非-全画面の背景画像を用いた作品について。前ページ(1ページ目)からの続き。
【 非-全画面背景の可能性(続) 】
5)非-全画面背景の演出意図。
上記2)は、そもそも「全画面背景+汎用立ち絵」構成を採用していないタイプであった。また、上記3)及び4)は、「汎用背景+汎用立ち絵」の枠組を所与として踏襲しつつも、特定の状況に限定した非-全画面化である。しかし、「汎用背景+汎用立ち絵」を踏襲しつつも、局所的な非全画面化だけでなく、全編に亘って背景画像を非全画面表示にしているという作品が、いくつも存在する。これらの非-全画面背景は、全画面背景がほとんどデフォルトのように普及している現状を踏まえれば、それぞれになんらかの特有の表現意図のある、意識的な画面設計であろうと考えられる。それでは実際に、どのようなコンセプトを持つ作品が、非全画面背景を通じて、どのような表現効果をあげているのだろうか。実例に則して、個別に検討してみよう。
『アトラク=ナクア』
(c)1997/2000 alicesoft
元々は『ALICEの館4・5・6』(1997)というファンサービス的ヴァラエティタイトルの中の一コンテンツとして公表された、小規模作品である。Leafが1996年から97年に掛けて発売した『雫』『痕』『ToHeart』は、Leaf Visual Novel Seriesと総称されるが、「全画面背景+立ち絵+全画面テキスト表示」形式を採用したこの3本は、当時のアダルトゲーマーたちに熱狂的に受け入れられた。本作は、そのブームに対して、古くから「ゲーム性のある」タイトルを制作し続けてきたalicesoftがヴィジュアルノヴェル(全画面テキスト)形式に取り組んでみせた挑戦的作品だと見做されている。そして実際に本作は、一見きわめて硬直的で融通が利かないと思われがちなヴィジュアルノヴェルの枠内で、そしてその最初期に属するにもかかわらず、音響表現や視覚表現において独創的で印象深い様々な演出を披露する傑作となった。
本作は、当時新人であった(本作がデビュー作である)おにぎりくんを原画担当として起用し、また企画を主導した脚本担当のふみゃは、この当時としても特異な画面設計を行っている。背景画像の上下幅の狭さは、他の非-全画面背景タイトルと比べてもかなり極端であるが、このブランドが『鬼畜王ランス』(1996)や『ママトト』(1999)などの非AVG作品の中で非-全画面背景を常用していたことに鑑みれば、とりたてて驚くべきものではない。しかし、それが純AVG作品に導入されることによって、映像作品のような横幅の広さを意識させる演出として作用し、またその書き割り(カットイン)めいた抽象性を高めることにもなり、さらに、怪物たちが跳梁跋扈するこの物語の息苦しい緊張感を高めることにも寄与している。また、キャラクター立ち絵も、中央配置ではなく、画面右側に寄せて表示されている。これは、全画面テキスト表示を所与として、立ち絵を少しでも見えやすくするための配慮でもあったと思われ、また、画面レイアウトにスタイリッシュな印象をもたらしもしている。
なお、立ち絵シーンで非-全画面背景スタイルを取る場合でも、一枚絵シーンでは上下の枠を除去して画面全体にイベントCGを展開するというのが通例である。本作の場合は、一枚絵シーンになると、全画面テキスト表示から、オーソドックスな画面下部3行型へ変更される。
本作の視聴覚的演出の特質については、「BGMによる場面転換制御」記事でも論じた。
『行殺新選組 ふれっしゅ』
(c)2000/2002 Liar-soft
所持金、身体的状況、社会的地位といった様々な要素がパラメータ化(数値化)されて画面内に常時表示されている。これは90年代のAVGにおいては常識的なものであったが、本作(無印版)が発売された2000年には、「汎用立ち絵+汎用背景」のローコスト設計がすでに十分普及していた。それに対して、PBM/TRPGの素養のある同社スタッフたちが、「不条理度」に代表されるような遊戯的パラメータをも含めて、ほとんど過剰なまでに露骨にパラメータ表示を追求してみせたのは、消滅しつつある古典的形態のAVGへの(揶揄的な?好意的な?)パロディか、それともAVGの簡素化傾向に対する復古主義的な反抗であったのか、あるいは(穏健な言い方をするならば)オルタナティヴの確保の試みであったのかもしれない。
このブランドは、その後も現在に至るまで、いくつものタイトルで非-全画面背景スタイルを採用している。すなわち、背景画像をウィンドウサイズ全体では描かず、画面上部にはわずかな黒帯部分(レターボックス)を残し、また画面下部のテキストボックスに掛かる部分も背景画像は作画されていないという体裁である。それは、一つには、ゲームシステムの案出は行うがゲームプログラムの改良には一貫して消極的であり続けているこのブランドの(思想的/技術的な)限界であるかもしれないが、しかし同時にその設計の表見上のぎこちなさは、ゲーム表現の成り立ちに関する意識を不断に刺激し続けてもいる。
各論的検討としては、例えば『腐り姫』(2002)の場合は、ワイド(ビスタサイズ)レイアウトが、遠景構図と親和的だと考えられたものと思われる(――公式サイトに、画面構成についての紹介がある)。ロードムービー的物語と写実的(一見すると写真取り込みのようなタッチの)背景画像を持つ『SEVEN-BRIDGE』(2005)にも、おおむね同じことが当てはまるだろう。さらに『Forest』(2004)や『漆黒のシャルノス』(2008)に至っては、背景画像も人物画像も多重的多層的に表示されており、もはや全画面背景か否かという単純な二分法では捉えられないものになっている(――『Forest』『シャルノス』の画面構成については、フェイスウィンドウの実例検討記事で紹介した)。
『誰彼』 (c)2001 Leaf
本作は、一般的な「立ち絵+背景」形式のシーンと、左記引用画像のように全身キャラクターたちのアニメーション形式のシーンとが、適宜使い分けられている。本作のジャンル名乗りである「アクティブドラマタイズノベル」(ADN)は、狭義には後者のシステムを指す。
