2024/07/06

2024年7月の雑記

 2024年7月の雑記。


 07/26(Fri)

 Escu:de新作は、ミステリアスな館もの。血飛沫に彩られたハードな物語に挑戦しているようだ。前世紀からこの2020年代まで生き抜いてきた数少ない古参アダルトゲームブランドの一つでありながら、「エロ」要素だけでなく、「グロ/スプラッタ18禁」「ゲーム性」「ストーリー性」のいずれにも積極的に取り組んで、しっかりした手応えのある作品を出し続けていることに、賛嘆と畏敬の念を禁じ得ない。根っこのところではコマンド式調教SLGのアプローチをしばしば利用しているが、その都度オリジナリティのあるゲームシステムを展開して、深みと広がりのあるゲーム世界を展開している。
 カプセルトイでミニヒロインをキャラ開発していくSLG『ふぃぎゅ@メイト』(2006)の頃から、精緻なフラグ構築によって、物語世界を大きく自由に分岐展開させていく楽しさに満ち溢れている。時計の妖精ヒロインがくるくると変化(へんげ)していくという、デリカシーに満ちたAVG『ワンダリング・リペア!』(2009)。ポケモン風の使役モンスターバトルSLGを、3勢力それぞれを選択してプレイできる記念碑的大作『乙女恋心プリスター』(2010)。10年代の魔法少女ものを先取りしつつ、ダイナミックなSF的時空ものとしても優れた、爽快感のある空中戦SLG『あかときっ!』(2010)。学園内の迷路(進行ルート)を彷徨いながら、心の「天秤」を傾けながら、ヒロイン調教に深く耽溺していく『ヒメゴト・マスカレイド』(2012)。これまた10年代風のキッチュな魔王ものに棹さしつつ、苦みのある物語とシビアなゲームバランスで国中を巡っていく『Re;Lord』シリーズ(2014-2017)。ヒロインの心を攻撃して堕とすという、変身ヒロインものの文法を極限まで突き詰めたダーク系バトルSLG『闇染Revenger』『闇染Liberator』(2018/2020)。姫ヒロインに対する性的調教(性的攻撃)そのものをゲームパートにした『姫と穢欲のサクリファイス』(2019)は、その中に輝かしく英雄的な活躍をするヒロインも登場させるという懐の深い作品だった。『廃村少女』(2022)も、廃村に取り込まれたオカルト-エロティック-ファンタジーを堂々と描ききった。未プレイの『戦巫』(2023)も、『闇染』に近い路線のようだ。ラインアップの中には、しよーもないエロコメ作品もいくつか出しているのは微笑ましいし、20年代は桃組系の三流声優ばかりになっているのは悲しいが。
 しかし全体としては、美少女ゲーム分野らしいモティーフを用いつつ、その都度非常に優れた成果を出してきた。すなわち、美少女キャラクターたちとのベッドシーンを大量に包含しつつ、イベント群をシステマティックに組織化し展開していき、そしてそれをプレイすること――システムの中でプレイヤーが動くこと――に、しっかりとした面白味の手応えが感じ取れる。9月発売の新作はオーソドックスな伝奇AVGになるようだが、期待して買いたい。


 でぼの巣も、新作情報を公開した。最近は、『神楽○○記』のタイトルをいろいろ変えていて、どうも意図や法則性がよく分からないが、最前の『みくるの章』はシステム面(ローグゲームパートのヴィジュアル面)を一新していたし、絵も程良く肉感的で完成度が高かった。次の新作は……「CV:蒼乃むすび」だ!


 今月発売の「朱羅」アップデート版は、中途半端な素体キットだけで出されてもなあ……と見送った。KOTOBUKIYAのことだから、ボリュームのある武装パーツ同梱版をいずれリリースするだろうし、その時に買えばいいかなと楽観している。いや、実際どうなるかは分からないけど。


 たしかに『Romancing Sa・Ga 2』は、SFCゲームの中では、私にとっても三指に入る傑作だ。残る2本は、『カオスシード』は間違いないとして……3本目はどれかなあ。
 結局のところ、ゲームシステムとストーリーが複雑に絡み合ったタイトルが、私の好みなのだと思う。単なる挑戦的な「ゲーム性」だけでもなく、かといって劇的な物語で引っ張るだけでもない。フラグ体系としてのシステムが、物語世界の広がりやプレイヤー行動の自由さを作り出してくれる。いわば「物語シミュレータ」的なメカニズムは、小説や映画とは異なった、インタラクティヴなゲーム媒体ならではの特性だと思うし、そうしたポテンシャルを最大限引き出している作品は、とても魅力的に感じる。
 まさに上記『RS2』も、それを体現している。雑駁に言えば、とある地方の領主が、世代交代を繰り返しながら、領土拡張していき、それとともにラスボスグループと対決していく。領土拡張は、機械的な国盗りSLGの次元だけではなく、イベント(テキスト上のストーリーや選択肢)によっても行われる。テキスト会話を通じて、様々な交渉や協力、対立といった社会関係が展開され、そしてそれを実現するために、ゲームパート(RPG風の戦闘パート)で、交易路を開拓するために走破したり、政治的黒幕キャラを撃破したり、災害現象に対処したりする。ゲームパート(システム)と物語パート(テキスト)が、双方向的に影響し合いながら、ゲーム進行の両輪として駆動していく。しかも、イベントの選択肢や戦闘の勝敗(※場合によってはボス戦から逃げることも)によるフラグ変化は非常に複雑で、それぞれのアクションに対応して多数のイベント差分が発生する。そうした細やかさも良い。それらが全体として、架空世界の広大なマップを踏破していく楽しみを提供し、そしてその旅程は、ミステリアスな敵ボスたち「七英雄」との間の、数千年にも及ぶ対決の歴史を編んでいくことになる。
 『カオスシード』については、これまでも言及してきたが、こちらもダンジョン建設+経営SLGをベースにしつつ、侵入者たちとの間の賑やかなダンジョン防衛アクションゲームパートを含んでいる。さらに、侵入者たちとの間のイベントパートも充実していて、彼等との対応によってはイベント進行(ゲーム進行)も大きく変化する。そして、それぞれのダンジョンマップをつなげていくと、大きなループ/並行世界の物語が見えてくる。SLGパートとACTパートとADVパートが、道教的な世界像とともに、一貫した作品コンセプトを作り上げている。
 こういう私だから、美少女ゲーム(アダルトPCゲーム)分野でも、ソフトハウスキャラEscu:deのようなSLG+ADVスタイルのブランドに向かったのは当然の成り行きだった。「ゲームのためのゲーム」でもなく、「単なる一方的な物語提示」でもない。独自性のあるゲームシステムの上に、意欲的なストーリーが載せられて、複雑なフラグ管理によってその都度さまざまな状況のドラマを形成していく。そういう醍醐味は、小説や映画には無いものだし、ゲーム分野の中でもゲームブックよりも格段に自由度が大きく、また、CRPG/TRPGよりも明確なゲームシステム(大掛かりなフレームワーク)の手応えがある。


 アニメ版『負けヒロ』3話は、靴下を脱ぐシーンのなまめかしさや、身体がグラグラ揺れまくる志喜屋書記の不思議なアニメーションが面白い。それ以外のシーンでも、ちょっとしたところで細やかな所作を付けているし、水道水や波打ち際のアニメーションもきれいで(※シーン構成上も意味がある)、見る者を飽きさせない。ストーリーや画面構成やキャラクター性やテーマ性ではなく、あらためて「動き(アニメーション)の面白さ」に立ち返った作品というのは、珍しいと言うべきか、それとも今風と言うべきか。
 ただし、劇伴の付け方には、やや疑問がある。また、第2話感想でも触れたように、画面レイアウト(コンテ)はやや月並に見える。つまり、画面のありように対して特有の意味づけを与えていくような演出は、やや乏しい。とはいえ、現代アニメでは、そういう次元の関心は比較的弱く、本作固有の欠点というほどではない。また、この第3話でも、冒頭の水道水の漏れ出るところ(=恋愛感情の高まり)や、花火の噴出カット(=感情の激発)のように、そうした言語外(台詞外)の意味づけの試みは確かに為されている。


 室温37度。『たまこまーけっと』の怪鳥「デラ・モチマッヅィ」を思い出しながら、「デラ・ナヅアッヅィ、デラ・夏アッヅィ……」と呟いてしまう。(尾張弁/名古屋弁かよ)


