学園恋愛系タイトルの主人公に、しばしば親が登場しないことについて。
アダルトゲーム(主に学園恋愛系)で、主人公が一人暮らしだったり、あるいは両親が長期旅行等で不在だったりするのは、いつ頃からなのだろうか。最初期の『同級生』(1992)、『ToHeart』(1997)、『とらハ』(1999)からして、両親の都合で一人暮らしをしていたり、両親が共働きという設定でほとんど登場しなかったりする。現在の目で認識するところの白箱系ジャンルが成立した時点ですでに、実親追放の文法は生まれていたのかもしれない。
それでは、両親を不在にさせることの意義/理由は何だろうか。いろいろ考えてみる。
1)物語の本筋に絡まない無駄キャラであるから排除される。これは最もシンプルな仮説だが、本当にそうであるのかどうかの証明は非常に難しい。ただし、現在に至るまで、学園恋愛系タイトルの大半が、主人公の両親の存在をとりたてて必要としていないというのは事実だ。また、「学園」恋愛系では、まさに文字通り、学園生活の描写こそが重要なのであって、家庭生活に焦点が当てられることは稀である。
ちなみに、黒箱系タイトルでは、主人公が成人男性(自立した職業人)である場合も多いため、なおさら親族キャラクターの登場は少ない。
2)主人公の行動が自由になる(門限などの条件も無視できるし、自宅を自由に使えるようにもなる)。脚本構成の視点からの推測だ。しかし、実際にはそれほど大きな問題ではないだろう。タイムスケジュールを管理しなければならない古典的な恋愛AVG/SLG(『同級生』タイプ)ならいざ知らず、現代の読み物AVGでは、テキスト上の描き方次第で、それらの問題はいかようにでも容易に回避できるだろう。
また、両親以外の年長者(大人)キャラや保護者キャラは頻繁に登場する。現代の白箱系で、大人キャラが一切登場しない作品は、むしろかなりの少数だろう。だから、両親の不在は「大人(保護者)の排除」という観点だけでは説明しきれない。
実際、例えば『夏めろ』『明日君』『星空のメモリア』『星架か』『アマカノ』のように、「実親は本編中に一切登場させていないが、親族(伯母など)の家に同居しており、親族キャラクターが実際に頻繁に登場している(立ち絵もある)」というタイトルが一定数存在する。このことに鑑みても、同居保護者や身近な大人キャラの存在それ自体が嫌悪されているわけではないようだ。
しかしそれでもなお、主人公が身近な大人から頭を抑えつけられておらず、まさに(彼自身の人生における)主役であるように描くためには、親の存在は取り除いておく方がよいという仮説には一定の説得力がありそうだ。この観点は、完全に無視するわけにはいかない。
3)恋愛成就の先に「親への紹介」という問題が目障りになる。これも比較的瑣末だろう。むしろ、ヒロイン側の両親とのトラブルがしばしばシナリオ後半展開のドラマを形作っている場合も多いくらいだから、これは実態に即した説明とは言いにくい。また、主人公がヒロインを両親にカノジョとして紹介する作品もある(例えば『Signal Heart』や『さかここ』シリーズなど)。
もっとも、男性主人公の両親(の不在)とヒロインの両親(の存在)との間の不均衡は、それ自体検討に値する論点だろう。
4)主人公のバックグラウンドをできるかぎり透明にしておきたい。主人公と十数年の起居を共にしてきたであろう直系血族が作中に登場してしまうと、どうしても主人公の個性に色が付いてしまう。それは、いわゆる感情移入テーゼを重視してきたとされる――が現在ではもはやほとんど言及されない考え方だ――この分野では、問題だと見做されたのかもしれない。
上述のように、伯母や祖父母のような親族が保護者として登場するタイトルはいくつも存在する。このことから考えると、主人公の人格イメージを限定してしまうような「親」の存在が避けられているのではないかと考える余地がある。一昔前には記憶喪失主人公が多かったことも、これと関連する現象かもしれない。
また、実親キャラを登場させたとして、もしもそれらがプレイヤーにとって親しみを持てないキャラクターであったならば、「こいつらと血縁な主人公も嫌だな」と、作品全体が嫌われてしまう危険がある。そうしたリスクを回避するためかもしれない。
5)ややこしいインセスト要素の排除(特に母親キャラ)。あまり問題ではないだろう。むしろ、若々しい美形の母親キャラを登場させることで、作品は魅力的なサブキャラを堂々と一人追加することができるという発想は、『ToHeart2』(2004/2005)の頃から広く知られている。
6)ただ単に偶然的な、慣例化した描写。実質的な説明の体を成していないが、こうしたコンヴェンショナルな事情も、あり得ないではない。
さしあたり考えられるのはこのくらいだろうか。もう少しいろいろ考えてみたい。