストや画像以外の各種ファイルも送受信できるようになるけど、そこまでの必要が生じることはそうそう無いかなあ。以前に余所の攻略サイトと情報交換していた時は、メールにいろいろな攻略情報(csvファイルとか)を添付して送ったりしていた。


  私のブログについて、もしも何かまずい記述があったら、ご指摘いただけるのはたいへんありがたい(※特に、記録に残されるべきではないプライヴェートな情報など)。
  ただし、例えばハイパーリンク先がいったん消滅して、別の(違法性のある)業者等に乗っ取られていた、といったような場合は、どうしようもない(※一々チェックしていられないし、また、当時はそういうURLがあったという記録にもなるので、原則としてそのまま放置する)。
  それ以外に有益な情報提供をいただけることがあれば、もちろん喜んでブログ上に掲載させていただく。例えば、記事の中の欠けている部分など。
  だいたいこんな感じかなあ。


  ついでにソフトハウスキャラ公式のアカウントをフォローしておいた。
  声優さん(例えばかどわきさん)のアカウントとかもフォローしたいけど、けど……。


  SRPGなどの「本筋ではない、脇筋の任務(選択可能な挑戦的イベント)」のことを「サブ・ミッション」と呼ぶことがあるが、一般的な英語であれば"side mission"か"extra mission"あたりの言い回しになるかと思われる。「本筋」は、"main mission"とか"story mission"、"scenario mission"といった感じだろうか? 英語には「服従」などを意味する一単語の"submission"が存在するがので混同されかねないが、"sub mission"と分けて書けば(or発音すれば)、「たぶん『おまけのミッション』のことを言いたいんだろうな」と察してもらえると思う。けっしてきれいな英語ではないが。
  さらにややこしいことに、格闘技などの領域で「サブミッション(submission)」というと、関節技や絞め技などのホールド技を指すらしい。相手を極(き)めて、「降伏せよ、さもなくば」という趣旨のネーミングなのだろう。


  芝居に関する声優同士のアドバイスをマネージャーが遮るという話は、現職のアニメ監督の言葉とはいえ、にわかには信じがたい。実際、音響監督や声優プロダクション側の人々からも、それを否定するコメントが出ている(例:[tw: 1004915751973576704 ])。まったくの嘘ではないだろうけど、きわめて特殊な事例なのではないかなあ。
  収録現場で個々の役者の芝居を方向付けして(ディレクションして)一つの映像作品として成り立つようにするのは、音響監督の仕事であって共演者の仕事ではない。また、新人だろうが何だろうが、仕事として収録現場に来ている以上、声優はそれぞれ自立したプロと見做されるべき存在であり、それゆえベテランだろうが何だろうが共演者を表立って「指導する」ということはあまり無いかもしれない。
  しかしながら、収録前の役者たちは、監督や音響監督も交えて、収録の方針やキャラクター造形、ストーリーの解釈などについて協議することがあるらしい。また、収録後に「一緒に飲みに行って、そこで演技論などを語り合う」といったようなことは、とりわけ外画系吹き替えでは日常茶飯事のようだし、アニメ収録でもそれなりに発生することだろう。
  また、マネージャーはあくまで担当声優のmanagerであって、役者同士の関係にまで容喙する資格があるというのは、ちょっと考えにくい。ただし、芸能事務所から来たような人物(本職声優ではない人物)の場合は、それに近いことがあるかもしれない。
  全体として、「絶対にあり得ないというわけではないが、それが通常事態だということはまず無いだろう」と思う。クオリティ向上に鎬を削る声優業界やアニメ業界で、そんな愚かで非生産的な慣行が罷り通ったままでいるとは信じがたい。

  もっとも、視聴していて「なんだろう、このトロい芝居は……激しい実力競争の中で頭角を現してきたはずなのに、まだこんなヘボい芝居をしたままなのか?」という役者が、まあ、いないわけではないから、声優の起用の仕方も100%クリーンなわけではないのだろうし、そうしたいびつな境遇の中で誤った形で「保護」されたせいで現場でも鍛えられないままの未熟声優がいるということは、あり得ないではない。

  その意味では、舞台経験のある声優さんは、総じて深く信頼できると思う。ナマの舞台公演は、長期間に亘って参加者全員でパフォーマンスを練り上げていくことによって成立している。そういった共同作業的な掘り下げのプロセスの真剣さは、その最後に現れるライヴでの全身運動的パフォーマンスに特有の熱気の体験とともに、役者のポテンシャルを開花させていく最良の糧になると信じる。アニメ出演の多い若手~中堅の声優の中では、福圓氏、三森氏、黒沢氏など、あ、マエタケさんもそうか。もっとも、声優養成所でも、舞台相当の練習は為されていると思う。
  (※念のためことわっておくが、昔の声優が言ったor言われたような、「声優仕事よりも舞台や実写の方が偉い」という話ではない。)


  [tw: 1004849719225417728 ]
  またもやEscu:deだけが忘れられてる……なんで、なんでなのよー!