 先日のショップコンテストの応募作品について。
 [ https://x.com/YS_SANNNOMIYA/status/1816404748503073065 ]:「ガオガイガー・ガール&ゴルディマーグ」。造形面では、キットほぼそのままと思われるが、細部のモールドに沿った塗り分けが非常に丁寧で、メカ表現として説得力がある(例えば各部のボルトやセンサー部分)。頭髪のグラデーション塗装も、嫌味にならず、きれいに施されている。正統派で完成度の高い作品。
 [ https://x.com/YS_SANNNOMIYA/status/1816405571031224748 ]:30MS「イルシャナ」と30MMを組み合わせた作品。上から下まで見どころがたくさんあって楽しい。頭髪を細かく筆塗りして毛筋表現をするのは、私も試みたことがあるが、なかなか難しい。華やかな布表現と大ぶりなジュエルパーツも、たいへん魅力的。その下のメカキャラ部分も、美しいエメラルドグリーンに、金色のエッジ塗装が立体感を際立たせているし、装飾的な模様もバランス良く配置されている。これは良いセンス。ちなみに、ガールの足首はロボットの肩パーツと一体化している(※固定展示の都合か、それとも、メカ一体化キャラクターなのか?)。
 [ https://x.com/YS_SANNNOMIYA/status/1817795645031518308 ]:MODEROID「レーシングミク 2022Ver.」。ほぼキットそのままのようだが、頭髪までしっかり全塗装した、隙のない完成度の作品。上腕には、薄めのウェザリングを施しており、それが着衣の生地感や立体感をうまく表現している。ガールキャラのウェザリングは、やり過ぎると下品になる(汚れて見える)ので、コントロールが難しいのだが、この作品は上手いバランスでやりきっている。胴体部分の適度なツヤ消し処理も、キット造形の素性の良さをしっかり引き出している。手袋内外の塗り分けなども含めて、塗装は完璧。
 これら以外にも、ロボット部門の応募作品がいくつも展示されているが、そちらはよく分からない。重厚なミキシングモデルや、金赤黒のグラデーション塗装をした個性的なカラーリングのガンダム、ツィメリット・コーティング(?)っぽい砂漠ザク、オイル汚れなどの丁寧に施したズゴックEなどが展示されていて、それぞれに面白味がある。

 その近所(すぐ上の階)のVOLKS三宮店でも、プラモコンテストを定期的に開催している。ファレホを自在に使いこなす猛者モデラーがたくさんいらっしゃるようで、そちらも物凄いハイクオリティの作品が並んでいる。


 模型趣味とジェンダーについてのモヤモヤ。
 スケールモデル雑誌は、航空機系『Scale Aviation』は女性グラビア写真を掲載しているし(※ノーズアートガールという建前はあるが)、AFV系でもそちら寄りの下品なキャッチコピーを使っている。1/35女性フィギュア塗装記事に「女性遍歴」云々と名付けた『Armour Modelling』には心底失望している。そういう「デリカシーの無い、おとこのこ文化」っぽさは嫌なんだよなあ。
 艦船模型雑誌は、幸いにしてそういったコンテンツと無縁だが、ただ単に「女性の乗員等をフィーチャーする機会が無いだけ」なのかもしれない。また、WWII期の日本軍艦船が中心のため、戦意高揚的な勇ましい煽り文句を無邪気に使っていることが多く、それはそれで辟易する(「巡洋艦○○の勇姿!」とか「戦艦○○の威容!」とか)。太平洋戦争では、IJN艦船がボコボコ撃沈されまくり、それとともに何千人もの乗員が亡くなっているのだし、もちろんその周辺も含めて、その陰惨さから目を逸らして糊塗するかのような姿勢は、けっして誉められたものではない。同様の路線で、『丸』のような、いかがわしい雑誌もあるし……(※昔はまっとうだったらしいけど)。

 昔のマッチョ男性文化に対して、マジョリティ的ジェンダーロールから解放された生き方として「おたく文化」が形成されていったように(※少なくともその当初には、そうしたオルタナティヴの契機があったとされる)、現代のガールプラモ文化も、マッチョなスケールモデル文化や勇ましいロボットプラモ分野から解放された、新しく自由なフロンティアになったという側面はあると思う。
 ガール系の女性モデラーさんは、明らかにスケールモデル分野よりも多いし、また、ガールプラモ界隈は、女性として堂々としていられる場だと思う。模型雑誌でも、腕の良い女性モデラーさんが定期的に作例紹介されている(※それに対してスケールモデル系雑誌では、女性モデラーはほぼ皆無だ)。
 技術面でも、基本的に女性の文化と見做されてきたドール分野から、ガールプラモ分野もさまざまな表現テクニックを大量に摂取してきた(例えば布服表現やドールアイ、そしてジオラマ≒ドールハウス的演出など)。
 残念ながらガールプラモ分野も、けっして十分にフェアというわけではない。若年女性キャラクターを色っぽく表現して公開し合っているのは、いささか憚りのある趣味なのは確かだ。例えば「FAG:マガツキ」のようにヒップ丸出しのキャラもいるし、濡れ透け表現も(実物を見たことがあるが)忌憚なく言えばかなりキモい。しかしそれでも、模型趣味の中での自由を拡張してくれる可能性にも期待したい。上記コンテストにも、女性モデラーさんが参加されている(※SNSでの自己申告による)。


 『神楽漫遊記~桂香と初花~』をプレイ。
 初花ちゃんが解呪するときの「は~い」が可愛らしい。
 システム面では、『みくるの章』のような3Dキャラではなく、従来型のイラストキャラに戻っている。個人的には、イラストキャラのままの方が好み。
 今作は、最初の第1層でいきなり大型雑魚が出現してやられてしまったり(※すぐにロードした)、うっかり警報罠を踏んでしまって大量の雑魚敵に延々追い回されて死にそうになったり(※なんとか逃げ切った)、火炎対策がまったく出来ないまま中ボス「火車」に焼き殺されたり(※ロードして帰還アイテムで脱出した)、HPが減ったところでまたもや大型雑魚に遭遇したり(※なんとか逃げ切った)、終盤階層では「ぬらりひょん」に何度も何度も吹っ飛ばされて(※マップのどこかへ強制ワープ)疲弊したりと、難易度の割に不運な状況が続いた。
 いや、実際には、食糧アイテムを盗んでいく「ヒダル神」や、装備品をその場に強制落下させる「垢舐め」、そして武器盗みと強制ワープを使ってくる「ぬらりひょん」と、足止めの得意な嫌らしい敵キャラが多いのは確かだが。ステージ構成を覚えていなかったので、食糧をどのくらい確保すべきかの見通しも建てられなかった(※ヒダル神に食糧を盗まれた時に、追いかけるべきか、それとも見逃して先に進んでよいかの判断が難しくなった)。
 戦闘面では、「配下妖怪を盾にしておけば、PC本体はかなり長く安全を確保できる。ついでに、ヒダル神に満腹度を減らされたり垢舐めに防具を剥がされたりすることも無くなる。ただし、配下妖怪はわりと脆いので、HPを見ながらの状況判断が求められる。

 それにしても、はるかめぐみ氏と大波こなみ氏の新作出演を聴くことができるとは、なんとありがたい……。はるか氏らしい、柔らかな情緒のある芝居も、大波氏のクリアカットな芝居も、当時そのままのクオリティで聴きごたえがある。
 ただし、往年の美少女ゲーム声優たちも、オンラインゲーム(ブラウザゲームや、いわゆるソーシャルゲームなど)には現在でも出演されている方がいらっしゃるようだ。私自身は、それらのゲームをプレイしないのでよく知らないが(※個人的な信条)。パッケージゲームではなかなか聴けなくなっているのは、やはり残念だ。

 「帰らずの迷宮」第8層の落とし穴(妖怪の巣)で、「神力の封印石」が出てきて驚いた。ボスドロップだけかと思っていたが、道中でも出現する可能性はあるのか? それとも、通常ステージとは異なって「妖怪の巣」ではアイテムテーブルがどこか異なっているのだろうか?
 あまりにも確率が低くて、出現条件の調査も困難なのだが、珍しい事例としてメモしておく。これまで『黎明記』シリーズでの入手経験は4個くらいだが、いずれもエクストラダンジョンのボスドロップだけだった。

 前作『なずなといぶき』をあまり鍛えていなかったと思ったら、……あー、雲外鏡が無茶苦茶なダメージ反射をしてきたからか。クリティカルダメージ999をそのまま反射してくるので、避けようもなく即死してしまう。眠らせたり麻痺させたりすれば、たぶん反射しないと思うが、そうやって動きを止める手段も限られているのでどうしようもない。手裏剣などの遠距離攻撃で悠長に戦っていられるゲームではないし……。
 今作の雲外鏡は、初花の弓攻撃ならば安全に倒せるので、ほぼ無害。先述のように、「垢舐め」「ぬらりひょん」「ヒダル神」といった、接近されると深刻な問題を引き起こす敵キャラが多数出現するので、今作のプレイヤーキャラ選択では初花に絶対的なアドヴァンテージがある。弓攻撃はダメージが小さめだが、それでも接近されるまでに複数回攻撃できるのでダメージ総量が上回るし、配下妖怪を盾にして遠距離攻撃をするという選択肢もある。それに対して、桂香メインで近距離攻撃をしていると、やはり上記の致命的な雲外鏡リスクを負うことになる。桂香ユーザーには、非常につらいダンジョンだろう。ただし、拾った武器や手裏剣を投げまくるという対処法もあるので、理不尽というほどではないが、それでもきついのは確かだ。

