2013/11/30

2013年11月の雑記

  2013年11月の雑記。(→2013年12月2013年10月


  11/30(Sat)

  【 ポンバ便り 】
  うう……精神的に不安定な状態で日本橋に行ったら、憂さ晴らしのようにいろいろなものをどっさり買い込んでしまった……。こういう時は、「所持金が購入量を制約する」ということが無くなってしまうので危険だ。行動を掣肘しうるものはただ一つ、「これ以上買うと、自力で持って帰れなくなるかもしれない」という懸念、つまり重量という物理的要因しか無くなってしまう。もっとも、実際には、レジで購入したその場で自宅発送させてもらえることも多いので、その手を使えばこの物理的制約すら無くなってしまうのだが(――実際、資料のために古めの中古ソフトを20本ばかりまとめて買った時は、SfMpのレジでそのまま発送してもらった)。
  PCゲームに関しては、今日買うつもりだったのに急遽(ただの気まぐれのような感情で)とりやめにしてしまったタイトルもあるが、だいたいは予定どおり、期待どおりのものが買えた。『あまたらす』のパッケは特殊加工が施されていて、ホログラムのような☆マークが無数にきらきらと瞬いていてわりと面白い。lightのパッケージはいつもの大判サイズ。『ツゴウノイイ家族』も買ってきたので、クラシックBGMの件:[ d.hatena.ne.jp/mp_f_pp/20131105/1383663698 ]も早急に確認しておきたい。ところで、『ラストリゾート』はまだ予約してなかったんだっけ……? 帰宅してみたら、予約券が手許に見当たらない。そしてPCゲームも、おそらく再来月くらいには所持タイトル数が次の「大台」になってしまいそう(※大台といってもさすがに「1000本」のような桁ではないが)。もっとプレイせねば。人生は短い。

  追記:『ツゴウノイイ家族』は、原曲が明示されていたので助かった。
  ところで、ベッドシーン一枚絵の吐息差分(口の周りの白もや)とか立ち絵の全裸差分とかが最近増えているように感じられるが、実のところどうなんだろうか。特に前者は、私が見てきた範囲では、本当にここ2~3年くらいの新しいスタイルではないかと思える(――裏付けのない予想としては、アトリエかぐや[THB]あたりが先導したのではないかと見当をつけている)。

『ツゴウノイイ家族』 (c)2013 D:drive.
タイトル画面にどのキャラクターが現れるかは、CG閲覧モードやシーン回想モードで最後に誰のものを選んでいたかに対応してその都度決まる。ハーレムルートのCG/シーンを選んだ直後のタイトル画面は、ヒロイン三人がいる状態になる。


  【 ninetail系列の攻略冊子 】
  ninetail系列の「初回特典に攻略小冊子を付けてくれる」というのは良いアイデアだと思う。スキル情報からフラグ情報(選択肢選択での好感度変化)に至るまでデータ面がほぼ網羅されているが、その一方で「こうしたらいいよ」というお節介な攻略指針はほとんど書かれていないというところも、ものすごく好印象。要するに、素材としてのデータだけは提供されているが、解までが示されているわけではなく、プレイヤーはデータを利用(考慮)しつつ、実際の運用は各自がゲームの中でそれぞれ計画し取捨選択して実現していくということになる。非常に健全な「ゲーム」のあり方だと思う。意図してかどうかはともかく、見事な攻略サイト封じにもなっているし。これからも是非続けていってほしい。


  【 合唱 】
  映像作品(アニメなど)では唱歌や校歌を合唱するシーンはたまに存在する(前者は一例として『SW2』の「仰げば尊し」、後者の例は『けいおん!!』など)し、それらを表現することは制作コストの点でも表現様式の点でも比較的容易だが、AVGの場合はなかなか難しいようだ。知るかぎりでは、『キラ☆キラ』に、卒業式で校歌のパンクアレンジを歌うシーンがあるという程度。
  もちろん、特定のキャラ一人が作中で特定のなんらかの歌を歌うシーンならばいくつも存在する。先駆的な『WHITE ALBUM』を初めとして、『秋色恋華』の木村キャラや『パティにゃん』の海原キャラ、正統派の歌姫もの(『もろびとこぞりて』『Ricotta』など)、『Re:メイド』の第九鼻歌や『Clover Point』の「Shake it down」("しゃっきんだー")、『女装山脈』の子守唄に至るまで、様々に。
  しかし、合唱となると、実例は非常に稀であるように思われる。OP曲の合唱ならば、『少女魔法学』『六つ星きらり』『とっぱら』など、いくつかは挙げられるが、作中の合唱シーンというと……『この青空に』にそんなシーンがあったような、最早おぼろげでふたしかな記憶が……。『雫』の2004年版ならば、もしかしたら「仰げば尊し」シーンで実際に合唱が入っているかもしれない(未プレイ)。
  ダーク系タイトルなら、悲鳴のBGVの大合唱なんてのもありそうだけど。
  追記:『コスプレ学園ゲーム分校』(STONEHEADS、2000)には校歌があるようだ。



  11/29(Fri)
  以前にも言ったことですが、『カオスシード』(SFC版)からは「ゲームとは何か」を学びました。
  ゲームの面白さはどのように出来ているのか。ゲームのシステムデザインに対してどのように向き合えばいいのか。ゲームに対して「プレイヤー」がどのように参加していくことができるのか(換言すれば、ゲームのシステムがプレイヤーという外部存在をどのように組み込んでゆくことができるのか)。ゲームにおける「自由度」という考えにはどのようなポテンシャルがあるのか。ゲームの操作感、あるいはゲームの「手触り」が、ゲーム体験にとっていかに重要であるか。複数のシステムモジュール(個々のメカニズム)や複数のシステムモデル(RPGやRTSといった枠組)のハイブリッドがいかなる可能性を拓いたか。ただ単に「すばらしいストーリー」や「深みのあるゲームシステム」というだけでなく、物語要素とシステム要素とが複雑に緻密に絡み合うことによってどのようなゲーム世界を描き出すことができるのか。細かな点では、中華趣味(風水五行)を取り入れたゲーム作品であり、しかもその成功例であること。そして、「ナレーション萌え」を教えてくれたこと(――SS版ではキャストが変わったらしいけど)。等々、等々。私がゲーマーとして最も多くのことを学んだタイトルであり、ゲーマーとして一番好きなタイトルの一つでもあり、そして私にとって「最高のゲーム」は何かと問われたらおそらくこの作品を挙げるでしょう。
  PCアダルトゲームの枠内では主にEscu:de、ソフトハウスキャラ、すたじお緑茶の三つのブランドが私にとって最良の導き手であり続けてきた、ということも以前にどこかで書いたことですが。

  余談の域になるが、逢川氏がとあるwebラジオのゲスト出演された時に、好きなゲームとしてこのタイトルを挙げておられたのは本当に嬉しかった。


  新作は明日の午後に買いに行く。


  [ ho2ch.vs.land.to/ayaka.html ](※2013/11/29付)
  『でりばらっ!』は、発売当時は(申し訳ないことに)あまり注意を向けていなかったのだけど、木村氏主演で、しかもEGScapeを見ても声の評価が高い模様。キャラクター紹介を読んでも、なるほどたしかに木村氏ならばうまくコントロールしてくれそうなタイプのように思える。ブランド全体としても、4タイトル中3タイトルに木村氏(「志田かな」名義含む)が出演されていたとは。『でりばらっ!』はどこかで買ってくることにして、このブランドの次作もできるだけ買うことにしよう。

  それにしても、「ケビン・スパイシー」とか「卑猥俊二」とか、もじりにしてもひどい名前だよね。


  90年代末はルーズソックスが流行していたので、たしか1998年発売の『ToHeart』のキャラクター「長岡志保」もルーズソックスを履いていた。彼女のコスプレをする人たちもそうしていた筈。そこから十数年を経た近年でも、「ギャル」キャラクターの設定にこのファッションをあつらえている作品は存在する(――例えばMielの『気高き~』や『~ライセンス』など)。全体的に見ると、明らかにニーソックスによって淘汰されているが。
  こんなことを書いていたら、ちょうど『ゆめみがちーく!』にもルーズソックスキャラが。



