2025年8月の新作アニメ感想。『鬼人幻燈抄』『クレバテス』『第七王子』の3作に絞られた。
●『鬼人幻燈抄』
通算16話は文久3年(1863年)、天邪鬼の話。のびやかに広がる山々の風景も、夕暮れの河畔風景も、抜群に美しい。怪異の幻想譚としても、苦く優しい味わいがある。キャラクターの細やかな所作アニメーションも、地に足の付いた作品風景に確かな実在感の手応えを与えてくれる(※例えば、おふうが急須でお茶を混ぜる動き。すごい)。冒頭の蕎麦打ちシーンのミスリーディングも、微笑ましく気の利いたコンテで面白味を生んでいる。絵コンテ&演出は、河田凌氏。
茅野愛衣ヴォイスで「じんやくん」「じんやくん」と何度も呼びかけられるとは、羨ましい……。
ところで蕎麦屋の店主さん、老けてやつれた?
第17話は、やや長めの25分。元治元年(1864年)で、剣を極めようとする中で鬼に変化してしまった男の物語。剣戟シーンは、この作品にしては頑張っているが、日常シーンでは表情作画が崩れ気味。時代劇アニメらしく外連味のあるコンテが、映像的な緊張感を構築している。
ストーリー面では、畠山の真意など、やや歯切れの悪い後味を引き摺っているし、甚夜の躊躇いもあまりきれいには描かれていない。しかし、鬼の存在を巡るエピソードの一つとして見れば、苦みと深みのある話になっていると思う。
第18話は、幕末ぎりぎりの慶応3年(1867年)。とぼけたサブタイトル「茶飲み話」だが、しっとりした情緒と、かすかに匂わせる不穏の気配(夕暮れ)、そして年月の経過と人々の変化が描かれる。時間と環境の推移によって変わっていくものと、変わることのできなかったもの(鬼たち)。雑踏を行き交うモブ町人たちの描写も、その印象を強めている。今回の脚本は赤尾氏(シリーズ構成)、絵コンテは相浦和也監督自身(第1話以来)。やはり相浦氏自身は、こういう人情話路線の方をやりたかったのかな。
第19話。ひきつづき慶応3年(1867年)。穏やかに、そして劇的に描かれる喪失の物語。冒頭から回り込みカメラを使い、この回の特別さを予告している。そして前半は老店主の最期。珍しく饒舌に語る店主の所作のアニメーションは、(失われようとしている)人間的な生命感を繊細に表現している。人間は生命を失うが、鬼もまた失うものを持っている。すなわち、社会性と周囲との関係を。後半では直次との別離が示唆され、さらに鬼の正体を世間に知られた主人公は、言葉も無くただ逃散する。暗鬱な曇り空と不安定な登坂の風景が強い印象を残す(※これまでの均衡感のある映像と比べて明らかに異様な傾斜だ)。シンプルなサブタイトル「流転」も、いかにも物悲しい。
絵コンテは江崎慎平氏。本作では初めての起用だが、角度の付いた空間性演出、意外(?)にもポップなレイアウト、大胆にして暗示的なスロー演出、そして人物の細やかな所作表現と、非常に充実したコンテになっている。
少年役(直次の息子)は小市氏。『第七王子』ともども、ショタ役をやれる声優が増えるのは歓迎したい。大歓迎。老店主役の上田燿司氏は、おそらく今回が最後の出番だが、言葉の説得力と状況に応じた情緒を端正に造形していて素晴らしい。音響面では、今回も下駄のカラコロ音などの効果音が丁寧に付けられていて、場面ごとの臨場感を高めている。
それにしても、野茉莉は可愛いなあ……。
第20話。しっとりした雨天の語らい。今期は雨アニメが多くて嬉しい。三浦直次の複雑に苦悩する表情の作画もデリケートきわまりないし、茅野氏の浸透力ある芝居もドラマに説得力を高めている。格子背景のシンボリックな演出も印象に残る。今回の絵コンテは超ベテランの藤原良二氏。演出は、これまでも数回担当されていた鈴木賢人。
ただし後半部のバトルシーンは相変わらず、スピード感に欠けてもっさりしている。まあ、これは仕方ない。
鬼たちの異能スキルを取り込んでいくのは『どろろ』みたいだなと改めて思った。もちろん、相手の力を奪うのは古典的な作劇だし、現代(2010年代)の異世界ものでは「スキルテイカー」としても多用されているくらい普及したアイデアだが。
●『クレバテス』
第5話。もうすぐ折り返しなのだが、このスローペースで大丈夫なのだろうか。内容面では、劇伴がなかなか個性的だし、コンテもところどころ非常に面白い(※長い静止カットもあるが、キャラクターの出入りのカメラワークが楽しげでよろしい)。主人公も、善良で純朴で苦労人なところを上手く描いていて、愛嬌がある。
