2025/05/02

アニメ雑話(2025年5月)

2025年5月の新作アニメ感想。作品タイトル五十音順で、それぞれ話数順(昇順)。


●オリジナルアニメ『アポカリプスホテル』
 第4話はタヌキ娘との遠出。ホテル外の荒廃した風景は、廃墟と砂漠のコンボで衝撃的だし、人間だけがいないがそれ以外の生物は自由に闊歩しているという情景もインパクトが大きい。ストーリー面では、食べる/食べられるのコントラストを描いて生命の価値や自然の生存競争への思索を誘うし、SF的設定の一方でユーモラスな描写も満載するというしたたかさもある。映像面でも奥行きのあるコンテは臨場感があって素晴らしい。
 今回の脚本は和田崇太郎氏。舞台系のクリエイターで、役者/脚本/監督に多彩なキャリアがある。コンテは春藤監督によるもの。
 主演の白砂沙帆氏も、アンドロイドキャラ特有の張り詰めた芝居を見事にこなしている。ぎりぎりまで機械的なテンポを維持しつつ、最低限ほんのわずかな悲しみやユーモアの情緒を滲ませているのが実に良い。今期では『勘違い』のギルド店員「キルシェル」役でも、ツヤと活力のある芝居を披露されていた。

 第5話は酒造回。なにやらソフトハウスキャラのSLGのようになってきたが、長大な年月を過ごすことのできるSF設定ならではのロマンでもある。思い出を力にして創造性を発揮していく有様は、美しくも苦みを滲ませている。設定面では、宇宙共通言語も取り入れている。
 脚本は今回も和田氏。もちろん脚本家やシリーズ構成担当者がストーリーの全てを専断しているわけではないが(※様々な協議の下でプロットを作るものだし、脚本がいったん上がった後でもコンテなどの段階で変更/修正されることは少なくないようだ)、筋書きや台詞に関してひとまず責任を負っている担当者ではあるし、各話の言語表現レベルの功績は脚本家に帰せられてよい。
 エクストラスキル開放は、1) エンタメ作品としてのユーモラスな遊戯的要素でもあり、2) アンドロイド主人公にとっての成長要素でもある。すなわち、ホテルに残されたロボットたちは、ただひたすら耐用年数を超えて機能停止していくだけではなく、積極的な変化を持つこともできるのだという(いささか皮肉な)希望でもある。そしてさらには、3) 設計者からの遠い年月を超えたプレゼント――言い換えれば人類の意志と精神文化(の残滓)がまだそこに息づいていることの証――でもあるだろう。
 今回の酒造でたぶん50年かそこら、ひょっとしたら100年以上が経過していそうだが、物語は言葉で明言することなく、スマートにやり過ごしている。タヌキ星人たちの寿命は分からないけど……。
 竹本泉氏のキャラデザで、一見ほのぼのとしていながらSF的-科学的には芯がしっかりしているというのは、SFのオーソドックスな路線の一つで、『まほろまてぃっく』とか『ヨコハマ買い出し紀行』とか、あるいはあさりよしとお氏をちょっと思い出させる。

 第6話は、宇宙じゅうの文明を滅ぼして回っているカンガルー型宇宙人「ハルマゲ」の来訪(いわば巨神兵のような存在)。OPを短縮版にしてこの回の特別さを予告し、中盤ではアメコミパロディ風の進行も取り入れつつ、EDには独自の挿入歌を入れるという凝りようで、二十数分を一気に駆け抜けた。
 絵コンテは『ダンタリアンの書架』『ネガポジアングラー』の上村泰氏。春藤監督とは『ダンタリアン』『~戦記』で共同作業の経験があるが、まさかここで来てくれるとは。縦横のパンニングもきれい。脚本は再び村越氏。「忙しくねえところ失礼するぜ」や、「それでしたら、すでに滅んでいます」、「私のことは壊さないで下さいね」といった個性的な言語表現がとても楽しい。
 そしてSF。台詞でも言及されている「虚しさ」。まったく別種の行動原理を持つ存在の不気味さ。文明の意味や人類の存亡に関する相対的-多元的な視点。こういう味わいを与えてくれるのが、古典SFに棹さした本格派のスタイルだ。
 設定面では、人類が地球を離れてから、この時点で約400年が経過しているとのこと。タヌキ星人たちもすでに100年は居住しているらしい。タヌキたちは今後もレギュラー登場していくのだろう。

