2023/08/22

余計な話いろいろ(twitterで書いていたこと)、その2

 2022年頃にtwitterでいろいろ書いていたことを、適宜抽出してこちらに再掲する。



 【 『スーパーマン・スマッシュ・ザ・クラン』 】(2022年10月、tw: 1583025481724882946)
 『スーパーマン・スマッシュ・ザ・クラン』は、中国系移民の少女が主人公で、差別的なクラン(≒KKK)から襲撃されるのをスーパーマンが助けるという筋書き(だったと思う)。その一方でスーパーマン自身も、地球来訪以前の失われた記憶が断片的に戻ってきて、アイデンティティ危機に苦悩している。物語のクライマックスでは、初めて空を飛んで悪役を打ち倒したスーパーマンが――出自を完全に思い出して――、人々の驚きの声に応えて告白する、「この国のヒーローである私も、実は(宇宙からの)移民なのです。移民でも受け入れられるのです。移民かどうかに拘わらず、この国の立派な市民になれるのです」と(※大意)。移民差別という現実の問題を正面から扱いつつ、それをスーパーマン自身の設定と深く絡めて、さらに中国系少女の描写とのデリケートな二重写しも行いながら、最終的には米国の市民精神の発露として落とし込むというもので、非常にテクニカルな構成でもあり、そしてたいへん感動的な作品だった。
 こんなふうにアメコミは(アメコミも)社会問題を取り上げつつ美しく力強い物語を紡いでいるのだという体験ができた、思い出深い一冊(※細部はあまり憶えていないので間違いがあるかもしれないけど)。ちなみに、作画はグリヒル氏なので、日本のオタクにも取っつきやすいkawaii寄りの絵柄。

 創作物の表現は、政治的にニュートラルな中空の虚構に徹することもできようが、そもそも表現行為がそれ自体、他者に向けて表出する社会的な営みである以上、書き手と受け手の双方を含む社会的環境とその認識を踏まえたものになることも、けっして否定できない。移民問題のような現実の深刻な問題をエンタメのカタルシスのネタにしてよいのかという問についても、「創作物の意味認識は受け手の現実的-社会的な価値認識と大きく関わる」「エンタメとシリアスは区別しきれるものではない」のだから、忌避するものではあるまい。現実に対する真摯な問題意識をベースにしつつフィクションの形で芸術的に昇華するのは、古代ギリシアからずっとやってきたことだし、現代日本のオタク創作にもそうしたものはいくつも存在する。
 もっとも、辛気臭いお説教漫画や軍国美談のようなプロパガンダアートも存在してしまう余地はあるわけで、そこは個別的判断として批判したりしなかったりしていけば良いと思う。

 米国の普通の読者が、「スーパーマンも移民だ」という見方を、どのように感じているのかは知らない。「うん、もちろんそうだよね」なのか、「そういえばそうだね」なのか……。10歳かそこらでこの「スーパーマン」を読む若年読者に対しても、いろいろな(良い)影響はあると思う。



 【 異世界ものジャンルに関する雑感 】(2022年10月、tw: 1584159858559184897 )
異世界に転生/転移する前の人生(人間関係等)が物語展開に深く影響する作品はあまり見かけないが、どういうアプローチの作品があるのだろうか。大抵の作品は、現代人のアイデンティティと現代文明の知識と最初の動機付けを抽出するため、ほぼそれだけのための道具立てのようだが。異世界へは片道切符ばかりで、戻ったり連絡を取り合ったりすることは出来ないようだし、主人公についても現代人時代の個性は物語初発の動機付けを提供する程度で、現代人時代の人生の悩みなどをきれいに切り離したクールな作品が多い……ように見える。作品数が多すぎてとても把握できないが。せっかく転移という刺激的なガジェットを挟んでいるのだから、前世との関わりをドラマに深く組み込んだ作品も、あれば読んでみたい。最初に連想したのは、『漂流教室』で未来世界-現代世界の間で連絡を取り合ったくだりだが、それに近い仕掛けは使われていないだろうか。