このADNパートでは、キャラクターや小物がチップアニメで動く(例えば歩行運動、口パク、さらにもっと複雑な運動に至るまで)。そして背景部分も、スクロールや簡易アニメーション(例:波打ち際)などの動的加工が施される。そしてテキストも、このように画面下部の黒領域上に、しかも話者表示無しに、出力される。これらの写実志向の設計を通じて、本作の画面構築が映像作品を範としていたであろうことは、明白に看取される。
ただし、本作は、単純に映画的雰囲気の模倣追従に終始していたわけではない。画面上の動きに対するプレイヤーの反応を要求する、一種のQTE型ミニゲームが、いくつかの箇所で発生する。これは、本作のゲーム画面が、通常のAVGのような静止画のモンタージュではなく、全体として動的に推移する存在であるからこそ成立するものであろう。そして、本作のAVGとしての独自性が奈辺にあるかについて、制作者たち自身が十分に意識的であったであろうことが、このQTEの存在からも窺われる。プレイヤーの視界を限定するこの黒枠は、単なる動画的雰囲気の模倣ではなく、そこから一歩下がって、プレイヤーが作中の変転推移する事象を覗き込むための、いわば「窓枠」として機能しているかのように感じられる。
通常の「立ち絵+背景」モードでも、画面上下にレターボックスが掛けられているが、この黒帯領域の太さはADNモードのそれとは多少異なるし、またテキスト表示には別途テキストボックスが重ねられており、画面下部の黒領域がそのままテキスト表示領域になるわけではない。これは、様式的にはいささか不徹底のように見受けられるが、テキストボックス表示枠の消去(つまり立ち絵や一枚絵を遮蔽物なしに見せる処理)や、バックログ等の操作を行いうるために、やむを得なかったものであろうかと思われる。
非常に野心的な作りのタイトルであるが、その後Leafはこのアプローチを採用していない。高コストのためであろうか、それとも3Dモデリングによって代置されるようになったからであろうか。
なお、立ち絵アニメーションについては演出技術論Ⅲ-2-4も参照。
『朱』 (c)2003 ねこねこソフト
本作の見せ方は、きわめて素直に映像志向(映像模倣的)であると述べてよいだろう。パッケージ裏面でも、「VNとして映画を意識しております」、「画面はシネマスコープのように横長にて」、「音楽も全てサントラ風に仕上げています」と率直に明言されている。2003年当時、趣味のゲームプレイに用いられるPCのディスプレイの縦横比は、デスクトップとノート型とを問わず、4:3規格が支配的であり、それに対応して、PC美少女ゲームも、そのほとんどが4:3サイズ(640*480から800*600に移行しつつあった)で制作されていた。そうした中で、映画館のようなワイド画面の感覚を擬似的に実現する処方が、このレターボックス付与である。
本作は、「今から約1000年ほど昔の、荒涼とした砂地(さち)をイメージしたストーリー」だと述べられている(初回版同梱特典冊子、6頁)。この中東的ロマンに満ちた物語は、視覚演出においても、何個かの短い動画ファイルを利用することによってカメラワーク的動きをもたらそうと試みており、またテキスト表示においても、話者表示を省略しつつ黒領域上にテキスト出力することによって字幕的な見せ方を追求している。テキスト表示量も、最大2行までに切り詰められている。ただし、地の文と台詞部分を識別させるためか、鉤括弧は残っている(――同様に、テキストボックスを撤廃して映画字幕的なテキスト表示を追求した『マブラヴ』シリーズにおいても、鉤括弧と話者表示は残存していた)。立ち絵が、基本的に一人ずつしか表示されないのも、おそらくプレイヤーが話者を取り違えないようにとの配慮だろう。
なお、黒帯部分には立ち絵は重なっておらず、画面下部は完全にテキスト表示のためのみに使用されている。それゆえ、本作には「テキストボックスを一時消去する」という操作がそもそも存在しない。存在する必要が無いのである(――右クリックは、メニュー画面に移行する。上記『誰彼』のADNパートもこれと同じ仕様である)。
同じブランドが2000年に発売した『銀色』も、これと同じレイアウトであったとのこと(未確認)。
『めぐり、ひとひら。』
(c)2003 キャラメルBOX
本作は「エモーショナルノベル」を称している。『雫』『痕』や『アトラク=ナクア』のような、全画面テキスト表示形式(いわゆるヴィジュアルノヴェル形式)に相当するスタイルを採用しているが、しかし仔細に見ると、様々な逸脱(挑戦)が見出される(――公式サイトに詳細な紹介がある)。すなわち、1)テキスト表示は、単純な全画面左揃えではなく、左/右にずらした形でテキストを表示している。できるだけ立ち絵を遮蔽させないための配慮であろう。2)選択肢文言は、主人公の判断を命題化したものではなく、いわば「次に来る一文を選ぶ」ようなものになっている。3)「立ち絵+背景」シーンでは、画面上下に黒帯が掛けられている。4)背景にも立ち絵にもアニメーション処理が施されている。例えば、戸外では降雪アニメーションがあり、また人物立ち絵は白い吐息アニメーションを伴っている。
なお、「立ち絵+背景」シーンの背景画像は、背景のみを映す際にはくっきりと表示されるが、人物立ち絵が重ねられる時には、上記引用画像のように、ボカシが掛けられる。この処理が何を意味するものかは確定しがたいが、受け手の感性によっては、立ち絵を強調するための処方と捉えることもできるだろうし、人物と背景との間の空間的な奥行きを表すものとして受け取ることも可能であろうし、あるいは逆に、彼等が立脚している作中世界の不確かさを示唆するものだと見做す余地もあるだろう。
さて、本作は、全画面テキストや文章型選択肢によって、言葉で語られる物語を――つまり、読み物を――目指しているのであろうか? それとも、部分アニメや黒帯レイアウトを通じて、AVGに映像的感性をもたらそうとしているのであろうか? 朱門優の著す屈折の多いオカルト的/ファンタジー的テキストのみならず、本作の画面構築原理もまた、このように多義的で、きわめて謎めいたものになっている。
