2016/05/31

2016年5月の雑記

  2016年5月の雑記。(→6月4月


  05/30(Mon)
  来週で、このブログも丸3年。そして6月5日の到来。
  ろくがつごんちさんと、ほとけのはたみやさん。


  PcsWA移行の件は、見る場所を間違えていただけのようだ。ggl+アカウントの、「プロフィール」→「フォト」コーナーにはすべて反映されていた。とりあえず一安心。
  現在まで、このブログでは画像557枚、旧ブログでも323枚をアップロードしていたようだ。旧ブログから通算して4年7ヶ月(53ヶ月)で880枚、一ヶ月あたり16.6枚、2日に1枚とは、意外なほどのハイペースだ。とはいえ、「背面立ち絵」や「インターフェイスデザイン」のような30枚級~50枚級の記事を2ヶ月に一本書くくらいのペースだと考えればそれほどたいしたものではないし、また、資料性を考慮したブログなので、必要性のある引用として成立しているかぎり、枚数の多さは基本的には良いことだと考えてよいだろう。

  これまで掲載した画像をざっと見ていて、『シンシア』でもプラモと作中映像との比較をしていたのを思い出した(別掲「『シンシア』とF-14」)。半年前から、やることが全然変わってない……。そういえば、今の私の制作技術だったら、『LEVEL JUSTICE』の「幸福王子」もそれなりの形に作れるかもしれない。作中で見えるのは(=作るのは)上半身だけだから、そんなに大掛かりなものにもならないだろうし。市街表現にはまたGEOCRAPERを使って、「秘密結社 兄メイト」「地球防衛火災」「阿倍野生命」「有限会社伽羅」などの看板を適当につければいい。


  イベントの映像で、声優さんたちが手をつなぎながら甘いデュエットを歌ったりしているのを見ると、目が潤んでしまいそうになるくらい感動するのだけど、しかし自分が観衆の一人としてその現場に参加してコールしたりサイリウムを振ったりするというのはまったく考えられない。ライヴで音楽を聴いたり演劇を観たりするのは、私にとってはあくまで(少なくとも身体的には)受動的な営みだ。クラシックのコンサートでも、もちろん拍手くらいはするが、それは演奏と一体になった行為ではなく、演奏終了後の儀礼的な行為にすぎないわけだし。また、終演後しばらく椅子から立てないくらい音楽的感興に浸っていたことはあっても、たとえば「感動で叫びたくなる」とか「感動を共有したくなる」といったような気持ちになることはまったく無い。集団の匿名的一部になって情動的に何かをするということが致命的に苦手だ。
  多少似たような例として、twで声優さんにリプライを出しているファンの人たちを見ても、「直接一対一のコメントをし合って返事をもらえるというのは、真に羨むべき貴重な出来事なのだ」と理解してはいても、羨む気持ちはどうしても湧いてこなくて、時折見に行っても、いつも別世界のことのように感じている。webラジオにメール投稿をしないのも、同じことだろう。

  可能ならば感謝、賛嘆、お祝い、等々の好意的な言葉をできるだけ送った方が、そうしたリアクションを受け取る声優さん自身としてもきっと嬉しいのだろう(励みになる筈だ)けれど、そのための手段を放棄(自発的に停止)しているので、そもそもどうしようもない。

  twに関しては、先日ログインしたのは本当の例外的事情であって、普段はせいぜい十人足らずの方々を定期的に拝見している(プラスそこから派生する範囲で個別アカウントを適当に見に行ったりする)程度で、そこで何かをするということは皆無になっている。まあ、そうして視界に入る範囲では、たまにこの雑記でも(あくまでプライヴェートに)感想を書き残したりしているが。
  tw内検索をすることはあるし、その際に余計なもの(反復投稿や宣伝アカウント、不快なものなど)を見ないようにするためにログイン利用をするのはアリかもしれない――そういう嫌な思いをしたのがtwを止めた理由の一つだった――が、そもそもインターフェイスもどんどん気に入らない方向に進んだし、最近では各所に宣伝も挟まるようになってきたので、不同意の表明として、twのアクティヴアカウント数を増やしてやりたくないという思いもあって――そしてこちらも、tw利用を止めた理由の一つだ――、今のところ実行せずにいる。


  首尾一貫した文章にするのは大変だから、いっそ大学のレジュメ式に項目およびそれぞれの要旨とテーブルだけを列記した記事にしちゃってもいいんじゃないかと思えてきた。ある程度理解力のある人には、その方が高速かつ構造的に論旨全体を把握できるだろうし。
  もちろん、そうしたアプローチをすると、記述のデリケートな部分がすっぽり失われるし、論述がきちんと詰められないままに終わるし、とにかく論述全体のポテンシャルが浅いものになってしまうので、絶対にすべきではないが。レジュメ作成の効用は、教員サイドの場合は学生に対して見取図を提供する(そして個々の議論の実質的部分は口頭で詳細に説明していく)ためだし、学生にやらせる場合は学生自身に議論の腑分けを意識した読み込みをさせる目的と、発表を安全に遂行するガイドを当人自身に作らせる目的がある。
  まあ、数量の多い例示をする場合や、そうした例示で複数のパラメータの連動(例えば時系列)を明示したい場合には、部分的にリスト形式にしておく方が適切な対処になる。


  小鳥居氏、やっぱりちょっと苦手かも……。こちらの分野にも積極的に出演されていて、それはそれで素晴らしいのだけど、芯のありすぎる声はちょっと聴き疲れしてしまうので。


  このブログに動画を投稿(アップロード)したらどんな感じになるのだろうか。動画投稿ボタンが出ているのに、一度も試したことが無かった。GIFアニメだとどうなるのかも気になる。




  05/28(Sat)
  AUGUSTは、最初の2作『バイナリィ・ポット』『Princess Holiday』(ともに2002年発売)がそれなりに好評を博して、2003年の『月は東に』が力作で――ラジオなどにも力を掛けて――、そして『夜明け前より』(2005~2009)を執拗に売り込んでブランドイメージを確立させた、といった認識でいいのかな。その次の『FA』(2008)までは3連続で学園ものだったが、それ以降は学園ものに拘らないコンセプトでいろいろな路線に挑戦している。
  演出面でも、最先端に立つことはほとんど無いが、新しい技法をトップランナーの半歩遅れできちんと取り込んできている。他社研究もしっかり行なっているということだろうし、新しいアイデアの普及/浸透に度々関わってきているので、演出論でも立ち入った検討をする際には何度も言及することになった。


  NR赤城関連は、「映像との比較」「完成写真」ページまで仕上げた。これでおしまい。
  制作中は、大橋氏のアルバムを何度も聴いていた。感謝しつつひそかに献辞を申し述べたい。
  「コンナノ要ラネーヨ!」と言われそうだが。

  「特殊な画風」の記事も早急に書き上げたいが、実証面の収集も理論面の展望もろくに得られていないので、結構手間が掛かってしまうかも。


  新作フルプライス作品だと20時間以上、コンプリートするのに3日掛かるとすれば、一ヶ月でざっと7万円ほど掛かる。しかし、廉価再販、旧作セットもの、旧作DL販売などを含めれば、月3~5万円程度もあればプレイしきれないほどの本数を継続入手することができる。プレイ済みのものを中古売却するならば尚更。……あれ、ゲーム三昧生活は意外とお安い?


  [ live.nicovideo.jp/watch/lv264145812 ]
  うーん、ここの会員登録はしたくないんだが……どうしようかな。


  [ www.youtube.com/watch?v=pHowybgTH-E ](4:44~)
  「実は言ってなかったんだけど、萌花ちょこはね、『萌花ちょこ』で一つなので、名字とか名前とかじゃないの。(…)『萌花ちょこ』は一つでワンワード! (…)だから『萌花さん』とか『ちょこさん』とかじゃないの、実は」。
  な、なんだってー! ということで過去の言及も全部修正しておこう。


  駄洒落をよく言う(or言いそうな)キャラクターの台詞という体裁で自作の駄洒落を吹かすのは、せこいと思う。駄洒落だろうが何だろうが、あくまで自分の言葉として、自分一人の責任で発言して、そして、つまらなければ自分自身がばっさり斬られるべきだと思う。(うぐぅ)
  同じように考えれば、(発売延期などの)お詫びの言葉を、本来責任を持って言うべき社内の責任者の名の下に公開するのではなく、キャラクターの口で(例えば延期お詫びイラストで)言わせるのも、やはり卑怯だということになりそうだ。ただし、それに対して、「どんな場面でもできるかぎりキャラクターを登場させるべきだ(ユーザーへの露出機会を増やすのは良いことだ)」といった評価軸や、「イラストもタダで出来ているわけではなく、新規イラストをユーザー向けに公開するのは、コストを掛けた行為である(つまり、相応の追加的負担を制作側が現に引き受けている)」という認識があるので、不当だと見做されることはほとんど無いようだ。私自身、お詫びイラストについては、べつに批判したいとは思わない。
  しかし、政治的な発言など、社会的影響を及ぼそうとする者が、キャラクターの蓑の下に隠れて自らの主張を提起するのは、厳に慎まれるべきだし、そしてそのような主張に対しては最大限の警戒をもって接するべきだろう。
  それでは自分の欲望をフィクション内の行動に投影するのはどうなのかという問も出てきそうだが、そちらは他人に対する社会的アクションではないので、上の諸事例とは別問題になる。



  05/26(Thu)
  先日のNR赤城で、この一年間の模型欲が満たされた(昇華された)かも。満足感と憔悴とで、この数日間、制作の意欲もキットへの興味も全然湧かない。そろそろゲーマーライフに本格復帰できそう。来月末にはSHC新作も発売されることだし、ちょうど良いタイミングになった。


  【 ツインテール考 】
  ツインテールで黒髪や茶髪だと、どうしても画面は重たくなりがちだ。顔の両横に大きなボリュームを作るヘアスタイルなので、髪の色が濃い(=重く見える)と、その圧力も相当なものになる。ロングヘアならば背中に広がっているだけなので正面からは目立たないが、言うなればその頭髪量をわざわざ頭に両脇に見せびらかしているようなものだ。ましてや、そのツインテに派手な動きをつけたりしたら相当鬱陶しい絵になる。アダルトゲームで早々に「金髪+ツインテ」が支配的になったのは、自然なことだろう。
  AVG(ゲーム)であれば画面レイアウトにも左右の余裕があるのでゴージャスなツインテールキャラを登場させやすいが、漫画の場合はコマの制約があるので、ツインテールそのものがさらに難しいと思われる。モノクロ漫画の場合は、黒ベタのほかにも白抜きで表現してしまえる余地があるし、もちろんトーンワークでグレーのようにすることもできるが、いずれにしてもツインテールは短め(あるいはかなり細め)になりがちだろう。アニメでも、動きが見えやすい(=誤魔化しが効きにくい)ところに髪が広がっているわけだから、作画は面倒になる(――さらに巻き髪ツインテールになると、相当きついと思われる。それでも「藤堂ユリカ」「神崎蘭子」などの実例はあるが)。とはいえ、アニメでの「黒髪」はたいていは真っ黒などではなく、実際にはそれなりに明るめのグレーで表現しても「黒髪」の範疇で受け止められるので、重たさという問題はそれなりに解消できる。

