2016/06/30

2016年6月の雑記

  2016年6月の雑記。(→7月5月


  06/30(Thu)
  というわけで、主にtw関連での余計な話題のためのページを別途作った。1)ゲーム関係の話題であれば、従来どおりここ(月別雑記)で言及するが、2)それ以外の話題(他分野のトピックやオタク一般のトピックなど)は、できるだけそちらに書くことにする。3)趣味生活とは無関係な話題(とりわけ政治的/社会的な議論)は、そもそもこのブログでは扱わないようにする。政治をやるなら、そもそもこんな独り言ではなく、結果を目指してリアルポリティクスでやるべきだ。


  【 このブログの既往と周辺状況 】
  このブログの記事数が250本に達した。旧ブログが127本だったから、もうすぐ2倍になる。37ヶ月で250本だから、一ヶ月あたり6.7本の記事を書いてきたことになる。意外と多い。最近はゲーム表現論/演出論に関してかなり停滞気味という認識があるが、全体としてはまだまだそれなりのペースでやっていけているようだ。

  この雑記欄はともかく、単独ページを作るような記事は、できるだけユニークな内容があるように努めている。つまり、1)他にはあまり無いような(新規性のある)内容で、2)タイトルと内容が一致しており、3)検索アクセスしてきた訪問者がそれなりに有意味な情報を持ち帰れること、を目指している。
  3)について。もちろん、検索サービス経由で訪れる閲覧者たちがどのような関心を持っているかは予測しようもないのだが、「無関係なワードを極力入れず、主題を明確化し(枠組を限定し)、それに直接関連する議論や情報を出す」ように努めている。
  1)の新規性要件に関しては、まあ、私の関心がどうやらマイナーなせいもあって、おそらくそれなりには達成できているだろう。アダルトゲームのインターフェイスデザインとか舞台設定展望とか背面立ち絵とか音響演出展望とか隠しキャラとか、あるいは個別声優の表現スタイルについての話とか、SHC共通世界設定の整理とか、眼鏡主人公とか傘キャラとか眼帯キャラとか、某webラジオの各回概要とか、そういうのって全然無いよね(泣)。
  2)については、別段言うことは無い。web検索の一覧では、まず記事タイトルが表示されており、そこから内容を期待して訪問した閲覧者をがっかりさせないことは大事だろう。

  旧ブログと比較すると、アクセス(ページビュー)のペースは、こちらの方が低い。最多アクセスは、旧ブログは『BB2』関連の記事。このブログでは、意外なことに『ひなた~』のページだった。たぶん、あまり売れなくて(泣)web上の感想記事は少ないが、ショタエルフものという尖ったコンセプトなのでそれなりに強い注目が寄せられているタイトルであり、さらに攻略需要などもあって、こうなっているのだと思う。SHC関連はだいたい総合wikiが引き受けてくれている(基本的な攻略需要などはそちらでほぼ満たされている)のだろうし、ゲーム表現論はたぶん興味を持つ人が圧倒的に少ないのだと思われる(泣)し、声優関係の話題はweb上に様々なものが大量に存在するためわざわざこのブログにまで来る人は少ない、といった感じだろうか。
  ブラウザ別のページビューも分かる。旧ブログではFx閲覧が最多(31%)だが、それにほぼ拮抗してChrmとIEもそれぞれ27%ある。それに対してこのブログでは、Chが最多(40%)で、Fx(33%)、IE(12%)と、劇的に変化している。これは、訪問者の傾向が変化したというよりも、時期的な変化だと考える方が自然だろう。旧ブログは2011年9月から2013年6月まで活動しており、更新停止してからはアクセスが数分の一にまで低下しているので、2011~2013年頃のアクセスが強く反映されている。それに対して、このブログは2013年6月以降の活動であり、もちろんその期間内のアクセス環境が現れている。Fxの比率はほとんど変わっていないが、IEからChへの乗り換えをしたという人は、とりわけ日本人オタクの間でもおそらくかなり多いだろうし、このブログへのアクセス傾向の変化もそれを反映していると思われる。
  国別ページビューも多少異なっている。旧ブログは日本からのアクセスが81%であり、続いて米国(10%)、ロシア(4.7%)、それ以外(台/韓/独/仏/ウクライナ/中/香港)は1%以下。現ブログは、日本(73%)、米国(21%)、ロシア(2.5%)といった感じ。ロボットアクセスやスパム関連も多いかと思われるが、トラフィックを見るとggl.twやggl.hkが参照元URLとして出てきているので、海外の趣味人によるアクセスもあるようだ。
  OS別ページビューは、旧ブログではWin(84%)と圧倒的で、それ以外は4%以下。現ブログは、Winが76%とやや落として、Andrdが10%(旧ブログでは4%)、Linuxが5%(旧ブログでは1%)と伸ばしている。Andrdは納得できるが、予想したほどの増加ではない。Lnxの増加はちょっと面白い。iPhoneはそれぞれ4%と3%。

  細かい話になるが、私自身のアクセスは上記ページビュー統計に含めないように設定している。旧ブログはそれでよいのだが、現ブログにはその設定が利いておらず、私自身のページビューもカウントされてしまっている(――数千アクセスくらいは自分で回してしまっている筈だ)。これはblggr側の不具合だろう。


  【 webラジオ 】
  webラジオの各回について、個人的な感想を書いている人はたくさんいるが、内容梗概を記録としてまとめている人はあまり見たことが無い。たとえば10回くらいの短期ラジオだったらそんなに負担でもないし、情報としての意味も大きいし、聴き返しの際にも便利なのだが。
  考えられる理由は、1)手間が大きいのと、2)内容を整理するのは難しい(多少のスキルが要る)のと、3)基本的に「ラジオ」として聴き流しされるコンテンツだからという事情のためだろうか。4)権利関係に抵触することを懸念して差し控えられているという可能性もあるが、概要整理くらいならば権利侵害になることはまずあり得ないだろう。ちなみに「STP/胃~之煮」に関しては、ラジオトークの中で「自由に使っていいですよ」というお墨付きが出ているので、その点では私の概要記事は100%ホワイト。
  「中目黒」「Iチョ」「galge」「ぷらてぃあ」「ぷるぷる」「少女騎士」「ピリらじ」「オネラジ」「ぷりっち」「はにはに」「セリオン」「奈々転」「うーぶり」など、時間があったら聴き返しながら丁寧に概要を書きまとめてみたいものは多いのだが、肝心の「時間」が全然足りない――確実に数十時間、ものによっては数百時間が飛ぶ――ので実行できていない。
  伝説的な「がっちゅ」も、今となっては、そこで何が起きていたのかを辿ることも……って、あー、ncvdにはたくさんULされているのか。おそらく無断であろうから、視聴するつもりは無いが。そのあたりはできるかぎりクリーンに行きたいので。


  1月の即売会で、まき氏にお会いすることができて、購入物を手渡しで頂くことができた、ということは、自分の人生の望外の幸福をすでに得てしまっているわけだから、もしも今日絶命したとしても満足だったと言える。
  あえて言うなら、木村氏や青山氏や波奈束氏や美月氏の収録現場を見学したい(そして、短くてもいいからインタヴューをしたい)というのはある。録音音声ではなくてライヴのお声で実際にどんな芝居をされているのか――どんな声で、どんな声量で、どんな雰囲気で、どんな環境で――を聴きたいし、そしてどのようなことを考えて芝居をされているのかを伺ってみたい。少々ずるい話だが、立場上、そういうことを願い出ても受け入れられやすい(つまり、こちらも役者と同じように名前の出る立場にいるし、一般人の好奇心とは異なって研究上の目的という建前もある)筈なので、しかるべきフォーマルな形で礼儀を尽くしてそれなりの謝礼を払えば、結構可能なんじゃないかなと思っていたりする。畏れ多いので実行に移したことは無いが、そんな機会を持てればと思う。
  もっとも、そこまで特殊なアプローチをしなくても、例えば[tw: 745407986860863488 ]こんな機会とかが実際にあったりするのですけど!!!


  【 車中読書 】
  電車等での移動中は、本を2~3冊ほど持っていって、精神状態などによって適当に選んで読む。ラッセルの顰みに倣って言うと、「頭が十分働いている時はロジカルな議論を展開している専門性の高い本を読み、多少疲れている時は知識の得られる新書などを読み、かなり疲れている時は気楽な文庫小説を読む」といった感じに、その時々で使い分けている。もちろん小説を貶めているわけではなく、小説の言語的デリカシーをきちんと受け止めるにはもちろん相当の知性と集中力が必要だ。頭があまり働いていない時でも、目を通していればそれなりのものを得られるという、下限の広さがあるからというだけのことだ。数式を用いている箇所や、論証的に構築された文章は、ざっと目を通しているだけではほとんど何も得られないが、新しい知識を得るだけならば、字面を読んでいけばそれなりに蓄積になるし、娯楽小説などで筋書きを追いつつ文体のリズムを味わってただシンプルに「本を読む行為」を楽しむのはもっと余裕がある。複数の本を携行するのは重たくて嫌なのだが、読むつもりで持ってきた本がひどい内容だった時や、一つの本を読んでいたら疲れてきた時などに、別の本に移れるようにするという意味もある。


  『ブラウン通り三番目』のプロローグでリズィと「結婚しない」選択肢を選んだり、『女装山脈』冒頭の遭難シーンで迂闊に野草を「食べる」を選んだりすると、すぐにゲームオーバーになってしまう。ゲーム分野によくある遊戯的選択肢。『鬼畜王ランス』や『Festa!!』になると、いきなり終了と見せかけつつ実は終わらずそのまま進行していくという、二重に捻りを利かせた形になっている。


  旧PCを引っ張り出して『南国ドミニオン』を再プレイ。開始三日目にいきなりお嬢に殴られたりパパに殴りかかられたりブックに襲われたり、4日連続で災害が発生して行動不能が続いたり、その間に食材が払底して漂流者たちの間に相互不信が蔓延したり、宿泊地に果樹園をたくさん作って食糧事情が軌道に乗ったかに見えた五十数日目に姫の姿が消えていたりと、わりとありがちな南国生活を楽しんだ。この時代の作品はゲーム音声がわりとガサガサに割れていて、ちょっと悲しい思いをしたりもした。もう11年前のPCスペックのためのタイトルなのだから、そういうクオリティ面の限界はどうしてもやむを得ないのだが。

  『悪魔娘』ももう一周プレイした。SHC作品は、「最初のプレイでは物珍しさがあって楽しい」→「本筋イベントの薄さに苛立つ」→「二度目以降のプレイではゲームシステムの簡素さにも、もどかしい思いをする」→「ヒロインとの交流で、とても雰囲気の良いイベントに出会う」→「本筋部分をクリアした後、ちまちまと脇筋イベントを探していくのが楽しくなる」といった流れで、そこからさらに「数ヶ月/数年寝かせて再プレイすると、攻略目的から解放されてその架空世界の生活をのんびり眺めつつプレイするのが、とっても楽しい」となっていく。ソフトハウスキャラ作品の魅力は、コンプリートから半年経ってからようやくその醍醐味が味わえるようになる。『門』でも、敵軍を適当にあしらいつつ隊内/隊外のさまざまな出来事を俯瞰していくのが気持ち良いし、『悪魔娘』も心地良いBGMに導かれつつたいへん美しい物語が瞬いている。『南国』も、当時あれほどプレイしていたのに、再プレイするといまだに未読テキストが出てきて驚かされる。『DC』も、ゲームパートは単調だったが、そこを超えて数年越しに再プレイすると、主人公を取り巻く世界の広がりや、キャラクターたちの魅力、そして隠微な駆け引きなどが、イベント進行の行間から浮き上がってくる。『アウトベジタブルズ』も、弟子ヒロイン二人との関係は味わいがあって、ほんとうに愛しく感じられる。ただし『BB』シリーズは、さすがに最初から再プレイするには重たいし、『勇者砲』もまだ熟成が足りていないだろう。しばらく前に再プレイした『LJ』ももちろん良かったし、『ブラウン通り』や『巣作り』なんか、いつプレイしても楽しいに決まっている。体験の積み重ねと、その蓄積がプレイヤーの心に生じさせてくれる特殊な反応、それこそがSHC作品の独自性だ。



  06/29(Wed)
  『PD』に過去行きのタイムマシンを作れない理由についての話があったが、わりとまともな科哲的時間論とエントロピー論を踏まえた説明で、ちょっと驚いた。内藤氏はわりときちんとしたSF的思考が展開できる方だというのは、これまでの22作(特に『DAISOUNAN』)を見ていても分かっていたことだが、そういう知的バックグラウンドに関する安心感はある。ミリタリー知識はまずまず(兵器関係よりも軍略方面か?:『王賊』『門』)、歴史関係もそれなりに(特に戦国時代は通り一遍以上のの知識があるようだ)、ファンタジー(魔術など)も意外なところを突いてくることがあるし、政略方面の描写はかなりいけるし(『うえはぁす』『海賊王冠』)、経済/経営に関する話もかなりお好きなようだ。アニメ/特撮/漫画なども、ベーシックなところは押さえている様子(特に『LJ』『OV』)。今回のように、科学(SF)や文明と生活に関する思考も、よく出てくる。


  SHC共通世界の話は、以前のサイトは『雪鬼屋』までで更新が止まってしまっているが、手許では最新タイトルまでアップデート(改稿)できている。『BB2』以降は、こちらのブログで公開してしまおうかな……。登場キャラクターリスト(Excel)も新作ごとに加筆しており、すでに2400行(2400キャラ)以上になっている。さすがに「僕の考えたステータス」はもう書いていないし、『門』以降はキャラ解説やキャストも穴だらけになっているが。


  【 敬称 】
  役者(声優)は「さん」付けで扱われることが多いが、漫画家や小説家(LN作家)やイラストレーターに対しては「先生」という呼称がしばしば用いられる。ゲームクリエイターも、イベントなどの壇上に立つ場合でも基本的に「さん」付けのようだ。アニメ監督の場合は「監督」という職掌それ自体が一種の敬称として機能している。アニメ脚本家も、小説家に準ずる扱いなのか、「先生」がしっくり来るようだ。しかしゲーム脚本家はかなり微妙で、「○○先生」と呼ばれることもあるようだが「○○さん」という場合もあるようだ。この違いは何なのだろうか? これらはいずれも、創造的な知的活動であることに違いは無いが、そこではどのような要素がどのような基準で区別されることによって、「さん」と「先生」の用法の違いが生まれているのだろうか。そして、これらはどのようにして世間的に普及してきているのだろうか。
  コンヴェンショナルな説明としては、既存のものとのアナロジーが考えられる。アニメ脚本家やLN作家には「文筆家」「作家」という先行するカテゴリーがあり、そこで「先生」と呼ばれる用法が確立されているので、それに合わせた敬称が用いられているのかもしれない。イラストレーターも、「画家」に対するのと同じ扱いであると考えれば納得がいくだろう。納得がいくということは、多くの人が実際にそのような用法に従い、それが多数の慣行になるということだ。それに対して役者は、それ自体もちろん知的な仕事ではあるのだが、上記のようなデスクワーク的イメージとは異なって、みずから視聴者の前に姿を現すパフォーマーであり、それゆえ、「先生」にはなりにくいのかもしれない。実際にはあまり姿を現さない「声優」も、役者の一種である以上、同じ扱いになる。
  あり得るもう一つの説明として、使われている言葉の側から、より一般的な定式化を試みるというアプローチがある。つまり、ここで仮説として考えているのは以下のような説明だ。すなわち、「先生」というのは、もっぱら独力でクリエイティヴな仕事をする職業に対して用いられる敬称であり、それ以外の職業については基本的に「さん」で済まされるというものだ。確かに、漫画家も小説家もイラストレーター(画家)も、基本的には単独個人の仕事だと認識されているだろう。もちろん実際には、商業漫画家には編集者がいて内容に関してしばしば共同作業的に関与することもあるし、漫画に原作が付くことはあるし、もちろんアシスタントが付くことも多い。また、アニメ脚本家も、基本的には企画ありきの存在であり、最終的には監督やプロデューサーのチェックを受ける(内容上や指示やリテイク等の命令を受ける)立場だ。イラストレーターも、完全に自律的な仕事ばかりではなく、むしろ特定の内容で発注を受けて作業することの方が多いと思われる。しかし、にもかかわらず、因習的なイメージのためか、これらは「先生」と呼ばれる。
  ゲームクリエイターの場合は、それに先立つ慣用がほぼ存在しない。ゲームに特有の職掌として「ディレクター(D)」があり、これは「(映像作品の)監督」と同様、そのまま敬称として使われている。しかしそれ以外の担当――ゲームデザイナー、グラフィッカー、プログラマー、シナリオライター等――は、参照される先行的慣用が存在しないため、宙吊りの「さん」付けのままになっているのかもしれない。シナリオライターは脚本家の一種なのだが、アダルトゲームに代表されるノヴェル寄りAVG以外では伝統的にそれほど注目されてこなかったし、また、小説家のように独力かつ主体的に新たな作品を綴るのではなく、所与の企画があってそれに基づいて脚本執筆している。こうした点から、他の文筆家のように「先生」とは呼ばれにくいのではなかろうか。

  さて、私が言いたいのはそんなことではない(ひどい)。大事なのは、声優に対して「先生」と呼んだら、なにかきっと新しい魅力への感性が開かれるのではないかという着想だ。ほら、「波奈束先生」とか「大波先生」とか「まき先生」とか「井村屋先生」とか「七ヶ瀬先生」とか「涼森先生」とか「萌花ちょこ先生」とか……あ、なんか、感激で涙が出そう。
  さすがに「みる先生」はちょっと難しいと思った。「ルネ山先生」のように省略するのは仕方ないと思うが、「事務台車」氏とか「蝦押丈」氏とか「ほうでん亭」シリーズの方々とかはどうやって「先生」につないだらいいのか分からない。

  とはいえ、私自身は、このブログの文章でクリエイターの名前に触れる時は、「先生」という敬称は使わず、ましてや女性声優に対する「~嬢」という呼称(たまに使っている人がいる)はけっして使わず、ほとんどの場合「~氏」で通している。性別や立場を問わず汎用的で、比較的ニュートラルに敬意を表しつつ、それなりに距離を置いた(つまり、持ち上げすぎない)呼び方として、ベターだと考えている。多少柔らかいニュアンスを出したい時は「~さん」と書くこともある(「声優さん」「イラストレーターさん」といった使い方もする)が、基本的にはやはり「~氏」にしている。

  井村屋氏は、どこぞのラジオに出演された時に「井村屋ほのか先生」と呼ばれていたような。あと、webラジオなどで戯れに「マエストロ」とか「大先生」とか「CEO」とか「画伯」とかいった大仰な敬称で呼ばれる方もいる。

  最初の話に戻すと、オタク関係の記事で、小説家やイラストレーターと声優を並べて呼称する時でも、「○○先生、△△先生、××さん」とはっきり使い分けている。特に決まったルールがあるわけでもないのに大量の人々の間で斉一な用法が現れてくるのが、「言葉」の興味深いところだ。


