2018/05/31

2018年5月の雑記

  2018年5月の雑記。(→6月4月


  05/31(Thu)

  紅村氏の初単行本は、せっかくだから2冊くらい買っておこう。
  じゅーはちきんコミックを買うなんて、いつ以来だろう……どきどき。


  [ comic-meteor.jp/kagaku/ ]
  第62話。なんで扉絵がいきなり石抱きに?と訝ったが、「押し潰す」話だから内容は合っているのか、うんうん、そうか、じゃあべつに拷問したいわけじゃなかったんだねよかったよかった。
  (それどころかむしろ、「可愛いキャラたちを工作機械でぐしゃりとプレスする」という本編の趣向それ自体が、このうえなく変態的なのだが、通常の人はこれが変態的思考の所産であることにそもそも気づかないだろうから、その意味では無害と言えるかもしれない。認識されない変態は変態ではないのだ。)


喜び勇んで紅村かる氏の初単行本を買ってきた。ちょうどMelonととらは、それぞれ特典冊子が付いていたので、得をした気分(画面左)。差し障りのありそうな箇所は、サルミアッキで隠してある。

  ざっと一読してみたが、余裕のあるユーモア感覚が私の好みに合って、楽しく読めた。半分くらいはすでに雑誌で読んだことがあった――まんだらけで探し出した――が、読み返してもやはり十分面白い。アダルトゲームの原画家としても、贔屓目抜きに言ってもトップクラスに上手い方だが、漫画家としても、カラーページのしっとりとした肌艶から、クリアカットなキャラデザ、隙のない堅牢なコマ組み、生きの良い表情、しっかりした人体描写、色気のある曲線の描線と、たいへん読み応えがある。男性側と女性側が、お互いにきちんと気持ちで向き合っているのも、読んでいて安心する。また、初々しい勢いのよさとリアリストなしたたかさが混じり合っているのも興味深い。

  以前にtwで書いていた感想は、以下のとおり。
  [ twilog.org/cactus4554/date-101011 ]。「恋愛デスフロン」について。
  [ twilog.org/cactus4554/date-101204, 101205 ]。「Operation : Eats The Cherry」について。


  特典冊子は、とらが裸婦画ラフ画集(4ページ=4枚)。Melonはキャラクター設定画(全身立ち絵)やボツ案など、8ページ。それ以外にも、イラストカードなどを付けている店舗がある。

  アダルトコミックは買い慣れない。表紙や裏表紙が露骨にセクシュアルなイラストになっていることが多くて、レジに持って行くのに心理的抵抗が強い。しかし、それで店内で躊躇していると、アダルトコミックコーナーに長時間滞在してしまうことになり、それはそれでつらい。
  そうやって悶々としているうちに目に止まったのが、小梅氏――『サフィズムの舷窓』『ねこねこマシン猛レース』などの原画家さん――の単行本。奥付を見ると新刊ではなく、昨年1月に発売されたものらしいが、フルカラー140ページ以上で1200円とは、ずいぶんお得だ。

  小梅氏の本も読んでみたけど……ううっ、フルカラーのえろまんがは、なんというか、情報量が多すぎて、おそろしくハードな読書体験になってしまう。しかも、最初から全力で飛ばしまくる多人数もの(つまりオージー)なのも、密度過剰ぶりに拍車を掛けている。ほんの20ページ読み進めるだけで、私の心はキャパオーバーして、へとへとになって本を閉じてしまった。
  それにしても、「ち○ち○カップル猛レース」とは。ちょうど上で言及した『ねこねこマシン』――そしてさらなる元ネタの『チキチキマシン猛レース』――が思い出されて、微笑ましい。
  ちなみに、ペラペラっと見てみた感じでは、どうやら眼鏡キャラが多い模様。さすがは小梅氏、期待どおりだ。


  『開田さん』。最終話らしく、二人の関係(距離感)そのものに斬り込んでみせて、そして最後はきれいに締め括った。さすがの練達ぶり。単行本も出るようで、ひとまず安心。


  そういえば、アダルトコミックと併設でアダルトアニメも置かれていた。今後のために、さしあたり「メリー・ジェーン」の作品一覧をここ5年分くらい浚ってみると:
『魂インサート』シリーズ(2017):桃山氏、白雪氏。
『虜ノ鎖』シリーズ(2017):瀬名氏、蒼依氏ほか。
『都市伝説(4)』(2017):白雪氏。
『アマカノ』シリーズ(2016, 2017):木村氏、秋野氏。
『闘技場』シリーズ(2015, 2016):蕪木氏。
『厳格クール先生』(2015):ももぞの氏。
『夜這いする七人』(2015):秋野氏ほか。
『メスのち』シリーズ(2013):木村氏。
『ツンツンメイド』シリーズ(2013):桜川氏。
『姦染5』シリーズ(2012):西野氏、みすみ氏。
『オトメドリ』シリーズ(2012):(神代氏であるらしい)、白雪氏。
『HHHトリプルエッチ』シリーズ(2010, 2011):風華氏、白雪氏。
  憶えていたら、そして店頭にあったら、このあたりを買ってみるかもというメモ。


  ほにゃらら恋鐘というキャラの名前を見て、なんと読むのだろう、「こいかね」ではなかろうから、「れんしょう」、いや、「鐘(かね)」を「か」と無理に読んで「れんか」あるいは「こいか」あたりか、もしかしたら「鐘が鳴る」からこじつけて「れんな」とか「れな」か?といろいろ考えたうえで検索してみたら、なんと、シンプル(?)に「こがね」であるらしい。それでいいのか。たぶん「黄金(こがね)」の音から来ているのだろうけど、「小金(小銭)」の方を連想してしまうとちょっとまずい。


  『まなびストレート』は、主要キャラが「ま行」だった。なみ、か、つき、い、もは。ももは役は、藤田氏の最初期の主要業績で、えーと、「初音ミク」を演じ(?)る直前頃の作品。

  「初音ミク」は、物語上の役(登場人物、キャラクター)ではないし、ボーカロイドというあくまで枠組的な機能性の体系としての存在であり、「初音ミク」というキャラクターもこの製品をいわば擬人化したマスコット的なイメージに過ぎないのではあるけれど、それでもなおも、一定の同一性、連続性、共通性を有することを想定して創造的な発声をおこなったわけだから、それは単なる音声素材提供にとどまらず、やはり「演じた」と述べてよいと思う。それは現代のテクノロジー環境を前提とした、「演じる」という行為のぎりぎりマージナルな場所にある営みだが、それでもやはり声優による創造的な仕事の一つであることは間違いない。


  【 オタク趣味と、他人の価値観に対する寛容さの涵養(※駄洒落ではない) 】
  どの分野に長じているにせよ、いわゆる「オタク」に属する趣味を持つ人たちは、他人の思想や趣味嗜好に対する寛容さのキャパが大きく、価値観の多様性に対してひろく開かれていると思うのだけど、はたして、いったい、実態はどうなのだろうか。
  1) 対外的に。オタク系の趣味は、ここ数十年来、世間一般の偏見や攻撃を受けている。例えばメジャースポーツや芸能を趣味としている人であれば、このような攻撃を受けることはなかなか無いだろう。その意味で、オタクとして生きている人たちは――個人差があるとはいえ、平均的にいえば――個人の趣味や内心の自由を尊重することの重要性について、意識が鍛えられていると期待してよいだろう。もっとも、それは押しつけられた社会的不幸の副産物であって、素朴に言祝ぐことはできないのだが。
  2) 対内的に。オタク趣味はそれ自体、内部にきわめて多様多彩で種々雑多で玉石混淆で滅茶苦茶でカオスで千差万別で爆発的に豊饒なコンテンツを含んでいる、巨大で複雑で不統一な文化的プリズムだ。そうした文化領域では、オタクたちは、自分の意見や感性とはまったく異なった作品や、自分には想像もできなかったようなイラストや、自分にはまるで受けつけない趣味嗜好に頻繁に出会うだろう。先進的な感性のアニメや、洗練された設計のゲームから、挑戦的な試みに満ちた同人漫画、マニアックな性嗜好をぶつけてくるネットイラストに至るまで。その意味で、オタクとして活動することは、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に、新鮮な知的-感性的な刺激を日々経験し続けることでもある。もちろん、一人のオタクがそれら全てを受け入れられるとは限らない。どうしても分からないもの、好きになれないもの、読みづらいテキスト、不快なイラスト、等々はあるだろう。しかしそれでも、自分とは違った感性や価値観が存在するのだということを、きわめて容易に知りうる機会になっていることは確かだ。こんなにもエキセントリックな思考をする人がいるのだということ。自分とは違った性嗜好を楽しんでいる人がこんなにも多いのだということ。自分の知っている作品から、こんなふうに、あんなふうに、二次創作のイマジネーションを広げることが出来る人たちがたくさんいるのだということ。こんなびっくりするような素晴らしいイラストを、自分よりも何十年も年嵩のクリエイターや、自分よりも十何年も年下の暇人たちが、描いているのだということ。そうした日々の体験は、人間の多様性や可能性を強く意識させるだろう。
  もちろん、オタクの中には、偏狭な固定観念に凝り固まっていたり、若い頃にたまたま出会った作品を刷り込み(インプリンティング)のように受け入れてそこから出られなくなっていたり、あるいは感性のキャパシティが致命的に小さくて時代の変化についていけなかったり、好き嫌いが過度に激しかったりする人も少なくないだろう。しかしそれでも、総体としてみれば、人類の全体平均や日本人の全体平均と比べればいくらかはマシなのではなかろうか。
  もちろん、オタク活動をすることは、べつに「人として善くあるためのよい手段だ」などと言いたいわけではない。しかし、この世にあって人として生きるうえで、趣味の楽しさそれ自体に加えて、追加的になにかしら少しでも良い作用をも持っているとしたら、それはそれで嬉しいことだ。

  もちろん、二次元オタク系の趣味だけでなく、古典的な芸術諸分野(美術や音楽や小説)、あるいは写真、旅行、料理(外食/自炊)、手芸、等々も、ひとの視野を広げてくれたり、新たな感性に目覚めさせてくれたりするだろう。
  ただし、スポーツは、人間の可能性の垂直的な広がり(たとえば「上には上がいる」とか)は意識させられるとしても、水平的な広がり(多様性)に対してはあまり好意的ではないかもしれない。また、園芸やアクアリウムのように自然物のみを対象とする趣味も、人間性の広がりをもたらしてくれるかどうかは分からない。


  ◆◆◆またサルミアッキを取り寄せた。なんかもう、食べていて涙が出そうになるほど好きになっている。どうしてこんなことに……モグモグ。届くやいなや、食べる手が止まらなくて、さっそく一晩で一箱の半分くらい食べてしまった。ああ、サルミアッキに縁のある国の出身のキャラクターの中の人の芝居が好きになったことが、こんな巡り合わせになるとは。(迂遠だなあ)
  私が食べているのは、Fazer社の紙箱(※上の写真を参照)。サルミアッキを名乗る商品の中では、このメーカーのものはわりと味がマイルドであるらしい。他の同種商品は、もっと匂いのきついものや、もっと苦みの強いものもあるようだ。


  マウスホイールに、微妙に引っかかりが生じるようになったので、分解してお掃除。ホイールの動作は指先の神経に敏感に跳ね返ってくるので、ほんの少しでも軋みが生じると、たいへん気に障る。今回は、埃を取って軸を拭ったらホイールスクロールがなめらかになり、たいへん快適な動作環境を取り戻せた。
  マウスは消耗品であり、それゆえ基本的に分解と組み直しを想定していない作りになっているが、たいていは細めのプラスドライバーが1本あればなんとかなる。


