ソフトハウスキャラ作品のシステムデザインの特質について、もう一度語ってみる。
現時点での私の認識としては、ソフトハウスキャラのSLG作品のありようを定式化しようと試みるならば、以下のよにう言えるだろう。すなわち、「AVGパートとSLGパートの間を往復しつつ進行するルーチン構造を基礎として、特定の架空状況を特定の組織だった形で参加的にシミュレートする、一種のデジタルTRPGのようなゲーム」であると。
1. 「AVGパートとSLGパートの間を往復しつつ進行するルーチン構造」
一般的分類としてはSLG+AVGと呼ばれるべきものであるが、その双方の関係はかなり個性的なものである。SHCの多くの作品は、以下のようなシークエンスを一単位(一ターン)として進行するものとして把握することができる。すなわち、
- メイン画面で、プレイヤーはSLGパートの枠組的行動を決定する
- AVGパート上で、決定に対応するリアクションイベントが生じる
- SLGパート上で、リアクションが処理される。場合によってはさらなる操作パートが発生する
- AVGパート上で、幕間イベントが発生する。フラグによっては、重要なイベントが発生する
- ターン進行のカウントを加算して、次ターンのメイン画面へ移行する
というものである。そしてこの一連のプロセスが、ゲームの終了条件を充足するまでひたすら繰り返される。
1-a. SLGパートとAVGパートの間の協働的相互作用
SLGパートとAVGパートは、時として比較的長大なものになることがあるが、基本的には、ごく短いリアクション処理プロセスの集合として扱われ、それゆえ、どちらか一方がゲーム進行の支配的要素になるということは無い。AVGパートとSLGパートの間を小刻みに往復し、それらの間の細かな相互作用を積み重ねていくことによって、ゲーム状況全体の大きな変化が、緩やかに生成していくというのが、その基本的性格である。それは、多くの(オーソドックスな)SLG作品のように、ゲーム的挑戦が絶対的優位にあってAVGイベントは単なる添え物であるというようなものではない。そしてまた、SRPGやSTGのように、ステージ制進行ではっきりと切り分けられて、ゲームパートが物語進行の間に挿入される単なる小ブロックとして扱われるというものでもない。SLGパートとAVGパートとが、垂直的な主従関係に立つのでもなく、水平的な対立関係にあるのでもなく、両者が一体となって一つの「状況」そのものを表現することに捧げられているということ、これがSHCのSLG+AVG作品の一つの大きな特徴だと言える。
このようなSLG/AVGの両立と相互作用について、詳しく説明するために、SLGパート(特有のシステム[=インターフェイス]に対してプレイヤーが操作介入する局面)とAVGパート(テキストイベントの局面)それぞれのありようについてその特徴を整理してみよう。
1-b. SLGパートの特徴:自立性、連続性、分散性
同社のSLGパートは、もちろん、狭義の「ゲーム」的部分もしばしば含んでいるが、それと同時に、フラグ構造体としての側面が強い。例えば『BUNNYBLACK』シリーズにおけるダンジョン探索パートの場合は、狭義のゲーム的部分だと見做すことは容易だろう。しかし、『巣作りドラゴン』や『忍流』のように、迎撃戦闘パートが完全なオート進行で処理される場合、それは「(プレイヤーが具体的に操作しコントロールするところの)ゲーム」パートと呼べるのか、それとも所与の状況からの進行を計算し結果を処理する演出パートであるのかは、すでに一義的に自明とは言えない。そして、『ブラウン通り三番目』の商店経営パートや『グリンスヴァールの森の中』の学園運営パートに至っては、それらはもはやなんらかの特定の「(狭義の、ルールに基づいた挑戦的活動という意味での)ゲーム」であるというよりは、プレイヤーが緩やかに介入することのできる、無数のパラメータやフラグの集積体と見做す方が適切だろう。