  「アダルトゲームにおけるツインテール」を包括的に捉え直すのは大変だ。誰か、体系的/統計的に整理している方はいないものだろうか。一応、EGScapeには「ツインテール」POVがあるので、そのあたりから5時間も掘り返していけばおおまかな見通しを得ることはできると思うが。

  それと同様に、アダルトゲームでSDがいつ頃からどのように普及していったかを整理するのも、非常に難しい。只今書きかけの記事でも取り上げる予定だが、私の場合は、ほんのいくつかの目立った「点」をピックアップするのがせいぜいで、つながりのある「線」での、あるいは他のパラメータと合わせた「面」での展望を持つのは、とても無理だ。たぶん、ことみ氏と娘太丸氏がパイオニアで、2001年の『君望』(「遥伝説」シリーズ)が大きなインパクトを与えて、00年代半ばからのういんどみる(葉賀氏と成瀬氏)の継続的活動を経て、10年代に入ると広瀬氏(『恋色空模様』以降)のようなSD専業イラストレーターが出てきて一気にSD使用が増加した、という感じで考えているが、これが妥当なのかどうかよく分からない。まだまだ見落としがありそう。


  うわあ……geocitiesの記事もどんどん消滅していっているなあ……。
  デジタル時代では、歴史史料の消滅も早い。


  SNSなどで「今年は『○○』発売から××年ですよ」などといった問わず語りめかしつつ聞かせたがっている口ぶりで書いているような人は、まず間違いなく、それを見た人がおそらく傷つくであろうことをはっきり予期しつつ(そしてそうなることを期待しつつ)書いているわけだから、そういう類の人はとっととブロックして構わないと思う。しかもそれは、他人の過去の良き思い出を弄ぶ行為でもあるのだから。


  getchuの「原画」「シナリオ」欄はともに「カノジョ*ステップ制作部」……なんだそりゃ。
  絵を見て「あれ、3D?」と錯覚してしまったのは内緒。

  最近のモデリング技術(つまり、モデリングに使えるツールの充実や、オタクイラストらしいチューニングノウハウの普及)を見ると、完全な3Dエンジン制御のゲームでなくとも、3Dモデリングされた立ち絵や一枚絵で画像素材制作するのも、そろそろアリになってきたかもしれない。レイアウトの自由度、全体のクオリティ確保、制作容易化(主に速度面)といったメリットは大きいだろう。また、2D原画のように特定個人の個性――替えの効かない要素でありスケジュール面でもリスクを抱えることになる――に依存することが無くなり、3Dツールを使える最低限のスキルさえあれば、複数のスタッフが同一のクオリティで成果物やノウハウを共有できるというアドヴァンテージもある。
  ただし、キャラクターに関しては同一の3Dモデルから様々なかたちに拡張していけるとしても、どうしても背景作画は3Dではコストダウンできない(――既存の汎用素材を使えるならば別だが)。また、原画家のネームバリューが効かないというのも、この分野ではもったいない点だろう。
  この点で、『セイクリッド・プルーム』(2003)はわりと上手くバランスが取れていたと思う。MA@YA氏のキャラデザは萌えキャラ画像として非常に洗練されているし、それをベースとした3Dキャラモデルを使って、2D静止画としての立ち絵や一枚絵を作り出している。たいへんユニークなアプローチであり、実際、隙のない3Dモデルを使っているので、立ち絵のポージングも多彩だし骨格の安定感もあるし、一枚絵の空間的レイアウトも効果的に見せている。



  05/24(Tue)
  新記事:「1/700『ネウロイ化赤城』模型」。完成写真はまだだが。
  とりあえず、「私に出来ること~♪」を、ようやく一つやり遂げることができた。

  とはいえ、実はあのアニメのことは、そんなに良い作品とも思わない。脚本もわりと粗があるし、映像演出もたるいしで、声優陣の働きが無かったらこんなに観ていなかっただろう。あの声優さんを知るきっかけになったり、あの声優さんの芝居をたくさん聴けたりしたので、もちろん大いに感謝はしているけれど。


  9月まで飛んでしまった『レイルバック』、買う意思はすでに固めているのだけど、キャストは早いうちに公開してくれたらなあ……。


  昨日書いたようなものを集めて、「声優個々人の特質についてのコメント集」や「原画家の~」のページを独立させようかと思ったが……これはずいぶん以前にも、一度着想したが「きっと恥ずかしいことになる」というのに気付いて取り止めたアイデアだった。雑記全体を遡って再編集するのがかなり大変だというのもある。様々な分野のクリエイターについて、言葉でこんなふうに語ることができるというサンプル集にはなると思うけど、それでどうなるというものでもないし……。


  【 キャラクターイラストと背景の有無 】
  最近、白背景にキャラだけが浮いている絵が苦手になってきた。
  無地背景には、キャラクターをはっきり際立たせる効果があるというのは、私も理解している。しかし、よほどきちんとレイアウトを作っていなければ「何も描かれていない(絵の一部になっていない)単なる余白」で終わってしまう。背景を描くことにより、紙面が色彩的造形的に豊かになるだけでなく、画面構成はよりいっそう複雑精緻なものになることができ、レイアウトはよりいっそう明確なものになり、そしてキャラクターはその周囲の世界の雰囲気とともにあることになる。
  また、大地の重力からも筋肉の力みからも自由になったキャライラストには、開放的な雰囲気と親しみやすさがあるというのも、一応理解している。しかし、キャラクターの絵は、色と配置の美的構成のみで成立しているものではない。キャラクターが、重心を持った存在であるように、そして中身の詰まったオブジェクトであるように描けば、その絵は、キャラクターが具体的な空間の中にまさに生きているかのような鮮やかな印象を形作っていく。
  この観点では、アダルトゲームの一枚絵(イベントCG)にきわめて大きなアドヴァンテージがある。背景部分までしっかりと描かれており、しかもきわめて高品質な着彩で完成されているオタクイラストを、これほど大量に享受できる分野は、他にはほとんど存在しない。アニメのように動画化を前提として簡略化された絵でもなく、LNのように白背景のキャラ絵や描き込みの薄い単色挿絵でもなく、漫画のように細かく分割された単色のコマ絵でもなく、ネットイラストや同人ゲームとは比較にならないクオリティできちんと塗られている。望むならばPCディスプレイ全体に拡大することができ、それでもけっして粗が出ない精密さの、キャラクターとその周囲の空間を一体として、しかもそれときちんと対応した物語進行の中で、色彩感豊かで丁寧にクリンアップされたイラストを鑑賞していくことができる。これは現代日本のコンピュータAVGの大きなアドヴァンテージなのだ。


  【 コンフィグ項目の拡充 】
  一昔前の(00年代半ば頃までの)タイトルには、コンフィグ項目がほとんど無いものもあり、せいぜいON/OFFを切り替えられるとか出力形式を変えられる(例えばBGMをCD-DA再生にするかWAVにするか)くらいで音量調整のできないものも時折あった。だから、ものによっては、音声ボリュームが小さいのにBGMが大きすぎて非常にプレイしづらいということもあったりした(――もちろん、Windows側の音量調整で対応することは出来たが、そちらを個別ゲーム毎にいじるのは、気の進まないことだ)。
  もちろん、00年代半ばでもそのようなタイトルはすでに少数派であり、大部分はBGM/音声/SEのボリューム個別調整を実装していたが。音声ボリュームのキャラクター個別調整は、00年代半ば(2004年頃か。studio e.go!などは00年代初頭から)。クリックしても次の音声が来るまで音声継続するかどうかのオプションは、00年代後半だっただろうか(おそらく黒箱系発祥だろう)。
  その他。フォントオプションは基本的には00年代末(Windows7以降)だが、それ以前からも実例はあった。キャラクター別のテキスト色変更は、戯画がかなり早かった(――例えば『BALDR FORCE』[2002]。幸いにも、あまり広まらなかった手法だが)。SAVEやLOADの確認メッセージのON/OFFコンフィグは、FAVORITE(FVPSエンジン)が比較的早くから導入していたと思うが、それ以外のブランドでも00年代末から急速に普及してきた。いわゆる「コンティニュー」機能、すなわち前回終了した箇所からすぐに再開できる機能は、エロゲについてのあれこれ : [セーブ・ロード] 前回の続きから再開したい ~コンティニュー~によれば、UNiSONSHIFTの『Chu×Chuアイドる』(2007)が早かったようだ。



  05/23(Mon)

  【 アダルトゲームと模型趣味(や、その他の趣味) 】
  アダルトゲームに登場するモデラーといえば、『ゆのはな』のイタリア海軍マニア(春日一族の彼)や、『まじのコンプレックス』の架空戦記作家(兼模型店主の関口氏)、そして最も多いタイプは美少女フィギュアマニア(『ふぃぎゅ@メイト』を初めとして『氷川雫』『PRIMAL×HEARTS』『恋色空模様』等々)……コミカルに誇張された性格表現だというのを考慮しても、どいつもこいつもアレなのは、そういうイメージがついているのだろうか。あるいは、マッドサイエンティストキャラの世俗版のような位置付けなのかもしれない。現実にもモデラー兼任のゲーマーは少なそうだし、スケモやメカ模は美少女ゲームと関連性のある趣味でもないし、それでは関連性がある要素はといったら取り上げやすいのはピグマリオン・コンプレックスなので、わりとステレオタイプ的にそういうキャラクターになりやすいのは仕方ないのだろうか。とはいえ、巨大ロボットが登場するタイトルはそこそこあるし、可能性が無いわけでもないと思うが。

  非オタク的趣味だと、クラシック好きのゲーマーはそこそこいそう。アダルトゲーム(特に白箱系)のBGMはわりと早くから高いクオリティを持つようになっていたし、身体を動かさないインドア派趣味同士でもあるし。舞台趣味の人がもう多かったらいいのだけど、あまりいないかも。