  久しぶりにキャスト「エニグマ」を触ってみたけど、それほど難しくはないかなあ。というのは、
1) すべてのパーツがはっきり見えている。構造上のブラックボックスが無い。
2) 出来ること(動かし方)が限られているし、「ここを使えばいいんだ」というギミックも明快。解法の紛れもほぼ無い(ただし組み直しは面倒)。
3) こういう状態を目指していけばいいんだ、という目標が掴みやすい。
4) 途中で、いったん状況がきれいに整理できるので、一息つける。
5) パーツの微妙な凸凹やギリギリの噛み合わせを利用するようなパズルではない。
といった助けがあるので。ただ、正統派らしい歯応えはあるし、こんな不思議な形状のパズルが存在する(人間によって作られた)ということそれ自体が心躍らせるものだ。

  一番好きなのはキャスト「マーブル」かな。デザインがクールだし、構造がほぼ見えていてヒントになっているし、解き方もきれいだ。分かれば一瞬で解けるようになってしまうけど。古典だが「デビル」も面白いし、「バロック」も視覚的な楽しさがある。「スクエア」は大嫌い。ブラックボックスものだし、二度目は解いている最中に落としたはずみで外れてしまうという最悪の結末を迎えた。


  たねざきさんは、すでにして最高であり、そして最高を超えてさらにもっと先へ進んでいくであろうと信じられるので、視聴者は――私(たち)は――ただ耳を澄ませて聴いていけばいい。その意味では、視聴者は実に気楽なものだ。「こんなふうに演じてくれるだろう」などと先回りで妄想しようとする必要など無い。実際に役者が作り上げる芝居を、聴き漏らさないことだけ気をつけつつ、聴き惚れていればいいのだ。


  [tw: irodori7/status/1002198833990848513 ]
  かどわきさんが声を当てているこのシリーズ映像。二人のキャラクターが一人ずつ台詞を切って順番に喋り合うのではなく、相手の科白の終わりを待たずに、どんどん相手の科白に被せていっている――芝居のジャーゴンで言うと「食う」ように演じている――のが物凄くスリリングに聴こえる。共演者の科白を「食う」芝居は、演劇では通常は禁則とされるが、ここではおそらく意図的に、相手の科白を食いまくっている。
  [tw: irodori7/status/968835036911824897 ]
  以前のこちらの映像では、その傾向がさらにはっきりしている。通常のTVアニメの音声芝居とは大きく異なったスタイルだが、この食い気味の芝居は明らかに映像の動き(キャラクターの所作)と対応している。これがプレスコかアフレコかは分からないが、いずれにしてもディレクションのレベルから意識的に選び取られているものだろう。単なるアドリブ的なライヴ感の発露などというものではなく、特定の表現効果を目指したクールな空間的時間的設計の産物だと考えるべきものだ。

  つくづくアニメーション(の音声芝居)は、様式とそれに対する挑戦の問題なのだなあ。



  05/29(Tue)

  間接攻撃のメリット。
1) 一方的にダメージを与えられる。反撃の被害を受けない。
2) 直接攻撃では届かない(行けない)場所にも攻撃することができる(※対空攻撃の場合も)。
3) 攻撃回数を増やせる。隣接ユニット数の上限(=直接攻撃の上限)を超えて攻撃できる。
4) その場から移動しなくても攻撃できる対象が多くなりやすい。
  SLGをプレイする際は、こういった強みを活用するように間接攻撃ユニットを運用することになる。この他にも、「自分が相手に発見されないままである」「攻撃手段を選択できる」といったメリットを持つ場合もある。

  その一方で、「弾数が少ない」、「ダメージが低い」、「命中率が低い」、「射程範囲が広くはない」、「移動即攻撃することができない(あるいは攻撃を行うのに時間が掛かる)」、「ユニットが直接攻撃手段を持たない」、「ユニットの防御面が脆い」、「ユニットの移動力が低い」、「獲得経験値等が低かったり、ドロップアイテムをもらえなかったりする(いわゆるマップ兵器の場合)」といったデメリットを付与されていることが多い。


  今月はゲームから音楽から読書から映像まで、かなり充実した趣味生活を送れたと思う。しかし、人間の欲望は限りなきものであって、今度はまたぞろ模型欲が湧きかけている。またシンナーたっぷり吸いてぇよぉー。


  [ ho2ch.vs.land.to/ayaka.html ] → [ dmm-imys.com/ ]
  ほえー、そういえばAUGUSTのそんなタイトルがあったっけねー、と公式サイトを訪れたみたら、なんだかキャスト陣がとんでもない顔触れだった。最初の桐木氏は存じ上げなかったが、沢澤氏→波奈束氏→小鳥居氏の並びを見て「さすがAUGUSTの正統派キャストだねえ」と頬が緩み、続いて桃山氏→藤咲氏→美月氏のお名前が出てきてにやけ顔になり、さらに木村氏の後に白雪氏まで出てきたところで感動を通り越して真顔になってしまった。以前も閲覧したことがあった筈だが、見る度に目を剥くキャスティングだ。大手ブランドはキャスティング面でも全力で、掛け値なしに最高のものを出してこられるのが強みよねえ……。「びしっ!」
  ソーシャルゲームじゃなかったらプレイしていたんだけどね……。それに、DMMだし。

  サンプルヴォイスを聴いて回ってみたが、初めて見るお名前の声優さんも含めて、キャラクターのピントの合ったクリアな芝居を披露されている。どの方も、テキパキとしたテンポでありながら、台詞の細部まできちんと神経の通った、活きのよい芝居をされている。このテンポの良さは、音響ディレクションによるところもあるのかも。

  ついでにいろいろweb検索していたら、『25歳の女子高生』なるアニメを知った。通常版(※地上波放映版)と完全版(※通販サイトなどではアダルトカテゴリーになっている)とで、ダブルキャストになっているとのこと。


  あ、そういえば、『その大樹』関連の記事に「こうりゃく」の漢字2文字を入れていなかった。だから、この作品に関する情報を探している人たちは、素朴に「作品タイトル+その2文字」でweb検索しただけでは、うちが公開している記事(情報)に到達できない可能性が高い。それはちょっともったいないかも……。とはいえ、そもそもggl検索の精度は本当に信用できないから、その程度ではどうしようもないと思うけど。

  ちょうど昨日も、「キノの旅 メルカバ」で検索していて、「そういえば私もブログ記事でこの件に言及していた筈だけど、うちのページが検索結果に出て来ないな……」とがっかりしたのだった。ちなみに、「検索結果をすべて表示する」で全件表示にしても出て来ない。
  1)うちのブログおよび個別ページはクロールされており(※検索語によってはヒットする)、
  2)タイムラグによる遅延やズレでもなく(※最新版がクロールされている)、
  3)検索表示から排除されているわけでもなく(※例えば、アダルトカテゴリーではない)、
  4)明確かつ詳細な言及を行っている(検索語を記事内に複数回出している)のだが、
それにもかかわらず、検索結果に出て来ないのに気づくということが頻繁にある。その一方で、検索ワードとは明らかに無関係なページが大量にヒットする。これは要するに、ggl検索のページ抽出機能そのものに深刻な不備が生じていると考えざるを得ない。
  私は自分の興味のあることをブログに書きつつ、かつ同時に、興味のあることについて検索したりもしているので、結果的に自分自身のブログがヒットする可能性のある語句で検索している。そのため、自分自身のブログを証拠として、たまたま――幸か不幸か――そういったことを認識する機会を得ているが、べつにこれは私一人の利害の問題ではない。私のブログは、webページとしてはいかなる意味でもけっして特別ではない筈なので、同様の影響が他のあらゆるブログにも及んでいると考えるのが自然だろう。また、検索する側について言えば、ひとびとが普段おこなっているggl検索全般が、いかにメチャクチャなものになっているかが窺い知れるということでもあり、なんとも心が冷える思いがする。

  試しに「"キノの旅" メルカバ」としてみたら、58件中の40件目として出てきた。少しでもまともな検索結果を得ようとしたら、できるだけ引用符""を用いて完全一致検索をするのが、一つの有益な手段だと考えられる。とはいえ、ほとんどの人はそうそう完全一致検索を使わないだろうし、そこまでしなければ検索精度が上げられないというのは、やはり標準的な検索結果選別がひどいことになっていると言うべきなのではなかろうか。

  『その大樹』の各記事へのアクセス数を見ると、「ユニット:スキル:マップ=3:2:1」の比率になっていて、なかなか興味深いのだけど、しかしこれは、訪問者が求めている情報の傾向(=『その大樹』プレイヤーが求めている情報の傾向)を忠実に反映しているものと素朴に考えることはできない。というのは、「ヒューマンアクセスである保障が無い(クローラ、スパム、botアクセスが含まれている可能性が高い)」のと、「検索エンジンの仕様によって恣意的に偏向されている可能性が高い」という二つの攪乱要因があるからだ。

  要するに、現在の我々のインターネットアクセスは、
1) 内容の薄いページ、営利目的のページ、悪意あるページ(詐欺目的のページや、消滅したドメイン名の乗っ取りなど)の爆発的増大。つまり、良質な情報コンテンツを含むwebページの比率が相対的に低下しているということでもある。
2) 検索エンジンに対するSEO操作による、検索結果に対する介入と攪乱。
3) 検索エンジンそれ自体の機能不全。
このような3重の不明瞭なフィルターを分厚く掛けられたうえでしか行えないということだ。



  05/27(Sun)

  昨日ゲームに熱中しすぎたせいで、今日は一日中ぐったり。
  読書は気力や体力をあまり消耗しないので、重くないものを選んで読み進める。


  【 相変わらず何の話を念頭に置いているのか第三者にはまるで分からないであろう妄言 】
  ある芸術分野を俯瞰する際に、特定のクリエイターやブランドの影響を適切に評価するのは難しい。伝統的な美術や音楽や建築にしても、あるいは服飾や工業デザイン、はたまた漫画やゲームやアニメにしても何にしても。

  たとえば美術分野においても、ほんの十年あるいは数年の単位で、流行や運動や思潮はどんどん変化している。美術史をほんの少し囓っただけでも、そのことははっきり分かるだろう。現代美術も急速に変化し続けているし、近代以前も(ゆっくりしていたように思われるかもしれないが)ほんの二十年かそこらで様式的感覚は大きく変遷している。西洋音楽史(クラシック)でも、大雑把にはルネサンス音楽~バロック音楽~古典派~ロマン派&後期ロマン派~民族楽派(国民楽派)/印象主義/新古典派/実用音楽~無調といった分類が用いられるが、様式の変化や人的関係を仔細に見ていけば地域や時代ごとにダイナミックな変化が常に生じていることが分かる。
  同様に、現代のアニメに関しても、ほんの十数年前、あるいは時期によってはほんの数年前の作品を振り返るだけで、驚くほど異質な表現が見えてきたり、「今風」ではない演出が多々見出されたり、目も眩むような距離感を覚えたり、作品放映当時の文脈や雰囲気がもはやまったく想像できなくなっていたりする。
  とりわけ現代のコンピュータゲームの場合は、プログラミング技術の発展(技術的要因)、PCスペックの向上(媒体上の条件という要因)、安価かつ高速な常時通信環境や外部サービスの充実(環境要因)といった諸要因の影響が大きいため、ドラスティックな変化がどんどん生じている。70年代後半のインベーダーゲームあたりから始まり、80年代前半に家庭用コンピュータゲームが爆発的に普及し、そしてゲームを動かすプラットフォームとしてのゲーム機のスペックの進化とともに、ゲームの内容(つまり表現形式、システム、画像や音響のクオリティ、作品規模、等々)は不断に推移してきた。PCゲームはもちろんのこと、ここ十年来の携帯電話/スマートフォン上でのゲームに至るまで、プラットフォームの変化に伴われ、その発展に導かれ、その進化に縛られて、ゲームの様式も変化してきた。