『LEVEL JUSTICE』
(c)2003 ソフトハウスキャラ
SLG専業ブランドであるソフトハウスキャラによる、SLG+AVG作品である。悪の組織に所属して、国立の戦隊組織「SAFE」との間で抗争を繰り広げるという、キッチュ志向のコンセプトの作品である。AVGパートでは、左記画像のように、画面上下に黒帯が掛けられているが、しかし背景画像は極端な俯瞰(あるいはものによっては仰角)構図で描かれている。したがって、本作は特撮戦隊もの(つまり実写映像ジャンル)のパロディであるにもかかわらず、この黒帯表現は、単純に映像的雰囲気を模倣したのものだと見做すことは困難だろう。
私見では、本作の背景作画は、明確に方向づけられたカメラの存在を意識させることによって、たしかに一見すると映像志向の美意識を局所的暫定的には反映しているのだが、しかしそれが立ち絵との組み合わせに際しては写実的整合性を完全に裏切ることによって、本作の画面はめまいを生むような不思議なダイナミズムを獲得するに至っている。そのダイナミックさは、SLG作品ならではの先鋭的な構造的抽象化の賜物でもあるだろう。
本作の画面構築と状況設定の関係については、別掲記事「舞台設定における田舎趣味と都会趣味(2)」でも詳しく紹介した。併せて参照されたい。
『SinsAbell』 (c)2003 すたじおみりす
現代日本で隠密裡に魔物狩りをする職業退魔師たちの物語を、アクションRPG+AVG形式で構築した作品である。ARPG部分は、背景からキャラクターまで全てが3Dで造形され制御されているという、2003年にしてはきわめて野心的なタイトルである。本作のAVGパートも、左記引用画像のとおり、通常のAVG画面とはかなり異なった体裁になっている。すなわち、画面上下が漆喰のような模様の入った硬質のグレー領域で覆われており、上側中央にはタイトルロゴが彫り込まれている。そして場所を表す風景画像はその間に挟まれて、ごく細い空間としてのみ表示されている。縦480pxlのうち、上部グレーは80pxl、下部グレーは約200pxlであり、背景画像部分は200pxl弱、つまり画面全体の4割程度の広さしか与えられていない。
このレイアウトについては、いくつかの見方が出来るだろう。一つは、古典的なPCゲームの非全画面スタイルに棹さして、背景画像をもっぱら抽象的な場所表示機能として扱っているのだという見方(上述の『行殺新選組』を参照)。本作を発売したすたじおみりすは、盟友Liar-softと同様に、アダルトゲームのジャンル的特質についてきわめて意識的なブランドであり、それは本作にも当てはまる話である。また、第二に、より外在的な見方をすることもできる。すなわち、ARPG部分が高コストであるため、全体の制作費を調整するうえで背景画像を切り詰めたのだという推測をする余地もある。第三に、内在的な見方をすることも出来る。すなわち、怪異の謎に満ち、緊迫感と危機の予感に満ちて、陰惨なイベントに満ちているこの作品にとって、視界の全てがきれいに見通せる全画面背景よりも、細く狭く引き絞られた非全画面背景の方が相応しいという理解をすることも可能である。もちろん、これらの見方のいずれが正しいかという問には正解が無いが、第三の解釈をとるのが、作品理解を最も豊かにする路であろう。
『Apocalypse』 (c)2003 tactics
上記ソフトハウスキャラは、SLG作品専業ブランドであるが、AVGパートを非全画面にしたのは『LEVEL JUSTICE』のみである。ただし、アダルトゲーム分野では、非AVG作品(SLGパート、STGパート、ACTパートなど、特有のゲームシステムを含むタイトル)が、AVGパートでも非全画面背景にする場合がある。SLG作品では例えば『LEVEL JUSTICE』(上述)やLiar-soft(上述)、RPGではすたじおみりす(上述)やEushully(後述)、あるいはデジタルゲームブックのLOST SCRIPT(後述)、そして本作はSTG作品である。非AVGタイトルでは作品内部の表現すべてがシステマティックな様相を強く帯びるためもあるだろうし、非AVG制作が高コストになるため背景作画を切り詰めているという可能性もあり、一概には言えないが、たいへん興味深い傾向である。
本作の状況設定は、主人公が遠未来世界の巨大構造物(地下コロニー)の中で目を覚まし、建物の最上階を目指して上っていくというものである。各階(各ステージ)は、2D見下ろし画面のACTパートになっている(――あるいはSTGと呼ぶこともできる。公式のジャンル表示は「アクションシューティング」である)。このような謎めいたシチュエーション、ACTパートの激しい戦い、かんたかの描くキャラクターたちの超然的な雰囲気といったものが、AVGパートでは狭く切り取られた背景画像の上で展開される(イベントCGは全画面表示だが)。この黒帯領域の広さ(背景画像の狭さ)は、他の非全画面背景タイトルと比べてもかなり大胆であり、その「見える世界の狭さ」はこの地下コロニーの重々しい圧力と惑わしい遠大さのロマンティックな印象に直結している。
なお、キャラクター立ち絵が斜めを向いて互いに向き合っている左右対向表示スタイルは、この原画のソリッドな輪郭を活かすものでもあり、また、向き合い表現としても面白い。このメーカーは、後に制作した『魔王のくせに生イキだっ!』シリーズ(Luxury、2012/2013/2014)でも、同じような立ち絵対向配置レイアウトを採用したが、このシリーズにもかんたかは原画として参加している。
