――『少女終末旅行』『パンプキン・シザーズ』におけるケッテンクラートを例として――
はじめに 1. 実在兵器等が取り上げられる事情 2. 実在の兵器や乗り物を登場させている作品の実例 3. 個別作品における実在物利用の意義 3-1. 『少女終末旅行』におけるケッテンクラート 3-1-A. 作中の状況設定 3-1-B. 乗り物の機能的特性 3-1-C. 着想と描写 3-1-D. 背景設定 3-1-E. 小括 3-2. 『パンプキン・シザーズ』におけるケッテンクラート 3-2-A. 作中の状況設定 3-2-B. 乗り物の機能的特性と作中の描写 3-2-C. 背景設定 3-2-D. 小括 むすびにかえて |
【 はじめに 】
近年のアニメや漫画では、鉄道車両や兵器のような実在の人工物等を登場させる例が増えているように見受けられる。
90年代以前にも、多数の歴史物の小説や戦記物の漫画、戦争SLGを初めとして、漫画『エリア88』(連載は1979-86年とのこと)における航空機や、漫画『よろしくメカドック』(連載は1982-85年)における実在乗用車、コンピュータゲーム『メタルマックス』(第一作は1991年発売)における戦車のような例は多数存在した。『マクロス』シリーズ(最初のアニメは1982年放映)のように、実在戦闘機をモデルにしながら全体としては新規独自のメカデザインに仕上げているというアプローチも、同時期にすでに存在した。実写作品や特撮作品でも、実在車両や実在銃器(モデルガン)を便宜的に利用する例は多かったと思われる。
しかし、00年代に入ってからは、実在のロケーションを利用するスタイルが普及していき、それに伴って実在風景の一部として、実在の鉄道路線等がアニメなどの作画に描き込まれるようになってきた。視聴者の側でも、アニメ等のロケ地を訪れる趣味――いわゆる「舞台探訪」「聖地巡礼」――がポピュラーなものになってきた。また、アニメによる町おこしが注目されるようになったのも、この時期からであろう。代表的な例として、『らき☆すた』は漫画版が2004年に連載開始し、2007年にアニメ化された。
さらに00年代後半以降は、オタク創作全般にミリタリー趣味があらためて浸透していき、それとともに軍用機、軍用車両(戦車など)、軍艦といった軍用の乗り物がしばしばそのままの形状で忠実・正確・精密に描写されるようになっている。ただし、それらの用いられ方は、なにげない背景のディテールであったり、あるいは主要登場人物が乗り込む機体であったりと様々であり、また、我々の現実世界に限りなく近い物語世界におけるリアリティとして実在兵器が描かれている場合もあれば、完全なSF的架空世界を舞台にしているにもかかわらず実在兵器がそのままの形で登場している場合もある。
本稿では、フィクション(架空世界)の中で実在の兵器等が描かれる事情について簡単な概観を提示したうえで、実例として2つの漫画作品を取り上げて、実在兵器描写が作中でどのような役割を果たしているかの検討を試みる。
【 1. 実在兵器等が取り上げられる事情 】
独自にデザインされた架空兵器ではなく実在の乗り物や兵器そのものが使われる、あるいは多用されるようになったのは何故だろうか。考えられる事情としては:
1) 技術的可能性。とりわけアニメ作品においては、3Dモデリングを初めとした技術的進歩があり、実在兵器等の精密な再現が可能になっている。例えば走行中の戦車履帯や、回頭航行中の軍艦のような複雑な造形は、手書き作画で表現するのはきわめて困難であり、それゆえ90年代以前のメカデザインはそれらを回避せざるを得なかったであろう(――今世紀のロボットアニメが複雑なディテールや柔軟な変形を享受しているのも、これと同じ事情である)。つまり、00年代以降に選好されるようになったのではなく、00年代以前には不可能だったからだという想定である。
2) ディテール向上の一手段。画質向上や視聴環境の向上に伴って、アニメの作画クオリティに対する要求は高まっている。そうした中で、描写される乗り物等に説得力のあるディテールを与えるための一手段として、実在物が参照されているという側面もあると思われる。巨大兵器の緻密なメカデザインをゼロから作り上げるのは高コストにつくだろう。背景作画がしばしば実在風景に取材しているのも、部分的にはこれと関連していると思われる。また、とりわけ兵器類はスペックや用途が明確に定められており、性能評価や相互比較もしやすいことから、描写に具体性を与えるのに好都合であるという側面もある。
3) リアリティを増すための手段。実在物がまさに実在の存在であるということから、それらのリアリティがフィクションの中にも反映されて、作中描写の迫真性が比較的自然に獲得されるという期待もあるかもしれない。近年のオタク系フィクションは、しばしばリアリティ――現実性であって迫真性ではない――に対する強い要求を蒙っているようであるが、実在物を利用することによって、そうした要求に応えることができる。実在した物は、まさに現実的存在そのものであるからだ。
4) 実在性選好そのもの。近年のソーシャルゲーム等においては、ユーザーが受け入れやすい大量のキャラクターを調達する必要もあって、歴史上実在した個人の女体化や実在兵器等の擬人化が常態化している(――さらに言えば、実在の土地や施設に絡めた「ゆるキャラ」の流行も、これを後押ししていると思われる)。ゼロからの創造的な架空物よりも、現実的な知識体系を踏まえた存在を直接的に参照することが、素朴に受け入れられるようになっているのが10年代のオタクシーンである。実在兵器等の参照も、こうした傾向と軌を一にしているであろう。
5) マニア的な知の快楽。オタクにありがちな知識嗜好の現れとして、実在物を好んで取り上げる風潮が強まっているのかもしれない。ただし、これはいささか古い(いわゆる第二世代の)オタク像に依拠するものであり、あるとしてもかなり局所的な影響ではないかと思われる。ただし、兵器や銃器では、あえて具体名を挙げることによって性能の違いを認識させることが出来る場合がある。
6) ミリタリー趣味。先述のようなミリタリー趣味の前景化が、近年のオタク界の一傾向であることは否めない。自衛隊が同人誌即売会に装甲車などを展示しに来るのは、以前には考えられなかったことではあるまいか。第二次大戦期を中心とする過去の兵器等が多用されるのは、「以前からその時期がミリタリー趣味における人気ジャンルである」、「民間商用のものは権利関係処理のハードルが問題になる可能性がある(例えば自動車や銃器ではそうしたライセンス料が問題になることがある)が、軍用分野ではその敷居がきわめて低い」、「現用のものではなく過去の存在であるから、対象から距離を置いて自由に扱える」、「過去に対する一種のロマンティシズムを担う」といったメリットがある。
7) 作中世界の特有の設定。メディアミックス的に展開される近年の大規模作品は、しばしば厚みのある背景設定を伴っている。そうした世界設定それ自体の仕掛けが、フィクション世界であっても実在世界における事物を取り込んでいることを主張している場合がある。また、当初の物語は完全な架空世界のように描かれておりながら後にそれが現実世界とつながっていることを明かすようなSF作品の場合にも、そうした結びつきの証明として実在兵器等が利用されることがある。
8) シミュレータ作品。『エースコンバット』シリーズ(1995年-、航空機)や『電車でGO!』シリーズ(1996年-、鉄道)のようなシミュレータ作品も、作品の趣旨からして当然に、実在の乗り物を登場させている。
9) タイアップ企画。企業が作品製作に出資し、その見返りとして企業PRのために、その企業の商品やロゴマークを作中に登場させるというものである。主に映像分野(実写やアニメ)で用いられる手法であり、しばしば「作中ではxx秒以上(当該企業のロゴや商品)を映す」といった条件が契約内容に含まれる。『TIGER & BUNNY』(TVアニメ版:2011年)は、このアプローチを極端に徹底して作中世界の基本設定にまで組み込んでいる。すなわち、各企業のロゴマークを全身にプリントした超能力ヒーローたちが、報道機関を引き連れながらドキュメンタリーショー的に犯罪者を追跡しているというものである。また、後述のように、自動車メーカーがアニメ企画に参与した事例も現れている。