 第7話。不穏なスタートから、『王立宇宙軍』風のロケット打ち上げ、そして最後にとんでもない状況で次回への引きとは、やりやがった!
 絵コンテは『放課後のプレアデス』の佐伯昭志氏。旧ガイナックス系の名匠の一人だが、まさか本作にも参加してくれるとは。佐伯氏は『ストライクウィッチーズ』2期6話の有名なロケット打ち上げ回も担当されていたので、まさにこの回は適任と言える。
 タヌキ星人たちの寿命は、いったい何百年あるのだろうか。ストーリー展開とSF描写の兼ね合いで、かれらが成長(老化)しないままなのはやむを得ないのだろうけど。

 第8話。ホテルの武装状態に主人公の履帯下半身と、装いが劇変しており、時代も西暦(?)2345年プラス50年になった。今回の反抗期バトルはカメラをぶん回しまくった大迫力の映像。いったいどこまで行くのか、どうなってしまうのか……。いずれにしても、ユーモラスSFとしての基本路線はずっと維持されているので大丈夫だろう(※次回でいきなり30年くらい経過して人型下半身を再開発していても驚かない)。脚本はメインの村越氏。絵コンテは藤原準氏(※検索してもよく分からない。誰かの別名義?)。
 再視聴していて、「もしかして『グレンラガン』や『キルラキル』みたいなのをやりたかったのかな?」と思った。本作のスタッフが直接関わっていたわけではないが、旧GAINAX系ということで馴染みはあるだろう。

 本作の時間経過はよく分からない。

話数内容
12157年4月12日」から始まる。「代理経営36475日目」、つまり約100年。おそらくオーナーの不在≒人類の地球脱出からの年数とほぼ同義であろう。つまり、人類脱出は2157-100=2057年頃と考えられる。なお、ヤチヨが自分でドアを開けると言うのは4682回目。
22157年。第1話の続き。サボテン型宇宙人来訪。「100年ぶりのお客様」というが、正確な数字なのかは不明。文字通りの意味ならば、人類脱出からほぼ100年ということになり、第1話とも整合する。環境チェックロボも、100年ほど稼動してきたようだ。
32207年頃? ポン子たちが来訪。前回から「もうすぐ50年」経過している。代理経営55278日目、つまり約151年経過しているという台詞と照らし合わせても、時間経過はだいたい符合する(※実際には50年以上になっている筈だが、このズレが何を意味するのかは不明)。ポン子はこの時点で54歳。
4ヌデル釣り。毎日の同じ食事に飽きはじめるくらいなので、第3話からそれほど時間が経っていないと思われる。なお、この回の脚本は、メインの村越氏ではなく和田氏の担当(※次の第5話と第7話も和田氏)。
5時期不明。触手型宇宙人カップル来訪。作中での時間経過が大きく、ウイスキー製造に百年ほど掛かっている筈で、さらに最後には熟成15年もののウイスキーを出している。計画段階では「百年ほどお待ちになれば」完成すると述べていたが、実際にどのくらい掛かったかは不明。
6ハルマゲ来訪。タヌキ星人たちが「約100年間、本当にお世話になりました」と言って退去するので、額面通りに受け取るならば2307年頃になる。しかしその一方でヤチヨは人類の帰還を「約400年前」から待っているとのことで、この台詞によれば2457年あたりになってしまう。両者は矛盾するし、さらに本作の他の回とも整合しない。かなり不可解。
7時期不明。作中では、ロケット製造に70年が経過。前話の2307年から単純加算すれば、ロケット打ち上げは早くとも2377年以降のことになるが、それだと次回との兼ね合いでもいろいろとおかしい。
8開始時点で「2345年4月12日」。ポン子の体格が大きく成長している(※第3話ベースで計算すると、この時点で192歳)。「代理の代理の代理運営7295日目」(=約20年)は、ヤチヨ打ち上げからの日数だろうか。そこからさらに、戻ってきたヤチヨが意識を回復するまで「50年くらい」とのことだから、ヤチヨが暴れたのは2345+50=2395年頃になる。また、逆算すればロケット打ち上げは2345-20=2325年頃になり、ロケット計画の着手は2325-70=2255年頃の筈だが、これも他の話数との整合性がとれない。ポン子たちの来訪からすぐに「ウイスキー製造」と「ロケット製造」を並行して始めたと考えれば一応辻褄は合うが、かなり強引な解釈になる。
9時期不明。この回でヤチヨの身体が修理復旧され、またその一方でタヌキ祖母ムジナが逝去するので、前回からそれほど経っていないかと思われる。数年、あるいはせいぜい十年程度か? ただし、次回の内容に引き付けて解釈るなら、もっと長い時間経過である可能性もある。
10ポン子来訪から「527年と75日」とのこと。第3話ベースで計算するなら2734年頃ということになる。
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●『ある魔女が死ぬまで』
 第5話は濁川監督のコンテによる力作回。ケモケモしたモブ通行人もたっぷり描かれているし、市内追跡劇のアクションシーンもたいへん気持ち良くダイナミックに描かれている(※ただし、会話シーンで顔アップのカットが多いのは相変わらずだが、許容範囲内)。主人公が主体的に行動して活躍するし、「魔法で人を幸せにする」という主題を正面から扱って一貫した話にしている。こういうクオリティを維持してくれたら良いのだが……。

