2018/02/28

2018年2月の雑記

  2018年2月の雑記。(→3月1月


  02/28(Wed)
  Melos Qの録音、モーツァルトにベートーヴェンと順番に聴いてきて、シューマンもたいへん気持ちよい演奏だった。シューマンがこんなに聴きやすく楽しくていいのだろうかと訝ってしまうくらい。


  もう2月末か……今月の趣味生活はおおむね楽しく充実して過ごせたと思う。ただし、旧作SLGの再プレイは、控えめにしたい。ゲームシステムの勝手知ったる作品を、ストレスフリーで好きなように動き回るのは、とても楽しいのだけど、やはり新しい作品(未プレイの作品)をちゃんと消化していくのを優先させるべきだ。


  うっ……いまだに「カモミール」という単語を見ると即座に「芹沢」という言葉が脳裏をよぎる。なんという影響力の強さ……さすがカモちゃん。


  「この声優さんがメイン出演されているのか」というのが、その作品をプレイor視聴しようとする意欲を喚起する、強力なモティベーションになっているのは、それはそれで良いことだと思う。しかし、そのスタンスがほんの少しだけ変化して、「出演声優という要素が、どのゲームをプレイするか、どのアニメを視聴するかの最大の基準になる」としたら、それははたして良いことなのだろうかと悩まないではない。建前として言えば、作品全体の意義(のポテンシャル)を規定しているのは作品全体のコンセプチュアルな形成のありようなのだが、しかし、声優こそは、プレイヤーや視聴者に対して最も近い位置に立って、作品を作品として現前させている最も大きな要素の一つであり、そしてそれゆえ、プレイヤーや視聴者にとって当該作品の質や手触りを最も大きく決定している要素の一つであるというのもまた確かなのだ。
  もちろん、客観的な問題として、監督が変われば、あるいは劇伴が違えば、原作者が異なれば、コンテ担当が別人であれば、それはそれで作品はまったく別物になるだろう。しかし私個人の主観の中では、「○○という作品は、まさにこのような作品として完成されたのだ」という実在性の感覚も、「この作品は、他でもない、まさにこのような作品になったのだ」という同一性の認識も、「私はまさにこの作品をプレイ/視聴したのだ」という体験の手応えも、「ああ、このキャラクターはこういう存在なんだ」という人物造形の理解も、その作品のキャスト陣の芝居を通じてもたらされているかのように感じる。ただしそれは、実際にプレイor視聴した後で、あくまで事後的に得られる主観的な認識なのであって、それをプレイor視聴する前にキャスト情報から先取りしようとするのは欺瞞であり、だからやはりキャスト情報をしてプレイor視聴のための評価基準と使用するのは誤りだと言わねばならない。つまり、「この方が出演されているから私はこの作品をプレイしたい」という主観的な決定はあり得ても、「この方が出演されているからこの作品をプレイするべきだ」という客観的な評価を成立させるのは無理がある。なんとなれば、「この方」以外の役者が演じたとしても、その作品はプレイすべき価値を持ち得るであろうからだ。


  買うのは本当に欲しいものだけに限ろう。そう思いはしたが、本当に欲しいものであるならば、いずれ必ず買う(買おうとする)わけで、それならば一日でも早く購入してそれを体験しておく方が、その作品から得られる効用の蓄積は大きくなる。だから、本当に欲しいと思えたならば、一切躊躇せずに、むしろ出来るだけ早く、そして本当に欲しいものは全て買うべきだ。……あれ?
  実際には、「本当に欲しいもの」は、幸いにして、買いきれないほどたくさんあり、それゆえ、よほど経済的に裕福であるとか、あるいはよほどリーズナブルな趣味であるといった事情が無いかぎり、買えるものには限界がある。だから、本当に心から買いたいと思えるものであっても、残念ながら、さらにその中から「買うもの」と「諦めるもの」を選別しなければならないのだ。
  それから、買ってからも、読んだりプレイしたり視聴したり制作したりするのに使える可処分時間も限られているし、置いておけるスペースにも限界はある。

  でも、「これは本当に欲しい」「後回しにしてもいずれ必ず買う」というものは、やはり買ってしまう方がいいと思うの……。後からでは買えなくなったり、高額化したり、売りものを見つけるのに時間的経済的コストが掛かったりするようになるという可能性もあるし。

  というわけで、今日もまた、良いもの、欲しかったもの、まちがいなく楽しめるであろうものをたくさん買ってくることができた。幸せでごんす。幸せでありんす。


  西垣氏のお声で「Hot bean smell!」というフレーズを、ふと思い出したけど、えーと、なんの話だっけ。うちのブログを「bean」や「豆」で検索しても、それらしきものはヒットしない。こういう時のための概要記事なのに……。


  ガンダム界隈の人たちが、特定の登場人物に対して悪女呼ばわりで憎悪をぶつけているのは、傍目にはきわめてみっともないし、卑しく幼稚な行動だと思うし、そもそも理不尽ですらある。文面等を見るかぎりでは、冗談の余地もなく本気で憎悪しているようで――もしも冗談で言っているとしても、集団いじめメンタリティの現れにすぎず、卑しさにおいて大差ないが――、ちょっと不気味なくらいだ。
  私自身、そのキャラクターの登場する作品は視聴したことがあって、どういうキャラクターかは一応知っているし、そしてべつに悪くもなんともないじゃないかと思う。たぶん、男性主人公の下を離れた(あるいは裏切った)というのが嫌われている原因なのかなと思うけど、それは彼女なりの事情(過去の経緯)と深刻な状況があってのことなのだし、それにもかかわらずフィクションのキャラクターのその行動に対してあれほどの罵倒を平気で投げかけているというのは、拘束系DV男の素質があからさまに滲み出ていてゾッとする。

  顧みて、私自身にとって「嫌いなキャラ」がいるかどうか考えてみると……邪悪な行動をするキャラや醜悪なキャラでも、作劇上意味があれば、お話はお話として俯瞰的に捉えられるので、ほとんど気にならない。苦手だったら、「ああ、この作品は私には合わないな」と離れれば済むし。生理的不快感のレベルで外見が気に入らないキャラは、「うーん、もう少しでもましだったら、この作品を楽しんでプレイできるのに、もったいないなあ」ということがあるが、そのくらいの選り好みが生じるのはやむを得ない。食傷したキャラクター類型もあるが、そのタイプが好きな人もいるのは分かっているから仕方ないと思うし、そうしたキャラクターそのものを素朴に憎むという意識にはならない。モヤモヤの残る事態を引き起こしたキャラクターに対しては、良い気分はしないが、むしろ「こんな中途半端なシナリオにするなよ、このヘボ脚本家め」という気持ちの方がはるかに強い。うーん、いろいろ考えてみても、幸いにして、私にとっては「繰り返し憎悪を表明して飽き足らないキャラクター」はいないようだ。


  またサルミアッキを追加購入してしまった◆◆◆。あまり大量に食べると身体に良くないかもしれないし、食べすぎて飽きてしまってもいけないので、程々にしておきたい。べっ、べつに、そんなに好きってわけでもないんだから、勘違いしないでよね! ただ、甘味のないお菓子に慣れてきて、こういうのもたまには良いかなって思うだけよ! ……実際、和菓子やお酒のつまみの類を、口寂しい時にちょっと食べるのと似たような感じかも。



  02/25(Sun)
  学生服の女性キャラ二人組を見ると、切れ味の良いナンセンス残虐漫才を始めそうに見えてしまう。なんてことだ……。こんな錯覚をするようになったのは、まぎれもなくカヅホ氏のおかげせい。

  『キルミー』は、「プキュ」というコミカルな効果音が楽しい(――おそらくキューピーのような塩ビ人形のイメージだろう)。怒りの表現の「カリカリッ」のSEなども、なかなか真に迫っている。アニメーション映像としても、非常に動きがきれいで見応えがあるし、主演の二人も素晴らしい。全体としては、日本のアニメというよりは、どこか米国のギャグアニメのような趣がある。身体感覚に即したドライな笑いや、不条理ブラックユーモアの香りが、そう感じさせるのだろうか。


イノセンティアは上目遣いにして撮るのが良さそうだ。視線がきれいに決まるし、眼鏡との取り合わせも可愛らしく映る。ネコ(小動物)っぽい雰囲気も自然に表現できる。
マヌケ面のヘッポコ暗殺者といった感じに……。マテリアにプリムラ顔を入れると、額が引っ込んで顎先を突き出す形になり、ギャグ漫画風の下膨れ感が強調される。ちなみに、四肢はイノセンティアのものに交換してある(半ツヤのブラック)。