もちろん、架空のオリジナルのデザインではなく実在兵器等を取り上げている理由は、作品毎にさまざまに異なるであろう。想定される上記諸事情のいずれが、どれほど、どのように当てはまるかも、作品によって異なる。それは現在のオタク系諸分野における創作の多様性と豊饒性の現れとして言祝ぐべきものだろう。しかしいずれにせよ、今世紀のアニメやゲームの視覚表現が創造的象徴的なデフォルメ表現から、写実志向の精密性、実在性、忠実性へと強く傾斜してきていることは確かである。
『マクロスΔ』(2016年放映)のVF-31Jは、前進翼機X-29をモティーフにしている。『蒼き鋼のアルペジオ』(漫画版:2009年-/TVアニメ版:2013年)にも、史実の軍艦を変容させた艦船的存在が多数登場する。実在兵器は金型流用しやすいため、メディアミックス時代における商品展開にも好都合だろう。画像はBANDAIとAOSHIMAのキット。
【 2. 実在の兵器や乗り物を登場させている作品の実例 】
10年代も終わりにさしかかった現在では、アニメ、漫画、ゲームなどの中で取り上げられている実在物はすでに多岐に亘る。現実世界をベースにした作品では勿論のこと、完全な架空世界設定においても、実在兵器等をそのまま登場させている例は多数存在する。以下、00年代以降の主立った実例を紹介して、おおまかな展望を得ておこう。
艦船(とりわけ軍艦)に関しては、日露戦争時代を扱った『らいむいろ戦奇譚』(PCゲーム版2002年/アニメ版2003年)もあるが、上記『蒼き鋼のアルペジオ』が代表的だろう。超自然的な意志的存在たち(おそらくはAI+ナノマシンの複合体)が、第二次大戦期の軍艦の形をとって多数出現し、人類と敵対するという近未来SFである。それ以外にも、例えば戦艦大和(またはそれに相当するもの)を登場させている架空世界作品を見るだけでも、ゲーム『マブラヴ』シリーズ(2003年-)、漫画『朝霧の巫女』(2000-07年連載)、アニメ『ストライクウィッチーズ2』(2010年放映)、ゲーム『ファンタシースターオンライン2』(2012年)などが挙げられる。
艦船は基本的に大型の乗り物であるため全景が映されることは多くないし、キャラクターと同一画面に映される場面も少ないが、河川哨戒艇のような小型船艇が取り上げられる場合もあり、また、宇宙船などは戦闘シーンの主役になることもある。とりわけ潜水艦は、海中での三次元的な動きを見せることが重要であるため、しばしば3Dモデリングで制作される。
『らいむいろ戦奇譚』(アニメ版)。作中では架空名の戦艦で、帆船風の三本マストにアレンジされているが、全体としては日露戦争時代の実在艦(敷島型など)を連想させる。3Dモデルを併用し、ディテール表現とアニメーション表現を両立させている。
『蒼海の皇女たち』(anastasia、2008年)。第二次大戦ドイツによく似た状況の架空世界。主人公たちが乗り込む潜水艦「ウルディアーナ」は、実在のUボートVII型におおむね等しいスペックに設定されている。敵国の飛行艇や駆逐艦も含めて、3Dモデリングによる動画表現が多用されている。
『ストライクウィッチーズ』(2008年)。第2話の空母赤城。3Dグラフィックは、ハイディテールを維持したままアニメーションさせたり転用したりできる。3D技術の発達(低コスト化やAI支援を含む)は、アニメ表現に大きな恩恵をもたらしている。
『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -ARS NOVA- Cadenza』(2015年公開)。人物に至るまでフル3Dで制作されている。左記引用画像は、巡洋艦タカオ(手前)とハグロの交戦シーン。
実在航空機(とりわけ軍用機)を描写している近年の架空世界作品としては、アニメ『終末のイゼッタ』(2016年放映)や漫画『紫電改のマキ』(2013年-)がある。前者は、第二次大戦中ヨーロッパに酷似しているが、設定上はフィクショナルな独自世界である。主人公が魔女という設定からして空戦が中心であり、実在戦闘機MS406やBf109、爆撃機Ju87などが多数登場する。また、陸上兵器(独仏の戦車など)や、艦船(グラーフ・ツェペリンに似た空母など)も登場する。ただし、作中で各兵器の名前が呼ばれることはほとんど無く、あくまで架空世界の架空兵器としての体裁を維持している。
アダルトゲーム『群青の空を越えて』(2005年発売)も、現実の歴史とは異なるパラレルワールド的な現代世界における擬似現代日本での、空軍所属の青年たちの物語である。主人公の乗るJAS39を初めとして、多数の実在軍用機が登場する。同じくアダルトゲーム分野の『ひとつ屋根の、ツバサの下で』(2018年発売予定)も、往年の実在軍用機を用いた架空競技の物語になるとのことである。
作劇上の都合からも、単座(一人乗り)の航空機が用いられることが多いようであり、コクピット内のシーンが描かれる機会も多いため、実在航空機のディテールを参照することに大きなメリットがあると思われる。
『群青の空を越えて』(light、2005年)。東西内戦状態にある架空の現代日本を舞台にしている。多数の軍用機が登場し、静止画CGや動画挿入のかたちで表示される。画像は主人公の搭乗するJAS39の発進シーン。
『Scarlett』(ねこねこソフト、2006年)。特別な権力を持つ少女が、巨大なステルス爆撃機B-2を呼び出した、序盤の印象的なシーン。これ以外にも、実在兵器や実在銃器が多数登場する。その他、アダルトゲームにおける実在兵器表現に関しては、別掲記事「ゲーム、模型、ロボット」を参照。
Bf109E-4(ハセガワ、1/48、『終末のイゼッタ』版)。既存スケールモデルキットの金型を用いたヴァリエーション製品である。専用デカールには各種マーキングやキャラクターイラストも含まれており、三面図の塗装見本や性能諸元など、資料性のある情報も記載されている。
陸上兵器に関して。今世紀のTVアニメ作品としては、『戦場のヴァルキュリア』(アニメ版:2009年)が、実在戦車を緻密に描いたアニメーションの先駆的存在と思われる。2010年代では、アニメ『ガールズ&パンツァー』(2012年放映)が著名である。一種のパラレルワールド的現代世界設定の中に多数の戦車を登場させており、PLATZより多数の関連プラモデルが発売されている(※これらも基本的には既存スケールモデル製品からのヴァリエーション展開である)。
アダルトゲーム分野でも、『いつか、届く、あの空に。』(2003年)の三式中戦車、『魔都拳侠傳 マスクド上海』(2008年)の九七式中戦車、『メモリア』(2009年)の90式戦車など、実在戦車をスポット的に登場させている作品があり、さらに『セックス あ~ん♪ パンツァー』(2014年発売)には、10式戦車やルクレール、A-40空挺戦車などが変容(半擬人化)したかたちで登場する。
戦車は、先述のように履帯の作画に多大な手間が掛かり、また車内の座席エリアも狭隘であり、しかも外部からは乗員の姿を映せないといった問題があるため、アニメや漫画で取り上げるのは難しかったようである。ただし、『メタルスラッグ』シリーズ(1996年-)のように、ゲーム上でデフォルメして表現するアプローチもあった(――ちなみに、この悪条件を逆手に取った実写映画『レバノン』[2009年]のような例もある)。
戦車以外の軍用車両も、好んで取り上げられる。例えば、TVアニメ『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』(2010年放映)は、遠未来世界を舞台とするSF作品であるが、作中では第二次大戦中ドイツの軍用車(キューベルワーゲンやサイドカー)などが登場する。また、特にケッテンクラートについては次章で詳しく紹介する。
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』、第4話。主人公の属する小隊には、キューベルワーゲンが2台配備されている。3Dデザインではなく、原則として手書き作画で描写されているようである。
