2016/07/24

アダルトゲームのCGワーク(8)

  アダルトゲームで用いられる、様々なスタイルの画像について(8ページ目)。

はじめに(1ページ目
第1章:アダルトゲームCGの基本的特徴とその構造的事情
第2章:修辞としての特殊なCG表現(2ページ目3ページ目
第3章:構造的な事情に基づく画風変化(4ページ目5ページ目
第4章:個別作品の総体的な画風選択(6ページ目
  1. アダルトゲームのCGワークの多様性
  2. 個別作品における画風選択(7ページ目
  - 1) 画面構成との関係において
  - 2) 作品コンセプトとの関係においてこのページ
  - 3) 技術的事情との関係において
    - 3a) アニメーション
    - 3b) 3Dタイトル
  - 4) 分野的帰属との関係において
おわりに


  2) 作品コンセプトとの関係において
  前項では、画像素材を特徴的な仕方で用いているタイトルについて、その使用法がしばしば画像それ自体のあり方と相互に結びつくかたちで設計され展開されていることを見てきた。つづいて本項では、ストーリーやシチュエーション、あるいは作品のトップダウンの中心的コンセプトと結びつくかたちで、特徴的な画風が選び取られている作品を、いくつか紹介していく。ただし、ここでは個別作品の画風上の特徴は、それぞれの作品に固有のコンセプトと強く結びついているため、分類整理や全体展望を提供することは断念せざるを得ない。また、本稿の趣旨からして、個別作品の立ち入った分析までは行うことができない。


  ●『SWAN SONG』:沈鬱な低彩度CGの効果
  『SWAN SONG』(Le Chocolat.、2005)は、大地震に見舞われた厳冬の地方都市の物語である。その重苦しいシチュエーションに合わせるように、この作品のCGは総じて極端に彩度の低い(つまり、色の鮮やかさを小さくして黒白単色に近づいた)ものになっている。人間的生活を支えていた豊かな文物が失われ、安定した社会秩序を維持するためのインフラも崩壊し、救援の情報すらなく今後の見通しも立たず、精神的にも一日一日の現実感を喪失しかねないほど厳しいこの状況を表現するのに、この色彩設計は理に適ったものだと言えるだろう。シーンによって時折出現する、灯火や流血や(回想上の)花々の鮮やかさとの間のコントラストが強められるという効果も含めて。本稿では、先に『腐り姫』におけるセピア色の単色立ち絵の表現効果や、『漆黒のシャルノス』の単色背景と画面構成との関係について紹介してきたが、本作の低彩度アプローチはそれらとはまた異なった作用を果たしている。

  また、本作では、キャラクター画像の表示形態も、一般的なAVGの画面構成とは異なっている。その場に居合わせているキャラクターたちは、背景画像の前にそのまま立つことは無く、しばしば肩上のみを映したカットインで表示される。非直角の多角形で切り取られたフェイスカットインは、登場人物の顔面に意識を集中させることによって、キャラクターの意志的側面を強調し、なおかつ、プレイヤーの前に全身をはっきり示さないその様子は、他者たる登場人物たちの内面の推し量りがたさをも示唆しているかのようである。ふりかえって見れば、通常の美少女ゲームの「汎用立ち絵」というあり方の堅牢さは、彼女等が劇的なゆさぶりを被る可能性をあらかじめ免れているということに依拠している、つまり、その日常的世界の幸せなままの永続への信頼とともにあり、かつ、部分的にはそれをおのずから体現すらしている。

  アダルトゲーム(の読み物AVG)がカタストロフに直面した世界を描く際には、しばしば背景画像の作り込みによってそれを行ってきた。例えば『マブラヴ』シリーズ(age、2003-)、『MERI+DIA』(ぱれっと、2005)、『仏蘭西少女』(PIL、2009)など。拙稿「舞台設定における田舎趣味と都会趣味」の実例検討ページも参照されたし。

  なお、本作はテキスト表示方法に関しても意欲的な試みを行っている。画像引用紹介も含めて、拙稿「テキスト表示の諸形態」をも参照のこと。

『SWAN SONG』 (c)2005 Le Chocolat
(図1:)一般的な意味での「立ち絵」は、一切使われていない。鋭く切り出されたカットインの出入りによる見通しの利かなさは、一クリック毎に画面を埋め尽くす長広舌のテキストの圧迫感と相俟って、重苦しい被災生活という特異な作中状況の描写に相応しい画面作りを行っている。原画は川原誠
(図2:)ここでは、画面右側が吹雪を描いた一種の背景画像であり、それに対して画面左側に、一種のカットインとしてキャラクターたちの描かれた画像がオーバーラップしている。そしてテキストは、キャラクターの動作を遮蔽しないように、右下に寄せて表示されている。


  ●『さよならを教えて』:作品世界を特定の色調に染める意味
  すでに広く知られているとおり、『さよならを教えて』(CRAFTWORK、2001)は、妄想にとりつかれている精神病患者(デフォルト名:「人見広介」)の物語である。しかるに、テキストが彼の一人称で綴られており、プレイヤーが彼を主人公として動かしている(選択肢を選ばせる)のと同様、ゲーム画面もまた彼の目に見えているであろう世界にほぼ等しいものになる。

  自らを教育実習生だと信じ込んでいる主人公は、濃い夕闇の学園を歩き回る。しかし、それはおそらく現実ではない。その場所が実際には病棟であって学園ではないのと同様に、その夕暮れの色もまた、現実のもの――作中世界の、彼以外の登場人物が認識しているであろうもの――であるという保障は一切無い。

