2025年8月の雑記。
ようやく私なりの「ウルフさん」ヘッドの解を見つけたよ……。そう、「ちっちゃくて、そこそこ優秀そうで、落ち着きも身につけている自信家お嬢様」、これだよ……。
レシピは「ドレスアップボディS」+「ウルフさん」ヘッド(※瞳の色が同じなので暦フェイスも使える)+Picco neemo「ロゼッタワンピースset」。上半身のアップ。デフォルメ体型の「ピコニーモ」用なので、緩く広がったシルエットになるが、むしろこの非実用的にズレた感じが良い。これだよ、これが良いんだよ。
胸部の巨大リボンは少々くどいが、これは肩に羽織っているショールの一部で、外すこともできる。
レシピは「ドレスアップボディS」+「ウルフさん」ヘッド(※瞳の色が同じなので暦フェイスも使える)+Picco neemo「ロゼッタワンピースset」。上半身のアップ。デフォルメ体型の「ピコニーモ」用なので、緩く広がったシルエットになるが、むしろこの非実用的にズレた感じが良い。これだよ、これが良いんだよ。
胸部の巨大リボンは少々くどいが、これは肩に羽織っているショールの一部で、外すこともできる。
08/28(Thu)
「ドレスアップボディS」は、「M」サイズ版から多少改良されている。肩紐をパーツ分割で再現していたり、バストサイズを2種類ずつ作れたりする。ただし、へその意味不明な縦ラインや、造形のダルいハンドパーツなど、相変わらずのところもある。
昔からKOTOBUKIYAは、へそ周りの造形が苦手なようだ。とりわけMD版「バーゼラルド」は、へその部分をただ楕円形にえぐっただけという珍造形で、さすがに購入意欲を失った(※キットを擁護しておくと、MDシリーズはロボットキャラという建前だから人体らしくなくてもよいし、モデラーとしては不満があれば自力でパテを盛って改修することも可能なのだけど、しかしそれでもねえ……)。
たまたま見かけた投稿だけど、こういうアプローチは私の理想に近い。つまり、「大筋では元々のキャラデザを尊重しつつ、細部を丁寧にブラッシュアップすることで、キットのポテンシャルを最大限引き出す」という姿勢。
上記作品は、デカールなどもほぼキットそのままなのだけど、前腕や靴は他のキットと交換しているし、可動拡大の改修もしているらしい。そのうえで、ドレスは凹凸のデリカシーを際立たせるように半ツヤで、そして脚部は曲線美に集中させるようにツヤ消し(たぶん)で処理している。胸部や腹部脇のクリアパープルをメタリックパープルに塗装しているのも賢明(※クリアパーツのままだと、光を通してしまって色が沈んで、埋もれてしまう)。手の爪塗装も、ワンポイントのアイキャッチ効果と腕の動きを明確化する作用の、両方に貢献している。もちろん、撮影とポージングも抜群に上手い。
実を言うと、「元デザインを踏襲しつつ、ディテールを掘り下げて、完成度を上げていく」というのは、まさにスケールモデル由来の発想だったりする。機銃を超精密パーツに取り替えたり、エッチングパーツで細部を充実させていく(例えば、本来あるべきだったトラスや手摺やネットや空中線などを表現する)。その意味で、私のモデリング思想は、今でもやはり艦船模型に立脚している。細部の精度を上げ、造形のリアリティを高め、そして作品の説得力を強め、そしてそれは元デザインに対する忠実性をも意味する。そういうことが実現できたらと常々思っている……ただし実際には、イージーな手抜き制作ばかりだけど。
新刊漫画とアニメの話題をそれぞれ個別ページに分離したことで、この月別雑記ページは模型トークが中心になっている。うーん、ちょっとバランスが気になるが、仕方ないか。模型についても、専用の月別ページを作っていくことも考えたが、それだとブログ全体の運用がしづらくなるのよな……。
漫画やアニメは、毎月定期的に書くべきことが出てくる(つまり、新刊単行本や新作配信)。しかし模型ジャンルに関しては制作ペースにムラがあるので、月別ページは作りにくい。また、フィギュアなど隣接領域の話題も含めると、分類が難しくなる。さらに、模型の話題までパージしてしまうと、この月別雑記に書くことが減ってしまう(しよーもない雑談ばかりになってしまいかねない)。また、積極的な側面として、フィギュアやプラモデルは写真を撮れるので、雑記欄の彩りになる(※漫画やアニメのスクショを載せまくるのは、著作権の観点でも躊躇するし、手間も掛かって面倒だし)。
というわけで、たまにkawaiiフィギュアやプラモデルの写真を貼りながら、いろいろと余計な話をこっそり書いていくブログとして、引き続き運用していこう。
『七夕の国』は、つい読んでしまう。一年に一回くらいは再読しているかも。
岩明均氏は、倫理観のない組織人間の気持ち悪さを、無言でさらりと、しかし明瞭かつ雄弁に描き出しているのが面白い。例えば、平民集団を侮って蹂躙しようとする領主や、欲得づくの軍事会社の兵隊や、傲慢な政治家(※弱った老人でも、組織の強大な力を持った権力者だ)、そして他作品でもアルキメデスを殺害する兵士(『ヘウレーカ』)や、広川の演説に一切耳を傾けずに射殺する自衛官(『寄生獣』)、組織維持のために家老を暗殺する大名(「雪の峠」)など、ドラマの急所にその描写を持ってくることも多い。「ひとの話を聞かないエゴイスト」がよっぽど嫌いなのかなあ。
個人的に、岩明氏とゆうきまさみ氏はなんとなく近い位置で見ているが(※絵柄やユーモアの方向性、合理的思考など)、ゆうき氏は人間組織そのものは嫌っていない、というか、時として大きく肯定すらしているのが、これまた興味深い。ゆうき氏の描くキャラクターたちは、基本的には組織や社会の中での自己実現を自明のこととして受け入れているが(※たしか『じゃじゃ馬』あたりは典型的だったと思う)、それに対して岩明氏の描くキャラクターはしばしば組織や社会から距離を取り、その中で小さくパーソナルな友愛の関係を見出そうとする。最初の連載『風子のいる店』(吃音者主人公)の時からの、おそらく一貫した姿勢だろう。
もちろん、ゆうき氏も一筋縄では行かないクリエイターなので、『白暮のクロニクル』のように個人と組織の間の軋みを描いていたりするけれど、しかしやはり、『パトレイバー』の内海課長のように、「個人的な欲望によって組織を滅茶苦茶にする奴こそが非倫理的な社会悪だ」という方が、ゆうき氏のスタンスであるように思える。そもそも組織ドラマとしての『パトレイバー』を少年漫画で大掛かりかつ入念に展開していたのも、80年代当時としては異例の現象だったと言えるだろう。不思議にも対照的なクリエイターだ。
しかし、さらに複雑なことに、より広い社会に向けた視線は、むしろ岩明作品にこそ強く見て取れる。環境問題や社会問題への堂々とした言及のことだ。それに対して、ゆうき作品にはそうしたシリアスさは無い。漫画版『パトレイバー』でも、技術発展のアイロニーや生物兵器のおぞましさ、悲惨な人身売買などが描かれてはいるが、いずれも個人的な問題へと還元されていき、社会問題をそれ自体としてテーマ的に維持することはなく、文明論的な語りに踏み込むこともほとんど無かったと思う。おそらくこれは、ゆうき作品が基本的にはエンタメの枠内に留まろうとしていることの現れでもあるだろうし、それに対して岩明氏は、非常に素直に青年誌(モーニング/アフタヌーン誌)らしい知的な真面目さを表出している。ミギーのような突き放した思索的姿勢や田宮良子のような詠嘆の独白を、ゆうき氏は描かないだろう。ゆうき氏のキャラクターであれば、悩み事は常に他者との会話の中で解消していくだろうから。
「ふっ、口ではまだ暑い暑いと言っていても、身体は正直だな。秋に向けて急激に食事量が増えていることに、おまえ(ルビ:わたし)は気づいていないのか? 己の欲望に振り回されるとは、なんと無様な……」
(※キャラクター台詞って難しいね。ぎこちなく浮ついた言い回しになってしまう)
新作アニメの全視聴は、時間的には一応可能。一クールあたり70本程度なので、一日7本、つまり一日3時間弱で全て視聴できる。だから、ディープなアニメ趣味者であれば、全視聴派もそこそこいると思われる。
ただし、時間的にも精神的にも負担が大きいし、中には視聴する価値の低い作品もあるし、好みに合わない場合もあるだろう。また、過去のタイトルや海外作品、インディーズなども大量に存在するので、現在オンエア中の作品だけ観ていればいいというわけでもない。
漫画の場合は、狭義の商業単行本に限って見れば、毎月400点ほど刊行されているので、仮に一冊15分なり30分なりで見積もっても、全読破はぎりぎり可能。もちろん実際には、それ以外のものも莫大な数が存在する(※雑誌扱いの本がその2倍ほどあるし、アダルトコミックや電子オンリー、同人などもある)、金銭的にも毎月27万円ほどの費用になるのでまず不可能だが。もっとも、電子書籍のセールス待ちで大量購入していけば、なんとかなりそうな程度ではある。
PC美少女ゲームも、現在の発売数ならば、毎月の全作品をプレイするのは可能だろう(※倫理機構を通しているタイトルの話。インディーズなども大量にあるけど)。最盛期は年間600タイトルも出ていたので全プレイは完全に不可能だった(※年間360万円だから、ただ買うだけならば全購入も可能な人はいただろうけど)。
ガールプラモに関しては、この十年の発売点数は以下のとおり。パチ組みだけのガール系専業モデラーなら、全制作は一応可能。ただし、肩や膝のジョイントを何百と組むのは苦行だろう(※下記は別掲ページの発売データによる。プレバンなどの販路限定ものは原則除外。また、海外キットもカウント除外[※年間10点程度]。ドール分野も除外。2025年は暫定値)。
