2025/06/01

アニメ雑話(2025年6月)

 2025年6月の新作アニメ感想:『アポカリプスホテル』、『ある魔女が死ぬまで』、『鬼人幻燈抄』、『九龍ジェネリックロマンス』、『小市民シリーズ』(2期)、『LAZARUS』。



●『アポカリプスホテル』

 第9話は結婚&葬儀披露宴を、OP短縮で描ききった。祖母が逝去するまでの長い時間が経過してきたことの示唆。そして彼等の一族がこのホテル(あるいは地球)に定住してきたことの重み。そして、結婚と葬儀を同時挙行するという、現代日本ではあり得ない新たな文化を彼等が創り出そうとしていること。物語の全体進行は穏やかだが、これまでの8回の描写の蓄積の上にある複雑な一回になっている。

 第10話。ホテル内殺人(?)事件。えっ……こんなのあり?と言いたくなる展開のネタ回。SFシチュエーション下でのミステリ(?)ならではの尖った描写が楽しい。つまり、人間的な倫理観を持たないアンドロイドと、独自の価値観を持つ異星人、そして子供を介した情報伝達錯誤、等々。
 白いドアを斧で叩き破るシーンは、『シャイニング』の"Here's Johnny!"にならないかとヒヤヒヤした。カーテン越しのバスタブシーンも、『サイコ』のように感じる。どちらもホテル(宿泊所)を舞台にした古典サスペンス映画なので平仄が合っている。ちなみに、偶然ながら小道具としてのキャンディは、『九龍』とネタ被りしている。
 キャストに関しては、陶芸家青年になった弟キャラは、ひきつづき田村睦心氏が演じている。成人男性キャラも演じられる田村氏はさすが。作中映画の犯人女性役は山村響氏。
 犯人または死因について。ポン子の弟が陶芸釉薬としてホウ酸か何かを常用していて、それが姪のタマ子の手にも付着したままで、そしてタマ子がアリ型異星人にじゃれついたせいで彼等が死んでしまった……という解釈が正しいだろう。劇中劇で、手をよく洗えと執拗に強調していたのも、逆説的に、手を洗わないことが問題になると示唆している。無邪気な行動がもたらす悲劇、科学的なミステリ、そして種族間接触の際に生じる危険性……王道のSFだろう。一見するとパロディまみれのネタ回だが、このようなしたたかな描写を織り込んできているのは、さすがの巧さ。



●『ある魔女が死ぬまで』

 第10話は舞台を変えて南欧風の港町に滞在しつつ、主人公の生育背景を明かしていく。脚本はやや説明的だし、中割アニメーションも微妙に不安定になっているが、それでも生き生きとした所作を表現していて見応えがある(※作画に関しては、「大きな鍔の三角帽子を被ったまま振り向きなどのアニメーションをさせるのは難しい」という側面もあるので、あまり咎めるべきではない)。
 ただし、なんとなく前世紀の名作劇場アニメのようなクラシカルな絵作りに感じた。ストーリーのせいなのか、舞台設定のせいなのか、それともただの錯覚なのかは分からないが。
 最初のうちは「ジャック・ルソー」かと思ったが、「ルッソ」なのね。……えっ、老院長は飛田展男氏だったのか。主演の青山氏は、ここに来てちょっと悪慣れしてきたのか、パワーが弱まってイージーな芝居になってきたように聞こえる。「物凄い声」のはずが音量も迫力もない発声だったりして、明らかに演出に合っていない。

 第11話は、王道のクライマックスで物語全体の道筋をきれいにまとめ上げた。ストーリーそのものはベタだが、鐘を鳴らすまでのシークエンスはBGMも消して緊張感を高め、そしてテティス役は主題歌を歌っていた坂本真綾氏という演出も上手い。晴れやかな鐘が響き続けるところも、成功間違いなしの抜群の盛り上げ具合。主演の青山氏も、今回は堂々たる芝居を披露している。あえて難を言えば、後半のカタストロフ危機が大きすぎて、前半の難病少年治療のシーンが霞みかけているのはもったいない。
 今回が最終回でもよいくらいの内容だったが、次回はあの黒衣の魔女とのエピソードがあるようだ。

 第12話は、姉弟子を再登場させつつ、主人公のルーツを探る旅に出るという形で締め括った。冒頭のカタストロフ描写が重苦しすぎて、それを完全に解消したとは言いがたいが、「希望」のキーワードを再確認させたうえで完結させたので、筋は通っている。
 母親役は、佐藤利奈氏。最後まで贅沢なキャスティング。



●『鬼人幻燈抄』

 第10話は安政2年(1855年)の「雨夜鷹」のエピソード。劇中劇にしつつ現代編のキャラたちを登場させているのは面白いし、描きたかったであろう筋書きと意味づけは察せられるのだが、おそらく圧縮しすぎで隔靴掻痒のもどかしさが残る。
 蕎麦を啜るアニメーションや、そばつゆの水面に映る像、暖簾をかき分けて出入りする所作、そして今回も下駄音の心地良さなど、映像としては繊細なで良いところも多いのだが……。剣戟シーンも、今回はちょっと頑張っていた。
 講談師の役は、一龍斎貞友氏。つまり、正真正銘、本物の講談師兼声優。
 コンビニの店員が妙に存在感を発揮していたり、その直後のカットでは手繋ぎ百合カップルが歩いていたりもする。原作小説には掘り下げた描写があるのだろうか?