  02/23(Fri)
  自信を持って、そして喜びとともに、断言することができる。ケモ耳好きなオタクにとって、この2010年代後半の現在こそは、歴史上最も恵まれた時代だろう。(もちろん、今後もっと良い状況になっていく可能性もあるし、そうあってほしい。)
  同様に、眼鏡キャラや褐色肌やモンスター少女といった、00年代には比較的不人気だったキャラクター属性も、過去の軛から解き放たれて、それらを好む人たちが好きなように享受し共有し合える世界が成立している。偏見に晒されない趣味嗜好の享受。共通する趣味嗜好を持つ者同士の交流機会(表現できる場と、アクセスできる手段の双方)。比較的マイナーなものでも存在しうるという裾野の広がり。それは私個人の好みの問題だけでなく、世の中のありようの望ましさという観点でも、たいへん良いことだと思う。(ただし、このような環境が成立しているのは、様々な偶然や無数の努力があってのことであり、タダで永続する保障は無いのだが。)


  Melos Quartettのベートーヴェン全集を買ってきた(※TR限定販売)。学生時代には、セット3組に分売されていたものを買い集めては聴いていたものだが、内部の緩衝材スポンジが溶けてCDにくっついてしまい、一部のディスクが聴けなくなっていた。響きのまとまりがとてもきれいで、メロディアスに歌うような流れの良さもあって、昔から好きだった。今回はモーツァルト(10曲)、シューマン&ブラームス(どちらも3曲ずつ揃った全集)、ハンガリー系作曲家集(1枚)もリリースされていたので一緒に購入。シューベルトは、輸入盤ですでに持っているので買わなかったが、これも昔はよく聴いていた。
  ベートーヴェンの弦楽四重奏だと、あとはCleveland Qをちゃんと聴いてみたい。以前に大学図書館のメディアコーナーにあったものを数枚聴いただけだが、かなり大胆にテンポを変えながら、音楽的なつややかさもあって、とても魅力的だった。

  聴いていると、ああ、心の皺が伸びてきれいになっていくような気分になる。ふりかえってみれば、クラシック趣味のかなり最初の頃(90年代)に、この団体の親しみやすい演奏をくりかえし聴いていたのは、幸せだったと思う。そして今でも。

  音楽CDは90年代から買っていたので、自宅には、すでに二十数年経過しているディスクもたくさんある。その中で、はっきりと聴けなくなった(ディスク読み取りできなくなった)のは上記の一例のみだが、最近聴いていないCDの中には再生できなくなっているものがあるかもしれないし、今後そういうディスクが増えてくる可能性は高い。さすがに、2000枚のディスクを一々HDD取り込みするわけにもいかないし……。
  ちなみに2000枚という数字は、クラシックオタクとしてはごく平均的。近年では超廉価のボックスセットがたくさん出ているので、たぶん所持枚数の平均はもっと上がっていると思われる。

  2000枚という数字は、CDを一日2枚ずつ聴いていくとほんの3年足らずで一周できるくらいの規模にすぎない。24年間もあれば、平均8回ずつ聴いてきた計算になる。体感では、そんなに聴いていないかも……。webラジオだと、「胃~之煮」や「アイチョ」は、少なくとも6巡か7巡は聴いていると思う。8回は聴いているかなあ。

  CDショップに行くと、もちろんいろいろなものを購入するわけだが、それだけでなく、実際には買わないものでも、「ああ、そういえば自宅にこのディスクがあったなあ」とか、「そうだ、この作曲家のこの曲も聴き返しておこう、自宅には未聴のボックスセットがあったし」といった具合に、あれを聴こうこれを聴こうという意欲が刺激される。そういうのも、定期的にお店に足を運ぶことの副次的効用だと思う。

  誤変換ネタ。「超恋歌」ってなんだ。『雨芳恋歌』のもっとえろいヴァージョンかよ。
  実際、30枚組で3000円台とか、50枚組5000円とかいった、昔であればゼロを1つ足してもまだ足りなかったであろうような超廉価ボックスセットが、多数販売されている(※もちろん正規品)。どのような仕組みでそのような廉価販売が成立しているのかは分からないが、消費者としてはありがたい限りだ。


  「アイチョ」#147の「オカラ人間タケシ」(07:38)が笑いのツボに入って、吹き出してしまった。


「イノセンティア」にネコ耳を追加し、さらにお着替え。これもたいへん可愛らしい。FAGは素肌での機能的な肩関節可動のために肩幅は狭いが、ドールとしては肩幅が広い方が着衣状態での見栄えが良くなる(現実のモデルさんたちも同じ)。


  『エンドリープ』のキャストを見たら……何の話とは言えないが、あの方々だ……。


  アニメのBD/DVDは、公式サイトでの情報露出やパッケージ表記があまりにもいびつで、げんなりすることがある。収録特典の話はしつこく書き並べるわりに、そのディスクに第何話が収録されているかが書かれていなかったり……その部分こそがメインコンテンツじゃないのか。
  このような偏りは、ディスク販売が全巻予約購入者をメインターゲットとしているからなのだろう。つまり、「どうせ全巻購入するのだから、どのディスクに第何話が入っているかなど気にしない」、その一方で「ちゃんと全巻を予約購入してもらいたいから、それを後押しするような情報を大きくアピールする」という、これはこれで合理的な対処ではあるのだろう。しかしそれはいかにも後ろ向きな姿勢だと思うし、メインコンテンツである筈の部分が軽視されているというのは、けっして気持ちの良いものではない。

  1期と2期とで、非常に識別しにくいタイトルを付けるのも、近年のアニメ業界の悪習だと思う。例えば『WORKING!!』(感嘆符2個)→『WORKING'!!』(アポストロフィが付いた)→『WORKING!!!』(感嘆符3個)とか、『侵略!イカ娘』→『侵略!?イカ娘』(疑問符を追加)、『NEW GAME!』→『NEW GAME!!』(感嘆符が2個に)、『ニセコイ』→『ニセコイ:』(コロンが付いた)、『SHOW BY ROCK!!』→『SHOW BY ROCK!!#』(シャープが付いた)のようなタイプで、意識的に記憶しておかなければろくに識別できないし、字面でも違いが分かりにくい。せめて副題をつけてくれれば、検索性もましになるのに……。とはいえ、副題を追加するだけでは、タイトルだけから2期であることが見て取れないので、やはり良い対処とは言えない。いずれにせよ、ユーザー(購入者)のことがまるで考慮されていない。新作としてリリースする段階で予約を取って売り切ってしまうのだからタイトルの混同など生じない、とでも言うつもりだろうか。情報(コンテンツ)の財産を残していくという意識が感じられないことに、私は警戒心を抱いている。

  それでは、元のタイトルを残しつつ見分けやすくするには、どのような対処があるかというと、それはそれで難しくはある。
1) 単純に『○○ 2』、『○○ 3』とするのは、明快だが、いささかひねりが無いし、検索性も良くない(例えば「無印の2巻」と「第2期」とが区別しにくい)。『夏目友人帳』のように「参」「肆」「伍」と大字にするのは、わりと気が利いている。『ヤマノススメ』が「セカンドシーズン」と題したのは、非常に素直な対処で好感が持てる(※登山の「シーズン」にも掛けていると思われる)。
2) 『○○編』または『○○の章』としていくのは、内容に即していれば分かりやすいだろうが、あまり凝ったものにすると何が何だか分からなくなる危険もある。最近だと、『信長の忍び』の2期が「伊勢・金ヶ崎篇」と題されたのは、内容にも即しており、歴史ものとしてもなかなか良いアプローチだと思う。
3) 『セーラームーン』シリーズの無印→『R(リターンの意味か?)』→『S(スーパー)』といった区別は、シンプルだし比較的憶えやすい。最近だと『うまるちゃんR』がこのタイプ。『シンフォギア』(無印→G→GX→AXZ)は、文字数も増えていくので第何期かも判別しやすい。



  02/22(Thu)

  ようやく花澤(香)氏の芝居が、なんとなく受け入れられるようになってきた。私自身の不明を自白することになるが、以前はこの役者さんの芝居を聴いても何をしているのかまるで理解できず、面白味が全然分からなかったが、最近になってやっと、この方の芝居のリズムや聴きどころが掴まえられるようになってき…た……ような……いや、まだまだ分かっていないか。
  花澤氏の芝居をわずかなりとも理解できるようになったのは、早見沙織体験を経由したおかげかもしれない。具体的にどこがどう影響したと言葉にするのは難しいが。

  アダルトゲーマーなので、「花澤」というと花澤(さ)氏の方が、耳にしている頻度は高い……というつもりだったが、出演作リストを見てみると、申し訳ないことにあまりプレイしていなかった。主演級だと『ラストキャバリエ』、代表作としてはおそらく『エクスティア』シリーズが挙げられるだろうか。台詞運びに前のめりな勢いがあって生き生きとしているし、それでいて芯のあるエモーショナルな手応えもしっかりと感じ取れる。アダルトシーンにもそういった命の通った魅力があって、スキップせずにちゃんと聴けてしまう。


  へっぽこ誇大妄想系ヒロインが増えてきているのかなと思ったが、該当するキャラを思い出してみると、ヒロイン級では『はにかみクローバー』『オトメ*ドメイン』『ヒットミー』くらいで、けっして多いわけではなかった。しかし、いずれもインパクトが強く、印象に残りやすかったのかも。