年 | 製品数 | 備考(新規シリーズ開始など) |
~2014 | xxx | Hasegawaバーチャロン、Kotobukiyaホイホイさん、レイキャシールなどが細々と。むしろリボルテック、figma、武装神姫、S.H.Figuarts、AGPといった可動フィギュアジャンルの方が元気だった。 |
2015 | 7 | FAG、HGBF(すーぱーふみな等)がシリーズ開始。 |
2016 | 9 | メガミデバイス開始。 |
2017 | 25 | Figure-rise Standard、FIORE開始。 |
2018 | 35 | VFG、Figure-rise Labo開始。 |
2019 | 44 | chitocerium、Dark Advent開始。MODEROIDもガールプラモに進出(ストレリチア等)。 |
2020 | 36 | 11月は新作ゼロだった(※コロナ混乱の影響か?)。この頃から海外メーカーもガールプラモを製造するようになった(※ただし左記統計には入っていない)。 |
2021 | 56 | 創彩少女庭園、ガールガンレディ、Aoshima合体シリーズ、Guilty Princess、30MS、アルカナディア、エクスプラス開始(※30MMは2019年開始)。 |
2022 | 40 | PLAMAXもガール系に本格進出(ゴッズオーダーや、大サイズの固定ポーズキットなど)。微妙に谷間の年なのは、コロナ下での材料調達困難や電力問題など、いろいろあったせいだろうか。たしかスケールモデルも値上げを強いられた時期だったと思う。 |
2023 | 58 | annulus(GRIDMAN)シリーズ開始。 |
2024 | 70 | メガロマリア、プラフィア(PLUM、ずんだもん)、KPMS、PLAMATEA開始。 |
2025 | 121 | 30MP、FAGグランデ、ASG(Hasegawa)開始。 |
2025年で爆発的に増えたのは、それまでの各社シリーズが安定生産するようになったのと、30MSシリーズの大規模展開(アイマスコラボ等)、GSC(Plamateaなど)の精力的な新作発売、それからKOTOBUKIYAのカラバリ大量発売が例年に増して多かったため。市場そのものは完全に確立されたので、来年以降もこのペースになりそう。
SFの話から。先達として「若いファン」たちに何かしてやりたくなるのは分かるし、知の継承という意味でそうした共同体的活動には大きな意義があるとは思う。しかしそれが、「俺が感動したこの作品を読ませたい」で終わっていてはいけないというのも確かだ。
私見では、そもそも特定の作品を勧めるという発想に留まっているのが良くない。ニューカマー(経験や知識の浅いファン)が良い作品を知りたいと思ったときに、どうやったら探せるか、どのようにして自立的に情報収集していけるようにになるか、いかにして当人が「次に読んでみたい作品」を選んでいけるようにするかが重要だと思う。つまり、キャリアが長く、年長者としてその分野に責任感を持ちたいならば、システムを整備すべきなのだ。個別作品ではなく、幅の広さを、系統を、可能性を、見取り図を、手掛かりを、後輩たちに提供してやるべきなのだ。あるいは、べつに後輩がいなくても、そういった知の組織化に取り組むべきなのだ。そして日本のオタクたちは、パーソナルなエンタメ耽溺と刹那的なSNS消費の中で、そうした活動をずっと怠ってきた。
美少女ゲームについては、幸いにもEGScapeがあり、その大量の作品情報アーカイヴとユーザーによる評価点と多種多様なタグ検索の中から、かなり自由に各自の希望や嗜好に沿ったものを抽出できる。艦船模型分野も、これまた幸いなことに、10年代のうちに刊行された多数のムック本が、キット一覧から基本的技法まで、ほぼ包括的な見通しを提供している。しかし、それ以外の分野で、ファン有志による包括性と客観性と操作性のあるデータを作り出しているものがどれだけ存在するだろうか?
例えば、MGガンプラやHGUCの整理されたリストはあるか?(※以前は存在したがサイト消滅してしまったままだ) 主要な漫画家たちをフィーチャーした漫画史の通史的教科書がどれだけあるか?(※何冊かは存在するが、まだまだ足りない) アニメ制作会社とその主要作品を展望できるwebページは存在するか?(※wkpdのような機械的な五十音順羅列では役に立たない) 有名なゲームシリーズの全作品をプレイしてそれなりに公平な紹介をしているwebサイトを、既存のファンたちは大事にしてきたか? そういう作業をオタクたちはずっとサボってきたし、日本のアカデミズム(漫画学科など)もあまりに未発達なままだ。
ガールプラモについては、せめて私なりに、最低限の時系列的リストや教科書的整理を作ってきた。それは当事者としての、そしてアカデミックな意義に照らしても、誰かがやるべきだという責任感からの仕事だ。
SFについてはどうだろうか。例えば、「SFマガジン」誌の定期的な特集を紹介することで、マスターピースを絞り込みつつ各自に選択の余地を確保することができるだろう。あるいは、「ループもの」「破滅もの」「生物学SF」「スペオペ」といったジャンルの広がりとそれぞれの歴史的経緯や主要な問題関心を概説することでも、無数の手掛かりを与えることができるだろう(※同人誌などでそういった意欲的な試みがある)。:傑作選アンソロジーのような書籍もたまに刊行されており、簡便な手掛かりとして有効だろう。
趣味の先輩としてやるべきは、利用(操作)しやすい情報を整備しておき、それへのアクセスを導いてやることであり、そして、先輩ぶるのはそこまでに留めるべきだ。あとは、その後輩くんたちが自身の関心のままに自由に探索し享受してくれるだろうし、そうやって独自の見識を持った自立的趣味人になってくれた時に、「後輩」「ライト層」「新参者」だった人物は最も頼もしく刺激的な同好の士になるだろう。
「この作品に感動してほしい」、「この作品でハマらせてやろう」といった考えは、邪念と言うべきだ。そういう願望や欲望も分かるけれど、それは禁欲すべきだ。
私が現在の日本語圏のいわゆるオタク/マニアたちに対して持っている不満の非常に大きな部分は、この点だ。他人が使えるように有益な情報をきちんと整理して公開する、そういう知的誠実と後進への貢献をすべきだった。活発なのはオンラインゲームの個別タイトルの攻略wikiや、アニメ各回クレジットのwkpd記載くらいで、それ以外は知の集積と体系化が欠けたまま、エンタメ享受がSNS上にただのっぺりと広がっているというのが、10年代以降の「オタク」たちに対する私のイメージだ。
まあ、私自身、漫画やアニメについては月別インプレッションを書き流しているだけで、アーカイヴとしてはろくでもない雑談のままだけどね……。
00年代前半頃から10年代初頭くらいまで、「萌える○○辞典」や「シナリオのための○○事典」のような概説書が多数刊行されていたのは確かだ。それらはしばしばイージーな内容で、クオリティ面では評価しにくいものが大半だったが、ああやって入り口を広げ、見取り図を提供することそれ自体については、大きな意義があったと思う。
(※個別の書籍について内容面の問題があれば、もちろん厳しく指摘してよい。プロジェクトに意義を認めることと、個別のアウトプットを評価することは、次元が異なるからだ。私自身、問題のある書籍については指摘してきた。某エ○ゲー文化研究なんとかの駄目っぷりとか、萌える独裁者ムックの非倫理性とか……)
「ディープストライカー」はGFF版(2003年発売)で持っているので、MG版プラモデルは買わずにいる。当時としても別格のボリュームとディテールに、大いに満足して日々じっくり眺めていた。MGでは、Ex-Sの方を制作した。
08/24(Sun)
今月の「Xi-III」は、布服同梱のOutfit set版も発売。布服込みの組み立てプラモデルガールは、VFG「メサイア ランカ・リー マクロス40thアニバーサリー」に続いて、国内製品ではたぶん2例目。ただし、ドールや海外キットには、布服セット商品がすでに存在する。また、「創彩」のように別売りで対応布服を販売しているシリーズもある。
このアプローチが普及してくれたら嬉しいが、しかし難点も多い。布服製造は縫製の手間が莫大でコストが嵩むし、量産ペースにも限界がある。また、「着膨れする」、「加工、改修、塗装が困難(サイズが合わない場合でも、仕立て直しも困難)、「メンテナンスが難しい(品質劣化や汚損修復の問題)」など、プラ素材と比べて不利な要素が多い。
それでもやはり、「布の質感」、「可動柔軟性」、「チェック柄などの細やかな表現」、「プラ素材に比べれば着せ替えがはるかに容易」、「ドール服も含めてラインアップが豊富」といった大きなアドヴァンテージもある。
今月の模型雑誌を読んでいて、VOLKSの「ドラセナ」ハンドを比良坂初音ハンドに使えるかもと気づいた。鋭くて長い爪で、外骨格の指関節まで丁寧に造形されているのがちょうど良さそう。五指独立可動なので表情づけもできるし、指の間の塗装もしやすい。さらに、人間サイズとロボサイズの2種類があるので、目指すイメージに応じて選択の余地がある。
ただし難点もある。すなわち、可動確保のために手の横幅が広かったり、余計な凹凸があったりして不格好な点。そのまま使うには少々苦しい。インパクト重視で大型のロボ用ハンドをそのまま使うか、あるいは、造形重視で人型用ハンドを土台にパテ改修して蜘蛛ハンドにするか……。指先だけをパーツ取りに使うのもアリかも。それにしても、プテラノアームに加えて掌パーツまでドラゴンハンドに交換すると、いよいよもってアトラク=ダイナソーになってしまう。
