2025/06/07

2025年6月の雑記

 2025年6月の雑記。

 06/15(Sun)

 漫画、模型、CDなどの趣味費用については、毎月一定額を下ろして店頭現金払いで扱うようにしている。主な理由は「カード類を使わないようにする(プライヴァシー考慮も含めて)」、「可能なかぎり店舗にお金を落とす」、「濫費を防止する」の2つだが、今のところは円滑に維持できている……のだが、今月はまだ半ばなのに、残金が、残金がもう……ウボァー


 海外(英語圏など)のアニメ界隈は、日本語圏よりも上質かつ大量のオンライン情報が揃っているのでは……と思う。定量的な比較などはできないが、とりわけアニメに関する掘り下げた分析的批評サイトや視聴サポートサーヴィス(視聴リストなど)が充実しているようだし、漫画作品に関するまとまった刊行情報も、草の根レベルで整備されている。

 日本語圏だと、
・せいぜいwikipediaくらいで、それより詳しい情報はなかなか見つからない。
・掘り下げた分析記事が極端に少ない(※娯楽的なネタ記事は多い)。
・周辺的なサーヴィスも、公式や通販などに大きく依存している。

 最新のアニメや漫画について、きちんとした裏付けのある批評記事を、迅速かつ定期的に掲載していくというおそろしく活動的で生産的なジャーナル的サイトがいくつも存在するのは、正直に言って羨ましい。
 もちろんこれは、様々な事情があるだろう。考えられるのは、例えば「英語圏≒全世界なので、参加している人口規模は日本人オタクよりも多いかもしれない(とりわけ、上澄みのマニア層は日本よりも多い)」。「社会や政治と絡めた多角的な批評行為が、(日本ではほぼ失われたが)海外ではそういう姿勢が生き残った」。「技術的にも、大学の映像学などの知見を援用できる(そういうアカデミックな分析のできる人材が日本よりもはるかに多い)」。等々。

 日本のオタクたちは、ものを調べなくなったよね……(私自身も含めて)。あるクリエイターの新作がリリースされたら、作者の旧作をきちんと掘り返して、周辺人物や当時の時代状況まで視野に入れて、丁寧な実証とともに大掛かりな展望を作り上げる。そういうことをやるマニアがいなくなって、あるいは、目立てなくなって、ただSNSで「ちょっと噛んで吐き出す」だけの感想をシェアするばかりになっていった。
 私自身、何人かの漫画家について継続的に読みつつ、インタヴューなどの関連資料も集めて情報を組織化し、それをまとまった形で作家論として書くくらいまではやっていた(……以前は、ね)。アニメやゲームについても、特定の技術的アプローチを構築しつつ、それを表現論(演出論)として結実させられるような作業もやっていた(……中途で止まってしまったけど)。
 そういった、私(たち)がやろうとしてきたこと、やろうとして貫徹できなかなったことが、グローバルな世界で実を結びつつあるのは、嬉しくもあり、また悲しくもある。

 いや、もちろん、一括りに「海外」と言っても内実は多様で、その大半はやはりカジュアルな享楽的消費者だったり、ただ素人的に楽しむばかりでアウトプット(自分なりの定見)を作り出すには至らない層だったり、SNSで叫んだりコミコンで騒いだりする人々だったりするだろう。
 しかし、本格派の上澄み部分については、日本語圏に劣らないどころか、ものによっては、「このテーマについてこれほど精密に渉猟分析した記事は、日本ではまず現れないだろう」と感嘆させられるようなものに出会える。……やはり、羨ましいし、忸怩たるものがある。

 ほんの一例を挙げると、GGシリーズの「ブリジット」について、
 原作上の描写を正確に――たぶん正確だと思う――整理しつつ、00年代以来の制作サイドの証言や当時の受容史も掘り起こしつつ、そして最新作に至るまでのキャラクター像の変遷とその意義を緻密に跡付け、そして筋の通った視点から公平かつ明晰な展望を示している。これほどのクオリティの記事は、日本語圏でも(あるいは、日本語圏では)なかなか目にすることができないだろう。