  11/27(Wed)
  ぐさぁー。木村氏とみる氏のコンビも、とても良いものだ(『HHG終焉』カウントダウン4日前)。


  うーん。なんと言ったらいいのか:新記事「ゲームテキストに対する制約
  こんなに堅苦しい鎧を着て迂遠なかたちで向き合うべきではなかったかもしれない。むしろもっと単純に、「キャラがいちいち声を出してくれることの嬉しさ」などを嬉々として語るべきだったのかもしれない。それとも、各キャラが思い思いの仕方で――そしてそのキャラクター個性を表すような言葉をもって――応答してくれることの意義を書くべきだったのかもしれない。その斉一性とヴァラエティに、単なる退屈な機械的秩序感以上のものがあるということは確信できる。


  『BALDR FORCE』で思い出したが、戯画Escu:de(例:『ヒメゴト・マスカレイド』)のエンジンはCGモードやイベント回想モードのサムネイルが定期的に(1.5~2秒単位くらいで)差分変化する。所詮サムネイルサイズなのでどこがどう変化しているのか分かりにくくて実用的ではないし、各サムネイルがランダムにうねうね変化するのを見ているとなんとなく生理的不快感が……。マウスカーソルを当てるとそのサムネイル画像だけ差分変化するというのもあったような憶えがある。どのタイトルだったかは失念したが、こちらはまだましだと思える。



  11/26(Tue)
  Astronauts新作は、トップヒロイン二人が眼鏡+長耳キャラと軍帽+姉キャラか……買わねば。

  12月新作の予約予定も確認しておかねば。


  適当な走り書きの新記事:「ゾンビキャラ

  【 仮想空間もの 】
  そういえば、『BALDR』シリーズやage系列のいくつかのタイトル、あるいはQ-Xの『こころナビ』『幻月のパンドォラ』、それから『バイナリィ・ポット』『プラネッタ』みたいな仮想空間ものってどのくらいあるんだろうかと思ったが、腰を据えて調べる気にはならない。先月の『ココロ@ファンクション』もそういうのなんだろうか(未プレイ)。『七人のオンラインゲーマーズ』や『電脳侵犯・キサラギ参事官』とかも買ってない。『黒の図書館』『蜜柑』『ヤミ帽』も、ネットか書籍かという違いはあるものの、趣向自体は似通っている。『ク・リトル・リトル』がやったように、本編全体がある特定キャラクターの夢の中の世界だったとするものもある(――こう形式的に言ってしまうと、『Rance』世界も同じことになってしまう)。『ファンタジカル』も、似たような「夢の世界/現実世界」の二層構造。『Crescendo』の美夢シナリオはそう単純ではなかったし、『Forest』(物語られた世界)まで行くと何が何やら。


  [ blog.livedoor.jp/kakuredakiota/archives/10987006.html ]
  [ homepage3.nifty.com/orangejuice/head1.html , head2.html ]
  試しに自分の頭部のサイズを測ってみたところ、縦(上下)は22~22.5cmくらい、横幅は14cm。自分では分かっていなかったけど、平均よりもかなり小さかったのか……道理で大抵のヘッドフォンがきちんと保持できずズレ落ちてしまうわけだ(泣)。もっとも、全体としてはべつに痩せ形というわけでもなくて、ただお肉が太腿に集まりやすい体質というだけのことだが(――逆に「頬から丸々と太り出す」という人もいたりする)。
  キャラ抱き枕や「等身大ポップ」などで使われる「等身大」という表現については、以前からどういう意味なのか分かりにくいと思っていた。文字通りの意味での「等身大」ならば、「ユーザーと同じくらいの寸法」ということになるが、それではユーザーの体格次第で「等身大」になったりならなかったりする。「原寸大」というなら、「そのキャラクターの設定どおりの身長」ということになり、これならばサイズが一意に定められるし、まさにそのキャラクター自身の身長というリアリティも出てくるし、キャラ毎にサイズのヴァリエーションも出てくる。一般企業の広告などに実用される「等身大ポップ」であれば「等身大」(平均身長)でも構うまいが、萌えものであれば「原寸大」を目指してほしい。



  11/24(Sun)
  『カタハネ』『片恋いの月』『マブラヴ オルタ』のパッケージは、トールケース2個分――というか後二者はまさにトールケースを横に2枚並べてプラケースで括った形――なので、規格が合っているという意味で収納しやすい。ういんどみる作品(『はぴねす!』『ツナガル☆バングル』『ウィッチズガーデン』)や『はるまで、くるる。』『すまいるCubic!』『夏めろ』なども、(ほぼ)同じサイズの薄手パッケージ。このタイプのパッケはわりと好みで、そして幸いにもゲームの中身もどれも好み。むしろ逆に、Liar-softのように一回り小さいパッケの方が、棚に並べる時にどうも納まりが良くない。『仏蘭西少女』や『殻ノ少女』のようにCDケースよりも少しだけ大きいサイズも、扱いに困る。


  HDDを掘り返していたら『痕』の1996年版と2002年版の対比SSが見つかった。どこかで使おう。
  『とびっきりRUIN』の攻略データとかも出て来た。うーん、懐かしい。

  今後のために手掛かりだけを残しておく新記事:「『痕』1996年版と2002年版のテキスト比較
  背景画像(『水月』壁紙)や、ウィンドウ上部に乗っているActWin32セリオさん、それからデスクトップに見えているショートカットアイコン群(明らかにLeafファン兼あぼぱファン)のことは、どうか見逃していただきたい。これが当時の私のゲーム用PCの環境だったのよ……。



  11/23(Sat)
  とりとめのない新記事:「同一キャラを別の原画家が描くばあい

  卑影氏のことを、「ひかげ」(=日陰)だと思っていた。「ひえい」と読むのね……ごめんなさい。

  自分が過去に書いた筈のテキストを探す時に、いつ頃どこで書いたのかを思い出せないと、検索するのにも二度手間、三度手間になってしまう……。

  「同一キャラの別原画」のサンプルもSS掲載しておこうかな……。

  戯画といえば、ここ最近『ホチキス』『キスベル』『キスアト』と似たような方向性のタイトル群を続けて制作しているなあとぼんやり思っていたが、ディレクターや原画担当も共通で、「イチャラブADV」と銘打ったシリーズものだった。しかも、制服デザインまで(ほぼ)同じという念の入れようだったりする(――ストーリー紹介を見るかぎりでは、同じ学園というわけではないようだが)。いずれも片仮名四文字タイトルで、頭髪色はリアル寄り(赤髪やピンク髪がいない)、シックな冬系制服、キャラ配置も似たようなパターンと、いかにもコンシューマの有名なタイトルを連想させるが、ユーザー受けも良いのだろうか。


  noukano新作原画に空維氏がいらっしゃるそうなので購入意欲が高まる。『魔法少女ハルカ』でも、たっぷりと豊かに広がる頭髪と天真爛漫で毒気の無い正面笑顔がたいへん楽しかった。


  getchu.comの画面右下に『サキガケ~』の予約アナウンスが出しゃばっているのが、ものすごく目障りで鬱陶しい。これを目にする度に、getchuとclochette双方に対するマイナスイメージが私の中で強まっていってしまう。やめてくれないかなあ。
  twなどを検索してみたら、この広告を耐えがたく煩わしいと感じている人は何人もいるようだ。



  11/20(Wed)
  かぜひいたベルン(みなこい風語尾キャラ)。


  語尾キャラの話が本題というわけではないが、新記事:「ひらがなせりふ
  『BALDR FORCE』のナッドサット台詞のSSを撮っておけばよかった……。

  というわけで『BALDR FORCE』のディスクを引っ張り出してきてプレイ中。16bit color(High color)でないとウィンドウモードにできないという仕様のため、ずいぶん久しぶりに色表示指定を変更することになった。
  速度感のある脚本といい、贅を凝らした画面演出といい、インターフェイスの心地良さといい、本当に素晴らしいタイトルだ――翌年の『永遠のアセリア』ともども、演出感覚はおそろしく先進的な地点にいる――が、しかしなかなかナッドサット言葉が出てこなくて少々焦った。実際には、ハッカー向けネットカフェでウェイトレスが数回使っている程度だった。あと、ゲンハの鉈を「ブリトバ(=剃刀)」と呼んでいるのもそれ。

  そして橘玲佳さん登場。地位の高い年長者キャラクターだが、たとえばルツィア役の時のような低音芝居ではなく、張りつめた緊張感を込めた芝居になっている。一文の中でも節目節目に大きく間を置いてみせるのも、ちょっと風変わりな演技で面白い。このキャラクターに限らず、本作は声優陣にたいへん恵まれているが。まき氏を筆頭に、芹園氏、坂本(青山)氏、桜木(籐野)氏、そして阿藤(大波)氏と、00年代前半という時期に照らして実に趣味の良いキャスティング。