『ガールズ&パンツァー OVA』(2014年発売)。第二次大戦期の戦車群を、ハイディテールな3Dモデリングで多数登場させている。架空の現代日本における架空の自動車競技のストーリーとのことである。
鉄道は、現実的な舞台設定の作品には頻繁に登場し、そしてしばしば忠実なかたちで描かれる。例えば『涼宮ハルヒ』シリーズ(アニメ版は2006年/2009年)における阪急電鉄や、アニメ『輪るピングドラム』(2011年放映)における都営地下鉄、そして『鉄子の旅』(漫画版:2002-2006年/アニメ版:2007年)に至るまで、実例は枚挙に暇がない。そもそも、鉄道は車両と線路から駅舎や関連施設までを含む巨大なインフラの総体であるため、架空世界設定で実在鉄道車両が描かれることは稀である。ただし、PCゲーム『まいてつ』(2016年発売)や『RAIL WARS!』(小説版2012年-/TVアニメ版2014年)のように、パラレルワールド的アプローチに依拠しつつこの困難に取り組んだ野心作も存在する。実在の鉄道会社が企画段階から深く関与したコンテンツとしては、『新幹線変形ロボ シンカリオン』(玩具。/TVアニメ版:2018年-)がある。
鉄道車両が物語の主役となっている作品は少ないし、ましてや車両形式の如何が問題とされることは稀である。しかし、現代日本の都市生活を描くアニメ作品ではしばしば電車内のシーンが描かれるし、ゲームの背景画像として駅舎付近が描かれることも多い。近年では、アニメ企画や漫画雑誌が鉄道会社との間でタイアップ企画を展開することも、頻繁に行われている(――とりわけ京都の叡山電鉄が有名である)。舞台探訪(ロケ地訪問)趣味においても、作中世界を構成する風景の一部として、鉄道はしばしば注目される。
『まいてつ』(Lose、2016年)。架空の日本を舞台に、鉄道復興と観光振興を目指すアドヴェンチャーゲームである。実在の8620型蒸気機関車が、物語の中核的役割を担っている。
『ピリオド』(Littlewitch、2007年)。本作の舞台は近未来の長崎と明言されており、この背景画像も実在のロケーションを下敷きにしている(長崎電気軌道「観光通」駅前。cf. 参考リンク)。同鉄道の伝統的なツートーンカラーであるが、外観の細部はあまり似て(似せて)いない。
『いなり、こんこん、恋いろは。』(アニメ版:2014年)、第2話。京阪伏見稲荷駅が忠実に描写されている。京都市内ではJR京都駅も、特撮映画『ガメラ3』(1999年)やTVアニメ『響け!ユーフォニアム2』(2016)などで度々取り上げられている。
自動車に関しては、先述の『よろしくメカドック』のほか、『頭文字D』(漫画版1995-2013年)や『湾岸ミッドナイト』(1990年以来、中断を挟みつつ現在も連載中とのこと)のようなレースものが多数存在するが、大掛かりな架空世界ものは僅少であるように見受けられる。外見上のデザインコストが高くないことや、ドラマの焦点としてクローズアップされにくいことなどが影響しているのであろうか。国内外のシミュレータゲームやレースゲームがしばしば実在自動車を登場させているが、実在企業が権利を保持しているため、ゲーム内表現にライセンス上の制約が課せられる場合も間々あるとのことである。
バイクや自転車も同様。バイクに関しては、『フリクリ』(OVA版:2000-2001年)や『ばくおん!!』(漫画:2011年-/アニメ化:2016年)など。自転車に関しては、『Over Drive』(漫画:2005-2008年/アニメ化:2007年)、『弱虫ペダル』(漫画:2008年-/アニメ化は2013年以来断続的に)、『南鎌倉高校女子自転車部』(漫画:2011年-/アニメ化:2017年)など、いくつもの作品が実在の自転車を作中に多数登場させている。
珍しい例として、アニメ『放課後のプレアデス』(YouTube版:2011年公開/TV版:2015年放映)がある。自動車メーカーSUBARU(富士重工業)が出資しており、元々は企業プロモーション映像のような趣旨であったものが、地上波放映のSFジュヴナイルアニメにまで成長した企画である。作中で自動車そのものが大きく取り上げられるわけではないが、魔法少女たちの杖のデザインなどにSUBARU車がモティーフ的に取り込まれており、また、作中背景に描かれているのもSUBARU製自動車である。
『放課後のプレアデス』(TV版、第3話)。SUBARU社=昴=プレアデス星団であることから、魔法少女たちが宇宙を駆け巡る物語になっている。左記画像は主人公宅のレガシィ。
乗り物の他にも、さまざまな実在の発明品、市販実用品、量産製品などが登場する。とりわけ銃器は、「独自デザインにする意味が薄い」、「実在銃器へのマニア的嗜好を持つ者がクリエイターの中にも多数いる」、「性能の違いや機構を具体的に説明しやすい(例えばカテゴリーによる飛距離や命中精度の違いを、ゲーム上のスペックの違いとして表現することができる)」といった事情からか、アニメやゲーム(とりわけシューティング)などにもしばしば実在のものが描かれているし、ましてや実写作品では、実在の銃器またはそのモデルガンが多用される。楽器、カメラ、刀剣類などのブランド要素のある実用品も同様。また、既存の美術作品や音楽作品が作中演出に用いられることも多い(cf. 別掲記事「美術作品を参照しているゲーム」)。
実在銃器は、古典的な戦記物ストーリーやオーソドックスなアクションドラマでも多用されてきたが、現代風の「美少女+実在銃器」モティーフを色濃く湛えている作品としては、『GUNSLINGER GIRL』(漫画版:2002-2012年/アニメ版:2003-2004年、2008年)が、比較的初期の際立った業績に数えられるであろう。また、美少女とミリタリー要素の取り合わせや、美少女とハードなSF兵器の融合という幅広い視点で見ると、『トップをねらえ!』(OVA、1988年)や『まほろまてぃっく』(漫画版:1999-2004年、アニメ版:2001年、2002-2003年)のような一連のGAINAX作品が、その精神的風土の形成に大きく寄与してきたと思われる。
【 3. 個別作品における実在物利用の意義 】
さて、このような展望を実証的に体系化するのは容易ではない。それゆえ本稿の以下の部分では、ひとまずほんのいくつかの作品を取り上げて、実在兵器等が作品内でどのように用いられているかを検討することにより、実証的分析の実例とそれに伴ういくつかの論点を提供することを試みたい。
ここでは、一つの検討例として、ドイツの軍用車両「ケッテンクラート」を登場させている2本の漫画作品、『少女終末旅行』と『パンプキン・シザーズ』を取り上げる。前者は、著者つくみずがウェブサイト「くらげバンチ」で連載した作品(2014-18年)であり、単行本も刊行され(全6巻、2014-2018年)、また、2017年にはアニメ化もされた。主人公格の二人のキャラクターがケッテンクラートに乗っている。後者は岩永亮太郎が「月刊少年マガジン増刊GREAT」(2002-06年)および「月刊少年マガジン」(2006年-)誌上で連載している作品であり、単行本も2018年1月時点で21巻を数える。単行本第9巻で、主要登場人物の一人がケッテンクラートに乗って活躍する。
漫画という同一の媒体で同一の実在車両を登場させている二つの作品を並べて検討することにより、フィクションにおける実在物利用がどのような意味を持ちうるかという問にわずかでも示唆を提供できればと考える。
なお、ケッテンクラート(Kettenkrad, Kettenkraftrad)は第二次大戦期のドイツ空軍等で用いられた小型車両である。前輪はバイクのような一輪であり、後部車輪はキャタピラになっており、屋根は無い。Kette(n)は鎖(チェーン)または履帯、Kraftrad(短縮形Krad)はオートバイ――英語でいうmotorbike――を意味し、雑駁に言えば「キャタピラ式のバイク」に相当する名称である。
TAMIYAのプラモデルキット「ドイツ航空機用電源車 ケッテンクラート牽引セット」(1/48スケール)より。長さ約6cmの小さなプラモである。これ以外にも様々なメーカーから、1/72、1/35、1/24、1/9といった縮尺でプラモデルがリリースされている。
【 3-1. 『少女終末旅行』におけるケッテンクラート 】