 武器に関しては、「絶弓-鬼斬」が、相変わらず便利。一撃必殺をたまに出してくれるので(15%程度?)、雑魚敵を排除するのが非常にスムーズになる。ついでに、岩を一撃破壊できるのもありがたいし、さらに鬼族特効まで付いている。
 付加効果は、弓の場合は「曇りなき(クリティカル)」が良いと思う。遠距離から連射しているうちにクリティカルor一撃必殺が発動して、接近される前に撃破できるので。それに対して、隣接武器の剣や扇子の場合は、隣接された相手の行動をなんとか抑止したいので、麻痺や睡眠の追加効果を持てる方が堅実だろう。通常攻撃が、射程2の範囲攻撃になるというヒーローセットも良いのだが、装備が制約されるし、位置取りに頭を使わなくなるので、個人的には好みから外れる。

 エクストラダンジョンのボス「九尾」は、基本的には与しやすいのだが、たまに不運が重なるとひどい目に遭う。特に悲惨だったのは、「アクセサリーを強制的に外される → 沈黙付与攻撃(アイテムを使えなくなる) → 吹っ飛ばし攻撃で、腹ペコ罠の真上へ飛ばされる(満腹度ゼロ=HP漸減) → 沈黙状態から復帰しようと逃げ回っているうちに、餓鬼を召喚して最後の食糧を奪われる → さらに壁際まで吹っ飛ばされ、しかも沈黙状態も解除できないまま」というもの。後がなくなったので、九尾本体に突撃してなんとか撃破できたが、あれは怖かった。沈黙効果の危険性を再認識した機会でもある。

状態異常所見
鈍足しばらくの間、2ターンに一回の行動になる。対応が大きく遅れるが、なんとかなる。ただし、複数の敵に囲まれた状態で鈍足化を喰らうと、危険度が増す。回復が追いつかなくなる状況が危ない。氷結に付随して発生することもある。
麻痺1ターン行動できなくなる。すぐに復帰できるのでなんとかなる。ただし、重ね掛けでの連続麻痺は、こちらが行動できないまま攻撃され続けるのでかなり危険。
睡眠数ターン行動不能。殴られれば目が覚めるが、重ね掛けでずっと眠らされるリスクもある。2マス先から眠らされる場合もあるので、剣キャラはつらい。
混乱数ターンの間、移動や通常攻撃の方向がランダムになる。範囲攻撃などで味方妖怪を攻撃してしまう場合もある。アイテムや必殺技ならば方向指定できるし、自力浄化することも可能なので、なんとかなる。雷撃に付随して発生することもある。
沈黙数ターンの間、必殺技、アイテム、妖術が使えなくなる。通常攻撃と移動は可能。アイテムによる回復や緊急脱出も一切できないまま、かなりのターンを過ごすことになるので、妖怪の巣やボス戦ではかなり危険。「アイテムを使えない=その間は絶対に自力解除できない」というのも困りもの。
盲目数ターンの間、周囲が見えなくなる。イージーモードや千里眼や異常解除アイテムなどで、敵の位置を判別できれば問題無い。ただし、状況判断を間違えると敵に囲まれたままになって危険。
しばらくの間、HP漸減する。緊急の問題ではないし、プレイヤーキャラの行動を阻害することも無いので、比較的安全。目の前の敵を撃破してから対処すればよい。
盗み所持品を奪われる。ヒダル神は食糧、ぬらりひょんは武器など。垢嘗めは防具をその場に強制ドロップさせる。メイン武器を奪われるとプレイヤーキャラが弱体化するし、防具を失うと被ダメージが増えて危険。また、奪われたアイテムを取り返そうとダンジョン内を探し回る羽目になることも。
武器弱体化効果は小さいが、永続的に武器の性能を落とすのがいやらしい。もちろん、くりかえし弱体化を受けるとどんどん性能低下していく。

 危険なのは「妖怪の巣」(モンスハターハウス)とボス戦なので、あらかじめ「浄化の符」などを用意しておけばいずれも対処は容易。

 登場する妖怪の顔触れも、ばらつきが激しい。例えばイソツビは、『梓紗の章』以降は17作品ずっと欠勤中。サトリは『桂香』以降12作品、野衾は『奏』から15作品、泥田坊は『護』以来9作品、経凜々と百々目鬼は『ましろ』以降8作品で不在。それに対して蝦蟇、枕返し、疫病神は、『涼香』以降の直近8作品で4回も登場している(※いずれも雑魚敵としての登場のみでカウント)。同様に、靫蔓、大蜘蛛、鵺、ぬらりひょん、ヒダル神は8作品中3回。これは、ゲームバランス上の考慮というよりは、アダルトシーンの配分を優先して決めているのだろうから、ばらつきが生じるのは当然だろう。


 手許のExcelリストで数えてみたら、ガールプラモは100個以上買っていた(※ほぼ全てを組んでおり、全塗装制作は5割以上)。ただし、年平均だとほんの14個、価格にしてせいぜい年間7万円だから、趣味としてはずいぶん穏健な部類だと思う(※もちろん、これに加えて塗料代、工具、アクセサリーパーツなどの費用もあるが)。
 制作率の高さは、ミキシングビルドをしていないことの裏返しでもある。上手くミキシングをするスキルが無いし、そもそもキット(パッケージ)を買う際の判断基準として、一流のキャラデザで作り出されたそのキャラクターが気に入って購入しているので。わずかな例外は、FAG「グライフェン」の武装盛り付け実験と、FRS「レーナ」4人セット(with眼鏡)くらいかな。あと、余剰ヘッドをドールボディ+布服に移植して新キャラを作り出すのは何度か実行している。
 艦船模型も、同じくらい購入している。制作率は低めだが、全塗装制作だけで見るとガールとほぼ同数を制作している。艦船模型は、無塗装だとさすがに味気ないし、工作量は莫大で、一つ完成させるにもかなり時間が掛かるので、これは仕方ない。とはいえ、頭を使わずにただ組み立てるだけなら、例えば純正エッチング込みの1/700戦艦「陸奥」でも20時間程度、エッチング全面投入の1/350巡洋艦「摩耶」でも50時間で完成させられたので、それほど無茶な負担があるわけではない。


 異世界転生ものの漫画は、数年前に集中的に読んでみたが、最近はもうほとんど買っていない。一時期は実験的なシチュエーション設定がしばしば試みられていたが、そういうギミックの面白さはなりを潜めていき、異種族ヒロインとのハーレムものばかりが目立つようになったからだ。いや、現在でも創意ある状況設定のタイトルは現れているが、お色気ハーレムを前面に押し出すものが多すぎて、「当たりを引くのが難しいジャンルになった」(つまり、自分にとっての無駄が多く、情報収集コストが嵩んで、選択のリスクが高い)と言うべきだろうか。


 趣味が「推し」活動に乗っ取られて過剰にソーシャライズされてしまったのは、00年代以降の不幸な状況だと思う。私が考えるところでは、以下のような経緯から、そうした動きが形成されてきた。
 1: 商業的戦略。直接的には、アイドル総選挙界隈から、「推し」の発想が広まってきた。ユーザー(消費者)同士を競争させることが、商売のタネになった瞬間だと言うこともできる。オタク界隈では、00年代以降のメディアミックス戦略の進行を通じて、この「推し」競争が広められたと思われる。
 2: オタクの精神文化。それに伴った、オタクたちの行動形態全般も、変質した。80年代以前の「孤高のマニア」でもなく、90年代風の「知識ベースで開放的に交流するネットオタク」でもなく、10年代以降は「みんなで集まって楽しむ」「同好の士が楽しさをシェアする」という姿勢に転換した。それ自体は、必ずしも悪いことではないが、集団主義的傾向や、内輪志向(内-外、敵-味方の分断)にもつながっている。
 3: 経済的条件。趣味は多様化したが、趣味に投じられるお金が増えたわけではないので、競争が激化した。漫画やアニメも本数は増えたが一つ一つのセールスは伸び悩み、サバイバルのために宣伝競争や顧客囲い込みを余儀なくされた。00年代以降の長く続いている不況によって、この傾向がいよいよ強まっている。
 4: ソーシャルメディア。mixiからtwitterまで、00年代後半以降のオタク文化は、SNSとの深い結びつきの中にある。そして、趣味に関わる(自己)表現は、社会関係の中で為されるものだという認識が、自明視されるようになった。ここでは、個人の一方的な情報発信(例えばブログ)ではなく、水平的に趣味の語りをシェアすることが重要な要素だと見做された。……もちろん、それはけっして趣味の本質ではないと思うのだが。
 5: 反知性主義? 90年代頃からの日本は、知識よりも体験を重視するというスタンスに強く傾斜してきた。学校教育の現場でもそうだし、それは趣味のありようにも影響しているだろう。いきなり中身や評価について語るのではなく、まずは当人の自由なインプレッションを第一にする。あるいは、各人が持った印象には口を挟まない。だから、あくまで事前的な「推し」のみが良しとされ、各自が体験した後の言論は軽視される。
 これらは、「推し」文化の成立と拡大をもたらした大きな要因だと言えるだろう。他にもあるかもしれないが、少なくともこの5点は、おそらく確かだろう。