ちなみにKOTOBUKIYAの「シャープハンド」(1、2)は、造形がロボっぽくて生物らしさに欠けるので、今回の目的には合わなかった。
というわけで、来年1月の模型展示会には、より良い状態で持っていける筈。たぶん。
Eastern Model「嶺王醒獅」。あらかじめスミ入れをしておいたうえで、丸一日で組み上げた。マフラーは布製。前垂れはPVC製(※筆でゴールド塗装したが、曲げなければ大丈夫)。金銀のゲートリタッチなど、ごく一部を塗装。
「嶺王醒獅」雑感。上記のとおりダブル素体だが、今回は頭部~胴体部分~太腿がほぼ同一の構成。とはいえ、中華風獅子キャラのオーソドックスな意匠をカラフルで華やかな赤白にまとめていて見栄えがする。各部のディテールも密度感があり、同社としては久しぶりに完成度の高いデザインになっていると思う。Eastern Modelらしくキャッチーなトイズ志向で、PVC製の炎パーツや布製マフラーなども、要所を引き立ててキットの魅力を増している。
組み立てキットとしては、脚部や前腕のワンパーツ化を取り入れて多少組みやすくしてある。可動関連はシンプル。サイズは、素体モードで15.5cmと標準的。
ただし、欠点もある。一つは、パーツ精度が低いこと。この点は、初期の四聖獣シリーズの頃からあまり進歩していない。また、肘や膝の関節部は差し込み式なのだが、これが緩くてポロリ脱落しまくる。改修しないのであれば、接着してしまった方が安全。同様に、オレンジ色の火炎パーツもポロポロ落ちる。おもちゃとして「動かして遊ばせる」べきキット構成なのに、肝心のパーツ精度が低くて動かすのにストレスが溜まるのはもったいない。
総評としては、良くも悪くも御模道は相変わらず、といったところ。ヒロイックで格好良い武装ガール路線で、造形的な魅力は増しているし、フェイス印刷も日本ガールと遜色ない水準に上がってきたが、パーツ精度が足を引っ張っている。
こういうボディコンシャスなスーツ+各部のワンポイント的武装(身体を覆いすぎない)+マフラーなどのアイキャッチ要素のキャラデザは、『シンフォギア』シリーズ(2012-)が堅実にまとめて、そして継続的に普及させていた。現代のガールプラモの。さらに遡れば『インフィニット・ストラトス(IS)』もあるけれど、そちらは武装のゴテ盛りが重めなので、ちょっと路線が異なる。『武装神姫』ももちろん直系の先行者だけど、武装の一体感に欠けていたりディテールが浅かったりして、実質的にはほぼ別物になっていると思う。
今の日本のオタクたちはほとんど「バッドエンド」という言葉(認識)しか使っていないけれど、それを「悲劇(tragedy)」と言い換えれば、長い歴史のある普遍的な作劇の一つであることは分かるだろう。苦難やジレンマや悲惨、あるいは「神の不条理」「悲恋のロマン」「歴史の皮肉」といった要素は、それ自体、物語を通じてもたらされるカタルシスの主要な部分――それどころか中核的要素――としてフィクションの重要な体験であり続けてきた。そうした意味で、現在の日本のサブカルチャー/ポップカルチャーの悲劇忌避傾向は、歴史的文化的に見ておそらくきわめて不思議で無根拠で不必要なものだと言えるかもしれない。
もちろん、様々な特殊事情があるかもしれない。例えば、ほんの2-3時間の舞台演劇が悲劇で終わるのはスッキリ切り替えられるとしても、数十時間をかけて主人公と一体の体験を続けてきたRPGや数年間読み続けてきた漫画連載が苦い結末で終わるのは、まるで重みが異なるだろう。また、プレイヤーの行動によって結果が変動するゲーム媒体では、主人公の死亡などの結果は、イコール「望ましくない」「価値の低い」「悪い」「避けるべき」状況だと見做されがちになる。そういうメンタリティも、理解はできる。しかしそれでもやはり、現代日本の過剰かつ偏狭なるバッドエンド嫌悪の言論は、どうしても浅薄に見えてしまうけど……。
コロナ当初は、アニメ等の音声収録も3-4人ずつに分割して録音していたのだが、最近では多人数でも一度に集まって全員収録スタイルに戻ってしまっているようだ。声優が感染症で声を潰してしまったらほぼ終わりなのに、危機感が無いのか、それともクリエイターの身を守ろうとする意識が業界に希薄なのか……。
HASEGAWA「学校の机と椅子」と、カプセルトイ「ガシャプラQ:学校の教室」(2021)を並べてみた。どちらも公称1/12で、中央の2つがカプセルトイ、左右(※塗装した)がHASEGAWAキット。15cm級ガールを座らせてみるが、どちらも小さすぎて使えない。ガールプラモは、脚部を長く造形しがちなせいもあるが、それだけでになく、太腿が机に干渉してしまうのも問題。1/12ドールでもきついと思われる。
机について。高さはほぼ同じだが、幅がかなり異なる。HASEGAWAが4.9cm(つまり12倍すると58.8cm相当)に対して、BANDAIのカプセルトイは5.5cm(66cm相当)と大きく異なる。奥行きも、H社の3.2cmに対してガシャポンが3.9cmと、無視できないほどの違いがある。ちなみに、机脇のフックは、BANDAIの方は間がきちんと抜けているが、H社のキットは間が埋まってしまっている。
椅子は、横幅や座板の高さはほぼ同一で、背もたれの高さが違うくらい。ただし、背もたれの木板部分の幅が異なるので、見た目の印象はかなり違ってくる。
価格は、H社のが900円(+税)、対するにガシャポンは300円。ただし、素材のクオリティ、入手性(販路確保)、ビジネスモデルなど、様々な要因があるので、値段だけで評価すべきではない。結論としては、どちらでもいい、というか、忌憚なく言えば、「ガールプラモにはどちらもまるで使えない」のだけど。
というわけで今日もいろいろ買ってきたのだけど、置き場が……。書籍やプラモやフィギュアの大量の購入物はひとまずベッドの上に散らかして積んでおいたのだけど、なんとかしないと寝る場所が……。
以前も書いたけど、女性向け漫画の「公爵様」「騎士団長」「御曹司」といった剥き出しの権力者大好き路線は、やはり苦手で買う気がしない。いや、買って読むことももちろんあるけど、カジュアル買いではほぼ避けている。
まあ、部分的には、分からなくもないのだけど……。1) 世間的な評価の高い人物と結ばれるのが、基本的には肯定的なものとして認識されるのは分かる。2) また、権力者ヒーローだけではない(※とはいえ、それが今度は逆向きにNGなホ○ト男性やヤ○ザ男性だったりするのもげんなりするのだが)。3) さらに言えば、これらは基本的にはフィクションの範疇でのことだから、有害性にも一定の歯止めがある。
男性向けとの非対称性(つまり、男性主人公が権勢のあるヒロインに向かうパターンは少ない)については、女性が自立困難な社会ではやむを得ないことだと言うべきだろう。男性は自分自身で社会的価値(勇者なり社長なり)に到達できる可能性が比較的高いが、女性の場合はそれを説得力ある形で提示するのが難しく、それゆえ、女性主人公自身の価値を保障してくれる社会的に優位な存在(すなわちお貴族様や金持ち御曹司)を必要とするというのも、作劇として理解はできる。それに、男性向けにも「高嶺の花のお嬢様ヒロイン」と結ばれる路線はそれなりに存在する(※それでも、男性向けの場合は、「君の立場や金が好きなんじゃない、君自身の個性が好きなんだ」というエクスキューズをはっきりと宣言するのが通例であって、女性向けが権力性を丸呑みに全肯定したままでいるのとは異なる)。
私が読み続けてきたタイトルも、「大会社の御曹司ではあるが、社内では冷遇されており、また女性主人公とは幼時からの個人的なつながりがあった」とか、「魔王男性に対しても、冷静な目で見ながら対等に付き合う」、「貴族男性だが、周囲から不気味がられており、本人もシャイな性格」、「周囲から怖れられている貴族だが、実際は肩肘張らずフレンドリーな性格で、元気で無謀な女性主人公との間でも穏やかで親密に愛し合っている」、「支配関係は主にベッドシーンで表現され、しかも女性主人公の側もそれをタフに受け止めてしまっているので、お似合いの雰囲気になっている」といったような形で、権力者志向の有害性をそれなりに解毒しているものが多い。そうでないものは(特にBL分野では)権力と暴力を振り回して何も咎められない――それどころか自由気ままで捉えがたい魅力として描かれる――という場合もあるからね……。階級的な権力関係や強者の独善をぶっ通しで描いているものは、いかにフィクションでもつらい。
ちょっと皮肉な話。書籍雑誌の出版が大変なのは確かだけど、「本好き」な主人公の物語が、当初は「本」(物理印刷媒体)になることができず、web掲載されるしかなかったというのは苦々しい話……の筈なのに、原作者自身がそれを「先進的」といって無邪気に喜んでいるのは不気味な光景だ。もちろん、一連の経緯の中で、web掲載であろうが公表媒体を獲得できたことは、けっしてネガティヴではないのだけど、いやしかしそれでも、そこに躊躇逡巡が無い小説家というのは、うーん……。
08/20(Wed)
フロッシングしていたら、歯の詰め物が取れた。いやだ、歯医者に行きたくない……。
大人がつらいのは、自分で自分を歯科医院に行かせなければいけないこと。なんというセルフ虐待。いやだ、いきたくない、いかせないで、やだやだあああああっ!
