2019/09/30

2019年9月の雑記

  2019年9月の雑記。(→10月8月

Good Smile Company「ねんどろいど どーる:クイーンオブハート」。ついでにエッチング眼鏡を掛けてもらった。よく似合っている。


  09/29(Sun)

  とある漫画の描写について。
  4桁のPWで、そのうち2つが「1」と「1」であることが判明している場合に、候補はいくつあるか。言い換えれば、「1」が2つ以上含まれる4つ並びの数はいくつあるか。PWなので、例えば「0011」や「0101」なども含むことになる。1が3つ以上含まれる場合もあるので、計算の仕方によってはちょっと面倒だが、場合分けをして数えてしまうことも出来る程度の問題ではある。
  1を含む個数で場合分けをして計算すると、6*81+4*9+1=523通りでいいかな。0000から9999まで、元々の組み合わせは1万通りなので、「『1』を2つ以上含む」という情報によってかなり絞り込めたことになる。523通りであれば、手作業でも毎秒1種類ずつ試していけば9分以内にPWが解けることになる。ちなみに、10000通りを毎秒1個ずつだと最大で2時間46分掛かる。


  「東欧を覆おう(To-o- o ooo-)」というのもあった。
  we検索すると、流布しているのはもうちょっと違ったヴァージョンのようだが。


  ガチャゲームは一切プレイしない主義だが、ファンアートなどを見ているかぎりでは『プリコネ』のキャラデザがおっとりしていてレトロな親しみやすさがあって気に入ったので、画集の一冊でも買ってみようかと思って調べたが、メーカーがC社だと知って「あっ、ここには金を落としたくないな」と断念した。


  「ジオット・アスモデウス」という名前をふと思い出したが、何のキャラだっけ……と検索したら、ああ、そうだった、『蒼白輪廻』の「みる」ヴォイスキャラだった。


  今月は、新しいゲームもいろいろプレイしたが、『ジンコウガクエン』シリーズを延々プレイしていた。全体としては、漫画とイベントの月で、単行本はかなりたくさん買い込んだし、私としては珍しく趣味のイベントにいくつも参加してきた。来月からは財布の紐を締めていきたい……と入力しようと思ったら、「財布の紐を緩める」が推測候補に来ていたのがフラグっぽい。


  『俺の上であがく六人の伽女』は、BLゲーム『俺の下であがけ』のパロディタイトルなのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。「あがく(足掻く)」という言葉は、攻撃的なBLであれば「無駄に抵抗してみせろ」という趣旨で意味が通じるのだが、女性側がそれなりに能動的に迫ったり従容と受け入れたりする場合には、どうも収まりがよろしくない。「快楽に悶えつつ手足を必死に動かす」といったほどのニュアンスなのだろうけれど、それを「あがく」と形容するのは、語義の一般的な理解からかなり逸脱している。「悶える」とか「喘ぐ」でいいと思うのだが、それをあえて「あがく」としたのは、やはりまさかBLパロディだったのでは……。

  ……ん? この主演の菜花氏って、えっと、あれ、まさか? しまった、買ってなかった!
  花澤氏に蒼依氏、月村氏もいて、よく見ると物凄いキャスティング。
  まあ、ピンク気味の黒箱系なのでプレイするのは面倒もとい大変なのだけど。


  アダルトゲーマーたちの激しい同性愛嫌悪は、いったい何故だろうか。00年代初頭の時点においてもすでに『炎多留』シリーズ(2000-)がネット上で茶化されていた(あるいは嘲弄されていた)し、00年代前半頃(例えば『はなマルッ!』[2004年])でも、拒否反応がはっきり顕在化していた。10年代末現在でもいまだにその姿勢を公然と主張する人が散見される。
  特に男性主人公と男性キャラクターとの間のベッドシーンは強い拒絶的リアクションが提起される。外見が女性的な「男の娘」キャラクターであっても反発を受け、そのため「男の娘」キャラクターはヒロイン側に置かれることはほぼ無くなり、基本的に「主人公」または「人畜無害なサブキャラ」のどちらかに配役されるようになった。アダルトゲームは、00年代半ば以降の「男の娘」人気の最大の震源地であったにもかかわらず、『はぴねす!』のFD(2006)ではせっかくの男の娘キャラクターを女体化させた(女性の身体になる)し、『おとぼく』(2005)も「男の娘」というよりはむしろ女装男性主人公であって、女性ヒロインたちとのベッドシーンであくまで男性として振舞い続けた。この経緯に鑑みるに、外見が可愛いかどうかは問題ではなく、身体の次元での男性同性愛が嫌悪されていることが窺われる。
  00年代後半以降でも、制作サイドでは男性同性愛表現は時折表れていた。とりわけ脳内彼女ブランドは、2007年の『幼なじみはベッドヤクザ!』と2009年の『嘘デレ!』、そして2011年の『女装山脈』以降は明確に女装男性ヒロインものの姿勢を打ち出していた。しかしその一方で、ユーザー側には、男性同性愛表現を受け入れようとする変化はほとんど見られなかった。

  こうした同性愛嫌悪が何に由来しているのか、私には見当が付かない。
  例えば、男性サブキャラとの性行為シーンのせいで、メインヒロインたちとのベッドシーンが割を食う、といったような計算を働かせていたような形跡は無い。
  男性ユーザーたちが、BLゲームからの侵食を警戒したということでもないだろう。
  アダルトゲーマーの大多数が非常に保守的な(あるいはウブな)価値観を持っているという可能性も考えられるが、分野内にアグレッシヴな黒箱系が併存していることを思えば、いささか説得力に欠ける。
  ヒロインの処女性が要求されたのと同じように、ごく少数の強硬な反対派がいたからだという想像もできるが、同性愛嫌悪がしばしば無邪気に提起されてきたことを思うと、ユーザー層全体に広く存在する志向であろうと考えられる。
  百合(女性同性愛)ものが同様に不遇を託っていたことや、10年代オタク諸領域(例えばえろどうじん)との連続性を考えると、異性間の繁殖可能性という要素が重視されていたからだという推測もできるが、これが本当に実態に即しているかどうかは分からない。



  09/25(Wed)

  新記事「五菱重工のエッチング眼鏡着用例」。
  精神的余裕と時間的余裕がちょっと出来たので、帰宅してからずっとエッチング眼鏡を掛けさせまくっていた。これで、うちにあるフィギュア/ドール/プラモデルは、主立ったものは眼鏡を掛けられた。ただし、残念ながら頭髪が干渉して眼鏡着用の出来ないフィギュアや、可哀想なことに眼鏡が似合わないキャラクターも少なくない。


  萌えキャラ風デフォルメにありがちな、両目の間が大きく開いた顔立ちのことを、「ヒラメ顔」と呼ぶことがある。これはどこまで通じるだろうか。また、これは適切な言葉だろうか。
  本物の「鮃(ヒラメ)」はむしろ両目が片側に寄っているわけだから、「ヒラメ顔」とは正反対の性質を持っていると言えるのだが、それがいったいどうして「ヒラメ顔」という言葉に至ったのだろうか。もしかしたら鮃とは無関係で、「平たい目の顔」を縮めたところから来ているのだろうか。
  いずれにしても、実在の個人を名指して使うのはさすがに失礼に当たりそうだ。上の記事ではフィギュアの造形に対して使っているが、さしあたり他に良い表現が思い浮かばないので「ヒラメ」と書いている。


  道満晴明氏について。昔は名前が気に入らないからという理由で――「よくもこんな名前を名乗れるものだ、なんか嫌だなあ」という気分で――毛嫌いしていた。初期の単行本はアダルトカテゴリーばかりだったので手を出せなかったというのもある。
  しかし、ふとしたことで一冊読んでみたら、なかなか好みの作風だった。後追いながら買い込んで、既刊単行本の半分くらいは入手している。


