twitterに投稿していたものから、「オタクと社会」に関わるものを適宜抽出して再掲。
【 『エクソシストを堕とせない』のマイノリティ表現 】(2022年11月、tw: 1591790899201445888)
漫画『エクソシストを堕とせない』も、やたら真面目にマイノリティや社会的抑圧の問題を取り上げていて興味深い。冒頭から児童虐待と性的トラウマネタで始めて、マッチョ魔王の差別的長広舌を「話が長い!!」と閉め出したり、母性に縛られた女性キャラが自らのアイデンティティを取り戻したり。エンタメ(ジャンプ漫画)であっても、およそ芸術表現は我々の現実社会に向けて表出されるものであり、それゆえ、現代の現実社会に存在する構造的な軋みを(意識的/無意識的に)反映しつつ、その現実的な軋みの手触りを利用した表現を投げかけていくものだ。その意味で、今後とも注目していきたい。
漫画としても、(描写がスムーズに行かないところも多少あって、特にバトルシーンは状況が把握しづらいが)きちんとした抑揚と丹念な画面構築があって、なかなか読ませる。輪郭線がくっきりと太めでデフォルメ度合いの高い画風も、個人的に好みだ。
ただし、ヴィーガンキャラについて、そうなった理由(経緯)を与えたのは、いささかアンビヴァレントではある。ある人物がある社会的属性を持つことについて、「特に理由が無くてもいい(=マジョリティと同様)」と考えることもできるのだが、しかし、そのキャラクターの個人史的背景において固有の成り行きがあったのだという形でその属性を造形することは、(一面ではマイノリティの扱いとして疑問も提起されそうだが)その描写にドラマティックな魅力が生まれるし、当該属性が物語の中で生きたアイデンティティとして取り込まれる。ルッキズムの被害なり、性的虐待なり、児童虐待なり、剥き出しの性差別と支配欲なり、母性への羈束なり、同性愛的ジレンマ(※これはまだ明示されてはいないが)なり、マイノリティ食文化への配慮なり――本作に全て登場する――を少年漫画でストレートに取り上げる意欲的な姿勢は注目に値するが。だが、そうしたものを物語上のネタとして使う際には、特有の難しさ――特別視しないようにするか、それとも物語上の特有の(特殊な)意味を持つガジェットとして描いてしまうかの選択問題――が不可避的に現れる。そういう難しさも含めて、ひきつづき見守りたい。特に、キャラがヴィーガンになった理由というのが凄惨な被害経験だったりするとね……ヴィーガン全般を不必要にスティグマタイズする描写になってしまう危険もあるわけで……でも、そのように描く方が、そのキャラクターのアイデンティティ描写としては、深刻さと迫真性が生まれるのも分かる……。また、ヴィーガンは体質やアイデンティティの問題というよりは、政治的社会的道徳的な意見形成の領域にあるので、個人的トラウマ体験に由来する非-肉食キャラにヴィーガンを名乗らせるのはいささかミスリーディングで、あんまり適切ではないようにも思う。そのあたりはちょっと危ういように思える。
いずれにしても、少年漫画(一応)の枠内でもこういった作品が出てくるのは好ましく思える。もちろん女性向けでは、こうした作品はむしろありふれているが、他分野でもこういうパースペクティヴに触れる機会が増えるのは、良いことだ。
(その一方で女性向けでも、傲慢で支配欲満々な男性キャラから自分[※女性であれ、受けの男性であれ]一人が選ばれる幸せを描くものも勿論あって、まあ、それはそれで、そういう夢が好きな人はいるだろうけど、私は苦手。)
【 総称としての「オタク」の難しさについて 】(2022年12月、tw: 1601739593178841088)
たしか、オタクと性差別に関する議論を目にした時の感想だったと思う。
「オタク」を一括りにするのを、まず止めた方がいいんじゃないかな。明らかにそれが議論の混乱を生んでいる。ある人はオタクのサブグループAを念頭に置いて議論しているが、別の人は別のサブグループBのことを考えているという状況のままだと、認識と意見のズレはどうにも埋まらない。また、「オタク」の中の多様性を看過して特定の属性を規定しようという点でも誤っている。そんなことが出来る筈が無いのに。いずれにしても、「オタク」を論じるオタクたちの間で、意見の異なる相手を無知と呼んでバカにしあう発言がたくさん発生している。そういう争乱はやめようよ……。
オタクの中には、例えば、
