はじめに(1ページ目)
第1章:アダルトゲームCGの基本的特徴とその構造的事情
第2章:修辞としての特殊なCG表現(2ページ目/3ページ目)
第3章:構造的な事情に基づく画風変化(4ページ目/5ページ目)
第4章:個別作品の総体的な画風選択(6ページ目)
1. アダルトゲームのCGワークの多様性
2. 個別作品における画風選択(このページ)
- 1) 画面構成との関係において
- 1a) カットイン組み立て
- 1b) 立ち絵の背景画像への嵌め込み
- 1c) 一枚絵進行
- 2) 作品コンセプトとの関係において(8ページ目)
- 3) 技術的事情との関係において
- 4) 分野的帰属との関係において
おわりに
【 2. 個別作品における画風選択 】
前節(前ページ)では、アダルトゲームのCG表現における多様な広がりを、いくつかの分析的視点を導入しながら概観してきた。たしかに、美少女ゲームとしてのアダルトゲーム分野は、「美少女(成熟した女性や「男の娘」も含むが)」の魅力に大きなウェイトを置くことが強く期待されている分野であるが、その枠内でも、十分な美的多様性を享受している自由な世界である。しかしながら、これまた前項で確認されたように、ゲーム作品におけるCGは、あくまでゲーム作品を成り立たせるための部分要素であり、あくまでゲーム作品の中で立ち現れて鑑賞される存在である。したがって、画風の選択は、ただ単に審美的次元の趣味嗜好のみによって為されるわけではない。それは、その作品の画面構成との関係の下で造形され、あるいは個々の視覚的演出との関係において調整され、あるいは作品コンセプトとの関係で選択され、あるいは経済的条件や技術的条件との関係で制約され、そしてマルチメディア創作物としてのゲーム作品の他の構成要素との関係の中でその表現上の意味作用を発揮する。個別作品における美術的スタイルの意味を評価する際には、そうした諸要素との関係を無視して論じることはできない。
前節では、アダルトゲームの一般的なスタイルの範囲中での多様性を紹介した。本項では、一般的には「あまりアダルトゲーム(美少女ゲーム)らしくない」と見做されるであろうスタイルの作品を含めて、いくつかの実例を検討していく。「アダルトゲーム(美少女ゲーム)らしさ」の区別はけっして明確なものではないし、また理論的にもあまり意味は無いが、美術的様式選択においてよりいっそう先鋭的である作品は、作品全体の表現様式や企画コンセプトとの関係においてもよりいっそう際立った特徴を備え、そしてよりいっそう目覚ましいかたちで我々のゲーム観に豊かな示唆を提供してくれるだろう。
暫定的な見取図を提供するために、以下の議論は、個別タイトルが「1)画面構成」、「2)作品コンセプト」、「3)技術的事情」、「4)分野的帰属」のそれぞれとの関係において、どのような意味を担うように画風選択されているかという観点で検討していく。
1) 画面構成との関係において
アダルトゲームにおける一般的なAVG画面では、正面を向いたウエストアップのキャラクター立ち絵と、全画面に広がった正面透視構図の背景画像、そして画面下部に3行分ほどのテキストボックスが配置される。しかし、それとは大きく異なるレイアウトの画面構築をおこなっているタイトルも存在する。そしてそれらはしばしば、立ち絵や背景の画風においても、典型的なアダルトゲームのそれから逸脱して、独自のスタイルを築き上げている。ゲームCGに関する美術様式の選択は、事実的過程としては原画家やCGスタッフの美意識や表現意欲に発しているかもしれないが、最終的にはその画風の意味はあくまで作品の中でのみ、つまり作品の他の諸要素との関連の中でのみ評価されるものだろう。
1a) カットイン組み立て
アダルトゲームが持つ最も個性的なAVG画面構築スタイルの一例が、LittlewitchブランドによるFFD(Floating Frame Director system)表現である。これは、中規模~小規模の様々な画像フレームを組み合わせてその都度の物語を視覚的に構築していくものである。カットインの技法を全面的に展開したものだと考えてもよいだろう。