  忌憚なく言えば、ゲームシステムの新奇性も、やたら複雑で深みがありすぎるフラグ管理も、UIの洗練具合も、他の4社とは比べものにならない高水準にあって、いわゆる「ゲーム性」という観点ではまさにEscu:deこそが最高峰だと思っているのだけど……。もちろん他のブランドも、ゲームバランスの巧みさや、とっつきやすさ、趣向のマニアックさ、システム案出の個性など、それぞれに美質を持っているが、少なくとも「ゲーム性」「遊べるゲーム」という観点では、Escu:deを抜かして考えることは不可能だと思うのだが……。不可解すぎるし、そして悲しすぎる。

  ちなみに、上の投稿の趣旨には首肯できる。純粋な読み物AVGと比べて、特有のゲームパートを持っている作品は、
  1) ゲームパートはしばしば非言語的な表現である。視覚表現を通じて状況が理解されるし、ルールさえ理解されればゲーム(挑戦的遊戯)もユニヴァーサルに通用する。その意味では、文化の違いを超えて楽しめる可能性が高い。たとえば、先鋭化した現代の学園恋愛ものよりも、文化的な敷居が低いと期待できる。
  2) テキスト量が相対的に小さいことが多い。その場合、他言語への翻訳コストが低い。ただし、裏を返せば、戦闘パートなどのSE音声なども全て録り直さなければいけないので、キャラクターの多い作品は大変かも。
  3) 戦争SLGや冒険RPGなどでは、描写される状況がはっきりしているので、テキスト(の翻訳)に求められるデリケートさの要求水準がそれほど高くない。それに対して、ラブストーリーの繊細な台詞は、翻訳にもかなり気を遣うだろう。
  その一方、考えられる難点として、わりとハードな蹂躙描写が含まれるという点がある。例えば、捕獲した敵将軍を性的に屈服させるといったようなシーンが頻出する。そうした描写が、国によっては違法とされる可能性がある。


  マニキュアを見ても、「あ、この色ならあのプラモに使えそう」と考えてしまうモデラー気質。


  twにログインしておいて、たまにさっと目を通しているけど、それだけでもストレスがやたらきつくて耐えられない。性に合わない、あるいは性に合わなくなったのだなあ。
  「駄目なのね……もう……」(綾波風に)。
もっとも、ここ数日だけのつもりで、常駐はしないからどうでもいいんだけど。


  外でファリナセアさんが暴れ始めた雷が鳴ったので、大急ぎでPCをシャットダウンした。ほんの一瞬の停電ですら、ぎりぎりの精度で回転している最中のHDDには致命的だということを、昨年実体験として学んだから。
  「(HDDが)死ぬのは嫌、死ぬのは嫌、死ぬのは、イヤー!」(アスカ風に)


  Yo!胃~之煮#31、こやま氏から西垣氏への「えー、なんで『豪快』?」の容赦ないツッコミが。この時点ではまだ、こやま氏は西垣氏のことをかなり年下だと思っていたのだったか(※この2年後の裸婦#43でようやく知られた)。遡るとベスト#04では、西垣氏が〆の一言に長考呻吟しているところを、こやま氏がツッコんでいたり。



  06/07(Thu)

  フィギュア用のスタンドの底面を鏡面仕様にして、スカートの中を覗けるようにするとは……よくこんなことを思いつくなあ……。いや、フィギュア界隈ではわりとありがちなのか?


  『その大樹』、Ver.1.10公開。うーん、今回もまたこんな修正か……。効果の高かったスペシャルコマンドやスキルを弱めて、弱かったものを向上させるという、いかにも無難に均した感じは、どうも好みではない。表面上はバランスを取っているが、尖ったところを丸めていくのは、作品の面白味を消してしまっているのではないかという疑念が……。Ver.1.01のままにしておこうかな。
  「玉座で敵を城の入り口までふっとばす確率を下方修正」というのは、プレイスタイルによっては、ゲームの難易度を一変させるクリティカルな変更かも。「三人部屋・異常耐性」は、部屋名のとおり異常耐性が上昇するのなら、スキルと装備を併用して異常耐性100%にできるのかな?
  そういえばスキル「幻斬り」「神鳴」のことを失念していた。スキル記事に加筆。


  ん? 6月5日、ろくがつご、ごんち……ああっ、ごんちさんだった! すっかり忘れてた!
  この日が誕生日だった皆々様に、遅ればせながら心中お祝いの気持ちを念じておきます。
  ていうか、えーと、よんじゅっちゃい? うーむ、全然そんなイメージが無い……。

  『雀神楽』あたりなら、お二人の出演キャラが並んでいるCGを(擬似的に)出せるかな。いや、イチ様は対戦キャラとしては出てこなかったかも。『英雄*戦姫』では、ユニットとして並べられる。オーソドックスなのは『月は東に』。『プリっち』や『むすめーかー』はどうだったか。『ピリオド』はヒロイン級同士だが、立ち絵は一人ずつだし、一緒に描かれているイベントCGも無かったかもしれない。『Chu×Chuアイドる』も、大波氏はサブキャラ役なので、たぶん同時に映っている画面は期待できない。『Maple Colors』も、校内移動マップで並んでいる状態になることがあるかも。

うちにある物理媒体で、取り出せたネタはこのくらい。というわけで今日は(一日遅れながら)感謝の気持ちとともに「はにはにラジオ」を聴いて過ごそう。2004年の録音だから、もう14年前か。/せっかくの秋穂もみじさんの顔が隠れてしまったのは申し訳ない。

  初めての収録でマイクの逆側に立ってしまったという神田氏のエピソードは、たしか浅井氏もまったく同じことを話されていたような……新人声優にはわりとありがちなことなのだろうか。いのくち氏のマイクの高さに届かなかったというネタも、壱智村氏が話されていたことがあったような……。