  ただし――話を戻すと――、そうした歴史的変遷の中で、特定のアクターを適切に位置づけるのは難しい。例えば、「同時代には甚大な影響力を持っていたが、その後作品も作者も急速に忘れ去られていき、現代ではまるで顧みられなくなった」とか、「当人をよく知るクリエイターたちの間では高く評価されていたが、寡作であったため、世間的にはほとんど知られないままであった」とか、「先進的な試みをおこなっていたが、それらは他のクリエイターたちによって摂取され発展させられていったため、後世の目からは『初期の未熟な萌芽的表現』としか評価されない」とか、「瞠目に値する作品を発表したが、それは余人に真似できるものではなく、当人が創作を辞めるとともにその様式そのものが消滅した」といったような例は無数に存在する。
  例えば、LittlewitchのFFD表現は、たしかに野心的で新鮮味のある挑戦だったが、00年代半ば以降のアダルトゲームの潮流は「脚本長大化」「AVG演出の標準化」に向かい、そのうねりに押し流されるかたちで、LW(やproject-μやApRicoT)の路線は霧消していった。しかしながら、その支配的潮流――Whirlpool、ゆずソフト、AUGUSTなど――の側を追うだけでは、アダルトゲーム史の振れ幅やポテンシャルは汲み尽くせないだろう。
  また、abogadopowersは、主に90年代後半から00年代前半にかけて活躍しており、その当時のアダルトゲームがゲームパートを排除して純粋な読み物AVG(視聴覚演出+テキスト)に傾斜していった中で、物語要素とゲーム要素と性表現要素をすべて一手に引き受けていこうと蛮勇を奮っていたのだが、現在の比較的若いアダルトゲーマーたちにはもはやほとんど知られていないだろうし、そもそも作品に接する機会も…えっ、DMMでDL販売されているのか! ともあれ、そういった挑戦的な姿勢は、現在の北海道のアダルトゲームブランド群の姿勢にも通底するものだろう。90年代半ばから後半にかけてのC's wareも、たいへん刺激に満ちた作品をリリースしていたとの由、わずかながら聞き及んでいるが、それがどのような挑戦であり、どのような(同時代的なor後世への)影響を持っていたかは、時代が下るにつれていよいよ分からなくなっていく。

  またヴァレーズを聴きたくなってきた。自宅内のどこかにあるCDを、掘り出せるかなあ。


  「戦闘機になれるパーカー」というのを知って、先尾翼とか全翼機とか双胴機はどうするんだろうかと考えてしまった私は性格が悪い(そして発想がベタすぎる)。あと、戦闘機カテゴリーではないけれど、BV141のような左右非対称デザインとか、斜め翼のAD-1とかも。
  そういえば、SFメカだと分離機能まであったりする。「分離」と捉えるとちょっとぐろい想像も出来てしまうが、2タイプのパーカーで「合体」できるのだと考えれば微笑ましい感じになるかも。


  「クエンカを侵略しに行くでゲソ!」(いろいろ混ざった)
  留学されるのは、役者としてもきっと良い経験になると思う。人間性や人類文化全般に対する視野が大きく広げられるし、そうしたものに対するキャパシティも拡張されるから。人間のありよう、生き方、メンタリティ、価値観、規範意識、美意識、行動様式、等々に関して、大量のモデルを手に入れることができる。そうした経験は、自分が演じる役の幅を広げることにも直結するだろう。もちろん、特定分野の学問(演劇学とか心理学とか?)について、国内の大学とは多少異なった環境、異なった学習スタイル、異なった内容を学ぶことができるし、海外留学は国内での科目履修生制度等よりも集中的に勉強できる機会にもなる。



  05/24(Thu)

  『その大樹』は、アイテムリストの記事を作るかどうかで迷っている。
  すでに作成公開してあるページを見れば、作中に登場する(はずの)全てのアイテムを知ることができるので、アイテムリストを作る必要は無い。無駄(冗長)な情報を出しすぎるのは避けたい。
  しかし、「アイテムからの逆引きができる(入手方法を探せる)と便利」、「アイテムの性能の記載がまだ無い」、「総合wikiにも情報が出ていない」ので、作る意味は、あると言えばある。

  というわけで、2時間ほど掛けて作成した:『その大樹』アイテムリスト
  この体裁の方が使いやすい(見やすい)という人もいるかもしれないので。

  取り漏らしやすいのは「チャームウィップ」「天魔兵の大槍」「死人装束」あたりだろう。
  「チャームウィップ」は、エレっちの友人3キャラの最上位ドロップアイテム。ハードモードだと何回でも戦えるが、わりと見逃しやすい。
  「天魔兵の大槍」は、天魔兵の高レベルアイテム。ノーマルモードだと、ファリナセアルートでしか遭遇できないうえ、3周目以前はこのアイテムを持っていない。また、ハードモードは、強制戦闘のため一対多戦闘にしてドロップ率を上げるということが出来ない。しかも、どちらも強制移動でまっすぐボス戦まで進まされるので、繰り返し戦闘して稼ぐということが出来ない。
  「死人装束」は、レベル設定の都合上、ファリナセアルートの城塞戦と、ハードモードの最終マップ(強制戦闘)でしか入手機会が無い。上記「天魔兵の大槍」よりもさらにハードルが高い。
  「神鳴の勲章」も、ファリナセアと戦うマップに限定される。雷が鬱陶しいし、敵軍団を集めづらいので、結果的に入手可能性が低い。
  「幸運のチョーカー」は、シルバーラビの上位アイテム。これもファリナセアルートとハードモードに限定される。
  手許のsvdtだと、ワンボル棒、ゲキリンスライサーあたりが少ない(30~40個程度)。その一方、999個でカンストしているアイテムもたくさんある。

  この一ヶ月、余暇の大半を『その大樹』に注ぎ込んでいたが、万全の体調でこの楽しい時間を過ごせたのは本当に幸いだった。この調子でもっと人生を遊んでいきたいなあ……。


  えっ、『開田さん』は短期集中連載だった(orということになった)のか……。来週で最後とは。


  【 廉価版とジャンルの関係 】
  白箱系よりも黒箱系の方が、廉価版発売に積極的だというのは、ちょっと不思議な傾向だ。白箱系の方が廉価版を発売しやすい(メリットが大きい)と思われるのだが、実際には、むしろルネ系列やInterheart系列のような黒箱系ブランドの方が、頻繁に廉価版(複数タイトルのパック版)をリリースしている。
  白箱系(学園恋愛系)は、「初回版は多数の特典をつけるので、後から廉価版を出しても差別化できる」、「フルプライス作品が多く、発売間隔が空くので、旧作再発売や廉価版で収益を補ったり、あるいは広告ネタを増やして市場でのプレゼンスを維持するメリットがある」、「ユーザー層のパイが大きいので、初回発売時に買わなかった(買えなかったり、知らなかったりした)ユーザーの取り漏らしを掬える」といった効用があると思われるのだが……。「後から廉価版を出すメーカーだと思われる=初回版のセールスが落ちる」という危険が大きいのだろうか。あるいは、00年代後半頃には、「初回版が大量に購入される=中古価格が落ちやすい=廉価版のアドヴァンテージが薄い」という考慮があったかもしれない(※ただし、近年ではそうした違いはあまり生じていないのではないかと思う)。
  その一方、黒箱系(ダーク系)は、性表現の比重が大きいため、白箱系よりもロングテール傾向が強いとされる。言い換えれば、作品の「旬」が限定されず、後からでも購入されやすい。ただし、アダルトゲーム全体が初週売り切りに強く傾斜しているため、初回版パッケージが店頭に残りにくく、それゆえ、作品のセールス上のポテンシャルが発揮できていない場合が多い……のかもしれない。それはそれでどうしようもないので、せめて廉価版を出して売上を補充していくという考えなのかもしれない。ただし、最近よくあるアプローチとして、パッケ版とダウンロード版を併用している場合は、廉価版を出す必要が無い(※ただし、DL版の割引セールは、廉価版発売に近い効果があると思われる)。
  ピンク系も、黒箱系と似たような感じだろう。
  SLG系は、そもそもブランド数が少ないので全体的な傾向を論じることが難しい。Escu:deは、追加要素を入れたSP版を、割安の価格で発売することがある。ソフトハウスキャラは、再発売や廉価版を一切出さずにいたが、近年になって旧作のDL販売を順次行っている。e.go/でぼは、シリーズ化された作品(≒人気のある作品)について、複数タイトルをまとめたセット版を再発売することがよくある。alicesoftは、わりと早い時期から、廉価版発売や無料配布化を積極的に推し進めていた。それに対してxuse、Leaf、Eushullyは、廉価版にはずっと消極的だった。CYCは、散発的に廉価版を出すこともあった。調教SLG方面はよく知らない。



  05/22(Tue)

  今月に入ってからずっと、頭の中でマーラーの音楽を再生している。これはこれで楽しいけれど、ちょっと疲れてきた。高校生の頃から続いている意識作用なのでそれ自体は苦にしていないが、なにしろ一曲あたり60分なり80分なりの規模なので。


  わりと頻繁に「陸奥」と読み間違えかける。「彼女の陸奥」とか「陸奥を攻めていく」とか「陸奥まで貫く」とか「陸奥が下がってくる」とか、いったいどういう状況なんだ。いや、実体物の内奥部分という意味ではあながち間違いでもな…い? (とうほくちほうのひとたちにあやまれ)


  [ www1.odn.ne.jp/~cdg11960/main.htm ]
  今更ながら「のんべぇ」を聴いてみた。もう十年以上も続いているwebラジオなのか。
  入井氏(いりたん)は、アパタイト系列(アンモライトなど)のプロデューサー。

  アンモライトは、一河氏原画のタイトルを中心に、そこそこ買っている。マニアックには走らず、総じてライトで無難な路線だが、どれもコンセプトがはっきりしていて、キャラクター造形もきれいにまとまっている。アダルトシーンがわりと短めなので、気軽にプレイできるのも良い。エンジン(吉里吉里)、BGM、背景が使い回しだらけなのはなんとも潔い。


  しまった! 今月の新作予約をすっかり忘れていた!