FAG「輝鎚」は、今のところ買うつもりは無いけど、デフォルメドールと似たような体型だと思えば可愛げを見出せるかなあ。わるきゅ~れブランドは2010年からこの路線の美少女ゲームを出していたし、昨年話題になった「シギラリア」などもあるし、ちょうどAMAKUNIの「七星(ナナホ)」も告知されているので、一定の需要はあるのだろう。模型プロパーとしても、こういうプロポーションのキットも出してくれるとパーツ取りとしての可能性も広がるので、この種の路線に挑戦する意義はあると思う。
ちなみに、サンプル写真を見るに、どうやらバストが左右独立可動するようだけど、うん、それは、まあ、えーと……。(※同じアプローチは、Dark Adventの「アイシス」がすでに実装しているが)
趣味と負担いろいろ。
漫画:
○自分のペースで読める。一冊あたり十数分と、短い時間で摂取できる(※ものによるけど)。
×数ヶ月に一冊なので、連載内容を忘れることがある(=新刊ごとに物語に再合流する負担)。
映画:
○さらにコンパクトで、2時間程度で終わる。基本的には、一作品だけで完結するのも良い。
×視聴覚的な負担が激しい(※疲労感を満足感と誤認させようとする演出をするものが多い)。
模型:
○自分のペースで作れる。自分の技術の範囲内で、いくらでもやりくりが利く。
×途中で置いておくのが難しい。一気に完成させるか、長期間スペース確保しておく必要がある。
ゲーム:
○スペースを取らない。すぐに始められる。
×ものによっては多大な時間を要求される。スピードをコントロールできない(※ADVは別)。
そう考えると、読書(活字)と音楽というクラシカルな趣味は、シンプルながら非常に付き合いやすい性質を持っている。読書は自分なりのスピードで読めるし、物理的(空間的&身体的)負担も小さい。CDも一枚あたり1時間前後できれいにまとまっている。
もっとも、レコードの時代まで遡るとメンテナンスの手間などが掛かるし、CDは80年代以降のことだから、「クラシカル」というにはまだ微妙だったりする。コンサート会場まで行くのは、もちろん時間的-空間的-金銭的にも負担が大きいし。
アニメも、昔は高コストな趣味だったようだ。比較的少数の作品がTV放映されるだけで、しかも放映地域が大きく限られるし、録画もできず(80年代以前)、そこから掘り下げようとすると高額なLDを買うしかない(こちらは90年代)、という認識。つまり、受動的でカジュアルなTV視聴だけならば容易だが、それを超えて趣味化しようとすると一気にハードルが高くなる。そういうわけで、70年代以前はとりわけ漫画の存在感が圧倒的で、80年代からはゲーム、そして90年代までは小説(ライトノヴェル)の方がはるかにポピュラーで、アニメ趣味は(本格的なマニア趣味としては)比較的マイナーだったと思われる。
現在のアニメが、毎年何百タイトルも新作が現れ、しかも全国的-全世界的な配信でカジュアルに視聴でき、メディアミックスでも中心的な位置に置かれ、受容コミュニティも大規模に形成されているというのは、わりと時代的に限定された状況と言うべきかもしれない。
『のんびり農家』について。アニメ版1期以降の内容は、難しいんじゃないかなあ。第一に、住人激増とともに村を大幅拡大するので描写が大変になる。キャラ数が増えるとともに一人あたりの描写が薄くなるので味気ないし、ケンタウロス族なども出てきて映像的レイアウトが難しくなる。雰囲気も、「小さな家族的共同体→視野の広い村落経営」と大きく変わる。ストーリー面でも、武術大会に大きな時間を割いたり、村外の温泉開拓に出掛けてこれまた長尺の物語にしたりと、かなり散漫になる。そもそも、アニメ版1期の中で時系列や人間関係をいじっているので、そのまま続けると原作との齟齬が大きくなる。
原作のクオリティと世間的人気は高いし、倉谷涼一監督によるアニメ化もたいへん洗練された出来だったのだけど、アニメ翻案は1期だけで終わらせておいた方が良いと思っている。もっと言えば、内藤氏ほどの有り余る才能を、拡大しすぎた『農家』連載1本だけで十年以上消費させていくのはもったいなすぎると常々思っている。ソフトハウスキャラで企画&脚本をしていた時代の内藤氏なら、十年あれば3~4本は新たなヒット作を出していたのに……。
2023年のアニメ版は、主人公のモノローグ中心で村内開拓のプロセスをしっとりとみずみずしく描きつつ、メインヒロインとの一対一関係を主軸に据えて全体の見通しを整理していたし、キャラ数もほどほどであまり混雑しなかった。そういう美質が、不可避的に全て崩れていくわけだからなあ……。村内開拓→巨視的になって映像的な面白味を出しにくい。夫婦関係→サブヒロインの出産などもあってややこしくなる。キャラ数→住人が数倍に増える。これはつらい……。
[ https://kuragebunch.com/episode/2550912965978783453 ]
(※グロ注意。ただし今回は珍しくグロ無し)
スライムキャラに対する罵倒(煽り)として「単細胞」と呼ぶレトリックが上手い。そう言えばそうだねと。ファンタジー世界の事物の成り立ちについて、根本から掘り下げつつ細部をきちんと考えているクリエイターでなければ、「単細胞のスライムにしてはよくやりましたよ」という台詞はなかなか出てこないだろう。すごいよ。
もっとも、大抵のファンタジースライムはプラナリアみたいな多細胞だろうけど。
美少女PCゲーム(アダルトゲーム)の歴史展望については、これまで何度も書いてきた。
基本的には、現在のオンラインゲーム(いわゆるソシャゲー界隈)の直系の先行者として位置づけるのが最も適切だろう。
90年代以降の美少女ゲームの爆発的な人気は、技術的にはパソコンの普及(windows95/98)とインターネット上の話題性によって強力に後押しされ、文化的には『エヴァ』以降の「オタク/マニア」の拡大、そして社会的には宮崎事件の負の影響がひとまず終息しつつある時期だった。
そうした中で、メジャー漫画雑誌や家庭用ゲームは参入障壁が高かったのに対して、裏付けのないクリエイターたちが商業作品を出せる場として貴重だった。そうしたフロンティアに、才能あるイラストレーターやTRPG/メールゲームのライターたちが大挙参入した。ゲーム文化の中でも、『同級生』(1992)から『ときメモ』(1994)が、「美少女キャラ萌え」の下地を作っていた。さらに90年代末のネット二次創作小説の文化も、クリエイターの発掘に大きく寄与したとされる。
最先端のキャッチーな絵柄と、カラフルなCG(※1996年には256色環境が整備されていた)、他にはない官能的表現、開き直ったキャラ萌え(例えばツンデレキャラ)、優れた歌手たちによる主題歌と目新しさに満ちたムービー、そして何が出てくるか分からない魅力的なごった煮。そういったものが、当時花開きつつあるインターネットの意欲的な「ホームページ」持ちによって活発に語られ、ネットの(少なくともインドア派趣味人たちの間では)メジャーな話題として大きく注目を集めた。ゲーム攻略やバグ対処も、ネットでの情報交換を積極的に後押しする重要なファクターであり、それがさらに新たな作品への興味を刺激していった。その一方で「秋葉原」という重要拠点に早期進出できていたのも大きかった。OPムービーと主題歌を流し続けることによる訴求力も、先進的だったと言えるだろう。
90年代末からのコミックマーケットの拡大との間でも、相乗効果を生んでいた。美少女ゲームメーカーが華やかなイラストとともに企業ブースに出展し、有名原画家たちもサークル参加して壁際の特等席を占めていた。そして大量のサークル参加者たちの中から、また新たな原画家志望者たちが現れてきた。
他の分野について、あえてネガティヴな側面を挙げると:
90年代当時のTVアニメは、まだ放映の地域格差が大きいままで、また、深夜帯もほとんど存在せず、作品へのアクセスがかなり乏しかった。レンタルビデオのラインアップも限られていた。内容面でも、迷走期だったように見受けられる。
家庭用ゲームは、SFCの最盛期を過ぎて、PS1(1994年発売)、SS(1994)、DS(1998)へ移行した時期で、ハード間の混乱もあり、技術的にもぎこちない3Dなどが目に付き、その一方で高額化傾向が顕著になっていた。ただしアーケードゲームは、対戦格闘や弾幕STGなどで大いに賑わう絶頂期にあった。
漫画分野は、当時はまだ雑誌の数もごく限られており、選択肢が乏しかった。ただし、「ガンガン」(1991年創刊)や「電撃大王」(1994-)、「ウルトラジャンプ」(1995-)、「まんがタイムきらら」(2002-)などで、層の厚みを増してきた時期ではあった。成人コミックは、まだあまり洗練されない時期だったように思うし、モノクロ媒体とカラーCGでは落差があっただろう。
ライトノヴェルはよく知らないが、沈滞期から下降期に入っていった時期だろうか。
こうした状況下にあって18禁ゲーム分野は、「二次元アダルトコンテンツとしては最もアクセスしやすく」、「ネット上での話題性があり、即売会などでも大きく扱われ」、「最先端媒体であるPCと連動しており(※もちろん売り場も近かった)」、「絵柄も最先端のチャーミングなもので」、「第二世代オタクたちが、誰かから押しつけられたのではない『自分たちのコンテンツ』であり、『自分たちが発見していける傑作』であった」と言える。その最盛期は90年代後半から00年代後半あたりまでの十年に及ぶ長さだった。00年代には、美少女ゲーム発のTVアニメも多数制作されるほどだった。
ただし、00年代末頃からは、状況が変わってくる。アダルトコンテンツに対する締め付け(※家電量販店でもコーナー撤退した)。違法共有の深刻化。配信アニメをSNSで実況しあうという慣習の出現。表現力を増したゲーム機。メディアミックスへの乗り遅れ(※というかアダルトコンテンツなので、乗ることが出来なかった)。アニメと漫画のタイトル数の爆発的増加。萌えキャラ文法も他分野にコピーされて、美少女ゲームの独自性は失われた。そして最終的には、お色気キャラを大量に登場させるオンラインゲームに取って代わられた。ライターたちにとっても、小説投稿サーヴィスであれば、一人だけで作品を世に出せる(そしてそれが生計につながる見込みがある)という環境になった。
