2016/04/28

古典とアダルトゲームについて

  「古典」の意義についての私見。アダルトゲームにおける古典について。


  【 古典とは 】

  「古典を読め」というのは、たいていの場合、有益な助言として成立してしまう便利な言葉だが、その内実はものによりけりで、けっして一様ではない。さしあたり思いつくかぎりのタイプを、適当に挙げてみよう(順不同)。

  1)そのジャンルの初期の作品であること。つまり、現在まで作られてきた多くの作品に先行しており、その比較的初期の(比較的完成度の高い)作品であること。そのようなものとして理解されている作品に接することは、そのジャンルが発生してきた初発の動機を知ることになるだろうし、そのジャンルの基礎を成すアイデアの比較的素朴な形態を表していることも多いだろうし、そのジャンルの社会的文化的な発展過程を知るうえでもきわめて重要な里程標となるだろう。

  2)我々から離れた時期の作品であること。古典と呼ばれる場合、それは往々にして、現在の我々(のジャンル的時代精神)からは距離のある存在として捉えられている。一つのジャンルの中でも多様性は常に存在するが、とりわけ古典を読むことによって、我々は、現在の我々が持つ支配的類型とは異なる存在を比較的容易に経験することができる。そうしたオルタナティヴの認識は、我々の認識及び評価の可能性を広げてくれるだろう。それは我々の現在と連続しているが、我々が持っていないものを提供してくれるような、有益な存在である蓋然性が高い。実際、我々が理解できるくらいには連続性があるからこそ、我々はそれを「(我々にとっての)古典」として認識し得ているのだ。

  3)多大な蓄積のある作品であること。当該作品が「古典」と呼ばれるようになるまでに、それは長い時間を閲しているが、そしてその長さは、多くの人々が感心を持ってその内容に取り組み、吟味検討し、解釈し続けてきた時間の長さそのものでもある。直接的には、我々はその蓄積をも、その作品を構成する一部として利用することができるし、また、当該作品を実際に読む前からも、我々は「その作品が大量の関心に堪え得る内容を持っているであろうこと」「大量の関心によって展開されてきた作品であろうこと」を期待することができる。優れた作品は、超時代的に初めから自明に優れているわけではなく(あるいはそうだとしてもさらに)、読まれ語られることによってその内容をよりいっそう豊かにして、優れた作品になっていくものだ。

  4)生き残ってきた作品であること。昔の作品でありながら、現在までその名が残っており、現在でもしばしば言及されているということは、時代を超えて厳しい吟味に晒されながら、淘汰されずに生き残ってきたということに他ならない。それは、たいていの場合、なんらかの意味で卓越した作品でなければできないことだ。したがって、その事実だけでも、読むに値する内容があることが保障されているようなものだ。

  5)多くの人々に幅広く共有されてきた作品であること。作品は、それ単体で存在し続けるわけではない。公表された作品は、それを読んだ人々に対して、それが含まれるジャンル全体に対して、多様かつ大量の影響をもたらしてきただろう。「古典」と呼ばれる作品は、ほとんどの場合、そうした影響力の大きさにおいても際立っている。そしてその中から、まさに現在の我々が目にしている情景も形成されてきているのだ。その意味で、現在の我々の世界を形成している知的前提の一つを再確認するという意味でも、「古典」と呼ばれる作品は読む価値がある。

  6)一つのジャンルを終わらせた作品であること。場合によっては、そのようなこともあるだろう。一つの作品に「古典」という称号が与えられる時、それは、そのジャンルの初期の方向性を形成した作品に対して与えられるだけではなく、そのジャンルを徹底し完成させた重要な作品や、そのジャンルの一つの典型となっている作品に対しても、しばしば与えられてきた。

  7)古典は必ずしも(現在の我々にとっては)名作ではないということを教えてくれるかもしれない。多くの人々が古典を読み、吟味し、挑戦し、乗り越えようとしてきた。ある一人の作者が「古典」作品の中で提示したアイデアは、その後の何百、何万、あるいは何百万という人々によってさらに精緻化されてきただろう。そうした特定の論点に関しては、昔の作品が示した解よりも現代の最新の作品が示している解の方が優れているということは、当然、よくあることだし、また、現代の作品の方が現代の我々の知的/社会的/etcな諸条件によりよくフィットしている可能性が高いだろう。ある作品が一つのジャンルを創造しその骨格を形成し内容を発展させたとしても、それが全てではない。古典を我が目で実際に読むことは、そうした仮面剥奪の作用を持つことがあるし、また、歴史を知ることで様々な価値基準の相対性をも教えてくれるだろう。

  まだ他にも、古典の価値を説明する視点はいくつもあり得るだろう。そして、その一方で、古典ではない、現代の若い作品群も、上記と対を成すかたちで無数の美徳を持っているということも、忘れるべきではない。