【 3-1-A. 作中の状況設定 】
本作では、人類の科学文明が崩壊した遠未来で、「チト」と「ユーリ」の二人の少女が、ひと気のない都市構造物の中を放浪している。まずは物語の前提となる作中世界の状況から整理しておこう。
未来の人類は、その高度に発達した科学技術をもって自然を駆逐し、地平線の先まで広がる超巨大な階層都市を構築した。しかしその後、文明全体がなんらかの事情で崩壊した。作中では、残されたAIの言葉で「大規模な破壊が起こった」(単行本3巻153頁、以下同様)とのみ語られているが、原因や経緯の詳細は分からない。壊れかけの階層都市構造を含めて、高度機械文明のメカニズムは一応残存しているが、稼動状態にあるものはほとんど無く、残された人類はもはやそれらを修復することも有効利用することも出来ない。そして、廃墟と化した巨大階層都市に散在する人類はなすすべもなくその数を減らしていき、いまや種の絶滅に瀕している(――作中に実際に登場する存命人類は、主人公格の2人を含めてわずか4名のみであり、それ以外はどうやら死滅したようである)。
こうした極限状況にあって、人間の生命維持にとっての最大の問題は食料と水の確保である。しかし、食用となる動植物はすでに無く、高度文明時代の食料生産施設もほぼ完全に機能停止している。そのため、一つところに留まって生きることは不可能であり、主人公たちは、腐敗せずに残っている保存食(固形人工食料)を探し求めつつ移動している。これが、主人公たちの「終末旅行」の実態である。なお、これまで生きていた下層部分では生きていくことができなくなったため、生存の可能性を求めて上層を目指すかたちで旅が進んでいる。
つくみず著『少女終末旅行 (1)』(新潮社、2014年)、46-47頁。彼女等の旅は、基本的にはこのようなスタイルになっている。運転手を務めている知的な「チト」に対して、遊び好きな「ユーリ」は旅路を精神的に支えている。
【 3-1-B. 乗り物の機能的特性 】
つまり、彼女等は固定的な生活拠点を持つことができず、それゆえ、1)少女二人が、2)生存に必要なもの全てを携行しつつ、3)悪路の旅路を、4)補給の見込みのないまま長期間移動しつづける必要がある。そして、これらの要求をすべて満たす――おそらく唯一の――移動手段が、まさにケッテンクラートである。
a) 少女二人。「少女」二人はおそらく十代の若者であり、しかも文明崩壊後の無秩序世界にサバイバルしている。航空機のような高度な機械を操縦する技術や知識は持ち合わせていない。しかし、ケッテンクラート(≒バイク)の機構ならば、運転は比較的容易であろう。実際、彼女等は最低限の運転を覚えた程度で、十分な準備も訓練も無しにいきなり旅に出たことが示唆されている(5巻135頁)。また、二人乗りである必要があり、例えば一人乗りの自転車やバイクでは(少なくも作劇上は)無理がある。
b) 携行物。彼女等は、保存食料のほか、ナイフやロープ、毛布、工具、照明器具(ランタン)、燃料、銃器および爆薬といった荷物類を持ち運ばなければいけない。この意味でも、自転車やバイクは大量の荷物を輸送するのは不可能だが、ケッテンクラートは後部にゆとりのある荷台兼座席を備えている。
なお、これらの荷物を持って長路移動するのであるから、徒歩移動は論外である。作中では、一時的に降車して最低限のものをリュックに詰めて廃墟探索する場面もあるが、基本的には荷物をケッテンクラートに載せて移動している。終盤でついにケッテンクラートが故障して以降は、彼女等の旅はきわめて負担の大きなものになった。
c) 路面条件の劣悪さ。廃墟と化したメガストラクチャーは、機械類の残骸やコンクリートの破片など、大小無数の障害物が散乱しており、しかも彼女等は水平ではなく上層へ向かって移動している。現代の自家用車のような乗り物では、複数人を乗せて荷物を運搬することはできても、そのような悪路を走行することは困難であろう。車輪を履帯で覆って走行するケッテンクラートは走破性が高く、この観点でもたいへん好適な乗り物である。また、登坂性も高く、作中でも人間用の階段をケッテンクラートのまま昇っていくシーンがいくつも存在する。さらにサイズと車体重量の点でも、ケッテンクラートは現代の四輪自家用車と大差ない程度であり、比較的小回りが利き、細い道でも進入していける場合がある。
d) 長期間の旅路。作中の時間経過は明らかではないが、出発からかなりの日数が経過しているようであり、かなりの長距離移動に堪える乗り物である必要があったと思われる。上記の悪路条件に鑑みても、彼女等は乗り物の故障に備えなければいけない。ハイテク機構を備えた現代(21世紀)の自動車では、素人が修理することは不可能であろうが、1940年代並の機構であれば、修理できる可能性は比較的高い。キャタピラ走行をしているため、タイヤパンクの問題も免れている。また、ケッテンクラートは元々、頑健性の求められる軍用車両であるから、故障しにくさにも期待できる。実際、物語の終盤まで大きな故障をほとんどせずに、正常走行している。
機械のメンテナンス性だけではない。年若い二人だけで支援も無しに長距離移動するのだから、疲労の問題もある。その点でも、ケッテンクラートであれば安全に低速走行することもできる(――ただし、実際には乗り心地はそれほど良くはなさそうだ)。さらに、比較的小型の乗り物であることから、消費燃料効率の点でも好都合だったのではないかと思われる。本編中でも、燃料確保の問題は繰り返し言及される。
本作の状況を構成するこれらの諸前提に照らして言えば、彼女等の旅(の物語)を成立させるには、おそらくは、この20世紀半ばの技術で製造された小型ハーフトラックしかあり得なかった。自転車やバイクでは、走破性や速度変化に限界があるし、旅行者は数日ですぐに疲弊してしまうだろう。タイヤ車輪の乗用車も走破性に問題があるし、メンテナンス性の問題が致命的である。かといって、巨大で鈍重な戦車では、階段を上ったりエレベータに乗ったりすることはできないし、操縦スキルや燃費の問題もある。荷物が多いので、徒歩移動は論外であるし、台車を使う程度ではあっという間に疲労して動けなくなるだろう。鉄道を機能させる巨大インフラもほぼ壊滅しており、航空機を操縦できる技術も航空機を調達できる機会も、彼女等は持っていなかった。
e) 会話演出との関係。さらにもう一点、物語のコンセプトとの関わりという視点もある。その画風からも窺われるように、本作は厳しいサバイバルの様子を描くドラマではなく、むしろ、少女二人のいささか思弁的な会話に主眼が置かれている。そうした点でも、この車両の特性は作劇上のアドヴァンテージを備えている。すなわち、
i) レトロ感のある外見をした、
ii) 開放的な屋根無し車両で、
iii) 運転席のチトを荷台にいるユーリが茶化しながら、
iv) 緩慢に「トトトトト……」と移動していく、
その風景は、まさに本作の基調となるイメージを体現している。不安定なバイクでもなく、密閉された四輪車でもなく、サイドカーのように主従が分離した構造でもない。まさにこの車両に乗っているがゆえに、二人の会話には落ち着きのある内省的雰囲気がもたらされている。
【 3-1-C. 着想と描写 】
このように、本作の根幹部分たる「少女二人が終末的世界を旅する」という状況設定は、「ケッテンクラート」という実在車両の機能的性質と深く結びついている。それでは、両者の結びつきはどのようにして形成されたのであろうか。
作者のつくみずは、web上のインタヴューの中で、「ケッテンクラートは『プライベート・ライアン』に出てくるのを見て、『これは二人で旅するにはちょうどいいな』と思って取り入れました」と述べている(cf. ITmedia eBook USER「どう生きるべきか 『少女終末旅行』つくみずは問い掛ける」、2018年2月3日閲覧)。
本作の着想のきっかけは、ケッテンクラートへの注目だったようだ。つまり、実在車両とその特徴に関する知識が、想像力に満ちた創作を刺激した。知識とは単なる情報の蓄積保存および反復再現に終わるものではなく、それを契機として新たな創造性を導くことがあるということの、興味深い例証であると言えるだろう。