  アニメ版『らいむいろ戦奇譚』(2003)を観ている。2019年現在の目で振り返ると、イベント展開も含めてたいへん先進的だったと感じる。むしろ早すぎたかもしれないくらいだが、当時すでに『サクラ大戦』が展開されていたわけだし、ネットラジオ文化は十分普及していたし、00年代半ばにはライヴイベント連動のコンテンツが増えていったわけだから、オタク史のオーソドックスな流れの中に確かに位置づけられる存在だと思う。

  エンディングのダンスはいかにもケイエスエスといった感じで、実に楽しい。
  『吉永さん家』のEDダンスも思い出す。

  ちっちゃい式神三人娘がたいへん可愛い。
  この種の子供トリオは、わりと好き。アニメ『幻影太陽』は種﨑氏の一人三役を楽しめたし、『桃華月憚』は原作PCゲームが「みる」氏の兼ね役――アニメ版は3人の役者に割り振った――、『淫妖蟲』は2+1人の変則構成。


  買おうかどうか迷っているプラモデルがある。あんまり欲しくはないけれど、買えば買ったでそれなりに楽しめるであろうことは確かで、しかし費用を掛けるほどのものか、そして制作時間を投入するだけの価値があるかというと、どうにも気が進まなくて、しかしサンプル写真などを見るとこれはこれでなんとなく魅力を感じられるし、でも少々気にくわないところもあって「わざわざ買うほどのものでもない」という思いも強く、しかしこのキットの特質は他には無いものだし、店頭でもつい手に取ってしまうし……と、しばらく悩んでいる。



  09/23(Mon)

  漫画『秘密のレプタイルズ』。爬虫類を中心にしたペットもの漫画だが、試しに読んでみたらなかなか面白かった。
  既刊8巻だが、キャラクターの顔が爬虫類じみてくるといったようなことは起きていない。
  『ベクターケースファイル』も思い出した。「vector case file(つまり有害生物事例集)」のタイトルどおり、あれとかそれとかの害虫(または有害でない昆虫等)をフィーチャーした作品。

  アダルトゲームでペットものというと、どうしても『わんことくらそう』『ワンコとリリー』のような人間型ケモ耳ペットになってしまう。『蒼色輪廻』の堂浦君は昆虫飼育をしていたっけ。

  最近の漫画だと、『バビロンまでは何光年?』『うちの師匠はしっぽがない』なども当たり。


  あっ……今ようやく気づいた。抱き枕カバー付きのゲームって、つまり、「画面の中でヒロインと仲良くなった後で、物理でもそのヒロインと触れ合えるよ」ということなのか。そういう相乗効果を想定したパッケージングなのか。抱き枕付きの作品は買ったことが無いのでまるで想像が及ばなかったが、たぶんこういうことだよね……。気づくのが遅いが、なるほど、そういう売り方もあるのか。


  メッセージウィンドウの透過度変更機能は、いつ頃からあっただろうか。早いところは00年代初頭には実装していただろうし、00年代半ば頃から普及が進んだと思う。



  09/20(Fri)

  崩壊したオタクタワーの再建で、朝から疲れた。
  しかし、積み方を効率化したので、構造的安定性が増したし、積めるキャパも増えた。

  私が言っているのは、あくまで物理的な意味での――保管形態の意味での――「積み」であって、未読/未プレイ/未制作という意味での「積み」はかなり少ない。ゲームだけは所持数に対する既プレイ率が低いが、一般書籍やディスクメディアに関しては、買ったものはちゃんと消化している。模型に関してはリスト化しているので、制作率76%という数字がはっきりしている。

  ついでに雑記欄も整理。模型関連は別ページに移し、テキストの順序なども調整。


  [ www.charafes.hobima.com/ ]
  関西での祝日開催なので、たまには見に行ってみよう。


  「教え子が担任のサークルスペースに」……身につまされる。



  09/16(Mon)

  市販CD化されている大橋氏の歌は、オリジナルソングもキャラソンもたぶん全て聴いている。ただし、ライヴイベント音源やデジタル配信曲まではカバーできていない。また、最初期の2枚のディスクは入手できず、後のベストアルバムに再録された形で聴いた。
  ……調べたら、どうやら完全ではなかった。ただし、最初期の歌だったり、多人数での歌唱だったり、主題歌CDだったりするので、まあこのくらいの欠如は仕方ないか。


  3Dゲームタイトル『らぶデス555!』の店舗別特典にイカ娘などのオプションパーツがあったというのを思い出したが、ggl検索では全然情報が出て来ないね……。duckduckgoだと、比較的容易に当時の言及を発見できる。


  未来への転生と言ったら、それは本当の意味での転生(来世への輪廻転生)じゃないのかとモヤモヤしてしまう。だからといって、「未来異世界」などというぎこちないアプローチをするのも居心地が悪い(※別次元の世界であれば、そもそも「未来」「過去」を問い得ない筈だ)。「超高度文明異世界」「先進文明異世界」「未来異世界」くらいの表現が妥当ではなかろうか。


  【 いわゆる「泣きゲー」の実態は? 】
  「泣きゲー」という言葉は、一種の標語のように多用されていたが、分析的には使う余地がほとんど無いと考えている。つまり、実際にはそれに相当するような作品はほとんど存在しなかったという意味で。Tactics/keyの一連の作品や『加奈』のような実例は、あくまで極少数の例外に留まっていた。00年代初頭の大多数のタイトルは、そのようなあざといまでに大上段の悲劇を扱うことは避け、むしろ微温的なメランコリーの雰囲気を志向した。
  それにもかかわらず「泣き」という言葉が広汎に浸透したのは何故か。この言葉は、制作される作品の傾向に関するものではなく、実際にはユーザー側のリアクション姿勢に関するものだったのかもしれない。ストイックな攻略プレイを追求する姿勢ではなく、読み物AVGに対して「感動した」「泣いた」という情緒的な感想を手放しで口にしてよいのだという文化が広まったのは、まさにこの時期だった。技術と行動力と表現意欲を備えたゲーマーたちは、自前の「ホームページ」を開設し、そこで自分がプレイしたタイトルがいかに感動的であるか、いかに泣けたかをひたすら語った。そういう姿勢を後押ししたのが、「泣き」という言葉だった。……今にして思えば、「泣きゲー」という言葉が一人歩きしてあれほど頻繁にゲーマーたちの口の端に上がっていたのは、実態としてはこういうことだったのではないかと思う。

  もちろん、その一方で、より主知的な分析的アプローチを採るテキストも少なからず存在した。ただし、アダルトゲームのシステムや構造に向けられた理工系的関心――工学部系の学部生、大学院生が多かったようだ――は、どうしたわけか、00年代初頭のうちに急速に退潮していった。それに取って代わるように現れたのは、せいぜい「選択肢」の意義を散漫にこねくり回す程度の、平板で放恣で無根拠な物語的関心だった。さらに00年代半ば以降、PC環境のスペック上昇に伴ってAVG演出の可能性が豊かに開花し、充実した内容を持つようになっていったが、制作サイドのこの潮流に応えるユーザー側の議論はほとんど現れなかった(※私が某氏からの刺激を元にAVG演出論のテキストを書いたのは、かなり遅くて00年代末だった)。
  こうして振り返ってみると、制作サイド(実際の作品)に見出される潮流と、ユーザーサイドが提起してきたリアクションは、なかなかきれいに噛み合うことは無かったのかもしれない。いや、私自身も、その都度の時期にアダルトゲーム制作者たちがどのようなことに関心を持っていたのかは分からないけれど。