 「優れたものをアピールし合うことで、お互いが豊かになれる」。「ボランティア的な宣伝活動をするのは、ファンとしての重要な役割だ」。「自身のアイデンティティを示すためにも、自分が何を好きかを他人の前で積極的に示す(推す)ことが必要だ」……。それはそれで、分からないではないが、でも、私としては、そういう風習はとても息苦しい。
 このような「推しをするファン」像を裏返してみれば、おおむね私自身の姿勢になる。「趣味は、あくまで個人的な楽しみであって、趣味に関して他者と交流するのは二の次だ。また、趣味は、他人と交流するための道具ではない」。「私は、何かを丸呑みで肯定する『ファン』なのではない。気に入っている作品でも、良い側面と良くない側面の両方を、公平かつ多面的に注視するようでありたい」。「私が趣味分野で何を好きであるかは、私自身の社会的なアイデンティティと直結するものではない。また、私のアイデンティティは、一々他人の前で見せびらかすためのものではない」。

 ちなみに、いわゆる「ネタバレ」を嫌悪する風潮も、上記の「推し」文化と連動していると思われる。コンテンツホルダーたちの商売を邪魔しない、お行儀の良いファンであること。作品をどのように体験するかは、個人のアイデンティティそのものと強く結びついてしまうがゆえに、そこには介入しないように抑制すること。
 もちろん私は、作品については自由に語るべきだと考えている。作者や作品との間に、情緒的な結びつきは求めていない。作品を深く捉えることは、単なる個人的体験(例えば、感激の大きさ)だけに依存するのではなく、幅広い言論の中で知的に掘り下げられていくことこそが重要だ。ただ名前だけを市場で流通させていくのではなく、内容に関する言論をこそ共有していく。私が望ましいと考えるのは、そういうあり方だ(もちろんこれは、アカデミックな知の共有およぴ発展のモデルと同じ捉え方をしている)。
 
 「推し」文化は、どのような積極的効用をもたらしただろうか。 趣味について堂々と公言できるという、コミュニケーションの一つの型を提供したのかもしれない。趣味文化やクリエイターの存立にとって決定的に重要な経済的-市場的な次元を、人々に意識させる作用を持ったのかもしれない。そして、市場を活性化させ、創作者たちを豊かにしたのかもしれない。クラウド・ファンディングに代表されるように、一般市民による広汎なパトロン的活動の可能性を拡げたのかもしれない。そういったポジティヴな現象も、おそらくあるだろう。それらを全て否認するわけではない。しかしそれでも……趣味は第一義的には、自分一人のものであって、他人に対してそれを主張(推薦)するのは、あくまで二次的な部分に過ぎないように思える。


 『To Heart』のインパクトと意義が、歴史改竄されつつある……?
 このゲームは、けっして「新しい作品」ではなかった。それ以前にも『同級生』(1992)シリーズや『ときめきメモリアル』(1994)のような先行作品があったのだし、SFCゲームや漫画、アニメ分野にも、90年代を通じてギャルゲー(ハーレム)のような雰囲気はずっと存在していた。例えば、少年漫画『A・Iが止まらない!』(1994-1997)やゲーム『サクラ大戦』(1996)はその代表例だろうし、さらには80年代以前にも存在していただろう。
 それらの後に登場した『To Heart』(1997)は、ラブコメハーレム世界のパロディのようなものだった。つまり、けっしてオリジンではなく、あくまで派生物だった。例えば、「噂話や流行ものが好きな悪友的ヒロイン」(つまり新聞部キャラの派生)、「廊下でぶつかってくる陽気な米国人留学生」(ラブコメヒロインそのもの)、「魔法の研究をしているお嬢様な先輩キャラ」(李紅蘭や紐緒結奈のマッドサイエンティストキャラと、綾波レイやホシノ・ルリのようなダウナーキャラのミックス)、「冷淡で孤独な眼鏡三つ編みヒロイン」(委員長キャラの派生)といったヒロイン造形は、いずれも露骨なまでのステレオタイプキャラだった。だから、『To Heart』の歴史的意義は、内容的な新しさによるものではない。

では、どのような点にインパクトがあったのか。私見では、以下のポイントを挙げたい。
 1: 美少女ゲーム(アダルトPCゲーム)が、ゲーム性を手放して、読み物ADVになっていく機縁を提供した。ただし、『To Heart』それ自身は、実はかなり凝ったゲームシステムを備えていたし、いわゆる「ビジュアルノベル」形式は、『かまいたちの夜』(1995)や『雫』『痕』(1996)によってすでに確立されていたが。
 2: 当時の言葉でいう、「キャラ萌え」を、徹底してみせた。リアリズムを手放して、ひたすらあざといキャラを詰め込むというアプローチを敢行してみせた。稼動期限のある純真なメイドロボ「マルチ」との儚いラブストーリーは、その典型だろう。ただし、00年代後半までは、アダルトゲーム分野でもハーレム志向はあまり広がらなかった(※「純愛」パラダイムの優位)。
 これら2点から、とりわけ美少女ゲーム分野では、市場的には巨大なマイルストーンとなった。一方では、複雑なゲームシステムを構築することなく、シンプルな選択肢ADVのままでゲーム作品として成立し、セールスも見込めるようになった。技術的ハードルが下がったおかげで、大量の若き才能がPC美少女ゲーム分野に大挙参入する契機を作り出した。また他方で、キッチュでエキセントリックな萌えキャラたちとの心温まるストーリーをお気楽に享受するユーザーたちが、PC(アダルト)ゲーム分野に大挙参入する手掛かりになった。そういう市場的なインパクトを、制作者と消費者の双方にもたらした。
 繰り返すが、内容面では、けっして「オリジン」などではない。美少女ゲーム分野の内部に限って見れば、『ONE』(1997)や『とらいあんぐるハート』シリーズ(1998-2001)のようなフォロワーを大量に生み出した最初のインパクトになった――それは『同級生』では為し得なかっただろう――のだが、しかし、オタク界隈全体として見れば、「80年代ラブコメ(例えば高橋留美子)、を踏まえた精神的パロディである90年代アニメ(例えば『エヴァ』)、のさらなる精神的パロディであるのが『To Heart』」くらいの位置づけが妥当だろう。80年代以来のラブコメ風土は、『To Heart』にとっては、単なる歴史的背景ではなく、明示的にそれを意識してパロディ化したものだった。
 Leafが『To Heart』の2年後に発売した『こみっくパーティー』(1999)は、そういった路線をさらにあからさまに押し出している。「黒髪ロングの寡黙な創作系ヒロイン」、「おっとりして優しげだが怒らせると怖い、年上眼鏡の即売会スタッフヒロイン」、「ドジっ子な年下の印刷会社ヒロイン」など、コメディ的に誇張された萌えキャラ属性をひたすら濃縮した作品が、『To Heart』以来のLeafファンたちを喜ばせていた。

 当時を経験していた当事者である筈の方々も、ずいぶんおかしなことを仰るようになってしまった……。こうして歴史は忘れられ、歪められ、後から作り出されていくのだろう。

 珍しい昔話だと思ったら、あー、リメイクされるので話題になったのか(※今気づいた)。



 07/19(Fri)

 久しぶりに飲酒したが、やはりアルコールは趣味生活を阻害する……例えばSTGのように精密操作と反射神経を要求するコンテンツでは覿面にスコアが落ちるし、SLGでも雑なプレイになってしまいやすい。漫画を読んだり映画を観たりしている最中にも、おそらく見落としが多発しているし、集中力が持続しにくくなる。模型制作でも、酩酊状態でデザインナイフを使うのは危険すぎる。


 アニメ版『小市民シリーズ』第3話は、今一つ。例えば、復讐心に燃えるキャラクターを逆光夕陽で真っ赤に染めていたり、主人公が気持ちを大きく切り替える瞬間に雲間から明るく陽が射してきたりしていて、演出がやや安易に見える。ミステリ(謎かけ)についても、現地確認程度で終わってしまい、推理ものとしての切れ味は乏しい。後半部分の主人公の演説も、声優の芝居が弱すぎて説得力に欠ける。岐阜の坂道風景を楽しむ回……なのかなあ。
 ちなみに、原作をざっと読んでみたところ、台詞回しはほぼ原作のままのようだ。もちろん、尺の都合で適宜カットしているし、モノローグ(地の文)はばっさりオミットしているが、ストーリー進行もキャラクター台詞もおおむね原作どおりになっている。とはいえ、細部の設定はいろいろ変えているし、背景美術や空間演出やキャラクターの表情などは、もちろんアニメ版独自の表現(意味づけ)を作り出している。

 『負けヒロ』第2話は、わりと普通のアニメになってきた。脚本面では、視点人物があっちこっちに行ってまとまりが無いし、コンテとしても無難に説明的な描写ばかりで、美的なインパクトのある絵が少ない。主要キャストの芝居が弱いのも、魅力を乏しくしている(※音量としても劇伴に埋もれているのは、音響監督の不手際だが)。せめて一シーンだけでも、「おおっ、これは良いな!」と思わせる映像を出してくれたら……。
 脚本面では、漫画版とは大きく変えている(※原作小説との異同は未確認)。

 流れの良いコンテ/脚本と、バタバタして落ち着かないコンテ/脚本の違いは大きい。ただし、それをきちんと言語化できるか、つまり、映像表現の諸概念などを使って客観的に説明できるかは、なかなか難しいことが多い。とりわけ音響表現(BGMの変化や、効果音の密度)の様態や巧拙は、言葉にするのが大変だ。例えば、「唐突に明るすぎるBGMが入ってきて不格好だ」とか、「映像の色彩的ムードとBGMの雰囲気がミスマッチに感じる」とか、「映像のカット切り替えのテンポとBGMの速度感がズレている」といったような状況だが、それらを指摘して、視聴者の間でうまく認識を共有されるかどうかは分からない。


