アダルトゲームが恋愛要素をどのように扱ってきたか、そしてそれはゲーム形式や市場動向や隣接分野との間でどのような影響を受けてきたか、といったことを自分なりに考えてみた。
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すでにあると思うけど。つまり、「大きな問題解決はしない。個々のヒロインが特有の困難を抱え込んだり作中状況を大きく巻き込む大事件が発生したりするわけではない」、「恋愛関係の進展それ自体に集中し、あるいは恋愛感情の機微の描写を重視する」というアプローチは、やまなしおちなしでイチャイチャするピンク系(特に近年のロープライスの単一ヒロインもの)には、わりと存在する。あざらしそふとが典型的だろうか。
その一方で、フルプライスの白箱系――学園(恋愛)コメディもの――は確かに因襲的であり、作品コンセプトからして何かしら大掛かりな特殊な状況を設定しているため、どうしても問題解決型の脚本になってしまう。また、シナリオ分岐(マルチエンディング)を伴うフルプライス級では、筋の通ったラブストーリーを併存可能なように作るのは比較的難しいという事情もあるだろう。
ただし、後述のように、そもそも「問題解決的ストーリーを放棄することは可能か」、「ラブストーリーに集中することはアダルトゲームにおいて有効か」ということも、慎重に考えるべきだろう。
【 時代的な変遷:システムや市場との関わりの中で 】
歴史的には、ゲーム分野における恋愛ものは、さしあたり90年代前半まで遡れる。『同級生』(1992)や『ときメモ』(1994)のような学園恋愛SLGがまず存在して、そこではプレイヤーが主人公キャラを操作してヒロイン攻略のために奔走していた。つまり、
1) ゲームの次元では、攻略のためのハードル(フラグ探索やスケジュール管理)として、
2) シナリオの次元では、特定のヒロインへ主人公が意識を向ける動きの表現として、
狙ったヒロインのために主人公キャラが活動するという基本構造が成立していたのだろう。『Piaキャロットへようこそ!!3』(2001)の頃までは、このタイプの作品はまだ存在していた。
90年代末に、学園恋愛ものは『ToHeart』(1997)や『とらいあんぐるハート』(1998)を経てAVGになった。主人公の学力・体力のステータスや所持金などのパラメータは消滅し、プレイヤーはただ場所移動画面でヒロインのアイコンをクリックしたり、あるいはシナリオの中で選択肢を選んだりするだけで済むようになった。SLG空間におけるプレイヤーの奔走を、AVG作品におけるテキストがあらかじめ肩代わりするということだ。つまり、困難の克服や恋愛感情の形成も含めて、状況の推移や事件の発生は、SLGのシステマティックな変動によって表現されることを止め、すべてテキストが引き受けて表現すべきものとなった。
しかし、ここに皮肉がある。表現形式がSLG(ゲームシステム)からAVG(読み物)に移行したことによって、困難を克服するプロセスは必須ではなくなっているのだが、それにもかかわらず、ヒロインを「攻略」するのだというゲーム意識や、主人公はヒロインのために努力するものだという関係構造は、そのまま維持された。あるいは、それに代わる新たなパラダイムは生み出されなかった。
また、プレイヤーキャラを細かく動かすSLG形式から静的な読み物AVG形式へ移行したことによって、主人公がその都度の特定のヒロインに傾注していくプロセスが表現されなくなったにもかかわらず、実際にはテキストはその欠落を補充しようとはせず、問題解決イベントやコメディシーンに専心した。つまり、恋愛関係を形成していく過程の表現は、SLGからAVGへの移行の中で取り落とされてしまった。
とりわけ00年代半ば以降、ゆずソフト(2006-)やWhirlpool(2006-)が出現した頃から、白箱系は「学園恋愛もの」というよりもむしろ「学園コメディもの」に大きく舵を切った。これは元々はういんどみるが先鞭を付けていた路線だったが、おそらくは『はぴねす!』(2005)の好評をきっかけにして、エキセントリックなキャラクターたちによる狂騒的コメディのスタイルが強力に普及した。ここでは恋愛描写は、個別ヒロインのシナリオを盛り上げるイベントのワンオブゼムになり、後半のシナリオ分岐を正当化する形式的構造原理になり、そして後半部のベッドシーンを連発するための準備作業になった。