  平仮名台詞について、幼児キャラの例は(本文で言及しているとおり)『アイ』、言語(あるいは文字)未習得キャラの例は『ひなた』(さっそく、一番可愛い瞬間のSSを引用掲載した)、そして言語能力低下の例としては『仏蘭西少女』の「純白」EDのそれを念頭に置いていた。『仏蘭西少女』はSSを撮ってなかったので、あらためてインストールしようかなあ。この3つ目のタイプとしては、もう一つ、『パンドラの夢』の終盤でスウの言語能力が低下していくところも思い出したが、あれはまあなにかといたいたしいしーんなのでさしひかえました。ダーク系タイトルでヒロイン側がいわゆる「精神崩壊」して平仮名台詞(というか、「あいうえお」系の喘ぎ声)しか喋らなくなるのはわりとよくある表現だろうが、主人公側(とりわけモノローグ部分)が平仮名化してしまう例というと、他には……『君望』の穂村愛美EDはどうだったっけ。

  病み上がり直後は、身体的にはもちろん疲労が残っているのだが、精神的には普段よりもはるかに調子が良くなる。このような反応が一般的なのかどうかは知らないが、この心理的な快調さがあるおかげで、風邪の苦しみもずいぶん救われる。ただししかし、その好調なタイミングで『BALDR FORCE』なんぞをプレイし始めてしまったら、……あやうく徹夜してしまいそうになるところをなんとか我慢して、週末に持ち越すことにした。



  11/17(Sun)
  関東で先輩と『リトルバスターズ!』の話にうち興じてきました。


  「マイトレイア・メイシアン」って、『ママトト』のマイトレア君?


  オタクの「『○○』というタイトルの××版が出たら絶対に買う!」という言葉ほど信用ならないものは無いと思っている。「リメイクが出たら」とか「コンシューマ版が出たら」といった単なる放恣な妄想の中では自分に都合の良い想像ばかりしていればよいからという事情もあるだろうが、しかし実際にリメイクなり何なりの情報に接したら「なんか違う」とか「今更リメイクか」とか「買う価値があるか微妙」とか「改悪された」とか「なんでもリメイクすりゃいいってもんじゃない」とか、きれいに掌を返している。メーカー側はこんなことは重々承知のうえだろうけど。



  11/15(Fri)

  【 ゲーム制作者とゲーマーとの間の「信義」? 】
  ゲームの「信義」とはどういうものか、ということをいろいろ考えているが、おそらく結論を形にするのは非常に難しい。制作者によるどのような設計がプレイヤーに対して「ゲームとしての公正さ」を守るものであり、そしてどのような仕掛けがそれに反する「不公正な」ものになるか、つまり一定のルールを前提とするゲームとしての最低限の信頼関係を破壊するものになるか。「そのような『ルール』の制約など一切存在しない」と主張する立場も提起されるかもしれないが、しかし私には、ゲームがプレイヤーの参加を前提とする「ゲーム(game)」であるためには、あるいは「ゲーム」として公正なものであるためには、一定の限界が、一定の禁則が、最低限の基準が、存在すると言える(あるいは、もしかしたら、言うべき)なのではないかと思える。
  例えば、ゲームの最初のうちは提供されていた機能が、途中で突如として停止乃至破棄され、しかもそのことがプレイヤーに対して選択の余地も事前の予告も与えないとしたら、どうか。それは部分的には、ゲームデザインの一部として肯定され得るだろう。たとえば、パーティー制RPGの場合で考えるとして、特定の戦闘で全滅条件が新たに追加されたり(つまり制約の追加)、あるいは特定の場面でパーティー編成が禁じられたり(つまり許可の一時停止)、あるいは特定の場面でセーブが出来なくなったり(これも許可の一時停止)することは、ゲームの抑揚として認められるだろう。とりわけ、抽象的なシミュレーション(《計算》要素)ではなくストーリー要素(《物語》要素)を自身の重要な一部として含むゲームタイトルの場合には、物語状況のレベルで生じた変化にゲームパートの計算条件が追従して変化するということは、ごく日常的に行われている。どこがその限界になるのか、その限界はどのようにして一般化できるのかは分からないが、どこかには限界があるのではないかという予感がある。
  物語がプレイヤーを《騙す》ことは許されるとしても、インターフェイスがプレイヤーを不意打ちで裏切ることは(自転車創業のように、枠組的な事前通告が事実上提供されている場合を除いては)許されないのではないか。『さよならを教えて』の驚きは、一度きりなら許され、そして高く評価された。しかし二度目は茶番劇でしかないのではないか。……nitro+新作に対する不信感をなんとか言葉にしようとする時、このような論点から取り組まなければならないのではないかと考えている。


  週末は関東に行く予定。仕事関係なので、遊び回ってくるというわけにはいかないが、清澄白河駅の写真くらいは撮ってきたい。澄白キヨカさん。



  11/13(Wed)
  STP(胃)に新人プロレスラー清水氏がゲストにいらっしゃるフラグが立った!

  ところで、現在の「胃~之煮」(とSTP)のリスナー層ってどんな感じなのだろうか。2009年の公開イベントでは、ほとんどが男性だったらしいけど。最も手っ取り早い情報としては、twのフォロワー層を見られればある程度見当がつきそうだが、しかし現在のtwの基本仕様ではアカウントログインしなければフォロー関係やリストが見られないので、私にはもはや手が出せなくなっている。
  以前にも書いたことだが、このラジオチームは、1)素人ではなく本職の声優たちが、2)6人もの大所帯でありながら(以前は7人だった。櫻井氏が離脱されたのはおそらく移籍先事務所の方針によるもの)、3)非営利(つまりスポンサー無し)で、4)特定のテーマ(特定の話題や具体的方針)に縛られずに、5)長期間に亘って続けている(2006年以来すでに丸7年以上も、休みなしに、しかも毎週2回ずつ)、という意味で非常に稀少な、そしてもちろん貴重なwebラジオだ。そしてもちろんなんだかいろいろと楽しいし。



  11/12(Tue)

  【 プライベートなこと:「最初のゲームの感動」 】
  「自分が最初に出会った作品(例えば「初めてプレイしたPCゲーム」)の感動に匹敵するようなものを、自分はもう得られないのではないか」といったようなことを言う人は少なくないが、しかし幸か不幸か、私の中にはおそらくそういう意識はまったく存在しない。
  一つには、単純な経験上の問題として、2013年現在にプレイしている最新のゲームたちも、自分が最初期にプレイしたゲーム群と同様に、十二分に楽しく刺激的だというせいもある。最近発売された適当なタイトルについて、「もしもこのタイトルが十年前に存在したら、どれほど画期的でどれほどクオリティが高く、そしてどれほど熱狂的な反応を喚起するだろうか」を想像してみるといい。今も昔も、その一つ一つが、私自身のゲーム経験の中で、そして私のゲーム認識にとって、それぞれがけっして無視できない重みと特有の手触りと面白味と魅力を持っている(――もちろん、それほどではないタイトルもあったが)。そして新たな一本をプレイする毎に、これまでプレイしてきたあらゆるタイトルの位置価がそれぞれ大なり小なり変化を蒙り、そしてそれと同時に私の「ゲーム観」それ自体も更新されていく。その中で、「私が最初期にプレイしたPCアダルトゲーム群」は、それ以降のゲーム群に先んじてどこかの位置を占めた作品ではあるが、それはけっしてその最初の位置と同じままではなく、かなりその位置を移してきている。その意味でも、最初(最初期)にプレイした作品の絶対性というものは存在しない。換言すれば、――ここで私は自分の愚かさを示さざるを得ないのだが――私は自分が最初にプレイした作品について、そこで何が行われているか、それがいかに面白いか、どのようにして面白いかを、十分には理解していなかった。その当時、その時点での感動はそれはそれで(事実問題として)一回性のものではあるが、その「稀少さ」は「貴重さ」と同義ではないし、その感動は少なくとも私にとっては、特に反復したいものではなく、それよりも、まだプレイしていない無数の作品(新作旧作問わず)をもっと見聞していきたい。
  もちろん、最初期にプレイした作品の衝撃には、しばしば他に代えがたいものがあるということは確かだろう。とりわけ日本国内の商業アダルトゲームでは、18歳以上の個人が、つまり知的精神的に十分に成熟した時点で初めて、その「自分にとって最初のアダルトゲーム」を手に取るのだから、自分のそのゲーム経験に対して十分に強い確信を持つこともできるだろう。そして、その最初のゲームの経験が、自分のゲーマーキャリアの中で絶対的な地位を占めることになった人、その後それを理想としてしまうほどに自分のゲーム観全体を大きく規定することになった人、要するにそれほどの強烈な感動を得ることができた人は、やはり幸福だと言うべきだろう。

