趣味との気楽な付き合い方。
今でも週一ペースで模型店を覗いているのだが、最近は何も買わずに店を出てしまう。店頭でぎっしり並べられたキットの山を見ても、なんとなくカタログを眺めているような気分になるだけで、「作ろう」という意欲や、「作るならどうするか」という構想にはちっとも結びついていかない。ほんの2ヶ月前までは、他の趣味を後回しにしてまでモデラーライフに耽溺していたのに、ここ40日以上の間、本当に何一つキットを買っていない。我がことながら、実に興味深い変化だ。一つの趣味を、とりあえず満足するところまで行くというのはこんな感じなのかというのを、その意識の機微の不思議さを、他人事のように面白がって見ている。そして、その感触を面白がるために模型店に足を運んでいるような節もある。
これを「飽きた」と言い表すのは適切ではないだろう。飽きたと言えるほど熱中したわけではないし、模型制作を楽しめる感性が失われたということでもない。自分に出来そうなことをいろいろ試してみて、模型の楽しさを一通りきちんと味わって、ひとまず欲求が満たされたような感じだ。いずれ、いつか、再び食欲が湧いてくることもあるだろうが、さしあたりはその意欲が戻ってくることは無さそうだ。
自己理解しておくべきであろうことがいくつかある。
1)これは満足した状態なのであって、「飽きた」とか「放棄した」とか「モデラーとしての死」とか「モデラーとして恥ずかしいこと」などではない。趣味生活は、いつでも止められるものだし、いつでも(再び)始められるものだ。以前も、知人に触発されて模型制作を始めたが、引越などを機にモデラー活動を停止した。もちろん知的好奇心全般がそうだ。学問や趣味の様々な分野について、一定期間熱中して適当なところで切り上げることは、これまでも何度もあった。今回のモデラー活動は、その変化が非常にはっきりした形で現れたが、基本的には他の場合と変わらない。趣味というのは、人生を賭けるほどのものにすることも出来るが、このくらい軽いものであってもよい。趣味とは、新参者の参入もできるかぎり自由なようにしておくべきだし、そして趣味からの離脱に際しても(もしかして何か特別に他人の具体的な利益を侵害しないかぎり)自由であるべきだろう。留保の付く状況というのは、例えばなにかの同好会の部長がいきなり「飽きたから辞ーめた」と言ってすべてを投げ出して退会するとか、あるいは大量の稀覯本を抱えた趣味者が「興味が無くなった」と言って貴重な資料をすべて焼き捨てて去って行くといったことはすべきではなく、最低限の後始末はきちんと為されるべきだ、という話だ。
2)しかしながら、モデラーとして手を動かさなくなったことは、現役の立場から降りるということであり、いうなれば仮死ではある。だから、現役でモデラー活動をしている人たちとは、大きく異なる立場に移行したということは認めなければいけない。したがって、引退者という立場において、現役モデラー諸氏に対してはなおいっそう敬意を持たねばならないし、現場にはいない者として、もはや出過ぎたことは言うべきではない。それは、模型であれゲームであれ他の何であれ、実践的性格を持つ趣味すべてに当てはまる最低限の道義的原則だろうし、また、実際に金を出す(業界に金を落とす)ことをしているかどうかの問題でもある。部外者である、あるいは部外者と見做されたとしても文句の言えない立場であるということは意識しなければいけない。趣味は、「やってみようかな」というニューカマーや「再開しようかな」というリターナーのためにもできるだけ開かれているのが望ましいが、第一義的には、現在現に現役でやっている人たちのものだ。彼等こそが最優先されるべきなのだ。また、一つの趣味分野がどうあるべきかは、当然ながら、現在まさにその現場に立っている人たちが、あるいは現在まさにその分野に寄与している人たちが、つまり、実際に金を出しているユーザーや新作を出しているメーカーが、彼等こそが(そしておそらくは彼等のみが)決定権を持つべきである。なんらかの公共的利害に関わるのでもないかぎり、趣味分野は原則としてそうあるべきものだろう。
ちなみに、作りたい(作りたかった)キットは、大型のものも含めてまだ10個以上残っている(自宅の、目に見えるところに積んである)ので、それほど遠くないうちにまた手掛けてみようという気持ちになることもあるだろうし、その時には、これまでの経験の蓄積を思い出してまたモデラーライフを豊かに楽しむことが出来るに違いない。もちろん、ブランクの長さに応じて、周囲に対する遅れを持つことにはなるが、資格取得勉強やスポーツなどとは違って、そうした中断が致命的なマイナスになることはそうそう無いだろう。
もちろん、ゲームにせよ、それ以外の様々な趣味にせよ、飽きてしまったり止めてしまったりすることはあり得るだろう。だが、私自身が生きていて、まともに動く精神(知性と好奇心)を持っているかぎり、それがどんな分野に向けられようがきっとどこでもわりと楽しめるに違いないし、それが何か特定の分野に拘束されねばならないということは無い。一つの分野に対して、なんらかの事情で決定的にお別れすることになったとしても、私は心に波風を立てずに微笑みつつその好奇心の一つの扉を閉じることができるだろうし、また、再びその扉を開く時も、特別な屈折を覚えること無しに安んじてその趣味を再開することができるに違いない。今回のモデラーライフ一休みの件は、自分自身に対してそういう自信を持たせてくれた。
ひとによっては、一つの趣味が人生の生き甲斐そのものを賭けるほどのものだったり、あるいはある趣味分野に興味を持てなくなっていく自分自身に苦しんだり、あるいは自分のしたい趣味活動と実際に実行できる活動限界の落差(例えば経済的事情や余暇時間の問題、技術的限界、生活環境上の[不]可能性など)に悩んだり、あるいは私よりももっともっと軽快にいくつもの趣味を飽きては乗り換えていく生き方をしたり、あるいは趣味活動の意味を私よりもさらにシニックに捉えていたりすることもあるだろう。つまり、上記の話はあくまでこの私自身の趣味との付き合い方がたまたまそのようなバランスであったという話にすぎず、べつに一般化できるような話ではないと思う。
人生はセルフ人体実験。対照実験や追試の余地がほぼ無いのは問題だが。