  個人のプライヴァシーに関わる話なのでなんなんだけど。wkpdを見たら、仏のテニス部長さんが1967年生まれだと書かれていたが、根拠とされているURL(黄組公式プロフィール)をInternet AchiveのWayback Machineで遡ってみても、生年情報が記載されていた形跡は無い。キャリアに照らして見ても、67年生まれというのは腑に落ちないし、誤情報なんじゃないかなあ。


  ボンドルドの人格をどう捉えるかは、ひとによって解釈が異なるだろう。優先順位をつけてそのとおりに遂行できるという(極端に)理性的な人物なのか、二重人格と言ってよいほど割り切りがよいのか、それとももっとシンプルにいわゆる「サイコ」な性格なのか、精神的にタフなのか、端的に良心が欠如しているだけなのか、人の尊厳を認識していないのか、傲慢な独善家なのか、アビスに囚われた末路の一つのありようなのか、探窟家精神の一つの極限形態なのか、主人公リコのダークサイドモデルなのか、こうでもしなければ2000年の問題を解決できないからなのか、精神隷属機の被害者でもあるのか、表面上礼儀正しいマッドサイエンティストなのか、反社会的な悪党なのか、善悪の彼岸にいる一種の超人なのか。私としては、「良心を持たない無-道徳な探求者」くらいに捉えているが、彼が物語の中で果たす役割はそれにとどまらない複雑なものなので、彼個人の人格だけを取り出して論じてもあまり意味が無いのかもしれない。


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  所用があってあちらにログインしたついでにいろいろ検索していたら、なにやらこんなコメントが。私の趣味の文章に対してこんなにまとまった感想をもらえたのは初めてかもしれない。内容については、いろいろ思うところがあるので、簡単にメモしておく。

  論旨に関して。そもそもあの記事は、「(兵器等の軍事関係の)知識が創作を刺激する」という主題で書いている。そのことを、1) ミリタリー嗜好や実在兵器描写がアニメやゲームに流入しやすい構造的事情を概観し、次いで、2) 具体的な実在兵器の知識が新たな物語や深みのある描写を下支えしている実例を紹介している。ここでは、「制作サイドが実在兵器が好きだからということ」「制作サイドの人間が実在兵器や乗り物が好きだからというまったく単純な動機」はべつに否定していない(むしろ明確に言及している)が、それは本題ではないというだけのことだ。「この記事の論調は効果ばかり語っていて」と言われるが、私はまさにそれを論じることを目的にしていたのだから、そのこと自体に不平を述べられても困る……。
  ちなみに、ミリタリー趣味者がいかにアニメ等に流入しているかという視点は、それはそれで実証的に跡付けられればアニメ史研究として面白いかもしれないが、信頼性のある調査をやりきるには莫大な手間が掛かるだろう。「あくしず」が出来るよりはるかに以前から、ミリタリー趣味はあらゆるところに現れていたのだから。

  実在兵器のスペックが演出に役立っているという話。架空兵器でも同じようなことは出来るが、実在兵器のスペックに関する知識および評価は膨大な蓄積があるのに対して、架空兵器に関してそれに匹敵するほどの詳細で説得的な設定を一から作り上げるのは、かなり困難だろうし、可能だとしても高コストにつくか、あるいはシェアドワールドのような協働的創造になるだろう。これは本文ですでに述べたことだが。この見解を「見当違い」と言われているが、どうにも納得できない。むしろミリタリーマニアこそが、そうした実在兵器に依拠したスペック語りに好意的だろうと考えていたので、この反応はかなり意外だった。
  ちなみに、架空兵器でも同じような効果が得られる筈だというが、それはそれで構わない。私は実在兵器の知識が創作と結びつくという話をしているが、同じように架空兵器の創作的設定が物語展開と結びつく可能性を否定しているわけではない。くりかえし言うが、それは本題ではないというだけのことだ。論述をする際には、主題と明確にし、論点を限定し、客観性のある記述をするのが当然であって、そこで捨象されるものは当然出てくる。この方は知的能力の高いクールな人物のように見受けられるのだが、そういう種類の文章は読みつけていないのだろうか。

  名称の表記――例えば愛称の「グリペン」ではなく正式名称の「JAS39」と呼んだ――は、アカデミックに慎重な議論をしようとする場合は、むしろ普通のことではないかと思う。ミリタリーマニア風の語り口には寄り添っていないが、べつにそれは私がミリタリーマニアのことが嫌いだとか無理解だというせいではない。ミリタリーマニアの情緒から距離を置いた文章であるの確かだし、それでミリオタ諸氏を嫌な気分にさせてしまうならばいささか申し訳ないとは思うけど、それはどうしようもない。客観性を持つように正確に書くというのはこういうことなのだから。
  あと、わたしはアニメオタクじゃない。あるいは、少なくともアニメオタク向けの内輪文章として書いてはいない。アニオタでもなく、ミリオタでもなく、評論もどきでもなく、オーソドックスな芸術(創作)過程論として論じている……のだが、AVG演出技術論の時と同様、こういう視座設定は理解されにくいのかもしれない。