  ただし、この夕暮れの色合いが持つ意味は、ただ単に「教育実習生として学園内を歩き回れる放課後の自由時間だから」という理由づけだけではないだろう。色彩設計の問題は、プレイヤーに向けた表現効果の問題である。鈍いオレンジ色で深く塗り込められた画面は、局所的に照らされているがゆえにかえって全体の暗澹として侘びしげな雰囲気を強める。また、その色合いの強烈さは、画面内に描かれている物から現実的な質感を剥奪し、その世界全体を捉えがたく曖昧で不確かなものにしていく。さらに、画面全体がある特定の、特徴的な、ノーマルではない色調に染め上げられているという事実は、その見え方を担保している筈の主人公の意識がある特定の、特徴的な、ノーマルではない状態にあることをプレイヤーに対して強く示唆し続ける。主題歌(ED曲)のフレーズにいう、「昼と夜の間で時が止まる/終わりのない永遠の夕暮れ時」のイメージは、プレイヤーに向けられた意味表出である。本作の橙色の世界は、美術設計がいかに作品コンセプトと密接に関わるものであるかを知るための、最も分かりやすい実例であろう。

  色彩設計以外にも、見どころは多い。視覚表現では、立ち絵シーンとイベントCGの妄想的な二重写しや、立ち絵分裂と二重台詞、効果的な一枚絵拡大表示など。システム面では、選択肢の文面に一致しない選択後行動や、場所表示に一致しない背景画像変化。テキスト表現では、韻文的表現やタイポグラフィ的文字配置。音響表現面でも、チャイムの変質などがある(cf. 「印象的な音響演出」)。なお、本作に対する短評テキストも参照。

『さよならを教えて』
(c)2001 CRAFTWORK
(図1:)立ち絵シーンの様子。原画の長岡建蔵は、企画立案と脚本(石埜三千穂との共同脚本)も担当している。モノトーンに近い色調でありながら、ニュアンスに富んだグラデーションと、拡大表示にも堪える精密さで、CG制作されている。
(図2:)一枚絵シーン。テキストボックス形式ではなく、画面全体にテキストが広がるヴィジュアルノヴェル形式である。エキセントリックな文面が、詩的な韻律感やタイポグラフィ的造形性に伴われて成立している。


  ●『夏めろ』:論点先取的ノスタルジーとパラフィリア
  『夏めろ』(AcaciaSoft、2007)は、親戚の家で学園3年生の夏を過ごすという、外形的にはきわめてオーソドックスな学園恋愛系AVGである。「まったり系・日常アドベンチャー」という名乗りに合わせるかのように、本作のCGは、非常に落ち着きのある色合いで制作されている。とりわけキャラクター画像は、薄い金髪(?)の一名以外は全員が黒髪ベースであり、しかも彩度が低く明度をやや上げた淡い色調で塗られており、髪のツヤ(いわゆる「天使の輪」)も描かれていない。全身のバランスも、胴体の短い寸詰まりのプロポーションで描かれており、下膨れの両頬と黒目がちな眼球表現と相俟って、低年齢というよりは幼児的な未発達さを強く窺わせる造形になっている。これは第一義的には、キャラデザ/原画/グラフィック監修をも兼ねているしろ自身の普段からの画風であるが、このイラストレーターがまさに本作で起用されたことに、企画サイドの含意があるだろう。

  「まったり系・日常アドベンチャー」という名乗りにもかかわらず、本作には学園恋愛系としては珍しい設定や描写がある。例えば、主人公にとって本作のストーリーは初恋ではなく、以前に年上の女性と交際した(そして別れた)ことがある。つまり、キャラクターCGの幼げな印象に反して、主人公はすでに年長者と交わって大人の価値観を知っており、恋愛関係の終わりもすでに経験している。また、大多数の学園ものでは主人公は中間の学年(三年制の二年生)に設定されるが、本作では主人公もヒロインのうち三人も、卒業を控えた最終学年である。つまり、この物語の状況は、半年後には間違いなく終了することが主人公にも意識されている。しかも、この土地は主人公にとっては地元ではないため、いずれにしても遠からずこの地を離れるであろう。

  物語の終盤で、主人公による印象的な述懐のシーンがある。「そういえば、先輩と最後に電話したのも、こんな夜だった。/あれは7月の初めだったけれど、夕方に降った雨が上がって、空気はこんなふうに湿っていた。/(…)だけどもう先輩の顔は、ぼんやりとしか思い出せない。/あの日の空気はこんなにはっきりと覚えているのに……。/時間は優しくて、そして残酷だ。/秋ちゃんのことも、いつかはこんなふうに、思い出に変わってしまうのだろうか?」(※クリック改行箇所はスラッシュで示した。以下同様) また、キャッチコピー的に使われている作中の台詞も、喪失と忘却を強く示唆している。すなわち、「――忘れないで。空がこんなに綺麗だったこと」。

  本作が、仮初めに滞在した土地での一夏の刹那的な恋愛の物語であることは明らかだろう。たしかにこれは主人公にとっては現在の状況なのだが、しかし、セピア色基調のインターフェイス、ルーズリーフと罫線を模した素朴でノスタルジックなテキストボックス、そして未熟さと懐かしさをおのずから代弁しているかのようなキャラクターデザインは、プレイヤーに対して、この物語が「過去の思い出」へと追いやられることをあらかじめ宣言しているかのようである。

  そればかりではなく、もう一つ興味深い側面がある。本作のアダルトシーンは、白箱系ラブストーリーというにはいささかエキセントリックな志向を含んでいる。すなわち、相手の身体への強い執着や、相手への精神的依存、サディズム(支配欲求)とマゾヒズム(被虐の快楽)、実妹とのインセストといった精神的な傾斜が、企画兼単独脚本の木之本みけによって描かれている。このような心理的な執着と耽溺を前景化しているテキストワークと、一見マイルドなグラフィクスとの間のギャップが、不思議なエロティシズムを喚起している。一見無邪気で可愛らしいキャラデザと過激な性表現(蹂躙表現)の取り合わせは、KAI(『ヴァルプルギス』[2010]ほか)やFrontWing(『ジブリール』シリーズ[2004-])が得意とするところであるが、本作の趣向もそれに通じるものと言える。