 第6話。シンプルな改心の物語を、効果的な画面演出と誠実な芝居によって掬い上げている。使い魔まできちんとコンテに組み込んで演出できている回は、全体の出来も良い(※今回は浜崎賢一氏と石山タカ明氏の連名)。
 今回登場のサブキャラ「レイチェル」役は中原麻衣氏。最後に出てきた黒衣の魔女が「エルドラ」で、こちらは日笠氏。

 第7話は魔法使い集会だが、主人公自身は二つ名を子供たちに誇示してふんぞり返ったり、種﨑ヴォイスの小柄魔女と食べ歩きしたりしただけ。相変わらずとんでもない口の悪さなのはキャラ付けだとしても、「マ○ゴミ」台詞はさすがに蔑視ワードでNGじゃないかな……。
 魔法の映像演出はきれいだし、顔芸カットもぎりぎり下品になりすぎない(?)範囲でストーリー進行に沿っている。ストーリーは、原作/漫画版からかなり組み替えていそうな雰囲気だが、そちらはチェックしていない。そういう対照表を誰か作ってくれたらありがたいのだが。
 魔法使いの協会長は一条和矢氏が演じている。座組はとても贅沢。

 第8話は悪魔との対決。今回のゲストキャラを演じているのは諸星すみれ氏と大原さやか氏。諸星氏は今期『アポカリプスホテル』のタヌキ少女でもレギュラー出演されている。夫役の芝居は好みに合わなかった。
 今回は暗めの話で、劇伴も風変わりな雰囲気になっている。映像面では、暗転の場面転換がやや目立つが、縦パン(ティルト)もきれいだし、キャラのモーションも良い。絵コンテは近藤佐志美氏……サシミ? 他に実績が見当たらないので、誰かの仮名義(捨て名義)っぽい。
 これまで1話完結型で各エピソードをきれいにまとめているのは上手い。原作小説とは、物語の尺もずいぶん違うだろうに……。しかし、どうやって12話を締め括るかは難しそう。おそらく、原作どおりに「呪い」の話を描ききるのは困難だろうし、かといって死の宣告をナアナアにしたままで終わらせるわけにもいかない。2期までやっても無理だろうし……。

 そろそろ終盤の第9話は、ダークな要素と儚い美しさを絡み合わせた秀作回で、これまでの話数も回顧しつつ、将来へつながる展望を示唆している。さすがに今回のようなシリアス回では、主人公の口の悪さもなりを潜めている。