  いわゆる「泣きゲー」の存否について。手近なサンプルとして、wkpdの「泣きゲー」を見てみるとよい。何者がこの記事を書いたかは知らないが、そこに挙げられている実例は、ちっとも「泣きゲー」らしくないものばかりだ。ギャグの多い『家族計画』や、冷え冷えとしたホラーの『沙耶の唄』、温泉コメディの『ゆのはな』、むしろ「燃えゲー」と言うべき『マブラヴ』(とオルタ)、あるいは特定ヒロインに悲劇要素が混じるものの全体としては爽やかな白箱系の『ラブリッチェ』『この大空』を「泣きゲー」だと言われて、はたして納得できるだろうか? つまり、そうやって無理のあるタイトルを強引に含めて嵩増しでもしなければ、「泣きゲーの歴史」など書けないということだ。あるいは、「泣きゲー」という言葉を巡っては、定義と実態とが大きく乖離していると述べてもよいかもしれない。
  「泣きゲーの時代」のようなものが存在したかのように語る人々がいるが、それは偽史に過ぎないと思う。それは非実証的な思い込みか、ノスタルジー交じりの捏造か、あるいはkeyしか見ていない狭い認識に依拠しているためだろう。


  最近になってようやく、00年代からのアダルトゲームの流れについて、距離を置いて捉えられるようになってきた。「当時の流行はこういう意味だったのかも」とか、「あの作品はこんなところに影響を及ぼしていたのかな」といったことも見えてきた。ただし、雑な歴史語りになってしまいそうなので、勇み足な言いすぎをしないように気をつけている(つもり)。


  そろそろケモナーの階段をもう一段ステップアップできそうな気がしている。ただ獣耳と尻尾がついているだけじゃなくて、頭部の骨格が完全に人間離れしていたり、全身が体毛に覆われていたりするタイプはちょっと苦手だったのだけど、そろそろいけそうな……。


  アダルトゲームでは、昔はファーストチョイスとして『アトラク=ナクア』を薦めておけば良かったが、さすがに古くなってきた。しかし現在でも、alicesoftの公式サイトに行かせて、ラインアップから「好きなものを選べばいいよ」と言ってやれば十分だと思う。SLGだったら『イブニクル』シリーズがあるし、性表現を求める向きには低価格シリーズがある。
  あとは、EGScapeとgetchuを教えてあげれば十分だろう。

  お試しだったら、feng、ぱれっと、NEXTONなどのロープラ恋愛系がお手頃でクオリティも高い。ダーク系や3D系だと、どれをすすめたらいいだろうか。
  出戻りゲーマーに対して現在のアダルトゲームの水準を体験させるならば、PULLTOPとEscu:deが良いかな。10年代のソフトハウスキャラ作品では、『呪いの魔剣』が薦めやすい。



  09/14(Sat)

  【 言葉と真理 】
  軍用機の中でも、(おそらくは輸送機や偵察機などを除いて)なにかしらの攻撃行動を目的とする航空機を広くイメージして指す時に、普通の人は「戦闘機」と呼ぶことがある。そういう理解でいいだろう。分類の厳密さが求められる場面でないかぎり、あるいは致命的な誤解を生じてしまう場合でないかぎり、一々咎め立てすべきではない。「攻撃機」や「爆撃機」などと区別する必要が生じていないような場面であり、なおかつその発言内容が世間的に重要視されるような状況でもないならば、広義の「戦闘機」という言葉はそのまま流通しても一向に構わない。
  専門的な用語法が、一般人の用語法に対して常に優位に立たねばならないということは無い。専門家が定義した言葉だけを万人が使わねばならないということも無い。もちろん、専門家が精密な用語法によって正確な分析を提示する時には、それは素人判断よりははるかに正しいであろうという見込みを持って重視されるべきだが、そういう場面でないところにまで、専門家的用語法を求める必要は無い。ましてや、本物の専門家でもないアマチュアが、専門家の用語法を――単語だけを――振りかざして一般人的用法を攻撃するのは、端的に無意味であるか、あるいはおそらく有害だろう。
  他分野で考えてみよう。例えば、人々が普段用いる「理性」「現実」「世界」「存在」「認識」のような言葉を、哲学者が用いるような厳密さでのみ用いるべきであり、そうでない緩やかな用法はすべて愚かな誤用であり、排撃されるべきだ……などと主張したらどうだろうか? このような主張が、偏狭であり、独善的であり、非現実的であり、無意味であり、有害であることは明確だろう。上記「戦闘機」のような例も、あるいは「戦艦」「電車」「ファミコン」「大学教授」といったような言葉に関するものも、あるいは紅色や朱色を区別せずに「赤」と総称するのも、ステープラーを「ホチキス」と呼ぶのも、これと等しい行為だ。「きれいな桃色だね」という日常の発言に対して「これはローズレッドと言わなければいけないよ」と主張するのは、はたして正しいだろうか?
  専門的な用語法の威を借りて一般人の言葉を嘲笑するなどという行為は、それ自体、不正な権威主義を導入しようとするものであり、この世の中の言語使用を著しく狭める誤った姿勢であり、しばしば社会的に有害な帰結をもたらす行動だ。そのような半端マニアの行動こそは、厳しく指弾されるべきだ。専門家というのは、そのような瑣末なツッコミによって会話の腰を折ることが仕事ではなく、むしろ、一般人の言葉と専門的な言葉の相違をも把握したうえで、お互いの認識をチューニングしつつ、適切な結論に導くことのできる存在であり、そしてそのように振舞うべき存在だ。そしてまた、その分野の教育や具体的分析に関わる場面でもないかぎり、非専門的な広義の(緩やかな)用法は正当に認められるべきだ。緩やかな認識を持っている一般人は、その認識に基づいて緩やかな言葉で語っているのだし、そこで会話の主題とは関係のない専門的な区分(を表すための用語法)を持ち込むことは、実のところ、「正しさ」を高めることにはなんら寄与していない。

  人々の言語――または言語を通じて形成される認識――が、客観的に正確であることは、それはそれとして望ましい。また、健康科学から歴史認識に至るまで、事実に反する認識に依拠することはしばしば個人的社会的に危険な事態を引き起こしうる。ただし、万人の認識および言語が、あらゆる分野の最新かつ最高度の正確性を満たしているということは不可能だ。だから、「具体的な害をもたらさない日常の会話」や、「明確にフィクションの看板を立ててある表現物」に関しては、正確性要求はごく控えめにすべきだろう。「正しい言葉を使うことは、正しいことだ」というのには納得してしまいやすいが、完全な正確性までを求める必要は無い。「適切性」や「非-有害性」といった条件がクリアされていさえすれば、日常の言語使用は十分「正しい」と言える。

  もちろん、その一方で、自分自身の思考を厳密な仕方で展開したり、自分自身の発言を思うがままの用語法で展開したりすることも、それはそれで完全に自由だ。相手に伝わるかどうかはまた別問題だが。

  このことは、言葉の選択だけではない。フィクションの描写が、現実の科学的知見に合致しない場合にも当てはまる。フィクションの表現は、その性質上、原則として現実的正確性に従属する必要は無い(※ただし例外として、ハードSFや推理小説のような特殊領域は存在する)。フィクションに対して「現実のこれこれに合っていない」と主張するのは、ナンセンスであり、取り合う必要は無い。そのような指摘が意味を持ちうる場合があるとすれば、「1)その描写がその作品のコンセプトに照らして不整合を来している場合」や、「2)読者の大多数の認識の基礎を成す現実感覚にとってあまりにも異様と感じられ、説得力を損なっている場合」、「3)単なる瑣末なミスと考えられる場合」くらいだろう。エンターテインメント作品の場合は尚更、批判の必要性は低い。