『夏めろ』 (c)2007 AcaciaSoft
(図1:)立ち絵の様子。黒目のつぶらな目元は表情が分かりにくく、弱々しげな体躯とともに、ヒロインの傷つきやすさをプレイヤーに強く印象づける。頭髪にはツヤが描かれていないが、明度は高いため、沈んだ雰囲気にはならない。
(図2:)一枚絵の様子。テキストは濃いセピア色であり、テキストボックスも学生らしくルーズリーフを模した意匠(綴じ穴、罫線)になっている。


  ●『らくえん』:ゲーム表現の豊饒さの擁護者
  『らくえん』(Terralunar、2004)は、デビュー作の制作に早くも行き詰まりつつあるアダルトゲームブランド「ムーナス」を巡る物語である。アダルトゲーム制作をアダルトゲームで表現するという関係になっているため、アダルトゲームの成り立ちや表現についても特別に意識的にならざるを得ず、実際、本作の表現スタイルはアダルトゲームとしては珍しい特異な表現技法上の実験と挑戦に満ちている。

  アダルトゲーマーが慣れ親しんでいるアダルトゲームそのものに関わる制作現場の物語であるという共犯者的親近感。そして、プレイヤーが現に動かしているゲームそのものの成り立ちに関する内幕暴露的な苦みの側面。この二つの要素が関わってくる以上、本作はアダルトゲームらしいスタイルの枠内に素朴に留まっていることはできない。ブランド前作『しすたぁエンジェル』(2002)で試みられていた様々な実験をさらに突き詰めて、アダルトゲーム表現の外延を押し広げようとするかのような大胆な表現技法がいくつも投入されている。アダルトゲーム表現の成り立ちに関する忌憚ない指摘のラディカルさにおいて、本作は『えむぴぃ』(ぱれっと、2007)にも匹敵するだろう。

  その中には、文字表示方法の拡張(テロップ、擬音文字、縦書きモノローグ、画面を埋め尽くす超饒舌など)や音声表現の拡張(長台詞や朗読音声)と並んで、視覚表現の拡張も含まれる。

  1)実写画像。すでに紹介した範囲では、例えば実写画像の使用に関しては、ただ単にゲーム世界の外部を持ち込んでゲーム世界を解体するために使うのではなく、むしろキャラクターの心象表現のために無人の風景画像を使用しているという点が興味深い(cf. 2章3節2項)。

  2)作中作。大掛かりな作中作を伴っていることにより、ユーザーのプレイイング行為と『らくえん』本編の作中世界との間の単純な対比に終わらせず、ゲーム体験は三つの層を重ね合わせた複雑なものになっている。作中作「ぼくのたいせつなもの」は、本編とは異なる原画家が担当することにより、ムードをはっきり切り替えている(cf. 3章2節3項)。

  3)画面構成上の個性としては、上下に白い縁取りを設けているのが特徴的である。画面を隅々まで塗り込めてしまうのではない、この中途半端な余白の存在は、背景画像の塗りの浅さと相俟って、ゲーム表現の記号的象徴的性格と、プレイヤーの参加を必要とする間主観的生成的性質を暗黙裡に示唆している(――実際、作中キャラクターの言葉として、演劇と比較してアダルトゲーム表現の特質を論じるくだりがある。拙稿「非全画面の背景画像(2)」も参照)。

  4)立ち絵表現に関しては、3頭身程度のデフォルメ立ち絵が多用される点が特徴的である。直接的には、キャラクターの人懐っこい表情や、胸襟を開いた率直な姿勢、あるいは逆に相手をからかおうとする皮肉な面持ちなどを強調するための誇張的デフォルメであるが、その堂々たる諧謔味は、若者たちの迷妄の物語にかすかな和らぎをもたらしている(拙稿「デフォルメ立ち絵の可能性」も参照)。

  アダルトゲームによってアダルトゲーム制作を描くという、誤魔化しの利かない自己言及的性格にもかかわらず、本作はけっして内輪受けのシニックな半笑いで済ませることはせず、楽屋オチの破壊的な空騒ぎにもなっていない。本作における視覚表現、音響表現、テキスト表現の豊かさは、アダルトゲームそれ自体の豊かさを遂行的に証明するかのようである。作中の原画採用選考シーンの台詞にいう、「この場所は、アンタが思っているよりずっと暗い。アンタより100倍すごい連中が200倍努力して年間600もの作品を市場に送り込む、戦場/この手をつかめば、アンタをもっと深い世界に連れてってあげる。いやーんな世界よ。最悪で最低な最高に最凶なアタシたちの世界よ/アタシには、アンタを連れて行く覚悟がある。アンタがその気なら、一緒に見に行く準備がある。最低な場所の最高の景色を/堕落する準備はOK?」

  なお、本作と同じようにアダルトゲーム制作現場そのものを題材にしたタイトルは、『(有)ロンドン☆スター』(JANIS、2000)、『夢喰い』(つるみく、2009)、『えろげー!』(CLOCKUP、2010)、『放課後☆エロゲー部!』(MOONSTONE Cherry、2012)がある。

『らくえん』 (c)2004 Terralunar
(図1:)基本となるキャラデザも、平均的なアダルトゲームに比べるとかなり強くデフォルメが利いているが、さらに、しばしば3頭身程度のSD立ち絵にもなる。様式面ではとりすました型通りの立ち絵から自由に逸脱してみせつつ、同時に雰囲気面ではプレイヤーに親しみを持たせている。
(図2:)作中作「ぼくのたいせつなもの」の他に、もう一つ、主人公たちが視聴しているアニメ作品とおぼしきシーンも、時折挿入される。こちらは本編と同じ原画家と脚本家(やまもとなをゆき連悠太)によるものと思われるが、奇妙なことに、本編の主人公たちの描写よりもさらに直接的な、切羽詰まった心情表現に満ちている。


  ●『Forest』:フィクションの遂行的宣言
  『Forest』(Liar-soft、2004)の画面構成は、一般的なAVGのスタイルから大きく離脱している。背景画像は、現実の東京(新宿近辺)の実写風景を取り込んで画布にプリントしたかのような、粗くもどかしい手触りの画像であったり、あるいはそれが手で破り取られたかのような不規則な輪郭で、黒画面の上に小さく貼り付けられていたりする。