  しかし、音楽にせよ写真にせよ美術にせよ何にせよ、ユーザー間に専門的な議論が展開されるのを見たことはほとんど無い。アダルトゲームはやはり基本的には依然として「若者の趣味」なのかもしれない。つまり、複数の分野について一定以上の深い見識を持てるほどの人はなかなかいないような年代のための趣味なのかもしれない(――とはいえ、一定以上に知的な人であれば、20歳かそこらにもなれば二つ、三つ、あるいは四つの分野について相当の知識を備えているというのもよくあることだが。大学に入学して知り合った友人たちは、自転車マニアだったり超マニアックなクラシックマニアだったり相当の哲学書を読んでいたりいくつもの楽器にどんどんチャレンジしていたりと、18歳にして複数の趣味についてすでに相当の経験を積んでいる人ばかりだった)。


  ああ、やっぱり桐谷氏はいいなあ。こちらに溢れ出してきそうなほどの表現意欲が、その都度の台詞と状況の正確な理解によって完璧にコントロールされていて、しかもそれがアーティスティックな技巧披露だけでなく常に楽しげな雰囲気を志向している。濃密でありながら開放的な、精密でありながらゆとりのある、絶妙の芝居。文字通り「芝居がかった」大袈裟な科白回しではあるのだが、コントロールの精密さと語り口のまろやかさのおかげで作為性の印象はきれいに払拭されて、生きた芝居として成立している。


  萌花ちょこ氏のお声を聴きすぎたのか何なのか、最近ではあまりに自然に耳に馴染んでしまって、初めてプレイする作品の芝居でも、すでにどこかで聴いたことがあったんじゃないかというほどの既視感を覚えることがある。いや、芝居が似通っているという話ではなく、ただその「声」だけの話なのだけど、なんというか、「ずっとずっと昔からこの声を聴いていたような気がする」というような、懐かしさとか既視感をも超えた、鮮明なほどはっきりした手応えの感触。どうやら私の中で、「萌花ちょこヴォイス受容体」が完全に出来上がってしまったようだ。


  木村氏の芝居ってば、とことん邪気が無いなあ……。『明日君』(月野舞)や『まじの』(純真路乃)のような攻撃的な科白でも、すっきりしたドライな後味なので、ちっとも嫌な気分にならない。この方がドス黒い邪悪キャラを演じたらどうなるんだろう……。えーと、『MinDeadBlooD』(園原麻由)とか『DI』(ルサルカ)とか『英雄*戦姫』(黒アーサー)とかか……。どちらかといえば、『Signal Heart』(高司智沙)のようなミステリアスなしたたかキャラとか、『とっぱら』(幸子)のような手に負えないやんちゃキャラの方がしっくり来るかも。陰気寄りのキャラというと、『朝凪のアクアノーツ』(白玉かなか)の悲劇的な役回りももちろん素晴らしい芝居だった。とはいえ、基本的には、風通しのよい陽性な芝居で魅力を発揮されるタイプと言っていいだろう。

  「月野舞」の名前が思い出せなくて、「ツインテールの悪魔」という二つ名しか出てこなかった。

  『明日君』の絵は、よく分からなかった。あの当時のまっぴーらっく.氏は、refeia氏以上に両目の開いたヒラメ顔――と言うんだっけ――に、味気ない「v」字口元で、少々きつかった憶えが。とはいえ、細長く引き締まった胴回りをツイストしたポージングは、非常にしっかりした着衣感と併せてたいへん魅力的だった。頭部の丸っこい立体感が醸し出す愛嬌も面白かったし、手の表情づけにもデリカシーがあった。角度のついた(仰角の)構図でレイアウトを引き立たせていたのも上手かった。最近の絵は、例えば:[ kinakonoyama.x.fc2.com/ ]こんな感じで、いよいよ素晴らしいことになっているようだ。

『明日の君と逢うために』
(c)2007 Purple software
(図1:)立ち絵の様子。美少女ゲームとしてはやや細く長めに描かれた胴体部分は、背中を引き締めて微妙に反ったポーズになっており、立ち絵全身の力学的バランスとそれによるキャラクターの雰囲気を巧みに表現している。制服もそれを引き立たせるようなデザインになっている。
(図2:)一枚絵。こちらも、背中を反らしつつ身体をひねったS字型のシルエットがたいへん魅力的である。また、服の皺や揺らめきが繊細に描き込まれており、身体に密着した着衣感がリアリティを生んでいる。ただし、衣服部分と対比した頭髪部分の描き込みのアンバランスや、直角に尖りすぎている肘先、右手の描き方など、いささかイージーに見える箇所もある。


  声優を、原画家を、クリエイターを、それら一人一人の特質と魅力を、言葉を尽くして語りたい。なかなかうまく出来るものではないが、能力の及ぶかぎり書いていきたい。上で書いたものは、しょせん、一目見て分かる程度のものをなぞっているだけだが。



  05/22(Sun)
  私もこの一ヶ月間はゲームの方が片手間になりつつあったが、それでも一日平均1時間以上はプレイしているし、NR赤城も明日か明後日には(ようやく!)完成させられそうなので、あらためて本格的にゲーマー生活に復帰したい。そろそろSHC新作も体験版が出て、そして来月末には製品版が発売される予定だし。


  「ェ呪いのビデオ」というのは、何を意味しているのだろう。公式サイトのムービー(タイトルロゴ)を見るかぎり、誤植などではなく確かにこの表記で、そして「其の弐/ェ呪いのビデオ」という区切りであることが分かる(――ただし、他のサイトでは「其の弐ェ/呪いのビデオ」と誤記しているところもあるようだ)。しかし……「ェ呪い」って何なんだ? 「ぇのろい」、「ぇまじない」、「ぇじゅい」……分からない。まさか「工口兄ぃ」という意味……でもなさそうだ。


  【 単一名義 】
  一貫して一つだけのお名前でアダルトゲームに出演されている方には、好意と敬意が割増しになってしまう。複数の名義を使い分けている方が良くないということではないし、そもそも一つだけの名義でいるのも複数の名義を持つのも、実態としてはそれぞれにいろいろな事情や考えがあってのことだろうから、それだけでどうこう言うべきものではないが、一人の役者さんを単一の固有名詞の下にアイデンティファイできる――そしてその芝居の功績すべてを、堂々とその一つの名前に帰属させることができる――というのは、ユーザーサイドとしてもたいへん嬉しいことだから。金松氏の芝居はすべて「金松氏」の芝居として呼ぶことができ、かわしま氏の実績は全部「かわしま氏」一人の功績とすることができ、まき氏のあらゆる出演作は「まき氏」に関する話題の中で扱うことができ、草柳氏は草柳氏、一色氏は一色氏、如月氏は如月氏、羽高氏は羽高氏、民安氏は民安氏、鶴屋氏は鶴屋氏、手塚(り)氏は手塚氏、卯衣氏は卯衣氏、八幡氏は八幡氏のお名前のみを呼べばそれですべて足りる。なんと素晴らしいことか。
  もっとも、阿藤魁弥とか蕪木徹子とか成賀くるがとかうえおかあいとか狩奈まえとか車の人とか、そういう遊び心のあるネーミングに時折切り替えている方も、これはこれで楽しそうでいい。


  【 イラスト依頼の話 】
  イラスト制作を依頼する場合、いくらくらいを提示したらいいのかなあと想像してみた。プロ(本業イラストレーター)ではなくアマチュアに依頼するとして、買い取り扱いであれば、カラーイラスト一枚で3万円くらいは出すべきだろうか。そのイラスト1枚に2日掛かるとして、プロであれば「月収40~50万が必要として、月20日労働のうち2日間を消費する」と考えれば4~5万円が妥当かと思う。アマチュアであれば、本業が別にあり、かつ技術料(のようなもの)もそれほど高くつける必要は無かろうから、多少割り引いて3万円くらい。考えの筋道はだいたいこんなところ。
  ざっと調べてみると、商業出版物だと5万円以上のことも多く、逆に同人などのちょっとしたイラストならば1~2万円程度のことも多いようだ。たしかに、余技(趣味)のイラスト制作であれば、土日に一枚描いて1~2万円もらえるなら、そんなに少なくはないだろう。知人同士であれば、1万円くらいのことも多いかもしれない。実際には、「当人がイラスト受注に慣れているか」「当人が描きたいと思える内容か」「当人のイラストの出来」「イラストをどこまで描き込むか(発注側がどのくらいを求めるか)」によって変動すると思うが。

  文章系同人誌でも、ほんの2万円程度掛けて表紙絵を適当なイラストレーターに頼むというのは、十分ありだろう。ただし、自分自身の満足の観点はもちろんのこと、売上げの観点でも場合によっては十分有効だろう。2万円の追加支出があったということは、例えば一部1000円の本であれば、イラスト効果で20部多く売れれば元が取れるわけだから。このプラス20部の上積みが期待できるかどうかは、サークル自身のポテンシャルの問題でもあり、また依頼したイラストレーターの人気にも依存するが……20部というと一見簡単そうだが、相当有名なイラストレーターでないかぎり、「表紙一枚を目当てにわざわざ買いに来る人が20人も現れる」というのは、けっこう難しいかもしれない。しかし、例えばtwフォロワー数の多いイラストレーターさんが、イベント前にほんの数回告知を手伝ってくれるというだけでも、宣伝効果は結構大きいのかもしれない。同じようなことは、合同誌へのイラスト寄稿でも生じるだろう。

  いや、べつに同人誌を作りたいというわけでは……。ただ、内容次第ではあるが、本業サイドのイベントのポスターイラストを(オタク系)イラストレーターに発注するというのは、今だったらわりとアリかなあとも考えている。場合によっては公費で出せるわけだし。「あのイラストレーターさんにこんな趣向のイラストを描いてもらえたら……」という悶々妄想は、わりと実現可能なことなのだ。私自身は、現状ではさしあたり好都合なきっかけはなかなか無いけれど、こういう形での「オタクとしてのお金の有効利用」は、なんとかやってみたいと思っている。

  どちらかといえば、「好きな声優さんにイベントの司会をやってもらう」という方が私の野望なのだが。司会業やナレーターの看板も掲げているという役者(声優)さんは結構いらっしゃるし、そうした方にイベントMCや放送音声を依頼するというのは、もちろんしごく正当な業務内容としてあり得る話なのだ。もちろん、ただ声だけの話ではなく、本職司会業ゆえに進行のクオリティも段違いに向上するわけだし。多少の職権があれば、キャンパス内(とか会社内とか)でくりかえし使用されるアナウンス音声を、本職の声優さんに収録依頼して、そして収録現場でファンレターを、てっててっ手渡すということも……!(赤面) もっとも、司会依頼はわりと高額(事前打ち合わせを合わせると10万円前後)になるらしいので、さしあたりは汎用放送音声の依頼するくらいが良さそうだ。


  日中の室温が30度を超えました。



  05/20(Fri)
  kakao氏原画の新作が制作されているのか。嬉しい。『はにかみ』は絶品だったが、緑茶CGチームのくっきりした彩色がキャラクターのシルエットを際立たせていたというのもある。CGの完成度と魅力は、原画と塗りの相性によって左右されるところも大きいので、今度の作品も上手くいってくれればと思う。
  『はにかみ』でのkakao氏の担当キャラは、「佐伯莉緒」「周防えみる」でいいんだよね?


