04/30(Sat)
日本橋遠征は、いろいろ買えたので満足。日本橋からの帰路では、難波地下の「四六時中」に行くことがよくある(今日もここで、早めの夕食をいただいてきた)。日本橋ショッピングでは、地下鉄恵美須町駅から出発してオタロード経由でTOWER RECORDSまで行くのがいつものルートで、買い物をひととおり終えて難波地下に入って一息つきたいときに、ちょうど良いところにある。けっして高級ではない、ごく普通の価格帯の飲食店だが、わりと女性客が多めで、量も控えめ、デザートの和三盆スイーツも美味しい。17時前くらいの時間帯なら、十分ゆっくり出来るので、席上でいそいそと今日の戦利品を広げt…こほん。
それにしても、こうして現地で重労働をしてくると、通販の強みをつくづく感じる。1)商品の有無が正確に確認できるし、2)商品のサーチもごく容易だし、3)往復の金銭的/時間的コストも掛からないし、4)レジ待ちもしなくていいし、5)重い物を自力で持ち帰らなくてもいい。実店舗だと、目当ての商品を見つけるのも大変だったりするし、店頭/在庫が無くて空振りに終わる可能性もある。こうしたコスト/リスクを考慮すると、仮に通販価格が店頭価格の2割増であったとしても、経済的には割りに合っていると言えるだろう。欲しい物を買ってくるだけで半日あるいは一日潰れてしまうというのは、わりと痛いのだ。
その一方で、店頭購入のアドヴァンテージ(通販のデメリット)は、1)大量の商品を目にすることができる経験、2)商品の実際のクオリティを確認できること、3)知らない人が自宅に来ることが無いという安心、4)購入履歴を残さずに済むこと、などがある。特に1)番目のメリットがきわめて大きい。ショッピングは、それだけで見聞を広めるものだ。つまり、それだけで知識を増やし、感性を更新してくれるものだ。大学生時代以来の左京区住まいも、知的には十分豊かな環境だが、オタク生活に関しては、日本橋の方がはるかに最先端の現場だ(――規模としては秋葉原の方がさらに大きいのだろうけど、そちらは数回しか行ったことが無い)。こうしてたまに行くだけでも、流行の変化や、雰囲気の違い、個々のジャンルの売り場面積の拡大/縮小など、さまざまな変化が見て取れて面白いし。
はあ……やっぱりスレンダーじゃないと浴衣は似合わないよね……。
(『ナツイロココロログ』の立ち絵サンプルを見ながら)
「轟け!」まとめは、残り50回まで到達。あと約8時間半分だが、少々面倒。
お顔を半分だけ出した自撮りとはなんともユーモラスな。ぱっちりした黒目に、おきれいな肌、つややかなロングヘア、素材感のよいファッションと、すごくいいなあ。
04/29(Fri)
gglニュースの「おすすめ」欄に某声優さんの記事が出ていて、その下に「興味がありますか?」とあるものだから、抵抗できずにyesとクリックしてしまった。だってだって、無視するのも気が引けたし、ましてや「いいえ」と回答できる筈もないし、ファンとして挑戦されているような気分にすらなってしまったのだから、仕方ないじゃないか。今では、パーソナルな(私の心の中のとても大事な)事柄に関してgglに情報提供してしまった疚しさは、堂々と踏み絵を拒絶してみせたかのような誇らしさの前にきれいにかき消えているけれど、普段はweb上でこういうリアクションを出すことは極力控えているのでちょっとドキドキした。
04/28(Thu)
新記事:「古典とアダルトゲームについて」
古典に限らず、「○○は面白いから読んで(プレイして)みるといいよ」といった情報交換は、遠慮せずお互いどんどん行なっていくのがよいと思う。(友達がいれば、だけどな!) もっとも、そうしたコミュニケーションが、互いの趣味嗜好の尊重を忘れ去って一方的なものになると、お節介なお説教と識別できないものになっていくが。(第三法則ネタ改変フレーズ)
ネウロイ赤城のディテールを確認するついでで――要は1期全話を再視聴しちゃって――、先日(4/18付雑記)言及した件に関係するSSも撮ってきたので、ここで紹介しておこう。アニメ作品のSSを使うのはたぶん初めてだが、これはこれでありだろう。
『ストライクウィッチーズ』
(c)2007 第501統合戦闘航空団
(画像1:)乱れ髪アニメーションの卓越した実例。左の画像1~3は、DVD第5巻(第10話)、45分25秒から28秒の映像。飛び去っていくウォーロックを無言で睨みつけている場面。
(画像2:)頭髪アニメーションは、通常は2パターンのループで簡単に処理されるが、このショットでは3枚投入して、緻密かつ複雑な描き込みでダイナミックに描かれている。この緊張感に満ちたシーンにふさわしく、激しい力感と頼りなげな不安感を視聴者に伝える表現になっている。
(画像3:)第10話の絵コンテ/演出担当は西本由紀夫。作画監督は齋藤雅和、総作画監督は平田雄三。この回は、豊かな動きのある頭髪アニメーションを各所で披露している。西本は第5話でも絵コンテ/演出を担当しており、とりわけ発進直前のシャーリーの乱れ髪を見事に描いている(DVD第3巻、17分27秒以下)。
(画像4:)同じく第10話より、44分46秒以下の映像。突如出現したウォーロックを注視しつつ「あれは……」と呟く場面。こちらは人物を斜め下から映した凝ったレイアウトで、後ろから吹きすさぶ激しい風の動きを演出している。ここでも、アニメーションは3枚でループしている。
04/24(Sun)
模型制作が一段落ついたので雑記ページを整理。
本当にね……木村氏の芝居は、けっして急がず悠然としている。他の声優の芝居ではなかなか聴けないテンポだ(――特にアニメでは、プレスコでもないかぎり、映像に合わせる都合があるため、役者が自由にテンポを設定することがそもそも不可能な環境にある)。そしてそれは、確かに、個々の台詞をけっしていい加減に流していないということでもある。一つ一つを丁寧に、心情を込めて、作品世界の空気を形作りつつ紡がれる、滋味溢れる芝居の妙趣。
似たようなことは、以前にも述べたことがある(2013年2月9日付雑記)。
『LJ』に続いて『ブラウン通り』もDL販売か。どちらも良い作品なので、多くの人が(再)プレイできるようになるのはいいことだと思う。SHCとしても、この時期にはグラフィック面(CGスタッフ)と音響面(BGMも音響演出も)が飛躍的にクオリティアップしたし、内藤氏のテキストも切れ味を増しつつ伸び伸びした諧謔味を加えていた。『ブラウン通り』は、半年毎の課題がちょっと厄介だけど、作中世界の広がりが楽しいし、『LJ』も中盤から複数のイベントがどんどん進行していくところがダイナミックで面白い。
そういえば、DL版『LJ』にはおまけムービー(「宇田川ヒコ朗」編ED)はついているのだろうか。
[tw: 691484624308932608 , 566111001339113473 , 579641510926270465 ]
この方の作品が好き。基本工作が非常にしっかりしていて、塗装も清潔感のある感じにまとめている(汚し塗装は、舷側にごく控えめに施されているのが見て取れる)。ディテール工作も全体の中でのバランスを保っているし。大掛かりな追加工作がさらりと実行できるだけの技術/知識もお持ちのようだし。ゴテゴテしたくどい盛りつけはせずに、端正にまとめられた完成度の高さ。しかも、この塗装面のクオリティでありながら、筆塗りベースでいらっしゃるらしい。おそるべし。
私の方向性では、こういう感じの美しい模型作りが目標になる。現状では、瞬着ははみ出るし、塗り分けの境界線もあまりきれいじゃないし、パーツ(特にエッチング)の取り付けは歪むし、パーツ間の隙間も処理できていないことが多いし、きちんとした考証を踏まえていない(のできっと妙なことになっている)し、精密感のレベルがばらばらだし、細かいところは横着しているし、すぐに汚損してしまうしで……本当に私は未熟だ。
ちなみに、上の方は、イラストも大好き。きれいな切れ長の目も特徴的だが、デリカシーのある色彩設計とそれに相応しいシックな着彩(ストッキングのグラデーション塗りも抜群)、柔らかくて優美な描線、ディテールの描き込みと小物の質感表現の間の適切なバランス、指先の表情まで神経の通ったポージングとしっかりした人体造形(心地良いパース感)、空間(余白)にもきちんとした意味のあるレイアウト、そして眼鏡。たしか、最初に目にしたのは、[tw: 599235856071692288 ]:このイラストだったと思うが、今見返しても実に素晴らしい。同じキャラだと[tw: 627844926827401216]:これとかも。
……これは模型ページに書くべき話題だったか。いや、イラストの話でもあるし……。
今日は久しぶりに、何もたいしたことをせずに一日を終えてしまった。反省。
気温(27度)のせいにしたいところではあるが、ただ怠惰であったにすぎない。反省。
MRS氏は相変わらず元気に活躍されているようだけど、個人的には、この方のことはあまり信用していない。大量の文献を収集し渉猟している方だというのは分かるけれど、文献の適切な扱い(位置づけや評価や組織化)をするための基礎が出来ているかどうかは疑わしい(――そうした疑念を持つのに十分な一件があった。例えば、[ twilog.org/cactus4554/date-110418 ]:このあたりとか)。比較的単純な個別事実の存否確認に関しては比較的信用できると思うが、厳格で正確な読みが出来ているかどうかは鵜呑みにはできない。忌憚なくいえば、「知識の多い素人」だと思っている。ことわっておくと、べつに人として嫌っているという話ではないし、氏の業績が十分大きな知的貢献であることは認めている。
04/21(Thu)
「轟け」概要執筆は残り100回分。つまり約1000分、17時間弱。計算上は、丸一日集中的に取り組めば完成する。ただし、書くことが多いので、他の作業と同時並行では出来ないし、集中力の点でもかなり消耗する。実際、この一週間の間で処理できたのは58回分にすぎないので、同等に見積もるとすればまだ2週間近く掛かることになる。
STP本家も、すべてDLはしているが、アレな投稿が増えているので400回を超えたあたりから聴いていない。そうでなくても、STPの概要整理には「胃」「轟け」の比でない労力が掛かるのだが。以前に、私と同じようなSTP概要紹介を――たしか200回の前くらいまで――同人誌で刊行された(そしてSTPにも送られて、ラジオ内でも取り上げられていた)リスナーさんがいたと記憶するが、その方がそれ以降も継続されているのかどうかは知らない。
ぴー。(書かない方がよい千言万句の罵倒の言葉)