  「哲学者って、どの哲学者だよ」というツッコミも含めての皮肉。つまり、「真理とは何か」、「正しさは何によって提供(保障)されるのか」、「そもそも唯一の正しい真理が存在するのか」、「言語(言葉の選択)は真理と関わるのか、どのような関わりがあるのか」といったことも考えねばならない。


  Escu:deの次作はどのような作品になるだろうか。どんなタイミングでどんな方向性の新作が来るかがまるで読めないブランドだ。『闇染』『穢欲』と、そこそこのシステムを組み込んだタイトルを続けているのは、『高天』(2011)から『せんすいぶ!』(2013)の頃に近いだろうか。そろそろ水鼠氏原画のタイトルが来てくれるとありがたいが、もしかしたらブランド20周年で『プリスター』並の大作を準備しつつある頃かもしれない。


  新作チェックをしてもろくなキャストがいないのは、たいへん辛い。もちろん作品のクオリティは声優だけで決まるものではないが、三流だらけのキャスティングでは買うに買えない。制作予算の苦しさは窺われるが、ユーザーとしてはせっかく買ったもので悲しい思いをしたくはない。
  一昔前でも、ひどい声優を起用しているタイトルはたくさんあった。しかし、少なくとも玉石混淆ではあり、そして「玉」の方は本当に素晴らしかった。一色氏や北都氏や金田氏やかわしま氏が毎年何十本ものタイトルに、しかも白箱と黒箱とギャグ系とを問わず出演してメインを張っていたのが00年代だ。あれほどの輝かしい存在感を持ってアダルトゲーム分野を代表していた声優陣と引き比べて、10年代末の現在はあまりにも貧しい。10年代前半のうちは、まあ、なんだ、アニメ系の中堅声優の出演が増えたおかげでクオリティがなんとか維持されていたのだが、最近ではそれも無くなってきて、一気に質が落ちた。00年代後半から10年代前半に掛けて黒箱系にも積極的に出演されていた生え抜きの声優たちも、10年代後半にはめっきり出演数が減った。桃組&明神の焼け野原はたいへん辛い。
  悲しんでいても仕方ない。良さそうなタイトルがあれば、できるかぎり買っていきたい。

  アニメはアニメで、これまで何度も「声優ブーム」が起きてきたわりに、クオリティが上がっていないどころか浅薄で未熟な芝居が多くてがっかりさせられるのだが、それはまた別の話。


  「大フーガ」は、Suske Q(1979年録音)の全集分売ものを聴いたのが初めてだったと思う。それ以降も全集録音を買うのが通例で、Alban Berg Q(1982)からJulliard Q(1982年/1970年)、Quatuor Hongrois(1953)、Budapest Q(1961)など、わりと古めの録音をよく聴いていた。弦楽合奏版の録音もいくつか聴いている。特にKlempererの録音はくりかえし聴いていた。
  いろいろ聴き返しているところ。50年前のモノラル録音でも、はなから「こういうものだ」という受け止め方が出来ているので音質は全然気にならない。


  [ ho2ch.vs.land.to/ayaka.html ]
  えっ、Guiltyの作品に出演していたっけ……と公式サイトのサンプルヴォイスを聴いたら、谷村玲緒奈さんか。語りのテンポがやや速めで、気持ちよい感じのキャラクターになっている。
  残念ながら、この「○○する△人の××」シリーズは、ろくにプレイしていなかった。声優陣は、蒼衣氏や瀬名氏、さらには柊氏まで起用して、10年代の黒箱系(ややピンク寄り)としては非常に高い水準なのだが、ベッドシーンの釣瓶打ちはハードなので。

  上記タイトルにも出演している夢野氏は、『姫巫女銀河』や『花嫁と魔王』の頃から『まおてん』『夢と色』まで、わりと頻繁に出演作に出会ってきた。どうやら(元?)黄組のようだ。


  桃組も、主題歌などの楽曲制作に関しては比較的まともで、声優業に比べればまだしも聴くに堪える出来だと思う。しかし音楽制作は、現在のアダルトゲーム声優業界とは比較にならないほど競争が激しい――安売り戦術で勝負することができない――ので、残念ながら音楽だけではやっていけないだろう。


  「個性があらわれる」には、「表」と「現」のどちらを当てるべきだろうか。どちらも「おもてに出る」ことを指すので難しい。個人的な印象だが、おおまかな雰囲気が感じ取れるようになっている時は「表」で、元々内在していたものが具体的な形態(外形)に取るようになった時は「現」を使うだろうか。この場合は、「個性」という曖昧なものであり、なおかつ、その個性があらかじめ本質として備わっているわけではないから、「表」を使うのが適切であるように思う。
  ただし、ggl検索で見てみると、意外なことに「"個性がれる"」が約9万件に対して「"個性がれる"」は23万件と、私の捉え方とは逆転している。もっとも、ggl検索の抽出方法が適切であるとは限らないし、ggl検索のデータベースであるところのwebテキストの使用法が大多数を反映しているか、また、それが言語学的に正統的であるかは、それぞれ疑問の余地があるが。



  09/12(Thu)

  figmaはサイズが小さすぎて造形や塗装のクオリティに限界があり、接写で見せるには少々辛かった。それよりは出来の良いフィギュアを買ってきたので、申し訳ないが差し替えよう。私だって、ケモでもなくメカでも眼鏡でも声優ネタでもない立体物写真を掲げたりもするんですよ!

  「クイーンオブハート」といっても、昔の同人格ゲーのことではない。もちろん元ネタは、というか、『アリス』の「ハートの女王」そのものをモティーフにしている。
  布服の質感は素晴らしいが、スカートにワイヤーなどは入っておらず、裾の広がりを調整することができないのは少々残念。
  「マッドハッター」くんも同時発売されていて、カラーリングなどはわりと気に入ったのだが、オッドアイ(左右で瞳の色が違うキャラ)は苦手なので買わなかった。
  同じくデフォルメ体型+樹脂成形頭髪+布服の市販製品として、KOTOBUKIYAの「キューポッシュ」シリーズもあるが、サイズやプロポーションはほとんど同じ。価格帯も、ともに5000円台。手許の「赤ずきん」と比べると、ねんどろいどの方がわずかに背が高い(※赤ずきんが約12cmなのに対して、クイーンオブハートは約13cm)。ただし、「ねんどろいど こ~で」の「初音ミク」は約11cmとかなり小さい。これらのデフォルメフィギュアはほとんど買っていないので、どのくらいの寸法の製品が主流なのかは知らない。

  大丈夫、これはドールじゃないから、フィギュアだから、ドールにはハマってないから。


  「悪いことをしているメーカーには金を落とさない」という方針でいる方が、長期的に見て、その分野がよりいっそう豊かになり、我々ユーザー側としても利得になる。淘汰は、経済の理屈によって自然に(つまり個々人の意識が介在せずとも)為される場合もあるが、できるだけ早めた方が良いに決まっているし、また、消費者側が意識的な選択をしなければ悪貨がはびこってしまう場合もある。特に不公正な取引によって市場における優位を確保するような企業の存在は、そのまま何もせずに解決されるわけではない。また、オタク関係の企業であれば、制作現場における抑圧は、「素晴らしいものを作ってくれた筈のクリエイターたちを邪悪にも擂り潰している」と言うほかない。それは、一般的な社会道徳(社会的公正)の次元で批判されるべきであるとともに、オタク的利害(消費者としての長期的な享受)の観点からも厳しく批判されねばならない。
  私自身、あの企業やその企業の物は買わないようにしている。優れたクリエイターが参加して素晴らしい作品をリリースしていて、どうしても欲しいという場合も、中古で買う。つまり、その企業に金を落とさないようにする。まあ、「おまえのところの製品は買わない(中古でしか買わない)」というのは、営利企業に対する最も厳しい批判であり、言い換えれば、最悪の侮辱行為だと思うので、そういう判断は極力慎重にするし、実際、滅多にしないが(※例えば、不確かな噂に乗せられるのは、それはそれで非常に危険であり、むしろ別種の不正に手を貸してしまうことになる)。一消費者が知りうることは限られているし、情報収集にも時間的金銭的心理的等々のコストが掛かるのだが、だからといって迂闊に判断を下してしまってよいということにはならない。