  新作のサンプルヴォイスを聴いて回ってきたけど、やっぱり美月(瀬名)氏の芝居は、鮮明さと迫真性が桁違いで、ほんとうに素晴らしい。白箱系の朗らかな芝居も、黒箱系の悲劇的なシーンも、聴き応えがある。ただし残念ながら、今月は出演作に買うものが無かった。

  【 00年代と10年代のアダルトゲーム声優 】
  でも、全体として見ると、近年のアダルトゲーム声優はずいぶん層が薄くなっているように感じる。一流の芝居を披露される声優はもちろん沢山いらっしゃるけど、それほどでもない声優の比率が上がっているような……。昔は北都氏や一色氏やかわしま氏や野神氏や風華氏といった最高級の声優が黒箱系タイトルにも出まくっていて、どのジャンルの作品でも絶品の芝居を堪能することができた。しかし最近は、特にロープライス作品で、えーと、なんというか、わりといまいちな芝居をする人が多くなっている。
  上澄みのクオリティで言えば、2018年現在も、00年代の最盛期と遜色ないのは確かだ。例えば、00年代に北都氏の玲瓏な芝居があれば、2018年には桃山氏がいる。00年代の一色氏の圧倒的な芝居に対しては、2018年の私たちは自信をもって桐谷氏の名前を挙げることができる。00年代には、まき氏の個性があったが、2018年には藤咲氏の個性がある。みる氏の魅力に、上田氏の魅力は勝るとも劣らないだろう。松永氏の語り口と卯衣氏のムードは、甲乙付けがたい。井村屋氏の誠実きわまりない芝居は、波奈束氏の真摯さに比肩する。みすみ氏の鮮明さと激烈さに、秋野氏のそれは伍して譲らない。……しかしながら:
  1) 00年代には北都氏や一色氏が年間何十本も出演されていたのに対して、桃山氏や車の人の出演数はあまりにも少ない。その意味で、キャスティングの厚みは、まるで比較にならない。
  2) しかも、00年代には、そのうえ青山氏も、鈴田氏も、芝原氏も、そして咲氏も、三咲氏も、手塚氏も、佐本氏も、青葉氏も、春日氏も、渋谷氏も、木葉(松田)氏も、金松氏も、如月氏も、民安氏も、涼森氏も、金田氏も、桜川氏もいたのだ(――これらの方々は10年代には出演数が激減してしまった)。人材の厚みという観点でも、00年代はほんとうに豊かだった。
  3) そして、これらの方々が、黒箱系にも堂々と出演されていた。現在は、白箱系と黒箱系の断絶、そのうえ低価格帯もあって、キャスティング傾向には大きな分断が生じている。
  4) さらに、これらの名匠たちは、アダルトゲーム分野プロパーの(生え抜きの、専業の)声優だった。現在では、とりわけ白箱系タイトルは、元々アニメ系キャリアに属している(ムニャムニャ)声優が出稼ぎ的に出演することで、クオリティの底上げが為されているが、アダルトゲーム分野が育んできた一流声優というものが10年代にはあまりにも少ない。もっとも、これには歴史的な経緯があるだろう。90年代末から00年代にかけては、アダルトゲーム声優は、新興ジャンルだった(つまり、新しく発生した仕事であり、新しく生まれた業界だった)。それに対して00年代後半から10年代に掛けては、(何度目かの)声優ブームがあり、職業としての声優――とりわけアニメの声優――を目指す人が激増し、その分野での人材のクオリティが底上げされた。

  アニメタイトルの激増に伴い、アニメ声優の仕事の機会が増えたこと。そして声優を目指す人材が大挙してアニメ側のキャリアを目指すようになったこと。その一方で、アダルトゲーム分野がセールスに伸び悩み、それは制作に掛けられるコストの減少、そして声優に掛けられるコストの減少をもたらしたこと。アダルトゲーム分野における声優の世代交代。声優養成所における職業訓練の失敗(とりわけ桃組)。アニメ系キャリアから白箱系タイトルの出稼ぎが増えたこと。等々。こうしたいくつもの事情が重なり合って、この現状を帰結しているように思われる。


  [ ho2ch.vs.land.to/ayaka.html ]
  [ digitalcute.com/cuteresort/character/ ](※アダルトゲームサイトにつき注意)
  Digital cuteのことだからと期待していたけど、良かったー、木村氏がちゃんと出演される。



  05/19(Sat)

  もう3週間も『その大樹』をプレイし続けている。
  クリティカル率100%のユニットが、今では49人に……(※メルトライザー込み)。

  『その大樹』関連のメモが、雑記欄とmajouページにバラバラに散らばってしまっているので、なんとかトピック毎に整理しておきたい。


  『闇染』は、やはり特有のゲームシステムがあるようだ。リング型の行動選択は、『英雄*魔王』を思い出させる。正義のヒロインを心から堕とすという趣向はTriangleとも似通っているが、全体のバランスや味付けはかなり異なるようだ。案外、ありそうで無かったタイプの作品かも。


  新作を開始するや、いきなりヒロイン立ち絵が満面の笑みの……薄目で登場しちゃった。これは辛い。笑えるようで笑えない微妙さも苦しい。いわゆる薄目のあれは、閉じた眼の左右の端に白いハイライトを入れてしまったせいで、薄く開けた白目と黒目のように見えるという、まあ、なんというか、不幸な事故だ。2010年代半ば以降にはほぼ駆逐されていると思うが。

  可愛らしいヒロインたちとのんびりイチャイチャしている様子は、見ていてとても楽しい。


  【 イラストのジャンルとジェンダー 】
  なるほど、そうか。00年代のアダルトゲームでは、女性イラストレーターの比率が高かった(とりわけ白箱系では、原画家の男女比は五分五分くらいだろう)が、それに対して、現今のwebサービス上で公開される、アマチュアによる、お色気要素の濃い、美少女イラストの作者は、大きく男性に偏っているように見受けられる。仮に私のこの認識が正しいとして、双方の間の顕著な違いは非常に興味深い。考えられる事情としては、例えば:
  1) 美術的観点。アダルトゲームは一からのキャラデザになるので、傾向としては女性の方が服飾デザイン込みで魅力的なキャラクターを作れるのが、強みになっている。それに対して、web上のファンアート的イラストは、キャラデザの過程をスキップできるので、服飾に興味の薄い層でも取り組みやすい……ということかもしれない。
  2) あるいは逆に、間接的要因として、男性でもキャラデザしやすいような分野、作品、世界設定が拡充されてきたということかもしれない。分野的、文化的な事情ということになる。
  3) 社会環境の問題。00年代の就職環境における(女性の)仕事としてのイラストワークと、10年代の(男女の)労働環境における仕事としてのイラストワーク、そして趣味としてのイラストワークという違いに起因するものかもしれない。この場合は、人材の流入や、職業選択といった観点からの説明になる。
  4) 歴史的に見て、(萌えキャラの)イラストを描くという趣味が男性側にも広まってきたということかもしれない。漫画同人活動も、伝統的に女性>男性であり続けてきたが、90年代頃からいわゆる「男性向け」の(アダルト)同人誌が急増してきた。「ファンロード」の投稿イラストも、女性比率が高かったとのこと。女性が新文化の担い手(初期の形成者)になり、それが次第に男性側にも広まっていくというのは、わりとよくあることだ。つまり、ここでは、シンプルに「男性イラストレーターが増えてきた」という仮説になる。
  5) むしろ逆に、アダルトイラストに限って見れば、昔から女性イラストレーターは必ずしも多くはなかったと言うこともできる。とりわけ黒箱系のようなムチムチベトベトなイラストは、基本的に男性イラストレーターの領分だったと思う(※とはいえ、グロ寄りのハードさは女性クリエイターの得意だったりもする)。だから、端的に「男性向けの露骨で暑苦しい性的なイラストが、10年代に入ってから量的にも急増し、また質的にも過激化している」ということなのかもしれない。

  有名どころだと、例えば[ www.fate-go.jp/staffcast/ ]はイラストレーターを全員公開しているが、えーと、男性イラストレーターの比率が非常に高いように見受けられる。このページは初めて見たけど、かなり驚いた。この作品それ自体はアダルトカテゴリーではないようだが、お色気重視のキャラデザが多いし、ファンアートや二次創作同人誌も18禁ものがわりと多いようだ。

  ちなみに、同人全体で言えば、サークル側(作品供給側)は依然として女性の方が多いと思われる。即売会会場での印象だと、いわゆる「男性向け」にジャンル分類されている中でも、3~4割くらいは女性作家がいるようだ。アダルトコミックの動向は全然知らないが、こちらも女性作家が一定数いるようだ(3割くらい?)。

  男女のジェンダーで線引きしてあれこれ言うのは、場合によっては望ましくないこともあるが、一つの文化乃至分野の動静を認識するうえでの暫定的な手掛かりとして、少々考えてみた次第。


  ゲーム(AVG)の疲れをゲーム(SLG)で癒やし、ゲーム(SLG)の疲れをゲーム(AVG)で癒やす。これによって私は無限にゲームを享受し続けることができる。(おばか)



  05/17(Thu)

  『その大樹』、クリティカル率100のユニットが34人に。
  もうゴールしてもいいよね。(ゴールって何処だ。)


  室温31度に。私自身はいいんだけど、PCのために冷房起動しようかなという思いも。



  学生個人に責任を被せるというのは、大学(教育機関)としてもスポーツ指導としてもあり得べからざることだし、ましてやそれが身内庇い――だという疑いが濃厚のようだ――のためにそんなことをしたのだとしたら、もはや形容しがたいほど邪悪だと言うしかない。フィールド上における犯罪行為(暴行)とすら呼べるほどの反社会的行為に関するものであれば尚更だ。教育の死であり、スポーツ教育の死だ。

  びっくりするのは、今回のような学校法人でも、あるいは最近の官僚組織のあれこれでも、致命的な失態や反社会的行為を働いた身内を、それでも庇い続けているということだ。悪は悪として公平に判断するとか、あるいは失態は失態として(本当に表面的にでも)対外的なエクスキューズの立つようにするとか、あるいは尻尾切りをするとか、そういうことはしないのかー、と。身内の紐帯がそんなにも強いのか、あるいは身内的活動に対する公共的介入をそんなに嫌がっているのか、自分たちも同じ行動をして同じような非難を受ける可能性があるから悪だと認めたくないのか、あるいはそもそも当事者全員がそれを悪いことだと認識できていないのか、身内庇いによる悪評が広まることを意に介していないのか、それとも悪評のダメージを認識できていないのか……。
  誤魔化しようのない不正行為に対して、それを無理に弁護するのはどう見ても不合理なのだけど、本当に不合理なのか(つまりただ単に理非曲直も損得も計れないバカなのか)、それとも当事者には当事者なりのなんらかの合理性があってそう振舞っているのか、それすらも分からない。

  スモーの時と同じように、スポーツ内部で発生する犯罪や不正や抑圧は、まさに当該スポーツ組織の運営、指導、実践のプロセスそのものと密接に絡み合ったかたちで発生している。個人の属性による偶発的な犯罪とは言いがたい。それゆえ、スポーツ活動の内部で発生した個々の犯罪行為に対する非難や、犯罪を発生させた原因の解決は、その組織的体質に対する厳しい検査を伴う必要がある。
  ただし、難しいことに、ここでスポーツ全般に対する差別的思考をしてはならない。

  あと、部員個々人に非難を向けるのは控えた方がよい。彼等は18歳以上の大人だとはいえ、いまだ若年の学生であり、抑圧的な組織運営の被害者である可能性が十分考えられるからだ。彼等も部分的にはそうした状況に加担したと言えるかもしれないが、さまざまな形で行動を縛られており、不正に対して抗議の声を上げることが難しいかもしれない。例えば、スポーツ推薦で入学していたり、アスリート奨学金を受けていたりすると、クラブを辞めるのはかなり難しくなるし、そのクラブの指導者の意見に異議申立をするのはきわめて困難になる。そうした場合には、指導者は、年齢と立場と専門性において学生を圧倒しているだけでなく、学生個人の生活や人生を揺らがせるほどの裁量権を持ってしまっているからだ。スポーツハラスメントが起きやすい所以だ。