続編の主人公が、「前作のサブキャラの弟」というのは、やっぱり意味が分からないよな。
身体にはあまり良くないが心にはよく効くものを食べてうっとり。ケーキなら5個は軽い。10個でも行ける筈。この半年でダイエットの仕方を変えたおかげで体重がそれなりに落ちていて、多少食べてもよいくらいの余裕があるし。(それを余裕と言っていいのか)
04/20(Wed)
『シムーン』も十年か……。なにかと心に痛かった作品で、DVDも観返そうという気持ちになれずずっと封印状態だし、他人におすすめしようという気持ちにもなれないが、この作品のことはおそらくけっして忘れることは無い。
キャラデザから性格設定からキャストから劇中での活躍に至るまで、あらゆる要素があまりにも良すぎて(自分の好みに合いすぎていて)、「こんなキャラがいていいのか? この私がこのキャラを直視して喜んでしまっていいのか?」と狼狽えてしまう経験をしたことはない? 私はある。(以下、変態真顔トーク)
[tw: 694789460790157312 ]
神代氏のtw投稿が――いや、投稿文面というよりは自己演出のスタイルや、作品/キャラとの距離感の取り方が――とても面白くて、またログを読み返していた。ゲーム芝居に対するストレートな肯定感の表明や、収録時の役者の意識の繊細なところにさらりと言及してみせる口ぶり、演じた役に合わせて「武神」「シャチ」を自称してみせるユーモアと言語感覚、それでいながらクールな距離感やバランスのとれた意志力も持ち合わせている様子。
作品の中での芝居も、ふだんは表現のレンジを(少なくとも表面的には)あまり広げすぎないタイプの方なのかなと思うが、ひとしきり聴いた後で、キャラクターの印象がずっしりした後味として残っていることに気付いて驚く。私のような素人にはその表現技巧やデリカシーがどのように形作られているのか見当も付かないが、役者としての厚みは常に感じさせられる。
新記事:「サンプルヴォイス雑感」
ちょっと長くなったけど、単独記事に切り分けるのはどうしようかな。基準としては: 1)文章規模がは1200字(一画面に表示される分量)を超えたものは、独立させていきたい。2)議論内容に一般性があり、なおかつ私なりの独自の分析/整理/見解を付与できている議論であること。他のサイトや他人の個別発言に関するもの、あるいはその場限りの話題は、わざわざ単独記事にはしたくない。3)内容がゲーム(あるいはそれに隣接する諸々)に関するものであること。政治的な話題などは、この雑記ページの中に埋もれさせておきたい。だいたいこのような方針でやっているが……今回のは微妙だけど、とりあえず分離しておくことにした。
04/18(Mon)
強風などで髪がバサバサと不規則に乱れている様子は絵としてとても魅力的なもので、「色っぽい」と言ってもいいくらいなのだけど、AVGの一枚絵(つまり止め絵)では難しいし、漫画もやはり静止画にすぎないし、アニメでもやたら手間が掛かるので、満足のいくものには滅多に出会えない。例えばアニメ『SW』シリーズでも、多くの場合、簡素/局所的/短時間のループアニメーションに留まっており、手の込んだ乱れ髪アニメーションはほんのたまにしか実行されていなかったが、その数少ないシーンはいずれもたいへんな眼福だった。
【 制約無しに語られてほしい 】
本当にネタバレ自粛は有害だな。自粛どころか、ストーリーのそれほど重要でもない部分への言及に対してもせせこましく提起される「それはネタバレですよ」というお節介までもが、何の躊躇も疑問も無しに、良い行動として罷り通っている。ざけんな。以前にも書いたが、ネタバレ発言などで作品の面白さが伝えきれるはずは無いし、断片的なストーリー情報ごときで面白さが減殺されることもそうそう無い。そして、それらの基礎にあるストーリー(というか単なる筋書き)至上主義それ自体が、偏った見方なのだ。文体、BGMのリズムやタイミング、アニメーション、ゲームバランス、Gペンの筆触とコマ組み、そうしたあらゆる要素に、自分の感性と知性で直接触れることの中からこそ、意味ある審美的体験が得られるのだ。
事前情報無しで読み進めるワクワクは、そんなに大事だろうか? 登場人物たちがどうなるかに関するドキドキは、そんなに大事だろうか? 単なる心理的な宙吊りや初見の驚きを、芸術体験の感激と取り違えていはしないか。物語の全てを知ったうえでもう一度あらゆる細部をゆっくり鑑賞しながら読み返せる再読の享楽は、むしろ最初の時よりも大きな楽しみを与えてくれるくらいではないか。万人に対するネタバレ配慮というお節介のために作品内容について口を噤み続けるのと、作品内容のあらゆる部分(筋書きであれそれ以外であれ)に対して遠慮も制約も無しに語り合ってその作品に対する理解を豊かにしていきつつ未読者の興味を惹いていくことの間で、私は前者を取る理由が見出せない。
しかも危険なのは、ネタバレ秘匿の慣習が、「創作物に触れることの意義」のような価値的次元を考えないまま、社会的マナーの次元で(つまり単なる非芸術的考慮に基づいて)広まっているという点だ(――最初にわざわざ「自粛」という言葉を使ったが、まさに社会的な[過剰]自粛と同じ仕組みで、ネタバレ自粛が広まっているように思われる)。しかもそれは、2016年現在、マナーを超えてほとんど「タブー」にすらなりつつあるようだ。具体性を消去された褒め言葉だけが広められる世界は、どれほど貧しい言論空間であることか。私はそのようなあり方にまったく賛同しない。ネタバレを気にして内容を語れないことによって、私たちは損をしている。
04/16(Sat)
特定のコンテンツを長時間プレイして同じBGMを延々聴く羽目になるのがつらい。
こういうのはすごく苦手。
当面の活動がうまく進まないので、週末はゆっくりお昼寝をして過ごす。
室温が26度を超えてきたので、今日もぐったり。
どうやらこの身体は、暑さそれ自体には強い筈だが、気温変化には弱いようだ。
最近、おさげキャラに大ダメージを受けることが多い。
いつの間にか、弱点属性(←古い言い回し)がついてしまったようだ。
アダルトシーンで男性キャラの身体が単色半透明の影絵状態になっていると、「おまえは『かまいたちの夜』の登場人物か!」とツッコんでしまう。こういう影絵スタイルは、作為的に感じられて嬉しくないのだけど、こういうのでも受けているのだろうか。女性側の身体を隠さないようにするという意味はあるし、また制作サイドでは、少なくともローコストというメリットはあるのだろうけど。男女(に限らないが)のお互いの身体がしっかり絡み合っている方が性的な迫真性が出そうなものだけど、何にも増して女性の身体を最大限重視するという選択なのだろうか。
そうか、八幡氏のお声は、咲氏にちょっと似ているんだ。アルトヴォイスで芝居がかった口ぶりの時には、特に強く感じる。誰かに似ている/いないというのは、芝居の質そのものに直結する話ではないが、よく聴き慣れた声に近いと、それだけで単純に親近感や好意が増す。
ぷれしゃすている氏、最近はあちらで活躍されているのか。
【 あるカテゴリーの集団を等し並みに扱うこと 】
私見では、「オタク(の社会的に不適切な言動)」を一括りにすることと「マスコミ(の問題ある行動)」を一括りにすることは次元の違う問題なので、一方を肯定しつつ他方を批判することは正当に成立しうる。オタクというのはあくまで趣味の問題であり、それゆえその性質上、1)個人的な問題であって、責任を集団的に負わせられる団体ではないし、2)私事の領域に属するものであって、公共的問題と結びつけるには相当の根拠が必要であるし、3)趣味嗜好の追求として内部的多様性があることが当然の前提であって、一括りにされることはそもそも適切でない。
それに対してマスメディアは、1)組織(私企業)の存在を前提とする活動であるから、マスコミの不正な振舞いに対する嫌疑は、単なる個人単位での不正の問題にとどまるものではなく、組織上の行動(業務遂行上の行動)としての側面が不可避的に伴われるし、また、組織運営それ自体の問題(とりわけ法令遵守とガバナンス)として問題にすることができるし、そうすべきである。また、「業界」として成立しているので、業界的慣習(内部的慣行)の社会的妥当性の点でも、不正は看過することはできない。2)単なる私企業の活動というだけでなく、公共的な事項に関わることをその本旨とする活動であるし、しかもしばしばインフラを寡占すらしている巨大な組織的活動であるという点数からも、その活動の公正さは常に広く、通常以上に厳しく吟味に晒されなければならない。3)公共的な事柄を扱い、他者の権利や利害にも関わりうる、組織的な活動であるという点から、マスメディアに対しては様々な形で制度的な――つまり個別的ではなく「一括り」の一般的な規範の形での――制約が課せられる。
さしあたり思いつく論点を挙げてみたが、「オタクを一括りにすることを批判しながらマスコミを一括りにしている人は首尾一貫していない」という主張をする者は、このような重大な相違点を無視して強引な類比を行っているにすぎないので、そんな言葉に耳を貸して縮こまる必要は無い。「オタク」は多様な個々人の自由な趣味活動を名指しする擬制的カテゴリーなので、特定の(社会的、道徳的、等々の)属性を共有する集団と見做すのは端的に誤謬であり、単なる偏見であるとつっぱねればよい。それに対してマスメディアは、強度に社会性を持ち、しばしば公共的問題を扱う活動であり、なおかつ当事者もしばしば組織的に自己の業務として行動しているのであるから、そのあり方については、常にできるかぎり広汎に、そして一般化可能な仕方で議論することは、むしろ望ましいことだろう。
もちろん、実質的問題として、「マスコミを一括りに見ること」、つまり個別事例を即座にマスメディア全体の問題に拡張することが妥当だとは思わない。しかし、それは、「オタクを一括りに見ること」が妥当であるかどうかの問題とは別の問題なので、比較して論じるべきではない(比較することは論拠形成として意味を為さない)ということだ。
このブログでは、個々のトピックの文章量は、私の関心の強さや問題の重要性とは、あまり関係が無い。ほんの一行のコメントでも、言葉にならない感興を込めていたりする(特に声優関連の話題では、そのデリケートな部分を言葉にするのはたいへん難しい)し、その一方で、ほんの筆のすさびのような内容でも、最低限ロジックを構築しようとしているうちに1000字くらいはスルスルと展開してしまったりする。
04/15(Fri)
[tw: 720664819544686592 ]