  また、キャラクター画像も、通常の正面立ち絵ではない。バストショット形式で表示される場面もあるが、多くのシーンでは全身画像で、しかも場面毎にさまざまな装飾的なコスチュームを身に纏って、その都度思い思いのポーズをとっている。着彩も、大石竜子の線画の輪郭線をくっきりと残しつつ、明度の高いカラフルな色彩で、しばしば機械的なグラデーションを掛けて塗り分けられている。ライティングが一切無い、つまり、光源の存在を前提としたツヤ表現や影指定は一切付与されていないのも特徴的である。また、「ネズミ(リーピチープ)」「海賊」「トランプの役人」といったサブキャラクターたちは、単色の輪郭線の中に黒い靄のような滲みで塗られている。こうしたキャラクターたちが、背景画像の上に、浮かんでは消えていく。

  つまり、本作の画面は、ごく形式的に見ると、「場所を表す背景画像と、登場人物を表す人物画像の、機械的なコラージュ」というアダルトゲームの一般的流儀を踏襲しているのだが、実際には、背景画像は作中世界の広がりのリアリティを保障するようなものではないし、人物画像も背景から浮いて極端にアイコン的性格の強いものになっている。

  ただし、アダルトシーンの一枚絵は、支配的流儀のCGワークにやや近いものになっている。すなわち、はっきりした陰影表現を伴いつつ、比較的現実的な服装で、血の気の通った色合いで塗られて、背景部分まで空間整合的に描き込まれた全画面CGとして制作されている。

  本作が何故このような画風および画面構成を採用したのか、あるいは、本作の視覚表現スタイルの中にプレイヤーはどのような意味を見出すことができるのか。それは、本作のコンセプトそれ自体と深く関わっているだろう。この作品は、物語の世界に巻き込まれたキャラクターたちの物語である。元々は(普通の、現実的な)東京に暮らしていたメインアクターの5人が、不思議な森の世界に呼び出されるところから物語は始まる。この森の世界は、イギリスの童話や小説群を下敷きにしつつ、それ自体創作された世界として出現している。つまり、ここではキャラクターたちは『Forest』の作中で「森(forest)」の物語に巻き込まれているという入れ子構造が、あらかじめ示唆されている。そして、森の世界に立ち入ったメインアクターたちも、その物語上の位置づけに対応するかのように、現実感のない外見でたち現れる。すなわち、影が無く、図像的性格の強い出で立ちで、その都度遊戯的なポーズをとった立ち絵になっている。同様に背景画像(=作中世界)も、現実の新宿の実写画像を用いつつも、画面の其処此処には森の枝葉が侵蝕しており、またその画像の粗さはかえって現実感の希薄さ(現実の新宿からの距離の遠さ)を印象づける。

  『Forest』の世界は、単なる幻想の世界ではなく、物語の世界である。ゲーム世界=物語世界は、一定の内的規則を備えているが、現実の自然法則からは十分に解き放たれている。現実から遊離し、独自の原理に基づいて運行し生成されていく世界であることを、本作はみずから体現している。それは、ただ単にテキスト上の描写においてそうだと述べられているだけではない。例えば、音響表現の次元での様々な演出――とりわけテキストと音声との分離切断/相互衝突/平行進行――にも現れている。また、断章化された物語群――「言ノ葉」――をその都度選びとっていくというゲーム進行形式にも反映されている。そして、視覚表現の次元でも、このように意欲的なスタイルが採用されている。

  なお、人物画像の表現スタイルに関しては拙稿フェイスウィンドウの機能についての覚書を、また音響表現については「印象的な音響演出」を参照。

  『Forest』と同様に、フィクション世界に投げ込まれたキャラクターたちや既存創作物のモティーフと混じり合った世界を描いているアダルトゲーム作品として、『メルティ・メルヘン』(ぱんだはうす、2003)、『黒の図書館』(ふぉーちゅん、2003)、『ALICEぱれーど』(UNiSONSHIFT:Blossom、2007)、『メルトピア』(side-B、2014)、『フェアリーテイル・レクイエム』(Liar-soft、2015)などがある。それぞれに朗読音声スタイル、パロディ展開、キャラクターモティーフの援用など、様々な仕掛けを凝らしている。

『Forest』 (c)2004 Liar-soft
(図1:)主要キャラクターの立ち絵は、このようにバストアップで表示されることもあるが、多くの場合、下の図2のように自由な造形で現れる。サブキャラクターは、画面右側のネズミのように、戯画的な画風と細かな斑点ブラシのミステリアスな姿で描かれる。
(図2:)東京都庁舎の背景画像は、画布(キャンバス)に貼り付けられたかのような形に仕上げられている。また、画面中央にカットインのようにロケーション画像が追加される場合もある。物語の進行につれて、人物画像もこのようにいよいよ自由に御伽話めいた風体へと変容していく。


  ●『LEVEL JUSTICE』:特撮パロディとAVGの画面構成
  『LEVEL JUSTICE』(ソフトハウスキャラ、2003)は、悪の組織「ヴァルキル」のマッドサイエンティストとなって世界征服を目指すというシチュエーションである。しかし、悪の組織とはいえ、作中に数多存在するテロ集団の中では弱小零細な部類であり、また、モブ部下たちのアットホームな生活風景にもしばしば焦点が当てられる。対する正義側も、ものものしい名称の特殊機関ではなく「国立戦隊S.A.F.E.スター」であり、しかもメンバーはコスプレ好きな少女や金にがめつい巫女など、大上段の社会正義を掲げるようなキャラクターではない。こうした要素を指摘するだけでも、本作が特撮戦隊ものに対する明示的なパロディであることは明らかだろう。

  悪の組織の活動を表現するため、SLGパートには街襲撃フェイズや投資行動、怪人作成、怪人育成などの要素があるが、AVGパートにも大きな特徴がある。ここでは背景画像のレイアウトに関して、1)非-全画面の背景と、2)角度のついた背景、の二点を紹介しておく。