  「街で見かけた」知人でも何でもない他人を勝手にイラストにして公開するのは(個人特定性が高くない絵であっても)良くないことだという認識は、数年前(?)くらいのあれこれで確立され共有されていると思ったのだけど、そういうことをやってしまう人がまた増えているようで……。本人の承諾を得ないで勝手にモデルにするのは、本人の肖像としての特定性が高くないとしても、写真ではなく大きくデフォルメされたイラストだとしても、そしてアトリエにおけるデッサンのような限定された場でないとしても、やってはいけないことだと思うのだが……。もちろん絵の練習としてスケッチをすることはあるけれど、それらは公開しない(第三者には見せない)ことが前提だし。


  開田さんは、これまでの木々津作品の女性キャラクターの中でも、ストレートに美少女として描かれているようだ。ただし、主人公ではない。木々津氏の連載作品は、これまですべて女性主人公(女性キャラ視点)だったが、今作は初めて男性キャラの方が主人公として描かれている。ちなみに、その前にあった死神の読み切りも、男性(?)死神キャラが主人公だった。


  気温が上がると、食欲は落ちないが、パワフルなえろシーンやムチムチなえろイラストを目にするのが辛くなる。暑苦しい性表現は元々苦手だが、この時期は特に辛い。『神楽』シリーズを思い出しながら、冷え冷えとした妖気をまとった触手に絡みつかれたらひんやりして気持ちいいのだろうか、などという妄念が頭を過ぎり……ああ、疲れているな。



  05/16(Wed)

  【 アダルトゲームを指す呼称 】
  これまではずっと、対象から距離を置いたニュートラルな呼称として、「アダルトゲーム」という言葉をもっぱら用いてきた。しかし、2010年代を通じて、「アダルト(年齢制限のある)」コンピュータゲームの外延と種類は爆発的に拡大してきた。同人ゲームや乙女ゲーム、コンシューマギャルゲーはもとより、DLゲーム、オンラインゲーム(含・ブラウザゲーム)、さらに海外ゲームに至るまで。そうした中で、
- 主に男性向けと認識されてきた(←→女性向けジャンルやキッズ向けなど)、
- 日本国内で(←→海外製、オンライン、他言語[多言語]表示)、
- 店頭パッケージ形態を基本として(←→オンライン販売やDL販売)、
- 商業発売される(ソフ倫などで審査され、JANコード付で販売。←→同人やオンライン販売)、
- 単独プレイヤー向けの(←→MMOやパーティーゲームなどの多人数同時参加)、
- スタンドアロンプレイのための(←→オンライン通信要素のあるゲーム)、
- 主に性表現のゆえに年齢制限の付いた(←→全年齢ゲーム。ただしグロ要素なども)、
- Windows系パソコン上で動作する(←→コンシューマ、アーケード、スマホゲーム)、
- 女性キャラクターの魅力をフィーチャーした(←→非・萌え系、非・美少女系)、
- オタク系の画風の(とはいえ、定義や外延はきわめて曖昧だし、例外も多いが)、
- 読み物AVGの比率の高い(←→STG、SLGなど)、
- デジタルゲーム(←→ボードゲームなど[アナログゲーム])、
の分野のみを限定的に指す必要が強まってきた。そうした中で、むしろ今こそは、隣接諸分野との識別のために「エロゲ(ー)」という言葉を使った方がよいかもしれないと考えるようになってきた。いや、実際にはこの言葉を常用することは無いだろうけれど、そうした語彙選択にも一定の合理性があると思う。


  【 アダルトゲームの焦点変化 】
  数年前にも書いたことだけど。現在のアダルトゲームは、演出の時代から機能性の時代に移っているように思う。e-moteに代表される2D(擬似)アニメーションの摂取がひととおり完遂された時点で、演出(表現技巧)における試行錯誤の時代はいったん終息した。それに代えて、技術的な試行錯誤と新機軸の最先端は、インターフェイスの機能的洗練にある。シーンジャンプ機能、ヴォイス再生の多機能化、マウスジェスチャーの拡充など、10年代初頭にはすでにそうした機能的開拓が着手されており、10年代後半の現在にはかなり浸透してきている。もっとも、そうした快適性を追求している先進的な白箱系大手ブランドと、汎用的(旧来型のベーシックな)ゲームエンジンのままコンセプト一点突破型の制作を続けているロープライス系ブランドとの間で、機能的充実の度合いは大きく異なっているが。

  雑駁に言えば、90年代は「ゲームらしさ」の意識がまだ残っていた時代であり、00年代前半はフラグシステムを整理しつつ視聴覚的表現技術の開拓を貪欲に行っており、00年代後半には分野的な文法と作法の整理と洗練――例えば白箱系(学園恋愛もの)のパターン確立と、黒箱系(ダーク系)を中心とした性表現の類型化と整理――が進展しつつ、ハイスペックなPC環境の下で演出技巧はさらに充実していき、10年代に入ると背景画像に至るまでの質的追求はほぼ限界に達しつつ、インターフェイス面での改良と快適性追求に向かった……といった感じだろうか。


  そういえば、どうして私は『勇者砲』の時はまったくデータ系攻略を出さなかったのだろうか。思い返してみるに: 1) マップは存在しない(どこを砲撃すればどんな敵が来るかは、ゲーム内の情報ですぐに分かる…というわけでもなかったか)。2) 敵ユニットのドロップアイテムは認識しづらかったし、ドロップ確率もかなり低かった。3) スキルについては、味方ユニットの種類が少なかったので、わざわざリスト化するまでもなかった。さらに、事後的な問題として、アップデートパッチでドロップアイテムなどが大幅に変更された。……といったところだろうか。資金繰りのキツさも、検証プレイがやりづらかった一因だろう。言い換えれば、今回の『その大樹』がどれだけ簡単になっているかという話でもある。


  『勇者砲』『魔剣』のディスクを発掘してきてインストールした。アップデータは、途中のヴァージョンも全て残していたので、適当なものを適用。バランス調整をした後半のパッチは、角を矯めて面白味を消しているように思われるので、使わずにおく。svdtも、ヴァージョンを合わせてあるので、移植可能。
  systemAoiの常で、複数のゲームを同時起動は出来なかった。例えば『大樹』と『魔剣』を並列で開くことは出来ない。意図的な仕様だろうか、それともプログラマーも特に意図せずにそうなっているのだろうか。

  ちょっと再プレイしてみたけど、『魔剣』の風花氏はわりと良いなあ。それに対して『その大樹』のカリン役ではいささか覇気に欠け、ミスキャストの気配もする。役者にはそれぞれそれなりに適役と不向きな役があるものだから、キャスティングした側の責任も大きい。
  『LJ』のヘルオー様についても、プレイ当時は心中モヤモヤを抱えつつも、「プロが選んだ配役なのだから、これはこれでなんらかの表現上の意図があってこうなっている筈であり、その表現意図(または表現効果)をなんとか読み取らねばならない」と考えていた。ずいぶんウブな話で、今にして思えばあれは明らかにミスキャストだったと言うしかない。紫苑氏の芝居それ自体は、そんなに悪いわけでもないのだけど、低年齢キャラを演じるにはさすがに少々苦しいところがあった。


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  私も、これは完全にNGだと思う。実在する特定の書物、しかも多くの人の信念に関わる書物を名指しで取り上げて、その内容を意図的かつ明白に捏造しているわけだから。そもそも嘘(虚偽)を述べているのだから、ブラックジョークとしての限度を超えているし、多数の人が虚偽だと認識できるとしてもそのようなデマを公然発信した責任は軽減されない。
  そもそも、聖書の文言を引用するというスタイルからして、クリスチャンの行動をパロっているわけだから、相当タチが悪い。ただし、宗教的信念や宗教的活動を風刺したりおちょくったりする表現に関しては、私はできるかぎり広く認めていくべきだという立場なので、今回の問題の根幹はあくまで捏造行為にある。
  同様に、kyoなんとか新聞も――知らないけど、今でもまだやっているのだろうか?――、実在する特定の団体や個人を取り上げつつ事実に反することを広言しており、それはジョークの域を超えていると思うので、あの活動はけっしてまったく肯定しない。「ジョークだと分かるからいいよね」、「ジョークだと分かれよ」、「ジョークなんだから怒るなよ」というつもりであれば、きわめて卑劣な姿勢だと思う。



  05/14(Mon)

  Escu:de新作は黄組中心のキャスティングか。
  ゲームシステムは、純粋なAVGだろうか、それとも何かしら特有のシステムがあるのだろうか。このブランドの場合、『あかときっ!』くらい凝ったゲーム要素があっても、「うちの基準だと、この程度では『シミュレーションゲーム』には分類しませんよ」と言わんばかりに、「ADV」を名乗ってしまうくらいだから、どうなるのかは見当が付かない。


  【 声優の仕事:アニメとゲームの収録環境 】
  アニメ作品だと、たしかに多人数同時収録のライヴ感による特有の勢いが乗ることはあると思う。しかし:
  1)アニメでは台詞の総量が限られるという物理的制約がある(※しかも近年の超多人数参加タイトルだと、1回の収録で一言二言だけだったりもする)。
  2)常に映像進行のタイミングにぴったり合わせて喋らなければいけないという時間的制約があるので、自分なりの芝居を柔軟に展開するというのが少々難しい(※音声に合わせて映像編集するプレスコ形式では事情が異なるが、プレスコ制作のアニメは非常に珍しい)。
  3)マイクワークのような現場的制約もある(※本数の限られたマイクを複数の役者で共有するためにマイクの前にうまく出入りする交替の技術)。
  こういった事情から、声優が芝居を掘り下げていくには、とりわけ近年の(地上波放映のクール単位の)アニメはあまり向いていないのではないかと思うことはある。もちろん、主演級の役で12話なり13話なりをしっかり演じきることは、役者にとっても大きな糧になっている(主演を経験してから、その役者さんの芝居のスタイルがクリアになったという印象を持つことは、私の乏しい視聴体験の範囲でもたまにある)。
  その対極にあるのが、ゲーム、とりわけAVG作品の収録だ。長大なテキストをじっくりと演じることになるし、時間的制約無しに自由なテンポで演じることができるし、個別収録なので一人でずっとマイクの前に立って(あるいは座って)台本に向き合いつつ芝居に集中することができる。

  例えば波奈束氏は、アニメ収録でもその知的な機敏さを活かして完璧な芝居を披露されるだろうが、アドヴェンチャーゲーム収録で心ゆくまで芝居を彫琢し深化し洗練させていく方が、この方の役者としてのポテンシャルを最大限掬い上げるものになるだろう。ゲーマーとしては、そう信じたい。しかしその一方で、例えば小清水氏であれば、ゲーム収録であっても、そのおおらかで伸びやかな芝居の魅力は十分に発揮されるだろうが、アフレコ現場の生き生きした共同収録の現場の方が、このクリエイターさんの資質には合っているのかもしれない……などと勝手に想像している。
  まあ、ユーザー(視聴者)の願望は勝手なものだから、例えば桃山氏の活気に満ちた芝居は、むしろ媒体の性質上動きの乏しいAVGにその勢いを持ち込んでくれるのが嬉しいと思ったりするし、あるいは逆に、名匠秋野氏がアニメや舞台の現場で演じたら、いったいどれほどの高みに行けるのだろうかと想像したりする(※申し訳ないことに、秋野氏のそれらの媒体での芝居を拝聴したことはまだ無い)。