その前後の投稿で述べられていることも含め、気持ちは分からないではないが、こうした診断に同意はしにくい。というのは、この発言それ自体が、「オタク」という人的集団乃至カテゴリーをして、特有の実質的性質を持つ集団だという観点を(余所から向けられた視点としてであれ)受け入れてしまっているがゆえに。現代では、オタクというのは――つまり(ここで仮におおまかに規定しておくならば)比較的若者向けの娯楽性を重視したインドア派的趣味に興じている人々というのは――、もはやなんら特定の実質的な傾向を持つものではない。つまり、現代人が様々な人種、国籍、性別、信条、社会的地位、門戸、等々の属性を持っている中で、オタクであるというのはワンオブゼムの要素にすぎず、当人の人格を全面的決定的に規定するほど強力なものでもないし、また、オタク/非オタクの間で性格等に顕著な相違を生じるようなものでもない。現代において「オタク」と呼ばれるような人々は、一昔前のような「通俗的価値観から離脱して自律的に自らの楽しみを展開するエリート趣味人」のようなものでもなければ、「社交性の無い幼稚な快楽に没頭する未熟人」でもない。平均的な非オタク(一般人)と、平均的なオタクとでは、当の趣味以外のほとんどの要素(社会的地位から政治的立場まで)に関して、有意な差は無いだろう。今では私はそう考えている。だから、今回の問題に関していえば、オタクだろうが非オタクだろうが、差別的な言動に及ぶ人はおそらくほぼ同じ比率で存在するだろう(――これが私の原則的認識だ)。もちろん、差別的発言を行った特定のオタク個々人に対しては非難の言葉を向けるべきだが、それはオタク的属性のゆえになされた差別発言ではない(オタク的属性が特定の差別的意識を助長するような結びつきが生じるという事態はちょっと想像できない)し、そして、当該差別発言者のオタク的属性と結びつけてその差別発言を咎めようとする第三者からの非難に対しては、不当な拡張的嫌疑(過剰包摂または根拠の誤謬)だとして反対しなければならない。あらゆる差別問題と同様に、「オタク」(またはその他の任意の社会的カテゴリー)を一括りにしてそこに特定のネガティヴな傾向の存在を(無根拠に)想定して掛かる見方そのものを、まずは徹底的に否定し、強く反対しなければならない。
私の見解を繰り返しておく。オタクという属性を持つことは、けっして、個人の性格を必然的かつ強力に規定するようなものではない。オタク集団は(非オタクと同様に)きわめて多様であり、その多様性は一般人のそれと同程度のものである。オタクを一括りにしてそこに特定の実質的傾向を読み出そうとすることは、おそらくほぼ全ての場合において端的に誤りである。オタクという属性に対して差別することは、(他の属性差別と同様に)けっして許されない。
仮にオタクの中から犯罪者なり何なりが出現したとしても、それは(本当に当該犯罪行為との間に密接な連関があると証明されでもしないかぎり)当人がオタクであることとは無関係であるし、ましてや、当人以外のあらゆるオタク個々人とも無関係であるし、そしてかように無関係な個人に対して無根拠な非難が向けられた場合には、当然ながら、それは絶対に受けられられない。
だから、例えば、上記コメントに対するこの言及[tw: 720761513124868096 ]についても、善良な方だなあとは思うが、納得はできない。一つには、そもそも今回の件はオタク集団による差別行為だとは言えないだろう(――ただしこの方自身、その点は重々理解されているようで、「差別されている(いた)人々が別の集団を」という非常にデリケートな使い分けをしているのだが)。また、差別(無根拠かつ不当な取扱)を受けたという経験は、人を成長させることはほとんど無いだろう(少なくとも、その被害者たちを社会集団として大きく道徳的に成長させるなどといった牧歌的な影響は、まずあり得ない)というのが私の見解だ。
……政治の次元を無視しており、かつ少々オールドファッションな見解だけど。
もっとも、私自身も、属性共有に基づく無根拠な評価バイアスを完全に免れているわけではないけれど。例えば、上のコメントをされている方はほぼ間違いなく私と同じ大学の出身者であり、ということは他の人々と比べれば物事の認識や価値観や場所的記憶を共有できる可能性が多少なりとも高いと考えられ、そうしたこともあって基本的にはニュートラル状態というよりはずいぶん好意的な目でもって、たまに思い出した時にそのtwログを拝見している。つい先日も、久しぶりに発言ログを2ヶ月くらい遡って読んでいた。
首輪といったらSkyFish、つるみく、CLOCKUP、Digital Cuteあたりだろうか。
[tw: 710466256659468288 ]
そういえば、この問題は面白かったなあというのも思い出した。べき乗や偶奇性について最低限の理解があれば中学生でも答を出すことはできそうだし、この種の問題について多少の経験があれば文系高校生でもそれなりの証明を示すことはできそうだ。きちんとした証明は少々難しかったが。文系入試で出題してもよかったんじゃないかと思ったけど、実際のところどうなんだろう。
男性キャラのお腹の描写は、腹筋がくっきりと割れているか、あるいは逆にぽってりと膨れ上がっているかのどちらかが多くて、「極端に不摂生でもないし運動部並の硬さでもない、平均的なインドア派青少年の身体」くらいの普通の胴体――普通の男性ってそんなくらい、だ…よね?――がなかなか見当たらない。そのあたり、もう少し程良い感じであってくれたら、見ていて楽しい(?)のだけど。そういう中途半端(?)な状態は、うまく描くのが難しいのだろうか。
「~ックス」という表現があまり普及すると、メタフィジックスとかスタティスティックスとかエキノコックスとかがなにかえろい単語(あるいは複合語)であるかのように錯覚するようになってしまうかもしれないじゃないか。実際、現に今こう書いて字面を見返してみたら、「アリストテレス総受けの言葉責め、めたふぃじックス」とか「狐神様との危険な寄生虫プレイ、えきのこックス」とかいった珍妙なフレーズが頭に浮かぶようになってるぞ……どうしたらいいんだ。
ああ……Swsr氏のラジオトークが、共演者をぎりぎり死なない範囲で滅多刺しにしてる……。
04/14(Thu)
絵を数枚見れば、その中に眼鏡イラストが含まれていなくても、そのイラストレーターさんが眼鏡好きであるかどうかはなんとなく判別できる。……なんというニッチスキル。
「胃」の概要整理が最新回まで到達。時間は掛かったが、楽しかった。
聴き返しはこれでひとまずの区切りとして、後は「轟け」をゆっくり聴いていくくらいにしよう。
大字は、なかなかすぐには変換候補に出てこないし、私の場合は変換候補をごちゃごちゃにしたくないという考えもあるので、わざわざ熟語で入力してから不要な文字を削っている。6の「陸」や7の「漆(うるし)」はそのまま出せるが、3は「参」加、5は「伍」長、8は「捌(さば)く」、10は「拾う」をいったん入力してから削っている。4はなかなか良いものが無いが、「書肆」を使っている。「書誌」「諸氏」などと被るが、それほど使用頻度も高くないし、変換候補数もかなり限られるので問題は無い。9の「玖」には、良い変換候補が無い。『新字源』には「玖璇(きゅうせん)」という言葉が載っているが、ATOKでは変換できないし、「きゅう」は「旧」ですぐに変換できるようにしておきたいので、使いたくない。「佰」「仟」ともども、諦めて他の手段に頼っている。それにしても、「壱」が「壱智村(人名として登録済み)だったり「弐」が「弐瓶」だったりするのは、我ながらいかがなものかと思う。1と2に関しては、全角「1」「2」を変換すれば変換候補に「壱」「弐」が出てくるので、それを使ってもいいのだが、あまり気が進まない。
木々津氏と安部氏と松本氏の新作はまだですか……。
webで調べてみると、『ふらん』→『マーニー』の間隔は半年程度、『マーニー』から『兄妹』の間は15週とのことので、新連載がすでに準備中だとしてもまだ何ヶ月か待つことになりそうだ。
[tw: 719136819682476033 ]
えっ……結本氏が!?
10年前のSHCだったら、主演の海賊帽子娘は大波氏で、黒髪眼帯キャラは羽賀氏だったに違いない。「黒」役はどなたが演じられるのだろうか。 今回の「羽高なる」枠は、村川島さんかなあ。
04/13(Wed)
[tw: 719732607215243264 ]
大学の講義にしてはずいぶん薄っぺらそう、と思った。のっけから「~を題材として映像・芸術論を試み」といったくだりの言い回しの大雑把さ/こなれなさ/無内容ぶりとか、全体に理論的/方法論的示唆がほとんど見受けられないところ(理論枠組を示せないのはやばいです)とか、「解析」という素人評論家お得意ワードを平然と使っているところとか、「記号学」(「記号論」と呼ぶ方が多いのでは?)とか、個別作品の安易な略称使用とか、「萌え」「ソーシャルゲーム」「コスプレ文化」といったアニメとは直接には無関係な(しかも相当にユルく広すぎる)分野/領域を無節操に列挙しているところとか……。担当者は素人ではないと思うのだが、この本文全体に漂う、2010年代のオタク-アカデミズムとしては不思議なほどの垢抜けなさ、企みの希薄さ、平板さは、何なんだろう。海外の映像研究の蓄積からあんまり摂取していなさそうなドメスティックな香りも、今時の議論としては少々まずい。仮に、もしも私がこの種の講義をするとしても、さすがにもうちょっとは理論武装の気配を見せるけどなあ。これはフェイクではなく本物のシラバスで、[tw: 720094687873208320 ]:このpdfの74-75頁に「授業項目・内容」も載っているけど、かなりの肩すかし感が……。いやまあ、あんまり悪口を言うのもなんなんだけど(そしてシラバスレベルでどうこう言うのもモンカショーっぽくてアレなんだけど)、ごく普通のアニオタがこれを一読して、はたして「新たな知見を得られそうな講義だ」と思えるかなあ。
私が大学に入学した当初は、わくわくしながらシラバス冊子を読んでいた記憶がある。高校生時代の私は(今でいうジュンク堂レベルの)大型書店の背表紙群を眺めてはそこから適当につまみ食いをしていた程度だったが、初年度の教養(総人)シラバスにぎっしりと羅列されていた無数の専門用語とそれらの(当時の私にはほとんど見当も付かないような複雑さと高度さで)独自に体系化されていた有様は、はるかに具体性があり、生き生きとしていて、未知の専門的知識の確かな手触りと最先端のが学知の鮮やかさに満ちているように感じられたものだった。