  ……webラジオ(のバックナンバー)を聴きながら文章を綴っていると、論旨とロジックが滅茶苦茶になってしまう。今日のもかなりひどい。

  「作品」のレベルではなく「キャラクター」のレベルでは、それに近いことがあるかも。この分野に足を踏み入れて初めて強烈に萌えたキャラクター、つまりいわば「初恋の人」の特別さ。



  11/11(Mon)
  いまいち歯切れの悪い新記事:「AVG表現と『上手/下手』概念
  それにしても、いかにダーク系タイトルとはいえ、クリック待ちアイコンの動きを「血の滴り」にするのはあまりにもあんまりじゃないかとは思った。


  昨冬はエアコンをほとんど使わずに済ませられたが、今年は無理かもしれない。いっそ3DゲームをプレイしまくってPCの排熱で部屋を暖めれば……(それはいけない)。


  ほんのちょっとしたメモ:「BGV技法の発達
  民安氏がBGVに言及したのは第何回だったっけ。かわしま氏がゲストの回だったような……。
  今後のためにも、「モンキーパーク」の各回概要も一度書きまとめておこうかな……。
  →BGVの話は第14回だった。かわしま氏ではなく、まき氏&海原氏がゲストの回。


  「こんなん出ましたけど」のネタは、『えむぴぃ』の高次元生命体「田端さん」の出現シーンで使われていた……かと思いきや、スクリーンショットを確認してみたら正確には「こんなん出ました」だった。しかも2回使われている。


  そうだ、触手や怪虫を錯視図形のようにうまく配置すれば、静止画の一枚絵でもまるでうねうねと動いているように見え……(それはない)。


  ダーク系作品では、選択肢とフラグを試行錯誤して《最もまし》な結果になるであろう組み合わせを発見したと思ってそれを進めてみたら、中身は実はどんでん返しを起きて《最悪》の結果になる――例えば全員が同時に蹂躙される最悪の饗宴シーンで締め括られる――バッドエンドだった、なんていうことが起きるのが刺激的だ。こういう時は、「してやられた!」と制作者に対して敗北を認めるしかない。このような、テキストがフラグを裏切る表現については、ゲーマーに対する制作者の一種の《ルール違反》だと捉える見方もあり得るだろうが、私は「ダーク系の作法にはこれを許すような懐の広さがあるのだ」と考えたい。


  ――以上、『異触の檻』の感想でした。



  11/10(Sun)
  消すほどではないがブログトップには残しておきたくないものを書いてしまった時は、早めに日付を切り替えてしまおう。


  【 『白詰草話』のED曲オーバーラップ演出 】
  『白詰草話』のED演出は、同じようなことをするのが非常に難しい。ゲーム進行は話数制で区切られており、各話の後にエンドロールが入るという体裁だが、それぞれ本編のラストシーンに少しだけ被せてED曲が入ってくるというもの(――TVアニメ『City Hunter』で有名になった、あのスタイル)。ただし、PCゲームでそれを意味あるかたちで実行するためには、いくつかの前提条件が必要になってくる。すぐに思いつく範囲でも、1)各話の区切りを必要とすること(:本作は、物語本筋は一本道志向である)、2)各話でスタッフの違いがあり、かつそれをクレジットで明示することに意味があること(:実際にスタッフ編成は各話で異なっている)、3)エンドロールの時間を保たせるための素材が必要であること(:FFDのために画像素材は大量にあり、しかもEDではラフ画像を使って本編との違いを出している。cf. 「ラフ画像」記事)、など。『白詰草話』『AYAKASHI』『銀の蛇、黒の月』のようなタイプの演出を取らないかぎり、毎回わざわざエンディングを流すということ自体が難しい(意味のあるかたちでは実行しにくい)。PCゲーム分野において、『白詰草話』のこのED曲オーバーラップ演出は、おそらくは今後も、本当に稀少なチャレンジの記録として残るだろう。


  choco-chip氏原画のフルプライスだったらBerkshire-Yorkshireチームと名乗れば良さそうなものだが、今回の新作でそうしていないのは何か考えがあってのことなのだろう。チーム編成や制作体制自体が大きく変わっているとか、あるいは作品の目指す目標が以前のままではないとか。キャスティング面では、BYのそれを引き継いでもらえたら嬉しい(――とはいえ、かぐやのキャスティングは、チーム毎で大きく異なるということは無いが。むしろ、注目した役者さんを集中的に連続起用することが多い。例えば青山氏は、2003-04年の間にTHBとBYで5作品たてつづけに起用され、そしてその時期にしか出演していない。安玖深氏も、2006-07年の間にBYとHTPで3作品に出演したが、結局その3本だけだった)。


  大切な意義があると思うものについては、くりかえしを怖れずに語るべきだ。あるいはせめてたった一度でもいいから、書き残しておくべきだ。語られないものは忘れられて消えていくのだし、それが語り残されていたとしてもそれに気付いて再発見する人がいなければ存在しないも同然なのだから。


  [tw: 399059062798565377 , 399064773309919232 , 399065456109051904 , 399066582338387968 ]
  なるほど、当時の作品を知っている方々が正確に検討するとこういう反応が出てくるのか。
  ちなみに、プレイ内容に応じてエンディングに複数のパターンが用意されているというゲームは、80年代(ファミコン時代)以来、ジャンルを問わずいくつも存在した(――たとえば特定のアイテムを全て取っていると最終面からエクストラステージに行けるパズルACTとか、支配度等に応じてエンディングが変化する国取りSLGとか)。
  さらに余談ながら、「心温まる(heartwarming)」という趣旨で「ハートフル」という言葉を使うのも、『ToHeart』が最初だったと聞いたことがあるが、真偽のほどは定かではない。時期的に見ておそらく本当であろうと思われるが(――英語の"heartful"には「心温まる」というような意味は無い筈で、「ハートフル」というのは一種の和製英語である)。



  11/09(Sat)
  『ひなた~』のドラマCD(えーと、これは予約特典だっけ?)、まさかの絵売り案ネタが……。


  所蔵品の整理収納をしたのを機に、「気に入ったCDばかり聴き返していてはいけない。未聴ディスクも聴いていかねば」と思い立ち、「これからは、一度聴いたCDは聴き返さず、まずはなんとかして所蔵CDを一巡させよう」という方針を決意したのだけど、やはり気の進まない録音とか歯ごたえのありすぎる何枚組とかがあって、CDを聴く頻度自体が下がってしまった。これでは本末転倒じゃないか……。
  そして、そのぶん……というわけでもないが、webラジオを聴き返すことが増えた。なので、現状もこれはこれでたいへん幸せなのだが。


  「初めて」の出血描写は私も嫌。嫌というか、痛そうというか、可哀相というか……。しかし、フィクションにとって、そういうことの証拠として必要な表現であることも理解しているので、あまり悪くは言えない。
  性に関することでも、それ以外のことでも、「フィクションのことを現実と混同する人などいる筈がない」というのはさすがに言い過ぎだろう。創作物の中で描かれていることが、どこまでが現実では受け入れられないことであり、どこからが現実でも(それなりに)あり得るものであるかは、判断しきれないところもあるだろう。上記の出血のように身体機能に関する医学的事実であれば、異性のことであってもある程度は推測できる場合はあるだろうし、あるいは、例えば排泄口にじかに局部接触させる行為のように、やってよいかどうかが衛生面で考えて判断がつく場合もあるだろう。しかし、学問的にはっきりしている事実でも非専門家には分からないことはいくらでもあるし、また物理的にではなく文化的に規定されている事柄は、その文化の中で知っていかなければ判断できない度合いは非常に大きい。例えば縞々下着が実際にはほぼ皆無であろうことは男性でもそれなりに想像できるが、しかし、特定のタイプの行為が、アダルトゲームではごく普通の行為の一種のように描かれているとしても、それが現実にはどれだけ嫌がられるかについては、判断するための手掛かりを持ち合わせていないという場合も多いだろうし、相手にとっては「現実にはそんなことは完全にNG」な行為を、「現実でも、場合によってはやってもいい行為」かと錯覚して申し出てしまう人もいるだろう。人間が常識や直感や本能によって自然に(あるいは生得的に)正しい判断ができるなどということは、そんなに信じられるものではない。