  企業だけでなく個人に対しても、そういう姿勢を取ることはある。例えば、あるクリエイターの邪悪な醜聞が耳に入ってきた時も、「あのクリエイターか……ああ、私はその人物の作品を一つも買ってなかった、ああ良かった」という思考をすることはある。


  いわゆる「猫目キャラ」、つまり目の虹彩(要は黒目部分全体)が縦長に引き締まっているタイプの絵は、わりと好きなんだけど、バランスによってはちょっと気持ち悪いんだけど、しかし心惹かれるんだけど、だけど受け入れがたく感じることもあるけど、それでもやっぱり好き……といった感じで、非常にアンビヴァレントな気持ちを抱いている。


  マウスも買い換えて、今回はELECOMのM-MK1UBSを試している(実売3000円程度)。静音性と安定感は非常に良く、ひとまず合格。不満点としては、「ホイールクリックがちょっと重くて指が疲れる」、「巻き取り機構を組み込んでいるせいでマウス全体が微妙に重い(※54gとのこと)」、「エッジの鋭い部分がある(※エッジの無い丸っこいのが好み)」といった点がある。
  これまで使っていたBUFFALOのBSMBU26SSは、上記の要求もすべてクリアした理想的な形状だったのだが、残念ながら作りがやや安っぽく(実売2000円以下)、ガタが来やすかったり、ものによってはコツコツと微妙なクリック音が出たりした。
  マウスで複雑な操作をするつもりは無いので、シンプルな3ボタンが良い。そのうえで、デスクワークが多くてマウスも酷使するので、長期的観点ではできるだけ頑丈なものが欲しい。デリケートな指先操作に関わるものだから、マウスを頻繁に取り替えて使用感が変化するのは避けたい。


  社会的公正に関する議論は、往々にして地味で辛気くさくて悲しいものだ。ちっとも面白くないし、格好良くもないし、クリエイティヴでもない。しかし、だからといってそういう議論を軽視してよいということにはならない。けっして面白くはないが、しかし我々自身や我々の友人たちが生きるこの社会をまっとうなものにしていくために、その社会の構成員として必要なことなのだ。目を背けたくなるような差別行為や、簡単には解きほぐせない複雑な社会的困難や、気落ちするような不幸な出来事に取り組む、いわば清掃作業なのだ。
  あれやこれやの表現行為が社会的差別や社会的抑圧に触れるのではないかという議論が提起されたときに、「そのような批判は不毛であり、なんらクリエイティヴではない」といって拒絶する人たちがいるが、それは仕方ないことなのだ。それは社会を論じているのであって、芸術を論じているのではないから。そしてさらに、それは必要なことなのだ。表現行為もまた社会に向けてなんらかの意味を提示する行為である以上、社会的行為としての側面を不可避的に持つ。だから、芸術的には不毛な批判であっても、社会的にそれを提起することは必要なのかもしれないのだ。
  ただし、さらに言うと、それはあらゆる芸術的価値が社会的価値に従属せねばならないと言うことではない。様々な視点が同時に併存しているというだけの話だ。物理的にはまったく同一のある一つの行為(表現行為)に関して、様々な視点からの複数の認識や評価が成立するが、それらはあくまでそれぞれ異なったフェイズにおける認識であって、それら全てが整合的に噛み合うとは限らない。そして、だから、ある議論を芸術の観点において不毛だと見做すとしても、そのことは、当該議論が社会的公正の観点において不毛であることを帰結することにはならない。つまり、芸術的に不毛であるという反駁は、社会的な議論としての反駁にはならないのだ。

  そしてそれは、正しさに関する次元の議論であって、個人の好き嫌いの次元の問題ではない。それは、そうした批判を提起する者も、批判を受け止めて対応する者も、双方がともに理解していなければならない前提条件だ。
  ただし、注意せねばならないことだが、これは個々人の主観を完全に排除するというものではない。例えば自殺報道や災害報道がもたらす二次的ダメージの問題のように、人によって精神的心理的なダメージが生じたり生じなかったりするという主観的な現象も含まれうるし、差別発言のように人によっていくぶんのブレのある規範的正義観念の問題である場合もある。この種の問題は、単なる趣味判断としての「好き嫌い」の主張と混同されやすいが、社会的な正しさに関する規範的な議論の次元で捉えるべきであり、議論参加者の間でそのような扱われ方をするかぎりにおいて、有意味なものになりうる。
  例えば、人が「傷つく」というとき、それはただ単に個人的な好き嫌いの次元で「嫌(いや)」または「嫌(きら)い」であったという事実の主張をすることもありうるが、社会的な公正の次元で「その社会に属する個々人が精神的なダメージを受け、しかもそれは甘受しなければならないものではなく、社会的に不正な精神的な侵害であり、我々の社会がより良いものであるためにそれを再考し改善し克服していくべきだ」という客観的な問題提起でもありうる。批判や抗議を提起する場合は――急迫深刻な侵害に対する悲鳴の場合はともかくとして――、一般的には後者の次元で主張されるべきだし、それを聞き取る他の社会構成員たちも後者の意味でその問題に意識を向けるのでなければいけない。どちらの側も、単なる個人的な不快を自分以外のもののせいにする主張であるかのように矮小化してはならない。

  芸術作品は、真理を提示するための活動ではないし、また、創作物に対して「○○が無い」といって瑕疵をあげつらうことは基本的に無意味であるというのも確かだ。作品の完成度を測る尺度は、その作品のコンセプトとその具体化であって、作品が常識的な何かしらに合致しているかどうか(瑕疵が無いかどうか)を問うことは、ナンセンスだ。ポジティヴな達成度ベースの思考を取る、そういう芸術の論理は認める。
  しかしその一方で、社会的な議論は、「望ましくない行為(例えば犯罪)」や「改善されるべき状況(例えば人々の不幸な境遇)」に目を向ける。ネガティヴな事象を扱うことが、不可避的に社会的議論に含まれる。そしてまた、社会的な議論はあらゆる社会的な存在を対象としうる。そこには芸術的表現行為も含まれ、それゆえ社会的行為としての表現行為が、社会的に問題があるかもしれない側面を伴っている時に、作品のコンセプトや作者の設計意図を超えて否定的評価を下すこともあり得る。それは芸術的評価ではなく社会的行為としての評価を下しているのであり、それが芸術の評価基準と異なっているとしてもおかしなことではない。


  特にポリシーを決めているわけではないが、ガチャポンは「どれが出ても納得(満足)できると思える時にだけ」、「基本的に一回のみ」に限っている。「トレーディング○○」のような、中身が不確定なグッズや食玩も同様。ギャンブル性のある行為――あるいはそういう売り方――は嫌いなので、極力避けている。そんなわけで、平均すると月に一回未満だと思う。
  それでも、ガチャポンを回す時の期待感はそれはそれで楽しいし、あの武骨な把手を回している時は心の中で「ガチャガチャきゅーっとふぃぎゅあっと♪」という歌を思い浮かべている。
  というわけで、今日は「原色爬虫類カメ目図鑑」のガチャポンを回してきた。出てきたのは無難なミナミイシガメ。可愛い。