中間考察。2003年発売タイトルの中で、全画面ノヴェルの『めぐひら』、SLG作品の『LEVEL JUSTICE』、STGの『Apocalypse』、下部テキストAVGの『朱』は、いずれも画面上下に黒帯を掛けた非-全画面背景スタイルを採用しているが、それぞれが基礎としている様式感覚及び美意識は異なっているように思われる。すなわち: 『LJ』においては、劇的緊張をもたらすカットイン相当の効果が、背景画像に付与されている。『Apocalypse』では、STGの硬質な感触とSF的シチュエーションの興趣が、狭隘な背景画像表示の圧迫感と強烈なブラックの印象を通じて垣間見えている。『めぐひら』では、近景のキャラクター立ち絵と遠景の背景画像の二重写しのようなあり方が、それぞれの簡易アニメーション演出と相俟って、奇妙なリアリティをもたらしている。さらに『朱』においては、比較的素朴な映像志向の一体性が追求されているようである。『LJ』『Apocalypse』『めぐひら』においては立ち絵が黒帯を貫通して表示されるのに対して、『朱』の立ち絵は――AVGとしては珍しいことに――レターボックス領域には干渉せず、あくまで背景画像の表示領域内にとどまっている。この事実はまさに、『朱』の黒帯が『LJ』『Apocalypse』『めぐひら』のそれとは異なって明確に映像的レターボックスそのものとして処理されていることを証立てており、また同時に、『LJ』『Apocalypse』『めぐひら』の画面構築原理がけっして単純な映像志向ではないということをも示唆している。さらに、ARPGの『SinsAbell』においては、画面上下は無地の黒帯ではない。Windows以前の古典的なPCゲームの画面装飾を連想させるそのスタイルが、主要キャラクターたちが過去の忌まわしい事件の記憶にまとわりつかれているこの作品のストーリーと奇妙に対応し合って相乗効果を挙げているのは、おそらく偶然ではないだろう。
『らくえん』 (c)2004 Terralunar
設立されたばかりの無名アダルトゲームブランド「ムーナス」に、原画家として参加することになった主人公と、その周囲の人々の物語である。アダルトゲームによってアダルトゲーム制作を物語るというコンセプトの特異性からも窺われるように、本作の視聴覚的構築は、一筋縄ではいかない、複雑かつ多面的なものになっている。
例えば立ち絵に関しては、左記引用画像のように、力を抜いた低等身のデフォルメ立ち絵が多用されており、顔面の表情変化も漫画的な誇張(美少女ゲームではあまり見られないような種類の)に満ちている。また、背景画像も、一般的な美少女ゲームのような堅牢な塗りではなく、色のにじみを随所に残した柔らかな着彩で制作されている。しかも背景画像は全画面サイズではなく、上下で純白の帯に挟まれている。さらにテキスト面でも、TV番組のようなテロップや、擬音文字表示(画像で大きく表示される)など、様々な形態の文字表示が投入される、といった具合である。
その構造からして限りなく楽屋オチに接近しつつも、また、主人公の本業である筈の原画作業については具体的な描写は終始乏しいのだが、しかし同時に本作の物語は、その大胆な画面演出に伴われつつ、きわめて真率で深刻な劇的情動をも噴出させる。それは、新人声優の初期衝動的集中力であったり、ゲームクリエイターとしての来し方行く末に関わる切実な問題であったり、人生の切所に立った戸惑いと悩みから別の男に身を任せてしまう心の動きであったりする。
AVGの成り立ちについてかくも意識的なこのブランド(企画主導は連悠太)が非-全画面背景を採用したのは、理由のある選択だろう。視点人物の頻繁な交替や、第三者的なテロップ挿入からも明らかなように、そして上記のような劇的情動がしばしば主人公以外のキャラクターに関するものであることから分かるように、本作が展開している劇(ドラマ)は、特定の語り手(つまり主人公)への感情移入を梃子にしたものではない。それは、舞台芸術のように、あくまで仕切りの向こう側から提示される劇である。そのような作品が、主人公の視点を自明化し絶対化する全画面背景を避けて、この曖昧な白帯の間にその都度の状況を垣間見させたのは、まったく適切な設計である。この夢のような空白領域は、このブランドのデビュー作『しすたぁエンジェル』(2002)に際しては、物語の不確かな幻想的性格を強めるのに寄与していたが、それよりも身近でリアルな主題に向き合った本作では、よりいっそう明瞭に「相対化」の機能を担うことになった。しかも、それが決然たる黒のベタ塗りではなく、モラトリアム的未完成の余「白」であることにも、意味があるだろう。
『シンシア』 (c)2004 Sincere
Sincereブランドが2004年に発売した、本作と『です☆めた』の2タイトルは、00年代半ばの美少女ゲームの洗練されたインターフェイスデザインの見本である。本作の物語の梗概とインターフェイスデザインの特質については、別掲の「インターフェイスデザインの実例検討(その一)」記事で紹介したので、ここではあえて繰り返さない。画面上下の木枠についてのみ簡単に検討しよう。
木枠を模した本作の縁取りは、第一義的には、視覚的印象の統一という点に、その意義があると言えるだろう。本作では、テキストボックスもコマンドボタンも日付表示もコンフィグ画面も、インターフェイス全体がブラウン基調の単色にまとめ上げられているが、それに加えて、上下の木枠が常時表示されていることによって、作品全体の雰囲気が、堅固な視覚的連続性を持つことになる。主人公が夜の自室で懊悩している時でも、広い食堂で朝食を摂る時でも、厨房でスタッフと歓談する時でも、ヒロインたちとともに戸外の花見に出かけている時でも、あるいは様々なハプニングに見舞われている時でも、常にこの木枠が物語の雰囲気を特定のあり方に落ち着けている。
しかも、この木枠は、細やかだが優しみの感じられる彫刻であり、また色調も人懐っこい暖色のシェンナ色である。けっして、歴史的建物の重々しい圧力というようなものではない。鴨居欄間のようなレトロ感とノスタルジーを見出すプレイヤーも多いだろう。
本作は、非-全画面背景であるが、それは突き放した黒一色の塗りつぶしによるものではない。インターフェイスデザイン全体の一部として、物語のムードを方向づける、画面装飾としての積極的な表現効果が、ここで発揮されている。ゲーム画面のレイアウトやインターフェイスデザインは、けっしてニュートラルな純機能的要素のみにとどまる存在ではないということの、そしてまた、目立たない(個性を発揮しない)ものが良いとは限らないのだということの、優れた例証である。システム画面デザイン担当は馬淵岩男。