  【 声優のアドリブ 】
  アドヴェンチャーゲームの場合は、音声と同時にテキスト(文字)が表示されてしまうので、声優によるアドリブを入れるのが難しいのではないかと思う。音声とテキストで齟齬を生じさせるわけにはいかないからだ。
  しかし、鼻歌などの文字にならない部分にはそうした自由があるし、そもそもアドリブの有無は芝居の意義にとってなんら本質的ではない。また、収録現場にはメーカー側スタッフも居合わせており、声優の側ももちろん台本の下読みをしたうえで来ているので、収録前に打ち合わせをして、声優の側から疑問を提示したり台本のミスを指摘したりしたうえで実際の収録に臨むらしい。あるいは、実際の音声芝居を聴いたうえで、音声に合わせてテキストの方を修正するという場合もあると思われる。
  いずれにせよ、ほぼ必然的にテキスト表示が伴われるというのは、アドヴェンチャーゲームに特有の、媒体上の特徴の一つだと言えるだろう。

  その一方で、外画吹き替えは、声優仕事の範疇で最も大きなアドリブの自由を慣例的に享受しているようだ。特に前世紀の吹き替えや、いわゆるB級映画の吹き替えでは、収録現場のバンカラな雰囲気でかなり自由な芝居をすることもあるらしい。特にガヤ部分は、しばしば声優任せになるようだ。ただし、近年では契約関係の整備や他言語版作成ノウハウの蓄積などもあって、制約が増えているらしい。例えば、webラジオのトークなどで聞き及ぶところでは、本国(例えば米国からの)スタッフが日本語版の収録に立ち会って台詞をチェックするということもあるようだし、ガヤ部分まで一人一人個別収録したという話も聞いたことがある。
  アニメ作品でも、アドリブ台詞を入れることは案外多いようだ。オーディオコメンタリーや関連ラジオなどを聴くと、台本段階で具体的な文言が指定されておらず、担当声優に委ねられているという箇所もあるらしい。特に、複数のキャラクターの台詞が重なる部分でオフになっている側は、ガヤと同様にアドリブの度合いが大きいようだ。

  収録前の打ち合わせは、かなり多岐に亘るようだ。単純なところでは呼称の不統一や誤字の指摘から、キャラクターの性格の位置づけや、場面毎の心理表現や演出の方向性に至るまで、ディレクターや脚本家と意見交換しながら声優が形にしていくものらしい。
  そして、その過程において、音響監督の存在は非常に大きい。個々の芝居のOK/NGの判断(裁量)から、解釈の統一に関与する立場、(総)監督に次ぐ決定権の大きさ、BGMの選定等にも関わる職掌範囲の広さ、等々。ゲームであれアニメであれ吹き替えであれ、視聴覚複製芸術の形成に関わる音響監督の重要性は、部外者が考えていたよりもかなり大きいようだ。
  上記のアドリブの件でも、音響監督はアドリブ(台本からの逸脱)を許すかどうかの裁量や、どこまでのアドリブを許すか、どのような芝居をOKとするかの決定権を持っているようだ。



  02/21(Wed)

  【 何度も繰り返している、例のオタク世代論への異論 】
  現在でも、自分が好きなものであればマイナーなものであってもずっと語り続ける人はたくさんいるし、ふりかえって昔でも、各地に出かけていくオタク(例えば鉄道オタク、自転車乗り、カメラ好き、コンサート参加、サイン会参加、等々)はたくさんいたわけだから、オタクが変質したとかミーハー化したといったような主張は疑わしいと思っている。
  そんなのは、「オタク」というカテゴリーに含める外延の切り取り方次第でどうとでも言えてしまう。例えば、「昔のオタク」と言う場合にはアニメオタクのみをイメージして、上記の鉄道オタクのようなタイプを無視し、その一方で「現在のオタク」と言う場合にはアイドルオタクなどをクローズアップして、モデラーなどを無視するように語れば、そうした違いは表面上容易に作り出せてしまう。
  あるいは、現在(同時代)のオタクに関しては、活動が目立つものが注目されやすいし、良いものもそうでないものも視界に入ってくるわけだから、ごく普通の、いわば並のオタクがイメージされがちだ。とりわけ現在のSNS上では、ミーハーな活動が特に可視化されやすい。それに対して、過去のオタクたちの活動に関しては、優れたものや際立った事績がピックアップされやすい。それゆえ、「過去のオタクの方がすごかった」という認識のバイアスが生じやすい。
  また、ネタの消費速度が上がっているというのは、部分的には正しいと思うが、その原因をオタクのメンタリティの変化に帰するのはおそらく誤りだろう。一つには、現在では我々がアクセス可能な面白いネタが爆発的に増えていて、特定のネタにいつまでもしがみついている必要が無くなっている。つまり、それは豊かさの帰結だ。また、情報伝達の速度と効率が飛躍的に上昇していることも、それに拍車を掛けている。しかも、SNSのようなメディアの上では、ある程度大きくなったブームは加速度的に拡大する傾向がある(要するにRTがRTを呼んで拡散していく)。
  さらに嫌みを言うと、現在まさに趣味の最先端を走り続けているオタクには、同時代の最も優れた成果がどんどん視野に入ってくるが、趣味の第一線を離れた(元)オタクの目に入ってくるのは、元オタクのところにすら届くような目立った騒動(つまりゴシップ的にセンセーショナルなニュース)ばかりだろう。それゆえ、オタクとしての活動が鈍るにつれて、「昔のオタクは自分一人の趣味嗜好を磨いていたが、最近のオタクは集団で騒いでいるだけだ」という偏見が後押しされやすい。
  そういうわけで、「オタクがミーハー化した」という類の主張は、基本的に眉唾ものだと思う。今も昔も、情報感度の高いオタクたちは、面白いものが新たに生まれればどんどん食いついていくし、その中でも特に気に入ったものを見つけられれば、ずっと大事にしていくだろう。
  私だってそうだ。盛り上がっていて楽しそうなジャンルを触ってみることはあるが、自分なりの選り好みはある。手を出してみて、「これは自分に合いそうだ」と感じればそれを自分の新たな趣味として受け入れるし、逆に「好みに合わないな」と思えばすぐに離脱する。その一方で、学生時代からずっと続けている趣味――その中には比較的マイナーなものもある――も、いくつも持っている。もちろん、環境の変化などによって、一つの趣味をやめることもある。そしてこれらは、ひとの好奇心のあり方として、ごく普通のことだと思う。

  補足しておくと、ミーハーであることそれ自体は、べつに悪いことではないと考えている。面白そうなものがあればまずは食いついてみるというのは、むしろアクティヴな姿勢であり、きわめて健全なものだ。また、ごく一部のマニアだけでなく幅広い趣味人口の裾野が存在することは、情報伝達の広がりという点でも経済的貢献とという意味でも、好ましいことだ。初心者を、新規参入者を、カジュアルに興味を持った人たちのことを、悪く言って得することなど何もない。
  未知のものに興味を持っていくのは精神力の要ることであり、それにもかかわらず新しいものに健啖に食いついていくユーザーがたくさんいるのは、作り手にとっても心強いだろう。新しいものに機敏に反応してくる人々がいなければ、作り手側も保守的にならざるを得ない。人気タイトルや評価の定まった作品のメディアミックスや、過去の有名作品のリメイクばかりが広がっている世界は、けっして豊かなものではない。

  さらに補足すると、一つの文化的集団や一つの趣味分野が廃れるのは、歴史上ありふれた現象だ。オタク文化がいつまでも活気に満ちて永続するものだと信じることはできない。一つの趣味が、一つの文化的行動様式が、ほんのちょっとしたきっかけで、あっという間に縮小衰退してしまうことは、よくある。だから、現状に慢心せず、オタク文化が易きに流れて浅薄なものになっていないかと警戒し、みずから常に気を引き締めて生産的であり続けようと努めているならば、その姿勢はそれはそれで意味のあることだと思う。そのような問いかけや心がけとしてならば、その問題意識は大切だ。それは、「最近のオタクは、主体性がない」といったような切り捨ての言葉ではなく、「現在の私(たち)は、良いものを真剣に見分けようとしているだろうか」という省察の言葉になるだろう。


  ゲームは、プレイしていればどんどん興が乗ってくる。アニメは、1話視聴するだけでヘトヘトになる。読書は、フラットに気持ちが持続する。音楽は、CD一枚ずつがちょうどよい区切りになる。模型は、心(集中力)よりも手先が疲れてくる。



  02/19(Mon)