一方、HOOKSOFTが標榜した「純愛」も、おそらくはこの分野全体に大きな影響をもたらした。つまり、白箱系ジャンルでは、恋愛関係外の相手との性行為を行わないようになった。このことも、「愛」と「性」を扱う脚本の進行を大きく制約したと思われる。カジュアルな性交は排除され、とりわけ二股恋愛は非常に稀になり(※ただしファンディスクを除く)、中盤以降のシナリオはヒロイン基軸で完全に縦割りされるようになった。
さらに00年代後半には、AVGの脚本が洗練されてきて、ヒロインとの一対一会話をバラバラに並べるのではなく、多数のキャラクターが居合わせているサロン的状況が入念に描写されるようになってきた(※すたじお緑茶とASa Projectが典型的)。しかし、そうしたシチュエーションを描くとなると、どれか一人のヒロインを(恋愛関係の相手になっていくように)特別に優遇することは難しくなる。その意味でも、一対一の恋愛関係は扱いにくくなり、ゲーム後半でヒロイン確定するまで恋愛描写は後回しにされていく。
ただし、10年代に入る頃には、白箱系でもアダルトシーンがどんどん増量されてきた。そしてそれとともに、日常シーンや大きな事件の描写に回せるテキストの余裕が圧迫されてきた。こうした状況から、前半の共通パートにおける「大きな問題状況」や、後半の「ヒロイン個別の問題解決」が規模を縮小しつつある。私見では、近年では白箱系とピンク系が融合しかけている。ただし、アニメやLNのような隣接諸領域でハーレム状況が普及しているのとは対照的に、アダルトゲーム分野は現在でも一対一のセックスを基本としている。
また、高額なフルプライス製品のセールス面の苦しさから、ロープライス分野が開拓されるようになってきた。Norn、Miel、Softhouse sealのようなゲリラ的なピンク系/黒箱系だけでなく、10年代半ば以降には白箱系のノウハウを持ったメーカーもロープライスに進出し(例えばfeng、戯画、NEXTON、ぱれっと)、きちんとした恋愛描写を伴いつつ濃厚なベッドシーンを提供するという、純愛+ピンク系のスタイルが広まってきた。ロープライスならではの単独ヒロインものであることも、一対一の恋愛関係を扱うのに好都合だった。
だいたいこういった経緯ではないかと思う。
こうした状況下で、ChuableSoftの一連の試みは異彩を放っていたと思うのだが、残念ながら私はこのブランドについてきちんと系統立てて語れるだけの知識を持ち合わせていない。
HOOKSOFTの「純愛」云々は、2007年発売の『HoneyComing』の頃からだろうか。現在でもこのメーカー(HOOKSOFT/SMEE)は、恋愛関係をどのようなゲームシステムで表現するかを熱心に試行錯誤し続けている。
【 ラブストーリー特化は、はたして有望だろうか 】
なにしろ保住氏は、最も徹底的な単独ヒロインラブイチャもののの『こいびとどうしですることぜんぶ』の脚本家だから、いろいろ思うところもあるのだろう。ただし、2019年現在のオタク界隈で、一対一の恋愛を正面から描くことにどれほどの意味があるのか(ユーザーに受けるのか)という疑問はある。現在の主流はお色気ハーレムであり、堅苦しく初々しい恋愛描写は、他分野にはほとんど存在しない。男性ユーザーが多いタイプの作品では、アニメでもLNでも漫画でもゲームでも、そうした恋愛描写は稀だろう。アダルトゲームはそうした中で珍しく恋愛要素を取り扱っているのだが、それはメリットなのかそれともデメリットなのかは再考する余地があるだろう。つまり、美少女ゲーム(萌えゲー)は恋愛要素をみずからの武器とし得るのか、それとも恋愛要素は足を引っ張っているのかということだ。
先に述べたように、ヒロイン一人との間の一対一恋愛を描くことは、作中状況を狭めてしまいやすい。ヒロイン以外のキャラクターは、ラブストーリーにとっては「サブキャラ」と位置づけられることになる。しかし、現在のオタク界隈で好んで用いられる作劇は、「人気の出そうなキャラクターを大量に用意して、それらを平等に持ち上げて、できるかぎり均等に見せ場を提供していく」というものだ。そうした展示会的アプローチに対して、一点突破型のラブストーリーははたして市場で勝負できるのだろうか?
