大前提として、そもそもテキストに対して声優による台詞芝居が付与されているということは、そのあらゆる場面のあらゆる瞬間において、テキスト(と視覚的表現)のみではいまだ存在していなかった、意味の一つの次元が追加されている――つまり、(それによって新たに)特有の意味づけがその瞬間瞬間に創造されている――ということをあらかじめことわったうえで述べるのだが、音声芝居がもっと特有の、誰にでも分かるくらいの特別な演出を担うという余地は、まだまだ豊かなまま――あるいは言い換えれば乏しいまま――残されているのではないかと思うこともある。ここで言いたいのは、要するに、音声が無ければ、あるいは音声表現上の非慣例的(修辞的)表現が無ければ、その場面全体が絶対に成立しないくらいのものだ。現在の美少女ゲームのテキストライティングは、当然ヴォイスに伴われるものであることを踏まえて書かれている筈だが、しかしそのほとんどは、依然として、ヴォイスが無いとしてもそれなりに意味が通じてしまうような、つまり本質的にはヴォイスをかならずしも必要とはしていないような書きぶりであり、その枠組はもっと自由に逸脱されても良いのではないかという思いだ。
1)多声的表現
最も典型的には、00年代前半のLiar-softによるいくつかの試みがある。すなわち、『Forest』(2004)と『SEVEN-BRIDGE』(2005)には、テキストと音声の多重表現があり、前者は主演者の台詞(=テキストと音声のある台詞)とオーディエンス的/コーラス的/囃子的な声(=テキストの無い音声のみの台詞)の構造化として、また後者は、正式に発せられた台詞(=テキストのみの台詞)と内心の声(音声のみの台詞)の分離として用いられていた。同種の多声的表現の試みは、ぱれっととTerralunarも度々実行している(cf. 演出技術論Ⅲ-1-2、同Ⅳ-4-2-β)。
文字表現に依拠しない音声的(リ)アクションという見地では、先日の「インターフェイスデザイン」記事で言及した、「SLG作品における音声的インターフェイス」のアイデアも、視野に入ってくるだろう。後述の省略台詞演出を見ても分かるように、ソフトハウスキャラもまた、音声表現に対して意識的なブランドの一つである。
2)非正規的台詞の表現など
「テキスト上では具体的な台詞が明示されないが、音声上ではその台詞がはっきりと言い表されている」という場合もある。『Signal Heart』(Purple software、2009)に、その典型的な表現が見られる(cf. 「黙説」記事)。Terralunarやソフトハウスキャラが行ってきた長台詞省略演出(演出技術論Ⅳ-2-3)も、これと同じものである。
また、『ままらぶ』(HERMIT、2004)には、ホームドラマ風の「笑い声」演出がある。このTV的演出は、特定の場面で特定の意味を示唆するためにキャラクター台詞とは異なる次元の音声(音響表現)を用いるというその試みの特異性によって際立っている。演出技術論Ⅲ-2-7でも述べたように、企画主導者丸戸史明は、他の作品でも様々な音声演出を行っており、その中には後述3)に該当するタイプの演出もある(一例として『パルフェ』[戯画、2005])。
『しすたぁエンジェル』 (c)2002 Terralunar
長大な「(中略)」台詞の例である。
『ままらぶ』 (c)2004 HERMIT
ホームコメディやトレンディドラマを模したような作りの作品。ストーリーもそうだが、ゲーム画面の四方にはTVディスプレイ(ブラウン管)を連想させる黒枠(コンフィグでは「TVフレーム」と呼ばれている)が置かれており、また、観客の「笑い声」SEが時折入ってくる。なお、TVフレームも笑い声SEも、コンフィグで消去することができる。
3)音声芝居がもたらす特有の質
これらは、「そもそも音声が存在すること」という枠組的条件に依拠したものであって、その質を問うものではないが、他方、「音声が特有の質を持つこと」を、その場面の演出を成立させるための決定的な条件としているものもある。
非18禁ゲームであるが、『シンフォニック=レイン』(工画堂スタジオ、2004)のとあるシーンに、そのきわめて明快な実例がある。底意を持つヒロインが男性主人公を勧誘するシーンで、「だってわたしは、くりすさんをあいしているんだから」という台詞が現れる際に、この台詞の前半部分で声優の浅野真澄は、そのキャラクターの普段通りの可憐で慎ましやかな芝居をしているのだが、台詞の後半部では一転して声を低く嗄れさせ、ただならぬ雰囲気の芝居になる。しかもこの変化は、はたしてこのヒロインが実際にそのような喋り方をしたのか、それとも主人公の意識がそのように受け止めたのか、あるいはそのどちら(の写実相当の即自的表現)を指すものでもなくプレイヤー(視聴者)に向けた演出効果であるのか、それすら判然としない。この台詞は、テキストも上記のとおりすべて平仮名に開かれてしまっているので、おそらく主人公の認識――あるいは、主人公の肩越しに存在するプレイヤーの認識へと提供された表現――であろうと考えられるが。しかし、その変化の表現は、テキストには表されていない。平仮名表記という暗示的な仕掛けはあるが、その意味の内実は音声を聴かなければまったく理解できない、あるいは、まったく意味を成さない。
これは、一聴すれば誰にでも分かるであろうレベルの(技巧それ自体としてはまったく単純明快な)語調変化表現であり、もちろんこのような「変化の音声演出」(音声による落差音出)は、他の多くの作品でも常態的に用いられている演出であるが、しかしこれほど決定的な場面で、しかもこれほど決定的な意味の変化を表すものとして用いられるのは、美少女ゲーム全体の中でもきわめて稀なものだろう。その芝居が、いささか露骨かつ急激すぎてその効果を弱めているように感じられる側面があったことは否めないとしても、このような音声演出の可能性を本作が確保し保障してくれていることに感謝したい。
『シンフォニック=レイン』
(c)2004/2005/2007 工画堂スタジオ
該当シーンの様子。画像上ではヒロインは、悲しげに眉を顰めており、また、テキストは、主人公が迷妄に包まれていることを示唆するかのようにすべて平仮名で表示されている。そして音声上では、驚くべき落差表現が提示される。