2025年6月の雑記。
06/15(Sun)
漫画、模型、CDなどの趣味費用については、毎月一定額を下ろして店頭現金払いで扱うようにしている。主な理由は「カード類を使わないようにする(プライヴァシー考慮も含めて)」、「可能なかぎり店舗にお金を落とす」、「濫費を防止する」の2つだが、今のところは円滑に維持できている……のだが、今月はまだ半ばなのに、残金が、残金がもう……ウボァー
海外(英語圏など)のアニメ界隈は、日本語圏よりも上質かつ大量のオンライン情報が揃っているのでは……と思う。定量的な比較などはできないが、とりわけアニメに関する掘り下げた分析的批評サイトや視聴サポートサーヴィス(視聴リストなど)が充実しているようだし、漫画作品に関するまとまった刊行情報も、草の根レベルで整備されている。
日本語圏だと、
・せいぜいwikipediaくらいで、それより詳しい情報はなかなか見つからない。
・掘り下げた分析記事が極端に少ない(※娯楽的なネタ記事は多い)。
・周辺的なサーヴィスも、公式や通販などに大きく依存している。
最新のアニメや漫画について、きちんとした裏付けのある批評記事を、迅速かつ定期的に掲載していくというおそろしく活動的で生産的なジャーナル的サイトがいくつも存在するのは、正直に言って羨ましい。
もちろんこれは、様々な事情があるだろう。考えられるのは、例えば「英語圏≒全世界なので、参加している人口規模は日本人オタクよりも多いかもしれない(とりわけ、上澄みのマニア層は日本よりも多い)」。「社会や政治と絡めた多角的な批評行為が、(日本ではほぼ失われたが)海外ではそういう姿勢が生き残った」。「技術的にも、大学の映像学などの知見を援用できる(そういうアカデミックな分析のできる人材が日本よりもはるかに多い)」。等々。
日本のオタクたちは、ものを調べなくなったよね……(私自身も含めて)。あるクリエイターの新作がリリースされたら、作者の旧作をきちんと掘り返して、周辺人物や当時の時代状況まで視野に入れて、丁寧な実証とともに大掛かりな展望を作り上げる。そういうことをやるマニアがいなくなって、あるいは、目立てなくなって、ただSNSで「ちょっと噛んで吐き出す」だけの感想をシェアするばかりになっていった。
私自身、何人かの漫画家について継続的に読みつつ、インタヴューなどの関連資料も集めて情報を組織化し、それをまとまった形で作家論として書くくらいまではやっていた(……以前は、ね)。アニメやゲームについても、特定の技術的アプローチを構築しつつ、それを表現論(演出論)として結実させられるような作業もやっていた(……中途で止まってしまったけど)。
そういった、私(たち)がやろうとしてきたこと、やろうとして貫徹できなかなったことが、グローバルな世界で実を結びつつあるのは、嬉しくもあり、また悲しくもある。
いや、もちろん、一括りに「海外」と言っても内実は多様で、その大半はやはりカジュアルな享楽的消費者だったり、ただ素人的に楽しむばかりでアウトプット(自分なりの定見)を作り出すには至らない層だったり、SNSで叫んだりコミコンで騒いだりする人々だったりするだろう。
しかし、本格派の上澄み部分については、日本語圏に劣らないどころか、ものによっては、「このテーマについてこれほど精密に渉猟分析した記事は、日本ではまず現れないだろう」と感嘆させられるようなものに出会える。……やはり、羨ましいし、忸怩たるものがある。
ほんの一例を挙げると、GGシリーズの「ブリジット」について、
原作上の描写を正確に――たぶん正確だと思う――整理しつつ、00年代以来の制作サイドの証言や当時の受容史も掘り起こしつつ、そして最新作に至るまでのキャラクター像の変遷とその意義を緻密に跡付け、そして筋の通った視点から公平かつ明晰な展望を示している。これほどのクオリティの記事は、日本語圏でも(あるいは、日本語圏では)なかなか目にすることができないだろう。
というわけで、日本語圏のオタク界隈も、あらためて知的で公平な――いわゆる第二世代的な――生産性を取り戻していってほしいのだが……。
日本語圏≒日本人オタクたちの共同体が、今後どのような位置を占めることができるのか。つまり、日本のアニメや漫画が、もはや日本「固有」のものではなく、ただ単に日本「発」であるにすぎず、グローバルに享受されている状況下では、日本のオタクたちの受容史の文化的蓄積はただのワンオブゼムになっていくだろう。
言い換えれば、日本のオタクたちが、「たまたま母語で大量の作品を最速享受できる大規模な集団」であるにすぎず、そこから自分たちでは何も批評的なものを生み出せず、自分たちの閉じたコミュニティの中でじゃれ合っているだけで、他の文化圏との間でろくに交流もしないままであるならば、私たちにはもはや何の優越性もなく、そして他言語/他文化/他地域の趣味人たちから尊重も尊敬もされないだろう。いや、べつに尊敬されなくてもいいのだけど、国際的に見て「せっかく恵まれているのに役に立たない、つまらない集団」になってしまうのは悲しい。そうなっていく可能性は高いのに。
日本(のオタク)たちが、なまじ人口規模が大きくて内部だけで自足できてしまったのも、上記のような閉鎖性をもたらした一因だろう。また、10年代以降の過剰なSNS依存も、国際平均を大きく上回っており、換言すれば、その場限りの言いっぱなしや注意散漫な実況コメントに最適化してしまい、腰を据えた慎重な言論の場を作ることに失敗してきたということでもある。良くないよね……そして、もったいないよね……。
やっぱり『Armour Modelling』誌は駄目だわ……。グラビア表紙なんかにするなよ……。航空機模型誌の『Scale Aviation』も同じことをずっとやっているし、模型雑誌界隈に鈍感マッチョ気質が蔓延ったままなのはガッカリする。
ただし、模型展示会イベントに参加してみるとほとんどは落ち着きのある礼儀正しい男性ばかりなので、たぶん雑誌編集部界隈だけが特におかしいのだと思う。隣接領域でいうと、モデルガン雑誌もひどい。
スケモ総合誌『Model Art』と艦船模型誌だけは今のところ健全だが、ただ単に艦船模型はグラビアを入れる余地が無いというだけのことかもしれない。もしも仮に、例えば水兵服や水着のグラビアシリーズが始まったとしても驚きはしないだろう(※悲しみはするけど)。
京都人でなくても、「そうだ、飲み物でも持ってくるよ」「いや、ああ、もう帰るわ」くらいのコミュニケーションはしている筈だし、「京都人=底意地が悪い」というのは地域的偏見そのものなので、ああいうのをネタにすべきではないと常々思っている。
今後の政治状況では「参」の字が最も破壊的な存在になっていくかもという危惧をずっと抱いている。Nの字のように属人的なセンセーショナリズムで頼るのでもなく、維の字のような旧弊的な体質を引きずることもなく、一見クリーンな主張と邪悪な反科学的思想の両面を巧みに使い分けながら粛々と組織立って若年層を大規模にカルト的主張へ引き込みまくっている手腕が、上手すぎて怖い。現在でもすでに単なる泡沫政党を脱して独自の勢力を確立していると言わざるを得ないし、長期的に見ればいよいよもって政治的に危険な状況だ。合理的な手段を冷静に遂行できる組織的カルトって、最悪よね……。どのような人的背景、いかなる財政的基盤、どんな組織構造で動いているのかを明らかにして、全力で対策していくべきなのでは……。
『たまこまーけっと』のデラ・モチマッヅィ君に倣って、「デラ・ナヅアッヅィ……」と漏らしたくなる気温。