 というわけで、日本語圏のオタク界隈も、あらためて知的で公平な――いわゆる第二世代的な――生産性を取り戻していってほしいのだが……。

 日本語圏≒日本人オタクたちの共同体が、今後どのような位置を占めることができるのか。つまり、日本のアニメや漫画が、もはや日本「固有」のものではなく、ただ単に日本「発」であるにすぎず、グローバルに享受されている状況下では、日本のオタクたちの受容史の文化的蓄積はただのワンオブゼムになっていくだろう。
 言い換えれば、日本のオタクたちが、「たまたま母語で大量の作品を最速享受できる大規模な集団」であるにすぎず、そこから自分たちでは何も批評的なものを生み出せず、自分たちの閉じたコミュニティの中でじゃれ合っているだけで、他の文化圏との間でろくに交流もしないままであるならば、私たちにはもはや何の優越性もなく、そして他言語/他文化/他地域の趣味人たちから尊重も尊敬もされないだろう。いや、べつに尊敬されなくてもいいのだけど、国際的に見て「せっかく恵まれているのに役に立たない、つまらない集団」になってしまうのは悲しい。そうなっていく可能性は高いのに。
 日本(のオタク)たちが、なまじ人口規模が大きくて内部だけで自足できてしまったのも、上記のような閉鎖性をもたらした一因だろう。また、10年代以降の過剰なSNS依存も、国際平均を大きく上回っており、換言すれば、その場限りの言いっぱなしや注意散漫な実況コメントに最適化してしまい、腰を据えた慎重な言論の場を作ることに失敗してきたということでもある。良くないよね……そして、もったいないよね……。


 やっぱり『Armour Modelling』誌は駄目だわ……。グラビア表紙なんかにするなよ……。航空機模型誌の『Scale Aviation』も同じことをずっとやっているし、模型雑誌界隈に鈍感マッチョ気質が蔓延ったままなのはガッカリする。
 ただし、模型展示会イベントに参加してみるとほとんどは落ち着きのある礼儀正しい男性ばかりなので、たぶん雑誌編集部界隈だけが特におかしいのだと思う。隣接領域でいうと、モデルガン雑誌もひどい。
 スケモ総合誌『Model Art』と艦船模型誌だけは今のところ健全だが、ただ単に艦船模型はグラビアを入れる余地が無いというだけのことかもしれない。もしも仮に、例えば水兵服や水着のグラビアシリーズが始まったとしても驚きはしないだろう(※悲しみはするけど)。


 京都人でなくても、「そうだ、飲み物でも持ってくるよ」「いや、ああ、もう帰るわ」くらいのコミュニケーションはしている筈だし、「京都人=底意地が悪い」というのは地域的偏見そのものなので、ああいうのをネタにすべきではないと常々思っている。


 今後の政治状況では「参」の字が最も破壊的な存在になっていくかもという危惧をずっと抱いている。Nの字のように属人的なセンセーショナリズムで頼るのでもなく、維の字のような旧弊的な体質を引きずることもなく、一見クリーンな主張と邪悪な反科学的思想の両面を巧みに使い分けながら粛々と組織立って若年層を大規模にカルト的主張へ引き込みまくっている手腕が、上手すぎて怖い。現在でもすでに単なる泡沫政党を脱して独自の勢力を確立していると言わざるを得ないし、長期的に見ればいよいよもって政治的に危険な状況だ。合理的な手段を冷静に遂行できる組織的カルトって、最悪よね……。どのような人的背景、いかなる財政的基盤、どんな組織構造で動いているのかを明らかにして、全力で対策していくべきなのでは……。