もちろん、興味を持った講義の全てを受けるには私の知的/時間的キャパシティは到底足りず、また、1~2ヶ月もするとその感激も攪乱され希釈されていき、キャンパスライフを順調に迷走し始めていったのだが、いずれにせよ、シラバスの半ページだけでも(実際には受講しない学生たちにも)知的刺激を与える可能性のある機会なのだということは分かったし、疎かにしない方がよいものだという認識も得た。
白鳥武さんは、アダルトゲームの中でも特別に好きなキャラクターの一人。あの『淫妖蟲』シリーズの登場人物なので、毎回間違いなく、あの、その、身体的にも精神的にも大変な目に遭ってばかりいるのだけど、双子の姉(メインヒロイン)との関係から、作品毎にイメチェンしながら基本的には引き締まった美人さんっぷりを披露してくれるところまで、とにかくいろいろ。キャラデザは、立ち絵を見返しても、無印版のボーイッシュさと柔らかさの両立した姿も良いし、『蝕』の悲壮な凛々しさやファッショナブルさも好きだし、『悦』では大人びた美人度が上がっていて格好良いし、『凶』では内向的な雰囲気と幼さが出ているし、新作の『獄』では制服のボトムスが目立つ形にデザイン変更されているおかげで全身のプロポーションの美しさがよく分かるようになっているし、目元の潤んだような艶も素晴らしい。「破滅願望の投影」と言われたら、まあ、そうなのかもしれないけど。
ただし、キャラはともかく、このシリーズのゲーム内容(イベント内容)は、エキセントリックすぎて何が何だか分からないゾーンに入っていて、プレイするのが辛くなることがある。全身貫通や産卵は当然のように行われ、電流を流されたり、あれとかそれとかを飲まされたり吸い出されたり、股間に触手を生やされたり、バッドエンドでは触手生物にボリボリ食べられたり……。セクシュアルな表現としてもニッチすぎるし、バイオレンス表現としても奇天烈すぎるしで、よくもまあこんな路線のタイトルが何作品も続いているものだと不思議に思えてならないくらい。とはいえ、こんなネタを、絵と声とテキストでこれほどの迫真性をもって表現できるのはPCゲームならではだと思うので、今後もこのクオリティで頑張ってもらいたい。私も、興味を持てる範囲で買い続けるつもり。
04/12(Tue)
「胃」はようやく王都に到達。着手してから丸20日間のハードワークだった……。最新回に追いつくまでは、残り14回。約7時間か……なんとも中途半端な時間だし、このままの勢いで(Ex-S制作と平行して)「轟け」にも手を付けようかな。ソースを見て毎回DLしてあるので。
シリーズ毎に見ると、主題歌つきの「ドリル」と、参加者(ゲスト)が多くて賑やかな「ベスト」が特に良かったと思う。「裸」も勢いがあった。逆に「御中」から「Yo」にかけては、笹島氏の欠席も多く、話題もTV番組やゲームの雑談に傾斜しすぎ、投稿者も少なく、やや単調だった。その分、ラジオ外での生活は充実しておられたようだが。最新の「王国」は、年末年始を挟んだためまだペースが確立されていないが、全体に明るく聴きやすい感じで進んでいる。
卯衣氏のお声は、なんだかこう、やみつきになりそうな、いわく言いがたい魅力が……。聴いていて、ややもするとニヤけそうになりそうでいて案外そうはならず、むしろ(おそらくは穏やかな表情になりながら)神妙な気持ちでじっくりゆっくり聴き入ってしまう。硬いようでいてなかなかまろやかな発声で、悠然たるテンポの語り口はたいへん気持ち良いし、諧謔味のある雰囲気を展開するのも抜群に上手い。それでいて、時にはクールなキャラやごつごつした芝居も披露してみせる(『カルマルカ』『こころリスタ!』『英雄*戦姫』など)。良き世界への希望を象徴しているかのように聴こえる時すらある。そうしたニュアンスの複雑さにもかかわらず、常に一音一音がきれいに粒立っていて、おそろしいほどのクリアさが律儀なほど厳格に保たれている。その語り口の誤魔化しの無さとその徹底された澄明さに気付くと、私はニヤけ顔は固まってその芝居の誠実さとデリカシーと、そして音声表現の深さに粛然とするしかなくなる。そんなこんなで、ヴォイススキップのできない役者さんの一人になっている。
『星空に~』では、貴重な少年役も演じている。素晴らしい。
氏の芝居の特質は、松永氏や月城氏と並べて語られてもよいかもしれないと思った。「似ている」というのではなくて、ゆったりしているが遅くなく、きれいなようでいてたまに不思議なヴィブラートが掛かっていたりして、聴き甲斐のある心地良いリズムが語り口に溢れていて、そして清潔感のある幸せが滲み出てきているという、その曰く言いがたい諸側面のまとまりとして。
04/11(Mon)
【 よく似たキャラたち 】
相互識別できない同じ顔つきのキャラがたくさんというと、『巣作りドラゴン』のメイド魔族たちとか、『霞外籠逗留記』のこれまたメイドさんズとか、『えむぴぃ』の分裂ネタとか、『桃華月憚』の胡蝶三姉妹とか、『R.U.R.U.R』のタンポポ増殖とか、まあわりと定番のネタだと思う。『おしえてRe:メイド』や『FESTA!!』にも、外見の酷似した(ただし一応立ち絵の違いはある)双子サブキャラが登場していた。ヒロイン級キャラクターだと、双子キャラなどでも、瞳の色などで最低限の区別はつけるのが普通だが。そこからさらに、モノクロ回想シーンでどちらのキャラか識別できないようにするという演出も、すでによく知られているものだろう。
ただし、一昔前のタイトルは外見上の区別がかなり分かりにくいものも多かった。例えば『Clover Heart's』は、外見上の特徴としてはリボンの色くらいでしか識別できなかった。同様に『復讐の女神』『水月』『ToHeart2』『NAO2』『らくえん』『Quartett!』『ひめしょ!』なども、ヒロイン級キャラにもかかわらず、双子や姉妹のキャラデザ次元での区別はあまりはっきりしていなかった(――それは、双子らしい統一感を今よりも重視していたのか、それとも現在ほどにはキャラデザに凝っていなかったからなのか、事情は分からないが)。『倉野くんち』(2012)のように、双子でもキャラデザ上はまったく似ていないというのは、むしろ比較的新しい傾向なのかもしれない。
近年のタイトルだと、『この大空に、翼をひろげて』(2012)の風戸姉妹(双子)は、ヒロイン級にもかかわらず外見上の違いがかなり少ないという、少々珍しい例だった。もちろん、音声があり、発話者表示があり、そして立ち絵演出がある現代AVGでは、外見が似ていても識別は非常に容易になっている。
ニコイチされた双子は、たしか頭髪色が違っていたのだったか。
祝・Studio T Paradise 500回到達。
回数それ自体は前人未踏というほどではないが、1)非営利(スポンサーがついていない)、2)多人数(6人。一時期は7人だった)、3)本職声優によるwebラジオが、4)年末年始以外は一度も休まず、10年近くずっと楽しみながら毎週続けてこられたのは、本当に素晴らしいことだと思う。ちなみに、「胃~之煮」も通算480回以上(毎週更新)、「轟け」も210回以上(隔週更新)続いている。
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もう少し補足すると、7月に入ると「暑くなってきたからもう終わりにしよう」と仰る先生もいたらしい。つまり、実質的には5月中旬から6月まで、15コマのうち半分しか講義を行わないということだ。とりわけ文学部でよく見られる風景だったらしいが、私は幸か不幸かそういう講義を受けたことは無い。……ところで「教員室」って何? 「(各)教員(の研究)室」のことだろうか。
04/10(Sun)
同人二次創作について、「法的にはグレーだけど、表立って版権元に許諾を求めるな。わざわざそんなことをする奴は馬鹿だ」といった主張が広く為されているけれど、釈然としないものはある。法的評価としての未決定状態と社会的慣習としての支配的実態との間にズレがあるのは確かであり、そうしたズレに直面する人々はそれぞれ自分が不利益に陥らない仕方で行動しようとするが、上記のような黙認頼みが自明に唯一/絶対/完璧/最高の対処であるわけではない。事実上は、二次創作者に対して版権元が直接かつ頑強に権利主張してくることはまず無いとされているが、現行法の文言上は他人の権利を侵害する(として訴訟提起される)可能性がある行為であるわけであり、にもかかわらずそれを慣習的期待に依拠することのみによって正当化するのは、そうした問題にコミットしていない人々の目には、不可解または奇異に映るということはあるだろう。それはもしも攻撃的な版権元が現れたならば即座に覆されかねないようなものだし、同人誌と同人グッズのように危険性(侵害性)の度合いが大きく異なる場合もあり、また他方で、黙認とは異なる仕方でこの問題に対処している分野(とりわけ当日版権システム、あるいはパロディ法制化のアイデアなど)も存在する。
そうした条件下で、黙認の慣習に倣って行動するように勧めることは、現状ではたしかに十分に賢明な助言ではあるが、しかしそれは、それに従わない者をバカにすることができるほどには正当化の裏付けがあるわけではないし、ましてや、(法的問題の当事者性の観点でも、また慣習としての性質からも)第三者が傲慢にお説教を垂れることができるようなものでもないだろう。もしも、その慣習に従って行動した自分が、攻撃的な版権元から権利主張されてダメージを負ってしまったとしても、黙認を説教した特定/不特定の周囲は誰一人その助言の責任を取ってくれはしないのだし。それは、そうした黙認期待の助言者たちが、実際には信用させる根拠を持ってはいないということでもある。実際、不可避的に曖昧な条件に依存しているのだから仕方ないのだが。
法の文言を読めば黒としか読めないような行為のリスキーさを、黙認期待という(法的)建前と(慣習的)本音の使い分けによって、無かったことにするという振る舞いは、「赤信号の指示を守るべきかどうかは分かってるだろ」と言わんばかりの、世慣れたオトナの暗黙知と見えかねない側面がある。それに従わない者がいたり、さらには時として反感を持たれたりする可能性も考えたうえで、あくまでやんわりと述べるべきだろう。
実際、第三者としては「自己責任の範囲で」と言うしかないが、不確定的ながら権利侵害に当たるような行為であり、少なくとも規定上はわりとはっきりした訴訟リスクに晒される行為を、何の準備も無い一般人が大量に行なっており、近年では(オリジナル創作/二次創作の区別は審らかにされないとしても)公然と報道すらされているという現状は、やはりいびつだと思うし、そうした中で傲慢な口ぶりで上のようなことを述べて恥じない人たちを見ると、なんとももやもやする。「グレーに甘んじろ」「やるなら何かあってもお前の自己責任だ」「嫌ならやるな」「版権元をつつくと俺たちの迷惑になる」「そういう仕組みになっているのだからそれ以外の方法は無い」というのは、少なくとも表面的に見るかぎりでは、きわめて閉鎖的で既得権的でアングラな雰囲気だし、それを「(二次創作も含めて)同人はオタク諸分野の創造性の根源なのだから、それを社会は大事にせよ」と言われても、納得はしにくい。