ここでは、汎用的に使われる「立ち絵」は、ほぼ存在しない。キャラクターの存在表現は、小さく切り取られたカットイン(フレーム)として行われ、あるいは複数のキャラクターを同時に描き込んだその場面専用の画像によって表象される。また、汎用的な全画面背景も存在しない。おおまかなロケーションを示す全画面背景は一応存在するのだが、画面内を自由に往来する多数のフレーム群で覆われて、はっきりと見て取ることはできない。その代わりに、アドホックに制作された様々なサイズの背景画像カットインや、キャラクターカットインの背景部分の描き込みによって、その都度の場所が示唆される。
このブランドの最初期の二作品、『白詰草話』と『Quartett!』が、この様式を全面的に採用している。『白詰草話』(2002)では、人造生命体少女というSF的設定の下で、低年齢ヒロインたちとの間の静かな交歓、物語の終盤にかけての非現実的なまでにミステリアスな物語展開が、このFFD技法で綴られる。画面内をゆっくりと行き来するフレーム群は、その気怠い動きによって彼等の逃避行に繊細な情緒をもたらし、あるいはその小さなフレームの控えめさによって彼女等の生の儚さ――彼女等は実験室で生まれた不安定な生命体であるため、定期的に特殊な薬剤を摂取しなければ生きられない――を予告し、あるいはバラバラのフレームに分割された彼等の生活風景を通じてその先の見通しにくさを暗示している。
その一方、『Quartett!』(2004)では、技術的にはほとんど同じ手法を用いつつも、音楽学院での賑やかな生活を描き出している。すなわち、機敏に動き回るフレームによってツッコミの運動性を表現したり、その都度の情景をコミカルに誇張したフレーム画像を差し込んできたり、大きめのフレーム画像でその場面のユーモラスな雰囲気をニュアンス豊かに表現したりと、『白詰草話』以上に多様な動きが楽しげに展開される。ただし、画像制作とスクリプト操作に莫大な手間がかかるためか、第3作『少女魔法学』(2005)以降では、フレーム群の細密な組み立てはあまり行われなくなっていく。
これらの作品で使われるフレーム内画像も、一般的なアダルトゲームのスタイルとは大きく異なっている。先にも紹介した(4章1節3項)ように、『白詰草話』『Quartett!』の絵は大槍葦人による原画の描線のニュアンスを残しつつ、『白詰草話』ではにじみの多いウェットなグラデーション塗りを基調としたシックな絵になっており、また『Quartett!』では緩急のついた開放的な塗りによって明るく仕上げられている。
『白詰草話』『Quartett!』が、原画/着彩の双方においてこのようなスタイルを採ったことは、FFD表現と無関係ではないだろう。もしもこれらの作品が、標準的なアダルトゲームのような画風/彩色で行われたならば、ゲーム画面は非常に硬直的で、目にうるさく、押しつけがましいものになったかもしれない。あるいは、背景をその都度律儀に描き込みつつ、すべてを生真面目な着彩で制作していったならば、制作コストはさらに莫大なものになり、商業制作の企画としてはほとんど成立不可能なものになったかもしれない。FFD表現に相応しいCGは、行き来するフレームの軽快さに見合った洒脱な絵であり、一目見てその場の状況がはっきり分かるようなダイナミックな絵であり、フレーム群の抽象的な配置にも堪えるような訴求力のある絵であり、そしてそれらが何枚組み合わされても画面全体の印象が散らかってしまわないような統一感と洗練のある絵である。大槍原画に基づくこれらのCGが、的確にもそうした条件を満たしていることは、もはや贅言を要すまい。