私見では、ロープライス単独ヒロインものAVGであれば、「ヒロイン一人の魅力を最大限アピールして、それで買ってもらえれば勝ち」という戦略を採れる。しかし、それ以外の方法では、恋愛要素を前面に押し出すのはきわめて困難だと思う。だから、00年代半ば以降の白箱系フルプライスAVGが、扱いづらく売りにくい恋愛要素を控えめにして、サロン的コメディに向かったのは、それはそれで理に適っていたのだろう。「現代のハーレム志向」「アダルトシーン増量要求」を所与とすれば、むしろ白箱系の活路は恋愛要素を完全に振り捨てて「好色な人気者」(ただし前世紀的な下品さではなく)のような路線を徹底することではないかとすら思う。その意味で、保住氏の:
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このような見解は、すでに閉ざされた袋小路へ突き進む道ではないかと危惧する。
【 以下、諸々の雑感 】
補足。いささか不思議なことに、ハーレム的に主人公が複数のヒロインと交わることは、アダルトゲームではそれほど多くはない。もちろん黒箱系ではありふれているが、ピンク系でも一対多のシーンは終盤まで引き延ばされることが少なくない。
ハーレムといっても、「一回のプレイで複数のヒロインと交わ(ることができ)るか」の次元と、「一回のベッドシーンに複数のヒロインが同時参加するか」の次元の二つがある。前者に関しては、例えば、アトリエかぐやでも、序盤のうちにヒロイン全員とひととおり行為を済ませていても、全てのシーンを効率的に埋めていこうとすると、結局はヒロイン一人一人に集中して周回していくことになる。あるいは、シナリオ分岐そのものが完全にヒロインごとの縦割りになっており、ルート外のヒロインとのセックスは一切発生しないという場合もある。後者に関しては、おそらく作画コストの問題や脚本上のバランスの問題もあるのだろう。一枚のイベントCGで複数のヒロインを描き込むのは大変だし、序盤からそういうシーンを連発してしまうと後半のスペシャルな御馳走(……ということだよな)が出せない。
以前の恋愛ゲームでは、権勢のあるいわゆる「高嶺の花」タイプのヒロインや、初期状態ではつっけんどんな対応をするヒロインも多かった。それは、ゲームそれ自体の基本構造と関連していたのかもしれない。つまり、ゲームパートでヒロインを「攻略」するうえで難易度の高い対象は、それに対応してテキスト上でも「高嶺の花」として描かれる方が受け入れやすい。あるいは、――ちょっと嫌な話だが――わざわざプレイヤーが努力奮闘して攻略する対象である以上、ヒロインは大きな価値のある存在でなければならない。それに対して、読み物AVGとして整理された現代のAVGでは、ヒロインたちはしばしば、当初から十分にフレンドリーな存在として描かれる。それは、SLGからAVGへというゲームの基本構造の変化と無関係ではないだろう。
あるいは、キャラクターのアイデンティティとその変化についてのユーザーの受け止め方も、ゲームシステムによって異なるだろう。SLG形式でくりかえし会話して好感度を上げていくことによってヒロインの台詞(雰囲気)が柔らかくなっていくならば、それはプレイヤー(プレイヤーキャラ)の行動に対するリアクションとして生じた変化であると認識できる。しかし、AVG形式でストーリーを進めていくにつれて、プレイヤーが介在せずとも自動的にヒロインの性格が変化していくと、それは「変化」ではなく「キャラのぶれ」と捉えられる可能性が出てくる。だから、キャラクターの個性はむしろ固定化させた方が、より大きな説得力を持つ。
典型的なのは、「ツンデレ」概念の変化だろう。当初のツンデレは「当初は嫌っていたものが、心を許して甘えてくるようになる」という経時的な変化を指していたが、それが次第に「言葉ではツンツンしているが内心ではベタ惚れしている」という二面性を指すようになった。この推移は、文化的な意識の変化とともに、表現システムからも影響されていたのかもしれない。
いずれにせよ、ヒロインの造形は、文化的な状況や時代的な流行によって影響されるとともに、個々の作品の構造によっても強く規定される。
媒体の問題を無視するならば、丁寧なラブストーリーや、ゆったりしたラブコメは、それはそれで有望なのかもしれない。 この10年代の漫画や小説(LNやネット小説)には、男女一対一の微温的な会話劇ラブコメがそれなりに流行っている。ドラマティックな事件でカップルを振り回すのではなく、二人の日常的なコミュニケーションを緩やかに展開しつつ、その中に恋心の推移進展を織り込んでいくようなアプローチは、現代のオタクたちに受けているネタだと言ってよいだろう。