そして、その巨大なパラメータ管理メカニズムは、もちろん、それ自体がインターフェイスを通じて特定のシチュエーションの表現になる――例えば所持金の増加は「裕福」を表し、ユニットのレベルアップは「成長」を表す――が、 それと同時に、AVGパート上のイベント発生を準備するための条件管理システムとしても作動している。SHCでは、AVGパートのイベント発生のための進行フラグは、AVGパートの内部で処理されていくことはなく、ほとんどの場合、SLGパートの側で制御されている(cf. 「リメイク論」7章2節d号)。つまり、AVGパート上の選択肢決定等によって状況に変化がもたらされるということはほぼ皆無であって、プレイヤーはもっぱら、一つの操作体系として提供されたSLGパートの側で、様々な形で判断を下しあるいは(部分的な)介入を行うことによって、AVGパートのイベント発生を追求していく。同社のSLGパートは、どちらかといえば、ゲーム的挑戦のためのフェイズではなく、ゲーム内状況を特有の形でシステマティックに表現した一つのメカニズム的存在であり、そして同時に、プレイヤーがそれを通じてゲーム内状況へ介入していくための関数的窓口(インターフェイス)でもある。
このように、状況表現の一翼を担うべきSLGパート(のフラグ構造体)は、それが自立的な存在であるために、そして状況の連続性を表現するために、それ自体が連続的なものになる。それは、ステージ制進行などで分断されたり、頻繁に仕切り直しを入れられたりすることは無く、ゲーム進行全体を通じて一つの単一のメカニズムとしてあり続ける。もちろん、大きな節目となるような変化はある――例えば『忍流』の多木衆パート、風花党パート、システン侵攻パートなど――が、ゲームの基本枠組は最初から最後まで同一のものが存続し、そしてそのことによって、SLGパートはゲームの環境的所与としての地位を正当に獲得する。
このようにして、SLGパートは、その連続性によって当該ゲーム上で表現される特有の「状況」の連続性の基盤となりつつ、AVGパート上のイベント群を引き起こすための作動メカニズムとしての役割をも引き受けている。ただし、イベント発生のための条件確保は、非常に多岐に亘るものであり、それぞれが独立性の高いかたちで併存している。例えば、個別ヒロインとのイベント進行は、それぞれのヒロインをSLGパート上でユニットとして出撃させた回数や、会話コマンドを実行した回数などによって、個別に判定される。あるいは、ゲーム進行に大きく影響しない幕間的AVGイベント群も、ターン(季節)、所持金、実行コマンド、特定施設の建設といった様々な条件を参照しつつ発生する(――『Wzaird's Climber』の季節イベントや、『グリンスヴァール』のサブヒロインイベントが、その典型である)。このように、非常に多くの種類のAVGイベントが、必ずしも特定の直線的関係で結びつけられることなく、フラグ群の緩やかなつながりとして並列的多元的に発生していく。『ブラウン通り』以降のSHC作品では、そもそもゲームの(あるいは物語の)本筋というようなものはほとんど存在しない(cf. 「リメイク論」6章4節)。ヒロインAとの関係が、ヒロインBとの関係が、あるいは敵対者αとの関係が、敵対者βとの関係が、それぞれどのような順序でどのようなタイミングで発生していくかは、プレイヤーの裁量に委ねられている。こうした構造的自由度が、このフラグ構造体のもう一つの大きな特徴である。この構造化された進行の自由度は、とりわけ『南国ドミニオン』や『忍流』において、ゲームシステムそのものとして包括的に展開されたが、それ以外の諸作品にも多かれ少なかれ見出される特質である。
1-c. AVGパートの側から:物語分岐との関係