  昨日の話にも少し関係するが、「選択肢」のことばかりに熱を上げる人たちが、何故その点ばかりに興味関心を持つのかは、私にとってはまったく不可解だ。「イメージ画像が常時付いているデジタル読み物の中で唯一、通常の小説と異なるように思われる独自の要素だから」といったような認識なのだろうか?(もちろん、そんなものではないのだが) 直接の非難を向けたことは無いが、内心では「お兄さま方、十年以上もゲーマーとして生きてきていらっしゃる筈なのに、まだそのレベルの認識なのですか」とは常々思っている。

  ……ああ、あのあたりの連中がまたいつもの仲間誉めで吹き上げているだけのことか。相変わらず、アダルトPCゲームの歴史にはLeaf/keyと俺たちしか存在しない、と言わんばかりだね。狭く、痩せて、歪んだ視界だ。


  いわゆる「まとめサイト/ブログ」は、害悪の方が大きいと思っている。とりわけあまり体系化されていない趣味分野でのweb検索にとっては――ということは新たな情報を収集しようとする人にとって多くの場合――、中身の薄い細切れの書き散らしばかりが検索上位を占めるようになるという意味で。内容の薄さと検索評価の重さとが釣り合っていないものの代表例だろう。ggl検索も基準をいろいろ試行錯誤しているようだが、それでも余計なものばかりが引っかかってきてまるで役に立たないということはよくある。違法アップロードされた動画ばかりが検索上位にずらずら並んでいても、ちっとも嬉しくないのに。



  11/08(Fri)
  私の死因になる可能性が高いのは、そして私の死に方として最も幸せなのは、「webラジオを聴きながら感極まって卒倒しそのまま息絶える」というものだろう。それがもしもシャコトークやフナムシトークやゴーヤトークやホルモントークやスライムトークだったとしても後悔は無い。
  ……うっ、興奮しすぎて頭痛が。


  【 あまりうまくまとまってない話:議論のための最低限 】
  いわゆる「にわか」「素人」であることそれ自体は一向に構わないと思うし、なんらかの分野についてそうである人(たち)を非難したことも無い(はず)。批判するのは、「知ったかぶり」の半可通だけだ。個人は時間的にも能力的にも有限の存在であり、それゆえ無知な部分を持つのはやむを得ないことであり、そしてそれゆえ無知が自動的に非難に値するということは無い(――もちろん、絶対的に潔白であり続けるということではなく、たとえば成人後に一定の社会的マナーを欠如している場合にはその無知が非難されることはあるし、無知に基づいて他人に危害を加えてしまうような場合にも、無知がその行為を免責するとは限らない)。それに対して、「知ったかぶり」は、(十分には)知らないことをあたかも(十分に)知っているふりをすることであり、すなわち実際よりも自分の発言の信用度を高く誤認させるものであり、しかも陳述内容が事実に反する場合には意図的に嘘をつくのと同義であるという意味で、非難されるべきだと思う。
  十分には知らない分野のことでも、「私の見聞の範囲では、○○であるように思われる」「○○とは、××ということなのだろうか」と述べてみることは、それが言論上の最低限の誠実をもって述べられているならば、もしもそれに通暁した者からみればいかにも未熟な(あるいは明白に誤った)見解であるとしても、非難すべきではないだろう(――もちろん、その発言が訂正を受けずに放置されるべきだということではない。公平な議論の中で誤りが指摘されることには意味がある)。しかし、無根拠に断言し、あるいは論証上の虚飾を伴って特定の命題が権威ある真実であるかのように見せかける行為は、非難されるべきだろう。
  ここでは、語り口それ自体も問題になる。例えば「白髪三千丈」という言葉は、通常、修辞(比喩)的な誇張表現であることを明示していることになるので、実際には白髪が9kmに届いていなくても虚言だとして非難はされない。しかし、もしも「彼の白髪の長さは3000丈であった」という言い方をしたならば、通常は事実に関する命題を提起したものとして受け取られ、そして命題が事実に反するならばそのことについて責を負うべきだろう。それを後から「ものの喩えだよ」と言い逃れすることはできない。それと同じように、例えば「神wwwww」のようなフレーズであれば、通常、これは感激を表す叫びのようなものであって、けっして当人にとって信仰の対象となったことを意味するとかその作品が神秘的なまでの表現世界を実現しているという主張であるとは受け取られない。しかし、「○○という演出はこのブランドが初めて行ったことであり、この点で他のブランドとは一線を画している」としかつめらしく述べたならば、これは通常、「このブランドがそれを初めて行ったのか」や「他のブランドとはどれほど異なっているか」を当人がなんらかのかたちで調査しまたは思考したうえでの発言ととられると考えられる、あるいは、そのような吟味を経たうえでの内容的に妥当な発言だとして受け取られることを要求する主張であると考えられる。「wwwww」文体ではなくこのような文体を取ることは、通常、自分の言葉を賭けてそのような妥当要求を掲げることをも含意する。そしてそれゆえ、その発言の真偽が問われて誤りであることが判明したならば、その粗漏さに応じた重さの責任を発言者は負わねばならない。そのような特別の非難加重を避けたいならば、もっと慎重な表現をすればよい。「私の知るかぎりでは」「ではないかと思われる」といった《歯切れの良くない》言い回しは、自身の発言があるべき限度よりも過大な権威をもつものであるかのように誤って受け取られないために、そして十分な検証を経た結論であるかのように誤認させないために、自身の発言の妥当要求をみずから適切な範囲に切り詰めるものであり、それと同時に責任回避にも役立ってくれるだろう(――批評家だか何だかの真似事をしたいならば、その言論の一見ものものしく威厳ありそうな断定口調を真似るだけでなく、このような慎重さのことも学んでおくべきだろう)。
  これは、議論の「文体」の場合だけでなく、論ずる対象の《規模》や《水準》にも当てはまる。たとえば、ある分野についての大掛かりな歴史的展望を語ろうとするならば、通常は――つまり、不実なはったりではない《まともな》言論の場合には――、その議論の規模の大きさに対応(または比例)するような規模及び精度でその分野の関連する諸事実をきちんと収集し、そしてその議論が主張する一般性の度合いに対応(または比例)するような慎重さできちんと思考したうえでの議論として通用させようと意図しているものとして読まれる。その用意をしていないグランドセオリーは、端的に無意味な空言であるか、あるいはそれが内容的に誤っている度合いに応じて害悪である。
  同様に、その問題について一定の権威があると見做されるような《肩書》をあえて明示したうえでの発言も、その肩書が聞き手に対して「その発言は正しいであろう」という推定を要求する度合いに応じて、その発言の重要な部分に誤りがあった場合には、非難の度合いは強くなる。そのような特別の非難加重――誤認させるような振舞いに対する非難――を避けたいならば、地位や肩書を示さず、匿名やHNだけでやればいい。
  要するに、他人と議論するに際して、聞き手に対して自身の発言の正しさを、本来その発言が持ち得べき以上に強く(誤って)推定させるように要求させるための論証外在的要素を自分のために引き合いに出そうとするべきではないし、もしもそうしたならば、内容上の誤りに対してより強い非難を受けるべきだろう。……もっとも、そんなことをせずとも、できるだけ論拠や事実を明示して、それによって発言の正しさを読み手が判断できるようにすればよいのだし、そしてとりわけ「学術論文」のスタイルはそれをモデル的に示している。たとえば他者の文献の「引用」や参照指示というものは、ただ単に自分の述べていることと同じような文章を有名な著述家のテキストから抜き出してくれば自動的に自分の発言を正しいものとしてくれるといったような《権威づけ》のために存在するものではない。自分の発言が依拠(乃至賛同)しているところの論拠を簡潔にかつ具体的に示し、もって第三者がそこにまで遡ってその発言の正しさを吟味することを可能にするために行われる作法なのだ。だから、ただ単に権威あるテキストから、自分に都合のよい文章を切り貼りするだけでは意味が無い、あるいは、それは議論における詐欺行為でしかない。

