2013/11/11

AVGの表現と舞台の術語

  ある分野の概念を、安易に他分野に流用してはならない。
  ある分野で通用している概念が、他分野でも当然に妥当すると考えてはならない。


  最近プレイしたあるタイトルで、キャラクターの出入りに応じて立ち絵が横にスライド移動するというものがあった。ただし、FAVORITE(『ウィズアニバーサリィー』『はっぴぃ☆マーガレット!』)のような前後左右への融通無碍なものでなく、ただ単に、新しい発言者が登場する際に「それまで画面内にいたキャラの立ち絵が画面左側にスライド移動する → 空いた画面右半分の空間に、新たなキャラの立ち絵が(瞬間表示で)現れる」というものだが。

  ここで思い出したのは、以前にtw上で拝見していた方(小林氏)の議論:[ http://twilog.org/nyaa_toraneko/date-110523 ]と、これに関連する[ http://twilog.org/nyaa_toraneko/date-110904 ]。要するに、AVG表現の中で舞台芸術由来の「上手(かみて)/下手(しもて)」枠組を使用した実例についての話。興味深いことに、小林氏が言及した『水の旋律』とは左右の扱いがちょうど逆向きになっているが、日常シーンの自然な会話としては画面右側から現れて画面左側に降りていくのは自然な動きだと思われた。会話の受け渡しのつらなりが(ごく限られた範囲ではあれ)視覚的にも維持されているという意味でも、会話劇の表現として面白い見せ方だ。もちろん、この儀式的なスタイルを採用すると、立ち絵による空間性表現などは実行できなくなるが。

  ただし、画面ワイプなどのエフェクトは、画面左から発生してくることも多い。これはおそらく、表現効果の観点ではなく、ただ単にプログラム技術上の都合でそうなっていると考えるのが妥当だろう。ちょうど上でリンクした方の議論でも、そのような捉え方がなされている。

  なお、一つ注意を促しておくが、「上手/下手」概念は、舞台芸術上の概念であって、ゲームの概念ではない、あるいは、ゲームのための概念ではない。だから、「上手/下手に相当するような表現が取り入れられれば自動的に正しい表現になる」ということは無いし、「それに合致していれば自明により優れた表現になる」ということも無く、そもそも「上手/下手の概念がゲームにもそのまま妥当する」ということもけっして自明ではない(当てはまらない可能性はあり、それは詳細な検討を経て初めて結論づけられるものだ)。ゲームはゲームであって、他分野の表現システムやそれに伴われた価値構造を普遍的なものとして受け入れねばならないということは無い(――実際、上で言及した議論の中でも、小林氏は画面右側が上手に相当すると解する[tw: 110084772126142464 ]が、わたなべ氏はプレイヤーを「観客」ではなく「演者」に相当する存在だと考える立場から画面左側が上手に相当するのではないかという見解を示している[tw: 110083132878893056 ]。このような見解の相違は、当然ながら、彼等ゲーム制作者が手掛ける個々のゲームの表現の方向づけの仕方や個々の具体的な演出の仕方にも関わってくるだろうし、その受け手である私[たち]はそうしたことも考慮して個々のゲームの演出を考えねばならない)。もちろん、それらを借用してゲームのための表現として利用することは出来るが、それは基本的には他分野における相当物の《再現度》によって判断されるものではなく、あくまでゲームの中で適切な《効果》をもたらしているか否かによって判断されるべきものだ。

  実際には、ゲームと舞台とを問わず、あるいはフィクションと実生活とを問わず、ごく一般的な位置感覚の問題として、画面右側の方が上座であるという感性はそれなりに多くの人が共有しているのではないかと思う。そしてAVGの立ち絵表現でも、おそらくしばしばそのようになっている。年長者、近親者、権威ある者などは画面右側に位置し、他方で不審者、来客、物語進行の導火線となる者、非正規登場人物などは画面左側に立ち絵表示される、といったように。ただし、実際に本当にそうなのかどうかを述べるには広汎な検証を待たねばならないし、そして、それが個々の作品の中で表現作用としていかなる効果を発揮しているかを検討していくのでなければ意味を成さない。