ただし、映画『プライベート・ライアン』では、ケッテンクラートは大きな役割を果たしているわけではない。敵軍戦車を誘い込むために使用されただけであり、その後は橋の上に放置されたままである。作中で映っているのはせいぜい1~2分程度にすぎない。このわずかな描写をきっかけにしつつも、それを人類史の終端における少女二人の旅を結実させたのは、他ならぬ作者つくみずの強靱な想像力であり、そしてこの実在車両に関する知識の蓄積であろう。
そしてさらに、ある対象に関する具体的知識が物語の新たな展開を提供したり、あるいは物語の側が当該対象の機能性を積極的に汲み出して利用したりするという側面もある。本編中の描写からいくつか例を挙げよう。
【 1. ルーフ無し 】:先にも述べたように、一般的な乗用車とは異なって屋根が無いということは、ロングショットのコマ絵でも二人の姿が遮蔽されず、きれいに見えるということである。移動中のその都度の状況を描写するうえで、これはたいへん好都合である。
しかし、それだけではない。上からの落下物を防ぐものが無いということでもある。実際、上からネジや機械が落ちてきたり(4巻83頁以下)、折れた石柱が倒れかかってきたりする(2巻13頁)。それらは、シリアスな危険でもあり、また時にはユーモラスなコント的シーンになる場合もあるが、いずれにせよ、二人が常時ヘルメットを被っているのは、明らかに安全確保のためである。
さらには、二人が降雨降雪に直接晒されるということでもある。廃墟の雪景色の中を露天のまま走行していく風景に侘しい情緒を滲ませることもあれば(1巻43頁以下)、豪雨に遭って降車し、雨宿りをする最中に予想外の出来事を体験する場面もある(2巻83頁以下)。
いずれにせよ、この野ざらしのケッテンクラートこそは、まぎれもなく彼女等の旅行=生活=人生の基盤であり、そしてそこで発生する様々なハプニングは、彼女等の人生の旅の豊かな記録となっていく。
第2巻(2015年)、84-85頁。運転席も後部座席も露天のままである。85頁最後のコマに見える、多脚戦車の残骸とおぼしき場所で、彼女等は雨宿りすることになる。仰角または俯瞰の角度のついた構図のコマ絵がたいへん魅力的である。
第4巻(2016年)、82-83頁。ユーモラスなシーンである。「ゴッ」「ココンッッ」という擬音のレタリングも創意に満ちている。崩壊しつつある廃墟都市を進んでいるため、崩落物に襲われる危険が常につきまとっている。そのため、彼女等は常にヘルメットを被っている。
第4巻、16-17頁。後部座席は開けているため、この1コマ目のようにカジュアルに飛び乗ることもできる。大型貨物列車に、ケッテンクラートごと乗り込んでいる最中のシーンである。
【 2. 無限軌道 】:キャタピラ車両であることから、走破性も高く、また、後退も容易である。作中には、階段を登るシーンがいくつもある(1巻7頁、4巻23頁、4巻73頁以下など)し、後退で落下物を避けるシーンもある(4巻85頁)。バイクではこうは行かなかったであろう。速度に関しても、現実のケッテンクラートは時速60km以上のスピードを出すことができるとのことであり、作中でも割れたコンクリート部材の間を飛び越える描写がある(5巻37頁)。さらに、比較的小型の車両であるため、たまたま機能していた貨物列車にケッテンクラートごと乗り込むこともでき(4巻5頁以下)、それによって彼女等はかなりの距離を稼ぎつつ、興味深い事物を目にし、さらには自らの位置と速度に関する省察を展開する機会をも得た。このような運動性が、物語の推移展開にさまざまな彩りをもたらしている。
第1巻、6-7頁。巨大な工場跡とおぼしき廃墟の階段を、ケッテンクラートのまま登っていく。現実にも、この車両はかなりの角度の坂を登ることができる。巨大廃墟都市は大半は完全に機能停止しているが、ごく一部には電源が残って稼動している部分もある。
第1巻、110-111頁。巨大な溝を越えるために、大胆にもビルを横倒しにして橋代わりに使っている。足場の安定しない急角度の傾斜でも、パワフルに登坂している。
第4巻、84-85頁。物語の舞台は遠未来世界であり、2010年代現在には存在しない巨大ロボット(の残骸)なども、ところどころに描かれている。そうした残骸が前方に崩落してきたため、後退して避けている。ただし、後退移動は可能だが、超信地旋回(その場での車体旋回)はできないらしい。
第5巻(2017年)、36-37頁。一見鈍重な車体であるが、最高で時速70kmまで出せるとのことである。つくみずの絵は、運動線や効果線をほとんど描き込まない写実的なアプローチに立っており、ここでももっぱら構図とアングルと陰影とディテールによってこのスリリングな場面を巧みに描いている。
【 3. 牽引力 】:物語の中盤で、二人は「イシイ」と名乗る女性に出会う(2巻104頁以下)。彼女は、空軍基地遺構に残された図面や機械類を用いて独自に飛行機を作り上げて、廃墟都市を脱出しようとしている。チトとユーリは、飛行機完成を手伝うことになるのだが、それはケッテンクラートで大型物品を牽引運搬するというものであった。現実のドイツ空軍におけるケッテンクラートも、まさにその牽引力を生かして航空機を牽引移動させていたことを考えれば、この描写もたいへん筋の通ったものである。この場面のほか、大型配管を牽引移動させるシーン(1巻53頁)などもある。
第2巻、122-123頁。故障したエンジンを修理してもらうのと引き換えに、二人はイシイを手伝うことになった。現実のケッテンクラートも、第二次大戦当時の戦闘機等を牽引するのに常用されていた。
【 4. ハンドルほか 】:一般的なバイクと同じU字型ハンドルも、ステアリングの分かりやすさや、ハンドルに手を置いた落ち着きぶりを表現するのに適している。運転者の顔を遮蔽することも無い。それでいて、二輪車とは異なって、いつでもその場で安全に停止することも出来る。運転者のチトは二人の間で頭脳派の役割を担っており、運転席に低く座っている様子は、時として思弁的瞑想的な雰囲気に伴われている。その一方、ユーリは長身で身体能力も高く、心理面でも楽観主義的であり、二人の性格は好対照を成している。
第1巻、4-5頁。普段はチトが一人乗りの操縦席に座って静かに運転し、ユーリは後部座席兼荷台から雑談を持ちかけてくる。実在のケッテンクラートと比べて後部座席が延長されているようで、少女が寝そべることができるほどのスペースがある。漫画は光源表現も含めて、きわめてデリケートに作画されている。
【 3-1-D. 背景設定 】
なお、遠未来世界を舞台とする物語に20世紀の乗り物を登場させていることについて、本編中には明示的なエクスキューズはほとんど無いし、それどころかケッテンクラートが実際に――我々の現実の歴史において――どのようなものであるかについても、説明は一切提示されていない。読者は、これをまったくの架空の乗り物として、あるいは現実のケッテンクラートに関する知識とは無関係に、作品を享受することができる。本編中でチトが「ケッテンクラート」という名称に言及する場面はあるが(6巻96頁)、それはあくまで思い出のための名指しであって、情報としての価値を担うものではない。
ただし、本編中には、これ以外にもさまざまな実在物が登場する。つまり、現代の(現実の)人類――彼女等にとっては「古代人」(3巻120頁)――が持っていた文物が描かれている。それは芥川龍之介の小説『河童』(1巻69頁ほか)であったり、アルタミラの壁画や「ヴィーナスの誕生」(5巻46頁以下)であったり、あるいは旧ソ連の戦略爆撃機(1巻30頁以下)、第三帝国の自走砲(4巻69頁)、戦略原潜とおぼしき潜水艦(4巻110頁以下)といったものの残骸であったりする。こうした描写から、20世紀頃の乗り物などがまだわずかながら存在している世界であることが窺われる。
また、上記イシイの発言(2巻130頁)や、別の場所で出会った男性「カナザワ」の発言(1巻120頁)、デジカメに記録されていた動画(4巻139頁以下)などの描写から、作中の世界が辿った経緯を推測することができる。すなわち、20世紀以降の高度科学文明がある時点で崩壊し、それらを利用するノウハウがいったん失われたが、その後の人類はそれら旧時代の遺産を研究して局所的に利用しながら生き延びている。ケッテンクラートもそうした遺産の一つであろうということを、読者は推察することができる。