  『まじのコンプレックス』は、主演の木村氏と友人キャラの美月氏&とまと氏(桐谷氏)がひたすら饒舌に喋りまくっている作品なので、たまにオートモードで流し聴きしているだけでもう楽しいのなんのって。木村氏の華やかで力強い芝居を、超技巧派のお二人がしっかり受け止めて貪欲に展開していくという、あまりにも贅沢な表現空間。脚本は嘘屋佐々木氏。音楽制作も樋口氏なので安心して聴いていられる。


  SHC新作。やった、萌花ちょこ氏の不思議系キャラとはなんと珍しい! 「萌花ちょこ氏が演じた、目を完全に隠したゴーグル(?)キャラ」というと、『英雄*戦姫』のハンムラビを思い出す。
  主人公の経歴の「宇宙軍で五年ほど活動」というくだりで、『DAISOUNAN』の「サムライ・シゲタ(重田勘九郎)」を思い出した。「ルーディニアリーファ種」云々とのキャプションもあり、『DAISOUNAN』と――ひいてはSHC共通世界と――つながっていると思われる。清倉原家とかも出てきそうだ。ちなみに、『DAISOUNAN』は西暦212X年で、『プラネットドラゴン』世界は2300年頃のことだから、今作の方がはるかに後の時代ということになる。『DAISOUNAN』では、宇宙開拓時代における海賊「テンペスト」なる存在の活躍が思わせぶりに述べられていたが、あの布石が今作に反映されるかどうかもちょっと期待している。
  宇宙人といえば、さらに『LEVEL JUSTICE』のDr.ヘルナイト&ルトやんも宇宙人だったという設定だったけど、あれ以降、直接関連のある話は出ていなかったかと思う。考古学者というと『葵屋まっしぐら』の「茨焔」がいたが、今作の「真」姓との関係は今のところ不明。

  出演作をあまりプレイできていないが、萌花ちょこ氏は「根は真面目な元気系キャラ」が多いだろうか。正確には、演じているキャラクターを萌花ちょこ氏がそういう雰囲気に作っていると言うべきだが。クールな職人気質のキャラクターも多いわりに、狼狽演技がとんでもなく楽しげだったりするのも、役者のキャパシティの大きさを窺わせる。華のあるメインヒロインに度々起用されているのも、制作サイドからの信頼があってのことだろう。もちろんユーザー(私)からの信頼と敬意も。


  室温30度を超えたら躊躇せずに冷房を入れようと思っているのだが、ぎりぎり29度や29.5度で踏みとどまっているのがもどかしい。PC排気口からはすでにそれなりの温度の風が出ているので、人体よりもPC保全のためにこそ、過熱は避けたいところなのだが。



  05/19(Thu)
  射幸性の高いあの種のゲームも含めて、私はギャンブルは苦手だなあ。「自分の身銭を切りながら、何も得られない(あるいは、期待したものが入手できない)可能性がある」という状況を理解したうえで支払うということが出来ない。もちろんギャンブルの楽しみとは結果を得ることだけではなく、その場の雰囲気を楽しんだり、その過程にある駆け引きやゲームパートを楽しむことでもあるというのは理解しているが、たぶん私は、金が掛かっている状況で「雰囲気を楽しむ」ということは難しそうだし、ゲームはゲームで純粋に(現実の金銭的変動と無関係に)戦略や勝負を楽しみたいという考えだ。だから、あの種のゲームは、一生涯触れることは無いだろう。
  ただし、まさにこのような吝嗇のゆえに、いくらサンクコストの概念を持っていても、ひとたびギャンブルを実行してしまったら「負けた額を取り戻そうとして躍起になってさらに負け続ける」というパターンに陥ってしまう可能性があるし、あるいは逆に、ビギナーズラックで勝ってしまって損益の見積もりが致命的に狂い、それですぐにマイナスに嵌まってしまうという可能性もあるので、とにかく私は最初から絶対にやらないという姿勢でいるべきだろう。あと、自分には「お金を使う(好きな物を買う)ことでストレス発散する」というメンタリティが確かにあるので、それが実物(商品)入手というリターン抜きでも散財の快楽が成立するようになってしまうという危険もある。
  形式的な類似性だけを抽出するなら、「まだどのような内容かが十分明らかになっていないゲームタイトルを購入する」という行為と、「所持金を投入して、なんらかの(ただし具体的内容までは確定されていない)結果を得られるというデジタル籤引き遊戯を実行する」との違いは無いという捉え方をすることは一応成立する。しかしもちろん、内容の確定性や、コンテンツの一体性(完結性)、行為の反復可能性といった違いがあるので、両者はけっして同じではない。


  私の聴取体験の範囲内で、達成された感興の頂点の高さや、全体的なクオリティへの信頼、芝居の精密さ/創造性/ライヴ感などの特長、そして個人的な耳心地良さなどをいろいろ考慮して言うと、一色氏、北都氏、松永氏、風華氏、木村氏、みすみ氏、陽月氏、桜川氏、波奈束氏、美月氏あたりになるかなあ。個人的な敬意とか愛着とかは極力排した評価として、最高度に卓越した音声表現のプロフェッショナルとして挙げるなら、この方々は外せない。もちろんこの他にも、西田氏、大波氏、みる氏、野神氏、涼森氏、かわしま氏、鈴田氏、理多氏、金松氏、安玖深氏、乃嶋氏、澤田氏、手塚(り)氏、卯衣氏、八幡氏、そして羽鳥(空)氏と、思いつく方を挙げていけばきりが無いが。


  「この二人の戦いがどこへ向かうのか、それは荒野の風だけが知っている」。
  第160回くらいの頃には、リスナーたちも「もう知ってる、結局コマキさんが負けて終わるんでしょ」と思っていたに違いない。前田氏が一切手加減せずに勝負して、ダブルスコアを優に超えるペースになっていたからね……。手許のファイルを聴き返してみると230回目時点で37勝対16勝で、えーと、最終的な勝敗数はどうなったんだっけ。

  このラジオも概要を書いてまとめておきたいのだけど、相当の困難が予想されるため、手を拱いている。手許にあるのは231回までだが、一回につき40~50分も収録しているので、ざっと170時間ほどになる。コーナーの区切りがはっきりしているので概要は書きやすいが、書くべきことが多いので、片手間では出来ない。一回あたりのコーナー数も多いので、レイアウトも難しい。クイズ形式のコーナーも多いので、扱いが難しい。しかも、音声ファイル以外のコンテンツ(例えば「ボイスでジェスチャー」の正解など)もあるので、聴き返すだけでは書ききれないところが出てくる。さらに、ディスク版との異同も問題になる。等々。



  05/18(Wed)
  WILL系列(というかPULLTOP作品)をそれなりにプレイしていれば、羽鳥(空)氏をたくさん聴くことができる。やや高音寄りのトーンで、声にも芝居にもピンと張りつめた感触が常にあって、それが個々の台詞の緊密なまとまりと演技全体の正統派な充実ぶりにつながっているし、時折垣間見える巻き舌めいた動きも心地良いアクセントになっている。非常に聴きごたえのある、そして聴いていてたいへん気持ち良い役者さんの一人。
  一方、羽鳥(いち)氏の方は、まだ良く分からない。その都度の役をきちんと作って、熱意のある芝居をされているし、もちろん良い役者さんだと思うが。


  AVGでは、クリック単位の科白のまとまり――収録現場では「ワード」と呼ばれているようだ――がユーザーにも認識できるわけだが、その個々の台詞のつながりをきちんと表現するのは、プロの役者でも案外難しいものなのだろうか。一つの「ワード」の中に複数の文が含まれている場合に、個々の文の合間が完全に切れてしまってい(るように聞こえ)ることがあるし、逆に、どれだけ間を取っていても、ひとまとまりの「ワード」がしっかりした連続性のある音声表現として聞こえてくる役者さんもいる。これが単なる私の錯覚や思い込みでないならば、やはりそれは表現力の違いに帰せられるものであり、そしてひとまとまりの台詞をひとまとまりのものとしてきちんと聴かせる技量のある役者さんをこそ称賛すべきだろう。しかし、それにしても、その違いが、どこがどうなってそうなっているのか、私の音声表現受容のキャパシティと解像度では、とても理解が及ばない。
  このような音声芝居上のクオリティを理解する感性を与えてくれたのは、美月氏の芝居だった。あれは、耳の鈍い私にとって、まさに目から鱗が落ちるような、蒙を啓かれた体験だった。あるいは、言葉を発していない「間(ま)」に込められたニュアンスを意識させられたのは、木村氏の芝居だった。それは、一色氏のようなアレグロの超絶技巧とも異なり、松永氏のような語り口の絶妙のリズムとも異なった、懐の深い音声芝居の新たな魅力を私に教えてくれた。そして、上記のように、羽鳥氏にもそれを感じることができた。言葉を発していない間も、そして聞き手の前に姿を現さずただ音声のみを用いつつ、言葉の発せられるその表現空間の雰囲気を濃密に形成し保持し展開する役者に対して、私が捧げることのできる称賛の語彙は残念ながらあまりにも乏しい。


  改めて気になってきていろいろ調べものをしていたら、『キラ☆キラ』(キャスト非公開)の主演が羽鳥氏だったのではないかという話が……なんと、もしかして私はそんなに早く羽鳥氏に出会っていた(聴いていた)かもしれないのか。『恋神』でもヒロイン級で出演されていたけど、あれはあれで、他のキャストも凄すぎたからね……。羽鳥氏のツンケン姉思いキャラだけでなく、優希氏の幼馴染キャラ、五行氏の奔放キャラ、そして杏子氏の主演という……。


  ダブル羽鳥現象は『この大空』『ココロ』にあったけど、似たようなことはダブル桃井やダブル金田でも(しかもそれぞれ複数回)生じている。声優の「みる」氏と歌手の「miru」氏が同一作品に関わっているという例もある(『恋夏』『ヒメゴト・マスカレイド』など)。あとは……榊原氏と楠原氏の件――偶然にお名前が似通ってしまった――は可哀相なバッティングだったと思う。七草ネーミング同士の「五行なずな」氏と「芹なづな」氏は共演されていない。

  ちなみに、miru氏の歌はたいへん素晴らしいので、今日もまた聴き返してしまった。

  アダルトゲーム以外も見ると、いのくち氏/井口氏とか、梶氏/梶田氏とか、小倉氏/小倉氏とか。


  「タラレバらじお」の萌花ちょこさん、ご本人はわりとフランクな方なのか。
  (好感度がさらに上がった)


  スタジオでビールを飲みながらプラモを開封とは、いつもながら「胃~之煮」は楽しそうだな!