非-声優な俳優のことをどう呼んだらいいだろうか。私としては、「声優/俳優」という二分法ではなく、声優も「役者」「俳優」の一種である――つまり「役者」「俳優」は総称概念であってその下位概念として「舞台俳優」「映画俳優」「声優」などがある――という捉え方をしているので、できれば「声優以外の役者全般」を指す言葉があったら便利なのだけど。
このくらいなら書いても大丈夫だと思うけど、新年度のゼミで学生たちに自己紹介させたら、その中の一人が先日の某声優のスキャンダルで落ち込んでいて云々などと自己紹介しやがりまして、その気持ちはともかく場を弁えろ(こういう場でAVの話題を口にするなよ)とは思ったが、とりあえず薄い苦笑いとともにその場は流しておいた。普段は「自身オタクであるわけではないが、オタク的趣味にも無理解ではない、キャパシティのある大人」を装っているのだけど、それでもあまりどぎつい話を出されるとね……。
とはいえ、この問題も、「大学とは、既存の常識を問い直すことのできる、あるいはそのための場である」という側面と、「(大学においても)個人乃至集団の権利や尊厳に関わる事柄(あるいは、比較的弱いマナーの問題)を無視してはならない」という側面の間の衝突及び調整の問題であり、そして、上記の性的な事項に関わる発言がどちらに寄せて捉えられるべきか(この場合、価値を問う自由な言論の場として許容されるべきか、それともセクハラになりうるので禁じられるべきか)の判断は、上記の二次創作の問題と同様の不明瞭さがあり、そしてこれに関してはどうしても教員側が一方的に決定権を――いや、権威なんかもう無いけど――持ってしまうという不均衡があったりもするのだけど。
医学部の講義で性器を図示したり、文学部や教育学(母語獲得)の講義で「おちんちん」という言葉を発したり、法学部(刑法)で実在の陰惨な事件を解説したり、地域研究や歴史学で(現在の我々には差別的と感じられるような)資料を見せたりすることは、それらの学問の性質上必要不可欠なのだが、その一方で、そうした目的に必ずしも直結しないような要素を含む教材について、どこまで差し控えられるべきか、または受け手側からの異議申立がどこまで正当なものたりうるのかは、わりと難しい。例えば、講義内容にとって重要でありかつ他に替えがたい資料なのだが、その中に当該目的とは無関係な、社会的に好ましくないとされる可能性のある要素(例えば性的な描写や、政治上の特定の党派的志向を含む表現、あるいは特定の宗教を促進しあるいは批判するような内容)が伴われてしまっているような場合に、その資料を講義中で流すことが正当であるか、どこまで正当化されるかは、一概には言えない。なんでもかんでも消極的に(当たり障りのないように)しておけばいいというものでもないし。
「胃」概要整理は、そろそろ終わりが見えてきた。「Yo!」はできれば明日中に、「王都」も今週中に最新分まで到達できるだろう。その後は……この勢いで「轟け!」に着手しようか、それともそろそろゲーム生活に戻るか。
そんなことを考えつつ、「次はこれで」とMG版Ex-Sの箱を開いたら……これは大変かも。ブルー(できれば迷彩)塗装にしたいのだが、インストと照らし合わせて配色指定をチェックするだけでもかなり時間が掛かった。
04/09(Sat)
[ windmill.suki.jp/images/top_img/reel_3.jpg ]
今時こんなことをやったら、仮に3GBのデータだったら2000枚組くらいになるよね……。この絵で描かれているフロッピーは、おそらく百数十枚分くらいだから、ざっとこの十倍、つまり、この絵全体をフロッピーの背で埋め尽くしてもまだ足りないくらいの分量になる。怖ろしや。
[ katoyuu.hatenablog.jp/entry/animetourism ]
アニメがロケハン(実在のロケーションに依拠)している比率は、全体傾向として増加しているというのは確かなのだろうけど、その傾斜が実際以上に強く見積もられている可能性はある。過去のアニメのロケハン情報が、上の記事で参照されているデータ上では見過ごされている可能性が高いからだ。というのは:
1)視聴者側の主観的要因。「舞台探訪」という視点が広く知られるようになったのは近年(00年代以降)のことである。それゆえ、それ以前のアニメ作品は、ロケハン地の存在が気付かれないままである可能性が、近年のアニメよりもはるかに高い。
2)土地及びデータに関する客観的要因。データの基礎になっている記事群は基本的に、アニメの絵と実在ロケーションの写真との一致を示す証拠写真を出すことによって成立しているが、過去の作品になればなるほど、そうした活動は困難になっていく。すなわち、a)ロケハンされていた土地それ自体が変容しているため、後からそうした一致を見出したり記事化したりすることができないという場合が増えていく。b)また、放映当時の視聴者が当時のロケ地を探索することができたとしても、それを示す資料を出すことが困難になる。つまり、写真を撮っておいたり(カメラの普及と低価格化が必要)、撮影した写真をきちんと保管してデジタル化したり(変換機材またはデジカメの普及が必要)、あるいは当時のアニメキャプチャー画像を出したり(ディスク販売または録画データ保存が必要)することはいよいよ困難になっていく。そうした場合には、舞台探訪関連のデータベースにも登場しないままに終わってしまう可能性が高くなる。あるいは、そうした証拠を出せない場合は、ロケ地指摘を第三者が検証することが困難であるため、疑わしさの残る情報になってしまう。
ちなみに、上の記事のアドレスでも用いられているが、anime tourismというはなかなか良い(適切な)表現だと思う。もちろん、舞台探訪の対象はアニメに限らないので、やや狭い表現ではあるけれど。
「二次絵」という言い回しを目にしたことがあり、その時はおそらく「二次創作の絵」という意味だろうと納得したのだが、その後「三次絵」という表現に遭遇した時はさらに混乱させられた。「三次創作」、つまり他人のファンフィクションを踏まえたさらなるファンフィクションという意味なのか、それとも「三次元(いわゆるナマモノ)に関する絵」なのか、いまだに分からない。低い可能性として、「3Dの画像」や「実写の画像(picture)」のことを指して「三次絵」と言っている場合も考えられるが、日本語の語感には合わないだろう。ふりかえって「二次絵」という表現についても、同様に「二次元的な絵」という捉え方が可能であるが、それは「二次元(オタク)」っぽい絵のことなのか、それとも「二次元(オタク的作品)」を元にした絵を指すのかという点でさらに多義的なものになる。
私自身としては、「二次創作の絵」のことを呼称する時はだいたい「二次創作イラスト」と呼ぶ。おおまかに「同人」と言ってしまうこともあるが、「二次創作同人」だけでなく「創作同人(オリジナルの同人)」もあるし、また他方で「公式の(ただし当初のクリエイター以外の手になる後発的な)作品」もあるので、適切な言い方ではない。「二次元(オタク)っぽい絵」を私が総称的に述べることはほぼ無いが、あるとすれば「オタク絵」くらいの表現をとるだろう。「二次元(オタク)作品に関する絵」についても同様。「追随的ファンフィクション」も、概括的に呼称することはなかなか無いし、あるとしても、もっと具体的に言及するだろう。「三次元的実在に関する絵」は、慣例どおり「ナマモノ」と俗称するだろう。
04/07(Thu)
フィクションで妙に多い名字というと「小鳥遊」が有名だと思うが、「一ノ瀬(一之瀬)」名字のキャラクターもわりと多いようだ。青山ヴォイスの一之瀬さん、波奈束ヴォイスの一ノ瀬さん、それから春日ヴォイスの可愛い一ノ瀬さんと、当たりキャラも多い。もちろん声だけではなくキャラデザ、一枚絵の出来、シナリオ等々を総合的に見ての話だが。
【 特殊な画風のCG 】:時間を見つけて単独記事にしたいネタのメモ。
1)SD。古典的なSD絵と、それに発する表情デフォルメ。2)古典志向。『仏蘭西少女』のデフォルメ。『SWAN SONG』『プリっち』の油絵もどき。3)漫画。『大統領』のアメコミ風カットインや、劇画風デフォルメ。4)ラフ画像。『えむぴぃ』『めぐり、ひとひら。』などのラフ画像。5)SLGの伝統。SLG作品のドット絵や、AVGの中でのドット絵風デフォルメ。6)アニメーション。OPムービーなど。7)入れ子構造。絵を描くキャラクター、作中作(F&C、ソフトハウスキャラ、LOST SCRIPT)など。8)写実からの離脱。『Forest』。9)構造化された分業。『プリスター』の勢力毎の原画分担、『DOOP ADVANCE』の追加キャラ。10)本編外の描写。ファンディスクの自由な実験。11)スクリプトによる変化。
キーワード:アダルトゲーム表現空間の均質性(とそこからの修辞的逸脱)、多分野混淆的スタイル、システマティックな構成/再構成。様式/機能/表現の関係。
影絵少女たちのために。
後日追記:その後執筆した。「アダルトゲームのCGワーク」(1)~(6)。
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ゲームとは何の関係も無いけど。こういうデマ並の妄言を吹かす人は嫌だなあ。1)大学というのは、「こんな安直でテケトーなtipsに頼ってはいけない(知識とは、知性とは、もっと慎重で複雑で公正なものだ)」ということを学ぶ場だ。聞きかじりの話ばかりを鵜呑みにしていては、大学で学べることも学べずじまいになってしまう。2)質の悪い講義なんてものは、めったに無い。ほぼ全員が、その分野を十年、二十年、何十年と研究し続けている本物の専門家ばかりだというのに、何を怖れているのか。そんな稀な不幸を避けようとする労力は、他のまっとうな努力に振り向けた方がよいし、そんなリスク回避のために履修内容を歪めるのは、長期的にみてむしろ不幸になる。3)学生自身が今まさに学ぼうとしている内容――つまり、まだろくに知りもしない内容――について、教科書が良いかどうかを判断できると思うの? 未学者の単なる思い込みで内容の良否を判断しても、良いことなんか何一つ無い。4)そもそも、教科書のクオリティによって講義内容それ自体の良否が判断できるなどと考えた根拠は?