  要するに、誇大広告のようなminori賛仰とか、立ち絵演出史の転換のようなものを見当違いな方向に妄想したハッタリ批評とか、哲学書の引用のパッチワークで塗り固めたヘボ批評とか、nitro+スタッフによる寝言並の俺偉い発言とかを思い出してどろどろしてしまったという話。ゲームとは直接には関係の無い話だし、わざわざひとに読ませるようなものでもないので、単独記事にはしない。
  minoriはファンが「minoriだけがすごい!」と嘘をつき、nitro+は制作者たちが「おれたちだけが最先端だ!」と嘘をつくという違いはあるが、どちらもたいした違いはない。



  11/07(Thu)
  最近、眼帯キャラが増えてないか。先月の『魔王の~2』、今月の『未来戦姫~』、来月の『みるくアイランド娘。』、そして1月は『新・ソレイユ』『BV』『ひこうき雲』の3本。大半はバトル/伝奇/ファンタジーものだが、以前は2~3ヶ月に1本程度だったところ、ここ数年では月1本に近い頻度で眼帯キャラが出て来ている。ちょっとした偶然の縁からなんとなく眼帯キャラが気になるようになってきていたのだが……なるほどたしかに眼帯もなかなか良いものだな!
  実はあちらの眼帯キャラメモや傘キャラメモのページはこっそり更新し続けていたのだが、今後のものはこちらで新ページを作っていくべきかもしれない。


  PCゲームから派生した関連商品ということで、「ぷりっちラジオ」や「春うららじお」などもいくつか買って聴いている。前者は幡宮氏と神田(理)氏が、後者は友永氏とやなせ氏がメインパーソナリティ。実は、後者の本編『さくらさくら』は(ラジオにとっての直接的な元作品であるPSP版も、その前のオリジナルのPC版もどちらも)まだちゃんとプレイしていなかったりするのだが、それでもラジオ単体でもすごく楽しくて気持ち良いんだからしようがない。友永氏の「あいあーい!」とか、妙に威勢が良くて楽しげだったし。
  ういんどみるは、4つのラジオのうち3つで成瀬氏がパーソナリティをされているということは知識として知っているが、残念ながら「カンパネらじお」しか持っていない。

  というわけで「春うららじお」を聴き返していたら、あまりにも嬉しくて、あまりにも幸せで、それであまりにも興奮しすぎて鼻血が出るんじゃないかってくらい頭に血がのぼってクラクラしてしまった。この酩酊感はスピリタスよりきついぜ、ほあーっ!!
  お二人が高校の同窓でいらっしゃったという意外なご縁のことをお話しされていたりもするが、この二人の卓越した声優によって作り出された「コントロールされた熱狂」のこの雰囲気は、これほどのものはなかなか聴くことができない。完璧に呼吸の合った丁々発止の緊密な、そしてそれでいてもちろん柔らかくのびやかな、二人の話芸を聴くことができる。



  11/06(Wed)

  【 一枚絵の枚数は減っているのか? 】
  イベントCGの枚数が減っているではないかという問については、noとも言えるしyesとも言えるだろう。私はこれまで200以上のタイトルについてCG枚数や回想シーン数などを記録しているが、その数字を見るかぎりでは、フルプライス作品のイベントCG枚数は平均100枚、中央値94枚程度で、ここ十年来基本的に変化していない(――平均値が大きいのは、一部の大作タイトルがCG180枚だったり200枚だったりするため)。もちろんこの200タイトルという母集団は、けっして統計的に十分な数ではないばかりか私の個人的な嗜好によって選別されているという意味でもサンプルとして適切ではないが、その偏りが極端でないならば、一応「NO」(減っていない)と言える。
  もちろん、一枚絵枚数の比較的少ないフルプライスタイトルは確かに存在する。例えばALcot、Escu:de、SkyFishなどの近作では、77枚、71枚、67枚といった少ない数字がある。ただし、1)以前にもこの程度の枚数のタイトルは多数存在した(――典型的にはF&C。例えば『Canvas』も『水月』も『だぶるまいんど』も60枚台である)。2)SLG作品は、一枚絵以外の画像素材に制作リソースを投入する必要があるため、平均よりも一枚絵が少なくなることがある、またはその少なさが擁護される余地がある(――典型例としては『うたわれるもの』の46枚)。3)近年では、一枚絵以外の画像素材(とりわけSD画像)が格段に増えている(――例えばALcotは、『幼馴染は大統領』は一枚絵73枚に対してSD画像52枚、『鬼ごっこ!』は一枚絵77枚に対してSD画像50枚を投入している)。

  しかし他方で、実質的には一枚絵は相対的に減っていると述べることもできる。十年前と比べてテキスト量が飛躍的に増加していることについては、脚本家から声優まで、いくつもの証言がある。それに対して一枚絵の枚数が増えていないならば、ゲーム進行の中で一枚絵の出現頻度は下がっているということになる。この観点では、「YES」(減っている)という主張にも一定の論拠はあると言っていい(cf. [tw: 397713109688651776 , 397713314630737920 ])。
  また、実際に枚数を減らしているブランドもいくつか存在する。具体例は挙げにくいが、そうした場合には、2009~2010年頃から減少が始まっていることが多いように見受けられる。十年前には時折見られたような、極端にCG枚数の多い大規模タイトル――『カルタグラ』(200枚)、『Piaキャロ3』(185枚)、『BALDR FORCE EXE』(180枚)、『Quartett!』(180枚)、『あねいも2』(153枚)など――がなかなか出なくなっていることも、「減っている」という印象を強めている可能性がある(――もちろん『神採り~』[2011年、173枚]や『デモニオン』[2012年、159枚]といった大作は近年でも現れているが)。


  この雑記コーナー、前月(と来月)へのリンクも設けておく方がよいだろうか。自分でログを手繰る時に、あると便利なリンクかもしれない。というか、無いことによって、たまに不便を感じている。リンクを置くとして、ページ上部に置くか、それとも最下部(末尾)にするか。上部であれば、各ページを高速にめくっていくのに適している。下部にあれば、順番に読んでいった時にスムーズに移行できる。用途を考えれば、各ページの上部に置いておく方が良さそうだ。
  ページ下部なら「ブログアーカイブ」をショートカットとして使えば済む話だが、あれはつい忘れてしまいやすいので……。


  『Forest』のことを思い出す時は、それといっしょに1950年代の映画『雨に唄えば』のことも連想する。トーキー導入前夜の映画業界の物語で、映画の仕組みそのものが激変しつつあった時代に材を取りつつこの作品自身も映画らしい仕組みを取り入れて活用していた。無声時代の撮影は当然ながら役者の音声が録音されないので、役者どうしが言葉では罵り合いながら愛のシーンを撮っているという一場面があるが、これはかなり直接的にLiar-softお得意の音声-テキストの二重進行演出を連想させる(――というか、もちろん時系列的には『Forest』の方が50年後なのだが)。現在の目でみれば、「声優(吹き替え)の誕生」そのものをスクリーン上に映し出してみせたという点でも興味深い。
  もちろん、ゲームの表現はすべて他分野の表現から引き出された従属的なものなのだ、などと言いたいわけではない。しかし、無関係でもない。各自が経てきた芸術体験の広がりの中で、そういうつながりや類似性あるいは呼応を自分なりに形成することはできる、ということだ。

  雨といえば傘キャラだが、逆は必ずしも真ならず。傘キャラが登場or活躍するのは、雨天とは限らない。むしろ武器だったりする。なんでやねん。


  保住氏が脚本参加したタイトル……ういんどみる、Frill(戯画)、ぱれっと、ALcot、ensemble、そしてFAVORITEとClochette……あとはHOOKSOFT、ゆず、AUGUSTあたりに参加すれば白箱系メジャーブランド全制覇と言えそうなくらいの勢いじゃないか。


  フィクションのキャラクターに嫌悪感を抱くようなことはほとんど無いが、『聖娼女』の主人公の外見に対しては生理的嫌悪感が抑えられない。なんか、全体的にだらしなさと不潔感が漂っていて、すごく嫌だった。典型的に「醜い」とされる記号的なキャラクター造形よりもはるかに気持ち悪い。おかげで、まだちゃんとプレイできていない。



  11/05(Tue)