●『鬼人幻燈抄』
 第5話は、ひきつづき嘉永6年のエピソード。上田燿司氏の演じる好人物たちの優しい魅力が微笑ましい。三浦直次役の山下誠一郎氏は、今期の『小市民シリーズ』にもレギュラー出演されている(氷谷優人役)。ストーリー面では、主人公が三浦と出会って相談を始めるところまでで1話を使い切るという、贅沢なんだか鷹揚なんだか分からないのんびりしたペースだが、影の濃い画面作りで湿度高めなのが良い感じ。

 第6話は、主要登場人物を絞り込みつつ、幻想的なエピソードを締め括った。その一方で大火の無惨な風景や異空間の妖しい雰囲気も、美しいレイアウトで描かれている。コンテは小林一三氏(4話~6話を連続担当)。歴史上の人物に掛けた捨て名義というわけではなく、この名前で長く仕事をしているアニメーターのようだ。

 第7話は、さらに嘉永6年の一話完結(?)エピソード。鬼と戦うこともなく、そろそろ最初の動機付けを忘れつつあるが、ひたすら夜の屋内での会話劇を延々続けているのに引き込まれるのは、脚本の緊張感と、役者の芝居、そして行燈にじんわりと照らされた空気の心地良さもある。絵コンテは小川優樹氏。監督した作品も多いクリエイターさんのようだ。ただし、作画には微妙な崩れが見えつつある。中割がきれいにつながらず歪んでいたり、静止画カットでも顔のバランスがちょっと不可解だったり。
 おそらく鬼である「名無し」がスルーされているが、後のエピソードで取り上げられるのだろうか。

 第8話は、嘉永7年。ヒロイン二人でキャッキャしているシーンもあるが、物語は陰鬱さを増してきた。ホオズキ越しのレイアウトや背景雑踏のモブ密度など、江戸時代もののアニメとしても抜群に良い。冒頭のズームアウトカメラも何やら時代がかっていて、現代アニメとしてはちょっと珍しい演出かも。刀を鞘に収める所作なども、細やかにアニメーションされている。キャスト面では、生天目仁美氏(夜鷹役)も出演。

 第9話「花宵簪(後編)」は、秋津としばらく交戦してから、奈津と会話しているだけであっという間に終わってしまった。相変わらず、夜の江戸市街の雰囲気は抜群に良いが、バトルシーンは今一つだし、関西弁の軽薄キャラというのもステレオタイプ的で苦手。
 そして最後に現代(平成21年)の状況を描写する。……いきなり現代編に移行するのか? ヒロイン(羊宮氏)の母親は小清水氏。『通販』の王妃王女コンビと同じなのがちょっと微笑ましい。精密にして繊細、濃厚にして自然な芝居はさすがの小清水氏で、羊宮氏の鋭敏に揺れ動く芝居ぶりと好対照。エンディング(歌)がロングヴァージョンなのは、これで物語が一区切りだからなのか? それとも尺調整なのだろうか。内容面では、簪を巡る「思いが遠いところに帰りつく」という述懐を、時代を超えた甚太神社と結びつけるというのは、筋が通っている。
 主人公役の八代拓氏は、控えめながら芯のある芝居。奈津役は未熟すぎ。



●『九龍ジェネリックロマンス』
 第5話は、どんどん調子が上がってきた。登場人物たちのアイデンティティの揺らぎを巡る幻想物語が、九龍という街の幻影と結びつけられた。キャラクターの外見が一瞬で切り替わって別人になる演出も、確かに漫画よりもアニメ媒体の方が鮮やかな効果を生む。キャラクターの表情表現も実に良いし、人々が行き交う雑踏の描写や巨大構造物の背景美術も迫力を増してきた。
 最初の第1~2話はかなりダルい演出で、物語進行もスローペースだったのが惜しまれるが、期待してついていて良かった。
 主人公が30歳超えなのに、やけにウブでオボコい表情を見せるのが面白い。老獪老練な「鯨井B」との対比のせいもあるし、実際に人生経験が短い(?)せいでもあるだろうけど、意図的にこうした表情を描いている筈で、そういうところは上手いと思う。もっとも、それだけにいよいよもって第1話のエロショットが浮いているのだが。
 まるでマジックリアリズムのような表現世界だという捉え方も、確かに説得力がある。とはいえ、本作では高度な科学技術(と風水の共鳴)が魔術的幻影を作り出しており、しかもそれを引き起こしている明確な黒幕(?)が存在するという特徴がある。