  なんら説明的ではない印象論だが、私の中では、00年代アダルトゲームの総決算はたぶん『星空のメモリア』(2009)と『恋色空模様』(2010)で、そして00年代を10年代へと架橋していったのは『恋神』(2010)と『あかときっ!』(2010)だった。もちろん、「00年代」「10年代」という機械的な区分それ自体が何の意味も無いので、せいぜいのところ、「00年代の頃に感じられていた特有の雰囲気」とか「10年代になって現れた感性」といったような大まかな話だ。
  ほぼ十年前のタイトルの話だが。長かったような、短かったような……。

  十年前の私は何をしていたっけと顧みてみれば、サイトで演出技術論をちまちま書いていた頃で、ブログどころかその前のtwitterもまだやっていない時期だった(※twのログイン&投稿は2009年10月から2011年8月)。
  そしてこのブログは、もう6年以上も続けているわけだが、……うん、変わっていないね。成長していないということでもある。


  スマートフォンの話。うちのブログをアクセス統計(直近1ヶ月)を見てみると、スマートフォンからのアクセスは約14%だった(※OS統計で、Android系列とiPhone系列を足したもの)。モバイルアクセスがもっと増えているだろうと予想したが、意外と少なかった。PCアクセスがまだ非常に強いということなのか、それともモバイルユーザーの関心と私のブログが遠いということなのか、あるいは偶然的な振れ幅の問題に過ぎない(統計的に意味を成さない)のか、はたまた統計に対する私の解釈がどこか誤っている(分類の間違いなど)のだろうか。よく分からない。
  OSではさすがにWindowsが圧倒的に強い(76%)。Linuxでのアクセスが9%ほどあるのは、どういう環境か分からない。ブラウザで見ると、Chrome(47%)とfirefox(42%)がほぼ拮抗している。次いでSafari(5%)、IE(3%)といった感じ。
  ただし、全期間(つまり6年以上)で見ると、数字は大きく異なる。モバイルアクセスはむしろ増える(18%)し、IEがまだ元気だった頃のデータも入ってくる(15%になる)。


  「新しいBloggerを試す」というボタンが左下に現れたが、ページを更新したら消えた。web検索してみると、機能面の追加とインターフェイスの変更があるようだ。
  gmailのように現在の(クラシックな)インターフェイスでも維持できるのか、それとも遠からず新しいblggrインターフェイスに移行することになるのか、いったいどうなるんだろうか。



  09/09(Mon)

  重い物を持って歩き回ったせいで、朝から太腿の筋肉が痛い。


  せっかくの一河氏をピンク系ロープラばかりに起用するのは贅沢すぎるという思いもあるが、しかしこの原画家の描くキャラクターの可憐な美少女ぶりと初々しい色気は、白箱系コメディに使うのももったいないし、黒箱系の刺々しい雰囲気に混ぜるにも似つかわしくないので、やはりピンク系が最適なのかもしれない。幸いにもアパタイト系列のベッドシーンは、現代のアダルトゲームとしては比較的あっさりしているので、私でもあまり面倒がらずにプレイできる。
  ふりかえってみると、『タッチ』もどきの『兄妹秘哀』(2012)以来、一河氏原画の作品はかなりの数をプレイしている。大部分が低価格ピンク系だが、オーソドックスな妹ものや生徒会長キャラから直情的おばかキャラ、両目隠れキャラまでヴァリエーション豊富なので、適当に買いつつわりと楽しんでいる。アパタイトは背景やBGMが完全な使い回しだが、キャラ立てや脚本も含めて特に面白かったのは『かぐや姫』や『ショータくん』あたりだろうか。上記『クーデレ』も、アパタイト/アンモライトの中ではかなり出来の良い部類だと思う。


  新記事:「アダルトゲームにおける恋愛要素の位置づけ」。雑感。

  2010年代がもう終わろうとしているのに、10年代のうちに起きた様々な出来事や流れを、まだ整理できずにいる。きちんと腑分けして、明確な理解&説明が出来るようにしたい。


  ふと見たら、先月の『姫と穢欲~』記事のアクセスが大台に乗っていた。もっとも、そのうち何割が本当の(人間の)アクセスなのかは分からないけど。
  その記事の中でも、ある種のワードは明記しないようにしている。他の記事でも、性的な事柄や犯罪行為に関する単語は、平仮名で表記したり頭文字だけで曖昧に書いたりしている。自己防衛のためだ。性行為に関するワードで検索してエロ業者が訪れたり、薬物犯罪や知財犯罪などに関するbotが来たりするのを避けるために、そうしている。このブログはコメント欄を設けていないので、おかしな書き込みをされることは無いが、ブログテキストを機械的に無断転載されたりするのは嫌だし。


  真面目にラブストーリーを描くこと。作り手としては、そういうプロセスを本気で描ききりたいという気持ちはあるのだろう。脚本家だけではなく、声優の立場でもそういう思いはあるようだ。Laplacianラジオで神代氏が、「恋愛AVGは心の変化を丁寧に描いており、それを演じられるのは素晴らしいことだ」といった趣旨の発言をしていたのを思い出す。主人公であれヒロインであれ、キャラクターの心情を丁寧に追って造形していくのは楽しかろう。……でも、それはもしかしたら作り手側(表現者側)の都合にすぎないのかもしれないのだ。現代のオタクは、辛気くさいラブストーリーを求めているのだろうか?
  また、ゲーム構造の問題もある。複数ヒロインもののフルプライス作品は、ラブストーリーに適しているのだろうか? 一つの作品の中で、主人公は選択肢次第でヒロインAと結ばれたり、ヒロインBとの幸せなエンディングを迎えたりするのだが、そうしたマルチエンディング型AVGは「純愛」物語との相性は良くないのではないか?
  上の記事で言及した保住氏の問題意識は分からないではない。しかし、だからといって額面通りの恋愛ものを素朴に追求することは、はたして現代のAVG作品として有効だろうか。アダルトPCゲームが正面からラブストーリーを描いているのは現代の(主に男性向けの)オタク系表現分野としては非常に珍しいということは、私自身、以前にも書いていた(2018/12/14付雑記)。その時点でもいささか懐疑的だったのだが、現在の私はその時点よりもさらに、ラブストーリーの可能性に悲観的になっている。
  ラブストーリーそれ自体は、べつに嫌いでもないのだけど。


  ブログの文章を書いていたら遠雷が聞こえてきたのでPCをシャットダウンしようとしたら、あろうことか、OSのアップデートが挟まっており、10分以上もPCが落ちないままになった。こうしたアップデート作業の最中に停電でもしようものなら、むしろ通常の起動中よりもダメージが大きくなる可能性すらある。こうした場合は、むしろ電源ボタンで強制的にPCを落とす方がまだしもマシなのかもしれない。


  雑記欄にページ内のリンクタグを導入したいのだが、blggrの要らぬお節介で自動的におかしなURLに置き換えられてしまい、有効に機能しない。



  09/07(Sat)

  【 眼鏡キャラと眼鏡着脱 】
  「眼鏡を外したら美人(だと判断された)」ということは、言い換えれば、「自分に似合う眼鏡を掛けられずにいた人」ということになる。それはあまりに可哀想だ。やはり「眼鏡を外したら美人」などという創作シチュエーションは滅ぶべきだ。
  「眼鏡を外したら(あるいは眼鏡を掛けたら)、従来とは異なった魅力が発揮されるようになった」ならば良い。それならば、眼鏡を外す描写があっても構わない。