  喩え話は、余計なノイズが入ってしまいやすいのも問題かな。元々の論点とは無関係な要素が混入してしまって、議論がそちらに引きずられてしまう可能性がある。お互いに異論を提起しあうような議論の場では、「絶対に用いてはならない」と言っていい。
  喩え話が有効に機能するのは、こちらが説明を提供する側であり(ただし厳密さまでは求められておらず)、かつ、相手がその事柄をなんとか理解したいと思っているがうまく勘所が掴めずにいる場合に、あくまで補足として仮設的状況を示すかたちで喩え話をするのは、まあ、あり得なくはない。喩え話に還元してしまうことは、総じて理解の射程が短くなりがちなので、けっして優先されるべきではない手段だが。
  自然現象の話(理系)であれば、基本的には(通常科学の範疇では)厳密に定義された語彙の枠組の下で対象を認識するので、そもそも喩え話などすべきではない。初歩的でフランクな解説として行うならば、わずかにその余地があるかもしれないという程度だ。他方、社会的/人間的事象の話(文系)でも、文化的規定性や歴史的固有性や価値的多義性が複雑に関わるデリケートさがあるので、安易に比喩に頼ると本来失ってはならない筈の複雑さや多層性や繊細さが捨象されてしまって、一面的で平板なものになってしまう。だから、人文科学/社会科学でも、学問的にまともな(真面目な)説明をしようとする場合には、もちろん、喩え話が入る余地は無い。極端な状況を設定した思考実験ならば存在するし、経済学などのように理論的抽象化を行うこともあるが、喩え話とはまったく別の事柄だ。

  この手のネット関係の話題は、別ページにパージしておく方がよいのかも。たいていは機会的な話題にすぎないので、残しておくほどのものでもないし、他人に見せるようなものでもない。その一方、自分なりの考えを整理したり、あるいは場合によっては自分の感情を吐き捨てたりするために、実際に文章にしておきたくてこうしているという側面もある。この双方を満たすのが、「トップページに露出させず、誰も見ないような独立ページに書き捨てておく」という処方だ。


  新記事:「ソフトハウスキャラ作品の共通世界設定」。

  ついでに過去タイトルをいろいろ起動して楽しんでいる。
  『悪魔娘』を再プレイしたりSSを見返したりしていると、ああ、なんか、いい雰囲気だなあって。

  『門』のツクリは、何種族だったか、再プレイしたが、何も述べられていなかったようだ。
  「英雄運送」の件も、まだ確認できていない。

  『アウトベジタブルズ』は、メイン画面でヒロインの画像をクリックするとリアクション音声が聞こえるのが面白い。古式ゆかしき女体クリックかよ! あと、メイン画面のまま放置しても、時折ヒロインが喋る(「何かしませんか?」「イチャイチャする?」などの音声が流れる)。


  スーパーでミルク寒天を見かけたので、仙台さんのおすすめ(「エリソデラジオ」#10)に従って食べてみた。あ、おいしい。ミカンがころころ入っているのも爽やかでよい。


  「勝手に下書き作成してしまう誤動作」が、まだたまに発生する。気をつけて「更新」ボタンを押しているのに、下書きページ(コピー)を同時に作ってしまうことが何度もある。これは完全にバグだよね……。今使っているFirefoxが正式対応されていない旧ヴァージョンだという可能性もあるけど、そんなに古いヴァージョンではない筈だし。ざっとweb検索してみても同種の報告は無いようなので、かなり稀な現象かもしれない。「更新」ボタンを押したのに真っ白の再編集画面になってしまうという、かなり心臓によろしくないドッキリ体験なので、なんとかしてほしいのだけど……。



  06/27(Mon)
  『PD』交易品リストを簡単に作成。
  ついでに、関連する言及を「『PD』メモ」ページに移設。


  土日はずっと座ってゲームばかりしていたので、体の芯が歪んできている感じが……。
  背骨と背筋がグズグズに崩れかけてきているような感じが、どうにも気持ち悪い。

  姿勢ももちろんだが、「ちゃんとしたごはんを、適切なタイミングで食べること」、「十分な睡眠とること」も大事。ゲームに興が乗ったからといって文字通り寝食を忘れてしまうと、長期的に心身に悪影響が出るだけでなく、ゲームを正常な精神状態で楽しむこともできなくなる。食事をとらずにいると覿面に気分が悪くなるし、この時期は体温のコントロールもうまくいかなくなる。睡眠をとらなければ頭痛がして、結局は非効率になる。


  最近、藤咲氏のお声を聴くとビクビクと恐怖してしまう体質に……。
  藤咲氏といっても「か」の方(乃絵美)ではなくて「ウ」の方だが。

  同様に杏子氏のお声も、あんなに愛らしいのに、そして語り口はわりとクールなのに、どこか底知れない感じが、ほとんど恐怖に近い感情を刺激する。なんと言うか、迂闊に近づくと、声優/役者の創造的パフォーマンスに触れる時の、「業(ごう)」のようなものに触れてしまいそうな感じが。


  ハフポjpは今日も順調にゲスでした。全ての記事がクズだとまでは言わないが、少なくとも私の価値観では限度を超えたイエロージャーナリズム的記事がわりとぽつぽつ出てくる(ということが、個別記事への言及から見て取れる)ので。見ていたら恥ずかしいサイトの一つだと思う。



  06/25(Sat)
  午前中指定なのに、14:00になっても配達が来ないぞ……。自分のスケジュールを他人の行動に攪乱されるのは大嫌いなので、こういうのはフラストレーションが溜まる。集中していたい活動(音楽や読書やゲーム、等々)の最中に唐突なインターフォンで邪魔されるのも不快なので、待機中もろくなことができないし。

  配送センターに連絡しても、機械的なリダイヤルたらい回し(それ自体は仕方ないとはいえ)のうえ、中味のない返答ばかりで、何一つ改善の契機になっていないと感じる。YMT運輸への不信感がさらに増した。getchuにも、YMT以外を選べるようにしてほしい旨、要望を送っておこうかな。

  それにしても、配達ゲームの配達が遅れるとは、なんと不吉な……。



  06/24(Fri)
  さて、翌朝のSHC新作到着を心待ちにしつつ、今晩は『少年ラケット』最新刊の卓越した漫画表現を熟読玩味しつつ早めに寝ることにする。土日二日で60時間プレイするくらいの勢いで『PD』にのめりこみたい。


  『ぶるにゃんマン えくすたしー!!!』は、2面ボスのコルビーの突撃が初見殺しだった。なにしろ、画面の縦全体に伸びた人型ボスが、視認してからでは回避不可能な瞬間的速度で、両腕を突き出してこちら側に(横シューの左側の端まで)突っ込んでくるというのが「最初の攻撃動作」なのだから。多少腕の覚えのあるシューターならば、キャラデザから推察される特徴と予備動作の怪しさから予測して回避することは十分可能と思われるが、さらにその直後に近距離から全方位弾幕をばらまくし、その後の蹴り上げも左端で連射待機していなければ当たってしまう可能性が高いし、第二形態以降の全方位弾幕もわりと高速で避けにくいしで、STGに慣れていないプレイヤーに対して最初の壁になるのに十分な強さだろう。「YEAH!! コルビーがLet's応援しちゃうよー!」

  藤咲ウサ氏の魅力が一発で理解できるタイトルでもある。
  「うらめしやって感じー。いちまーい、にまーい……たくさーん」

  アンインストールせずに残してあったので久々に再プレイしてみたら、4面のエロ娘、もとい、さんで終わってしまった。腕がなまってる……。もう一度チャレンジしたら無事最後まで行けたが。


  思いつきの新記事:「ナレーションのある作品」。
  実質的演出論の一つだと考えたい。最初の議論(「はじめに」の部分)でいきなり理論的説明を済ませてしまうのは、論述のスタイルとしてはよろしくないのだが、私がしたいのは実例紹介なので、構成としてはこれでいいんだとつっぱねたい。
  さすがにSD猫キャラばかりのスクリーンショット2枚ではやり過ぎだと思い、ごく普通のゲーム画面のSSも追加掲載してしまった私はわりとチキンでございます。『南国ドミニオン』も、狼襲撃(災害イベント)のナレーションが入ったSSがあれば、わんにゃん祭にできたのだが……。


  あ、私、『11月のアルカディア』をちゃんと買ってた……。よくやったぞ、当時の私! 購入メモページによれば、当時の私はどうやらケモ耳に惹かれて購入決意したようだが、現在の目で見れば最大の魅力は卯衣ヴォイスのダウナー毒舌ヒロインにある。


  昨日「下書きに戻す」を(初めて)使ったせいか、「更新」ボタンを押したのにそのページが下書き状態になってしまう、あるいは更新と同時に下書きページも別途作成されてしまうという妙な不具合が頻発するようになった。うーん、どうしよう。


  あ。まさに今日買ってきた『野良猫ハートVFB』のインタヴューで、ナレーションにも触れられてるじゃないか。……せっかくだから引用しておこう。後からの追記になるから、それについてのさらなる解説を入れるのはもう難しいけど。

  キャストコメントもあって、遥氏の人懐っこくも遠慮なくいろいろ言い放っているところや、神代氏の「シャチだけのために作り上げたお芝居です」という絶妙の殺し文句、そして桐谷氏の思慮深さなど、短いコメントの中にいろいろなものが窺われてたいへん面白い。



  06/23(Thu)
  『サクラノモリ』がわりと出来が良いらしいのだけど、うーむ、しばらくプレイ着手できそうにない。


  『夏色キセキ』というタイトルを見ると反射的に「あれ、そんなゲームあったっけ、えーと……」と錯覚してしまいそうになる。実際、『夏色~』『なついろ~』というタイトルはいくつもあるが、たぶん私は『夏空カナタ』と混同している。


  このblggrの個別投稿編集時の「下書きに戻す」ボタンは、「下書き」として現在の状態を別途保存しておく機能なのか。繰り返すと同名投稿の「下書き」ファイルがいくつも出来てくるし、当然ながらヴァージョン(内容の異同)の管理はユーザー任せなので、ちょっと怖い機能かもしれない。


  「杏花(あんず・はな)」と読むのか。知らなかった。
  ……ていうか、何このお下品ラジオ。10分と聴いていられなかった。


  今期は金曜日が忙しいので、新作受け取りは土曜日指定にしてある。『PD』のプレイが一歩出遅れるが、まあ、仕方ない。どうせ一周クリアするまでは余所の情報は見ない(頼らない)のだし。今回も、私が大掛かりな攻略を出す余地は無さそう。惑星一覧や依頼一覧、特産品、装備、各星の達成目標、イベントフラグ等々はあちらのwikiの方々がやってくれるだろう。

  『野良猫ハート』VFBは、注文(予約)し忘れていたので、明日店頭で買ってくる。


  バックナンバーが消えないうちに、「狩(仮)」も記事化しておこう……作業は明日以降に。



  06/21(Wed)
  長くなっ(以下略:三度目)。

  『PD』デモムービー公開。視聴した感想コメントを体験版記事に加筆。


  【 マウスほか、小物トーク 】
  マウスはDigio2のMUS-UKT103を購入。前に使っていたMUS-ULT72の姉妹品のような感じだろうか。こちらはクリック音がかなりはっきり聞こえるが、ぎりぎり不快になるほどではないので我慢する。とりあえず静音性は妥協したが、サイズと軽さ、システム(3ボタン)、有線の条件は満たした。下面の縁取りが不必要に鋭いので、親指と小指の感触が気に入らないが、ここは(元)モデラーらしくヤスリで削って均してしまおう。ケーブルの巻き取り構造は不要なのでバラした。ケーブルが80cmとかなり短いが、これは延長することもできるし、そのままでも一応足りている。巻き取りのせいで平ケーブルに曲がり癖がついてしまっているのが鬱陶しい。
  しばらく使ってみた。まずまずの感触だが、ホイール押下がかなり重い。ホイール押下はゲームではほとんど使わないが、webブラウザなどではわりと使うので、長時間使用すると指の負担が大きくなるかも。やはり前のMUS-ULT72に戻すか。

  マウスに限らず、腕時計でも目覚まし時計でも眼鏡でも、この手の身近に使うアイテムは、私の好みに合うものが滅多に無いので困る。べつに私の要求が高過ぎるということは無い筈だが……。上記マウスの件でも、特別に高度な品質要求をしているわけではないのだし。
  例えば目覚まし時計でも、「長短針式(非デジタル)」「アラームが電子音であること(ベル音ではなく、ごく普通のピピピ音)」「置いた時の安定性」「秒針音がしない」「時刻調整ネジが露出していない(アラーム設定ネジと混同しない)」「小さすぎない」「できればアラームのon/offボタンが動かしやすく、しかも頑丈」「デザインがひどくはない」、だいたいこのくらいを求めて探すのだけど、これら全てを満たす商品はまず存在しない。たいていは1つまたは2つを妥協する羽目になる。現在メインで使っているのはRHYTHMの8RE662(木目タイプ)で、これはわりとましだが、作りが安っぽいし、時刻調整ネジが露出しているのでアラーム調整をしようとして時刻ネジを捻ってしまうことがある。この他にも2つ、つまり最大3個を必要に応じて適当に使っているのが現状。
  腕時計は、普段は身に着けないのであまり気にしなくていいが、大学教員に回ってくることがある特定の大きな全国的イベントでは、持参してタイムキープしなければいけないので、一応持っている。もう一つくらい買っておきたいのだが、サイズと軽さ、材質、見やすさ、そしてデザイン上の好みを挙げていくと、どれも満足が行かずに店を出てしまうことになる。
  眼鏡もそろそろ換えたいのだが、店頭に足を運んでもなかなか良いものが無い。もう十年近く使い続けていて、度は合っているしフレームの状態も問題無いのだが、レンズ表面のコーティングに微小な欠けが出ているので、思い切って買い換えてきれいにしてもいいかなと考えて、店頭でいろいろ試着してみても、なんか、こう、私の顔に合わないものばかりで……。眼鏡キャラ好きな私が、眼鏡が似合わないなんて、なんという悲劇……(泣)。


  【 共通性のあるタイトル名 】
  『[超昂]天使エスカレイヤー』(alicesoft、2002/Reboot版:2014)
  『[聖炎]天使エレアノール』(SAGA PLANETS、2007)
  『[光臨]天使エンシェル・レナ』(Triangle、2005)
  『[突撃]天使かのん』(RaSeN、2004) ※「アサルト・エンジェル」と読む。
  『[想聖]天使クロスエモーション』(TOUCHABLE、2016)
  『[特捜]天使シェルセイバー』(Tinkerbell、2005)
  『[魔界]天使ジブリール』 (Frontwing、2004/2005/2008/2010) ※第5作は『戦国天使~』
  『[触装]天使セリカ』 (TOUCHABLE、2008/第2作:2012)
  『[流聖]天使プリマヴェール』 (Escu:de、2000/2002)
  『[彗聖]天使プリマヴェールZwei』(Escu:de、2007)
  『[遊聖]天使プリマヴェールDrei』(Escu:de、2016) ※未発売(7月発売)
  『[魔法]天使ミサキ』(RaSeN、2003)
  ※配列は「天使」以降の五十音順。括弧内は文字反転してある。

  穴埋め問題にしたら、わりと難しそうだ。少なくとも私自身は完全正答できない。一週間後にチャレンジしてみたら、上記12タイトル中、せいぜい9個くらいだろう。ただし、その筋の方々ならば、全て即答できる人もわりといそうだ。シリーズものの『ジブリール』や、シンプルな『ミサキ』、知名度の高い『エスカレイヤー』、特徴的な『セリカ』あたりは分かりやすいと思う。そして、2008年の『セリカ』以降、このタイプの新規タイトルは(続編ものを除いては)現れていない。基本的には00年代のセンスだと言ってよいだろう。triangleあたりは類似のものをいろいろ制作しているが、やはり変身ヒロインに「天使」というのはストレートすぎて、そろそろ使いにくくなっているのかもしれない。ただし、多少アレンジした形の『狙われた女神天使エンゼルティアー』(2014)のような例はある。
  似たような方向性で、「~戦士」とか「~の巫女」とかも。

  というわけで、来月は『プリマヴェールDrei』の発売ですのよ。
  Escu:deの塗りも、最近いよいよ素晴らしい出来になっていて嬉しいかぎり。


  【 眼鏡! 眼鏡! おお、上田氏の眼鏡!! 】
  上田ヴォイスの眼鏡キャラも、おそらく10人を超えていると思われる。

  例によってEGScapeで上田氏の出演作をざっと浚っていくと、『フォーリンラブ×4tune』『あの晴れわたる空より高く』『おとなり恋戦争!』『はるかかなた』『つよきすNEXT』『百機夜行』『星彩のレゾナンス』『あかときっ!』『ココロの住処』が該当する(※発売年降順。太字は赤眼鏡。シリーズものは最初のものに代表させた)。花南名義だと『対魔忍ユキカゼ2』『スクイの小夜曲』『営業部第4課』『メイドさんとボイン』『メるヘン荘』『NTR彼女は~』『銀二』。145+99=244本のうち9+7=16キャラというのは、なかなかの数字だろう。残念ながら、あまりプレイできていないので、次はこのあたりから見繕ってプレイしようか。その他、『D.S.』の帽子キャラは……赤眼鏡じゃなくて赤ボタンか。『Trample on Schatten!!』はバイザー装着する。

  『マドンナ』は、3人も眼鏡ヒロインがいるのにどれも上田氏ではない。まあ、このコンセプトで香澄氏、かわしま氏、杉原氏がいればそちらが優先されるのは妥当だろう。

  uni-aのサイトは開きたくないなあ。どのタイトルでも、センスの無いBGMが大音量で入ってくる。

  『LILITH-IZM04 ~褐色編~』、こんな天国があったのか。

  『私の知らない妻の貌』は、同一キャラの異なる時期(年齢)を、三人の声優が分担している。

  上記のサーベイをする間に、CDが三枚目に入っていた。つまり、244タイトルで約2時間半。おおまかに、一タイトル確認するのに30秒以上掛かったことになる。すぐには情報が確定できず1~2分掛かるものもあったが、平均的には30秒と見込んでいいだろう。今後似たようなことをする時のための目安として。


  それにしても、「最近のアダルトゲームでRPG/SLGをプレイしてみよう」というのでいきなりastroの最新作を手に取ってしまうのは、さすがにチョイスがまずかったとしか……。SLG初心者ならばまだしも、知識も経験もある、目の肥えたゲーマーであれば尚更だ。最新かつ最良のUI設計を体験したいならばEscu:de、あるいはオーソドックスにalicesoftソフトハウスキャラの評判の良い近作、あるいは好みによってはninetail系列くらいが順当だろう。


  逆接でもないのに文末を「~だが。」で〆るのはあまりよろしくないので、気をつけて適宜修正している。「~だ。」で終えるのはストレートすぎて突っ慳貪に感じられることがあるので、そういう時に「だが」にすると多少語勢を濁したような気分になれるので便利なのだが、しかし多用しすぎると文章全体が消極的/否定的なニュアンスに傾斜したり、切れの悪い韜晦的ムードになったり、品のない感じになったりしかねないので、気をつける必要がある。


