はじめに(1ページ目)
第1章:アダルトゲームCGの基本的特徴とその構造的事情
第2章:修辞としての特殊なCG表現(2ページ目)
1. 文法的表現としての立ち絵/背景/一枚絵システム
2. 一時的な演出作用のための画風変化:SD(ちびキャラ)
3. 一時的な演出作用のための画風変化:その他の様々な様式(このページ)
- 1) 漫画
- 2) 美術作品、実写取り込み
- 3) ゲーム分野の内生的変容
- 3a) ラフ画像
- 3b) スクリプト操作
- 3c) 高度な表現ツール
- 3d) その他
第3章:構造的な事情に基づく画風変化(4ページ目/5ページ目)
第4章:個別作品の総体的な画風選択(6ページ目/7ページ目/8ページ目)
おわりに
【 3. 一時的な演出作用のための画風変化:その他の様々な様式 】
通常とは異なる画面/キャラクターを表現するという観点でみると、SDは最も分かりやすく、最も効果的なスタイルである。しかし、それだけではない。漫画風のもの、美術風のもの、ラフ画像、アニメ風、そしてスクリプト演出による変化まで、技術的/様式的に様々な形態のものがある。
1) 漫画
通常画面からの様式的逸脱という意味では、SDと同じように使われるが、カットインのような使い方になる場合もある。例えば『幼なじみは大統領』(ALcot、2009)は、米国のオバマ大統領をモデルにした「桜濱雪乃(おうはま・ゆきの)」をメインヒロインに据えつつ、アメリカの生活文化の様々な側面をパロディ的に取り込んだタイトルであり、その中にはハリウッド映画のシーンやアメリカ政治史上の名言とともに、アメコミ風にデフォルメされたCGも登場する。これは、作中の通常画面からの逸脱的瞬間というよりも、作品のコンセプトと方向性をはっきり示すための補強的な演出と見るべきであろう。
その一方、既存の漫画作品の印象的なシーンを真似たCGを使っている作品も少なくない。なかでも車田正美作品は、格好良く派手なシーンでありながら、その因習化した荒唐無稽さゆえに、好んでパロディの対象となっている(――例えば『魔界天使ジブリール』[Frontwing、2004])。その他、劇画風デフォルメや、四コマ漫画風デフォルメなど、様々なものがあるが、基本的には他分野のスタイルを露骨に参照してみせることによって笑いを誘う、パロディとしての効果が期待されていると言える(cf. 拙稿「美術作品を参照しているゲーム」)。
『幼なじみは大統領』 (c)2009 ALcot
非-全画面のカットイン。漫画風のコマ割りになっており、ペンタッチによる陰影の描き込みや、「BAGOOOOOOM!」のようなアルファベット擬音に至るまで、アメコミの様式的パロディになっている。
『魔界天使ジブリール』
(c)2004 FrontWing
上記『大統領』がアメコミを模倣したのと同様に、日本国内の漫画やアニメに見られる表現スタイルを(パロディとして)導入することも多い。ここでは、少年漫画『聖闘士星矢』の必殺技表現を、遊戯的に(かなり忠実に!)模倣している。
2) 美術作品、実写取り込み
既成の有名美術作品の構図を真似たり、あるいはそのタッチを模倣したり、さらには特定の実在美術作品を背景画像の中に描き込んだりする例もある。『SWAN SONG』(Le. Chocolat meets FlyingShine、2005)は、大地震に見舞われた若者たちの物語であるが、その終盤で暴徒化した人々に襲撃される凄惨なシーンに際して、表現主義美術のようなタッチの一枚絵を持ち込んでみせた。また、『プリンセスうぃっちぃず』(pajamas soft、2005)は、英雄妄想に浸る主人公の姿を描くのに際して、ドラクロワの名画を真似たレイアウトで描くことによって、その誇大妄想のユーモラスさを強調してみせた。どちらも、アダルトゲーム表現における内発的修辞というよりは、アダルトゲームの典型的なスタイルとは異なった外部の感性を利用しようとしていると見るべきものであろう。事実、pajamas softは、この『プリンセスうぃっちぃず』以外の作品でも、視覚表現だけでなく音響表現の次元でも、クラシックなどの既成有名曲をゲーム内で多用している。