 『たまこまーけっと』のデラ・モチマッヅィ君に倣って、「デラ・ナヅアッヅィ……」と漏らしたくなる気温。

2025/06/06

漫画雑話(2025年6月)

2025年6月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 眞山継(まやま・けい)『シャンバラッド』第1巻(アフタヌーン)。チベットとおぼしき架空国家(※作中の中国は清代らしい)。主人公は、追放された一族の末裔であり、その一方でヒロインは、未来予見や運命予知のできる特殊な幼体固定シャーマンとして国の中枢にいる。その二人が協力して、国の運命を変えていこうとする物語のようだ。舞台設定は個性的だし、意志的なヒロインも魅力的、さらにその「占い」異能も物語の緊張感を上手く引き出している。作画はやや簡素だが、インパクトと手応えのある作品になってくれそう。期待したい。作者はこれが3度目の連載のようだ。『3×3 EYES』かよとか言わない。三つ目キャラが出てくるけど。
 宵野コタロー『滅国の宦官』第1巻(ジャンププラス、原作あり)。こちらはトルコ(オスマン帝国)風の架空世界。主人公は少年宦官として後宮に入り、3姉妹の世話をしながら廷内の殺人事件に取り組んでいく……という話のようだ。お色気要素は多少あり、全体の掘り下げはまだ感じられないが、舞台設定にオリジナリティがあり、豪奢な衣装や特殊な慣習などに大きな個性が見出せる。
 林守大『Bの星線』第1巻(ジャンプ、小B6判サイズ)。ベートーヴェンが現代日本に蘇っており、それを助けた元ピアニストの少年とともにいろいろやっていく話のようだ。ベートーヴェンのごつい体格の描写や、ピアノ演奏シーンの迫力も良いし、コマ組みもたいへん独創的かつ効果的で、コマを階段状の段々に配置したり、五線譜模様を枠線として使用したりと、非常に面白い。カメラワークも大胆。一発ネタのように見えたが、読み続ける価値がありそうだ。なお、作中に登場する不思議な鍵は、作者のデビュー作(?)の短編「GO BACK HOME」にも同じ形状の鍵が描かれている(※ただの小ネタかも?)。
 志村貴子『そういう家の子』第1巻(スピリッツ)。架空の新興宗教の「宗教2世」たちの物語。オムニバス風だが、次第にキャラクターたちの関係が形成されていくようだ。特異な文化集団で生育した若者たちが、外部世界との溝やアイデンティティ問題に触れる有様を、落ち着いた筆致で描いている。良い作品になりそう。
 のゆ『新聞記者ヴィルヘルミナ』第1巻(アルファポリス)。16世紀ドイツ風の架空世界。主人公は過去に、「疫病は魔女のせいだ」というデマのせいで母親を失っている。現在の街でふたたび同種のデマが生まれつつあるのを見て、主人公は本当の実態を調べ上げて人々の行動をとどめようと決意する。一見するとシンプルな物語だが、非常に多面的な性格を持つ作品になりそうだ。すなわち、「デマで荒らされている現代社会の寓喩」、「ジャーナリスト活動のドラマ」、「近世ドイツ社会の生き生きとした描写」、「自立して生きようとする女性の物語」、「トラウマを克服しようとする主人公の物語」、等々。作者は過去に『赤髪の女商人』という作品も連載しており、そちらも近世ドイツ風の世界で商才によって生き抜こうとする自立した女性のドラマのようだ。買い揃えて読みたい。
 竹掛竹や『吸血鬼さんはチトラレたい』第1巻(講談社)。吸血鬼ヒロインは、監視役の青年に好意を抱いているが、もう一人の吸血鬼に吸われた後の彼の血液は普段よりも甘美だった……という物語。寝取られならぬ血取られという冗談のような作品だが、キャラも良いし表情も色っぽい。ネタ切れにならないかぎりは、ひとまずついていこう。作者は本作以前に、自撮りネタのフルカラー漫画(※電子版のみ)を連載していたとのこと。
 朝際イコ『カフヱーピウパリア』(単巻)。震災直後の大正時代関東のカフェ。相貌失認の少女や、長身にコンプレックスを持つ女性、そして震災のトラウマで緘黙症になった少女など、社会性やアイデンティティに苦しみを抱いている女性たちが働いている。彼女たちはこの繭(ピウパリア)で働くうちに、次第に自分を解放する道を見つけ出していくのだが、そこには依然としてカフェオーナーの不気味な欺瞞性を初めとした男性社会の抑圧が存在し続けている。女性のエンパワーメント意識に導かれた作品として誠実であり、また物語としても繊細なニュアンスを湛えており、そして漫画構成および作画の面でも充実している。