言い換えれば、90年代以降のキャラ萌えを前面に押し出すオタク文化を一手に引き受けて大幅拡大し、その価値観や美意識や認識形態や造形意識や受容形態をあらゆる分野に振り撒いて拡散と浸透を果たしたということでもある。ゲームや漫画をひといきに「キャラクターコンテンツ」の次元へと一変させた、まるでモノリスのような現象だった。
技術と人材の面でも、いわゆる「みつみ絵」は取っつきやすいkawaiiキャライラストのお手本として強力に普及したし、才能あるライターが美少女ゲームに参入し、そこで稼ぎ、名を売り、さらに他分野でも活躍するようになっていった(※早期の著名な実例として『ゼロの使い魔』のヤマグチノボル氏、そして現在では『のんびり農家』の内藤騎之介氏も)。
私自身、現在でも近所の専門店で買うことはたまにあるが、三桁の積みを消化しきれないまま何年も過ごしている。
ロマンポルノ映画に準えて「えろがあれば好きにしてよかった」とする説明の仕方には、疑問がある。そもそも、どこかが取りまとめて企画のOK/NGを判断していたわけではなく、ゲームメーカーを設立して倫理機構チェックを通せば得ることができたので。もちろん、流通を通す必要はあるし、のちには流通系企業が大きく出資して作品内容に介入される場合も増えていたようだが。
そして、アダルト要素があればユーザーが満足したというのも疑わしい。18禁要素は、単なるカテゴリー分け(売り場の問題)にすぎないし、一部のタイトルについては「アダルト要素は要らない」というユーザーすらいたので。その意味でも、「アダルト要素を入れていればOK」というのは、説明としてきわめて一面的で、実態に合っていない。あくまで重要なのは、少人数制作での市場参入のハードルがきわめて低かったという点であって、アダルトであるかどうかは決定的ではない。
もっと言えば、00年代後半以降は、ベッドシーンのボリュームがどんどん増えていって作品全体のバランスを圧迫していった(※個人的にも、長大なアダルトシーンを連発されるのは鬱陶しかった)。
08/12(Tue)
中国メーカーの模型について。破格の安さ+大ボリュームが特徴的だけど、何故だろうか。適当に想像してみる。(※あくまで適当です)
1) 人件費。一つには、「人件費が桁違いに低い」という要素が世上で語られている。しかし模型キットは、労働集約型産業ではない。金型製造には少数のプロフェッショナルが必要だし、キット(ランナー)の射出成形もオートメーションの極致だ。もちろん工場稼動にも人員が必要だが、それほど大きな費用負担にはならないだろう。後は、「検品」「箱詰め」「輸送」などの作業で人手を要するが、それほど大きな割合を占めるものではないだろう。
ただし、エラー品や欠品の多さを考えると、検品やクオリティコントロールの手間を削減して、コストを下げているという可能性はある。プラモデル以外の工業製品でも、中国製(つまり、日本から中国国内への委託製造)には同様の問題がしばしば生じている。
また、エラー率の問題を別にしても、日本国内のキットとは品質面での格差はある。例えば関節部の安定感、組み立てやすさ、エッジの鋭さ、両目プリントの色数、等々。そうした点は、日本企業の製品にも独自の付加価値があると認めるべきだろう。
……とはいえ、中国キットの側でも、偏光メッキや金属製フレーム、色変えランナー、布製パーツ、LEDパーツ、さらには箱の豪華印刷など、内容を充実させるための技巧や作業がふんだんに投入されていて、一商品として驚嘆すべきクオリティがある。ほんとに、あれだけの内容物をいったいどうやって調達しているのだか……。
2) 材料費。プラモデルのコストを上げている要因として、近年大きなのは材料費だ。資料や時期によって変動するが、中国は全世界のプラスチック生産の2割~3割程度を占めているようだ。中国は産油国でもあり、石油もかなりの程度まで国内調達できている筈だ。材料を輸入せずに自国調達できる(≒安価に入手できる)のは、プラモデル産業にとっても非常に大きなアドヴァンテージになる。
3) 環境配慮。ここからは想像の度合いが強まるが、環境配慮のためのコストを負担していないのではないかという疑念もある。中国は、例えばCO2削減がいまだ立ち遅れており(※近年かなり改善されつつあるという話もあるが)、そういった工業生産に対する制約が乏しいことが、製品のローコスト化をもたらしている可能性がある。皮肉な話だが。
例えば艦船模型用の金属製エッチングパーツも、国によって溶剤規制の問題があり、それが値上がりを引き起こしたり、製造困難になったりという噂を見たことがある(※明確なソースは辿れなかったが、十分あり得る話ではある)。
4) 市場規模と販売戦略。日本メーカーのキャラクター系プラモデルは、基本的には日本の人口に対してしか売れない(プラス、欧米などの一部の市場にもリーチしているが)。それに対して中国メーカーは、14億人の市場をじかに利用できる。もちろん、一般消費者の経済力の問題などはあるが、薄利多売戦略を採用しやすいのは確かだろう。
というわけで、近年のトイやガールプラモで、驚くほどの低価格とボリュームを両立させた製品が出てきているのは、一応理解できなくはない。ただし、各論レベルで依然としてさまざまな疑問はある。
A) 日本メーカーが中国で製造させたのに高価格なのは?
市場規模、検品コスト、取引費用、輸送費などで、ある程度は説明できる。童友社価格は納得できないけど。
B) ただし、艦船やAFVでは、高額キットも多数存在する。
これについては、品質や歴史的経緯が関わっていると推測される。例えばDragnon社(上海)やMeng Model社(広東省深圳)の大ボリューム&高品質なAFVキットは、日本円にして1万円以上になっている。TAMIYAのシンプルにまとまったキット(3000円台くらい)と比べれば、さすがに価格が上がるのは当然だろう。
艦船模型分野でも、Trumpeter(広東省中山市)も高価格の大型キット路線に進んだし、その一方で3Dプリントパーツなども含めた超々精密キットも市場進出してきた(浙江省杭州市のFlyhawkや、最近だとVery Fireなど)。これらもクオリティ確保のためのコストがかなり掛かっているものと思われる。なにしろ繊細なパーツは、射出成形の歩留まりも低くなるので。品質管理の必要から、大量生産にも限界があるだろう。
それに対して日本国内のキットは、数十年にわたって国内市場でかなり低い価格帯を維持してきたので、値段を上げにくい(※それでも、どんどん上がってきたけど)。また、HASEGAWAなどは減価償却の済んだであろう金型を使い続けているので、その点でも製造費を抑えられる。
スケールモデルの分野的特質もある。例えばガールプラモやロボットプラモであれば、土日のパチ組みだけで完成させることも多い。言い換えれば、どんどん新作キットを買って消化していける。それに対してスケールモデルは、大量の細密パーツを全塗装で組み上げていくため、一作につき1ヵ月~数ヶ月を掛けることも多い。デリケートなキットなので、保管のスペースも確保しなければいけない。そうすると、購入ペースはかなり鈍くならざるを得ない(※もちろん、サクサク制作していくモデラーもいるし、ひたすら買って積みまくるユーザーもいるが)。つまり、セールスが伸びにくく、市場規模も小さくなりがちで、それゆえ薄利多売戦略が取りにくい(※ロングテール型販売でなんとかやってきているが)。
ちょっと不思議なことに、韓国のスケモメーカー(Academy社)が、非常に安価なキットを製造できている。材料費も人件費も掛かるだろうし、市場的な有利も無さそうなのに、頑張っているなあ。
C) ガールプラモについて。
実のところ、割引販売まで考慮すると、価格差はかなり縮まっていると言えるかもしれない。例えばKOTOBUKIYAの大物キットでも、予約購入すれば2-3割引で買えることが多い(例えば8000円かそこら)。中国ガールキットを6000~7000円で通販購入するのと比べて、極端に差があるというわけではない。BANDAIのFigure-rise LABOの大型キットも、クオリティとボリュームを考えれば遜色ない水準だ。AOSHIMAのVFGシリーズも、定価は高いが、あれは割引前提の価格設定のように思える。
ただし、日本のキットが、プレーンなガール一体とわずかな武器だけで5000円も6000円もするのは、価格差を痛感させられる。まあ、仕方ないので応援のつもりで、できるだけ買うようにしているが。
ボリューム面で国内メーカーが劣るように感じるのは、実のところ、ボリュームそのものの問題ではなく、「気の利かなさ」に起因するところもあるかもしれない。例えばKOTOBUKIYAキットでも、「このランナーをもう1枚同梱していてくれれば2体目も作れそうなのに」といったような、なんとも惜しい製品構成に遭遇することがある。気の利かなさで損をしているのは、実にもったいない。そして、このようなユーザビリティ配慮の次元で後塵を拝することこそは、模型メーカーのポテンシャルと将来性にとっては、きわめて危険な兆候だと思う。
大雑把に想像するとこんな感じ。国によって物価(≒労働の価値)が大きく異なるのは、まあ、仕方ないというか、どうしようもないことだが、せめて搾取ではない形であってほしいとは思う。
私がプラモ/ドールのスカートを自作するとしたら、どうするかなあ。
適当なハンカチやユザワヤ布地あたりを、アイロンと洋服ノリで固めてプリーツの折り目を作っていくだろうか。なまじの既製品ドール服よりも、薄手で素材感の良いものを作れる筈……たぶん。