さらに、「既存の実在創作物」を「既存の実在世界」に置き換えてみることもできるだろう。すなわち、その作品のフィクション世界を超えて、実在する外部世界の事物への参照を持っているという意味で、写真取り込み画像も、時として同じような作用を果たすことがある。これはTerralunarやLiar-softが、その様々な表現技法上の実験の一つとしておこなったところでもある。『らくえん』(Terralunar、2004)には、粗く処理された都市の風景写真がキャラクターのモノローグと重ね合わされることで、心象風景的なイメージを作り出しているシーンがある。また、Liar-softの『Forest』(2004)や『SEVEN-BRIDGE』(2005)は、剥き出しの実写画像を使うことによって、かえって作中世界の幻想的性格を浮き彫りにするという離れ業を成し遂げている(『Forest』については、4章2節で取り上げる)。
『SWAN SONG』 (c)2005 Le. Chocolat meets FlyingShine
終盤の凄惨なシーン。これまでの画風を突如逸脱することによって、この状況の異常さを表現することに成功している。のみならず、この荒々しいタッチはその状況の非現実性(主人公にとっての受け入れがたさ)をも示唆し、あるいはその油彩画的印象はその場面の「視点」を担っている筈の主人公の特権性をも圧殺する。
『プリンセスうぃっちぃず』
(c)2005 pajamas soft
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のパロディCG。このシーンのBGMは、モーツァルトの「レクイエム」の「怒りの日」冒頭部分が使われている。このブランドには、このように既成の芸術作品や知識体系を参照した演出が非常に多い。
『らくえん』 (c)2004 Terralunar
テロップ的テキスト表示からデフォルメ立ち絵まで、様々な技法を投入しているユニークな作品である。このように、実写画像をアレンジしつつ使用することで、 通常とは異なる手触りを持たせているシーンがある。
『Forest』 (c)2004 Liar-soft
この作品については後に詳述するので、ここでは画像引用と簡単な紹介のみとする。本作はしばしば実在風景の実写画像(左記引用画像はJR新宿駅東口)を取り込んで背景画像に使用している。店名を大書した看板群が、露悪的なまでに堂々と映り込んでいることが、プレイヤーに戸惑いと異化をもたらす。
3) ゲーム分野の内生的変容
上記『大統領』『ジブリール』は漫画という他のフィクション媒体を参照するものであり、また『プリンセスうぃっちぃず』『SWAN SONG』はフィクションとは異なる実在の対象を参照することによって、時にはゲーム表現に厚みをもたらし、また時にはゲーム表現のフィクションらしさを強調してきた。それは、言葉ではなく、視覚表現の形成の仕方そのものが、ゲーム体験に対して特有の質を提供しているのである。それらに対して、ゲーム媒体またはゲーム分野に内生的な仕方で、視覚表現の演出的コントロールが為される場合もある。多岐に亘る実例から、いくつかを紹介しよう。
3a) ラフ画像
一つの典型は、ラフ画像の出現であろう。そもそも、アダルトゲームのCGは、慎重に制作された下絵/線画と、しばしば線画制作者とは異なるグラフィッカーによる入念なデジタル着彩によって成り立っている。このような事情を反映して、回想シーンや幕間アイキャッチなどでラフ画像が再利用される場合がある。詳しくは、旧ブログの拙稿「PCゲームにおけるラフ画像使用についての覚書」を参照。