●カジュアル買い。
 月ノ輪航介『ネットできらいなあいつの消し方』第2巻(完結)。表紙買いをしてみたが、モティーフは意欲的だし、問題意識も真摯だし、絵作りにも力があり、キャラクターの動かし方もなかなか大胆。他の作品も買って読みたい。

 石黒正数『ネムルバカ』(単巻、新装版)。大学生二人の寮生活。先輩はかなり才能のあるインディー系バンドボーカルだが、無軌道な暴走をすることがある。後輩は後輩で、自分が社会とのつながりをどのように形成していくのかが見えず、人生に迷っている。そして最後は、やや破滅的だが開放的なカタルシスを……それを目指したようだが、そこに到達できたかどうかは分からない。
 例えば安倍吉俊(1971-)が『NieA_7』を刊行し、木尾士目(1974-)が『四年生』『五年生』を連載していた90年代後半から00年代初頭の雰囲気が、この作品にも残り香として漂っているように感じる(※石黒氏は1977年生まれで、本作は2006-2008年の連載とのこと)。つまり、徹底的に自由なバンカラ的アナーキーと経済的に貧しいモラトリアムを楽しみつつ、同時に社会との関わりを求めてやけっぱちに無謀な行動に走ろうとするが、結局はそれほど大きなアクションを取れるわけでもないという悲壮な小市民的熱気が、おそらくこのあたりの世代にはあったのだろう。
 20年代の現在でも、似たような方向性の作品は多数存在する。しかし現代のセンスだと、キャラクターたちはもっと穏やかで、過激な暴走には向かわず、そして小さな人間関係の機微をもっと掘り下げることに集中して、大文字の「社会」との対決はひっそりと回避するだろう。2006年と2025年、つまり19年の時間的懸隔を意識しつつ、しんみりしてしまった。


●続刊等。
 空空北野田『深層のラプタ』第4巻(完結)。終盤はどんでん返し展開を連発しつつ、また外連味のあるレイアウトも効果的に用いつつ、この苦くも不気味な物語を締め括った。ショタ漫画でもあり、また神戸漫画(三宮など)でもあり、いろいろと満足。
 雁木万里『妹は知っている』第2巻。オフライン生活では寡黙な兄は、ラジオリスナーとしては抜群の面白投稿を連発している。そしてアイドルの妹(だけ)は、兄のそうしたユニークな価値を知っているというギャップ状況。全体としては穏やかな進行だが、ユーモラスな回もあれば、苦みのある回もあり、作中で描かれている投稿ネタもなかなか面白い(※プロのエンターテイナーが「大喜利協力」としてクレジットされている)。
 増田英二『今朝も揺られてます』第2巻。JR神戸線とおぼしき路線に毎日乗り合わせる中学生二人の初々しい恋愛未満状況と、それを秘かに見守る乗客たちの暑苦しいリアクション。ラブコメに観察者を取り入れたのは面白いし、内気で奥手なヒロインが抜群に可愛らしい。「朝露駅」は、明石市内の「朝霧駅」と思われる。また、「瀬尾見」を検索したら、作者の過去作『さくらDISCORD』の舞台(地理的には網干に相当)だったらしい。
 牛乳麦ご飯『ボーイッシュ彼女が可愛すぎる』第2巻。おしゃれのために眼鏡を掛けるエピソードがある。前半では、キャラの動かし方や見せ方に慣れてきた様子。それに対して後半では当たりの関係が進展していく。
 きただりょうま『魁の花巫女』第4巻。刊行ペースが速くて(やたら筆が速くて)驚くのだが、しかし内容面では何をしたいのか分からない。和風ファンタジーなのか、ハーレムなのか、お色気なのか、何なのか……それぞれを中途半端に混ぜたまま漫然と進めているせいで、昔の美少女ゲームの共通パートを延々読んでいるような気分になる。
 たなかのか『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』第4巻(完結)。最後はマッチ売りの少女と対決して完結。無難な終わり方だが、ひとまず満足。
 瀬尾知汐『罪と罰のスピカ』第3巻。連続殺人タクシー運転手の長い人生を描きつつ、その暗部を抉り出してとどめを差した。殺人者だけを標的にする快楽殺人者主人公という不気味な設定だが、捻りが利いていてユニーク。