『ままらぶ』 (c)2004 HERMIT
本作のコンセプトは、公式サイトで明言されているとおり、「ホームドラマ仕立てのドタバタ恋愛コメディー」である。テキスト上で展開されるストーリーも、海外のホームコメディにありがちと思われる展開をふんだんに投入している。すなわち、マンション隣室の年上未亡人との恋愛、家族での記念日パーティー、些細な行き違いから発生したドタバタ喜劇、高級レストランでのデート、不倫現場との遭遇といった、美少女ゲームではあまり取り上げられないイベント群が立て続けに発生する。そして視聴覚的表現も、ホームコメディ型TVドラマの体裁を再現するような構成になっている。すなわち、ゲーム画面にはブラウン管TVのような縁取りが設けられており、また、コミカルな場面では観客の笑い声SEが挿入される。ただし、この「TVフレーム」と「笑い声」は、コンフィグでOFFにすることもでき、その場合には背景は全画面形式になる。
本作を企画主導した脚本家丸戸史明は、オタク的感性に通じているのみならず、世俗的なクリシェから様々な笑いの源を汲み取ってくることにも長けているようである。丸戸は、のちに脚本担当した『この青空に約束を―』(戯画、2006)においても、洒脱でユーモラスな音響演出を縦横無尽に展開してみせて、ユーザーの好評を博した。それに先立つこの『ままらぶ』も、パロディというアプローチによってあらかじめ解毒させながらではあるが、AVGの画面のあり方に関する挑発的な提案を行っている。
TV番組(とりわけアニメ)のティピカルな表現をAVGの中に取り込んだ作品は他にも多い。例えば、次回予告演出は『With You』(F&C/カクテルソフト、1998)以来、多くの作品で用いられているし、テロップ演出も上記『らくえん』や『えむぴぃ』(ぱれっと、2007)などで行われている。TVアニメの様式性に倣ったOPムービーも、名作劇場風(歌詞も表示される)の『ブラウン通り三番目』(ソフトハウスキャラ、2003)や、17:59の時刻表示から始まる夕方アニメ風の『遊撃警艦パトベセル』(May-Be SOFT、2007)などに見出される。とりわけLiar-softはこうしたジャンルパロディに積極的であり、例えば『腐り姫』には「笑点」を戯画化した「盲点」という幕間劇があるし、『水スペ』(2009)もまさに「水曜スペシャル」のパロディである。そうした多くの実例に比しても、この『ままらぶ』の全編に亘る執拗なTVドラマ的演出は、きわめてユニークなものである。
『空帝戦騎』 (c)2004 Eushully
先にalicesoft、Liar-soft、ソフトハウスキャラの実例を挙げて上述したように、SLG系タイトルは、あるいはSLG系ブランドは、全画面背景に拘らない傾向があり、あるいはカットインやマルチウィンドウなどの多層的な視覚表現を好んで実行している。
「砲撃バトルSLG」と称する本作は、大陸中を移動しつつ、双六型ゲームの各ステージを突破していくタイトルである。AVGパートでは、羊皮紙のようなアンバー色のワールドマップを背後に表示したまま、カットインのようにその場所の背景画像(非-全画面)をオーバーラップさせ、さらにその上に人物立ち絵を表示する。この処方は、一見するとお座なりなものに見えるかもしれないが、実際には、ゲーム進行の連続性を保つうえで効果的であるという側面もある。すなわち、プレイヤーの意識としては、ゲーム画面が完全に切り替えられてしまうことが無いため、ゲーム進行全体への集中が維持され、またゲーム世界への没頭が確保されるというメリットがある。このように、全体マップを(背後に)常時表示しておき、それにオーバーラップさせてキャラクター画像と非全画面背景を表示するという手法は、SLGパートとAVGパートの間の移行をできるかぎりシームレスにするものであり、『忍流』(ソフトハウスキャラ、2009)や『英雄*戦姫』(tenco、2012)、ACTの『デデンデン!』(One-up、2013)も行っている(cf. フェイスウィンドウの実例検討記事)。前述したalicesoftの作品群にも、同種の設計思想は見出される。純AVG作品ではない構成が、このような逸脱を可能ならしめている――それどころか、その都度の基本コンセプトに則した特有の構造的表現を持つことはむしろ当然であろう。
なお、Eushullyが『姫狩りダンジョンマイスター』(2009)で再び非-全画面背景を採用した際には、SLGマップとの重ね合わせという形では行わず、その代わり、魔王主人公の性格を示唆するかのようなおどろおどろしい模様を、非全画面背景画像の上下に溢れさせることになった。
『MERI+DIA』 (c)2005 ぱれっと
地球規模の大災害によって海面上昇等の環境変動が生じ、人類文明も壊滅的な打撃を受けた、近未来SF作品である。月面から発掘された先進文明、オーダーメイド医療を利用した形成外科(例えば人工的なエルフ耳化ファッション)、実用化されたクローン人間技術、軍事レベルの人体強化、軌道エレベータ、高度通信技術といったガジェットが多数登場する。
本作では、立ち絵シーンだけでなく一枚絵シーンでも、常に画面上下に黒帯が掛けられている。このように、画面上に映し出された背景画像の輪郭を強く意識させるレイアウトは、端的に映画志向と見做しうる。立ち絵のサイズ変化を用いた距離感表現や、背面立ち絵を用いた対面演出もまた、ゲーム画面を空間的な奥行きのあるものとして形作っている。さらに、主人公の立ち絵も頻繁に現れ、プレイヤーキャラクターというよりは登場人物のワンオブゼムとして、他のキャラクターたちと混じり合っていく。それゆえ、この距離感演出や背面表現は、必ずしも主人公の位置を基準にした視界表現ではなく、むしろどちらかといえばプレイヤー自身に対して向けられた構成的表現だと解すべきである。