 第6話は、この幻の九龍城塞について、各キャラクターの視点で掘り下げる。とはいえ、台詞は説明的で、映像もあまり面白くない。あくまで説明回として捉えておこう。

 第7話は、九龍の虚構性がいよいよクローズアップされてきた。演出はこれまでどおりオーソドックスだが、シチュエーションそのものに大きく魅力がある。初期話数からいかにもレトロな90年代テイストだったのも十分な意味を持つことが改めて実感される。

 第8話は、楊明が九龍の外に出て調査を試みる一方で、鯨井たちは結ばれるという大きな変化が生じた(が、九龍の謎そのものにはまだ進展が無い)。今回は珍しいことに、可愛いデフォルメ絵が頻出し、さらにCパートの引きは無し(絵コンテの二瓶勇一氏は、この回が初めて)。
 作画と演出はオーソドックスで、衝撃を受けたシーンの斜めカメラや、街中雑踏の密度など、必要なものは十分に表現されている。



●『小市民シリーズ』2期
 第15話は、クライマックスが近付いて映像の緊張感も高まってきた。絵コンテは川畑喬氏で、奥行きのあるレイアウトや、窓枠越しのもどかしげな画面を使いこなしている。
 とはいえ、仲丸との一連の関係描写はあまりにも浅薄で、ただ小鳩君にその場しのぎのパートナーを宛がうだけで終わっていたし、小鳩君の異常さの描写もこれまでの展開からすると説得力を欠く。こういうところは、あまり上手くない(※原作そのものの問題だが)。

 第16話は、解決編(の第一段階)。夜の公園での会話劇で、小佐内が後輩君を陰湿に追い詰める。内心ではきっと大喜びだったのだろう。Great party, isn't it? デリケートさが求められる悪役芝居を羊宮妃那氏が見事に演じている。キャラ造形としては、このキャラをあまりにも傲慢で加害的なラスボスとして描きすぎだと感じるけれど、結局あれが本性なんだよね。
 それにしても、小佐内に「新刊を代わりに買ってきてもらえるような友人」がいたのは驚きだった。脅して買ってこさせたんじゃないの。
 絵コンテは武内宣之氏で、上下遠近のコントラストを意識したレイアウトや、鉄柵の遮蔽感を利用した演出、左右の均衡を外したカメラワークが、きれいにハマっている。視覚的にも、公園灯の鈍い光だけに照らされる難しいシチュエーションを、リアリスティックかつミステリアスに描き出している。
 ただし、ミステリというにはあまりにも雑な設定を展開している。犯人を誤認させるミスリード(金槌や領収書の件)もかなりチープで、ミステリとは呼べない水準だろう。あくまで小佐内が「何故」「何を」暗躍しているのかを楽しむ萌え+ホラー+加虐のサスペンスと分類すべきだろう。
 仲丸さんは結局、物語のダシにされただけで終わったのか。「キャラ設定上の複雑さ(三股するようなパーソナリティ)」と、「本筋に対する無関係さ(小鳩の異常性を演出するためだけに延々カップル描写を続けた)」と、「映像上の存在感(登場時間も長い)」が調和しておらず、チグハグなままだった。小佐内カップルと比べて、扱いの大小もアンバランス。もったいない。

 それにしても、ああ、いかにも岐阜の郊外っぽい風景だと思った。山々が近いけれど、それなりに開けていて閉塞感は無く、郊外らしいのどかさと広告の猥雑さがぎりぎりのバランスで穏やかにまとまっている感じが(例えば兵庫には、ああいう風景はあんまり無いだろう。峻険な山間部だったり、もっと寂れた地域だったり、逆に海に面した広がりがもっと強烈だったりする)。