2025/06/01

アニメ雑話(2025年6月)

 2025年6月の新作アニメ感想:『アポカリプスホテル』、『ある魔女が死ぬまで』、『鬼人幻燈抄』、『九龍ジェネリックロマンス』、『小市民シリーズ』(2期)、『LAZARUS』。



●『アポカリプスホテル』

 第9話は結婚&葬儀披露宴を、OP短縮で描ききった。祖母が逝去するまでの長い時間が経過してきたことの示唆。そして彼等の一族がこのホテル(あるいは地球)に定住してきたことの重み。そして、結婚と葬儀を同時挙行するという、現代日本ではあり得ない新たな文化を彼等が創り出そうとしていること。物語の全体進行は穏やかだが、これまでの8回の描写の蓄積の上にある複雑な一回になっている。

 第10話。ホテル内殺人(?)事件。えっ……こんなのあり?と言いたくなる展開のネタ回。SFシチュエーション下でのミステリ(?)ならではの尖った描写が楽しい。つまり、人間的な倫理観を持たないアンドロイドと、独自の価値観を持つ異星人、そして子供を介した情報伝達錯誤、等々。
 白いドアを斧で叩き破るシーンは、『シャイニング』の"Here's Johnny!"にならないかとヒヤヒヤした。カーテン越しのバスタブシーンも、『サイコ』のように感じる。どちらもホテル(宿泊所)を舞台にした古典サスペンス映画なので平仄が合っている。ちなみに、偶然ながら小道具としてのキャンディは、『九龍』とネタ被りしている。
 キャストに関しては、陶芸家青年になった弟キャラは、ひきつづき田村睦心氏が演じている。成人男性キャラも演じられる田村氏はさすが。作中映画の犯人女性役は山村響氏。
 犯人または死因について。ポン子の弟が陶芸釉薬としてホウ酸か何かを常用していて、それが姪のタマ子の手にも付着したままで、そしてタマ子がアリ型異星人にじゃれついたせいで彼等が死んでしまった……という解釈が正しいだろう。劇中劇で、手をよく洗えと執拗に強調していたのも、逆説的に、手を洗わないことが問題になると示唆している。無邪気な行動がもたらす悲劇、科学的なミステリ、そして種族間接触の際に生じる危険性……王道のSFだろう。一見するとパロディまみれのネタ回だが、このようなしたたかな描写を織り込んできているのは、さすがの巧さ。