  [ twilog.org/sakura_ariake/date-160622 ]
  なるほどなあ……。確かにコミケの男性院生/院卒率は高めだろうし、逆に女性の院生/院卒者はあまり来ない/来にくいというのもありそうだ。


  [tw: 745300316837404672 ]
  こちらについても、なるほど、面白い捉え方だと思った。つまり、あの手の輩が湧いてくるような話題だということは、とりもなおさずお下品で薄汚いゴシップネタであるということの指標になり、そしてそれゆえ、その種のものがヒットするようなばっちい話題には、まっとうな人間は近づくべきではないという戒めとして機能する、ということだ。「あっ、例の卑しい連中が湧いてる、汚いから近づかんとこ」と感覚的に忌避するのでもいいし、「あっ、例の徒輩が反応するような話題だったか、そうか、私はまさにゲスな好奇心に引きつけられそうだったんだな」と冷静に自らを省みるのでもいい。
  ひとは卑賤なゴシップネタに、ついつい興味を持ってしまいやすいものであることは理解しているし、私自身にもそういう性向はそれなりにあるが、同時に人間は、よろしくない傾向性を自ら正していく能力も持ち合わせているのだから、できるだけ汚くないように自ら改めていきたいものだ。


  下品といえば、twでは相変わらず、「#好きなアニメをつまらなさそうに紹介する」みたいなネタが横行しているようだが、私にはそういうことをする感性がまったく理解できない。アニメであれ、それ以外の何であれ、自分がその作品を「好き」だというのは、良い(あるいは主観的に気持ち良い)部分が十分に大きいからこそ、そう感じられているに違いないのだが、1)その感覚をわざわざ意識的に裏切る方向性で思考し言語化し表明するのは相当に作為的な振舞いだし、2)しかもそれが(いかに冗談のつもりではあっても)対象を貶める行為になるのにそれを平然と行えるというのが、また信じられない。たとえば、その作品自身が「危機一髪も救えない/ご期待どおりに現れない」「子供の夢にも出てこない/大人が懐かしがる事もない」と、苦みのあるユーモアの遂行として自らを卑下するのは、――それが実際にはまさに作品自身の魅力によって、30年後でも多くのファンから素晴らしい思い出として懐かしまれているという事実とともに――廉恥と皮肉と諧謔の絶妙の効果と言うことができるが、しかし、ファン(であるつもりの人々)には、その作品を恣意的に貶める資格など無いだろう。
  仮に私が、好きな作品を――冗談としてであれ――つまらなそうな部分を誇張するように述べてみよ、などと言われたら、全力で「やなこった」と蹴っ飛ばすしかない。そもそもそんなことは思考したくもない。そんなことを嬉々としてやるメンタリティは、私にはきわめて縁遠いものだ。また、それは普段とは異なる視点に立ってみることによって作品の新たな側面に気付かせてくれる機縁になる可能性が、まあ、無くはないにしても、あまりに迂遠だし、そんなことをするまでもなくもっと効率的でもっと生産的でもっと積極的に同種の成果を挙げる方法はいくらでもあるのだから、実利の点からも取り上げる意味は無い。そもそも、挙げられているコメントのほとんどは、本当にただただ「つまらなそう」な言い方をしているばかりで、レトリックとしてのひねりも何もあったものではない。
  結局のところ、「これも、『足を引っ張り合うのが大好きな現代ニッポンジン』の現れの一形態でしかないのかなあ」とか、「いじめと同種の言動を『笑い』として共有しあう、TV芸人たちの下卑たパフォーマンスと同質のものなのかなあ」といったように推測するにとどまっている。

  いろいろ考えて、なんとか好意的な捉え方をしてみるならば、「もしかしたら、否定的な側面を見据えてみせるという儀式なのかなあ」と思った。つまり、1)対象に関していえば、「自分は、好きなものについても、手放しで信じ切っているわけではない。良くない点、至らない点についても、誤魔化さずきちんと冷静に認識したうえで、それでも総合的にはその対象のことが好きだと主張するのだ」という、判断の公平性のアピールとして機能しているという可能性はあるかもしれない。2)また、発話者自身に関していえば、「自分は、好きなものについて、否定的な認識を持ったり突きつけられたりしても耐えられるだけの強靱なメンタリティを持っている。全肯定しかできないお子様ではなく、是々非々の話ができる大人なのだ」という、精神力や社会性のアピールとして機能しているのかもしれない。
  あるいは、先日(6/19付)も書いたように、「否定的なことの方が、肯定的なことよりも語りやすい」という事情のためかもしれない。つまり、上記のお題は、「各自が好きなものについて、とにかくどんな形でもいいから、語れる機会をできるだけ増やそうよ。そのためには、表面上否定的な形態のフォーマットであっても、やはり好きなものについて何かを語れるのは気持ち良いし、それを通じて好きなものについての語りを他人と共有できるのはとても嬉しいことなのだ」ということなのかもしれない。そうした慰撫及び想起の幸福のために、好きな作品をちょっとばかり揶揄的に捉えてみるのは許される(と思っている)のかもしれない。そうしてほんのわずかな瑕疵を指摘してみせたって、その作品のことを当人が大好きであることはけっして揺るがないぞ、という自信もあるのかもしれない。もしもそこまでリアリスティックに開き直ったうえであえてそれを行っているのならば、もう批判はできない。

  私自身は、好きなもの(創作物)については、1)良いところを理解してなんとか言葉にしていくだけでもう精一杯だ。2)そもそも創作とは「正解(瑕疵の無い状態)」を目指す活動ではなく、独自の価値を創造する営みである以上、否定的側面を一々あげつらうよりも、なんらかの観点でその作品が成し遂げた成果を評価することの方がはるかに優先度が高い。3)作品の瑕疵を笑いものにするのは、私の趣味ではない。やはり品が無いと思う。
  いやまあ、私もさすがに『おま天』の件は、あまりにエキセントリックな事態に、もうどうしようもなくて笑いのネタにしてしまっているけれど、しかし、もしかしたら制作責任者の雅丹氏が本当に苦しんでいてぎりぎりの精神状態の中からあんな告知を必死に絞り出していたのかもしれないという可能性も脳裏を過ぎって疚しさを覚えることはあり、しかしそれでも依然としてネタにすることをやめずにいるし、そしてまた、中味について語ることも出来ないので、せめて延期ネタを繰り返すことであの作品とブランドのことを記憶から失われないようにしている――と言うと美談めかし過ぎているかもしれないが――という側面はあるので、それと同じような行為なのだよと言われたならば、おそらく納得できるかとは思う。

  上の話題が典型的であるように、最近の私(が書いていること)はいよいよもって、人の心の分からない奴になりつつある。たしかに私は元々まさにこういう奴なのだが、同時に、このように前提を問い返したり疑問を掘り返したり原則論に遡ったり異論/別様を突きつけたりするのは、言うなれば私の仕事でもある。職業病かよ。それでも、最近少々イタめなところまで行きすぎているのは自分でも分かっている。やめないけど。


  「音楽と政治の関係」があるなら、現代では「ゲームと政治」「アニメと政治」の問題だって出てくる。即売会に来る自衛隊とか、護衛艦に堂々と飾られているキャラポスターとか、アニメとタイアップした自衛官募集ポスターとか、これらはすでにもはや、「政治的に中立」「権力作用と無縁」「社会的評価に影響しない安全な振舞い」「良いことばかり」とは言えないだろう。


  「萌花ちょこ」は全体でワンワード、とのことなので、ATOKの辞書登録に際しても、「もか→萌花」だけを切り取って登録するのは正しい処理ではなく、あくまで「もかちょこ→萌花ちょこ」と変換できるように登録しなければいけない。



  06/21(Tue)
  長くなったらどんどん日付を変えてい(以下略:二度目)。
  ブログのトップページがだらだら長いのは、好きじゃないので。
  広告やバナーの類は一切入れていないので、ページの軽さだけは誇れると思う。

  投稿一覧に表示されているとおり、なんのかんのでアクセス数はそこそこあるんだよね……。
  他人の目(が存在する/しうること)は一切気にしない独白屋のつもりでやっているけど。
  (他人を意識していたら、こんな中学生の自分日記みたいな恥ずかしいことはしてない。)
  ちなみに、アクセス上位のページはほぼすべてが攻略関係の記事。妥当な結果だろう。


  そろそろ一ヶ月になるが、模型欲はどうやら完全に解消されたようだ。専門店に何度か足を運んではいるが、そういえば何も買っていないし、キットや工具にも触っていない。忘れ去るというほどではないが、頭の中で工程シミュレーションすることも無くなった。塗料や工具はまだ出したままだが、このまま休眠状態になるなら、もう仕舞っちゃっていいかも。
  私の場合、ことほどさように趣味関心はわりとあっさり手放せるものらしい。もちろん、嫌いになったというわけではないし、たぶん、また何年か経ったら戻ってくることもあるだろう。私はあまりマルチタスク型ではなく、時期毎に複数の趣味の間を巡回周遊することが多いので。漫画、ラジオ、模型、映画、美術、等々。学生の頃以来、一定以上の密度で休まず続いているのは、音楽(聴く方だけ)くらいだろうか。PCゲームも、たまに数ヶ月単位のブランクがある。


  美少女ゲームヒロインの局部はきれい!! 衛生的!! 無菌!! ナイススメル!! だから舐めても大丈夫!!
  ……とでも思わなければやってられないよなあ……。
  後→前でも大丈夫なところを見るに、病原性大腸菌とかもいないんだと思う。

  触手生物も、野生生物としてリアルに考えれば雑菌塗れでひどい悪臭のするベクターであるに違いなく、そういうものをデリケートな部分に突っ込まれると想像する方がはるかにおぞましいのだが、ゲーム内の描写ではせいぜい媚薬成分を分泌するくらいなので、まあ、見ようによってはたいへんマイルドでジェントルなのかもしれない(――ただしKAI作品のような例外もあるけど。問答無用でハヤニエ貫通するとか)。

  男性側も、黒箱系のモブや敵役はしばしばゾンビのような土気色の肌をしていたりするし、白箱系主人公でも衛生面に気を遣っている描写はほとんど無いので不安を覚えることがある。たまにドス黒いのだったりしてビビることもある(例:CUFFS)。逆に、どピンクだったりする(例:たぬき)のも、人体らしく見えなくて怖いけど。


  【 バックログ雑感 】
  バックログは、通常時のテキスト表示位置に合わせてほしい。通常時はウィンドウ内で25行くらいに収まっているものが、バックログに移るといきなり横35行くらいにべったり広がってしまうというお見苦しいデザインのエンジンは、わりとある。理想的なのは、バックログを開くと、バックログの最下部(=最新のパラグラフ)が、通常時に表示されていたのとまったく同じ場所に表示されるもの。ちなみに、最新のパラグラフがバックログには反映されないエンジンもある。
  バックログのスクロールは、一行単位、あるいはそれよりも小さな幅で柔軟に動かせるものもある(こちらは総じて、画面内に表示できるテキスト量[行数]が多くなる)。しかし、位置固定のものも多い。つまり、例えば4パラグラフならば4パラグラフ分の表示枠があらかじめ固定されているというもの。最近は後者のタイプが多いようだ。空いた部分が詰められず、ログテキストの表示位置が固定されているため、概して表示テキスト量は少なくなるが、場所が決まっているので読みやすいし、プログラムとしても明快であるそうだ(cf. [tw: 40720539249016832 ])。
  同じ話は、以前:[ twilog.org/cactus4554/date-110108 ][ /date-110224 ]にもしていた。



  06/20(Mon)

  【 かわしま氏の褐色キャラ 】
  かわしま氏の褐色キャラは何人いるのだろう。出演リストを見ながらすぐに思い出せる範囲(≒プレイしたタイトル)でも、『シュガーコートフリークス』『星空のバビロン』『ワールド・エレクション』『シキガミ』『Electro Arms』『剣乙女ノア』『SEVEN-BRIDGE』、それから『恋姫†無双』シリーズ。『Piaキャロ3』は、珍しい日焼けキャラ。この二倍はいそうだ。
  それらしいものを当たってみると、『監獄戦艦3』『魔導巧殻』『ヴァルーシア』『エターナル・キングダム』『凌姫II』も該当するか。『水スペ』も、プレイしたのに忘れていた。褐色といっても、野性味溢れるタイプではなくて、神秘的なメンター系キャラや妖艶なオリエンタルヒロインが多いので、褐色かどうかの印象もあやふやになりがちだ。「コバトムギ先生は、えーと、褐色……いや、えーと、違う」、「『英雄×魔王』のカルデリーズはもちろん褐しょk…えっと、違った」といった感じ。

  ……てなことをしながら、次にどれをプレイしようかと見繕っている。

  最近(10年代以降)では、getchuのページは動画リンクが大量に並んでいたりしてかなり重いので、公式サイトに行く方がよほど早かったりする。サブキャラは載っていないことも多いし。もちろんgetchuはgetchuで、個々のタイトルが完全に一ページ構成なので、求めている情報の有無/箇所がページ内検索で迅速確実に分かるという大きなアドヴァンテージがある。
  とはいえ、ブランド公式サイトも、どうしようもないデザインのものがたまにある。例えば『ヴァルーシア』は、見た目の面白さはあるものの、これだけ大量のキャラをせせこましく並べられると、目次としての機能がほとんど死んでしまっている。


  『凛辱の城』の姉妹キャラは安堂氏と草柳氏……『らくえん』の姉妹コンビじゃないか!


  『PD』のデモムービーはまだ来ないのかな……。OPはともかく、デモ部分は毎回面白いので。9日にMUしているのだから、仮にそこから映像制作者――今回も皇氏だろう――にデータを渡したと考えても、もう出来ていなければおかしい日程なのだが……。

  もう今週末には製品版が到着するのか……ということは、さすがに今からフルプライス1本コンプリートは難しいか。スクリーンショットを連番ネーミングで撮っている都合上、複数タイトルの同時進行は避けたいし。いまだにマウスがどれも満足できないのも、困りものだ。SLGはマウス操作が膨大になるので、マウスの快適さはプレイ体験のクオリティに大きく影響する。


  【 遥氏の表現世界 】
  その盛名に比べると、氏の出演作はまだ50本以下、FDなどを除けば40本以下と、意外なほど少ない。もっとも、2011年デビュー以来、コンスタントに月1本弱は出ているわけだから、そんなに少ないわけでもない。
  私がプレイした本数(比率)はさらに少ないが、この方の芝居は出来が良すぎて、いつどれを聴いてもあまりにも自然に聞こえる。言うなれば、「この性格設定、この外見のこのキャラであれば、この台詞を音声で発するならばまさにこんな風であるに違いない」という説得力が高すぎて、なんの引っかかりも無しにスルスルと聴いていけるという意味で。出演作をプレイしているうちに、それが声優の技量によって造形されているのだということすら忘れて、このキャラがこんな声とこのようなニュアンスでかくのごとく喋っているのがまるで当然であるかのように感じられてくる。役者の創造的活動に対して「自然」とか「完璧」といった表現は使いたくないが、そう言ってしまいたくなる。その芝居の隙のなさが、そう感じさせている。そして、そういう感覚が強まってくると、「もはやこの方の芝居は、実際に音声を聴かなくてもいいんじゃないか」とすら思えてくる。なんというか、喩えるならば、今日が6月20日であれば明日が6月21日であることをあらためて確認するまでもないのと同じように、「CV:遥そら」とある以上、その音声は、そのキャラクターであれば当然そのように振舞っているであろうそのままのものであり、キャラクターと役者とを識別することが不可能なほど、理想的にフィットしたものであるに相違ないと確信できてしまうからだ。
  このような述べ方が、役者の仕事に対して失礼な帰結を含んでいることは理解している。あくまで、私の感じているところをなんとか表そうとした比喩であるに過ぎない。また、このようなひねくれた書き方になってしまったが、もちろんこの役者さんの卓越した仕事を否定的に見ているわけではない。この方の芝居が一ユーザーの実質的な予期の範囲に収まっているということではなく、むしろ、聴いた後からあたかも予想通りであったかのように思えてしまうほど、説得力が高いのだ。自然に聞こえるというのも、作為のない浅薄な芝居だというわけではなく、むしろ、あまりにも生きた芝居であり真に迫った情熱が感じられる芝居であるからそうなっているのだ。
  一切の遅滞や渋滞とは無縁な、自信に満ちた快速調で、いかなる破綻とも空転とも無縁な、テンポとニュアンスの間の見事な調和をもって、あらゆるキャラクターが形作られていく。ただただ敬服するしかない。


  【 ケモ系の特徴とは 】
  たしか以前にも書いたかと思うが、普通の(人間キャラの)イラストを見ても、そのイラストレーターさんがケモ系の嗜好を持っている(猫耳キャラや異種族キャラのイラストも好んで描いている)ことが察せられる、そういうセンスが本当に身についたようだ。これは勘やオカルトの問題ではなく、おそらくはそれを示唆する典型的要素群(記号)があって、それを私が意識化できていないだけなのだろう。そしてそれは、ケモ/異種族/人外系趣味の方々の間では初歩のスキルなのかもしれない。ケモ道、遼遠なり。
  縦に裂けた瞳とか、あるいは逆に丸々とした瞳とか、褐色肌とか、バサバサに乱れた頭髪とか、八重歯とか、ツリ目とか、太眉とか、体表の紋様とか、あるいはポージング(例えば、爪を立てそうないわゆる「ワキワキ」ポーズ)とか、普通はあまり採用されないような頭髪色とか、素材感のはっきりしたナチュラル系ファッションとか、あるいはケモ系でよく見られるプロポーションのデフォルメの仕方とか、そういった野性的/原始的/呪術的な記号またはそれらの気配を総合的に見て、上記のように感じているのであろうと思われる。 例えば、ブックマークから適当に挙げると、
  [tw: 698415236513026048 ] / [tw: 701345286539468801 ]
この二枚は、どちらも通常の人間として認識できるイラストだが、ケモ系の感性に裏打ちされていることは見て取れるだろう。この二枚はどちらも近年のオタク界で非常に有名な作品の二次創作イラストであるから、このキャラたちは「人間」であり(前者は…違うんだっけ?)、イラストも明白に「人間」として認識される筈だが、にもかかわらずそこにケモの気配を感じられるのが面白い。