プレイヤーがSLGパートに介入することによりAVGパートのイベントを発生させていくというのが、同社SLG作品群に対するプレイヤーの参加の基本的形態であるため、AVGパートは、ゲーム進行全体の中では受動的な存在となりがちであるように見える。しかし、実際にはけっして消極的受動的な部分ではない。一つには、プラグマティックな事情として、プレイヤーたちは(狭義の)ゲームをプレイしたいだけでなく、AVGパートのイベント――アダルトシーンを含めて――をも求めているからだという理由がある。また、機能的な側面で見ても、AVGパートの側で特定のイベントが発生することが、SLGパートの側の状況をしばしば大きく変動させるという事実がある。例えば、SLGパート上の強敵の消滅は、SLGパート上での撃破(だけ)ではなく、しばしばAVGパート上での捕獲イベントを最後まで見ることによってようやく成し遂げられるようになっている。あるいは、単純なターン経過を条件として発生したAVGイベントがSLGパートで新たな勢力を出現させたり、ランダム発生する幕間イベントがSLGパート上の景気を変動させたりすることもある。そして、目指すべきエンディングも、それ自体がAVGパートに属するものであるし、また、AVGパート上の選択行動によってエンディングが選び取られることすらある。
AVGパートをも含めてゲーム上で展開される物語が、常に単一の枠組が終始維持されるところのSLGパートのフラグ群からの、一種の反映乃至帰結として生成していくということは、ゲーム上の物語展開が大きな択一的分岐を持たないということでもある。他社作品にしばしば見られるような、例えばLaw/Chaos分岐のような物語上の大分岐は、SHC作品にはほとんど見られない。言い換えれば、AVGパート上の特定の選択決定が、イベント群発生フラグ体系の全体を舵取りして大きく変更するということが無い。そのように、特定の分岐点でゲーム進行全体が(半)強制的に方向転換させられることはほとんど無く、ゲーム中で発生するイベント群を制御するための基本的メカニズムは、最初から最後までほぼそのまま維持される。
もちろん、大小様々なイベント群の中で、ゲーム進行の中で比較的主導的な役割を占めるもの(つまりSLGパートの状況や他のAVGイベント発生条件に対して、比較的大きな影響をもたらすイベント)は存在するし、物語の本筋に当たると見做されるもの(シミュレーション上の主目的とされる目標に関連するイベント)もある。しかし、そうした大きなイベントも、それ以外の無数のイベント群の発生条件に対して決定的に影響することは少ない。例えば、一人のヒロインが生きようが死のうが、あるいは一つの勢力が成長しようが崩壊しようが、他の多くのイベントは消滅させられることが無く、それら自身の断片的な物語を享受する。あるいは、そもそも、多面的かつ大量のイベント群を含むSHC作品のゲーム進行の中で、何が本筋であり何が脇筋であるのか、どのイベントがこのゲーム(この物語)にとって必須であるのか否かは、必ずしも自明ではない。とりわけ『ブラウン通り』以降、「物語の本筋」「メインルート」といった物語要素の占める比重は低下し、あるいはそもそも存在すらしなくなっている(cf. 「リメイク論」6章4節)。そしてそれとともに、当然ながら、物語としての大きな分岐も、存在しないか、あるいは、少なくともAVGパートの側から提供されることはほとんど無い。物語としての展開が、制作者によってあらかじめ規定された数個乃至十数個の道筋(ルート)のみに限定されるのではなく、その都度のプレイの中で生成してくる状況それ自体が、AVGパートのイベント群とSLGパートのパラメータ群の両輪によってもたらされるその複雑な厚みこそが、プレイヤーの体験する物語の中心的部分になるというのが、ソフトハウスキャラにおける特異な「物語」の現れである。一人のプレイヤーが、一回のプレイの中で出会う無数の出来事、すなわち、ゲーム進行の中で、ランダムに出現する支援者ユニットの中でたまたまこの有能な支援者を獲得できたりあの支援者と契約できたり、あるいは一定の幅の中でランダム生成されるアイテム群の中でたまたまあのアイテムを入手出来たり出来なかったり、ランダムに発生する幕間イベント群の中であれが発生したりそれが発生したりする、その万華鏡のような彩りの変化こそが、そのプレイヤーにとっての物語になるのだ。
