なんと言ったらいいのか。自分でもよく分からない。
2013/11/28
以下の文章には自分で納得がいっていないので、時間のあれば一から書き直したい。
見通しだけをメモしておくと、現代AVGにほぼ必須の構成要素として含まれる「クリック(=プレイヤーの介入要素)」「音響(特に台詞音声)」「システム(例えばターン制進行)」の三つの要素は、ゲームテキストのあり方を特に顕著に制約しまたは一定の仕方で枠組づけており、それゆえテキストをゲームの一部として成り立たせるそのフレームワークの中でテキスト単体での表現可能性はしばしば不可避的な制限に服しており、そしてそれゆえゲームのテキストについて「省略」や「切断」のごとき作用を無条件に(あるいは他の文字表現分野と同等に)認めることを前提として個々のゲームテキストを評価することは妥当ではない、と考えている。
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特別の留保も無しにこう書かれるだけでは納得がいかない。ゲームテキストは、テキストだけで完成するものではないし、ゲームはテキストだけで成り立っているものではないのだから、「テキスト」の一般論だけでは当てはまらないものもある。
さしあたりここで(いささか特殊な分野ではあるが)美少女系AVGのテキストに限定してみるが、ここでも、まるで号令のように各キャラクターがいちいち一言ずつ発していくシークエンスであっても、さまざまな意味と作用を持ち得る。アニメのような特有の文法的分節化に服しているわけでもなく、また舞台芸術のように登場人物の現前が自動的に明示化されるわけでもなく、かといって文芸作品のようなテキストのみの自律性を提起することも(ほとんどの場合、そのシステムデザインからして)許されず、しかもゲーム進行をプレイヤーのクリック操作に委ねざるを得ず、にもかかわらずキャラクター要素をその表現の核心部分に含むことを分野的業界的に(ほぼ不可避的に)要請されているこの領域では、のっぺりと静止した背景画像の上にその都度の発話者の立ち絵が現れる――近年ではそうとも限らないが――ことによってようやくそのプレゼンスは保障される。十分に発達した視覚的-聴覚的-言語的-システム的複合体である現代AVGにあっては、ゲームキャラクターは絵の存在(立ち絵画像の描画出力)によって強く規定されつつ、同時に言葉を発しなければ存在を主張する機会を与えられないのであって、台詞とともに定期的に姿を現すなりあるいは立ち絵のスクリプト振り付けによってその都度明確に意味を発するなりしてゆかなければ、記号的に整理されてしまったAVGの画面構成の意味作用全体の中でその存在を識別することは難しい。
私見では、AVGにおけるキャラクターの存在表示がかくも技巧的(作為的)なものにならざるを得ないのは、ただ単にマルチメディア的媒体であるからではなく、また静止画画面であるからでもなく、その一つの大きな要因はAVGがプレイヤーのクリック操作によって進行するものであるというメカニズムに存すると考えている。ゲームの時間的進行は、「クリック」という機械的要因を通じてプレイヤー側のリズムに委ねられており、少なくともこの点で、「ゲーム」のデータ総体の自律性はあらかじめ制約されており、それは(他分野のアートの多くと比べて)インスタレーションマテリアルの次元へと大きく舵を切っている。もちろんテキストの自律性や自由さも、当然に主張できるとは限らず、むしろ如上の制約に応じて同様に制約されていると考えざるを得ない。プレイヤーのクリック操作が単なるゲーム進行の後押しではなくゲーム進行にとって有意味な構成要素でありうるという点について、例えばブログ「udkの雑記帳」の記事「たったひとつしかない選択肢をあえて選ばせる『単独選択肢演出』」[ udk.blog91.fc2.com/blog-entry-674.html ])がある。私はこの議論をけっして全面的に首肯するものではないが、しかし、AVG世界にあって「クリック」要素は単なる機械的/受動的/外在的運動にとどまるものではないとする見解の(私以外の者による)例証にはなるだろう。
クリックだけではない。上記発言が例示している「切断」や「省略」といったより具体的な機能に対して、いまやプレイヤーに委ねられてしまった「クリック」システムは「切断」作用に対して強く抵抗するであろうが、同様に、今世紀のコンピュータAVGにとってほとんど所与のものとなった「音声」要素はおそらく「省略」作用に抵抗する。ゲームテキストであっても、音声の無い時代であれば、地の文などで状況を適当にかいつまんで進めることは比較的自由になされていた。しかし、テキストから萌芽するかのようにして具体的な響きとして現れてくる音声は、テキストを絡め取ってその飛翔を制約する。この捉え方が正当であるか不当であるかは、たとえば事後的に音声付与されたタイトル――今ここで私が念頭に置いているのは『Crescendo.』(D.O.