Littlewitchと似たような、カットイン基軸のアプローチを採用したブランドは他にもあるが、それらにおいても、フレーム内画像のスタイルは通常のものとはかなり異なる。例えば『銀の蛇、黒の月』(project-μ、2003)では、コントラストのはっきりした濃厚な色彩設計と、グラデーションをほとんど排した硬質な着彩によって、陰鬱で激しいバトルものの雰囲気を視覚的に構築している。カットインの造形も、端正な四角形ではなく、不規則に鋭く尖った多角形である。
また、『カルタグラ』(Innocent Grey、2005)では、カットインの多重組み合わせは僅少であるが、謎めいた仕草をしているキャラクター画像や流血のクローズアップ画像などがカットインで多用されている。これらの画像は、一般的な美少女ゲームの画像とは異なって、ツヤの描き込みもごく控えめであり、色合いも総じて暗い。そうした美術設計が、この作品の重苦しいミステリ展開を引き締めている。
さらに『漆黒のシャルノス』(Liar-soft、2008)は、アドホックなフレーム構築ではなく、ある程度固定的な画像配置を行っている。すなわち、「立地を表す全画面背景(遠景)」、「周囲の様子を表す縦長/横長のカットイン(近景)」、「キャラクターの存在を表す全身立ち絵」、「キャラクターの表情変化などを表すバストショット立ち絵」の4枚が、画面内に重ね合わせて配置される。そうしたアイコン的な使用に堪えるように、立ち絵のポージングや陰影表現も風変わりなものになっており、また2種類の背景画像はほぼモノクロに近い色彩で塗られている。
なお、本項の議論に関しては、演出技術論Ⅰ章1節、Ⅲ章2節3款を参照。
『白詰草話』 (c)2002 Littlewitch
全画面背景が置かれる場合でも、しばしば半分以上遮蔽されてほとんど模様のような扱いとなり、その上をフレーム画像とフキダシテキストが出入りする。多種多様なフレーム画像は、人物と背景が馴染むようなタッチで塗られており、過度に浮き出ることもなく統一感のあるシックな画面を作っている。
『Quartett!』 (c)2004 Littlewitch
こちらも講義室の全画面背景は、ほとんど鑑賞の対象とならない。ブランド2作目になる本作では、フレームのサイズや運動はよりいっそう柔軟になっている。フレーム内画像も、原画の描線のアナログな雰囲気を尊重しつつ、注目されるべき箇所に意識が向けられるように抑揚をもって、軽やかに彩色されている。
『銀の蛇、黒の月』 (c)2003 project-μ
黒一色画面の上に、鋭く尖った何枚ものカットインが複雑に重なり合っていく。カットイン画像は、中心を外した大胆なレイアウトに切り出され、また背景部分も写実性に囚われず、しばしば効果重視の赤や紫に塗り込められている。テキストは全画面表示(ヴィジュアルノヴェル型)。
『カルタグラ』
(c)2005 Innocent Grey
突き飛ばされたヒロインの一枚絵に、その表情を表すカットインが重ねられている。落ち着いたムードの作品であるため、カットイン画像はおおぶりな長方形で、枠線もなしに静かにオーバーラップしてくる。一般的な萌え絵では少々表現しづらい、沈鬱な表情である。
『漆黒のシャルノス』 (c)2008 Liar-soft
背景画像はほぼ単色で塗られている。これは、4種類の画像が重なり合う複雑な画面構成の下で、人物画像を適切に際立たせるため(画面を過度に賑やかさないため)でもあろうが、常時曇天の架空の20世紀初頭ロンドンという状況設定のためでもある。人物画像も、性格を強調するようなポージングで記号的に描かれている。
1b) 立ち絵の背景画像への嵌め込み
一般的なアダルトゲームの通常画面は、汎用立ち絵(の差分変化)と汎用背景による、一種のモンタージュとして成立している。それは、主人公の視界をおおむね代弁するようなレイアウトになってはいるが、しかしながら、立ち絵と背景の間の正確な遠近法的再現を追求するようなものではなく、あくまで2つの記号的表現の併置として自由に造形されている。それに対して、立ち絵画像と背景画像とをできるかぎり一致させようとする試みが、いくつか存在する。