  なんなんだ、この藤咲氏のトークの自由闊達変幻自在ぶりは……。
  「ほたるんめっちゃこわれてたね」
  「おまえのせいだー!」

  「どっちが悪いことしたんだろうね」

  「食べる方が好きだよ、白くま」

  「犬カフェ、犬カフェ」
  「え、犬カフェ? 犬カフェってのがあるの?」
  「わかんない」

  (ヒバゴンについて)「ゆるキャラだったんだよー」



  05/17(Tue)
  先日(5/3付)書いた、ggl検索結果表示の件は、本当にダメージが大きい。gglの通常検索がいかに信頼できないか。web上にごく普通の形で存在していてもweb検索では発見できないページが、いかに多いであろうことか。「検索」が有する重要性に鑑みて、web世界が公平に、正常に、内容に即して、合理的に、妥当なかたちで機能していると信じることが、私には難しくなっている。
 この問題は、さらに私自身のこのブログのあり方にも関わる。 私がブログを書く目的の大部分は自分自身の思考の整理のためだが、しかし、「関心を同じくする人が検索した時に私の記事がそこに届いてくれたら」という思いはもちろん常にあるし、それは投瓶通信のような頼りなさではあっても、自分が(オタク)世界にわずかでも寄与するのだという一種の使命感、あるいは寄与しているのだというささやかな安心感が、多少なりとも執筆のモティベーションになっていたことは確かだった。しかし、このブログのページがggl検索結果に出てこない――つまり、届いてほしい相手に見過ごされてしまう――場合がかなり多そうだというのは、最低限の公共的アクセス可能性すら確保し得ていないということだ。さすがに落ち込むし、web世界に失望する。
  少なくとも私個人に関していえば、現在のweb空間のあり方では、知名度を上げる(サイト閲覧者を増やす)ことはリスクを増すことにしかならないと思っている(思っていた)。多くの人に知ってほしいと思えるほどの重要な議論をしている(有意義なことを語れている)つもりは無いし、自己顕示欲もほとんど無い(あるいは、少なくともこのブログによってそれを満たそうとは思わない)のだが、上記の状況を考えると、アクセスを増やすことはあながちリスクばかりでもなく、似たような関心を持つ人への到達可能性を確保するという点で意味のあることなのかもしれないと、最近では思うようになった。いやまあ、だからといって何か具体的な行動を起こす予定は無いのだが。


  【 ネット空間とモラルについてのもろもろ 】
  [tw: 732124746469380096 ]
  公共の場(ネット上)で卑猥な言葉(や排泄物に関係する言葉)を平然と発するのは、単なる私生活上の性的嗜好の話ではなく、社会生活の次元で「倫理観に問題がある」のではなかろうか。ネット上で慎みなしに性的なことを放言している人は、入社後に社内/社外でも同様のことをする可能性があるし、それらがセクハラや評判失墜につながる可能性もある。排泄物に関するものだとしても、やはり社会的な慎みに欠ける人であることに変わりはない。少なくともコピペ等と同等程度に大きな、明確な危険信号だと思う。大多数のまっとうな社会的常識のある人は、そもそもtwやfbで卑猥なことを発言したりはしないものだろう。

  その一方で、個人的には、いわゆる「パクツイ」やコピぺ行為はそれほど重大視していない。もちろんけっして良くない行為ではあるのだけど。普通の人々の(オフライン)生活の日常会話では、TVかネットか知人経由か、とにかくどこかで聞いたネタを、特にことわり無しに(一々出典を示したりすることなしに)真似て披露するなんてというのは、おそらく、よくあることだろう。そしてそれを、ネット上でもまったく同じ意識で行っているとすれば、それは倫理観や規範意識の深刻な欠如というほどのものではないだろう。「普通の人」の行動は、わりとそんなものだろう。また、イラスト等のコピペについても、(個人的にはきわめて不快ではあるが)「実物を見せて紹介する行為」と「無断転載行為」との違いは、必ずしも自明ではない。もちろん、メディアの違いとそれによる社会的意味の違いはあるし、その相違を適切に認識できていないのは問題だが、しかし、その場限りの会話と、メール、LINE(チャット)、tw、tmblr、ブログ等での違いは、残念ながら十分に啓蒙されているわけではなく、それゆえそれらの行為は「不正であることを了知しながら故意に(害意をもって)行われている」というのは難しいこともあるし、したがって単なる内輪トークの延長上でパクツイ/コピぺを行う人がいるとしても――いや実際大量にいるのだけど――、そういう人たちをあまり強く責められない。

  個人的には、むしろコラ加工の方がはるかに邪悪だし、権利侵害的だし、社会的に不当だと思う。他人の著作物を勝手に(しかもしばしば笑いものにするために)改竄したり、あるいは実在個人の肖像権を(しばしば笑いものにするために)正面から侵害したりしているわけだし、しかもそれらはコピペのように軽い気持ちから数秒の手作業で行えるものではなく、明確な遂行意志と比較的長い時間を掛けて実現されているのだから。「侵害性の理解」「故意の存在」「計画性」という点で、そして他人の著作物や肖像が本人の期待しないかたちに改変されるという点で、単なるネタコピペよりもはるかに害悪が大きい。twで拝見していても、そういうのを公然と投稿したり、そういう投稿を平気でRTしたりしている人に対しては、人間性の評価が私の中で急落するし、場合によっては即座にブックマーク削除して二度と見ないようにする。

  「パクツイ」を厳しく指弾している人でも、コラ(無断改竄)画像を平気でRTしていたり、無断転載だらけのNAVERにリンクしていたり、tmblrアカウントを活発に動かしていたりするのを見ると、アンバランスに見える。素人がカジュアルに行っている前者よりも、技術や知識がある筈の個人/団体が故意/組織的にやっている後者の方が、はるかに問題が大きいと思われるのだが……。もちろん、前者への批判をやめてほしいのではなく、後者の不当性も認識してほしいという意味で、バランスのとれた振舞いをしてほしいと思う。

  twでは、出版関係者(ライターや漫画家や雑多知識人)ですら、実在存命活動中の企業経営者や政治家や実子の写真を勝手に加工してアイコンに使っていたりするからね……。ひどい状態だ。自分の子でも、他人は他人なのだから、写真を掲載するだけならまだしも、アイコンにして晒し続けるのは不当だと思う。実在個人(クリエイター)の名前をスクリーンネームに使っているゲーマーとか、他人の漫画のコマを抜き出してネタで掲載する商業漫画家とかも、本当にもうね……。しかも、周囲の誰も――友人も、利害関係者も、そして法律家すらも――それを諫止していない。

  そういえば、前教皇のコラは本当にひどかったよね……。実在個人であるだけでなく、多くの人々の価値観に深く関わる人物の画像を、ただネタとして遊ぶために汚しまくっていたわけだから。2005年当時はまだネットにも「アングラ」意識の残滓があったので、そういうブラックジョーク的なものが現れるのはそれはそれで仕方ないけれど、ブラックジョークならば目立たないところであくまで目立たないようにやるべきだ。ブラックジョークにしてはいろいろなところで公然と(つまり、本来不当なことなのだという認識も無しに)露出しすぎていたと思う。

  それだけではない。単なる匿名的一般人である筈の人々が、つまり私たちの誰もが、たまたまメディアに露出して、そのある特定の瞬間がたまたま妙な表情にでもなっていたら、その画像が拡散され、当人が知りもしないところで、望みもしないような恣意的な(しばしば侮蔑的な)キャプションを添えられたり、あるいはもっとストレートに画像を――自分の顔かたちそのものを――奇怪な形にいじり回されたりする。私たち全員が、常にそういう侵害リスクを抱えつつ、そして多くの人々が現にそうした生贄たちを弄んでいる(つまり、現に侵害し続けている)。私たちが今生きている現代(ネット)社会は、そういうものになっている。メディアに登場した瞬間に、実在個人としての尊厳を無視されて、フィクションのキャラクターと同等の扱いを受けるようになる。それははたして、良い社会だろうか。

  あるいは、先日の話につなげるならば、それは同時に「いじめ」の構造にも類似している。つまり、ただ自分たちが楽しむために、相手の意思や権利や尊厳を無視して、その抗弁機会の無い人物をよってたかって笑いものにするという構造において、オフライン生活のいわゆる「いじめ」行為と、オンライン空間で逸脱的個人を槍玉に挙げて嘲笑する行為は、ほぼ同形のものだ。


  商業出版等であれば、編集者(出版社)が介在して著者を保護してくれるが、同人(あるいはネットの個人的な創作発表)だと、作者が一人でユーザー全員(のクレーム)に対応しなければいけない。これは、同人販売に特有の明確かつ典型的なリスク要因なのだという認識で、対応の仕方を考えるべきなのかもしれない。祝祭的一体感がしばしば強調されたりするが、実際にはそんな牧歌的な関係ばかりではないのだし。


  『オトメ*ドメイン』も、メッセージウィンドウ周りに薔薇のデザインが。買うことにしよう。
  「いつからだろう、薔薇の香りに懐かしさを感じるようになったのは……」。


  「ソーフラロツケプス(usoofurarotukepus)!!!」 Iチョ#171の逆再生台詞は妙に耳に残る。
  「はませみほ(amasemiho)」(#181)も。



  05/14(Sat)
  朝一でマッシヴなイラストが目に入ってしまって気持ちが萎みそうになる。いやいや、日々鍛錬して心身ともにご健康でいらっしゃる方々やお体のゴージャスな豊満さを誇っていらっしゃる方々はそれはそれでおよろしいことかと存じますれども、しかし個人的には、肋が浮き出ていそうなくらい肉づきが薄くて肩口もほっそりして適度(あるいはそれ以上)に脱力した様子のイラストの方がよほど安心するものでして。


  断続的に作業を進めていたネウロイ化のあれはようやく完成しそう。まだ最後の難所が残っているが、大きな失敗もせずに構想どおりのものが仕上がりつつある。しかし、全体が出来上がってみると、予想どおり、そして想像以上に、不気味だった。ちょーきもいら。
  そして、暑い。室温はすでに29.5度を記録している。激しい頭痛もおそらくこれのせい。

(2016年5月16日、自宅にて撮影)
だって、こんな状態なんだもの……。
制作手順の都合により、一部の手摺等は未接着。飛行甲板と船底もまだ接着固定していない。それどころか、塗り分けのリタッチすら出来ていないが。