『白詰草話』 (c)2002 Littlewitch
(図1:)話数制のAVG。各話のEDでは、本編部分で使用されたCGのラフ原画が、黒白反転されて落ち着いたムードで流れていく。これらのラフCGには、原画家によるコメントや落書きなども残されており、その軽みは、本作の進行に対してやわらかくインターバルを設ける。左記引用画像は第2話ED。
(図2:)上記図1の画像は、本編ではこのような形で使用されている。カラー彩色されているのはもちろん、画像サイズも異なり、左右に白い遮蔽エフェクトによってトリミングされており、さらに(左記引用画像だけでは分からないが)静かに横スクロールする。
『めぐり、ひとひら。』
(c)2003 キャラメルBOX
(図1:)ラフ画像や単色化画像は、正式なフルカラー彩色ヴァージョンと対比的に使用されることによって、さらなる複合的効果を生むことがある。
(図2:)通常の着彩で完成されたカラーCGは、作中のノーマルな事実として受け取られるのに対して、ラフ画像や単色画像は、非現実的な雰囲気や、作為された画面/場面という印象、距離感、作中世界の分裂乃至層化(さらには解体)、といったものを示唆する。上記『白詰草話』のように柔和な印象をもたらす場合もあれば、本作のように緊張感に満ちた幻想性を持ち込む場合もある。
3b) スクリプト操作
ゲーム画像の内生的な解体/再構成/変容は、ゲームエンジンの側からもしばしば行われる。すなわち、スクリプト演出によるアドホックな機能的操作は、十分に発達した現代AVG演出技術の下で、すでに常識となっている。たとえば画面全体の色調変化やタッチの変化(夕方や夜景での時刻変化、回想のセピア化、モノクロ化、色反転、ノイズエフェクト)。あるいは、立ち絵の動的演出(振り付け)。あるいは、融通無碍なズーミングやスクロール、ボカシエフェクト(――00年代後半以降、規模の大きな多層スクロールや、きれいな微速スクロールも普及している。ボカシによる距離感表現も行われている)。あるいは、画面震動(クエイク)コマンドや、場面転換(トランジション)エフェクト、個別の特殊効果。さらには、個々のゲームの目的に合わせてプログラマーがチューニングした視覚的変容表現。それは、異星人との激しい戦争を描いた『マブラヴ』シリーズ(age、2003-)のような一大スペクタクルに奉仕する場合もあれば、それとは対照的に、楽屋オチコメディを大量に含む『えむぴぃ』(ぱれっと、2007)のようにゲームの成り立ちそのものを茶化す大胆な火遊び行為にも用いられる。いずれにせよ、今世紀のアダルトゲームはけっして単純なデジタル紙芝居などではない。無数の手段の中から取捨選択してスクリプト演出を施されることによって、作品毎にまったく異なった時間の流れ、まったく異なったゲーム体験の質が創出されている。画像と演出の両輪の組み合わせによって、現代AVG表現は成立している。詳しくは、旧ブログ「演出技術論」の各所(特に第3章)、「画像素材の拡張利用について」、本ブログの「タイトル画面の動的演出」、「一枚絵の動的演出について」、「画面振動演出」なども参照。
『復讐の女神』 (c)2003 ぱれっと
ボカシによる距離感表現の一例。ゲームエンジンによるデジタル制御で、絵の「質」が変化させられる。このほかにも、ショッキングな瞬間には色反転、回想シーンや一時的な内面思考の間はモノクロ化、主人公が混乱している場面では画面全体にノイズが掛けられるなどの処理がある。
『R.U.R.U.R』 (c)2007 light
00年代半ば以降、一枚のイベントCGを多層分割して別個に動かす演出が増えてきた。多重スクロールや多重ズーミングによる空間表現、あるいは上下動による歩行表現など。左記CGは、宇宙空間を背景に、中央のキャラクターと周囲の攻撃機がそれぞれ別個に浮遊する。拙稿「一枚絵の動的演出について」を参照。
『あかときっ!』 (c)2010 Escu:de