、2001[フルヴォイス版:2003])や『家族計画』(D.O.、2001[フルヴォイス版:2002])といった、テキストそれ単体の出来は比較的優れている作品――の音声版が、そうしたテキスト上の局所的省略に際していかに不格好なものになってしまったかを見れば判断できるだろう。もう一段階高次の制御メカニズムである「ゲームシステム」――大きいものではターン制進行のフレームワークから、ミクロなところではSE音声のシステマティックに制御された出力に至るまで――を活用することのできるSLGならばいざ知らず、通常のAVG作品にとっては、テキストが独断で描写をかいつまんで進めることは、いよいよ難しくなっている。バックログでの音声リピートを保障しなければならないといった技術的理由や、あるいはキャストが交替すればそのキャラの本質が奪われたかのように反発するユーザーが一定数出現してしまうほど美少女ゲームのキャラクターの個性が音声の実在性と強く結びついているといった分野文化的理由、あるいは音声と結びついたキャラクター存在表示といった機能的理由を持ち出すまでもなく、音声に伴われたテキストは「省略」に対して非常にデリケートなものになっている。
……言いたいこと、言うべき結論に向けてのなんとなしの直感的な方向性はあるのだが、うまく言葉にできない。私自身がまだよく分かっていないのだろう。もちろん、その直感的判断が正しいかどうかも、この文章によってはいまだまったく保障されていない。
2014/03/09(追記)
折に触れてこの問に立ち帰り振り返り、ただし考えを深めたというわけではないが、ゲーム作品が一定の連続性を要求されるのは、まさに「ゲームだから」と言うほかは無いように思われる。私見では、ゲームの進行とはプレイヤーを特定の道筋に沿って誘っていく道のりに他ならないのであって、その過程をスキップすることはその前提を切り崩してしまう可能性のある行為である――あるいはそうだという認識が意識的無意識的に作り手と売れての双方に存在する――からではないかと感じられる。そして、その底にあるのはおそらく、「プレイヤーが時間をかけて得たものを、システムの側が簡単に無視するようであってはいけない」という感覚、つまり「プレイヤーに対して何かを要求するようなシステムであるならば、それを無意味に終わらせないように(つまりその要求に応じるプレイヤーの行為及びその結果を簡単に覆してしまうことの無いように)全体をデザインすべきだ」という、一種の公平性の見地だろう。
実際には、ゲーム進行プロセスに省略や切断を――大きなレベルでも小さなレベルでも、スキップやワープやジャンプをバックジャンプ等々を――導入するものは無数に存在する。それらは、自動的必須的強制的なものである場合もあれば、任意的なものである場合もある。例えば、美少女ゲーム分野の中でいえば、『さよならを教えて』で精神病を患った主人公の言動の描写が度々不可解な飛躍をする(中庭への移動を選択した筈が、職員室に移動してしまっている)のは、プレイヤーの手を離れた自動的な切断だし、『最果てのイマ』がオールクリアのためにはリンク移動という非直線的な進行を要求されるのは必須的な飛躍だし、『蒼色輪廻』の主人公がデッドエンドに到達する度に、その連続性を一応保ったまま物語の最初まで戻され、輪廻の枠内から逃れられない(「走馬燈システム」)のは、強制的な跳躍である。また、SLGパートを含むタイトルで、そのパートを自動的に勝利進行したことにすることの出来る「戦闘スキップ」機能を実装しているものも少なくない(――例えば『空帝戦騎』『VBG』『漆黒のシャルノス』『あかときっ!』など。『エスカレイヤー』『風と大地のページェント』『少女魔法学』等もそうだったかもしれない。多くは「イージーモード時のみ」あるいは「クリアしたことのある戦闘のみ」のように使用条件を限定している)。AVG作品でも、「次の選択肢へジャンプ」あるいは「前の選択肢へ戻る」といったジャンプ機能があり(特に後者は近年再び採用例が増えつつある)、またプロローグパートをスキップできるようにしているタイトルも多い(タイトル画面上で「プロローグ」を切り分けたり、あるいは二周目以降スタート時にプロローグスキップするかどうかの選択肢が提示される)。さらには、パラグラフ間をプレイヤーが任意に移動することすら出来る『蠅声の王』もある。もちろんこれらは、コンシューマ機ゲーム等も含んだゲーム史全体の中で生まれてきたものであるが。
しかしながら、これらの機能は、システム上の補助的便宜であるという理由や、これはプレイヤーに一定の権限(行為の裁量や選択の余地)を提供するものであるという理由、その作品に固有の(システム的/物語的な)理由づけに伴われているという点に注目すべきだろう。ゲームにおける切断や省略や飛躍は、そのような理由づけによって正当化される必要がある(――実際には、それどころか、理由が提供されている場合ですら、『りんかーねーしょん新撰組っ!』のような例はけっして好まれているわけではない)。