これはけっして逸脱的な様式ではなく、むしろ歴史的にはそれこそが正統的な手法であったと言うことすらできるだろう。全年齢向け家庭用タイトル『かまいたちの夜』(チュンソフト、1994)の単色シルエット立ち絵からしてすでに、背景画像のディテールに合わせて様々な動きをしている登場人物たちを描いていた。また、現代型AVGの「汎用立ち絵+全画面背景」スタイルを確立したとされるLeafのLVNS(Leaf Visual Novel Series)も、背景画像の大道具/小道具にフィットするような人物画像を作り込んでいた。例えば『痕』(Leaf、1996)では、卓袱台を囲むように配置されたヒロインたちや、ベッドに寝そべるキャラクターの姿が、あるいは『To Heart』(Leaf、1997)ではゲームセンターでエアホッケーに興じるヒロインや、オカルト研究部室に出没する幽霊たちの姿が、背景画像と正確に対応するような形で描かれている。
90年代Leafの作品は、16色または256色時代のタイトルであり、色彩面でも解像度の面でも著しい制約があった。それに対して『腐り姫』(Liar-soft、2002)は、そうしたPC環境上の制約がほぼ取り払われた時代の作品である。この作品の背景画像は、水墨画のような太く黒々としたフリーハンドの描線と、それに合わせてあっさりと塗られた淡彩の塗りで制作されている。そして、その背景画像の中に、セピア色モノクロの人物画像が小さく描き込まれていく。美少女ゲームとしてはきわめて特異なスタイルであるが、静かな田舎町を舞台とするこの和風伝奇SFホラー作品としては、非常に効果的な見せ方であると言えるだろう。
ロングショットの背景は、街と森の広がりを一望させるものだし、淡彩のCGワークは、静かで古びた山村の雰囲気を表すのに相応しい。人物画像は、背景画像の中に描き込まれているかのように表示されることで、彼等がまさにその世界の中に立って生活していることを感じさせる。しかも、モノクロの小さな画像なので低コストで制作できたのか、人物画像は場所毎にヴァリエーションも豊富である。ただし、カラー背景に対して人物が小さなモノクロ画像であるというギャップから、キャラクターたちの現実感の希薄さや、プレイヤーに対する距離感をも感じさせる。近代科学によって開拓されきらないミステリアスな山の雰囲気と、その中に溶け込むようにして佇むキャラクターたちの脆さと儚さと落ち着きとゆらぎ、そうしたものを視覚表現の次元で構築しているのが本作である。
『腐り姫』ほどエキセントリックなスタイルではないにせよ、『はるのあしおと』(minori、2004)や『AYAKASHI』(CROSSNET/ApRicoT、2005)も、立ち絵嵌め込みアプローチを行っている。前者においては、立ち絵画像と背景画像の着彩クオリティを均一にした丹念なCGワークの下で、双方の自然なすり合わせを成立させて、学園恋愛ものの柔らかな雰囲気を作り上げている。また、後者においては、アニメ寄りのくっきりとした塗りを基礎としつつ、異能バトルものの派手なアクションと大胆な構図設計の一部として、立ち絵嵌め込みが部分的に活用されている。
背景画像への立ち絵嵌め込みの試みは、それ以降も散発的に存在する。例えば、すたじお緑茶(『片恋いの月』[2007]、『恋色空模様』[2010])や、ぱれっと(『えむぴぃ』[2007]、『ましろ色シンフォニー』[2009])が採用したアプローチは、あくまで汎用の全身立ち絵を使いつつ、それらを拡大/縮小しつつ巧緻なスクリプトワークによって、背景画像にフィットするように配置していくというものだった。これらの作品で精緻な嵌め込みを実現しているのは、画像それ自体の品質よりもむしろ、スクリプトエンジンの性能と、スクリプト担当者たちの丹念な労作である。