ストーリー面では、かなり散らかっている。「魔獣と人類(人属)の対立構図」、「魔獣の間でも駆け引きがある」、「人類を滅ぼそうとするクレバテス」、「人類の間でもいくつもの国家に分かれて対立している」、「亡国の赤子の成り行き」、「育児コメディ(?)」、「人類が開発した魔術の謎」、「ゾンビ勇者とその復讐心」、等々。なんとなく関連があるようでいて、しかし現時点ではぼんやりした繋がりに留まっている。
第6話。クレン役の田村氏は、確かに適役。真面目で冷静なようでいて、朴訥なようでいて、ちょっと不機嫌なようでいて、そして感情の底が掴めない不思議な異種族キャラを上手くドライヴしている。主人公のアリシアは今回も、「慌てツッコミキャラ」、「大地を踏みしめて歩くキャラ」、「自身と周囲の境遇に苦しむキャラ」の側面が濃密に描かれている。
演出と作画は、この回も非常に良く出来ている。背景作画が、色鉛筆のような手書き感を強調しているのが面白い。色合いが明るく、そして木材の質感を巧みに反映しているし、山々の遠景も童話めいたのどかさを連想させる。相変わらず説明台詞が多めながら、コンテレベルで画面構成の迫力とアニメーションの躍動感を表出していて、充実した映像になっている。
ストーリー面では、穏やかな農村風景からいきなり最悪のピンチ状況に。このノリはなんとも岩原氏らしい。そして最後に黒澤ともよ氏の魔術師キャラが登場。
第7話。村での危機から勇者追撃、そして軍隊どうしの戦いと魔獣介入と、めまぐるしく展開した。言い換えれば、一つの話数としては乱雑でもあるが、まあ仕方ない。ストーリー面では、勇者伝承がそもそも間違いであったらというのは面白い発想。
映像表現としては、重量感と巨大感のあるアニメーション、赤子の泣き声による焦燥感演出、森の奥深さなど、見どころが多い。襲撃魔術師コンビ(重松氏と黒沢氏)は、どちらも常識外れの異常さを存分に表出した芝居が素晴らしい。
第8話は、勇者を巡る対話から、虫使いを撃退するまで。今回も斜め顔のクローズアップショットが魅力的だが、それ以外は凡庸。前半では松明による明暗の表現、後半では主人公による必死の剣捌きアニメーションが見どころだが、ややぎこちない。
●『転生したら第七王子』
通算第16話。シビル・ウォー戦の決着から、謎神父戦の途中まで。
前半の戦いは、静止画にエフェクトで誤魔化しているばかりで、画面がだれることこの上ない。そういったタイミングの都合で、今回も出血がやけに長時間噴出し続けたりする(ひどい)。マントの青海波模様も、立体性も運動を無視してべったり貼り付けてあるだけという有様。音響表現も最低で、ひたすら説明台詞を垂れ流してそのまま画面を止めるし、さらに台詞の変化を無視してBGMを流しっぱなしにしている。モノローグだけでなく、戦闘中に長大な回想を入れるのも緊張感を削ぐこと甚だしい。擬音文字をそのまま書き込むのも漫画の猿真似で、アニメでやるとひたすらチープになる。演出と呼ぶのもおこがましいほどの、失敗映像の見本市になっているのが悲しい。作画そのものは頑張っているだけに、とにかく監督(コンテ)が悪い。原作(というか漫画版)は抜群に凄いので、まともな演出で丁寧に再解釈して映像化していたら、本当に素晴らしいものになり得たのだが……つくづく惜しい。
ただし、後半の謎神父戦だけはダイナミックなカメラワークを取り入れている。また、イーシャ(シスター)の振り付けは、今回も力が入っている。
ところで、OPには完全食くんらしきカットがある。あれもアニメ版に登場するのか……。
第17話。地下実験室に立ち入るところまで。
相変わらず、イーシャ周りの演出は力が入っており、黒ベタに囲まれながら雨の市街を掛けていくところは印象的。その他、視覚表現としては、林立するアンホーリー・エクスカリバーの迫力や、地下実験室の禍々しい雰囲気には、カラーアニメならではの美質がある。ただし、イーシャ役(石見氏)の芝居は切実さが足りず、なんとも物足りない。
教皇付きのアナスタシアは日笠氏。教皇自身は、宮本氏ではなく牛山氏が演じている。
第18話は、大聖誕祭の開始直前まで、つまり漫画版第7巻の最後まで。脚本が再整理されておらず、一話の中でも進行がバラバラ。漫画の進行とアニメの進行は違うのに、そのままコピーしているからこんな体たらくになる。映像表現としても、漫画であればコマの背後でおまけトークを展開しても邪魔にならないが、同じものをアニメで動かして喋らせると、とっ散らかってひどいものになる。そういう取捨選択がまったく出来ていない愚作。ただし、今回は明確にイーシャをフィーチャーして盛り上げている。沈鬱な雨の雰囲気も、なかなか悪くない。
それにしても、このペースで大聖誕祭の最後まで行けるのだろうか?
