女性主人公の歴史もの漫画が不可避的に含む、ジェンダー格差の問題意識について。
実例としては高山しのぶ、、日之下あかめ、佐藤二葉の作品を取り上げている。
(cf. 2022年10月にtw: 1585100839492153346 で書いていたものを改稿再録)
高山しのぶ『花燭の白』(一迅社、既刊6巻)。大正時代の都市に潜む鬼と、彼の「花嫁」として特殊な契りを結んで同居する少女の物語。シチュエーションも、筋運びも、画風も、コンテと演出も、キャラ造形も、たいへん巧みで読み応えがある。1) コンテ(画面構成と演出)、2) キャラ造形の面白さ、3) 時代設定と女性キャラの社会的地位、等々について様々に考えさせられる複雑な作品だ。相互に連動する話でもあるので、順番に書いてみる。
1) コンテ(画面構成)について。
この見開き(1巻45-46頁)のようなきれいなシンメトリー構成も見られる。たいていの場合、明確な見開き一枚絵でもないかぎり、複数のページに跨がるコンテ構成まではなかなか作れない(そこまで意識し続けるのは難しい)。高山氏の、行き届いた入念繊細なコンテ作りを良く表す実例だと思う。タイトルに「花燭」というだけあって、作中の随所に花々が舞い散る(引用:2巻62頁)。萩尾望都らの70年代から存在する少女漫画特有の演出だが、本作では作品内容に則した実質的な意味も備えている。
2) キャラクター表現について。
前記引用画像からも察せられるとおり、女性主人公はかなり目力の強い風貌であり、それ自体が作品の大きな個性と魅力の一端を担っているとともに、しばしば片目隠れで描かれたりコミカルにデフォルメされたりする。このあたりの漫画的進行の手綱捌きも、読んでいて心地良い。作中でも「三白眼」と形容されているが、片目隠れで描く場合は左右どちら側でも描かれる。固定的なキャラ設定ではなく、あくまで画面演出上、性格表現上の柔軟な目隠れ描写であることが見て取れる。
主人公の少女キャラはユーモラスに崩したコマから、上目遣いの思わしげな表情、驚愕に目を瞠るカット、さらにはバトルシーン(も存在する)の凜々しいシーンまで、見事にこなしている。その一方で、ヒロインと対になる白髪赤目の鬼キャラも、妖気と繊細を併せ持った造形が良い。
3) ストーリー面について。
ストーリーについても、いろいろと考えさせられる。主人公の女性は、自らを「奉公人」(2巻149頁)と位置づけている。強大な存在に命を救われ、さらに約定によって生活全てを縛られて、自らの運命と人生の目的が決定されるというのは、一面ではいかにも女性向け漫画特有のロマンティックな影が射す……あくまで作品の一面ではあるが。
現代漫画でも、明らかに保守的なシンデレラストーリー的趣向の作品は多数リリースされている。さすがに人間男性相手では現代の作品として抵抗感が生じやすいであろうから、男性側を「鬼」や「龍」のような超自然的存在に設定して男女間支配関係を迂回したり、女性側のマゾヒズムや共依存関係として描いたりする。本作でも、たしかに「強大な力を持つ美形の男性支配者に選ばれて花嫁になる」という伝統的なモティーフが取り入れられているが、「鬼」と「花燭の花嫁(花余命)」の複雑な設定と出会いの経緯の下で、双方の間には一種の対等性、互酬性が確保されている。
明治大正という時代設定が好んで取り上げられるのも、明確な意味がある。近代化とともに「自由」「権利」「平等」「尊厳」の価値観が導入されていった、きわめて活発な時代だからだ。本作でも、女性が置かれた社会的困難とそれに対する挑戦を表現する役どころの、意志的な女性キャラクターが登場する。
さらに、男性の側でも、「犬神」の一族という、人間に対して強く忠誠を誓う従属的精神性の男性キャラクターが登場するし、鬼たちも特高警察から襲撃されたりする。このような、多面的で地に足の付いた社会性の描写は、女性向け漫画が長年に亘り開拓してきた物語的成果でもある。
3)の論点について、『花燭』以外の漫画作品も含めて、もう少し展望を広げてみたい。
女性主人公+歴史ものは、ほぼ不可避的に性差別の問題に関わることになる。その側面を触れないようにした創作も多数存在するが、それを特に前景化した作品もある。作中の社会のありようを緻密に描き出すうえでも、作劇上の要素としても、現代の女性(および男性)読者に向けた作品としても、歴史上様々な社会に存在してきた性差別的構造は、無視しがたく重要な要素となる。