  眼鏡好きが想像する究極の世界は何だろうかと考えてみるに、「世界中の人々が眼鏡を掛けている状態」であるという案が浮かんだが、しかしそのような世界では眼鏡を掛けているのがあまりにも当然であるがゆえに「眼鏡好き」「眼鏡萌え」はかえって存在し得なくなるのではないかという疑念が浮かび、しかし万人が備えている属性であっても例えば「手先萌え」や「唇に魅力を感じる」といった趣味嗜好は実在しているのだから心配は要らないのだが、ところで厳密な意味で「万人(人類全員)が備えている」ような性質はあるだろうかという問に行き当たったところ、現実には「手を失っている人」や「唇を失っている人」もいるわけで、それどころか「意識」や「財産」や「生命」すら失っていたり、「骨」や「筋肉」をいまだ分化させていない胚段階があったり、「権利」主体としての性質が曖昧な存在もあったり(例:クローン人間には人権があるのか?)、「名前(個人名)」を持っていない人もいるのだから、あらゆる人類が備えている属性を特定する(さらにはそれに関心や愛着を抱く)というのは難しいのかもしれず、そうするともはや、「ホモサピエンス萌え(分類)」とか「細胞萌え(構成要素)」とか「炭素生物萌え(組成)」とか「地球上生物萌え(生息地)」のような観念的概括的な視点で捉えるしかないようだが、ただししかし、「インコ好き(分類)」、「赤血球擬人化(構成要素)」、「珪素生物萌え(組成)」、「オーストラリアの生き物が好き」のような包括的なアフェクションを意識し享受している人たちは現実にたくさんいるのだから、そういったレベルで人類全体のなんらかの側面を切り出して楽しむ可能性は常に開かれていると言わねばならない。

  そういえば最近の私は人間観察がつまらなくなっている。べつに周囲をジロジロ見るわけではないが、大学生の頃は世の中の人々のさまざまな姿と行動を見るのがたいへん楽しかった。しかし最近は、街中を歩いていても、「いかにも面白そうな人とか、見るからに個性的な人とか、複雑な深みのありそうな人って、なかなかいないものだなあ」と感じる。私の感性が鈍ったのか、それとも逆に、ウブではなくなったということなのか、あるいは大学という空間の特殊性のおかげだったのか、それ以外のどういう事情なのかは分からないが、今では電車内や商店街にいても周囲の他人に意識を向けることはもはや無駄としか思えない。それにひきかえ、肖像画に描かれている人やゲームのキャラクター立ち絵やフィギュアなどはいくら眺めても見飽きない。


  サルミアッキの別タイプも買ってみたけど、ハッカかミントのような清涼感が強すぎて、サルミアッキのしっとりした苦みとの取り合わせがどうも落ち着かない。これなら、普通のタイプ(菱型◆)の方が好みかなあ。

(2018年2月20日、自宅にて撮影)
手前の箱が「スーパー サルミアッキ」。中身のサルミアッキ自体も丸い●。強めの清涼感が、酸味に近い感覚になってしまうため、苦みと混じっていささか受け入れにくい味わいになる。しかし、5~6個も食べていれば慣れてきた。左は、箱のサイズを分かりやすくするために並べたDTA長靴小隊「マナ」


  「一部パートボイス」というフレーズに引っかかるのも分かるけど、おそらく内容に照らして正しい表現と思われる。つまり、「シーンによって、フルヴォイス(=全キャラに音声がある)だったり、パートヴォイス(=音声の無いキャラもいる)だったりする」という状況を言葉にすると、こうならざるを得ない。
  「パートヴォイス」といっても、様々な観点がある。1)シーン基準で:音声のあるシーンと、ヴォイス無しのシーンがある。典型例はLiar-soft作品だが、AVGパートのみフルヴォイス(SLGパートの演出には音声がつかない)といったパターンもある。2)キャラクター単位で:音声のあるキャラと、キャストのついていないキャラがいる。大多数の「主人公以外フルヴォイス」「ヒロインのみフルヴォイス」タイトルはこれに該当する。3)作品全体で:作品のあらゆるキャラクター台詞に音声が付与されているか、そうでないか。一般的には、1)の意味で用いられることが最も多いだろう。

  細かいことを言うと、「内心の台詞」に音声を当てるかどうかは判断が難しいように思う。作品によって、ヒロインのモノローグ――例えば丸括弧()で括られているような台詞――には音声を当てないタイトルもあるし、モノローグでも音声を出しているタイトルもある。全体としては、前者の「モノローグには音声を当てない」アプローチの方が多いように見受けられるが、後者のタイプも無いわけではない。


  論文や評論などで、この単語は特殊な含意を持つキーワードだよという強調の趣旨や、著者自身はこの主張を必ずしも肯定していないという留保の趣旨で、これ見よがしな鉤括弧「」を多用するのは、チープなうえ押しつけがましいので極力避けるべきだと思う。鉤括弧は引用文や邦文雑誌タイトルのみにするというのが、
  ただし、web上の文章のようなデジタルテキストでは、表示機能が制限されていたり(例えばルビを振れない)、閲覧環境によってフォントやレイアウトが異なったりする(例えばプレーンテキストでは太字すら効かない)場合には、鉤括弧はほぼユニヴァーサルに機能する記号として便利だというのも確かだ。例えば、傍点や下線の代用のように使える。
  また、ブログテキストなどでは、読者層がきわめて多様である――読者層をコントロールすることがほぼ不可能である――という条件も加わる。そのため、「複雑な構文の中で、まとまりと区分を読み取りやすいようにする」、「列挙されている各項目を際立たせる」といった可読性配慮として、鉤括弧はたいへん便利に使えるし、そしてこれらの機能は鉤括弧以外ではなかなか表現しづらい(※この文の鉤括弧はまさにこの趣旨で使っている)。 ただし、キーワード強調としての鉤括弧は、webテキストでもやはり下品だと思う。



  02/17(Sat)

  新記事:「AZONE『エッチングメガネ』使用例」。
  自分としては大喜びで撮影しまくり、ノリノリで記事を書けたのだが、傍目にはただのおバカ記事にしか見えないかも。おまえのような奴がいるから眼鏡好きが偏見の目で見られるんだよ!

  しかし、眼鏡好きくらいで収まっているのはまだマシだったと言うべきかも。もしも仮に私が極度のスリムキャラ好きで、手に入れたあらゆるフィギュアの胸部をザクザクと削りまくるような残虐なモデラーだったら……と考えるといささか背筋が寒くなる。(ただしそれも、魔改造工作としてはわりとありがちかもしれない)

  青色背景(というか、とにかく特定のビビッドカラーが大きな面積を占める状態)は、撮影時の色合いが偏るのであまりよろしくないのだが、まあ仕方ない。画像を見比べると、色調をいじっているのもバレバレだし。


  『キルミーベイベー』の「やすな」のしつこい絡みっぷり(特にアニメ版)に、どこか既視感があると思ったら、そうか、「よつばスタジオ繁盛記」の里見英樹氏か! ……ということがあって数時間後、漫画版単行本を開いてみたら、「cover designed by Hideki Satomi」のクレジットが。やっぱりこの人が絡んでいたのか! 思い返してみれば、単行本の帯のキャッチコピーにもその気配が濃厚に漂っているのだった。

  漫画版では、やすなはおっとりした天然キャラのような感じで、ソーニャもわりと朴訥生真面目にやすなの相手をしているような雰囲気だが、アニメ版は最初からどちらもお互いの腹の底まで理解したうえで漫才を繰り広げているような趣がある。喩えて言うなら、漫画版のやすなは『あずまんが大王』の滝野智と春日歩を足して二で割らないような脳天気路線だが、アニメ版は2010年代版の滝野智と言ってよいほどの激しさがある。
  言動の大筋はほとんど同じなのに、これほどの違いが生じるというのは、なかなか面白い。それは媒体の違いのせいでもあり、コメディならではの時間感覚のデリケートさの問題でもあり、声優の力量、漫画家の構成力、視聴覚演出の尽力が成せる業でもある。


  「礼賀椎衣」さんは、たぶん「レガシィ」と読むのだから、きっと車の人だろう。なんだか推論の順序がおかしいような気もするが、これでいいのだ。


  女性キャラなのに手がやけに大きくてゴツい絵を見ると、「男性イラストレーターさんが自分の手を見ながら(モデルにして)描いてるのかな……」などと余計なことを考えてしまう。もちろん現実の女性でも、手が大きかったり腱がはっきり出ていたりする方もいるし、男性でもたいへん優しい手をしている方はいるが。若年女性キャラのイラストとしては、手は「小さめで」「細くて」「しなやかな感じに」可憐に描かれている方が好み。逆に、手先や足先をあえて大きくデフォルメして描いて、コミカルな愛嬌を表すのもあり(つまりミッキーマウスの要領)。


  あのキャンプアニメは、良きマフラーキャラの一大産地になってくれるのか。ありがたい。マフラーがたなびく様子も良いものだけど、個人的には、口元を隠している姿の可愛らしさやフカフカな布地に顔をうずめているユーモラスな愛嬌こそが、マフラーキャラの大きな魅力だと思う。