 私が読んだ中では、聖女として2人の姉妹が一緒に召喚されてしまい、いじめっ子の姉が聖女かと思いきや、継子の妹(主人公)の方が聖女の力を持っていて、それで姉妹関係が難しくなるというものがあった。現代世界側の人間関係が異世界サイドにも影響(継続)している実例。
 異世界の魔王が、実は主人公に先行して転移していた知人だったという設定(が明らかになっていく)作品は、管見の範囲でも複数存在する。これまた、複数人の転移/転生だが。どちらかと言えば、二昔前のヴァーチャル世界もので好んで使われていた発想かな。
 あるいは、現代人の青年とその先祖の武士の2人が、一人の精神の中に同時に転移(憑依)しているという作品もある。一部しか読んでいないが、現実世界サイドの社会関係(血縁)が異世界にも実質的な影響を及ぼしている例と言えそうだ。
 主人公が現代世界と異世界を往復する(※よく分からないタイミングで現代に戻ることがある)という二重生活スタイルの作品もある。しかしこれは、かなり珍しいパターンだろう。
 複数人での転生/転移は一つの典型かと思われるが、主人公一人だけとなると物語に組み込みにくいのかもしれない。現代人時代のトラウマを掘り返されてもつまらないだろうし、「現代人時代の何かしらに再挑戦する」というのでも、現代(回想)との往復説明を本格的に展開するのは大変だろうし。『スーパーマン』のような、元の記憶(前世=現代人としての記憶)が次第に戻ってきてアイデンティティに苦しむというアプローチは、異世界ものにも応用が利きそうだが、うーん、どうなんだろうか。「掲示板もの」と呼ばれる、相互交流システムを導入している作品群もあるようだが、読んだことが無いのでよく分からない。

 異世界ものは、シェアされているテーマや流行がその都度存在して、それに対する解決法も様々に試みられては、良いものが取捨選択されて「異世界もの」全体の枠組を一歩進められて、ダイナミックな集団的改良が続けられてきた共同体だと思うのだが、歴史的な見通しを得るのが非常に難しい。例えば「2014年頃には○○のアイデアが広まって、それは2015年のうちには作品『××』が決定的な解決を提示し、2015年末にはそこから派生した△△に注目が集まり……」といったようなトピック的年表整理は、誰かが取り組んでいるかもしれない。すごく大変だと思うけど……。
 20世紀までの美術史や音楽史や文学史はクリエイターの数も限られていたが、現代は概括的な歴史叙述が困難なほどに大量化、多様化している。異世界もの小説は、ある程度集約的なサロン(サーヴィス)の存在が可視化されてきただけ、まだましかもしれない。
 オタク系イラストも、彩色や構図の流行を把握するのは、今のところなんとか可能かと思われるが、それでも人によって見えている風景が大きく異なるだろう。21世紀を扱う後世の歴史家はきっと大変に違いない。

 2010年前後のライトノヴェルには、実験小説めいた挑戦的な風土があったが(『僕の妹は漢字が読める』とか)、10年代前半のうちに商業出版レベルでは異世界ものが大量進出して、10年代半ば頃からそれらの漫画化が増加し、そして10年代末以降はアニメ化されていく……という感じだろうか。
 よく言われることだが、アニメ化は1~2年も掛けて企画&制作を進めていくので、最先端の流行からは数歩遅れて出てくることが多い。ただし、メジャー&カジュアル層にもネタが普及した頃合いに放映されるわけで、その意味ではその「遅れ」は好都合な側面もあるのかもしれない。近年の異世界ものも。

 90年代の『YU-NO』や『痕』、key、prismaticallizationの頃から、00年代の『腐り姫』『3days』『マブラヴ』あたりまで、PCゲーム文化にも転生/転移ものの大きな流れが確かに存在したのだが、それが00年代末以降にどのようにつながっているかは、よく分からない。人的にはいくらかつながりがあるが、どこまで影響を及ぼしてきたかは評価が難しい。
 00年代前半までは比較的小さな作品規模だったため(制作期間もまだ半年~9ヵ月程度)、制作者(フラグ管理)にもプレイヤー(反復プレイ)にも負担を強いるループものも、まだ耐えられたのだろう。『腐り姫』(2002)や『3days』(2004)あたりがたぶん限界点。そして、巨大化した『マブラヴ オルタ』(2006)のは、特有のゲームシステム的な仕掛けを伴ったノヴェル型AVGに、いったん終止符を打ってしまったように思える(※事実上の一本道進行)。その後は、ゆずソフトやWhirlpoolに主導されて、「読み物」路線に徹底されたAVGは、テキスト規模も拡大しつつ、進行制御は簡素化していく。
 プレイヤーサイドとしても、スキップで流すのも大変なほどの長大なAVGでは、選択肢を一々試していくことがほぼ不可能になる。作品規模増大要求と、システム簡素化と、AVG/SLG分断と、社内プログラマ減少傾向が、00年代半ばに、おそらくほぼ同時に起きた。良いのか悪いのか……。
 人的には、00年代末からアダルトゲーム界隈の人材がノヴェルやアニメ分野に流れていき、そこで新たに活躍する姿が見られるようになった。最近の異世界ものでも、丘野(寺岡)氏や内藤氏などの小説が、漫画化されたりアニメ化されたりしている。遡ればヤマグチ氏の『ゼロの使い魔』も異世界ものだ。