  この人物は、ミリタリー方面に関してはおそらく私よりもはるかに知識の深い方とお見受けするので、ミリタリー愛好者からはこういう印象を持たれるのかという点でずいぶん参考になった。しかし、この人物が何を期待しているのかが、私にはよく分からない。私は表現効果とそれをもたらす知識の分析を行ったのであって、ミリタリー愛好家の心情に寄り添ったりミリオタクリエイターの「熱意」を讃仰したりするために書いたわけではない。「ピンぼけ」呼ばわりされたのは心外だが、おそらくこの人物が期待したフォーカスと私が目指したフォーカスとが違っていたのだろう。

  それ以外は、事実関係や各論的議論へのツッコミは無かった。そのことにはちょっと安心した。なにしろ、素人的反応として、「『○○』というタイトルが挙げられていない!」という類の非生産的な無いものねだりはわりとありがちだから……。幸いにもこの人物は、そういう種類の幼い人ではないようだ。

  ちなみに、AVG演出技術論の際にも、意図的に『Fate/sn』のことはほとんど言及せずに済ませていた。有名作については他のオタクたちに分析を任せたいというのもあったし、それ以外の多くの優れたタイトルにも注目してもらいたいという気持ちも強かった。


  アニメも漫画もゲームも、もちろん間違いなく「アート(芸術)」に属するのだが、そのわりに芸術学の基礎的認識がその受容者たちの間にまるで普及していないように見える。例えば芸術作品の解釈、芸術の社会的意義、作者の地位、芸術表現の特殊性、等々。そのような欠如が、例えば原作とアニメ版の関係や、芸術表現における反社会性の評価などの問題に際しても、議論を素人的な言いっ放しに終始させている光景が、残念ながら散見される。
  私自身も、専門家ではないから、知識の欠落や誤解は多々あると思うけど。


  ああ、そうか、一般的なミリオタ兼アニオタの人だと、例えば「戦艦大和をこの作品ではこんなふうに描いたが、あの作品ではこんなに緻密に表現した、その作品ではこんなアレンジをしてみせた、こちらの作品ではこんなディテールまで考証して再現している、すごい!」といったような味わいを楽しんだり、それを文章にしたりするものかもしれない。うーん、そういう心情は、それはそれで分からないではないし、私も一例としてメルカバを取り上げて、そういうことが出来るよねという言及はしている。
  個々の実在兵器は、創作物のテクスチュアが意味を形成するための素材の一つであり、それゆえ作中での実在兵器の扱われようを手掛かりとして作品の意味作用を解釈することは出来るし、わりとオーソドックスな分析手法でもある。それをちょっとだけアレンジすれば、ミリオタ好みの文章になるのかもしれない。
  作品解釈のための具体的な分析でありつつ、同時に作品横断的な比較と展望を持つことができるという意味で、個別モティーフの分析は有用だ。もちろん、「実在兵器」以外の様々な要素を取り上げることもできる。

  モティベーションが高まったので、アニメ的スケモをもう一つくらい作ってみよう。



  06/06(Wed)

  今日の例の件。センセーショナリズムに流されないように、できるだけ慎重に自分なりの判断を言葉にしてみたい。とはいえ、論点が多岐に亘るので、うまく整理できそうにないが。

  1) 声優を矢面に立たせているようで、居心地が悪い。
  事態を公然化させたきっかけが声優たちによる一斉降板だというのは、制作サイド各アクターたちが協議したうえでの判断だろう。企画全体に対して決定権を持っているアクター(例えば製作委員会やプロデューサー)がみずから表立って決断を下してアクションを示すのではなく、声優たちのアクションというかたちで最初に事態を表面化させたのは、声優たちをいわば避雷針または暗黙の代弁者として利用したようなものだ。
  たしかに声優は、ミニマルに言えば12回なり13回なりの収録に出るだけであって、企画立案に関与する立場ではなく、外部からの共同作業者にすぎない。だから、なにかしら問題が生じた時に、機動的に行動できる――その企画からの離脱を含めて――のは確かだ。しかしこのような間接的なかたちで事態を問題化させるというのは、制作主体がみずから責任(説明責任)を引き受けることを誤魔化して、説明責任をパージしたようなものではないか、という疑念が拭えない。
  もっとも、背景事情の一つとして、たいへん不幸なことに、出演予定の当該声優たちに対する誹謗等があったらしい。しかし彼等は、企画の存立および内容に関して本来責任を負うべきではないにもかかわらず、PR的に露出してしまいがちな立場にある。そういう彼等を、最初に逃がして彼等の安全を確保した、という可能性も考えられる。
  他の事例でも、声優に謝罪させる例があったようだし、こうした企画を動かしていく中で、声優個々人は比較的弱い立場に置かれやすいと思われる。その点で、私は今回の件に強い懸念と疑念を抱いた。声優には、避雷針のような役回りを演じさせるべきではない。