  人間社会では、「ふだんから眼鏡を掛けている人が、たまたま外す状況になる(例えば入浴や就寝など)」というのは、ごく普通のことだし、それゆえシチュエーションとして扱いやすい。それに対して、「ふだん眼鏡を掛けていない人が眼鏡を掛ける」という状況は、比較的珍しい。眼鏡を新調するとか、伊達眼鏡を掛けてみるとか、いずれにせよ、説明を要するシチュエーションになる。したがって、「眼鏡を掛けたら○○」描写が稀であり、「眼鏡を外したら○○」描写が多いのは、やむを得ないことだろう。
  だが、ここからもう少し考えを進めてみよう。眼鏡着脱によるギャップ演出を導入しやすくするためには、普段から全てのキャラに眼鏡を掛けさせておけばいい。そうすれば、水泳シーンなどで眼鏡を外した時に、「ああ、このキャラは眼鏡を外すとこんな雰囲気にもなるんだ!」という感興が、漏れなく全てのキャラで味わえるだろう。これは「全員が眼鏡キャラ」ならではのメリットだ。
  ただし、さらに問題は複雑だ。眼鏡を外すシーンでは、キャラクターの新たな魅力が開拓されるが、しかしそこでは眼鏡それ自体の魅力は表現されない。だから、「眼鏡って良いものだな」という感動を得るためには、眼鏡を外すシーンではなく、やはり眼鏡を掛けてみたシーンを描かなければいけない。ということは、「初期状態では誰も眼鏡を掛けていないが、物語の途中で全キャラが眼鏡を掛けるようになっていく」というのが最善の解決ではなかろうか。……とすると、喫茶店舞台や学園舞台の物語に代えて眼鏡店経営ものや眼鏡職人主人公といったコンセプトの作品が増えていけばよい。プロポーズの言葉は「私が一生、君の眼鏡のメンテナンスをしてあげるよ」あたりで。

  類似の職業として、時計店の主人公はすでにあった。『ワンダリング・リペア』。


  【こみっくトレジャー34と同人誌即売会についての雑感 】
  明日はこみトレに行ってみよう。というわけでカタログチェック。
  行ってみたいサークルは40以上になった。単純計算すると、一サークルにつき平均1000円使うとしたら4万円。壁サークルなどは買えない可能性もあるので控えめに30サークルと見ても3万円だが、さらに現地で良さそうなサークルを見つけて買うこともあるので、もっと支出は増える(※おそらく+1万円くらい)。……計算がおかしい。これまでは、こみトレ一回につきせいぜい2万円くらいしか買っていなかったのだが。要は、「欲しいものを全部買うつもりになったらそのくらいになってしまう」という最大値の想定と、「資金、体力、時間、鞄の限界がある中で実際に購入できるのはこのくらい」という現実的制約の中での状況は異なるということだろう。しかし、以前のイベントでは、買いたいと思えるもの(買えば満足できた筈のもの)を半分も買えていなかったということでもある。

  こみトレに行ってきた。幸か不幸か、前日の計算は合っていた……そう、合っていたのだ。事前チェックしていたサークルは8割方購入できて(25000円)、さらに館内散策でも良い本をたくさん見つけられた(12000円)。往復の交通費や盲導犬募金も含めるとほぼ4万円。いつもは2万円前後で済んでいたのに。
  まあ、購入物は満足のいくものだったし、コミケット遠征をするよりははるかにリーズナブルだから、このくらいは構わないと思う。私の財布は悲鳴を上げたが、私の心は満たされているからいいのだ。そう考えよう。そしてこのお金は、潤ってもらいたいクリエイターさんの懐へ、比較的良い効率で投入できたという意味でも、良かったと考えよう。

  とはいえ、本当に効率が良いのかという疑問が出てきた。ほとんどの場合、大量印刷ではないから、印刷費は割安にならない。一般に、同人サークルは6割だか7割だかが赤字だということで、よほどの大手でないかぎり、同人誌販売は利潤が出るようなものではない。もっとも、買わないよりは買った方が間違いなく助けになるわけだし、一参加者がサークルの懐具合を気にしても仕方ない(なんにもならない)。

  普段は、「買いたいサークルを見逃さないようにしつつ一周する(それだけで終わり)」というアプローチだったが、今回は「まず目当てのサークルを回って、それから全体を一周する」という順序にした。資金が尽きるか気力が尽きるかと思っていたが、最初に尽きたのは運搬力だった。つまり、バッグ2つが一杯になって収納できなくなり、また、両肩に掛かる重量で動けなくなった。それでもなんとか一周したかったのだが、14時半を過ぎると店仕舞いにするサークルが増えてきたため、全てを回りきることは出来なかった。
  今回は12時半頃に入場して、1時間弱で目当てのサークルを回り、さらに1時間で周回するというペースだったが、もう少し早く(12時前に)入場すれば全ての列を見て回ることも出来ただろう。とはいえ、そうすると今度は、気力(体力)が保つかどうかという問題も出てくるが。

  あらかじめ決め打ちで買って回るのは、その場限りで見ればたしかに効率的だが、新しいものに出会えないというデメリットもある。せっかく同人サークルが大集合している場なのだから、視野を広げずに済ませるのはもったいない。まあ、珍しいものや挑戦的なものを探したいならば、コミティアなどに足を運んだ方が大きな収穫が見込めるが。
  ちなみに、こみトレは7割方が二次創作。壁サークルの二次創作傾向に鑑みれば、販売部数ベースでは二次創作本の比率は8割に近づくくらいかもしれない。
  あるいは、「一定以上の規模の」「オンリーイベント(つまりオールジャンルではない)」だと、実験的な刺激のある同人誌が出やすいor出会いやすいように感じる。この場合は、「特定の元ネタ作品が存在するため、一定の共通了解の土台が保障されている」「ファン同士の、しかも大きめの即売会であるため、一定の売上が見込める」という条件が、実験を敢行する敷居を下げていると思われる。これがオールジャンル即売会だと、元ネタありきのサークル分類(配置)になってしまうし、それでいてその特定の作品のファンだけが来るわけではないので、「突飛なことをすると受け入れられない」「挑戦的なことをしても埋没する」という危険が大きいだろう。

  現地で見かけて興味を持ったサークルさんを買う時は、総集編が置いてあればとりあえずそれを買う。当然ながらボリュームがあるし、内容もまとまっていることが期待できるし、相対的にリーズナブルであることが多いので。また、わざわざ総集編を出す(出せた)ということは、人気があったor出来が良かったor作者自身にも思い入れがあったという可能性が高いと考えられる。
  ただし、こういう購入行動が良いのかどうかは分からない。作り手側の本音としては、「描きあげたばかりの新刊をこそ買ってほしい」という気持ちであることが多いと思われるので、いささか申し訳ない思いもある。また、私自身の側としても、500円の新刊ではなく1000円なり1500円なりの総集編を買うのは、支出総額が増えているわけだから、ページ数に対してリーズナブルであるかどうかに拘泥するのは実は経済合理的ではない。
  もっとも、売り手側は内容と値段設定を自分で考えて決定しているわけだから、訪れた客がそこからどれを買おうが構わないだろう。その場で1分で購入して去って行くだけなのだから、「ドリンク一杯だけで喫茶店に長っちりする客」のようなものとはまったく違うし。
  総集編はともかくとしても、既刊がたくさん並んでいる時は、パッと見てどれでも良さそうな場合は、やや古めのものを買うようにしている。一般論として既刊の方が捌けにくい筈だから、購入者側(私自身)にとってどれでもよいならば、売り手側にとって好都合なものを選んであげるのもいいだろう。
  既刊が並んでいる時に、いっそ「一冊買ってみたいんですが、どれがおすすめですか?」と尋ねようかとも思ったが、もしかしたら気分を害されるかもしれないので差し控えた。多忙な売り手さんにいきなりそんな判断を委ねて、思考の負荷を掛けてしまうのも申し訳ないし。また、趣味の活動は自分自身のセンス(感性)を試したり鍛えたりする場だと考えているので、みずから思考放棄をしてはいけないという考慮もある。