  イギリス住まいの台湾人が日本アニメのファンアートをアメリカ発のSNSで公開するとは、いかにもグローバルな状況よのう……。しかもそれが、例えば作中でA国の風景を描いており、制作にはB国やC国のアニメーターも参加して、それをD国人が視聴しているということもあるだろう。



  02/16(Fri)

  いろいろなものが一段落ついたところで、さて、これから何をどれからどうやって着手していこうかと迷いかけている。すべきこと、したいことは無数にあるが、多少なりとも方向性や目処を定めておく方が、趣味生活も豊かに過ごせると思う。今のうちに、大きめの懸案を消化しておこうかな。


  【 フィクションにおける近代科学文明崩壊の描写 】
  文明崩壊ものについても展望を提示しておきたかったが、作品数も膨大だし内容も多岐に亘るので、整理するのはかなり難しい。例えば:
- 媒体(小説、漫画、映画、アニメ、ゲームほか)と作品発表年
- 時代設定(同時代、近未来、遠未来)
- 虚構性(現実世界の延長上か、完全な架空世界か)
- 文明崩壊の原因(大戦争、環境破壊、バイオハザード、ロボットの反乱、異星人侵略など)
- 文明時代に関する知識が残っているか。文明時代の高度科学技術はどれだけ残っているか
- 社会状況(安定的、混乱、危機的)
- 人類の行く末(存続、危機的、絶滅)
ざっと考えただけでもこのくらいの要因があり、相互に類似したものはほとんど無い。大抵は現実世界の延長上の未来として描かれるが、そうでない場合もあり得る。

  作品発表時期の順に、適当に例を挙げると:
  『タイムマシン』は、「19世紀の小説」、「超遠未来(80万年後)」、「原因不明(階級格差の深刻化による緩やかな衰退?)」、「科学文明時代の知識はほぼ残っていない(モーロック側には一部残っているようだ)」、「安定(というか社会性は希薄)」、「人類はさらに遠い未来において、最終的に衰亡し絶滅することが示唆されている」。
  『復活の日』は、「60年代発表の小説(映画化)」、「同時代(発表当時=1960年代の事件という設定)」、「バイオハザード(軍事ウイルス流出)」、「使える科学技術は限定的」、「南極にいたごく少数の人類のみが生きている危機的状況」、「滅亡回避の手掛かりを掴む」。
  『ナウシカ』は、「80年代発表の漫画版とアニメ版」、「遠未来(1000年以上の未来?)」、「大戦争」、「局所的にのみ遺物が存在するが、ろくに活用されていない」、「各地に比較的大きな政治権力が成立しているが、かなり混乱した中世水準の社会」、「人類は存続」。
  『スクラップド・プリンセス』は、「90年代から発表された小説(アニメ化)」、「遠未来(5000年以上)」、「異星人侵略」、「異星人の支配下での、人為的な科学技術忘却および文明退行」、「安定した擬似中世」、「人類は存続」。
  『マブラヴ』シリーズは、「00年代以降のゲーム」、「現代(発表当時)」、「異星人侵略」、「文明はなんとか維持されている」、「全世界的危機」、「展開によっては絶滅。存続の可能性も」。
  『Splatoon』は、「10年代のゲーム」、「遠未来(1万年以上)」、「環境変化(海面上昇)による人類絶滅」、「人類文明が存在したことは知られているという程度」、「安定社会」、「人類はすでに絶滅している」。

  作中で詳しく描写されていないことも多いし、私自身がよく知らない作品も多いが。例えば『猿の惑星』シリーズの世界設定がどうなっているかはほとんど知らない。オタク系諸分野では、「世界戦争後の荒廃世界」(『AKIRA』『北斗の拳』『アップルシード』『EDEN』など)と、「(しばしば擬似中世への)牧歌的衰退」(『∀ガンダム』『ヨコハマ買い出し紀行』『キノの旅』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』など)の二つのタイプが好んで取り上げられているように思われる。

  こんな大きな話を挿入しようなどとしたら、記事の論旨がぼやけるし、論述全体の正確性水準も著しく低下するし、それどころかそもそも脱稿できなくなる。


  というわけで今月の日本橋遠征を完遂してきた。一番欲しかったものは見つけられなかったが、それ以外はかなり満足のいく買い物ができた。そのぶん――というわけでもないが、帰宅時に財布の中身は千円札一枚しか残らなかった(※ちなみに、さまざまな考慮から、オタク系の買い物は現金支払主義を可能なかぎり徹底している)。


  「原実」さんと「原実」さんを読み違えそうになって、私の頭が本格的におかしくなったかと不安になったけど、web検索してみたらそういう見間違いをする人は私以外にもいるようだ。良かった、頭がおかしいのは私だけじゃなかったんだ。ちなみに、後者はどんな方かよく知らない。



  02/13(Tue)

  近いうちにもう一度、できれば今週中に時間を取って日本橋に行きたい。ただし、人出の多い土日を避けつつ、私自身が動ける日であり(しかもスケジュールの都合と心身の調子の双方)、さらに降雨降雪でないとなると、なかなか難しい。

  そういえば今月は、食費もわりと節約しているし、あまり文化支出もしていなかったので、そろそろちょっとばかり財布の紐を緩めてもいいのではなかろうか。(致命的散財フラグ)


  【 多脚兵器メモ 】
  多脚戦車(歩行戦車)といえば、先日の記事の『少女終末旅行』にもこっそり登場していたが、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』にもあって、そしてこの金元氏主演の作品にはキューベルワーゲンなども登場していたので記事内でも言及したかったのだが、行論にうまく組み込めず、結局触れられずじまいだった。無理に入れて論旨がぼやけてしまってもいけないし。
  日本のオタクシーンでは、『攻殻機動隊』シリーズが代表的だろう。『ARISE』の多脚ロボットは沢城ヴォイスで、こちらはこちらで「人間味のない可愛らしさ」のようなものが音声芝居によって表現されていてたいへん素晴らしいものだった。『パトレイバー』にもあった(通称タカアシガニ)。『ダグラム』にも登場していたらしいが、視聴していないので詳細は知らない。
  アダルトPCゲームだと、なによりもまず『白詰草話』。アニメ仕立てのOPムービーで、ヒロインたちが多脚戦車と市街戦を繰り広げていた。ただし、本編では1話の終盤あたりに出てきていたくらい。『ひめしょ!』にもアリ型の小型多脚戦闘ロボットが多数登場しt…もとい、登場したのはOPムービーばかりで、本編CGでははっきりと描かれることは無かった。残念。『ガンナイトガール』には、四脚の機動戦車「ハチ」が登場する。『マブラヴ』シリーズにもあったかも。『百機夜行』などにも多脚自走兵器が出てきたかと思う。非18禁の『planetarian』にも四脚の機動兵器「シオマネキ」が登場した。
  世界的に最も有名なのは、映画『STAR WARS』シリーズのAT-ATだろう。『ターミネーター』(の未来世界のロボット)などのSF映画でも定番のメカ。日本国内発のフィクション多脚兵器だと、『ZOIDS』にも多数。それ以外にも、フィクションのカニ型ロボットなどを含めればかなりたくさんあるだろう。『ガンダム』シリーズだと、アッザムは脚(歩行機構)というよりはアウトリガー(固定アーム)っぽい。STGにも、この種の敵ユニットは多いが、なかでも『グラディウス』シリーズのクラブが有名だろうか。

  3本以上の多脚兵器――つまり人型二足ロボットを除くとして――は、いかにも近未来兵器らしくて、生物的なキャラクター性を表現することもでき、しかも蜘蛛型だと「顔」を低い位置に置けるので画面レイアウトの負担も少なく、そのうえ節足動物的な不気味さも担うことができるという、作劇上たいへん好都合なメカだと思うのだが、ストレートに登場させているものは案外少ないかも。

『白詰草話』 (c)2002 Littlewitch
OPムービーの一シーン。ビル街で戦闘をする場面は、本編には存在しない。街中でミサイルを射ちまくったり、上面装甲を強化人間少女に蹴り飛ばされたり、高所からコミカルに落下したりと、この多脚兵器たちは本編以上に活躍している。


  「無駄なこと(つまり本題に関係がないこと)は一文も書いてはいけない」、「本文に書かれたあらゆる文は根拠を伴っていなければいけない(そのために註がある)」というのが厳格な論文の前提だが、このブログの記事は当然ながら論文とは呼べないほどイージーに書いている。先の「実在兵器」記事ではいろいろと註をつけたかった(そして註によって論述を階層化、構造化したかった)のだが、web上でフラットに読むぶんにはかえって読みづらくなると考えて、断念した。ただし、さすがにメインの漫画2作品については、ページ数を付記している。


  どんなキャラでも見境なしにバストサイズを巨大化させたがるのはいかがなものかと思わないではないのだが、「あなただって、どんなキャラでも眼鏡を掛けたら見境なしに喜ぶんでしょ」と言われたらぐうの音も出ない。