  2) 声優と、出演作または原作者との間の関係や如何。
  なにかしら社会的に問題がある(かもしれない)作品に出演した時、はたして役者はそれに関してなにかしらの社会的責任を負うのだろうか。また、その責任は、作品の内容そのものに関する責任を共同して負うのか、それとも、そのような作品に出演したことについてのみ、自ら責任を負うのか。さらに言えば、「役者がある作品に出演することによって、その作品の内容と出演した役者のアイデンティティ(価値観)は、ストレートに結びつけられてよいのだろうか」という問題もある。
  上述のように、基本的には、個々の声優は企画内容(例えばストーリー展開)に容喙することは無い。ただし、先頃村川氏の件で論点になったように、いわゆる「NG要素」を表明することはあるし、声優事務所とともに当事者間で内容上の再検討をすることもあるようだ。とはいえ、基本的には、企画内容を左右するような裁量権は持っていない。また、仕事を請け負う段階(オーディションに参加していく時点)でも、作品内容の詳細が知らされていないことも間々あるようだ。こうした条件に鑑みて、一般論として言えば、出演声優は原則として作品内容の社会的意味には責任を負わないと考えるべきだろう。あるいは、もしも当該作品が、公表されるべきではないなんらかの不正義を含んでいるとしても、まず非難されるべきは監督であり製作委員会であり出資者であるはずだ。また、出演した作品が、ある特定の信念を表明しているように見えるように解釈されるとしても、それは出演者自身の信念と同一視するべきではない。ましてや、役者に対する脅迫行為(刑法上の脅迫罪に当たるような行為)は、一切許されるべきではない。

  3) 芸術作品の社会性。社会的存在としての芸術。
  ただし、ある芸術作品から、その必然的な解釈として反社会的メッセージが見出される場合には、問題は難しくなる。とりわけ差別表現の場合は、フィクションにおける通常の犯罪行為(例えば、架空のキャラクターを殺害する殺人行為)とは異なって、差別表現の毒は、フィクションの枠内にとどまらず、現実世界にまで漏れ出てくる。
  私個人としては、フィクションの中で悪を描くこと、悪を肯定的に描くこと、ピカレスク(悪人主人公の物語)を描くことは、可能なかぎり広く自由に認められるべきだと思う。道徳が虚構表現を断罪することは戒められるべきだと思う。そもそも、悪人の言動が描写されているとして、それが「肯定的に描かれている」かどうかは解釈の問題だし、また、悪人の言動が肯定的であるように描かれているとしても、受け手がそれを現実には肯定されるべきでない行為だと認識できるならば害悪が生じているとは言えないはずだ。そして、ここにいう「悪」には、差別という悪も含まれる。仮に日本人が醜悪に描かれようが、アメリカ人が愚かに描かれようが、インド人が邪悪に描かれようが、ドイツ人が悲惨な目に遭おうが、受け手の良識によってそれをあくまで虚構の枠内に封じ込めたうえで鑑賞するというのが、創作に対する望ましい姿勢だと思う。それが現代社会においてどれだけ可能であるかは、もはや分からないが。
  ところで、芸術表現は、他の表現(政治的表現や学術上の表現、あるいはその他のあらゆる日常の表現)と比べて、特別に強い保護を受けるべき特権を持っているのだろうか? 我々の現代社会は、この問に対してイエスと答えるのをいよいよ難しくしているように見受けられる。とりわけ、芸術表現の体裁を取ったナマの政治的主張のようなものも存在するし、芸術表現が作者や作者の属する社会の価値観を多かれ少なかれ反映しているというのは、古来およそほとんどの芸術分野に広汎に見出されてきた現象だ。
  今回の件では、私は作品を読んでいないので個別的具体的な判断はできないが、あらすじを見たかぎりでは、作品それ自体がストレートに現実的な差別的主張を展開しているというわけではないようだ。もしもそうならば、アニメ版まで事前封殺してしまうのは行き過ぎになってしまうのではないかという懸念がある。

  4) 作者の責任と作品の生命を結びつけてよいか。
  今回の件では、主に作者(原作小説の作者)の発言が槍玉に挙げられているようだ。ざっと見たかぎり、まったく賛同できないものだが、しかしながら、原作者の作品外部での発言を理由として、アニメ版作品の命を失わせることは、はたして正しいのだろうか。また、作者が作品内容を修正することを要求してよいのだろうか。この問は、いくつかの論点が含まれる。
  a) 作者に対する社会的制裁として、作品を終了させることは、正しいか。
  b) 作者の発言は、作品の解釈を規定するのか。
  c) 原作者の不行状や犯罪行為に対する非難は、派生作品にまで及ぶのか。
  d) 作品(企画)の側から見て、どの範囲の制作関与者の不始末が、作品に影響するか。
  e) どのような事情であれ、第三者(世間全体)が作品内容の変更を求めてよいのか。等々。