単行本の巻末には、背景設定に関する解説が提供されている。「文明崩壊後の世界では[高度科学文明時代の]古い文献を読み取って復元した技術をおもに利用して」おり、ケッテンクラートもその復元技術によって「最近生産されたもの」であるとされている(1巻155頁)。つまり、高度科学文明時代の情報遺産を利用して終末時代の人々が再現したコピー品であるということになる。
【 3-1-E. 小括 】
我々の現実世界に「ケッテンクラート」という車両が無ければ、そしてクリエイターがその車両に関する知識を持たなければ、このようなシチュエーションの物語を作り出すことは困難であっただろう。しかし、その知識をきっかけとしてこの個性的な物語を構築したのは、まさにクリエイターの創造性である。知識がクリエイターの創造性を刺激し、あるいは知識が物語のためのガジェットを提供し、その一方で、いったん走り出した物語がガジェットの機能をさらに活用していく。こうした双方向的ダイナミズムが、ケッテンクラートと終末ものをドラマティックに結びつけている。
ここでは、
- 状況: 文明崩壊後の廃墟で、
- 主体: 少女たちが、
- 手段: ケッテンクラートに乗って、
- 目的: 食料を求めて放浪する、
これら4要素の全てが緊密に連関している。社会秩序の崩壊した未来世界でなければ、少女二人が軍用車両で旅をする物語は成立しなかっただろう(――例えば現代世界では、そのようなシチュエーションはかなり困難だろう)。また、二人が小柄な少女であるのは、「少ない食料で長く生きられる」(5巻149頁)という事情にも関わっているし、いまだ年若い少女であるからこそ、運転手と乗員という不均衡な関係も自然に受け入れられる。さらに、本稿が説明してきたように、まさにケッテンクラートでなければ、この旅は成立しなかったであろう。そして、終末的世界を当てもなく旅をするのが、まずもって生存のため、食料確保のためであるというのも、十分な説得力がある。
一面の廃墟と化した巨大階層都市の中を、その上層を目指して旅をしていく物語は、日本国内の創作に限っても、ゲーム『魔界塔士Sa・Ga』(1989年)や、漫画『BLAME!』(連載1997-2003年)、PCゲーム『Apocalypse』(2003年)にも見られる趣向である。あるいは、終末的世界における旅という点では、遠未来ものの小説『地球の長い午後』、大地震後の日本を描いた漫画『サバイバル』、パンデミックものの映画『28日後…』など、多数の作品が想起されるだろう。それらに伍してなお、本作は独自の個性と魅力を発揮している。
物語の終盤では、ついにケッテンクラートの履帯が大きく破損し、エンジンも致命的不調を来たして、ついに乗り捨てていくことを余儀なくされる(6巻69頁以下)。別離に際して二人は、その車体を浴槽として湯を張り、その中で身体を休めた。二人が苦難の徒歩移動を始める前の最後の慰安を提供したケッテンクラートは、最後の瞬間まで二人の移動と生活のインフラであり続けていた。
【 3-2. 『パンプキン・シザーズ』におけるケッテンクラート 】
【 3-2-A. 作中の状況設定 】
本作の舞台は、ヨーロッパのような趣を持つ架空世界である。現実世界でいえば17世紀から18世紀頃に相当していたと思われる。しかし、「カウプラン教授」という一人の超人的な発明家の出現によって科学技術が飛躍的に――20世紀初頭程度の水準にまで急激に――発達しており、それに伴って生活文化や統治体制に至るまでの巨大なパラダイム転換が生じつつある。
しかし、そうした技術革新にもかかわらず、主人公たちが属する「帝国」は依然として旧弊的な封建体制に立脚しており、そのため社会全体に大きな軋みが生じつつある。例えば、帝国の戦争観は卓越した騎士(貴族)同士の決闘をモデルにした牧歌的なものであり、騎士階級が戦いの主役であることに拘泥する。その一方で、カウプランの大量の発明によって銃砲の性能が急速に向上しており、平民が銃器を持てば貴族でも平民でも等しく一撃で殺害する力を持つことができる。こうした意識の遅れから、隣の「フロスト共和国」との戦争でも帝国は劣勢を強いられ、不本意な休戦協定を結ぶに至った。
このように技術的、政治的、文化的な緊張に満ちた架空世界が、この作品で展開されている。情報技術と軍事技術、人々の世界認識、政治体制、異文化交流、さらには正義や尊厳や愛情にまつわる一種の思考実験的な性格が、とりわけ近年の連載内容では強まっており、ほとんど少年漫画の域を超えるほどになっている。
【 3-2-B. 乗り物の機能的特性と作中の描写 】
単行本7~9巻に亘るエピソードは、国境の街「カルッセル」でなんらかの危機的状況が発生したという内偵報告が入り、「帝国陸軍情報部」に属する主人公たちが調査に赴くというものである。街ぐるみの不正の実態が明らかになって増援が派遣されるが、その一人(第三課の「オレルド准尉」)がケッテンクラートに乗って行動している。ケッテンクラートそれ自体は、単行本8巻の終盤から9巻全体に登場する。
このエピソードにとって最も重要なのは、街全体を防衛する装甲列車であり、ケッテンクラートは物語の主役ではない。しかし、仔細に検討すると、ケッテンクラートの機能上、構造上の諸特徴が物語の中でさまざまなかたちで活用されているのが見て取れる。順を追って見ていこう。
岩永亮太郎著『パンプキン・シザーズ (7)』(講談社、2007年)、34-35頁。国境付近の都市「カルッセル」は、停戦時の複雑な事情から、独立国境警備隊に軍権および警察権が委ねられている。このことが、市内の権力関係と社会秩序をいちじるしく歪んだものにしている。
【 1. 発進時 】:オレルドたちは、陸軍の貨物列車に乗ってカルッセルの街に接近するが、叛意を露わにした装甲列車が砲撃を仕掛けてくる。やむなく彼は、ケッテンクラートごと貨物列車から飛び降りる。いきなりアクセルを吹かせたため前輪を浮かせてしまって狼狽えながら、また、激しい砲撃の最中を走らせながら、自力で市街への接近を図る(単行本9巻23頁以下)。このわずか数ページの推移の中にも、この車両の特徴に関わる描写がすでにいくつも含まれている。
岩永亮太郎著『パンプキン・シザーズ (9)』(講談社、2008年)、24-25頁。貨物列車に乗ったままでは接近できないと判断し、警備兵を殴り倒して強引に離脱する。走行中の列車から車両で降車するという意味でも大胆な行為である。
同書、26-27頁。激しい砲撃に晒されながら、市街地へと向かう。オレルドが乗っているのは、ほぼ正確な形状のケッテンクラートであり、マーチスが乗っているのはキューベルワーゲンの後輪を履帯に換装したような車両である。ただし、架空世界であるため、これらは実在車両の名前で呼ばれることはない。
i) 前輪。初めて操縦する奇妙な乗り物で、アクセルワークを踏み込みすぎたのか、前輪を浮かせて――ウィリー走行で――走らせてしまう。だが、これは問題にはならない。現実のケッテンクラートは、前輪のタイヤそれ自体は進行方向を決める作用を担っておらず、ステアリングと連動した後部の履帯の回転速度の調整によって進行方向が決まる構造になっているとのことである。本作の描写も、おそらくこの知識を踏まえて為されている。しかもそれは、貨物列車からの緊急離脱という切迫した状況にスリリングな勢いを与えつつ、それと同時に、この珍しい構造の車両に対する読者の注目を促し、さらにそれを立ち乗りで器用に乗りこなすオレルドの優れた技量をも暗に示唆し、そのうえノーズリフト走行のユーモラスの視覚的作用をも紙面にもたらしている。
ii) 走破性。貨物列車から降りたオレルドは、もう一人の同僚とともに、その場を離れようとする。しかしその現場は郊外の荒れ地であり、しかも今まさに激しい砲撃によって荒らされている。このような不整地を走らせるのにも、路外走破性の高いこの履帯車両は、たいへん好都合であった。同僚の「マーチス」も、実在車両キューベルワーゲンを一部アレンジしたような軍用車で併走しているが、この場面における二人の若い軍人の頼もしさを表現するうえでも、これらの頑健な車両の選択は効果を上げている。