  【 webと権利意識についてのもやもや 】
  twに関する話。明らかに被写体の同意を得ていない撮影だと判断される写真画像をみずからRT等によって拡散させる者は、盗撮行為それ自体については肯定しているに等しい、というのはまったく正しい指摘だと思う。私があそこにいた当時は、私がフォロー関係にあった方々の適切な判断力のおかげで、そういうものが視界に入ってくることは幸いにもほとんど無かったが。
  頻度としては、それに類する行為として、明らかに引用に要件を満たしていないと判断されるテキストを集約して垂れ流す、いわゆる名言bot系の投稿がRT等で流れてくることはあり、私はそれに対して上のものと同様に、著作権法上の諸権利の侵害について肯定しているのに等しいと、否定的な感想を持っていた。実際には、明治時代の歌人の歌のbotのように、権利関係の問題がクリアされているであろうbotも存在するので全てが違法であるわけではないが、しかしながらそれらの大半は不正なものであり、それらをフォローしたりRTしたりすることはそれに加担しているのと同義だと言わねばならない。
  遡れば、mxiを初めて訪れた時も、有名人の顔写真やゲーム画像を、まず間違いなく本人や撮影者の許諾を得ていないであろうかたちで、コミュニティ画像に使用しているものが至るところに、あるいはあらゆるところに存在することに、絶望的な気分になったものだった。 それはアクセスの限定されたエリアでのことだったが、今ではご覧のとおり誰でも閲覧できるような場所で、他人の肖像写真の無断使用(さらには、あろうことか、その侮蔑的なコラージュ)や商業出版物の法的に正当化されない無断使用が、もはやほとんど誰も咎めないままに罷り通っている。弁護士アカウントですら、法的に正当化されないとおぼしき画像をアイコンに使っていたりするほどだ。
  私自身も完全に無実ではなかった(ゲームの背景画像を背景に使ったりしていた)し、今でもこのブログの引用画像のいくつかはもしかしたらひとによっては法的に正当化される引用の範囲を逸脱していると判断されるかもしれない。だが、ネット上でそれらの権利侵害がほとんど問題にされていない(かのように平気で行われている)という現状は不正だと思うし、そして(同様に私自身の権利も守られないのだと認識させられるがゆえに)不気味に感じる。
  ただし、ここで私は「みずから権利侵害的行為をしているorした者は、他人の同様の行為を非難する資格は無い」と主張するわけではない。もしも私がここで他人に対して行動の規範(であると考えるところ)を提示するならば、それは「権利侵害的行為の存在を認識し、かつそれらが不正なものであると考えるならば、顧みてまず自分がそれをやめるべきだ」というものだ。私見では、「罪を犯したことの無い者だけが罪人に石を投げなさい」という主張は、(おそらく特に日本では)正しい行為を引き出すためのモデルとしては妥当ではない。ただ相互の沈黙の中で、不正な行為それ自体はひきつづき行われていくだけだろう。
  web上に溢れている笑いの多くが、特定のカテゴリーを侮蔑することで成り立つ「差別の笑い」であるという事実も、いよいよはっきりと露呈している。特に中年男性、中年女性、失職者などを標的にしたtwネタ投稿は、(しない人はしていないが)ほとんど誰も咎めないまま大量に平然と流通している。性差別や人種差別のような、「してはいけない差別」だとして広く認識されている既知の差別表現群との違いは、どこにも見出せない。
  「嘘のニュース」を垂れ流しているサイトも、いかに嘘であることを明示していても、具体的な個人や企業の名誉を傷つけていることには変わりないし、そういうサイトを平気で参照している人たちに対して良い印象を持つことは難しい。


  CmkMktの「頒布」という言葉を、私も一応儀礼的に尊重しているが、欺瞞的だと思っている。1)不特定ではない者相互間での、2)「参加者」同士としての建前を守った、3)非営利の行為であるというのならそもそも「マーケット」を名乗るなよ!とも思うし、また、これは字面だけでなくCmkCkt特有の(つまり普遍的には妥当要求できない)イデオロギーにも関わっているが、そのイデオロギー(理念)それ自体も、なんらかの正しさのためにあるというよりも、厄介事を回避するための運営上の都合に因るところが大きいのだし、そのプラグマティックな事情さえ解決されればすぐにでも他の即売会と同じようにそんな建前は振り捨ててしまって構わない筈だ。もちろん、観察者として記述するぶんには「頒布」という言葉に拘泥する必要など無い。


  【 ジャンルの特性と性表現の方向性 】
  『ひなた~』をプレイしていてあらためて思ったことだけど、普通の男性向けアダルトゲームは、男性サイドの性的感覚をテキスト上でほとんど描写しないよね。ヒロイン側の行動や、ヒロイン側の体内の様子などは妙に細かく記述するわりに、男性側の身体感覚(特に局部以外の体内感覚:例えば「腰のあたりが重くなって」云々とか)はほとんど言及されない。メインターゲットである男性ユーザー同士ではそのような感覚は自明だ(と考えられている)からなのか、それとも男性側よりもヒロイン側のことをひたすら詳しく描くべきだから結果的にそういうバランスになっているだけなのか、あるいは男性向けポルノメディアとして「実用的」であるためにそうなっているのか、理由はよく分からないが。そして、だから、こうしてたまにそういう描写があると、新鮮だし面白い。
  お下品な話題のついでに。男性キャラの、えーと、その、ボールが描かれていると、心拍数が上がってしまう。その上に突き出ているあっちの方は、排泄器官でもあるのでそういうものとしてとることができるのだが、こっちの方はどうしてもリプロダクションに直結している器官だと認識してしまうので、そのぶんむしろ猥褻感が強い。急所(弱点)を無防備に晒しているという意味でもずいぶん滑稽だし、すまし顔の男性キャラにそういう――単純かつ即物的でありながら、見ようによってはずいぶん間の抜けた外観の――「たんたんたぬき」が付いているその有様が微笑を誘ってしまうという側面もあったりする。
  どの分野でも、性描写のあり方についてそれぞれ「偏っているなあ」と感じさせられることは多い。それはただ単に別様の可能性が未開拓であるということではなく、おそらくは永年の最適化の結果なのだろうとは思う(それらを「小集団が仲間内だけで過激化したに過ぎない」とか「仲間であることを証明するための道具として案出した符牒に過ぎない」と見做して軽んじるとしたら、こうまんちきにも程があるだろう)が、しかしそれらがその最適化のメインターゲットから(性別や文化的帰属のような一般的事情で、あるいは感性上や嗜好上の個別的事情からして)逸脱している人々の目にはしばしば非常に奇妙なものに映ってしまいがちだというのもまた事実だ。



  11/04(Mon)
  新記事:「公式サイトのコンテンツ


  Peassoft新作はキャストも良い感じ。メイン原画の羽鳥氏も、これまでの参加作品に接して好印象を持っている。このブランドは『つくして~』シリーズの連発であまり良いイメージを持っていなかったが、今回は買ってみよう。


  原画レベルでは、みつみ規格(の呪縛)は00年代半ばにはおおむね乗り越えられていたと思われるが、着彩のレベルでは、PULLTOPこそが10年代の最先端(あるいは、似たような意味だが、新機軸、あるいは新世代)と言っていいのではなかろうか。あのブランドは原画も塗りも、「すごく良い」というわけではないが、しかしPCアダルトゲームにとっては新しいあのセンスを堂々と持ち込んできたという点では高く評価されるべきだと思う。


  相変わらずシャコの話などをされているようだが、みなこいラジオは明日聴く……ぱたり。


  遠野氏と藤森氏は、何を表現したいのか、声優としてどういう境地を目指しているのかがまるで掴めなくて、そろそろ苦手になりそう……。ただ単に私自身の不明のせいでしかないのだけど。



  11/03(Sun)
  漠然と立ち絵イメージだけを思い出したあるキャラのことが(キャラ名も作品名も)思い出せなくてさっきからずっと苦しんでいる。紺色のボブヘアで、立ち絵が斜めに傾いていて、にこやかに笑っているコミカルな丸顔で、キャストはたしか逢川氏で、ここ5~6年くらいの学園恋愛系タイトル、たしかHOOKSOFTあたりのサブキャラだった筈なのだが……。思い出せない。EGScapeでいろいろ検索して探しているのだけど、いっこうに見つからない。うぐぅ。
  ……そうだ、『ラブラブル』の須賀原さんだ! SMEEブランドの方は手を出していなかった。『フレラバ』のシステムが面白いとは聞き及んでいるので気になってはいるのだが。

  getchuなどの広告で出ている件の女体化『戦国』画像に対する既視感の正体は判明した。『Dark Blue』のメイドキャラだったのだ……と思う、たぶん。

  『月に寄りそう~』って、銀行名前かよ! ひどい、ひどいよ! ひどすぎるよ!