  超有名な『シンシア』は別格として、アダルトゲームではSLG系ブランド群がケモキャラの一大産地だが、私は『巣作り』のユメが好き(――大波氏は、この他にも『さくら色カルテット』『桜花センゴク』『英雄*戦姫』『エクセルキトゥス』でも、ケモまたはそれに類するキャラを演じている)。オール獣耳ワールドの『うたわれるもの』も絶品。『はなマルッ!』のケモヒロインは、たしか「きゅーん」とか「くーん」としか喋らない本格派だった。
  声優だと、金田氏はもちろんとして、春日氏、渋谷氏、咲氏、金松氏、それから先日言及した萌花ちょこ氏あたりがケモキャラの大家だろうか。木村氏は、『わんこ』『いな☆こい』『しろぴか』の主演がいずれも素晴らしい。藤咲氏は……ちょっと違うかも。原画家だと、甘露氏のほか、AKINOKO.氏、佐々木氏、あかつき氏、萌木原氏、こうぐち氏、さより氏あたりは間違いないだろう。のり太氏もおそらくこちら寄り。山本氏の膨大な業績の中にもケモキャラは多いが、特別な愛着があってのことかどうかは分からない。


  【 PCゲームとOS対応(の喪失) 】
  w10の魔の手が……おいたわしや。一応、以前にヴァージョンにダウングレードすることは可能なようだが。まあ、特別な理由が無いかぎり、とっとと10にしてしまう方がよいと思うけれど、私の場合は、旧作PCゲームの動作保障を維持したいという「特別な理由」がある。Win7/8とほとんど変わらないという話もあるようだが。メーカー側でも、XP→7の移行期には対応パッチなどを出していたけど、10への対応はかなり鈍いし。書籍やCDと違って、PC環境に依存するパソコンゲームは、積まずに早くプレイせよということだね……。

  例えばソフトハウスキャラ(公式サイトのトラブルシューティングのページ)は、2006年発売の『王賊』まで、Win10(32bit/64bit)への正式対応(=サポート対象認定)をしている。すごい、10年前のタイトルでも大丈夫なのか……。まあ、裏を返せば、それ以前のタイトルは動作確認が取れていない――検証はしたのだろうから、おそらく実際に正常動作しなかったと思われる――ということだが。『グリンスヴァール』(2006)から『アルフレッド学園』(2002)は、Win7までの動作確認があるが、正式なサポートはXPまで。さらに『真昼』(2001)以前は、XPでは一応大丈夫らしいが7以降はまったく保障無し。

  alicesoftは、サポートページのQ&Aで、Win8については動作確認タイトル一覧を掲載し、Win10については「Windows8が動作対象の作品は全てWindows10でも正常に動作します」と述べている。Eushullyも、対応情報のページでWin7からWin10までの各タイトルの動作状況やサポート範囲について、まとまった説明を出している。Escu:deはVistaについてはコメントを出しているが、7以降に関しては特に無いようだ(イコール、追加的な正式サポートはされないということだろう。もちろん、本来、新規OSを事後サポートする義理や義務は無いが)。ninetailは、公式サイトを見たかぎりでは事後的なOS対応確認やサポートに関する記述は無い模様。
  AVG専業ブランドだと、戯画、AUGUST、ういんどみる、Purple software、ぱれっと、Tinkerbell、アトリエかぐや、PULLTOP、HOOKSOFT、lightなどは、発売後の新OSに関する特別な対応はしていないようだ。ゆずソフトはパッチを提供している。ALcotも一部タイトルについてWin8 64bit版対応アップデートファイルを公開している。SkyFishはWin7、8、10それぞれについて自社検証を行って「弊社全タイトルの動作確認が取れました」とある。すごい。UNiSONSHIFTも、Vista/7での対処法とWin8の対応表を公開している。


  【 アダルトシーンのあり方/アダルトシーンへの接し方 】
  アダルトシーンに入るとすぐに飽きてしまう原因を考えてみよう。
  1)おおまかに何が起きるかが、あらかじめ判明している。驚きに欠ける。
  2)すでに似たような描写を大量に読んでいる。本質的には、似たり寄ったり。
  3)一枚絵で動きに乏しいし、登場人物も少ない(三人以上の場合もあるが)。
  4)台詞も単調になりがち。いわゆる「あいうえおん」タイプだと尚更。
  5)飽きるのとは違うが、悲鳴音声の連続が聴いていてつらい。
  だいたいこんなところだろうか。「読んで笑えるえろしーん」は、Liar-soft(天野氏脚本)などがたまにやっているが、ユーザー受けは良くないだろう。凝った文章もあまり好まれないようだし、視覚効果を入れる余地も少ない(そんなに派手にされても困るだろう)。あまり大声で叫ばない、色気重視の喘鳴芝居があってもいいんじゃないかと思うのだが、何故か――何故だろう?――そういう路線のものはほぼ皆無だ。どうやら、状況は好転してくれそうにない。

  『葵屋まっしぐら』のアダルトシーンは、ベッドシーンの一枚絵がスライドショー的に数枚表示されるだけで、テキストが一切存在しないという代物だった。おそらく空前絶後だろう。 メインヒロインだけは、申し訳程度にテキストがあったが、発売当時の他のタイトルと比べても相当簡素なものだった。2000年のタイトルなので、音声も無し。
  「アダルトシーンは、いっそこういうのでいいんじゃないか」とまでは、さすがに言えない。

  あまりにダレるならばスキップで飛ばしてしまうのも仕方ないと思っている。ゲームは誰から強いられた義務でもないのだし、正規購入するという義理を果たしている以上、そして第三者に影響を及ぼさないかぎり、私の思うままに自由に扱って構わないのだから。実際、かぐやの『DC2』のハイカロリーベッドシーンの連発にへこたれてアダルトシーンスキップしてしまったことがある。
  未読スキップせずになんとか曲がりなりにもプレイするための最終手段として、「BGMをOffにして任意の好きな音楽を流しながらプレイする」というのもある。もちろん、それは単なる「ながら」プレイなのだが、スキップせずに最低限テキストに目を通していく時間をやり過ごすことをなんとか可能にしてくれる。十年以上前にちょっと試してみたきりで、最近はそんなことはしていないが。
  似たようなタイプの行動として、SLG作品の育成などを行う際にBGMを消してwebラジオなどを聴きながらプレイすることはある。あくまで一度きちんとクリアしたうえでの追加的なプレイでのみ自分にそれを許しているが、疚しさが無いわけではない。



  06/19(Sun)
  アニメでもゲームでも、主題-変奏BGMがきつすぎるものは、聴いていてつらい。元の主題があまり面白くないとか、出だしに強すぎる特徴があるとか、変奏があまり変えていない(楽器編成を変えた編曲程度)とかいった場合には……。大抵の場合、元の曲はせいぜい2~4分のところ、アニメ1クールでは約5時間、フルプライスAVGだと20時間以上も掛かる視聴覚体験の中で、似たような曲ばかり延々聴かされれば食傷もするだろう。webラジオなどでも、同一のBGMを何度も繰り返されるのはかなりつらい。


  [ www.erisode.jp ]
  ようやく最新回まで聴いた。仙台氏のトークは、声の高さもちょうど心地良い感じ(華のある高さ)だし、テンポも程良いアレグロで、終始楽しいムードで展開されているのがありがたい。BGMの曲調および音量も適切。美少女ゲーム制作の本職さんが入っているのも、バランスが取れていて好ましい。

  [ http://www.r-banana.com/shuna/ ]
  このラジオも良かったなあ。秋野氏のおっとりしたウィスパートークが耳心地良かった。
  (アドレスが「しゅな」ラジオのを再利用しているのはご愛嬌。)

  とこうしつつ、今日はぐったり寝て過ごした。


  いわゆる「にわか(キャリアが浅いため、知識の乏しい人)」や「知ったか(自身の知識の乏しさに比して過度に大きな話をしたがる人)」については、だいたい以下のような考えをしている。
  1)人間の知識は有限である(時間的にも金銭的にも能力的にも)。
  2)だから、原則として、(他人の)無知は責めるべきではない。
  3)ただし、無知が非難される場合はある。それは:
    a)立場上、その知識が期待される場合。専門家、資格業など。とりわけ対価を受ける場合。
    b)社会的安全に関係するルール。自動車運転や危険物取扱など、免許や資格にも関わる。
    c)論題に対して最低限基礎的な理解を備えていない場合。程度問題なので基準は難しいが。
    d)他人の利害に触れる場合。無知や誤解は、免責の理由にもなるし非難の理由にもなる。
  前者については2)、後者は特にc)とd)が関係するだろうか。前者については、微笑ましく見守っておくのがよいと思うが、後者は少々デリケートだ。c)については、「当人が当該領域について現在持っている知識で、適切に論じることが出来る範囲と出来ない範囲を識別する」という判断それ自体がしばしば当該領域の知識に依存するので、やはり一概に責められないと思う。しかし、誤りがあるならば、他人がそれをやんわりと指摘するくらいはしてあげたらいいと思うし、適切な指摘を受けたら素直に受け入れるべきだろう。もちろん、その一方で、他人にわざわざ何かを教えてあげる義理など無いというのも確かだが。
  d)については、「無知に基づいて特定の対象を腐す」という場合に、周囲の反発を買いやすい。私も、自分の好きなものが侮辱されたら(それが内容上正しい場合には対応が難しいが、少なくとも無根拠または誤謬に基づいている場合は)厳しく対応する。一般的には、単なる無知に基づく侵害行為は、明確な害意による侵害行為と比べて、非難の度合いが低くなるものだが、しかしながら、「α)極端な無知(調べないという怠惰や、偏見に基づく否定的予断を含む)によって」「β)少なくとも侵害的であること(侮辱的な内容の発言であること)は認識している」という場合には、当該発言の内容及び帰結が咎められるのは当然だろう。「α)極端な無知」の要素はやはり程度問題だが、「β)侮蔑性の認識」要素はゆるがせにできない。そもそも特定の対象を貶めることを広言するのは、社会的に重大な意味をもつ行為であり、そうした振舞いに際しては極力慎重であるべきだというのは、社会的コミュニケーションの大前提である筈だ。
  なお、注意点として、このc)およびd)の論点は、個別の具体的知識の有無を問題にするのではなく、その基礎を成す言論姿勢そのもの――つまり知的誠実や社会的慎み――を問い質すことになるため、人身攻撃(人格批判)のように見えてしまう、あるいは人身攻撃と受け止められてしまう危険がある。だから、これらの点を批判する際には、言明内容の正しさだけでなく、主張の仕方(トーン)にも気を遣いつつ述べる必要がある。
  ……だいたいこんな感じだろうか。

  残念ながら、「ネガティヴなことの方が口にしやすい」ということもあるのだけど。つまり、特定の対象の良いところをうまく言葉にするのは、対象をよく理解していなければ難しいが、悪い点を語るのは「○○が駄目」と欠点を指摘するだけで出来てしまう(かのように感じられる)。つまり、意欲やモラルの問題以前に、どうやら能力の次元で、称賛するよりも貶す方が容易であるらしいのだ。



  06/18(Sat)

  【 astronauts(のプログラムとゲームデザイン) 】
  かぐや/astronautsのRPGタイトルは、エンジンの基本動作が軽快だという大きな美徳がある。3Dを使って、エフェクトもわりと派手だったりするのに、(少なくとも私のPC環境下では)遅滞やもたつきが全然無い。他のブランドだと、「どうしてこんな単純なところに何秒ものウェイト(ロード待ち)が発生してしまうのか」とうんざりさせられることも間々あるのだが、このエンジンではそうしたことがほぼ無い。エンジンの(多機能性や安定性などの側面はさて措くとして)エンジンそれ自体の軽快さ、快適さという観点では、かなり優秀だと思う。
  ただし、インターフェイスの洗練という観点では、残念ながら、とてもひどいのだが。例えば、「右クリックをろくに使わない(機能割り当てをしていない)」、「ユニット一覧やアイテム一覧では、並びが滅茶苦茶(整理されていないし、ソートもできない)」、「余計なところに確認を入れてくる」、等々。

  SLG系アダルトゲームブランドでは、エンジンとインターフェイスの出来の良さでは、Escu:deが文字通り桁違いに優れていて、alicesoftも一応まとも。肯定的に評価できるのは、忌憚なくいえばこの二社しかない。SHCは簡素化に努めているのは分かるがいろいろと足りていないし、astronautsやtriangleも良い悪い以前に、いわば「原始的」な段階で止まっている。そしてEushullyは、端的にマイナス評価をするしかない。昔のゲームを(良いところも悪いところも)そのまま再現することを「正統派」志向と勘違いしているのではないかという疑念すらある。

  astronautsのカードバトルRPG志向は、おそらくはカードゲームへの愛着があるわけではなくて、「正格のRPGを制作するのはあまりに高コストだが、カードバトルならばユニットの存在及び行動をイラスト一枚と機能説明テキストとエフェクトだけで表現できるから」という程度じゃないかなあと邪推している。
  私としては、「テキストで一々描かなくても、冒険活動や幅広い状況変化を定型的に表現できる」「AVGパートの大量のアダルトシーンの合間の箸休めになる」「プレイヤーがそれなりに介入できるイベント進行制御システムとして働く」といったあたりが満たされればよい――それ以上はあまり求めていない――ので、『デモニオン』や『エクセルキトゥス』は、難易度の点でも規模の点でもちょうど良かった。

  『デモニオン』で印象深かったのは、佐倉ヴォイスのはまり役と、腹心コンビの暗躍ぶり。『エクセルキトゥス』で良かったのは、Rozea氏キャラたちの抜群の可愛さと、蝦押丈氏の大活躍、それからアダルトシーンが適度にコンパクトだったこと。遡って『DC』は、青川ヴォイスヒロイン&大波ヴォイスヒロインと楽しく冒険できたこと。『DC2』は、『MWA』コンビの登場(井村屋氏のショタ芝居)と、汚物消毒ネタ(そこかよ)。



  06/17(Fri)

  【 マウスいろいろ 】
  マウスを購入。今回はiBUFFALOのBSMBU26SSを使ってみる。静音モデルなのでクリック音はまったく気にならないし、軽さも文句無し、サイズ(やや小ぶり)も私の手にフィットするし、側面の感触(微妙なざらざら)も良いし、ケーブルの長さも十分。懸念は耐久性。以前の同社製品では、使い始めてすぐにホイールがチキチキと不快な摩擦音を出すようになったので。問題点はほとんど無いが、あえて言えば「表面がツヤツヤしすぎて気になる(反射光が視界に入ってくることがある)」のはやりすぎだと思う。
  もう一つ予備として、Digio2のMUS-UKT102GNも買ってみた。こちらも静音モデル。もっとも、完全な「静音」でなくても、耳障りなカキカキ音がしなければいいのだが。こちらは気に入らない点がいろいろあったので、予備としてストックしておく。理由は、「サイズが大きすぎる」「ホイールが無段階に滑るだけ」「ツルツルの面とザラザラの面が混在してして気持ち悪い」「下端のエッジが鋭すぎて指に痛そう」。
  なんにせよ、マウスは似たり寄ったりのようでいて意外にモデルチェンジが頻繁なようで、「ほんの1~2年前に買ったのと同じものを再び調達しようとすると店頭には全然置いていない」といったことがよくある。これまで使っていたDigio2 MUS-ULT72は、約2年前(2014年4月)に購入したものだが、店頭にも無いし、web通販サイト等でも(少なくともブラックモデルは)品切れになっている。

  ……BSMBU26SSをしばらく使ってみたけど、「静音」を謳っているわりに、クリックの仕方によっては「カクンッ」「カクンッ」という高めの音が出る。クリックする時の感触が、いきなりガクッと下がる感じで、指先に妙な反動が来るのも、わりと気になる。……うーん、これはあんまり好みじゃない。予備に回そう。あるいは、捨ててしまってもいいかもしれない。

  次に取り出したるはSANWAのMA-BL9。これも静音モデル。クリックの感触は良さそう。しかし、サイズが微妙に大きすぎるのは気になる(中央の盛り上がりが高すぎるし、側面も引き締まっておらずほぼ垂直に落ちている)。側面に不可解な凸凹デザインが入っているのも親指に鬱陶しいし、表面に縁取りの角度がついているのも人差指にうるさい。ホイールが無段階でツルツル滑るのは……まあ、慣れていこう。色も好みではないが、まあ仕方ない。これも、以前に買って予備として残しておいたもので、次善の次善だが、とりあえずはこれを使ってみよう。
  試しに『PD』体験版をもう一周してみた。操作感はそれなり。やはりサイズのせいか、腕の筋肉に微妙な負担が掛かる。また、ボタンのストロークに普段よりも力が要る(反応が鈍く、やや強めに押さなければクリックにならない)ので、人差指にも負担が掛かる。やはり、別のものに買い換えた方がよさそうだ。

  ゲーム以外の作業も含めて、膨大な時間の大量のアクションに関わる道具なので、「操作の正確さ」「快適さ」「負担の少なさ」をできるだけ追求したい。とはいえ、1000円程度のものは性能や耐久性に欠けることが多く、その一方で数千円レベルのものはボタンが多すぎてこれまた私の好みに合わないことが多い。「シンプルで高品質」という美徳は理解されないようで、なかなか市場に出てこない。いっそ外装だけでも自作するとか……。
  静音性は重視しているが、それはカキカキと耳障りな音がしなければよいという程度だし、静音をアピールしているものはクリックのバネが弱かったりするので、非静音商品の中から比較的音の小さいものを選ぶ方が総合的にベターかもしれない。


  今回の「胃」#28王都は、出色の出来だろう。中國氏がおそろくノッているし、パーソナリティのトークも三人でバランス良く展開しているし、話題も二転三転しつつ面白いところにどんどん転がっていくし、メールも良いネタが入っているしで、打ち合わせゼロの駄弁りラジオとは信じられない面白さ。誕生日祝辞要求メールが混入しているのがもったいないが。


  『SL』のFDが出てくれるのは嬉しい。
  triangleは、2010年の『ES』から急激に色彩設計に色気が失われてしまったのがつらかったし、つづく『FM』『VC』もむにゃむにゃ(未プレイ)だったけど、『AC』(2013)はキャスティングも含めていろいろ好転してきた感じで、『CL』と『ヤクモ』は良いところと今一つなところの凸凹が激しく(バイザー装備のデザインはヒロインの顔[目]がちゃんと見えなくなるので、ユーザーアピールとしては相当不利に働いた筈だ)、そこに来て『SL』は戦闘パートも実装したし外部脚本(『EK』以来のassault氏)もうまく作用したようだ。綾音氏にとっても、同年の『勇者砲』とともに代表作(フルプライス主演タイトル)の一本だろう。
  ただし、triangle作品なので、再登場するということは、またも可哀相なことになってしまうということをも意味するのだけれど……。



  06/15(Wed)
  立ち絵の可愛いは七難隠す。

  実際、たとえば「背景がしょぼい+一枚絵が今一つ+BGMがたるい+音質が低い+UIが鈍い+テキストが拙い+フラグが不可解」くらいまでは我慢できると思うから、上記言明はたぶん真だと言える。SLGなどで、ゲームパートが良く出来ていても、同じようなことは言えるだろう。BGMが良い雰囲気だと、それだけでかなり印象が良くなる。キャストの良いのは、どうだろうか。人によるかもしれない。えろければすべて良しという人もいるだろう。