もちろん、媒体の問題は大きい。実際にそれがアダルトPCゲームで実行できるかというと、おそらくかなり難しいだろう。だが、ロープライス単独ヒロインものは、その可能性に大きく開かれているし、実際にその可能性をうまく活用する路線が展開されつつある。
【 ラブストーリーと媒体の問題 】
プレイヤーの介入要素の少ない読み物AVG作品であっても、それでもやはりゲームはゲームであり、インタラクティヴな性質が不可避的に伴われているのだろう。そしてそこから、「プレイヤー自身とプレイヤーキャラ視点の一体化」、「プレイヤーはなんらかの良い結果を目指して活動し、その活動に対する褒賞が存在する」という構造乃至意識も、逃れがたく存在する。
このような媒体的特性は、ラブストーリーを描く際にも制約となる。つまり、ドラマティックなハードルが出現し、それを克服することによって望ましい(ハッピーな)結末を迎えられるということが、ほぼ必然的に要求される。ハードルについては先日言及したので割愛するとして、ハッピーエンド要求の問題を二つ挙げておこう。
1)ハッピーエンドの退屈さ。ラブストーリーにおける幸せな帰結は、ほとんどの場合、お互いの思いが通じ合うという展開になる。どのような経緯があっても、結末それ自体はどれも似たり寄ったりになってしまい、驚きが無い。
2)ハッピーエンドしか描けないこと。プレイヤーの活動が報われないまま終わらせることが難しい。仮に、恋愛ものとして提示されたAVG作品で、プレイヤーキャラ(主人公)とヒロインが結ばれず、破局や別離で終わってしまったらどうか。プレイヤーの感じる落胆は、小説やアニメや映画の同種シナリオと比べて、はるかに大きいだろう。
例えば、女性向けの恋愛漫画では、恋愛のプロセスも物語のエンディングも、はるかに複雑で多様だ。物語の推移は、登場人物双方の心の機微の複雑な変化をデリケートに扱うし、物語の結末も時としてビターな味わいを滲ませる。「大きな外在的事件をいっしょに解決して、お互いの素直な気持ちが通じ合う」といったような単純なパターンは少ない。これは、ジャンルの違いでもあるが、「漫画」と「(アドヴェンチャー)ゲーム」という媒体の違いにも起因していると思われる。
もっとも、男性向けコンピュータAVGでも、ビターな恋愛物語はけっして不可能なわけではないし実際にもそうしたアプローチは存在した。
90年代末の白箱系形成期から00年代のセンチメンタリズム時代にかけて、そうした試みは確かにあった。例えば、異種族ヒロインとの間の克服困難な壁を受け入れつつ、限られた時間を共に過ごすという悲恋や、幽霊ヒロインが最終的には成仏してしまう(ただしエピローグでは、その転生後の幼児と再会する)というアンビヴァレントな結末や、奔放なヒロインがエンディングで主人公の許を離れて海外に行ってしまう(エピローグでは十年後に再会した瞬間を示唆して終わる)という非典型的な恋愛が、実際に描かれていた。
もう一つの可能性は、AVGの構造が提供してくれる。つまり、マルチエンディングだ。ゲーム作品では、プレイヤーの行動次第で――そしてそれに対応して――複数の結末を持つことができる。これをラブストーリーに適用するならば、典型的なハッピーエンドと非典型的なビターエンドの双方を、一つの作品が併存させることができる。実際、このアプローチは、00年代半ば頃までは存在した。ただし、アダルトゲーム分野の流れの中で、このアプローチは困難になっていく。
1) 選択機会を極小化する傾向の中で、物語の振れ幅が狭まる。
2) 脚本が長大化することによって、やり直しの負担が大きくなる。
3) 恋愛成就してからの物語(後半のヒロイン個別パート)が拡充されていくことによって、複数の分岐展開を維持するのが困難になる。
こうして白箱系タイトルは、ヒロインごとに本筋となるハッピーエンドのシナリオのみを扱うようになり、脇筋となるビターな進行はあっという間に衰退した。白箱系アダルトゲームが賑やかで楽しいサロン的空間を志向するようになったことも、ビターエンドを扱いにくくさせただろう。
上でも述べたように、現在の白箱系はストレートな恋愛要素を縮小しつつあるが、それは恋愛要素が後退したというよりはむしろ、「素直な思いが通じ合ってめでたしめでたし」というベタな展開を回避しているとも言える。その意味では、けっして悪いことではない。