iii) 屋根の不在。装甲列車からの砲撃着弾時の爆風と、撒き上げられた土砂が、彼等を襲う。ケッテンクラートとキューベルワーゲンはどちらもルーフの無い車両であり、着弾の破片と土砂が彼等に直接降りかかってくる。屋根も幌も無い剥き出しの車両であることは、彼等にとってはいささか不幸であったが、そのおかげで、戦場の肌触りと恐怖感を説得力あるかたちで演出することに寄与している。
【 2. 輸送と搭乗 】:市内に入ったオレルド車は、味方の救援に向かう。上官(「アリス少尉」)たちが、暴徒と化した市民に包囲されている場面に突入し、彼女等を後部座席に乗せてそのまま離脱する(同書50頁以下)。この一連の流れの中にも、この車両の構造および機能を生かした描写が見出される。
前掲書、58-59頁。暴徒と化した市民の包囲から脱出する場面。先に掲載した模型写真を見ても分かるように、ケッテンクラートの後部座席は開けており、後ろから倒れ込むように乗り込むことができる。
i) 長槍の輸送。彼は素手ではなく、上官のための武器(古風な長槍)を後部荷台に持参している。後部に積載余地があり、しかも屋根が無いため、規格外の長物を運搬することも可能であった。バイクであればフラついてとても持ち運べなかったであろうし、通常の自動車であれば屋根に縛り付けて固定するしかなかったであろう。長槍を安全に運搬し、なおかつ即座に取り出して手渡せたのは、ケッテンクラートの構造ゆえである。
ii) 荷台への乗り込み。アリスたちには、市民を不必要に攻撃する意志は無い。それゆえ、アリスは道を妨げている市民数人を長槍で軽く打ち払い、オレルド車の後部に乗り込んでそのまま発進させる。ケッテンクラートの後ろ側は開けており、スムーズに後ろ向きに座り込むことができる。ドアを開いたりジャンプで飛び乗ったりする必要は無く、長槍を片手にしたまま後部荷台に乗り込むことができた。車両の特性を利用しつつ、アリスの機敏な状況判断力をも表現するシーンである。なお、ここでもオレルドは前輪を浮かせて走行しており、その悍馬のごとき勢いが巧みに表現されている。
その場を逃れてからも、アリスたちは後部荷台の上に中腰で立っている。速度感と勇壮さに満ちたコマがしばし続く。そしてその後、難を逃れたアリスたちは安全な場所に停車し、後部荷台に横たわって一時休息する(同書83頁)。
【 3. 突入時 】:アリスたちは、指揮官のいる市庁舎の制圧を図る。正面からケッテンクラートごと突入させていく中、アリスは後部荷台の手摺に掴まったまま車両の後ろに飛び降り、しばし水上スキーのように滑ったのち、そのまま勢いをつけて長槍ごと敵兵集団の中へ斬り込んでいく(同書110頁以下)。
前掲書、110-111頁。視聴者に乗り込もうとする瞬間の、突入前の緊張感と、仁王立ちの凜々しさ、そして一連の事件が戦災の負の遺産として生じたにすぎないことを確認する悲痛さに満ちたコマ。
同書、116-117頁。ケッテンクラートに掴まりながら滑走し、その勢いで入り口の護衛兵たちの間に突入していくという、外連味のある描写。小銃の存在を認識するや、即座に機転を利かせて行なった攻防一体のリアクションである。
i) アクション演出との関わり。ぎりぎりまで銃撃を受けないように車両の背後に隠れつつ、車両の進入速度を生かし、その運動エネルギーを長槍突進の勢いに変換して、一息で数人を打ち倒す。いささか誇張的に見えるほど外連味のあるアクションだが、理に適っているし、物語のクライマックスの入り口を飾るのに十分な、迫力のある描写である。これも、荷台後部が開放構造をしているからこそのテクニックと言えるだろう。
ii) 登坂性。アリスたちは、ケッテンクラートで階上まで乗り込んで市庁舎を制圧する。ケッテンクラートのまま階段を上って、市長室の扉を破って突入したと思われるコマがある(同書167頁以下)。会話シーンの背後にひっそりと描かれているのみであるが、十分に状況を推察できるような描写が与えられている。建物の上階まで車両で乗り込む荒々しい突入の経緯を暗示するものであるが、ケッテンクラートの優れた勾配登坂性を作者があらかじめ理解していたからこそ実行できた描写であろう。
【 4. 湿地帯での交渉 】:市庁舎を制圧したが、主犯格の人物(「ブランドン中尉」)はすでに逃亡して、夜間に乗じて隣国への亡命を図っていた。カルッセルの不正とは、休戦中の隣国と内通して違法な物資取引に手を染めていたことであった。オレルドは、もう一人の上官(「ヴィッター少尉」)とともに、ブランドンを追跡する。この一連の流れでも、ケッテンクラートの性質と関連して、かなり凝った仕掛けが施されている(同書207頁以下)。
前掲書、230-231頁。ヴィッターはブランドンの背後に回り込み、自らは共和国軍兵士に撃たれないようにしつつ、ブランドンを銃撃されたところをケッテンクラートの後部座席に掬い上げ、そのまま逃走していく。
i) 騒音。逃亡を図ったブランドン中尉は、すでに国境線付近で共和国側組織と接触していた。このままオレルドたちが接近しても、多勢に無勢でとても相手にならない。そのため、ヴィッターはあえてケッテンクラートを堂々と走らせて接近していくことにした。この履帯車両はかなりの騒音を発するが、あえてそれを逆用するのである。それによって、共和国組織に警戒の心理的余裕を与え、いきなりの銃撃戦ではなく冷静な交渉の可能性を探ろうというものである。そしてその間に、オレルドは匍匐前進で別途集団に接近していき、取引物資を載せた車両に取り付く。
ii) 荷台乗り込み。交渉は決裂するが、ブランドン中尉も共和国側組織から敵と見做され、亡命拒絶とともに銃撃を受ける。ここでヴィッターは、ケッテンクラートでブランドンの背後に回り込み、銃撃を受けて倒れ込もうとするブランドンをケッテンクラートの後部荷台部分で掬い上げて、そのまま逃げ出すことに成功する。かなりテクニカルな動きだが、先にも述べた車両後部の開放構造を活用した、巧みな立ち回りと言える。
iii) 走破性。なお、地盤の安定しない湿地帯を走行するうえでも、この履帯車両の走破性はふたたび役立っている。共和国軍の側も、大型の履帯トラックで国境地帯に侵入してきている。
【 3-2-C. 背景設定 】
先にも述べたように、『パンプキン・シザーズ』の作中世界は、一応は完全な架空世界として描かれている。しかし、現実世界に存在したさまざまな兵器等が、作中にいくつも登場している。ケッテンクラートとキューベルワーゲンの他にも、ラーテを連想させる連装砲塔の超巨大戦車や、「ツヴァイシュス・ゲヴェーア」(マウザーM1918の俗称)をひねったと思われる「アインシュス・ゲヴェーア」なる大型ライフルなどが登場している。
ただしそれらは、我々の現実世界に存在する兵器類と同じ存在だというわけではない。物語上の架空世界において、たまたま同じような発想と造形の兵器が発明されているにすぎないと捉えるべきだろう。また、現実の兵器等をモデルにしてはいないと思われる、まったくの架空兵器も多数登場している。
架空世界なのに、どうして実在兵器とおぼしきものが登場しているのか。こうした問を先回りするかのように、作者は、単行本第1巻(2004年刊)のカバー折り返しで「時代考証無用」「軍事考証無用」「その他諸々の考証無用」を宣言している。読者はそれに従って、作中で描かれている兵器等が実在のものをベースにしているか、それとも作者のオリジナルの発想によるものであるかを区別することなく、ただこの架空世界の広大かつ緻密なドラマを楽しめばよいのだろう。
【 3-2-D. 小括 】
本作で描かれている実在車両や実在兵器は、軍事(史)や政治(史)に関する作者の知的バックグラウンドの一部を反映するものではあるが、おそらく作品解釈にとってはそれ以上のものではない。それらの実在性は、作品のコンセプトやストーリー上の謎と結びつくようなものではなく、あくまでその都度の劇的状況を演出するために好都合な素材として作中に持ち込まれているにすぎないと解すべきだろう。
ただし、本稿が検討してきたように、それらはドラマを構築する小道具としてのポテンシャルが十二分に引き出されている。まさにケッテンクラートを使わなければ実現できなかったであろう描写や、まさにこの車両ならではの形状や性質が物語展開に対して強い説得力を提供しているようなシーンが、ふんだんに存在する。