●『ある魔女が死ぬまで』

 第10話は舞台を変えて南欧風の港町に滞在しつつ、主人公の生育背景を明かしていく。脚本はやや説明的だし、中割アニメーションも微妙に不安定になっているが、それでも生き生きとした所作を表現していて見応えがある(※作画に関しては、「大きな鍔の三角帽子を被ったまま振り向きなどのアニメーションをさせるのは難しい」という側面もあるので、あまり咎めるべきではない)。
 ただし、なんとなく前世紀の名作劇場アニメのようなクラシカルな絵作りに感じた。ストーリーのせいなのか、舞台設定のせいなのか、それともただの錯覚なのかは分からないが。
 最初のうちは「ジャック・ルソー」かと思ったが、「ルッソ」なのね。……えっ、老院長は飛田展男氏だったのか。主演の青山氏は、ここに来てちょっと悪慣れしてきたのか、パワーが弱まってイージーな芝居になってきたように聞こえる。「物凄い声」のはずが音量も迫力もない発声だったりして、明らかに演出に合っていない。

 第11話は、王道のクライマックスで物語全体の道筋をきれいにまとめ上げた。ストーリーそのものはベタだが、鐘を鳴らすまでのシークエンスはBGMも消して緊張感を高め、そしてテティス役は主題歌を歌っていた坂本真綾氏という演出も上手い。晴れやかな鐘が響き続けるところも、成功間違いなしの抜群の盛り上げ具合。主演の青山氏も、今回は堂々たる芝居を披露している。あえて難を言えば、後半のカタストロフ危機が大きすぎて、前半の難病少年治療のシーンが霞みかけているのはもったいない。
 今回が最終回でもよいくらいの内容だったが、次回はあの黒衣の魔女とのエピソードがあるようだ。

 第12話は、姉弟子を再登場させつつ、主人公のルーツを探る旅に出るという形で締め括った。冒頭のカタストロフ描写が重苦しすぎて、それを完全に解消したとは言いがたいが、「希望」のキーワードを再確認させたうえで完結させたので、筋は通っている。



●『鬼人幻燈抄』

 第10話は安政2年(1855年)の「雨夜鷹」のエピソード。劇中劇にしつつ現代編のキャラたちを登場させているのは面白いし、描きたかったであろう筋書きと意味づけは察せられるのだが、おそらく圧縮しすぎで隔靴掻痒のもどかしさが残る。
 蕎麦を啜るアニメーションや、そばつゆの水面に映る像、暖簾をかき分けて出入りする所作、そして今回も下駄音の心地良さなど、映像としては繊細なで良いところも多いのだが……。剣戟シーンも、今回はちょっと頑張っていた。
 講談師の役は、一龍斎貞友氏。つまり、正真正銘、本物の講談師兼声優。
 コンビニの店員が妙に存在感を発揮していたり、その直後のカットでは手繋ぎ百合カップルが歩いていたりもする。原作小説には掘り下げた描写があるのだろうか?


 第11話は安政3年の冬。小林一三氏のコンテは奥行き表現や仰角カメラを駆使してたいへん印象的に構築されており、画面全体に緊張感がある。無言のうちに奇酒の不気味さを感じさせるのも上手い。音響面でも、じっとりと沈んだ劇伴や繊細な効果音など、冬のしんとした情緒が作り出されている。
 奈津が激怒したシーンは、リアリスティックな雰囲気とアニメらしい誇張的表現の間で絶妙にバランスを取りつつ、なおかつ、アニメではめったに見られないような強烈な表情を描いていて感心した。



●『九龍ジェネリックロマンス』

 第9話。いよいよ終盤に向けて黒幕キャラたちが動き出した。その都度場面状況と劇伴(BGM)の雰囲気がズレているところがあるのも、おそらく意図的なものだろう。情緒の定まらない浮遊感や、幻想上の城塞の非現実感などを示唆するものだろうか。
 これまで日常の食事シーンが度々描かれてきたのも、ここに来て大きな意味合いを持つようになってきた。とりたてて大袈裟な演出もなしに淡々と撮られていた食事のシーン群が、視聴者たちの目と心に静かになんとなく蓄積されていたものが、そうした体験の積み重ねがここで映像上の実感の手応えとして効いてきている。
 それにしても、「眼鏡とチャイナドレスが相性は悪い」というのをずっと残念に思っていたが、本作はその暗礁を見事に乗り越えてくれた。ありがたい。『サクラ大戦』の李紅蘭も眼鏡チャイナだったけど、それ以降もヒロイン級としてはなかなか描かれなかった。
 脚本構成がかなりしっかりしているように感じる。おそらく原作漫画のストーリー展望を踏まえて、アニメ12話のフォーマットに沿うように丹念に組み替えをしているものと思われる。