まあ、確かに、アレな出身の人が紛れ込んでくることは(最近では)たまにあって、そういう人たちは参考文献や教科書の指定に際してもアレだったりすることがあるので、そういう事態がまったく無いわけではないが、それならそれで教科書を見るまでもなかったりする(まずシラバスをちゃんと読めば、それ以上の情報が得られる筈だ)し、やはりそうしたパターンはかなりの例外でしかないから、わざわざ教科書の質などといった迂遠な問題を意識する必要は無い。ことほどさように、上の発言は、知ったかぶってアドバイスをしているわりに、いろいろと問題の捉え方が見当違いにズレすぎていて、おかしすぎる。
「○○を見れば××のクオリティが分かるよ!」式のコメントは、基本的にオカルトかデマか小学生の放課後トークと思っておいた方がよい。「アイスの当たりの見分け方の法則」(『ヨスガ』)みたいなものだ。問題が複雑/高度/先端的であればあるほど、そんな表面的なところで素人目にイージーに判断できるなどといったことはまずあり得ない。
近年のマエストロは、ダミ声度が増してきていて、ちょっとつらいことがある。特に、「Yo!」シリーズの最初と最後の「よ゛ー!」は、繰り返し聴いているとかなりつらい。初期の「胃」の頃は、もっときれいな高音だったんだけど。
04/06(Wed)
【 実在の制服とファンアートのイラスト 】
あの青白のコンビニ制服に関しては、端的に何の魅力もなくて「むしろ似合う方が恥ずかしい」とすら思っていたけど、二次創作(お色気)イラストを描くうえでは、縞パンと同じ原理であのストライプのおかげでバストの立体感が強調されるというのが強みになっているのかもしれない。通常は、ああいう縦縞はファッションデザインとして取り込むのは少々難しく、とりわけ学校制服としては非常に困難だと思われる(実際、白箱系アダルトゲームでもほとんど存在しないだろう)けれど、店員制服からのコラボイラストというユニークな(おそらくは半ば偶然の)経緯であれが成立し、そしてそれが明白に特定企業を指示する視覚的表象と結びついているにもかかわらず、オタクの間ではその点に関してほとんど無頓着に共有され楽しまれているのというのは、なかなか興味深い現象だ。
後者の点も、私個人としては釈然としない気分ではあるが、現象としては面白い。これほど明々白々に特定企業を示すアイコンが、これほどまでに公然かつ大量に二次創作で用いられることが、これまでにあっただろうか? コンビニというものが、とりわけ若年層の間にはあまりにも強力に普及し日常化しているおかげで、その制服もまた例えばナース服や巫女服のようにほとんど一般名詞化しているかのように受け止められている、ということなのだろうか? 公式コラボがあったという事実だけでは、この現象は説明しきれないように思う。
そしてさらに、第三の不思議な点として、「まさに我々の現実の中に存在し、そして当該創作物の中には存在しない――と言っていいよね?――特定の制服のデザインが、二次創作イラストの中でカジュアルに用いられている」という側面も、非常に珍しい。フィクション世界の自律性(我々の現実世界からの独立性)という古風な視点は、ここではもはやまった顧みられていないかのようだ。そうした点がまったく問題にされていないというのも、なにかしらの機序があってそうなっているのだろうと思われるが、何によってそうなっているのかは私にはまったく分からない。不可思議。
特定の職種に関する衣装ならば分かる。上記ナースや巫女、それから神主(狩衣など)、メイド、警察官、軍人、消防士、各所作業従事者(ツナギ)、医師及び理系研究者(白衣)、指揮者等(燕尾服)、コック、レースクイーン、等々。配管工=オーバーオールというのも、とりわけ日本ではよく親しまれているイメージだろう。しかし、そうではなくて、1)特定企業や特定のイベントに関係するようなファッションであり、2)現代日本人には広く知られており、3)二次創作イラストなどで多用されている、という条件を満たすものは他に何かあるだろうか?
ありそうなのは、スポーツチームのユニフォームだろう。実際、スポーツファン(例えばサッカーの特定チームのファン)であり、オタクイラストレーターでもあるような人物が、二次元キャラにユニフォームを着せたイラストを描くというのは、00年代初頭でも行われていたことだった。「特定の職種をはっきり示しており、しかも企業毎にデザインが異なっており、そしてその数は(一般人が識別できる程度に)少ない」という条件で考えると、キャビンアテンダントあたりも該当しそうだが、そのようなイラストはほとんど見たことが無い。実在の学生服を用いたイラストは、おそらく昔からあったのだろうが、私はほとんど見ていなかった(あるいはそれと認識していなかった)。
あとは……ああ、そうか、レストランの店員服があったじゃないか! 馬車道、アンミラ、神戸屋、etc。90年代後半の『Piaキャロ』第一作(1996)はそうしたレストラン制服ブームを受けて出てきたものだから、ブームそれ自体はもちろん90年代前半にまで遡る。『まじれす!!』(2004)の頃には、ひとまずのピークを過ぎつつあったと思うが、消滅することは無く、そのスタイルは2016年の現在にもまっすぐ受け継がれている。
こうして振り返ってみると、(若年層オタクの)日常生活にとって卑近なユニフォームファッションとして、コンビニ店員服はレストラン制服とほぼ同じ地位にあり、そして実際にも、コンビニ店員服がファンアートの次元で堂々と取り上げられるのはけっして今回が初めてではなく、20年以上前から営々と行われてきたオタク活動の正統的な一部分だと言うべきだろう。
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媚びとお色気を意識するようになったせいで心底つまらない絵にしてしまった実例としか……。ありがちなお色気イラストにすると、なまじ受け手側も目が肥えているので、凡作になってしまいやすいし、作者の技量の底が割れる羽目にもなるよね。
似たような例を思い出した。昔々、とある伝奇系同人AVGで、BGMがそれ単体としては非常に拙い出来だったのだけど、過去の因縁を紐解きつつゆっくりと展開されるストーリーの雰囲気にマッチして、アルカイックな古拙の興趣として聴けたということがあった。技術面の拙さが偶然にもプラスの方向に奏功した、幸運な例だった。ただししかし、ここで残念なオチがつくのだが、人気を博したその同人作品がボックスセットとして再発売された際に、BGMを豪華なものにアレンジしてしまい、結果としてそれは原曲の空疎さを否応なく露呈させつつ作品の雰囲気をも破壊する大失敗になり果てていた。
作品単位であれ、作家単位であれ、底の浅いものは、下手に取り繕ったりするとかえって底の浅さを露わにしてしまうことがある。その最初の経験だったかもしれない。ネットの普及する2000年頃までは、子供の演奏会や児童展覧会でもないかぎり、音楽でも文章でも美術でも何でも、私が目にするものはプロの作った一流の作品ばかりだったわけで、そうした中で、あの同人作品BGMは、素人の作品にじかに触れてしかもその底が割れるのを目の当たりにした初めての経験だったかもしれない。……その作品は『月姫』っていうんですけどね。
『終ノ空』も、macromediaによる強制フルスクリーンで動作も機能もひどいものだったが、しかしそのことが、この作品のアングラめいた妖しさの印象を強めもしていた。これも、基本的には単なる制作者の技術力不足に起因したものが、結果的に面白い表現効果を生んで、作品体験に特定の興趣をもたらしていた事例だろう。
04/05(Mon)
世の中には楽しいことが多すぎて時間がまるで足りない……。
「胃~之煮」概要作成の終わりが見えてきた。とはいえ、まだ68+14=82回分(約40時間)もあるのでけっしてすぐには終わらないけれど、SLGを再プレイしたり、模型制作したり、ネットチェックしたりしながら適当に書いていけば、今月中には最新回まで到達できそうだ。
余裕があれば「轟け!」の方も手掛けておきたい。途中までは作成してあるので、こちらの残りは150回分(約25時間)になる。まあ、無理ではない数字だ。STP本家の方は、どなたかがうまくまとめてくれたらいいのだが。
それなりの頻度でメールを送っているリスナーが、体感で30人かそこらはいるようなので、現在もSTPを聴き続けているリスナーは、ざっとその5倍と推定して、150人くらいはいるだろうか。STPの方々は、DL数からリスナー数をほぼ正確に把握されている筈だが。以前の配信サイト(「らじろぐ」時代だったか?)ではアクセス統計が公開されていて、たしか一日あたり100アクセスくらいだったので、毎週配信×2回であることに鑑み、かつ、毎日アクセスしているリスナーもいたであろうことを考慮すると、やはり200-300人くらいであったかと思われる。声優ファン(とりわけ笹島氏ファン)の存在を考えると、リスナー数はもっと多いかもしれない。
ちなみに、STP/胃~之煮にメールを投稿したことのあるリスナーは、200人以上いるはず。卓郎ネームをもらっている人だけでも130人以上いるわけだし、これまでの概要作成の感触からして、卓郎ネームの有り/無しの比率を仮に半々と見積もれば、260人になる。結構な人数だ。
音声部分が占有されるため、新規のゲーム作品(AVG)はプレイできないが、レベル上げや実験的なプレイスタイルなどの再プレイはできる。模型の方は、ヘッドフォンを付けながらの作業になるのが少々煩わしいが、問題は無い。ただし、3月だけでも7個完成させて、そろそろ手許の未制作キットが払底しそう。まだ1万円級の大物キットがいくつもあるので、実際にはそうそう無くなりはしないが、新年度も始まってしまったので、そろそろ大型キットは作りづらくなってきた。
ブルマにそういうニュアンスを感じるセンスは、結局分からないままだなあ。
「蒸れる」「もっさい」「もう無い」という認識くらいしか持っていない。
04/04(Mon)
【ちょっとデリケートな、めいぎのはなし】
アダルトゲーム内部での別名義にせよ、アダルトゲーム以外のむにゃむにゃ方面との名義にせよ、そうした事柄をどう扱ったらいいのかは不文暗黙の慣習に大きく依存していて、いつも頭を悩ませられる。
当事者たる声優個々人の側でも、この問題に対する意見や感情はおそらく人それぞれで、「事情があって名前を変えているが、それでもついてきてくれるファンには好意的だ」というものから、「頓着しない、他人(受け手)側が何をどう言っていても構わない」という無関心、「どうせ分かることだし、仕方ない」といった消極的な容認、そして「言われたくない、詮索されたくない。好きか嫌いかで言えば100%嫌なのだ」という人もいるだろう。
