2014/06/04

『ひまわり!!』とE-mote技術をめぐって

  『ひまわり!!』体験版をプレイしてみて、そのE-moteアニメーション表現の意義について考える。


  2014/06/02
  [ www.light.gr.jp/sweet_light/himawari/index.html#section-5 ]
  うーん……。
  私の中では、一つの画面が多層的に分割され再構成されて推移していくこと(「立ち絵+背景」のような枠組を所与とした古典的なスクリプト演出)と、一枚の絵全体がぐねぐねと動くこと(AEなり今回のE-moteなりによるアニメーション化)とは、まったく別のことがらなので、lightのこのような方向性をどのような視座でどのように評価すべきかについては、慎重に考えていかなければ妥当な結論に到達できそうにないが。
  ちなみに、lightが「パーツ分割を所与とした再構成」ではなく「一体としての動的変化」を目指したのは、もちろん今回が初めてではなく、『群青~』(2005)、『R.U.R.U.R.』(2007)、『Dies』(2007)の頃から(ただしその当時は動画組み込みという形態で)継続的に取り組まれており(cf. 演出技術論Ⅲ-3-3、「一枚絵の動的演出について」)、それゆえこれについては――もう9年も経っているのだから――もういいかげんに熟慮された評価を確立していてしかるべきなのだが、いまだに自分なりの判断を固められずにいる。lightは絵を動かすことによって何を目指しているのか。彼等は絵の動くAVGをどのようなものとして捉えようとしているのか。そして、一般論としてAVGの画面が静止画ではなくなるというのはどういうことなのか。あるいは、クリックの単位とスクリプトの単位によって分節化されてきたAVGの時間及び空間は、E-moteのような時空間コントロール(完全な無段階変化でもないがデジタルな変化でもない、一定の幅[延長]のある時空間的変化)の導入によってどのような質的変化を被ることになるのか。今日もまた、この問の前に立って、そしてこのゲーム画面の前に立って、ただ言葉を失うしかない。
  『AYAKASHI』(2005)に対しても述べたように、「コマ割りアニメほどはコストが掛からないがコマ割りアニメほどは動かず、アニメを範としつつも単なるアニメのなりそこないで終わっているのではないか」といった消極的な評価を下すことも一応可能だろう。しかし、やはり、単なる「アニメの模造」だけではないとも思う。lightの試みに関してはいまだに、絵を動かすことについての深い背景的コンセプトが見出せないでいるが、動くAVG画面というものが――これが仮に技術先行の現象だとして――これからいかなる美意識を作り上げていくのかを、さらに注視していかねばならないだろう。

  静止画素材のアニメーション化に対する私の基本的認識は「たしかに技術の革命ではあるとしても、技法の革命としての側面はまだはっきりとは見えていない段階だ」というものだ。差分変化の中割り的補間に過ぎないというようなものではないにしても、しかし、「全部動けばみんなもっと(それによって自動的必然的に)可愛くなる」というようなものでもない筈だ。しかも、その動きは小さすぎる。差分変化とうまく併用すればかなりの部分は解決できるであろうが。

  違和感があるのは、視線の動きだろうか。これはアニメーション化の問題ではなく、この作品の原画家の瞳孔の描き方に由来する個別的な問題だが、なまじ頭髪や顔面(の角度)が変化するようになったせいで、目の動きの乏しさがかえって強調されてしまっている。ここをもっとはっきり動かすようにすれば――あるいはもっとはっきり動かせるような画風であれば――、それだけでこの人形めいた印象はずいぶん改善されるだろう。もう一つ、[tw: 473045907596800000 ]でも指摘されているように、既存の他の視覚メディア(で馴染んだ感性)と比べるときにも、「AVG一枚絵のスタイル」プラス「一見すると映像のような感触」の様式交雑が違和感の原因となりやすい。lightに対しては、『タペストリー』の頃からずっと、「力任せの成金的演出誇示ばかりが目立つ、センスの良くないブランド(チーム)だ」と見ているが、しかし今回露呈しているように見えるこれらの問題は、センスの問題だけでは解決できない次元であるように思われる。