a) 同性愛への社会的関心を、自己の表現物の中に意識的に取り込んできた人々もいるし、
b) それを無邪気な空想のネタとして楽しんできた人々もいるし、
c) 保守的で性差別的な発言をしている人々も一定割合で存在する。
いずれか一つの側面だけで突き通す議論は、それ自体虚偽だ。概念規定や用語法を丁寧に定めることをサボると、このように議論のアリーナ全体が致命的に崩壊する場合がある。「オタク」の範囲を無意識のうちに狭く捉えてしまって反対事例の隙が出来てしまったり、過度に広く捉えてしまって強引な一般化に走ってしまったり……。a)の存在を正当に見出そうという主張(オタク諸分野は女性のクリエイティヴな活躍機会を提供してきたのは一定程度事実だ)は、c)の問題性に着目する人(たしかにそういう不幸な流れも存在している)にとっては欺瞞的と見えてしまう。だが、双方の主張は矛盾していない。「オタク」は一枚岩ではないからだ。
屡々語られる「twは議論に適さない」という主張にはあまり賛成しない(緻密なディスカッションも十分可能だと思う)が、しかし、「多数の人々がアドホックに参加するので、定義の共有が難しく、議論がブレやすい」という点は、確かにある。数日来散見されるオタク論の混乱は、その不幸な一例だ。「オタク(全体)は○○だ」と断言しあうのではなく、「オタクの中には○○な流れが存在する」と慎重に述べるべきだし、あるいは誤解の生じにくい実証的な議論を積み重ねていくとか、定義を最初に提示するところから始めるとか、とにかくそういった手順を踏むことは重要だ。異論を提起している相手について、「相手は自分とは異なった定義の下で語っているのかもしれない」と考えることも重要だ。それを乗り越えないと、「相手がバカに見える」は、ただのお互い様(単なる定義のズレで、相手からは同様に自分がバカに見えており、それは解決できないまま)になってしまう。
先程視界に入ってきたのは、「オタクは多様な性のあり方を擁護してきた」(※ここでは女性BLオタクの存在が念頭に置かれている)と、「オタクは女性を蔑視迫害してきた」(※一部の性差別的な男性オタクの存在が想定されている)の言い争い。どちらも一定程度事実だが、どちらも一面的、局所的で不十分だ。こうした認識のズレに加えて、さらに政治的考慮が加わると、「BLの存在をダシにして性差別的オタクの存在を隠蔽しようとしている」といったような捻れた反発も生まれてしまう。
女性(の一部)がぎゃくかぷに強く反発するのは、男性(の一部)がねとられネタやばーじんじゃないヒロインに強く反発するのと似たようなものだと考えれば……対象が違うだけで、そのくらい強烈に受け入れがたいと感じるフィクション上の表現やキャラ造形は、男女問わず誰でも持つ可能性がある。例えば、00年代アダルトゲームで、ばーじんではないヒロインキャラに対して理不尽なまでに風当たりが強かったことを想起すれば、男性オタクはキャラ造形に関する耐性が高いと言われても「そんなことは無いよなあ」と思ってしまう。サブキャラ同士がカップルになることにまで文句をつけるのもあったし。
男性向け(男性ユーザー)の傾向として、単体での属性嗜好や主人公(≒プレーヤー)との関係のありようが注目されがちだったのに対して、女性向けではキャラクター間の関係が注目されがちだという相違は、ひとまずあると思う。そこから、女性向けジャンルはカップリング選択という見地で、ユーザー間の嗜好の違いがどうしても可視化されやすい。しかもそれはしばしば、両立困難な選択にならざるを得ない。つまり、ユーザーの嗜好の間で不倶戴天の衝突状況になってしまいやすい。それに対して、90年代以来の男性向けが旨としてきた「キャラ単体での属性嗜好」や「主人公との(恋愛)関係」という側面では、ユーザー間の衝突は、その性質上、おそらくかなり起きにくい。そういう違いのせいも大きいんじゃないかなあ。
『楽園』系列の漫画家さんは、眼鏡度入りを描かれる方が案外多い……ような気がする。一般的には、女性向けと見做されるカテゴリーの漫画では、眼鏡段差を描くものはきわめて稀――というか、ほぼ絶無――なのだが、『楽園』系だけはそこそこ眼鏡段差を見かける。幾花氏しかり、今日買ったイトイ氏しかり。男性向け/女性向けという分類は、いよいよ無意味なものになりつつあるとはいえ、現在でもやっぱり、書店の棚の配列などでかなり明確な違いはあるのだよね……。