  関西の冬は、灯油販売の車が騒音を撒き散らしながら住宅地をぐるぐる回るのにうんざりさせられる。というか端的に、大迷惑。アナウンス音声だけではなく音楽を鳴らすので妨害の度合いが大きいし、ただ単に通過するだけではなく一日に何度も回ってくるので妨害時間も長いし、販売時に停車している時もずーっと鳴らしっぱなし。休日の静かな住宅街にまで不躾に入り込んでくるところも含め、暴走バイクよりも性質が悪いと言ってもいい。


  アンダーリップの『新妻×義母』、こんなシリーズもあったのか。最終的にはフルプライスのパッケージにまとめられたようだが。


  『ひなたのつき』の原画担当「みよし」氏は、tw ID: 344kのお方らしい。原画家もストーリー構成に参加されていたようで、本当に丁寧に慎重に作られていたことが窺われる。脚本家の春河氏(tw ID: harukamirai)を見ても、どうやら女性クリエイター諸氏が基幹スタッフだったようだ。男性向けの作品ではあるが、たしかにそういう雰囲気もあった。



  11/02(Sat)
  エンディング一つ一つに名前(タイトル)が付いているのっていいよね。昨日挙げた中では『少女魔法学』『翠の海』『ひなた』はまさにそうだし、『MinDeaDBlooD』『エインズワース』『蒼色輪廻』とかもたしかそうだったと思う。物語の締めくくりに、いわば「本を閉じる」ような心地良い結着感がある。恋愛基軸の白箱系AVGでは、凝ったエンディング見出しを付けるのが難しいと思われ、他方で物語要素の強い作品(特にループもの)や、機能的/構造的なエンディング分岐を持つSLG作品は、個々のエンディングに見出しが与えられていることが比較的多い。e.go!作品やSHC作品のようにエンディング回想)が用意されている場合には尚更である。どちらかといえば、モダンな様式感覚というよりはクラシカルな趣向で、昔(十年以上前)の作品にはわりと多かった印象がある。


  「いづみ姉さんのおしおき部屋」(@「ぷらてぃあ放送局」)、聴き返してもすごくこわい。作曲家の溝口哲也氏(#19)や脚本家の川波無人氏(#27)が出演されていたりして、ものすごく贅沢なコーナーでもある。



  11/01(Fri)

  【 個人的なこと:ゲームへの愛着 】
  『ひなたのつき』は、ここ数年来でトップクラスのお気に入りになっている。
  不遜な考えだが、「もしも私にゲーム作りのスキルと意欲があったら、こんな作品を作ろうとしていたのではなかろうか」とまで思ったことは、以前にもある。たとえば、『ブラウン通り三番目』から『巣作りドラゴン』の頃のソフトハウスキャラ作品であり、『パティシエなにゃんこ』であり、『少女魔法学 リトルウィッチロマネスク』だ。
  それは作品の「質」の高さも勿論あるが、それだけではなく、それよりもむしろ、「趣味」が合うかどうかによって決定的に左右される。それゆえ、例えば『あかときっ!』『とっぱら』『ウィズアニ』『終末の過ごし方』『痕』『バルバロイ』『淫妖蟲』などはいずれも優れた作品ではあるが、上記のような感情を喚起するものではなかった。『思い出の彼方』や『いな☆こい』や『水月』や『MERI+DIA』や『桜吹雪』や『神楽』シリーズや『宵待姫』や『翠の海』や『プリンセス小夜曲』の時にも、それに近いものを感じかけていたかもしれなかったが、しかし残念ながらそれそのものではなかった。
  そして、この作品はその境界を越えてきたと思う。あの時と同じくらい、「もしも自分にゲーム企画立案の能力があったならば、こんな作品を目指していたかもしれない」と思った。それはほとんど錯覚に過ぎないが、そのくらい、この作品の全てが嬉しく、その多くの演出が私の好みに親しく、その細部にまで自分の神経がつながっているかのように身近に感じる。


  【 年間回顧 】
  そういえば年間回顧という話題もあったか。去年(2012年)は新作を50本ほど買ったが、フルプライスでは『英雄*戦姫』『すぽコン!』『九十九の奏』あたりが特に良かった。『ヒメゴト・マスカレイド』もEscu:deらしさが存分に発揮された怪作。『RGHL』は、個人的にはすごい作品だと思うが、評価を定めきれない。『彼女と俺と恋人と。』もぎりぎり年内発売だったか。ロープライスでは、『兄妹秘哀』と『しすたーめいでんっ!』が印象深い。一言で要約するなら「萌花ちょこ天国」な一年だったように思う(――「萌花ちょこ」氏のデビュー自体が、まさに2012年1月の『BUNNYBLACK2』だった)。
  今年もだいたい同じくらいの購入ペース。softhouse-sealのおかげで「飯野汐里天国」ということになりそうだが、年内のプレイ計画次第では「波奈束風景天国」になるかもしれない。


  【 他人を「黙らせた」ことを自慢する男/女のひとって…… 】
  他人を「黙らせる」ことはしたくない。論争相手を、言い返せないように押しつぶすことは、暴力であって議論ではないし、そして私は他人との間で議論はおこないたいが暴力的関係に立つことには何の面白味も見出せない。そして、そのような議論を成り立たせるために、私は自分の議論を展開する際に、「事実」と「論拠」と「展望」以外のものは何一つ示したくはないし、なかんずく自分の議論を正当化する際には事実と論拠以外の何ものも用いたくはない。とりわけ、権威を(もしも行使することが可能な状況であるとしても)もってすることは戒めたい。政治経済などの実利に関わる領域においてはともかく、少なくとも趣味の領域においては、認識の仕方を再考し改訂して、もっと多面的によりいっそう豊かな視座を獲得するための機縁を得ることこそが、議論をおこなうことの目的だ。相手を黙らせることのみを目的に口論をふっかけてくる人に対しては、(お望みどおり沈黙して)ただ縁を断つだけだ。虚言家を見ると口を閉ざしてもらいたいと思うが、自分の知る事実を提示して後は周囲の各自の判断に委ねるしかないだろう。
  他人(相手)に対する希望としては、私が提示した事実や論拠が納得のいくものであれば利用してくれればいい。議論に付き合って下さった相手に対して私が提供できるのはそののくらいのものだし、そして私が提示した事実や論拠を受け入れるのはまさにその事実や論拠それ自体を自己のものとして組み込む行為であってそれを主張した私に服従することではない。むしろ、私の言葉に対して、その基礎づけ乃至正当化のために私の人格にまで想像力の手を伸ばしてくるような対応は真っ平御免だ。もちろん私も普通の人間なので、私が認識する仕方や私が信じる論拠や私が好む趣味が他人にも受け入れられているのだと知ることはそれはそれで嬉しいが、それは他人の立場や思考に踏み込んでまで強要するようなものではないし、わざわざそんなことをしてまで求めるようなものでもないし、そんな無駄なことに労力を掛けたくはない。
  ただし、これは、私とは異なるあらゆる立場がすべて平等に正当であるという実質的結論を含意するものではない。そのような単純な相対主義は、そもそも議論をおこなう意義を失わせるだけだろう。単なる彼岸の信仰のような領域でもないかぎり、議論の対象となる事柄は、ほとんどの場合、事実として存在しまたは思考によって把握可能な現象を含むものであり、そしてその事実的乃至論理的現象に照らして、理屈の通った立場(事実や論拠を明示し整合的に展開された議論)と、それらを程々に備えた立場、そして理屈に合わない立場(例えば事実に反する主張や、矛盾を含むための整合的に受け取ることのできない主張)といった違いは――そして優劣、真偽、当否は――存在しうる。
  そしてこのことは、もちろん、ゲームに関する解釈や議論に際しても妥当する。趣味の世界で他人を黙らせても、基本的には、なんの利得も無い。他人が提示する見解と照らし合わせて、有益なところがあれば受け入れて自分の視野を広げた方が自分にとって得になるし、事実に反する主張をする者に対してはとりあえず事実を示せば足りる。それ以上何かができるわけでもないし、それ以上何かをしてやる義理も無い。