 第10話は、本館的に幻影九龍の謎に取り組もうとするが、友人の楊明はどうにも頼りないし、主人公は思いつきで九龍のお札を剥がして集めるばかり。とはいえ、巨大スラム構造物の美術的な魅力は増している。幻の九龍城塞は、いわばマヨヒガ伝承のようなものだと思うが、それを日本国内ではなく香港に設定し、しかも最先端テクノロジーの意匠で装わせ、さらにラブロマンスにも結びつけるというのは、実に上手いところを突いている。
 元・男の娘の小黒(シャオヘイ)君は、今回やけに可愛らしく描かれている。
 今回は、新規のED曲。たしかに九龍がもはや後戻りできない形で虚像化したという決定的な違いはあるが、しかしED曲を変えるほどの断絶があったとは言いがたいので、このED曲切り替えはちょっと不思議な処理。

 第11話は、幻影九龍を作り出している原因がかなり明確に特定され、そして楊明と小黒はそれぞれ過去を振り切るとともに九龍が見えなくなる。作品コンセプトの切れ味と、それを堅実に表現する演出の成果というべき映像で、大いに引き込まれる。



●『小市民シリーズ』
 
 第19話(2期の中では9話目)。 中学生時代の二人が出会って自動車事故の謎を解明していく話と、それと似たような現在の事故問題との二重進行。ただし後者の状況はまだ見えてこない。岐阜県の堤防沿いの風景がたいへん情緒的だし、この過去エピソードでは青空もしばしば描かれる(※現在の病室風景との対比でもあろうが、ストーリー的な待避になるかどうかはまだ分からない)。
 男性の医師やリハビリ系療法士、清掃員には名前が出ているのに、看護師だけは無名(クレジットも「看護師」)というのはちょっと引っかかる。たぶん謎に深く関わってくるのだろうけど……。小説媒体であれば顕名/匿名の違いは気づかれにくいし、登場人物の存在感もコントロールしやすいのだが、それに対してアニメだとキャラクターの存在が映像上ではっきり映されてしまううえ、クレジットでも名前(の有無)がリストとして不可避的に明記されてしまうので、こういうトリックを仕込むには不向きだと言える(※ただし、その一方で、小説では明確に言葉で描写するかどうかの問題になってしまうところも、映像媒体であれば暗黙裡にモブのように映り込ませておくという手法が使えたりもする)。
 絵コンテは高田昌豊氏。『宇宙よりも遠い場所』で神戸氏との共同作業経験があるようだ。

 第20話。レストランの店内環境ノイズも丁寧に付けられていて、落ち着いた雰囲気で視聴できる。動きが乏しく、謎そのものはあまり展開されていない。

 第21話。絵コンテは武内宣之氏。映像はリアリズムを極めており、ガラス面への映り込みまで描き込んでいる。光源表現(陰影)もたいへん細やかで、その場面ごとの雰囲気を良く表現しているし、さらにクライマックスでの強烈な演出にも光源演出が活用されている。そして、眼鏡レンズの反射も……ついでに眼鏡キャラがたくさん出てきて、最後は犯人まで眼鏡変装をしてくるという贅沢さ(※高校時代のシーンが本人だったならば、本物の度入り眼鏡だったのかも)。軋むような不協和音の劇伴も、切々と緊張感を高めている。ただし、トリックは相変わらずチープ。バンほどの大きな車をあの川の中に隠すのは無理でしょ……。
 小佐内さん、今更しおらしくしてもその加虐的本性はもう誤魔化せないよ……。平然と盗聴発言をしているあたり、倫理観の欠如を誤魔化すつもりも無さそうだけど。
 今回のサブタイトル「黄金だと思っていた時代の終わり」は、美しくももの悲しい。中学生の小さな世界で意気揚々と活動していた小鳩君が、おそらく初めてオトナの汚らしさに触れたこと、そして今回(高校生の現在でも)ふたたび大人の悪意に晒されることを示唆したものだろう。……もっと邪悪な存在が身近にいるのなね。