  もちろん、単純に台詞の量が多ければor少なければというものではないのは一応承知している。経験と蓄積を十分に積んだ役者であれば、ほんの一言の担当台詞であっても、そのシーンの全体の流れを的確に把握して、自分の一言がどのように位置づけられるかをきちんと見据えたうえで、なおかつその台詞が最良の効果を発揮するように、きれいに台詞を放り込んでいくはずだ。そういうことを高い水準で実行できるのが、腕の良い本職声優の仕事というものだろう。

  ドラマCDであれば、芝居の時間的制約はかなり緩いと思われるし、比較的少人数で、1本につき1時間程度の規模であろうから、凝集力の高い芝居が出来るのかもしれない。
  映画(とりわけ外画吹き替え)は、顔見知りの多い外画系声優たちの間で、兼ね役の多い少人数収録が行われることが多いようだ。B級映画の吹き替えではわりと自由なアドリブが許される気風もあるようだし、共演者相互の呼吸を熟知した楽しい芝居が出来るらしい。映画であれば、本編もたかだか2時間なので、吹き替え収録も半日かそこらで終わるようだし。

  こういう収録現場の認識は、わりと「胃~之煮」で聞きかじった知識だったりする。フリーダムなおちゃらけラジオのようでいて、やはりプロならではの踏み込んだ話や、現場の雰囲気を窺わせる生々しい話もたくさんなさっている。というか、アニメ/ゲーム系の宣伝ラジオではまず聴けないような話がばんばん出てきていて、非常に貴重な声優史的証言集にもなっている。
  ……まあ、あまりおおっぴらに知られると、例のラジオドラマの件で怒られかねないけどね。


  『その大樹』は、初回コンプリート、2巡目の再プレイ、そして調査検証プレイをさらに2巡と、全体を計4巡もプレイしたので、もうそろそろ切り上げたい。最も強いデータでは、配下ユニット147人全員が必要なスキルをだいたい所持していて、HP5000以上が33人。装備もメルトライザーが90本以上揃っている。HPカンストまでは行っていないが、まあ、ここまでやれば、食べ尽くしたと言えるのではなかろうか。

  新記事:「ソフトハウスキャラ『チーム++』のモンスター」。
  本家ブランドのモンスターは、多すぎて整理しきれないので、ひとまず++の方だけでも。新作が出ると、いちいち横にテーブルを追加しなければいけないが、まあ、一年半に一回くらいなら。

  旧作は現PCのHDDには入っていないので、後でインストールして確認する。svdtが移植できるかどうかは未確認だが、大丈夫だと思いたい。……製品版のパッケはどこにあったっけ……。

  メルトライザーを人数分揃えたので、さすがにすることが無くなってきた。攻撃力は上限/下限とも2999でカンストするようだが、まだそこまで到達したユニットはいない(※ただしイノリは、所持スキルのおかげで一時的にその値に達する)。上限に達したら、攻撃力それ自体への上昇効果はすべて無意味になるので、それ以上は「急所突き」「一撃必殺」「三種の瞳」「豪力バンド」のようにダメージそのものを割増しするスキル/装備を使う必要がある。



  05/12(Sat)

  半ば予想されたことだが、Triangle新作は桃組十把一絡げか……。ごめん、その声では買えない。シュガー役の成瀬氏のみは続投しているが、それだけでは無理だ。
  音声収録にかかるコストはかなり大きいようなので、苦しい状況にあるゲームブランドがその部分を切り詰めるために事務所丸投げや新人起用をしているのだろうけど、安かろう悪かろう(安かろう最悪だろう)ではねえ……。

  昔でいうと、最初期のアトリエかぐやのサクラ組キャストも、ユーザーの間では不満の声が大きかった(そしてDVD再発売版では、声優を総取り替えした音声再収録まで行われた)。2010年代の桃組は、それに匹敵する――あるいは、規模が大きい分だけいっそう問題が大きい。


  口直しにロープラAVG作品をプレイしようとしたら、インストールは出来たけど起動しないという不具合が。強引にディスクから実行ファイルを開くことで無事起動できた。おのれ戯画。

  低価格帯のタイトルだと、原画家が着彩もすべてこなしている場合がある。実際、20枚足らずの一枚絵+数種類の立ち絵くらいであれば、原画家自身が彩色まで処理しきれる作業量だろうし、その方が作業工程も効率的だし、原画家自身が絵の出来を完全にコントロールしきれるのでクオリティも上がるだろうし、全体の美術的雰囲気も一貫したものになる。ユーザーとしても、CGのクオリティが保たれるのはありがたいし、原画家(イラストレーター)のファンにとっても嬉しいだろう。


  学生を叱責することは基本的にしない。ただし、学生自身が何をどう間違っているかをきちんと理解させるために時間を取って指摘することはある(誤りの事実、誤りの原因、誤りへの対処)。また、笑って済ませることのできない深刻な事態である場合にはそれを理解させるために、厳しめの表情&口調を示すことはある。危険行為という意味での誤りであれ、学問的な誤謬という意味での誤りであれ、社会的に失礼という意味での誤りであれ。学生の失敗に一切責任を持たないつもりならば、相手がどんな深刻な誤りを犯していてもスルーすればいいんだけど。あと、一人の愚かな行為を窘めるために、他の学生の受講時間を奪うことになるのが辛いので、本音を言えば極力無視したいところではある。


  グールグは被撃破回数がイベント進行のフラグなので、最前衛の部屋に一人で立たせておくことになる。疚しさを覚えながら「これもこの子自身が望んだことだから……」と自分を納得させつつ、しかし、襲いかかってくる敵軍にグールグがあっさり踏み潰されていく様子を見るとなにやらドキドキする。……あっ、この感情は、『神楽』シリーズでヒロインの被捕獲イベントを発生させるためにあえて自殺的な行動をとらせる時の背徳感だ!

  カリン、ファリナセアが正式加入する(引き継ぎしてもクローンキャラが使える)条件を調査した。エンディングまで行かなくてもよかったのか。

  残るは、スキル習得の正確なタイミングか……全てのランクを一々チェックしていくのは大変だから、ランクIIIだけでいいかな。それでも厳密を期して調査すると、1レベルずつ、しかも複数のユニットの同時進行で確かめていく必要があるので、ひたすら面倒な作業になる。2レベル以上アップしたところでスキル習得してしまうと、ロードで戻ってやり直さなければいけないのが、なんとも不毛だが、仕方ない。
  ……しばらく進めてみたけど、各ユニットの成長パターンが、まるで変わり映えがしないのでつまらない。少なくとも2パターンがあるのは確認できたけど、このまま全キャラを最後までチェックしていくのは気が進まないなあ。



  05/09(Wed)

  『その大樹』、マップデータの構成の仕方に悩んでいる。自分でいろいろ考えても、総合wikiがすでに採用しているレイアウトが最もシンプルで見やすい。しかし、それをそのまま後追いしても仕方ない。とはいえ、個々(+ユニットの所持アイテム、軍団形式、上限レベル)を一行ずつ書いていくと、300行の大仕事になる。1分1行としても5時間……さすがにこれはやりたくない。
  無理に総合wikiと違ったものにして、かえって読みづらいものになってしまうようでは本末転倒だろう。総合wikiスタイルに類似することになっても気にせず、マップ毎に出現モンスター情報を圧縮記述しつつ、せめてなにかしらの追加情報を加えていくことにしよう。


  新記事:『その大樹』マップデータ
  というわけで、こんなレイアウトでどうだろうか。この記事は、育成攻略向きの目標を完全に捨てて、敵ユニットのレベル設定の構造を明らかにすることを主眼にしている。記事作成していて、情報の不完全なところがいくつかあったので、もう一巡プレイしてきちんと完成させる。


  firefoxで、gglを騙った偽装サイトとおぼしき妙なタブが開かれるようになってしまった(※2度現れた)。セキュリティソフトを入れてはいるが、うーむ、さすがに56のままではまずいのか……。採りうる選択肢は:
  1) セキュリティチェックをして様子見。異常が発生しなくなれば短期的には解決するが、本当に解決しているか分からないし、長期的にはいずれこの環境は維持できなくなるので、解決策とは呼べない。
  2) すぐに別のブラウザに切り替える。しかし、移行先が決まらない。firefoxアップデートは、インターフェイスが気に入らないが、大量のブックマークをおそらく確実に引き継げるというメリットはある。ブックマークをエクスポートして他のブラウザに移すことも一応可能だが、かなりファイルサイズが膨れ上がっているので、処理ミスを生じる危険がある(※実際、旧PCからの移設に際してもトラブルがあった)。しかも、他にあまり良い候補も無いし……。嫌なのだけどなあ……。

  自分のPC知識は素人の域を出ないと自己理解しているので、基本的には自分が理解できる範囲でひとまず保守的に振舞う。つまり、
  1) 環境の変更は避ける。現状がそれなりに満足のいくものであり、なおかつ、具体的な不具合が生じていないかぎり、システムには極力手を加えず、現状維持に努める。
  2) 具体的な危険は避ける。今回の件でいえば、明らかに危険と思われる状況が発生しており、それは放置しても解決できないし、問題の大きさも自分では評価できない(コントロールできない)し、問題が大きくなれば尚更手に負えなくなるので、改善に努める。
  3) 評価のはっきりしない対処は避ける。つまり、ドラスティックな対処は採らず、できるかぎり小規模な対処、影響範囲の小さな対処、多くの人が行っている対処、有効であると評価の定まっている対処、オーソドックスな対処を選択する。
  ……となると、うーむ、やはりfirefoxのアップデートしかないのか……。

  [ did2memo.net/2018/04/07/malicious-web-page-rewards-for-google-users-page-2018-04-07/ ]
  どうやらこれ。この記事を信じるならば、今回の原因はブラウザの問題ではないようだから、うーむ、ひとまず静観することにしよう。クリーンなサイトにしかアクセスしていないつもりだが、そういう個人の配慮だけでは防げないものだから、まあ仕方ない。とりあえず、おまじない程度に履歴とcookieは全削除しておいた。
  いずれにせよ、ヴァージョンの古いブラウザにセキュリティ上の危険があるという事実に変わりは無いので、遠からず本格的な対処が必要になるだろう。


  『その大樹』は、ひとまず出来るかぎりの攻略情報を出したので、これで切り上げよう。
  私なりに考えられるかぎりの手を尽くして、思いつくかぎりの切り口の情報を抽出し整理して、可能なかぎり理解しやすく使いやすい情報記事にしたつもり。ただし、遺憾ながら、色変え(フォント加工)による意味表示を施しているので、閲覧者がデータのみを取り出して操作することは難しいテーブルになった。つまり、Read onlyの利便性(把握しやすさ)が優先されており、Re-editingの利便性(加工性)は多少犠牲にされている。

  さて、次はどの作品をプレイしようかな。



  05/07(Mon)

店頭でこんな同人(?)ドラマCDが並んでいて、全然知らないタイトルだったけど、キャスト情報を見た瞬間、手に取ってレジに向かっていた。中身のストーリーに関しては、状況設定の説明が為されていたので、原作未読の私でも一応理解できた。聴いていて、パッケージを見直してしまったが、「18禁」の表記は無かった。それでいいのか。