 部屋の収納が限界なのもあって、今年は出費を抑え気味に生活している……つもりだが、財布の余裕はほとんど増えていない。実際には、以前とあまり変わらず、いろいろ買いまくっているからなのだが。
 しかし物価要因も、確かにある。例えば一般(青年)漫画の単行本も、十年前であれば税込525円や540円(※ちょうど5%から8%に上がる頃)だったのが、現在では税込850円や880円が、ごく普通になってしまっている。今日も新刊5冊買っただけで4400円だからね……。学生にはつらいだろう(※読むだけならばオンラインの無料配信でかなり楽しめる筈だが、しかしバックナンバーを再読/通読することができない)。裏を返せば、「100冊買ってもせいぜい9万円」、「500冊買ってもせいぜい45万円」だから、成人の趣味としては、依然として割安な部類ではあるが。
 もっと深刻なのが完成品フィギュアで、00年代はたしか1万円台だったのが、10年代を通じて2万円台に上がり、さらに現在では3万円超の商品もありふれている。もちろん、ディテールや塗装のクオリティは格段に上がっているし、海外での塗装人件費の上昇といった外的(国際的)事情もあるのだが、それにしても倍額はきつい。私の場合は、新作を毎週店頭で眺めながら、年に1個買うかどうかというくらいの緩いお付き合いだが。
 スケールモデルは、昔のキットがそのまま店頭に出ていることも多いので、特に艦船模型やエアクラフトは比較的リーズナブルに楽しめると思う。キット一個あたり、2000円台からせいぜい3000円台のものも多い。しかし艦船模型でも、10年代を通じてのFUJIMIキットは4000円前後になったし、近年では中国メーカーの超ハイディテールキットが現れており、それらは価格も1万円前後になっている。さらに顕著なのがAFV(戦車等)で、今世紀に入ってから海外(主に中国メーカー)のハイクオリティキットが大量進出してきて、それとともに価格も高額化した――1/35スケールでも1万円前後が標準的――という状況だ。
 クラシックCDは、今世紀に入ってから、海外(欧米)輸入盤の廉価ボックスセットが大量に出回るようになり、かなり安価に楽しめるようになった。例えば「20枚組4000円」のような破格のセットが、しかもトップクラスの一流演奏家による録音で入手できる。さらに、著作権上の権利の切れた大昔の名演奏も、定期的に発売されている(※音質を改善したリマスターもある)。なので、じっくり聴いていると、「聴くのが買うのに追いつかない」という状況になりがちだった。ただし、最近はあまり買っていない。演奏会(や映画館)のチケット代は相変わらずだが、こういった趣味は自分一人でゆっくり鑑賞したい派なので、箱詰めの上演を見に行くことはなかなか無い。


 昨年書いた関西紹介の記事について。京都、神戸と並んで大阪もマッピング画像を出しておきたかったのだが……やっぱり難しい。これにはいろいろな事情があって、
 1: 出発点を定めにくい。どこに住んでいるか、あるいは、どこから来るかによって最適ルートが大きく変わる(※言い換えれば、どのようなルート、どのようなアクセス手段でも大差ないとは言える)。
 2: 都市全体が大きく広がっており、名所もバラバラなので、ルート進行を想定するのが難しい。これが京都であれば嵯峨野方面(嵐山など)や、東山区方面(清水寺など)のようにブロックごとに絞り込むことができるのだが、大阪ではそれが難しい。
 3: 地上駅(環状線など)と地下鉄が複雑に絡み合っていて表現しづらい。しかも、縦横に各路線が交差しまくっているので、乗り換えなどを説明するのが大変だし、マップにするとごちゃごちゃになってしまう。
 4: そこから派生して、特定のルートを指定する意味が薄い。例えば日本橋を歩きたい場合に、「なんば駅スタートでぐるりと一周する」という人もいるだろうし、「日本橋駅から手早くスタートする」というのもあるし、「恵美須町駅から上っていくのが効率的だ」とも考えられるし、思いきって「動物園前駅からローラー式に北上していくのが好きだ」という人もいるだろう。これら全てをマップに盛り込むことは不可能だし、かといって、選択肢を削ってどれか一つだけを紹介するのも不毛に思える。
 5: 旅行者でない場合は、自家用車orレンタカーがあれば、大阪市内をかなり自由に移動できる筈なので、交通機関での説明をする意義が弱い(※駐車場もそこそこ多い筈、たぶん)。これが京都だと、自家用車を止められる場所がろくに無いし、道路混雑も激しいので、交通機関頼みにならざるを得ない。神戸も、目的地がメジャーなところであれば、ほぼ交通機関だけでスムーズに移動できるだろう。
 6: そもそも私自身、大阪の地理に詳しくないので、適切なルールを紹介できるほどの知識は無い。おおまかな路線構成は把握しているので、自分一人の行動としては、あまり迷わずに目的地に行けるのだが、実際の乗り換えなどを考慮すると、効率的なルート選択ができる自信は無い。

 いずれにせよ、路線網が充実しているので、適当な交通機関パスを持っていれば、かなり自由に動き回れる土地だと思うし、自動車でも移動しやすい筈だ(※例えば日本橋界隈にも、パーキングエリアは多いようだ)。しかし、街全体が広大なうえに、明確なランドマークがあるわけでもないので、駅から目的の施設までの移動で迷ったり、徒歩での距離感が分からなかったりすることがあるかもしれない。それと、繁華街などで治安の観点からあまりおすすめできないエリアもあるのだが、それはそれで説明が難しい。
 個別の話をすると、オタク向けであれば、ミナミの日本橋(ポンバ、ポンバシ)に通い詰めるだけで充実した時間を過ごせるだろうし、そうでなくても、キタの梅田界隈(茶屋町や地下街)を歩いて面白そうな店を開拓していくだけでも当分楽しめるだろう。大阪城界隈や、その南方の天王寺-阿倍野も楽しい場所だ。そういう意味では、依然として、懐の深い街なのだと思う。各種イベントも、関西府県のうちでは大阪のハコが最も恵まれているし、京都/神戸/奈良の隣府県へ観光しに行くアクセスも良好だ。
 私自身は、コロナの国内侵入以降、ここ数年はほとんど大阪に足を運んでいないので、最近の状況はほとんど分からない。また遊びに行きたいけれど、なかなか気が進まない。今月に入ってから、またコロナが大きく広がっているようだし……。


 PLAMATEAはどういう路線になるのだろうか。公称サイズはキットごとに145mm、150mm、155mmとバラバラで、一貫性が見て取りづらい。クオリティ面でも、ディテールは今一つのように見える(※ただし、原作キャラの再現としては、このくらい似ていればひとまず合格だと思う)。それでいて6000円台と高めだし、「創彩」と同価格帯でありながら品質面では大きく水をあけられている。かといって、キャラものとして見ると、完成品フィギュア市場がすでにある(※しかもfigmaは自社ブランドだ)ので食い合いになりかねない。顧客層の想定は、
・原作ファン → 完成品フィギュアで十分では?
・ガール系モデラー → ロークオリティでは勝負が難しい。
・ライトオタク層 → 原作読者の広がりも含めて、このあたりが有望かも。
 「9000円のフィギュアは買えないが、6000円のプラモはちょっと興味を持って作れるくらいの、アニメファンorキャラクターファン」が一定数いれば、なんとかセールスを確保して採算を取ることはできるかもしれない。そうやって事業継続しつつ、製造経験を積んでいけば、どこかでチャンスを掴めるかも、という感じなのかなあ。
 このアプローチは、MODEROIDが試みていて実績があるので、たぶん成算はあるのだろう。つまり、「採算が取れる程度の少数生産で、マニアックなものでもどんどん連発して、そこからたまに大ヒット商品が出てくれれば、全体としては十分元が取れる」という計算は、確かにありだと思う。
 ただし、原作ありキャラだと、服飾デザインがあらかじめ決まっていて、しかもスカートやカラフルな制服など、プラモデルとしての設計を強烈に制約してくるものが多いので、どうしても製造コストは割高になりやすいだろう。注目度(セールス)と製造コストの間のバランスを上手く取れるメーカーであれば良いのだが。

 ちなみに、新興のKADOKAWAプラモも、おそらく似たようなアプローチを採っている。ただし、開発スピードやプラモとしての品質はまだ分からないが、サンプルから判断する限りでは、造形面はPLAMATEAと同水準のように見える。