既製品のプリーツ布地もいろいろある筈なので、そこから良さそうなものを見繕ってこられれば重畳。あるいは、自作でヒダをきれいに揃えたい場合は、金属定規などを治具にして幅を合わせていくことになる。ただし、素材によっては透けてしまうので、裏地かインナーを付けた方がよい。
いずれにしても、1/10の小スケールだと、質感表現と扱いやすさの間のトレードオフが強烈なのがつらい。つまり、「生地を薄くて柔らかくて細やかにすると、加工しにくいし透けたり崩壊したりする。逆に、耐久性があって加工しやすい素材にすると、生地が分厚くて着膨れした感じになってしまう(1/12ドール服が典型)」。スカートだけなら、着膨れの問題は起きにくいので、わりとなんとでもなりそうだけど……。
あるいは、既存の適当なフィギュアからスカートを奪って(ひどい)こられれば簡単なのだけど、ちょうど良いフィギュアは思い浮かばない。また、難点もあ.る。固定スカートなので可動には適さないのと、PVCなので塗装しにくいという点(※一応、塗料が乗りはするけれど)。
SDガールプラモ「異世界旅行手帳:新人戦士」雑感。
パーツ精度はかなり低めで、嵌め込みピンも太くて野暮ったいし、合わせ目の隙間も出やすい。パーツ構成も洗練されず、例えば素体→武装へ換装するにはオムツパーツをバラす必要がある。腕部などのジョイントも、ベタな嵌め合わせ構成のまま。
しかし、商品全体としての見せ方は意欲的だし、洒落っ気もある。シリーズのコンセプトそのものはユニークで興味深いので、製造技術が追いついてきてラインアップも出揃えば大きく化ける可能性がある。
商品コンセプトは、SDボディにタッチゲートを採用しているところを見ても、おそらく低年齢層を見込んだトイ路線と思われる。幼い頃からガールプラモの危険な英才教育をするつもりか!? プラモデル文化の裾野を広げてくれる試みはたいへんありがたい。
思い出したので、『ソラノヲト』のディスクを掘り出してきて、第7話「蝉時雨・精霊流シ」の回を再生していた。蜃気楼のように現実味を失わせる夏の空気、読経のように遠く響くセミの鳴き声、お盆のしめやかな慰霊の儀式、そして戦争にまつわる無数の後悔と悲嘆。そしてしかし、全てが終わった「残滓」であることに抵抗しようとする意志。ノスタルジーにうずくまるのではなく、その先の何かを見ようとする姿勢。
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偉大なゲームクリエイター(と認識されている人物)だと、老人ホームで職員にキレる凶行を繰り返していても、矍鑠たる元気さを証明する美談として扱われてしまうんだなあ。まあ、あんまり悪く言いたくはないけれど、ひとの言動の評価はかくも容易に歪んでしまうというやるせない実例だし、こういう入居者に遭遇してしまった職員さんは可哀想だ。
もちろん、上記のような話を喜々としてSNSで放言してしまうmasuda氏にも、きわめて大きな問題がある。クリエイターとしての能力と社会性は一致するわけではないとはいえ……。
「ユニークなシステムを着想できる能力」、「それを商業ゲームとして完成させられる組織マネージメントスキル」、「作品がユーザーにどのように受け止められるかを察したり、社会状況の中での流行を感じ取ったりする、社会性の鋭敏さ」、「ゲーム分野とは関係のない一般的な良識の有無」、「個人としての人付き合いの良さや人間的魅力」は、まあ、それぞれ独立の資質だよね……。
例えば、「オリジナリティのあるアイデアを出せるけれど、時流を読めないので全然受けない」とか、「システムの案出はオーソドックスだけど、隙のないゲームを作って堅実に成果を出していく」とか、「傲慢で独善的なパワハラ屋だけど、時代に合ったキャッチーなゲームを作るのがとても優秀だ」とか、「人柄が魅力的なので高い地位についてしまったけど、ゲーム作りのセンスはどこかズレている」とか……。
姉様のアラクネ化を、こちらでも試してみる。なるほど、これは格好良い……。10年代風(『インフィニット・ストラトス』以来?)の武装ガール路線に見えるし、メカ+ガールという意味では、むしろこちらの方がalicesoft主流派のデザインに近い感じ。背面はアラクネユニットをそのまま取り付けただけ。カチカチのラチェット関節は、強度確保にはありがたいのだけど、このままだと可動の向きが限定されて扱いにくい。間にもう一つジョイントを挟んで可動方向を増やした方が、干渉のクリアランスを確保しやすそう。角度を変えて撮影。ロングヘア、人間腕、スカートと干渉しかねないところは多いけれど、ベタに取り付けて飾るだけなら、なんとかなった。やはり両目を濃いめのレッドにしておくと、遠目にも表情が引き締まる(※ファレホ「Gory red」と「Bloody red」を半々くらいで混ぜた)。典型的なアラクネ型、つまり背後に蜘蛛脚を並べるとこんな感じ。このアラクネ脚は、それぞれジョイントが4箇所もあるので、表情づけも柔軟にできる(※もちろん、スタンドでしっかり支えておくのが前提)。6本脚から8本脚に増やしたい場合は、途中で枝分かれさせるのが無難かな。こちらは適当な3mmランナーを噛ませただけ。ランナーの長さ次第で、いくらでも調整が利く。ロングヘア(上)とスカート(下)の間で、干渉を避ける高さに持ってこられればひとまずフィットする。ただし、これだとスタンド軸を差し込む場所が無くなってしまうのが難点。MSG「フォールディングアーム」×2を使ってこのくらいまで可動を増やしておけば、パーツ干渉はかなり柔軟に避けられるようになる。ただし、保持強度は低めだけど……。位置を決めたら接着剤で固めてしまってもいいかも。あらためて2人の蜘蛛キャラクターを並べてみる。和風+クトゥルフ妖怪な姉様と、ボンデージ風でアグレッシヴな甲冑兵士の「アラクネ」、どちらも良いデザインだと思う。
実を言うと、ここからさらに背面の巨大な蜘蛛腹部を接続してみたいが、さすがにそこまでやると見た目がきつくなりそうなので差し控える。ただし、海外メーカーの「ガードスパイダー・フェーディ」は丸々とした蜘蛛の腹部も装着していて、あれはあれでグロかわメカきもい愛嬌があった。
クリアパープルの刀身は、いかにも妖刀といった雰囲気が素晴らしい。どこかで活用したい。
「異世界旅行手帳」のRenee Brown。甲冑等をシルバー塗装。膝のみレザーブラウンを筆塗り。それ以外はトップコートのみ。甲冑や長靴は筒状で、任意に着脱できる。パーツ精度は低く(特にハンドパーツが脱落しまくる)、単体での面白味には乏しいが、シリーズ化すれば楽しみが増していきそう。サイズは約12cmで、黒白無常仙とほぼ同じ。ただし、頭部のデフォルメ加減はかなり異なる。ねんどろいどよりも一回り大きく、そして可動箇所も桁違いに多い。パッケージをそのまま、ジオラマ(ヴィネット)のように使ってレイアウトすることもできる。これはなかなか秀逸なアイデア。
海外キットに遅れを取っているのは、惜しいというか、悲しいというか……。資金力で負け、技術で上回られ、販売戦略とIP交渉で、そしてアイデアでも先を行かれてしまうとなると、やはりつらい。お色気に活路を見出すというのも、あんまり良いことではないしなあ……。
もちろん、趣味はユニヴァーサルであって、国ごとの競争をする問題ではない。しかし私が属している文化圏の産業活動が上手く行っているかどうかは、私自身の趣味の豊かさや安定性に直結する問題なので、国内メーカーが市場的にも元気でいてほしいと考えるのは、(排外主義などに走らないかぎりでは)一定の合理性がある。
というわけで、「国内のメーカーと販売店に、できるだけお金を落としたい」というポリシーでいる。グローバル悪辣通販企業は、可能なかぎり使わない(※さすがにゼロとは行かないので、「そりゃあ、わしらも、ちょっとは使うがの」くらいの気持ちで)。なので、海外ガールプラモも、基本的には、近所の模型店に出ているときに買うくらいにとどめている。それでも、ちゃんと定期的に新作が出てきてくれるので、買いたいものはだいたい賄えている(※先頃のラミアガールは、一度は店頭で見かけたものの、その日はたまたま荷物が多くてスルーして、次に訪れたらもう売り切れていた。買っておけばよかった……)。
08/10(Sun)
雨天の日曜日は、体調を崩しかけていたこともあり、自宅で漫画新刊20冊以上を読んで過ごした。豊作は嬉しいが、収納場所が……もう私には……。
薬師寺久遠の可動優先設計が世間的に好評っぽいのは、ちょっと意外だった。
「ダイバーナミ」(2018)が出た頃は、作為的な二重関節はかなり嫌われていたと記憶するし、今回の薬師寺久遠も可動確保のために明らかに肘が間延びしている(※通常の人体は、肘を180度まで曲げることはできないし、そんなに可動を広げる必要は無い)。
「創彩」シリーズの中で見ても、これまでは腰掛け差分パーツを用意するなどして常にシルエットの美しさを最優先にしてきたスタンスから、大きく舵を切って路線変更したことが受け入れられたのも、けっこう驚いた(※言い換えれば、既存「創彩」ユーザー以外にもこのキットが訴求したことの現れでもあるだろう。キャラ人気の強さよ……)。
製品コンセプトの問題としても、「メガロマリア」とのコラボという無理を通したのは、わりとリスキーだったと思うが、これについてユーザーたちは寛容だったように見受けられる。MMシリーズはあまり売れていそうにないのに……。
時代とともにユーザー文化も変わってきたのだろうか。まあ、多様性を増すのは良いことだし、また、「創彩」シリーズそれ自体も2021年からもう4年以上続けてきて、そろそろヴァリエーションを増やしたり新機軸を取り入れたりしたい時期なのも分かる。
ユーザーサイドとしても、「制服キャラでありながら、自由なポージングができるキット」は、ほぼ初めてなので、ポージングでやれることが一気に増えて楽しいというのは理解できる。これまでの制服キャラや着衣キャラは、fiamaや1/12ドールのややぎこちない動きだったり、あるいはBANDAIの『水星』キットやKOTOBUKIYA「ホイホイさん」や新興メーカー(annulusなど)のキットでも、可動はかなり限定的だった。そう考えると、このキットは着衣ガールプラモの新たな魅力と可能性を開拓した意欲作だという評価ができるかもしれない。