また、Innocent Greyが、『クロウカシス』(2009)において背景画像の中に人物を描き込んだ時、それは古式ゆかしきミステリAVGの画面内クリックシステムを構成する一部としての処理であり、そこでは人物画像はしばしば血生臭い死体のそれであった。ここでは、殺人現場の迫真性と現場検証のリアリティを確保するために、背景画像には高いクオリティが要求される。
『痕』については演出技術論Ⅳ章4節1項α、『腐り姫』は同Ⅳ章4節1項β、『片恋い』『恋色』についてはⅠ章2節、『ましろ色』についてはⅢ章1節2項をそれぞれ参照。
『痕』 (c)1996 Leaf
16色時代のタイトルであるが、画風それ自体は本項の趣旨にはあまり関わらない。ただし、立ち絵がまだ汎用化してしまっていない時代の、あそびに満ちた自由なキャラクター表現として、今なお参考になるところはあるだろう。
『腐り姫』 (c)2002 Liar-soft
(図1:)ロングショットの画面は、濃い影を真夏の山村の其処此処に落としつつ、かすれとにじみの多い着彩によって森の瑞々しさや建物の古びた趣を表現している。同ブランドの上記『シャルノス』の場合とは逆に、背景がカラーで人物がモノクロになっているのも興味深い。
(図2:)同一の背景でも、人物画像はかなりの数のパターンが用意されている。人物画像のセピア色はノスタルジックでありながら同時にいささか人工的でもあり、美しい背景画像の中に完全には溶けきらずに画面内を浮遊しつつ、時には非常にくだけた日常のジェスチャーを示し、時には印象的な場面のシンボリックな画竜点睛となり、時には幻のようにかき消える。
(図3:)一般的なAVGのようなバストアップ/ウエストアップのカラー立ち絵が使われることもある。屋内での会話シーンや、キャラクターの表情変化をプレイヤーに見せる場面、コミカルなシーン、そしてキャラクターのはっきりした現前を印象づけるため――そしてその後の消滅との間のコントラストを強化するために――、ノーマルな立ち絵が用いられている。
『はるのあしおと』 (c)2004 minori
汎用背景の上に、キャラクター画像が小さく追加されている。一般的なAVGでは、人物部分が背景部分に紛れてしまわないように着彩を変化させるが、本作はむしろそうしたギャップを埋める方向で制作しており、作中空間へのキャラクターの定位感が増している。
『AYAKASHI』
(c)2005 CROSSNET/ApRicoT
(図1:)不安感と緊張感に満ちた伝奇異能バトルものである。誰もいない裏通りに、突如として見知らぬ人物の立ち絵が現れる。その違和感と危機の予感が、視覚表現/音響表現/テキスト表現の相乗作用で巧みに演出されている。
(図2:)キャラクター画像それ自体は、輪郭がはっきりして描き込みもよく整理された、いくぶんアニメ寄りのスタイルであり、非常によく目立つ。原画担当のTOMAらは一枚絵/カットインを大量に(500枚以上も)制作しており、また、汎用背景も場面毎に手が加えられている(左記引用画像では、公園の地面や施設が超能力によって切り裂かれている)。
『ましろ色シンフォニー』 (c)2009 ぱれっと
00年代後半以降、ぱれっと、âge、すたじお緑茶、Purple softwareらは、スクリプト操作によって通常立ち絵を空間的に配置したり動的振り付けを施したりするアプローチを志向している。左記画像では、中央のメイド立ち絵が、縮小されて画面内に嵌め込まれている(机と机の間に入っている)。普段の立ち絵とのギャップを感じさせにくい見せ方である。
『クロウカシス』
(c)2009 Innocent Grey
(図1:)復古的なミステリAVG志向のタイトルであり、マップ移動、現場検証、聞き込み、情報管理(手帳機能)といったシステムを備えている。図1は探索パートの様子。カーソルを動かして対象を選択する。
(図2:)カーソル探索システムは、その前提として、「作中世界には、画面上に見えるがままの物体が確かに存在する」という了解を持っている。前節(4章1節4項)でも紹介したInnocent GreyのCGクオリティは、そのリアリティ要求に十分応えるものである。