  1)本作の背景画像は、一般的なAVGのように画面全体に広がる形ではなく、上下に黒帯が掛けられた非-全画面の背景である。640*480のVGAサイズ画面の中で、上部30pxl、下部50pxlが黒一色の無地背景となっており、中央の縦400pxl分がその場のロケーションを描写する背景画像になっている。本作以外にも非全画面背景のタイトルは多数存在し、その表現効果も「ミステリの緊張感を表現する」、「ロマンティックな情景表現」、「ゲームの雰囲気を形作る装飾的な枠」、「視点の相対化を示唆する」など様々であるが、本作の場合はまずもって映像的な雰囲気を志向するものと捉えることができるだろう。すなわち、特撮戦隊もののTV番組的テイストを喚起することが、非全画面背景の一つの目的であっただろう。同様の趣向は、『誰彼』(Leaf、2000)、『朱』(ねこねこソフト、2003)、『MERI+DIA』(ぱれっと、2005)でも採用されている。

  2)もう一つの顕著な特徴として、本作の背景画像はしばしば極端なアングルになっている。一般的なAVG作品では、立ち絵シーンの背景画像はおおむね成人男性のアイレベル程度の高さで、主人公の視界として捉えられるような正面透視の構図で描かれるものである。しかし、本作の背景画像は、上方を見上げるような急角度の仰角アングルであったり、あるいは上空から見下ろすような俯瞰アングルであったりする。当然ながら、立ち絵との間に写実相当の整合性は保たれていない。このような大胆なレイアウトが採用されている理由については、様々な視点から考えることができる。第一に、SLG作品らしく、視覚表現の構築が記号的/抽象的/機能的に行われているという見方。第二に、舞台となっている都市の風景を印象づけようとする表現効果の観点。そして第三に、特撮ものが得意とする技巧的なカメラアングルに倣ったものだという側面。

  諧謔に満ちた優れたジャンルパロディは、対象分野の表現様式に対する強い批評的意識を基礎として成立する。パロディ作品であればこそ、映像作品(TV番組)とゲーム作品(AVG)というメディア形式の相違にも意識を向けざるを得ない。しかも、単なる比較の観点のみならず、みずからが拠って立つメディア形式や表現慣行に対する反省的意識も鋭くならざるを得ない。本作の画面構成はもはや特撮の単なる模倣ではなく、そこには独自固有の美的表現世界が確立されている。しかも、本作の野心的な表現は、SLG作品ならではの自由さと、パロディ作品ならではのアイロニカルな誇張との間の貴重な結びつきとして成立している。佐々木珠流の描く黒目がちな可愛らしいキャラデザも、このエキセントリックな画面構成をいくぶん和らげて、プレイヤーに受け入れられやすいものにしている。

  『LEVEL JUSTICE』の非全画面背景については、拙稿「非全画面の背景画像(2)」でも論じた。また、角度背景については、「舞台設定における田舎趣味と都会趣味」と「『LEVEL JUSTICE』再説」でも詳述した。

『LEVEL JUSTICE』
(c)2003 ソフトハウスキャラ
(図1:)立ち絵と背景画像(地面)との写実的整合性への配慮は堂々と無視されている。これは部分的には、本作がSLG作品であることによってその説得力を確保されている。画面デザインも、鉄板とボルトの頑健なイメージで構成されており、硬質なSE群と相俟って、荒々しくもスタイリッシュな印象を与える。
(図2:)ごく日常的な生活のシーンでも、このように極端な角度のついた劇的な画面構成が頻出する。この画面構成は、SLG作品の構造的抽象性、画面上下のレターボックスデザイン、特撮戦隊もののよく知られた様式性(のパロディ)、主人公の剽軽ながら熱っぽいモノローグといった様々な構成要素の絶妙の組み合わせによって成立している。


  小括
  漫画やアニメと同様、ゲーム作品においても、作品の方向性に応じて様々な画風が選び取られる。例えば、朗らかな学園ものであれば、楽しげなポージングの立ち絵と開放的な風景の背景画像が、カラフルな色彩で塗られるだろう。また、激しいバトルものであれば、ダイナミックな構図の一枚絵が、陰影の濃い画風で描かれ、その上には鋭いヴィジュアルエフェクトが付与されるだろう。黒箱系タイトルであれば、蹂躙描写を真に迫ったものにするために、素肌や液体の着彩に力を入れたり、衣服の破れをリアルに描き込んだり、白い裸身の存在感を浮き上がらせるために周囲とのコントラストを強調したりするだろう。本項で紹介した『SWAN SONG』の色彩設計も、基本的にはそれらと同じ発想で為されている。

  しかしながら、『さよならを教えて』はすでにして両義的である。特異なオレンジ色基調の画面作りは、作品全体を濃密なムードで包みつつ、ただ単にそこに浸らせるのではなく、その異常性への意識をプレイヤーに促し続けている。同様に、『夏めろ』の美術設計には、その表面上の柔和なノスタルジー的雰囲気の中に、未来から投射された別離の予告をも見て取ることができる。『らくえん』においては、一般的なAVG画面からの逸脱は、AVGの成り立ちの作為性に対するいささか皮肉なまなざしも不可避的に含まれているであろうが、同時に、因習化したスタイルに留まることをよしとしない健やかな実験性として受け止めることもできる。『らくえん』がアダルトゲームによるアダルトゲーム表現であったのに対して、『Forest』においては物語になる物語が主題となっており、そこでは登場人物の存在基盤の難しさを反映するかのように、キャラクター画像も背景画像から遊離したイメージ画像として出現することになった。キャラクター立ち絵と背景画像の間の過激な分離の試みは『LEVEL JUSTICE』にも見られるが、そのような表現を採用させた作品コンセプト(パロディ的性格)においても、その表現を成立させている構造原理(SLG+AVG)においても、『Forest』とはまったく異なる基盤に立脚している。