  そういえばPicasaWA終了の件はどうなったんだっけ。たしか、当面は読み取りオンリーで保持されるとのことだったが。blggrで画像アップロードすると、以前はPcs側にも自動共有されていたが、現在はそちら側には反映されないようになっている。このブログ上のデータ(画像データを含む)はblggr側に保存されている筈なので、将来的にPcsが完全閉鎖されてもblggr上での画像データはこれまでどおり閲覧可能だろう(と期待したい)。
  なお、ggl+の設定(アカウント統合)が不完全であるためか、現在もpcsWAからggl Photosへのデータ移行は行われていない。



  05/12(Thu)
  今週は、雨天/多忙/ストレス/風邪で、趣味生活はあまり進展が無かった。風邪には重々注意していたが、気温変化(と寝汗)のせいか、数年ぶりにひいてしまった。一日でほぼ治ったが。週末からは再び軌道に乗せていきたい。


  「この外見、この性格、このシチュエーション、どこからどう見ても、どう考えても藤咲ウサ氏に演じられるために生まれてきたキャラとしか思えないのに、実際には別の声優さんが演じられている」という状況に遭遇したことがある。もちろん、その声優さんも十分的確な――それどころか、本当に素晴らしくて即座にその方のファンになってしまえたくらいの――芝居を披露されていて、十分楽しんで聴くことができたし、こういう見方をするのはその声優さんに対してたいへん失礼なのだけど、しかしそれでもどうしても釈然としないまま過ごしてしまっていたりする。ああ、もやもやする!(病気ですね)


  心理的な屈折を持っているキャラクターに対して、二次創作のイラストや一ページ漫画などで、キャラ造形に即した内発的なものでもなんでもないような、笑いものにできるようなネガティヴな属性を思い思いにぶつけて、そのキャラをどんどん歪んだ姿にしてその有様を楽しむ――おそらく楽しんでいるのだろう――のは、わりと「いじめ」行為に直結したメンタリティで、見ていてげんなりさせられる。原則論としては「二次創作には『リスペクト』なんか要らない(当人たちが楽しいならば、どんなひどいアレンジをしたっていいし、原作からどれだけ逸脱/離脱したって構わない)」という立場ではあるから、そういうのが好きな人は好きにやっていて構わないのだけど、しかし同時に、個人的には上記のようなものは「見たくないなあ」という気持ちが強い。どんなキャラに対しても自動的に貶めて笑いものにできるような万能鉈なネタを当てはめるのは、二次創作の創造性という観点でも安っぽいと思うし。そして、キャラクターの欠陥を大袈裟に取り上げて侮辱的に嘲弄する振る舞いという点では、原作にそれと対応する描写があるか無いかの違いもほとんど意味を成さない。
  (そして、そんな可哀相な目に遭っているキャラに対しては、愛憐の気持ちから、むしろさらに好意が増したりもするのだが、それはまた別の話。)

  重箱の隅をつつくように牽強付会に「黒キャラ」解釈するとか、誰彼構わずとにかく「ヤンデレ」化させて弄ぶとか、そういう類の安っぽいネタキャラ化は、昔からヨクアリマシタヨネー。


  体調もすぐれないし、そろそろ寝なければいけない時間なのだけど、只今ディスプレイに映っているCGがあまりに美しいので、PCをシャットダウンするのが惜しくて惜しくてどうしようもないまますでに何分も経過しているところ。……さてどうしたものか(頬を緩めながら)。
  (「しかしこの時オレは、その幸せな停滞状態がさらに1時間以上続くことをまだ知らなかった……」)



  05/09(Mon)

(2016年5月9日、自宅にて撮影)
現状、艦首側はこんな感じ。仮組み中だが、こんな状態を目にしたら、(スケール)モデラーならずとも、不気味さに目を背けるか不可解さに苦笑するかのどちらかだろう。もっとも、黒サフを吹いた状態だと思えば、そんなに見慣れないものでもないけれど。しかし、「これ、完成したらもっとグロくなるのでは?」と、今になってようやく気付いた私は、いったいどうすれば。


  【 日常志向 】
  00年代の白箱系は日常重視に傾斜していったとされるが、その経緯及び事情は、それ自体としては検討に値するテーマではある。さしあたりの私見を述べると:
  1)ユーザーの要求。個人的には、8800円の高額商品に対してユーザー側が一貫してボリュームを要求し続けてきたという事情が、要因として大きいのではないかと思う。テキスト量が少なくて比較的早くコンプリートできるという要素は、手っ取り早くマイナス評価をつける理由として好都合に多用されてきた(――それが適切な評価姿勢であるかどうかはともかく)。00年代に入ってアダルトPCゲーム業界の見通しが整理されノウハウが蓄積し、ゲームメーカーが長期的存続(事業としての継続)を意識するようになってくるとともに、それらはブランドイメージの確保を重視するようになり、ユーザーからの不評をフィードバックして改善することへの意識も強まっていっただろう。ユーザーの主張をそのまま取り入れるかどうか(そうするのが良いかどうか)は別問題だが。
  2)ジャンル的特性。もう一つの要因としては、白箱系(の売り込み)がキャラ萌えに強く依存していたためもあるだろう。それは、アダルトシーンの拡充によっては満たされないものであり、日常シーンによってこそ供給されるのものだ。この潮流は、「ハートフル」という(造語の)キャッチコピーとともに『ToHeart』(1999年のPS版だったか)が作り出したものだったようだ。もっとも、10年代には一種の揺り戻しが生じており、日常シーンのボリュームやCG枚数よりも、アダルトシーンの量や濃密さが強く意識されるようになってきている。また、一昔前は「アダルトシーンでキャラの性格が変わる」といった批判も見られたが、近年ではアダルトシーンでの(アダルトシーンの描写を通じての)キャラクター描写が巧みになっている。90年代の性表現志向と00年代の萌え志向が、10年代にはきちんと統合されている。
  3)シーン構成。第三に、これはシーン構成の次元の問題でもある。標準的なフルプライス白箱系ゲームは、20時間強ほどの時間が掛かると思われるが、その内訳は例えば「前半部(共通パート)が8時間程度で、4人のヒロインが3時間ずつ」といった形になる。つまり、一人のヒロインに絞ってみた場合、ほんの3時間プラスアルファ程度(=300KB=LN一冊分)しか書けないのだ。つまり、シナリオをきちんと構成して全体を一定した密度で描ききろうとすると、最低でもこのくらいになってしまうものなのだ。けっして引き延ばしなどではない。共通パートでは、「それぞれの出会い→全員集合と場の形成→序盤の山場→分岐の下準備」を描き、そこから個別ヒロインシナリオで「恋愛関係の成立→恋人同士の描写→ベッドシーン(3~5シーン)→問題発生→解決→結末」までを描くには、300KBではまだまだ足りないくらいだろう。この観点を敷衍すれば、いわゆる「日常パート」はけっして「何もない日常」などではなく、常に構成上意味のあるイベントに満ちているという認識――「日常」という名前に攪乱されない認識――が得られるだろう。この分野でいう「日常シーン」とは、基本的には「濡れ場でないシーン」の謂に過ぎないのだから。
  実際、アニメやLNではそうした十分な長さを取ることが(メディア形式からしても予算的観点からも)難しく、だからこそ、アダルトゲームはその点で大きなアドヴァンテージを享受してきた。すなわち、「アニメに比べるとはるかに低い制作規模で、アニメに匹敵する彩色グラフィクス(動画ではないがそのぶん高品質な静止画)と高品質な音声を伴った物語を、LNとは異なって最初からきちんと完結したシナリオとして、しかもLNには実現できない視聴覚的表現とともに、提供できる」という意味で(――もっとも、アニメは基本的には無料で視聴できるし、ゲームはLNよりも高額だし、また高額商品のためハズレを引いた時のダメージが大きいし、デスクトップ/ノートPCのユーザー環境を必要とするしで、最盛期に比べると沈滞しているが)。
  ちなみに、いわゆる「日常系」のアプローチは、(四コマ漫画経由で?)ざっと5年遅れでアニメに引き継がれ、さらにLN(小説分野)でも採用されていったようだ。テキスト量の物理的制約が無いネット小説が、際限のない増量傾向にあることを、併せて考えてみてもよいだろう。そしてそれらが、その長大さによってどれだけ豊かなものになっているかを。それをただ単に「無駄」だの「引き延ばし」だのと見做すのは安直に過ぎる。


  『ToHeart』が、「ハートフル」(ヒロインたちとの心温まるコミュニケーションを楽しむ)という感性をアダルトゲームの中で正面から展開して、現在に至る白箱系の基礎を作った、という理解をしているが、こういう認識はどこまで普及しているのだろうか。あるいは、これは歴史的にどこまで適切な認識だろうか。さら、「ハートフル」という和製英語を初めて(?)使ったのは、あるいはそれを流行らせたのが『ToHeart』だというのは、事実だといっていいだろうか。「ハートフル」という言葉は、たぶん1999年のPS版からだったと思うけど、細部や前後関係はよく憶えていない。


  EGScapeによれば大波氏のキャリアは1995年10月発売の『魔女狩りの夜に』とのことだが、現役の(現在でも定期的な出演のある)アダルトゲーム声優としては、いつの間にか別格の長さになっている。この作品については疑義もあるが、1999年の『M.E.M.』からとカウントしても、相当なものだ。前世紀からのキャリアがある方も、少なくなってしまった。とはいえ、草柳氏(記録によれば1997年のデビュー。以下同様)も、北都氏(97-)、白井氏(97-)、木葉/松田氏(97-)、芹園氏(98-)も、涼森氏(98-)、一色氏(98-)、AYA氏(98-)、青山氏(99-)、みる氏(99-)、ももぞの氏(99-)、海原氏(99-)、まき氏(00-)、金田氏(00-)、榎津氏(00-)といった方々も、まだ現役だ(=最近でも出演作がいくつも出ている)。それ以外の方々も、きっと他の分野で様々なかたちで活躍しておられるのだろう。