  【 アダルトゲームの古典 】

  アダルトゲームにおける「古典」の面々は、どうだろうか。十年以上前のタイトルから適当に挙げてみて、それらを現在の我々が知る/思い出す/(再)プレイすることの意義は、どこにあると言えるだろうか。ごく簡単に振り返ってみよう。

  『同級生』(1992)は……もはや現在の我々がこのようなスタイルをストレートに享受することは困難であろうが、しかし現在の白箱系読み物AVGに対するオルタナティヴとして、常にこのジャンルの可能性への意識を刺激し続けてくれるだろう。『鬼畜王ランス』(1996)は……アダルトゲームにおける初期の名作SLGであり、現在でもプレイ可能な256色タイトルの代表的存在の一つだが、しかし『Rance』シリーズのファン以外には、扱いかねる代物かもしれない。『ToHeart』(1997)は……おそらく現在の白箱系文化の直系の始祖の一つであろうが、その現代的意義を見出すのは少々難しいかもしれない。『Piaキャロットへようこそ!!2』(1997)はどうだろうか。みつみ原画の比較的初期の端正な美しさを味わうことができるし、しかも同時に、当時のF&Cが持っていた(現代のアダルトゲームでは尚更稀な)非オタク的気風を楽しむこともできるだろうが、全体としては『ToHeart』と同様に、ジャンル内ですでに乗り越えられた作品ということになりそうだ。

  『魔法少女アイ』(2001)は、現在の目で見るといささかつらいところもあるが、魔法少女ヒロインの造形や一枚絵レイアウトの妙趣など、今なお示唆に富む美質を湛えている。『君が望む永遠』(2001)は、SD利用や立ち絵配置などの面でアダルトゲームに多大な影響を及ぼしたが、脚本面や美意識の点では徒花的な結果に終わっている。『さよならを教えて』(2001)は、現在プレイしても間違いなく面白く、本作が「古典」と呼ばれるならばそれは「その魅力のゆえに愛され続けてきた作品である」という理由からだろう。『パンドラの夢』(2001)は、ループ構成の初期の秀作であり(ただしこの点では、その後の作品群にブリリアントな成果がいくつも見出されることになる)、演出面でもフキダシテキストやBGM演出などの野心的な挑戦があった。それはメインストリームにはならなかったが、pajamas soft自身を初めとしていくつものブランドが同種の方向性に挑戦を続けており、アダルトゲーム史がもつ美しい刻印の一つとして記録される価値がある。

  『白詰草話』(2002)は、そのFFD演出は追随するものはほとんどなかったが、『君望』とともにアダルトゲームにおける視聴覚演出への注目を高めることに寄与した重要な作品であり、作中の異形の白詰草とは異なって、豊かに播種したと言えるだろう。脚本の短さや音声無しといった特徴も、00年代初期にはぎりぎり可能だった。『BALDR FORCE』(2002)は、斯界におけるACT作品の金字塔と目されている。脚本面では大柄ながらキッチュでもあり、またACTパートは戯画自身が後継作で改良を加えていったが、このような作品が過去に存在したことは喜ぶべきだろう。『永遠のアセリア』(2003)も、異世界言語表現のようなユニークな演出的挑戦を詰め込みつつ大作SLGの伝統に連なる重要なタイトルであるが、現在の我々がプレイするには少々重たすぎる。

  『Forest』(2004)の演出空間も、比べるもののほとんど無いユニークなものだが、その視覚的聴覚的表現の面白さは時代を問わず(再)プレイされる価値がある。『MinDeaD BlooD』(2004)は、過激さとサービス精神を高い水準で兼備したBlack CYCの代表作であり、その攻略難度の高さにもかかわらず、現代でも十分通用する傑作だと言える。『シンシア』(2004)は永遠に可愛いし、『瀬里奈』(2004)も青山氏の代表作として、不磨の価値を持つだろう。『秋色恋華』(2005)は、私見では、この2016年現在の白箱系AVGを再定義しそのありようを直接的に基礎づけた重要な作品であるが、現在(再)プレイするとなるといささか見劣りするだろう。『AYAKASHI』(2005)が属する伝奇バトル志向と、それがその性質上要求する視覚的演出は、TYPE-MOONやlightが担っていったが、それらの中でも「スクリプト演出の徹底」「一枚絵等の素材大量投入」「動画素材等も用いる演出手法の多元化」「E-moteなどの外部技術の導入」など、様々なアプローチが広がっていった。『処女はお姉さまに恋してる』(2005)は、同年発売の『はぴねす!』と並んで「男の娘」「女装男子」趣味を一息で定着させた作品であり、現在の白箱系とは脚本/構成のスタイルが異なるものの、実際にプレイしてみれば、一つのジャンル(嗜好)を一から作り上げることができたのは優れた作品だからこそだということがよく分かるだろう。

  2006年以前の知名度の高いタイトルを、一ブランド一タイトルずつに絞って適当にピックアップして、それぞれ何故どのような点で「古典」であるか、何故どのような意味で「古典」としての価値があるかについて、簡単に試みてみた。