ただ、「可動」という一見明快なメリットは、実際にはそれほど活用されるわけではない。また、いったん導入してしまうと戻りにくい(可動を殺す側への仕様変更はしにくい)ので、「創彩」企画全体の柔軟性やコストを制約してしまうデメリットもある。とはいえ、今回は作中作というイレギュラーな位置づけを前面に出したうえでの実験なので、レギュラーシリーズでは後戻りの余地を残している。この点は上手い。
「ウルフさん」「薬師寺久遠」と、頭部を1個ずつししか作れない仕様になってきたけど、これはこれで妥当なのかな。これまでのシリーズで頭部は十分余っている――なんだかひどい表現だ――筈だし、コスト面で考えても、頭部パーツを減らすのは下げ幅がかなり大きいだろうから。
「ミステリアスな黒セーラー服キャラ」は、いつ頃からどのようにして定着してきたのだろうか。
黒セーラー(あるいは紺セーラーや黒服)それ自体が、昔からそれなりに一般的な存在だったし、80年代以前の怪奇系コンテンツ(『夢幻紳士』や『スケバン刑事』)でも、おそらく非日常性のアイコンとして機能していただろう。
しかし、妖気の表現としての黒セーラーは、直接的に遡れるのは90年代後半以降のサブカルチャーまでではなかろうか。それ以前だと、黒セーラーでも青っぽく描写されていたし(例:『幽遊白書』のぼたん)、萌え系妖怪ヒロインなどというものが受け入れられるようになったのも基本的には90年代以降のことだろう。というわけで、現代に至るまで、知名度の高い黒セーラー服キャラが何人も登場してきた。初音姉様は、その最初期の原型の一つだと思うが、それ以外にもいたかもしれない。基本的に、「真っ黒のセーラー服+スカートも長い+黒髪ロング+しばしば赤目+異種族(超自然的な力の持ち主)+しばしば武器を持って戦う」というのが定番になっている。見た目のうえでは、紺色セーラーで表現される場合も多い。
2010年頃までで、主立ったものを挙げると:
キャラクター | 作品/シリーズ | 発表年 | 属性等 |
高城千砂 | 漫画『羊のうた』 | 1996- | 吸血鬼のような体質を持つミステリアスキャラ。制服の襟スカーフは水色。2003年にアニメ化。作者は1996年の中編(単巻)『ZERO』でも、学校を破壊する片目隠れ少女(セーラー服)を描いている。 |
比良坂初音 | ゲーム『アトラク=ナクア』 | 1998 | 妖怪。赤目。スカーフは白。 |
小夜、更科小夜 | アニメ『BLOOD』シリーズ | 2000- | 日本刀で怪異と戦う。目が赤くなる。スカーフも赤。 |
シャナ | 小説『灼眼のシャナ』 | 2002- | 日本刀で怪異と戦う。濃い赤色の目で、スカーフはベージュ色。2005年から複数のアニメ化。 |
姫岸唯緒 | ゲーム『屍姫と羊と嗤う月』 | 2003 | 怪異の力を持つ。目が赤くなる。スカーフは白。 |
高城七七 | ゲーム『カルタグラ』 | 2005 | ミステリアスな天才少女。短髪眼鏡。スカーフはベージュ色。 |
閻魔あい | アニメ『地獄少女』 | 2005- | 妖怪。つややかな赤目。スカーフは赤。漫画などにもメディアミックス展開。 |
嘉村令裡 | 漫画『怪物王女』 | 2005- | 吸血鬼。瞳は赤色寄り。スカーフも赤。2007年等にアニメ化。 |
疋田伊織 | ゲーム『終末少女幻想アリスマチック』 | 2006 | 大剣で戦うバトルキャラで、異種族の血統が入っている。瞳は濃い赤色。スカーフは白だが、襟のラインは赤。 |
(various) | ゲーム『グリンスヴァールの森の中』 | 2006 | ファンタジー学園SLGの制服。スカーフは水色や赤などで、ラインは金色というファッショナブルな色調。 |
朱鷺宮神依 | ゲーム『アルカナハート』 | 2006 | 日本刀で戦う格ゲーキャラ。スカーフは白。黒というよりは紺色か? |
羽衣狐 | 漫画『ぬらりひょんの孫』 | 2008- | 妖怪。スカーフは白。2010-2011年のアニメ化などメディアミックス展開多数。 |
庚夕子 | 漫画『黄昏乙女×アムネジア』 | 2009- | 幽霊。瞳は赤色寄り。スカーフも赤。2012年にアニメ化。 |
(various) | ゲーム『Hello, good-bye』 | 2010 | 黒セーラーが指定制服。襟そのものは白色で、スカーフ(リボン)は赤や紫。SF要素あり。 |
10年代以降になると、黒セーラーを改めてファッションとして取り入れたり、レトロ感の演出として用いたりする日常系作品も増えてきたという認識。例えば『屋上の百合霊さん』(2012)、『ひとりのクオリア』(2014)、『愛妹恋愛』(2014)、『明日ちゃん』(2016-)、『ゾンビランドサガ』(2018-)など。
『喰霊』(2005)、『リトルバスターズ!』(2007)、『アマガミ』(2009)、『恋色空模様』(2010)、『ノラと皇女と野良猫ハート』(2016)の制服も、黒セーラーそのものではなく、セーラー風の襟付き上着だったり、黒基調のブレザーだったりする。『キルラキル』(2013)の纏流子は、『スケバン刑事』の系譜か。
『はるるみなもに!』(2017)の制服デザインは、やっぱり下品だよなあ。黒セーラー服の随所に黄色のラインを描いて、襟には切れ目、スカーフは白フリルとチェック柄の大きなリボン、袖の折り返しにも三角の切れ目、そして金色ボタンに白色ベルト(!?)、上着の下からインナーを覗かせ、さらにスカートも黄色の縁取りに白フリルという、センスの無いゴテ盛りの極致。
黙って静観しておくつもりだったけど、教育関係の問題ではあるので、私なりの見方をば。
私立の学校法人は、地元の一族経営で漫然とやってきた場合もあって、そういうところは本当に理事会全体が内輪思考で、世間の動きがまるで見えていなかったりするし、同族中心で長年やっているだけで学生たちと直接交流するわけではないから、学生保護の意識も教育者の社会的責務も希薄になっていたりする。もちろん、優秀な教育者たちによって運営されている健全な学校もたくさんあるけど、腐り果てた昭和旧弊的な小規模内輪組織の場合も残念ながらわりと存在する。一族経営でない場合でも、同じような状況になる可能性はいくらでもある。
そうした組織が、スポーツなどの特定の柱によ寄り掛かったままでいると、それ以外の選択肢が取れないところまで追い込まれている場合もある。そうすると、何か不祥事が起きたとしても、その柱にしがみつき続けるしかない(=隠蔽してでも何をしてでも、成算が低くても、それに賭け続けるしかない)。客観的にはともかく、少なくとも主観的には、「それしか無い」「それを守っていくしかない」と絶対視する認識になってしまう。そして、その部門を担っている担当者(監督たち)の権力が異常に増大する。
保護者&学生側も、そういう事情を理解したうえでその学校を選んでいるわけだから、基本的には一蓮托生になり、大きな問題が起きた場合でも、学校の方針を表立って批判することができない。かれらにとっても、それは「自分たちが頼るべき、学校の価値を生み出している柱」になってしまっているので。さすがに、よほど致命的な問題になって集団訴訟を提起するくらいになればまた別だが、そこまで至らない(とギリギリまで信じ込む)範囲内では、学校法人の方針に従順であり続けるしかない。
その挙げ句が、まあ、ね……。風通しの悪い抑圧的組織が生まれてしまうことは、なかなか避けがたいものだけど、やはりそれはパブリックにきちんと批判されていかなければ、社会は良くならない。そして、十把一絡げに「学校は良い/悪い」と断じるのではなく、「どのような条件の下で、どのような要因が、どのような構造的不正義をもたらすか」という観点で冷静に分析すべきだろう。
いずれにしても、未成年者である生徒たちの尊厳を守ろうとする姿勢を取れない教育機関は、端的にケーユーエスオーと呼ぶしかないが。
学生の集団スポーツは(あるいは吹奏楽などの隣接領域も含めて)、多かれ少なかれ、小集団の抑圧的な規律支配に傾いてしまいがちだし、活動の財務的存続のために商業主義に手を染めてしまいやすい。なので、個人的には、集団スポーツものの漫画はまず読まないし、そういうジャンルのアニメも視聴から外している。スポーツもまた文化なので、一概に悪いというわけではないけれど、現代のスポーツ組織慣習はとても肯定できないので、少なくともそこにお金を落とすことはしない。
もちろん、それを言うならアニメ産業も、異常な搾取が常態化しているわけで、それを無視してただ笑って視聴していてよいのかという問題はある。実際、2010年代以来の私はそういう観点から、アニメから距離を取っていたし、今でもけっして「アニメオタク」を名乗るつもりは無い(※アニメを自分のアイデンティティにしないし、また、「オタク」という汚れた名前を引き受けるのももう嫌だ)。ここ数年で画趣あるにオンライン視聴をするようになっているのは、はっきり言えば、そして恥ずかしながら、機会的妥協と倫理的後退にすぎず、ずっと疚しさを抱えたままでいる。
保護者や一般学生は、組織的虐待構造から、間接的とはいえ一定の利益を得てきた関係者ではあるのだが、そうした消極的なbystanderに責任を問いすぎるのも、事態の解決を遠ざけてしまうだろう。直接の当事者や監督責任者でないアクターについては、心理的-社会的な救済(脱出支援も含む)を重視した方がよいと思う。とりわけ当該部活の所属者たちは、継続的集団的虐待(があったとして)を知らなかった筈が無いのだし、かれらもけっしてクリーンだとは言えないのだけど、それでもね……。