現在のところ、受け手/ユーザー/ファンの側から声優本人に対して別名義に触れるのはNG行為だという認識は共有されていると思うが、声優の側では、事実上それと分かるような言及を自発的にされている場面もたまに見かける。私が見聞した範囲でも、アダルトゲームとは関係無い名義での顔出しイベントで「エロゲーでは」云々という発言をされた方もいる。ラジオトークでも、アダルト/非アダルト名義の慣習にはっきり言及したものもあり、また個別にも「『お友達』の方が、あはは」といった形で受け手の知識を前提にした発言をした例もいくつかある。無関係である筈の非アダルト系声優さんが、何の説明もなくアダルトゲームブランドのラジオに出演されていたりパーソナリティをされたりすることもある。tw投稿でそうした関係を微妙なニュアンスで肯定された方もいる。もちろん、イベントでの発言は記録に残らない(オフレコ)だし、ラジオやweb投稿でもはっきりと明言した例はきわめて稀だし、また、そうした言及を一切していない声優さんもたくさんいるから、当人の好き嫌いを問わず、一定の(制度上、慣行上の)限界はあるらしいということが窺われる。
制度(つまり声優本人の立場や利害)に関わるデリケートさがあるという点からも、また、人によって好き嫌いの心理的状態は忖度しきれないという点からも、ユーザー側の振舞いとしては、「危険を冒さない最低ライン」に留まるべきなのだろう。私としては、このブログでは、1)アダルトゲーム内部での複数名義については、そうしたものがあるという前提で、この一ユーザーの勝手な放言の範囲で、それと分かるくらいの言及はする。2)そうではないむにゃむにゃ方面との関係については、公式的には一切認めない(「アニメ版に出演された~」のような表現を採っている)。基本的にはこういう姿勢でいる。ご自身が明言されている、たみやす/民安氏のような例外はあるけれど。
なんとも面倒な話ではあるけれど。もう少し遡っていえば、私の行動原理は、「他人(ここでは個々の役者さん)を傷つけるような行為はしてはいけない」(対他的倫理)、「アダルトゲーム界を健全で安全なかたちにしておくことで、優れた役者さんが安心してアダルトゲームに出演できるようになるだろうし、そうすればユーザーである私自身にとっても得になる」(自己利益)、というものであり、上記の態度決定もこの二つの原理に一応合致しているはずだ。
【 「おすすめ声優」の件(その2) 】
昨日の話のつづき。そもそもが、「おすすめ声優」を抽出しようとする際に、EGScapeの「お気に入りクリエイター(声優)」データを使うことそれ自体が、見当違いであり、端的に間違いなのだと言うべきだろう。そして、不適当なデータに依拠している以上、そこから出てくる結論もまた、ナンセンスでしかない。統計学的操作が表面上きわめて適切に行われているとしても、依拠しているデータ(の選択)それ自体に問題があるならば、それは全体として信頼出来る統計学的事実にはならない。統計を取るに際してはデータ収集の手法もまた重要であり、所期の調査目的を果たせるような適切な仕方でデータを収集しなければならない。つまり、関心対象となっている事項を確かに見出せるような仕方であり、かつ、それ以外の(無関係な)要因に影響されないような――あるいは、そうした影響を適切に除去し得るような――仕方で実施しなければならない。そのようなデータでなければ、「使えない」のだ。
私がそう考える理由をいくつか述べておこう。
1)EGScapeのインターフェイス設計からして、ユーザーは通常、個別タイトルの評価を入力するというプロセスでインプットを行なっている。お気に入りクリエイターを登録するのも、おそらくほとんどの場合、個別タイトルの評価を入力する際に、その画面の下部に現れる参加クリエイター一覧のチェックボックスをクリックするという形でそれを行っている。ユーザーがある時たまたま思い立って、全クリエイターの一覧からトップダウンに特定の声優(たち)を探し出してチェックを入れるということは、ユーザーの意識のありようからしても、それを実行するプロセスの煩雑さ(大雑把な五十音順でしか分類されていないUIの拙さ)からしても、ほとんど行われていないだろう。したがって、「お気に入りクリエイター」の登録状況は、作品単位のまとまりに強く影響されているのであって、声優(芝居)に対する好みが意識化されやすいということは無いし、またそうした好みが反映されやすいようなUIでもない。つまり、今回の問題に照らして言えば、「おすすめ声優(類似性のある声優)」以外の要因が強すぎるし、「おすすめ声優(類似性のある声優)」を反映しにくい仕様になっているということだ。
2)もちろん、ユーザー(の経験)の分布にも偏りがある。上述のように、プレイしたタイトルに規定されるという側面もあるが、時間的要因もある。つまり、いつ頃からアダルトゲームを始めて、いつ頃まで続けていたかは、入力者(プレイヤー)毎に条件が異なっており、このこともインプットに対して強いバイアスを加える。2002年に30歳から取ったアンケートと、2008年に26歳に取ったアンケート、2015年に23歳に取ったアンケート、等々が混在しているようなものであり、それはデータとして滅茶苦茶であるだけでなく、「おすすめ声優」を見出すことを困難にするような外在的な偏りをすら持っている。
3)先述のように、ユーザーが「お気に入り」登録するのは、あくまで個別作品に対する印象に強く結びつけられている、あるいは個別作品の経験の中での印象や満足度に強く依存している。言い換えれば、「ゲーム声優の芝居のありよう」というものに対して独自の展望を持っていなくても登録できるものだし、また、そのような独自の評価軸を表現しようとして登録しているわけではないだろう。個々のユーザーの芝居観や役者観がどれほど首尾一貫しており、あるいはどれほど体系的に深く構築されたものであっても、それは「お気に入りクリエイター登録」という行為に反映されてはいない。主観的にも客観的にも、そうしたものを反映しようという行為にはならない。個々のユーザーは、ゲーム声優の芝居のありように関して一貫したかたちで方向づけられた評価として「お気に入り」登録を行おうとしているわけではないだろうし、無意識的にも、そのような意味を持つ行為たり得てはいないだろう。その意味でも、声優に対する「お気に入り」登録というデータは、そこから(想定されるところの)一般化された評価軸(及びそれに基づいて類似の評価を与えられている他の声優の名前)を含むものであるとは、期待しがたい。
4)さらに言えば、「お気に入りクリエイター登録」という行為は、そもそも声優の芝居のありよう(に対する評価)を汲み取るものではない。そのようなことは出来ない。PCゲームにおける芝居のあり方は、演技のスタイルは、音声表現の構築は、様々な側面を持ちつつきわめて大きな多様性を持つものであって、それは「お気に入りクリエイター」のピックアップ及び登録という行為のみで掬い取れるものではない。つまり、そもそもこのデータは、個々の声優の芝居の「質」という実質的な内容を読み出せるようなものではないし、ましてや、その「質」に関する特定の方向性を見出すための資料となりうるような条件も持ちあわせてはいない。EGScapeのユーザーは、その一人一人を見ても、その都度様々な側面に衆目つつ、様々な評価基準を併用しつつ、そして自分がたまたま聴いた声優の芝居に関してのみ、そしてただ単に「お気に入り」チェックボックスのon/offという仕方でのみ、評価を下している。それらを集積しても、声優の芝居の実質的なありように関する方向性の類似度を抽出することはできない。
結局のところ、このスクリプトから抽出できるのは、せいぜいのところ、「指定された声優Aの芝居を聴いて気に入るようになった人は、声優B、C、D…の芝居をも聴いて気に入るようになった」という傾向らしきものを示すことだけだ。つまりそれは、「過去」の他人の経験(の一端)を示しているに過ぎない。曖昧で弱く薄い過去の道筋を示しているだけだ。将来に対して「おすすめ声優」を示すという、価値関連的な示唆を得させようとしているかのごときその名乗りこそは、このサービスの最大の誤りであるのかもしれない。私は、他人の経験を大雑把に束ねたようなものをわざわざトレースして楽しむ趣味は無い。
だいたいこんなところじゃないかなあ。このサービスの制作者に対して敵意や反感があるわけではないが、そのアプローチが妥当であるかどうかと考えると、「助言めいた体裁で、ただ単に的外れなデータ操作をしているだけだ」と言うしかないように思われる。
まさに昨日していたように、適当な(好きな)名前を入力して結果を見て楽しむという、占いめいた遊びとしては、確かにわりと楽しくはあったのですが。
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うーん、公平に見て「きれい」だと評して差し支えないくらいの女子学生がそれなりの割合でいる、というくらいだったら、べつにファンタジーでもなんでもないけどなあ。それが「ファンタジー(つまり空想上でしか実現できない状況)」である理由は、むしろ、「ひとたび卒業すると、教師にでもならないかぎり、二度とその空間に立ち入ることができなくなる」ということではなかろうか。もっとも、大学であれば、社会人/シニアで入学する可能性もあったりする。
「見目麗しい」の基準が非現実的なまでに高すぎるとか、あるいは、――躊躇しつつ言うのだけど――不運にして、発言者(及びそれに対する賛同者たち)の周囲にはたまたまそのお眼鏡にかなうようなタイプの女性が非常に少なかった(※発言者自身の審美眼が多数派的でない場合も含む)のか、どちらかではなかろうか。
外見はそれとして、内面(性格)についても、なまじの美少女ゲームヒロインよりも個性的で刺激に満ちた言動をする女性は、私の身近にもそれなりにいる。20時間でしか表現しきれないゲームキャラよりも、20年(17.5万時間)なり40年(35万時間)なりを蓄積してきた現実の人間の方がはるかに複雑で多面的で厚みと深みと個性があるのは、むしろ当然といえば当然なのだが。ただし、美少女ゲームヒロイン並に思考が読みやすい人とか美少女ゲームヒロイン並に浮き世離れした人とかがいるというのは、当人の名誉のためにも、口にしない方がよいだろう。
というか、私自身が……。20歳を過ぎても衣料洗剤をどこで買えばいいか分からなくて(というか、そういうことにまるで思考が向かわなくて)、ゼミの知人から譲ってもらっていたのは、今思い出しても恥ずかしい。いや、今はまともな大人ですよ?