 MODEROIDブランドについては、
・ディテールはやや簡素だが、
・全体のシルエットは良好だし、
・パーツ構成もシンプルに整理されているし、
・視覚的に外連味のあるキットもあるし、
・他には無い貴重なラインアップもあるので、
・きちんと手を加えてやれば、大きく化けるポテンシャルがある、
という感じ。「エリアル」「グリフォン」「ED-209」「パワーローダー」「かにクレーン」などを作ったが、組み立てだけなら非常に簡単だし、価格もまずまずだし(そんなに高くはない)、ロボットものが中心なので遊び心があってプレイバリューも高いし、パーツ構成はシンプルなので頑丈だし(つまり、動かしても壊れにくい)、それでいて、細部まで作り込めばちゃんと応えてくれるだけの芯がある。
 懐古趣味と思えるキットも多いが、ユーザーからの要望を重視してキット化を選定しているようだから、マーケティングとしての成算に基づく判断だと考えられる。その一方で、意欲的なネタキットも出しているので、全体としては健全だと思える。


 十年以上前からSNSで交流していたり一方的に拝見していたりする方々は、おそらく実年齢では30代半ば以上から50代以上までいらっしゃると思うのだが、現在でも誠実にオタク活動を続けておられるし、投稿内容もバランスの取れた慎重な姿勢でいらっしゃるのは、本当に素晴らしいことだと思うし、人として敬服するし、そしてそういう方々と交流できたことに感謝もしている。というのも、この十数年の間に、差別的で言論運動に取り込まれてしまったり、年とともに(?)世の中に関して傲慢な断言をするようになっていったりする人も非常に多いので。
 危機を煽られて排外主義や性差別運動に走ってしまうことも無く、かといって、世の中から目を逸らして冷笑的ノンポリの中に逃げ込んでしまうことも無く、社会的な問題に対しても健全で公平な向き合い方をする。趣味生活としても、先輩風を吹かせたり(いわゆるROUGAI)、旧作ノスタルジーに沈み込んだりすることも無く、最先端の作品を今でもきちんと摂取し享受できている。人生に疲れ果ててしまうことも無く、もちろん炎上することも無い。そういった陥穽を避けつつ、趣味生活を豊かに維持しているのは、とても立派だと思うし、とても良い人生を送っておられると思う。


 件の漫画家さん、むしろ好感度が上がりそう……。いや、だつぜいは良くないのだけど、意図的な隠蔽ではない(お金にはあまり関心が無い)と認定されたようだし、経理作業が苦手で漫画制作ばかりに打ち込んでいたというのは、可愛らしくもあり、デリケートな方なのだなと思えるし、それだけ漫画に集中していたんだなという意味でもオタクとしては好印象。こういう性格の人物は、責めたくないなあ(周囲もあまり責めないでいてほしい)。ぜいきんの問題もこれできちんと清算されたのであれば、また良い漫画を描いていってくれたらと願うばかり。



 07/14(Sun)

 今年の夏は何をしようかな。
 例年は、時間の掛かる大型艦船模型(50~70時間)を、集中して一気に作り上げるのをやっていた。買って積んであるFUJIMI榛名(1/350)か、あるいは海外艦か……。
 SLGタイトルも50~100時間掛かるが、最近はなかなかプレイできていない(Escu:de作品であれば、30~50時間程度でひとまずコンプリートできるが)。


 アニメ版『小市民シリーズ』第2話。作画単体で見ても、やたら細やかでハイクオリティ。例えば振り向きのアニメーションや、会話中の両手の所作のアニメーションも高精細だし、ケーキカットのスポンジ感の柔らかさや、ミルクをカップに注ぎ入れていくアニメーション、ココアパウダーを入れるアニメーションまで、びっくりするくらい良く出来ている。どうしてここまでやった? ……いや、確かにこの作品でそういう描写をすることに、意義はあるのだが。
 演出面でも、市中雑踏の雰囲気から、磨りガラス越しのユーモラスな距離感、光源演出による情感表現、そして木造家屋のしっとりした雰囲気と空間性(『エルフェンリート』もそうだった)、そしてロングショットの風景描写も堂に入った出来映えで、たいへん見応えがある。劇伴(BGM)も、極限まで減らしている。今回のコンテは武内宣之氏。
 しかし……大多数のアニメ視聴者には受けないだろうなあ。陰々滅々とした会話を、陰々滅々としたままに明晰に表現しているものだから、受け付けないアニメオタクも多いだろう。映像と物語に引き込む力はものすごいのだが。また、演出の割にミステリネタがあまりにもミニマルなのも、もったいない。突っ込みどころも多いので、不満を持つ者もきっといるだろう。心象演出は今回も用いられているが、唐突感が否めない。言葉の上での仮想実験(シミュレーション)であることが判別しづらいのも難点(※途中で何回もココアを淹れているシーンは、実際の行為ではないのだが、それを示すのが服装変化くらいしかないので、非常に誤解を生みやすく、しかも紺色のYシャツを、堂島の黒Tシャツに変えているだけなので、気づくのも困難)。とにかくいろいろとアンバランスすぎるので、観ていてヒヤヒヤする。
 今回は安済知佳氏が出演(※主人公の友人の姉)。生命力のある芝居の中に、神経質な揺らぎが滲むところが聴きもの。「もぉーしかして、小鳩くん?」から始まって、「鍋がなければいけないのよー」、「ぃや、シンクは乾いてるんだって!」のくだりは、ちょっと笑ってしまった。

 原作小説は2004年刊行(つまり20年前の作品)で、かなり時間が経過しているし、評価も定まっており、トリックも含めてそれなりに知られているだろう。だから、ただ普通にアニメ化するのではなく、そこに映像表現としての一味を付け加えるようなアプローチを採ったのは、賢明な判断だと思う。そもそもミステリ作品は、アクションシーンが少なく、会話劇中心になりがちなのだ(※サスペンス寄りの激しい作品もあるけれど、本作はあくまでミニマルな謎解きが主眼だ)。だから、それをアニメ化する際には、ただ普通にアニメーションが得意なだけでは、間を保たせることが難しい。落ち着いた会話劇の中で、そのやりとりの中に細やかなニュアンスを反映させつつ、映像そのもので視聴者を惹きつけることのできるディレクターは、まさに適任だと言える。

 ただし、脚本面は、残念ながら問題だらけなのだが。例えば、なぜ主人公は小佐内を「変装」だと考えたのか(※キャラ設定としてそうなっているだけ?)。堂島姉はいつからいたのか、そしてどういう経緯で小佐内と話し始めたのか(※いたなら最初に挨拶しているべきだが……姉もズボラなのか?)。ケーキを4つ持ってきたのは何故か(※納得のいく説明が無い。元々は小佐内のための2個目だったのが、姉がいたのでそちらにあげた? 小鳩はケーキを手に取っただけで食べてはいないが、堂島姉が食べているのは明らかにそれとは別のケーキだ)。堂島の口元が過剰に汚れている理由は(※フィルムを舐める前にそうなっているのはおかしい)。等々。第1話ではタルトを捨てられたのに、第2話では「盗まれた」と語っているのも不自然(※何かしらの意図的なトリックである可能性は低く、単なる脚本上の不整合と思われる)。
 ヒロインの性格造形も、かなりきつい。余所で嫌なことがあったと述べて、自分にスイーツを奢って宥めてくれと露骨に促してくるキャラは、うーん……。いや、高校生程度なら、そのくらいは構わないし、相互関係のあり方次第ではそのくらいお互いを受け入れるのもあり得るけれど、しかし自分の機嫌を表明するだけで相手を動かそうとするモラハラ的キャラは、いや、うーん……。


 私なりのアニメの見方。本数は極力絞り込んだうえで、一話ずつ、何度も視聴するのが性に合っているようだ。つまり、精読路線ということだが。
 1) まずは通しで観る(全体のトーンと物語進行を把握する)。
 2) 映像演出に着目する(カット、カメラワーク、アニメーション作画、色彩、光源など)。
 3) 音響と芝居に注目して観る(劇伴の付け方、キャラ演技、台詞内容、そして効果音)。
 4) スクショを撮りつつ、見逃しを拾う(気になっていたところの再確認も)。
 5) 場合によっては、原作と見比べる(ストーリー構成や、台詞の照合)。
各回につき、少なくとも4回は視聴している。アニメに限らず、映像作品は音響+映像+台詞(+エフェクト等々)を多層的に組み合わせた巨大な表現物なので、とても一回の視聴だけではとても全体を把握しきることができない。なので、数回に分けて様々な角度でじっくり受け止めていく必要がある。言い換えれば、それだけ注視して取り組むべき価値がある。


 2010年代は、上っ面の芝居ばかりの大根若手声優が数本メイン出演しては消えていくという不毛な世界だったが、10年代末から20年代に入って、状況が変わってきたのかもしれない。芯の通った芝居をする役者たちが、継続的に出演機会を得て、しっかりした個性の手触りをもってアニメシーンを支えるようになっている(※現場的には、ここ数年来のコロナ下での淘汰も影響しているのかもしれず、それはそれで苦い話だが)。


