2014/11/01

美少女ゲームの中のお手洗いとお化粧

  トイレ遭遇シーン(の過多)のとお化粧シーン(の不在)についての雑感。


  美少女ゲームはいったいどうしてこんなにも執拗に、お手洗いでの不期遭遇を描きたがるのだろうか。私個人の感性としては、「汚くて下品でマナーがなっていない」という意識が先立ってしまうので、残念ながらなんの面白味も感じとれない。たしかにヒロインが下着を下ろして局部を露出している瞬間ではあるしヒロインが恥じらう(よね?)場面でもあるのだが、どうにも得心が行かない。当然のように昔からあった(90年代のタイトルでも目にしたことがある)し、これまでの美少女ゲーム界の累計ではもしかしたら何百枚もの化粧室イベントCGが存在するのではないかと思われるが、個人的にはまったく好みではなく、またあまり長い時間の「間」が保たないシーンなのにわざわざイベントCGの割当を取ってまでそのシーンを描く意味が理解できない。

  どうせ同居生活の中のお色気CGを出したいなら、着替えシーン――更衣中の室内に主人公が誤って入室してしまう――の方がはるかにましだと思う。そちらは同程度にポピュラーだが。あるいは、数少ない肌露出ハプニングの機会としては、風呂上がりCGくらいの方がよほど素直に受け止められるだろう。ただしこちらはきわめて稀だが。(異性との)同居生活で、肌を見せてしまう不測の事態(つまりお色気イベントの発生機会)が生じうるのはせいぜいこの三つくらいだろうという意味では、手洗場での遭遇というシチュエーションが多用されがちなのは分からなくもないのだが。なお、最近では、ヒロインと一緒にゲームをするシーンの一枚絵もそれなりの頻度で出現するが、この場合は下着が(プレイヤーに)見えるのがせいぜいであり、基本的に肌の露出は無い。

  これらが窃視的欲望とはどうやら無関係であることは、その種の直接的行為がほとんどイベントCG化されないことからも窺われる。「悪友が覗き行為を誘ってくる」といった描写は(遺憾ながら)ありふれているものの、その様子が一枚絵として提示されることはきわめて少なく、CG化されるとしてもその視界が直接的に描かれることは無く、せいぜい単なるイメージ映像のような入浴シーンor着替えシーンの一枚絵であったり、あるいは主人公の妄想としての画像であったりするに過ぎない。裏を返せば、WCや更衣室での遭遇イベントは、あくまで故意の行為としての責任を追わない形で、あくまでお騒がせイベントとして作られている。

  そういえば、ヒロインがお化粧をしている場面の一枚絵は、見たことが無いかもしれない。男の娘キャラが変装する時に鏡を覗き込む正面一枚絵なら、いくつもあるが。しかしこの不在は、一応その事情を理解(あるいは想像)することができる。1)化粧シーンには主人公が介在しにくいので、そもそも一つのシーンとして脚本中に置き入れることが難しい。ただし、主人公がヒロインの髪を梳くシーンならば存在するが。同様に、主人公が風呂場でヒロインの身体を洗う一枚絵も(そしてその逆の行動の一枚絵も)存在する。2)特に恋愛ものであれば、「化粧は主人公に見せるためのものであるから、その前段階を見せることは無い」という認識があるようだ。そうであるならば、化粧中のシーンを描くことは、無意味であるどころかむしろ隠されるべき状況ということになる。ただし、その前提となる認識については、私はけっして肯定できないが。3)そもそもヒロインは、アクセサリーは大量に装着するが、化粧はしていない(かのように扱われる)。おそらくは「化粧という作為をしなくてもいいくくらいの美人」ということを強調したいがためだろう(――香りについても、女性の肌の香りとして描写され、香水を使っていることを示唆する描写はほとんど無い。中高生十代に香水は似つかわしくないという認識は、分からないではないが)。

  ヒロインが、自分がもっときれいであるために化粧を奮闘するシーンって、可愛いと思うのだけどなあ……。「ゲームセンターで奮闘するシーン」の方が分かりやすい(あるいは親しみやすい)と受け止められるのだろうか。

  似たようなことは、「下着表現」についても述べたことがある。創作的表現の(現実からの)独立性と、創作的表現の受け手の認識が多かれ少なかれ現実的経験に依拠し現実的感性を参照することになるということの、双方を妥当な形で調停するのは難しい。