 第17話は、小鳩と小佐内の二人だけの会話だけでほぼ全編が進んでいく。回想シーンなども、例の空想上の成り代わり演劇で表現されるので、可哀想な瓜野君は本編に一切登場できずじまいという……。1期以来のイマジナリーロケーション演出を、「特定のキャラを画面から抹消するために」使うとは、神戸氏もなかなか邪悪だ(※今回の絵コンテも神戸監督による)。
 そして小佐内の邪悪さも1期以上で、少しでも嫌なことをされたら相手を尊厳破壊してでも後悔させるまで大喜びでじっくり追い詰めるという……。画面上では一見きれいで爽やかな新緑の映像だったりするのだが、その一方で鉄柵や遊具やテーブルの小物で彼等二人の姿を執拗に遮蔽しており、彼等がいかにひどく常識的世界から遠い二人であるかを強調し続けている。
 1期の小佐内は、攻撃される恐怖とそれをはね除けようとする切羽詰まった決断、そして小鳩君との間の契約の下でのアイデンティティの動揺という複雑さを持っていた。しかし今期ではそれを失ってもはや最悪ないじめっ子にすぎないし、ピカレスク物語としての苦みも無いこのような物語を無頓着に公表した原作者は、やはり大嫌いだ。

 第18話は「冬」編の始まり。現在の事故から過去の回想へと物語が遡っていく。高い階層の病室から見える窓外風景がたいへん情緒的。



●オリジナルアニメ『LAZARUS(ラザロ)』
 第5話。設定も脚本も雑で、不毛感が強まってきた。いきなり製薬会社へ暴力的に乗り込んで、オンライン映像で名前を表示したまま(!!!)交渉に入り、そんな怪しい集団に対して社長も数分間の会話で唯々諾々と話に乗り、さらにほんの2-3日で大規模なフェイク会見を開き、それも手垢の付いたハッカーバトルに終始して負けたまま終わるという……。様々な描写が、一見するとインターナショナルなようでいて、かえって底の浅いバイアスを露呈させているのも辛い。視聴を止める寸前。

 第6話は新興宗教のコロニーに潜入する話。一話完結エピソードのため、御都合主義の駆け足進行でイベントが消化されていき、結末はまたもやハズレという……。うーん。

 第7話。相変わらずリアリティ水準が不明瞭だし(※北極の氷が溶けきるのも、その3年前であれば十分予測可能だろう)、年齢いじり(外見いじり)のような下品なネタもあるし、しかつめらしい顔で聖書を引用するのもいまどき安っぽい。背景作画だけのサーカスとして見れば楽しいが、それとても南国の原始的な美という差別的エキゾティシズムを剥き出しにしていて、かなり恥ずかしい。ようやく「ラザロの復活」に言及したが(※聖書のエピソードであり絵画の主題にもなっている)、それをどこまで掘り下げるのかは不明。
 ダグが23歳というのも、大学を出てからの年数を考えると不自然に見える。飛び級をしていた可能性もあるが、恩師との会話から見ると早期入学だった様子ではないし、退学事件から何年も経っているようだから、おかしいように思う。何かの仕掛けである可能性も捨てきれないけれど、ただ単にイージーなコメディシーンで設定破綻しただけという可能性もある。

 第8話。ロシアの工作員たちが、何故か北極海の油田を拠点にしていて、そこに大型タンカーで即日乗り付けて仲間を奪還するという、ベタとトンデモを混ぜたシチュエーション。それ以外もツッコミどころが多いのは相変わらず。「ロシアの特殊工作員」というフレーズを真顔で喋っているだけで笑えてしまうのだが……。
 ただし、作画だけは良くて、航空機のディテールや海上製油所の存在感、そしてアクションシーンもなかなかの出来。言い換えれば、チープなアクション映画をアニメで模倣したような内容とも言える。ノルウェーの空港がアニメで描かれたのも歴史上初めてかもしれない。そういう観光+アクションものとしては楽しめる。
 ただし、やはり肝心の薬物問題は、残り12日。本作といい『魔女』といい、タイムリミットが茶番じみているのはどうなんだ……。
 とにかく、ネタやアイデアの古さがきつい。もちろん、様式的な古さや美意識の古さそのものは構わないのだが、しかし、「すでに多くの作品によって試みられてきたようなネタやスタイルを、あらためて無頓着に繰り返し、そこで新しいものを何も付け加えていない」のであれば、やはり評価は低くなる。ましてや、社会問題や環境問題の理解、あるいはSFガジェットの扱い方について、周回遅れのものをそのまま反復しつつ格好を付けているだけでは、もうどうにもならない。