  a)について。作品外部における作者個人の発言は、あくまでその発言のみを標的として批判すべきだ。作品は作品であって別物として扱うべきだ。また、クリエイターにとっては、作品を売ることは当人の主収入そのものを意味する。なにかしら正義に悖る言動があった場合でも、当人の生活の道そのものを致命的に断ってしまうようなことは、社会的制裁としても過剰なのではないか(※そもそも、「社会的制裁」などというものは極小化すべきだと思うが)。理屈としては、犯罪行為から利益を得ることを防止するために、犯罪者の営利活動そのものを停止させる(資金を提供しない)というのは、ごくまっとうな対応だ。しかし、今回の件は、それほど直結しているのだろうか?
  b) 作者がなんらかのは発言をしたとしても、その者が発表した芸術作品がすべてその発言の趣旨に合わせて受け止められねばならないということは無い。芸術作品の解釈(作品の意味の創出)は、作者の意図を超える。その意味でも、作者が偏見に満ちた発言を開陳していたとしても、それを作品内容の不当性へと素朴に反射させるのは、理屈としておかしい。
  c) 今回の件は、アニメ作品に対する原作者の発言にすぎない。アニメ作品の制作主体は監督およびその指揮下にあるスタッフであり、また製作委員会のような組織によるものだろう。一原作者の発言を、アニメ作品の制作に影響させてよいのだろうか。小説版原作の作者がアレだったとしても、それを理由としてアニメ版の制作から降りるというのは、現実主義的なリスク回避的対応としてはともかく、筋に合わないのではなかろうか。アニメ版の作品が、単独の芸術作品としてその自律性、主体性が認められておらず、――もしもこう言ってよければ――たかが原作者の発言に左右されてしまうほど軽く扱われているというのは、アニメ制作にとって悲しいことではなかろうか。
  d) さらに言えば、原作者以外の制作関与者であったならばどうだろうか。例えば、TV番組やアニメ作品が、一出演者がのちに犯罪行為を犯したがために、封印されてしまう(配信停止や絶版扱い)にされてしまうという実例が、近年にも複数存在した。それらの対応は、はたして正しいのだろうか? 作品は作品、個人は個人の問題ではないのか。個人が犯した犯罪の社会的責任は、あくまで当該個人にのみ向けられるべきであって、その者が人生の中でたまたま関わり合った作品(の制作者たち)にまで被害を及ぼすことは、不当ではないのか。そして、過去の封印作品の実例についてこのように考えるならば、今回の件に対しても同じような姿勢を取るべきではないか。
  e) 原作者は、自作(小説版)の一部表現について、表現を修正するつもりがある旨を述べているとのことだ。この人物の(作品の外部における)国籍差別発言は、一瞥してうんざりほど愚かで醜悪だと思うが、しかし同時に、自作を望まぬ方向に(?)改変することを事実上強制されるのは、クリエイターとして悲しいことだろうな、とも思う。作品は読んでいないから詳細は分からないが……。

  大雑把にまとめると、私の関心は以下の二点だ。すなわち、「芸術作品の自由(不道徳な表現の自由)は、どんな場合でも、できるだけ広く残しておきたい」ということと、「声優さんやアニメ版制作スタッフが可哀相だな」ということ。とりわけ、創作物の内容をベタに受け止める道徳的断罪や、作中に見出される要素を単純に敵味方に色分けする政治的断罪について、このブログ上でもくりかえし危惧を表明してきた。今回の件は、ほぼユニヴァーサルに強く批判されるべき「差別」要素が問題になっているが、それでも「作者と作品の関係」や、「原作者と派生作品の間の関係」などについて、いささか危なっかしい飛躍(帰責対象の拡大)が見られるし、さらに声優を矢面に立たせているのではないかという各論的懸念もある。単純に「悪いことを言った作者が懲らしめられて良かった」といったような事態ではなく、危険な一歩が踏み出されてしまったように思う。芸術と社会の間の関係は、いったいどのようにしたら、公正なかたちであり得るだろうか。これについては、本当に慎重に考え続けなければいけないと思う。

  というか、最初に述べたように、アニメ版はアニメ版で制作主体がきちんと表に出てくるべきじゃないのか……。まるで観測気球を上げて様子見をするかのように、声優のアクションを最初に出させるというのは、どうにもモヤモヤする。今回の発表をする前に、各声優の所属事務所も交えて製作委員会内部できちんと協議をしたにちがいないが、これは「事務所が声優を守った」と言えるのかどうか、どうにも割り切れない。

  ちなみに、監督も、企画主導しているとは限らない(――ということは、「作品の選定や作品内容の調整に関して責任があるとは限らない」ということでもある)。監督は単なる現場統括の「雇われ」であって、実質的な決定権の大半はプロデューサーが握っているという場合も間々あるらしい。ただし、今回の件は、1)アニメ版の製作主体(委員会メンバー)も迷惑を被った側と言えるかもしれないが、見方によっては、2)リスキーなネタに手を出したのが迂闊だと考える人もいるかもしれないし、3)内容次第では、明らかに差別的なメッセージを拡散させることに加担したという評価が下される可能性もある。

  今回の件は、主として原作者自身の一連の発言が問題とされたが、それでは作品内容に関してはどのように評価されるのか、また、作品(原作小説やアニメ版)が終了させられるとすればそれはどのような根拠に基づくか、どのような根拠に基づくべきなのかは、慎重に考えねばならない。
  1) 市場的な利得判断のみに根拠を丸投げすることは、内容に反社会的要素が含まれない場合でも、個別作品が社会的圧力によって封殺されるという可能性を無視している。例えば、最近アニメ化した『ゴールデンカムイ』には、冒頭から日露戦争で主人公が「露スケ」(※漫画版の表現そのまま)を戦場で殺害しまくる描写があるが、仮に現代のロシア人などのなんらかの社会集団乃至社会的勢力がこの描写を不快とした場合、あるいはそれらに対する市場的配慮をしなければ損をするような状況が生じた場合、それは正しい社会的リアクションと言えるだろうか。あるいはさらに遡って300年前、1000年前の物語であった場合にはどうなのか。
  2) あるいは、作品内容が直接的に差別性を含むがゆえに公開停止されねばならないといったような規範的主張を提起するならば、それはそれで作品内容を慎重に吟味したうえでなければならないだろう。そうした規範的主張は、結論をいったん慎重にサスペンドして、解釈の多義性を超えるだけの十分な根拠を明示できるかの検証をきちんと詰めていかなければいけない。さらにここでは、作者個人の(作品制作以前または作品公表後の)発言が作品解釈の証拠たり得るかも問題になるが、上述のように、芸術作品の解釈に際してはそのつながりは必ずしも自明視してよいものではないので、非常に難しいものになるだろう。
  そうした慎重な議論をスキップして、「当然だ」「しようがない」といった結論に飛びついてしまうとしたら、今回の実質的判断(一人の差別主義者が潰された)としては良いとしても、今後これ以外のデリケートな論点――国籍差別以外のなんらかの論点――が問題になった際に、誤った即断的断罪を防止できなくなる虞がある。その意味で、今回の件は、リベラル側の――つまり差別に関する実質的判断としては正しい(と思う)立場の――論調にも、かなり危険な飛躍があるように見受けられる。そうした手続面のショートカットや、その根拠に関する思考の放棄を、私は懸念する。