  『おま天』があるかぎり、出演者各氏には永遠に新作予定があることになる。

  SQLを使えば、もっと網羅的に抽出できるだろう。スキルがないので出来ないけど。



  05/07(Sat)
  好きな作品――例えば漫画――が、不人気等の事情のため継続困難になった場合に、仮に私(ファン)が一冊につき1万円出してもいいと考えるとしよう。漫画家が単行本一冊分の原稿を書き上げて印刷製本するのに、どのくらいのコストが掛かるだろうか。週刊雑誌連載並として、一冊180ページ(20ページ×9回)分の原稿を完成させるのに、9週間(約2ヶ月)掛かる。したがって、作者一人と非常勤アシスタント一人(0.5人分)として、月25万円×1.5人×2ヶ月=75万円。この時点で、一冊1万円出してもいいと考えるファンが75人も必要になる。75人……なまじの漫画家では集まらないだろうなあ。さらに、印刷部数に応じた製本代が掛かるので、実際にはこの人数に上乗せが必要になるし。
  ちなみに、ありがちな漫画同人誌を考えると、比較的ラフな単色原稿で、24ページ+表紙で、500円。これを一冊180ページの単行本に換算すると、――表紙の労力と印刷コストは評価が面倒なので仮に無視するとして――500×7.5=3750円。この場合、200人が7.5冊シリーズを全部購入すれば75万円になる。言い換えれば、同人漫画家は、アシスタントを使っても、週刊雑誌漫画並のスピードで刊行して――それはつまり、表紙を抜きにすれば、毎週一冊新刊を出すペースということだが――、一冊あたり200人程度買ってくれれば、専業同人漫画家として一応生計は成り立つ。もちろん、もっとたくさん売れるならば、その分だけ経済的余裕が出来るし、あるいは刊行スピードを落としてもよくなる。……要するに、すごく無理がある。


  この方は本当に、掛け値なしに歌が上手くて、十二分な聴きごたえがある。歌詞を言葉としてクリアに聞き取れるくらい、非常に丁寧に(声優芝居の時と同様、言葉を一つも誤魔化さずに)発声していて、言葉の意味としっかり結びついた歌唱として効果を発揮しているし、それでいて、言葉のメッセージ性だけでなく、歌いぶりは常に落ち着きのある楽しさに満ちているし、リズムとデュナーミクの把握が正確なのか、ちゃんと音楽の流れを作りあげている(そして楽曲それ自体も良い)。曲調に合わせた発声スタイルのチューニングもそれぞれニュアンスに富んでいて、一つのアルバムとして聴き通す楽しさがある。

  というわけで、おおはしさんのあるばむをきいて、しあわせになるがいい!
  (ブログの趣旨からして微妙に配慮して検索避けしつつ)

  [tw: 730289137274642432 ]

  本当に好きな作品、つまり機会があれば真っ先に挙げて薦めたいタイトルについては、たしかに「布教用」のストックを持っておくことに意味があると思える。実際に繰り返し読むために一冊、そして汚損や逸失といった万一の時に備えてもう一冊、そしていつでも他人に貸せるようにもう一冊。これまでは「観賞用、保存用、布教用」というフレーズがどうにもピンと来ていなかったのだけど、本当に好きで、そして他人にも薦めたいと思えるタイトルがあると、なるほど意味のあるものだと納得できるようになった。もちろん、複数購入による著者への支援という効果もある。


  事実に反する嘘臭い昔のゲーム語り(に擬した自分語り)が視界に入ったが、私ももう大人なので一々ツッコミはしない。ちなみにここで「大人」というのは、「わざわざ無駄な労力を使おうとしない消極的態度」「好きでもない相手に知識を与えてやる親切などしてやらないという冷淡な姿勢」のことの謂にすぎないが。



  05/05(Thu)

  【 ソフトハウスキャラ新作キャスト雑感 】
  新世代のソフトハウスキャラ看板声優は綾音まこ氏か! これなら文句の出よう筈はない。『悪魔娘』のサシィアーネ役は、キャラクター自身の若さゆえの線の細さと可憐さを表現しつつも、苦境にあって力強い決断をするくだりは十分聴かせる芝居だったし、最終的にヒロインたちの中で唯一、堂々と主人公と並び立つ立場にあったキャラクターとして、そのテキストに遜色ない出来映えだった。つづく『勇者砲』で演じたトップヒロインのティーナ役は、サシィとは対照的に、軽快さ、心根の温かさ、素直な愛嬌、そして快楽に対する率直さをも押し出す陽性なキャラだったが、こちらも間違いなく綾音氏はハマリ役だったと言ってよいだろう。

  ちなみに、私見では、初代の看板声優はもちろん大波こなみ氏。『ブラウン通り』(2003)から『BB』(2010)まで、トップヒロインを演じた頻度は尋常ではない。この方の明朗でストレートな芝居ぶり、そして最近では大人びた声色とユーモラスな語り口の不思議なコンビネーションの雰囲気は、内藤氏のウィットに満ちた切れ味良いテキストワークによく合っていた。羽賀(青山)氏も重要な役を繰り返し演じてこられたが。第2代は羽高なる氏。『DC』(2005)以来、今回の新作まで14本連続出演中になる。『王賊』(2007)と『BB3』(2013)の主演もあるが、どちらかといえば、中盤から登場してその若々しい芝居によって物語引き締めてくれる役回りが多いようだ(『DC』の葉木崎唯、『Wizard's』のイエル、『忍流』のホタル、『悪魔娘』のマウなど)。星咲氏が第3代になりそうな気配もあったが、残念ながら、2014年の『アウトベジタブルズ』で主演を張って以降、星咲氏のアダルトゲーム出演全般が激減してしまった。

  サクラ役は大波氏。復帰して下さって良かった!! 嬉しさと安堵が綯い交ぜになった気分でどうも落ち着かない。あまり従順でないメイドキャラというと、『LJ』のアーネウスに近い方向性になるのだろうか。コザクラ役は芹園氏。2011-13年の間は、レギュラー的に出演されていた。SHCでの代表キャラは『門』のロウメイか。この方も、大波氏と同様、アダルトゲーム声優として最古参クラスになりつつあるが、現在でもパワフルに出演されている。村川島役は、安心の羽高氏。「黒」役の青山氏も順当にして最高の配役。近年ではいよいよずっしりした迫力を増しているので、これはもう期待するしかない。一条氏も、16作連続出演中だが、名前のある役がなかなか来ていなかったので、今回はたくさん聴ければと思う。手塚氏も、SHCには初出演だが、10年代のアダルトゲームシーンをリードしている声優の一人で、『ヨメ充』の元気キャラ、『九十九の奏』のホラーキャラ、『ゆめみ』の後輩キャラ、『箱庭』の知性派キャラ、『月光』のフレンドリーな教師キャラ、『スクイ』のボーイッシュキャラ、等々を完璧に演じきって、いわば「ニューエイジ一色ヒカル」のような趣のあるハイレベル万能声優なので、安心々々。「その他キャスト」として紹介されている方々も、萌花ちょこ氏、桜川氏、八尋氏、渋谷氏、原田氏と万全の布陣。このキャスティングを見るだけでも、今回のソフトハウスキャラは、これはもう間違いなく掛け値なしに、本気ですぜ。
  (なにしろ、前作の桃組十把一絡げキャスティングには本当に悲しい思いをしたので……。)

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  冗談じゃない、不器用どころか、役作りが抜群に上手い超絶テクニシャンでいらっしゃるのに。

  「アルフリート」は、『アルフレッド学園』を多少連想させるし、「エントラ」は『Wizard's』のヴィオラの姓そのもの。ヴィオラが銀髪だったのに対して、ララは色の薄い金髪だし、「ララ・エントラ・クエント」という並びだとミドルネームの可能性もあるし、ましてや実質的な関連があるかは分からないが。


  ある特定の嗜好や属性を指すのに、あまり上品ではなくて自分の言語感覚に合わない言い回しが確立してしまい、しかも(ニッチな嗜好であるせいで)それに置換できる代替的表現もほぼ存在しないため、言及したくても言及できないという状況はちょっとつらい。……まあ、わりとグロテスク寄りの人体毀傷行為にドキドキするだなんていうのは、そもそもがけっしてお上品なものではないので、それを「R○ョN○」と呼ぶかどうかなどといったことは相対的な瑣末でしかないのだけれども。Black CYC万歳でございます。


  戦闘BGMか。バトルもの(AVGの「燃え」系)をほとんどプレイしていないので視野はあまり広くないが、名高い「Atlach_nacha」…は別とすれば、個人的にはSLG『あかときっ!』の一連のBGMを挙げたい。非常にクリアなリズムで制御されたエレキギターの機械的な運動性が際立つ「flight to fight」も良いし、重厚な連打で切れ込んでくるベースに乗せて意外にロマンティックなメロディを展開する「overlap」、そして不気味なサンプリング音声に彩られた激しいバトル曲「make up your mind」「keep the breath」、そして最後にこれまでの重苦しいビートを引継ぎつつ陰鬱さを増して非常に不思議な雰囲気を作り出している「destructive anthem」、いずれも絶品。
  SLG『英雄*戦姫』も、戦闘する地域毎の民族音楽風の戦闘BGMが流れて、非常に彩り豊かな音響表現になっていた。日本だと和楽器の落ち着いたリズムだったり、アメリカだと西部劇イメージのギター演奏だったり、カリブ海だと陽気なトランペットにリードされていたり。ラストバトルが主題歌を変容させたドラマティックな曲になっているのも格好良い。
  ゲームBGMの場合、演出全体と切り離して認識/評価することが非常に難しいけれど。例えば、SLG『巣作りドラゴン』のように毎ターンの定期的な侵入者を配下ユニットがほどほどの仕方であしらう(そして所持金をかっぱいで結婚資金の足しにする)様子を俯瞰するオート戦闘である場合には、戦闘BGMがあまり仰々しすぎてもいけなくて、バトルというよりは、多数のキャラクターたちが戦う戦場の熱気を伝えるような曲の方が適しているということになる。また、RPGのようにごく短時間の戦闘が断続的に発生するような作品では、曲の構成としてもイントロ部分のアイキャッチ的な個性づけがよりいっそう重要になったりする。


  新記事:「『スメラギドレッサーズ』感想集」。
  刊行本が完結したのを機に。これで自分の中で区切りをつけよう。
  ……しまった、『兄妹』最終巻の方を忘れていた! 急いで買っておこう。


  [ wmro.at.webry.info/201605/article_1.html ]
  明日読み返す。技術的な話なので、私がどうこうコメントできるものではないが。私自身の見解は、2年前の記事「『ひまわり!!』とE-mote技術をめぐって」に書いていたが、えーと、私はどんなことを考えていたのだっけ。



  05/03(Tue)