 このブログについて、アクセス統計や、個別ページへのアクセス数を見ているかぎりでは、どうやら以下のような状況になっている。
 ・このブログへのカジュアルな来訪者は、きわめて少ない。該当する検索語を入れても、ggl検索でヒットしないことが多い。毎日3桁程度のアクセスはあるが、おそらくbotなどのアクセスがかなりの割合を占める(後述)。ggl検索経由で来るのは、一日数十件。
 ・ただし、ブログ全体がBANされているわけではない。ただ単にこのブログが、検索ページランクが極端に低いか、あるいは年数が経って「古いページ」と見做されていると考えられる。また、一部のページは、ややセンシティヴな判定を受けている(例:肌色率の高いフィギュア画像)。そのことも影響していると思われる。
 ・特定のページ群に対して、毎日数件ずつのアクセスが、延々(何年も)続いている。ヒューマンアクセスだとはとても考えられないような、比較的どうでもいいページが多数含まれている。おそらくbotか何かによるもので、無視してよい。ただし、こうしたアクセスが、総アクセス数のかなりの割合を占めていると考えられる。

 というわけで、人目を気にせずに漫画やアニメの話を書いても大丈夫だろうと判断している。つまり、人気のコンテンツについて多少批判的なことを書いても、ネットの海にほぼ完全に埋もれるので、妙な検索者に引っかかって注目を集めてしまうリスクはきわめて低いだろう。いや、けっして無茶なことを放言するつもりは無いけれど。
 最近だと、例えば『Vivaldia2』の攻略記事も、ggl全件表示でも出て来ない(※SNSなどの間接的な言及だけは出てくるが、それでは辿り着けない人が大半だろう)。ecosiaでも無理。こういうのは残念だが、まあ仕方ない。幸いにも、ソフトハウスキャラ作品の攻略ページなどは検索ヒットするようだ。ただ、いわゆるエゴサは、基本的には一切しないスタンスなので、詳しい状況はまったく分からない(※今日は本当に珍しく検索してみた)。
 というわけで、目立たずひそかに過ごせるのは本望なのだが、「いつかどこかで、ほんのちょっとでも誰かの役に立っていたらいいなあ」という気分で、資料的なページ群を維持したり、概説的な記事をたまに作ったりしている。そんなこんなで、このブログを開いてからもう十年が過ぎているが(現在12年目)、いつまで続けられるかは分からない。


 ここ数年で、外国人の名前に中黒「・」を入れない人が急激に増えているように感じる。つまり、「アルベルト・アインシュタイン」ではなく、姓名を続けて「アルベルトアインシュタイン」と書いてしまうというもの。個人的には、非常に不気味な書法なのだが、そこそこ知的な方でも平気でそういう書き方をしている。何故だろう?
・観測範囲の問題?(以前からあった?) →かなり特徴的なので、明らかにここ数年の現象。
・どこかで、誰かの影響でそういう書き方が広まった? →想像できない。不明。
・入力ソフトやデジタル環境のせい? →あるかも。ただし、スマホでも十年以上だし……。
 SNSやブログでこういう表記を見かけるが、その度にモヤモヤする。このままだと、例えば「ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル」や「ハンス・シュミット=イッセルシュテット」(※シュミット家とイッセルシュテット家の複合名字)や、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」(※フォンは貴族を示す称号)も、「ゲオルクヴィルヘルムフリードリヒヘーゲル」「ハンスシュミットイッセルシュテット」「ヨハンヴォルフガングフォンゲーテ」と書かれてしまうようになるのだろうか?


 IJN(WWII期)の12戦艦のプラモも、かなり作ってきた。
 金剛(FUJIMIの1/700と1/350)、比叡(FUJIMI 1/700の2種、HASEGAWA)、榛名(FUJIMI 1/700。1/350は未制作) ※霧島は未制作
 長門(FUJIMI 1/500)、陸奥(FUJIMI 1/700)
 扶桑(FUJIMI 1/700)、山城(AOSHIMA 1/700、今日買ってきた)
 日向(HASEGAWA 1/700[航空戦艦]) ※伊勢は未制作
 7艦(10個)を作ってきたことになる。霧島は、なんとなく機会を逸してきたが、いつか作りたい。伊勢は、「日向を制作したからもういいかな」という気分。大和型は、造形が好みから遠いので、おそらく生涯作らないだろう。
 比叡は、12艦の中で唯一、1/350キットがリリースされていないのが悔しい。モデラーにはスクラッチビルドで作るという選択肢もあるのだが、私にはそこまでの技量も知識も時間も無い。
 日露戦争期の艦船や戦間期キット(例えば金剛型初期)なども買って作ったりしているが、そのあたりの時期は艦船モデラーの間でも影が薄い。もったいない……。


 一昔前(2010年頃)は、アニメのOPムービーは、音楽(主題歌)のテンポに合わせるように映像のリズムを作っていることがわりと多かったと思う。例えば、音楽が速いビートを刻むところではカットを高速にパパッと切り替えていく――そこに思わせぶりな絵を詰め込む――というのが定番演出だった。しかし、最近はそういった執拗なマッチングは減っているのかな。90年代の『エヴァ』から十数年で、そういうこれ見よがしな表現は飽きられてきたのだろうか。あるいは、主題歌に使われる音楽の側が変質しているのかもしれない。


 作品を語れ。口を噤ませるな。
 作品の内容を語ることを「ネタバレ」といって禁圧する動きが近年いよいよ強まっているけれど、そうやって作品の語りを封殺しようとするのは、本っ当に嫌なんだよね……。論拠や意義はこれまでも述べているから細かくは繰り返さないけれど、「他人の言論姿勢に対して平然と介入しようとする傲慢さ」、「作品理解を深めあう知的な営みを放棄して、ただ初発のインパクトばかりを崇めること」、「商業的都合に対して唯々諾々と従う忖度的姿勢」、「いつまで、どこまで制限すればよいのかといった基準すら明示されない、恣意的な掣肘である」、等々。
 もちろん、例えば「ミステリを読んでいる最中の人に対して犯人を教える」といったようなものはすべきではない。しかし、現在の「ネタバレ」抑圧は、際限なく拡大していて、「作品の内容について、他人の耳目に触れるところでは語るな」といったほぼ全面的な封殺圧力が罷り通っている。なんとなくマナーっぽいものに対して無反省に追従し、善意のつもりでお互いの足を引っ張り合うという悪しき集団主義的行動の典型でもあり、本当にうんざりする。
 作中で誰が死ぬとか誰が付き合うとかいった単純な事実は、作品の実質の中でも最も表層的な情報にすぎない。そのプロセスがどのようになっているか、そのディテールがどのように形作られているか、そのムードがどのように感じられるか。その成り行きから読者個々人がどのような印象を受け取っていき、どのような作品観を構築するか、そのように細部と全体を中止し続けることこそが重要なのに。そうした営みを始めていくための最初の一歩を圧殺しているに等しい。
 ちなみに今回の火元は、これ[tw: 1813740475771478211]。こんなふうに優しげな声で善意めかしながら消費者行動にまで一々口出ししようとするのは、ずいぶん厚かましいなと思うし、こんなものが大多数の人によって当然正しいことのように受け止められているのがなんともやりきれない。もしもよほどデリケートな内容が含まれるのであれば、読者個々人が判断して自制するかもしれないし(出版社は黙ってその良識に期待すべきだろう)、逆に、悪意あるユーザーであれば、こういう告知を無視してデリケートな内容を触れ回るだろう。

 このブログでは、ゲームや漫画のストーリー面にも言及している。例えばゲーム作品の全体構成を展望するうえで、個々のエンディングの内容を比較することも必要になるし、キャラクターの言動を細かく分析する際にも、もちろんストーリー展開との関わりで述べる必要がある。これは、言い換えれば、「ストーリーを絶対視しない」ということでもある。重要なのは、コンセプトであり、演出であり、構成であって、ただの筋書きそれ自体にはそれほど決定的な意味があるわけではないと考えている。この姿勢は、
・文学研究や美術研究のような取り組みとしては絶対的な知的前提だし、
・これまでゲームの攻略記事を手掛けてきたキャリアから形成してきたスタンスでもあるし、
・モデラーとしても、印象的なシーンをオープンに扱うことに慣れている。
 模型雑誌でも、アニメのクライマックスシーンのジオラマ化作品が早々に掲載されたり、劇場版の新コスチュームが商業フィギュア化されたりしている。そのくらいオープンで風通しの良い世界の方が、私たちみんなを豊かにしていくだろう。



 07/06(Sat)

 関西もいきなり気温35度に達したので、割り切って冷房を使う。
 就寝中は扇風機だけでも、(少なくとも気分としては)やり過ごせるが、気をつけていく。
 日本に来たばかりの(1回生の)留学生たちも、この酷暑は大変だろうなあ。


 神戸守監督のアニメ『小市民シリーズ』第1話を視聴してみた。
 情緒のある空間演出から、印象的な光源表現、寡黙で訥々とした会話劇(劇伴も控えめだ)、意欲的な二重写しに至るまで、まぎれもなく神戸氏の映像になっていて満足。『エルフェンリート』の頃から、カメラワークや演出がいかにも実写寄りだと思っていたが、本作の画面レイアウトはシネスコ(極端な横広)サイズになっているし、エンドロールでは本当に実写映像になっていて、しかもそれが見事にハマっている。さすがだ。
 ただし、脚本面では説明不足と取られそうな描写もあるし、不快なキャラクターも登場する(※ミステリ分野では仕方ないのだが)。映像美とトリックへの興味だけで視聴者を引っ張っていけるかどうかは、いささか懸念がある。例えば、心象風景シーンであることを示すためには、口パクさせずにおく方が良かったと思う。
 なお、クレジットから察するに、どうやら岐阜が舞台になっているようだ。

 ちなみに、今期アニメでは『負けヒロイン~』と『しかのこ~』も実写EDになっていた。何の偶然?