(図1:)魔族キャラクターが煙のように出現する動的表現(の途中状態)。Escu:deはSLG系ブランドと見做されているが、AVGの表現技術の開拓にも取り組んでおり(cf. 演出論Ⅳ-4-5-α)、インターフェイス面の改良にも積極的である(「インターフェイスデザイン」)。基幹スタッフのプログラマー水鼠とKITの仕事である。
(図2:)正面のヒロインと相対している場面で、旧友二人の言葉がオーバーラップしてくるという、二重写しの画面がゲームエンジンによって制御されている。2010年代に入って、ユーザーの平均的なPC環境は十分強力なものになっており、マシンスペックを要求するマッシヴな画像処理や繊細な動的表現も実現できるようになっている。
(図3:)とはいえ、PC環境の向上だけで、優れたゲーム表現が自動的に実現できるわけではない。何を目指して、どのようなタイミングで、いかなる造形で、何を行えば良いかは、制作者の能力に大きく依存する。すなわち、技術的知識、取捨選択の適切さ、演出のノウハウ、そして創造性。この図3は、墨汁のにじみのような不気味なエフェクトが画面全体を覆っていくホラーシーンである。
(図4:)シーンとシーンの間の移行のありようも、画面作りの一環であり、作品全体の印象にも大きく影響する。この図4では、斜めに回転するかたちで、二つの画像が遷移(交替)している。華やかで開放的な空間戦闘SLGと、禍々しい雰囲気の終盤展開のコントラストが、高いプログラム技術と意欲的なアイデアによって実現されているのがこの作品の魅力である。
『あかときっ!!』 (c)2011 Escu:de
ファンディスクからの一場面。スクリーンショットでは分かりにくいかもしれないが、真っ白に硬直した時計塔風景が、まるでガラスが割れ落ちるように剥がれて、元の静かな夜景に戻る瞬間である。このような複雑な動的表現の作り込みも、画面の「質」を、そして作品全体の「質」を形成していく。
3c) 高度な表現ツール
ゲームエンジンによる画像素材加工は、10年代に入ってさらに大規模化、体系化、高度化している。代表的なのは、E-moteやAfter Effectsに代表されるアニメーション加工技術であろう。本来は静止画にすぎなかった画像素材が、適切なレイヤー分割と優れたプログラムの下で、比較的容易に、かなりの低コストで、しかも非常に自然に見えるアニメーションで、実現できるようになった。light系列の『Electro Arms』(light、2013)や『ひまわり!!』(Sweet light、2014)、ういんどみるOasisの『ウィッチズガーデン』(2012)や『春風センセーション!』(2014)、Anim(『七姫コレクション』[2014]ほか多数)、CYC系列(『駄作』[CYCLET、2015]など)、そして今年の話題作『まいてつ』(Lose、2016)に至るまで、E-moteの採用例は着実に増えている。ゲームの画像は、画像単体の存在ではなく、ゲームの中でどのように生成するかが重要であり、それゆえ、こうしたアニメーション化技術も、ゲームCGの造形技術の一つとしていよいよ重要性を増していくであろう。なお、拙稿「『ひまわり!!』とE-mote技術をめぐって」も参照。
2Dイラストの事後的アニメーション化は、上記3b)と同時期、すなわち00年代半ばからさまざまに試みられていた。『Answer Dead』(黒LiLiM、2005)は、イベントCGのアニメーション化処理を追求した比較的早期の実例だろう。この時点では、運動性はそれほど大掛かりなものではなく、しばしばごく局所的なモーションにとどまっていたが、のちに10年代に開花するイラストモーション表現を先取りするものであった。
『ひまわり!!』 (c)2014 Sweet light
(図1:)E-moteシステムを利用することにより、立ち絵はもはや単なる静止画ではなく、柔軟にアニメーションする存在になる。言い換えれば、無時間的な記号的イメージから、時間的な厚みを内に含んだ実体になっていく。