  カヅホ氏の『カガクチョップ』で大笑いしている。絵柄はデフォルメが利いて可愛らしく、それでいてエログロナンセンスのうち「エロ」が皆無で「グロ(バイオレンス)」と「ナンセンス」が多めという、個人的にたいへん好みなスタイル(――とにかく爆発オチや死亡オチが多い)。喩えるなら、『フランケン・ふらん』のゴア系ブラックユーモアを、四コマ漫画の口当たり良さで調理した感じ。マイルドな毒気のほどよいピリピリ感がたまらない。
  同じ作者の『キルミーベイベー』も、最初のうちの比較的マイルドなドツキ漫才だったのが、8巻あたりから急激に暴力表現がエスカレートしており、今では「バットで頭部をフルスイング」すら普通になってしまった。本性を現したな。
  ちなみに、『ふらん』の木々津氏は、最近の読み切りでは内臓系グロに傾斜していて、私程度のヌルさではちょっと生理的にきつい。殴打&爆発系ゴアコメディの方が、カラッとしている感じで安心して読めるかなあ。

  主要キャラが2人とも眼鏡というのも嬉しい。ありがてえ、ありがてえ。

  ※追記。後日、単独記事にした:「『カガクチョップ』人的被害一覧」。

  あれ……長倉さんよりも鈴園さんの方が被害が多い?(そういう問題ではない)

  第4巻(第40回以降)でエスカレートしていることが見て取れる。もはや「萌えスプラッタコメディ」あるいは「ゴア漫才」と呼ぶしかない。生死判定もしておきたいところだが、なにしろギャグ空間なので、正確な判定は事実上不可能。

  おバカ発明品のアイデアもいろいろと面白くて、「歩行に合わせて移動するルームランナー」(どういう動きになるんだろうか?)や、デジタルライトによる擬似花火(子供でも安全だし現実的かも)などは感心させられた。


  ゲーム関係でもこういう情報整理をしたいのだけど、最近のソフトハウスキャラはこの手のデータ攻略の要るタイトルを出していないし、Escu:deはシステムが難しすぎて私の力量ではまともな(信頼性の高い)攻略記事を出せないので、もどかしい思いをしている。


  web上で見て「すごく良いな」と思ったイラストレーターさんについては、同人書店で作品を見かけたら、できれば一度は買うようにしている。その作家さんの名前をたまたま憶えていたり、表紙イラストで気づいたりした時だけだが、そういう出会い(再会)も良いものだと思う。その記念の意味もあり、webで良い絵を見させたもらった感謝の気持ちもあり、また一種の備忘録としての意味合いもある。私にとって、そういう作家さんが仮に年間50人現れたとして、一冊平均800円とすると4万円。記念としても感謝としてもほどほど妥当な額だし、漫画作品や冊子規模のイラスト集として観ることでその作家さんのポテンシャルを(再)確認できるというメリットもある。ただし、エロ同人だったりすると、レジに持っていくのに多少躊躇するけど。
  ゲームも、フルプラはそれだけでは難しいが、ロープライス作品なら買ってみることはある。商業漫画を出された時も、ご祝儀のつもりで買うことはある。ただし、「イラストはきれいだが漫画はあまり面白くない」というパターンもわりとある。


  男性向けの同人エロ漫画で――webコミックや商業分野でもおそらく状況は同じだが――、女性が男性のそれを舐めるシーンが非常に多いのは、いまだに馴染めない。最近では5割~7割くらいの作品には、そういうプロセスが含まれているのではなかろうか。「現実にはそれほど行われていない(つまり本来はかなり特殊な行為である)」にもかかわらず、「近年のエロ漫画ではほとんどデフォルトとして非常に広範に普及している」というギャップは、どうして生まれているのだろうか。

  考えられる理由を推測するに:
  1) 女性の顔面を大写しにでき、絵としての見栄えが良いので、好まれているのだろうか(演出上の事情)。その一方、男性側の顔面はフレームインさせずに済む。
  2) 前戯カテゴリーに位置づけられるにもかかわらず、男性にとっては局部の神経的刺激そのものであるため、性表現としての効果が大きいのだろうか(性的官能に関わる事情)。
  3) 実写などの他媒体乃至他分野でそのような行為が普及しており、漫画もその影響を受けてこうなった、ということがあるかもしれない(分野的影響)。
  4) 時代的な流行が、たまたまそうなっているだけかもしれない。過去にも、新たな性的(インター)アクションの様々なスタイルが勃興したり流行したり定着したり衰退したりしてきた。その一つに過ぎないのかもしれない(偶然性の強い流行)。

  現実には、衛生観念の問題などもあって、とりわけ女性側にはかなり抵抗感が強い(と思う)。それにもかかわらず、数ある性的嗜好のワンオブゼム――にすぎない筈だ――の中から、これほど強力に普及し定着するに至っているのは、興味深くもあるし、同時に不思議でもあり、そして個人的には好きではないプロセスなのでモヤモヤする。いやまあ、それ以外のあれこれが好きかというと、そもそも性表現全般がつらいのだけど、その中でも特に「個人的に受け入れにくさの度合いが高いわりに、出現頻度もきわめて高い」というのが、個人的なモヤモヤの原因。近年の男性向け18禁同人誌では、体感で50%以上の圧倒的プレゼンスを持つようになっているが、描いている人たちも、読んでいる人たちも、そんなに好きなんだろうかという疑問もある。いや、好きならそれでべつに一向に構わないのですけれども。


  一定以上のデリカシーを持っていると思われる作家さんに対しては、差し入れもそれなりのデリカシーを持つべきだろう。具体的には、当人が好きなものか、消え物に限られる。
  1) その作家自身がSNSなどで明示的に「好き」とか「欲しい」と口にしているもの。しかも、具体的な特定の製品であり(※類似品では駄目)、仮に複数持っていても困らないものであり(※他の差し入れ品とダブる可能性がある)、さらに高価すぎず安すぎず(※高額すぎても気を遣わせる)、大きくないもの(※帰路の邪魔にならないように)。
  2) 消え物は、できれば少量でちょっと高めなものがよい。つまり、大きすぎず、チープすぎず、高すぎず。作家さんの居所地域では入手しにくいものであれば、なお良い(つまり、地元の有名ブランドなど)。保存性が高く(生ものは絶対NG)、運搬しやすく、食べやすく(個別包装が望ましい)、できれば低カロリー。アレルギー物質は考慮しきれないが、可能ならば気をつけたい。口に入れるものだから、未開封既製品は絶対条件(自作は絶対NG)。要するにスイーツか紅茶パックあたりが無難。お菓子以外の食品類は、使い勝手が良くないことが多いので、避けた方がよさそう。
  差し入れなどの贈り物は、基本的には「しなくてもよい(つまり、義務的ではない)」ものであり、相手がちゃんと喜んでくれるものにしなければ、そもそも実行する意味が無い。心が広くてどんなものでも嬉しがってくれる作家さんもいるだろうけど、そうでないこともあり得るわけで、差し入れをしたいならば慎重に考えるべきだろう。



  02/09(Fri)

  さえき氏原画の来月新作、どこか既視感があると思ったら『ルナそら』か。「アンドロイドヒロインが」、「2人ヒロインで」、「金髪と水色髪で」、「猫耳っぽいものを装備している」、「(たぶん)イチャラブもの」という要素からの連想だが。『ルナそら』の発売日は、えーと、2006年。lightが超常バトルものに大きく傾斜していく直前の時期だが、その当時からすでにしたたかな二枚腰の作風を採っており、この『ルナそら』でエロコメに皮肉を利かせていたのと同様に、純愛ストーリーに悲劇的な設定を混ぜ込んだり(『Dear My Friend』)、あるいは逆に背徳的な交わりの中に感傷的な気配を匂わせたり(『Imitation Lover』)、仮面ライダー風の特撮パロディを露悪的に表現したりして(『松島枇杷子』)、たいへん面白いブランドだった。
  『Dies』以降、異能バトルものにはっきりと舵を切ってからは、個人的にそういう路線が好みではないので手を出しにくいのだが、それでも泉氏原画だったりKeG氏原画だったり、あるいは波奈束氏主演だったりルネ山氏主演だったり、その合間に美月氏主演の『かみのゆ』を挟んできたりして、なかなか一筋縄ではいかない、付き合い方の難しいブランドであり続けている。


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  どこかの社長だというこの人……ユーザーから会社に来た問い合わせか何かの文章を、個人アカウントのSNSで公開したのか!? 文面をざっとweb検索してみても、すでに公開されている別の文章を仮に表示させたということではなさそうで、たぶんユーザーから実際に送られてきたテキスト現物をそのまま出しているっぽい。しかも文面のほぼ全体が鮮明に判読できる。こんなことして大丈夫か、この人、この会社。この会社に問い合わせなどのメッセージを送ったら、文面全体をいつどこに晒されるか分かったものではないということになるのだが……。個人情報保護はどこへ行った。怖すぎる。
  このように、文面のレイアウトを示すことのみに眼目があってサンプルを見せたいという場合、普通だったら「いろはにほへと」やlorem ipsumなどの適当なダミーテキストにする。著作権法上の問題のない適当な古典文学のテキストを使うという場合もあるようだ。