 第11話は安政3年の冬。小林一三氏のコンテは奥行き表現や仰角カメラを駆使してたいへん印象的に構築されており、画面全体に緊張感がある。無言のうちに奇酒の不気味さを感じさせるのも上手い。音響面でも、じっとりと沈んだ劇伴や繊細な効果音など、冬のしんとした情緒が作り出されている。
 奈津が激怒したシーンは、リアリスティックな雰囲気とアニメらしい誇張的表現の間で絶妙にバランスを取りつつ、なおかつ、アニメではめったに見られないような強烈な表情を描いていて感心した。
 その一方で、モブ鬼を撃破するシーンはひたすら描写を回避している(冒頭も、酒屋のシーンでも)。作品の落ち着いた雰囲気を維持し、主人公による鬼の虐殺をあまり強調しないためと思われるが、同時に作画リソースの節約にも見える(※これまでの回でも、バトルシーンの作画は上手くなかった)。



●『九龍ジェネリックロマンス』

 第9話。いよいよ終盤に向けて黒幕キャラたちが動き出した。その都度場面状況と劇伴(BGM)の雰囲気がズレているところがあるのも、おそらく意図的なものだろう。情緒の定まらない浮遊感や、幻想上の城塞の非現実感などを示唆するものだろうか。
 これまで日常の食事シーンが度々描かれてきたのも、ここに来て大きな意味合いを持つようになってきた。とりたてて大袈裟な演出もなしに淡々と撮られていた食事のシーン群が、視聴者たちの目と心に静かになんとなく蓄積されていたものが、そうした体験の積み重ねがここで映像上の実感の手応えとして効いてきている。
 それにしても、「眼鏡とチャイナドレスが相性は悪い」というのをずっと残念に思っていたが、本作はその暗礁を見事に乗り越えてくれた。ありがたい。『サクラ大戦』の李紅蘭も眼鏡チャイナだったけど、それ以降もヒロイン級としてはなかなか描かれなかった。
 脚本構成がかなりしっかりしているように感じる。おそらく原作漫画のストーリー展望を踏まえて、アニメ12話のフォーマットに沿うように丹念に組み替えをしているものと思われる。

 第10話は、本館的に幻影九龍の謎に取り組もうとするが、友人の楊明はどうにも頼りないし、主人公は思いつきで九龍のお札を剥がして集めるばかり。とはいえ、巨大スラム構造物の美術的な魅力は増している。幻の九龍城塞は、いわばマヨヒガ伝承のようなものだと思うが、それを日本国内ではなく香港に設定し、しかも最先端テクノロジーの意匠で装わせ、さらにラブロマンスにも結びつけるというのは、実に上手いところを突いている。
 元・男の娘の小黒(シャオヘイ)君は、今回やけに可愛らしく描かれている。
 今回は、新規のED曲。たしかに九龍がもはや後戻りできない形で虚像化したという決定的な違いはあるが、しかしED曲を変えるほどの断絶があったとは言いがたいので、このED曲切り替えはちょっと不思議な処理。

 第11話は、幻影九龍を作り出している原因がかなり明確に特定され、そして楊明と小黒はそれぞれ過去を振り切るとともに九龍が見えなくなる。作品コンセプトの切れ味と、それを堅実に表現する演出の成果というべき映像で、大いに引き込まれる。



●『小市民シリーズ』
 
 第19話(2期の中では9話目)。 中学生時代の二人が出会って自動車事故の謎を解明していく話と、それと似たような現在の事故問題との二重進行。ただし後者の状況はまだ見えてこない。岐阜県の堤防沿いの風景がたいへん情緒的だし、この過去エピソードでは青空もしばしば描かれる(※現在の病室風景との対比でもあろうが、ストーリー的な待避になるかどうかはまだ分からない)。
 男性の医師やリハビリ系療法士、清掃員には名前が出ているのに、看護師だけは無名(クレジットも「看護師」)というのはちょっと引っかかる。たぶん謎に深く関わってくるのだろうけど……。小説媒体であれば顕名/匿名の違いは気づかれにくいし、登場人物の存在感もコントロールしやすいのだが、それに対してアニメだとキャラクターの存在が映像上ではっきり映されてしまううえ、クレジットでも名前(の有無)がリストとして不可避的に明記されてしまうので、こういうトリックを仕込むには不向きだと言える(※ただし、その一方で、小説では明確に言葉で描写するかどうかの問題になってしまうところも、映像媒体であれば暗黙裡にモブのように映り込ませておくという手法が使えたりもする)。
 絵コンテは高田昌豊氏。『宇宙よりも遠い場所』で神戸氏との共同作業経験があるようだ。