  【 web検索のあれこれ 】
  「おおなみ 1/700」でggl検索をして各所の記事を見て回っていたのだけど……そういえば、うちのブログが出てこないぞ……。気になって検索結果を全件表示で末尾(484件)まで見てみたところ、模型雑話のページはヒットしているが、肝心の「おおなみ」のページは結局出てこなかった。ページタイトルがストレートに検索語そのものだというのに検索一覧に出てこないというのはどうしたわけだろう。検索クロールされていない筈はない(検索語を適当に変更してみたところ、該当ページはgglにちゃんと拾われている)し、違反報告などでリジェクトされている可能性もほぼ無い(もしもそれだとしても除外のノーティスが出ている筈だ)し、アダルトカテゴリー扱いでもない筈だし、そもそもヒットしないのはブログ全体のページランク(って今もあるの?)以前の問題だ。どうしてこうなっているのだろう。yhとgooでも試してみたが、前者では出てこず、後者は「模型雑話」のページだけがヒットしたので、状況はほぼ同じと見てよい。
  多くの(不特定多数の)来訪者に来てほしいというわけではないし、このブログ自身が検索結果に過剰に割り込む(無関係な検索でヒットしてしまう)ことはしたくないと常々思っている。しかし、私としては、似たような関心を持っている人が、関連性のあるキーワードで検索した時に、うちの記事がヒットしてくれさえすればいいと思っている (いわばボトルメールの気分だ)のだが、明確な関連ワードですらうちのブログが発見され得ない状況であるとすると、わざわざブログ上で情報発信をしている意味が無くなってしまう。わりと困った状況だ。
  もっとも、もしも私以外の誰もまったく読まないとしても、あるいは私自身すらこのブログのテキストを一切読み返さないとしても、もう一つの重要な目的、すなわち「書きながら考える、あるいは書くことで自分の思考を整理し展開する」という目的はすでに果たされているわけだから、まったくの無意味というわけでもないのだが。

  もう一つ気付いたが、検索語の順番を入れ替えて「1/700 おおなみ」にすると、ちゃんとヒットする(しかも検索上位に来る)し、web全体での検索ヒットするページの総数も桁違いに多くなる(gglで9380件)。えっ……検索語の順番って、そんなに影響が大きいの? たしかにキーワードの順序でウェイトを設けるのはそれはそれで検索結果のチューニングとして意味を持たせられる要素だとは思うが、しかし現実には多くのユーザーはそうしたことを意識せずに――そしてつまり複数のキーワードをどの順で入力するかはかなり恣意的、無意識的に――振る舞っていると思われるので、それに応じて検索結果をいじろうとするのはあまり良い仕様ではないと思うんだけどなあ。あるいは、gglが保持している検索語リストはあまりに膨大なので高速化のためには検索語「A & B」と「B & A」を一々照合してなどいられない、といった事情があったりするのかもしれない。

  とにかく、web検索の結果は、あまり信用ならないものだという認識が強められた。とりわけ趣味の事柄については、一昔前のウェブページのような中味のある文字情報にはなかなか出会えなくなっている。それは通販サイトやニュース記事などのPRページの爆発的増加に押されているせいでもあるが、分野によっては、きちんとした記事の産出量そのものが一時期よりも減っているということもあり得る。実際、web検索からいろいろなサイト/ブログを見て回って情報収集するということが無くなってきたし、単発の固有名詞(ゲームなどの作品名であれクリエイターなどの個人名であれ)ではろくな記事が出てこない。「それはただ単にお前の検索スキルの低さのせいだ」と言われれば、まあ、そういう側面もあるのかもしれないが。web空間における(趣味的な)知のあり方については、10年代に入ったあたりから私はずっと悲観的だ。

  アクセス統計の方も見てみたら、カナダや台湾からもアクセスがあったようだ。
  ごめんね、日本語ネイティヴでも私の文章を読むのはつらいくらいだと思うよ……。


  メタルプライマーが切れたので、また買い物に行かねば。しかしこれが「シンナーが切れた」だと、なんだか30年くらい前(?)のアレな高校生あたりの発言に見えてしまいかねない。Thinner(薄め液)、つまり単なる溶剤のことなんだけど。「あんぱんー」が口癖だった『Canvas』のメインヒロインについても、「アンパン(隠語)が好きだから頭がユルいんだろう」などという失礼なことを知人と言い合っていたのも憶えている。


  昨日から「笑顔にメリークリスマス」が頭から離れない。今聴き返してみると、『パティにゃん』の音楽はヴォーカル曲もBGMも、いかにも00年代初頭の雰囲気だが、音色の豊かさと、鷹揚に寛いだ雰囲気のメロディ、心地良いリズムの刻みが、実に楽しい。楽曲制作はManack(えーと、個人のお名前として「Manack氏」と書いていいのだろうか)。そして歌唱は海原エレナ氏。声優としてのクールなキャラクター芝居とは趣を変えて、若々しくストレートな(そしてそれでいて完璧にコントロールされた)愛嬌を振りまいているのがまた面白い。


  「はっはっは、主人公(=ルート)を大増量して6人ですか。相変わらずだなあ。でもきっと今回は、『空帝戦騎』の4人主人公のダルさを教訓にして、きっとうまい対処法を思いついたからわざわざ多人数主人公に再挑戦してるんですよね、うん、きっとそうに違いない」と思っていたら、えっ、なにそれ。なんともったいないことを……。
  複数の主人公を選べるSLGというと、あとは大作『乙女恋心プリスター』とか、えーと、鈴音華月ヴォイスの――そういう憶え方かよ――『闇夜に踊れ』あたりがあるか。『ママトト』は三人称的な並列(裏と表)タイプなので別枠。STGやACTには「自機選択」の伝統があり、実際にSTGでは『あおぞらマジカ!!』『ぶるにゃんマン』などがあるし、ACTにもsofthouse-sealの『くのいちがイク!』シリーズ『魔法少女ハルカ』(いずれも低価格)のような例がある。これらはステージ構成は基本的に同一(自機性能には違いがある)で、幕間のAVGパートが異なるという仕様。
  大柄なSLG/RPGにせよ、STG/ACTにせよ、うまく組み立てられれば、投入した素材制作リソースやいったん構築したゲームシステムを最大限活用しつつ効率的にボリュームアップできる可能性があるという点で、AVGよりもポテンシャルは大きいのだが……だがしかしそれも、「上手くやれれば」という(いささか同語反復的な)条件の下でしか成功しない。ステージ構成が単調で爽快感に欠けるとか、プレイヤーに(育成や収集などの)達成感を与える経路を作れていないとかいった無策な作品だと、(以前にも言ったとおり)単なる無内容なハイカロリージャンクフードにしかならないよね。本当にもったいない。

  そういえば、御苑生メイ氏は、これまでに「メイメイ」というキャラクターを3人演じている。出オチ的な『鉄腕がっちゅ!!』と、『魔導攻殻』のサブキャラ、そして『星空のバビロン』のヒロイン。


  「轟け」は、ちょうど一年前の4月まで到達。残り25回。webラジオとしては珍しく参加人数が多いためもあり、繰り返して聴いても楽しいし、振り返ってみるとパーティーゲームなどに使えそうなネタもたくさんある。


  もうやだー、やだやだー、こんな米粒の半分も無いほどちっちゃいプラパーツ群をちまちま組み立てるのはもういやだー。細かいパーツを不器用な手で組み立てていると、もう自分が何のために何をしているのかも分からなくなりそうだ。ああ、何十時間を掛けたキットをおもいきりかべにぶんなげたらさぞやきもちいいだろうなあっ! うう……ゲームの世界でルネ山キャラに優しく叱られたり越キャラに慰められたり一色キャラに甘く絞め殺されたりしたい……ぐすん。
  (おそらく原因は低気圧か体調不良なので、こういう時は早く寝た方がいい。)

  なんだか最近の私の言動が90年代オタクっぽくなっているような気が……。この様子だと、そろそろ文末に「(爆)」とかを使い始めたりしかねない。いや、実際には「(爆)」を使ったことは記憶のかぎり一度も無いし、そもそも90年代の私はまだまったくオタクではなかったのだが。
  ああ、そうか、オタクとしての私は、ほんの十数年、つまり、まだせいぜいハイティーンになったかならないかという程度でしかないのか。ましてや、個別の趣味について言えば、もっと短くなる。例えば、先程話題にした模型趣味も、00年代初頭頃にもしばらくやっていたものの、そこからブランクは長く、実働期間は累計してまだ3年未満だろう。それに対して、例えば15歳でオタク的趣味に足を踏み入れた人がいるとして、40歳になれば25年のキャリア、50歳では35年ものキャリアになるわけだ。なんと遠い話だろう。



  05/01(Sun)
  声優さんは声の芝居に熟達しているのが強みなのだから、ミュージックCDの中に朗読トラックを入れているのは完全に正しい。


  昨日は電車の中で、宝塚っぽい名前の声優さんについていろいろ考えていた。PCゲーム声優さんは――まず間違いなく本名ではなく芸名だが――、身近な風物を織り込んだ自然派で素朴なお名前の方が多く、宝塚風のきらびやかで抽象的で非現実的な雰囲気の名前の方はほとんどいない。また、あちらでは短く緊張感のある2音名字や1文字名字がわりと好んで使われているが、ゲーム声優の名前はなだらかな落ち着きのあるものが多い。これは、「スター」と「声優」の違いでもあるかもしれない。例えば「大波こなみ」、「青山ゆかり」、「沢村かすみ」、ほら、画数も少ないし平仮名交じりで、濁音のない4+3のきれいな節回しのフレンドリーな名前でしょ?
  歌劇団の名前に混じっても溶け込めそうな華美な名前は、あえて言うなら、鏡詩音氏、幸代彩里氏、柚花蓮氏、麻矢美樹氏、涼織藍音氏くらいだろうか。一色ヒカル氏もかなりのもの。「三咲里奈」「波奈束風景」「北見六花」「涼森ちさと」「北都南」ですら、「ちょっと方向性が違うな……」と感じられてしまうのが怖い。しかし「杏子御津」はありだなと思ってしまうあたり、私はすでに正常な判断力を失っている可能性がある。「車の人」も、一見すると案外しれっと混ざれてしまいそうなのが面白い(「三津菱蘭沙」「昴舞愛」「誉多衿紫苑」「松蓼美桜」など)。


  そういえば、木村氏は『プリっち』にも出演されていたのだっけ。たしか、この方としてはわりと珍しい方向性の芝居だったかと思う。2005年発売だから、『秋色』のしたたかな幼馴染、『鬼神楽』の礼儀正しい神様、『おとぼく』の控えめな下級生を演じておられたのと同時期か。00年代前半はいろいろなタイプのサブキャラに便利に起用されていたオールラウンダーだったのが、主演にキャスティングされるようになっていった時期でもある。
  それにしても、似たキャラのいない役者さんだなあ。セシリアのようなタイプのキャラクターは、あるいはあのような芝居は、ちょっと思いつかない。いや、適切な言い方をするなら、似ているかどうかは実のところそもそも論点として意味を成さないし、異なるキャラクター(異なる台本)の下で演じているのだから似たキャラになっていないのは役者の仕事として当然の帰結でもあるのだが。