  蟹座のデスマスクというけど、「デスマスク」さんというのが彼個人の名前なのか! どんなネーミングだ……。もっとも、「アルデバラン」さんも牡牛座に属する一等星そのものの名前でちょっと話が出来すぎているし、「シャカ(釈迦)」さんとはいったい何なんだという話だったりするが。


  ハローアビスなあの漫画でも出てきた「探窟」(または探掘)という言葉、そういえば昔どこかの作品でも目にしたことがあっt…あっ、『とびっきりRUIN』だ! うわあ、懐かしい。いろいろな記憶が甦ってきた。まるで旧友に会ったかのような気分になった。


  アイチョ#70(13:00~)、小林さんの「うん、うん」という相槌の打ち方がいかにも楽しそうで楽しそうで……。どのタイミングでツッコんでやろうかと見計らいながらニヤけていたんだろうなあ。


  ある昼過ぎ朝に目が覚めて、ふと周囲を見渡してみると……「なんだ、このオタ部屋は」と、我ながら驚いてしまった。この室内、至るところにありとあらゆる変なものばかりがある!

  そしてゲームに熱中して徹夜……。楽しいのかどうかも、自分が何をどう楽しんでいるのかも分からないくらい没頭していた。しかし明け方は寒い。



  02/05(Mon)

  思い立ってモデルガンを買ってみた。2000円台の最安価なエントリーモデルだが、銃器のサイズや形状、重量感(※実銃よりも軽いが)、ディテール、メカニズム、構え方と狙いのつけ方、発射時の感触など、なかなか勉強になる。平均的な東アジア人(特に女性)の手には大きいと思われるが、手に取って弄んでいるうちになんとなく慣れてきた。買ったのは、例によってグロック17。Cz75と迷ったが、まずはファーストチョイスとして無難に選んだ。

  机の前でグルグル回し――「ガンスピン」と言うらしい――を試みてPCディスプレイを叩き割ってしまう、などといったことが無いように注意しなければ。(おばか)

一般的なDVDケースと並べるとこんな感じのサイズ。
「あのー、『ノラとと』下さーい。えーと、大橋さんが出演されているショートアニメで、たまに実写だったりもするっていう……はい、フラッシュアニメっぽい、不条理コメディだそうですから、たぶんそれで合ってると思います。なんかタイトルが違うみたいだけど、それでお願いします」。


  ソフトハウスキャラ新作。今回は++チームで紅村氏原画。キャスティングが桃組十把一絡げスタイルを多少なりとも改めたのは、前のタイトルの売上が良かったりしたのだろうか。マナの設定からして、++チーム共通世界設定かと思われる。ゲームシステムは、『巣作り』『勇者砲』に侵攻パートを増強したような感じだろうか。移動する城というと『ママトト』も思い出される。
  紅村氏の絵はちょっとアクが抜けてきた?


  『イカ娘』アニメ。英語版では、さすがにイカゲソ語尾を再現することは出来なかったようだが、代わりに接頭辞in-をink-に置き換えたり(例:invade→inkvade)、isをinkにしたりshouldをsquidにしたり、適当な形容詞を時折イカ関連の語彙(krakenやtentacular)に置き換えたりしている。イカゲソ語尾は特定の言語(文法)に強く依存するネタなので、他言語で再現するのはきわめて難しいが、この翻訳者はかなり頑張っている。
  主演の金元氏はもちろんだが、藤村氏も安定感のある好演で素晴らしい。


(2018年2月8日、自宅にて撮影)
ツインテールを外してショートカットにした、「レーシングミク 2017 Team UKYO 応援ver.」。初音ミクは、ツインテールを外した状態にしてもミクらしさが変化しないことが多いが、このフィギュアでは劇的に印象が変わる。後ろはAOSHIMAのキエフ。巨大な艦橋とカラフルな甲板面がとても楽しい(→模型ページ)。


  気まぐれの手すさびでイージーに制作したのだが、完成させてみるとやたら面白い。
- 段積みの超巨大な艦橋は、いかにもロシアっぽい大仰さだし、
- レーダー類の造形はレトロフューチャー感がたっぷりだし、
- カラフルな甲板面は、捉えどころのない無機的雰囲気と朴訥なユーモラスさが混じっているし、
- アングルドデッキは中途半端な長さで、事実上VTOL専用という不器用さも愛らしいし、
- 艦首寄りには対潜ミサイルや機銃などを並べていて、無節操なゴチャメカ感がある。
  こうして眺めているだけで、もうとっても楽しい! 作って良かった。



  02/03(Sat)

  頭の中でだいたいの構想は出来上がっていたのに、休日の5時間を掛けて、えーと、7000字しか書けていない。分速20文字くらい……遅い。久しぶりのオタク系テキストだが、こんなに時間が掛かるとは。ここまでで約12000字執筆して、残りは3000字くらいで切り上げられると思うが、画像引用の処理なども含めると今日中に完成させられるかどうか、かなりギリギリ。

  というわけで、ひとまず本文完成:「フィクションにおける実在兵器表現の意義
  文字数は約17000字。これでも、冗長なくだりを極力削ったのだが。当初の見込みよりもテキストが長くなるのはいつものことなので、予想通りの予想外。また、漫画のスキャン画像やゲームのスクリーンショットも用意してあるので、明日中には加筆しておきたい。

  どうして最後にいきなりメルカバ戦車の話なんか始めちゃったんだ、とか言わない。
  ただの趣味なんだから。

  『まいてつ』は適当なスクリーンショットが手許に無かったので再インストールを試みたが、何故かデータ転送がやけに遅くて進まないので、旧HDDから起動させた。

  BD映像は原則としてスクリーンショットを撮れないから、資料として使うこともできない。作品に関する情報利用が過度に制限されている――法的には画像引用可能である筈なのだが――のは、作品にとっても文化および社会にとっても不利益にしかならないのではないか。講義などで使いたいという場合にもSSを撮って来られないし、かといってその都度ディスクの該当箇所を流すのも時間の無駄が大きすぎるし……。
  戦車はなんとかするとして、自動車(やバイク)はどうしようかな。レースものとかは好きではないから、引用画像を出せるものが手許にまるで無い。

  今時、ディスクからファイル全コピーで強引に動かそうとするのはやめましょう。昔のアトリエかぐや作品などは、万一インストール失敗する場合の対処として、そういう手段があることも教えてくれていたけど。

  というわけで、もうちっとだけ加筆するんじゃ。

  漫画の引用画像は自分でスキャニングして掲載しているわけで、もちろん画質は劣化している。公式サイトにある画像をDLして再掲載すれば、画像のクオリティは高い――というかオリジナルそのままの品質になる――のだが、それは無断転載に当たるので出来ない。ましてや直リンで自分のコンテンツのように表示することは許されない。だから、正当な仕方で画像引用しようとすると、画質は著しく劣化するにもかかわらず、自前でスキャンしたデータを使わなければいけない。少々モヤモヤする話ではあるが、「物事の正しさは、内容の正しさ(だけ)ではなく、手続の正しさにも依存している」ということの例だろう。
  もちろん、単行本からスキャニングしてきたということは、本人がきちんと購入して正当に利用しているということの証明でもあり、また、引用画像が単行本に含まれるという出典の信頼性の問題にも関わっている。
  それとも、正当な「(法律上の)引用」の内容的条件に合致するならば、公式サイトの画像を転載しても良いということはあるだろうか? えーと、どうだっけ。たぶん駄目だと思う。
  P40の画像は、スクリーンショットではなく、BD同梱冊子からスキャンしてきたもの。なんでこんな迂遠な手段を採らねばならないのか。(※追記:その後、画像を差し替えた。PCディスプレイ上のBD映像をデジカメで撮影するという、これまた迂遠きわまりない仕方だが。)


  今ならまだ、「卯衣氏出演情報」に着手してもなんとかついていけそうなのだけど……。出演タイトル(役名と発売日)、関連商品および特典、それからある程度は内容に踏み込んで、作中での出番が多いかどうかといったあたりまで整理していけば……コンシューマ版などを除けば、現時点で50タイトル強。うーむ、どうしたものか。ちなみに、波奈束氏はEGScapeによれば40本程度。桃山氏も40本台。杏子氏は50本台。秋野氏や美月氏や櫻井(あ)氏や萌花ちょこ氏は、出演作が多すぎて全作プレイはもはや無理。

  松永雪希氏の出演情報サイト([ cross-channel.net/matsunaga-yuki/ ])も、いつの間にか閉鎖されてしまったのだよなあ。もったいない。当該URLを知っていればInternet Archiveで擬似的に閲覧することが可能だけど、web検索サービスの検索ではヒットしないので、web上の生きている情報とはもはや言えない。