  結局のところ、私のAVG観は、映像(動画)よりも写真寄りでありすぎたのかもしれない。



  2014/06/04
  ひきつづき、『ひまわり!!』の全面的E-mote化の効果と意義について考えている。その主要な積極的側面をおおまかに指摘するなら、1)立ち絵が表しうる所作のヴァリエーションの飛躍的上昇(立ち絵変化の量的増加、外延的拡大)、2)キャラクター画像の振り付けの精密度や滑らかさの飛躍的上昇(立ち絵変化の質的向上)、3)キャラクター性を表現するうえでの後押し作用(臨場感、対面感覚の増強)、が挙げられるだろう。

  1)静止画の差分制作に代わるアプローチとして。
  立ち絵振り付けの多大な労力によって、一つ一つの動きが、ただ単に記号的に抽象化された、数の限られた画像差分の組み合わせに終わるものではなく、それを超えて、その都度の動きがその瞬間瞬間の固有のものになろうとしていることは、よく分かる。立ち絵のパーツ毎の差分組み合わせによる算術的ヴァリエーション増量――例えば、ういんどみるやMOONSTONEが試みたような――は、ほとんど飽和しかけて久しいし、ましてや目パチ口パクのような局所的アニメーション化は結局のところ立ち絵の密度乃至多様性を向上させるうえで十分な処方ではなかったのであり、そうした現状診断を踏まえれば、E-mote流のアニメーション化は、算術的乃至機械的な増量とは完全に次元を異にして、桁違いの密度と精度と多様性と迫真性を獲得するものだと評価することができるだろう。視覚表現を精緻化していくうえでは、ひたすら煩瑣化していく立ち絵の差分増量よりも、はるかにスマートなやり方であり、はるかに広大な対応余地を含むアプローチであり、そして、おそらくは、これ以上静止画立ち絵の差分増量を続けるよりも低コスト化される可能性のある技術であろうと思われる。これはさらに、一枚絵シーンにおいても、原画家に追加的作業負担を要求することなしに、構図の改変や運動表現の追加といった新たな意味作用を当該静止画に付与することができるようになっている(――もちろん、負担とそのコストが消滅したわけではなく、スクリプト担当者に負担が移転されたということなのだが)。

  2)静止画やムービー素材に代わる、細密なアニメーションの手段として。
  呼吸をしているかのようにわずかに上下動する全身、あるいは画面内空間の空気の存在を(擬似的仮構的擬制的ながら)感じ取らせようとするかのような頭髪のゆらめき、そしてよりいっそう自然なものになったまばたき表現。その動きの細やかさは、少なくともその動きの外形上の細かさと滑らかさに関して見れば、一般的なアニメのそれを、すでにはるかに上回るものになっている(――アニメ表現は元来、そして依然として、強度に記号としてあり、そしてまたゲームもしばしば記号的表現であり、それゆえ記号性-[写実的]精密性という軸はアニメ表現とゲーム表現の特質を検討するうえでたいして重要ではないのだが)。また、立ち絵のポーズ変化を、画像の瞬間的な切り替えに終わらせず、連続性のある変化として見せるだけでも、その意味は大きく変化する。デジタルな切り替えではなく、その変化のプロセスそのものが「振り向き」や「特定の動作」としての特有の意味を持つことができるようになるのだ。例えば、首をかしげる動作や、視線移動とともに顔を横に向ける動作、頭を左右に振っていやいやをする動作などは、このようにアニメーション化されることによって初めて明確かつ具体的な表現として成立した。

  3)キャラクター表現のための賦活手段として。
  第二点とも関連するが、これがまさに美少女ゲームの中でキャラクター性を表現するうえで有効であるという点も無視できない。とりわけ、ヒロインたちの対面配置――部分的に背面立ち絵を採用する作品もあるが、基本的にはキャラクターたちは常に、ずっと画面のこちら側を向いて喋っている――を所与とするこの一般的な画面構成にとって、動き続けるキャラクター立ち絵は、当然ながら、その絵を、あるいはより正確に言うならそのキャラクターを、生きているかのように感じさせようとする。派手なロボットアクションでもなく、巨大構造物を視野に収める激しいカメラワークでもなく、美少女キャラクターたちの感情の機微を縁取っていくという目的のためには、この一見控えめな変化をもたらしているに過ぎないかのように見えるE-moteアニメーションは、その要求を十分に満たしている。

  4)コスト削減?
  ただし、コストについては、よく分からない。どれだけの労力を掛けるかによって変化するため、一概には言えないが、「後から追加的に」、しかも「様々なものを」、「絵を描いたり塗ったりすることのできないスタッフにでも」作り出せるという制作進行上の柔軟性はあるだろう。