  これらのような美術設計上の企みが意味を持つのは、逆説的に、一般的なアダルトゲームの様式がデフォルトとして強固に確立されているからこそだと言うこともできる。すでに述べたように、アダルトゲーム分野は、1)フリーランス原画家の多さと着彩の(外注)分業体制を前提としつつ、2)定価8800円の高価格を納得させるためにCGにはハイクオリティ&ハイボリュームが要求され、さらに、3)オタク的なキャラ萌えの要請と、4)性表現を官能的なものとして成立させねばならない事情からして、実際に採りうる画風の幅はそれほど広くはなく、互いに似通った比較的狭い範囲に強く集中(収斂)している。しかしそれは、選択肢の制約という消極的側面だけでなく、標準となるスタイルを確立させるという積極的側面をも持っている。事実上の文法的規範として共通了解されている標準的様式のイメージが、強固に確立されているがゆえに、その枠内での技術的洗練は高速かつ高度に進展してきたし、また、そこからの意識的な逸脱は際立った効果を発揮することになる。『さよならを教えて』や『夏めろ』の、画面の現れをそのままでは捉えさせない多重的意味作用は、一般的なアダルトゲームの表現文法が強靱なものであればあるほど、鮮やかなレトリックとして作用することになる。名作が時代を超える所以である。



  3) 技術的事情との関係において
  一つの作品における画風選択や着彩様式、レイアウト構成、インターフェイスデザインといった美術設計の問題は、基本的には企画段階において作品コンセプトとの関係で――つまり作品内在的な問題として――選択され調整されるものだろう。しかし、ある種のタイトルでは、あるアプローチの作品を実現するために、技術的制約から――つまり作品外在的な事情のために――特定のスタイルが選択される場合がある。


  3a) アニメーション
  その一つとして、アニメーション作品がある。つまり、汎用静止画素材の組み合わせではなく、セルアニメのように絵コンテ段階から動画として作り込んだ画面作りを、PCゲームとして実行しようとするアプローチである。これは、前世紀にもSOGNA(『VIPER』シリーズ)や、Jellyfish(『GREEN』[1999]、『LOVERS』[2003]など)によって散発的に試みられてきたものであり、その後も『School Days』シリーズ(Overflow、2005-)や『クオリアフォーダンス(Qualiaffordance)』(Shelf、2013)といった実例がある。また、本編部分は標準的な仕様だがオープニングムービーのみをアニメーション制作しているタイトルも多数存在する(cf. 演出技術論Ⅲ-3-1)。

  セル画レベルの動画表現では、美少女ゲームの高精細なCG水準をそのまま維持することはできない。したがって、アニメーション作品では、画像のディテールは通常のアダルトゲームよりもはるかに簡略化されたものになり、また着彩の次元でもほとんどグラデーションを掛けられない平板なものにとどまらざるを得ない。また、コスト面の限界から、カメラ移動を伴うようなカットはほとんど使えない。動画/静止画を問わず一つの絵として見た場合に、セル画様式それ自体への嗜好や愛着は一般的にはあまり存在しないと思われる。しかしながら、キャラクターたちが実際に動く(生き生きとアニメーションする)ことの効用は、アダルトシーンにとっても、キャラ萌えにとっても、きわめて大きいだろう。

  近年では、After EffectsE-moteLive2Dのような動画編集ソフトの発達により、通常の静止画CGに自然な動きを与えることも可能になっている。技術的制約は、技術発展によって乗り越えられていくことが期待される。なお、これに関しては2章3節3項c号のほか、「『ひまわり!!』とE-mote技術をめぐって」も参照。

  なお、アニメーション導入の試みとしては、チップアニメの手法もある。こちらも、画像サイズや着彩クオリティの限界がある。AVG作品では、『誰彼』(Leaf、2001)の大規模かつ入念なアニメーション画像の組み立て、RPGでは『Vagrants』(studio e.go!、2003)における3D空間と組み合わせたユニット表現、SLGでは『アウトベジタブルズ』(ソフトハウスキャラ、2015)のエリア突破アクション、ACTでは『BALDR』シリーズ(戯画、1999-)や『デデンデン!』(One-up、2013)のロボットアクションなど、局所的であったり折衷的であったりはするが、一般的なAVGの通常画面とは異なったテイストを持ち込んでいる。『誰彼』については演出技術論Ⅲ-2-4、『アウトベジタブルズ』については本稿3章1節1項を参照。

『School Days HQ』
(c)2005/2010 Overflow
大きなモーションやカメラワークは少ないが、標準的なTVアニメ作品と比べても遜色の無いクオリティの絵である。総作画監督はごとうじゅんじ
『Qualiaffordance』 (c)2013 Shelf
上記『School Days』はオート進行であるが、この作品はクリック進行である。主人公の視界に特殊能力があるという設定のためもあり、一般的なAVG画面に近い構図も頻出する。キャラクターデザインはあらひでき


  3b) 3Dタイトル
  人物や背景を3Dモデリングで表現するアプローチは、KISS(『カスタム隷奴』『カスタムメイド』シリーズ[1999-]など)を初めとして、ILLUSION(『人工少女』シリーズ[2004-]など)、TEATIME(『らぶデス』シリーズ[2005-]など)、TechArts3D(『3Dカスタム少女』シリーズ[2008-]など)が継続的に追求している。また、alicesoft(『闘神都市III』[2008]など)やLeaf(『君が呼ぶ、メギドの丘で』[2008]など)といったSLG系ブランドも、フル3D表現を取り入れている。低価格帯にも、Anime-seal(『いもうと誘惑えっち』[2012]など)のような試みがある。中には、『絶倫アクロバットおやじ』(STUDIO KINKY、2003)のような怪作も現れているが。