 暫定評価。
 『ホテル』90点。切れ味の良いエピソードが釣瓶打ちに続いていて快調。
 『鬼人』80点。映像演出も音響表現も充実しているが、アニメの話数区切りがぎこちない。
 『九龍』80点。謎が本格的に前景化して迫力を増してきた。ただしたまに演出的限界がある。
 『小市民』75点。スローペースなのがもどかしい。映像そのものは深く印象を残すだろう。
 『ある魔女』75点。回によって波があるが、堅実にまとめているし、美点も多い。
 『LAZARUS』65点。派手なサスペンスでアクション作画だけは良いが、陳腐な描写も多い。


 各タイトルが後半回に入ったところで、私なりに各作品のコンセプト設計を展望する。

 『アポカリプスホテル』は、なるほど「ホテル」という舞台設定が上手い。ルーティン化されたシステムでありながら、その都度新たな宿泊客を受け入れるためのシステムでもあり、それぞれに応じた個別的配慮が求められる。この両面は、「自動化/自律化されたロボットたちのぎこちない苦労」を強調しつつ、「来訪する異星人(異文化)とのすり合わせ」というドラマをも生み出す。さらにそれらを横から支える2つの支柱として、「人類滅亡後の地球」および「長大な時間経過(もちろんロボットならではだ)という」という刺激的な要素があり、そして最後に全体を貫くSF的思考実験の迫力がある。これらの特徴群がしっかり噛み合っているところが、本作のコンセプトの明晰さと、物語展開のポテンシャルと、そして大きな魅力を生み出している。一見すると子供向けアニメのような人懐っこい絵柄(竹本出泉デザインなのだが!)も、本作のユーモラスな側面を映像のレベルで体現している。
 先の見えないオリジナルアニメというアプローチも、過剰にならない範囲でユーモアを交えつつ、巧みに使いこなしている。さすがは旧GAINAX系スタッフ。

 『ある魔女』も、よく見るとなかなか凝った設定が組み合わさっている。「現代世界に生きる魔女」というギャップ要素。そして「主人公の死へのカウントダウン」という駆動要素。これらが、「日常ドラマ(生活ベースでの小さな問題解決物語であり、主人公にとっては涙集めという主目的そのもの)」という基本路線と、「魔女(魔法少女)キャラの新風」という個性に結実している。とりわけ主人公の少女は、「現代文明世界に生活する日常の魔女である」、「とんでもなく口が悪い(ネットスラングを多用)」、「ただし根は善良であり、反省して成長することもできる」、「外見的にもシックなセピアブラウンのマントを着用」というキャラ造形で、かなり珍しい路線だと言える。
 要するに、10年代に流行した「異能系の魔法少女もの」と、20年代の「異世界もの(魔法が一般化しているファンタジー)」の二つの潮流を踏まえつつ、どちらとも大きく異なる独自性を打ち出すことに成功している。一見するとチープな「日常魔女もの+カウントダウンもの」のようでいて、各要素が上手く連動して、作品コンセプトの個性を際立たせている。実際、配信サイトの視聴数などを見ると、今期アニメの中では上位クラスの注目を集めているようだ。今期は異世界もの(洋風魔法ファンタジーもの)がかなり沈滞しているので、本作はそうしたポップ志向の受け皿となっているのかもしれない。