  それにしても五十嵐氏はいったいどうして、いつもいつもこんな当たりの強いキャラばかり配役されるのだろうか……。まあ、確かに、秋野氏に匹敵するほどの激しく鋭い罵声芝居を披露できる腕達者の方ではあるけれど。
  大橋氏の台詞はほんの数個だけなので、そちら目当てで買うほどではないと思う。トラック3のサブキャラ1人(クレジット)と、トラック6冒頭のモブキャラ1シーン。もしかしたら、トラック2のガヤにもいたかもしれない。
  大空氏やLynn氏の芝居もなかなか真に迫った感じで、予想外に聴きごたえがあった。大空氏は『いなり、こんこん』(2010)の主演も良かったと思うが、さらに芸道を深めておられるようだ。
  高森氏は天使の声。まじで。


既視感の正体にようやく気づいた。この平たいウサ耳状メカパーツは、まるでシンフォニックシュガーさんじゃないか!(※左記画像のプラモはFAG「バーゼラルド」。)


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  ……えっ? わざわざそんなことを「再認識」と言っているのは、もしかしてこの人物は、軍艦の実物と、その模型や擬人化キャラとを、まさか混同したことがあるのか? なんというエキセントリックな精神構造……。
  ……と思ったが、そういう存在認識のレベルの話ではなくて、目的のレベルでの話なのかな。現実の軍艦はあくまで兵器として作られたものである、つまり戦争で使うためのものであって、模型を作って楽しむためのネタ元ではないし、擬人化して楽しむために作られたネタ集であるわけでもない、と。うーむ、たしかに、例えば「ミリタリー関連には全然興味が無かったが、擬人化ゲームをきっかけにして軍艦(の擬人化ネタ)を楽しむようになっている」とか「ロボット模型を作っていたけど、店頭での気まぐれで、よく分からないけど軍艦の模型を買ってみたら、それはそれで面白かった」という人は、兵器としての側面を閑却しがちであるということがあったりするかもしれない。
  ただし、それでも、ひとの意識は自由である方がよいと思う。つまり、兵器としての史実や、あるいは現用艦であれば今まさに進行中の現実世界の動向をまったく無視して、姉妹ネタだけを抽出しつつ擬人化キャラを楽しんだっていいと思う。あるいは、その艦が実際に辿った、考えるのも辛いほど悲惨な経過を、知識としては持ちつつも忘れ去って(あるいは、そもそも戦史をまったく知らなくたって)、ただ複雑で手応えがあって格好良いプラモデルとして制作するのを楽しんだっていいと思う。そんな能天気なことが出来る生活は、リアルな戦争の災禍からきわめて遠い、幸せな生活であるに違いないからだ。

  ところで、軍艦って「美しい」かなあ? 複雑で奇妙で異様で見飽きない巨大構造物として好みではあるけれど、そして、『ゆのはな』の春日尚樹氏の熱弁にもかかわらずヴィットリオ・ヴェネト級ですら、私は「美しい」と評することに躊躇せざるを得ない。

PIT-ROAD、「1/700 ヴィットリオ・ヴェネト」。数年前に簡易塗装で制作したもの。


  『その大樹』アイテム一覧も、ひとまず完成。ハードモードの検証がまだ終わってないけど。

  個々のユニットの各出現マップに、最大レベルを併記すべきかどうかで迷っている。細かいことを書きすぎて煩雑になる(読みづらくなる)か、それとも閲覧者が効率的に利用できるようになるだろうか。どちらだろうか。
  1) 最大レベルを併記しない場合は、「各モンスターがどのマップに出現するか(=どこに行けば捕獲できるか)」に焦点を絞った整理になる。つまり、ユニット捕獲のみが目的になる。基本的にはハードモード以前の、戦力整備をしている最中のユーザーが、最も有効利用できるだろう。ただし、記事内の情報量という観点では、当然ながらレベル併記した場合よりも劣る。
  2) 最大レベルを併記した場合は、上記に加えて、「特定のドロップアイテムを狙いたい時に、どのマップに行けばよいか」がすぐに判断できるようになる。つまり、アイテム収集が主目的になるだろう。ただし、育成途中のノーマルモードでは、どうせたいしたアイテムはドロップしないので、わざわざアイテム探しのために周回プレイをする意味は薄いだろう。アイテム収集そのものを目的とするならば(とりわけ強力なアイテム群に関しては)、細かいことは考えずにハードモードで連戦していれば済むという話でもある(アイテムドロップの確率を考えると、ハードモードの方が早い)。

  データ系の攻略は、ただ単にゲーム内に出てきた記述をそのままの体裁で書き写すだけでは、何も面白くない。「この記事は何に使うためのものか」という目的を意識して、そのために合目的的な最適な構成で、そして可能なかぎり正確な情報を、提示することが望ましい(なおかつ、可能であれば、閲覧者が自分なりに利用[編集]できるようであると、なお良い)。例えば、効率的なプレイのための参考資料になるとか、アイテムコンプリートをするためのチェックリストであるとか、スコアアタックのための下調べであるとか、ゲームの仕組みをより深く知るための具体的な計算式であるとか。あるいは、ゲーム上のデータを書き残しておくという趣旨であってもよいだろう(※著作権法上正当化される「引用」の条件の問題にもなるけれど)。

  うちの攻略情報は、各マップの出現モンスターリストを作る必要がある。それと相互参照できるようになっていなければ、アイテムリストは意味を成さない。ただし、出現モンスターのリストは、総合wikiでもひととおりの情報はすでに書かれている。どうしようかな……。総合wikiでは、ノーマルモードの上限レベルがまだ書かれていないが、その程度であれば私があちらで加筆してきた方が早いかもしれない。
  ……こう考えて、wiki編集に着手してみたけど、あっ、これはまずい。あちらに出来ているリストは、例えばA-2Aの「死人の領土」マップとD-3Aの同名マップを統合してしまっているが、双方は設定上限レベルが異なっているので、一緒には扱えない(上限レベルが一言では書けない)。また、個別にも記載が間違っているところがある。うーむ、これに手を出すと、かなりの大仕事になってしまいそうだ。それならやはり、うちのブログ上で一からレイアウトを組んで作った方が、精神衛生上も、正確性担保の点でも、ダブルチェックの観点でも、ベターになりそうだ。
  総合wikiの方は、個別の修正で済むところだけは、分かる範囲で訂正しておこう。

  wiki編集作業中、脇に出ているgif動画広告がたいへん目障りで辛かった……。


  批評や学問は、野蛮で不躾で野暮で暴露的でオープンであって構わない、芸術作品に関する言論みずからがお上品であったり複雑なニュアンスを湛えていたり配慮が行き届いていたりする必要なんか無い、と常々思っている。もっとも、社会調査や医学倫理などで問われるとおり、研究対象を破壊しないとか参加者の尊厳を重んじるといった規範はもちろんあるけれど、それは違反してはならないルールの問題であって、もはや配慮やデリカシーの問題ではない。
  ゲーム攻略も同じだ。手続上公正(合法)であるかぎり、対象たるゲーム作品がどのような成り立ちであり、どのように作動しており、プレイヤーに何が許されており何が禁じられているかを、ひたすら暴露し解体し再構成し明晰化し情報化し公開し共有し蓄積していく技術的な営みだ。だから、アダルトゲーム分野の中で私がSLGに対する外科手術的な攻略に――そしてAVGに対する秘儀解体的な演出技術論にも――向かったのは当然のことだったし、そして、私のアダルトゲーマーキャリアの早い時期に、web上の傑出した攻略サイトたちに出会えたことはたいへんな幸せだったと思う。「愚者の館」(今はもうアーカイヴしか残っていないけど)とか、「アタリメの叫び」(主にEscu:de作品を扱っていた)とか。ゲーム攻略のありように関する明確な定見と、それを実現していけるだけの高い技術の、双方を併せ持っておられた。私はそういった卓越した攻略姿勢への、いわば憧れによって、これまで十数年の攻略活動を続けてきたようなものだ。(あっ、なんだかちょっと『ウテナ』みたい? せかいのはてにさきほこるばら、ぼくに![死亡フラグ])



  05/04(Fri)

  SLG作品の検証プレイや育成プレイは、さすがに何十時間もそのままやっているのもダルいので、音を消して他の音楽やラジオを聴いている。今日はスクリャービンとドビュッシーを掛けながらずっとプレイしていた。S. ネイガウスの演奏がたいへん気持ち良かった。


  新記事:「『その大樹は魔界を喰らう!』スキル一覧」。
  ユニット育成が終わったので、手許でまとめたデータを順次形にしていく。
  わりと露骨に育成向けっぽいスキルインデックスになってしまった。
  ……うーん、時間が掛かるなあ。


  『エヴァ』DVDを流しているのだけど、葛城さんがなんだかひどく見えてきた。会ったばかりのローティーンの少年に対して自分勝手な家族ごっこを押しつけつつ、場面が変わればコロリと気分を変えて職場上司の顔で命令を押しつけていく。さらに、デリケートな場面では恣意的にどちらかの態度を選んで行使している。個別的には大人として当然の姿勢でもあり得るのだけど、総体として見ると大人としての配慮があまりにも欠如していて、たいへん辛い。いや、実際にそういうキャラクターとして描かれているのだけど、その痛々しさが身につまされるようになったのは、私個人の変化によるものだろう。
  朝から缶ビールという生活のひどさも、たいへんきつい。子供の頃は、そういう行動にリアリティが無かったので(いや、今も無いけど)、フィクションの中での「だらしなさ」の表現文法なのだろうと受け入れていたが、今の目で見ると生理的にきつい。キャラクターとして嫌いになったというわけではないけれど、キャラクターの見え方はずいぶん変わった。
  赤城役の山口氏の芝居がやけに短調の色合いで、悲壮感に満ちているのも痛々しい。


  『大樹』はノーマルモードのデータは全て取れた。しかし、これを見やすく使いやすい構成にするのは、ずいぶん頭を悩ませる問題だ。出現エリア一覧をどのように表記したら、正確性と利便性を両立できるだろうか。

  アイテム関連のデータもなんとか完成させた。今回は久しぶりに、一時的とはいえ総合wikiの情報を公開速度、情報精度、利便性のいずれでも上回れたと思う。ただし、重大な欠陥がある。web検索などによってうちのブログまで辿り着く人がほとんどいないであろうという点、つまりアクセシビリティにおいて致命的なのだった。

  あとは、マップ一覧を作れば、ひととおりの攻略は完成するが、これも情報の取捨選択と構成が難しい。csvファイルで公開してしまいたいところだが……。このblggrではhtmlテキストと画像/動画しかアップロードできないので、最も原始的な対処だと、「カンマ区切りのベタテキストをそのまま載せる」という手がある。利用者はそれをコピペして.txtファイルに保存し、拡張子を.csvにすれば、表計算ソフトで開ける。こうすれば、データ公開は迅速であり、データが軽量であり、しかも利用者側での拡張性が大きいと良いことづくめなのだが、なにぶん、見映えがよろしくない。

  アップデートが来た場合は、このデータが使いものにならなくなるという可能性はある。以前の作品でも、ユニットの成長パターンが変えられていて、しかも修正箇所として明示されていなかったということもあった。余所の攻略サイトに情報を出していたので、二人でデータを突き合わせてその暗黙の変更点に気づくことが出来たのだが。

  それにしても総合wikiは、広告画像がバチバチとフラッシュしてたいへん五月蠅い。というわけで、ページ読み込み途中でブラウザの「×」(ロード中止)をクリックして広告表示を止めるという原始的な対処をするのだった。


  [ mary-jane.biz/mysite1/toshiden05top.html ](※たぶん18禁コンテンツなので注意
  なんと、白雪さん、ショタキャラの芝居もいけるのか!(そこかよ)
  そして、近作のページをいろいろ見ていたら、桃山氏や瀬名氏や櫻井氏や蒼依氏も出演されているのか……。錚々たる顔触れに驚いた。そういえば、木村氏出演の『アマカノ』は買って……えーと、買っていなかったかも。