  原作小説の技術的な拙さを指摘する発言が拡散されていたりするけど……いや待て、差別主義者である個人に対して、その人格に属するあらゆる側面を「袈裟まで憎い」式になんでもかんでも叩くという攻撃性はきわめて危険だし、ましてや、「政治的に誤った主張をする者は、芸術的資質においても劣っている」という連関を想定してしまっているとしたら、これまた芸術に対する政治の侵略になりかねない。そういう下品な批判の仕方は慎まれよ。差別発言に対する「理性的批判」を標榜するならば、まずはみずからの言論姿勢をフェアなかたちに保つべきではないのか。


  私としては上述のように考えたが、はたしてこれが適切なのかどうか分からない。日本のオタク系の領域でこういうややこしい問題が発生した時、慎重に思考して、問題を明晰に言語化して、公平な評価を下している方はいらっしゃるだろうか。こういうとき、わたし、だれにきいたらいいか、わからないの。

  賢明な諸兄諸姉はもっぱら政治的社会的次元から断罪しており、その政治的社会的判断はそれはそれで正しい価値観に基づいてはいるのだが、それを社会の中で完遂させるためのプロセスが正しかったのかという点で見ると、作者個人の発言と(制作主体がその当人ではないにもかかわらずアニメ版の)芸術作品の封殺とを素朴に結びつけて自明視しているのは、芸術の側から見ると、かなり怖い。差別発言であるという規範的批判を提起しておきながら、そのプロセスについては「関係者が撤退したのは市場的判断として当然だ」というように関係当事者の利得判断に丸投げして他人事扱いするのは、社会正義の実現過程に対する評価姿勢として誠実なのだろうかという疑念がある。今回の事態に対して、説明原理としての市場的判断と、規範的根拠としての差別批判とを、恣意的に使い分けている人たちには、それでいいのかと首を傾げざるを得ない。

  作者である個人の意識乃至発言の次元と、作品の存続乃至公開の次元とが区別されなければならないというのは、とりわけ作者と作品が歴史の中に置かれる時に問題となる。ある時代に生きたクリエイター個人の意識や思想が、のちの時代の人々から見ると受け入れがたいほど差別的に見えるということは、当然いくらでもある。偉大な文学者の日記や発言の中にも、あるいは世界的に重要な文学作品の中にも、その者が生きた時代の制約からして、現代の我々の目から見ると致命的に性差別的だったり人種差別的だったりする要素は存在する。人々の規範意識が時代とともに変化していく以上、そうしたことはほぼ必然的に発生する。では、そうした場合に、作品は抹殺され(るべきであ)るのか?

  今回の件では、作品(と作者の社会的生命?)の息の根を止めたのは、もっぱら「現代の日本アニメは中国市場を無視できない」という力学であって、社会正義に関する規範的主張がそのまま貫徹された結果というわけではないだろう。そうした市場的力学は、社会正義に合致するように作用することもある(今回はこちらの実例だろう)が、社会正義に反するような方向に作用することもあり得る。だから、今回の件でも我々は、差別表現が規範的に不当であるがゆえに敗北したのだと素朴に言祝ぐことはできない。そのことを無視してしまったら、社会正義に反するような作用が現れた時に、はたして我々の言論は抵抗することができるだろうか? 規範的主張と記述的説明とをみずから恣意的に混用している人たちは、その危険を看過していないだろうか。
  [tw: 1004295488131100673 ]:この方の問題提起は、私の懸念と相通ずるものだろう。



  06/02(Sat)

  SLG作品の主人公パートヴォイスは、作品の彩りと迫真性を増してくれる良い仕様だと思う。ソフトハウスキャラの『その大樹』などもそうだし、Escu:deの新作『闇染』もこのスタイルになるようだ。純AVGでも、ごく稀に(例えば、特に重要なシーンで)主人公の台詞に音声を付ける例はあるが、唐突感が否めない。それに対してSLG作品では、AVGパートとSLGパートが構造上区分されており、また表現様式のうえでも別物として認識しやすい。だから、SLGパートの主人公キャラのアクションに際して掛け声音声(効果音扱い)を出力するのは、自然な説得力を持つことができる。音響(音声)によって個々のアクションを識別しやすくさせるという機能的考慮もあるかもしれない。

  ソフトハウスキャラだと、『Dancing Crazies』(2005)では、SLGパート上の主人公のアクションに際して、彼に憑依した死神「リンテール」(CVは大波氏)の声で掛け声を出させていた。同様に『王賊』(2007)では、主人公の言葉に代えて、その側近「八重」(CVは森永氏)に喋らせている箇所があった。2010年代に入ると、主人公自身の台詞として男性声優の音声を当てるアプローチが増えている(とりわけチーム++の作品)。