時間の話をすると、神話や古典の登場人物、あるいは宗教に関する人物(典型的には聖書の登場人物とか)は物凄い。何百年にも亘って、何万人、あるいは何千万人もの人々がそれについてあらゆる細部を真剣に考え込み、熱心に論じ合ってきているわけだから。その密度と蓄積は、同人屋に取り上げられた人気キャラ程度では相手にもならないし、関連文献を読めば読むほど面白くなる。もっとも、同人誌を作ることの楽しみは、そうした蓄積を受容することではなくて自分が作ることの楽しみなのだし、(二次創作)同人作品を読むことの楽しみは、背景的蓄積の多さを楽しむためではなく、まさに自分が今好きなものの外延を広げる楽しみにあるのだから、ここで引き合いに出すのはいささか公平を欠くが。
どんなカテゴリーでもいいけど、とりあえず「女性」を例に挙げて言うと、「女性は(なにかしらの否定的な評価)だ」といったようなことを口にする人は、1)事実に基づかない、「女性」に対する単なる無知+偏見であるか、2)一応それが当人の経験に依拠したものであるとするなら、2a)周囲にろくな「女性」がいないような環境であったかあるいはあらゆる「女性」である人々との間にまともな交流をした経験が無かったか(客観的条件)、2b)それとも発言者当人に「女性」を見る目が無かったか(主観的条件)、いずれにしても発言者当人に対する評価を下げる根拠にしかならないよなあ、と思う。これは、「女性」の部分を他の社会的カテゴリーに置き換えてもたいてい成り立つ。「○○県人は」、「○○国人は」、「○○業種の人間は」、「○○大の学生は」、等々。まあ、私も「女子大生なんて(というか女性の学生に限らないが)どいつもこいつもxxxでxxxxでxxxxxxxxなんだけどな!」と愚痴りたくなったりもするのだけど、それは実際にはおそらくは「人間一般は」と置き換えても成り立つようなものだし、そして人間一般に妥当する命題であるならばもちろん私自身もそれに含まれるはずであり、それならば顧みてその口を慎むしかないのだが。
とはいえ、実際に特定の職業(職種~企業)、地域(地域文化)、大学(いわゆる「学風」)、思想信条、趣味、性別、経済的条件、世代、等々の生活条件によって――因果関係であるか相関関係であるかそれ以外の何かであるかはともかく――個々人の思考や行動が特定の仕方で方向づけられやすく、そしてそれゆえそれらの社会集団ごとにそれなりにはっきりした傾向的特徴が現れることも、人間の社会生活ではよくあることだが。重要なのは、「そうした傾向的特徴は、絶対的ではない(全員一律ではないし、その内容も変化していく)」ということ、そして「そうした傾向的特徴やその違い[という事実的次元]は、その違いに基づいて異なった扱いをすることを[規範的次元で]正当化するとは限らない」ということだ。
【 四月馬鹿コンテンツ 】
そういえば、今年の四月馬鹿ネタは、もう探そうという気分にもならなかった。1)即興的な一発ネタだからこそ楽しかった(大掛かりで仰々しく押しつけがましいコンテンツでは、もう気軽に笑えない)という側面はあるだろう。また、2)先日(3/25)言及した話にも関わるが、「金儲けの匂い」が強まっているのを嫌っている人もいるようだ。実話かどうか分からないが、[tw: 715671382680449024 ]こんな話まで出ている。他には、3)四月馬鹿に疲れた、あるいは飽きたという話もある。各社のネタが大規模化してくると、すべてを追い切れなくなるし、そうすると心理的にも時間的にも負担になる(疲れる)。また、何年もやっていれば、「人畜無害で」「あまり手間が掛からず」「それなりに笑えそうな」ネタは尽きてくるし陳腐化(飽き)もするだろう。4)大規模化することによって、通常の(額面どおりに受け止められる永続的な)コンテンツなのか一日限定のフェイクコンテンツなのかが一目で判別しづらくなり、ストレスになるという向きもあるようだ。5)もちろん、「嘘」であることにがっかりさせられたというのもある。制作側のいや増す過熱ぶりと比べて、受け手側の反応はかなりかなり冷ややかになりつつあるように見受けられる。
振り返ってみると、00年代初頭のオタクコンテンツ界隈には、すでに四月馬鹿で特殊なコンテンツを出すという文化は現れていた。例えばOverflowが、えーと(調べ直した)、2003年に『Summerラディッシュバケーション!!』を4月1日の一日限定販売をしていたくらいだ。00年代半ばには、ネットコンテンツ(ネットプロモーション)の拡充と平行してオタク系コンテンツ界隈全般で四月馬鹿コンテンツが十分普及しており、そして、個人的な印象ではせいぜい2009年あたりまでがピーク、あるいは限界だった。旧ブログでも、2012年も2013年もまったく言及していない。tw時代も、2011年にははっきり「ノイジー」だと書いていた([tw: 53513736601862146 ])し、2010年にも不平を漏らしており([tw: 11392618336 ])、いずれも何かを楽しんだという発言は一切無かった。
現在は現在で楽しんでいる人たちもいるのだろうけど、私にとっては、00年代のweb空間の雰囲気――つまり、高いスキルを持った個人の創意と悪戯心とサービス精神が、目に見える範囲、手に取れる範囲で伝達され享受されていた、いわば粒度の高い空間のありよう(という捉え方)――と密接に結びついたものであり、そして、その時代精神が失われたところではもはや楽しめないものになっているようだ。
アダルトゲーム声優の個人名フルネームで検索して、EGScapeの該当ページが上位10件どころか30件にも入ってこなくて、中味の無いゴミ屑ページやしよーもない広告ページ、挙げ句は外国語ページばかりがヒットするだなんて、最近のgglは無能すぎる……。先日も書いたけど、最近のweb検索は、とりわけオタク関係では、ゴミページの比率が高すぎて、よほど検索語を絞らなければ良いコンテンツを掘り出せない。違法共有ページっぽいものも、平気で(しかも検索上位に)出てきやがるし……。
※ここで外国語コンテンツを批判する理由は: 1)日本語コンテンツ関係の単語であることから、検索エンジンが他言語ページを上位に持ってくることはおかしい。2)閲覧者が日本からのアクセスであり、それゆえ、読めない可能性の高い非-日本語のページは、優先度を下げるように設計されていてしかるべきだという点でも、他言語ページ上位は目的に合わない。3)そのページがしばしば日本語コンテンツの丸写しだったりするという実質的事情、等々のため。
ああ、柚原みう氏は、『終わりなき旋律~』のあの豪快な
04/03(Sun)
『ポンコツアクマ』(商業)の原画家と『ネコぱら』(同人)の原画家が同一人物であることに、ようやく気付いた。顔の表情からポージングの趣向、そして色彩設計の志向まで、こんなにはっきりしているのに……。
【 「おすすめ声優」 】
[ similargames.pya.jp/recova/ ]
[ erogekakaku.blog.fc2.com/blog-entry-504.html ]
一般的な統計的処理の手法としてはおおむね妥当だと思うけど、どうしても元のデータが偏っているせいで、「共演者」や「有名声優」ばかりが出てきてしまう結果になっているように見受けられる。別名義の統合などは行っていない(というかそもそもEGScapeにはそのようなデータベースが存在しない)ため、このスクリプトの目的に照らしていえば別名義――がある役者については――が上位に並ぶような結果になるのが望ましい筈だが、実際にはそうなってはいない。例えば、「澄白キヨカ」から検索すると「青川ナガレ」がおすすめトップに出てくるが、それ以外の名前ではそうしたマッチングは成立していない。さすがに「鷹月さくら→夏野こおり」はおすすめトップになっているが、逆向きは成立していない。こうした点からも、データそれ自体の偏りを除去することは出来ていないし、そしてそれゆえ、「特定の声優を手掛かりに、他の声優をおすすめする」という目的を満たしているかどうかも疑わしいように思われる。最近の声優さん(例えば八幡氏や八尋氏、綾音氏など、とりわけ黒箱系出演の多い声優さん)から「昔の声優」でサーチしても、一件(一人)もヒットしなかったりするし。
ちなみに、デフォルト設定(「関係の強い声優」「出演10本以下を非表示」「お気に入り10以下を非表示」)でおすすめトップを順々に辿っていくと、「木村あやか→佐本二厘→遠野そよぎ→桐谷華→遥そら→桐谷華(以下ループ)」になる。「波奈束風景→遥そら(以下略)」はメジャータイトルでの共演がそこそこ多い。「大波こなみ→海原エレナ→金田まひる→海原エレナ(以下ループ)」あたりも、想像しやすいラインだ。「杏子御津←→澤田なつ」はインパクトが強い。「美月→七原ことみ」は意外だった。『はつゆきさくら』くらいしか共演作は無かった筈なので、それだけ双方を「お気に入りクリエイター」に設定しているユーザーが多かったことをが強く反映されているのだろう。「松永雪希→浅野麻理亜」は、『パルフェ』共演の影響が大きそうだ。「萌花ちょこ→小鳥居夕花→遥そら(以下略)」は、確かに最近のメインストリームの一つだろう。それにしても、「遥そら←→桐谷華」ループか「金田まひる←→海原エレナ」のどちらかに捕まってしまうのが多いこと多いこと。
個人的には、出演時期が「昔」「中期」「最近」「長期」と視覚化されているのが面白い。杏子氏や西野氏が「長期」に分類されるなど、実態に合わないと感じられるものも多いが。
十年以上前は、遊園地に行って観覧車に乗るイベント(一枚絵あり)もそこそこあったように思うが、最近は遊園地イベントもなかなか見かけない。あったらあったで「おともだちとのろう!」と呟いてしまうのだけど。
「"おともだちとのろう"」の検索トップがメタリックナノパズル「大観覧車」なのは、おそらく私のせいだろう。そもそも、この美しいシーンの名言を検索語にして、どなたかのブログと私のブログ記事と2chページしかヒットしないというのがなんとも悔しい。
『とっぱら』の頃は、アマクラ氏の絵がこんなにもマッシヴになるとは想像できなかった。もちろんキャラメルBOXとroot nukoの着彩流儀の違いや、それぞれのスタッフとの相互影響という要素はあるにしても、ここまで変化するとは。ご本人のサイトを見ても、ブランドカラーに合わせたチューニングではなく、おそらくご本人の嗜好としてそうなっているのだろうし。
現在の商業アダルトPCゲームでは非常に稀な段腹表現、別パーツ化されているかのようなバストの人工的な膨らみ、服の下から堂々と尖り出てきている乳首、胴体がほとんど無くて腰部が極端に拡大されたプロポーション、妙にきつい表情、急激につまらなくなったファッションデザイン……「エロティシズムとは何なのか」といったレベルで当惑させられる。とはいえ、ベッドシーンのシチュエーションが、躊躇も遠慮もなくアダルトゲームの中でもかなりお下品なものばかりである点も含めて、これはこれで一定の層には訴求力のあるスタイルなのだろうとは思うけれど。
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『お兄ちゃん、キッスの準備はまだですか?』は、Galetteと比べて年れi…もとい、等身がやや上がったような感じで、(本格派の路理根さんには嬉しくないのかもしれないが)受け入れやすくなっているし、K子氏原画の絵も素晴らしくて、キャラクター部分が良いのは言うまでもないとして、一枚絵の構図設計及び背景描き込みが上手くて、畳敷きの和室というロケーションがたいへん魅力的に映る。シチュエーションも面白そうだし(今回も歯磨き!)、今月一番の期待作になっている。
古式ゆかしき「女体クリック」かよ、という微笑ましさもあったりして。
もちろんGaletteもGaletteで相変わらず良いブランドだが。状況設定はどれも非常に突飛で尖っているが、無茶すぎるほどではない(バカバカしすぎてシラけるほどではない)し、半笑いの出オチにもしていない。性表現はむしろ王道的な潔さがあるし、キャラクターの表情にもデリケートな作り込みがあって見応えがある。そして、当然ながら全員スレンダーだし(――というか、「膨らみかけ」にカテゴライズされるのだろうけど)。テキストも、ヒロインたちとの交流を繊細に描いている。
04/02(Sat)
「胃~之煮」は残り半分を切った。着手前に何回分残していたかは単なる偶然的事情にすぎないので割合の数字それ自体には意味は無いけれど、ここまでの経験からペース/感触/疲労度などを当てはめて推測することができるし、達成感を助けにすることができるので、まったくの無意味というわけでもない。100回強ということは、多めに見積もっても50時間。これなら、なんとかやりきれるだろう。
因果関係と相関関係を取り違えるのはわりとよく見られることだが、歴史的文化的現象に関しても、単なる偶然的な類似性を実質的な連続性として捉えてしまうというのも、よくある誤謬だ。たまたま自分が知った二つの領域の間にたまたまなんらかの共通性らしきものを見出したとしても、それは単なる偶然的な相似器官的一致であって人的には一切つながりが無かったり、それぞれに別個の事情によってたまたま一時的に類似の発展を遂げたに過ぎなかったり、あるいは視野を広げれば様々な時代のあらゆる文化に見出されるようなごく一般的な事象であったりする。そうした誤りを犯さないよう慎重でなければいけないし、また、そのような議論は鵜呑みにしないよう注意しなければいけない。俗に言う箇条書きマジックと同じことで、類似点をいくつ挙げても、双方の間の(しかも当該二者間のみに限定できるような)関連性を証明することにはならず、要するにそれはただの空論の域を出ない。
このブログも、6月には丸3年になるのか。旧ブログから数えると4年半。早いものだ。tw開始からは6年半、サイトからは11年。うーむ。まあ、18歳が29歳にもなりますよなあ(嘘)。
最近、何故か腹ペコキャラに……。会議等が無いかぎりずっと自宅にいてデスクワークをしているだけなのに……。それなりに節食はしていて、この半年で痩せもしているので、食べる量/回数を多少増やしても大丈夫だと思うけど。