本作の非-全画面背景のレイアウトは、第一義的には、映画的雰囲気のための設計であろう。しかし、この黒帯による機能的な画面区分は、もう一つの副次効果をも担っている。それは、AVGの画面は主人公の視界を表すものだというイデオロギーから完全に解放されて、その仕切られた枠内で立ち絵の空間演出が自由自在に展開されることを保障する、認識上の枠組になっているという点である。
ただし、さらにその後の『えむぴぃ』においては、もはやなんらシリアスな物語は存在せず、過激なスラップスティック展開が、メイド研修生たちとの日常生活の最初から最後まで支配している。登場人物たちの間の対立や緊張関係が本質的には存在せず、全てのキャラクターがボケの資質を備えてひたすら仲良くボケあいツッコみあい続けるこのコミュニティは、もはや黒帯のエクスキューズを必要としなくなっていた。
なお、画面上部は、黒く帯状に塗られているが、マウスカーソルを上端に置くとコマンドメニューが降りてくる。また、画面下部の黒色領域は、3行分確保されているが、話者表示を覗けば実質的に2行分であり、脚本家「ん。」の書く軽妙なテキストもきびきびと進行していく。
ぱれっとの演出に関する概観は、演出技術論Ⅲ-1-2を参照。
『カルタグラ』
(c)2005 Innocent Grey
ジャンルを「和風サイコミステリィADV」と称する本作は、私立探偵を主人公とする、古典的なミステリ仕立ての作品である。2005年当時、コンピュータAVGにおいては(とりわけ美少女ゲーム分野においては)、推理ものはすでに完全に退潮しており、このブランドの路線は明らかに復古的な方向性と見做されていた。もっとも、その後のInnocent Greyは、『殻ノ少女』(2008)ではマップ移動場面や手帳システムを導入し、さらに『クロウカシス』(2009)では時間管理された館内移動システムをも導入して、古典的な推理AVGの様式をよりいっそう忠実に再現することによって、いまやニッチとなったその分野の斯界における代表的存在となっていくのだが、それは「ミステリ」という要素だけではなく、昭和初期に擬した時代設定が持つ懐古的雰囲気と、緻密で質感豊かなグラフィックワークという二つの魅力によっても下支えされている。
この『カルタグラ』の時点では、選択肢決定のみを持つごく簡素なAVGシステムであるが、推理ものらしく、正確な日付が画面上部に常に表示されている。立ち絵シーンでは、花々と蝶を押し花のようにあしらったネービーブルーの太枠が、金文体フォントの日付表示とともに、画面上部を占有している。他方で、画面下部には、そのような遮蔽物は存在しない。テキストボックスを消去すれば、立ち絵と背景画像が画面下端まで完全に広がっているのを見ることができる。
あらゆる点で復古趣味を表明しているこの作品にとって、画面上部の帯状領域は、たしかにその模様と色合いによって古めかしく謎めいた趣を表出することに寄与しているが、しかしこのレイアウトは根本的には、推理ものというコンセプトに由来する日付表示というシステマティックな要請に基づくものに過ぎなかったのだろう。次作以降では、背景画像は全画面化され、そして日付/時刻/場所の表示を伴う場合でも、邪魔にならないように画面左上にそっと置かれるようになる。要するに、「和風」の雰囲気よりも「ミステリィ」を優位に置いたのがこのブランドの選択であり、そして、「和風」のノスタルジックな意味表出を引き受けるのは、インターフェイスデザインではなく、立ち絵の凝った衣装や背景美術のリアリティ(実在の土地からロケハンしている)であった。
本作を制作指揮した総監督は、ブランドの代表でもある杉菜水姫。
『輪罠』 (c)2005 Guilty
黒箱系(ダーク系)タイトルでも、非全画面レイアウトは時折採用される。本作は、兄が変死した原因を探るために男子校に男装潜入した女性主人公の物語であるが、周囲の学生たちに正体が露見して、彼女は何度も性的蹂躙を受けることになる。黒箱系は恋愛要素を必要としないため女性主人公ものが成立しやすく、アイル(名高い『脅迫』[1996])、RaSeN(『傷モノ』シリーズ)、Triangle、LiLiTH、NEXTON系列などがしばしば手掛けている。
本作は、主役の魅力を重視する女性主人公ものということもあり、また他者視点シーンもしばしば挿入されるため、画面上にも比較的頻繁に主人公「美崎来果」の立ち絵が現れる。画面上下が黒一色のレターボックスで囲われることによって、作品の持つ方向性がはっきりと示されている。すなわち、逃げられない閉鎖空間に立ち入ってしまった状況、正体を隠さねばならない緊張感、自分一人で兄の死の謎を解かねばならないという重圧、その場の状況の見通し難さ。そして女性であることが知られてしまってからは、周囲の匿名的な男子学生たちから投げかけられる視線の不気味さと圧迫感。そういったものが、不安感を煽るような赤色ベースのインターフェイスデザインとともにプレイヤーに印象づけられることになる。
ただし、この黒枠は、ただミステリとしての作用に奉仕しているだけではない。椋木尋(原画)の描くデリカシーのある表情表現によって、そしてまたGuiltyスタッフの色彩コントロールによって、ヒロインたちの立ち絵は非常に艶めかしい絵に仕上げられており、しかも、陰惨なストーリーと黒枠の縁取りによってその美しさがさらに引き立つものになっている。
本作以外でも、先が見通せない状況に直面するストーリーでは、非全画面背景が採用されることがある。上記『カルタグラ』のほか、連続殺人と脅迫の犯人を探す『Love Letter』(美遊、2002)や、切迫感に満ちたバトルものの『ゴスデリ』(Lose、2010)も、圧迫感のある上下黒帯処理を施している。
『Imitation Lover』 (c)2006 light
内気な男性主人公の周囲に、プレイボーイの友人(男性)、孤独で超然とした同級生(ヒロイン)、主人公の憧れの対象である優等生(ヒロイン)などを配した、学園恋愛ものである。公式サイトの紹介文にも「紛れもなく純愛、しかしどこか歪んだボーイミーツガール」とあるとおり、思春期の妄想のような突飛な交わりが、奇妙な経緯から展開されていく。