それは、乗り物や兵器の機能的構造的特徴に対する作者の深い理解から得られているとともに、物語の推移が求めるものを的確に把握してしかるべきガジェットを組み込んでいく作者の深い洞察から得られている。そして、そこからもたらされたディテール豊かな描写は、「ケッテンクラートのような車両がもしもこの作中世界に存在していたら、このように活用されたであろう」というリアリティを提供し、さらには「このような世界が本当に存在し得たかもしれない」という説得力を提供している。作中の兵器が実在したかどうかという真理の次元ではなく、作中の兵器がどれほどの迫真性をもって作品内に位置づけられ活用されているかという創造的な説得力こそが重要なのだ。
【 むすびにかえて 】
『少女終末旅行』が人類絶滅に瀕した遠未来世界の苦くも穏やかなムードを展開していたのとは対照的に、『パンプキン・シザーズ』では架空の近代世界における非人間的な戦争状況や非情な戦闘行為が前景化されている。そのような方向性の違いはあるが、「実在車両の作中世界への取り込み方」という視点で検討するとき、各作品のディテールの作り方や、作品コンセプトとの関わりについても、一定の示唆を見出すことができるようになる。また、読者サイドの解釈理論としては、虚構世界と実在物描写の間の関連性がどのように捉えられるかについても、多少の例証が出来たのではないかと思う。
これらの作品では、個性的な特徴を持つ実在車両に関する知識が、新たな物語を生み出すきっかけを提供し、そして物語の中でリアリティのある描写に結実している。それはとりもなおさず、その車両の特徴を利用しつつその都度の描写を展開していくことでもある。作中に登場する実在人工物に注目することは、一方では、作品として結実する以前に存在して実際に作品の様々な描写をもたらしたそれらに関する作者本人の知識乃至思考へと具体的に接近する手段でもあり、また他方で、完成された当該作品の具体的な描写、演出、構成、さらにはコンセプトそのものを捉えるための有力な手掛かりの一つとなることもできる。
知識が創作を支援するというのは、一面の真実だろう。自分が学んできた知識や、アクセスすることのできた様々な情報を手掛かりとして、そこからアイデアのきっかけを汲み出していくというのは、ごく普通のことだ。例えば、亜光速移動に伴う「ウラシマ効果」を活用しているSF作品が多数存在する。これは日常生活の経験からはけっして生まれないであろう、純然たる「(科学的)知識」である。そして、このメカニズムを活用した作品は、言い換えれば、前提としてこの知識を持たなければ着想することができなかったということだ。知識が新たな創作を生み出すきっかけになるというのは、このような意味においてである。このことは、本稿が紹介してきた二つの漫画作品の表現にも当てはまる。双方の作者が軍用車両について、もしも典型的で大まかな「戦車」のイメージしか持っていなかったならば、『少女終末旅行』の物語は発想されなかったであろうし、『パンプキン・シザーズ』の迫真性に満ちた描写は作れなかっただろう。具体的な知識が、新たな物語を生み出し、読者を惹きつけるドラマを作り出し、美しい描写を実現することを可能にしているのだ。
ただし、注意しなければいけない。知識が創作の前提になっていることがあるとしても、創作はあくまで創作としての価値によって評価されねばならない。どのような知識を用いているか、または、知識をどれだけ再現しているかに意義があるのではない。創作は論文ではない。だから、歴史考証がどれだけ正確であっても、あるいはゲームの物理演算がどれだけ精密であっても、そして実在兵器の3D再現がどれだけ緻密であっても、それだけで自動的に作品が素晴らしいものになるということは無い。知識や技術は表現のための道具であるが、表現効果そのものではないということは留意されるべきだろう(――ただし、先に述べたシミュレータ作品のみは特殊であり、再現性の高さが当該コンテンツの中心的意義と強く結びついている)。
そしてこれは、作り手の側の問題だけでなく、受け手の側の問題でもある。作中に登場する兵器がどの実在兵器であるかを識別したり、作中の描写が特定の絵画を下敷きにしていることに気づいたり、BGMが既存のクラシック曲であることを聞き知ったりすることは、それ自体で意味のあるものではない。そこで思考停止してしまうならば、まさに悪い意味でのマニア的な答え合わせにすぎない。そうした知識は、作品解釈の手掛かりになる時に、作品の理解を深めることに寄与する時にのみ、意味を持つ。
ともあれ、このような検討が、芸術品ではなく乗り物を手掛かりとして為されうるということにも、特有の意味があるだろう。
『少女終末旅行』においては、人類史の最後の瞬間まで、移動手段の選択やインフラの整備が決定的に重要であることが、暗示されている。それは、自然環境と絶縁した人類が脆い人工物に依存せざるを得なくなっているという皮肉であるのか、それとも過去の人類の発明および蓄積――つまり文明の遺産――こそが彼女等を延命させていると捉えるか、いずれの側面で解釈することもできるだろう。
その一方で『パンプキン・シザーズ』の物語は、人間の精神文化のありようが常に物理的な技術の問題と不可分であるという認識に貫かれている。そして、軍用車両から電信技術に至るまで、軍事技術こそは時代の先進技術の代表格である。技術と文化の間の緊張関係と相互作用という主題が、まさに架空世界の陸軍に籍を置く主人公たちの物語の中で描かれているのは、故ないことではあるまい。
そして、この「実在兵器等と架空世界の関係」に着目するアプローチは、他の乗り物についても、また、他の作品についても、様々に試みていくことができるだろう。
例えば、『少女終末旅行』の他の兵器を見てみよう。あるシーンでは、ナチスドイツ時代の自走砲シュトゥルムティーガーが倉庫に並んでいる(4巻69頁)。現実にはわずか18輌しか生産されなかったというこの対要塞自走砲――のコピー品――が未来世界の兵器庫に多数安置されていたのは何故だろうか。読み手によっては、この背景に描き込まれたわずかな描写から、作中世界の技術状況や知識継承のいびつさを想像するかもしれない。あるいは、まるでスーパーデフォルメ(SD)のような短く太い砲身と、やけにあっさりした前部表面のディテールの無さに、とぼけたユーモラスな雰囲気の表出を見出す読者もいるかもしれない。あるいは逆に、巨大で武骨な38cm砲口が黒々と並ぶ有様に、兵器の無慈悲さや不気味な威圧感を感じる読者もいるかもしれない。
『少女終末旅行』第4巻、68-69頁。「文化」と題されたこの章で、ユーリは倉庫に保管されている戦車には興味を示さず、歯車や滑車で構成されたインスタレーションアートのような「よくわからないもの」を面白がる。
あるいは、他の作品群の中に、別の兵器を見てみよう。例えばイスラエル軍のメルカバ戦車は、荒廃した近未来世界を舞台にするRPG『メタルマックス』シリーズにおいて、看板車両としてくりかえし登場しているが、シリーズが進んでいくとともに、プラットフォームの変化や、3Dモデリングを初めとしたゲーム制作技術の変化、メディアの周辺環境の変化などに応じて、そのディテールも変化していくであろう。
また、同じく科学文明の失われた未来世界を描いた寓話的オムニバス小説『キノの旅』(単行本:2000年-)にも、搭乗する人間もいないままAI稼動して放浪している戦車が登場する(第Ⅵ巻、第Ⅸ巻)が、挿絵では明らかにメルカバが描かれている。何故メルカバが選択されているのか。ただ単に著者の趣味やイラストレーターの気まぐれと見做しても構わないだろうし、イスラエル史に関する知識などを投影してなんらかの含意を見出そうとする読者もいるかもしれない。
いずれにせよ、個々の創作世界には、制作者(たち)が持つ様々なバックグラウンドが意識的無意識的なかたちで不可避的に反映されており、しかもそれを超えて一つ一つの作品は非常に複雑かつ多元的な意味作用のプリズムを形作っているのが通例である。読者としては、その都度の作品世界を享受するとともに、そこに見出される無数の要素を自分なりに再構成して自分なりの星座を形成し、作品解釈としてフィードバックしていくことができる。それによって創作世界はよりいっそう豊かになっていくことだろう。