  OVA冒頭の安斎さんの真似をして、鞭ならぬ指し棒をシュピシュピペシペシしながら得意顔をして身体をすこし反らしつつ左右にうろうろ歩いて講義してみたら、いやもう、とってもとっても楽しかった。さすがにマントを羽織ったり「前に話しただろ!」と地団駄踏んだりまではしなかったし、やりようによっては傲岸に見えてしまいかねないので注意が必要だが。


  【 脱衣差分 】
  脱衣差分は、歴史の古い手法で、AVGの立ち絵表現においても無数に行われてきた――ダメージ脱衣どころか全裸立ち絵すらしばしば見られる――が、SLGにおけるそれはよりいっそう機能的/体系的/多目的的なものになっている。それは、1)ステータス変化(ダメージ)の視覚的表現の一種でもあるし、2)複数のパーツの差分変化を組織的に管理している場合もある(差分管理システム)し、さらには、3)ゲームパート内で対象を脱衣させることを目的にしているタイトル(参加的側面)もある。
  古典的な脱衣差分のアイデアを利用しているものとしては、Eushullyだと『姫狩りダンジョンマイスター』(2009)シリーズがあるし、Triangleだと『エリクシルナイツ』(2007)にはあった――スクリーンショットで確認した――し、実際にはもっと遡れるだろう。Escu:deは、記念碑的な『あかときっ!』シリーズ(2010-)以来、『Re;Lord』シリーズ(2014-)や『花嫁と魔王』(2014)で、上着やマントから下着、靴下までの様々なパーツをそれぞれ独立に多段階変化させるというシステマティックな差分変化を行っている。
  非AVGでは、ACTにおいても同様の手法が採られることがある。近年では、softhouse-sealが度々手掛けた横スクロールACT群がその典型だろう。『くのいち』シリーズ(2012-)、『魔法少女ハルカ』(20139、『エルフと淫辱の森』(2013)、『セックス あ~ん♪ パンツァー』(2014)。
  AVGメインの作品だと、『アクマでオシオキっ!』(2013)に、ごく簡単なミニゲームの形式の脱衣システムがある。



  06/14(Tue)

  【 秋野氏の芝居 】
  秋野氏は、常に最高というわけではないにせよ、際立った出来のハマり役もいろいろあって、なんのかんのであまり悪くは言えない。『紅蓮華』や『オトメスイッチ』のような正統派ヒロインキャラよりも、どちらかといえば、癖の強いキャラクターで個性的な怪演を披露される時にこそ輝いているかもしれない。出演タイトル一覧を見ながらざっと振り返ってみても、『英雄*戦姫』の似而非関西弁っぽいトーンや、『虜ノ契』のおっとりした舌足らず気味の妹キャラ、『フレラバ』の攻撃的な(秋野氏のおかげですさまじく当たりがきつくなっている)キャラクター、『赤さん』のお調子者、『Re;Lord』の低音ダウナーヒロイン(ただし外見はSD状態)、『なついろレシピ』の慎ましい妹キャラ、『ラストキャバリエ』の心理的屈曲の激しい(ほとんど二重人格めいた状態になっている)臆病キャラと、いずれもプレイした後では「秋野ヴォイス以外考えられない」と思えるほどの、非常に鮮やかなイメージを突きつけてくれる。その一方で、『恋春』『アマカノ』『エクセルキトゥス』あたりの天然な陽性の芝居も、たいへん好ましい。

  『紅蓮華』は「ぐれんか」と読むのだが、目にする度に「ぐわんげ」を連想してしまって……。
  「曼珠沙華」「散華」「華厳」など、主に仏教方面で「け」とする読みがあるので。


  新記事:「スポーツもののSLGの不在」。秋野氏→Escu:deへの出演が多い→『せんすいぶ!』にも→スポーツもの→他には?、という連想から。こんな記事でも、早朝から執筆に2時間以上も掛けてしまった。

  前の「特殊な画風」記事はまだ草稿状態のままだったので、さしあたり「下書きに戻す」にしておいた。そういえばblggrにはこんな機能もあったのだった。今週中には、きちんと文章化しておきたいところだが……。


  残念ながら今後とも何度も何度も言うことになりそうだが、漫画やアニメのコラに対する心理的抵抗感を無くしてしまった人が多すぎて怖ろしい。自分たちのちょっとした笑いのために、他人の作品を直接、無断で改竄して、それをネットに載せるなんていうのは、一昔前ならば完全に真っ黒なアングラ行為として厳しく咎められていた筈だが、どうしてここまでひどい無法地帯になってしまったのかね……。クリエイターや出版/編集関係の人たちですら、平気な顔で自らコラ作成したり拡散に手を貸したりしているくらいだし。「楽しいから、つい」でやっているのなら、それは自分たちが常日頃批判したり嘲笑したりしている人々と同じレベルの行為でしかない。
  そして、コラ画像公開であれ無断アップロード(雑誌の誌面撮影からゲームのプレイ動画まで)へのリンクであれ、制作サイドの人たちがそういうことをしていると、普通の人々はどんどん、「ああ、俺たちがそういうことをしてもいいんだな」、「制作者に対して、ちっとも悪いことではないんだな」と思うようになっていく。
  そのモラル、その社会性、見識、知性、善良さ、公正さ、創作行為に対する理解及び尊重の姿勢、それらに関して私が信頼している方々が、twで平然とそういうのをRTするようになっているのを目にするのは、本当につらいのよ……。


  【 萌花ちょこ氏の異種族キャラ 】
  萌花ちょこ氏のケモキャラ。『九十九の奏』(「伏姫」役。耳のような撥ね毛も)。『悪魔娘の看板料理』(獣人族。大きな犬耳と尻尾)。『ワールド・エレクション』(狼系の獣人キャラ)。『エターナルファンタジー』(ウサギ系の獣人族)。……私の中では「ケモキャラ声優としても一流」というイメージが強かったけど、演じたキャラ数は案外そうでもなかった。犬系ケモとしてのクオリティはもちろん抜群だが。PULLTOP(『この大空』『見上げて』)などで赤髪元気系キャラに何度もキャストされているのも影響しているかもしれない。
  その他、ケモではないが非人間系キャラ。『Evenicle』(ドラゴン)。『BUNNYBLACK』シリーズ(魔族)。『魔王のくせに生イキだっ!』シリーズ(第2作以降か。女神)。『あまたらすリドルスター』(アンドロイド)。『神のラプソディ』(魔族)。『Magical Marriage Lunatics!!』(吸血鬼。主演)。『姫狩りダンジョンマイスター』(エルフ)。『ヴァルキリーコンプレックス』(ヴァルキリー。主演)。『カラフル☆きゅあ~』(天使?)。
  いずれにせよ、猫系キャラではなく、どれも人懐っこくて忠実なワンコ系キャラだなあ……。


  「豪華声優」というけれど、豪華でない声優なんかいるのか、と言いたくなることはある。しかし、他人にとって(あるいは世間的に)豪華であるかどうかはともかく、私自身にとって「耳及び脳のための特別なごちそう」であるようなキャスティングは確かにあるし、それは「豪華」というのとほぼ同義だろう。そう考えることで、とりあえず自分を納得させている。

  世の中には、特定の声優さんの声を必須栄養素として定期的に摂取しなければ死んでしまうような生物もいる(私とか)し、あの声優さんやその声優さんの芝居に対する依存症患者もいる(私とか)ことだし。

  『勇者砲』には大波氏が出演されていなかったので、『エクセルキトゥス』が無ければ死んでいたところだった。あぶないあぶない。ちなみに『珊瑚王』『はにつまHs』は未購入、『サクラノモリ』は未プレイ。それ以前となると、プレイしたのは2015年の『悪魔娘』と2014年の『アウトベジタブルズ』『ぶるにゃんマンEX』になるか。2008年の『Wizard's』から、『ヴェルディア』『フェアリース』『ヴァルキュリア』『ひのまるっ』『PARA-SOL』『BB』『さくら色』、そして2011年の『神楽早春賦』の頃までは、まさにビッグウェーブの幸福を存分に楽しんでいたものだった。


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  「使用済み」にするって、そんなのかー!
  鈴田氏の着ぐるみ出演にも匹敵する奇行偉業だ……。



  06/11(Sat)
  マウスホイールの利きが悪くなってきた。バックログを表示するのに、事実上必須なのに……。
  解体して掃除したけど、改善せず。買い直すかなあ。


  そして昨晩も、ベッドシーンに入るや「う……めんどい……」な気分になってしまい、ゲームを終了させて寝てしまったのだった。なんとか良い解決法は無いものか。


  黒画面進行は極力避けてほしいなあ。例えばアダルトシーンの中で、別の一枚絵に移行する際に、汎用の(裸)立ち絵を使えばなんとか自然な形にできそうなところでも、真っ黒画面のままで10行あるいはそれ以上の時間を過ごさせてしまうものは、わりと多い。黒背景でも、せめて立ち絵だけでも出しておくとか、直前の一枚絵の一部拡大表示などでそれっぽく見せておくとか、いろいろな対処が出来ると思うのだけど……。制作者たちには(そしてユーザーの大多数にも)、「黒画面を避ける(べきだ)」という意識は希薄なのだろうか。
  もちろん、あらゆる無地画面が絶対悪だなどということは無い。繊細なモノローグシーンで、あえて顔を(つまり立ち絵を)画面に映さずに、背景画像とゆるやかなカメラワークや、あるいは優しいボカシ画面にして進めていくというのは、適切に使えばたいへん効果的だ。


  冬期は模型制作を楽しんだ。春はwebラジオを集中的に聴き返した。そして今年の夏は、PCゲームをたくさんプレイしていきたい。それと、映像と音楽と読書と漫画と本業と美術と美容とスイーツと旅行と人付き合いと(以下略)。
  月末のSHC新作までに、フルプライスAVGを2本くらいコンプリートできれば……。


  ベッドシーンの一枚絵に(主に局部周りの)カットインを入れるのは、もちろん昔からあった手法だが、近年あらためて、時折利用されるようになっているようだ。元々は黒箱系の見せ方だろうか。白箱系では、例えばPurple softwareは『ハピメア』(2013)から? 緑茶も今年1月の『はにかみ』で採用していた。


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  同人に限らず、総じて趣味のレベルでの交流は、職場や学校とは異なって、多様なバックグラウンドの人々と出会える場であり、そこでは年齢その他の社会的身体的諸条件を無視しやすい。同人が特別だということはないだろう。市民合唱団や、ローカルな模型展示会、写真同好会、様々なカルチャー教室、猫カフェでの交流、ゲームセンター通い、MMO、政治団体、ダンス、雀荘、バイク乗り、スポーツジム、等々、いずれもバックグラウンドの多様性という点で、そして当該関心以外の社会的背景をお互いに括弧に入れて個人的/集団的に対面交流しているという点で、同人趣味と大差ないだろう。その一方で、同人界での交友も、往々にして「特定の共通の(オタク的)趣味を持つ」「比較的年齢の近い」「同性同士」で集まりがちだと思われ、多様性を特別に誇れるというほどではないだろう。「同人だけが特別にすごい」ということは無いし、「同人だけが特別にすごい」という――おそらくは事実に反する――アピールを共有し合うのは内向きの神話形成(イデオロギー強化)の気配がしてあまり好きになれない。
  ただし、趣味の世界でも、分野によっては、様々なかたちで内的/外的基準で階層化されることはしばしばある(――例えばサークル加入時期や、段位制度、持っている道具類の価格など)。そしてその一方で「同人」分野は、その性質上、外的基準が無意味であるだけでなく、個々人に対する内的な「可視的」「固定的」「共通の」地位評価もほぼ存在しないため、幸いにも社会的地位や年齢などを無視した自由な交流が成立する余地が大きい分野の一つであるというのは、非常に確からしく思われる。



  06/10(Fri)
  杏子氏は、「トップ(メイン)ヒロインに配役される」というよりも、「配役されたキャラクターを人気トップにしてしまう」といった印象がある。ジョーカー声優。いや、実際に人気投票などでどんな結果が出ているかは知らないけど。
  人気投票の結果を調べてみたら『星メモ』『いろセカ』『ものべの』『晴れのち』の1位はトップヒロインとしての順当な結果だし、『恋神』と『中の人』も2位だし、『真剣~』も4位、『&』も3位、『恋チョコ』もほどほどの位置だし、『英雄*戦姫』では大量ヒロインズの中では上位寄りという程度だし、サブキャラ役の『アストラエア』では……卯衣キャラがトップだと!? トップヒロインでもないのに人気投票1位だったのは、実際には『HGB』くらいだろうか。上記の話は、どうやら私の思い込み……というか、「『おまえの中ではそうだ』ってだけじゃないか!」ということかもしれない。


  【 桐谷氏の個性 】
  桐谷キャラに――あるいは桐谷氏の芝居に――「萌える」という感覚は私にはちっとも分からないのだよなあ……。ものすごく上手いし、キャラクターが見事に確立されているし、あの天衣無縫の名技披露は聴いていてたいへん楽しいのは確かなのだけど。なんというか、「キャラクターを演じて、その可愛さを体現している」というよりも、「キャラクターの存在とかぎりなく一体化した語り手である」とでも言ったらいいのか、そんなような受け止め方をしている。
  桐谷氏ご本人については、夏野氏とのラジオでは、えーと、まあ、なんというか、あの大胆極まりない超絶技巧派声優としてはあまりにも意外な、素朴な雰囲気のお方だった。芝居の最中は、「天才」と呼ぶのに何の不足も無いのに……。そういえば一色氏も、ゲーム演技でのあの絢爛豪華な芝居のとんでもない高みの一方で、「ピリらじ」では朗らかで親しみやすい、鷹揚な雰囲気のお方だったりした。役者とは、あるいは芝居の中に現れ(るかのように聞き手には感じられ)る人格とは、案外そういうものかもしれない。


  【 ネットのモラル 】
  無断転載は駄目だよねと日々言いつのりながら、
  [tw: 740176483834986497 ]
こういう「拾いもの」行為にはなんとも思わないというのは、アンフェアだと思うし、その度にそうした人物の発言は対他的な説得力を弱めてしまうだろう。要するにそれは、「異文化紹介という良き目的のためだから」「文化や生活空間が異なる相手のものだから」「クレームがつく可能性がきわめて低いから」「自分の利害には関わらないから(そして転載された相手の利害[損害]は考慮しないで済む)」という状況に、胡座をかいているに過ぎない。そして、ネットイラストやtw投稿をコピペ/パクりをする人たちも、少なくとも主観的にはそれと同形の思考で、すなわち、「無断転載される相手の利害や権利や尊厳を、自分は気にしなくていいから」「面白いと思ったネタや、良いイラストを、知人に知らせたいから」「どうせ社会的文化的に直接交流の無い、知らない人たちのものだから」といった状況判断の下でやっているのだろう。それは、侵害的な意図やモラルの低さではなく、ごく普通の人々の、友人に対する無邪気な善意の範囲で――そして、異文化に属する人々に対する無自覚的な軽視の下に――こうしたことが行われているのであって、それは非オタクのパクりtwと好奇心豊かなオタクの拾いもの紹介との間で、なんら違いは無い(――あえて言えば、出典を一切示していないか、一応余所に出元がある[自作ではない]ことを示唆しているかの違いはあるが、後者は後者で、故意の明白性があるがゆえに、むしろ不当性が甚だしい)。そして、もしも双方の間に相違を見出そうとする――例えば「一般人どものパクりは邪悪であり醜悪であり、笑いものにすべき愚かな振舞いであるが、自分たちの『拾いもの』共有はすぐれて文化的で意義深い、知の増進に資するものだ」といったような――ならば、おそらく偏見の所産でしかないだろう。
  そういうことが分かるのであれば、良い方向にご自身の行動を一貫させてほしいなあ……。

  結局、オタクたちも、しばしば自分の都合のよいように判断基準を動かしている。そして、ただし、それは非オタクよりもひどいということではなく、オタクでも非オタクでもまったく同じ水準だということだし、そしてさらには、時として、インテレクチュアルな人々とそれほどではない人々との間でも、共通した恣意的振舞いが見られることがある。完全に「バイアスを免れる」ことはできない――そもそもバイアスの無い、価値観のゼロ地点などというものは無いだろう――が、それぞれ気付いた範囲で不当な行為は止めるように努めるべきだし、友人や知人の振舞いに不適切なものがあればできるだけ忠言すべきだろう。


  webラジオのクイズコーナーなどで、「ブー」音を頻繁に鳴らして平気でいるディレクターには、いなくなってほしいなあ。わりときつめのブザー音を大きめの音量で何度も鳴らしてくると、本当に嫌気がさしてきて、タブを閉じてしまう。まあ、自分のゲハハ笑いを入れてくる輩よりはましだが。音に対するデリカシーが無いのに、よくもまあ音響監督なんかやっていられるものだ。



  06/09(Thu)

  【 アダルトシーンの配置 】
  アダルトゲームは、「アダルト目的」を伴う商品として理解されているはずだが、そのわりに、白箱系タイトルでは、最初のアダルトシーンに遭遇するまでに10時間あるいはそれ以上のプレイ時間を要することが稀ではない。黒箱系では、冒頭にいきなり思わせぶりな蹂躙シーンを入れてからストーリー展開に入るといった手法が採られることも多いし、ピンク系(典型的にはアトリエかぐや)では、最初のシーンがいきなりベッドシーンへの導入になっていることも多い。また、サブキャラの多いSLG作品でも、柔軟な対応をしている。しかし、白箱系AVGでは、そうした処方が施されないまま、何時間も「お話」部分をプレイし続けることになる。「お話」が一区切りつくまでは、せいぜい「ヒロインの着替えに遭遇してしまう」といった程度のお色気シーンがあるくらいだ。 ピンク系と見做されるバランスの作品ですら、最初の数時間はベッドシーン無しのままということは、けっして稀ではない。
  このことは、感想サイトなどでもユーザーからの不満として指摘されるのを見たことはほとんど無いし、制作者側もほとんど問題視していないようで、これを解消する(つまりアダルトシーンの出現を早める)ような対策はほとんど為されていない。一見不可解なこの状態が、ここ十年来ずっと続いている。一枚絵の枚数配分を見ても、性表現に対する制作側の重視も、ユーザー側の需要(期待)も、確かに存在すると思われるのだが……。

  この状況を、どう考えたらよいか。仮説として:
  1)実際、なんら問題ではない。自分と同様、ユーザーの大多数は不満に思っていない。
  2)不満の声は存在する。私がそれを認識しておらず、メーカーも対処していないが。
  3)私が知らないだけで、それを解決するような仕組みをもつ作品は多数存在する。
  4)ユーザー側が、なんらかのやり方で、解決している。
さしあたり、このくらいの可能性は考えられるが、やはりどうも腑に落ちない。とりわけ純愛系では、性質上、ベッドシーンを早めることはほぼ不可能なので、ユーザーも制作側も「それはそういうもの」「仕方ない」と納得している、もしくは「それこそが純愛系の醍醐味だ」として楽しんでいるのかもしれない。あるいは、物語体験と性的欲求充足とは、私が想像するよりも容易に分離できる(「それはそれ、これはこれ」)のかもしれない。あるいは、svdtをほにゃららしてアダルトシーンを先回りプレイするといったようなこと――これを私は悪習だと考えている――が頻繁に行われているのかもしれない。あるいは、近年のピンク系隆盛(白箱系からピンク系への傾斜)はまさに、この問題に対する対応なのかもしれない。
  私自身は、べつに不満はない派だが。製品版では、アダルトシーンの回想だけは最初から開放しておいても構わないんじゃないかなどと思った。近年では体験版にベッドシーンを抜き出し収録するといった慣行も広まっているようだし、そのような「ストーリーを無視したアダルトシーン享受」は、十分可能だろう。また、00年代初頭の白箱系AVG作品では、「大量の選択肢を経由した長いストーリーの最後の最後に、ようやく一つだけヒロインと結ばれるシーンがあって、その直後にエンディング」といった構成もわりとあったので、それからすると、濡れ場の出現はかなり前倒しになっていると言うこともできる。