まず、本作のCGワークの特徴に注目してみよう。1)立ち絵や一枚絵の着彩は、グラデーションのほとんど無い単一色でくっきりと塗り分けられた、いわゆる「アニメ塗り」である。これは美少女ゲームの支配的流儀からすると、いささか人工的なよそよそしさを感じさせ、また同時に、過剰に鮮やかだという印象も与えるだろう。2)一枚絵には、あからさまな遠近法的処理として、遠景部分のボカシが多用されているが、これも美少女ゲームの一般的なCGワークではあまり強調されることのない、珍しいアプローチである。
このような美術設計は、本作のみの特徴ではない。lightスタッフが本作に続いてリリースした現代ものの中編タイトル『潮風の消える海に』(light、2007)にも、原画家泉まひるがその次に携わった遠未来の宇宙船SF『R.U.R.U.R』(light、2007)にも見出される特質である。ただし、泉原画の他作品やlightの他作品には、このような特徴は現れていないことから、この「アニメ塗り」や「遠近法的ボカシ」は、作品コンセプトに合わせた意識的な選択として扱われる資格があるだろう。すなわち、明るい海岸を主な舞台とする『潮風』がくっきりした光源処理を伴っているように、また、現代人の常識及び感性から遠く離れた世界の下に生きるロボットたちの物語である『R.U.R.U.R』が被服及び素肌の質感表現において不自然さを持つのがむしろ当然であるように、それらと同様に、この『Imitation Lover』の美術が、思春期に特有の明暗認識の截然とした強烈さや過剰なまでの迫真性として解釈される余地は十分にあるのだ。そして――本題に立ち戻ると――上下を黒帯に縁取られたゲーム画面もまた、その現代的な感覚や人工的な印象とともにあり、さらには、複数のキャラクターたちのザッピング進行を可能にするように、特定の(つまり主人公の)視点を絶対化させないという役割も担っている。
このブランドは、『さかしきひとにみるこころ』シリーズ(2008/2009/2010)でも、非-全画面背景を採用している。低価格ゆえのコストダウンという側面も考えられるが、ここでも再び、作中の状況に対するプレイヤーの距離を置いた鑑賞態度が期待されているようである。
『蠅声の王』 (c)2006 LOST SCRIPT
「デジタライズド・ゲームブック」(DGB)というジャンル表記からも分かるとおり、紙媒体のゲームブックをかなり忠実にシミュレートしたシステムである。すなわち、テキストは大小様々な(総計800個以上の)「パラグラフ」単位に分割されて、それぞれランダムな番号(パラグラフ番号)を付与されており、プレイヤーはテキスト上の指示に従ってパラグラフ間を(手動操作で)移動して、物語を進めていく。また、戦闘や運試しなどの特定の箇所では、プレイヤーがダイスを振って、その出目に応じた指示に従う。さらに、所持品や体力点などのステータス処理は、あえてプレイヤーに委ねるという仕様になっている。AVGとしてはかなり複雑であり、かつ、メタレベルの指示及び操作をも伴うシステムである。
ゲーム進行のための基本的ルールが明示されるだけでなく、プレイヤーが操作すべきメカニズム(ダイスや、パラグラフ移動スフィア)も常時露出しており、さらにテキスト上でもプレイヤーに対して「君は」という直接的な語りかけが為される。このような作品にとっては、ゲーム画面はプレイヤーに対して特定の視界を提示するための媒体ではなく、「ゲーム」を楽しむための相互作用的なインターフェイスとして捉えられることになる。
そして背景画像も、その都度の状況を効果的に表すために、時には荒々しい筆遣いのままに描かれ、時には地面から離れた極端なアングルで描かれ、時には象徴的表現をも用いて描かれる。背景画像は、右クリックで全画面化することもできるのだが、通常時は、上下を黒帯で遮蔽されている。黒帯の役割は、一つには、画面上部のタブや下部のスフィアを背景から浮いた状態にせず、画面内に落ち着けるというものかもしれない。また、背景を一部マスクすることによって、その像(視界)の非写実性を明確にしているのかもしれない。あるいは、ゲームブックらしく、物語への集中を促そうとしているのかもしれない。
『タイムリープ』 (c)2007 FrontWing
本作は、オーソドックスなクリック進行型の読み物AVGであり、ストーリー面も、過去のヒロインがタイムリープしてくるという要素以外はおおむね普通の学園恋愛ものであるが、キャラクター画像は3Dモデリングによってリアルタイムモーションを行う。すなわち、台詞の内容に合わせた動きを示したり、あるいはクリックせずにいてもキャラクター立ち絵は「髪をかき上げる」「上半身を上下に反らす」といった何種類かのパターン化したモーションを見せる。
本作のほかにも、『らぶデス2』(TEATIME、2007)や『ジンコウガクエン』(ILLUSION、2011)のように、3Dタイトルでも非全画面背景が採用されることがある。これは一見すると不思議に思われるかもしれない。というのは、3Dゲームの一つの強みは立体性(空間性)にあるのだが、非全画面背景はせっかくの3D空間の広がりを見えにくくしているように思われるからだ。実際、『らぶデス』シリーズ(2005-)や『カスタムメイド3D』シリーズ(KISS、2011-)では、プレイヤーがカメラ(視界)を自由に操作することもできる。しかし、3D表現のもう一つの長所は、キャラクターの生きた動きを見せられることであり、その一方で3Dゲームの短所としてマシンスペックの要求が比較的激しいという問題がある。そうした中で、『タイムリープ』は、背景については割り切って2D画像とし、それによって背景3D制作のコスト減、背景画像のクオリティ確保(輪郭ジャギー等の排除)、ゲーム中のコンピュータへの負荷軽減、カメラ移動のないレイアウトの安定性といったメリットを獲得している。創作表現(ゲーム表現)においては、技術の問題はあくまで取捨選択の問題であって、ただ足せばよいというものではない。非全画面レイアウトに関しては、第一には3D表示領域の削減という効果もあろうが、2D背景と3Dキャラとの間のギャップを減らすことにもつながっている。また、黒帯上にテキストを別途表示することは、3Dキャラクターにテキストボックスを重ねることが無く、キャラクター立ち絵の動きをより良く鑑賞できるという積極的効果もある。また、いわゆる映画志向のクールな雰囲気を作る作用も果たしていると思われる。