  2万字オーバーになってしまった。
  全体のバランスを考えると、現在の第1章と第2章を一つの章としてまとめてしまって現状整理と理論枠組の記述に当てて(2000+2000字)、第3章を二つの章に分けてそれぞれをもっと大きく取り上げて(7000字/6000字)、全体を3部構成にした方が、見通しがすっきりしたかもしれない。
  今回の声優さん祭は、かどぁきさん祭が一番実現に近かったと思うが、残念ながら組み込みきれなかった。「声優職業体験所」DVDを使えればと思ったが、無理に画像挿入しても論述のバランスが崩れそうなので差し控えた。

  というわけで、「実在兵器」記事はひとまず脱稿とする。
  当初の心づもりでは、オタク分野(漫画やアニメ)においても「精読」が重要であり、そうした緻密な読解の例を示そう――しかもオタク的な設定裏読み趣味とは手を切って――という企図もあったのだが、ろくに果たせずじまいだった。

  今回は、サムネイル画像のサイズを「中」ではなく「大」にしてみた。モノクロ漫画は、あまり小さいサムネイルだと中身が一目で識別できない可能性が高いので。閲覧者によって表示環境が異なるので、pdfにでもしないかぎり表示条件を完全には制御できないが、可読性や視認性はできるだけ配慮していきたい。
  フォントが違うと改行箇所がずれるというのも、困りもの。MSゴシック(16P)でちょうど良いように調整しているのだが、閲覧環境によっては少々お見苦しいことになっている可能性がある。特に引用画像脇のキャプションは下にはみ出ないようにしているのだが、サイズの大きいフォントで表示すると、はみ出してしまう。



  02/01(Thu)

おお、このキャストは! 店頭で見かけて即座に購入した。2003年発売の作品なので、もう15年も前の芝居か……。

  主人公がヒューイ(後野祭氏)で、 彼を隊長と慕う部下の紫髪キャラがアリア(Ruru氏)。 増援の巫女キャラがシルエラ(深井晴花氏)で、小柄キャラがハンナ(こむら奈々氏) 。敵方の関西弁キャラ(!)がデュシス(蝦押丈氏)。その他のキャスト陣も、あの方だったりその方だったり。ただし、キャスト表記は正確ではなく、3巻にはデュシスたちは登場しないし、代わりにソミア(ノンクレジットだが、おそらく咲ゆたか氏)たちが登場している。
  15年前の作品なので、みなさんの芝居もかなり若く、忌憚なく言えば青い。そうした中で、ジュディ役の「悠」氏はたいへん凄味があるし、深井氏と咲氏の芝居も厚みのある感情がしっかり乗った素晴らしい芝居を披露されている。この時点ですでに基本スタイルが完成されていたのか……。なんと素晴らしい。
  映像としては、駆け馬などのアニメーションもきれいに描かれているが、なんでもない会話シーンでも、引きの絵がやけにぼやけている箇所がある(映像編集上の凡ミスと思われる)。 山本氏の画風をかなり真面目に再現しているのはちょっと面白い。18禁カテゴリーだが、ベッドシーンは少ない(全体の四分の一程度)。

  ちなみに、女性キャラのバストサイズはやや大きめの方が、アダルトシーンでアニメーション表現しやすいのかなと思った。控えめだと、アニメーションで揺らす――そんなことになるのだ――のが難しくなりそうだ。18禁アニメは普段まったく観ないのでよく分からないが、全体的傾向としてはどうなっているのだろうか。

  あ、でも、この2003年のアニメの時点で、後野氏はすでに『MOON.』(2002年)のあの有名な高槻役を演じておられたわけだし、翌04年には『瀬里奈』の烏丸茂二を演じているくらいの時期なのだよなあ。声優のポテンシャルというのはつくづくよく分からない。


  琴浦さんは、特にアニメ版の外見には「和サーニャ」のような趣もあるので、別メディアで門脇氏が演じられたことがあるというのも納得できる。というか、門脇版の『琴浦さん』も聴いてみたい。アニメ版で実際に演じられたのは金元氏だが、この方はこの方で、芝居の表情の人懐っこさと言葉一音一音のきれいさと意外なクールさとが綯い交ぜになった不思議な魅力のある芝居をされている。金元氏の声色それ自体は、どことなく長妻氏を連想させるところもあり、この三人の役者さんの取り合わせは私のイメージの中では音声芝居の幸福のトライアングルを形成している。
  三角形どころか、優れた声優たちはまさに綺羅星の如くであり、一つの作品に声優たちが集まればその都度新たな星座を形成し、また次の作品では異なったキャスト陣による別様の輝きを持つコンステレーションを形作る。声優とはまさにトーンでもあり、さまざまな取り合わせの共演に応じてその都度新たなパースペクティヴにおける新たな響き合いを聴かせてくれる。


  某メーカーさん(※全年齢関係)のアカウントが凍結されてしまったのだとか……。多数の公的機関も利用している場なのに、不当性や不合理性の疑われる運用によって、多くのクリエイターさんたちも一方的かつ突然に情報発信機会を奪われたりこれまでの蓄積を消去されたり他の人々とのコミュニケーションを断絶させられたりする危険に晒されている。非利用者だから静観していたけど、もう黙っていられない、ツイッターは早く滅んでしまえと思う。そして、有益な情報を発信している方々は、どこか別の場に移ってひきつづき素晴らしい活動を続けていっていただきたい。
  とりあえず応援の気持ちで、そのメーカーさんの製品を買ってきた。


  『戦場デ』シリーズのような戦争SLGを別とすれば、
  実在艦船が多数登場するアダルトゲーム→思いつかない。『オルタ』くらいか?
  実在航空機 〃 →『群青の空を越えて』や『ひとつ屋根の、ツバサの下で』(発売予定)。
  実在陸上兵器 〃 →『セックス あ~ん♪ パンツァー』(それかよ!)
  実在の鉄道 〃 →『まいてつ』以外に何かあるだろうか。置換ものは……うーん。
  実在の自動車 〃 →『萌えろDownhill Night』(うーん……)。
  実在の銃器 〃 →わりと多いが、代表的なのは『イノセントバレット』あたりか。
  実在の二輪車 〃 →バイクだと『RUN』とか? 自転車はどうだろう。

  その他、楽器とか刀剣類とか、実在物を使っているものは、いろいろとあるにはあるけれど。また、キャラクターのネーミングに使われている場合もある。


  先日の映画の「一回性」云々のような趣味分野での頓珍漢発言にせよ、あるいは政治経済等の分野における誤った政策決定にせよ、そういうのはニュースとして拡散したり集団で吹き上がったりするよりも、発言者や担当者のフルネームをきちんと記録して後から参照できるようにする方が大事だと思う。「ああ、この人はああいう発言をした人なのね」と、その者のその後の言動を判断する材料にしたり、「このような事態を引き起こしたのはこの人のせいなのか」と、慎重かつ公正な歴史的評価の法廷に連れ出したりするために、そうした記録と蓄積と参照はきわめて有益なのだ。人の社会的発言は、常にそのような信頼性と信用度を賭けて為されるべきだ。
  ただし、もちろん、過去の発言を引き合いに出した属人的判断によってその都度の発言が判定されるべきだということではない。個別の言明は、それが正しいかどうかをその都度慎重かつ公平に検討するというのが当然の前提だ。また、一度為された過ちは永遠に埋め合わせることができず、無限に非難され続ける絶対的罪科であるというわけではない。発言が撤回されたり、誤った判断が修正されたりすれば、それに即して未来志向で対応していくべきだ。無責任な放言を戒めるためにのみ、上記のような(望まれている)慣行は作用するべきだ。

  まあ、件の「一回性」云々のあれは、非実写という一表現分野全体を偏見によって侮蔑しているという側面を別としても、それ一つで発言者および雑誌全体に対する信用度を完全にゼロに引き下げた、一発アウトの致命的な寝言だと思うけど。本気でああ考えているのなら愚かすぎるし、方便として述べたとしたら醜悪すぎる。

  担当者や制作者の名前を明記したり調査取材したりするのは、クリエイティヴな分野でも意義のあることだ。「○○の美少女化」をニュースにして情報拡散するのはいいけれど、そのイラストは誰が制作したのか、こんな可愛らしいキャラクターはどのイラストレーターが描かれたのか。そうした情報を、辿れるように、共有できるように、そして制作者当人の実績や知名度に結びつくようにしていきたい。もっとも、公的機関のマスコットキャラなど、ものによっては制作者個人の名前を出すのが難しいという場面もあるけれど。


  新作購入予約ページは非公開のままでもいいかなと思ったが、外出中にチェックする場合もあるし、「下書き」状態の項目が記事一覧に残るのも居心地が良くないし、blggrの記事管理システムがあまり信用できないこともあって、結局公開することにした。


  (→3月1月