例えば、日之下あかめ『エーゲ海を渡る花たち』(フレックスコミックス、単行本2019-2020年、全3巻)は、15世紀の地中海を舞台とする旅行記的作品であり、力強くも朗らかな雰囲気に満ちているが、少女2人が船旅をしつつ各地の文化や社会状況に触れていく中で、女性の行動の制約にしばしば突き当たらざるを得ない(職業的制限、女人禁制、そして父権の強さに至るまで)。
同じ作者による『河畔の街のセリーヌ』(マッグガーデン、単行本2022-2023年、全3巻)は、19世紀パリに出てきた少女の物語であり、住み込みの雇い主から依頼された市中取材という体裁で物語が進行し、針子から女中、洗濯女、俳優(女優)など、主に女性たちがこの時代のパリでどのように生活していたかを風俗小説ふうに活写している。もちろん、靴磨きや雑貨売りといった男性の職業にも触れられているが、いずれにしても、ある社会のありようを物語的に描こうとする際には、階級の問題(これも本作で描かれている)や経済的能力、職業とともに、ジェンダーに関わる扱いの問題も関わってくる。
そうした側面を前景化していくならば、佐藤二葉の『アンナ・コムネナ』(中世の東ローマ帝国の皇女)や『うたえ! エーリンナ』(古代ギリシアで詩人を目指す少女)があるし、あるいは社会構造全体をひっくり返してみせる女性主体の偽史フィクション『大奥』(よしながふみ著、全19巻)も広く読まれている。
さらに遡れば、中央アジアの様々なコミュニティに暮らす女性たちをフィーチャーした『乙嫁語り』(森薫著、既刊14巻)が、今世紀日本の歴史女性漫画のマイルストーン的存在であっただろう。そしてそれは、ルネサンス期イタリアの画家女性を主人公とする『アルテ』(大久保圭著、既刊18巻)にも見出されるし、高浜寛のいくつかの作品もそうした意識は見て取れるだろう(『扇島歳時記』など)。さらに近年の注目作『天幕のジャードゥーガル』(トマトスープ著、既刊2巻)も、同じコンテクストの下に受け止められているようである。
補足:佐藤二葉作品について(元は2021年12月に書いた。tw: 1476110981277569024)。
『アンナ・コムネナ』(星海社、既刊4巻)は、東ローマ帝国の宮廷に生きる少女(皇女)が主人公である。シチュエーションも個性的だが、物語展開もドラマティックだし、美術的にもフルカラー作画で当時のファッションを豊かに描いていて見応えがある。文化的社会的に制約された立場にある個人がそれを乗り越えようと意志的に活動していく様子は、道徳的にも物語的にも美しい。そうしたエンパワーメント・ストーリーとしての性格は、同じ著者の前作『うたえ! エーリンナ』(※性差別的な古代ギリシア社会で詩歌に生きようとする少女の物語)ではさらに明確だった。
歴史上の差別的文化構造の問題は、明快なメッセージであるとともに、作中の個人のドラマを展開させる梃子としても巧みに取り込まれている。古代ギリシア文化の服飾文化や食文化、芸術観、婚姻文化や(同)性愛文化などに関する知識が作中にうまく溶け込んで活用されているのと同様に。モノクロ漫画『エーリンナ』には児童書めいた率直な味わいもあったが、『アンナ・コムネナ』は政治劇の側面が前景化しており(例えば皇位継承問題)、それとともに紙面上も明暗のコントラストの強いブリリアントなカラー漫画になっている。
いずれにせよ、「女性の地位の物語」「歴史漫画」「文芸をアイデンティティとする個人のドラマ(つまり一種のクリエイターもの漫画)」と、非常に多面的な要素がきれいにまとまっている。個人的には、優しいユーモア感覚もたいへん好み。
もちろん、その一方で、「転生した世界で家事をしていたら美形の騎士団長に惚れられた」というシンデレラストーリーの漫画が楽しまれてもよいだろう。それは、男性向けジャンルで「家出の美少女が転がり込んできて、冴えない独身男性主人公とイチャイチャする」というご都合主義の作品が楽しまれるのと同じ地平の話だ。
いずれにせよ、物語作品が一つの(架空の/現実の歴史上の)社会と生活を描こうとするとき、その社会構造の中には様々な差別や身分格差が含まれるであろうし、それはリアリティの問題としても作劇上のガジェットとしても意味を持つし、そして、とりわけ女性向け(または女性読者寄り)の歴史系ジャンルは、そうした社会性表現に対して正面から向き合う最前線の一つであり続けてきた。エンタメであれ、シリアスであれ、一読者としてはそうした側面もきちんと掬い上げて受け止めていきたい。