SHC作品群における物語形成の特徴をこのように理念型的に定式化したが、これは、その物語が、単なる一本道進行ということではないし、SLGパートに対して従属的な存在に過ぎないということでもないし、あるいは完全なランダム生成に支配された混沌だということでもない。第一に、SHC作品のAVGパートは、ゲーム進行全体に対して目的を与え、描写を与え、そして変化を与えるがゆえに、けっして従属的な「おまけ」や「飾り」に終わることは無い。第二に、個々のイベントは、無数のパラメータを参照しつつ発生条件や優先度のウェイトを細かく設定されており、そして筋道立った仕方で発生する連鎖イベントも多数存在するので、けっして単なるランダムの泡沫に終わるものではない。幕間のちょっとしたフレーバーイベント(のように見えるもの)の中にすら、連鎖イベントが隠されていることがある。そして最後に、ゲームとして構築され表現されているその都度の状況は、比較的大きな段階的変化を持つことがあるし、とりわけゲームが終わりを迎えて物語がプレイヤーの手を離れる瞬間に、すなわちエンディングイベントでは、しばしば大掛かりな状況の転換が扱われる。ゲーム中の変動としては、例えば『DAISOUNAN』では、SLGパートでの降下艇の修復段階をフラグとして、キャラクター人数が増えていくし、『忍流』でも特定の任務を達成する(あるいは、しない)ことによって周囲の状況が大きく変化する(――多木衆との対決、風花党との交渉、システン軍の侵攻、久留滝家の復興など)。『グリンスヴァールの森の中』でも、ヒロイン「ヴィヴィ」とのイベントを進行させると、毎ターンのコマンド編成にすら変化が生じる。エンディングのヴァリエーションに関しては、とりわけ『Wizard's Climber』が際立っており、魔法使い修行が三年間の期限に達した時、それまでのプレイ内容(コマンド選択回数や、特定の戦闘に勝利など)を参照して、メインヒロインの「その後の姿」が様々なものになる。それは、主人公の妻になったり、冒険者になったり、弟子を続けたり、あるいは高名な魔法使いになったり、家を再興させたりと内容上の変化も多彩であり、しかも、ただ単にゲーム終了直後の状況だけでなく、しばしばヒロインのその後の人生全体に及ぶ言及にもなる。SHC作品における物語の「(目に見える)変化」は、あるいは「(単なる混沌ではない)道筋」は、そして「終結」は、このようにして提供される。
おおまかな模式図を描いてみよう(下図1)。赤文字の部分を見ると、SLGパート上のフラグ(例えばなんらかの回数カウント)によって、AVGパート上のイベントが発生し、さらに追加的なフラグ(回数カウントがさらに上位の条件を満たす)によって、後続イベントが発生する。AVGパートのイベントがリアクションを返して、SLGパートの側に影響を与える場合もある。さらに累積フラグが上位の条件を満たすと、さらにイベントが進行する。同様に、まったく別のパラメータを参照する青文字イベントの系統も、SLGパートからAVGパートにフラグを受け渡していき、しばしばイベント発生を節目としてSLGパートの側にも変動を生じさせていく。紫文字や茶文字など、相互独立のイベント系統が多数存在する。また、ターン毎に発生する幕間イベントも、基本的には単なるフレーバーイベントだが、時としてSLGパートへの影響を生じさせることもある。このようにして、SLGパートとAVGパートとの間で何十回、何百回もの往復を積み重ねていくことによって、物語的に表現されるAVGパートとシステム的に表現されるSLGパートとは、互いに歩調を合わせつつも自由に展開されていく。システムが特定の内容のみを強制するのでもなく、テキストが散発的なゲームパートによって装飾されるのでもない、システムとイベントとの間の密接な関係が、SHC作品の特徴である。それは、AVGパートとSLGパートを往復する単純なルーチンを基礎としつつ、プレイヤーに対して状況への参加乃至介入の手掛かりを提供するようなSLGシステムを構築し、その中に様々な形でフラグを設定された大量のイベントが埋め込まれているというものである。