メイド役の驕慢な音声芝居はかなり苦手。シーンごとの状況やドラマの焦点を無視して、ひたすら棘のあるナルシスティックな演技を押しつけてくる感じが……。今回は第二王子の前ですらそういう独善的なキャラを前面に出していたし、チェス盤を蹴り飛ばすという性格の悪さが強調されすぎていた(※こんな絵をそのまま使ったコンテも悪いが。漫画の小さなギャグコマならば許容されたのだが、アニメのフルサイズ映像で描いてしまうと、その非常識さの誤魔化しが利かなくなる。コンテも悪い)。
ただし、常にフルサイズの映像で描かれることのメリットもある。例えば、秘密研究室を探索した後の中庭での会話や、教会での議論シーンなどでは、キャラクターの位置や移動といった空間的な表現が拡充されている。その点は確かに面白味を増していた。
第19話は、漫画版第66-68話。かなり頑張って絵を動かしたり、大聖堂内部の空間表現をしたりと、努力は見て取れる。陰影演出も、アニメーションならではの面白味を作り出している。十字架を踏みにじるところや、ギタンが四つ目になるところなど、独自の追加要素もあるし、連打アニメーションの表現にも説得力がある。こういうことをやれる技術はあるのに……やっぱり漫画版コピーに終始しているのがもったいない。今回の絵コンテも、玉村監督が直接手掛けている。
ところで、漫画版の「大聖誕祭」編は第42話から始まって第88話まで続くのだが……これまでのペース(アニメ1話につき漫画版3-4話分)だと、うーん、ギリギリ最後まで行けるのか?
第20話は、シャクラ撃破まで(漫画版69-72話、ただし一部省略あり)。
空間的な表現(例えばシャクラとタオが円を描くように歩くところ)や、一部のアニメーション追加(タリアの剣やヤタロウの動き、シャクラの6眼アニメーション、グリモの垂れ耳がふわふわ動くところ)、演出追加(シャクラのマントが飛んでいくところや、タリアのミニスカート強調)、カラスを使った画面切り替えなどは良いのだが、それ以外は映像作品の体を為していない。静止画にエフェクトだけで誤魔化したり(特にシャクラ戦の決着はひどい)、長台詞の間中ずっと血が延々噴出し続けていたりする。台詞の最中は、キメラたちがずっと棒立ちで止まっているのも見苦しいし、相手の台詞に対する双子神官の書き文字が出るのも、応答のタイミングが早すぎておかしい。
第2期はずっと玉村監督が絵コンテと演出を担当し続けているが、小手先のエフェクト追加だけでは根本的な設計図(絵コンテ)の崩壊は覆せないという失敗事例。こんな猿真似コンテではなく、真面目にアニメ表現として再構成した『第七王子』を観たかったよ……。
他のアニメ作品でも、原作(というかコミカライズ版)のレイアウトをコピーしているようなものは見かけることがあるが、それでも多少はアレンジのお化粧をして映像作品らしい流れに作り直しているものだけど、この作品は本当にただ無思慮に漫画のコマをなぞっているだけなので(※もちろん絵そのものは描き直しているが)、映像的な時間進行が滅茶苦茶になっている。そういうところがもう、あまりにも残念すぎる。
ところで、キメラシャクラが女性だったのは驚いた(※音声は山村響氏)。漫画版を読み返したら、たしかに女性らしいバストになっていた。