カルト被害者と似たようなものだ。カルトやマルチ詐欺の被害者は、同時に、犯罪者を肥え太らせてしまった当事者でもあり、部分的には(広い意味での)共犯者でもあり、そして首謀者に指示されてさらなる勧誘拡大の尖兵になっている加害者としての側面も不可避的に持つのだけど、そこを強く責めはじめると、カルト解体がかえって遠のく。首謀者以外については、脱洗脳と脱退支援を重視するのがよい。これはカルトだけでなく、ヨットスクール的虐待サークルや労働者抑圧的企業やカルト政党についても、同じような考え方で臨むべきだと考えている。
現生人類は、気候変動の激甚化と、それに伴う生態系の崩壊と第一次産業の破綻(=全世界的飢餓)、そして社会秩序の致命的解体とそれによる危険物管理の失敗(原子力施設や生物兵器)によって、せいぜい50年も経たずに絶滅するだろうと思っている。ごく一部の富裕層などはシェルター内でしばらく生き残るかもしれないが、それもエネルギー供給や対処困難な病気などの問題ですぐに終わりが来るだろう。
コロナ以降の経緯を見ても、人類がそうした致命的な問題に対して歩調を合わせることは不可能であると判明したし、なんらかの技術革新があったとしても絶滅をほんの少し先延ばしにするだけで、結末そのものはもう変えられないところまで、地球環境の悪化と社会構造の歪みが行き着いてしまったのではないかと思っている。
あとは、何億年も保つとされるガラス板ストレージに、理想のイラストのデータや最も美しい音楽のファイルを掘り込んでどこかに埋めておくくらいかな。
08/05(Tue)
姉様再現計画は、新記事にて。この雑記欄の制作中メモも、そちらに移設した。
制作そのものは、あまり手間をかけずに簡単な作業だけで完成した。要は、適当な脚部を調達してポン付けしただけなので、技術的難易度は低い。ただ、そのわりに見栄えはするし、私なりの個性も出せたし、ガールプラモシーンに何かちょっとしたものを追加できたと思う。グロいけど。
大人なのでジャムやクリームを単体でmgmg食べまくることも出来てしまうのだが、しかし私はもう大人なのでそんなことをしてはいけない。「水飴は毒じゃぞ!」
10月18日からの模型コンテスト。せっかくだから今回も参加してみたいが、どれにしようかな。私なりの出品基準は:
1: できれば珍しいものを。つまり、他に無いものを出し合うことに価値がある。風変わりなキットや、実験的な技法など、何かしら見せどころのある作品を出す。
2: 入賞したくないので、受けそうなネタは極力外す。そもそも個人的に、キャッチーなものは好みではないから、問題にならないと思うけど。
3: クオリティ面では、全塗装で隙のない完成度であること。ただし、合わせ目消しやヤスリの面出しまではしない(※いつものことだが)。
今年制作した中で挙げるなら、「自然選択号」か、あるいは「タンク(Midnight Fang)」あたりかなあ。「ライガーテイル」はサイズがぎりぎりだし、派手なキットなので他の方が出してこられる可能性も高い(※ネタ被りになってしまったら申し訳ない)。最新作の姉様は、見た目がグロテスクなので企業コンテストに出すのは憚られる。昨年の制作だと、ミリタリー系ガール「STAPEL」は、機会があればどこかに出しておきたい。
初音姉様の写真は、どこぞの大きなSNSに上げてみようかと思ったけど、目立ちたくないので差し控えた。web検索などでブログ記事を見つけてくれる方が何人かでもいらっしゃったら十分ありがたいという気持ちで。
ただし、あくまで目的は、「目立ちたくない」、「邪悪なSNSのコンテンツを豊かにしてやりたくない」なので、マイナーで健全で平和的なSNSには上げている。
「ゲーム性」と言われてきたものを定義する試み。これまで使われてきたニュアンスをきれいに整理しているし、言語的にも明晰な説明になっている。
私なりの理解でパラフレーズすると、それはゲームの静的なシステム(メカニクス)そのものではなく、プレイヤーに対して意識的なアクション(特定の選択や行動)を促す性質を持っていることを指す。そしてこれは、プレイヤーの主観の側から見れば、ゲーム攻略を意識させられている状態だと言えるし、システムの側から客観的に捉えるならば、なんらかの流動性(不確定性)の中でプレイヤーをなんらかの仕方で行動させようとすることを指す。
言い換えれば、例えばサイコロのように「単なるランダムであって、参加者の意志的介在が無意味である行為」は、ゲーム性(ゲームらしさ)が欠ける。同様に、読み物ADVでは、選択肢が極端に少なかったり、選択肢を選ぶ効果が見えづらかったりする場合には、システマティックなダイナミクスは乏しく、インタラクティヴ・フィクションの次元に留まる。他方で、知恵の輪などのパズルも、この定義からすると「ゲームだ」「ゲーム性がある」と言えるだろう。
私自身がゲーム(性)について書いてきた時も、静的なシステムそのものの説明ではなく、それがプレイヤーをどのように動かすような仕組みであるかに注目してきた。STGのようにゲーム目的があらかじめ明確である場合にも、あるいは、SLGのように大きなシステムの広がりの中でプレイヤーが何を見出していけるかを考える場合にも、まさにこのようなアプローチを採っていた。そうした実践に対して、より厳密な言葉を与えてくれたのが、上記の定義だ。ありがたい。
792 : アクセサリープラモ
176*2 : 塗料
704*3 : オプションパーツ(MSG)
792 : オプションパーツ(MSG)
616 : ポリパテ
605 : 紙ヤスリ
880 : 金属ヤスリ
……たったこれだけなら、せいぜい4000円台だと思うでしょ……レジに持って行ったら、6149円だったんだよね……。
近所の模型展に行ってきた。規模は小さいものの、総じてクオリティは非常に高かった(※展示されていたのは、50個くらい)。
正直に言えば、電飾やゴテ盛りデコレーションは私の好みではなかったれけど、それはそれとして、技術的には参考になるところが多かったし、アレンジの発想や色彩の面白味についてもいろいろな刺激を受けることができた。
個人的に気に入ったのは、がっしりしたレッグアーマーのオリジナルガールや、シルバー塗装のメカ初音ミク、ストライクウィッチーズ風のVFG「カイロス」あたり。大スケール「轟雷」にスケールモデルパーツを装着させるのは、まさに私がやりたかったネタだが(※「出雲」で試そうとして断念したアプローチ)、この1/6サイズならではの迫力と説得力があった。盛り付け路線では、おそらくレジン製の龍首を何本も生やしてサイケカラーに塗った作品が、さすがに大きなインパクトがあった。
私のアプローチは、「基本的にはキットに忠実なままで、色調やディテールをちょっと整えて完成度を高める」、「特定のコンセプトを設定してその実現を目指すが、合わせ目処理などの細部の作業はサボる」というものなので、キットそのものの出来に左右されるし、おそらく素組みと見分けがつきにくいだろう(=言い換えれば、モデラーとしての私の個性は見えにくい)。もっとも、他人に見せるための作品ではないから、そのあたりは気にしていない。また、模型制作思想それ自体としては、「キットはあくまでキット(マテリアル集)にすぎない」とも考えている。
それに対して、表面処理まで丁寧に粘り強く継続作業できるモデラーや、自分なりのイマジネーションを形にしていけるクリエイターたちには、自分とは違った価値観や精神性を持っている趣味人として常に敬意を持っている。
「異世界旅行手帳」キットも店頭に出ていたので買ってみた。メーカーのPR-Productionは、以前に正統派ガールキット「漣」を発売した会社。
長所は、「とにかく安価」、「すっ裸のボディから、多少差し替えして武装状態にするという、ちょっと面白い実験性がある(※シリーズ化しての自由な組み替えも想定されているだろう)」、「ねんどろいど体型のキットは貴重だし、場合によっては使い勝手が良いかも(黒白無常仙ともほぼ同じ)」。「イラストがとても可愛らしい」、「シリーズ展開していくらしい(第2弾も告知されている)」。
短所は、「安いけれど、関節構成などは普通のキットと同じなので、手間が掛かる割には満足感が低い」、「武装を着込むのは、見た目のうえではあまり意味が無い(※ちなみに素裸状態もべつにえろくはない)」、「イラストとキットはあまり似ていない(※フェイスパーツも無表情)」といったところ。
暫定評価としては、「SD体型のキットはユニークな試みだが、ディテールも浅いし、手間も掛かるので嬉しくない」。プラモデルのような趣味の商品では、「安かろう悪かろう」はほぼ無意味であって(つまり、買って時間を掛ける価値が無い)、多少高くてもいいからクオリティで満足させてくれる方がありがたい。
もしかしたら、これはこれで新しい市場、新しい分野を作り出していくかもしれないけどね。最近の中国カーカーは、完成品の小型フィギュアだかドールだかのような商品を大量に出していて(※日本のランダム封入トイを数段ゴージャスにしたような路線)、そちらとの親和性も高いだろうし。
価値のないもの、満足のいく水準に達しないものは、たくさんあっても困るだけなんだよね……。ボリューム面のコスパだけが高くて、クオリティが中途半端なものは、買っても無駄金になるだけ(自宅の邪魔物が増えるだけ)なので。これは趣味関連でも、あるいは食材などでも当てはまる。
ただし、品質の違いがほとんど意味を成さない場合には、そういう商品にも意義がある(例えば「なんでもいいから乱読したい」とか、「ただの時間潰しでプラモを組み立てたい」とか、「栄養があれば不味くてもいい」とか)。また逆に、「出来が良くても高価すぎて買うのに躊躇する」という場合ももちろんあるので、価格とクオリティの綱引きにも一定の意味はある。
例えば「2個10000円、3個で12000円」という場合でも、その製品が2つあれば十分(※予備分も不要)であれば、3個セットを買ったら「1個の邪魔物(+廃棄料)+2000円の無駄出費」になるだけなのだが、しかし、まあ、3個セットの割引に釣られてしまう人がいるのも理解はできる。