  AVG作品では、主人公の台詞すべてに音声を当てるのはあまりにも高コストにつくため、めったに行われない。パートヴォイスも、上述のように様式的不整合を来すためか、避けられがちだ。そうした中で、1)『ひめしょ!』のようなショタ主人公ものや、2)『おとぼく』シリーズのような男の娘主人公ものは、主人公に(女性声優の)音声を当てるメリットが大きく、実際にそれを敢行した見返りはたいへん大きい。『おとぼく』は、第一作は初版はヴォイス無しだったが後にDVD版で主人公音声追加、第二作は音声あり、第三作(未プレイ)はパートヴォイス仕様のようだ。3)低価格ソフトも、テキスト量が小さく、主人公音声の負担が比較的小さいため、音声付与の可能性がある(実えば『美少女万華鏡 罪と罰の少女』)。4)『脅迫』以来の女性主人公ものも、当然音声付与を前提とする。5)特殊な例だと、「第三者視点のシーンで主人公キャラが登場した場面で、主人公キャラに音声が付いている」というのもある。たしか『カルタグラ』にそういうシーンがあった。


  綾音氏がフリーになられたのか。桃組の若手~中堅の中では図抜けた実力を発揮していた方だから、フリーでも十分やっていけるだろうし、望めば他の事務所からも歓迎されるだろう。
  (桃組を離れても、ソフトハウスキャラ作品には今後も出演していただきたいなあ。桃組十把一絡げの中で、ほとんど唯一の希望の星だったから、この方がいなくなるとつらい。)


  今月はどうしようかな……。まとまった時間が取れるか分からないので、規模の大きな作業(例えば大型プラモとか大作ゲームとか)には手を出しにくい。特定のクリエイターに注目して作品を遡っていくというアプローチで、いくつか平行してやってみようかと思う。


  ◆◆◆あっ、あっ、あっ、サルミアッキを食べる手が止まらない! わりと食欲はコントロールできる性質だと思っていたのに、まさかこんなところに陥穽が……。ほとんど依存症を疑うレベルでずっと食べ続けているし、しかも食べていて気持ちいい……気持ちいい! しかもまだ3箱もストックがある!

  呪いの魔剣、もとい◆◆呪いの魔菓に病みつき乙女◆◆……乙女じゃねえ!

  一箱は約50個入り。ということは、1個あたり15分味わっていられるとすれば、休みなしに食べ続けるとほんの12時間程度しか保たない。ああ、なんて少ないんだ、◆◆が切れたら私はどうすればいいんだ。
  ちなみに、多少なりとも塩分補給の効用はあると思われる。今のところあまり汗はかいていないが、夏場には向いているかもしれない。また、喉が渇くので、水分補給が促されるという副次効果もある。……あれっ、むしろ寒い北欧のお菓子じゃなかったっけ……。


  [tw: 1002763666314256384 ]
  まったく同感。少なくとも修士レベルまでであれば、指導教員も弟子の発表の不出来に責任を負う。対外的には、指導の失敗として面目を損なう事態であり、偉ぶって弟子を叱責していてよい場面ではない。
  また、学会であれ研究会であれ、発表の場には優れた研究者たちが真剣に参加している。だから彼等に無駄な時間を過ごさせてはいけない。そのこともあって、同席している指導教員は、発表の場では沈黙を保っていることが多い。指導をするのはそれ以外の場でも出来ることだし、また、他の参加者たちが質疑を行えるように譲るべきだからだ。
  もっとも、そもそも修士以下の院生乃至学生が外部の研究会や学会で発表することはそうそう無い。ほんの一年数ヶ月かそこらでは、その道の研究者に聴かせられるような内容のある発表はなかなか出来ないからだ。

  ただし、博士課程以上になると、自立した研究者として必要な能力を備えている筈だ、そうでなければいけない、という見方も強くなる。そのため、とりわけ内輪寄りの研究会などでは、まず自分が率先して全力で発表内容をぶっ叩くという指導教員もいる。それはむしろ、発表者を自立した対等の研究者として扱っているが故の行動だ。
  どんなに優しい先生でも、対外的な発表の場ではけっして助け船を出さない(議論の進行はともかく、少なくとも内容に関する応答にはけっして口出ししない)というのも、これに関わる。発表者に向けられた問は、発表者自身の思考によって応答すべき問題であり、そこに指導教員が口を挟むことは発表者の研究上の自律性に対する侵害になるからだ。
  発表内容を厳しく吟味するというのは、もちろん、属人的な悪意ではない。可能なかぎり多角的に、できるだけ慎重に、そして一切の妥協なしに、より良い議論を導こうとするために必要なことだ。粗があればそれを見逃さずきちんと客観的な検討の俎上に載せることは、発表者が提示した立論を鍛え上げるためのプロセスであり、そして人類が獲得する知をより良いものにするための営みなのだ。お為ごかしの内輪褒めなどというのは、時間の無駄にすぎない(――もっとも、領域によっては、ディーセントな尊重と敬意の姿勢を表明し合うことにもうちょっと寛容な学会もあるかもしれない)。


  繊細に揺れ動くフォーレの室内楽を、最近繰り返し聴いている。
  (いや、ここはシベリウスあたりを聴くべきなのか?◆◆◆)


  (→7月5月