  SHC新作マスターアップ。後は発売日を待つのみ。


  00年代のPCプログラミング技術の発展を通じて開拓されてきた様々な演出技術は、いまやPCスペックの環境的制約からも大きく解放され、ノウハウとして業界内に広く拡散され深く浸透している。だから、一般的形式的な表現技術の次元でなんらかの新規性を取り上げることに汲々とすべき時期は終わり、そしてまた、それら無数の技術の使用によって実現されている個別的実質的な一つ一つの作品の表現を丁寧に語ることが、私にもようやく可能になり、そして必要になってきたのかもしれない。



  06/08(Wed)
  長くなったらどんどん日付を変えていってしまおう。


  【 ちょっとびみょうな、おとしのはなし 】
  38歳になられたのか……うーむ、あのご様子とこの数字とで、全然イメージがつながらない。たしかに1999年頃からお仕事をされていて、そしてご結婚されたのも2009年(もう7年前)のことだから、時間の経過として確かに、確かにそういうことになるのだけど。「役者は年齢を感じさせない」「役者は年齢の分からない方が多い」というのはよく聞くが、なるほど確かにそうなんだなあ。
  昔の話だが、いちむらさんが30歳になったとか30歳を超えたとかいうのも、webラジオを聴いていてまるで実感が無かったのを思い出した。どうしても、私の中の「三十路」イメージにどうしてもつながらなくて、不思議に思っていた。要は、その「三十路」イメージなんてものが一面的な固定観念にすぎなかったということでもあるけれど。あと、今検索してみたら、あさいさん、72年生まれ(71年度)……だったの!? 本当なんだろうか。ラジオでの話しぶり(声の若々しさと思考の若々しさ、そしていちむら氏への態度)から、いちむらさんよりも年下なくらいかと思っていた。つまり、5歳以上若く見ていたわけだ。いやしかし……本当なの? たしかに四大を卒業して(そして養成所に入って?)1999年に仕事を開始したのであれば、逆算してそのくらいになるのだけど、しかし、あさい氏のイメージはもっともっとお若い感じだったので……。
  年齢の話は失礼に当たりかねないが、こうして言葉にでもしないと落ち着かない。

  ……ん? 72年ということは……かほるんやマエストロ(74年)よりも年上?
  うーむ、年長年少はどうでもいいこととはいえ、混乱が収まらないぞ……。

  [tw: 739097540243509251 / 739430893664669696 ]
  あなた方は……揃いも揃って、しかも連日で、いったいなんということを……。
  (この方々も、こんな行動といい、外見や普段の言動といい、つくづく年齢不詳だ……。)


  【 キャストパズル 】
  キャストパズルも、数えてみたらすでに20個も解いていた。割安(半額)で買えるところを見つけたのでどんどん買ってしまったが、わりと楽しんでいる。500円×20個=1万円で20個ならば、十分お得だろう。学生たちに解かせてみても、それなりのネタになるし。私は長風呂派ではないが、入浴中にカチャカチャ解いてみるというのもありだろう。
  個人的には、1)最初からすべてのパーツの形状がはっきり見えていて、2)単なる試行錯誤ではなくアイデアできれいに解けるもの、3)それでいて理屈が分かる(ロジックで解ける)もの、4)パーツ数が多すぎないもの(手先の器用さが求められないもの)、が好き。簡単な方では古典的アイデアの「ホース」、難しいものだと3パーツの「チェーン」が一番好き。オーソドックスながら発想の良い「キーII」、形のきれいな「マーブル」、ワンアイデアの妙味と動きの不思議さのある「デビル」あたりも楽しめた。理屈でそれなりに推測できる「ヴォルテックス」も楽しかった(ただしパーツ群がグラグラガチャガチャするし、戻す方は大変)し、同様に複雑な形状の絡み合った「ラディックス」「エニグマ」も好き。
  逆に、パーツ数が多すぎたり、パーツ群の位置取りがデリケートだったり複数のパーツがガチャガチャしてしまったり(「ビオロン」「ラトル」)、試行錯誤以外にすることがほとんど無くて退屈だったり(「ディスク」「コイル」「キーホール」「メビウス」)、造形上の微妙な違いが仕掛けになっていたり(「エルク」「コイル」)、ブラックボックスだったり(「ドーナツ」「スクエア」)、ほんの偶然で解けてしまう可能性があったりするものは好みではない。金属臭の強いものも。特に「ケージ」は動かしにくいうえ縁が鋭いので痛かったし、「スクエア」の仕掛けもズルい(パズルと呼ぶに値しないと思う)。「ドーナツ」も、ブラックボックスもののうえ、ツルツル滑って扱いにくかった。4つ以上のパーツのものは、そもそもろくに手を出していない(「マーブル」は良かった。「ラトル」は苦手)。「U&U」の面倒さも好みではない。

  リーズナブルという観点では、――以前も書いたかと思うが――自分にぎりぎり理解できるくらいの数学の本を一冊買って演習問題を解いていく方がよほど長く楽しめる。その方が、一般性も実用性もはるかに高いし。

  『最果てのイマ』のほかに、知恵の輪ネタが出てきたタイトルはあるだろうか。


  いよいよもって、いったいどうしてこれほどの卓越した芝居を、自室にいながら何十時間も大量に聴くことができるのか、ほとんど不可解不可思議の思いだ。ほんの8800円を支払ってパッケージを持ち帰り、インストールの10分かそこらを待つだけで、ただそれだけでこれほどの幸福が許されるというのは、どう考えてもおかしい。


  【 台本をめぐる雑感 】

  台本というと、ゲーム関係ではこんなのも。上は『野良猫ハート』初回限定版の同梱特典。実際に使用された台本と同一のものだろう。1)役者ごとに担当キャラの台詞が強調されているのと、2)ファイル番号が併記されているのが、ゲーム台本の特徴。大量の音声を個別収録するのに最適化されている。
  下は『妹どりーむ!』のパッケージ裏面。こちらは典型的なアニメ台本スタイル。全員共通台本。声優ヒロインなので、下読みチェックでの書き込みがある。人それぞれに書き込みの仕方は異なるらしいが、基本的には「自分の台詞を強調」「映像(「リハV」)に合わせたタイミング」「ブレスや表情づけなどの注意点」などを書き込むものらしい。

  『エヴァ』(26話のあれ)で初めてアニメ台本を目にしたという人もいるだろう。私もその一人。

  『野良猫ハート』は素晴らしかったが、何が良いって、一に涼森氏のナレーション、二に主人公(猫モード)の話者欄ヴァリエーション、三にユーモアと情緒のあるテキスト、そしてさらにいろいろ。桐谷氏や卯衣氏もいつもながらいつもどおりに素晴らしいが、なによりまず、涼森氏をここでこういう形で起用されているというのは、それこそは、本当に、本当に素晴らしいことなんだ。
  告白と『枕草子』朗読の二重唱シーンも素晴らしかった。

  こうして台本現物を読んでみると、私のような素人には、とても芝居はできないということがあらためて実感される。この台本サンプルでも、例えば「歩くバカ。これが転じて~」をどのようなテンポで演じればいいのかもまったく分からないし、「ご一緒に、カラシも~」をどのような軽さで表現すれば前後の流れにフィットするのかも想像できない。あるいは、「家庭教師ですから」の台詞はどのような雰囲気にすればいいのか。「ですが、パトリシア~」の台詞からその次の「あ、パトリシア先生~」へのつながりをどのように把握し、プレイヤーにどのように聞こえるかをどう想定して声に出せばいいのか。「ノラさん、~しっかり勉強しましょうね」をどのようなトーンで、脚本全体の中の位置付けを考慮しつつ、どのくらいの親密さで喋ればいいのか。そうしたことが、素人には分からない。あるいは、何を目指して、どのような仕方で表現すればいいのかも分からない。仮に、もしも私がこの台本を突きつけられてその場でこの「シャチ」役の台詞を演じてみよと言われたならば、――下読み無しの台本芝居はそれ自体追加的な困難があるとはいえ――何をどうしていいか途方に暮れたまま、恐怖にただ絶句しつつ立ちすくむしかないだろう。
  役者の仕事が、いかに台本の読解の的確さ/深さに依拠しているか、その都度のシーンに関していかに鋭敏な想像力が要求されるか、そして自らの解釈を自身の声帯コントロールを通じて的確に表出することがいかに高度な技術の上に成り立っているか、そしてそれら全体としての声優の仕事がいかに創造的な営みであるか。通常、立ち絵変化などのスクリプト演出は、収録後に(あるいは収録と独立に平行して)行われているとのことで、声優はその場面のBGMを聴くこともできず、その都度の台詞の瞬間のキャラクターの表情変化を見ることもできないのだ。にもかかわらず、上記のような無数のニュアンスをテキストの中から汲み出して(あるいは自ら作り出して)、適切な発声としかるべき技巧をもって――しかも音声のみをもって――表現する。私たちが日々聴いている声優の芝居は、そのような分厚く繊細で大胆で複雑なプロフェッショナルの仕事によって初めて、聴くに堪える意味作用として成立して、私たちの耳と脳に届いている。
  このシンプルな台本から、いかに多くのものを役者が作り出しているか。役者の創造的関与の大きさは、さらに言えば、役者それぞれの解釈の振れ幅の大きさをも示唆する。例えば、この同一の台本で、役者Aが演じた場合と、役者Bが、そしてC、D、E…が演じた場合とでは、おそらくそれぞれまったく異なったものになるに違いない。その違いに対する想像は、もちろん素人である私によるほとんど無意味な想像にすぎない――私が例えば「これを一色氏が演じたら」「木村氏が演じたら」といってどのような芝居を想像したかは単なる恣意的な妄想にすぎない――が、そうした思考実験的プロセスは、役者の仕事に対する私のセンシビリティを、僅かなりとも高めてくれるだろう。

  やっぱり声優の仕事は凄いし、声優は怖いし、そして声優は尊敬するしかない。


  [ www.netlaputa.ne.jp/~gk-home/ ]
  この方がいまだに活発に活動されているのには、頭が下がる。15年か……。

  かと思えば、あの「愚者の館」が、[ sagaoz.net/foolmaker/ ]に移設(アーカイヴ化)されていたりして。2014年以降、更新が完全に停止していたけれど、どのようなゲームにどのようなシステムがあるか、そしてゲームに対してどのようなアイデアによるどのようなプレイアプローチがあり得るかについての膨大なデータは、アダルトゲーマー間の大きな財産だと思う。


  萌花ちょこ氏のお名前は、「萌え」文化に寄り添ったというよりも、宝塚趣味から来ているんじゃないかなあ、と勝手に想像している。ただし、あちらの方は「萌花(もか)」ではなく「萌花(もえか)」と読むが。


  特別に好きな声優さんが登場しているシーンのsvdt集を作ってしまう。
  ( 〃 )な声優さんの台詞は、ついつい満足しきるまで一つ一つリピートしてしまう。
  ( 〃 )な声優さんがサブキャラ役でも、登場機会が多そうなルートからプレイしてしまう。
  ( 〃 )な声優さんが主演だったりすると、もうどうしていいか分からなくなるほど幸せになれる。
  ( 〃 )な声優さんの芝居を聴きすぎて心がオーバーフローしそうになると上を向いて嘆息する。

  ……などと書いているとそろそろ私がホンモノのアレな人に見えてきそうなので内緒にしておく。
  あと、こんなことばかりしていると一本コンプリートするのに何十時間も掛かってしまう。


  先日の話。金髪ツインテールって、どのあたりまで遡れるんだろうか。アダルトゲームの中で、さしあたり思い当たるのは『君望』(2001)の大空寺あゆ。時期的にも、知名度の点でも、2016年現在のオタク文化につながる大きな震源地の一つであった可能性は高そうだ。他分野も含めれば、『セーラームーン』もあるが。


  ああ、要するにこれは、「桐谷氏にはどんな台本を振っても必ずやパーフェクトに演じきってくれるから、安心してとんでもないネタを思いっきり振りまくっている」ということだな! すごい……。



  06/07(Tue)
  プレイしていない部外者たちから、「衰退した」「衰退したのは何故か」といった、しよーもないいっちょ噛み業界論ばかり言われるのは、STGも同じかもしれない。私自身、もはやシューターではない立場だけど、ああいうのは、本当にうんざりするし悲しくなるものなので……。


  [tw: 739838935673622529 ]
  「通」ってのは何ですかね。
  ゴシップネタに詳しい人のことですかね?
  ゲームの中味を語らずに済ませる人たちの謂ですかね?


  そういえば、安斎さんは、シーマ様に近いところがあるかも。本人はわりと全方位的に優秀っぽいのに、何故かマイナーで貧乏な愚連隊を指揮していて、部下たちからは尊敬――あるいは一種のアイドル扱い?――されつつ、こつこつ倹約して頑張っているところが。長もの(鞭/扇子)を掌でペチペチさせつつマントをひらめかせて、「これが我々の必殺秘密兵器だー!」「これからは楽させてあげるよ。ガンダムでもしっかり磨いておくんだね」と格好を付けているところも、なんとなく似ているかもしれない。
  ただし、シーマ中佐には「あたしはお節介な男は大嫌いさぁね!」と無能な部下をバッサリ切り捨てる冷酷さがあるが、安斎さんには「こら、無茶するな、怪我したらどうする!」などといった相手への気遣いの出来ている感じがあって、もちろん違うところは全然違っているが。
  シーマ中佐はシーマ中佐で、登場するなり敵艦を2隻も撃墜したうえガンダム1機をほぼ撃墜まで追い込んでいるし、ピーキーな最新機(GP-04)もなんなく乗りこなしているし、戦況をよく見て退くべきタイミングも的確に見計らって行動しているし、そもそもあんなはぐれものの集団を率いて何の支援も無しに3年間も宇宙をサバイバルしつつ、大企業の常務(オサリバン)との裏取引まで成功させているあたり、交渉能力の面でも相当有能なのだろうと窺わせる。こうした評価はわりと広く共有されているようで、実際、短いOVAで描写が少ないわりに、ゲームなどでも個人ステータスはおそろしく高く設定されていることが多いようだ。
  その一方、安斎さんも、「ノリと勢いだけ」とは言いつつ、あの貧弱な戦力で一回戦を勝利しているあたり、指揮官としても指導者としても相当優秀なのだろう。機動力を重視した戦い方が出来るということは、基本的な統率力だけでなく、戦況に応じた対応能力(情報処理能力や判断力)が高いということだし(――カルパもいるが、あのキャラはあの外見と物腰のわりに、参謀というよりは武人系の働きをしているので、組織マネージメントの点で隊長の助けになっていたかどうかは少々疑わしい。その場のノリと勢いで一騎打ちに行っちゃったし、隊長車への合流指示もきれいに無視して一騎打ちを続けていたし)。ただし、OVAでの作戦能力には疑問もあるが。最初にマカロニ作戦に引っかけはしたものの、その後は戦力を分散させたままで、敵チームの主力でもない八九式にCV33を5両も貼り付けたまま(ただしこれは、本来無視する筈がペパの独断で絡んでいってしまった)で、自軍の主力戦車2両もM3に引きつけられたままで、隊長車は護衛もろくにいないまま、敵軍の主力も見つけられずにうろうろしていたわけで、所期の目的である敵軍包囲はろくに成功していない。結局は「詰めが甘い」「器用貧乏」の印象がある。ともあれ、頬の立体的な丸っこさといい、絶妙のふんわり感のある巻き髪といい、作画も素晴らしいし、専用BGMとも言うべき「フニクリ・フニクラ」も楽しげだ。
  部下たちからの人望に着目するか、組織統括面の有能さに着目するか、最前線での奮闘ぶりに着目するか、滲み出てくる苦労人的性格に着目するか、そのウェイトによって印象も多少変化すると思うが、いずれにせよ、不遇にめげず獅子奮迅で頑張る有能な指揮官キャラたちは、私からは遠いタイプの魅力的なキャラクターで、だからわりと好き。

  アダルトゲームでは組織が描かれることは稀だが、SHC作品だと『巣作り』のクーとか『BB』のメリル、『門』のルアやエレナなどが、やや近いキャラクターだろうか。alicesoftだと、クリーム。e.go!作品だと……滝峰幹也君か? Leafも、ハクオロとベナウィの男性キャラ。クーヤさんも大変だったよね……。tencoだと孫子やカメハメハ、クック、ワイナ、ハンムラビ、モードレッド等々。おバカキャラが多いタイトルなので、それをフォローする苦労人キャラも多かった。声優さんでは、松永氏や萌花ちょこ氏だったら、こういうタイプのキャラクターを嫌味もなく陰にも籠もらないムードで演じてくれるだろう。

  「宇宙の蜉蝣」はCDドラマとして面白かった。
  そういえば、バッタとかカゲロウとか「獅子身中の虫」とか、何故かなにかと昆虫ネタが……。

  あれは「ノリと勢いで一騎打ち」なのかなあと再考してみると、あれはあれでその場の判断としては最善なのかもしれない。相手側のきわめて危険な主力を抑え込む(あるいは少なくともフラッグから引き剥がす)という意味で。ただし、自軍としても直掩一輌を手放してしまったわけで、現場的に最善であるとしても戦況全体としては理想的とは言いがたいが、それはそもそも彼我の戦力差に懸隔がある以上、やむを得ないことだろう。
  [ www.puni.net/~anyo/etc/galpan3.html ]:web検索してみると、このような戦術評価のテキストがあった。より広い目で見れば、なるほど一騎打ちの総合的な得失はこのように述べるのが妥当だろう(※ただし、上記urlのサイトの他の記事は、社会的偏見に基づいた[擬似]心理学や作品外在的知識の無批判な投影が散見され、あまり感心しない)。

  イタリアのイメージを投影するなら、アンツィオのダブル副隊長制は三頭政治ネタかなとも思える。史実ではその一人が「カエサル」だったのがいささか皮肉だが。


  ルーベランさん、『鬼畜王』では凛々しく居ずまいのきちんとした様子の美しい人だったのに、最近の作品で再登場した時は、なんか、外見がなんともビミョーな出来に……なんだよ、あのいかにも垢抜けなくてモブキャラ感たっぷりな娘さんキャラは……(泣)。