(図2:)上記図1と、この図2とでは、立ち絵のポーズや顔の向きなどが変化しているが、これは瞬間的な画像切り替えではなく、補間(中割り)された連続性を持っている。それでいて、CGが粗くなることもなく、画像のクオリティも保持されている。自然な瞬き表現にもE-moteは適している。
3d) その他
デジタルゲームの表現は多様かつ自由なものであり、素材が制作できるかぎり、ほとんどなんでも実行できる。漫画のように紙面の制約があるわけでもなく、アニメのような時間やレイアウトの条件がつくこともない。ワンオフ素材として制作することが出来るかぎり、さまざまな視覚的演出が行われてきた。遮蔽による演出(cf. 「画像素材の拡張利用について」)から、動画挿入(例えば魔法ヒロインの変身シーン:「演出技術論」3章3節参照)まで、アイデア次第で無数の表現技巧が実践されている。
『えむぴぃ』 (c)2007 ぱれっと
(図1:)あるギャグシーンでは、ヒロインの立ち絵がくるくると回転アニメーションする。この遊戯的な演出によって、立ち絵の意味それ自体が一変してしまう。「お前二次元かよ!」とツッコむ主人公もまた自覚的なゲーム内存在であり、プレイヤーに向けて直接話しかけてきたりするのだが。
(図2:)回転中の状態その二。板(平面)としての縁の厚みまで表現されているという凝りようである。この他にも、立ち絵には様々なエフェクトが掛けられたり、2人に分裂(コピー)したり、壁の中に嵌め込まれたり、天井から逆さに伸びてきたりと、AVGに対するあらゆる横紙破りを披露していく。
『朝凪のアクアノーツ』 (c)2008 Fizz
ヒロインとゲームをする場面。Fizzブランドは、作中作『○○チーズ殺人事件』シリーズを毎回置いている。ここでは、レトロゲーム風の画面が持ち込まれている(ただし厳密なドットアートではないが)。
『こんそめ!』 (c)2010 Silver bullet
これも8bit風の意匠をインターフェイスなどにあしらっている。左記画像の投球シーンは、動画挿入の形で実行されている。同様のレトロゲーム風デザインは、『シスターコントラスト!』(AcaciaSoft、2003)、『_summer』(HOOK、2005)の「コイン王女」、『まじのコンプレックス』(light、2010)のOPムービーなどでも用いられている。
『仏蘭西少女』 (c)2009 PIL
本作では、荒々しい格闘の場面や、幻想上のシーン、あるいは花々を映した象徴的なパッセージ、そして大規模災害(1923年の関東大震災)の状況ではこのように大胆な筆致の画像が用いられる。上記『SWAN SONG』は油彩の感性を借用したが、この作品はそれとは異なる独自の見せ方を追求している。
『ノラと皇女と野良猫ハート』
(c)2016 HARUKAZE
フルカラー画像が画面全体を満たしているのがAVGの通常形態であるが、極端に切り詰められたモノクロの画面が、逆説的に繊細な詩情を担うこともある。ゲーム体験の妙味であろう。
もとよりゲームは、ただ「読む」「視聴する」だけのメディアではなく、プレイヤー自身がゲーム作品の中で様々なアクションを実行し、それがゲーム(プログラム)との間に相互作用を起こしつつ展開していくという、参加的なメディアである。ゲームの構造そのものにプレイヤーが踏み込んでいき、作品のメカニズムをプレイヤー自身が操っていく(あるいはプレイヤーが一つのアクターとしてゲームのメカニズムに組み込まれる)ことが当然の前提であり、それゆえプレイヤーの意識も、ただゲーム画面に現れたものだけでなく、ゲーム画面を成り立たせている内部構造へと意識を向けやすい。ラフ画像利用も、スクリプト演出も、半-動画化も、制作サイドとユーザーサイド双方のキャパシティの上に成り立っている。
次ページ(第3章)に続く。