  3Dモデリングは、アダルトゲーム/美少女ゲーム分野にとっての特有のメリットもある。1)キャラクターを立体的にアニメーションできる。しかも、総じてセルアニメよりも安価である。キャラクターの愛らしい動きをアニメーション振り付けできるのは大きな強みになるし、とりわけアダルトシーン表現に際して大きなアドヴァンテージになる。2)アニメーションを別としても、初期投資さえ出来れば様々な角度およびポーズの画像をローコストに産出できるメリットは大きい。3)拡張性。ユーザー個々人が、好みのままにキャラクターのプロポーションやファッションをカスタマイズできる。これも、キャラ萌え文化の一翼を担うアダルトゲーム(美少女ゲーム)にとっては重要である。4)空間表現。とりわけRPG作品におけるフィールド/ダンジョンの空間的表現や、SLG作品におけるマップの機能的表示に際して、非常に大きな効果を挙げる。

  しかしながら、3D-CGの画面は、美少女ゲームの2Dイラストとは大きく趣が異なる。2D画像のニュアンス豊かな筆遣いとデリケートな着彩を3Dに反映させるのは難しい。また、3Dは立体をモデリングして正確に動かすことには長けているが、美少女ゲームキャラクターの2Dイラストの独特なデフォルメは、しばしば立体化困難である。MA@YAのように、美少女ゲームらしいキャラデザを高度に洗練された形で3Dモデルに反映させているデザイナーもいるが、全体としてはあまり癖のない画風のキャラデザに収められることが多い。しかし近年では、3Dモデリングがオタクイラストの雰囲気を反映させることに習熟してきているし、また、3Dキャラクターの魅力を単なる立体的模造としてではなくそれ自体として享受する美意識も広まりつつある。また、アダルトシーンでは2Dイラストに切り替えるという折衷様式をとるタイトルもあり(例:上記『君が呼ぶ、メギドの丘で』)、一部の重要なシーンや大掛かりなシーンではリアルタイム3Dではなくプリレンダリング3Dムービーにしてクオリティを確保するという迂回的アプローチもある(例:『タイムリープ』[FrongWing、2007])。さらに珍しい例として、『セイクリッド・プルーム』(TEATIME、2003)は、3Dモデルを用いて2D静止画画像の立ち絵や一枚絵を作るというアプローチを採っている(――ただしバトルパートや一部のアダルトシーンではリアルタイム3Dレンダリングになる)。

  3D制作は、技術面(機材面)と労力面(作業量)の事情から、高コストになりがちである。そのため、キャラクター立ち絵のみを3Dで表現し、背景等は2Dで制作するという局所集中的な3D化や、シリーズ化や追加パック販売によって投資分を効率的に利用するといった戦略がしばしば採用される。上記『タイムリープ』も前者の一例であるし、また、『ジンコウガクエン』シリーズ(ILLUSION、2011-)も固定カメラにしつつ2Dベースの画像を3D化することで、背景部分のクオリティを高めている。後者は、とりわけKISSの『カスタムメイド3D』シリーズ(2011-)に顕著である。

  上記以外でも、3D技術は様々なかたちで活用されている。例えばAVGの背景作画に3Dモデリングを採用する例も増えている。先駆的なのは『パティシエなにゃんこ』(2003)以降のpajamas softである。近年では、『恋色空模様 after happiness and extra hearts』(すたじお緑茶、2011)が、室内背景を箱型の3D空間にして、2D立ち絵をそこに配置してリアルタイムに動かすというアプローチを世に問うた(cf. 演出技術論Ⅳ-4-1-β)。また、SLG作品でも、3Dによるマッピング表現がしばしば行われている(一例として、『雪鬼屋温泉記』[ソフトハウスキャラ、2011]の施設表現)。2Dと3Dを組み合わせる折衷様式もしばしば見られる(cf. 本稿3章1節3項演出技術論Ⅳ-5-1も参照)。

『タイムリープ』 (c)2007 FrontWing
(図1:)キャラクター画像は3D制作されているが、背景は2D画像である。それゆえ、ゲーム本編では基本的に正面固定カメラのままである。MA@YAのデザインした立ち絵は、萌えキャラらしい魅力に溢れており、「髪をかき上げる」「上半身を上下に反らす」といったパターン化したモーションを何種類も持っている。
(図2:)いくつかの特別なシーンでは、3Dモデリングを基礎にしてあらかじめムービーファイル化されたイベントパートに切り替わる。キャラデザのベースは通常のシーンと同一だが、丹念にプリレンダリング作成されているため、3D造形もなめらか(高精細)であるし、キャラモーションも豊かであり、カメラワーク表現も行われる。3Dアクションと画質と演出密度を両立させている。
『ジンコウガクエン』 (c)2011 ILLUSION
(図1:)プロポーション、髪型、ファッション、性格をカスタマイズして最大25人の3Dキャラクターを登場させられる。PC以外はAIで動き回り、相互コミュニケーションするシミュレータ作品。3D表現の自由度は、アダルトシーンでも活用される。
(図2:)「きゃらめいく」パートの画面。3Dキャラクターは、最大限拡大してみると、この水準の精密度でモデリングされている。本編中の画面(上記図1)では、輪郭線の処理などがやや粗く見える場合もあるが、高速で豊かなアニメーションしているため、プレイ中はほとんど気にならない。萌え絵スタイルの巨大眼球や膨張頬は作れない。
『カスタムメイド3D2』 (c)2015 KISS
(図1:)2016年時点のアダルトゲーム分野における最新、最高品質の3Dキャラクター造形と言っていいだろう。シリーズを重ねて、モデリングもキャラデザも洗練されている。背景も完全なリアルタイム3Dである。
(図2:)最大限拡大した状態。髪のツヤ、虹彩のディテール、服飾の質感など、非常に完成度が高い。左記引用画像はデフォルトのままだが、3種類のベースキャラを、それぞれ骨格から肉付き、ヘアスタイル、ファッションの細部に至るまで多彩にカスタマイズすることができる。