(図1:)
結局のところ、ソフトハウスキャラ作品のゲーム進行の基盤にあるのは、SLGパートのゲームシステムらしいシステムの部分ではない。むしろ、AVGパートとSLGパートを相即不離に結びつけるルーチン構造を置いている点が、最大の特徴である。そして、その表面上はきわめて簡素な関係の下で、SLGパートはその都度のシチュエーションを表現するために柔軟に構築され、他方でAVGパートでは、数百もの、あるいは1000個以上のイベントブロックがあらかじめ用意されて、それら大量のイベント群がそれぞれ特定のフラグを設定されて、このゲーム構造の中に投入されている。プレイヤーは、主にSLGパートに介入して、そのランダム性の強いシステムの中で生成してくるフラグの海の中を泳ぎつつ、そこに浮かび上がってくる大小無数のAVGイベントを享受していく。このようにして、AVGパートとSLGパートの間の往復運動の中から、様々なフラグ充足を機縁として毎ターン様々なイベントがゲーム進行を豊かに彩っていく。これが、SHCのゲームとしての進行制御構造の基本的構成である。
2. 「特定の架空状況を特定の組織だった形で参加的にシミュレートする」
同社のSLG作品は、一方的な物語の提示に偏るのでもなく、また、挑戦的遊戯としてのゲーム性のみを奉じるものでもない。それならば、ソフトハウスキャラは何をしようと(あるいは、プレイヤーに何をさせようと)しているのか。私見では、そはれはまさに文字通りの意味で、「シミュレーション」と呼ぶしかないものである。想像された一つの世界のある状況を、擬似的なかたちではあれ、実際に動かしてみること。そして、その想定された状況の中で、ただ単に一つの法則的進行を追うのではなく、あるいは特定の一人のアクターの行動をトレースするのでもなく、様々なアクターたちが相互作用している状況全体を、できるかぎり幅広く「再現」すること。
実際に、同社作品の中では、主人公の見聞範囲から外れて、モブキャラたちの様々な会話や行動を描いているイベントが大量に存在する。近年の作品では『雪鬼屋温泉記』のモブ仲居たちや『アウトベジタブルズ』の学園生たちの幕間イベントが典型的だったが、それ以前からも、『王賊』のモブ兵士たちの会話や、『Wizard's』の脇役五人衆のイベント、あるいは『うえはぁす』『アルフレッド学園』『グリンスヴァール』のサブイベントなど、同種のものは大多数の作品に見られる。また、これは制作者自身の言葉からも見て取れる。ある雑誌のコメントで、ソフトハウスキャラの作品は、ある世界の中で主人公が特定の目的を持って活動する有様そのものをゲームの主題としてしている、といったことを述べている(cf. 「リメイク論」5章2節c号)。
このような捉え方については、以前にも詳論したので、ここでは繰り返さない(cf. 「リメイク論」9章2節)が、「物語」でもなく「ゲーム」でもない、「シミュレーション」という第三の道をSHCが自覚的に選択していること、そしてそれがデジタルゲーム分野ではかなり稀なものであるということは、ここで再確認しておいてよいだろう。そして、それが単なる機械的自動的なシミュレーションの計算処理ではなく、プレイヤーが(主人公という窓口を通じて)シミュレーションに参加するという側面も、見落としてはならないだろう。
3. 「デジタルTRPG」?