 【 アニメ版『あずまんが大王』の思い出 】(2022年10月、tw: 1586315299476762624)
 アニメ版『あずまんが大王』は、春日歩役の松岡由貴氏がものすごく内面造形を掘り下げた芝居をされていて、「ああ、このキャラは『何も考えていない天然キャラ』じゃなくて、『独自の内面世界を確立しているキャラ』なんだ!」と感動した憶えがある。原作(漫画版)をごく普通に読めば、「周囲とペースの異なる子」くらいの感じになると思うのだけど、アニメ版の春日歩は、彼女なりに内面の真剣な思考を、本当に真摯に真率に展開しているキャラクターだった(そういう音声芝居を私は聴きとった)。衝撃的な音声体験。
 松岡由貴氏は、『あずまんが大王』(2002)の翌年の『スクラップド・プリンセス』では勇壮な王女キャラを演じたり、かと思えば『エルフェン・リート』(2004)では悲劇的な役回りのキャラクターを見事に演じきったりと、その時期の活躍が特に印象深い。
 余談ながら『エルフェンリート』は松岡氏とともに萩原えみこ氏も出演されていて、これまた誠実にキャラクター造形を掘り下げた芝居をされていた(悲しい目に遭ってきた幼い少女役なだけに尚更痛々しかった)。この作品は神戸守監督の映像表現も素晴らしいが、音声表現の次元においても00年代前半屈指の傑作だったと思う。



 【 架空銃器のモデルガン 】(2022年11月、tw: 1588171736574328833)
『エイリアン2』に登場する架空銃器「M41A」が、モデルガンとして市販されているのを知った。現在も入手可能(4万円程度)のようで、憧れのSF銃器を買えてしまうことに狼狽えているけれど、それと同時に、買っても間違いなく持て余すという躊躇いもある。持て余すというのもアンビヴァレントな話で、買ったとしても一人自宅でこれを構えて「Let's rooock!!!」と(小さく)叫びながら体をガクガクさせてエイリアンズに乱射する気分になるくらいしかできないが、裏を返せば操作性や破損の心配は要らない(扱えなくてもどうせ困らない)とも言える。
 最大の問題は「安全に買えるか」かもしれない。モデルガン分野はまったく分からないので、海外ものを安全に(つまり法令上の問題と詐欺の危険性の両方をクリアして)購入できるかどうかに不安がある。
 実在する銃(のモデルガン)は、それがまさに現実に使用されている――つまり現実の人間を殺傷している――という一事からして不可避的に厭わしさ、禍々しさ、悲しさにつきまとわれている(と感じる)が、SF架空銃であればそういう考慮無しに、純然たるフィクションとして楽しめるだろう。



 【 イベントに声優が出演できなくなった時 】(2022年11月、tw: 1587739634846797824)
 「イベント(パフォーマンス)の性質」や「声優とキャラの結びつき度合い」、「病状等で出来ない事柄の範囲」によるところはあるだろうけど、車椅子で出演とかは出来ないのだろうか……。そうしたあり方を受け入れる方が、懐の広い社会(ファン)だと思うけれど……。ステージに立つことが困難な場合でも、「車椅子で出演」、「脇で立っていて、歌唱だけは参加」、「振り付けは代役のダンサーを立てて、歌だけは元の声優が歌う」といった形で役を続けることも――イベントの性質やファンの許容度次第で――あり得そうに思えるけど……どうなんだろうね。
 長期に及ぶ傷病の場合でも、あるいは比較的短期間の怪我等によるダンス不可の場合でも、やむを得ない事情が存在するのであれば、車椅子出演や松葉杖ステージもあり得てよいだろう。そうすれば、同一声優の継続性も確保できる。
 もちろん、棒立ちでも歌うことすら困難ということもあり得るし、そうした場合にまで出演を強いることになってはいけないが。いずれにせよ、「声優当人に責のないことで仕事を失うという不幸が、極力生じない関係」「怪我をした人や病気を持っている人が、不利にならない社会」であってほしい。たまたま今回そういう事態になった声優さんに限らない。それ以外の声優さん(のファン)にとっても、同じことが起きる可能性はあるのだし、その意味でも、できるかぎり緩く認めあうのが良いと思う。