  06/06(Mon)

  【 芝居と声の価値 】
  「声」そのものの好みはあるなあ。役者の芝居を聴くことの醍醐味は、役者が作り上げた表現世界を体験することであって、基本的には「人為」の営みを聴くことに他ならないが、しかしながら、声色が自分にとって心地良いかどうかという要素、つまり人それぞれにたまたま備わった「自然」の要素に依存するところもある。

  もちろん、役者が芝居として自分の声帯を震わせている以上、それはけっして素朴な自然のままの現象ではない。その役に合わせてどのような声を出すかは、すべて声優自身がコントロールして成り立っているものだから。テンポとリズム、音の高さや明るさ、声帯の開き方、ブレスのタイミング、等々、声に込めることのできるあらゆる要素がその都度チューニングされているのだし、その中に「声色」の要素――「作り声」という意味ではなく、「声の色合い」のコントロールの話をしている――も当然に含まれている。そしてそれは、声優が常日頃からどのような発声訓練をしているか、声優がどのような演技を目指しているか、実際の音声のテイストをどのようなものにしようと努めているか、そうしたことと密接に結びついている。つまり、一人一人の声優が個々の場面で表している声のトーンは、生来的な性質に規定されている側面もあるが、それだけではなく、表現としての側面も確かに備えている。その意味で、自然(生得的要素)だけでもなく人為(芸術的固有性)だけでもない、中間的な領域と言えるだろう。声優が音声表現者としてのプロフェッショナルな訓練をしている専門家である以上、ゲームやアニメの収録音声だけでなく、イベントやwebラジオのフリートークにおける笑い声ですら、それは間違いなくその役者の――役者としての――個性と言ってよいだろう。だから、声のトーンに対する好みや、あるいは笑い声に対する好印象を表明することは、芝居の本質から逸脱した偶然的な生得的要素を褒めているにすぎない、などといったことではない。役者がみずからの生来的特質を所与のものとしつつその上に築き上げている「技芸」の水準における、受け手からの称賛とすることは可能だし、そういうつもりで述べたい。

  文章やイラストも同じようなものだ。ひとが持つ文体上の嗜好は、書く方にせよ読む方にせよ、当人の大量の(部分的には偶然に依存した)読書経験から、完全にはコントロールされないかたちで形成されてきたものであり、よほど特殊な場面――例えば専門性の高い文書作成――でないかぎり、それらの振れ幅の間に存在するものだろう。あるいは、イラストレーターの場合でも、当人が長年の訓練によって獲得してきた美術上の技術と、当人が無数の美術的体験の中で半ば意識的、半ば無意識的に形成してきた色彩及び造形の美意識と、当人がほとんど意識していないレベルで現れてしまう表現上の特徴(俗に言う「手癖」)、これら三者を明確に区分することは難しいだろう。それらは、人為だから、あるいは自然だからどうこうというものではなく、また「声色(一般)/一つ一つの台詞(個別)」という区別でもなく、全体としてまさにその特定の一人に帰属する表現であるという理由で、その作者当人に捧げられる称賛(あるいは批判)として、正当に成立している(――集団制作の場合はもう少し複雑だが、功績/責任の帰属という観点では、基本的に同じように考えてよいだろう)。

  以上の予備的な言い訳を挟んだうえであらためて本題に戻ると、自分の中にも声優の「声」に対する好みがあることを最近意識している。北都氏にせよ、波奈束氏にせよ、あるいは木村氏、羽鳥(空)氏、安玖深氏、鈴田氏、陽月氏、美月氏、とにかく高音のツヤがきれいに出ていて、それでいてはっきりした芯のある発声とクリアカットなフレージングをされていて、そして芝居のテンポが非常に堅固に確立されている方は、だいたい好きになれる。それは、生(き)のままの声ということではなく、音声表現において何を重視しているかという問題に関わっている。
  逆に、個々の台詞でどれだけ深く掘り下げた芝居をされている方でも、低音にゆるい濁りのある役者さんや、声がぼんやりと広がっていくような印象を受ける役者さん、台詞の終わりがきれいに切れていない役者さん、一つ一つの音がきれいに分離せず勢い任せでごちゃごちゃになっている声優さんは、聴いていて苦手に感じることがある。もちろん、それは傾向的なものにすぎず、そんな部分的な考慮をやすやすと超えていく芝居の高みに連れて行ってくれる声優さんもたくさんいる。また、上記のような美質を備えていなくても、素晴らしいと思える声優さんもたくさんいる。例えば青山氏や桜川氏や杏子氏は、先に述べたようなタイプとは違った方向性の芝居をされているが、もちろん、最大限の敬意を持っている。松永氏、卯衣氏、萌花ちょこ氏も、それぞれ一口にはまとめられない個性がある。


  特定個人の発言にせよ特定の集団の傾向的姿勢にせよ、他人のことを「論理破綻している」と述べるなら、どこがどう破綻しているのかの具体的指摘も最低限しておく方がいいと思うんだけどなあ。他人の言論に対するそれほど強い批判を、公然の場で提起するならば、根拠を提示するところまでの責任を引き受けるべきだと思う。もちろん、その相手に対する教師でもなんでもないのだから、全面的/無制限の説明責任を負うものではないけれど、みずから公共的な言論として特定の相手に対する強い批判を「論理」の名の下に提起するならば、論理及び言論に対する誠実を放棄すべきではない。せいぜい「Pという立場からはAが必然的に帰結するが、彼が同時に主張しているQという意見からはnot Aが帰結するので、矛盾を来している。Pを維持したいならばQは採れない筈である」といった程度の最低限でいいので。
  (べつに私が誰かから論理破綻を責められたという話ではない。第三者的なお話。)


  振り返ってみると、さより氏の原画作品はずいぶんプレイしている。『モテ修羅』は共同原画で、キャスト目当てで買ったけど絵も良かったし、『√ハーレム』の頃にはすでに現在につながるこの方の特質がはっきりと現れていたし、みる氏の微妙に胡散臭いケテルビーキャラも良かった。そして最新の『ポンコツアクマ』シリーズに、同人では中村氏ご出演の作品まで、なんのかんので購入している。服飾デザインも凝っているものがいくつかあるし、身体にフィットした着衣感も良い。


  いいなあ、いいなあっ、直筆サインさん、いいなあっっ!!!
  ゆっくり鑑賞しつつちゃんとローカル保存して、幸せのお裾分けに与らせていただきます。


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  見慣れた場所に、これはいったい何が……?


  藤咲氏は、ラジオトークによほど慣れていらっしゃるのか(謎)、相手の対応できる範囲、スベらない範囲、フォローできる範囲をきちんと把握したうえでボケたりツッコんだりボケたりされているので、個々の発言の突飛さにもかかわらず、全体としてはトークの仕切りにたいへんな安定感がある。発想の桁外れの自由さと、トークをコントロールする手腕を両立させているのは、わりと稀有なスキルだと思う。そのうえ、ご自身の喋りも、あの柔和な声音とやさしいテンポでたいへん耳心地良いときている。



  06/05(Sun)
  せっかくなので、今日一日は悪いことはせず(言いもせず)清く生きよう。
  (毎日そうあるべきなのだが。)


  今日もクリックのしすぎで指が痛い。
  身体への負荷が小さいのは、第一に音楽(ただし大音量にしないこと)、第二に読書(ただし目の負担がある)だろうか。ゲームは、ジャンル/プレイスタイル/機材(コントローラー)等によって変わるが、基本的には目と指への負担が生じる。場合によっては腰にも。


  【 ロボキャラいろいろ 】
  ロボット(アンドロイド)キャラは、最近でもそれなりの頻度で見かけるし、とりわけごった煮ファンタジー世界設定では定番のキャラだ。白箱系やピンク系でのヒロインになることはそう多くないが、なんとか定期的に出てくれているし、そして登場する時は杏子ヴォイス(『イモウト』)だったり木村ヴォイス(『SV』)だったり藤咲ヴォイス(『WG』)だったり鈴田ヴォイス(『DD』)だったり上田ヴォイス(『万華鏡』)だったりするので、さすが制作者の皆様はよく分かっていらっしゃる。
  今度のSHC新作では大波氏と芹園氏が「有機アンドロイド」キャラを演じている。大波氏は『パンドラの夢』を初めとして、『さくら色』(※バイオロイド)、『LEVEL JUSTICE』(人造の怪人)、それから『真昼』『DC』では「暗殺人形」の異名を持つ「アーティ・ブルックリン」を演じていたので、おおまかには予想(期待)できる。芹園氏は……どんな感じだろうか? SHC作品でも、堂々としたメインヒロインのアルテや赤髪のパニバーナから、無口変人系のロウメイまで、幅広い役柄でキャスティングされてきているし、キャパシティの大きい方であることは間違いないので、安心していてよい。

  芹園氏の出演歴を手繰って見ているところ。『人工少女』が一応該当するか。
  芹園氏の代表作は、シリーズタイトル数からも、知名度(アニメ化もした)の点からも、やはり『恋姫†無双』になるのだろうか。個人的には、『ク・リトル』や『るい智』あたりの冷え冷えとした芝居も格好良いと思うし、アンモライトでの小柄スレンダーヒロインズもまさに適役だった。


  それにしても、「プロギュウラー」とはいったい何なのか……。



  06/03(Fri)
  現在、このブログが何であるかといわれたら、第一義的には、「PCゲーム声優について、雑多な独り言を口走るブログ」といったところだろうか。まあ、これでいいと思う。


  「えっ、ちょ、待っ、あんた、さっきまであんなにブリリアントでありつつしかもニュアンスに富んだ精妙な芝居をされていたのに、どうしてベッドシーンになったらいきなりキャラクター表現の方向性を見失ったかのようにバタバタと落ち着きのない演技になっちゃうんだよ、こっちが恥ずかしくなるじゃないか!」ということもあったりする。さすがにこれはギャップ萌えとは言いませんぜ。アダルトシーン特有の短く性急な息遣いのせいで、いつもの優しいアンダンテなリズムも失われているし、言葉と言葉のつながりもほどけてしまっている。どうしてこうなった。
  どうしても何も、もちろんこれはその声優さんの個人的な問題ではなく、現在のアダルトPCゲームのアダルトシーン表現の特徴に由来するものだろう。すなわち、演者に対して非常に特殊かつ高度な技巧を要求する、専門性の高い技能的労作であることの現れなのだ。そしてそれゆえ、声優が普段から保持している芝居のスタイルがその要求とはマッチしないような方向性のものであったり、あるいはその声優の美質とは相反するような要求を突きつけられることになったりするということも生じうるのだ。

  でも、テキストの「ぺろぺろ」を台詞でそのまま「ぺろぺろ」と読み上げるのは、さすがに無いんじゃないかなあ。ギャグになってしまう。煽情性を目指す場合でも、それ以外の芝居一般の問題としても、レロレロ音として聞こえるような音を出すものじゃないのか……。それ以外の部分での奮闘努力ははっきり伝わってくるだけに、ギャグになってしまうのは惜しい。

  まあ、その、いきなり余裕綽々でド派手なアダルトシーン芝居を披露されるウイ先生というのも似合わないので、いやまあ、このくらいの感じでいいんじゃないかななどと思ったりもするのだけど。もちろん、本当に熱心に芝居を頑張っておられるのは、聴いていて痛いほど伝わってくるというのも、確かなのだし。だけど、えーと、まあ。


  あー、桃いちさんと同じ事m…こほん、むにゃむにゃ。
  新しい節目の門出に、ひそかにお祝い申し上げます。


  【 記録と体験 】
  人生の思い出に写真を撮るのは、それ自体としては一応「良いこと」ではあるけれど、何でもかんでもとにかく写真を撮ることだけがその場面での第一目的になってしまうのは本末転倒だろう。大事なのは、自分自身のためのカメラマン役を自分で買って出ることで、本来その空間を体験する主体になるはずの自分自身が存在しなくなってしまう。その場でに居合わせていながら、自分の目でその空間の、両目の視野全体に入るあらゆる動き、あらゆる色合い、あらゆる微妙な雰囲気を感じ取ることをせず、ただデジカメやスマホの小さく粗い映像上で、間接的に「見たことにする」だけで終わってしまう。そして、撮影された写真は、その場面の雰囲気を定着させているわけではないし、見返すに足るろくな出来である保障も無いし、それどころか見返すことがあるかどうかすら疑わしいというのに……。せいぜいのところ、そのつまらない出来の静止画とシャッターの感触だけを手掛かりに、通俗的なイメージに合わせてなぞるかたちで、その場面の様子を模造的に再現するのが関の山ではないのか。デジカメでは、古典的なフィルムカメラのように「撮影された瞬間は目が(シャッターが)閉じられている」というほどではないにせよ、事態はたいして変わらない。躍起になってスマホ越しにただパシャパシャやってばかりいたのに、対象を「自分の目で見ていた」と言えるのだろうか。プロの写真家の作品は別として、普通の人が、二度とないような絶妙の瞬間の写真を撮っていたら、「ああ、この人はその最高の瞬間を、自分の目では見ていなかったんだな……」と、悲しんでしまう。そういうことだ。
  そういえば、バカな教員がおりました。卒業式の会場で、自分のカメラを持ち込んで、教員席から壇上をパシャパシャやっていたバカが。行事の度ごとに、何のために本職カメラマンをお願いして会場内部を走り回ってもらっていると思っているのか。そして、その場面において教員は、「卒業生たちを送り出す責任者」なのであって、物見遊山の観客などではないのを理解しているのか、いないのか。おまえの隣に座っている凛々しく華やかで幸せな卒業生たちは、おまえよりも何十年も若いのに、誰一人としてそんな見苦しく恥ずかしい振る舞いはしていないというのに。……いやまあ、そのバカとはご縁を切ったのでもうどうでもいいんだけど、あんなのに送り出された卒業生とその保護者たちが可哀相だなと思った。
  閑話休題。頼まれもしないのに、そして誰が見るわけでもないのに、その場の経験の直接性を自分から放棄して、単なる記録写真収集に汲々とするのは、人生経験を致命的に薄っぺらく通俗的なものにしてしまうだろう。同様に、映画や書籍の感想を書く際に、自分が受けた印象を丁寧に反芻するということすら止めて、まるで雑誌や新聞の宣伝文句のような文体と、それらでしばしば見られるアオリ文句のような陳腐なフレーズばかりを並べて、「ネタバレに配慮した」無難なことしか書けないのは、はたして幸せなことだろうか?
  あるいは、一話あたり二十数分の充実した時間を過ごすことを自ら放棄して、実況コメントを二十も三十も投稿するのは、映像を「ちゃんと見ている」と言えるのだろうか。投稿する言葉を思考するわずかな時間(×数十回)の、入力していく間に画面から注意が逸れる時間(×数十回)の、単語変換していく際に画面から目を離す時間(×数十回)のうちに、画面上ではどれだけのことが生起しているか。どれほど繊細なニュアンスの変化が生じているか。映像と、音声と、サウンドと、カメラワークの、あらゆる細部のあらゆる瞬間の持続乃至変化を注視し意識し感じ取るのには、私がどれだけ注意力をフル回転させても足りないというのに、ほとんどろくに観もしていないような漫然とした視聴態度を、どうして平然とし続けていられるのか。そんな余計な作業を繰り返して視聴時間を自発的に攪乱しまくりながら、映像鑑賞を楽しむことができるのか?
  あるいは、――これは私自身の問題だが――ゲームをプレイする際に、スクリーンショットを撮ることを常に頭の一部で意識しながらクリックしているのは、適切なプレイ姿勢だと言ってよいのだろうか? その作業は、何文節もの実況テキストを入力&投稿する作業に比べれば、キーボード上の特定のボタンの下に置いてある指を、「このシーンはいいな!」と思った瞬間にほんの数ミリ押下するだけのことだとはいえ、ゲームへの集中をかなり削いでしまっているのではないか?
  デジカメの普及。ありがちな宣伝文句を、それが即座に出てくるまで執拗に日常的に浴びせられてしまう現代の広告。アニメ実況を共有できるシステム。「ながら」視聴がいよいよ容易になっているメディア事情。そのような技術や環境によって、私たちの芸術体験の密度と直接性はいよいよ致命的に掘り崩されているのではないか。しかも、私たちが気付くことができないような仕方で、私たちが抵抗できないような仕方で。
  小説や漫画だって同じだ。2000年頃には、「ながら読み」に対する反発はまだ強かった。少なくとも、そうした中途半端な読書姿勢をはっきりと難じる声が、正面から堂々と提起されていたし、それが正論であることはきちんと共有されていた(――当時の私は、それを述べる側ではなく、そう言って怒られた側だったが)。しかし現在では、「ながら読み」、あるいは「音楽やネットやSNSによって無数に断片化される読書時間」、「マルチタスクのワンオブゼムとしての読書」、そうしたものが平然と罷り通っている。
  さすがに、伝説的な過去の、「アニメをビデオ録画もできなかった時代に、ただ一度きりの放映で映像と台詞と主なクレジットのすべてを脳に焼き付けていく」とか、「高価なビデオテープを擦り切れるまで観返して、100分の映画ならばぴったり100分の口頭再演ができるまでになる」といったような超人的な(あるいは、現在の目ではむしろ、ほとんど宴会芸のようにしか見えないような)時代錯誤を要求しているわけではない。作品を「ちゃんと見る」「まともに見る」、ただそれだけだ。イベントでの「ちゃんと見てもいないのに、写真を撮るだけで満足する」参加姿勢や、アニメでの「ネタになりそうなところで型にはまった実況を打鍵するそのリアクションの快感によって、ずたずたに断片化してしまっているのをなんとも感じない」視聴姿勢は、いびつであり浅薄なものになってしまう、と述べているだけだ。
  例えば、仮に「アニメ1話を視聴している間に、その内容に関係する投稿を20個以上SNSで作成せよ」などと言われたら、私だったら「やなこった。10万円積まれてもそんな時間の無駄はしたくないし、当のアニメに対しても不誠実だ」と言うだろう。しかしそんな活動を、誰から命じられるわけでもないのに毎週毎日せっせとやっている人が無数にいるというのが、私には信じられない。

  幸いにも、AVGの場合は、美しいシーンや絶妙の音声芝居でプレイヤーが感極まった時に、右手をマウスから手放して天を仰いで嘆息したりしても、画面は流れていってしまうことが無く、ただBGMが優しく継続されるだけでその瞬間はずっとウェイトが掛けられたままでいてくれる。