『あるぺじお』 (c)2007 SIESTA
四人の学生たちが、アンサンブルを結成して市内の音楽イベントに参加しようとするところから、物語は始まる。ただし、その当初のストーリーは、音楽祭前日の急転直下のハプニングによって途絶し、数年後の物語である後半部分へと移行する。美少女ゲーム分野の中で言えば、名高い『君が望む永遠』(age、2001)や、同年発売の『Aster』(RusK、2007)などを彷彿とさせる構成である。
本作のヴィジュアルデザインの特質については、「インターフェイスデザインの実例検討(その二)」記事で紹介したので、ここでは繰り返さない。しかし、四方をゆるやかにホワイトで囲っているこのレイアウトの特異性には言及しておくべきだろう。画面上部のスペースは、上記『行殺新選組』『シンシア』『カルタグラ』と同じように、日付表示などを示すエリアとして使用されており、物語の進行状況(日付)や、その都度のトピック(小見出し)を、プレイヤーの前にはっきりと示す。ただしそれは、手書き風の人懐っこいフォントによってであるが。また、特徴的なことに、遮蔽領域と背景画像の境界がグラデーションで柔らかくボカされており、しかもそれは、画面上下だけでなく左右からもゲーム画面を包み込んでいる。ただし――再び「ただし」と述べるのだが――その一方で、テキストボックスはポップな水色とメカニカルな凹凸で構成されている。このように、まるで夢の中の出来事のような優しく柔和なデザインと、醒めた意識を刺激するクールなデザインとが、奇妙な形で同居している。このような画面設計上のアンビヴァレンツが、ストーリー上のそれと対応させられているであろうことは、想像に難くない。
【 おわりに:非-全画面背景スタイルの意義 】
非-全画面背景のさまざまな実例を紹介してきたが、これらは基本的には、00年代の間の出来事であり、管見のかぎり、10年代に入ってからは、黒帯等で画面を常時縁取った美少女ゲーム作品はほとんど現れていない。別掲記事「AVGの画面構成について」で紹介したように、表示アスペクト比をコンフィグ選択できる作品が非-全画面背景化できるようにしている過渡期的実例(『かしましコミュニケーション』[Axl、2010])や、豊かな視覚演出に伴われた伝奇バトルものの『ゴスデリ』(上記)、低価格ACT作品のAVGパートが左右の余白に埋め草的画像を置いた例(『エルフと淫辱の森』[softhouse-seal、2013])、『ジンコウガクエン』シリーズ(ILLUSION、2011/2014)のような3D系タイトル、そして立ち絵シーンではなく一枚絵シーンを非-全画面化している例(『ひなたのつき』[ko-eda、2013])はあるのだが。
これは、一つには、ごく単純に物理的要因から説明できる。すなわち、市販されているPCのディスプレイが、00年代後半から雪崩を打つようにワイド画面へと移行し、それに伴って美少女ゲームの実行ウィンドウそのものがワイド化されたのである(――これについては、「エロゲについてのあれこれ」の記事「ゲームソフトのワイド対応・デュアルディスプレイ対応比較」が詳しい)。このような環境下では、ウィンドウ内部でさらに黒帯を掛けてわざわざ横広にする必要は無くなっている。
しかし、そればかりではないかもしれない。『シンシア』が枠装飾によって作品全体の視覚的雰囲気を方向づけていた十年前とは異なって、近年の美少女ゲームのインターフェイス(とりわけテキストボックス)は、目立たないことを最優先としているかのようである。そうした様式感覚の下では、枠装飾という発想が試みられなくなっていくのは(残念ながら)自然な成り行きだろう。
もしも非-全画面背景が――そしてその手段を通じて為される画面構築の試行錯誤が――近年では実行されなくなっているのだとしても、それは、これまでの試行錯誤とその成果が失われたということを意味するものではない。本稿は、それらの成果をわずかでも掬い取り、書き留めようとしたものである。
美少女ゲームにとって、全画面背景がほとんど自明の前提となってからも、非-全画面背景という発想は、その歴史の中に繰り返し姿を見せてきた。一つには、『誰彼』や『朱』に見られるように、とりわけ映像作品のあり方を画面構築の模範として意識する時、しばしば全画面背景からの修辞的逸脱が生じてきた(――ただしそれは、AVGの外部から別ジャンルの美意識を輸入しようとしているという意味で、いささか歪な試みであったが)。
第二に、alicesoftやEushullyといった、SLG制作に自負を持つブランドたちは、しばしばその都度の固有のゲームシステム設計から出発して、非-全画面背景を好都合な仕様として導入してきた。推理ものに代表されるような古典的なAVG像の再興としての画面分割も、これに近いものとして捉えることができるだろう。
さらに第三に、AVGそれ自体の――あるいは美少女ゲームの――内発的な発展及び洗練として、様々な意味作用を担った枠表現も出現してきた。それは、インターフェイスの視覚的デザインの洗練であったり、ゲーム画面の脱主観化(つまり主人公の視点の相対化)という機能を持つものであったり、あるいはそれ自体が特有の具体的演出効果を発揮するものであったりした。これらの実践から窺い知られるのは、要するに、「ゲーム画面(の全体性や、主人公視界の代弁的機能)が、いかに自明ではないか」ということであり、また、「画面デザイン(枠装飾)やインターフェイスデザインの特有の形姿が、いかに物語と結びつき得るか」ということであった。
後日追記。関連する論点として、別掲記事「多重ウィンドウ、非全画面背景、全画面背景」。