如上の理解を整理するなら、ソフトハウスキャラのSLG作品は、柔軟な形で制度化されたメカニズム(ゲームシステム)と、言語的表現(AVGパート)の間の相互作用を、プレイヤーの介入を大きな動因の一つとして進めていくシミュレーションだと述べることができる。さて、ここでSLGパートの「ゲームシステム」は、シミュレートされる状況を表現するために構築された非人格的機構であり、AVGパートの「イベント」は、基本的には制作者が具体的にその文言を執筆し画像を描きフラグを設定して準備したリアクション表現であるが、それでは「プレイヤー」は、このシミュレーション遂行関係の中でどのような地位に立つのか。
これに対する私の見解は、最初に述べたように、一種のTRPG的参加者に喩えるのが最も近いのではないかというものである。SHC作品のプレイヤーは、制作者が用意したとおりの順序で用意されたとおりに物語をただ受け止めていくような、受動的存在ではない。そしてまた、ソフトハウスキャラのSLG作品が、狭義の(挑戦的遊戯としての)ゲームではないならば、そこではゲーマーたちは、制作者(が提示したハードル)と直接的に対決するような関係に立つものではない。ソフトハウスキャラ作品の「プレイヤー」とは、当該シミュレーションを有意味に成り立たせるために欠かすことのできない主体の一人であり、そして、そのシミュレーションの初期設定と目的を受け入れて――つまり、そういう架空状況と主人公キャラクターをいったん真に受けて――そのシミュレーションが成り立つように、制作者(=ゲームマスター)が準備した素材群を実際にゲーム進行の中で現象として結実させていく。そのような姿勢を簡単な言葉で要約しようと試みるならば、――雑駁な比喩であるが――さしあたりTRPGの参加者(プレイヤー)に喩えるのが最も近いように思われる。もちろん、SHCはデジタルTRPGを目指しているのだと素朴に主張するものではないが、同社作品のプレイヤーに期待されている精神的姿勢は、それときわめて近いものであろう。
2014/10/29
要するにソフトハウスキャラ作品の多くが採用している構造とは、一つには「進行制御枠組としてのルーチン構造」が中心にあって、それを巡って「AVGパートの大量のイベント群」と「SLGパートの複雑な事象群」とが膨大なフラグフィードバックを返しあうものであり、そしてそのプロセスの中からゲーム全体の「状況」がたちのぼってくるというものだ。
それは、ゲーム(SLG)進行のデコレーションとしてAVGイベントが散発的に生起してくるというようなものとはまったく異なる。AVGパートが、独自別個のフラグ体系を持って、自立した一つの重要な部分としてその内部で相互作用しているからだ。
また他方で、これは調教SLG/AVGのような枠組とも決定的に異なっている。SHCにおけるSLGパートのような部分は、調教SLG/AVGにおいては、AVGパートのイベント群と拮抗しあう別個独自の状況表現システムではなく、イベント群に対するメタレベルのフラグ体系として(のみ)存在するものだからだ。
さらに、ゲームシステムの内部でイベントを発生させる(SRPGにしばしば見られるような)ものでもない。SHC作品のAVGイベントは、SLGパート上での条件を満たした時に一対一対応で自動的にリアクションを返すというようなものではなく、もっと広汎で、もっと大量で、もっと組織化されたものであり、そしてSLGパートの外部に(SLGパートからひとまず独立して)存在するものだからだ。
ミニゲーム集を伴う拡張的AVGのようなものでもない。SHC作品におけるSLGパートは、ゲーム進行の間中ずっと、一つの(基本的に単一の)メカニズムとして存続し作用し続ける、一つの実体であるからだ。
AVGの枠組で、SHC作品のようなものは作れるだろうか。あるいは、それとのシステム比較を試みる意義がありそうなタイトルは存在するだろうか。『Festa!!』のSSS(「ストーリースティックシステム」)は、物語進行としてのゲーム進行が、枠組としての一つの「システム」の介在によって、プレイヤーの参加的性格と一定の非決定的性格の双方を与えられているという点で、AVGとしてはずいぶんユニークな試みであったと思う。『ヒメゴト・マスカレイド』も、基本的には調教SLG/AVGの流儀に棹さしているのだが、そこに「マップ進行」という特有の(一見それほど大規模なものではないのだが)システムを組み込むことによって、不思議な探索的ムードを導入することに成功している。