  4) 分野的帰属との関係において
  本稿はここまで、もっぱら日本国内のスタンドアロンな男性オタク向け商業PC(アダルト)ゲームのみに焦点を当ててきた。しかしながら、読み物志向のオタク的デジタルゲームは、現在では、日本以外のタイトル、ソーシャルゲーム、同人ゲーム、そして非アダルトのゲーム、家庭用オリジナルのAVGも制作されるようになっている。しかし、そうした広がりの全体像を捉えて体系的に説明するのは筆者の能力を超えるため、ここでは「女性向け」の分野からいくつかの興味深い画風のタイトルを紹介するにとどめておく。

  本稿が取り上げてきた「(美少女)アダルトゲーム」、いわゆる「エロゲー」は、基本的には男性向けのジャンルと見做されている。実際には、女性ユーザーも数パーセント(10%弱?)程度の割合で存在するが、大多数は男性ユーザーであり、また性表現も男性の嗜好に合わせて制作されている。それに対して、「女性向け」と見做されているのが、主に男性同士の恋愛を描く「ボーイズラブ(BL)ゲーム」と、女性主人公が男性キャラクターたちと恋愛する「乙女ゲーム」である。

  女性向けと男性向けでは、登場人物の性別比率や、着彩様式の嗜好/趣向などに傾向的な相違はあるが、まったく違っているというわけでもない。1)そもそも、CGワークのノウハウには境界は無いし、使用されている画像処理ソフト等も変わらないだろう。2)第二に、商業PCの女性向けゲームは、男性向けに比べてタイトル数が圧倒的に少ない。裾野が広くないということは、多様性創出にも限界があるということである。3)第三に、オタク界における高品質なCGワークの基本的なスタイルは、男性向けと女性向けとでおおむね共有されており、PCゲームにおいても事情は同じである。4)最後に、男性向けを制作しているPCゲームメーカーの一系列ブランドとして活動している場合も多い。例えばPIL/SLASH、CYC Rose、Alice Blue、すたじおみりす team L←→R、CORE(ORBIT系列)、Blue Impact(studio e.go!系列)、b-wings(FrongWing系列)、キャラメリアトルテ(CLEARRAVE系列)など。また、クリエイター個人でも、原画家のCARNELIAN、山本和枝、ことみようじ、脚本家のとり、ふみゃ、時野つばきのように男性向けと女性向けの双方のタイトルに参加している例は少なくない。こうした事情のため、女性向け分野の平均的な着彩様式は、これまで述べてきた男性向け分野のそれと、それほど大きく異なるわけではない。

  とはいえ、ユーザー層が大きく異なり、それに応じてCGワークへの注目及び期待のされ方も異なるし、またストーリー面の方向性も異なるため、やはり分野文化上の傾向的相違は一定程度存在する。スレンダーで長身な男性立ち絵の体躯、一枚絵のレイアウトにおける主人公の位置づけ、色調の統一感への意識、鮮やかすぎる原色の忌避、ムードのある陰影表現、インターフェイスの装飾性、非18禁タイトルの多さなど、男性向けジャンルの一般的な流儀とは力点の異なったアプローチで、視覚的造形が追求されている。

   なお、男性向けアダルトゲームにおける男性キャラクターの描かれ方については、拙稿「様々なキャラクターの描かれ方」を参照。

『剣が君』 (c)2013 Rejet
時代ものの乙女ゲーム。瑞々しい色合いに、背景画像までしっかりと統一感のある、優れた美術設計の作品である。立ち絵の高さは男性向けとほぼ変わらない。女性キャラクターは、黒目がちだが大きすぎず、引き締まった面長の顔立ちである。
『絶対階級学園』 (c)2015 Daisy2
原画の描線の扱い、にじみのあるグラデーション、ツヤ表現のつけ方などに個性がある。また、乙女ゲームは主人公を一枚絵にフレームインさせる傾向がある。ただし、名前変更機能や主人公(顔窓)非表示コンフィグなどに独特の配慮がある。



  おわりに

  本稿では、主として00年代以降の国内商業アダルトゲームについて、その美術的特徴をできるだけ広く紹介することを試みてきた。アダルトジャンルという特性ゆえに性表現の特徴や嗜好が注目されがちであり、また読み物AVGが支配的であるためシナリオ上の仕掛けが語られやすいが、それと同時に、90年代末以来のキャラ萌え文化を強力に牽引してきた主要分野でもあり、さらにオタク諸分野におけるデジタルグラフィックの水準向上をリードしてきた一分野でもあるため、そのグラフィックワークの特徴についても詳細な検討と評価がなされねばならない。そうした議論が精密な理論枠組を構築し幅広い全体展望を形成していくために、本稿は、そのための慎ましやかな端緒の一つを提供することを目指して書かれた。

  現代のアダルトゲームのCG表現は、時代毎の技術的条件や、業界全般の制作体制及び人材の広がり、分野文化的な要求といった様々な要因の下に、現在我々が見るような形姿を取っている。一人のクリエイターについてであれ、一つの分野全体についてであれ、ある美術的表現への評価は、そうした背景的事情の考慮を不可避的に必要とするだろう。

  注目すべきことに、それらの事実的成立条件は、制約として作用するだけでなく、一定の基準を確立させる作用をも果たし、そしてさらに品質向上のための基盤としても作用した。それはアダルトゲーム分野においては、シナリオ構成の安定化、キャラクターの外見及び性格設定の精緻化、視聴覚演出の進展、インターフェイスの洗練及び機能充実といった果実をもたらしてきたのと同じように、CGワークのクオリティ向上にも寄与してきた。

  しかも、単線的なクオリティアップだけではない。本稿が紹介してきた多数の実例は、同時に様々な実験と挑戦の実例でもある。この分野のCG表現が、高度な洗練と豊かな多様性をふたつながら実現してきたことを再確認するのが、本稿のもう一つの目的であった。もちろん、理論的な枠組提供と実証的な実例提供は、どちらもあくまで予備作業にすぎず、あらためて個々の作品、個々のクリエイターについての実質的な分析および評価が展開されねばならないことは言うまでもない。それは、アダルトゲームについて語ろうとするあらゆるユーザーの仕事である。