  数学(※少なくとも高校くらいまでの)などはわりと系統立てて学べるのだが、英語学習に関しては現在でもろくな学習書が無い。いろいろ浚ってみたことがあるのだが、気が利かないというか、余計なところで引っかからせるものが多すぎる。例えば、文法事項の説明に続いて練習問題があるという場合でも、文法上の説明は英語学な抽象的な枠組を前面に押し出しすぎているが、学習者には非常に分かりづらい。例えば、のっけから5文型の説明を展開しても、「目的語」「補語」がどのようなものであるかについて最低限の理解が無いと、とっかかりが無いし、何の意味があるのかも理解できないだろう。
  そして、それに続く練習問題も、かなりひどい。文法的説明に対する理解度を確認するための問題になっておらず、また文法的理解を定着させるための問題にもなっていない。文法要素に直結しない――あるいは解説部分ではまったく説明されておらず、何の示唆も与えられていないような――部分を問うて、学習者を戸惑わせる問題になってしまっている。例えば、5文型の説明だけを受けた後で、いきなり前置詞の使い分けが問われるような書き換え問題がいきなり出てきても、学習者はどうにも手が出ないだろう。誤文修正問題も、学習書の悪弊だろう。初学者に対して、文法的に誤った文を注視させるのは不味いのだが……。そもそも練習問題も、申し訳程度にほんの少し(5問くらいずつ)載せられているだけなので、初級~中級者はおそらく、文法的理解をきちんと定着させる前に、それが何についての問題であるのかも分からないままに、ふわふわと進んでしまうだろう。たった100ページかそこらの学習書で何が得られるというのか。
  語彙のレベル、つまり使われる単語や熟語の選択に関しては、英語資格試験の蓄積もあって、それなりに共通のベースが作られているようだが、その程度ではどうしようもない。日本の英語教育は、教材の質の低さがかなり致命的ではないかと思う。言語学としての英語学ではなく、段階を踏んで習得できるような(初級~中級)英語学習教材が、なかなか存在しない。



  05/01(Tue)

  『その大樹』オールクリア。


  【 芸術作品の認識乃至評価の「主観性」とは 】
  芸術作品や娯楽作品の評価が「主観的である」とよく言われるが、それにはいろいろな場合がある。例えば:
  1) 文化依存的な相対性。鑑賞者が属する時代や地域や文化によって、理解できる要素が異なり、また、評価の前提となる価値観が大きく変化する。例えば、ある時代に高い人気を博した作品が、後の時代にはまったく顧みられなくなるといったことはある。この意味における主観性を調停するには、歴史的に俯瞰する視座に立つ必要があるのだが、しかし鑑賞者自身がそこに到達するのは難しい。
  2) 価値基準の選択。ひとによって、評価基準が異なる。当該作品について、あるいは当該ジャンルの中で、どのような要素を重視するかによって作品評価が異なる。これは、評価の前提となる価値基準を明らかにしたうえであれば、作品評価を他人との間で客観的に議論することは可能であるし、実際有益でもある。そもそも芸術作品は複合的多面的なものであり、作品の受容および評価に際してもこのような多様性が生まれるのは、むしろ当然である。
  3) 個人的な好悪。明確かつ理論的に整備された価値基準とは別に、あるいは、当人にも言語化できないようなデリケートなところで、個人的な好き嫌いが生まれることはあり、そしてその好き嫌いは同一の作品でもひとによってほとんどランダムに変化する。この意味での主観性は、鑑賞者個々人のパーソナルな芸術体験と結びついているため、他人との間で折り合いをつけることはおそらくあまり意味が無い。もちろん、言語化できる範囲であれば、語りあうことによって、上記2)の客観的な議論に接近していくことが出来るし、そこから作品に対する新たな視点を得られることもあるだろう。

  例えばゲーム作品についても、「当時はとても面白かったが、現在ではその作品の意義はプログラミング技術の発達によって完全に乗り越えられてしまった」という場合(歴史的相対性)もあるし、あるいは、「この作品が試みているゲームシステムは、アイデアそれ自体は挑戦的であり、大きなポテンシャルがあると考えられるが、さしあたりこの作品はUIのまずさやプラットフォームのスペック不足もあって、完全に失敗している」(評価基準の多面性)とか、「非常に完成度の高い作品であることは理解できるが、たまたま私の精神状態では楽しめなかった」(個人的な体験上の好悪)といった場合がある。

  いずれにせよ、「アートは主観的だから」の紋切り型で思考停止してはいけない。


  【 デジタルアートにおけるサイズ認識の問題 】
  そういえば、ちょうど今日電車の中で考えていたことも、上の話題と部分的に関連する。
  複製芸術の極致たる現代のデジタルイラストは、「絵のサイズ」の問題に関して非常に難しい立場にあるのかもしれない。
  まったく同一の絵であっても、見る時の大きさによって、作品の印象はおそろしく変化する。そして、ネットで公開されるイラストやデジタルコミックの齣絵、PCゲームの一枚絵などは、鑑賞者(受け手)の環境によっていくらでも変化してしまう。スマートフォンで見る場合と、ノートPCで見る場合と、大画面のPCモニタで見る場合と、自室でプロジェクタ表示する場合とでは、作品の見え方はまるで別物になるし、そして作品の意味も、そしてその評価も異なってしまう(※表示環境による色味の変化は、ここでは論じないことにする)。そして作者は、自分の作品がどのようなサイズで見られるかをコントロールすることができない。つまり、作品のサイズを定めることが出来ない。ここでの芸術的困難は、以下の3点にある。
  1) 作品が表示されるサイズが、鑑賞者によって様々に異なる。
  2) それら様々なサイズの中で、そもそも「本当のサイズ」というものも存在しない。
  3) 作品のサイズを、作者が決定することもできない。

  作者の手許には、たしかに「オリジナルサイズ」の画像データは存在する。しかしそれは基本的には、画像処理ソフト上で操作するために引き延ばされた、最大サイズのデータであるに過ぎないし、そもそもpixel基準でのサイズは現実のサイズと何も対応していない。それは、「完成状態として見せるためのサイズ」や「このサイズで鑑賞されることを想定したサイズ」ではない。そのサイズが最も正しいと言うことはできないだろうし、イラストレーターたちもそのような見解には首肯しないだろう。それはいわば、写植前の、レイアウトも何も決まっていない生原稿に等しいのだから。また、データとしてのサイズが確定されたとしても、表示環境(閲覧されるサイズ)が異なる以上、依然として解決の指針は何も与えられていない。デジタルイラストに関しては、そもそも「何が正しいサイズであるか」という問に対しては、「答えは無い」というしかない。そして、同一の画像が、たとえば新作アニメのキービジュアル画像が、何メートルにも及ぶサイズで印刷されて巨大な看板広告として使われる一方で、ほんの十数センチのスマホ画面上で見られもする。

  伝統的な美術作品は、(版画を除けば)基本的には一品物であり、そして当然ながらサイズは完全に確定されている。そしてそのサイズを、画家はあらかじめ作品の設計に折り込んだうえで描くのだ(――どのようなサイズの絵を描くかの事前的選択については、パトロンからの指定があったりするし、場合によっては完成後にトリミングすることもあるが、それはともかく)。
  サイズの違いは絵の印象や意味を決定的に左右するし、画家はそれを考慮したうえで構図や色彩や筆致をコントロールして、最善と思われる形に仕上げる。例えば、鑑賞者が一目で絵の全体を視野に入れることのできる小ぶりな風景画であったり、あるいは、ちょうど現実の人間と同じくらいに人体を描くことによって強烈な迫真性を生む宗教画であったり、あるいは、横幅数メートルの巨大なカンバス上に展開されることによって細部のリズムを見えやすくしている抽象画であったり。もしもそのサイズが変わってしまったら、作品の構成上の意味も変わってしまうだろう。個々の作品を論じる際にも、当然ながら、カンバスのサイズとその意味に関する言及は現れる。
  実物を観るために美術館に足を運ぶのも、あるいは、わざわざ遠い外国から大金を投じて美術作品の現物を持ってきて美術展を開催するのも、実物を実物のサイズで鑑賞することに決定的な意味があるからだ。画集だけではけっして分からないことが分かるし、そもそも画集を見るのとはまったく別種の体験だと言ってよい。
  もちろん、そうした実物の絵でも、完全に同一の体験になるというわけではない。見る距離によって見え方は変わってしまうし、あるいは、どのような額縁に入れるか、どのようなインテリアの部屋で見るかによっても変わるだろう。例えば「聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光」のような壮麗な教会天井画が、仮に横置きされてしまったら、どうなってしまうだろうか。落ち着きのない錯視画像のように見えてしまうかもしれない。……しかし、作品が実際にどのようなサイズであるかは完全に確定されているわけだし、そしてサイズの如何は作品解釈の一助にもなる。美術の画集でも縦横のサイズが必ず記載されているのは、そういう事情だ(※それに対してCGの画集では、サイズは記載されていない)。

  私はここで、価値判断を下そうとしているのではない。たとえば、サイズに関して「真の正解」があることが望ましいとか、あるいは「本当のサイズ」なるものが存在し(得)ないからデジタルイラストは駄目だなどと主張するものではない。
  また、デジタルイラストレーターたちの間でも、当然ながら、サイズに関する意識は伴われている。個々のイラストをどのような場面に露出させるかを理解したうえで、ディテールや色彩や構成を調整している。SNSで公開するのか、単行本の表紙に使うのか、画集に入れるのか、抱き枕を作るのか、「百人展」のようなイベントのために大きくプリントするのか、同人誌即売会のノボリ旗に使うのか、等々。それぞれ、用途とサイズを理解したうえで、アイキャッチ効果の高い配色をしたり、細部の描き込みを追求したり(あるいは省略したり)、素肌の質感に凝ったりしているだろう。
  しかしいずれにせよ、現代のデジタルアートの多くは、サイズの問題に関して明確な示唆を与えていない。この作品はどのような大きさで鑑賞すればよいのかという問には、誰も答えてくれない。作者すら、それに関して示唆を与えることが出来ない。「良いサイズ」、「正しいサイズ」、「本当のサイズ」などというものが存在しない。そもそも「実物」はこれだと言うことも難しい。デジタルアートに向き合う私たちは、このような条件を所与としている。

  映画はどうだろうか。どちらとは言い切れず、かなり中間的なところにあるようだ。ディスク媒体として自宅で視聴するのと、映画館で観るのとでは、シネマ環境の方がおそらく作品設計上の構想に近いものだろう。ただし、映画館といっても一概には言えず、巨大なサイズのスクリーンもあれば、比較的小ぶりなホールもある。音響や画質も異なる。また、シアター環境の方が制作者に想定されていたとしても、「ディスクでの視聴体験は単なるフェイクだ」と言うこともできないだろう。聖なる一回性などというものは、映画においては制作サイドのみならず視聴サイドでも存在しない。


  「轟け」第270回更新。ytの268回も、消去されていないようだ。バックナンバーが全て保持されるのであれば、ありがたい。
  うわあ、視聴が終わった後に、気持ち悪いサムネイルが……やっぱりytはやめてほしい。


  うーん、さすがに改造プレイを公言しているツイートは、ブランド公式アカウントではRTしない方がいいのでは……。


  (→6月4月