1c) 一枚絵進行
現代のアダルトゲームでは、「立ち絵+背景」シーンと「一枚絵」シーンとが併用されるのが常である。一枚絵、すなわち専用の全画面イベントCGは、特に重要なシーン(ヒロインとの最初の出会いなど)や、効果を挙げられるシーン(美しい場面のシーン)、立ち絵のみでは表現困難なシーン(バトルシーンなど)、そしてとりわけアダルトシーンに投入される。一枚絵は、発売前にもサンプルCGとして何枚も公開されてユーザーを引きつけ、また、製品版でも鑑賞モードに自動登録されていき、これをコンプリートする(100%にする)のがプレイヤーの当面の目標となり、とりわけアダルトシーン表現を担うためもあり、一枚絵こそはアダルトゲームにおける「華」であると見做されている。
しかしながら、鑑賞に堪えるクオリティの一枚絵を制作するにはコストが掛かるし、原画家の作業速度の問題などもあり、一般的なフルプライスAVG作品に含まれる一枚絵の数量は90枚前後(※差分を含まないカット数)となっている。一般的なフルプライスタイトルは、コンプリートするのに20時間以上掛かるため、平均的に見て一時間に4~5枚程度の配分になる。しかも、近年では白箱系でもアダルトシーンの増量傾向があり、ベッドシーン以外ではさらに一枚絵頻度は低くなる(――SD絵が併用されるのは、それを補うためでもあるだろう)。
そうした中で、あらゆるシーンに可能なかぎり専用の画像を制作することで、密度の高い視覚表現を実現しようとする試みが為されることがある。上述のLittlewitchのアプローチはまさにその代表例である。またApRicoT(『AYAKASHI』)、Innocrent Grey(『カルタグラ』)、minori(『ef』シリーズ[2006-2008])なども、何百枚ものCGを投入して――全てのシーンではないものの――多くのシーンを迫力あるCGで彩っている。
そして、全シーンを一枚絵のみで押し切る徹底的なアプローチがある。ロープライスタイトル『だめがね』(10mile、2009)がその一例である。この作品では、「立ち絵+背景」構成の場面は存在せず、事実上すべてのシーンが一枚絵で構成されている(――ただし、ごく一部に青空画像や黒画面進行があるため、完全な100%ではないが)。
原則論として言えば、このアプローチのメリットは、個々の場面に、思うがままに自由な画像を当てられるということである。その都度の状況に正確に対応したCGを、制作者が意図するとおりの映像を、自由なレイアウトで描き出せるということである。ただし、実際には、一枚絵制作には多大なコストが掛かるため、理想的な形で実行することは難しいだろう。本作も、従姉妹三人と同居することになった少年の新生活というミニマルな状況としてようやく成立しているものであり、また、居間のシーンのCGを何度も使っている。
必ずしも潤沢ではない枚数の一枚絵のみでストーリー進行に付き合っていくという事情から、本作のCGワークにはいくつかの顕著な特徴が見られる。1)エスタブリッシングショットとしての機能を持てるように、やや距離を置いて広い視界を持った構図のCGがある。2)会話進行に対応できるように、一枚のCGに多くのキャラクターが、しかも平等な配置で描き込まれる。3)キャラクターのポーズ変化差分が、かなりダイナミックである。4)ズーミングやスクロールといった演出処理ができるように、大きめのサイズで制作されている。5)さらに、キャラクターの表情やポーズがかなりコミカルに誇張されているのも、ただ単に原画家明音の個性というだけでなく、この表現スタイルに合わせた選択でもあるだろう。
場面毎に専用の画像を提供できるということは、穏やかな会話劇よりも、激しいアクション描写を持つバトルものにおいて、とりわけ大きなアドヴァンテージになるだろう。上記『AYAKASHI』がまさにそうであり、また、「CG総枚数300枚」「全編フルイベントCG&カットインで演出するビジュアルモーションノベル」を謳う『ゴスデリ』(Lose、2010)もこのジャンルである。