 今回は羊宮氏が濃密な情緒的芝居を注ぎ込んでいた。『ある魔女』第11話とともに、泣きの芝居でも鮮烈な印象を残した一週間になった。この異様なまでの切れ味はまさに宮妃那。
 『通販』の王女役では快活かつ思慮深いキャラクターにズシリと重たい存在感を与えたし、『ある魔女』では茫洋としていながら痛切な感情を吐露するシーンも凄まじいインパクトで演じていたし、そしてこの主演作品ではウィスパーヴォイスを最大限活かした小柄ミステリアスキャラで、シャイなところから、スイーツに目を輝かせセルシーンから、悲しげなムードから、本心を隠すデリケートな芝居から、邪悪さを噴出させる恐怖の語り口まで、全てを見事に演じきっている。



●『LAZARUS』

 第9話は査問委員会の茶番と、腕試し戦闘の茶番。戦闘描写はサーカスのように派手だが、殺人行為や死体の描写がリアリスティックでかなりグロい。そして本筋のタイムリミット問題はほとんど前進いない(※スキナー発見まで「あと一歩」というほど迫っているとは思えないので、ただのブラフだろう)。
 舞台設定の面では、今回はニューヨーク周辺をフィーチャーしている。

 結局のところ、リアリティの水準が揃っていないのが問題であるように思える。絵柄そのものや、写実的な運動アニメーションは、かなり現実寄りのスタンスで受容されることを期待しているように見える(そう見えてしまう)。しかしその一方で、台詞回しはチープで粗が多く、荒唐無稽なヒロイックアクション映像を志向しているように見える。だから、映像表現を額面通りに受け取ろうとすると状況の安っぽさが気になるし、かといってお気楽なアクション映像として楽しもうとすると、遊びの余地の小さな映像表現の生真面目さが足枷になってしまう。さらに言えば、「そういう慣例的なリアリティコンロトールを解体して、あえてそこにギャップを生みつつ、新しい感受性を打ち出す」というアプローチも理屈の上ではあり得るのだが、本作の場合は、そういった挑戦的姿勢には見えない。「香港出身のスーパーハッカー」や「ロシア出身の元・特殊工作員」といった陳腐なステレオタイプや、世界各地の観光巡りめいた風景が、映像全体をひたすらベタなものとして押し固めていってしまう。……つまり、コンセプトレベルでの失敗に思える。
 これと同様に上記『小市民』も、突出した映像美と、それに対してあまりにも卑近な物語のギャップが、どうにも居心地が悪い。独善的で冷血で反社会的なキャラクターたちの言動が、映像を通じて美化されてしまっているという不気味さでもある。

 第10話は、リーランドの実家を訪れて姉弟喧嘩を目撃する。次回はパキスタンに向かうようだ。
 相変わらず、表面上はグローバル志向のようでいながら実際にはおそろしく視野の狭い描写になっている。冒頭のTVニュースも米国ばかりのようだし、その一方で、他国に訪れるときはスラムや新興宗教コロニーやリゾート地といったエキゾティシズムに満ちた無責任な見せ方ばかりになっている。しかも、映像美の観点でも、中途半端と言わざるを得ない。
 庭師がスキナー本人のように見えるが、この描写だけで意味が分からない。