 声優=キャラの同一性を重視する人や、当該声優のファンであれば、「万全のダンスパフォーマンスでなくてもいいから、引き続きその声優さんの参加(出演・演技)を続けてほしい」と声を上げることを考えてもよいのではないかなあ。
 その一方で、「声優=キャラ」の同一性を重視しないという姿勢もあり得る(※アニメ化での声優変更を含め、私自身は原則的にこちらの立場)。そうした場合は、当初予定されていたパフォーマンスを実現できなくなった場合には、交替して構わないという考え方も採りうる。
 キャラクターと声優の間の本質主義的な結びつきを主張(要求)するのは、芸術(舞台芸術)に関する一般論としては賛同できない。しかし、特定の分野、特定の作品(のメディアミックス共同体)が、そうしたアイデンティティの連続性を含む文化を形成することを否定(批判)するつもりは無い。
 また、役者が置かれる労働慣習、役者の望ましい労働待遇という観点では、「いったん引き受けた役は、余程のことが無いかぎり継続できる(一時的な怪我くらいでは失われない)という暗黙の保障がある」という方が、俳優(声優)の職業的な安定性に寄与する……かもしれない。



 【 『第七王子』アニメ化の報に際して 】(2022年11月、tw: 1588691155264606211)
 『第七王子』は、ティザーPVを見るかぎりでは、原作挿絵版ではなく石沢庸介氏の漫画版に準拠しているように見える(※絵柄だけでなく、個々のカットや表情も、明らかに漫画版を再現しまくっている)。漫画版は原作から大きくアレンジしているし、第2の原作と言ってもいいくらいじゃないかな。
 『剣でした』も、漫画版の具体的な描写からいろいろ取り込んでいるし、こういった場合には漫画版作者の寄与も非常に大きいわけだから、アニメ版でももっと大きくクレジットされてよいのではないかなあ。『剣でした』アニメ版では、漫画版の作者は「キャラクター原案協力」とクレジットされているだけ。漫画版の台詞からもいろいろアニメ台本に取り込まれているし、そうした貢献も正当に評価されてほしい(有り体に言えば、もっと報われてほしい、経済的にも)。

 石沢氏の漫画版は、とにかく魔術の視覚的表現がイマジネーション豊かに展開されていて見応えがある。例えば火属性+水属性の複合魔術も、複数の魔術が組み合わさるプロセスを説得力のある形で見せているし、魔術発動に至るエフェクトも巧緻に描き込まれている。ストーリー面でも、サブキャラを掘り下げまくったり、漫画版独自の中ボスキャラを大量増産したりして、「大筋は原作小説をなぞっているが、中身はほぼ別物」というくらいになっている。石沢氏の創造性は素晴らしいし、原作者も懐が広いなと思う。
 漫画版の石沢(こくざわ)庸介氏は、『超人学園』が最も著名と思われるが、『星と旅する』は冒険のロマンティシズムとペンタッチの繊細なフェティシズムの絡み合いが魅力的だし、『忍のBAN』は派手な忍術(異能)バトルものの中に愛らしいショタ描写がさらりと入っていたりして、それぞれに面白い。
 主演の小市氏は、聴いたことが全然無いので分からないが、出演歴を見るかぎりでは少年キャラやボーイッシュヒロインも演じているようなので、まあ、適任なのかな。PVの台詞では、ちょっと上擦ったような感じが気になる(※このキャラは基本的には、落ち着きのある性格なので……特に原作版では)。
 というわけで、アニメ版がどうなるかは分からないが、これを機に漫画版に、というか石沢氏に、もっと注目が集まってくれたらと願う。