  昔は手焼きのCD-ROMでデジタル画集を売る人もわりといたが、最近ではめっきりいなくなっているようだ。考えられる事情としては: 1)同人印刷の敷居が下がり、またクオリティも確保されるようになった。2)オンライン公開との差別化が求められる。3)どうせデジタル形式で売るならオンライン販売で済んでしまう。4)界隈で囁かれるように、ディスク読み取り環境を持たないユーザーが増えている。こんなあたりだろうか。
  ただし、同人音楽ではいまだにCD販売が多いように思う。

  珠手箱の新刊も買ってきた。今回は、特にお話もせずに買うだけ買ってそそくさと立ち去ってしまった。「大波さんをラジオに呼んで下さって、ありがとうございます」とか、「羽賀さんを(以下略)」とか「青山さんを(以下略)」とか、「萌花ちょこさんや桜川さんはラジオOKの筈なので是非ゲストに」とか、『カリンちゃん』に関するあれこれとか、言うべきことはたくさんあったのだが、なんとなく気が引けてしまった。

  というわけで、今月はもう無駄な出費はしないんだから!(フラグを立てた)

  暑い休日に遠出をして疲れたので、買ってきた同人誌を読む気力が湧かない。しかし、読まずに積んでしまうわけにもいかないので、すぐに読みきらねばならないのは分かっている。

  館内を歩いていて、ふと目に止まった同人誌を手に取ったら、奥付に著者は「ちり」氏とあった。えっ、あれっ、あのChuableSoftで描いていたあの「ちり」氏ご本人なのかなと買ってみて、帰宅して確認したら、たしかにご本人だった。
  [ twitter.com/chiri_atoranta/status/1168833836525871104 ]
  べっ、べつに小柄ケモ耳娘のえろい表紙に惹かれたわけじゃないからな!
  冗談はともかく、表紙絵だけでは本人かどうか判別できなかったのは確かだ。ゲーム原画の場合は、彩色が他人(CG班)に委ねられていたりするし、趣味の絵と仕事の絵では画風が変化する場合もあるから。
  振り返ってみればChuableSoft作品の時点でも、ケモ感の強いキャラが多かった。
  ちなみに、その相方(?)のSyroh氏は、今回のカタログの表紙絵を担当されていた。

  同人誌を手に取ったらまず最初に奥付をチェックするのは、普通のことだろうか。下調べせずに目に止まった同人誌の「著者」と「刊行年」を正確に把握するうえで有益なのだが、もしかしたら売り手さんの目には変な奴と映っていたかもしれない。

  全てのサークル名や新刊の表紙などを完全に記憶して来ているわけではないので、各サークルさんには「ブース番号」と「サークル名」をはっきり見えるところに掲示していてほしいのだが、そういうことをしているサークルはかなり少ない。それどころか、いわゆるお誕生日席(列の端っこ)のサークルがテーブルの横にまで大きなクロスを垂らして「ア」「イ」「ウ」「エ」の列番号の掲示を隠してしまっていることもあって、わりと困っている。「列表示は隠さないように」と即売会側がルール化してもいいくらいだと思う。

  今回購入した同人誌のうち、表紙絵がケモ耳キャラの本は25%、眼鏡キャラは12%、メカキャラは5%だった。4冊に1冊がケモ耳ものとは、世間的な流行と私の目には見えているを反映した、ごく平均的で常識的な数字ですね。
  壁サークルは約10%と、案外少なかった。言い換えれば島中をしっかり回って買えたということなので、なかなか良い数字だと思う。とはいえ、人気のあるサークル(の絵柄やネタや売り方)をちゃんと見ておくことも大事だと思う。ちなみに、こみトレの壁サークルは、12時半頃には3割以上が完売している感じかな。新刊&既刊を大量搬入してずっと売り続けている壁サークルもあるが、新刊+グッズのセット販売で一息に売り切ってしまう壁サークルもあるようだ。

  即売会では、人間観察的な興味でサークル主さん(つまりクリエイター本人)がどんな人なのかが気になってしまうのだが、さすがにそういうのは失礼なのでジロジロ見てしまわないようにしている。それでもやはり目に入ってしまうもので、例えば「ネットであんなクールなイラストを描いている方が、こんな楚々としたお方なのか、格好良いな!」とか「構図も色彩も見事に決まった素晴らしい絵を描いているのに、ご本人のファッションは案外おっとりされているんだなあ」とか「18禁本を作るほどディープなのに、オタクっぽい気配をまったく感じさせない方だなあ」と感じることがあるが、さすがにブログに書いたりはしない。

  帰りしなに梅田YDBSに寄ってPCキーボードを見繕ってきた。自宅で試しにいろいろ入力しているが、うーん、やっぱり慣れないツールは辛い。いっそ、余計なキーは外してしまおうか。

  14時を回って疲れが出てきた頃に、館内放送で『ふぃぎゅ@メイト』(※FDの方だったかも)の主題歌が流れてきて、ちょっと元気になった。近くを歩いていた人たちも、「おっ、懐かしいー」と反応されていた。



  09/02

  雑記欄から適当に切り出した新記事を2本:
  「『ジンコウガクエン2』の雑記
  「アイドルもの雑感
  『ジンコウガクエン』シリーズは、素晴らしいバカゲーです。


  本職声優の歌は、これはこれで良いものだ。基本となるボイストレーニングは十分出来ているし、発声の引き出しの豊かさも備えており、そのうえで言葉(歌詞)に意味を通しつつ歌うということに長けている。ここに声優-歌手の大きなアドヴァンテージがある。サウンドの一部として音響を発する表現者ではなく、言葉を音楽に乗せる表現者になるやり方を知っている声優-歌手の歌は、深い説得力を持つ。音楽と言葉の結びつきが高度に実現されている。そういう境地を聴かせてくれる声優は――残念ながらそれほど多いわけではないが――確かに存在する。


  ここ数日、猫耳藤咲キャラに意識が埋め尽くされて、頭の中がおかしなことになっている。なんという視聴覚的薬物。


  マウスに問題が出てきた。クリック時にカタンと音が出るようになったし、ホイールボタンもクキクキと引っかかりが出る。内部解体して掃除してみたが回復せず。また3つくらいまとめ買いして、出来の良いものを選ぶか……。
  キーボードもそろそろガタが来かけている。これまで使っていたものは生産終了しているので、「テンキー無し」「十字キーが小さすぎない」「角が痛くない」「厚すぎない(高すぎない)」まで条件を緩めて、新しいものを買っておこう。

  ……というわけで、今日もたっぷり買いものをしてきた。
  今回新調したマウスは、静音性は合格だが、ホイールクリックが微妙に重い(反応が弱い)。しかしひとまずはこれでOK。予備に買った方も実用できる水準なので安心。キーボードは、十字キーの位置が変わってしまったので使いづらい。早く慣れるようにすべきか、それとも早急にもう一枚買い直すのが良いか……。


  Teacup掲示板って、まだあったのか……。


  ケモ耳キャラは00年代初頭の頃から好きだったし、近年のケモ耳流行も存分に楽しんでいるが、特にここ数ヶ月はずっとケモ耳に沈潜耽溺没頭していた。そして先日来のカイロス制作と『ジンコウガクエン』再プレイが致命傷決定打になったようだ。今では「ケモ耳であるかどうか」が、物事を判断する際のきわめて重大な基準になってしまっている。オチるってこういうことなのね……。


  漫画『東京軌道エレベーターガール』第1巻。一話完結型。個々のストーリーはかなりベタだし、軌道エレベーターそのものに踏み込んだ話ではないし、そもそもタイトルがありがちな駄洒落(小林泰三かよ)だが、それでも軌道エレベーター萌えとしてはわりと楽しめた。続刊が出たら買っていくつもり。


  (→10月8月