 第20話。レストランの店内環境ノイズも丁寧に付けられていて、落ち着いた雰囲気で視聴できる。動きが乏しく、謎そのものはあまり展開されていない。

 第21話。絵コンテは武内宣之氏。映像はリアリズムを極めており、ガラス面への映り込みまで描き込んでいる。光源表現(陰影)もたいへん細やかで、その場面ごとの雰囲気を良く表現しているし、さらにクライマックスでの強烈な演出にも光源演出が活用されている。そして、眼鏡レンズの反射も……ついでに眼鏡キャラがたくさん出てきて、最後は犯人まで眼鏡変装をしてくるという贅沢さ(※高校時代のシーンが本人だったならば、本物の度入り眼鏡だったのかも)。軋むような不協和音の劇伴も、切々と緊張感を高めている。ただし、トリックは相変わらずチープ。バンほどの大きな車をあの川の中に隠すのは無理でしょ……。
 小佐内さん、今更しおらしくしてもその加虐的本性はもう誤魔化せないよ……。平然と盗聴発言をしているあたり、倫理観の欠如を誤魔化すつもりも無さそうだけど。
 今回のサブタイトル「黄金だと思っていた時代の終わり」は、美しくももの悲しい。中学生の小さな世界で意気揚々と活動していた小鳩君が、おそらく初めてオトナの汚らしさに触れたこと、そして今回(高校生の現在でも)ふたたび大人の悪意に晒されることを示唆したものだろう。……もっと邪悪な存在が身近にいるのなね。

 今回は羊宮氏が濃密な情緒的芝居を注ぎ込んでいた。『ある魔女』第11話とともに、泣きの芝居でも鮮烈な印象を残した一週間になった。この異様なまでの切れ味はまさに宮妃那。
 『通販』の王女役では快活かつ思慮深いキャラクターにズシリと重たい存在感を与えたし、『ある魔女』では茫洋としていながら痛切な感情を吐露するシーンも凄まじいインパクトで演じていたし、そしてこの主演作品ではウィスパーヴォイスを最大限活かした小柄ミステリアスキャラで、シャイなところから、スイーツに目を輝かせセルシーンから、悲しげなムードから、本心を隠すデリケートな芝居から、邪悪さを噴出させる恐怖の語り口まで、全てを見事に演じきっている。



●『LAZARUS』

 第9話は査問委員会の茶番と、腕試し戦闘の茶番。戦闘描写はサーカスのように派手だが、殺人行為や死体の描写がリアリスティックでかなりグロい。そして本筋のタイムリミット問題はほとんど前進いない(※スキナー発見まで「あと一歩」というほど迫っているとは思えないので、ただのブラフだろう)。
 舞台設定の面では、今回はニューヨーク周辺をフィーチャーしている。

 結局のところ、リアリティの水準が揃っていないのが問題であるように思える。絵柄そのものや、写実的な運動アニメーションは、かなり現実寄りのスタンスで受容されることを期待しているように見える(そう見えてしまう)。しかしその一方で、台詞回しはチープで粗が多く、荒唐無稽なヒロイックアクション映像を志向しているように見える。だから、映像表現を額面通りに受け取ろうとすると状況の安っぽさが気になるし、かといってお気楽なアクション映像として楽しもうとすると、遊びの余地の小さな映像表現の生真面目さが足枷になってしまう。さらに言えば、「そういう慣例的なリアリティコンロトールを解体して、あえてそこにギャップを生みつつ、新しい感受性を打ち出す」というアプローチも理屈の上ではあり得るのだが、本作の場合は、そういった挑戦的姿勢には見えない。「香港出身のスーパーハッカー」や「ロシア出身の元・特殊工作員」といった陳腐なステレオタイプや、世界各地の観光巡りめいた風景が、映像全体をひたすらベタなものとして押し固めていってしまう。……つまり、コンセプトレベルでの失敗に思える。
 これと同様に上記『小市民』も、突出した映像美と、それに対してあまりにも卑近な物語のギャップが、どうにも居心地が悪い。独善的で冷血で反社会的なキャラクターたちの言動が、映像を通じて美化されてしまっているという不気味さでもある。

 第10話は、リーランドの実家を訪れて姉弟喧嘩を目撃する。次回はパキスタンに向かうようだ。
 相変わらず、表面上はグローバル志向のようでいながら実際にはおそろしく視野の狭い描写になっている。冒頭のTVニュースも米国ばかりのようだし、その一方で、他国に訪れるときはスラムや新興宗教コロニーやリゾート地といったエキゾティシズムに満ちた無責任な見せ方ばかりになっている。しかも、映像美の観点でも、中途半端と言わざるを得ない。
 庭師がスキナー本人のように見えるが、この描写だけで意味が分からない。