 『鬼人幻燈抄』のメイン要素は、もみろん「鬼」。しかしそこから、「鬼たちとの戦い(戦わない場合もある)」、「長命種の長大な仕掛けの謎」、「様々な時代を描くオムニバス風のスタイル(重い話も軽めの話も取り混ぜる)」、「アニメで時代劇風の世界」、「鬼の異能バトル(※ただしこの側面は控えめ)」、「復讐のドラマ」といったように、様々なガジェット的面白さや、本作ならではのオリジナリティや、風景描写の映像美といった諸要素を引き出している。
 バトル演出はややもったいない出来だが、この原作をアニメ媒体で作る意義は確かにある。

 『九龍ジェネリットロマンス』は、諸要素を絡み合わせたコンセプト構成が抜群に上手い。「九龍」という魅力的な舞台設定から出発して、そこから生じる「失われたものへのノスタルジーというロマン」、「映像表現にも、90年代(?)を想起させるレトロ感を持たせる」、さらには「虚実の定まらない不確かな存在という幻想性(一種のマジックリアリズム?)」、「技術と無秩序が交錯するSF的状況の説得力」、「九龍=クローンというイメージの二重写し」、「ラブロマンスの浮遊感」といった特徴が、稠密に連動している。
 個人的に、映像表現そのものはもうちょっと派手で強烈な演出が欲しいと感じるが、真夏の幻想物語としては十分以上の出来だし、脚本もおそらく原作からアレンジして入念に再構成されている。九龍へのロマンや映像的インパクトをそのコアとして、作品コンセプトの鮮烈さと訴求力は、今期タイトルの中でも出色の完成度だと思う。

 『LAZARUS』は、いろいな要素を集めているが、作品コンセプトとしてはやや散漫なままのように見える。「致死性の医薬品というメディカルSF」、「犯人捜索しつつ犯人の真意を探るサスペンス」、「カウントダウンストーリーの緊張感」、「地球全体を探し回る観光アニメ」、「登場キャラも多国籍的グローバリズムの装い」、「映像面では派手なアクションシーンを売りにする」という特徴が挙げられるが、どうにもこけおどしめいている。
 つまり、バイオSFの描写は浅いし、空振りばかり繰り返していまだにろくな手掛かりが得られていないし、人類滅亡のカウントダウンも茶番めいているし、観光的な映像もエキゾティシズム的な問題を含んでいるし、多国籍的描写もステレオタイプ的でむしろ偏見助長のきらいがあるし、アクションシーンも実写アクション映画の模倣のようで新鮮味が乏しい。

 『小市民シリーズ』(2期)は割愛。

 というわけで、トップダウンのコンセプト設計のレベルで見ると、『九龍』90点、『魔女』85点、『ホテル』80点、『鬼人』80点、『LAZARUS』60点、(ちなみに『小市民』は50点)といったところ。ただし、ここに個別話数のストーリーや映像演出などを加味して総合的に評価すると、点数は大きく変動する(上記のとおり)。

 ちなみに、今期のこれらはとんでもない高水準。前クールの『通販』(50点)も『ソロ討伐』(30点)も、コンセプトワークの次元で見ると非常に貧しいものだった。
 『通販』のコンセプトは、「通販スキルがあれば、中年男性でも活躍できる」という程度のもので、プリムラの商才やアネモネの自意識などとはあまりリンクしていないし、スローライフ志向も裏切られていく。
 『ソロ討伐』も、タイトルに冠している「ソロ討伐」の設定を早々に放棄していくし、残業ネタもいいわけ程度のものでろくに掘り下げられていない。主人公の性格造形や行動原理も、物語の都合でかなりイージーに見える。
 ただし、オリジナルアニメの『全修。』は、さすがにコンセプトがしっかり構築されていた。「アニメーター転生」+「一種のメタフィクション」+「創作の苦しみのドラマ」+「有名作品のパロディをする意味」+「古風な絵柄という個性」など、見せるべき要素群を手堅くまとめ上げつつ、作品の独自性をアピールすることに成功していた。
 映像や声優を含めた総合評価としては、『通販』60点、『ソロ討伐』40点、『全修。』80点くらい。