 『負けヒロイン』(第1話)は、アニメーション媒体ならではの特性を活用した、遊び心のある見せ方がたいへん魅力的。例えば、キャラクターたちの表情のちょっとした崩し方や、唐揚げをポイッと放ってくるタイミングの面白さ、ヒロインが空中から飛び出てきたようなカット割りのユーモアなど。もたれかかっているカバンを引っ張り上げられてコテンと倒れた少女のアニメーションも楽しいし、妹が飛び込んでくる瞬間の動きも躍動感があって良い(※ただ単に身体の物理的な動きをべったり描写するのではなく、それを映像的なダイナミズムやリズムとして表現するのが素晴らしい)。背後から友人に抱きつかれていたところを、ヌルリと身体をしならせて抜け出すところも、映像として一味加えているし、状況表現の視覚的な楽しさとしても上手い。風になびく長髪のアニメーションや情景カットの美しさ、そして錆びた金属の質感なども、きちんと視聴者の印象に残すように作られている。また、カットの切り替えも、台詞の流れとぴったり合わせるのではなく、映像の方が一瞬早く切り替えていくので、ぐいぐい進むスピーディーな推進力を感じさせる。展開にチープなところはあるし、声優の芝居にも不満があるが、「絵をアニメーションさせる気持ち良さ」という観点では抜群の出来だろう。
 本作の漫画版は(第1巻だけ)読んでいたが、あちらもたいへん上手い漫画だった。第2巻も出ているようなので、買って読もう。

 『しかのこ』は藤田咲氏主演をじっくり聴けそうだという点は素晴らしいのだが、00年代風の悪ふざけノリが満載で、さすがに視聴を続けるのはつらい。


先日書いたとおり、プラモデルコンテストに参加してきた。キットはKOTOBUKIYA「金潟すぐみ:臥薪」。9月初頭までは店頭展示されている筈。

 目指していたのは、下記のようなパッケージアート再現。上の写真ではちっとも似ていないが。

 上の作品がいかにも自分らしいアプローチだなと思うのは、
・パッケージアートを、キットの構成要素として重視する。
・オリジナリティのあるキャラアレンジは出来ない(=基本的にキットのまま)。
・格好良いポージングも、自分では作れない(=パッケージアートの模倣)。
・色彩のチューニングに注力する(※一見すると指定どおりだが、実際はかなり変えている)。
・お色気要素は、ほぼ消去している(※キットパーツでは、脇腹が素肌になっていた)。
・つやつやのグロス部分とマット(ツヤ消し)部分で、はっきりした対比を作りたがる。
・汚しを入れるのは、好みではない(※スミ入れもしていない)。

 ちなみに、私はかなりのイージー制作派で、ヤスリがけによる面出しやエッジ整理もしていないし、サフ吹きによる表面処理とトーン調整もしていない。艦船模型だと、それでもそこそこ通用してしまう――というか、パーツやモールドが繊細すぎてそういう処理が出来ない――のだが。航空機プラモやロボット模型でも、私はこれらの作業を横着(省略)してしまいがち。
 さらに言うと、仮組みもほとんどしない。いや、個別のパーツフィットの事前確認はしているが、仮組として全体を組みきってしまうことは無い(※時短のためと、バラすのが大変なので……)。パーツを切り出しながら全体構成を把握したら、可能な範囲で本番組み立て(接着組み立て)をして、そこから一気に各パーツを塗装して、そして最後に全パーツを組み立てて完成というシンプルなプロセスでやっている。これも艦船模型流儀。……あっ、いや、私以外の一般的な艦船モデラーは、もっと真面目にキットと向き合っておられるが。艦橋の多段組みのように、どうしても個別に塗装してから準場組み立てていくという方法にならざるを得ない箇所がある。
 上の作品でも、よく見ればパーツのヒケが各所に残っているし、エッジもキットパーツそのままでちょっとダルい。しかし、「作業量の負担」と「完成時の満足度」を天秤に掛けると、私の中ではこれが最善のバランスになっている。とりわけガールプラモの場合は、あらかじめ塗料調色の段階で好みの色合いにチューニングしていておけば、完成状態での(あくまで私自身にとっての)満足度も保証済みになる。
 上記「金潟すぐみ」のキットパーツは、成形色はもっと濃いめのブルーだった(おそらくティターンズブルー)。それをビビッドなコバルトブルーにすることで、くっきりした明るさとヒロイックな華やかさを与えている。大剣の刃先(イエローグリーン)や、頭髪のブラウンも、成形色からかなり変えている。いずれも、パッケージアートの色調を再現するように調色-塗装していて、つまり、私自身のオリジナリティは皆無。

 模型ショップが主催するコンテストは、双方にメリットのある良い企画だと思う。
 モデラー側としては、「他のモデラーに見せたい(誇示したい)」とか、「作品を見せ合いたい(コミュニケーションのきっかけにしたい)」、「模型制作に関して新たな刺激を受け取りたい」といった様々なモチベーションになる。
 模型店の側としては、「魅力ある完成作品を多数展示できる(つまり、事実上タダで宣材を入手できる)」ことを意味し、それによって新たな顧客を誘引したり、既存の顧客のキット購買意欲を刺激したりできる。イベント開催それ自体の金銭的-労力的な負担はかなり小さいと思われる。
 その意味で、win-winの企画だと言ってよいだろう。私自身は、「毎週いろいろ買ってお世話になっている(割引品もあった)ので、せめてものお返しとして、私のちょっとした作品が賑やかしになれば」というつもりで参加した。正直に言えば、目立ちたくはないのだが、客側として義理を果たすつもりで参加した。
 同様の趣旨で、以前(2021年11月)にも店頭コンヴェンションに参加したことがあるが、あの時は別のモデラーさんと「ED-209」どうしで駄々被りしてしまうという、ちょっと申し訳ないことになった。幸いにも別の店舗だったし、そちらの方は凝った作りのジオラマ形式で大賞を獲得されていたが。

 今回のコンテストは、現時点では、もう一つの企画(1/144ガンプラコンテスト)の方に作品が集中していて、ガールプラモはまだほとんど出ていない。ガンプラ作品が8個くらい、ガールは私のを含めて2つだけ。えっ、そんな……みんな、ガールが好きじゃなかったのかー! ただし、申込〆切までまだ1ヵ月以上あるので、どちらもこれから増えていくだろう。
 ちなみに、今回は「その店で買ったキット」の中から選んで出した。特定店舗でのイベントなのだから、そのくらいには義理を通すべきだろう。

 ちなみに、上記リンク(vivaldi)のmstdnアカウントは、今後常用することはもう無いだろう。連絡や動作確認などのために、ごく稀に投稿したりするかもしれないが、あそこに私のソーシャルな帰属を置くことは無いと思う。いろいろと感謝はしているのだけどね……。


 Good Smile Companyのガールプラモは、MODEROIDと同じようなアプローチでやっていくのかな。つまり、「既存キャラで」+「他社とぶつからないマイナー路線で」+「摘まみ食いで」+「たくさんリリースしていく」という手法。そうだとしたら、
・構造面では、ロボットよりもガールの方が流用が利くので、新作を連発しやすいかも。
・クオリティ面では、パーツ精度は低めだが、意欲作もわりと出てくるかも。
・レギュラー化せず、作っては売りきっていくもりかも(つまり、再生産はしない)。

 chitoceriumシリーズやMODEROID「レーシングミク 2022Ver.」くらいの品質であればひとまず合格水準だし、いろいろなキャラクターをプラモデル化してくれるのであれば歓迎したい。「程々の色分け+細部はデカール」という構成であれば、モデラーとしても扱いやすいし、価格もリーズナブルだろう。とりわけ服飾面でのパーツ多様性が拡大するのは、ガールプラモ分野全体にとって好ましいことだと思う。
 とはいえ、GSCとMaxのどちらが制作主体なのかは分からない。Max側(つまりGuilty Princess並)だとすると、かなりきつい。なので、個人的には、あまり期待していない。


 映画については、興味のまま散発的にディスクを買って観るだけで、特定の監督を追い続けるということはほとんどしていないし、それゆえ、どの監督が「好き」だと言うこともできない。個別に印象深い作品はたくさんあるのだけど、それを監督一人に還元して評価できるほど詳しく観ているわけでもない。
 作品をディスクで(ほぼ)全て集めている監督としては、キューブリック、タルコフスキー、……えーと、そのくらい。見てのとおり、映像そのものを堪能できるのが好み。有名どころだとコッポラ、ヴァーホーヴェン、フィンチャーあたりも、わりと意識的に観てきた。ベッソン、ブロカなどのフランス系作品もわりと好きな部類。ヴィスコンティは何本か観たけど、よく分からなかった。ノーランは、いかにもnot for meっぽいので、ほとんど観ていない。繰り返し視聴している回数が一番多い洋画は、たぶん『アマデウス』(フォアマン)か『シャイニング』(キューブリック)、あるいは『エイリアン2』(キャメロン)。