『ゴスデリ』の画面は、正確にいえば、一般的なイメージのような、あらかじめ固定された静的な単層の「一枚絵」ではない。人物画像は、その都度のシーンに合わせた専用のものが多数制作されており、しかもそれらがスクリプト操作で移動したり飛び跳ねたりといった動きを見せ、あるいはカメラのズーミングとともに派手なモーションを表現し、あるいはカットインのかたちで画面に入ってくる。そして背景部分も、場面毎にそれぞれ新規に作り起こされており、さらに横幅のスクロールの余地を持たせてスクロールしたり、キャラクターの移動に合わせて後ろに流れていったりと、柔軟な動きを見せる。それ以外にも、降り注ぐ光靄、舞い散る火の粉、攻撃時の衝撃などの動的エフェクトも、クリック進行を跨いで継続される。つまり、画像素材のレベルでは何層にも分割されているのだが、それらがいわばリアルタイムレンダリングで組み合わされて、分割されていない一枚の画面を作り上げている。
汎用の「立ち絵」「背景画像」を使っておらず、また、minoriのように全画面固定の一枚絵をただ並べていくのでもなく、また、Littlewitchやproject-μのようにカットインの集合体としてバラバラに分割されているのでもない。本作のスクリプトワークは、クリックの単位を超えた厚みのある時間を保持しつつ、切羽詰まった劇的なドラマに相応しい激しいモーションノヴェルを成立させている。
本項の趣旨に立ち戻ろう。一枚絵のみによる贅沢なゲーム進行は、AVGが夢見る一つの理想形であるかのように思われるかもしれないが、実作を見るとそれはけっして単純に牧歌的なものではないことが分かる。一枚絵進行の硬直性という致命的な問題を前にして、『だめがね』は出オチにかぎりなく近いコンセプトの下で多数の人物差分を制作するという対処をしたし、『ゴスデリ』はさらに徹底的に、一枚絵をいったん解体したうえで不断の動的生成という形に昇華させた。『ゴスデリ』における「絵」の味わいは、静的に観察される画風選択のそれではなく、その激しい運動性と可塑性を伴った生成のダイナミズムの中にこそある。
『だめがね』 (c)2009 10mile
(図1:)登場人物全員が居間に集まっているシーン。物語進行の拠点としてくりかえし使用されるだけに、変化差分もかなりの量が用意されている。キャラクターたちは、目元や口元の変化だけでなく、全身のポーズをも何種類にも大きく変化させていく。
(図2:)これほど大きな差分変化を制作するのであれば、コストとしては一般的な「立ち絵+背景」スタイルで制作するのとほとんど変わらないか、あるいはむしろ大きな労力が掛かったであろう。しかし、標準的な白箱系のCGに比べれば随分あっさりした塗りだとはいえ、背景画像と同じレベルで着彩されることにより、画面全体に統一感が生まれている。
(図3:)全画面一枚絵は、そのままでは画面の動きが乏しくなりがちであり、それは現在のAVGでも十分には解決されていない。本作では、この一枚絵の横幅を1.5画面分ほどの広さで制作することで、左右スクロールの余地を作っている。これによって、画面を静止画の単調さから救い、またその都度の話者を強調するといった効果をもたらしている。
『ゴスデリ』 (c)2010 Lose
(図1:)日常シーンも、立ち絵と正面背景という構成はとらず、シーン毎にすべて専用の画面作りを行っている。人物部分も、登/退場から全身のポーズ変化まで、かなり大きく変化する。
(図2:)激しい異能バトルのくだりでは、アニメーションエフェクトやカメラワークの動的演出が積極的に行われる。左記引用画像では、激しい走行による上下震動に、向かい風のエフェクト、火花のアニメーション、左右それぞれの画像のズーミングといった演出が華々しく展開される。
次ページ(4章2節2項)に続く。