  同様に、アニメを倍速視聴している人も、基本的にあまり信用していない。


  「藤咲ウサ」というネーミングのとんでもなさには勝てない……。要するに、「皆本ハム(スター)」とか、「平田カピ(バラ)」とか、「藤原モル(モット)」とか、「立花タヌ(キ)」というのと同じような感じの、動物の名前どまんなかのネーミングなわけだから……。猫ならまだしも、ウサギとは……。まあ、インパクトが強烈なわりに、「ウサ」という語感(音)のちょっと不思議な柔らかい感じとか、一息でフルネーム発音できそうな適度な短さとか、名前の憶えやすさとか、役柄によく合いそうなところとか、全体としてはその奇抜さはおそらく有利に働いている。とても良い名前であることは確かだ。
  その評価のされ方は、一時期の「みる」氏に近いかもしれない。芝居の方向性こそまったく違うものの、その個性の唯一無二の代えの利かなさとか、一見柔和で可愛らしい雰囲気がきつめの毒を絶妙に中和し(ているかのように聴かせ)ているところとか、スウィートな妹系キャラを頻繁に演じられるわりに芝居の中味は――そしてどうやらご本人も――意外なほどクールで恬淡としているところとか、まあ、そんな一連の要素から来るおおまかな印象論として、そう感じる。


  ああ、そうか、「闇スーパー○○」とか「究極三角(アルティメットサンカク)」とかの言語感覚は、かの「最終鬼畜兵器」とか「特別戦闘部隊」とか「未来改竄素敵計画」とかのあれに似てるんだ! いや、私はシューターとしてはそんなたいした腕でもないので、それらのシーンを実際に見たことは少ないけど。



  06/02(Thu)
  食事時などに聴き返して「Iチョ」をまた一周したので、これも次回は概要を書こうかな。
  そろそろ何の分野のブログか分からなくなりそうだが。


  うーむ、こんなにも純朴で天然なキャラクターをここまで真正面から堂々と、照れも衒いもなしに悠揚迫らぬペースで真に迫って情感を込めた芝居をされるとは、木村氏は、天才なのか、それとも、もしかしたらご本人がとんでもない天然ででもあるのか……。


  卯衣ヴォイスを聴くことは、私の精神衛生にとても良い。人生幸せ。


  波奈束(沢村)氏も、よくもまあこんなにも楽しげに、いろいろな芝居の引出を縦横無尽融通無碍に開けまくる方ですこと。聴いていて幸せ。


  そんなこんなで声優諸氏の芝居が凄すぎて、今この体験は自分が何を聴いているということを意味しているのか、自分は何故これほど素晴らしいものを聴くことが許されているのかも分からないくらいの、妙なゾーンに意識が入りつつあって、さっきまでの満面の笑みが硬直しつつある。ゲームは怖ろしい。芝居は怖ろしい。もはやほとんど邪魔者にすらなりつつあるBGMの存在が、その介在によって私の意識をほんの少しだけ掻き乱し和らげてくれなかったら、いったいどうなっていたことだろうか。



  06/01(Wed)
  ここ十年ほどで、文庫を読むことがめっきり減ったように思う。高校生の頃は文庫本を大量に読んでいたし、それなりの分量をカバーしてきたのだが、近年の文庫は端的に読みづらいので気が進まない。もちろん書かれた内容の問題ではなく、「文字が大きくなって、全体に白っぽく、のっぺりしている」「それなのに行間は狭くて、文章の流れがつかみにくい(つまり隣の行と近すぎて、目がズレやすい)」という紙面設計のせいだ。店頭で、良さそうなタイトルを手に取っても、ペラッとめくってみると読む気が削がれてしまう。
  これが昔の――前世紀の――文庫本であれば、もっと字間がぎっしり詰まっていて、その一方で行間はわりと広く、したがって一定以上の速読能力のある読者にとっては一目で大量の文章を正確に視認できるという意味で、非常に好都合だった。たしかに文字が大きいというのは、表面的には「読みやすい(つまり、一つ一つの文字を目で認識しやすい)」のだが、しかし、全体としての文章を読む場合には、ある程度小さめの方が、可読性は高くなるし、また紙面それ自体が引き締まったものになるのだ。行間についても、最近の文庫本は狭すぎて、縦書きの「列」として認識しづらい。もしかしたら、私の読書経験がその時代のレイアウトに最適化されている――そして最近の文庫本をよく読む人たちは、最近のレイアウトに慣れ親しんでいる――という側面もあるかもしれないが。出来るならば、昔のデザインの文庫本を読みふけりたいのだが、最近ではもう古本市場でもその時代のものはずいぶん減ってきてしまった。
  実はLN文庫の方が、一般の文庫シリーズよりも行間隔などのレイアウトが引き締まっていて読みやすいことが多い。上記のように文庫本の文字が大きくなったのは、おそらく高齢者への配慮のためであり、しかるにLN文庫は基本的に若年読者層をターゲットにしているため、そうした配慮をする必要が無い(あるいは比較的薄い)からだろう。
  さらに言えば、専門書こそは最高のデザインだ。字間は適度な間隔で、そして行間はゆったりと取られていて、とにかく読みやすい。専門書は基本的には速読するものではないが、速読するのにも十分適しているだろう。そしてもちろん、精読する際にも、文章に集中しやすい。四方の余白も大きいので、(私は書き込みはしないけれど)多少のメモを書き込むこともできる。同様に、新書もまだ比較的マシだ。

恣意的に取り出してきた数冊。上の専門書は、52文字×19行。右下は、1994年に刊行された新潮文庫の一冊。41文字×17行。左下は、元は同じく1994年に出版された新潮文庫だが、2014年に改版された別の一冊。判型は同じだが、こちらは38文字×16行。この画像で見比べるだけでも、かなり印象が(そして読みやすさが)異なるのが分かるだろう。ちなみに、文字数で比べると、下の文庫本2冊はそれぞれ697文字/608文字。文字数比較で87%になっている。

ベタに『かんごくのたんじょう』(検索避け)あたりにしようかと思ったんだけど、あれは二段組みだったので。



  その点、PCゲームはテキスト可読性配慮もずいぶん行き届いているので、わりと安心して読めることが多い。ありがたい話だ。中には、左右にべったり広がっていたり、読みづらいフォントだったりするものも、稀に出てくるけれど。

  じゃあ、お前のこのブログはどうなんだということになるが、実は――ごめんなさい――もうちょっと行間を空けた方がいいだろうなと思ったので、line-heightを少しだけ上げてみた(1.4→1.6)。このせいで、いろいろなところのレイアウトが崩れてしまう危険があるので、様子を見て回るつもりだが。行間を空けると、掲載画像の右脇に付けるキャプションの行数が減る(つまり書ける文章量が減ってしまう)のが困りもの。

  webラジオを聴きながら数時間掛けて、過去記事のキャプション部分のズレなどを修正。
  これで多少は読みやすk…うーん、どうなんだろう。縦書きと横書きでも違うしなあ……。

  特別の専門的知識を必要としない文章を、一言一句飛ばさずに(一応きちんと)読むくらいのペースだったら、文庫本サイズで分速4ページくらいだろうか。関連情報をチェックするための流し読み(skim)だったら何倍にもなる(おおまかに「そのページにはどんなことが書いてあるらしいか」を認識するだけなら、2秒かそこらで進んでいける)し、逆に文学作品や哲学書などの精読や講読であれば一ページに一時間掛けることだってある(それどころか、ほんの数十ページのテキストに関する研究で一人の学者の一生涯を掛けることすらある)ので、一括りにして「速度」だけを問うても無意味だが。いずれにせよ文系大学教員としては、べつにけっして速くはないと思う。いや、比べたことは無いけど。ピンキリだし。


  漫画雑誌の事故というと、たしか『JIN』(江戸の医師漫画)のラストページで、主人公がシリアスな表情で「フグ中毒!」と叫んでいる次のページに並んで、『ふぐマン』(下ネタギャグ漫画)の扉絵ページが載っていたというのが……。あれは事故ではなく、「スーパージャンプ」編集部が意図的にやらかしたネタだと思うけど。その号の雑誌はまだ自宅のどこかにある筈。


  漫画や小説などの二次創作では、原作に関する原作者の権利とは別個独自に、当該二次創作作品に関する二次創作者に著作権が発生するけれど、しかしながら、ある作品に登場する武装等を(おそらくは「忠実に」)3Dモデリングしただけの場合、その創作性はかなり微妙なんじゃなかろうか。現行法上の評価如何はともかく、社会的には、3Dモデラーがその造形(の特定の形で出力された表現)に関して排他的な利用資格を持ちうるという主張には、釈然としない人も多そうだ。アウトプットがいかに「忠実」でも、3Dへのリデザインや独自のデジタルデータの構築という観点で、おそらく一応それなりに創作性が認められる余地はあるのだろうけれど。
  似たような例で、ゲームの攻略情報について、自サイトからの転載に対して攻撃的に振舞っているアレな人物についても、同様の疑念がある。各ユニットのステータス数値などの、解釈の余地がかなり低いと思われる情報を、しかも、おそらくは通常のプレイからの帰納ではなくゲームデータの解析によって得ているものなので、それらに対して攻略屋が自分自身の権利を主張する資格があるのかどうかは、きわめて疑わしい。
  模型の場合はどうだろうか。ある特定のキットについて、ネット上の先行作品を参考にした自作を公開する場合、一般的なスケモであれば、「資料として参考にした」のであれ「工程を模倣した」のであれ、おそらく問題にはならないだろう(――ただし、独自考証のできない初級者と見做されはするだろう)。しかし、例えば、考証とは無関係な独自のカラーリングをしていた場合には、参照元を明示していないかぎり、剽窃として非難されるだろう。


  【 男の娘雑感 】
  「本当のことを言おうか。実は男の娘なんか、全然興味ないんだ」(小杉ヴォイスで)
  いやほんとうに私は、「男の娘」や「男の娘主人公」のことは、べつに好きでもなんでもないようだ。つまり、その要素によってプレイ意欲が刺激されたことは、おそらく一度も無い。「男の娘主人公」が受けている事情や、多用されている合理性は、理解しているつもりだが。すなわち、「最も露出の多いキャラ(つまり主人公キャラ)を美少女らしい外見にしつつ、それでいて男性的な心理/生理を備えたキャラであり続ける」というのが、「男の娘」主人公の中心的意義だろうし、それ以外にも「ヒロインたちに対して受けに回る関係にさせやすい」、「主人公自身に、ユーザーが受け入れやすい秘密(困難)を持たせることができる」、「一枚絵(とりわけアダルトシーン)でも主人公を堂々とフレームインできる」、「女子学園に入学できる(=女性ばかりの空間に堂々と立ち入ることができる)」といった様々なアドヴァンテージを利用できる可能性がある。
  いやまあしかし、いずれにせよ、夏彦氏原画の新作なのでプレイしたいとは思う。

  女装主人公の『ねがぽじ』(2001)は、そして現代的な男の娘主人公ものの嚆矢とされるであろう『おとぼく』(2005)は、実際にはそのエピゴーネンたちとはずいぶん異なった趣のキャラクターなのだが。男の娘ジャンルも、十年以上を閲して様々に変容と展開を遂げてきているのだ。

  そういえば、今では「男の娘ヒロイン」よりも「男の娘主人公」の方が人数が多いくらいかもしれない。男の娘ヒロインは、古くはCAGE(例:『恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうの』)以来、継続的に取り上げてきたのはXANADU系列(例:『ツイ☆てる』)と脳内彼女(例:『女装山脈』)くらいのもので、大多数のメーカーは男の娘ヒロインの起用に消極的だし、登場させたとしても依然としてしばしばスキャンダラスな扱いを受けるし、ましてや男の娘キャラクターが「攻」になる(つまり主人公が「受」になる)ものはほぼ皆無だろう(――もしかしたら、この点でユーザーの意識は、『はなマルッ!』『はぴねす!』の頃からほとんど変わっていないのかもしれない)。サブキャラとしてファッション的に登場させてお茶を濁している例が非常に多く、男の娘キャラをヒロインに据えるのは現在でもほんのいくつかのブランドがニッチ的に敢行するに留まっているようだ。

  その一方で、女性キャラクターの後発的な男性化(二成化)だと、TriangleTinkerbell(とりわけ『淫妖蟲』シリーズ)がわりと執拗に繰り返しているが、これもきわめて珍しいニッチシチュだ。……いや、もしかしたら変身ヒロインものではわりとポピュラーなのかもしれないが。


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  うーん、どうかなあ。「見える部分だけ過剰に盛った欠陥ゲーを出して、売り抜け」るというのは、一見するとそういうことが出来てしまいそうだけど、実際にはそんなことは出来ないし、仮に実行してもメリットは無いように思える。そう考える理由は:
  まず前提として、ユーザーに十分な期待をさせて「売り抜け」るためには、キャラデザやコンセプトや序盤展開(体験版)をよほどハイクオリティに制作しなければいけない。しかし、それらをハイクオリティに作るという段階ですでに、相当のコストが発生している。ウケそうなコンセプトの案出、人気のある原画家や脚本家の確保、訴求力のあるキャラデザを練り上げる労力、高度な技術的演出を実行できるだけのプログラマー/エンジンの調達、等々。それだけの高いコストを支払って、「売り抜け」が成功するであろうと確信できるくらいのクオリティになったならば、そこで手抜きに走ってしまう方が頭がおかしい。そのままきちんと完成まで持って行ってきちんと売りきって評判を得る方が、はるかに得になる筈だろう。それほどの企画を途中放棄して、後半部分を偽装レベルに手抜きさせたならば、たしかに短期的には100万円単位の費用が浮くであろうが、そこでもたらされる「悪評」という損失は、長期的にみて相当なダメージになるにちがいない。例えば、そこで制作参加した外注スタッフ(特に名前が露出する原画家と脚本家)は、故意の詐欺的企画のために名前を傷つけられたわけだから、当然ながら業界内に悪評をどんどん拡散させるだろう。また、プログラマーたちの人的ネットワークに事態が伝わったら、腕利きのプログラミングによる卓抜なデジタル演出は、もはや望めなくなるだろう。音響制作側(BGM/OPの作曲家、声優および声優事務所、収録会社)も、二度とその者の企画に関わろうとはしないだろう。つまり、仮に「売り抜け」に成功したとしても、二度目は無い。
  それどころか、その第一作を完成させて製品版を販売することすら、可能などうか疑わしい。明らかに欺瞞的な企画であれば、原画や脚本などの基幹スタッフはすぐに気付くだろう。そして、自身の被害――評判上のダメージ、完成しないかもしれないリスク、報酬が支払われない危険性――を最小化するために、早急に見切りをつけて制作途中で離脱する可能性が高い。そうすると、そもそも第一作を、完成どころか最低限の体裁を整えることすら出来なくなるかもしれない。「見える部分だけ過剰に盛」ることすら、出来なくなるということだ。また、流通サイドもすぐに気付くだろうし、そうすれば広報上の支援も即座に打ち切られるだろう。それでは売れるはずがない。ユーザーも、情報が途切れたり極端にサンプルCGが少なかったり、広報の動きが怪しかったり、不穏なリークが流れたりすれば、そんな商品は予約もしないだろう。
  また、そもそも「売り抜け」が出来るという見込みを得ることすら、しばしば困難だろう。そんなことが確実に予測できるようなら(以下略)。ましてや、実際に「売り抜け」が出来なかったら、当人は自身の人生の時間を無駄にして悪評を撒き散らしただけで終わる。そんなリスクを負ってまで、そんな不誠実な制作をしようと思うだろうか。そもそもアダルト系業界にわざわざ来ようとする人は、多かれ少なかれ「好きでやっている」人たちばかりだろう。今時、ミーハーや山師根性でアダルトゲーム業界に足を踏み入れる者がそうそういるとは思えない。
  要するに、ゲーム開発は多くの人々が関わる集団作業なので、そんな邪悪な行為はそうそう実行できないだろうし、実行しても成功する(売り抜けて儲ける)可能性はきわめて低いし、発売まで漕ぎ着けたとしてもその後は無いだろう。そして、ユーザーはそのような欺瞞的商売に引っかかることは無いだろう。ハイリスクローリターンの典型だ。
  もちろん、可能性が絶無だということは無く、『アイ参』のような実例はあるが、しかしあれは本当の本当に例外的な事件だし、ほとんどのユーザーは事前にはっきりと事態を察知していただろうし、そもそもあれはもう8年も前のことだ。アダルトゲーム業界が未整備で見通しがしなかった00年代初頭ならば、そうしたことが実行できた可能性は高かったろうが、現在ではまず無理だろう。また、意図的にではなく結果的に(なんらかの不幸な事情で)、後半の制作が息切れしてしまったタイトルはたしかにあ少なからずある。しかし、そうした場合は、意図的に手抜きした場合とは事情が異なるし、仮にやむを得ない事情のせいだったとしても、残念ながら彼等が次のチャンスを持てる可能性はそう高くないだろう。

  ちなみに、『アイ参』のせいなのかどうなのかは存じ上げないが、悲しいことに、黒木氏は『アイ参』を最後にキャリアが途切れてしまっている。それ以前にCLOCKUPで何本か書いていたマンサク氏も同様。浅生氏だけは――あのタイトルにどのように関わっていたのかは知らないが――現在でもCLOCKUPを中心に健筆を振るっている。


  『まじのコンプレックス』では、真路乃が「現実の戦争でたくさんの悲惨な人死にがあったことは、ミリオタならみんな深く心に刻んでいるんだ、それが分かっていないミリオタなんかいない」(大意)と言っていたけど、残念ながら、現実のミリオタにはそういうことを忘れ去っているかのような(あるいはその事実を踏みにじることを意味するような)ことを口にする者はそこそこいるのだよね……。例えば雑誌の謳い文句で兵器の勇壮さをアピールしたり特定の作戦の「意義」を語ろうとしたりする時に、そうした事実を本来あるべからざる仕方で美化してしまっている箇所は、残念ながら、少なからずあるのだ。まさにそのように善意(?)によって――あるいはもっと即物的に、誌面の宣伝文句として――戦争行為の肯定的側面を見出そうとすることこそが問題なのだが。
  例えば、まさに今日たまたま目にしたフレーズを挙げると、ある戦艦について、「ただ軍港に眠ったまま終戦を迎えるのではなく、実戦の場に出られたことで軍艦としての本分を全うできたのは幸せだっただろう」といったようなことを述べた場合、これははたして社会的に見て適切な評価姿勢だろうか? 単なる兵器である軍艦を、ここでまるでなにか主体性を持つアクターであるかのように、まるで幸不幸を感じる主体であるかのように述べて、いわば擬人化しつつ美化することによって、そのレトリックの下で、それに関わった(敵味方双方の)人間の存在が――そして彼等の大量の死が――抹消されてしまっていないか。戦争における死を忘れるとは、そういう歪曲的美化のことではないのか。
  そんなこんなで、やっぱり私はミリタリー趣味には付き合いきれないところがあって、せいぜい「昭和期に大量に造営された、無用の長物として何もせずに終わっていたらよかった、物珍しくも超高額な動くハコモノども」としての軍艦たちの珍妙怪奇複雑面妖な造形を、小さな模型にして眺めて楽しむくらいがちょうど良かった。


  [ www.youtube.com/watch?v=sc_O_9bIWog ](※公式動画)
  気分を変えるために、延々続くしよーもないボケまくり漫才を視聴して和もう……というはずだったが、神代氏の、人間味をきれいに抹消してみせた芝居に息を呑む。異才の凄味。
  あ、卯衣氏は、今回は一言しか喋ってないや。